源氏物語 (目次  1 桐壺ー13明石   14澪標ー 26常夏  27篝火ー40御法  41ー54夢浮橋)  日本絵巻  歌座   

日本物語。あるいは日本といふ物語。
  中 巻


    一 源氏物語  二 竹取物語  三平家物語 四 今昔物語  
  
  プロローグ  上 巻  下 巻   (補制作ノート)

   

            源氏物語


      
 


     一桐 壺 二帚 木 三空 蝉 四夕 顔 五若 紫 六末摘花 
     七紅 葉  
十花 橘  九  葵  十賢 木  十一花 散 里 
     十二須 磨 十三明 石 十四澪 標 十五蓬 生 十六関 屋

     十七絵 合 十八松 風 十九薄 雲 二十朝 顔 二十一少女 
     二十二玉 鬘  二十三初 音  二十四胡 蝶  二十五  蛍
     二十六常 夏  二十七篝 火  二十八野 分  二十九行 幸 
     三十藤 袴 三十一真 木 柱 三十二梅 枝 三十三藤 裏 葉
     三十四若菜 上 三十五若菜
三十六柏 木 三十七横 笛
     三十八鈴 虫   三十九夕 霧   四十御 法   四十一 幻 
     四十二匂兵部卿 四十三紅 梅 四十四竹 河 四十五橋 姫 
     四十六椎本 四十七総角 四十八早蕨 四十九宿木 五十東屋
     五十一浮 舟  五十二蜻 蛉  五十三手 習  五十四夢浮橋

     

   

            現代語訳 補足 目次

      一、 桐 壺
 


   
 

 いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。

 はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、ましてやすからず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをも憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。

 上達部、上人なども、あいなく目を側めつつ、「いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれ」と、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひたまふ。

 父の大納言は亡くなりて、母北の方なむいにしへの人のよしあるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえはなやかなる御方がたにもいたう劣らず、なにごとの儀式をももてなしたまひけれど、とりたててはかばかしき後見しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。


 先の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子さへ生まれたまひぬ。いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる稚児の御容貌なり。

 一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲の君と、世にもてかしづききこゆれど、この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物に思ほしかしづきたまふこと限りなし。

 初めよりおしなべての上宮仕へしたまふべき際にはあらざりき。おぼえいとやむごとなく、上衆めかしけれど、わりなくまつはさせたまふあまりに、さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、まづ参う上らせたまふ。ある時には大殿籠もり過ぐして、やがてさぶらはせたまひなど、あながちに御前去らずもてなさせたまひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、この御子生まれたまひて後は、いと心ことに思ほしおきてたれば、「坊にも、ようせずは、この御子の居たまふべきなめり」と、一の皇子の女御は思し疑へり。人より先に参りたまひて、やむごとなき御思ひなべてならず、皇女たちなどもおはしませば、この御方の御諌めをのみぞ、なほわづらはしう心苦しう思ひきこえさせたまひける。

 かしこき御蔭をば頼みきこえながら、落としめ疵を求めたまふ人は多く、わが身はか弱くものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞしたまふ。御局は桐壺なり。あまたの御方がたを過ぎさせたまひて、ひまなき御前渡りに、人の御心を尽くしたまふも、げにことわりと見えたり。参う上りたまふにも、あまりうちしきる折々は、打橋、渡殿のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり。またある時には、え避らぬ馬道の戸を鎖しこめ、こなたかなた心を合はせて、はしたなめわづらはせたまふ時も多かり。事にふれて数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿にもとよりさぶらひたまふ更衣の曹司を他に移させたまひて、上局に賜はす。その恨みましてやらむ方なし。

 

 この御子三つになりたまふ年、御袴着のこと一の宮のたてまつりしに劣らず、内蔵寮、納殿の物を尽くして、いみじうせさせたまふ。それにつけても、世の誹りのみ多かれど、この御子のおよすげもておはする御容貌心ばへありがたくめづらしきまで見えたまふを、え嫉みあへたまはず。ものの心知りたまふ人は、「かかる人も世に出でおはするものなりけり」と、あさましきまで目をおどろかしたまふ。


 その年の夏、御息所、はかなき心地にわづらひて、まかでなむとしたまふを、暇さらに許させたまはず。年ごろ、常の篤しさになりたまへれば、御目馴れて、「なほしばしこころみよ」とのみのたまはするに、日々に重りたまひて、ただ五六日のほどにいと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、まかでさせたてまつりたまふ。かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ。

 限りあれば、さのみもえ留めさせたまはず、御覧じだに送らぬおぼつかなさを、言ふ方なく思ほさる。いとにほひやかにうつくしげなる人の、いたう面痩せて、いとあはれとものを思ひしみながら、言に出でても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものしたまふを御覧ずるに、来し方行く末思し召されず、よろづのことを泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへもえ聞こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、我かの気色にて臥したれば、いかさまにと思し召しまどはる。輦車の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひて、さらにえ許させたまはず。

 「限りあらむ道にも、後れ先立たじと、契らせたまひけるを。さりとも、うち捨てては、え行きやらじ」

 とのたまはするを、女もいといみじと、見たてまつりて、

 「限りとて別るる道の悲しきに
  いかまほしきは命なりけり
 いとかく思ひたまへましかば」

 と、息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむと思し召すに、「今日始むべき祈りども、さるべき人びとうけたまはれる、今宵より」と、聞こえ急がせば、わりなく思ほしながらまかでさせたまふ。

 御胸つとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせたまふ。御使の行き交ふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、「夜半うち過ぐるほどになむ、絶えはてたまひぬる」とて泣き騒げば、御使もいとあへなくて帰り参りぬ。聞こし召す御心まどひ、何ごとも思し召しわかれず、籠もりおはします。

 御子は、かくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひたまふ、例なきことなれば、まかでたまひなむとす。何事かあらむとも思したらず、さぶらふ人びとの泣きまどひ、主上も御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見たてまつりたまへるを、よろしきことにだに、かかる別れの悲しからぬはなきわざなるを、ましてあはれに言ふかひなし。

 

 限りあれば、例の作法にをさめたてまつるを、母北の方、同じ煙にのぼりなむと、泣きこがれたまひて、御送りの女房の車に慕ひ乗りたまひて、愛宕といふ所にいといかめしうその作法したるに、おはし着きたる心地、いかばかりかはありけむ。「むなしき御骸を見る見る、なほおはするものと思ふが、いとかひなければ、灰になりたまはむを見たてまつりて、今は亡き人と、ひたぶるに思ひなりなむ」と、さかしうのたまひつれど、車よりも落ちぬべうまろびたまへば、さは思ひつかしと、人びともてわづらひきこゆ。

 内裏より御使あり。三位の位贈りたまふよし、勅使来てその宣命読むなむ、悲しきことなりける。女御とだに言はせずなりぬるが、あかず口惜しう思さるれば、いま一階の位をだにと、贈らせたまふなりけり。これにつけても憎みたまふ人びと多かり。もの思ひ知りたまふは、様、容貌などのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく、憎みがたかりしことなど、今ぞ思し出づる。さま悪しき御もてなしゆゑこそ、すげなう嫉みたまひしか、人柄のあはれに情けありし御心を、主上の女房なども恋ひしのびあへり。なくてぞは、かかる折にやと見えたり。

  

 

 はかなく日ごろ過ぎて、後のわざなどにもこまかにとぶらはせたまふ。ほど経るままに、せむ方なう悲しう思さるるに、御方がたの御宿直なども絶えてしたまはず、ただ涙にひちて明かし暮らさせたまへば、見たてまつる人さへ露けき秋なり。「亡きあとまで、人の胸あくまじかりける人の御おぼえかな」とぞ、弘徽殿などにはなほ許しなうのたまひける。一の宮を見たてまつらせたまふにも、若宮の御恋しさのみ思ほし出でつつ、親しき女房、御乳母などを遣はしつつ、ありさまを聞こし召す。

 

 野分立ちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負命婦といふを遣はす。夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせたまひて、やがて眺めおはします。かうやうの折は、御遊びなどせさせたまひしに、心ことなる物の音を掻き鳴らし、はかなく聞こえ出づる言の葉も、人よりはことなりしけはひ容貌の、面影につと添ひて思さるるにも、闇の現はなほ劣りけり。

 命婦、かしこに参で着きて、門引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、めやすきほどにて過ぐしたまひつる、闇に暮れて臥し沈みたまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎にも障はらずし入りたる。南面に下ろして、母君も、とみにえものものたまはず。

 「今までとまりはべるがいと憂きを、かかる御使の蓬生の露分け入りたまふにつけても、いと恥づかしうなむ」

 とて、げにえ堪ふまじく泣いたまふ。

 「『参りては、いとど心苦しう、心肝も尽くるやうになむ』と、典侍の奏したまひしを、もの思ひたまへ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたうはべりけれ」

 とて、ややためらひて、仰せ言伝へきこゆ。

 「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ静まるにしも、覚むべき方なく堪へがたきは、いかにすべきわざにかとも、問ひあはすべき人だになきを、忍びては参りたまひなむや。若宮のいとおぼつかなく、露けき中に過ぐしたまふも、心苦しう思さるるを、とく参りたまへ』など、はかばかしうものたまはせやらず、むせかへらせたまひつつ、かつは人も心弱く見たてまつるらむと、思しつつまぬにしもあらぬ御気色の心苦しさに、承り果てぬやうにてなむ、まかではべりぬる」

 とて、御文奉る。

 「目も見えはべらぬに、かくかしこき仰せ言を光にてなむ」とて、見たまふ。

 「ほど経ばすこしうち紛るることもやと、待ち過ぐす月日に添へて、いと忍びがたきはわりなきわざになむ。いはけなき人をいかにと思ひやりつつ、もろともに育まぬおぼつかなさを。今は、なほ昔のかたみになずらへて、ものしたまへ」

 など、こまやかに書かせたまへり。

 「宮城野の露吹きむすぶ風の音に
  小萩がもとを思ひこそやれ」

 とあれど、え見たまひ果てず。

 「命長さの、いとつらう思ひたまへ知らるるに、松の思はむことに、恥づかしう思ひたまへはべれば、百敷に行きかひはべらむことは、ましていと憚り多くなむ。かしこき仰せ言をたびたび承りながら、みづからはえなむ思ひたまへたつまじき。若宮は、いかに思ほし知るにか、参りたまはむことをのみなむ思し急ぐめれば、ことわりに悲しう見たてまつりはべるなど、うちうちに思ひたまふるさまを奏したまへ。ゆゆしき身にはべれば、かくておはしますも、忌ま忌ましうかたじけなくなむ」

 とのたまふ。宮は大殿籠もりにけり。

 「見たてまつりて、くはしう御ありさまも奏しはべらまほしきを、待ちおはしますらむに、夜更けはべりぬべし」とて急ぐ。

 「暮れまどふ心の闇もへがたき片端をだに、はるくばかりに聞こえまほしうはべるを、私にも心のどかにまかでたまへ。年ごろ、うれしく面だたしきついでにて立ち寄りたまひしものを、かかる御消息にて見たてまつる、返す返すつれなき命にもはべるかな。

 生まれし時より、思ふ心ありし人にて、故大納言、いまはとなるまで、『ただ、この人の宮仕への本意、かならず遂げさせたてまつれ。我れ亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな』と、返す返す諌めおかれはべりしかば、はかばかしう後見思ふ人なき交じらひは、なかなかなるべきことと思ひたまへながら、ただかの遺言を違へじとばかりに、出だし立てはべりしを、身に余るまでの御心ざしの、よろづにかたじけなきに、人げなき恥を隠しつつ、交じらひたまふめりつるを、人の嫉み深く積もり、安からぬこと多くなり添ひはべりつるに、横様なるやうにて、つひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御心ざしを思ひたまへられはべる。これもわりなき心の闇になむ」

 と、言ひもやらずむせかへりたまふほどに、夜も更けぬ。

 「主上もしかなむ。『我が御心ながら、あながちに人目おどろくばかり思されしも、長かるまじきなりけりと、今はつらかりける人の契りになむ。世にいささかも人の心を曲げたることはあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人の恨みを負ひし果て果ては、かううち捨てられて、心をさめむ方なきに、いとど人悪ろうかたくなになり果つるも、前の世ゆかしうなむ』とうち返しつつ、御しほたれがちにのみおはします」と語りて尽きせず。泣く泣く、「夜いたう更けぬれば、今宵過ぐさず、御返り奏せむ」と急ぎ参る。

 月は入り方の、空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの虫の声ごゑもよほし顔なるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。

 「鈴虫の声の限りを尽くしても
  長き夜あかずふる涙かな」

 えも乗りやらず。

 「いとどしく虫の音しげき浅茅生に
  露置き添ふる雲の上人
 かごとも聞こえつべくなむ」

 と言はせたまふ。をかしき御贈り物などあるべき折にもあらねば、ただかの御形見にとて、かかる用もやと残したまへりける御装束一領、御髪上げの調度めく物添へたまふ。

 若き人びと、悲しきことはさらにも言はず、内裏わたりを朝夕にならひて、いとさうざうしく、主上の御ありさまなど思ひ出できこゆれば、とく参りたまはむことをそそのかしきこゆれど、「かく忌ま忌ましき身の添ひたてまつらむも、いと人聞き憂かるべし、また、見たてまつらでしばしもあらむは、いとうしろめたう」思ひきこえたまひて、すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬなりけり。
 

 

 命婦は、「まだ大殿籠もらせたまはざりける」と、あはれに見たてまつる。御前の壺前栽のいとおもしろき盛りなるを御覧ずるやうにて、忍びやかに心にくき限りの女房四五人さぶらはせたまひて、御物語せさせたまふなりけり。このころ、明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵、亭子院の描かせたまひて、伊勢、貫之に詠ませたまへる、大和言の葉をも、唐土の詩をも、ただその筋をぞ、枕言にせさせたまふ。いとこまやかにありさま問はせたまふ。あはれなりつること忍びやかに奏す。御返り御覧ずれば、

 「いともかしこきは置き所もはべらず。かかる仰せ言につけても、かきくらす乱り心地になむ。

 荒き風ふせぎし蔭の枯れしより
 小萩がうへぞ静心なき」

 などやうに乱りがはしきを、心をさめざりけるほどと御覧じ許すべし。いとかうしも見えじと、思し静むれど、さらにえ忍びあへさせたまはず、御覧じ初めし年月のことさへかき集め、よろづに思し続けられて、「時の間もおぼつかなかりしを、かくても月日は経にけり」と、あさましう思し召さる。

 「故大納言の遺言あやまたず、宮仕への本意深くものしたりしよろこびは、かひあるさまにとこそ思ひわたりつれ言ふかひなしや」とうちのたまはせて、いとあはれに思しやる。「かくても、おのづから若宮など生ひ出でたまはば、さるべきついでもありなむ。命長くとこそ思ひ念ぜめ」

 などのたまはす。かの贈り物御覧ぜさす。「亡き人の住処尋ね出でたりけむしるしの釵ならましかば」と思ほすもいとかひなし。

 「尋ねゆく幻もがなつてにても
  魂のありかをそこと知るべく」

 絵に描ける楊貴妃の容貌は、いみじき絵師といへども、筆限りありければいとにほひ少なし。大液芙蓉未央柳、げに通ひたりし容貌を、唐めいたる装ひはうるはしうこそありけめなつかしうらうたげなりしを思し出づるに、花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき。朝夕の言種に、「翼をならべ、枝を交はさむ」と契らせたまひしに、かなはざりける命のほどぞ、尽きせず恨めしき。

 風の音、虫の音につけて、もののみ悲しう思さるるに、弘徽殿には、久しく上の御局にも参う上りたまはず、月のおもしろきに、夜更くるまで遊びをぞしたまふなる。いとすさまじう、ものしと聞こし召す。このごろの御気色を見たてまつる上人、女房などは、かたはらいたしと聞きけり。いとおし立ちかどかどしきところものしたまふ御方にて、ことにもあらず思し消ちてもてなしたまふなるべし。月も入りぬ。

 「雲の上も涙にくるる秋の月
  いかですむらむ浅茅生の宿」

 思し召しやりつつ、灯火をかかげ尽くして起きはします。右近の司の宿直奏の声聞こゆるは、丑になりぬるなるべし。人目を思して、夜の御殿に入らせたまひても、まどろませたまふことかたし。朝に起きさせたまふとても、「明くるも知らで」思し出づるにも、なほ朝政は怠らせたまひぬべかめり。

 ものなども聞こし召さず、朝餉のけしきばかり触れさせたまひて、大床子の御膳などは、いと遥かに思し召したれば、陪膳にさぶらふ限りは、心苦しき御気色を見たてまつり嘆く。すべて、近うさぶらふ限りは、男女、「いとわりなきわざかな」と言ひ合はせつつ嘆く。「さるべき契りこそはおはしましけめ。そこらの人の誹り、恨みをも憚らせたまはず、この御ことに触れたることをば、道理をも失はせたまひ、今はた、かく世の中のことをも、思ほし捨てたるやうになりゆくは、いとたいだいしきわざなり」と、人の朝廷の例まで引き出で、ささめき嘆きけり。

 

 

 月日経て、若宮参りたまひぬ。いとどこの世のものならず清らにおよすげたまへれば、いとゆゆしう思したり。

 明くる年の春、坊定まりたまふにも、いと引き越さまほしう思せど、御後見すべき人もなく、また世のうけひくまじきことなりければ、なかなか危く思し憚りて、色にも出ださせたまはずなりぬるを、「さばかり思したれど、限りこそありけれ」と、世人も聞こえ、女御も御心落ちゐたまひぬ。

 かの御祖母北の方、慰む方なく思し沈みて、おはすらむ所にだに尋ね行かむと願ひたまひししるしにや、つひに亡せたまひぬれば、またこれを悲しび思すこと限りなし。御子六つになりたまふ年なれば、このたびは思し知りて恋ひ泣きたふ。年ごろ馴れ睦びきこえたまひつるを、見たてまつり置く悲しびをなむ、返す返すのたまひける。

 

 今は内裏にのみさぶらひたまふ。七つになりたまへば、読書始めなどせさせたまひて、世に知らず聡う賢くおはすれば、あまり恐ろしきまで御覧ず。

 「今は誰れも誰れもえ憎みたまはじ。母君なくてだにらうたうしたまへ」とて、弘徽殿などにも渡らせたまふ御供には、やがて御簾の内に入れたてまつりたまふ。いみじき武士、仇敵なりとも、見てはうち笑まれぬべきさまのしたまへれば、えさし放ちたまはず。女皇女たち二ところ、この御腹におはしませど、なずらひたまふべきだにぞなかりける。御方々も隠れたまはず、今よりなまめかしう恥づかしげにおはすれば、いとをかしううちとけぬ遊び種に、誰れも誰れも思ひきこえたまへり。

 わざとの御学問はさるものにて、琴笛の音にも雲居を響かし、すべて言ひ続けば、ことごとしう、うたてぞなりぬべき人の御さまなりける。

 

 そのころ、高麗人の参れる中に、かしこき相人ありけるを聞こし召して、宮の内に召さむことは、宇多の帝の御誡めあれば、いみじう忍びて、この御子を鴻臚館に遣はしたり。御後見だちて仕うまつる右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに、相人驚きて、あまたたび傾きあやしぶ。

 「国の親となりて、帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。朝廷の重鎮となりて、天の下を輔くる方にて見れば、またその相違ふべし」と言ふ。

 弁も、いと才かしこき博士にて、言ひ交はしたることどもなむ、いと興ありける。文など作り交はして、今日明日帰り去りなむとするに、かくありがたき人に対面したるよろこび、かへりては悲しかるべき心ばへをおもしろく作りたるに、御子もいとあはれなる句を作りたまへるを、限りなうめでたてまつりて、いみじき贈り物どもを捧げたてまつる。朝廷よりも多くの物賜はす。

 おのづから事広ごりて、漏らさせたまはねど、春宮の祖父大臣など、いかなることにかと思し疑ひてなむありける。

 帝、かしこき御心に、倭相を仰せて、思しよりにける筋なれば、今までこの君を親王にもなさせたまはざりけるを、「相人はまことにかしこかりけり」と思して、「無品の親王の外戚の寄せなきにては漂はさじ。わが御世もいと定めなきを、ただ人にて朝廷の御後見をするなむ、行く先も頼もしげなめること」と思し定めて、いよいよ道々の才を習はさせたまふ。

 際ことに賢くて、ただ人にはいとあたらしけれど、親王となりたまひなば、世の疑ひ負ひたまひぬべくものしたまへば、宿曜の賢き道の人に勘へさせたまふにも、同じさまに申せば、源氏になしたてまつるべく思しきおきてたり。

 

 年月に添へて、御息所の御ことを思し忘るる折なし。「慰むや」と、さるべき人びと参らせたまへど、「なずらひに思さるるだにいとかたき世かな」と、疎ましうのみよろづに思しなりぬるに、先帝の四の宮の、御容貌すぐれたまへる聞こえ高くおはします、母后世になくかしづききこえたまふを、主上にさぶらふ典侍は、先帝の御時の人にて、かの宮にも親しう参り馴れたりければ、いはけなくおはしましし時より見たてまつり、今もほの見たてまつりて、「亡せたまひにしに御息所の御容貌に似たまへる人を、三代の宮仕へに伝はりぬるに、え見たてまつりつけぬを、后の宮の姫宮こそ、いとようおぼえて生ひ出でさせたまへりけれ。ありがたき御容貌人になむ」と奏しけるに、「まことにや」と、御心とまりて、ねむごろに聞こえさせたまひけり。

 母后、「あな恐ろしや。春宮の女御のいとさがなくて、桐壺の更衣の、あらはにはかなくもてなされにし例もゆゆしう」と、思しつつみて、すがすがしうも思し立たざりけるほどに、后も亡せたまひぬ。

 心細きさまにておはしますに、「ただ、わが女皇女たちの同じ列に思ひきこえむ」と、いとねむごろに聞こえさせたまふ。さぶらふ人びと、御後見たち、御兄の兵部卿の親王など、「かく心細くておはしまさむよりは、内裏住みせさせたまひて、御心も慰むべく」など思しなりて、参らせたてまつりたまへり。

 藤壺と聞こゆ。げに、御容貌ありさま、あやしきまでぞおぼえたまへる。これは、人の御際まさりて、思ひなしめでたく、人もえおとしめきこえたまはねば、うけばりて飽かぬことなし。かれは、人の許しきこえざりしに、御心ざしあやにくなりしぞかし。思し紛るとはなけれど、おのづから御心移ろひて、こよなう思し慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり。

 

 源氏の君は、御あたり去りたまはぬを、ましてしげく渡らせたまふ御方は、え恥ぢあへたまはず。いづれの御方も、われ人に劣らむと思いたるやはある、とりどりにいとめでたけれど、うち大人びたまへるに、いと若ううつくしげにて、切に隠れたまへど、おのづから漏り見たてまつる。

 母御息所も、影だにおぼえたまはぬを、「いとよう似たまへり」と、典侍の聞こえけるを、若き御心地にいとあはれと思ひきこえたまひて、常に参らまほしく、「なづさひ見たてまつらばや」とおぼえたまふ。

 主上も限りなき御思ひどちにて、「な疎みたまひそ。あやしくよそへきこえつべき心地なむする。なめしと思さで、らうたくしたまへ。つらつき、まみなどは、いとよう似たりしゆゑ、かよひて見えたまふも、似げなからずなむ」など聞こえつけたまへれば、幼心地にも、はかなき花紅葉につけても心ざしを見えたてまつる。こよなう心寄せきこえたまへれば、弘徽殿の女御、またこの宮とも御仲そばそばしきゆゑ、うち添へて、もとよりの憎さも立ち出でて、ものしと思したり。

 世にたぐひなしと見たてまつりたまひ、名高うおはする宮の御容貌にも、なほ匂はしさはたとへむ方なく、うつくしげなるを、世の人、「光る君」と聞こゆ。藤壺ならびたまひて、御おぼえもとりどりなれば、「かかやく日の宮」と聞こゆ。

 

 この君の御童姿、いと変へまうく思せど、十二にて御元服したまふ。居起ち思しいとなみて、限りある事に事を添えさせたまふ。

 一年の春宮の御元服、南殿にてありし儀式、よそほしかりし御響きに落とさせたまはず。所々の饗など、内蔵寮、穀倉院など、公事に仕うまつれる、おろそかなることもぞと、とりわき仰せ言ありて、清らを尽くして仕うまつれり。

 おはします殿の東の廂、東向きに椅子立てて、冠者の御座、引入の大臣の御座、御前にあり。申の時にて源氏参りたまふ。角髪結ひたまへるつらつき、顔のにほひ、さま変へたまはむこと惜しげなり。大蔵卿、蔵人仕うまつる。いと清らなる御髪を削ぐほど、心苦しげなるを、主上は、「御息所の見ましかば」と、思し出づるに、堪へがたきを、心強く念じかへさせたまふ。

 かうぶりしたまひて、御休所にまかでたまひて、御衣奉り替へて、下りて拝したてまつりたまふさまに、皆人涙落としたまふ。帝はた、ましてえ忍びあへたまはず、思し紛るる折もありつる昔のこと、とりかへし悲しく思さる。いとかうきびはなるほどは、あげ劣りやと疑はしく思されつるを、あさましううつくしげさ添ひたまへり。

 引入の大臣の皇女腹にただ一人かしづきたまふ御女、春宮よりも御けしきあるを、思しわづらふことありける、この君に奉らむの御心なりけり。内裏にも、御けしき賜はらせたまへりければ、「さらば、この折の後見なかめるを、添ひ臥しにも」ともよほさせたまひければ、さ思したり。

 さぶらひにまかでたまひて、人びと大御酒など参るほど、親王たちの御座の末に源氏着きたまへり。大臣気色ばみきこえたまふことあれど、もののつつましきほどにて、ともかくもあへしらひきこえたまはず。

 御前より、内侍、宣旨うけたまはり伝へて、大臣参りたまふべき召しあれば、参りたまふ。御禄の物、主上の命婦取りて賜ふ。白き大袿に御衣一領、例のことなり。

 御盃のついでに、

 「いときなき初元結ひに長き世を
  契る心は結びこめつや」

 御心ばへありて、おどろかさせたまふ。

 「結びつる心も深き元結ひに
  濃き紫の色し褪せずは」

 と奏して、長橋より下りて舞踏したまふ。

 左馬寮の御馬、蔵人所の鷹据ゑて賜はりたまふ。御階のもとに親王たち上達部つらねて、禄ども品々に賜はりたまふ。

 その日の御前の折櫃物、籠物など、右大弁なむ承りて仕うまつらせける。屯食、禄の唐櫃どもなど、ところせきまで、春宮の御元服の折にも数まされり。なかなか限りもなくいかめしうなむ。

 

 その夜、大臣の御里に源氏の君まかでさせたまふ。作法世にめづらしきまで、もてかしづききこえたまへり。いときびはにておはしたるを、ゆゆしううつくしと思ひきこえたまへり。女君はすこし過ぐしたまへるほどに、いと若うおはすれば、似げなく恥づかしと思いたり。

 この大臣の御おぼえいとやむごとなきに、母宮、内裏の一つ后腹になむおはしければ、いづ方につけてもいとはなやかなるに、この君さへかくおはし添ひぬれば、春宮の御祖父にて、つひに世の中を知りたまふべき右大臣の御勢ひは、ものにもあらず圧されたまへり。

 御子どもあまた腹々にものしたまふ。宮の御腹は、蔵人少将にていと若うをかしきを、右大臣の、御仲はいと好からねど、え見過ぐしたまはで、かしづきたまふ四の君にあはせたまへり。劣らずもてかしづきたるは、あらまほしき御あはひどもになむ。

 源氏の君は、主上の常に召しまつはせば、心安く里住みもえしたまはず。心のうちには、ただ藤壺の御ありさまを、類なしと思ひきこえて、「さやうならむ人をこそ見め。似る人なくもおはしけるかな。大殿の君、いとをかしげにかしづかれたる人とは見ゆれど、心にもつかず」おぼえたまひて、幼きほどの心一つにかかりて、いと苦しきまでぞおはしける。

 

 大人になりたまひて後は、ありしやうに御簾の内にも入れたまはず。御遊びの折々、琴笛の音に聞こえかよひ、ほのかなる御声を慰めにて、内裏住みのみ好ましうおぼえたまふ。五六日さぶらひたまひて、大殿に二三日など、絶え絶えにまかでたまへど、ただ今は幼き御ほどに、罪なく思しなして、いとなみかしづききこえたまふ。

 御方々の人びと、世の中におしなべたらぬを選りととのへすぐりてさぶらはせたまふ。御心につくべき御遊びをし、おほなおほな思しいたつく。

 内裏には、もとの淑景舎を御曹司にて、母御息所の御方の人びとまかで散らずさぶらはせたまふ。

 里の殿は、修理職、内匠寮に宣旨下りて、二なう改め造らせたまふ。もとの木立、山のたたずまひ、おもしろき所なりけるを、池の心広くしなして、めでたく造りののしる。

 「かかる所に思ふやうならむ人を据ゑて住まばや」とのみ、嘆かしう思しわたる。

 「光る君といふ名は、高麗人のめできこえてつけたてまつりける」とぞ、言ひ伝へたるとなむ。


     

   

            現代語訳 補足 目次

      二、 帚  木 

 

 

光源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかる好きごとどもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。さるは、いといたく世を憚り、まめだちたまひけるほど、なよびかにをかしきことはなくて、交野少将には笑はれたまひけむかし。


 まだ中将などにものしたまひし時は、内裏にのみさぶらひようしたまひて、大殿には絶え絶えまかでたまふ。忍ぶの乱れやと、疑ひきこゆることもありしかど、さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなどは好ましからぬ御本性にて、まれには、あながちに引き違へ心尽くしなることを、御心に思しとどむる癖なむ、あやにくにて、さるまじき御振る舞ひもうち混じりける。


 長雨晴れ間なきころ、内裏の御物忌さし続きて、いとど長居さぶらひたまふを、大殿にはおぼつかなく恨めしく思したれど、よろづの御よそひ何くれとめづらしきさまに調じ出でたまひつつ、御息子の君たちただこの御宿直所の宮仕へを勤めたまふ。


 宮腹の中将は、なかに親しく馴れきこえたまひて、遊び戯れをも人よりは心安く、なれなれしく振る舞ひたり。右大臣のいたはりかしづきたまふ住み処は、この君もいともの憂くして、好きがましきあだ人なり。


 里にても、わが方のしつらひまばゆくして、君の出で入りしたまふにうち連れきこえたまひつつ、夜昼、学問をも遊びをももろともにして、をさをさ立ちおくれず、いづくにてもまつはれきこえたまふほどに、おのづからかしこまりもえおかず、心のうちに思ふことをも隠しあへずなむ、睦れきこえたまひける。


 つれづれと降り暮らして、しめやかなる宵の雨に、殿上にもをさをさ人少なに、御宿直所も例よりはのどやかなる心地するに、大殿油近くて書どもなど見たまふ。近き御厨子なる色々の紙なる文どもを引き出でて、中将わりなくゆかしがれば、


 「さりぬべき、すこしは見せむ。かたはなるべきもこそ」


 と、許したまはねば、


 「そのうちとけてかたはらいたしと思されむこそゆかしけれ。おしなべたるおほかたのは、数ならねど、程々につけて、書き交はしつつも見はべりなむ。おのがじし、恨めしき折々、待ち顔ならむ夕暮れなどのこそ、見所はあらめ」


 と怨ずれば、やむごとなくせちに隠したまふべきなどは、かやうにおほざうなる御厨子などにうち置き散らしたまふべくもあらず、深くとり置きたまふべかめれば、二の町の心安きなるべし。片端づつ見るに、「かくさまざまなる物どもこそはべりけれ」とて、心あてに「それか、かれか」など問ふなかに、言ひ当つるもあり、もて離れたることをも思ひ寄せて疑ふも、をかしと思せど、言少なにてとかく紛らはしつつ、とり隠したまひつ。


 「そこにこそ多く集へたまふらめ。すこし見ばや。さてなむ、この厨子も心よく開くべき」とのたまへば、


 「御覧じ所あらむこそ、難くはべらめ」など聞こえたまふついでに、「女の、これはしもと難つくまじきは、難くもあるかなと、やうやうなむ見たまへ知る。ただうはべばかりの情けに、手走り書き、をりふしの答へ心得て、うちしなどばかりは、随分によろしきも多かりと見たまふれど、そもまことにその方を取り出でむ選びにかならず漏るまじきは、いと難しや。わが心得たることばかりを、おのがじし心をやりて、人をば落としめなど、かたはらいたきこと多かり。


 親など立ち添ひもてあがめて、生ひ先籠れる窓の内なるほどは、ただ片かどを聞き伝へて、心を動かすこともあめり。容貌をかしくうちおほどき、若やかにて紛るることなきほど、はかなきすさびをも、人まねに心を入るることもあるに、おのづから一つゆゑづけてし出づることもあり。


 見る人、後れたる方をば言ひ隠し、さてありぬべき方をばつくろひて、まねび出だすに、『それ、しかあらじ』と、そらにいかがは推し量り思ひくたさむ。まことかと見もてゆくに、見劣りせぬやうは、なくなむあるべき」


 と、うめきたる気色も恥づかしげなれば、いとなべてはあらねど、われ思し合はすることやあらむ、うちほほ笑みて、


 「その、片かどもなき人は、あらむや」とのたまへば、


 「いと、さばかりならむあたりには、誰れかはすかされ寄りはべらむ。取るかたなく口惜しき際と、優なりとおぼゆばかりすぐれたるとは、数等しくこそはべらめ。人の品高く生まれぬれば、人にもてかしづかれて、隠るること多く、自然にそのけはひこよなかるべし。中の品になむ、人の心々、おのがじしの立てたるおもむきも見えて、分かるべきことかたがた多かるべき。下のきざみといふ際になれば、ことに耳たたずかし」


 とて、いと隈なげなる気色なるも、ゆかしくて、


 「その品々や、いかに。いづれを三つの品に置きてか分くべき。元の品高く生まれながら、身は沈み、位みじかくて人げなき。また直人の上達部などまでなり上り、我は顔にて家の内を飾り、人に劣らじと思へる。そのけぢめをば、いかが分くべき」


 と問ひたまふほどに、左馬頭、藤式部丞、御物忌に籠もらむとて参れり。世の好き者にて物よく言ひとほれるを、中将待ちとりて、この品々をわきまへ定め争ふ。いと聞きにくきこと多かり。



 「なり上れども、もとよりさるべき筋ならぬは、世人の思へることも、さは言へど、なほことなり。また、元はやむごとなき筋なれど、世に経るたづき少なく、時世に移ろひて、おぼえ衰へぬれば、心は心としてこと足らず、悪ろびたることども出でくるわざなめれば、とりどりにことわりて、中の品にぞ置くべき。


 受領と言ひて、人の国のことにかかづらひ営みて、品定まりたる中にも、またきざみきざみありて、中の品のけしうはあらぬ、選りで出でつべきころほひなり。なまなまの上達部よりも非参議の四位どもの、世のおぼえ口惜しからず、もとの根ざし卑しからぬ、やすらかに身をもてなしふるまひたる、いとかはらかなりや。


 家の内に足らぬことなど、はたなかめるままに、省かずまばゆきまでもてかしづける女などの、おとしめがたく生ひ出づるもあまたあるべし。宮仕へに出で立ちて、思ひかけぬ幸ひとり出づる例ども多かりかし」など言へば、


 「すべて、にぎははしきによるべきななり」とて、笑ひたまふを、


 「異人の言はむように、心得ず仰せらる」と、中将憎む。


 「元の品、時世のおぼえうち合ひ、やむごとなきあたりの内々のもてなしけはひ後れたらむは、さらにも言はず、何をしてかく生ひ出でけむと、言ふかひなくおぼゆべし。うち合ひてすぐれたらむもことわり、これこそはさるべきこととおぼえて、めづらかなることと心も驚くまじ。なにがしが及ぶべきほどならねば、上が上はうちおきはべりぬ。


 さて、世にありと人に知られず、さびしくあばれたらむ葎の門に、思ひの外にらうたげならむ人の閉ぢられたらむこそ、限りなくめづらしくはおぼえめ。いかで、はたかかりけむと、思ふより違へることなむ、あやしく心とまるわざなる。


 父の年老い、ものむつかしげに太りすぎ、兄の顔憎げに、思ひやりことなることなき閨の内に、いといたく思ひあがり、はかなくし出でたることわざも、ゆゑなからず見えたらむ、片かどにても、いかが思ひの外にをかしからざらむ。


 すぐれて疵なき方の選びにこそ及ばざらめ、さる方にて捨てがたきものをは」


 とて、式部を見やれば、わが妹どものよろしき聞こえあるを思ひてのたまふにや、とや心得らむ、ものも言はず。


 「いでや、上の品と思ふにだに難げなる世を」と、君は思すべし。白き御衣どものなよらかなるに、直衣ばかりをしどけなく着なしたまひて、紐などもうち捨てて、添ひ臥したまへる御火影、いとめでたく、女にて見たてまつらまほし。この御ためには上が上を選り出でても、なほ飽くまじく見えたまふ。


 さまざまの人の上どもを語り合はせつつ、


 「おほかたの世につけて見るには咎なきも、わがものとうち頼むべきを選らむに、多かる中にも、えなむ思ひ定むまじかりける。男の朝廷に仕うまつり、はかばかしき世のかためとなるべきも、まことの器ものとなるべきを取り出ださむには、かたかるべしかし。されど、賢しとても、一人二人世の中をまつりごちしるべきならねば、上は下に輔けられ、下は上になびきて、こと広きに譲ろふらむ。


 狭き家の内の主人とすべき人一人を思ひめぐらすに、足らはで悪しかるべき大事どもなむ、かたがた多かる。とあればかかり、あふさきるさにて、なのめにさてもありぬべき人の少なきを、好き好きしき心のすさびにて、人のありさまをあまた見合はせむの好みならねど、ひとへに思ひ定むべきよるべとすばかりに、同じくは、わが力入りをし直しひきつくろふべき所なく、心にかなふやうにもやと、選りそめつる人の、定まりがたきなるべし。


 かならずしもわが思ふにかなはねど、見そめつる契りばかりを捨てがたく思ひとまる人は、ものまめやかなりと見え、さて、保たるる女のためも、心にくく推し量らるるなり。されど、何か、世のありさまを見たまへ集むるままに、心に及ばずいとゆかしきこともなしや。君達の上なき御選びには、まして、いかばかりの人かは足らひたまはむ。


 容貌きたなげなく、若やかなるほどの、おのがじしは塵もつかじと身をもてなし、文を書けど、おほどかに言選りをし、墨つきほのかに心もとなく思はせつつ、またさやかにも見てしがなとすべなく待たせ、わづかなる声聞くばかり言ひ寄れど、息の下にひき入れ言少ななるが、いとよくもて隠すなりけり。なよびかに女しと見れば、あまり情けにひきこめられて、とりなせば、あだめく。これをはじめの難とすべし。


 事が中に、なのめなるまじき人の後見の方は、もののあはれ知り過ぐし、はかなきついでの情けあり、をかしきに進める方なくてもよかるべしと見えたるに、また、まめまめしき筋を立てて耳はさみがちに美さうなき家刀自の、ひとへにうちとけたる後見ばかりをして。


 朝夕の出で入りにつけても、公私の人のたたずまひ、善き悪しきことの、目にも耳にもとまるありさまを、疎き人に、わざとうちまねばむやは。近くて見む人の聞きわき思ひ知るべからむに語りも合はせばやと、うちも笑まれ、涙もさしぐみ、もしは、あやなきおほやけ腹立たしく、心ひとつに思ひあまることなど多かるを、何にかは聞かせむと思へば、うちそむかれて、人知れぬ思ひ出で笑ひもせられ、『あはれ』とも、うち独りごたるるに、『何ごとぞ』など、あはつかにさし仰ぎゐたらむは、いかがは口惜しからぬ。


 ただひたふるに子めきて柔らかならむ人を、とかくひきつくろひてはなどか見ざらむ。心もとなくとも、直し所ある心地すべし。げに、さし向ひて見むほどは、さてもらうたき方に罪ゆるし見るべきを、立ち離れてさるべきことをも言ひやり、をりふしにし出でむわざのあだ事にもまめ事にも、わが心と思ひ得ることなく深きいたりなからむは、いと口惜しく頼もしげなき咎や、なほ苦しからむ。常はすこしそばそばしく心づきなき人の、をりふしにつけて出でばえするやうもありかし」


 など、隈なきもの言ひも、定めかねていたくうち嘆く。



 「今は、ただ、品にもよらじ。容貌をばさらにも言はじ。いと口惜しくねぢけがましきおぼえだになくは、ただひとへにものまめやかに、静かなる心のおもむきならむよるべをぞ、つひの頼み所には思ひおくべかりける。あまりのゆゑよし心ばせうち添へたらむをば、よろこびに思ひ、すこし後れたる方あらむをも、あながちに求め加へじ。うしろやすくのどけき所だに強くは、うはべの情けは、おのづからもてつけつべきわざをや。


 艶にもの恥ぢして、恨み言ふべきことをも見知らぬさまに忍びて、上はつれなくみさをづくり、心一つに思ひあまる時は、言はむかたなくすごき言の葉、あはれなる歌を詠みおき、しのばるべき形見をとどめて、深き山里、世離れたる海づらなどにはひ隠れぬるをり。


 童にはべりし時、女房などの物語読みしを聞きて、いとあはれに悲しく、心深きことかなと、涙をさへなむ落としはべりし。今思ふには、いと軽々しく、ことさらびたることなり。心ざし深からむ男をおきて、見る目の前につらきことありとも、人の心を見知らぬやうに逃げ隠れて、人をまどはし、心を見むとするほどに、長き世のもの思ひになる、いとあぢきなきことなり。『心深しや』など、ほめたてられて、あはれ進みぬれば、やがて尼になりぬかし。思ひ立つほどは、いと心澄めるやうにて、世に返り見すべくも思へらず。『いで、あな悲し。かくはた思しなりにけるよ』などやうに、あひ知れる人来とぶらひ、ひたすらに憂しとも思ひ離れぬ男、聞きつけて涙落とせば、使ふ人、古御達など、『君の御心は、あはれなりけるものを。あたら御身を』など言ふ。みづから額髪をかきさぐりて、あへなく心細ければ、うちひそみぬかし。忍ぶれど涙こぼれそめぬれば、折々ごとにえ念じえず、悔しきこと多かめるに、仏もなかなか心ぎたなしと、見たまひつべし。濁りにしめるほどよりも、なま浮かびにては、かへりて悪しき道にも漂ひぬべくぞおぼゆる。絶えぬ宿世浅からで、尼にもなさで尋ね取りたらむも、やがてあひ添ひて、とあらむ折もかからむきざみをも、見過ぐしたらむ仲こそ、契り深くあはれならめ、我も人も、うしろめたく心おかれじやは。


 また、なのめに移ろふ方あらむ人を恨みて、気色ばみ背かむ、はたをこがましかりなむ。心は移ろふ方ありとも、見そめし心ざしいとほしく思はば、さる方のよすがに思ひてもありぬべきに、さやうならむたぢろきに、絶えぬべきわざなり。


 すべて、よろずのことなだらかに、怨ずべきことをば見知れるさまにほのめかし、恨むべからむふしをも憎からずかすめなさば、それにつけて、あはれもまさりぬべし。多くは、わが心も見る人からをさまりもすべし。あまりむげにうちゆるべ見放ちたるも、心安くらうたきやうなれど、おのづから軽き方にぞおぼえはべるかし。繋がぬ舟の浮きたる例も、げにあやなし。さははべらぬか」


 と言へば、中将うなづく。


 「さしあたりて、をかしともあはれとも心に入らむ人の、頼もしげなき疑ひあらむこそ、大事なるべけれ。わが心あやまちなくて見過ぐさば、さし直してもなどか見ざらむとおぼえたれど、それさしもあらじ。ともかくも、違ふべきふしあらむを、のどやかに見忍ばむよりほかに、ますことあるまじかりけり」


 と言ひて、わが妹の姫君は、この定めにかなひたまへりと思へば、君のうちねぶりて言葉まぜたまはぬを、さうざうしく心やましと思ふ。馬頭、物定めの博士になりて、ひひらきゐたり。中将は、このことわり聞き果てむと、心入れて、あへしらひゐたまへり。


 「よろづのことによそへて思せ。木の道の匠のよろづの物を心にまかせて作り出だすも、臨時のもてあそび物の、その物と跡も定まらぬは、そばつきさればみたるも、げにかうもしつべかりけりと、時につけつつさまを変へて、今めかしきに目移りてをかしきもあり。大事として、まことにうるはしき人の調度の飾りとする、定まれるやうある物を難なくし出づることなむ、なほまことの物の上手は、さまことに見え分かれはべる。


 また絵所に上手多かれど、墨がきに選ばれて、次々にさらに劣りまさるけぢめ、ふとしも見え分かれず。かかれど、人の見及ばぬ蓬莱の山、荒海の怒れる魚の姿、唐国のはげしき獣の形、目に見えぬ鬼の顔などの、おどろおどろしく作りたる物は、心にまかせてひときは目驚かして、実には似ざらめど、さてありぬべし。


 世の常の山のたたずまひ、水の流れ、目に近き人の家居ありさま、げにと見え、なつかしくやはらいだる方などを静かに描きまぜて、すくよかならぬ山の景色、木深く世離れて畳みなし、け近き籬の内をば、その心しらひおきてなどをなむ、上手はいと勢ひことに、悪ろ者は及ばぬ所多かめる。


 手を書きたるにも、深きことはなくて、ここかしこの、点長に走り書き、そこはかとなく気色ばめるは、うち見るにかどかどしく気色だちたれど、なほまことの筋をこまやかに書き得たるは、うはべの筆消えて見ゆれど、今ひとたびとり並べて見れば、なほ実になむよりける。


 はかなきことだにかくこそはべれ。まして人の心の、時にあたりて気色ばめらむ見る目の情けをば、え頼むまじく思うたまへ得てはべる。そのはじめのこと、好き好きしくとも申しはべらむ」


 とて、近くゐ寄れば、君も目覚ましたまふ。中将いみじく信じて、頬杖をつきて向かひゐたまへり。法の師の世のことわり説き聞かせむ所の心地するも、かつはをかしけれど、かかるついでは、おのおの睦言もえ忍びとどめずなむありける。


 

 

 「はやう、まだいと下臈にはべりし時、あはれと思ふ人はべりき。聞こえさせつるやうに、容貌などいとまほにもはべらざりしかば、若きほどの好き心には、この人をとまりにとも思ひとどめはべらず、よるべとは思ひながら、さうざうしくて、とかく紛れはべりしを、もの怨じをいたくしはべりしかば、心づきなく、いとかからで、おいらかならましかばと思ひつつ、あまりいと許しなく疑ひはべりしもうるさくて、かく数ならぬ身を見も放たで、などかくしも思ふらむと、心苦しき折々もはべりて、自然に心をさめらるるやうになむはべりし。


 この女のあるやう、もとより思ひいたらざりけることにも、いかでこの人のためにはと、なき手を出だし、後れたる筋の心をも、なほ口惜しくは見えじと思ひはげみつつ、とにかくにつけて、ものまめやかに後見、つゆにても心に違ふことはなくもがなと思へりしほどに、進める方と思ひしかど、とかくになびきてなよびゆき、醜き容貌をも、この人に見や疎まれむと、わりなく思ひつくろひ、疎き人に見えば、面伏せにや思はむと、憚り恥ぢて、みさをにもてつけて見馴るるままに、心もけしうはあらずはべりしかど、ただこの憎き方一つなむ、心をさめずはべりし。


 そのかみ思ひはべりしやう、かうあながちに従ひ怖ぢたる人なめり、いかで懲るばかりのわざして、おどして、この方もすこしよろしくもなり、さがなさもやめむと思ひて、まことに憂しなども思ひて絶えぬべき気色ならば、かばかり我に従ふ心ならば思ひ懲りなむと思うたまへ得て、ことさらに情けなくつれなきさまを見せて、例の腹立ち怨ずるに、


 『かくおぞましくは、いみじき契り深くとも、絶えてまた見じ。限りと思はば、かくわりなきもの疑ひはせよ。行く先長く見えむと思はば、つらきことありとも、念じてなのめに思ひなりて、かかる心だに失せなば、いとあはれとなむ思ふべき。人並々にもなり、すこしおとなびむに添へて、また並ぶ人なくあるべき』やうなど、かしこく教へたつるかなと思ひたまへて、われたけく言ひそしはべるに、すこしうち笑ひて、


 『よろづに見立てなく、ものげなきほどを見過ぐして、人数なる世もやと待つ方は、いとのどかに思ひなされて、心やましくもあらず。つらき心を忍びて、思ひ直らむ折を見つけむと、年月を重ねむあいな頼みは、いと苦しくなむあるべければ、かたみに背きぬべききざみになむある』


 とねたげに言ふに、腹立たしくなりて、憎げなることどもを言ひはげましはべるに、女もえをさめぬ筋にて、指ひとつを引き寄せて喰ひてはべりしを、おどろおどろしくかこちて、


 『かかる疵さへつきぬれば、いよいよ交じらひをすべきにもあらず。辱めたまふめる官位、いとどしく何につけてかは人めかむ。世を背きぬべき身なめり』など言ひ脅して、『さらば、今日こそは限りなめれ』と、この指をかがめてまかでぬ。


 『手を折りてあひ見しことを数ふれば
  これひとつやは君が憂きふし
 えうらみじ』


 など言ひはべれば、さすがにうち泣きて、


 『憂きふしを心ひとつに数へきて
  こや君が手を別るべきをり』


 など、言ひしろひはべりしかど、まことには変るべきこととも思ひたまへずながら、日ごろ経るまで消息も遣はさず、あくがれまかり歩くに、臨時の祭の調楽に、夜更けていみじう霙降る夜、これかれまかりあかるる所にて、思ひめぐらせば、なほ家路と思はむ方はまたなかりけり。


 内裏わたりの旅寝すさまじかるべく、気色ばめるあたりはそぞろ寒くや、と思ひたまへられしかば、いかが思へると、気色も見がてら、雪をうち払ひつつ、なま人悪ろく爪喰はるれど、さりとも今宵日ごろの恨みは解けなむ、と思うたまへしに、火ほのかに壁に背け、萎えたる衣どもの厚肥えたる、大いなる籠にうち掛けて、引き上ぐべきものの帷子などうち上げて、今宵ばかりやと、待ちけるさまなり。さればよと、心おごりするに、正身はなし。さるべき女房どもばかりとまりて、『親の家に、この夜さりなむ渡りぬる』と答へはべり。


 艶なる歌も詠まず、気色ばめる消息もせで、いとひたや籠もりに情けなかりしかば、あへなき心地して、さがなく許しなかりしも、我を疎みねと思ふ方の心やありけむと、さしも見たまへざりしことなれど、心やましきままに思ひはべりしに、着るべき物、常よりも心とどめたる色あひ、しざまいとあらまほしくて、さすがにわが見捨ててむ後をさへなむ、思ひやり後見たりし。


 さりとも、絶えて思ひ放つやうはあらじと思うたまへて、とかく言ひはべりしを、背きもせずと、尋ねまどはさむとも隠れ忍びず、かかやかしからず答へつつ、ただ、『ありしながらは、えなむ見過ぐすまじき。あらためてのどかに思ひならばなむ、あひ見るべき』など言ひしを、さりともえ思ひ離れじと思ひたまへしかば、しばし懲らさむの心にて、『しかあらためむ』とも言はず、いたく綱引きて見せしあひだに、いといたく思ひ嘆きて、はかなくなりはべりにしかば、戯れにくくなむおぼえはべりし。


 ひとへにうち頼みたらむ方は、さばかりにてありぬべくなむ思ひたまへ出でらるる。はかなきあだ事をもまことの大事をも、言ひあはせたるにかひなからず、龍田姫と言はむにもつきなからず、織女の手にも劣るまじくその方も具して、うるさくなむはべりし」


 とて、いとあはれと思ひ出でたり。中将、


 「その織女の裁ち縫ふ方をのどめて、長き契りにぞあえまし。げに、その龍田姫の錦には、またしくものあらじ。はかなき花紅葉といふも、をりふしの色あひつきなく、はかばかしからぬは、露のはえなく消えぬるわざなり。さあるにより、難き世とは定めかねたるぞや」


 と、言ひはやしたまふ。



 「さて、また同じころ、まかり通ひし所は、人も立ちまさり心ばせまことにゆゑありと見えぬべく、うち詠み、走り書き、掻い弾く爪音、手つき口つき、みなたどたどしからず、見聞きわたりはべりき。見る目もこともなくはべりしかば、このさがな者を、うちとけたる方にて、時々隠ろへ見はべりしほどは、こよなく心とまりはべりき。この人亡せて後、いかがはせむ、あはれながらも過ぎぬるはかひなくて、しばしばまかり馴るるには、すこしまばゆく艶に好ましきことは、目につかぬ所あるに、うち頼むべくは見えず、かれがれにのみ見せはべるほどに、忍びて心交はせる人ぞありけらし。


 神無月のころほひ、月おもしろかりし夜、内裏よりまかではべるに、ある上人来あひて、この車にあひ乗りてはべれば、大納言の家にまかり泊まらむとするに、この人言ふやう、『今宵人待つらむ宿なむ、あやしく心苦しき』とて、この女の家はた、避きぬ道なりければ、荒れたる崩れより池の水かげ見えて、月だに宿る住処を過ぎむもさすがにて、下りはべりぬかし。


 もとよりさる心を交はせるにやありけむ、この男いたくすずろきて、門近き廊の簀子だつものに尻かけて、とばかり月を見る。菊いとおもしろく移ろひわたり、風に競へる紅葉の乱れなど、あはれと、げに見えたり。


 懐なりける笛取り出でて吹き鳴らし、『蔭もよし』などつづしり謡ふほどに、よく鳴る和琴を、調べととのへたりける、うるはしく掻き合はせたりしほど、けしうはあらずかし。律の調べは、女のものやはらかに掻き鳴らして、簾の内より聞こえたるも、今めきたる物の声なれば、清く澄める月に折つきなからず。男いたくめでて、簾のもとに歩み来て、


 『庭の紅葉こそ、踏み分けたる跡もなけれ』などねたます。菊を折りて、


 『琴の音も月もえならぬ宿ながら
  つれなき人をひきやとめける


 悪ろかめり』など言ひて、『今ひと声、聞きはやすべき人のある時、手な残いたまひそ』など、いたくあざれかかれば、女、いたう声つくろひて、


 『木枯に吹きあはすめる笛の音を
  ひきとどむべき言の葉ぞなき』


 となまめき交はすに、憎くなるをも知らで、また、箏の琴を盤渉調に調べて、今めかしく掻い弾きたる爪音、かどなきにはあらねど、まばゆき心地なむしはべりし。ただ時々うち語らふ宮仕へ人などの、あくまでさればみ好きたるは、さても見る限りはをかしくもありぬべし。時々にても、さる所にて忘れぬよすがと思ひたまへむには、頼もしげなくさし過ぐいたりと心おかれて、その夜のことにことつけてこそ、まかり絶えにしか。


 この二つのことを思うたまへあはするに、若き時の心にだに、なほさやうにもて出でたることは、いとあやしく頼もしげなくおぼえはべりき。今より後は、ましてさのみなむ思ひたまへらるべき。御心のままに、折らば落ちぬべき萩の露、拾はば消えなむと見る玉笹の上の霰などの、艶にあえかなる好き好きしさのみこそ、をかしく思さるらめ、今さりとも、七年あまりがほどに思し知りはべなむ。なにがしがいやしき諌めにて、好きたわめらむ女に心おかせたまへ。過ちして、見む人のかたくななる名をも立てつべきものなり」


 と戒む。中将、例のうなづく。君すこしかた笑みて、さることとは思すべかめり。


 「いづ方につけても、人悪ろくはしたなかりける身物語かな」とて、うち笑ひおはさうず。

 


 中将、
 「なにがしは、痴者の物語をせむ」とて、「いと忍びて見そめたりし人の、さても見つべかりしけはひなりしかば、ながらふべきものとしも思ひたまへざりしかど、馴れゆくままに、あはれとおぼえしかば、絶え絶え忘れぬものに思ひたまへしを、さばかりになれば、うち頼めるけしきも見えき。頼むにつけては、恨めしと思ふこともあらむと、心ながらおぼゆるをりをりもはべりしを、見知らぬやうにて、久しきとだえをも、かうたまさかなる人とも思ひたらず、ただ朝夕にもてつけたらむありさまに見えて、心苦しかりしかば、頼めわたることなどもありきかし。


 親もなく、いと心細げにて、さらばこの人こそはと、事にふれて思へるさまもらうたげなりき。かうのどけきにおだしくて、久しくまからざりしころ、この見たまふるわたりより、情けなくうたてあることをなむ、さるたよりありてかすめ言はせたりける、後にこそ聞きはべりしか。


 さる憂きことやあらむとも知らず、心には忘れずながら、消息などもせで久しくはべりしに、むげに思ひしをれて心細かりければ、幼き者などもありしに思ひわづらひて、撫子の花を折りておこせたりし」とて涙ぐみたり。


 「さて、その文の言葉は」と問ひたまへば、
 「いさや、ことなることもなかりきや。


 『山がつの垣ほ荒るとも折々に
  あはれはかけよ撫子の露』


 思ひ出でしままにまかりたりしかば、例のうらもなきものから、いと物思ひ顔にて、荒れたる家の露しげきを眺めて、虫の音に競へるけしき、昔物語めきておぼえはべりし。


 『咲きまじる色はいづれと分かねども
  なほ常夏にしくものぞなき』


 大和撫子をばさしおきて、まづ『塵をだに』など、親の心をとる。


 『うち払ふ袖も露けき常夏に
  あらし吹きそふ秋も来にけり』


 とはかなげに言ひなして、まめまめしく恨みたるさまも見えず。涙をもらし落としても、いと恥づかしくつつましげに紛らはし隠して、つらきをも思ひ知りけりと見えむは、わりなく苦しきものと思ひたりしかば、心やすくて、またとだえ置きはべりしほどに、跡もなくこそかき消ちて失せにしか。


 まだ世にあらば、はかなき世にぞさすらふらむ。あはれと思ひしほどに、わづらはしげに思ひまとはすけしき見えましかば、かくもあくがらさざらまし。こよなきとだえおかず、さるものにしなして長く見るやうもはべりなまし。かの撫子のらうたくはべりしかば、いかで尋ねむと思ひたまふるを、今もえこそ聞きつけはべらね。


 これこそのたまへるはかなき例なめれ。つれなくてつらしと思ひけるも知らで、あはれ絶えざりしも、益なき片思ひなりけり。今やうやう忘れゆく際に、かれはたえしも思ひ離れず、折々人やりならぬ胸焦がるる夕べもあらむとおぼえはべり。これなむ、え保つまじく頼もしげなき方なりける。


 されば、かのさがな者も、思ひ出である方に忘れがたけれど、さしあたりて見むにはわづらはしくよ、よくせずは、飽きたきこともありなむや。琴の音すすめけむかどかどしさも、好きたる罪重かるべし。この心もとなきも、疑ひ添ふべければ、いづれとつひに思ひ定めずなりぬるこそ。世の中や、ただかくこそ。とりどりに比べ苦しかるべき。このさまざまのよき限りをとり具し、難ずべきくさはひまぜぬ人は、いづこにかはあらむ。吉祥天女を思ひかけむとすれば、法気づき、くすしからむこそ、また、わびしかりぬべけれ」とて、皆笑ひぬ。

 


 「式部がところにぞ、けしきあることはあらむ。すこしづつ語り申せ」と責めらる。


 「下が下の中には、なでふことか、聞こし召しどころはべらむ」


 と言へど、頭の君、まめやかに「遅し」と責めたまへば、何事をとり申さむと思ひめぐらすに、


 「まだ文章生にはべりし時、かしこき女の例をなむ見たまへし。かの、馬頭の申したまへるやうに、公事をも言ひあはせ、私ざまの世に住まふべき心おきてを思ひめぐらさむ方もいたり深く、才の際なまなまの博士恥づかしく、すべて口あかすべくなむはべらざりし。


 それは、ある博士のもとに学問などしはべるとて、まかり通ひしほどに、主人のむすめども多かりと聞きたまへて、はかなきついでに言ひ寄りてはべりしを、親聞きつけて、盃持て出でて、『わが両つの途歌ふを聴け』となむ、聞こえごちはべりしかど、をさをさうちとけてもまからず、かの親の心を憚りて、さすがにかかづらひはべりしほどに、いとあはれに思ひ後見、寝覚の語らひにも、身の才つき、朝廷に仕うまつるべき道々しきことを教へて、いときよげに消息文にも仮名といふもの書きまぜず、むべむべしく言ひまはしはべるに、おのづからえまかり絶えで、その者を師としてなむ、わづかなる腰折文作ることなど習ひはべりしかば、今にその恩は忘れはべらねど、なつかしき妻子とうち頼まむには、無才の人、なま悪ろならむ振る舞ひなど見えむに、恥づかしくなむ見えはべりし。まいて君達の御ため、はかばかしくしたたかなる御後見は、何にかせさせたまはむ。はかなし、口惜し、とかつ見つつも、ただわが心につき、宿世の引く方はべるめれば、男しもなむ、仔細なきものははべめる」


 と申せば、残りを言はせむとて、「さてさてをかしかりける女かな」とすかいたまふを、心は得ながら、鼻のわたりをこづきて語りなす。


 「さて、いと久しくまからざりしに、もののたよりに立ち寄りてはべれば、常のうちとけゐたる方にははべらで、心やましき物越しにてなむ逢ひてはべる。ふすぶるにやと、をこがましくも、また、よきふしなりとも思ひたまふるに、このさかし人はた、軽々しきもの怨じすべきにもあらず、世の道理を思ひとりて恨みざりけり。


 声もはやりかにて言ふやう、


 『月ごろ、風病重きに堪へかねて、極熱の草薬を服して、いと臭きによりなむ、え対面賜はらぬ。目のあたりならずとも、さるべからむ雑事らは承らむ』


 と、いとあはれにむべむべしく言ひはべり。答へに何とかは。ただ、『承りぬ』とて、立ち出ではべるに、さうざうしくやおぼえけむ、


 『この香失せなむ時に立ち寄りたまへ』と高やかに言ふを、聞き過ぐさむもいとほし、しばしやすらふべきに、はたはべらねば、げにそのにほひさへ、はなやかにたち添へるも術なくて、逃げ目をつかひて、


 『ささがにのふるまひしるき夕暮れに
  ひるま過ぐせといふがあやなさ
 いかなることつけぞや』


 と、言ひも果てず走り出ではべりぬるに、追ひて、


 『逢ふことの夜をし隔てぬ仲ならば
  ひる間も何かまばゆからまし』


 さすがに口疾くなどははべりき」


 と、しづしづと申せば、君達あさましと思ひて、「嘘言」とて笑ひたまふ。


 「いづこのさる女かあるべき。おいらかに鬼とこそ向かひゐたらめ。むくつけきこと」


 と爪弾きをして、「言はむ方なし」と、式部をあはめ憎みて、


 「すこしよろしからむことを申せ」と責めたまへど、


 「これよりめづらしきことはさぶらひなむや」とて、をり。


 「すべて男も女も悪ろ者は、わづかに知れる方のことを残りなく見せ尽くさむと思へるこそ、いとほしけれ。


 三史五経、道々しき方を、明らかに悟り明かさむこそ、愛敬なからめ、などかは、女といはむからに、世にあることの公私につけて、むげに知らずいたらずしもあらむ。わざと習ひまねばねど、すこしもかどあらむ人の、耳にも目にもとまること、自然に多かるべし。


 さるままには、真名を走り書きて、さるまじきどちの女文に、なかば過ぎて書きすすめたる、あなうたて、この人のたをやかならましかばと見えたり。心地にはさしも思はざらめど、おのづからこはごはしき声に読みなされなどしつつ、ことさらびたり。上臈の中にも、多かることぞかし。


 歌詠むと思へる人の、やがて歌にまつはれ、をかしき古言をも初めより取り込みつつ、すさまじき折々、詠みかけたるこそ、ものしきことなれ。返しせねば情けなし、えせざらむ人ははしたなからむ。


 さるべき節会など、五月の節に急ぎ参る朝、何のあやめも思ひしづめられぬに、えならぬ根を引きかけ、九日の宴に、まづ難き詩の心を思ひめぐらして暇なき折に、菊の露をかこち寄せなどやうの、つきなき営みにあはせ、さならでもおのづから、げに後に思へばをかしくもあはれにもあべかりけることの、その折につきなく、目にとまらぬなどを、推し量らず詠み出でたる、なかなか心後れて見ゆ。


 よろづのことに、などかは、さても、とおぼゆる折から、時々、思ひわかぬばかりの心にては、よしばみ情け立たざらむなむ目やすかるべき。


 すべて、心に知れらむことをも、知らず顔にもてなし、言はまほしからむことをも、一つ二つのふしは過ぐすべくなむあべかりける」


 と言ふにも、君は、人一人の御ありさまを、心の中に思ひつづけたまふ。「これに足らずまたさし過ぎたることなくものしたまひけるかな」と、ありがたきにも、いとど胸ふたがる。


 いづ方により果つともなく、果て果てはあやしきことどもになりて、明かしたまひつ。


 

 

 からうして今日は日のけしきも直れり。かくのみ籠もりさぶらひたまふも、大殿の御心いとほしければ、まかでたまへり。


 おほかたの気色、人のけはひも、けざやかにけ高く、乱れたるところまじらず、なほ、これこそは、かの、人びとの捨てがたく取り出でしまめ人には頼まれぬべけれ、と思すものから、あまりうるはしき御ありさまの、とけがたく恥づかしげに思ひしづまりたまへるをさうざうしくて、中納言の君、中務などやうの、おしなべたらぬ若人どもに、戯れ言などのたまひつつ、暑さに乱れたまへる御ありさまを、見るかひありと思ひきこえたり。


 大臣も渡りたまひて、うちとけたまへれば、御几帳隔てておはしまして、御物語聞こえたまふを、「暑きに」とにがみたまへば、人びと笑ふ。「あなかま」とて、脇息に寄りおはす。いとやすらかなる御振る舞ひなりや。


 暗くなるほどに、
 「今宵、中神、内裏よりは塞がりてはべりけり」と聞こゆ。


 「さかし、例は忌みたまふ方なりけり」
 「二条の院にも同じ筋にて、いづくにか違へむ。いと悩ましきに」


 とて大殿籠もれり。「いと悪しきことなり」と、これかれ聞こゆ。


 「紀伊守にて親しく仕うまつる人の、中川のわたりなる家なむ、このころ水せき入れて、涼しき蔭にはべる」と聞こゆ。


 「いとよかなり。悩ましきに、牛ながら引き入れつべからむ所を」


 とのたまふ。忍び忍びの御方違へ所は、あまたありぬべけれど、久しくほど経て渡りたまへるに、方塞げて、ひき違へ他ざまへと思さむは、いとほしきなるべし。紀伊守に仰せ言賜へば、承りながら、退きて、


 「伊予守の朝臣の家に慎むことはべりて、女房なむまかり移れるころにて、狭き所にはべれば、なめげなることやはべらむ」


 と、下に嘆くを聞きたまひて、


 「その人近からむなむ、うれしかるべき。女遠き旅寝は、もの恐ろしき心地すべきを。ただその几帳のうしろに」とのたまへば、


 「げに、よろしき御座所にも」とて、人走らせやる。いと忍びて、ことさらにことことしからぬ所をと、急ぎ出でたまへば、大臣にも聞こえたまはず、御供にも睦ましき限りしておはしましぬ。



 「にはかに」とわぶれど、人も聞き入れず。寝殿の東面払ひあけさせて、かりそめの御しつらひしたり。水の心ばへなど、さる方にをかしくしなしたり。田舎家だつ柴垣して、前栽など心とめて植ゑたり。風涼しくて、そこはかとなき虫の声々聞こえ、蛍しげく飛びまがひて、をかしきほどなり。


 人びと、渡殿より出でたる泉にのぞきゐて、酒呑む。主人も肴求むと、こゆるぎのいそぎありくほど、君はのどやかに眺めたまひて、かの、中の品に取り出でて言ひし、この並ならむかしと思し出づ。


 思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば、ゆかしくて耳とどめたまへるに、この西面にぞ人のけはひする。衣の音なひはらはらとして、若き声どもにくからず。さすがに忍びて、笑ひなどするけはひ、ことさらびたり。格子を上げたりけれど、守、「心なし」とむつかりて下しつれば、火灯したる透影、障子の上より漏りたるに、やをら寄りたまひて、「見ゆや」と思せど、隙もなければ、しばし聞きたまふに、この近き母屋に集ひゐたるなるべし、うちささめき言ふことどもを聞きたまへば、わが御上なるべし。


 「いといたうまめだちて。まだきに、やむごとなきよすが定まりたまへるこそ、さうざうしかめれ」
 「されど、さるべき隈には、よくこそ、隠れ歩きたまふなれ」


 など言ふにも、思すことのみ心にかかりたまへば、まづ胸つぶれて、「かやうのついでにも、人の言ひ漏らさむを、聞きつけたらむ時」などおぼえたまふ。


 ことなることなければ、聞きさしたまひつ。式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし歌などを、すこしほほゆがめて語るも聞こゆ。「くつろぎがましく、歌誦じがちにもあるかな、なほ見劣りはしなむかし」と思す。


 守出で来て、灯籠掛け添へ、灯明くかかげなどして、御くだものばかり参れり。


 「とばり帳も、いかにぞは。さる方の心もとなくては、めざましき饗応ならむ」とのたまへば、


 「何よけむとも、えうけたまはらず」と、かしこまりてさぶらふ。端つ方の御座に、仮なるやうにて大殿籠もれば、人びとも静まりぬ。


 主人の子ども、をかしげにてあり。童なる、殿上のほどに御覧じ馴れたるもあり。伊予介の子もあり。あまたある中に、いとけはひあてはかにて、十二、三ばかりなるもあり。


 「いづれかいづれ」など問ひたまふに、


 「これは、故衛門督の末の子にて、いとかなしくしはべりけるを、幼きほどに後れはべりて、姉なる人のよすがに、かくてはべるなり。才などもつきはべりぬべく、けしうははべらぬを、殿上なども思ひたまへかけながら、すがすがしうはえ交じらひはべらざめる」と申す。


 「あはれのことや。この姉君や、まうとの後の親」


 「さなむはべる」と申すに、


 「似げなき親をも、まうけたりけるかな。主上にも聞こし召しおきて、『宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せし、いかになりにけむ』と、いつぞやのたまはせし。世こそ定めなきものなれ」と、いとおよすけのたまふ。


 「不意に、かくてものしはべるなり。世の中といふもの、さのみこそ、今も昔も、定まりたることはべらね。中についても、女の宿世は浮かびたるなむ、あはれにはべる」など聞こえさす。


 「伊予介は、かしづくや。君と思ふらむな」


 「いかがは。私の主とこそは思ひてはべるめるを、好き好きしきことと、なにがしよりはじめて、うけひきはべらずなむ」と申す。


 「さりとも、まうとたちのつきづきしく今めきたらむに、おろしたてむやは。かの介は、いとよしありて気色ばめるをや」など、物語したまひて、


 「いづかたにぞ」


 「皆、下屋におろしはべりぬるを、えやまかりおりあへざらむ」と聞こゆ。


 酔ひすすみて、皆人びと簀子に臥しつつ、静まりぬ。



 君は、とけても寝られたまはず、いたづら臥しと思さるるに御目覚めて、この北の障子のあなたに人のけはひするを、「こなたや、かくいふ人の隠れたる方ならむ、あはれや」と御心とどめて、やをら起きて立ち聞きたまへば、ありつる子の声にて、


 「ものけたまはる。いづくにおはしますぞ」


 と、かれたる声のをかしきにて言へば、


 「ここにぞ臥したる。客人は寝たまひぬるか。いかに近からむと思ひつるを、されど、け遠かりけり」


 と言ふ。寝たりける声のしどけなき、いとよく似通ひたれば、いもうとと聞きたまひつ。


 「廂にぞ大殿籠もりぬる。音に聞きつる御ありさまを見たてまつりつる、げにこそめでたかりけれ」と、みそかに言ふ。


 「昼ならましかば、覗きて見たてまつりてまし」


 とねぶたげに言ひて、顔ひき入れつる声す。「ねたう、心とどめても問ひ聞けかし」とあぢきなく思す。


 「まろは端に寝はべらむ。あなくるし」


 とて、灯かかげなどすべし。女君は、ただこの障子口筋交ひたるほどにぞ臥したるべき。


 「中将の君はいづくにぞ。人げ遠き心地して、もの恐ろし」


 と言ふなれば、長押の下に、人びと臥して答へすなり。


 「下に湯におりて。『ただ今参らむ』とはべる」と言ふ。


 皆静まりたるけはひなれば、掛金を試みに引きあけたまへれば、あなたよりは鎖さざりけり。几帳を障子口には立てて、灯はほの暗きに、見たまへば唐櫃だつ物どもを置きたれば、乱りがはしき中を、分け入りたまへれば、ただ一人いとささやかにて臥したり。なまわづらはしけれど、上なる衣押しやるまで、求めつる人と思へり。


 「中将召しつればなむ。人知れぬ思ひの、しるしある心地して」


 とのたまふを、ともかくも思ひ分かれず、物に襲はるる心地して、「や」とおびゆれど、顔に衣のさはりて、音にも立てず。


 「うちつけに、深からぬ心のほどと見たまふらむ、ことわりなれど、年ごろ思ひわたる心のうちも、聞こえ知らせむとてなむ。かかるをりを待ち出でたるも、さらに浅くはあらじと、思ひなしたまへ」


 と、いとやはらかにのたまひて、鬼神も荒だつまじきけはひなれば、はしたなく、「ここに、人」とも、えののしらず。心地はた、わびしく、あるまじきことと思へば、あさましく、


 「人違へにこそはべるめれ」と言ふも息の下なり。
 消えまどへる気色、いと心苦しくらうたげなれば、をかしと見たまひて、


 「違ふべくもあらぬ心のしるべを、思はずにもおぼめいたまふかな。好きがましきさまには、よに見えたてまつらじ。思ふことすこし聞こゆべきぞ」


 とて、いと小さやかなれば、かき抱きて障子のもと出でたまふにぞ、求めつる中将だつ人来あひたる。


 「やや」とのたまふに、あやしくて探り寄りたるにぞ、いみじく匂ひみちて、顔にもくゆりかかる心地するに、思ひ寄りぬ。あさましう、こはいかなることぞと思ひまどはるれど、聞こえむ方なし。並々の人ならばこそ、荒らかにも引きかなぐらめ、それだに人のあまた知らむは、いかがあらむ。心も騷ぎて、慕ひ来たれど、動もなくて、奥なる御座に入りたまひぬ。


 障子をひきたてて、「暁に御迎へにものせよ」とのたまへば、女は、この人の思ふらむことさへ、死ぬばかりわりなきに、流るるまで汗になりて、いと悩ましげなる、いとほしけれど、例の、いづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ、あはれ知らるばかり、情け情けしくのたまひ尽くすべかめれど、なほいとあさましきに、


 「現ともおぼえずこそ。数ならぬ身ながらも、思しくたしける御心ばへのほども、いかが浅くは思うたまへざらむ。いとかやうなる際は、際とこそはべなれ」


 とて、かくおし立ちたまへるを、深く情けなく憂しと思ひ入りたるさまも、げにいとほしく、心恥づかしきけはひなれば、


 「その際々を、まだ知らぬ、初事ぞや。なかなか、おしなべたる列に思ひなしたまへるなむうたてありける。おのづから聞きたまふやうもあらむ。あながちなる好き心は、さらにならはぬを。さるべきにや、げに、かくあはめられたてまつるも、ことわりなる心まどひを、みづからもあやしきまでなむ」


 など、まめだちてよろづにのたまへど、いとたぐひなき御ありさまの、いよいようちとけきこえむことわびしければ、すくよかに心づきなしとは見えたてまつるとも、さる方の言ふかひなきにて過ぐしてむと思ひて、つれなくのみもてなしたり。人柄のたをやぎたるに、強き心をしひて加へたれば、なよ竹の心地して、さすがに折るべくもあらず。


 まことに心やましくて、あながちなる御心ばへを、言ふ方なしと思ひて、泣くさまなど、いとあはれなり。心苦しくはあれど、見ざらましかば口惜しからまし、と思す。慰めがたく、憂しと思へれば、


 「など、かく疎ましきものにしも思すべき。おぼえなきさまなるしもこそ、契りあるとは思ひたまはめ。むげに世を思ひ知らぬやうに、おぼほれたまふなむ、いとつらき」と恨みられて、


 「いとかく憂き身のほどの定まらぬ、ありしながらの身にて、かかる御心ばへを見ましかば、あるまじき我が頼みにて、見直したまふ後瀬をも思ひたまへ慰めましを、いとかう仮なる浮き寝のほどを思ひはべるに、たぐひなく思うたまへ惑はるるなり。よし、今は見きとなかけそ」


 とて、思へるさま、げにいとことわりなり。おろかならず契り慰めたまふこと多かるべし。


 鶏も鳴きぬ。人びと起き出でて、


 「いといぎたなかりける夜かな」
 「御車ひき出でよ」


 など言ふなり。守も出で来て、


 「女などの御方違へこそ。夜深く急がせたまふべきかは」など言ふもあり。


 君は、またかやうのついであらむこともいとかたく、さしはへてはいかでか、御文なども通はむことのいとわりなきを思すに、いと胸いたし。奥の中将も出でて、いと苦しがれば、許したまひても、また引きとどめたまひつつ、


 「いかでか、聞こゆべき。世に知らぬ御心のつらさも、あはれも、浅からぬ世の思ひ出では、さまざまめづらかなるべき例かな」


 とて、うち泣きたまふ気色、いとなまめきたり。
 鶏もしばしば鳴くに、心あわたたしくて、


 「つれなきを恨みも果てぬしののめに
  とりあへぬまでおどろかすらむ」


 女、身のありさまを思ふに、いとつきなくまばゆき心地して、めでたき御もてなしも、何ともおぼえず、常はいとすくすくしく心づきなしと思ひあなづる伊予の方の思ひやられて、「夢にや見ゆらむ」と、そら恐ろしくつつまし。


 「身の憂さを嘆くにあかで明くる夜は
  とり重ねてぞ音もなかれける」


 ことと明くなれば、障子口まで送りたまふ。内も外も人騒がしければ、引き立てて、別れたまふほど、心細く、隔つる関と見えたり。


 御直衣など着たまひて、南の高欄にしばしうち眺めたまふ。西面の格子そそき上げて、人びと覗くべかめる。簀子の中のほどに立てたる小障子の上より仄かに見えたまへる御ありさまを、身にしむばかり思へる好き心どもあめり。


 月は有明にて、光をさまれるものから、かげけざやかに見えて、なかなかをかしき曙なり。何心なき空のけしきも、ただ見る人から、艶にもすごくも見ゆるなりけり。人知れぬ御心には、いと胸いたく、言伝てやらむよすがだになきをと、かへりみがちにて出でたまひぬ。


 殿に帰りたまひても、とみにもまどろまれたまはず。またあひ見るべき方なきを、まして、かの人の思ふらむ心の中、いかならむと、心苦しく思ひやりたまふ。「すぐれたることはなけれど、めやすくもてつけてもありつる中の品かな。隈なく見集めたる人の言ひしことは、げに」と思し合はせられけり。


 このほどは大殿にのみおはします。なほいとかき絶えて、思ふらむことのいとほしく御心にかかりて、苦しく思しわびて、紀伊守を召したり。


 「かの、ありし中納言の子は、得させてむや。らうたげに見えしを。身近く使ふ人にせむ。主上にも我奉らむ」とのたまへば、


 「いとかしこき仰せ言にはべるなり。姉なる人にのたまひみむ」


 と申すも、胸つぶれて思せど、


 「その姉君は、朝臣の弟や持たる」


 「さもはべらず。この二年ばかりぞ、かくてものしはべれど、親のおきてに違へりと思ひ嘆きて、心ゆかぬやうになむ、聞きたまふる」


 「あはれのことや。よろしく聞こえし人ぞかし。まことによしや」とのたまへば、


 「けしうははべらざるべし。もて離れてうとうとしくはべれば、世のたとひにて、睦びはべらず」と申す。


 さて、五六日ありて、この子率て参れり。こまやかにをかしとはなけれど、なまめきたるさまして、あて人と見えたり。召し入れて、いとなつかしく語らひたまふ。童心地に、いとめでたくうれしと思ふ。いもうとの君のことも詳しく問ひたまふ。さるべきことは答へ聞こえなどして、恥づかしげにしづまりたれば、うち出でにくし。されど、いとよく言ひ知らせたまふ。


 かかることこそはと、ほの心得るも、思ひの外なれど、幼な心地に深くしもたどらず。御文を持て来たれば、女、あさましきに涙も出で来ぬ。この子の思ふらむこともはしたなくて、さすがに、御文を面隠しに広げたり。いと多くて、


 「見し夢を逢ふ夜ありやと嘆くまに
  目さへあはでぞころも経にける
 寝る夜なければ」


 など、目も及ばぬ御書きざまも、霧り塞がりて、心得ぬ宿世うち添へりける身を思ひ続けて臥したまへり。


 またの日、小君召したれば、参るとて御返り乞ふ。


 「かかる御文見るべき人もなし、と聞こえよ」


 とのたまへば、うち笑みて、


 「違ふべくものたまはざりしものを。いかが、さは申さむ」


 と言ふに、心やましく、残りなくのたまはせ、知らせてけると思ふに、つらきこと限りなし。


 「いで、およすけたることは言はぬぞよき。さは、な参りたまひそ」とむつかられて、


 「召すには、いかでか」とて、参りぬ。


 紀伊守、好き心にこの継母のありさまをあたらしきものに思ひて、追従しありけば、この子をもてかしづきて、率てありく。


 君、召し寄せて、


 「昨日待ち暮らししを。なほあひ思ふまじきなめり」


 と怨じたまへば、顔うち赤めてゐたり。


 「いづら」とのたまふに、しかしかと申すに、


 「言ふかひなのことや。あさまし」とて、またも賜へり。


 「あこは知らじな。その伊予の翁よりは、先に見し人ぞ。されど、頼もしげなく頚細しとて、ふつつかなる後見まうけて、かく侮りたまふなめり。さりとも、あこはわが子にてをあれよ。この頼もし人は、行く先短かりなむ」


 とのたまへば、「さもやありけむ、いみじかりけることかな」と思へる、「をかし」と思す。


 この子をまつはしたまひて、内裏にも率て参りなどしたまふ。わが御匣殿にのたまひて、装束などもせさせ、まことに親めきてあつかひたまふ。


 御文は常にあり。されど、この子もいと幼し、心よりほかに散りもせば、軽々しき名さへとり添へむ、身のおぼえをいとつきなかるべく思へば、めでたきこともわが身からこそと思ひて、うちとけたる御答へも聞こえず。ほのかなりし御けはひありさまは、「げに、なべてにやは」と、思ひ出できこえぬにはあらねど、「をかしきさまを見えたてまつりても、何にかはなるべき」など、思ひ返すなりけり。


 君は思しおこたる時の間もなく、心苦しくも恋しくも思し出づ。思へりし気色などのいとほしさも、晴るけむ方なく思しわたる。軽々しく這ひ紛れ立ち寄りたまはむも、人目しげからむ所に、便なき振る舞ひやあらはれむと、人のためもいとほしく、と思しわづらふ。


 例の、内裏に日数経たまふころ、さるべき方の忌み待ち出でたまふ。にはかにまかでたまふまねして、道のほどよりおはしましたり。


 紀伊守おどろきて、遣水の面目とかしこまり喜ぶ。小君には、昼より、「かくなむ思ひよれる」とのたまひ契れり。明け暮れまつはし馴らしたまひければ、今宵もまづ召し出でたり。


 女も、さる御消息ありけるに、思したばかりつらむほどは、浅くしも思ひなされねど、さりとて、うちとけ、人げなきありさまを見えたてまつりても、あぢきなく、夢のやうにて過ぎにし嘆きを、またや加へむ、と思ひ乱れて、なほさて待ちつけきこえさせむことのまばゆければ、小君が出でて往ぬるほどに、


 「いとけ近ければ、かたはらいたし。なやましければ、忍びてうち叩かせなどせむに、ほど離れてを」


 とて、渡殿に、中将といひしが局したる隠れに、移ろひぬ。


 さる心して、人とく静めて、御消息あれど、小君は尋ねあはず。よろづの所求め歩きて、渡殿に分け入りて、からうしてたどり来たり。いとあさましくつらし、と思ひて、


 「いかにかひなしと思さむ」と、泣きぬばかり言へば、


 「かく、けしからぬ心ばへは、つかふものか。幼き人のかかること言ひ伝ふるは、いみじく忌むなるものを」と言ひおどして、「『心地悩ましければ、人びと避けずおさへさせてなむ』と聞こえさせよ。あやしと誰も誰も見るらむ」


 と言ひ放ちて、心の中には、「いと、かく品定まりぬる身のおぼえならで、過ぎにし親の御けはひとまれるふるさとながら、たまさかにも待ちつけたてまつらば、をかしうもやあらまし。しひて思ひ知らぬ顔に見消つも、いかにほど知らぬやうに思すらむ」と、心ながらも、胸いたく、さすがに思ひ乱る。「とてもかくても、今は言ふかひなき宿世なりければ、無心に心づきなくて止みなむ」と思ひ果てたり。


 君は、いかにたばかりなさむと、まだ幼きをうしろめたく待ち臥したまへるに、不用なるよしを聞こゆれば、あさましくめづらかなりける心のほどを、「身もいと恥づかしくこそなりぬれ」と、いといとほしき御気色なり。とばかりものものたまはず、いたくうめきて、憂しと思したり。


 「帚木の心を知らで園原の
  道にあやなく惑ひぬるかな
 聞こえむ方こそなけれ」


 とのたまへり。女も、さすがに、まどろまざりければ、


 「数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さに
  あるにもあらず消ゆる帚木」
 と聞こえたり。


 小君、いといとほしさに眠たくもあらでまどひ歩くを、人あやしと見るらむ、とわびたまふ。


 例の、人びとはいぎたなきに、一所すずろにすさまじく思し続けらるれど、人に似ぬ心ざまの、なほ消えず立ち上れりける、とねたく、かかるにつけてこそ心もとまれと、かつは思しながら、めざましくつらければ、さばれと思せども、さも思し果つまじく、


 「隠れたらむ所に、なほ率て行け」とのたまへど、


 「いとむつかしげにさし籠められて、人あまたはべるめれば、かしこげに」


 と聞こゆ。いとほしと思へり。


 「よし、あこだに、な捨てそ」


 とのたまひて、御かたはらに臥せたまへり。若くなつかしき御ありさまを、うれしくめでたしと思ひたれば、つれなき人よりは、なかなかあはれに思さるとぞ。


   

 

            現代語訳 補足 目次

      三、 空 蝉
 


   
 

 寝られたまはぬままには、「我は、かく人に憎まれてもならはぬを、今宵なむ、初めて憂しと世を思ひ知りぬれば、恥づかしくて、ながらふまじうこそ、思ひなりぬれ」などのたまへば、涙をさへこぼして臥したり。いとらうたしと思す。手さぐりの、細く小さきほど、髪のいと長からざりしけはひのさまかよひたるも、思ひなしにやあはれなり。あながちにかかづらひたどり寄らむも、人悪ろかるべく、まめやかにめざましと思し明かしつつ、例のやうにものたまひまつはさず。夜深う出でたまへば、この子は、いといとほしく、さうざうしと思ふ。


 女も、並々ならずかたはらいたしと思ふに、御消息も絶えてなし。思し懲りにけると思ふにも、「やがてつれなくて止みたまひなましかば憂からまし。しひていとほしき御振る舞ひの絶えざらむもうたてあるべし。よきほどに、かくて閉ぢめてむ」と思ふものから、ただならず、ながめがちなり。


 君は、心づきなしと思しながら、かくてはえ止むまじう御心にかかり、人悪ろく思ほしわびて、小君に、「いとつらうも、うれたうもおぼゆるに、しひて思ひ返せど、心にしも従はず苦しきを。さりぬべきをり見て、対面すべくたばかれ」とのたまひわたれば、わづらはしけれど、かかる方にても、のたまひまつはすは、うれしうおぼえけり。


 [第二段 源氏、再度、紀伊守邸へ]
 幼き心地に、いかならむ折と待ちわたるに、紀伊守国に下りなどして、女どちのどやかなる夕闇の道たどたどしげなる紛れに、わが車にて率てたてまつる。


 この子も幼きを、いかならむと思せど、さのみもえ思しのどむまじければ、さりげなき姿にて、門など鎖さぬ先にと、急ぎおはす。


 人見ぬ方より引き入れて、降ろしたてまつる。童なれば、宿直人などもことに見入れ追従せず、心やすし。


 東の妻戸に、立てたてまつりて、我は南の隅の間より、格子叩きののしりて入りぬ。御達、


 「あらはなり」と言ふなり。


 「なぞ、かう暑きに、この格子は下ろされたる」と問へば、


 「昼より、西の御方の渡らせたまひて、碁打たせたまふ」と言ふ。


 さて向かひゐたらむを見ばや、と思ひて、やをら歩み出でて、簾のはさまに入りたまひぬ。


 この入りつる格子はまだ鎖さねば、隙見ゆるに、寄りて西ざまに見通したまへば、この際に立てたる屏風、端の方おし畳まれたるに、紛るべき几帳なども、暑ければにや、うち掛けて、いとよく見入れらる。


 [第三段 空蝉と軒端荻、碁を打つ]


 火近う灯したり。母屋の中柱に側める人やわが心かくると、まづ目とどめたまへば、濃き綾の単衣襲なめり。何にかあらむ表に着て、頭つき細やかに小さき人の、ものげなき姿ぞしたる。顔などは、差し向かひたらむ人などにも、わざと見ゆまじうもてなしたり。手つき痩せ痩せにて、いたうひき隠しためり。


 いま一人は、東向きにて、残るところなく見ゆ。白き羅の単衣襲、二藍の小袿だつもの、ないがしろに着なして、紅の腰ひき結へる際まで胸あらはに、ばうぞくなるもてなしなり。いと白うをかしげに、つぶつぶと肥えて、そぞろかなる人の、頭つき額つきものあざやかに、まみ口つき、いと愛敬づき、はなやかなる容貌なり。髪はいとふさやかにて、長くはあらねど、下り端、肩のほどきよげに、すべていとねぢけたるところなく、をかしげなる人と見えたり。


 むべこそ親の世になくは思ふらめと、をかしく見たまふ。心地ぞ、なほ静かなる気を添へばやと、ふと見ゆる。かどなきにはあるまじ。碁打ち果てて、結さすわたり、心とげに見えて、きはぎはとさうどけば、奥の人はいと静かにのどとめて、


 「待ちたまへや。そこは持にこそあらめ。このわたりの劫をこそ」など言へど、


 「いで、このたびは負けにけり。隅のところ、いでいで」と指をかがめて、「十、二十、三十、四十」などかぞふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ。すこし品おくれたり。


 たとしへなく口おほひて、さやかにも見せねど、目をしつけたまへれば、おのづから側目も見ゆ。目すこし腫れたる心地して、鼻などもあざやかなるところなうねびれて、にほはしきところも見えず。言ひ立つれば、悪ろきによれる容貌をいといたうもてつけて、このまされる人よりは心あらむと、目とどめつべきさましたり。


 にぎははしう愛敬づきをかしげなるを、いよいよほこりかにうちとけて、笑ひなどそぼるれば、にほひ多く見えて、さる方にいとをかしき人ざまなり。あはつけしとは思しながら、まめならぬ御心は、これもえ思し放つまじかりけり。


 見たまふかぎりの人は、うちとけたる世なく、ひきつくろひ側めたるうはべをのみこそ見たまへ、かくうちとけたる人のありさまかいま見などは、まだしたまはざりつることなれば、何心もなうさやかなるはいとほしながら、久しう見たまはまほしきに、小君出で来る心地すれば、やをら出でたまひぬ。


 渡殿の戸口に寄りゐたまへり。いとかたじけなしと思ひて、


 「例ならぬ人はべりて、え近うも寄りはべらず」


 「さて、今宵もや帰してむとする。いとあさましう、からうこそあべけれ」とのたまへば、


 「などてか。あなたに帰りはべりなば、たばかりはべりなむ」と聞こゆ。


 「さもなびかしつべき気色にこそはあらめ。童なれど、ものの心ばへ、人の気色見つべくしづまれるを」と、思すなりけり。


 碁打ち果てつるにやあらむ、うちそよめく心地して、人びとあかるるけはひなどすなり。


 「若君はいづくにおはしますならむ。この御格子は鎖してむ」とて、鳴らすなり。


 「静まりぬなり。入りて、さらば、たばかれ」とのたまふ。


 この子も、いもうとの御心はたわむところなくまめだちたれば、言ひあはせむ方なくて、人少なならむ折に入れたてまつらむと思ふなりけり。


 「紀伊守の妹もこなたにあるか。我にかいま見せさせよ」とのたまへど、


 「いかでか、さははべらむ。格子には几帳添へてはべり」と聞こゆ。


 さかし、されどもをかしく思せど、「見つとは知らせじ、いとほし」と思して、夜更くることの心もとなさをのたまふ。


 こたみは妻戸を叩きて入る。皆人びと静まり寝にけり。


 「この障子口に、まろは寝たらむ。風吹きとほせ」とて、畳広げて臥す。御達、東の廂にいとあまた寝たるべし。戸放ちつる童もそなたに入りて臥しぬれば、とばかり空寝して、灯明かき方に屏風を広げて、影ほのかなるに、やをら入れたてまつる。


 「いかにぞ、をこがましきこともこそ」と思すに、いとつつましけれど、導くままに、母屋の几帳の帷子引き上げて、いとやをら入りたまふとすれど、皆静まれる夜の、御衣のけはひやはらかなるしも、いとしるかりけり。


 [第四段 空蝉逃れ、源氏、軒端荻と契る]


 女は、さこそ忘れたまふをうれしきに思ひなせど、あやしく夢のやうなることを、心に離るる折なきころにて、心とけたる寝だに寝られずなむ、昼はながめ、夜は寝覚めがちなれば、春ならぬ木の芽も、いとなく嘆かしきに、碁打ちつる君、「今宵は、こなたに」と、今めかしくうち語らひて、寝にけり。


 若き人は、何心なくいとようまどろみたるべし。かかるけはひの、いと香ばしくうち匂ふに、顔をもたげたるに、単衣うち掛けたる几帳の隙間に、暗けれど、うち身じろき寄るけはひ、いとしるし。あさましくおぼえて、ともかくも思ひ分かれず、やをら起き出でて、生絹なる単衣を一つ着て、すべり出でにけり。


 君は入りたまひて、ただひとり臥したるを心やすく思す。床の下に二人ばかりぞ臥したる。衣を押しやりて寄りたまへるに、ありしけはひよりは、ものものしくおぼゆれど、思ほしうも寄らずかし。いぎたなきさまなどぞ、あやしく変はりて、やうやう見あらはしたまひて、あさましく心やましけれど、「人違へとたどりて見えむも、をこがましく、あやしと思ふべし、本意の人を尋ね寄らむも、かばかり逃るる心あめれば、かひなう、をこにこそ思はめ」と思す。かのをかしかりつる灯影ならば、いかがはせむに思しなるも、悪ろき御心浅さなめりかし。


 やうやう目覚めて、いとおぼえずあさましきに、あきれたる気色にて、何の心深くいとほしき用意もなし。世の中をまだ思ひ知らぬほどよりは、さればみたる方にて、あえかにも思ひまどはず。我とも知らせじと思ほせど、いかにしてかかかることぞと、後に思ひめぐらさむも、わがためには事にもあらねど、あのつらき人の、あながちに名をつつむも、さすがにいとほしければ、たびたびの御方違へにことつけたまひしさまを、いとよう言ひなしたまふ。たどらむ人は心得つべけれど、まだいと若き心地に、さこそさし過ぎたるやうなれど、えしも思ひ分かず。


 憎しとはなけれど、御心とまるべきゆゑもなき心地して、なほかのうれたき人の心をいみじく思す。「いづくにはひ紛れて、かたくなしと思ひゐたらむ。かく執念き人はありがたきものを」と思すしも、あやにくに、紛れがたう思ひ出でられたまふ。この人の、なま心なく、若やかなるけはひもあはれなれば、さすがに情け情けしく契りおかせたまふ。


 「人知りたることよりも、かやうなるは、あはれも添ふこととなむ、昔人も言ひける。あひ思ひたまへよ。つつむことなきにしもあらねば、身ながら心にもえまかすまじくなむありける。また、さるべき人びとも許されじかしと、かねて胸いたくなむ。忘れで待ちたまへよ」など、なほなほしく語らひたまふ。


 「人の思ひはべらむことの恥づかしきになむ、え聞こえさすまじき」とうらもなく言ふ。


 「なべて、人に知らせばこそあらめ、この小さき上人に伝へて聞こえむ。気色なくもてなしたまへ」


 など言ひおきて、かの脱ぎすべしたると見ゆる薄衣を取りて出でたまひぬ。


 小君近う臥したるを起こしたまへば、うしろめたう思ひつつ寝ければ、ふとおどろきぬ。戸をやをら押し開くるに、老いたる御達の声にて、


 「あれは誰そ」


 とおどろおどろしく問ふ。わづらはしくて、


 「まろぞ」と答ふ。


 「夜中に、こは、なぞ外歩かせたまふ」


 とさかしがりて、外ざまへ来。いと憎くて、


 「あらず。ここもとへ出づるぞ」


 とて、君を押し出でたてまつるに、暁近き月、隈なくさし出でて、ふと人の影見えければ、


 「またおはするは、誰そ」と問ふ。


 「民部のおもとなめり。けしうはあらぬおもとの丈だちかな」


 と言ふ。丈高き人の常に笑はるるを言ふなりけり。老人、これを連ねて歩きけると思ひて、


 「今、ただ今立ちならびたまひなむ」


 と言ふ言ふ、我もこの戸より出でて来。わびしければ、えはた押し返さで、渡殿の口にかい添ひて隠れ立ちたまへれば、このおもとさし寄りて、


 「おもとは、今宵は、上にやさぶらひたまひつる。一昨日より腹を病みて、いとわりなければ、下にはべりつるを、人少ななりとて召ししかば、昨夜参う上りしかど、なほえ堪ふまじくなむ」


 と、憂ふ。答へも聞かで、


 「あな、腹々。今聞こえむ」とて過ぎぬるに、からうして出でたまふ。なほかかる歩きは軽々しくあやしかりけりと、いよいよ思し懲りぬべし。


 [第五段 源氏、空蝉の脱ぎ捨てた衣を持って帰る]


 小君、御車の後にて、二条院におはしましぬ。ありさまのたまひて、「幼かりけり」とあはめたまひて、かの人の心を爪弾きをしつつ恨みたまふ。いとほしうて、ものもえ聞こえず。


 「いと深う憎みたまふべかめれば、身も憂く思ひ果てぬ。などか、よそにても、なつかしき答へばかりはしたまふまじき。伊予介に劣りける身こそ」


 など、心づきなしと思ひてのたまふ。ありつる小袿を、さすがに、御衣の下に引き入れて、大殿籠もれり。小君を御前に臥せて、よろづに恨み、かつは、語らひたまふ。


 「あこは、らうたけれど、つらきゆかりにこそ、え思ひ果つまじけれ」


 とまめやかにのたまふを、いとわびしと思ひたり。


 しばしうち休みたまへど、寝られたまはず。御硯急ぎ召して、さしはへたる御文にはあらで、畳紙に手習のやうに書きすさびたまふ。


 「空蝉の身をかへてける木のもとに
  なほ人がらのなつかしきかな」


 と書きたまへるを、懐に引き入れて持たり。かの人もいかに思ふらむと、いとほしけれど、かたがた思ほしかへして、御ことつけもなし。かの薄衣は、小袿のいとなつかしき人香に染めるを、身近くならして見ゐたまへり。


 小君、かしこに行きたれば、姉君待ちつけて、いみじくのたまふ。


 「あさましかりしに、とかう紛らはしても、人の思ひけむことさりどころなきに、いとなむわりなき。いとかう心幼きを、かつはいかに思ほすらむ」


 とて、恥づかしめたまふ。左右に苦しう思へど、かの御手習取り出でたり。さすがに、取りて見たまふ。かのもぬけを、いかに、伊勢をの海人のしほなれてや、など思ふもただならず、いとよろづに乱れて。


 西の君も、もの恥づかしき心地してわたりたまひにけり。また知る人もなきことなれば、人知れずうちながめてゐたり。小君の渡り歩くにつけても、胸のみ塞がれど、御消息もなし。あさましと思ひ得る方もなくて、されたる心に、ものあはれなるべし。


 つれなき人も、さこそしづむれ、いとあさはかにもあらぬ御気色を、ありしながらのわが身ならばと、取り返すものならねど、忍びがたければ、この御畳紙の片つ方に、


 「空蝉の羽に置く露の木隠れて
  忍び忍びに濡るる袖かな」


    夕 顔
光る源氏の十七歳夏から立冬の日までの物語

第一章 夕顔の物語 夏の物語
 [第一段 源氏、五条の大弐乳母を見舞う]

 六条わたりの御忍び歩きのころ、内裏よりまかでたまふ中宿に、大弐の乳母のいたくわづらひて尼になりにける、とぶらはむとて、五条なる家尋ねておはしたり。


 御車入るべき門は鎖したりければ、人して惟光召させて、待たせたまひけるほど、むつかしげなる大路のさまを見わたしたまへるに、この家のかたはらに、桧垣といふもの新しうして、上は半蔀四五間ばかり上げわたして、簾などもいと白う涼しげなるに、をかしき額つきの透影、あまた見えて覗く。立ちさまよふらむ下つ方思ひやるに、あながちに丈高き心地ぞする。いかなる者の集へるならむと、やうかはりて思さる。


 御車もいたくやつしたまへり、前駆も追はせたまはず、誰れとか知らむとうちとけたまひて、すこしさし覗きたまへれば、門は蔀のやうなる、押し上げたる、見入れのほどなく、ものはかなき住まひを、あはれに、「何処かさして」と思ほしなせば、玉の台も同じことなり。


 切懸だつ物に、いと青やかなる葛の心地よげに這ひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり笑みの眉開けたる。


 「遠方人にもの申す」


 と独りごちたまふを、御隋身ついゐて、


 「かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる。花の名は人めきて、かうあやしき垣根になむ咲きはべりける」


 と申す。げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひて、むねむねしからぬ軒のつまなどに這ひまつはれたるを、


 「口惜しの花の契りや。一房折りて参れ」


 とのたまへば、この押し上げたる門に入りて折る。
 さすがに、されたる遣戸口に、黄なる生絹の単袴、長く着なしたる童の、をかしげなる出で来て、うち招く。白き扇のいたうこがしたるを、


 「これに置きて参らせよ。枝も情けなげなめる花を」


 とて取らせたれば、門開けて惟光朝臣出で来たるして、奉らす。


 「鍵を置きまどはしはべりて、いと不便なるわざなりや。もののあやめ見たまへ分くべき人もはべらぬわたりなれど、らうがはしき大路に立ちおはしまして」とかしこまり申す。


 引き入れて、下りたまふ。惟光が兄の阿闍梨、婿の三河守、娘など、渡り集ひたるほどに、かくおはしましたる喜びを、またなきことにかしこまる。


 尼君も起き上がりて、


 「惜しげなき身なれど、捨てがたく思うたまへつることは、ただ、かく御前にさぶらひ、御覧ぜらるることの変りはべりなむことを口惜しく思ひたまへ、たゆたひしかど、忌むことのしるしによみがへりてなむ、かく渡りおはしますを、見たまへはべりぬれば、今なむ阿弥陀仏の御光も、心清く待たれはべるべき」


 など聞こえて、弱げに泣く。


 「日ごろ、おこたりがたくものせらるるを、安からず嘆きわたりつるに、かく、世を離るるさまにものしたまへば、いとあはれに口惜しうなむ。命長くて、なほ位高くなど見なしたまへ。さてこそ、九品の上にも、障りなく生まれたまはめ。この世にすこし恨み残るは、悪ろきわざとなむ聞く」など、涙ぐみてのたまふ。


 かたほなるをだに、乳母やうの思ふべき人は、あさましうまほに見なすものを、まして、いと面立たしう、なづさひ仕うまつりけむ身も、いたはしうかたじけなく思ほゆべかめれば、すずろに涙がちなり。


 子どもは、いと見苦しと思ひて、「背きぬる世の去りがたきやうに、みづからひそみ御覧ぜられたまふ」と、つきしろひ目くはす。


 君は、いとあはれと思ほして、


 「いはけなかりけるほどに、思ふべき人びとのうち捨ててものしたまひにけるなごり、育む人あまたあるやうなりしかど、親しく思ひ睦ぶる筋は、またなくなむ思ほえし。人となりて後は、限りあれば、朝夕にしもえ見たてまつらず、心のままに訪らひ参づることはなけれど、なほ久しう対面せぬ時は、心細くおぼゆるを、『さらぬ別れはなくもがな』」


 となむ、こまやかに語らひたまひて、おし拭ひたまへる袖のにほひも、いと所狭きまで薫り満ちたるに、げに、よに思へば、おしなべたらぬ人の御宿世ぞかしと、尼君をもどかしと見つる子ども、皆うちしほたれけり。


 修法など、またまた始むべきことなど掟てのたまはせて、出でたまふとて、惟光に紙燭召して、ありつる扇御覧ずれば、もて馴らしたる移り香、いと染み深うなつかしくて、をかしうすさみ書きたり。


 「心あてにそれかとぞ見る白露の
  光そへたる夕顔の花」


 そこはかとなく書き紛らはしたるも、あてはかにゆゑづきたれば、いと思ひのほかに、をかしうおぼえたまふ。惟光に、


 「この西なる家は何人の住むぞ。問ひ聞きたりや」


 とのたまへば、例のうるさき御心とは思へども、えさは申さで、


 「この五、六日ここにはべれど、病者のことを思うたまへ扱ひはべるほどに、隣のことはえ聞きはべらず」


 など、はしたなやかに聞こゆれば、


 「憎しとこそ思ひたれな。されど、この扇の、尋ぬべきゆゑありて見ゆるを。なほ、このわたりの心知れらむ者を召して問へ」


 とのたまへば、入りて、この宿守なる男を呼びて問ひ聞く。


 「揚名介なる人の家になむはべりける。男は田舎にまかりて、妻なむ若く事好みて、はらからなど宮仕人にて来通ふ、と申す。詳しきことは、下人のえ知りはべらぬにやあらむ」と聞こゆ。


 「さらば、その宮仕人ななり。したり顔にもの馴れて言へるかな」と、「めざましかるべき際にやあらむ」と思せど、さして聞こえかかれる心の、憎からず過ぐしがたきぞ、例の、この方には重からぬ御心なめるかし。御畳紙にいたうあらぬさまに書き変へたまひて、


 「寄りてこそそれかとも見めたそかれに
  ほのぼの見つる花の夕顔」


 ありつる御随身して遣はす。


 まだ見ぬ御さまなりけれど、いとしるく思ひあてられたまへる御側目を見過ぐさで、さしおどろかしけるを、答へたまはでほど経ければ、なまはしたなきに、かくわざとめかしければ、あまえて、「いかに聞こえむ」など言ひしろふべかめれど、めざましと思ひて、随身は参りぬ。


 御前駆の松明ほのかにて、いと忍びて出でたまふ。半蔀は下ろしてけり。隙々より見ゆる灯の光、蛍よりけにほのかにあはれなり。


 御心ざしの所には、木立前栽など、なべての所に似ず、いとのどかに心にくく住みなしたまへり。うちとけぬ御ありさまなどの、気色ことなるに、ありつる垣根思ほし出でらるべくもあらずかし。


 翌朝、すこし寝過ぐしたまひて、日さし出づるほどに出でたまふ。朝明の姿は、げに人のめできこえむも、ことわりなる御さまなりけり。


 今日もこの蔀の前渡りしたまふ。来し方も過ぎたまひけむわたりなれど、ただはかなき一ふしに御心とまりて、「いかなる人の住み処ならむ」とは、往き来に御目とまりたまひけり。


 [第二段 数日後、夕顔の宿の報告]


 惟光、日頃ありて参れり。


「わづらひはべる人、なほ弱げにはべれば、とかく見たまへあつかひてなむ」


など、聞こえて、近く参り寄りて聞こゆ。


「仰せられしのちなむ、隣のこと知りてはべる者、呼びて問はせはべりしかど、はかばかしくも申しはべらず。『いと忍びて、五月のころほひよりものしたまふ人なむあるべけれど、その人とは、さらに家の内の人にだに知らせず』となむ申す。
 時々、中垣のかいま見しはべるに、げに若き女どもの透影見えはべり。褶だつもの、かごとばかり引きかけて、かしづく人はべるなめり。
 昨日、夕日のなごりなくさし入りてはべりしに、文書くとてゐてはべりし人の、顔こそいとよくはべりしか。もの思へるけはひして、ある人びとも忍びてうち泣くさまなどなむ、しるく見えはべる」


 と聞こゆ。君うち笑みたまひて、「知らばや」と思ほしたり。


 おぼえこそ重かるべき御身のほどなれど、御よはひのほど、人のなびきめできこえたるさまなど思ふには、好きたまはざらむも、情けなくさうざうしかるべしかし、人のうけひかぬほどにてだに、なほ、さりぬべきあたりのことは、このましうおぼゆるものを、と思ひをり。


 「もし、見たまへ得ることもやはべると、はかなきついで作り出でて、消息など遣はしたりき。書き馴れたる手して、口とく返り事などしはべりき。いと口惜しうはあらぬ若人どもなむはべるめる」


 と聞こゆれば、


 「なほ言ひ寄れ。尋ね寄らでは、さうざうしかりなむ」とのたまふ。


 かの、下が下と、人の思ひ捨てし住まひなれど、その中にも、思ひのほかに口惜しからぬを見つけたらばと、めづらしく思ほすなりけり。


 

第二章 空蝉の物語
 [第一段 空蝉の夫、伊予国から上京す]

 さて、かの空蝉のあさましくつれなきを、この世の人には違ひて思すに、おいらかならましかば、心苦しき過ちにてもやみぬべきを、いとねたく、負けてやみなむを、心にかからぬ折なし。かやうの並々までは思ほしかからざりつるを、ありし「雨夜の品定め」の後、いぶかしく思ほしなる品々あるに、いとど隈なくなりぬる御心なめりかし。


 うらもなく待ちきこえ顔なる片つ方人を、あはれと思さぬにしもあらねど、つれなくて聞きゐたらむことの恥づかしければ、「まづ、こなたの心見果てて」と思すほどに、伊予介上りぬ。


 まづ急ぎ参れり。舟路のしわざとて、すこし黒みやつれたる旅姿、いとふつつかに心づきなし。されど、人もいやしからぬ筋に、容貌などねびたれど、きよげにて、ただならず、気色よしづきてなどぞありける。


 国の物語など申すに、「湯桁はいくつ」と、問はまほしく思せど、あいなくまばゆくて、御心のうちに思し出づることもさまざまなり。


 「ものまめやかなる大人を、かく思ふも、げにをこがましく、うしろめたきわざなりや。げに、これぞ、なのめならぬ片はなべかりける」と、馬頭の諌め思し出でて、いとほしきに、「つれなき心はねたけれど、人のためは、あはれ」と思しなさる。


 「娘をばさるべき人に預けて、北の方をば率て下りぬべし」と、聞きたまふに、ひとかたならず心あわたたしくて、「今一度はえあるまじきことにや」と、小君を語らひたまへど、人の心を合せたらむことにてだに、軽らかにえしも紛れたまふまじきを、まして、似げなきことに思ひて、今さらに見苦しかるべし、と思ひ離れたり。


 さすがに、絶えて思ほし忘れなむことも、いと言ふかひなく、憂かるべきことに思ひて、さるべき折々の御答へなど、なつかしく聞こえつつ、なげの筆づかひにつけたる言の葉、あやしくらうたげに、目とまるべきふし加へなどして、あはれと思しぬべき人のけはひなれば、つれなくねたきものの、忘れがたきに思す。


 いま一方は、主強くなるとも、変らずうちとけぬべく見えしさまなるを頼みて、とかく聞きたまへど、御心も動かずぞありける。


 

第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語
 [第一段 霧深き朝帰りの物語]

 秋にもなりぬ。人やりならず、心づくしに思し乱るることどもありて、大殿には、絶え間置きつつ、恨めしくのみ思ひ聞こえたまへり。


 六条わたりにも、とけがたかりし御気色をおもむけ聞こえたまひて後、ひき返し、なのめならむはいとほしかし。されど、よそなりし御心惑ひのやうに、あながちなる事はなきも、いかなることにかと見えたり。


 女は、いとものをあまりなるまで、思ししめたる御心ざまにて、齢のほども似げなく、人の漏り聞かむに、いとどかくつらき御夜がれの寝覚め寝覚め、思ししをるること、いとさまざまなり。


 霧のいと深き朝、いたくそそのかされたまひて、ねぶたげなる気色に、うち嘆きつつ出でたまふを、中将のおもと、御格子一間上げて、見たてまつり送りたまへ、とおぼしく、御几帳引きやりたれば、御頭もたげて見出だしたまへり。


 前栽の色々乱れたるを、過ぎがてにやすらひたまへるさま、げにたぐひなし。廊の方へおはするに、中将の君、御供に参る。紫苑色の折にあひたる、羅の裳、鮮やかに引き結ひたる腰つき、たをやかになまめきたり。


 見返りたまひて、隅の間の高欄に、しばし、ひき据ゑたまへり。うちとけたらぬもてなし、髪の下がりば、めざましくも、と見たまふ。


 「咲く花に移るてふ名はつつめども
  折らで過ぎ憂き今朝の朝顔
 いかがすべき」


 とて、手をとらへたまへれば、いと馴れてとく、


 「朝霧の晴れ間も待たぬ気色にて
  花に心を止めぬとぞ見る」


 と、おほやけごとにぞ聞こえなす。


 をかしげなる侍童の、姿このましう、ことさらめきたる、指貫の裾、露けげに、花の中に混りて、朝顔折りて参るほどなど、絵に描かまほしげなり。


 大方に、うち見たてまつる人だに、心とめたてまつらぬはなし。物の情け知らぬ山がつも、花の蔭には、なほやすらはまほしきにや、この御光を見たてまつるあたりは、ほどほどにつけて、我がかなしと思ふ女を、仕うまつらせばやと願ひ、もしは、口惜しからずと思ふ妹など持たる人は、卑しきにても、なほ、この御あたりにさぶらはせむと、思ひ寄らぬはなかりけり。


 まして、さりぬべきついでの御言の葉も、なつかしき御気色を見たてまつる人の、すこし物の心思ひ知るは、いかがはおろかに思ひきこえむ。明け暮れうちとけてしもおはせぬを、心もとなきことに思ふべかめり。


  

第四章 夕顔の物語(2) 仲秋の物語
 [第一段 源氏、夕顔の宿に忍び通う]

  まことや、かの惟光が預かりのかいま見は、いとよく案内見とりて申す。


  「その人とは、さらにえ思ひえはべらず。人にいみじく隠れ忍ぶる気色になむ見えはべるを、つれづれなるままに、南の半蔀ある長屋にわたり来つつ、車の音すれば、若き者どもの覗きなどすべかめるに、この主とおぼしきも、はひわたる時はべかめる。容貌なむ、ほのかなれど、いとらうたげにはべる。


  一日、前駆追ひて渡る車のはべりしを、覗きて、童女の急ぎて、『右近の君こそ、まづ物見たまへ。中将殿こそ、これより渡りたまひぬれ』と言へば、また、よろしき大人出で来て、『あなかま』と、手かくものから、『いかでさは知るぞ、いで、見む』とて、はひ渡る。打橋だつものを道にてなむ通ひはべる。急ぎ来るものは、衣の裾を物に引きかけて、よろぼひ倒れて、橋よりも落ちぬべければ、『いで、この葛城の神こそ、さがしうしおきたれ』と、むつかりて、物覗きの心も冷めぬめりき。『君は、御直衣姿にて、御随身どももありし。なにがし、くれがし』と数へしは、頭中将の随身、その小舎人童をなむ、しるしに言ひはべりし」など聞こゆれば、


 「たしかにその車をぞ見まし」


 とのたまひて、「もし、かのあはれに忘れざりし人にや」と、思ほしよるも、いと知らまほしげなる御気色を見て、


 「私の懸想もいとよくしおきて、案内も残るところなく見たまへおきながら、ただ、我れどちと知らせて、物など言ふ若きおもとのはべるを、そらおぼれしてなむ、隠れまかり歩く。いとよく隠したりと思ひて、小さき子どもなどのはべるが言誤りしつべきも、言ひ紛らはして、また人なきさまを強ひてつくりはべる」など、語りて笑ふ。


 「尼君の訪ひにものせむついでに、かいま見せさせよ」とのたまひけり。


 かりにても、宿れる住ひのほどを思ふに、「これこそ、かの人の定め、あなづりし下の品ならめ。その中に、思ひの外にをかしきこともあらば」など、思すなりけり。


 惟光、いささかのことも御心に違はじと思ふに、おのれも隈なき好き心にて、いみじくたばかりまどひ歩きつつ、しひておはしまさせ初めてけり。このほどのこと、くだくだしければ、例のもらしつ。


 女、さしてその人と尋ね出でたまはねば、我も名のりをしたまはで、いとわりなくやつれたまひつつ、例ならず下り立ちありきたまふは、おろかに思されぬなるべし、と見れば、我が馬をばたてまつりて、御供に走りありく。


 「懸想人のいとものげなき足もとを、見つけられてはべらむ時、からくもあるべきかな」とわぶれど、人に知らせたまはぬままに、かの夕顔のしるべせし随身ばかり、さては、顔むげに知るまじき童一人ばかりぞ、率ておはしける。「もし思ひよる気色もや」とて、隣に中宿をだにしたまはず。


 女も、いとあやしく心得ぬ心地のみして、御使に人を添へ、暁の道をうかがはせ、御在処見せむと尋ぬれど、そこはことなくまどはしつつ、さすがに、あはれに見ではえあるまじく、この人の御心にかかりたれば、便なく軽々しきことと、思ほし返しわびつつ、いとしばしばおはします。


 かかる筋は、まめ人の乱るる折もあるを、いとめやすくしづめたまひて、人のとがめきこゆべき振る舞ひはしたまはざりつるを、あやしきまで、今朝のほど、昼間の隔ても、おぼつかなくなど、思ひわづらはれたまへば、かつは、いともの狂ほしく、さまで心とどむべきことのさまにもあらずと、いみじく思ひさましたまふに、人のけはひ、いとあさましくやはらかにおほどきて、もの深く重き方はおくれて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。いとやむごとなきにはあるまじ、いづくにいとかうしもとまる心ぞ、と返す返す思す。


 いとことさらめきて、御装束をもやつれたる狩の御衣をたてまつり、さまを変へ、顔をもほの見せたまはず、夜深きほどに、人をしづめて出で入りなどしたまへば、昔ありけむものの変化めきて、うたて思ひ嘆かるれど、人の御けはひ、はた、手さぐりもしるべきわざなりければ、「誰ればかりにかはあらむ。なほこの好き者のし出でつるわざなめり」と、大夫を疑ひながら、せめてつれなく知らず顔にて、かけて思ひよらぬさまに、たゆまずあざれありけば、いかなることにかと心得がたく、女方もあやしうやう違ひたるもの思ひをなむしける。


 [第二段 八月十五夜の逢瀬]


 君も、「かくうらなくたゆめてはひ隠れなば、いづこをはかりとか、我も尋ねむ。かりそめの隠れ処と、はた見ゆめれば、いづ方にもいづ方にも、移ろひゆかむ日を、いつとも知らじ」と思すに、追ひまどはして、なのめに思ひなしつべくは、ただかばかりのすさびにても過ぎぬべきことを、さらにさて過ぐしてむと思されず。


 人目を思して、隔ておきたまふ夜な夜ななどは、いと忍びがたく、苦しきまでおぼえたまへば、「なほ誰れとなくて二条院に迎へてむ。もし聞こえありて便なかるべきことなりとも、さるべきにこそは。我が心ながら、いとかく人にしむことはなきを、いかなる契りにかはありけむ」など思ほしよる。


 「いざ、いと心安き所にて、のどかに聞こえむ」


 など、語らひたまへば、


 「なほ、あやしう。かくのたまへど、世づかぬ御もてなしなれば、もの恐ろしくこそあれ」


 と、いと若びて言へば、「げに」と、ほほ笑まれたまひて、


 「げに、いづれか狐なるらむな。ただはかられたまへかし」


 と、なつかしげにのたまへば、女もいみじくなびきて、さもありぬべく思ひたり。「世になく、かたはなることなりとも、ひたぶるに従ふ心は、いとあはれげなる人」と見たまふに、なほ、かの頭中将の常夏疑はしく、語りし心ざま、まづ思ひ出でられたまへど、「忍ぶるやうこそは」と、あながちにも問ひ出でたまはず。


 気色ばみて、ふと背き隠るべき心ざまなどはなければ、「かれがれにとだえ置かむ折こそは、さやうに思ひ変ることもあらめ、心ながらも、すこし移ろふことあらむこそあはれなるべけれ」とさへ、思しけり。


 八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋、残りなく漏りて来て、見慣らひたまはぬ住まひのさまも珍しきに、暁近くなりにけるなるべし、隣の家々、あやしき賤の男の声々、目覚まして、


 「あはれ、いと寒しや」


 「今年こそ、なりはひにも頼むところすくなく、田舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ。北殿こそ、聞きたまふや」


 など、言ひ交はすも聞こゆ。


 いとあはれなるおのがじしの営みに起き出でて、そそめき騒ぐもほどなきを、女いと恥づかしく思ひたり。


 艶だち気色ばまむ人は、消えも入りぬべき住まひのさまなめりかし。されど、のどかに、つらきも憂きもかたはらいたきことも、思ひ入れたるさまならで、我がもてなしありさまは、いとあてはかにこめかしくて、またなくらうがはしき隣の用意なさを、いかなる事とも聞き知りたるさまならねば、なかなか、恥ぢかかやかむよりは、罪許されてぞ見えける。


 ごほごほと鳴る神よりもおどろおどろしく、踏み轟かす唐臼の音も枕上とおぼゆる。「あな、耳かしかまし」と、これにぞ思さるる。何の響きとも聞き入れたまはず、いとあやしうめざましき音なひとのみ聞きたまふ。くだくだしきことのみ多かり。


 白妙の衣うつ砧の音も、かすかにこなたかなた聞きわたされ、空飛ぶ雁の声、取り集めて、忍びがたきこと多かり。端近き御座所なりければ、遣戸を引き開けて、もろともに見出だしたまふ。ほどなき庭に、されたる呉竹、前栽の露は、なほかかる所も同じごときらめきたり。虫の声々乱りがはしく、壁のなかの蟋蟀だに間遠に聞き慣らひたまへる御耳に、さし当てたるやうに鳴き乱るるを、なかなかさまかへて思さるるも、御心ざし一つの浅からぬに、よろづの罪許さるるなめりかし。


 白き袷、薄色のなよよかなるを重ねて、はなやかならぬ姿、いとらうたげにあえかなる心地して、そこと取り立ててすぐれたることもなけれど、細やかにたをたをとして、ものうち言ひたるけはひ、「あな、心苦し」と、ただいとらうたく見ゆ。心ばみたる方をすこし添へたらば、と見たまひながら、なほうちとけて見まほしく思さるれば、


 「いざ、ただこのわたり近き所に、心安くて明かさむ。かくてのみは、いと苦しかりけり」とのたまへば、


 「いかでか。にはかならむ」


 と、いとおいらかに言ひてゐたり。この世のみならぬ契りなどまで頼めたまふに、うちとくる心ばへなど、あやしくやう変はりて、世馴れたる人ともおぼえねば、人の思はむ所もえ憚りたまはで、右近を召し出でて、随身を召させたまひて、御車引き入れさせたまふ。このある人びとも、かかる御心ざしのおろかならぬを見知れば、おぼめかしながら、頼みかけきこえたり。


 明け方も近うなりにけり。鶏の声などは聞こえで、御嶽精進にやあらむ、ただ翁びたる声にぬかづくぞ聞こゆる。起ち居のけはひ、堪へがたげに行ふ。いとあはれに、「朝の露に異ならぬ世を、何を貧る身の祈りにか」と、聞きたまふ。「南無当来導師」とぞ拝むなる。


 「かれ、聞きたまへ。この世とのみは思はざりけり」と、あはれがりたまひて、


 「優婆塞が行ふ道をしるべにて
  来む世も深き契り違ふな」


 長生殿の古き例はゆゆしくて、翼を交さむとは引きかへて、弥勒の世をかねたまふ。行く先の御頼め、いとこちたし。


 「前の世の契り知らるる身の憂さに
  行く末かねて頼みがたさよ」


 かやうの筋なども、さるは、心もとなかめり。


 [第三段 なにがしの院に移る]


 いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむことを、女は思ひやすらひ、とかくのたまふほど、にはかに雲隠れて、明け行く空いとをかし。はしたなきほどにならぬ先にと、例の急ぎ出でたまひて、軽らかにうち乗せたまへれば、右近ぞ乗りぬる。


 そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し。霧も深く、露けきに、簾をさへ上げたまへれば、御袖もいたく濡れにけり。


 「まだかやうなることを慣らはざりつるを、心尽くしなることにもありけるかな。


  いにしへもかくやは人の惑ひけむ
  我がまだ知らぬしののめの道


 慣らひたまへりや」


 とのたまふ。女、恥ぢらひて、


 「山の端の心も知らで行く月は
  うはの空にて影や絶えなむ
 心細く」


 とて、もの恐ろしうすごげに思ひたれば、「かのさし集ひたる住まひの慣らひならむ」と、をかしく思す。


 御車入れさせて、西の対に御座などよそふほど、高欄に御車ひきかけて立ちたまへり。右近、艶なる心地して、来し方のことなども、人知れず思ひ出でけり。預りいみじく経営しありく気色に、この御ありさま知りはてぬ。


 ほのぼのと物見ゆるほどに、下りたまひぬめり。かりそめなれど、清げにしつらひたり。


 「御供に人もさぶらはざりけり。不便なるわざかな」とて、むつましき下家司にて、殿にも仕うまつる者なりければ、参りよりて、「さるべき人召すべきにや」など、申さすれど、


 「ことさらに人来まじき隠れ家求めたるなり。さらに心よりほかに漏らすな」と口がためさせたまふ。


 御粥など急ぎ参らせたれど、取り次ぐ御まかなひうち合はず。まだ知らぬことなる御旅寝に、「息長川」と契りたまふことよりほかのことなし。


 日たくるほどに起きたまひて、格子手づから上げたまふ。いといたく荒れて、人目もなくはるばると見渡されて、木立いとうとましくものふりたり。け近き草木などは、ことに見所なく、みな秋の野らにて、池も水草に埋もれたれば、いとけうとげになりにける所かな。別納の方にぞ、曹司などして、人住むべかめれど、こなたは離れたり。


 「けうとくもなりにける所かな。さりとも、鬼なども我をば見許してむ」とのたまふ。


 顔はなほ隠したまへれど、女のいとつらしと思へれば、「げに、かばかりにて隔てあらむも、ことのさまに違ひたり」と思して、


 「夕露に紐とく花は玉鉾の
  たよりに見えし縁にこそありけれ
 露の光やいかに」


 とのたまへば、後目に見おこせて、


 「光ありと見し夕顔のうは露は
  たそかれ時のそら目なりけり」


 とほのかに言ふ。をかしと思しなす。げに、うちとけたまへるさま、世になく、所から、まいてゆゆしきまで見えたまふ。


 「尽きせず隔てたまへるつらさに、あらはさじと思ひつるものを。今だに名のりしたまへ。いとむくつけし」


 とのたまへど、「海人の子なれば」とて、さすがにうちとけぬさま、いとあいだれたり。


 「よし、これも我からなめり」と、怨みかつは語らひ、暮らしたまふ。


 惟光、尋ねきこえて、御くだものなど参らす。右近が言はむこと、さすがにいとほしければ、近くもえさぶらひ寄らず。「かくまでたどり歩きたまふ、をかしう、さもありぬべきありさまにこそは」と推し量るにも、「我がいとよく思ひ寄りぬべかりしことを、譲りきこえて、心ひろさよ」など、めざましう思ひをる。


 たとしへなく静かなる夕べの空を眺めたまひて、奥の方は暗うものむつかしと、女は思ひたれば、端の簾を上げて、添ひ臥したまへり。夕映えを見交はして、女も、かかるありさまを、思ひのほかにあやしき心地はしながら、よろづの嘆き忘れて、すこしうちとけゆく気色、いとらうたし。つと御かたはらに添ひ暮らして、物をいと恐ろしと思ひたるさま、若う心苦し。格子とく下ろしたまひて、大殿油参らせて、「名残りなくなりにたる御ありさまにて、なほ心のうちの隔て残したまへるなむつらき」と、恨みたまふ。


 「内裏に、いかに求めさせたまふらむを、いづこに尋ぬらむ」と、思しやりて、かつは、「あやしの心や。六条わたりにも、いかに思ひ乱れたまふらむ。恨みられむに、苦しう、ことわりなり」と、いとほしき筋は、まづ思ひきこえたまふ。何心もなきさしむかひを、あはれと思すままに、「あまり心深く、見る人も苦しき御ありさまを、すこし取り捨てばや」と、思ひ比べられたまひける。


 [第四段 夜半、もののけ現われる]


 宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上に、いとをかしげなる女ゐて、


 「己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かく、ことなることなき人を率ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」


 とて、この御かたはらの人をかき起こさむとす、と見たまふ。


 物に襲はるる心地して、おどろきたまへれば、火も消えにけり。うたて思さるれば、太刀を引き抜きて、うち置きたまひて、右近を起こしたまふ。これも恐ろしと思ひたるさまにて、参り寄れり。


 「渡殿なる宿直人起こして、『紙燭さして参れ』と言へ」とのたまへば、


 「いかでかまからむ。暗うて」と言へば、


 「あな、若々し」と、うち笑ひたまひて、手をたたきたまへば、山彦の答ふる声、いとうとまし。人え聞きつけで参らぬに、この女君、いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり。汗もしとどになりて、我かの気色なり。


 「物怖ぢをなむわりなくせさせたまふ本性にて、いかに思さるるにか」と、右近も聞こゆ。「いとか弱くて、昼も空をのみ見つるものを、いとほし」と思して、


 「我、人を起こさむ。手たたけば、山彦の答ふる、いとうるさし。ここに、しばし、近く」


 とて、右近を引き寄せたまひて、西の妻戸に出でて、戸を押し開けたまへれば、渡殿の火も消えにけり。


 風すこしうち吹きたるに、人は少なくて、さぶらふ限りみな寝たり。この院の預りの子、むつましく使ひたまふ若き男、また上童一人、例の随身ばかりぞありける。召せば、御答へして起きたれば、


 「紙燭さして参れ。『随身も、弦打して、絶えず声づくれ』と仰せよ。人離れたる所に、心とけて寝ぬるものか。惟光朝臣の来たりつらむは」と、問はせたまへば、


 「さぶらひつれど、仰せ言もなし。暁に御迎へに参るべきよし申してなむ、まかではべりぬる」と聞こゆ。この、かう申す者は、滝口なりければ、弓弦いとつきづきしくうち鳴らして、「火あやふし」と言ふ言ふ、預りが曹司の方に去ぬなり。内裏を思しやりて、「名対面は過ぎぬらむ、滝口の宿直奏し、今こそ」と、推し量りたまふは、まだ、いたう更けぬにこそは。


 帰り入りて、探りたまへば、女君はさながら臥して、右近はかたはらにうつぶし臥したり。


 「こはなぞ。あな、もの狂ほしの物怖ぢや。荒れたる所は、狐などやうのものの、人を脅やかさむとて、け恐ろしう思はするならむ。まろあれば、さやうのものには脅されじ」とて、引き起こしたまふ。


 「いとうたて、乱り心地の悪しうはべれば、うつぶし臥してはべるや。御前にこそわりなく思さるらめ」と言へば、


 「そよ。などかうは」とて、かい探りたまふに、息もせず。引き動かしたまへど、なよなよとして、我にもあらぬさまなれば、「いといたく若びたる人にて、物にけどられぬるなめり」と、せむかたなき心地したまふ。


 紙燭持て参れり。右近も動くべきさまにもあらねば、近き御几帳を引き寄せて、


 「なほ持て参れ」


 とのたまふ。例ならぬことにて、御前近くもえ参らぬ、つつましさに、長押にもえ上らず。


 「なほ持て来や、所に従ひてこそ」


 とて、召し寄せて見たまへば、ただこの枕上に、夢に見えつる容貌したる女、面影に見えて、ふと消え失せぬ。


 「昔の物語などにこそ、かかることは聞け」と、いとめづらかにむくつけけれど、まづ、「この人いかになりぬるぞ」と思ほす心騒ぎに、身の上も知られたまはず、添ひ臥して、「やや」と、おどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息は疾く絶え果てにけり。言はむかたなし。頼もしく、いかにと言ひ触れたまふべき人もなし。法師などをこそは、かかる方の頼もしきものには思すべけれど。さこそ強がりたまへど、若き御心にて、いふかひなくなりぬるを見たまふに、やるかたなくて、つと抱きて、


 「あが君、生き出でたまへ。いといみじき目な見せたまひそ」


 とのたまへど、冷え入りにたれば、けはひものうとくなりゆく。


 右近は、ただ「あな、むつかし」と思ひける心地みな冷めて、泣き惑ふさまいといみじ。


 南殿の鬼の、なにがしの大臣脅やかしけるたとひを思し出でて、心強く、


 「さりとも、いたづらになり果てたまはじ。夜の声はおどろおどろし。あなかま」


 と諌めたまひて、いとあわたたしきに、あきれたる心地したまふ。


 この男を召して、


 「ここに、いとあやしう、物に襲はれたる人のなやましげなるを、ただ今、惟光朝臣の宿る所にまかりて、急ぎ参るべきよし言へ、と仰せよ。なにがし阿闍梨、そこにものするほどならば、ここに来べきよし、忍びて言へ。かの尼君などの聞かむに、おどろおどろしく言ふな。かかる歩き許さぬ人なり」


 など、物のたまふやうなれど、胸塞がりて、この人を空しくしなしてむことのいみじく思さるるに添へて、大方のむくむくしさ、たとへむ方なし。


 夜中も過ぎにけむかし、風のやや荒々しう吹きたるは。まして、松の響き、木深く聞こえて、気色ある鳥のから声に鳴きたるも、「梟」はこれにやとおぼゆ。うち思ひめぐらすに、こなたかなた、けどほく疎ましきに、人声はせず、「などて、かくはかなき宿りは取りつるぞ」と、悔しさもやらむ方なし。


 右近は、物もおぼえず、君につと添ひたてまつりて、わななき死ぬべし。「また、これもいかならむ」と、心そらにて捉へたまへり。我一人さかしき人にて、思しやる方ぞなきや。


 火はほのかにまたたきて、母屋の際に立てたる屏風の上、ここかしこの隈々しくおぼえたまふに、物の足音、ひしひしと踏み鳴らしつつ、後ろより寄り来る心地す。「惟光、とく参らなむ」と思す。ありか定めぬ者にて、ここかしこ尋ねけるほどに、夜の明くるほどの久しさは、千夜を過ぐさむ心地したまふ。


 からうして、鶏の声はるかに聞こゆるに、「命をかけて、何の契りに、かかる目を見るらむ。我が心ながら、かかる筋に、おほけなくあるまじき心の報いに、かく、来し方行く先の例となりぬべきことはあるなめり。忍ぶとも、世にあること隠れなくて、内裏に聞こし召さむをはじめて、人の思ひ言はむこと、よからぬ童べの口ずさびになるべきなめり。ありありて、をこがましき名をとるべきかな」と、思しめぐらす。


 [第五段 源氏、二条院に帰る]


 からうして、惟光朝臣参れり。夜中、暁といはず、御心に従へる者の、今宵しもさぶらはで、召しにさへおこたりつるを、憎しと思すものから、召し入れて、のたまひ出でむことのあへなきに、ふとも物言はれたまはず。右近、大夫のけはひ聞くに、初めよりのこと、うち思ひ出でられて泣くを、君もえ堪へたまはで、我一人さかしがり抱き持たまへりけるに、この人に息をのべたまひてぞ、悲しきことも思されける、とばかり、いといたく、えもとどめず泣きたまふ。


 ややためらひて、「ここに、いとあやしきことのあるを、あさましと言ふにもあまりてなむある。かかるとみの事には、誦経などをこそはすなれとて、その事どももせさせむ。願なども立てさせむとて、阿闍梨ものせよ、と言ひつるは」とのたまふに、


 「昨日、山へまかり上りにけり。まづ、いとめづらかなることにもはべるかな。かねて、例ならず御心地ものせさせたまふことやはべりつらむ」


 「さることもなかりつ」とて、泣きたまふさま、いとをかしげにらうたく、見たてまつる人もいと悲しくて、おのれもよよと泣きぬ。


 さいへど、年うちねび、世の中のとあることと、しほじみぬる人こそ、もののをりふしは頼もしかりけれ、いづれもいづれも若きどちにて、言はむ方もなけれど、


 「この院守などに聞かせむことは、いと便なかるべし。この人一人こそ睦しくもあらめ、おのづから物言ひ漏らしつべき眷属も立ちまじりたらむ。まづ、この院を出でおはしましね」と言ふ。


 「さて、これより人少ななる所はいかでかあらむ」とのたまふ。


 「げに、さぞはべらむ。かの故里は、女房などの、悲しびに堪へず、泣き惑ひはべらむに、隣しげく、とがむる里人多くはべらむに、おのづから聞こえはべらむを、山寺こそ、なほかやうのこと、おのづから行きまじり、物紛るることはべらめ」と、思ひまはして、「昔、見たまへし女房の、尼にてはべる東山の辺に、移したてまつらむ。惟光が父の朝臣の乳母にはべりし者の、みづはぐみて住みはべるなり。辺りは、人しげきやうにはべれど、いとかごかにはべり」


 と聞こえて、明けはなるるほどの紛れに、御車寄す。


 この人をえ抱きたまふまじければ、上蓆におしくくみて、惟光乗せたてまつる。いとささやかにて、疎ましげもなく、らうたげなり。したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、あさましう悲し、と思せば、なり果てむさまを見むと思せど、


 「はや、御馬にて、二条院へおはしまさむ。人騒がしくなりはべらぬほどに」


 とて、右近を添へて乗すれば、徒歩より、君に馬はたてまつりて、くくり引き上げなどして、かつは、いとあやしく、おぼえぬ送りなれど、御気色のいみじきを見たてまつれば、身を捨てて行くに、君は物もおぼえたまはず、我かのさまにて、おはし着きたり。


 人びと、「いづこより、おはしますにか。なやましげに見えさせたまふ」など言へど、御帳の内に入りたまひて、胸をおさへて思ふに、いといみじければ、「などて、乗り添ひて行かざりつらむ。生き返りたらむ時、いかなる心地せむ。見捨てて行きあかれにけりと、つらくや思はむ」と、心惑ひのなかにも、思ほすに、御胸せきあぐる心地したまふ。御頭も痛く、身も熱き心地して、いと苦しく、惑はれたまへば、「かくはかなくて、我もいたづらになりぬるなめり」と思す。


 日高くなれど、起き上がりたまはねば、人びとあやしがりて、御粥などそそのかしきこゆれど、苦しくて、いと心細く思さるるに、内裏より御使あり。昨日、え尋ね出でたてまつらざりしより、おぼつかながらせたまふ。大殿の君達参りたまへど、頭中将ばかりを、「立ちながら、こなたに入りたまへ」とのたまひて、御簾の内ながらのたまふ。


 「乳母にてはべる者の、この五月のころほひより、重くわづらひはべりしが、頭剃り忌むこと受けなどして、そのしるしにや、よみがへりたりしを、このごろ、またおこりて、弱くなむなりにたる、『今一度、とぶらひ見よ』と申したりしかば、いときなきよりなづさひし者の、今はのきざみに、つらしとや思はむ、と思うたまへてまかれりしに、その家なりける下人の、病しけるが、にはかに出であへで亡くなりにけるを、怖ぢ憚りて、日を暮らしてなむ取り出ではべりけるを、聞きつけはべりしかば、神事なるころ、いと不便なること、と思うたまへかしこまりて、え参らぬなり。この暁より、しはぶき病みにやはべらむ、頭いと痛くて苦しくはべれば、いと無礼にて聞こゆること」


 などのたまふ。中将、


 「さらば、さるよしをこそ奏しはべらめ。昨夜も、御遊びに、かしこく求めたてまつらせたまひて、御気色悪しくはべりき」と聞こえたまひて、立ち返り、「いかなる行き触れにかからせたまふぞや。述べやらせたまふことこそ、まことと思うたまへられね」


 と言ふに、胸つぶれたまひて、


 「かく、こまかにはあらで、ただ、おぼえぬ穢らひに触れたるよしを、奏したまへ。いとこそたいだいしくはべれ」


 と、つれなくのたまへど、心のうちには、言ふかひなく悲しきことを思すに、御心地も悩ましければ、人に目も見合せたまはず。蔵人弁を召し寄せて、まめやかにかかるよしを奏せさせたまふ。大殿などにも、かかることありて、え参らぬ御消息など聞こえたまふ。


 [第六段 十七日夜、夕顔の葬送]


 日暮れて、惟光参れり。かかる穢らひありとのたまひて、参る人びとも、皆立ちながらまかづれば、人しげからず。召し寄せて、


 「いかにぞ。今はと見果てつや」


 とのたまふままに、袖を御顔に押しあてて泣きたまふ。惟光も泣く泣く、


 「今は限りにこそはものしたまふめれ。長々と籠もりはべらむも便なきを、明日なむ、日よろしくはべれば、とかくの事、いと尊き老僧の、あひ知りてはべるに、言ひ語らひつけはべりぬる」と聞こゆ。


 「添ひたりつる女はいかに」とのたまへば、


 「それなむ、また、え生くまじくはべるめる。我も後れじと惑ひはべりて、今朝は谷に落ち入りぬとなむ見たまへつる。『かの故里人に告げやらむ』と申せど、『しばし、思ひしづめよ、と。ことのさま思ひめぐらして』となむ、こしらへおきはべりつる」


 と、語りきこゆるままに、いといみじと思して、


 「我も、いと心地悩ましく、いかなるべきにかとなむおぼゆる」とのたまふ。


 「何か、さらに思ほしものせさせたまふ。さるべきにこそ、よろづのことはべらめ。人にも漏らさじと思うたまふれば、惟光おり立ちて、よろづはものしはべる」など申す。


 「さかし。さ皆思ひなせど、浮かびたる心のすさびに、人をいたづらになしつるかごと負ひぬべきが、いとからきなり。少将の命婦などにも聞かすな。尼君ましてかやうのことなど、諌めらるるを、心恥づかしくなむおぼゆべき」と、口かためたまふ。


 「さらぬ法師ばらなどにも、皆、言ひなすさま異にはべる」


 と聞こゆるにぞ、かかりたまへる。


 ほの聞く女房など、「あやしく、何ごとならむ、穢らひのよしのたまひて、内裏にも参りたまはず、また、かくささめき嘆きたまふ」と、ほのぼのあやしがる。


 「さらに事なくしなせ」と、そのほどの作法のたまへど、


 「何か、ことことしくすべきにもはべらず」


 とて立つが、いと悲しく思さるれば、


 「便なしと思ふべけれど、今一度、かの亡骸を見ざらむが、いといぶせかるべきを、馬にてものせむ」


 とのたまふを、いとたいだいしきこととは思へど、


 「さ思されむは、いかがせむ。はや、おはしまして、夜更けぬ先に帰らせおはしませ」


 と申せば、このごろの御やつれにまうけたまへる、狩の御装束着替へなどして出でたまふ。


 御心地かきくらし、いみじく堪へがたければ、かくあやしき道に出で立ちても、危かりし物懲りに、いかにせむと思しわづらへど、なほ悲しさのやる方なく、「ただ今の骸を見では、またいつの世にかありし容貌をも見む」と、思し念じて、例の大夫、随身を具して出でたまふ。


 道遠くおぼゆ。十七日の月さし出でて、河原のほど、御前駆の火もほのかなるに、鳥辺野の方など見やりたるほどなど、ものむつかしきも、何ともおぼえたまはず、かき乱る心地したまひて、おはし着きぬ。


 辺りさへすごきに、板屋のかたはらに堂建てて行へる尼の住まひ、いとあはれなり。御燈明の影、ほのかに透きて見ゆ。その屋には、女一人泣く声のみして、外の方に、法師ばら二、三人物語しつつ、わざとの声立てぬ念仏ぞする。寺々の初夜も、みな行ひ果てて、いとしめやかなり。清水の方ぞ、光多く見え、人のけはひもしげかりける。この尼君の子なる大徳の声尊くて、経うち読みたるに、涙の残りなく思さる。


 入りたまへれば、火取り背けて、右近は屏風隔てて臥したり。いかにわびしからむと、見たまふ。恐ろしきけもおぼえず、いとらうたげなるさまして、まだいささか変りたるところなし。手をとらへて、


 「我に、今一度、声をだに聞かせたまへ。いかなる昔の契りにかありけむ、しばしのほどに、心を尽くしてあはれに思ほえしを、うち捨てて、惑はしたまふが、いみじきこと」


 と、声も惜しまず、泣きたまふこと、限りなし。


 大徳たちも、誰とは知らぬに、あやしと思ひて、皆、涙落としけり。


 右近を、「いざ、二条へ」とのたまへど、


 「年ごろ、幼くはべりしより、片時たち離れたてまつらず、馴れきこえつる人に、にはかに別れたてまつりて、いづこにか帰りはべらむ。いかになりたまひにきとか、人にも言ひはべらむ。悲しきことをばさるものにて、人に言ひ騒がれはべらむが、いみじきこと」と言ひて、泣き惑ひて、「煙にたぐひて、慕ひ参りなむ」と言ふ。


 「道理なれど、さなむ世の中はある。別れと言ふもの、悲しからぬはなし。とあるもかかるも、同じ命の限りあるものになむある。思ひ慰めて、我を頼め」と、のたまひこしらへて、「かく言ふ我が身こそは、生きとまるまじき心地すれ」


 とのたまふも、頼もしげなしや。


 惟光、「夜は、明け方になりはべりぬらむ。はや帰らせたまひなむ」


 と聞こゆれば、返りみのみせられて、胸もつと塞がりて出でたまふ。


 道いと露けきに、いとどしき朝霧に、いづこともなく惑ふ心地したまふ。ありしながらうち臥したりつるさま、うち交はしたまへりしが、我が御紅の御衣の着られたりつるなど、いかなりけむ契りにかと道すがら思さる。御馬にも、はかばかしく乗りたまふまじき御さまなれば、また、惟光添ひ助けておはしまさするに、堤のほどにて、御馬よりすべり下りて、いみじく御心地惑ひければ、


 「かかる道の空にて、はふれぬべきにやあらむ。さらに、え行き着くまじき心地なむする」


 とのたまふに、惟光心地惑ひて、「我がはかばかしくは、さのたまふとも、かかる道に率て出でたてまつるべきかは」と思ふに、いと心あわたたしければ、川の水に手を洗ひて、清水の観音を念じたてまつりても、すべなく思ひ惑ふ。


 君も、しひて御心を起こして、心のうちに仏を念じたまひて、また、とかく助けられたまひてなむ、二条院へ帰りたまひける。


 あやしう夜深き御歩きを、人びと、「見苦しきわざかな。このごろ、例よりも静心なき御忍び歩きの、しきるなかにも、昨日の御気色の、いと悩ましう思したりしに。いかでかく、たどり歩きたまふらむ」と、嘆きあへり。


 まことに、臥したまひぬるままに、いといたく苦しがりたまひて、二、三日になりぬるに、むげに弱るやうにしたまふ。内裏にも、聞こしめし、嘆くこと限りなし。御祈り、方々に隙なくののしる。祭、祓、修法など、言ひ尽くすべくもあらず。世にたぐひなくゆゆしき御ありさまなれば、世に長くおはしますまじきにやと、天の下の人の騷ぎなり。


 苦しき御心地にも、かの右近を召し寄せて、局など近くたまひて、さぶらはせたまふ。惟光、心地も騒ぎ惑へど、思ひのどめて、この人のたづきなしと思ひたるを、もてなし助けつつさぶらはす。


 君は、いささか隙ありて思さるる時は、召し出でて使ひなどすれば、ほどなく交じらひつきたり。服、いと黒くして、容貌などよからねど、かたはに見苦しからぬ若人なり。


 「あやしう短かかりける御契りにひかされて、我も世にえあるまじきなめり。年ごろの頼み失ひて、心細く思ふらむ慰めにも、もしながらへば、よろづに育まむとこそ思ひしか、ほどなくまたたち添ひぬべきが、口惜しくもあるべきかな」


 と、忍びやかにのたまひて、弱げに泣きたまへば、言ふかひなきことをばおきて、「いみじく惜し」と思ひきこゆ。


 殿のうちの人、足を空にて思ひ惑ふ。内裏より、御使、雨の脚よりもけにしげし。思し嘆きおはしますを聞きたまふに、いとかたじけなくて、せめて強く思しなる。大殿も経営したまひて、大臣、日々に渡りたまひつつ、さまざまのことをせさせたまふ、しるしにや、二十余日、いと重くわづらひたまひつれど、ことなる名残のこらず、おこたるさまに見えたまふ。


 穢らひ忌みたまひしも、一つに満ちぬる夜なれば、おぼつかながらせたまふ御心、わりなくて、内裏の御宿直所に参りたまひなどす。大殿、我が御車にて迎へたてまつりたまひて、御物忌なにやと、むつかしう慎ませたてまつりたまふ。我にもあらず、あらぬ世によみがへりたるやうに、しばしはおぼえたまふ。


 [第七段 忌み明ける]


 九月二十日のほどにぞ、おこたり果てたまひて、いといたく面痩せたまへれど、なかなか、いみじくなまめかしくて、ながめがちに、ねをのみ泣きたまふ。見たてまつりとがむる人もありて、「御物の怪なめり」など言ふもあり。


 右近を召し出でて、のどやかなる夕暮に、物語などしたまひて、


 「なほ、いとなむあやしき。などてその人と知られじとは、隠いたまへりしぞ。まことに海人の子なりとも、さばかりに思ふを知らで、隔てたまひしかばなむ、つらかりし」とのたまへば、


 「などてか、深く隠しきこえたまふことははべらむ。いつのほどにてかは、何ならぬ御名のりを聞こえたまはむ。初めより、あやしうおぼえぬさまなりし御ことなれば、『現ともおぼえずなむある』とのたまひて、『御名隠しも、さばかりにこそは』と聞こえたまひながら、『なほざりにこそ紛らはしたまふらめ』となむ、憂きことに思したりし」と聞こゆれば、


 「あいなかりける心比べどもかな。我は、しか隔つる心もなかりき。ただ、かやうに人に許されぬ振る舞ひをなむ、まだ慣らはぬことなる。内裏に諌めのたまはするをはじめ、つつむこと多かる身にて、はかなく人にたはぶれごとを言ふも、所狭う、取りなしうるさき身のありさまになむあるを、はかなかりし夕べより、あやしう心にかかりて、あながちに見たてまつりしも、かかるべき契りこそはものしたまひけめと思ふも、あはれになむ。またうち返し、つらうおぼゆる。かう長かるまじきにては、など、さしも心に染みて、あはれとおぼえたまひけむ。なほ詳しく語れ。今は、何ごとを隠すべきぞ。七日七日に仏描かせても、誰が為とか、心のうちにも思はむ」とのたまへば、


 「何か、隔てきこえさせはべらむ。自ら、忍び過ぐしたまひしことを、亡き御うしろに、口さがなくやは、と思うたまふばかりになむ。


 親たちは、はや亡せたまひにき。三位中将となむ聞こえし。いとらうたきものに思ひきこえたまへりしかど、我が身のほどの心もとなさを思すめりしに、命さへ堪へたまはずなりにしのち、はかなきもののたよりにて、頭中将なむ、まだ少将にものしたまひし時、見初めたてまつらせたまひて、三年ばかりは、志あるさまに通ひたまひしを、去年の秋ごろ、かの右の大殿より、いと恐ろしきことの聞こえ参で来しに、物怖ぢをわりなくしたまひし御心に、せむかたなく思し怖ぢて、西の京に、御乳母住みはべる所になむ、はひ隠れたまへりし。それもいと見苦しきに、住みわびたまひて、山里に移ろひなむと思したりしを、今年よりは塞がりける方にはべりければ、違ふとて、あやしき所にものしたまひしを、見あらはされたてまつりぬることと、思し嘆くめりし。世の人に似ず、ものづつみをしたまひて人に物思ふ気色を見えむを、恥づかしきものにしたまひて、つれなくのみもてなして、御覧ぜられたてまつりたまふめりしか」


 と、語り出づるに、「さればよ」と、思しあはせて、いよいよあはれまさりぬ。


 「幼き人惑はしたりと、中将の愁へしは、さる人や」と問ひたまふ。


 「しか。一昨年の春ぞ、ものしたまへりし。女にて、いとらうたげになむ」と語る。


 「さて、いづこにぞ。人にさとは知らせで、我に得させよ。あとはかなく、いみじと思ふ御形見に、いとうれしかるべくなむ」とのたまふ。「かの中将にも伝ふべけれど、言ふかひなきかこと負ひなむ。とざまかうざまにつけて、育まむに咎あるまじきを。そのあらむ乳母などにも、ことざまに言ひなして、ものせよかし」など語らひたまふ。


 「さらば、いとうれしくなむはべるべき。かの西の京にて生ひ出でたまはむは、心苦しくなむ。はかばかしく扱ふ人なしとて、かしこに」など聞こゆ。


 夕暮の静かなるに、空の気色いとあはれに、御前の前栽枯れ枯れに、虫の音も鳴きかれて、紅葉のやうやう色づくほど、絵に描きたるやうにおもしろきを見わたして、心よりほかにをかしき交じらひかなと、かの夕顔の宿りを思ひ出づるも恥づかし。竹の中に家鳩といふ鳥の、ふつつかに鳴くを聞きたまひて、かのありし院にこの鳥の鳴きしを、いと恐ろしと思ひたりしさまの、面影にらうたく思し出でらるれば、


 「年はいくつにかものしたまひし。あやしく世の人に似ず、あえかに見えたまひしも、かく長かるまじくてなりけり」とのたまふ。


 「十九にやなりたまひけむ。右近は、亡くなりにける御乳母の捨て置きてはべりければ、三位の君のらうたがりたまひて、かの御あたり去らず、生ほしたてたまひしを思ひたまへ出づれば、いかでか世にはべらむずらむ。いとしも人にと、悔しくなむ。ものはかなげにものしたまひし人の御心を、頼もしき人にて、年ごろならひはべりけること」と聞こゆ。


 「はかなびたるこそは、らうたけれ。かしこく人になびかぬ、いと心づきなきわざなり。自らはかばかしくすくよかならぬ心ならひに、女はただやはらかに、とりはづして人に欺かれぬべきが、さすがにものづつみし、見む人の心には従はむなむ、あはれにて、我が心のままにとり直して見むに、なつかしくおぼゆべき」などのたまへば、


 「この方の御好みには、もて離れたまはざりけり、と思ひたまふるにも、口惜しくはべるわざかな」とて泣く。


 空のうち曇りて、風冷やかなるに、いといたく眺めたまひて、


 「見し人の煙を雲と眺むれば
  夕べの空もむつましきかな」


 と独りごちたまへど、えさし答へも聞こえず。かやうにて、おはせましかば、と思ふにも、胸塞がりておぼゆ。耳かしかましかりし砧の音を、思し出づるさへ恋しくて、「正に長き夜」とうち誦じて、臥したまへり。


 

第五章 空蝉の物語(2)
 [第一段 紀伊守邸の女たちと和歌の贈答]

 かの、伊予の家の小君、参る折あれど、ことにありしやうなる言伝てもしたまはねば、憂しと思し果てにけるを、いとほしと思ふに、かくわづらひたまふを聞きて、さすがにうち嘆きけり。遠く下りなどするを、さすがに心細ければ、思し忘れぬるかと、試みに、


 「承り、悩むを、言に出でては、えこそ、


 問はぬをもなどかと問はでほどふるに
 いかばかりかは思ひ乱るる
 『益田』はまことになむ」


 と聞こえたり。めづらしきに、これもあはれ忘れたまはず。


 「生けるかひなきや、誰が言はましことにか。


 空蝉の世は憂きものと知りにしを
 また言の葉にかかる命よ
 はかなしや」


 と、御手もうちわななかるるに、乱れ書きたまへる、いとどうつくしげなり。なほ、かのもぬけを忘れたまはぬを、いとほしうもをかしうも思ひけり。


 かやうに憎からずは、聞こえ交はせど、け近くとは思ひよらず、さすがに、言ふかひなからずは見えたてまつりてやみなむ、と思ふなりけり。


 かの片つ方は、蔵人少将をなむ通はす、と聞きたまふ。「あやしや。いかに思ふらむ」と、少将の心のうちもいとほしく、また、かの人の気色もゆかしければ、小君して、「死に返り思ふ心は、知りたまへりや」と言ひ遣はす。


 「ほのかにも軒端の荻を結ばずは
  露のかことを何にかけまし」


 高やかなる荻に付けて、「忍びて」とのたまへれど、「取り過ちて、少将も見つけて、我なりけりと思ひあはせば、さりとも、罪ゆるしてむ」と思ふ、御心おごりぞ、あいなかりける。


 少将のなき折に見すれば、心憂しと思へど、かく思し出でたるも、さすがにて、御返り、口ときばかりをかことにて取らす。


 「ほのめかす風につけても下荻の
  半ばは霜にむすぼほれつつ」


 手は悪しげなるを、紛らはしさればみて書いたるさま、品なし。火影に見し顔、思し出でらる。「うちとけで向ひゐたる人は、え疎み果つまじきさまもしたりしかな。何の心ばせありげもなく、さうどき誇りたりしよ」と思し出づるに、憎からず。なほ「こりずまに、またもあだ名立ちぬべき」御心のすさびなめり。

 

第六章 夕顔の物語(3)
 [第一段 四十九日忌の法要]

 かの人の四十九日、忍びて比叡の法華堂にて、事そがず、装束よりはじめて、さるべきものども、こまかに、誦経などせさせたまひぬ。経、仏の飾りまでおろかならず、惟光が兄の阿闍梨、いと尊き人にて、二なうしけり。


 御書の師にて、睦しく思す文章博士召して、願文作らせたまふ。その人となくて、あはれと思ひし人のはかなきさまになりにたるを、阿弥陀仏に譲りきこゆるよし、あはれげに書き出でたまへれば、


 「ただかくながら、加ふべきことはべらざめり」と申す。


 忍びたまへど、御涙もこぼれて、いみじく思したれば、


 「何人ならむ。その人と聞こえもなくて、かう思し嘆かすばかりなりけむ宿世の高さ」


 と言ひけり。忍びて調ぜさせたまへりける装束の袴を取り寄せさせたまひて、


 「泣く泣くも今日は我が結ふ下紐を
  いづれの世にかとけて見るべき」


 「このほどまでは漂ふなるを、いづれの道に定まりて赴くらむ」と思ほしやりつつ、念誦をいとあはれにしたまふ。頭中将を見たまふにも、あいなく胸騒ぎて、かの撫子の生ひ立つありさま、聞かせまほしけれど、かことに怖ぢて、うち出でたまはず。


 かの夕顔の宿りには、いづ方にと思ひ惑へど、そのままにえ尋ねきこえず。右近だに訪れねば、あやしと思ひ嘆きあへり。確かならねど、けはひをさばかりにやと、ささめきしかば、惟光をかこちけれど、いとかけ離れ、気色なく言ひなして、なほ同じごと好き歩きければ、いとど夢の心地して、「もし、受領の子どもの好き好きしきが、頭の君に怖ぢきこえて、やがて、率て下りにけるにや」とぞ、思ひ寄りける。


 この家主人ぞ、西の京の乳母の女なりける。三人その子はありて、右近は他人なりければ、「思ひ隔てて、御ありさまを聞かせぬなりけり」と、泣き恋ひけり。右近はた、かしかましく言ひ騒がむを思ひて、君も今さらに漏らさじと忍びたまへば、若君の上をだにえ聞かず、あさましく行方なくて過ぎゆく。


 君は、「夢をだに見ばや」と、思しわたるに、この法事したまひて、またの夜、ほのかに、かのありし院ながら、添ひたりし女のさまも同じやうにて見えければ、「荒れたりし所に住みけむ物の、我に見入れけむたよりに、かくなりぬること」と、思し出づるにもゆゆしくなむ。


 

第七章 空蝉の物語(3)
 [第一段 空蝉、伊予国に下る]

 伊予介、神無月の朔日ごろに下る。女房の下らむにとて、たむけ心ことにせさせたまふ。また、内々にもわざとしたまひて、こまやかにをかしきさまなる櫛、扇多くして、幣などわざとがましくて、かの小袿も遣はす。


 「逢ふまでの形見ばかりと見しほどに
  ひたすら袖の朽ちにけるかな」


 こまかなることどもあれど、うるさければ書かず。


 御使、帰りにけれど、小君して、小袿の御返りばかりは聞こえさせたり。


 「蝉の羽もたちかへてける夏衣
  かへすを見てもねは泣かれけり」


 「思へど、あやしう人に似ぬ心強さにても、ふり離れぬるかな」と思ひ続けたまふ。今日ぞ冬立つ日なりけるも、しるく、うちしぐれて、空の気色いとあはれなり。眺め暮らしたまひて、


 「過ぎにしも今日別るるも二道に
  行く方知らぬ秋の暮かな」


 なほ、かく人知れぬことは苦しかりけりと、思し知りぬらむかし。かやうのくだくだしきことは、あながちに隠ろへ忍びたまひしもいとほしくて、みな漏らしとどめたるを、「など、帝の御子ならむからに、見む人さへ、かたほならずものほめがちなる」と、作りごとめきてとりなす人ものしたまひければなむ。あまりもの言ひさがなき罪、さりどころなく。


若 紫
光る源氏の十八歳春三月晦日から冬十月までの物語

第一章 紫上の物語 若紫の君登場、三月晦日から初夏四月までの物語

三月晦日、加持祈祷のため、北山に出向く---瘧病にわづらひたまひて
山の景色や地方の話に気を紛らす---すこし立ち出でつつ見渡したまへば
源氏、若紫の君を発見す---人なくて、つれづれなれば
若紫の君の素性を聞く---「あはれなる人を見つるかな
翌日、迎えの人々と共に帰京---明けゆく空は、いといたう霞みて
内裏と左大臣邸に参る---君は、まづ内裏に参りたまひて
北山へ手紙を贈る---またの日、御文たてまつれたまへり
第二章 藤壺の物語 夏の密通と妊娠の苦悩物語

夏四月の短夜の密通事件---藤壺の宮、悩みたまふことありて
妊娠三月となる---宮も、なほいと憂き身なりけりと
初秋七月に藤壺宮中に戻る---七月になりてぞ参りたまひける
第三章 紫上の物語(2) 若紫の君、源氏の二条院邸に盗み出される物語

紫の君、六条京極の邸に戻る---かの山寺の人は、よろしうなりて
尼君死去し寂寥と孤独の日々---十月に朱雀院の行幸あるべし
源氏、紫の君を盗み取る---君は大殿におはしけるに
【出典】
【校訂】


 

第一章 紫上の物語 若紫の君登場、三月晦日から初夏四月までの物語
 [第一段 三月晦日、加持祈祷のため、北山に出向く]

 瘧病にわづらひたまひて、よろづにまじなひ加持など参らせたまへど、しるしなくて、あまたたびおこりたまひければ、ある人、「北山になむ、なにがし寺といふ所に、かしこき行ひ人はべる。去年の夏も世におこりて、人びとまじなひわづらひしを、やがてとどむるたぐひ、あまたはべりき。ししこらかしつる時はうたてはべるを、とくこそ試みさせたまはめ」など聞こゆれば、召しに遣はしたるに、「老いかがまりて、室の外にもまかでず」と申したれば、「いかがはせむ。いと忍びてものせむ」とのたまひて、御供にむつましき四、五人ばかりして、まだ暁におはす。


 やや深う入る所なりけり。三月のつごもりなれば、京の花盛りはみな過ぎにけり。山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひもをかしう見ゆれば、かかるありさまもならひたまはず、所狭き御身にて、めづらしう思されけり。


 寺のさまもいとあはれなり。峰高く、深き巖屋の中にぞ、聖入りゐたりける。登りたまひて、誰とも知らせたまはず、いといたうやつれたまへれど、しるき御さまなれば、


 「あな、かしこや。一日、召しはべりしにやおはしますらむ。今は、この世のことを思ひたまへねば、験方の行ひも捨て忘れてはべるを、いかで、かうおはしましつらむ」


 と、おどろき騒ぎ、うち笑みつつ見たてまつる。いと尊き大徳なりけり。さるべきもの作りて、すかせたてまつり、加持など参るほど、日高くさし上がりぬ。


 [第二段 山の景色や地方の話に気を紛らす]


 すこし立ち出でつつ見渡したまへば、高き所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはに見おろさるる、ただこのつづら折の下に、同じ小柴なれど、うるはしくし渡して、清げなる屋、廊など続けて、木立いとよしあるは、


 「何人の住むにか」


 と問ひたまへば、御供なる人、


 「これなむ、なにがし僧都の、二年籠もりはべる方にはべるなる」


 「心恥づかしき人住むなる所にこそあなれ。あやしうも、あまりやつしけるかな。聞きもこそすれ」などのたまふ。


 清げなる童などあまた出で来て、閼伽たてまつり、花折りなどするもあらはに見ゆ。


 「かしこに、女こそありけれ」
 「僧都は、よも、さやうには、据ゑたまはじを」
 「いかなる人ならむ」


 と口々言ふ。下りて覗くもあり。


 「をかしげなる女子ども、若き人、童女なむ見ゆる」と言ふ。


 君は、行ひしたまひつつ、日たくるままに、いかならむと思したるを、


 「とかう紛らはさせたまひて、思し入れぬなむ、よくはべる」


 と聞こゆれば、後への山に立ち出でて、京の方を見たまふ。はるかに霞みわたりて、四方の梢そこはかとなう煙りわたれるほど、


 「絵にいとよくも似たるかな。かかる所に住む人、心に思ひ残すことはあらじかし」とのたまへば、


 「これは、いと浅くはべり。人の国などにはべる海、山のありさまなどを御覧ぜさせてはべらば、いかに、御絵いみじうまさらせたまはむ。富士の山、なにがしの嶽」


 など、語りきこゆるもあり。また西国のおもしろき浦々、磯の上を言ひ続くるもありて、よろづに紛らはしきこゆ。


 「近き所には、播磨の明石の浦こそ、なほことにはべれ。何の至り深き隈はなけれど、ただ、海の面を見わたしたるほどなむ、あやしく異所に似ず、ゆほびかなる所にはべる。


 かの国の前の守、新発意の、女かしづきたる家、いといたしかし。大臣の後にて、出で立ちもすべかりける人の、世のひがものにて、交じらひもせず、近衛の中将を捨てて、申し賜はれりける司なれど、かの国の人にもすこしあなづられて、『何の面目にてか、また都にも帰らむ』と言ひて、頭も下ろしはべりにけるを、すこし奥まりたる山住みもせで、さる海づらに出でゐたる、ひがひがしきやうなれど、げに、かの国のうちに、さも、人の籠もりゐぬべき所々はありながら、深き里は、人離れ心すごく、若き妻子の思ひわびぬべきにより、かつは心をやれる住まひになむはべる。


 先つころ、まかり下りてはべりしついでに、ありさま見たまへに寄りてはべりしかば、京にてこそ所得ぬやうなりけれ、そこらはるかに、いかめしう占めて造れるさま、さは言へど、国の司にてし置きけることなれば、残りの齢ゆたかに経べき心構へも、二なくしたりけり。後の世の勤めも、いとよくして、なかなか法師まさりしたる人になむはべりける」と申せば、


 「さて、その女は」と、問ひたまふ。


 「けしうはあらず、容貌、心ばせなどはべるなり。代々の国の司など、用意ことにして、さる心ばへ見すなれど、さらにうけひかず。『我が身のかくいたづらに沈めるだにあるを、この人ひとりにこそあれ、思ふさまことなり。もし我に後れてその志とげず、この思ひおきつる宿世違はば、海に入りね』と、常に遺言しおきてはべるなる」


 と聞こゆれば、君もをかしと聞きたまふ。人びと、


 「海龍王の后になるべきいつき女ななり」
 「心高さ苦しや」とて笑ふ。


 かく言ふは、播磨守の子の、蔵人より、今年、かうぶり得たるなりけり。


 「いと好きたる者なれば、かの入道の遺言破りつべき心はあらむかし」
 「さて、たたずみ寄るならむ」


 と言ひあへり。


 「いで、さ言ふとも、田舎びたらむ。幼くよりさる所に生ひ出でて、古めいたる親にのみ従ひたらむは」


 「母こそゆゑあるべけれ。よき若人、童など、都のやむごとなき所々より、類にふれて尋ねとりて、まばゆくこそもてなすなれ」


 「情けなき人なりて行かば、さて心安くてしも、え置きたらじをや」


 など言ふもあり。君、


 「何心ありて、海の底まで深う思ひ入るらむ。底の「みるめ」も、ものむつかしう」


 などのたまひて、ただならず思したり。かやうにても、なべてならず、もてひがみたること好みたまふ御心なれば、御耳とどまらむをや、と見たてまつる。


 「暮れかかりぬれど、おこらせたまはずなりぬるにこそはあめれ。はや帰らせたまひなむ」


 とあるを、大徳、


 「御もののけなど、加はれるさまにおはしましけるを、今宵は、なほ静かに加持など参りて、出でさせたまへ」と申す。


 「さもあること」と、皆人申す。君も、かかる旅寝も慣らひたまはねば、さすがにをかしくて、


 「さらば暁に」とのたまふ。


 [第三段 源氏、若紫の君を発見す]


 人なくて、つれづれなれば、夕暮のいたう霞みたるに紛れて、かの小柴垣のほどに立ち出でたまふ。人びとは帰したまひて、惟光朝臣と覗きたまへば、ただこの西面にしも、仏据ゑたてまつりて行ふ、尼なりけり。簾すこし上げて、花たてまつるめり。中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて、いとなやましげに読みゐたる尼君、ただ人と見えず。四十余ばかりにて、いと白うあてに、痩せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなう今めかしきものかなと、あはれに見たまふ。


 清げなる大人二人ばかり、さては童女ぞ出で入り遊ぶ。中に十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て、走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひさき見えて、うつくしげなる容貌なり。髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。


 「何ごとぞや。童女と腹立ちたまへるか」


 とて、尼君の見上げたるに、すこしおぼえたるところあれば、「子なめり」と見たまふ。


 「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちに籠めたりつるものを」


 とて、いと口惜しと思へり。このゐたる大人、


 「例の、心なしの、かかるわざをして、さいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづ方へかまかりぬる。いとをかしう、やうやうなりつるものを。烏などもこそ見つくれ」


 とて、立ちて行く。髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。少納言の乳母とこそ人言ふめるは、この子の後見なるべし。


 尼君、
 「いで、あな幼や。言ふかひなうものしたまふかな。おのが、かく、今日明日におぼゆる命をば、何とも思したらで、雀慕ひたまふほどよ。罪得ることぞと、常に聞こゆるを、心憂く」とて、「こちや」と言へば、ついゐたり。


 つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。「ねびゆかむさまゆかしき人かな」と、目とまりたまふ。さるは、「限りなう心を尽くしきこゆる人に、いとよう似たてまつれるが、まもらるるなりけり」と、思ふにも涙ぞ落つる。


 尼君、髪をかき撫でつつ、
 「梳ることをうるさがりたまへど、をかしの御髪や。いとはかなうものしたまふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は、十ばかりにて殿に後れたまひしほど、いみじうものは思ひ知りたまへりしぞかし。ただ今、おのれ見捨てたてまつらば、いかで世におはせむとすらむ」


 とて、いみじく泣くを見たまふも、すずろに悲し。幼心地にも、さすがにうちまもりて、伏目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪、つやつやとめでたう見ゆ。


 「生ひ立たむありかも知らぬ若草を
  おくらす露ぞ消えむそらなき」


 またゐたる大人、「げに」と、うち泣きて、


 「初草の生ひ行く末も知らぬまに
  いかでか露の消えむとすらむ」


 と聞こゆるほどに、僧都、あなたより来て、


 「こなたはあらはにやはべらむ。今日しも、端におはしましけるかな。この上の聖の方に、源氏の中将の瘧病まじなひにものしたまひけるを、ただ今なむ、聞きつけはべる。いみじう忍びたまひければ、知りはべらで、ここにはべりながら、御とぶらひにもまでざりける」とのたまへば、


 「あないみじや。いとあやしきさまを、人や見つらむ」とて、簾下ろしつ。


 「この世に、ののしりたまふ光る源氏、かかるついでに見たてまつりたまはむや。世を捨てたる法師の心地にも、いみじう世の憂へ忘れ、齢延ぶる人の御ありさまなり。いで、御消息聞こえむ」


 とて、立つ音すれば、帰りたまひぬ。


 [第四段 若紫の君の素性を聞く]


 「あはれなる人を見つるかな。かかれば、この好き者どもは、かかる歩きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなりけり。たまさかに立ち出づるだに、かく思ひのほかなることを見るよ」と、をかしう思す。「さても、いとうつくしかりつる児かな。何人ならむ。かの人の御代はりに、明け暮れの慰めにも見ばや」と思ふ心、深うつきぬ。


 うち臥したまへるに、僧都の御弟子、惟光を呼び出でさす。ほどなき所なれば、君もやがて聞きたまふ。


 「過りおはしましけるよし、ただ今なむ、人申すに、おどろきながら、さぶらべきを、なにがしこの寺に籠もりはべりとは、しろしめしながら、忍びさせたまへるを、憂はしく思ひたまへてなむ。草の御むしろも、この坊にこそ設けはべるべけれ。いと本意なきこと」と申したまへり。


 「いぬる十余日のほどより、瘧病にわづらひはべるを、度重なりて堪へがたうはべれば、人の教へのまま、にはかに尋ね入りはべりつれど、かやうなる人の験あらはさぬ時、はしたなかるべきも、ただなるよりは、いとほしう思ひたまへつつみてなむ、いたう忍びはべりつる。今、そなたにも」とのたまへり。


 すなはち、僧都参りたまへり。法師なれど、いと心恥づかしく人柄もやむごとなく、世に思はれたまへる人なれば、軽々しき御ありさまを、はしたなう思す。かく籠もれるほどの御物語など聞こえたまひて、「同じ柴の庵なれど、すこし涼しき水の流れも御覧ぜさせむ」と、せちに聞こえたまへば、かの、まだ見ぬ人びとにことことしう言ひ聞かせつるを、つつましう思せど、あはれなりつるありさまもいぶかしくて、おはしぬ。


 げに、いと心ことによしありて、同じ木草をも植ゑなしたまへり。月もなきころなれば、遣水に篝火ともし、灯籠なども参りたり。南面いと清げにしつらひたまへり。そらだきもの、いと心にくく薫り出で、名香の香など匂ひみちたるに、君の御追風いとことなれば、内の人びとも心づかひすべかめり。


 僧都、世の常なき御物語、後世のことなど聞こえ知らせたまふ。我が罪のほど恐ろしう、「あぢきなきことに心をしめて、生ける限りこれを思ひ悩むべきなめり。まして後の世のいみじかるべき」。思し続けて、かうやうなる住まひもせまほしうおぼえたまふものから、昼の面影心にかかりて恋しければ、


 「ここにものしたまふは、誰れにか。尋ねきこえまほしき夢を見たまへしかな。今日なむ思ひあはせつる」


 と聞こえたまへば、うち笑ひて、


 「うちつけなる御夢語りにぞはべるなる。尋ねさせたまひても、御心劣りせさせたまひぬべし。故按察使大納言は、世になくて久しくなりはべりぬれば、えしろしめさじかし。その北の方なむ、なにがしが妹にはべる。かの按察使かくれて後、世を背きてはべるが、このごろ、わづらふことはべるにより、かく京にもまかでねば、頼もし所に籠もりてものしはべるなり」と聞こえたまふ。


 「かの大納言の御女、ものしたまふと聞きたまへしは。好き好きしき方にはあらで、まめやかに聞こゆるなり」と、推し当てにのたまへば、


 「女ただ一人はべりし。亡せて、この十余年にやなりはべりぬらむ。故大納言、内裏にたてまつらむなど、かしこういつきはべりしを、その本意のごとくもものしはべらで、過ぎはべりにしかば、ただこの尼君一人もてあつかひはべりしほどに、いかなる人のしわざにか、兵部卿宮なむ、忍びて語らひつきたまへりけるを、本の北の方、やむごとなくなどして、安からぬこと多くて、明け暮れ物を思ひてなむ、亡くなりはべりにし。物思ひに病づくものと、目に近く見たまへし」


 など申したまふ。「さらば、その子なりけり」と思しあはせつ。「親王の御筋にて、かの人にもかよひきこえたるにや」と、いとどあはれに見まほし。「人のほどもあてにをかしう、なかなかのさかしら心なく、うち語らひて、心のままに教へ生ほし立てて見ばや」と思す。


 「いとあはれにものしたまふことかな。それは、とどめたまふ形見もなきか」


 と、幼かりつる行方の、なほ確かに知らまほしくて、問ひたまへば、


 「亡くなりはべりしほどにこそ、はべりしか。それも、女にてぞ。それにつけて物思ひのもよほしになむ、齢の末に思ひたまへ嘆きはべるめる」と聞こえたまふ。


 「さればよ」と思さる。


 「あやしきことなれど、幼き御後見に思すべく、聞こえたまひてむや。思ふ心ありて、行きかかづらふ方もはべりながら、世に心の染まぬにやあらむ、独り住みにてのみなむ。まだ似げなきほどと常の人に思しなずらへて、はしたなくや」などのたまへば、


 「いとうれしかるべき仰せ言なるを、まだむげにいはきなきほどにはべるめれば、たはぶれにても、御覧じがたくや。そもそも、女人は、人にもてなされて大人にもなりたまふものなれば、詳しくはえとり申さず、かの祖母に語らひはべりて聞こえさせむ」


 と、すくよかに言ひて、ものごはきさましたまへれば、若き御心に恥づかしくて、えよくも聞こえたまはず。


 「阿弥陀仏ものしたまふ堂に、することはべるころになむ。初夜、いまだ勤めはべらず。過ぐしてさぶらはむ」とて、上りたまひぬ。


 君は、心地もいと悩ましきに、雨すこしうちそそき、山風ひややかに吹きたるに、滝のよどみもまさりて、音高う聞こゆ。すこしねぶたげなる読経の絶え絶えすごく聞こゆるなど、すずろなる人も、所からものあはれなり。まして、思しめぐらすこと多くて、まどろませたまはず。初夜と言ひしかども、夜もいたう更けにけり。内にも、人の寝ぬけはひしるくて、いと忍びたれど、数珠の脇息に引き鳴らさるる音ほの聞こえ、なつかしううちそよめく音なひ、あてはかなりと聞きたまひて、ほどもなく近ければ、外に立てわたしたる屏風の中を、すこし引き開けて、扇を鳴らしたまへば、おぼえなき心地すべかめれど、聞き知らぬやうにやとて、ゐざり出づる人あなり。すこし退きて、


 「あやし、ひが耳にや」とたどるを、聞きたまひて、


 「仏の御しるべは、暗きに入りても、さらに違ふまじかなるものを」


 とのたまふ御声の、いと若うあてなるに、うち出でむ声づかひも、恥づかしけれど、


 「いかなる方の、御しるべにか。おぼつかなく」と聞こゆ。


 「げに、うちつけなりとおぼめきたまはむも、道理なれど、


  初草の若葉の上を見つるより
  旅寝の袖も露ぞ乾かぬ


 と聞こえたまひてむや」とのたまふ。


 「さらに、かやうの御消息、うけたまはりわくべき人もものしたまはぬさまは、しろしめしたりげなるを。誰れにかは」と聞こゆ。


 「おのづからさるやうありて聞こゆるならむと思ひなしたまへかし」


 とのたまへば、入りて聞こゆ。


 「あな、今めかし。この君や、世づいたるほどにおはするとぞ、思すらむ。さるにては、かの『若草』を、いかで聞いたまへることぞ」と、さまざまあやしきに、心乱れて、久しうなれば、情けなしとて、


 「枕結ふ今宵ばかりの露けさを
  深山の苔に比べざらなむ


 乾がたうはべるものを」と聞こえたまふ。


 「かうやうのついでなる御消息は、まださらに聞こえ知らず、ならはぬことになむ。かたじけなくとも、かかるついでに、まめまめしう聞こえさすべきことなむ」と聞こえたまへれば、尼君、


 「ひがこと聞きたまへるならむ。いとむつかしき御けはひに、何ごとをかは答へきこえむ」とのたまへば、


 「はしたなうもこそ思せ」と人びと聞こゆ。


 「げに、若やかなる人こそうたてもあらめ、まめやかにのたまふ、かたじけなし」


 とて、ゐざり寄りたまへり。


 「うちつけに、あさはかなりと、御覧ぜられぬべきついでなれど、心にはさもおぼえはべらねば。仏はおのづから」


 とて、おとなおとなしう、恥づかしげなるにつつまれて、とみにもえうち出でたまはず。


 「げに、思ひたまへ寄りがたきついでに、かくまでのたまはせ、聞こえさするも、いかが」とのたまふ。


 「あはれにうけたまはる御ありさまを、かの過ぎたまひにけむ御かはりに、思しないてむや。言ふかひなきほどの齢にて、むつましかるべき人にも立ち後れはべりにければ、あやしう浮きたるやうにて、年月をこそ重ねはべれ。同じさまにものしたまふなるを、たぐひになさせたまへと、いと聞こえまほしきを、かかる折はべりがたくてなむ、思されむところをも憚らず、うち出ではべりぬる」と聞こえたまへば、


 「いとうれしう思ひたまへぬべき御ことながらも、聞こしめしひがめたることなどやはべらむと、つつましうなむ。あやしき身一つを頼もし人にする人なむはべれど、いとまだ言ふかひなきほどにて、御覧じ許さるる方もはべりがたげなれば、えなむうけたまはりとどめられざりける」とのたまふ。


 「みな、おぼつかなからずうけたまはるものを、所狭う思し憚らで、思ひたまへ寄るさまことなる心のほどを、御覧ぜよ」


 と聞こえたまへど、いと似げなきことを、さも知らでのたまふ、と思して、心解けたる御答へもなし。僧都おはしぬれば、


 「よし、かう聞こえそめはべりぬれば、いと頼もしうなむ」とて、おし立てたまひつ。


 暁方になりにければ、法華三昧行ふ堂の懺法の声、山おろしにつきて聞こえくる、いと尊く、滝の音に響きあひたり。


 「吹きまよふ深山おろしに夢さめて
  涙もよほす滝の音かな」


 「さしぐみに袖ぬらしける山水に
  澄める心は騒ぎやはする
 耳馴れはべりにけりや」と聞こえたまふ。


 [第五段 翌日、迎えの人々と共に帰京]


 明けゆく空は、いといたう霞みて、山の鳥どもそこはかとなうさへづりあひたり。名も知らぬ木草の花どもも、いろいろに散りまじり、錦を敷けると見ゆるに、鹿のたたずみ歩くも、めづらしく見たまふに、悩ましさも紛れ果てぬ。


 聖、動きもえせねど、とかうして護身参らせたまふ。かれたる声の、いといたうすきひがめるも、あはれに功づきて、陀羅尼誦みたり。


 御迎への人びと参りて、おこたりたまへる喜び聞こえ、内裏よりも御とぶらひあり。僧都、世に見えぬさまの御くだもの、何くれと、谷の底まで堀り出で、いとなみきこえたまふ。


 「今年ばかりの誓ひ深うはべりて、御送りにもえ参りはべるまじきこと。なかなかにも思ひたまへらるべきかな」


 など聞こえたまひて、大御酒参りたまふ。


 「山水に心とまりはべりぬれど、内裏よりもおぼつかながらせたまへるも、かしこければなむ。今、この花の折過ぐさず参り来む。


  宮人に行きて語らむ山桜
  風よりさきに来ても見るべく」


 とのたまふ御もてなし、声づかひさへ、目もあやなるに、


 「優曇華の花待ち得たる心地して
  深山桜に目こそ移らね」


 と聞こえたまへば、ほほゑみて、「時ありて、一度開くなるは、かたかなるものを」とのたまふ。


 聖、御土器賜はりて、


 「奥山の松のとぼそをまれに開けて
  まだ見ぬ花の顔を見るかな」


 と、うち泣きて見たてまつる。聖、御まもりに、独鈷たてまつる。見たまひて、僧都、聖徳太子の百済より得たまへりける金剛子の数珠の、玉の装束したる、やがてその国より入れたる筥の、唐めいたるを、透きたる袋に入れて、五葉の枝に付けて、紺瑠璃の壺どもに、御薬ども入れて、藤、桜などに付けて、所につけたる御贈物ども、ささげたてまつりたまふ。


 君、聖よりはじめ、読経しつる法師の布施ども、まうけの物ども、さまざまに取りにつかはしたりければ、そのわたりの山がつまで、さるべき物ども賜ひ、御誦経などして出でたまふ。


 内に僧都入りたまひて、かの聞こえたまひしこと、まねびきこえたまへど、


 「ともかくも、ただ今は、聞こえむかたなし。もし、御志あらば、いま四、五年を過ぐしてこそは、ともかくも」とのたまへば、「さなむ」と同じさまにのみあるを、本意なしと思す。


 御消息、僧都のもとなる小さき童して、


 「夕まぐれほのかに花の色を見て
  今朝は霞の立ちぞわづらふ」


 御返し、


 「まことにや花のあたりは立ち憂きと
  霞むる空の気色をも見む」


 と、よしある手の、いとあてなるを、うち捨て書いたまへり。


 御車にたてまつるほど、大殿より、「いづちともなくて、おはしましにけること」とて、御迎への人びと、君達などあまた参りたまへり。頭中将、左中弁、さらぬ君達も慕ひきこえて、


 「かうやうの御供には、仕うまつりはべらむ、と思ひたまふるを、あさましく、おくらさせたまへること」と恨みきこえて、「いといみじき花の蔭に、しばしもやすらはず、立ち帰りはべらむは、飽かぬわざかな」とのたまふ。


 岩隠れの苔の上に並みゐて、土器参る。落ち来る水のさまなど、ゆゑある滝のもとなり。頭中将、懐なりける笛取り出でて、吹きすましたり。弁の君、扇はかなううち鳴らして、「豊浦の寺の、西なるや」と歌ふ。人よりは異なる君達を、源氏の君、いといたううち悩みて、岩に寄りゐたまへるは、たぐひなくゆゆしき御ありさまにぞ、何ごとにも目移るまじかりける。例の、篳篥吹く随身、笙の笛持たせたる好き者などあり。


 僧都、琴をみづから持て参りて、


 「これ、ただ御手一つあそばして、同じうは、山の鳥もおどろかしはべらむ」


 と切に聞こえたまへば、


 「乱り心地、いと堪へがたきものを」と聞こえたまへど、けに憎からずかき鳴らして、皆立ちたまひぬ。


 飽かず口惜しと、言ふかひなき法師、童べも、涙を落としあへり。まして、内には、年老いたる尼君たちなど、まださらにかかる人の御ありさまを見ざりつれば、「この世のものともおぼえたまはず」と聞こえあへり。僧都も、


 「あはれ、何の契りにて、かかる御さまながら、いとむつかしき日本の末の世に生まれたまへらむと見るに、いとなむ悲しき」とて、目おしのごひたまふ。


 この若君、幼な心地に、「めでたき人かな」と見たまひて、


 「宮の御ありさまよりも、まさりたまへるかな」などのたまふ。


 「さらば、かの人の御子になりておはしませよ」


 と聞こゆれば、うちうなづきて、「いとようありなむ」と思したり。雛遊びにも、絵描いたまふにも、「源氏の君」と作り出でて、きよらなる衣着せ、かしづきたまふ。


 [第六段 内裏と左大臣邸に参る]


 君は、まづ内裏に参りたまひて、日ごろの御物語など聞こえたまふ。「いといたう衰へにけり」とて、ゆゆしと思し召したり。聖の尊かりけることなど、問はせたまふ。詳しく奏したまへば、


 「阿闍梨などにもなるべき者にこそあなれ。行ひの労は積もりて、朝廷にしろしめされざりけること」と、尊がりのたまはせけり。


 大殿、参りあひたまひて、


 「御迎へにもと思ひたまへつれど、忍びたる御歩きに、いかがと思ひ憚りてなむ。のどやかに一、二日うち休みたまへ」とて、「やがて、御送り仕うまつらむ」と申したまへば、さしも思さねど、引かされてまかでたまふ。


 我が御車に乗せたてまつりたまうて、自らは引き入りてたてまつれり。もてかしづききこえたまへる御心ばへのあはれなるをぞ、さすがに心苦しく思しける。


 殿にも、おはしますらむと心づかひしたまひて、久しう見たまはぬほど、いとど玉の台に磨きしつらひ、よろづをととのへたまへり。


 女君、例の、はひ隠れて、とみにも出でたまはぬを、大臣、切に聞こえたまひて、からうして渡りたまへり。ただ絵に描きたるものの姫君のやうに、し据ゑられて、うちみじろきたまふこともかたく、うるはしうてものしたまへば、思ふこともうちかすめ、山道の物語をも聞こえむ、言ふかひありて、をかしういらへたまはばこそ、あはれならめ、世には心も解けず、うとく恥づかしきものに思して、年のかさなるに添へて、御心の隔てもまさるを、いと苦しく、思はずに、


 「時々は、世の常なる御気色を見ばや。堪へがたうわづらひはべりしをも、いかがとだに、問ひたまはぬこそ、めづらしからぬことなれど、なほうらめしう」


 と聞こえたまふ。からうして、


 「問はぬは、つらきものにやあらむ」


 と、後目に見おこせたまへるまみ、いと恥づかしげに、気高ううつくしげなる御容貌なり。


 「まれまれは、あさましの御ことや。訪はぬ、など言ふ際は、異にこそはべるなれ。心憂くものたまひなすかな。世とともにはしたなき御もてなしを、もし、思し直る折もやと、とざまかうざまに試みきこゆるほど、いとど思し疎むなめりかし。よしや、命だに」


 とて、夜の御座に入りたまひぬ。女君、ふとも入りたまはず、聞こえわづらひたまひて、うち嘆きて臥したまへるも、なま心づきなきにやあらむ、ねぶたげにもてなして、とかう世を思し乱るること多かり。


 この若草の生ひ出でむほどのなほゆかしきを、「似げないほどと思へりしも、道理ぞかし。言ひ寄りがたきことにもあるかな。いかにかまへて、ただ心やすく迎へ取りて、明け暮れの慰めに見む。兵部卿宮は、いとあてになまめいたまへれど、匂ひやかになどもあらぬを、いかで、かの一族におぼえたまふらむ。ひとつ后腹なればにや」など思す。ゆかりいとむつましきに、いかでかと、深うおぼゆ。


 [第七段 北山へ手紙を贈る]


 またの日、御文たてまつれたまへり。僧都にもほのめかしたまふべし。尼上には、


 「もて離れたりし御気色のつつましさに、思ひたまふるさまをも、えあらはし果てはべらずなりにしをなむ。かばかり聞こゆるにても、おしなべたらぬ志のほどを御覧じ知らば、いかにうれしう」


 などあり。中に、小さく引き結びて、


 「面影は身をも離れず山桜
  心の限りとめて来しかど


 夜の間の風も、うしろめたくなむ」


 とあり。御手などはさるものにて、ただはかなうおし包みたまへるさまも、さだすぎたる御目どもには、目もあやにこのましう見ゆ。


 「あな、かたはらいたや。いかが聞こえむ」と、思しわづらふ。


 「ゆくての御ことは、なほざりにも思ひたまへなされしを、ふりはへさせたまへるに、聞こえさせむかたなくなむ。まだ「難波津」をだに、はかばかしう続けはべらざめれば、かひなくなむ。さても、


  嵐吹く尾の上の桜散らぬ間を
  心とめけるほどのはかなさ
 いとどうしろめたう」


 とあり。僧都の御返りも同じさまなれば、口惜しくて、二、三日ありて、惟光をぞたてまつれたまふ。


 「少納言の乳母と言ふ人あべし。尋ねて、詳しう語らへ」などのたまひ知らす。「さも、かからぬ隈なき御心かな。さばかりいはけなげなりしけはひを」と、まほならねども、見しほどを思ひやるもをかし。


 わざと、かう御文あるを、僧都もかしこまり聞こえたまふ。少納言に消息して会ひたり。詳しく、思しのたまふさま、おほかたの御ありさまなど語る。言葉多かる人にて、つきづきしう言ひ続くれど、「いとわりなき御ほどを、いかに思すにか」と、ゆゆしうなむ、誰も誰も思しける。


 御文にも、いとねむごろに書いたまひて、例の、中に、「かの御放ち書きなむ、なほ見たまへまほしき」とて、


 「あさか山浅くも人を思はぬに
  など山の井のかけ離るらむ」


 御返し、


 「汲み初めてくやしと聞きし山の井の
  浅きながらや影を見るべき」


 惟光も同じことを聞こゆ。


 「このわづらひたまふことよろしくは、このころ過ぐして、京の殿に渡りたまひてなむ、聞こえさすべき」とあるを、心もとなう思す。


 

第二章 藤壺の物語 夏の密通と妊娠の苦悩物語
 [第一段 夏四月の短夜の密通事件]

 藤壺の宮、悩みたまふことありて、まかでたまへり。上の、おぼつかながり、嘆ききこえたまふ御気色も、いといとほしう見たてまつりながら、かかる折だにと、心もあくがれ惑ひて、何処にも何処にも、まうでたまはず、内裏にても里にても、昼はつれづれと眺め暮らして、暮るれば、王命婦を責め歩きたまふ。


 いかがたばかりけむ、いとわりなくて見たてまつるほどさへ、現とはおぼえぬぞ、わびしきや。宮も、あさましかりしを思し出づるだに、世とともの御もの思ひなるを、さてだにやみなむと深う思したるに、いと憂くて、いみじき御気色なるものから、なつかしうらうたげに、さりとてうちとけず、心深う恥づかしげなる御もてなしなどの、なほ人に似させたまはぬを、「などか、なのめなることだにうち交じりたまはざりけむ」と、つらうさへぞ思さるる。何ごとをかは聞こえ尽くしたまはむ。くらぶの山に宿りも取らまほしげなれど、あやにくなる短夜にて、あさましう、なかなかなり。


 「見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちに
  やがて紛るる我が身ともがな」


 と、むせかへりたまふさまも、さすがにいみじければ、


 「世語りに人や伝へむたぐひなく
  憂き身を覚めぬ夢になしても」


 思し乱れたるさまも、いと道理にかたじけなし。命婦の君ぞ、御直衣などは、かき集め持て来たる。


 殿におはして、泣き寝に臥し暮らしたまひつ。御文なども、例の、御覧じ入れぬよしのみあれば、常のことながらも、つらういみじう思しほれて、内裏へも参らで、二、三日籠もりおはすれば、また、「いかなるにか」と、御心動かせたまふべかめるも、恐ろしうのみおぼえたまふ。


 [第二段 妊娠三月となる]


 宮も、なほいと心憂き身なりけりと、思し嘆くに、悩ましさもまさりたまひて、とく参りたまふべき御使、しきれど、思しも立たず。


 まことに、御心地、例のやうにもおはしまさぬは、いかなるにかと、人知れず思すこともありければ、心憂く、「いかならむ」とのみ思し乱る。


 暑きほどは、いとど起きも上がりたまはず。三月になりたまへば、いとしきるほどにて、人びと見たてまつりとがむるに、あさましき御宿世のほど、心憂し。人は思ひ寄らぬことなれば、「この月まで、奏せさせたまはざりけること」と、驚ききこゆ。我が御心一つには、しるう思しわくこともありけり。


 御湯殿などにも親しう仕うまつりて、何事の御気色をもしるく見たてまつり知れる、御乳母子の弁、命婦などぞ、あやしと思へど、かたみに言ひあはすべきにあらねば、なほ逃れがたかりける御宿世をぞ、命婦はあさましと思ふ。


 内裏には、御物の怪の紛れにて、とみに気色なうおはしましけるやうにぞ奏しけむかし。見る人もさのみ思ひけり。いとどあはれに限りなう思されて、御使などのひまなきも、そら恐ろしう、ものを思すこと、ひまなし。


 中将の君も、おどろおどろしうさま異なる夢を見たまひて、合はする者を召して、問はせたまへば、及びなう思しもかけぬ筋のことを合はせけり。


 「その中に、違ひ目ありて、慎しませたまふべきことなむはべる」


 と言ふに、わづらはしくおぼえて、


 「みづからの夢にはあらず、人の御ことを語るなり。この夢合ふまで、また人にまねぶな」


 とのたまひて、心のうちには、「いかなることならむ」と思しわたるに、この女宮の御こと聞きたまひて、「もしさるやうもや」と、思し合はせたまふに、いとどしくいみじき言の葉尽くしきこえたまへど、命婦も思ふに、いとむくつけう、わづらはしさまさりて、さらにたばかるべきかたなし。はかなき一行の御返りのたまさかなりしも、絶え果てにたり。


 [第三段 初秋七月に藤壺宮中に戻る]


 七月になりてぞ参りたまひける。めづらしうあはれにて、いとどしき御思ひのほど限りなし。すこしふくらかになりたまひて、うちなやみ、面痩せたまへる、はた、げに似るものなくめでたし。


 例の、明け暮れ、こなたにのみおはしまして、御遊びもやうやうをかしき空なれば、源氏の君も暇なく召しまつはしつつ、御琴、笛など、さまざまに仕うまつらせたまふ。いみじうつつみたまへど、忍びがたき気色の漏り出づる折々、宮も、さすがなる事どもを多く思し続けけり。


 

第三章 紫上の物語(2) 若紫の君、源氏の二条院邸に盗み出される物語
 [第一段 紫の君、六条京極の邸に戻る]

 かの山寺の人は、よろしくなりて出でたまひにけり。京の御住処尋ねて、時々の御消息などあり。同じさまにのみあるも道理なるうちに、この月ごろは、ありしにまさる物思ひに、異事なくて過ぎゆく。


 秋の末つ方、いともの心細くて嘆きたまふ。月のをかしき夜、忍びたる所にからうして思ひ立ちたまへるを、時雨めいてうちそそく。おはする所は六条京極わたりにて、内裏よりなれば、すこしほど遠き心地するに、荒れたる家の木立いともの古りて木暗く見えたるあり。例の御供に離れぬ惟光なむ、


 「故按察使大納言の家にはべりて、もののたよりにとぶらひてはべりしかば、かの尼上、いたう弱りたまひにたれば、何ごともおぼえず、となむ申してはべりし」と聞こゆれば、


 「あはれのことや。とぶらふべかりけるを。などか、さなむとものせざりし。入りて消息せよ」


 とのたまへば、人入れて案内せさす。わざとかう立ち寄りたまへることと言はせたれば、入りて、


 「かく御とぶらひになむおはしましたる」と言ふに、おどろきて、


 「いとかたはらいたきことかな。この日ごろ、むげにいと頼もしげなくならせたまひにたれば、御対面などもあるまじ」


 と言へども、帰したてまつらむはかしこしとて、南の廂ひきつくろひて、入れたてまつる。


 「いとむつかしげにはべれど、かしこまりをだにとて。ゆくりなう、もの深き御座所になむ」


 と聞こゆ。げにかかる所は、例に違ひて思さる。


 「常に思ひたまへ立ちながら、かひなきさまにのみもてなさせたまふに、つつまれはべりてなむ。悩ませたまふこと、重くとも、うけたまはらざりけるおぼつかなさ」など聞こえたまふ。


 「乱り心地は、いつともなくのみはべるが、限りのさまになりはべりて、いとかたじけなく、立ち寄らせたまへるに、みづから聞こえさせぬこと。のたまはすることの筋、たまさかにも思し召し変はらぬやうはべらば、かくわりなき齢過ぎはべりて、かならず数まへさせたまへ。いみじう心細げに見たまへ置くなむ、願ひはべる道のほだしに思ひたまへられぬべき」など聞こえたまへり。


 いと近ければ、心細げなる御声絶え絶え聞こえて、


 「いと、かたじけなきわざにもはべるかな。この君だに、かしこまりも聞こえたまつべきほどならましかば」


 とのたまふ。あはれに聞きたまひて、


 「何か、浅う思ひたまへむことゆゑ、かう好き好きしきさまを見えたてまつらむ。いかなる契りにか、見たてまつりそめしより、あはれに思ひきこゆるも、あやしきまで、この世のことにはおぼえはべらぬ」などのたまひて、「かひなき心地のみしはべるを、かのいはけなうものしたまふ御一声、いかで」とのたまへば、


 「いでや、よろづ思し知らぬさまに、大殿籠もり入りて」


 など聞こゆる折しも、あなたより来る音して、


 「上こそ、この寺にありし源氏の君こそおはしたなれ。など見たまはぬ」


 とのたまふを、人びと、いとかたはらいたしと思ひて、「あなかま」と聞こゆ。


 「いさ、『見しかば心地の悪しさなぐさみき』とのたまひしかばぞかし」


 と、かしこきこと聞こえたりと思してのたまふ。


 いとをかしと聞いたまへど、人びとの苦しと思ひたれば、聞かぬやうにて、まめやかなる御とぶらひを聞こえ置きたまひて、帰りたまひぬ。「げに、言ふかひなのけはひや。さりとも、いとよう教へてむ」と思す。


 またの日も、いとまめやかにとぶらひきこえたまふ。例の、小さくて、


 「いはけなき鶴の一声聞きしより
  葦間になづむ舟ぞえならぬ
 同じ人にや」


 と、ことさら幼く書きなしたまへるも、いみじうをかしげなれば、「やがて御手本に」と、人びと聞こゆ。少納言ぞ聞こえたる。


 「問はせたまへるは、今日をも過ぐしがたげなるさまにて、山寺にまかりわたるほどにて。かう問はせたまへるかしこまりは、この世ならでも聞こえさせむ」


 とあり。いとあはれと思す。


 秋の夕べは、まして、心のいとまなく思し乱るる人の御あたりに心をかけて、あながちなるゆかりも尋ねまほしき心もまさりたまふなるべし。「消えむ空なき」とありし夕べ思し出でられて、恋しくも、また、見ば劣りやせむと、さすがにあやふし。


 「手に摘みていつしかも見む紫の
  根にかよひける野辺の若草」


 [第二段 尼君死去し寂寥と孤独の日々]


 十月に朱雀院の行幸あるべし。舞人など、やむごとなき家の子ども、上達部、殿上人どもなども、その方につきづきしきは、みな選らせたまへれば、親王達、大臣よりはじめて、とりどりの才ども習ひたまふ、いとまなし。


 山里人にも、久しく訪れたまはざりけるを、思し出でて、ふりはへ遣はしたりければ、僧都の返り事のみあり。


 「立ちぬる月の二十日のほどになむ、つひに空しく見たまへなして、世間の道理なれど、悲しび思ひたまふる」


 などあるを見たまふに、世の中のはかなさもあはれに、「うしろめたげに思へりし人もいかならむ。幼きほどに、恋ひやすらむ。故御息所に後れたてまつりし」など、はかばかしからねど、思ひ出でて、浅からずとぶらひたまへり。少納言、ゆゑなからず御返りなど聞こえたり。


 忌みなど過ぎて京の殿になど聞きたまへば、ほど経て、みづから、のどかなる夜おはしたり。いとすごげに荒れたる所の、人少ななるに、いかに幼き人恐ろしからむと見ゆ。例の所に入れたてまつりて、少納言、御ありさまなど、うち泣きつつ聞こえ続くるに、あいなう、御袖もただならず。


 「宮に渡したてまつらむとはべるめるを、『故姫君の、いと情けなく憂きものに思ひきこえたまへりしに、いとむげに児ならぬ齢の、まだはかばかしう人のおもむけをも見知りたまはず、中空なる御ほどにて、あまたものしたまふなる中の、あなづらはしき人にてや交じりたまはむ』など、過ぎたまひぬるも、世とともに思し嘆きつること、しるきこと多くはべるに、かくかたじけなきなげの御言の葉は、後の御心もたどりきこえさせず、いとうれしう思ひたまへられぬべき折節にはべりながら、すこしもなぞらひなるさまにもものしたまはず、御年よりも若びてならひたまへれば、いとかたはらいたくはべる」と聞こゆ。


 「何か、かう繰り返し聞こえ知らする心のほどを、つつみたまふらむ。その言ふかひなき御心のありさまの、あはれにゆかしうおぼえたまふも、契りことになむ、心ながら思ひ知られける。なほ、人伝てならで、聞こえ知らせばや。


  あしわかの浦にみるめはかたくとも
  こは立ちながらかへる波かは
 めざましからむ」とのたまへば、


 「げにこそ、いとかしこけれ」とて、


 「寄る波の心も知らでわかの浦に
  玉藻なびかむほどぞ浮きたる
 わりなきこと」


 と聞こゆるさまの馴れたるに、すこし罪ゆるされたまふ。「なぞ越えざらむ」と、うち誦じたまへるを、身にしみて若き人びと思へり。


 君は、上を恋ひきこえたまひて泣き臥したまへるに、御遊びがたきどもの、


 「直衣着たる人のおはする、宮のおはしますなめり」


 と聞こゆれば、起き出でたまひて、


 「少納言よ。直衣着たりつらむは、いづら。宮のおはするか」


 とて、寄りおはしたる御声、いとらうたし。


 「宮にはあらねど、また思し放つべうもあらず。こち」


 とのたまふを、恥づかしかりし人と、さすがに聞きなして、悪しう言ひてけりと思して、乳母にさし寄りて、


 「いざかし、ねぶたきに」とのたまへば、


 「今さらに、など忍びたまふらむ。この膝の上に大殿籠もれよ。今すこし寄りたまへ」


 とのたまへば、乳母の、


 「さればこそ。かう世づかぬ御ほどにてなむ」


 とて、押し寄せたてまつりたれば、何心もなくゐたまへるに、手をさし入れて探りたまへれば、なよらかなる御衣に、髪はつやつやとかかりて、末のふさやかに探りつけられたる、いとうつくしう思ひやらる。手をとらへたまへれば、うたて例ならぬ人の、かく近づきたまへるは、恐ろしうて、


 「寝なむ、と言ふものを」


 とて、強ひて引き入りたまふにつきてすべり入りて、


 「今は、まろぞ思ふべき人。な疎みたまひそ」


 とのたまふ。乳母、


 「いで、あなうたてや。ゆゆしうもはべるかな。聞こえさせ知らせたまふとも、さらに何のしるしもはべらじものを」とて、苦しげに思ひたれば、


 「さりとも、かかる御ほどをいかがはあらむ。なほ、ただ世に知らぬ心ざしのほどを見果てたまへ」とのたまふ。


 霰降り荒れて、すごき夜のさまなり。


 「いかで、かう人少なに心細うて、過ぐしたまふらむ」


 と、うち泣いたまひて、いと見棄てがたきほどなれば、


 「御格子参りね。もの恐ろしき夜のさまなめるを、宿直人にてはべらむ。人びと、近うさぶらはれよかし」


 とて、いと馴れ顔に御帳のうちに入りたまへば、あやしう思ひのほかにもと、あきれて、誰も誰もゐたり。乳母は、うしろめたなうわりなしと思へど、荒ましう聞こえ騒ぐべきならねば、うち嘆きつつゐたり。


 若君は、いと恐ろしう、いかならむとわななかれて、いとうつくしき御肌つきも、そぞろ寒げに思したるを、らうたくおぼえて、単衣ばかりを押しくくみて、わが御心地も、かつはうたておぼえたまへど、あはれにうち語らひたまひて、


 「いざ、たまへよ。をかしき絵など多く、雛遊びなどする所に」


 と、心につくべきことをのたまふけはひの、いとなつかしきを、幼き心地にも、いといたう怖ぢず、さすがに、むつかしう寝も入らずおぼえて、身じろき臥したまへり。


 夜一夜、風吹き荒るるに、


 「げに、かう、おはせざらましかば、いかに心細からまし」
 「同じくは、よろしきほどにおはしまさましかば」


 とささめきあへり。乳母は、うしろめたさに、いと近うさぶらふ。風すこし吹きやみたるに、夜深う出でたまふも、ことあり顔なりや。


 「いとあはれに見たてまつる御ありさまを、今はまして、片時の間もおぼつかなかるべし。明け暮れ眺めはべる所に渡したてまつらむ。かくてのみは、いかが。もの怖ぢしたまはざりけり」とのたまへば、


 「宮も御迎へになど聞こえのたまふめれど、この御四十九日過ぐしてや、など思うたまふる」と聞こゆれば、


 「頼もしき筋ながらも、よそよそにてならひたまへるは、同じうこそ疎うおぼえたまはめ。今より見たてまつれど、浅からぬ心ざしはまさりぬべくなむ」


 とて、かい撫でつつ、かへりみがちにて出でたまひぬ。


 いみじう霧りわたれる空もただならぬに、霜はいと白うおきて、まことの懸想もをかしかりぬべきに、さうざうしう思ひおはす。いと忍びて通ひたまふ所の道なりけるを思し出でて、門うちたたかせたまへど、聞きつくる人なし。かひなくて、御供に声ある人して歌はせたまふ。


 「朝ぼらけ霧立つ空のまよひにも
  行き過ぎがたき妹が門かな」


 と、二返りばかり歌ひたるに、よしある下仕ひを出だして、


 「立ちとまり霧のまがきの過ぎうくは
  草のとざしにさはりしもせじ」


 と言ひかけて、入りぬ。また人も出で来ねば、帰るも情けなけれど、明けゆく空もはしたなくて殿へおはしぬ。


 をかしかりつる人のなごり恋しく、独り笑みしつつ臥したまへり。日高う大殿籠もり起きて、文やりたまふに、書くべき言葉も例ならねば、筆うち置きつつすさびゐたまへり。をかしき絵などをやりたまふ。


 かしこには、今日しも、宮わたりたまへり。年ごろよりもこよなう荒れまさり、広うもの古りたる所の、いとど人少なに久しければ、見わたしたまひて、


 「かかる所には、いかでか、しばしも幼き人の過ぐしたまはむ。なほ、かしこに渡したてまつりてむ。何の所狭きほどにもあらず。乳母は、曹司などしてさぶらひなむ。君は、若き人びとあれば、もろともに遊びて、いとようものしたまひなむ」などのたまふ。


 近う呼び寄せたてまつりたまへるに、かの御移り香の、いみじう艶に染みかへらせたまへれば、「をかしの御匂ひや。御衣はいと萎えて」と、心苦しげに思いたり。


 「年ごろも、あつしくさだ過ぎたまへる人に添ひたまへるよ、かしこにわたりて見ならしたまへなど、ものせしを、あやしう疎みたまひて、人も心置くめりしを、かかる折にしもものしたまはむも、心苦しう」などのたまへば、


 「何かは。心細くとも、しばしはかくておはしましなむ。すこしものの心思し知りなむにわたらせたまはむこそ、よくははべるべけれ」と聞こゆ。


 「夜昼恋ひきこえたまふに、はかなきものもきこしめさず」


 とて、げにいといたう面痩せたまへれど、いとあてにうつくしく、なかなか見えたまふ。


 「何か、さしも思す。今は世に亡き人の御ことはかひなし。おのれあれば」


 など語らひきこえたまひて、暮るれば帰らせたまふを、いと心細しと思いて泣いたまへば、宮うち泣きたまひて、


 「いとかう思ひな入りたまひそ。今日明日、渡したてまつらむ」など、返す返すこしらへおきて、出でたまひぬ。


 なごりも慰めがたう泣きゐたまへり。行く先の身のあらむことなどまでも思し知らず、ただ年ごろ立ち離るる折なうまつはしならひて、今は亡き人となりたまひにける、と思すがいみじきに、幼き御心地なれど、胸つとふたがりて、例のやうにも遊びたまはず、昼はさても紛らはしたまふを、夕暮となれば、いみじく屈したまへば、かくてはいかでか過ごしたまはむと、慰めわびて、乳母も泣きあへり。


 君の御もとよりは、惟光をたてまつれたまへり。


 「参り来べきを、内裏より召あればなむ。心苦しう見たてまつりしも、しづ心なく」とて、宿直人たてまつれたまへり。


 「あぢきなうもあるかな。戯れにても、もののはじめにこの御ことよ」
 「宮聞こし召しつけば、さぶらふ人びとのおろかなるにぞさいなまむ」
 「あなかしこ、もののついでに、いはけなくうち出できこえさせたまふな」


 など言ふも、それをば何とも思したらぬぞ、あさましきや。


 少納言は、惟光にあはれなる物語どもして、


 「あり経て後や、さるべき御宿世、逃れきこえたまはぬやうもあらむ。ただ今は、かけてもいと似げなき御ことと見たてまつるを、あやしう思しのたまはするも、いかなる御心にか、思ひ寄るかたなう乱れはべる。今日も、宮渡らせたまひて、『うしろやすく仕うまつれ。心幼くもてなしきこゆな』とのたまはせつるも、いとわづらはしう、ただなるよりは、かかる御好き事も思ひ出でられはべりつる」


 など言ひて、「この人もことあり顔にや思はむ」など、あいなければ、いたう嘆かしげにも言ひなさず。大夫も、「いかなることにかあらむ」と、心得がたう思ふ。


 参りて、ありさまなど聞こえければ、あはれに思しやらるれど、さて通ひたまはむも、さすがにすずろなる心地して、「軽々しうもてひがめたると、人もや漏り聞かむ」など、つつましければ、「ただ迎へてむ」と思す。


 御文はたびたびたてまつれたまふ。暮るれば、例の大夫をぞたてまつれたまふ。「障はる事どものありて、え参り来ぬを、おろかにや」などあり。


 「宮より、明日にはかに御迎へにとのたまはせたりつれば、心あわたたしくてなむ。年ごろの蓬生を離れなむも、さすがに心細く、さぶらふ人びとも思ひ乱れて」


 と、言少なに言ひて、をさをさあへしらはず、もの縫ひいとなむけはひなどしるければ、参りぬ。


 [第三段 源氏、紫の君を盗み取る]


 君は大殿におはしけるに、例の、女君とみにも対面したまはず。ものむつかしくおぼえたまひて、あづまをすががきて、「常陸には田をこそ作れ」といふ歌を、声はいとなまめきて、すさびゐたまへり。


 参りたれば、召し寄せてありさま問ひたまふ。しかしかなど聞こゆれば、口惜しう思して、「かの宮に渡りなば、わざと迎へ出でむも、好き好きしかるべし。幼き人を盗み出でたりと、もどきおひなむ。そのさきに、しばし、人にも口固めて、渡してむ」と思して、


 「暁かしこにものせむ。車の装束さながら。随身一人二人仰せおきたれ」とのたまふ。うけたまはりて立ちぬ。


 君、「いかにせまし。聞こえありて好きがましきやうなるべきこと。人のほどだにものを思ひ知り、女の心交はしけることと推し測られぬべくは、世の常なり。父宮の尋ね出でたまへらむも、はしたなう、すずろなるべきを」と、思し乱るれど、さて外してむはいと口惜しかべければ、まだ夜深う出でたまふ。


 女君、例のしぶしぶに、心もとけずものしたまふ。


 「かしこに、いとせちに見るべきことのはべるを思ひたまへ出でて、立ちかへり参り来なむ」とて、出でたまへば、さぶらふ人びとも知らざりけり。わが御方にて、御直衣などはたてまつる。惟光ばかりを馬に乗せておはしぬ。


 門うちたたかせたまへば、心知らぬ者の開けたるに、御車をやをら引き入れさせて、大夫、妻戸を鳴らして、しはぶけば、少納言聞き知りて、出で来たり。


 「ここに、おはします」と言へば、


 「幼き人は、御殿籠もりてなむ。などか、いと夜深うは出でさせたまへる」と、もののたよりと思ひて言ふ。


 「宮へ渡らせたまふべかなるを、そのさきに聞こえ置かむとてなむ」とのたまへば、


 「何ごとにかはべらむ。いかにはかばかしき御答へ聞こえさせたまはむ」


 とて、うち笑ひてゐたり。君、入りたまへば、いとかたはらいたく、


 「うちとけて、あやしき古人どものはべるに」と聞こえさす。


 「まだ、おどろいたまはじな。いで、御目覚ましきこえむ。かかる朝霧を知らでは、寝るものか」


 とて、入りたまへば、「や」とも、え聞こえず。


 君は何心もなく寝たまへるを、抱きおどろかしたまふに、おどろきて、宮の御迎へにおはしたると、寝おびれて思したり。


 御髪かき繕ひなどしたまひて、


 「いざ、たまへ。宮の御使にて参り来つるぞ」


 とのたまふに、「あらざりけり」と、あきれて、恐ろしと思ひたれば、


 「あな、心憂。まろも同じ人ぞ」


 とて、かき抱きて出でたまへば、大輔、少納言など、「こは、いかに」と聞こゆ。


 「ここには、常にもえ参らぬがおぼつかなければ、心やすき所にと聞こえしを、心憂く、渡りたまへるなれば、まして聞こえがたかべければ。人一人参られよかし」


 とのたまへば、心あわたたしくて、


 「今日は、いと便なくなむはべるべき。宮の渡らせたまはむには、いかさまにか聞こえやらむ。おのづから、ほど経て、さるべきにおはしまさば、ともかうもはべりなむを、いと思ひやりなきほどのことにはべれば、さぶらふ人びと苦しうはべるべし」と聞こゆれば、


 「よし、後にも人は参りなむ」とて、御車寄せさせたまへば、あさましう、いかさまにと思ひあへり。


 若君も、あやしと思して泣いたまふ。少納言、とどめきこえむかたなければ、昨夜縫ひし御衣どもひきさげて、自らもよろしき衣着かへて、乗りぬ。


 二条院は近ければ、まだ明うもならぬほどにおはして、西の対に御車寄せて下りたまふ。若君をば、いと軽らかにかき抱きて下ろしたまふ。


 少納言、
 「なほ、いと夢の心地しはべるを、いかにしはべるべきことにか」と、やすらへば、


 「そは、心ななり。御自ら渡したてまつりつれば、帰りなむとあらば、送りせむかし」


 とのたまふに、笑ひて下りぬ。にはかに、あさましう、胸も静かならず。「宮の思しのたまはむこと、いかになり果てたまふべき御ありさまにか、とてもかくも、頼もしき人びとに後れたまへるがいみじさ」と思ふに、涙の止まらぬを、さすがにゆゆしければ、念じゐたり。


 こなたは住みたまはぬ対なれば、御帳などもなかりけり。惟光召して、御帳、御屏風など、あたりあたり仕立てさせたまふ。御几帳の帷子引き下ろし、御座などただひき繕ふばかりにてあれば、東の対に、御宿直物召しに遣はして、大殿籠もりぬ。


 若君は、いとむくつけく、いかにすることならむと、ふるはれたまへど、さすがに声立ててもえ泣きたまはず。


 「少納言がもとに寝む」


 とのたまふ声、いと若し。


 「今は、さは大殿籠もるまじきぞよ」


 と教へきこえたまへば、いとわびしくて泣き臥したまへり。乳母はうちも臥されず、ものもおぼえず起きゐたり。


 明けゆくままに、見わたせば、御殿の造りざま、しつらひざま、さらにも言はず、庭の砂子も玉を重ねたらむやうに見えて、かかやく心地するに、はしたなく思ひゐたれど、こなたには女などもさぶらはざりけり。け疎き客人などの参る折節の方なりければ、男どもぞ御簾の外にありける。


 かく、人迎へたまへりと、聞く人、「誰れならむ。おぼろけにはあらじ」と、ささめく。御手水、御粥など、こなたに参る。日高う寝起きたまひて、


 「人なくて、悪しかめるを、さるべき人びと、夕づけてこそは迎へさせたまはめ」


 とのたまひて、対に童女召しにつかはす。「小さき限り、ことさらに参れ」とありければ、いとをかしげにて、四人参りたり。


 君は御衣にまとはれて臥したまへるを、せめて起こして、


 「かう、心憂くなおはせそ。すずろなる人は、かうはありなむや。女は心柔らかなるなむよき」


 など、今より教へきこえたまふ。


 御容貌は、さし離れて見しよりも、清らにて、なつかしううち語らひつつ、をかしき絵、遊びものども取りに遣はして、見せたてまつり、御心につくことどもをしたまふ。


 やうやう起きゐて見たまふに、鈍色のこまやかなるが、うち萎えたるどもを着て、何心なくうち笑みなどしてゐたまへるが、いとうつくしきに、我もうち笑まれて見たまふ。


 東の対に渡りたまへるに、立ち出でて、庭の木立、池の方など覗きたまへば、霜枯れの前栽、絵に描けるやうにおもしろくて、見も知らぬ四位、五位こきまぜに、隙なう出で入りつつ、「げに、をかしき所かな」と思す。御屏風どもなど、いとをかしき絵を見つつ、慰めておはするもはかなしや。


 君は、二、三日、内裏へも参りたまはで、この人をなつけ語らひきこえたまふ。やがて本にと思すにや、手習、絵などさまざまに書きつつ、見せたてまつりたまふ。いみじうをかしげに書き集めたまへり。「武蔵野と言へばかこたれぬ」と、紫の紙に書いたまへる墨つきの、いとことなるを取りて見ゐたまへり。すこし小さくて、


 「ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の
  露分けわぶる草のゆかりを」


 とあり。
 「いで、君も書いたまへ」とあれば、
 「まだ、ようは書かず」


 とて、見上げたまへるが、何心なくうつくしげなれば、うちほほ笑みて、


 「よからねど、むげに書かぬこそ悪ろけれ。教えきこえむかし」


 とのたまへば、うちそばみて書いたまふ手つき、筆とりたまへるさまの幼げなるも、らうたうのみおぼゆれば、心ながらあやしと思す。「書きそこなひつ」と恥ぢて隠したまふを、せめて見たまへば、


 「かこつべきゆゑを知らねばおぼつかな
  いかなる草のゆかりなるらむ」


 と、いと若けれど、生ひ先見えて、ふくよかに書いたまへり。故尼君のにぞ似たりける。「今めかしき手本習はば、いとよう書いたまひてむ」と見たまふ。


 雛など、わざと屋ども作り続けて、もろともに遊びつつ、こよなきもの思ひの紛らはしなり。


 かのとまりにし人びと、宮渡りたまひて、尋ねきこえたまひけるに、聞こえやる方なくてぞ、わびあへりける。「しばし、人に知らせじ」と君ものたまひ、少納言も思ふことなれば、せちに口固めやりたり。ただ、「行方も知らず、少納言が率て隠しきこえたる」とのみ聞こえさするに、宮も言ふかひなう思して、「故尼君も、かしこに渡りたまはむことを、いとものしと思したりしことなれば、乳母の、いとさし過ぐしたる心ばせのあまり、おいらかに渡さむを、便なし、などは言はで、心にまかせ、率てはふらかしつるなめり」と、泣く泣く帰りたまひぬ。「もし、聞き出でたてまつらば、告げよ」とのたまふも、わづらはしく。僧都の御もとにも、尋ねきこえたまへど、あとはかなくて、あたらしかりし御容貌など、恋しく悲しと思す。


 北の方も、母君を憎しと思ひきこえたまひける心も失せて、わが心にまかせつべう思しけるに違ひぬるは、口惜しう思しけり。


 やうやう人参り集りぬ。御遊びがたきの童女、児ども、いとめづらかに今めかしき御ありさまどもなれば、思ふことなくて遊びあへり。


 君は、男君のおはせずなどして、さうざうしき夕暮などばかりぞ、尼君を恋ひきこえたまひて、うち泣きなどしたまへど、宮をばことに思ひ出できこえたまはず。もとより見ならひきこえたまはでならひたまへれば、今はただこの後の親を、いみじう睦びまつはしきこえたまふ。ものよりおはすれば、まづ出でむかひて、あはれにうち語らひ、御懐に入りゐて、いささか疎く恥づかしとも思ひたらず。さるかたに、いみじうらうたきわざなりけり。


 さかしら心あり、何くれとむつかしき筋になりぬれば、わが心地もすこし違ふふしも出で来やと、心おかれ、人も恨みがちに、思ひのほかのこと、おのづから出で来るを、いとをかしきもてあそびなり。女などはた、かばかりになれば、心やすくうちふるまひ、隔てなきさまに臥し起きなどは、えしもすまじきを、これは、いとさまかはりたるかしづきぐさなりと、思ほいためり。


    六 末摘花
光る源氏の十八歳春正月十六日頃から十九歳春正月八日頃までの物語

第一章 末摘花の物語


 
亡き夕顔追慕---思へどもなほ飽かざりし夕顔の露に後れし心地を
故常陸宮の姫君の噂---左衛門の乳母とて、大弐のさしつぎに思いたるが女、大輔の命婦とて
新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く---のたまひしもしるく、十六夜の月をかしきほどにおはしたり
頭中将とともに左大臣邸へ行く---おのおの契れる方にも、あまえて、え行き別れたまはず
秋八月二十日過ぎ常陸宮の姫君と逢う---秋のころほひ、静かに思しつづけて
その後、訪問なく秋が過ぎる---二条院におはして、うち臥したまひても
冬の雪の激しく降る日に訪問---行幸近くなりて、試楽などののしるころぞ、命婦は参れる
翌朝、姫君の醜貌を見る---からうして明けぬるけしきなれば、格子手づから上げたまひて
歳末に姫君から和歌と衣箱が届けられる---年も暮れぬ。内裏の宿直所におはしますに、大輔の命婦参れり
正月七日夜常陸宮邸に泊まる---朔日のほど過ぎて、今年、男踏歌あるべければ
第二章 若紫の物語

 紫の君と鼻を赤く塗って戯れる---二条院におはしたれば、紫の君、いともうつくしき片生ひにて


 

第一章 末摘花の物語
 [第一段 亡き夕顔追慕]
 思へどもなほ飽かざりし夕顔の露に後れし心地を、年月経れど、思し忘れず、ここもかしこも、うちとけぬ限りの、気色ばみ心深きかたの御いどましさに、け近くうちとけたりしあはれに、似るものなう恋しく思ほえたまふ。
 いかで、ことことしきおぼえはなく、いとらうたげならむ人の、つつましきことなからむ、見つけてしがなと、こりずまに思しわたれば、すこしゆゑづきて聞こゆるわたりは、御耳とどめたまはぬ隈なきに、さてもやと、思し寄るばかりのけはひあるあたりにこそ、一行をもほのめかしたまふめるに、なびききこえずもて離れたるは、をさをさあるまじきぞ、いと目馴れたるや。
 つれなう心強きは、たとしえなう情けおくるるまめやかさなど、あまりもののほど知らぬやうに、さてしも過ぐしはてず、名残なくくづほれて、なほなほしき方に定まりなどするもあれば、のたまひさしつるも多かりける。
 かの空蝉を、ものの折々には、ねたう思し出づ。荻の葉も、さりぬべき風のたよりある時は、おどろかしたまふ折もあるべし。火影の乱れたりしさまは、またさやうにても見まほしく思す。おほかた、名残なきもの忘れをぞ、えしたまはざりける。

 [第二段 故常陸宮の姫君の噂]
 左衛門の乳母とて、大弐のさしつぎに思いたるが女、大輔の命婦とて、内裏にさぶらふ、わかむどほりの兵部大輔なる女なりけり。いといたう色好める若人にてありけるを、君も召し使ひなどしたまふ。母は筑前守の妻にて、下りにければ、父君のもとを里にて行き通ふ。
 故常陸親王の、末にまうけていみじうかなしうかしづきたまひし御女、心細くて残りゐたるを、もののついでに語りきこえければ、あはれのことやとて、御心とどめて問ひ聞きたまふ。
 「心ばへ容貌など、深き方はえ知りはべらず。かいひそめ、人疎うもてなしたまへば、さべき宵など、物越しにてぞ、語らひはべる。琴をぞなつかしき語らひ人と思へる」と聞こゆれば、
 「三つの友にて、今一種やうたてあらむ」とて、「我に聞かせよ。父親王の、さやうの方にいとよしづきてものしたまうければ、おしなべての手にはあらじ、となむ思ふ」とのたまへば、
 「さやうに聞こし召すばかりにはあらずやはべらむ」
 と言へど、御心とまるばかり聞こえなすを、
 「いたうけしきばましや。このころのおぼろ月夜に忍びてものせむ。まかでよ」
 とのたまへば、わづらはしと思へど、内裏わたりものどやかなる春のつれづれにまかでぬ。
 父の大輔の君は他にぞ住みける。ここには時々ぞ通ひける。命婦は、継母のあたりは住みもつかず、姫君の御あたりをむつびて、ここには来るなりけり。


 [第三段 新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く]
 のたまひしもしるく、十六夜の月をかしきほどにおはしたり。
 「いと、かたはらいたきわざかな。ものの音澄むべき夜のさまにもはべらざめるに」と聞こゆれど、
 「なほ、あなたにわたりて、ただ一声も、もよほしきこえよ。むなしくて帰らむが、ねたかるべきを」
 とのたまへば、うちとけたる住み処に据ゑたてまつりて、うしろめたうかたじけなしと思へど、寝殿に参りたれば、まだ格子もさながら、梅の香をかしきを見出だしてものしたまふ。よき折かな、と思ひて、
 「御琴の音、いかにまさりはべらむと、思ひたまへらるる夜のけしきに、誘はれはべりてなむ。心あわたたしき出で入りに、えうけたまはらぬこそ口惜しけれ」と言へば、
 「聞き知る人こそあなれ。百敷に行き交ふ人の聞くばかりやは」
 とて、召し寄するも、あいなう、いかが聞きたまはむと、胸つぶる。
 ほのかに掻き鳴らしたまふ、をかしう聞こゆ。何ばかり深き手ならねど、ものの音がらの筋ことなるものなれば、聞きにくくも思されず。
 「いといたう荒れわたりて寂しき所に、さばかりの人の、古めかしう、ところせく、かしづき据ゑたりけむ名残なく、いかに思ほし残すことなからむ。かやうの所にこそは、昔物語にもあはれなることどもありけれ」など思ひ続けても、ものや言ひ寄らまし、と思せど、うちつけにや思さむと、心恥づかしくて、やすらひたまふ。
 命婦、かどある者にて、いたう耳ならさせたてまつらじ、と思ひければ、
 「曇りがちにはべるめり。客人の来むとはべりつる、いとひ顔にもこそ。いま心のどかにを。御格子参りなむ」
 とて、いたうもそそのかさで帰りたれば、
 「なかなかなるほどにても止みぬるかな。もの聞き分くほどにもあらで、ねたう」
 とのたまふけしき、をかしと思したり。
 「同じくは、け近きほどの立ち聞きせさせよ」
 とのたまへど、「心にくくて」と思へば、
 「いでや、いとかすかなるありさまに思ひ消えて、心苦しげにものしたまふめるを、うしろめたきさまにや」
 と言へば、「げに、さもあること。にはかに我も人もうちとけて語らふべき人の際は、際とこそあれ」など、あはれに思さるる人の御ほどなれば、
 「なほ、さやうのけしきをほのめかせ」と、語らひたまふ。
 また契りたまへる方やあらむ、いと忍びて帰りたまふ。
 「主上の、まめにおはしますと、もてなやみきこえさせたまふこそ、をかしう思うたまへらるる折々はべれ。かやうの御やつれ姿を、いかでかは御覧じつけむ」
 と聞こゆれば、たち返り、うち笑ひて、
 「異人の言はむやうに、咎なあらはされそ。これをあだあだしきふるまひと言はば、女のありさま苦しからむ」
 とのたまへば、「あまり色めいたりと思して、折々かうのたまふを、恥づかし」と思ひて、ものも言はず。
 寝殿の方に、人のけはひ聞くやうもやと思して、やをら立ち退きたまふ。透垣のただすこし折れ残りたる隠れの方に、立ち寄りたまふに、もとより立てる男ありけり。「誰れならむ。心かけたる好き者ありけり」と思して、蔭につきて立ち隠れたまへば、頭中将なりけり。
 この夕つ方、内裏よりもろともにまかでたまひける、やがて大殿にも寄らず、二条院にもあらで、引き別れたまひけるを、いづちならむと、ただならで、我も行く方あれど、後につきてうかがひけり。あやしき馬に、狩衣姿のないがしろにて来ければ、え知りたまはぬに、さすがに、かう異方に入りたまひぬれば、心も得ず思ひけるほどに、ものの音に聞きついて立てるに、帰りや出でたまふと、下待つなりけり。
 君は、誰ともえ見分きたまはで、我と知られじと、抜き足に歩みたまふに、ふと寄りて、
 「ふり捨てさせたまへるつらさに、御送り仕うまつりつるは。
  もろともに大内山は出でつれど
  入る方見せぬいさよひの月」
 と恨むるもねたけれど、この君と見たまふ、すこしをかしうなりぬ。
 「人の思ひよらぬことよ」と憎む憎む、
 「里わかぬかげをば見れどゆく月の
  いるさの山を誰れか尋ぬる」
 「かう慕ひありかば、いかにせさせたまはむ」と聞こえたまふ。
 「まことは、かやうの御歩きには、随身からこそはかばかしきこともあるべけれ。後らさせたまはでこそあらめ。やつれたる御歩きは、軽々しき事も出で来なむ」
 と、おし返しいさめたてまつる。かうのみ見つけらるるを、ねたしと思せど、かの撫子はえ尋ね知らぬを、重き功に、御心のうちに思し出づ。


 [第四段 頭中将とともに左大臣邸へ行く]
 おのおの契れる方にも、あまえて、え行き別れたまはず、一つ車に乗りて、月のをかしきほどに雲隠れたる道のほど、笛吹き合せて大殿におはしぬ。
 前駆なども追はせたまはず、忍び入りて、人見ぬ廊に御直衣ども召して、着替へたまふ。つれなう、今来るやうにて、御笛ども吹きすさびておはすれば、大臣、例の聞き過ぐしたまはで、高麗笛取り出でたまへり。いと上手におはすれば、いとおもしろう吹きたまふ。御琴召して、内にも、この方に心得たる人びとに弾かせたまふ。
 中務の君、わざと琵琶は弾けど、頭の君心かけたるをもて離れて、ただこのたまさかなる御けしきのなつかしきをば、え背ききこえぬに、おのづから隠れなくて、大宮などもよろしからず思しなりたれば、もの思はしく、はしたなき心地して、すさまじげに寄り臥したり。絶えて見たてまつらぬ所に、かけ離れなむも、さすがに心細く思ひ乱れたり。
 君たちは、ありつる琴の音を思し出でて、あはれげなりつる住まひのさまなども、やう変へてをかしう思ひつづけ、「あらましごとに、いとをかしうらうたき人の、さて年月を重ねゐたらむ時、見そめて、いみじう心苦しくは、人にももて騒がるばかりや、わが心もさま悪しからむ」などさへ、中将は思ひけり。この君のかう気色ばみありきたまふを、「まさに、さては、過ぐしたまひてむや」と、なまねたう危ふがりけり。
 その後、こなたかなたより、文などやりたまふべし。いづれも返り事見えず、おぼつかなく心やましきに、「あまりうたてもあるかな。さやうなる住まひする人は、もの思ひ知りたるけしき、はかなき木草、空のけしきにつけても、とりなしなどして、心ばせ推し測らるる折々あらむこそあはれなるべけれ、重しとても、いとかうあまり埋もれたらむは、心づきなく、悪びたり」と、中将は、まいて心焦られしけり。例の、隔てきこえたまはぬ心にて、
 「しかしかの返り事は見たまふや。試みにかすめたりしこそ、はしたなくて止みにしか」
 と、憂ふれば、「さればよ、言ひ寄りにけるをや」と、ほほ笑まれて、
 「いさ、見むとしも思はねばにや、見るとしもなし」
 と、答へたまふを、「人わきしける」と思ふに、いとねたし。
 君は、深うしも思はぬことの、かう情けなきを、すさまじく思ひなりたまひにしかど、かうこの中将の言ひありきけるを、「言多く言ひなれたらむ方にぞ靡かむかし。したり顔にて、もとのことを思ひ放ちたらむけしきこそ、憂はしかるべけれ」と思して、命婦をまめやかに語らひたまふ。
 「おぼつかなく、もて離れたる御けしきなむ、いと心憂き。好き好きしき方に疑ひ寄せたまふにこそあらめ。さりとも、短き心ばへつかはぬものを。人の心ののどやかなることなくて、思はずにのみあるになむ、おのづからわがあやまちにもなりぬべき。心のどかにて、親はらからのもてあつかひ恨むるもなう、心やすからむ人は、なかなかなむらうたかるべきを」とのたまへば、
 「いでや、さやうにをかしき方の御笠宿りには、えしもやと、つきなげにこそ見えはべれ。ひとへにものづつみし、ひき入りたる方はしも、ありがたうものしたまふ人になむ」
 と、見るありさま語りきこゆ。「らうらうじう、かどめきたる心はなきなめり。いと子めかしうおほどかならむこそ、らうたくはあるべけれ」と思し忘れず、のたまふ。


 瘧病みにわづらひたまひ、人知れぬもの思ひの紛れも、御心のいとまなきやうにて、春夏過ぎぬ。


 [第五段 秋八月二十日過ぎ常陸宮の姫君と逢う]
 秋のころほひ、静かに思しつづけて、かの砧の音も耳につきて聞きにくかりしさへ、恋しう思し出でらるるままに、常陸宮にはしばしば聞こえたまへど、なほおぼつかなうのみあれば、世づかず、心やましう、負けては止まじの御心さへ添ひて、命婦を責めたまふ。
 「いかなるやうぞ。いとかかる事こそ、まだ知らね」
 と、いとものしと思ひてのたまへば、いとほしと思ひて、
 「もて離れて、似げなき御事とも、おもむけはべらず。ただ、おほかたの御ものづつみのわりなきに、手をえさし出でたまはぬとなむ見たまふる」と聞こゆれば、
 「それこそは世づかぬ事なれ。物思ひ知るまじきほど、独り身をえ心にまかせぬほどこそ、ことわりなれ、何事も思ひしづまりたまへらむ、と思ふこそ。そこはかとなく、つれづれに心細うのみおぼゆるを、同じ心に答へたまはむは、願ひかなふ心地なむすべき。何やかやと、世づける筋ならで、その荒れたる簀子にたたずままほしきなり。いとうたうて心得ぬ心地するを、かの御許しなくとも、たばかれかし。心苛られし、うたてあるもてなしには、よもあらじ」
 など、語らひたまふ。
 なほ世にある人のありさまを、おほかたなるやうにて聞き集め、耳とどめたまふ癖のつきたまへるを、さうざうしき宵居など、はかなきついでに、さる人こそとばかり聞こえ出でたりしに、かくわざとがましうのたまひわたれば、「なまわづらはしく、女君の御ありさまも、世づかはしく、よしめきなどもあらぬを、なかなかなる導きに、いとほしき事や見えむなむ」と思ひけれど、君のかうまめやかにのたまふに、「聞き入れざらむも、ひがひがしかるべし。父親王おはしける折にだに、旧りにたるあたりとて、おとなひきこゆる人もなかりけるを、まして、今は浅茅分くる人も跡絶えたるに」。
 かく世にめづらしき御けはひの、漏りにほひくるをば、なま女ばらなども笑み曲げて、「なほ聞こえたまへ」と、そそのかしたてまつれど、あさましうものづつみしたまふ心にて、ひたぶるに見も入れたまはぬなりけり。
 命婦は、「さらば、さりぬべからむ折に、物越しに聞こえたまはむほど、御心につかずは、さても止みかねし。また、さるべきにて、仮にもおはし通はむを、とがめたまふべき人なし」など、あだめきたるはやり心はうち思ひて、父君にも、かかる事なども言はざりけり。
 八月二十余日、宵過ぐるまで待たるる月の心もとなきに、星の光ばかりさやけく、松の梢吹く風の音心細くて、いにしへの事語り出でて、うち泣きなどしたまふ。「いとよき折かな」と思ひて、御消息や聞こえつらむ、例のいと忍びておはしたり。
 月やうやう出でて、荒れたる籬のほどうとましくうち眺めたまふに、琴そそのかされて、ほのかにかき鳴らしたまふほど、けしうはあらず。「すこし、け近う今めきたる気をつけばや」とぞ、乱れたる心には、心もとなく思ひゐたる。人目しなき所なれば、心やすく入りたまふ。命婦を呼ばせたまふ。今しもおどろき顔に、
 「いとかたはらいたきわざかな。しかしかこそ、おはしましたなれ。常に、かう恨みきこえたまふを、心にかなはぬ由をのみ、いなびきこえはべれば、『みづからことわりも聞こえ知らせむ』と、のたまひわたるなり。いかが聞こえ返さむ。なみなみのたはやすき御ふるまひならねば、心苦しきを。物越しにて、聞こえたまはむこと、聞こしめせ」
 と言へば、いと恥づかしと思ひて、
 「人にもの聞こえむやうも知らぬを」
 とて、奥ざまへゐざり入りたまふさま、いとうひうひしげなり。うち笑ひて、
 「いと若々しうおはしますこそ、心苦しけれ。限りなき人も、親などおはしてあつかひ後見きこえたまふほどこそ、若びたまふもことわりなれ、かばかり心細き御ありさまに、なほ世を尽きせず思し憚るは、つきなうこそ」と教へきこゆ。
 さすがに、人の言ふことは強うもいなびぬ御心にて、
 「答へきこえで、ただ聞け、とあらば。格子など鎖してはありなむ」とのたまふ。
 「簀子などは便なうはべりなむ。おしたちて、あはあはしき御心などは、よも」
 など、いとよく言ひなして、二間の際なる障子、手づからいと強く鎖して、御茵うち置きひきつくろふ。
 いとつつましげに思したれど、かやうの人にもの言ふらむ心ばへなども、夢に知りたまはざりければ、命婦のかう言ふを、あるやうこそはと思ひてものしたまふ。乳母だつ老い人などは、曹司に入り臥して、夕まどひしたるほどなり。若き人、二、三人あるは、世にめでられたまふ御ありさまを、ゆかしきものに思ひきこえて、心げさうしあへり。よろしき御衣たてまつり変へ、つくろひきこゆれば、正身は、何の心げさうもなくておはす。
 男は、いと尽きせぬ御さまを、うち忍び用意したまへる御けはひ、いみじうなまめきて、「見知らむ人にこそ見せめ、栄えあるまじきわたりを、あな、いとほし」と、命婦は思へど、ただおほどかにものしたまふをぞ、「うしろやすう、さし過ぎたることは見えたてまつりたまはじ」と思ひける。「わが常に責められたてまつる罪さりごとに、心苦しき人の御もの思ひや出でこむ」など、やすからず思ひゐたり。
 君は、人の御ほどを思せば、「されくつがへる今様のよしばみよりは、こよなう奥ゆかしう」と思さるるに、いたうそそのかされて、ゐざり寄りたまへるけはひ、忍びやかに、衣被の香いとなつかしう薫り出でて、おほどかなるを、「さればよ」と思す。年ごろ思ひわたるさまなど、いとよくのたまひつづくれど、まして近き御答へは絶えてなし。「わりなのわざや」と、うち嘆きたまふ。
 「いくそたび君がしじまにまけぬらむ
  ものな言ひそと言はぬ頼みに
 のたまひも捨ててよかし。玉だすき苦し」
 とのたまふ。女君の御乳母子、侍従とて、はやりかなる若人、「いと心もとなう、かたはらいたし」と思ひて、さし寄りて、聞こゆ。
 「鐘つきてとぢめむことはさすがにて
  答へまうきぞかつはあやなき」
 いと若びたる声の、ことに重りかならぬを、人伝てにはあらぬやうに聞こえなせば、「ほどよりはあまえて」と聞きたまへど、
 「めづらしきが、なかなか口ふたがるわざかな
  言はぬをも言ふにまさると知りながら
  おしこめたるは苦しかりけり」
 何やかやと、はかなきことなれど、をかしきさまにも、まめやかにものたまへど、何のかひなし。
 「いとかかるも、さまかはり、思ふ方ことにものしたまふ人にや」と、ねたくて、やをら押し開けて入りたまひにけり。
 命婦、「あな、うたて。たゆめたまへる」と、いとほしければ、知らず顔にて、わが方へ往にけり。この若人ども、はた、世にたぐひなき御ありさまの音聞きに、罪ゆるしきこえて、おどろおどろしうも嘆かれず、ただ、思ひもよらずにはかにて、さる御心もなきをぞ、思ひける。
 正身は、ただ我にもあらず、恥づかしくつつましきよりほかのことまたなければ、「今はかかるぞあはれなるかし、まだ世馴れぬ人、うちかしづかれたる」と、見ゆるしたまふものから、心得ず、なまいとほしとおぼゆる御さまなり。何ごとにつけてかは御心のとまらむ、うちうめかれて、夜深う出でたまひぬ。
 命婦は、「いかならむ」と、目覚めて、聞き臥せりけれど、「知り顔ならじ」とて、「御送りに」とも、声づくらず。君も、やをら忍びて出でたまひにけり。


 [第六段 その後、訪問なく秋が過ぎる]
 二条院におはして、うち臥したまひても、「なほ思ふにかなひがたき世にこそ」と、思しつづけて、軽らかならぬ人の御ほどを、心苦しとぞ思しける。思ひ乱れておはするに、頭中将おはして、
 「こよなき御朝寝かな。ゆゑあらむかしとこそ、思ひたまへらるれ」
 と言へば、起き上がりたまひて、
 「心やすき独り寝の床にて、ゆるびにけりや。内裏よりか」
 とのたまへば、
 「しか。まかではべるままなり。朱雀院の行幸、今日なむ、楽人、舞人定めらるべきよし、昨夜うけたまはりしを、大臣にも伝へ申さむとてなむ、まかではべる。やがて帰り参りぬべうはべり」
 と、いそがしげなれば、
 「さらば、もろともに」
 とて、御粥、強飯召して、客人にも参りたまひて、引き続けたれど、一つにたてまつりて、
 「なほ、いとねぶたげなり」
 と、とがめ出でつつ、
 「隠いたまふこと多かり」
 とぞ、恨みきこえたまふ。
 事ども多く定めらるる日にて、内裏にさぶらひ暮らしたまひつ。
 かしこには、文をだにと、いとほしく思し出でて、夕つ方ぞありける。雨降り出でて、ところせくもあるに、笠宿りせむと、はた、思されずやありけむ。かしこには、待つほど過ぎて、命婦も、「いといとほしき御さまかな」と、心憂く思ひけり。正身は、御心のうちに恥づかしう思ひたまひて、今朝の御文の暮れぬれど、なかなか、咎とも思ひわきたまはざりけり。
 「夕霧の晴るるけしきもまだ見ぬに
  いぶせさそふる宵の雨かな
 雲間待ち出でむほど、いかに心もとなう」
 とあり。おはしますまじき御けしきを、人びと胸つぶれて思へど、
 「なほ、聞こえさせたまへ」
 と、そそのかしあへれど、いとど思ひ乱れたまへるほどにて、え型のやうにも続けたまはねば、「夜更けぬ」とて、侍従ぞ、例の教へきこゆる。
 「晴れぬ夜の月待つ里を思ひやれ
  同じ心に眺めせずとも」
 口々に責められて、紫の紙の、年経にければ灰おくれ古めいたるに、手はさすがに文字強う、中さだの筋にて、上下等しく書いたまへり。見るかひなううち置きたまふ。
 いかに思ふらむと思ひやるも、安からず。
 「かかることを、悔しなどは言ふにやあらむ。さりとていかがはせむ。我は、さりとも、心長く見果ててむ」と、思しなす御心を知らねば、かしこにはいみじうぞ嘆いたまひける。
 大臣、夜に入りてまかでたまふに、引かれたてまつりて、大殿におはしましぬ。行幸のことを興ありと思ほして、君たち集りて、のたまひ、おのおの舞ども習ひたまふを、そのころのことにて過ぎゆく。
 ものの音ども、常よりも耳かしかましくて、かたがたいどみつつ、例の御遊びならず、大篳篥、尺八の笛などの大声を吹き上げつつ、太鼓をさへ高欄のもとにまろばし寄せて、手づからうち鳴らし、遊びおはさうず。
 御いとまなきやうにて、せちに思す所ばかりにこそ、盗まはれたまへれ、かのわたりには、いとおぼつかなくて、秋暮れ果てぬ。なほ頼み来しかひなくて過ぎゆく。


 [第七段 冬の雪の激しく降る日に訪問]
 行幸近くなりて、試楽などののしるころぞ、命婦は参れる。
 「いかにぞ」など、問ひたまひて、いとほしとは思したり。ありさま聞こえて、
 「いとかう、もて離れたる御心ばへは、見たまふる人さへ、心苦しく」
 など、泣きぬばかり思へり。「心にくくもてなして止みなむと思へりしことを、くたいてける、心もなくこの人の思ふらむ」をさへ思す。正身の、ものは言はで、思しうづもれたまふらむさま、思ひやりたまふも、いとほしければ、
 「いとまなきほどぞや。わりなし」と、うち嘆いたまひて、「もの思ひ知らぬやうなる心ざまを、懲らさむと思ふぞかし」
 と、ほほ笑みたまへる、若ううつくしげなれば、我もうち笑まるる心地して、「わりなの、人に恨みられたまふ御齢や。思ひやり少なう、御心のままならむも、ことわり」と思ふ。
 この御いそぎのほど過ぐしてぞ、時々おはしける。
 かの紫のゆかり、尋ねとりたまひて、そのうつくしみに心入りたまひて、六条わたりにだに、離れまさりたまふめれば、まして荒れたる宿は、あはれに思しおこたらずながら、もの憂きぞ、わりなかりけると、ところせき御もの恥ぢを見あらはさむの御心も、ことになうて過ぎゆくを、またうちかへし、「見まさりするやうもありかし。手さぐりのたどたどしきに、あやしう、心得ぬこともあるにや。見てしがな」と思ほせど、けざやかにとりなさむもまばゆし。うちとけたる宵居のほど、やをら入りたまひて、格子のはさまより見たまひけり。
 されど、みづからは見えたまふべくもあらず。几帳など、いたく損なはれたるものから、年経にける立ちど変はらず、おしやりなど乱れねば、心もとなくて、御達四、五人ゐたり。御台、秘色やうの唐土のものなれど、人悪ろきに、何のくさはひもなくあはれげなる、まかでて人びと食ふ。
 隅の間ばかりにぞ、いと寒げなる女ばら、白き衣のいひしらず煤けたるに、きたなげなる褶引き結ひつけたる腰つき、かたくなしげなり。さすがに櫛おし垂れて挿したる額つき、内教坊、内侍所のほどに、かかる者どもあるはやと、をかし。かけても、人のあたりに近うふるまふ者とも知りたまはざりけり。
 「あはれ、さも寒き年かな。命長ければ、かかる世にもあふものなりけり」
 とて、うち泣くもあり。
 「故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけり」
 とて、飛び立ちぬべくふるふもあり。
 さまざまに人悪ろきことどもを、愁へあへるを聞きたまふも、かたはらいたければ、たちのきて、ただ今おはするやうにて、うちたたきたまふ。
 「そそや」など言ひて、火とり直し、格子放ちて入れたてまつる。
 侍従は、斎院に参り通ふ若人にて、この頃はなかりけり。いよいよあやしうひなびたる限りにて、見ならはぬ心地ぞする。
 いとど、愁ふなりつる雪、かきたれいみじう降りけり。空の気色はげしう、風吹き荒れて、大殿油消えにけるを、ともしつくる人もなし。かの、ものに襲はれし折思し出でられて、荒れたるさまは劣らざめるを、ほどの狭う、人気のすこしあるなどに慰めたれど、すごう、うたていざとき心地する夜のさまなり。
 をかしうもあはれにも、やうかへて、心とまりぬべきありさまを、いと埋れすくよかにて、何の栄えなきをぞ、口惜しう思す。


 [第八段 翌朝、姫君の醜貌を見る]
 からうして明けぬるけしきなれば、格子手づから上げたまひて、前の前栽の雪を見たまふ。踏みあけたる跡もなく、はるばると荒れわたりて、いみじう寂しげなるに、ふり出でて行かむこともあはれにて、
 「をかしきほどの空も見たまへ。尽きせぬ御心の隔てこそ、わりなけれ」
 と、恨みきこえたまふ。まだほの暗けれど、雪の光にいとどきよらに若う見えたまふを、老い人ども笑みさかえて見たてまつる。
 「はや出でさせたまへ。あぢきなし。心うつくしきこそ」
 など教へきこゆれば、さすがに、人の聞こゆることをえいなびたまはぬ御心にて、とかう引きつくろひて、ゐざり出でたまへり。
 見ぬやうにて、外の方を眺めたまへれど、後目はただならず。「いかにぞ、うちとけまさりの、いささかもあらばうれしからむ」と思すも、あながちなる御心なりや。
 まづ、居丈の高く、を背長に見えたまふに、「さればよ」と、胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは、鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり。色は雪恥づかしく白うて真青に、額つきこよなうはれたるに、なほ下がちなる面やうは、おほかたおどろおどろしう長きなるべし。痩せたまへること、いとほしげにさらぼひて、肩のほどなどは、いたげなるまで衣の上まで見ゆ。「何に残りなう見あらはしつらむ」と思ふものから、めづらしきさまのしたれば、さすがに、うち見やられたまふ。
 頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人びとにも、をさをさ劣るまじう、袿の裾にたまりて引かれたるほど、一尺ばかりあまりたらむと見ゆ。着たまへるものどもをさへ言ひたつるも、もの言ひさがなきやうなれど、昔物語にも、人の御装束をこそまづ言ひためれ。
 聴し色のわりなう上白みたる一襲、なごりなう黒き袿重ねて、表着には黒貂の皮衣、いときよらに香ばしきを着たまへり。古代のゆゑづきたる御装束なれど、なほ若やかなる女の御よそひには、似げなうおどろおどろしきこと、いともてはやされたり。されど、げに、この皮なうて、はた、寒からましと見ゆる御顔ざまなるを、心苦しと見たまふ。
 何ごとも言はれたまはず、我さへ口閉ぢたる心地したまへど、例のしじまも心みむと、とかう聞こえたまふに、いたう恥ぢらひて、口おほひしたまへるさへ、ひなび古めかしう、ことことしく、儀式官の練り出でたる臂もちおぼえて、さすがにうち笑みたまへるけしき、はしたなうすずろびたり。いとほしくあはれにて、いとど急ぎ出でたまふ。
 「頼もしき人なき御ありさまを、見そめたる人には、疎からず思ひむつびたまはむこそ、本意ある心地すべけれ。ゆるしなき御けしきなれば、つらう」など、ことつけて、
 「朝日さす軒の垂氷は解けながら
  などかつららの結ぼほるらむ」
 とのたまへど、ただ「むむ」とうち笑ひて、いと口重げなるもいとほしければ、出でたまひぬ。
 御車寄せたる中門の、いといたうゆがみよろぼひて、夜目にこそ、しるきながらもよろづ隠ろへたること多かりけれ、いとあはれにさびしく荒れまどへるに、松の雪のみ暖かげに降り積める、山里の心地して、ものあはれなるを、「かの人びとの言ひし葎の門は、かうやうなる所なりけむかし。げに、心苦しくらうたげならむ人をここに据ゑて、うしろめたう恋しと思はばや。あるまじきもの思ひは、それに紛れなむかし」と、「思ふやうなる住みかに合はぬ御ありさまは、取るべきかたなし」と思ひながら、「我ならぬ人は、まして見忍びてむや。わがかうて見馴れけるは、故親王のうしろめたしとたぐへ置きたまひけむ魂のしるべなめり」とぞ思さるる。
 橘の木の埋もれたる、御随身召して払はせたまふ。うらやみ顔に、松の木のおのれ起きかへりて、さとこぼるる雪も、「名に立つ末の」と見ゆるなどを、「いと深からずとも、なだらかなるほどにあひしらはむ人もがな」と見たまふ。
 御車出づべき門は、まだ開けざりければ、鍵の預かり尋ね出でたれば、翁のいといみじきぞ出で来たる。娘にや、孫にや、はしたなる大きさの女の、衣は雪にあひて煤けまどひ、寒しと思へるけしき、深うて、あやしきものに火をただほのかに入れて袖ぐくみに持たり。翁、門をえ開けやらねば、寄りてひき助くる、いとかたくななり。御供の人、寄りてぞ開けつる。
 「降りにける頭の雪を見る人も
  劣らず濡らす朝の袖かな
 『幼き者は形蔽れず』」
 とうち誦じたまひても、鼻の色に出でて、いと寒しと見えつる御面影、ふと思ひ出でられて、ほほ笑まれたまふ。「頭中将に、これを見せたらむ時、いかなることをよそへ言はむ、常にうかがひ来れば、今見つけられなむ」と、術なう思す。
 世の常なるほどの、異なることなさならば、思ひ捨てても止みぬべきを、さだかに見たまひて後は、なかなかあはれにいみじくて、まめやかなるさまに、常に訪れたまふ。
 黒貂の皮ならぬ、絹、綾、綿など、老い人どもの着るべきもののたぐひ、かの翁のためまで、上下思しやりてたてまつりたまふ。かやうのまめやかごとも恥づかしげならぬを、心やすく、「さる方の後見にて育まむ」と思ほしとりて、さまことに、さならぬうちとけわざもしたまひけり。
 「かの空蝉の、うちとけたりし宵の側目には、いと悪ろかりし容貌ざまなれど、もてなしに隠されて、口惜しうはあらざりきかし。劣るべきほどの人なりやは。げに品にもよらぬわざなりけり。心ばせのなだらかに、ねたげなりしを、負けて止みにしかな」と、ものの折ごとには思し出づ。


 [第九段 歳末に姫君から和歌と衣箱が届けられる]
 年も暮れぬ。内裏の宿直所におはしますに、大輔の命婦参れり。御梳櫛などには、懸想だつ筋なく、心やすきものの、さすがにのたまひたはぶれなどして、使ひならしたまへれば、召しなき時も、聞こゆべき事ある折は、参う上りけり。
 「あやしきことのはべるを、聞こえさせざらむもひがひがしう、思ひたまへわづらひて」
 と、ほほ笑みて聞こえやらぬを、
 「何ざまのことぞ。我にはつつむことあらじと、なむ思ふ」とのたまへば、
 「いかがは。みづからの愁へは、かしこくとも、まづこそは。これは、いと聞こえさせにくくなむ」
 と、いたう言籠めたれば、
 「例の、艶なる」と憎みたまふ。
 「かの宮よりはべる御文」とて、取り出でたり。
 「まして、これは取り隠すべきことかは」
 とて、取りたまふも、胸つぶる。
 陸奥紙の厚肥えたるに、匂ひばかりは深うしめたまへり。いとよう書きおほせたり。歌も、
 「唐衣君が心のつらければ
  袂はかくぞそぼちつつのみ」
 心得ずうちかたぶきたまへるに、包みに、衣筥の重りかに古代なるうち置きて、おし出でたり。
 「これを、いかでかは、かたはらいたく思ひたまへざらむ。されど、朔日の御よそひとて、わざとはべるめるを、はしたなうはえ返しはべらず。ひとり引き籠めはべらむも、人の御心違ひはべるべければ、御覧ぜさせてこそは」と聞こゆれば、
 「引き籠められなむは、からかりなまし。袖まきほさむ人もなき身にいとうれしき心ざしにこそは」
 とのたまひて、ことにもの言はれたまはず。「さても、あさましの口つきや。これこそは手づからの御ことの限りなめれ。侍従こそとり直すべかめれ。また、筆のしりとる博士ぞなかべき」と、言ふかひなく思す。心を尽くして詠み出でたまひつらむほどを思すに、
 「いともかしこき方とは、これをも言ふべかりけり」
 と、ほほ笑みて見たまふを、命婦、面赤みて見たてまつる。
 今様色の、えゆるすまじく艶なう古めきたる直衣の、裏表ひとしうこまやかなる、いとなほなほしう、つまづまぞ見えたる。「あさまし」と思すに、この文をひろげながら、端に手習ひすさびたまふを、側目に見れば、
 「なつかしき色ともなしに何にこの
  すゑつむ花を袖に触れけむ
 色濃き花と見しかども」
 など、書きけがしたまふ。花のとがめを、なほあるやうあらむと、思ひ合はする折々の、月影などを、いとほしきものから、をかしう思ひなりぬ。
 「紅のひと花衣うすくとも
  ひたすら朽す名をし立てずは
 心苦しの世や」
 と、いといたう馴れてひとりごつを、よきにはあらねど、「かうやうのかいなでにだにあらましかば」と、返す返す口惜し。人のほどの心苦しきに、名の朽ちなむはさすがなり。人びと参れば、
 「取り隠さむや。かかるわざは人のするものにやあらむ」
 と、うちうめきたまふ。「何に御覧ぜさせつらむ。我さへ心なきやうに」と、いと恥づかしくて、やをら下りぬ。
 またの日、上にさぶらへば、台盤所にさしのぞきたまひて、
 「くはや。昨日の返り事。あやしく心ばみ過ぐさるる」
 とて、投げたまへり。女房たち、何ごとならむと、ゆかしがる。
 「ただ梅の花の色のごと、三笠の山のをとめをば捨てて」
 と、歌ひすさびて出でたまひぬるを、命婦は「いとをかし」と思ふ。心知らぬ人びとは、
 「なぞ、御ひとりゑみは」と、とがめあへり。
 「あらず。寒き霜朝に、掻練好める花の色あひや見えつらむ。御つづしり歌のいとほしき」と言へば、
 「あながちなる御ことかな。このなかには、にほへる鼻もなかめり」
 「左近の命婦、肥後の采女や混じらひつらむ」
 など、心も得ず言ひしろふ。
 御返りたてまつりたれば、宮には、女房つどひて、見めでけり。
 「逢はぬ夜をへだつるなかの衣手に
  重ねていとど見もし見よとや」
 白き紙に、捨て書いたまへるしもぞ、なかなかをかしげなる。
 晦日の日、夕つ方、かの御衣筥に、「御料」とて、人のたてまつれる御衣一領、葡萄染の織物の御衣、また山吹か何ぞ、いろいろ見えて、命婦ぞたてまつりたる。「ありし色あひを悪ろしとや見たまひけむ」と思ひ知らるれど、「かれはた、紅の重々しかりしをや。さりとも消えじ」と、ねび人どもは定むる。
 「御歌も、これよりのは、道理聞こえて、したたかにこそあれ」
 「御返りは、ただをかしき方にこそ」
 など、口々に言ふ。姫君も、おぼろけならでし出でたまひつるわざなれば、ものに書きつけて置きたまへりけり。


 [第十段 正月七日夜常陸宮邸に泊まる]
 朔日のほど過ぎて、今年、男踏歌あるべければ、例の、所々遊びののしりたまふに、もの騒がしけれど、寂しき所のあはれに思しやらるれば、七日の日の節会果てて、夜に入りて、御前よりまかでたまひけるを、御宿直所にやがてとまりたまひぬるやうにて、夜更かしておはしたり。
 例のありさまよりは、けはひうちそよめき、世づいたり。君も、すこしたをやぎたまへるけしきもてつけたまへり。「いかにぞ、改めてひき変へたらむ時」とぞ、思しつづけらるる。
 日さし出づるほどに、やすらひなして、出でたまふ。東の妻戸、おし開けたれば、向ひたる廊の、上もなくあばれたれば、日の脚、ほどなくさし入りて、雪すこし降りたる光に、いとけざやかに見入れらる。
 御直衣などたてまつるを見出だして、すこしさし出でて、かたはら臥したまへる頭つき、こぼれ出でたるほど、いとめでたし。「生ひなほりを見出でたらむ時」と思されて、格子引き上げたまへり。
 いとほしかりしもの懲りに、上げも果てたまはで、脇息をおし寄せて、うちかけて、御鬢ぐきのしどけなきをつくろひたまふ。わりなう古めきたる鏡台の、唐櫛笥、掻上の筥など、取り出でたり。さすがに、男の御具さへほのぼのあるを、されてをかしと見たまふ。
 女の御装束、「今日は世づきたり」と見ゆるは、ありし筥の心葉を、さながらなりけり。さも思しよらず、興ある紋つきてしるき表着ばかりぞ、あやしと思しける。
 「今年だに、声すこし聞かせたまへかし。侍たるるものはさし置かれて、御けしきの改まらむなむゆかしき」とのたまへば、
 「さへづる春は」
 と、からうしてわななかし出でたり。
 「さりや。年経ぬるしるしよ」と、うち笑ひたまひて、「夢かとぞ見る」
 と、うち誦じて出でたまふを、見送りて添ひ臥したまへり。口おほひの側目より、なほ、かの末摘花、いとにほひやかにさし出でたり。見苦しのわざやと思さる。


 

第二章 若紫の物語
 [第一段 紫の君と鼻を赤く塗って戯れる]
 二条院におはしたれば、紫の君、いともうつくしき片生ひにて、「紅はかうなつかしきもありけり」と見ゆるに、無紋の桜の細長、なよらかに着なして、何心もなくてものしたまふさま、いみじうらうたし。古代の祖母君の御なごりにて、歯黒めもまだしかりけるを、ひきつくろはせたまへれば、眉のけざやかになりたるも、うつくしうきよらなり。「心から、などか、かう憂き世を見あつかふらむ。かく心苦しきものをも見てゐたらで」と、思しつつ、例の、もろともに雛遊びしたまふ。
 絵など描きて、色どりたまふ。よろづにをかしうすさび散らしたまひけり。我も描き添へたまふ。髪いと長き女を描きたまひて、鼻に紅をつけて見たまふに、画に描きても見ま憂きさましたり。わが御影の鏡台にうつれるが、いときよらなるを見たまひて、手づからこの赤鼻を描きつけ、にほはして見たまふに、かくよき顔だに、さてまじれらむは見苦しかるべかりけり。姫君、見て、いみじく笑ひたまふ。
 「まろが、かくかたはになりなむ時、いかならむ」とのたまへば、
 「うたてこそあらめ」
 とて、さもや染みつかむと、あやふく思ひたまへり。そら拭ごひをして、
 「さらにこそ、白まね。用なきすさびわざなりや。内裏にいかにのたまはむとすらむ」
 と、いとまめやかにのたまふを、いといとほしと思して、寄りて、拭ごひたまへば、
 「平中がやうに色どり添へたまふな。赤からむはあへなむ」
 と、戯れたまふさま、いとをかしき妹背と見えたまへり。
 日のいとうららかなるに、いつしかと霞みわたれる梢どもの、心もとなきなかにも、梅はけしきばみ、ほほ笑みわたれる、とりわきて見ゆ。階隠のもとの紅梅、いととく咲く花にて、色づきにけり。
 「紅の花ぞあやなくうとまるる
  梅の立ち枝はなつかしけれど
 いでや」
 と、あいなくうちうめかれたまふ。
 かかる人びとの末々、いかなりけむ。


    七 紅葉賀
光る源氏の十八歳冬十月から十九歳秋七月までの宰相兼中将時代の物語

 

第一章 藤壷の物語 源氏、藤壷の御前で青海波を舞う


御前の試楽---朱雀院の行幸は、神無月の十日あまりなり

試楽の翌日、源氏藤壷と和歌遠贈答---つとめて、中将君

十月十余日、朱雀院へ行幸---行幸には、親王たちなど、世に残る人なく仕うまつりたまへり

葵の上、源氏の態度を不快に思う---宮は、そのころまかでたまひぬれば

第二章 紫の物語 源氏、紫の君に心慰める

紫の君、源氏を慕う---幼き人は、見ついたまふままに

藤壷の三条宮邸に見舞う---藤壷のまかでたまへる三条の宮に

故祖母君の服喪明ける---少納言は、「おぼえずをかしき世を見るかな

新年を迎える---男君は、朝拝に参りたまふとて

第三章 藤壷の物語(二) 二月に男皇子を出産

左大臣邸に赴く---内裏より大殿にまかでたまへれば

二月十余日、藤壷に皇子誕生---参座しにとても、あまた所も歩きたまはず

藤壷、皇子を伴って四月に宮中に戻る---四月に内裏へ参りたまふ

源氏、紫の君に心を慰める---つくづくと臥したるにも、やるかたなき心地すれば

第四章 源典侍の物語 老女との好色事件

源典侍の風評---帝の御年、ねびさせたまひぬれど

源氏、源典侍と和歌を詠み交わす---主上の御梳櫛にさぶらひけるを

温明殿付近で密会中、頭中将に発見され脅される---いたう忍ぶれば、源氏の君はえ知りたまはず

翌日、源氏と頭中将と宮中で応酬しあう---君は、「いと口惜しく見つけられぬること」と思ひ

第五章 藤壷の物語(三) 秋、藤壷は中宮、源氏は宰相となる

 七月に藤壷女御、中宮に立つ---七月にぞ后ゐたまふめりし


 

第一章 藤壷の物語 源氏、藤壷の御前で青海波を舞う
 [第一段 御前の試楽]
 朱雀院の行幸は、神無月の十日あまりなり。世の常ならず、おもしろかるべきたびのことなりければ、御方々、物見たまはぬことを口惜しがりたまふ。主上も、藤壷の見たまはざらむを、飽かず思さるれば、試楽を御前にて、せさせたまふ。
 源氏中将は、青海波をぞ舞ひたまひける。片手には大殿の頭中将。容貌、用意、人にはことなるを、立ち並びては、なほ花のかたはらの深山木なり。
 入り方の日かげ、さやかにさしたるに、楽の声まさり、もののおもしろきほどに、同じ舞の足踏み、おももち、世に見えぬさまなり。詠などしたまへるは、「これや、仏の御迦陵頻伽の声ならむ」と聞こゆ。おもしろくあはれなるに、帝、涙を拭ひたまひ、上達部、親王たちも、みな泣きたまひぬ。詠はてて、袖うちなほしたまへるに、待ちとりたる楽のにぎははしきに、顔の色あひまさりて、常よりも光ると見えたまふ。
 春宮の女御、かくめでたきにつけても、ただならず思して、「神など、空にめでつべき容貌かな。うたてゆゆし」とのたまふを、若き女房などは、心憂しと耳とどめけり。藤壷は、「おほけなき心のなからましかば、ましてめでたく見えまし」と思すに、夢の心地なむしたまひける。
 宮は、やがて御宿直なりけり。
 「今日の試楽は、青海波に事みな尽きぬな。いかが見たまひつる」
 と、聞こえたまへば、あいなう、御いらへ聞こえにくくて、
 「殊にはべりつ」とばかり聞こえたまふ。
 「片手もけしうはあらずこそ見えつれ。舞のさま、手づかひなむ、家の子は殊なる。この世に名を得たる舞の男どもも、げにいとかしこけれど、ここしうなまめいたる筋を、えなむ見せぬ。試みの日、かく尽くしつれば、紅葉の蔭やさうざうしくと思へど、見せたてまつらむの心にて、用意せさせつる」など聞こえたまふ。

 [第二段 試楽の翌日、源氏藤壷と和歌遠贈答]
 つとめて、中将君、
 「いかに御覧じけむ。世に知らぬ乱り心地ながらこそ。
  もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の
  袖うち振りし心知りきや
 あなかしこ」
 とある御返り、目もあやなりし御さま、容貌に、見たまひ忍ばれずやありけむ、
 「唐人の袖振ることは遠けれど
  立ち居につけてあはれとは見き
 大方には」
 とあるを、限りなうめづらしう、「かやうの方さへ、たどたどしからず、ひとの朝廷まで思ほしやれる御后言葉の、かねても」と、ほほ笑まれて、持経のやうにひき広げて見ゐたまへり。


 [第三段 十月十余日、朱雀院へ行幸]
 行幸には、親王たちなど、世に残る人なく仕うまつりたまへり。春宮もおはします。例の、楽の舟ども漕ぎめぐりて、唐土、高麗と、尽くしたる舞ども、種多かり。楽の声、鼓の音、世を響かす。
 一日の源氏の御夕影、ゆゆしう思されて、御誦経など所々にせさせたまふを、聞く人もことわりとあはれがり聞こゆるに、春宮の女御は、あながちなりと、憎みきこえたまふ。
 垣代など、殿上人、地下も、心殊なりと世人に思はれたる有職の限りととのへさせたまへり。宰相二人、左衛門督、右衛門督、左右の楽のこと行ふ。舞の師どもなど、世になべてならぬを取りつつ、おのおの籠りゐてなむ習ひける。
 木高き紅葉の蔭に、四十人の垣代、言ひ知らず吹き立てたる物の音どもにあひたる松風、まことの深山おろしと聞こえて吹きまよひ、色々に散り交ふ木の葉のなかより、青海波のかかやき出でたるさま、いと恐ろしきまで見ゆ。かざしの紅葉いたう散り過ぎて、顔のにほひけにおされたる心地すれば、御前なる菊を折りて、左大将さし替へたまふ。
 日暮れかかるほどに、けしきばかりうちしぐれて、空のけしきさへ見知り顔なるに、さるいみじき姿に、菊の色々移ろひ、えならぬをかざして、今日はまたなき手を尽くしたる入綾のほど、そぞろ寒く、この世のことともおぼえず。もの見知るまじき下人などの、木のもと、岩隠れ、山の木の葉に埋もれたるさへ、すこしものの心知るは涙落としけり。
 承香殿の御腹の四の御子、まだ童にて、秋風楽舞ひたまへるなむ、さしつぎの見物なりける。これらにおもしろさの尽きにければ、他事に目も移らず、かへりてはことざましにやありけむ。
 その夜、源氏中将、正三位したまふ。頭中将、正下の加階したまふ。上達部は、皆さるべき限りよろこびしたまふも、この君にひかれたまへるなれば、人の目をもおどろかし、心をもよろこばせたまふ、昔の世ゆかしげなり。


 [第四段 葵の上、源氏の態度を不快に思う]
 宮は、そのころまかでたまひぬれば、例の、隙もやとうかがひありきたまふをことにて、大殿には騒がれたまふ。いとど、かの若草たづね取りたまひてしを、「二条院には人迎へたまふなり」と人の聞こえければ、いと心づきなしと思いたり。
 「うちうちのありさまは知りたまはず、さも思さむはことわりなれど、心うつくしく、例の人のやうに怨みのたまはば、我もうらなくうち語りて、慰めきこえてむものを、思はずにのみとりないたまふ心づきなさに、さもあるまじきすさびごとも出で来るぞかし。人の御ありさまの、かたほに、そのことの飽かぬとおぼゆる疵もなし。人よりさきに見たてまつりそめてしかば、あはれにやむごとなく思ひきこゆる心をも、知りたまはぬほどこそあらめ、つひには思し直されなむ」と、「おだしく軽々しからぬ御心のほども、おのづから」と、頼まるる方はことなりけり。


 

第二章 紫の物語 源氏、紫の君に心慰める
 [第一段 紫の君、源氏を慕う]
 幼き人は、見ついたまふままに、いとよき心ざま、容貌にて、何心もなくむつれまとはしきこえたまふ。「しばし、殿の内の人にも誰れと知らせじ」と思して、なほ離れたる対に、御しつらひ二なくして、我も明け暮れ入りおはして、よろづの御ことどもを教へきこえたまひ、手本書きて習はせなどしつつ、ただほかなりける御むすめを迎へたまへらむやうにぞ思したる。
 政所、家司などをはじめ、ことに分かちて、心もとなからず仕うまつらせたまふ。惟光よりほかの人は、おぼつかなくのみ思ひきこえたり。かの父宮も、え知りきこえたまはざりけり。
 姫君は、なほ時々思ひ出できこえたまふ時、尼君を恋ひきこえたまふ折多かり。君のおはするほどは、紛らはしたまふを、夜などは、時々こそ泊まりたまへ、ここかしこの御いとまなくて、暮るれば出でたまふを、慕ひきこえたまふ折などあるを、いとらうたく思ひきこえたまへり。
 二、三日内裏にさぶらひ、大殿にもおはする折は、いといたく屈しなどしたまへば、心苦しうて、母なき子持たらむ心地して、歩きも静心なくおぼえたまふ。僧都は、かくなむ、と聞きたまひて、あやしきものから、うれしとなむ思ほしける。かの御法事などしたまふにも、いかめしうとぶらひきこえたまへり。

 [第二段 藤壷の三条宮邸に見舞う]
 藤壷のまかでたまへる三条の宮に、御ありさまもゆかしうて、参りたまへれば、命婦、中納言の君、中務などやうの人びと対面したり。「けざやかにももてなしたまふかな」と、やすからず思へど、しづめて、大方の御物語聞こえたまふほどに、兵部卿宮参りたまへり。
 この君おはすと聞きたまひて、対面したまへり。いとよしあるさまして、色めかしうなよびたまへるを、「女にて見むはをかしかりぬべく」、人知れず見たてまつりたまふにも、かたがたむつましくおぼえたまひて、こまやかに御物語など聞こえたまふ。宮も、この御さまの常よりことになつかしううちとけたまへるを、「いとめでたし」と見たてまつりたまひて、婿になどは思し寄らで、「女にて見ばや」と、色めきたる御心には思ほす。
 暮れぬれば、御簾の内に入りたまふを、うらやましく、昔は、主上の御もてなしに、いとけ近く、人づてならで、ものをも聞こえたまひしを、こよなう疎みたまへるも、つらうおぼゆるぞわりなきや。
 「しばしばもさぶらふべけれど、事ぞとはべらぬほどは、おのづからおこたりはべるを、さるべきことなどは、仰せ言もはべらむこそ、うれしく」
 など、すくすくしうて出でたまひぬ。命婦も、たばかりきこえむかたなく、宮の御けしきも、ありしよりは、いとど憂きふしに思しおきて、心とけぬ御けしきも、恥づかしくいとほしければ、何のしるしもなくて、過ぎゆく。「はかなの契りや」と思し乱るること、かたみに尽きせず。


 [第三段 故祖母君の服喪明ける]
 少納言は、「おぼえずをかしき世を見るかな。これも、故尼上の、この御ことを思して、御行ひにも祈りきこえたまひし仏の御しるしにや」とおぼゆ。「大殿、いとやむごとなくておはします。ここかしこあまたかかづらひたまふをぞ、まことに大人びたまはむほどは、むつかしきこともや」とおぼえける。されど、かくとりわきたまへる御おぼえのほどは、いと頼もしげなりかし。
 御服、母方は三月こそはとて、晦日には脱がせたてまつりたまふを、また親もなくて生ひ出でたまひしかば、まばゆき色にはあらで、紅、紫、山吹の地の限り織れる御小袿などを着たまへるさま、いみじう今めかしくをかしげなり。


 [第四段 新年を迎える]
 男君は、朝拝に参りたまふとて、さしのぞきたまへり。
 「今日よりは、大人しくなりたまへりや」
 とて、うち笑みたまへる、いとめでたう愛敬づきたまへり。いつしか、雛をし据ゑて、そそきゐたまへる。三尺の御厨子一具に、品々しつらひ据ゑて、また小さき屋ども作り集めて、たてまつりたまへるを、ところせきまで遊びひろげたまへり。
 「儺やらふとて、犬君がこれをこぼちはべりにければ、つくろひはべるぞ」
 とて、いと大事と思いたり。
 「げに、いと心なき人のしわざにもはべるなるかな。今つくろはせはべらむ。今日は言忌して、な泣いたまひそ」
 とて、出でたまふけしき、ところせきを、人びと端に出でて見たてまつれば、姫君も立ち出でて見たてまつりたまひて、雛のなかの源氏の君つくろひ立てて、内裏に参らせなどしたまふ。
 「今年だにすこし大人びさせたまへ。十にあまりぬる人は、雛遊びは忌みはべるものを。かく御夫などまうけたてまつりたまひては、あるべかしうしめやかにてこそ、見えたてまつらせたまはめ。御髪参るほどをだに、もの憂くせさせたまふ」
 など、少納言聞こゆ。御遊びにのみ心入れたまへれば、恥づかしと思はせたてまつらむとて言へば、心のうちに、「我は、さは、夫まうけてけり。この人びとの夫とてあるは、醜くこそあれ。我はかくをかしげに若き人をも持たりけるかな」と、今ぞ思ほし知りける。さはいはど、御年の数添ふしるしなめりかし。かく幼き御けはひの、ことに触れてしるければ、殿のうちの人びとも、あやしと思ひけれど、いとかう世づかぬ御添臥ならむとは思はざりけり。


 

第三章 藤壷の物語(二) 二月に男皇子を出産
 [第一段 左大臣邸に赴く]
 内裏より大殿にまかでたまへれば、例のうるはしうよそほしき御さまにて、心うつくしき御けしきもなく、苦しければ、
 「今年よりだに、すこし世づきて改めたまふ御心見えば、いかにうれしからむ」
 など聞こえたまへど、「わざと人据ゑて、かしづきたまふ」と聞きたまひしよりは、「やむごとなく思し定めたることにこそは」と、心のみ置かれて、いとど疎く恥づかしく思さるべし。しひて見知らぬやうにもてなして、乱れたる御けはひには、えしも心強からず、御いらへなどうち聞こえたまへるは、なほ人よりはいとことなり。
 四年ばかりがこのかみにおはすれば、うち過ぐし、恥づかしげに、盛りにととのほりて見えたまふ。「何ごとかはこの人の飽かぬところはものしたまふ。我が心のあまりけしからぬすさびに、かく怨みられたてまつるぞかし」と、思し知らる。同じ大臣と聞こゆるなかにも、おぼえやむごとなくおはするが、宮腹に一人いつきかしづきたまふ御心おごり、いとこよなくて、「すこしもおろかなるをば、めざまし」と思ひきこえたまへるを、男君は、「などかいとさしも」と、ならはいたまふ、御心の隔てどもなるべし。
 大臣も、かく頼もしげなき御心を、つらしと思ひきこえたまひながら、見たてまつりたまふ時は、恨みも忘れて、かしづきいとなみきこえたまふ。つとめて、出でたまふところにさしのぞきたまひて、御装束したまふに、名高き御帯、御手づから持たせてわたりたまひて、御衣のうしろひきつくろひなど、御沓を取らぬばかりにしたまふ、いとあはれなり。
 「これは、内宴などいふこともはべるなるを、さやうの折にこそ」
 など聞こえたまへば、
 「それは、まされるもはべり。これはただ目馴れぬさまなればなむ」
 とて、しひてささせたてまつりたまふ。げに、よろづにかしづき立てて見たてまつりたまふに、生けるかひあり、「たまさかにても、かからむ人を出だし入れて見むに、ますことあらじ」と見えたまふ。

 [第二段 二月十余日、藤壷に皇子誕生]
 参座しにとても、あまた所も歩きたまはず、内裏、春宮、一院ばかり、さては、藤壷の三条の宮にぞ参りたまへる。
 「今日はまたことにも見えたまふかな」
 「ねびたまふままに、ゆゆしきまでなりまさりたまふ御ありさまかな」
 と、人びとめできこゆるを、宮、几帳の隙より、ほの見たまふにつけても、思ほすことしげかりけり。
 この御ことの、師走も過ぎにしが、心もとなきに、この月はさりともと、宮人も待ちきこえ、内裏にも、さる御心まうけどもあり、つれなくて立ちぬ。「御もののけにや」と、世人も聞こえ騒ぐを、宮、いとわびしう、「このことにより、身のいたづらになりぬべきこと」と思し嘆くに、御心地もいと苦しくて悩みたまふ。
 中将君は、いとど思ひあはせて、御修法など、さとはなくて所々にせさせたまふ。「世の中の定めなきにつけても、かくはかなくてや止みなむ」と、取り集めて嘆きたまふに、二月十余日のほどに、男御子生まれたまひぬれば、名残なく、内裏にも宮人も喜びきこえたまふ。
 「命長くも」と思ほすは心憂けれど、「弘徽殿などの、うけはしげにのたまふ」と聞きしを、「むなしく聞きなしたまはましかば、人笑はれにや」と思し強りてなむ、やうやうすこしづつさはやいたまひける。
 主上の、いつしかとゆかしげに思し召したること、限りなし。かの、人知れぬ御心にも、いみじう心もとなくて、人まに参りたまひて、
 「主上のおぼつかながりきこえさせたまふを、まづ見たてまつりて詳しく奏しはべらむ」
 と聞こえたまへど、
 「むつかしげなるほどなれば」
 とて、見せたてまつりたまはぬも、ことわりなり。さるは、いとあさましう、めづらかなるまで写し取りたまへるさま、違ふべくもあらず。宮の、御心の鬼にいと苦しく、「人の見たてまつるも、あやしかりつるほどのあやまりを、まさに人の思ひとがめじや。さらぬはかなきことをだに、疵を求むる世に、いかなる名のつひに漏り出づべきにか」と思しつづくるに、身のみぞいと心憂き。
 命婦の君に、たまさかに逢ひたまひて、いみじき言どもを尽くしたまへど、何のかひあるべきにもあらず。若宮の御ことを、わりなくおぼつかながりきこえたまへば、
 「など、かうしもあながちにのたまはすらむ。今、おのづから見たてまつらせたまひてむ」
 と聞こえながら、思へるけしき、かたみにただならず。かたはらいたきことなれば、まほにもえのたまはで、
 「いかならむ世に、人づてならで、聞こえさせむ」
 とて、泣いたまふさまぞ、心苦しき。
 「いかさまに昔結べる契りにて
  この世にかかるなかの隔てぞ
 かかることこそ心得がたけれ」
 とのたまふ。
 命婦も、宮の思ほしたるさまなどを見たてまつるに、えはしたなうもさし放ちきこえず。
 「見ても思ふ見ぬはたいかに嘆くらむ
  こや世の人のまどふてふ闇
 あはれに、心ゆるびなき御ことどもかな」
 と、忍びて聞こえけり。
 かくのみ言ひやる方なくて、帰りたまふものから、人のもの言ひもわづらはしきを、わりなきことにのたまはせ思して、命婦をも、昔おぼいたりしやうにも、うちとけむつびたまはず。人目立つまじく、ならだかにもてなしたまふものから、心づきなしと思す時もあるべきを、いとわびしく思ひのほかなる心地すべし。


 [第三段 藤壷、皇子を伴って四月に宮中に戻る]
 四月に内裏へ参りたまふ。ほどよりは大きにおよすけたまひて、やうやう起き返りなどしたまふ。あさましきまで、まぎれどころなき御顔つきを、思し寄らぬことにしあれば、「またならびなきどちは、げにかよひたまへるにこそは」と、思ほしけり。いみじう思ほしかしづくこと、限りなし。源氏の君を、限りなきものに思し召しながら、世の人のゆるしきこゆまじかりしによりて、坊にも据ゑたてまつらずなりにしを、飽かず口惜しう、ただ人にてかたじけなき御ありさま、容貌に、ねびもておはするを御覧ずるままに、心苦しく思し召すを、「かうやむごとなき御腹に、同じ光にてさし出でたまへれば、疵なき玉」と思しかしづくに、宮はいかなるにつけても、胸のひまなく、やすからずものを思ほす。
 例の、中将の君、こなたにて御遊びなどしたまふに、抱き出でたてまつらせたまひて、
 「御子たち、あまたあれど、そこをのみなむ、かかるほどより明け暮れ見し。されば、思ひわたさるるにやあらむ。いとよくこそおぼえたれ。いと小さきほどは、皆かくのみあるわざにやあらむ」
 とて、いみじくうつくしと思ひきこえさせたまへり。
 中将の君、面の色変はる心地して、恐ろしうも、かたじけなくも、うれしくも、あはれにも、かたがた移ろふ心地して、涙落ちぬべし。もの語りなどして、うち笑みたまへるが、いとゆゆしううつくしきに、わが身ながら、これに似たらむはいみじういたはしうおぼえたまふぞ、あながちなるや。宮は、わりなくかたはらいたきに、汗も流れてぞおはしける。中将は、なかなかなる心地の、乱るやうなれば、まかでたまひぬ。
 わが御かたに臥したまひて、「胸のやるかたなきほど過ぐして、大殿へ」と思す。御前の前栽の、何となく青みわたれるなかに、常夏のはなやかに咲き出でたるを、折らせたまひて、命婦の君のもとに、書きたまふこと、多かるべし。
 「よそへつつ見るに心はなぐさまで
  露けさまさる撫子の花
 花に咲かなむ、と思ひたまへしも、かひなき世にはべりければ」
 とあり。さりぬべき隙にやありけむ、御覧ぜさせて、
 「ただ塵ばかり、この花びらに」
 と聞こゆるを、わが御心にも、ものいとあはれに思し知らるるほどにて、
 「袖濡るる露のゆかりと思ふにも
  なほ疎まれぬ大和撫子」
 とばかり、ほのかに書きさしたるやうなるを、よろこびながらたてまつれる、「例のことなれば、しるしあらじかし」と、くづほれて眺め臥したまへるに、胸うち騒ぎて、いみじくうれしきにも涙落ちぬ。


 [第四段 源氏、紫の君に心を慰める]
 つくづくと臥したるにも、やるかたなき心地すれば、例の、慰めには西の対にぞ渡りたまふ。
 しどけなくうちふくだみたまへる鬢ぐき、あざれたる袿姿にて、笛をなつかしう吹きすさびつつ、のぞきたまへれば、女君、ありつる花の露に濡れたる心地して、添ひ臥したまへるさま、うつくしうらうたげなり。愛敬こぼるるやうにて、おはしながらとくも渡りたまはぬ、なまうらめしかりければ、例ならず、背きたまへるなるべし。端の方についゐて、
 「こちや」
 とのたまへど、おどらかず、
 「入りぬる磯の」
 と口ずさみて、口おほひしたまへるさま、いみじうされてうつくし。
 「あな、憎。かかること口馴れたまひにけりな。みるめに飽くは、まさなきことぞよ」
 とて、人召して、御琴取り寄せて弾かせたてまつりたまふ。
 「箏の琴は、中の細緒の堪へがたきこそところせけれ」
 とて、平調におしくだして調べたまふ。かき合はせばかり弾きて、さしやりたまへれば、え怨じ果てず、いとうつくしう弾きたまふ。
 小さき御ほどに、さしやりて、ゆしたまふ御手つき、いとうつくしければ、らうたしと思して、笛吹き鳴らしつつ教へたまふ。いとさとくて、かたき調子どもを、ただひとわたりに習ひとりたまふ。大方らうらうじうをかしき御心ぼへを、「思ひしことかなふ」と思す。「保曾呂惧世利」といふものは、名は憎けれど、おもしろう吹きすさびたまへるに、かき合はせ、まだ若けれど、拍子違はず上手めきたり。
 大殿油参りて、絵どもなど御覧ずるに、「出でたまふべし」とありつれば、人びと声づくりきこえて、
 「雨降りはべりぬべし」
 など言ふに、姫君、例の、心細くて屈したまへり。絵も見さして、うつぶしておはすれば、いとらうたくて、御髪のいとめでたくこぼれかかりたるを、かき撫でて、
 「他なるほどは恋しくやある」
 とのたまへば、うなづきたまふ。
 「我も、一日も見たてまつらぬはいと苦しうこそあれど、幼くおはするほどは、心やすく思ひきこえて、まづ、くねくねしく怨むる人の心破らじと思ひて、むつかしければ、しばしかくもありくぞ。おとなしく見なしては、他へもさらに行くまじ。人の怨み負はじなど思ふも、世に長うありて、思ふさまに見えたてまつらむと思ふぞ」
 など、こまごまと語らひきこえたまへば、さすがに恥づかしうて、ともかくもいらへきこえたまはず。やがて御膝に寄りかかりて、寝入りたまひぬれば、いと心苦しうて、
 「今宵は出でずなりぬ」
 とのたまへば、皆立ちて、御膳などこなたに参らせたり。姫君起こしたてまつりたまひて、
 「出でずなりぬ」
 と聞こえたまへば、慰みて起きたまへり。もろともにものなど参る。いとはかなげにすさびて、
 「さらば、寝たまひねかし」
 と、危ふげに思ひたまへれば、かかるを見捨てては、いみじき道なりとも、おもむきがたくおぼえたまふ。
 かやうに、とどめられたまふ折々なども多かるを、おのづから漏り聞く人、大殿に聞こえければ、
 「誰れならむ。いとめざましきことにもあるかな」
 「今までその人とも聞こえず、さやうにまつはしたはぶれなどすらむは、あてやかに心にくき人にはあらじ」
 「内裏わたりなどにて、はかなく見たまひけむ人を、ものめかしたまひて、人やとがめむと隠したまふななり。心なげにいはけて聞こゆるは」
 など、さぶらふ人びとも聞こえあへり。
 内裏にも、かかる人ありと聞こし召して、
 「いとほしく、大臣の思ひ嘆かるなることも、げに、ものげなかりしほどを、おほなおほなかくものしたる心を、さばかりのことたどらぬほどにはあらじを。などか情けなくはもてなすなるらむ」
 と、のたまはすれど、かしこまりたるさまにて、御いらへも聞こえたまはねば、「心ゆかぬなめり」と、いとほしく思し召す。
 「さるは、好き好きしううち乱れて、この見ゆる女房にまれ、またこなたかなたの人びとなど、なべてならずなども見え聞こえざめるを、いかなるもののくまに隠れありきて、かく人にも怨みらるらむ」とのたまはす。


 

第四章 源典侍の物語 老女との好色事件
 [第一段 源典侍の風評]
 帝の御年、ねびさせたまひぬれど、かうやうの方、え過ぐさせたまはず、采女、女蔵人などをも、容貌、心あるをば、ことにもてはやし思し召したれば、よしある宮仕へ人多かるころなり。はかなきことをも言ひ触れたまふには、もて離るることもありがたきに、目馴るるにやあらむ、「げにぞ、あやしう好いたまはざめる」と、試みに戯れ事を聞こえかかりなどする折あれど、情けなからぬほどにうちいらへて、まことには乱れたまはぬを、「まめやかにさうざうし」と思ひきこゆる人もあり。
 年いたう老いたる典侍、人もやむごとなく、心ばせあり、あてに、おぼえ高くはありながら、いみじうあだめいたる心ざまにて、そなたには重からぬあるを、「かう、さだ過ぐるまで、などさしも乱るらむ」と、いぶかしくおぼえたまひければ、戯れ事言ひ触れて試みたまふに、似げなくも思はざりける。あさまし、と思しながら、さすがにかかるもをかしうて、ものなどのたまひてけれど、人の漏り聞かむも、古めかしきほどなれば、つれなくもてなしたまへるを、女は、いとつらしと思へり。

 [第二段 源氏、源典侍と和歌を詠み交わす]
 主上の御梳櫛にさぶらひけるを、果てにければ、主上は御袿の人召して出でさせたまひぬるほどに、また人もなくて、この内侍常よりもきよげに、様体、頭つきなまめきて、装束、ありさま、いとはなやかに好ましげに見ゆるを、「さも古りがたうも」と、心づきなく見たまふものから、「いかが思ふらむ」と、さすがに過ぐしがたくて、裳の裾を引きおどろかしたまへれば、かはぼりのえならず画きたるを、さし隠して見返りたるまみ、いたう見延べたれど、目皮らいたく黒み落ち入りて、いみじうはつれそそけたり。
 「似つかはしからぬ扇のさまかな」と見たまひて、わが持たまへるに、さしかへて見たまへば、赤き紙の、うつるばかり色深きに、木高き森の画を塗り隠したり。片つ方に、手はいとさだ過ぎたれど、よしなからず、「森の下草老いぬれば」など書きすさびたるを、「ことしもあれ、うたての心ばへや」と笑まれながら、
 「森こそ夏の、と見ゆめる」
 とて、何くれとのたまふも、似げなく、人や見つけむと苦しきを、女はさも思ひたらず、
 「君し来ば手なれの駒に刈り飼はむ
  盛り過ぎたる下葉なりとも」
 と言ふさま、こよなく色めきたり。
 「笹分けば人やとがめむいつとなく
  駒なつくめる森の木隠れ
 わづらはしさに」
 とて、立ちたまふを、ひかへて、
 「まだかかるものをこそ思ひはべらね。今さらなる、身の恥になむ」
 とて泣くさま、いといみじ。
 「いま、聞こえむ。思ひながらぞや」
 とて、引き放ちて出でたまふを、せめておよびて、「橋柱」と怨みかくるを、主上は御袿果てて、御障子より覗かせたまひけり。「似つかはしからぬあはひかな」と、いとをかしう思されて、
 「好き心なしと、常にもて悩むめるを、さはいへど、過ぐさざりけるは」
 とて、笑はせたまへば、内侍は、なままばゆけれど、憎からぬ人ゆゑは、濡衣をだに着まほしがるたぐひもあなればにや、いたうもあらがひきこえさせず。
 人びとも、「思ひのほかなることかな」と、扱ふめるを、頭中将、聞きつけて、「至らぬ隈なき心にて、まだ思ひ寄らざりけるよ」と思ふに、尽きせぬ好み心も見まほしうなりにければ、語らひつきにけり。
 この君も、人よりはいとことなるを、「かのつれなき人の御慰めに」と思ひつれど、見まほしきは、限りありけるをとや。うたての好みや。


 [第三段 温明殿付近で密会中、頭中将に発見され脅される]
 いたう忍ぶれば、源氏の君はえ知りたまはず。見つけきこえては、まづ怨みきこゆるを、齢のほどいとほしければ、慰めむと思せど、かなはぬもの憂さに、いと久しくなりにけるを、夕立して、名残涼しき宵のまぎれに、温明殿のわたりをたたずみありきたまへば、この内侍、琵琶をいとをかしう弾きゐたり。御前などにても、男方の御遊びに交じりなどして、ことにまさる人なき上手なれば、もの恨めしうおぼえける折から、いとあはれに聞こゆ。
 「瓜作りになりやしなまし」
 と、声はいとをかしうて歌ふぞ、すこし心づきなき。「鄂州にありけむ昔の人も、かくやをかしかりけむ」と、耳とまりて聞きたまふ。弾きやみて、いといたう思ひ乱れたるけはひなり。君、「東屋」を忍びやかに歌ひて寄りたまへるに、
 「押し開いて来ませ」
 と、うち添へたるも、例に違ひたる心地ぞする。
 「立ち濡るる人しもあらじ東屋に
  うたてもかかる雨そそきかな」
 と、うち嘆くを、我ひとりしも聞き負ふまじけれど、「うとましや、何ごとをかくまでは」と、おぼゆ。
 「人妻はあなわづらはし東屋の
  真屋のあまりも馴れじとぞ思ふ」
 とて、うち過ぎなまほしけれど、「あまりはしたなくや」と思ひ返して、人に従へば、すこしはやりかなる戯れ言など言ひかはして、これもめづらしき心地ぞしたまふ。
 頭中将は、この君のいたうまめだち過ぐして、常にもどきたまふがねたきを、つれなくてうちうち忍びたまふかたがた多かめるを、「いかで見あらはさむ」とのみ思ひわたるに、これを見つけたる心地、いとうれし。「かかる折に、すこし脅しきこえて、御心まどはして、懲りぬやと言はむ」と思ひて、たゆめきこゆ。
 風ひややかにうち吹きて、やや更けゆくほどに、すこしまどろむにやと見ゆるけしきなれば、やをら入り来るに、君は、とけてしも寝たまはぬ心なれば、ふと聞きつけて、この中将とは思ひ寄らず、「なほ忘れがたくすなる修理大夫にこそあらめ」と思すに、おとなおとなしき人に、かく似げなきふるまひをして、見つけられむことは、恥づかしければ、
 「あな、わづらはし。出でなむよ。蜘蛛のふるまひは、しるかりつらむものを。心憂く、すかしたまひけるよ」
 とて、直衣ばかりを取りて、屏風のうしろに入りたまひぬ。中将、をかしきを念じて、引きたてまつる屏風のもとに寄りて、ごほごほとたたみ寄せて、おどろおどろしく騒がすに、内侍は、ねびたれど、いたくよしばみなよびたる人の、先々もかやうにて、心動かす折々ありければ、ならひて、いみじく心あわたたしきにも、「この君をいかにしきこえぬるか」とわびしさに、ふるふふるふつとひかへたり。「誰れと知られで出でなばや」と思せど、しどけなき姿にて、冠などうちゆがめて走らむうしろで思ふに、「いとをこなるべし」と、思しやすらふ。
 中将、「いかで我と知られきこえじ」と思ひて、ものも言はず、ただいみじう怒れるけしきにもてなして、太刀を引き抜けば、女、
 「あが君、あが君」
 と、向ひて手をするに、ほとほと笑ひぬべし。好ましう若やぎてもてなしたるうはべこそ、さてもありけれ、五十七、八の人の、うちとけてもの言ひ騒げるけはひ、えならぬ二十の若人たちの御なかにてもの怖ぢしたる、いとつきなし。かうあらぬさまにもてひがめて、恐ろしげなるけしきを見すれど、なかなかしるく見つけたまひて、「我と知りて、ことさらにするなりけり」と、をこになりぬ。「その人なめり」と見たまふに、いとをかしければ、太刀抜きたるかひなをとらへて、いといたうつみたまへれば、ねたきものから、え堪へで笑ひぬ。
 「まことは、うつし心かとよ。戯れにくしや。いで、この直衣着む」
 とのたまへど、つととらへて、さらに許しきこえず。
 「さらば、もろともにこそ」
 とて、中将の帯をひき解きて脱がせたまへば、脱がじとすまふを、とかくひきしろふほどに、ほころびはほろほろと絶えぬ。中将、
 「つつむめる名や漏り出でむ引きかはし
  かくほころぶる中の衣に
 上に取り着ば、しるからむ」
 と言ふ。君、
 「隠れなきものと知る知る夏衣
  着たるを薄き心とぞ見る」
 と言ひかはして、うらやみなきしどけな姿に引きなされて、みな出でたまひぬ。


 [第四段 翌日、源氏と頭中将と宮中で応酬しあう]
 君は、「いと口惜しく見つけられぬること」と思ひ、臥したまへり。内侍は、あさましくおぼえければ、落ちとまれる御指貫、帯など、つとめてたてまつれり。
 「恨みてもいふかひぞなきたちかさね
  引きてかへりし波のなごりに
 底もあらはに」
 とあり。「面無のさまや」と見たまふも憎けれど、わりなしと思へりしもさすがにて、
 「荒らだちし波に心は騒がねど
  寄せけむ磯をいかが恨みぬ」
 とのみなむありける。帯は、中将のなりけり。わが御直衣よりは色深し、と見たまふに、端袖もなかりけり。
 「あやしのことどもや。おり立ちて乱るる人は、むべをこがましきことは多からむ」と、いとど御心をさめられたまふ。
 中将、宿直所より、「これ、まづ綴ぢつけさせたまへ」とて、おし包みておこせたるを、「いかで取りつらむ」と、心やまし。「この帯を得ざらましかば」と思す。その色の紙に包みて、
 「なか絶えばかことや負ふと危ふさに
  はなだの帯を取りてだに見ず」
 とて、やりたまふ。立ち返り、
 「君にかく引き取られぬる帯なれば
  かくて絶えぬるなかとかこたむ
 え逃れさせたまはじ」
 とあり。
 日たけて、おのおの殿上に参りたまへり。いと静かに、もの遠きさましておはするに、頭の君もいとをかしけれど、公事多く奏しくだす日にて、いとうるはしくすくよかなるを見るも、かたみにほほ笑まる。人まにさし寄りて、
 「もの隠しは懲りぬらむかし」
 とて、いとねたげなるしり目なり。
 「などてか、さしもあらむ。立ちながら帰りけむ人こそ、いとほしけれ。まことは、憂しや、世の中よ」
 と言ひあはせて、「鳥籠の山なる」と、かたみに口がたむ。
 さて、そののち、ともすればことのついでごとに、言ひ迎ふるくさはひなるを、いとどものむつかしき人ゆゑと、思し知るべし。女は、なほいと艶に怨みかくるを、わびしと思ひありきたまふ。
 中将は、妹の君にも聞こえ出でず、ただ、「さるべき折の脅しぐさにせむ」とぞ思ひける。やむごとなき御腹々の親王たちだに、主上の御もてなしのこよなきにわづらはしがりて、いとことにさりきこえたまへるを、この中将は、「さらにおし消たれきこえじ」と、はかなきことにつけても、思ひいどみきこえたまふ。
 この君一人ぞ、姫君の御一つ腹なりける。帝の御子といふばかりにこそあれ、我も、同じ大臣と聞こゆれど、御おぼえことなるが、皇女腹にてまたなくかしづかれたるは、何ばかり劣るべき際と、おぼえたまはぬなるべし。人がらも、あるべき限りととのひて、何ごともあらまほしく、たらひてぞものしたまひける。この御中どもの挑みこそ、あやしかりしか。されど、うるさくてなむ。


 

第五章 藤壷の物語(三) 秋、藤壷は中宮、源氏は宰相となる
 [第一段 七月に藤壷女御、中宮に立つ]
 七月にぞ后ゐたまふめりし。源氏の君、宰相になりたまひぬ。帝、下りゐさせたまはむの御心づかひ近うなりて、この若宮を坊に、と思ひきこえさせたまふに、御後見したまふべき人おはせず。御母方の、みな親王たちにて、源氏の公事しりたまふ筋ならねば、母宮をだに動きなきさまにしおきたてまつりて、強りにと思すになむありける。
 弘徽殿、いとど御心動きたまふ、ことわりなり。されど、
 「春宮の御世、いと近うなりぬれば、疑ひなき御位なり。思ほしのどめよ」
 とぞ聞こえさせたまひける。「げに、春宮の御母にて二十余年になりたまへる女御をおきたてまつりては、引き越したてまつりたまひがたきことなりかし」と、例の、やすからず世人も聞こえけり。
 参りたまふ夜の御供に、宰相君も仕うまつりたまふ。同じ宮と聞こゆるなかにも、后腹の皇女、玉光りかかやきて、たぐひなき御おぼえにさへものしたまへば、人もいとことに思ひかしづききこえたり。まして、わりなき御心には、御輿のうちも思ひやられて、いとど及びなき心地したまふに、すずろはしきまでなむ。
 「尽きもせぬ心の闇に暮るるかな
  雲居に人を見るにつけても」
 とのみ、独りごたれつつ、ものいとあはれなり。
 皇子は、およすけたまふ月日に従ひて、いと見たてまつり分きがたげなるを、宮、いと苦し、と思せど、思ひ寄る人なきなめりかし。げに、いかさまに作り変へてかは、劣らぬ御ありさまは、世に出でものしたまはまし。月日の光の空に通ひたるやうに、ぞ世人も思へる。

 


     花宴
光る源氏二十歳春二月二十余日から三月二十余日までの宰相兼中将時代の物語

 朧月夜の君物語 春の夜の出逢いの物語
二月二十余日、紫宸殿の桜花の宴---如月の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまふ
宴の後、朧月夜の君と出逢う---夜いたう更けてなむ、事果てける
桜宴の翌日、昨夜の女性の素性を知りたがる---その日は後宴のことありて、まぎれ暮らしたまひつ
紫の君の理想的成長ぶり、葵の上との夫婦仲不仲---「大殿にも久しうなりにける」と思せど、若君も心苦しければ
三月二十余日、右大臣邸の藤花の宴---かの有明の君は、はかなかりし夢を思し出でて

 朧月夜の君物語 春の夜の出逢いの物語
 [第一段 二月二十余日、紫宸殿の桜花の宴]
 如月の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまふ。后、春宮の御局、左右にして、参う上りたまふ。弘徽殿の女御、中宮のかくておはするを、をりふしごとにやすからず思せど、物見にはえ過ぐしたまはで、参りたまふ。
 日いとよく晴れて、空のけしき、鳥の声も、心地よげなるに、親王たち、上達部よりはじめて、その道のは皆、探韻賜はりて文つくりたまふ。宰相中将、「春といふ文字賜はれり」と、のたまふ声さへ、例の、人に異なり。次に頭中将、人の目移しも、ただならずおぼゆべかめれど、いとめやすくもてしづめて、声づかひなど、ものものしくすぐれたり。さての人びとは、皆臆しがちに鼻白める多かり。地下の人は、まして、帝、春宮の御才かしこくすぐれておはします、かかる方にやむごとなき人多くものしたまふころなるに、恥づかしく、はるばると曇りなき庭に立ち出づるほど、はしたなくて、やすきことなれど、苦しげなり。年老いたる博士どもの、なりあやしくやつれて、例馴れたるも、あはれに、さまざま御覧ずるなむ、をかしかりける。
 楽どもなどは、さらにもいはずととのへさせたまへり。やうやう入り日になるほど、春の鴬囀るといふ舞、いとおもしろく見ゆるに、源氏の御紅葉の賀の折、思し出でられて、春宮、かざしたまはせて、せちに責めのたまはするに、逃がれがたくて、立ちてのどかに袖返すところを一折れ、けしきばかり舞ひたまへるに、似るべきものなく見ゆ。左大臣、恨めしさも忘れて、涙落したまふ。
 「頭中将、いづら。遅し」
 とあれば、柳花苑といふ舞を、これは今すこし過ぐして、かかることもやと、心づかひやしけむ、いとおもしろければ、御衣賜はりて、いとめづらしきことに人思へり。上達部皆乱れて舞ひたまへど、夜に入りては、ことにけぢめも見えず。文など講ずるにも、源氏の君の御をば、講師もえ読みやらず、句ごとに誦じののしる。博士どもの心にも、いみじう思へり。
 かうやうの折にも、まづこの君を光にしたまへれば、帝もいかでかおろかに思されむ。中宮、御目のとまるにつけて、「春宮の女御のあながちに憎みたまふらむもあやしう、わがかう思ふも心憂し」とぞ、みづから思し返されける。
 「おほかたに花の姿を見ましかば
  つゆも心のおかれましやは」
 御心のうちなりけむこと、いかで漏りにけむ。

 [第二段 宴の後、朧月夜の君と出逢う]
 夜いたう更けてなむ、事果てける。
 上達部おのおのあかれ、后、春宮帰らせたまひぬれば、のどやかになりぬるに、月いと明うさし出でてをかしきを、源氏の君、酔ひ心地に、見過ぐしがたくおぼえたまひければ、「上の人びともうち休みて、かやうに思ひかけぬほどに、もしさりぬべき隙もやある」と、藤壷わたりを、わりなう忍びてうかがひありけど、語らふべき戸口も鎖してければ、うち嘆きて、なほあらじに、弘徽殿の細殿に立ち寄りたまへれば、三の口開きたり。
 女御は、上の御局にやがて参う上りたまひにければ、人少ななるけはひなり。奥の枢戸も開きて、人音もせず。
 「かやうにて、世の中のあやまちはするぞかし」と思ひて、やをら上りて覗きたまふ。人は皆寝たるべし。いと若うをかしげなる声の、なべての人とは聞こえぬ、
 「朧月夜に似るものぞなき」
 とうち誦じて、こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。女、恐ろしと思へるけしきにて、
「あな、むくつけ。こは、誰そ」とのたまへど、
「何か、疎ましき」とて、
 「深き夜のあはれを知るも入る月の
  おぼろけならぬ契りとぞ思ふ」
 とて、やをら抱き下ろして、戸は押し立てつ。あさましきにあきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり。わななくわななく、
 「ここに、人」
 と、のたまへど、
 「まろは、皆人に許されたれば、召し寄せたりとも、なんでふことかあらむ。ただ、忍びてこそ」
 とのたまふ声に、この君なりけりと聞き定めて、いささか慰めけり。わびしと思へるものから、情けなくこはごはしうは見えじ、と思へり。酔ひ心地や例ならざりけむ、許さむことは口惜しきに、女も若うたをやぎて、強き心も知らぬなるべし。
 らうたしと見たまふに、ほどなく明けゆけば、心あわたたし。女は、まして、さまざまに思ひ乱れたるけしきなり。
 「なほ、名のりしたまへ。いかでか、聞こゆべき。かうてやみなむとは、さりとも思されじ」
 とのたまへば、
 「憂き身世にやがて消えなば尋ねても
  草の原をば問はじとや思ふ」
 と言ふさま、艶になまめきたり。
 「ことわりや。聞こえ違へたる文字かな」とて、
 「いづれぞと露のやどりを分かむまに
  小笹が原に風もこそ吹け
 わづらはしく思すことならずは、何かつつまむ。もし、すかいたまふか」
 とも言ひあへず、人々起き騒ぎ、上の御局に参りちがふけしきども、しげくまよへば、いとわりなくて、扇ばかりをしるしに取り換へて、出でたまひぬ。
 桐壷には、人びと多くさぶらひて、おどろきたるもあれば、かかるを、
 「さも、たゆみなき御忍びありきかな」
 とつきじろひつつ、そら寝をぞしあへる。入りたまひて臥したまへれど、寝入られず。
 「をかしかりつる人のさまかな。女御の御おとうとたちにこそはあらめ。まだ世に馴れぬは、五、六の君ならむかし。帥宮の北の方、頭中将のすさめぬ四の君などこそ、よしと聞きしか。なかなかそれならましかば、今すこしをかしからまし。六は春宮にたてまつらむとこころざしたまへるを、いとほしうもあるべいかな。わづらはしう、尋ねむほどもまぎらはし、さて絶えなむとは思はぬけしきなりつるを、いかなれば、言通はすべきさまを教へずなりぬらむ」
 など、よろづに思ふも、心のとまるなるべし。かうやうなるにつけても、まづ、「かのわたりのありさまの、こよなう奥まりたるはや」と、ありがたう思ひ比べられたまふ。


 [第三段 桜宴の翌日、昨夜の女性の素性を知りたがる]
 その日は後宴のことありて、まぎれ暮らしたまひつ。箏の琴仕うまつりたまふ。昨日のことよりも、なまめかしうおもしろし。藤壺は、暁に参う上りたまひにけり。「かの有明、出でやしぬらむ」と、心もそらにて、思ひ至らぬ隈なき良清、惟光をつけて、うかがはせたまひければ、御前よりまかでたまひけるほどに、
 「ただ今、北の陣より、かねてより隠れ立ちてはべりつる車どもまかり出づる。御方々の里人はべりつるなかに、四位の少将、右中弁など急ぎ出でて、送りしはべりつるや、弘徽殿の御あかれならむと見たまへつる。けしうはあらぬけはひどもしるくて、車三つばかりはべりつ」
 と聞こゆるにも、胸うちつぶれたまふ。
 「いかにして、いづれと知らむ。父大臣など聞きて、ことことしうもてなさむも、いかにぞや。まだ、人のありさまよく見さだめぬほどは、わづらはしかるべし。さりとて、知らであらむ、はた、いと口惜しかるべければ、いかにせまし」と、思しわづらひて、つくづくとながめ臥したまへり。
 「姫君、いかにつれづれならむ。日ごろになれば、屈してやあらむ」と、らうたく思しやる。かのしるしの扇は、桜襲ねにて、濃きかたにかすめる月を描きて、水にうつしたる心ばへ、目馴れたれど、ゆゑなつかしうもてならしたり。「草の原をば」と言ひしさまのみ、心にかかりたまへば、
 「世に知らぬ心地こそすれ有明の
  月のゆくへを空にまがへて」
 と書きつけたまひて、置きたまへり。


 [第四段 紫の君の理想的成長ぶり、葵の上との夫婦仲不仲]
 「大殿にも久しうなりにける」と思せど、若君も心苦しければ、こしらへむと思して、二条院へおはしぬ。見るままに、いとうつくしげに生ひなりて、愛敬づきらうらうじき心ばへ、いとことなり。飽かぬところなう、わが御心のままに教へなさむ、と思すにかなひぬべし。男の御教へなれば、すこし人馴れたることや混じらむと思ふこそ、うしろめたけれ。
 日ごろの御物語、御琴など教へ暮らして出でたまふを、例のと、口惜しう思せど、今はいとようならはされて、わりなくは慕ひまつはさず。
 大殿には、例の、ふとも対面したまはず。つれづれとよろづ思しめぐらされて、箏の御琴まさぐりて、
 「やはらかに寝る夜はなくて」
 とうたひたまふ。大臣渡りたまひて、一日の興ありしこと、聞こえたまふ。
 「ここらの齢にて、明王の御代、四代をなむ見はべりぬれど、このたびのやうに、文ども警策に、舞、楽、物の音どもととのほりて、齢延ぶることなむはべらざりつる。道々のものの上手ども多かるころほひ、詳しうしろしめし、ととのへさせたまへるけなり。翁もほとほと舞ひ出でぬべき心地なむしはべりし」
 と聞こえたまへば、
 「ことにととのへ行ふこともはべらず。ただ公事に、そしうなる物の師どもを、ここかしこに尋ねはべりしなり。よろづのことよりは、「柳花苑」、まことに後代の例ともなりぬべく見たまへしに、まして「さかゆく春」に立ち出でさせたまへらましかば、世の面目にやはべらまし」
 と聞こえたまふ。
 弁、中将など参りあひて、高欄に背中おしつつ、とりどりに物の音ども調べ合はせて遊びたまふ、いとおもしろし。


 [第五段 三月二十余日、右大臣邸の藤花の宴]
 かの有明の君は、はかなかりし夢を思し出でて、いともの嘆かしうながめたまふ。春宮には、卯月ばかりと思し定めたれば、いとわりなう思し乱れたるを、男も、尋ねたまはむにあとはかなくはあらねど、いづれとも知らで、ことに許したまはぬあたりにかかづらはむも、人悪く思ひわづらひたまふに、弥生の二十余日、右の大殿の弓の結に、上達部、親王たち多く集へたまひて、やがて藤の宴したまふ。花盛りは過ぎにたるを、「ほかの散りなむ」とや教へられたりけむ、遅れて咲く桜、二木ぞいとおもしろき。新しう造りたまへる殿を、宮たちの御裳着の日、磨きしつらはれたり。はなばなとものしたまふ殿のやうにて、何ごとも今めかしうもてなしたまへり。
 源氏の君にも、一日、内裏にて御対面のついでに、聞こえたまひしかど、おはせねば、口惜しう、ものの栄なしと思して、御子の四位少将をたてまつりたまふ。
 「わが宿の花しなべての色ならば
  何かはさらに君を待たまし」
 内裏におはするほどにて、主上に奏したまふ。
 「したり顔なりや」と笑はせたまひて、
 「わざとあめるを、早うものせよかし。女御子たちなども、生ひ出づるところなれば、なべてのさまには思ふまじきを」
 などのたまはす。御装ひなどひきつくろひたまひて、いたう暮るるほどに、待たれてぞ渡りたまふ。
 桜の唐の綺の御直衣、葡萄染の下襲、裾いと長く引きて。皆人は表の衣なるに、あざれたる大君姿のなまめきたるにて、いつかれ入りたまへる御さま、げにいと異なり。花の匂ひもけおされて、なかなかことざましになむ。
 遊びなどいとおもしろうしたまひて、夜すこし更けゆくほどに、源氏の君、いたく酔ひ悩めるさまにもてなしたまひて、紛れ立ちたまひぬ。
 寝殿に、女一宮、女三宮のおはします。東の戸口におはして、寄りゐたまへり。藤はこなたの妻にあたりてあれば、御格子ども上げわたして、人びと出でゐたり。袖口など、踏歌の折おぼえて、ことさらめきもて出でたるを、ふさはしからずと、まづ藤壷わたり思し出でらる。
 「なやましきに、いといたう強ひられて、わびにてはべり。かしこけれど、この御前にこそは、蔭にも隠させたまはめ」
 とて、妻戸の御簾を引き着たまへば、
 「あな、わづらはし。よからぬ人こそ、やむごとなきゆかりはかこちはべるなれ」
 と言ふけしきを見たまふに、重々しうはあらねど、おしなべての若人どもにはあらず、あてにをかしきけはひしるし。
 そらだきもの、いと煙たうくゆりて、衣の音なひ、いとはなやかにふるまひなして、心にくく奥まりたるけはひはたちおくれ、今めかしきことを好みたるわたりにて、やむごとなき御方々もの見たまふとて、この戸口は占めたまへるなるべし。さしもあるまじきことなれど、さすがにをかしう思ほされて、「いづれならむ」と、胸うちつぶれて、
 「扇を取られて、からきめを見る」
 と、うちおほどけたる声に言ひなして、寄りゐたまへり。
 「あやしくも、さま変へける高麗人かな」
 といらふるは、心知らぬにやあらむ。いらへはせで、ただ時々、うち嘆くけはひする方に寄りかかりて、几帳越しに手をとらへて、
 「梓弓いるさの山に惑ふかな
  ほの見し月の影や見ゆると
 何ゆゑか」
 と、推し当てにのたまふを、え忍ばぬなるべし。
 「心いる方ならませば弓張の
  月なき空に迷はましやは」
 と言ふ声、ただそれなり。いとうれしきものから。



    九 葵
光る源氏の二十二歳春から二十三歳正月まで近衛大将時代の物語

第一章 六条御息所の物語 御禊見物の車争いの物語


朱雀帝即位後の光る源氏---世の中かはりて後、よろづもの憂く思され
新斎院御禊の見物---そのころ、斎院も下りゐたまひて
賀茂祭の当日、紫の君と見物---今日は、二条院に離れおはして
第二章 葵の上の物語 六条御息所がもののけとなってとり憑く物語

車争い後の六条御息所---御息所は、ものを思し乱るること
源氏、御息所を旅所に見舞う---かかる御もの思ひの乱れに
葵の上に御息所のもののけ出現する---大殿には、御もののけいたう起こりて
斎宮、秋に宮中の初斎院に入る---斎宮は、去年内裏に入りたまふべかりしを
葵の上、男子を出産---すこし御声もしづまりたまへれば
秋の司召の夜、葵の上死去する---秋の司召あるべき定めにて
葵の上の葬送とその後---こなたかなたの御送りの人ども
三位中将と故人を追慕する---御法事など過ぎぬれど、正日までは
源氏、左大臣邸を辞去する---君は、かくてのみも、いかでかは
第三章 紫の君の物語 新手枕の物語

源氏、紫の君と新手枕を交わす---二条院には、方々払ひみがきて
結婚の儀式の夜---その夜さり、亥の子餅参らせたり
新年の参賀と左大臣邸へ挨拶回り---朔日の日は、例の、院に参りたまひてぞ
【出典】
【校訂】


 

第一章 六条御息所の物語 御禊見物の車争いの物語
 [第一段 朱雀帝即位後の光る源氏]
 世の中かはりて後、よろづもの憂く思され、御身のやむごとなさも添ふにや、軽々しき御忍び歩きもつつましうて、ここもかしこも、おぼつかなさの嘆きを重ねたまふ、報いにや、なほ我につれなき人の御心を、尽きせずのみ思し嘆く。
 今は、ましてひまなう、ただ人のやうにて添ひおはしますを、今后は心やましう思すにや、内裏にのみさぶらひたまへば、立ち並ぶ人なう心やすげなり。折ふしに従ひては、御遊びなどを好ましう、世の響くばかりせさせたまひつつ、今の御ありさましもめでたし。ただ、春宮をぞいと恋しう思ひきこえたまふ。御後見のなきを、うしろめたう思ひきこえて、大将の君によろづ聞こえつけたまふも、かたはらいたきものから、うれしと思す。

 まことや、かの六条御息所の御腹の前坊の姫君、斎宮にゐたまひにしかば、大将の御心ばへもいと頼もしげなきを、「幼き御ありさまのうしろめたさにことつけて下りやしなまし」と、かねてより思しけり。
 院にも、かかることなむと、聞こし召して、
 「故宮のいとやむごとなく思し、時めかしたまひしものを、軽々しうおしなべたるさまにもてなすなるが、いとほしきこと。斎宮をも、この御子たちの列になむ思へば、いづかたにつけても、おろかならざらむこそよからめ。心のすさびにまかせて、かく好色わざするは、いと世のもどき負ひぬべきことなり」
 など、御けしき悪しければ、わが御心地にも、げにと思ひ知らるれば、かしこまりてさぶらひたまふ。
 「人のため、恥ぢがましきことなく、いづれをもなだらかにもてなして、女の怨みな負ひそ」
 とのたまはするにも、「けしからぬ心のおほけなさを聞こし召しつけたらむ時」と、恐ろしければ、かしこまりてまかでたまひぬ。
 また、かく院にも聞こし召し、のたまはするに、人の御名も、わがためも、好色がましういとほしきに、いとどやむごとなく、心苦しき筋には思ひきこえたまへど、まだ表はれては、わざともてなしきこえたまはず。
 女も、似げなき御年のほどを恥づかしう思して、心とけたまはぬけしきなれば、それにつつみたるさまにもてなして、院に聞こし召し入れ、世の中の人も知らぬなくなりにたるを、深うしもあらぬ御心のほどを、いみじう思し嘆きけり。


 かかることを聞きたまふにも、朝顔の姫君は、「いかで、人に似じ」と深う思せば、はかなきさまなりし御返りなども、をさをさなし。さりとて、人憎く、はしたなくはもてなしたまはぬ御けしきを、君も、「なほことなり」と思しわたる。


 大殿には、かくのみ定めなき御心を、心づきなしと思せど、あまりつつまぬ御けしきの、いふかひなければにやあらむ、深うも怨じきこえたまはず。心苦しきさまの御心地に悩みたまひて、もの心細げに思いたり。めづらしくあはれと思ひきこえたまふ。誰れも誰れもうれしきものから、ゆゆしう思して、さまざまの御つつしみせさせたてまつりたまふ。かやうなるほどに、いとど御心のいとまなくて、思しおこたるとはなけれど、とだえ多かるべし。


 [第二段 新斎院御禊の見物]
 そのころ、斎院も下りゐたまひて、后腹の女三宮ゐたまひぬ。帝、后と、ことに思ひきこえたまへる宮なれば、筋ことになりたまふを、いと苦しう思したれど、こと宮たちのさるべきおはせず。儀式など、常の神わざなれど、いかめしうののしる。祭のほど、限りある公事に添ふこと多く、見所こよなし。人がらと見えたり。
 御禊の日、上達部など、数定まりて仕うまつりたまふわざなれど、おぼえことに、容貌ある限り、下襲の色、表の袴の紋、馬鞍までみな調へたり。とりわきたる宣旨にて、大将の君も仕うまつりたまふ。かねてより、物見車心づかひしけり。
 一条の大路、所なく、むくつけきまで騒ぎたり。所々の御桟敷、心々にし尽くしたるしつらひ、人の袖口さへ、いみじき見物なり。
 大殿には、かやうの御歩きもをさをさしたまはぬに、御心地さへ悩ましければ、思しかけざりけるを、若き人びと、
 「いでや。おのがどちひき忍びて見はべらむこそ、栄なかるべけれ。おほよそ人だに、今日の物見には、大将殿をこそは、あやしき山賤さへ見たてまつらむとすなれ。遠き国々より、妻子を引き具しつつも参うで来なるを。御覧ぜぬは、いとあまりもはべるかな」
 と言ふを、大宮聞こしめして、
 「御心地もよろしき隙なり。さぶらふ人びともさうざうしげなめり」
 とて、にはかにめぐらし仰せたまひて、見たまふ。


 日たけゆきて、儀式もわざとならぬさまにて出でたまへり。隙もなう立ちわたりたるに、よそほしう引き続きて立ちわづらふ。よき女房車多くて、雑々の人なき隙を思ひ定めて、皆さし退けさするなかに、網代のすこしなれたるが、下簾のさまなどよしばめるに、いたう引き入りて、ほのかなる袖口、裳の裾、汗衫など、ものの色、いときよらにて、ことさらにやつれたるけはひしるく見ゆる車、二つあり。
 「これは、さらに、さやうにさし退けなどすべき御車にもあらず」
 と、口ごはくて、手触れさせず。いづかたにも、若き者ども酔ひ過ぎ、立ち騒ぎたるほどのことは、えしたためあへず。おとなおとなしき御前の人びとは、「かくな」など言へど、えとどめあへず。
 斎宮の御母御息所、もの思し乱るる慰めにもやと、忍びて出でたまへるなりけり。つれなしつくれど、おのづから見知りぬ。
 「さばかりにては、さな言はせそ」
 「大将殿をぞ、豪家には思ひきこゆらむ」
 など言ふを、その御方の人も混じれば、いとほしと見ながら、用意せむもわづらはしければ、知らず顔をつくる。
 つひに、御車ども立て続けつれば、ひとだまひの奥におしやられて、物も見えず。心やましきをばさるものにて、かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたきこと、限りなし。榻などもみな押し折られて、すずろなる車の筒にうちかけたれば、またなう人悪ろく、くやしう、「何に、来つらむ」と思ふにかひなし。物も見で帰らむとしたまへど、通り出でむ隙もなきに、
 「事なりぬ」
 と言へば、さすがに、つらき人の御前渡りの待たるるも、心弱しや。「笹の隈」にだにあらねばにや、つれなく過ぎたまふにつけても、なかなか御心づくしなり。
 げに、常よりも好みととのへたる車どもの、我も我もと乗りこぼれたる下簾の隙間どもも、さらぬ顔なれど、ほほ笑みつつ後目にとどめたまふもあり。大殿のは、しるければ、まめだちて渡りたまふ。御供の人びとうちかしこまり、心ばへありつつ渡るを、おし消たれたるありさま、こよなう思さる。
 「影をのみ御手洗川のつれなきに
  身の憂きほどぞいとど知らるる」
 と、涙のこぼるるを、人の見るもはしたなけれど、目もあやなる御さま、容貌の、「いとどしう出でばえを見ざらましかば」と思さる。
 ほどほどにつけて、装束、人のありさま、いみじくととのへたりと見ゆるなかにも、上達部はいとことなるを、一所の御光にはおし消たれためり。大将の御仮の随身に、殿上の将監などのすることは常のことにもあらず、めづらしき行幸などの折のわざなるを、今日は右近の蔵人の将監仕うまつれり。さらぬ御随身どもも、容貌、姿、まばゆくととのへて、世にもてかしづかれたまへるさま、木草もなびかぬはあるまじげなり。
 壷装束などいふ姿にて、女房の卑しからぬや、また尼などの世を背きけるなども、倒れまどひつつ、物見に出でたるも、例は、「あながちなりや、あなにく」と見ゆるに、今日はことわりに、口うちすげみて、髪着こめたるあやしの者どもの、手をつくりて、額にあてつつ見たてまつりあげたるも。をこがましげなる賤の男まで、おのが顔のならむさまをば知らで笑みさかえたり。何とも見入れたまふまじき、えせ受領の娘などさへ、心の限り尽くしたる車どもに乗り、さまことさらび心げさうしたるなむ、をかしきやうやうの見物なりける。
 まして、ここかしこにうち忍びて通ひたまふ所々は、人知れずのみ数ならぬ嘆きまさるも、多かり。


 式部卿の宮、桟敷にてぞ見たまひける。
 「いとまばゆきまでねびゆく人の容貌かな。神などは目もこそとめたまへ」
 と、ゆゆしく思したり。姫君は、年ごろ聞こえわたりたまふ御心ばへの世の人に似ぬを、
 「なのめならむにてだにあり。まして、かうしも、いかで」
 と御心とまりけり。いとど近くて見えむまでは思しよらず。若き人びとは、聞きにくきまでめできこえあへり。


 祭の日は、大殿にはもの見たまはず。大将の君、かの御車の所争ひを、まねび聞こゆる人ありければ、「いといとほしう憂し」と思して、
 「なほ、あたら重りかにおはする人の、ものに情けおくれ、すくすくしきところつきたまへるあまりに、みづからはさしも思さざりけめども、かかる仲らひは情け交はすべきものとも思いたらぬ御おきてに従ひて、次々よからぬ人のせさせたるならむかし。御息所は、心ばせのいと恥づかしく、よしありておはするものを、いかに思し憂じにけむ」
 と、いとほしくて、参うでたまへりけれど、斎宮のまだ本の宮におはしませば、榊の憚りにことつけて、心やすくも対面したまはず。ことわりとは思しながら、「なぞや、かくかたみにそばそばしからでおはせかし」と、うちつぶやかれたまふ。


 [第三段 賀茂祭の当日、紫の君と見物]
 今日は、二条院に離れおはして、祭見に出でたまふ。西の対に渡りたまひて、惟光に車のこと仰せたり。
 「女房出で立つや」
 とのたまひて、姫君のいとうつくしげにつくろひたてておはするを、うち笑みて見たてまつりたまふ。
 「君は、いざたまへ。もろともに見むよ」
 とて、御髪の常よりもきよらに見ゆるを、かきなでたまひて、
 「久しう削ぎたまはざめるを、今日は、吉き日ならむかし」
 とて、暦の博士召して、時問はせなどしたまふほどに、
 「まづ、女房出でね」
 とて、童の姿どものをかしげなるを御覧ず。いとらうたげなる髪どものすそ、はなやかに削ぎわたして、浮紋の表の袴にかかれるほど、けざやかに見ゆ。
 「君の御髪は、我削がむ」とて、「うたて、所狭うもあるかな。いかに生ひやらむとすらむ」
 と、削ぎわづらひたまふ。
 「いと長き人も、額髪はすこし短うぞあめるを、むげに後れたる筋のなきや、あまり情けなからむ」
 とて、削ぎ果てて、「千尋」と祝ひきこえたまふを、少納言、「あはれにかたじけなし」と見たてまつる。
 「はかりなき千尋の底の海松ぶさの
  生ひゆくすゑは我のみぞ見む」
 と聞こえたまへば、
 「千尋ともいかでか知らむ定めなく
  満ち干る潮ののどけからぬに」
 と、ものに書きつけておはするさま、らうらうじきものから、若うをかしきを、めでたしと思す。


 今日も、所もなく立ちにけり。馬場の御殿のほどに立てわづらひて、
 「上達部の車ども多くて、もの騒がしげなるわたりかな」
 と、やすらひたまふに、よろしき女車の、いたう乗りこぼれたるより、扇をさし出でて、人を招き寄せて、
 「ここにやは立たせたまはぬ。所避りきこえむ」
 と聞こえたり。「いかなる好色者ならむ」と思されて、所もげによきわたりなれば、引き寄せさせたまひて、
 「いかで得たまへる所ぞと、ねたさになむ」
 とのたまへば、よしある扇のつまを折りて、
 「はかなしや人のかざせる葵ゆゑ
  神の許しの今日を待ちける
 注連の内には」
 とある手を思し出づれば、かの典侍なりけり。「あさましう、旧りがたくも今めくかな」と、憎さに、はしたなう、
 「かざしける心ぞあだにおもほゆる
  八十氏人になべて逢ふ日を」
 女は、「つらし」と思ひきこえけり。
 「悔しくもかざしけるかな名のみして
  人だのめなる草葉ばかりを」
 と聞こゆ。人と相ひ乗りて、簾をだに上げたまはぬを、心やましう思ふ人多かり。
 「一日の御ありさまのうるはしかりしに、今日うち乱れて歩きたまふかし。誰ならむ。乗り並ぶ人、けしうはあらじはや」と、推し量りきこゆ。「挑ましからぬ、かざし争ひかな」と、さうざうしく思せど、かやうにいと面なからぬ人はた、人相ひ乗りたまへるにつつまれて、はかなき御いらへも、心やすく聞こえむも、まばゆしかし。


 

第二章 葵の上の物語 六条御息所がもののけとなってとり憑く物語
 [第一段 車争い後の六条御息所]
 御息所は、ものを思し乱るること、年ごろよりも多く添ひにけり。つらき方に思ひ果てたまへど、今はとてふり離れ下りたまひなむは、「いと心細かりぬべく、世の人聞きも人笑へにならむこと」と思す。さりとて立ち止まるべく思しなるには、「かくこよなきさまに皆思ひくたすべかめるも、やすからず、釣する海人の浮けなれや」と、起き臥し思しわづらふけにや、御心地も浮きたるやうに思されて、悩ましうしたまふ。
 大将殿には、下りたまはむことを、「もて離れてあるまじきこと」なども、妨げきこえたまはず、
 「数ならぬ身を、見ま憂く思し捨てむもことわりなれど、今はなほ、いふかひなきにても、御覧じ果てむや、浅からぬにはあらむ」
 と、聞こえかかづらひたまへば、定めかねたまへる御心もや慰むと、立ち出でたまへりし御禊河の荒かりし瀬に、いとど、よろづいと憂く思し入れたり。
 大殿には、御もののけめきて、いたうわづらひたまへば、誰も誰も思し嘆くに、御歩きなど便なきころなれば、二条院にも時々ぞ渡りたまふ。さはいへど、やむごとなき方は、ことに思ひきこえたまへる人の、めづらしきことさへ添ひたまへる御悩みなれば、心苦しう思し嘆きて、御修法や何やなど、わが御方にて、多く行はせたまふ。
 もののけ、生すだまなどいふもの多く出で来て、さまざまの名のりするなかに、人にさらに移らず、ただみづからの御身につと添ひたるさまにて、ことにおどろおどろしうわづらはしきこゆることもなけれど、また、片時離るる折もなきもの一つあり。いみじき験者どもにも従はず、執念きけしき、おぼろけのものにあらずと見えたり。
 大将の君の御通ひ所、ここかしこと思し当つるに、
 「この御息所、二条の君などばかりこそは、おしなべてのさまには思したらざめれば、怨みの心も深からめ」
 とささめきて、ものなど問はせたまへど、さして聞こえ当つることもなし。もののけとても、わざと深き御かたきと聞こゆるもなし。過ぎにける御乳母だつ人、もしは親の御方につけつつ伝はりたるものの、弱目に出で来たるなど、むねむねしからずぞ乱れ現はるる。ただつくづくと、音をのみ泣きたまひて、折々は胸をせき上げつつ、いみじう堪へがたげに惑ふわざをしたまへば、いかにおはすべきにかと、ゆゆしう悲しく思しあわてたり。
 院よりも、御とぶらひ隙なく、御祈りのことまで思し寄らせたまふさまのかたじけなきにつけても、いとど惜しげなる人の御身なり。
 世の中あまねく惜しみきこゆるを聞きたまふにも、御息所はただならず思さる。年ごろはいとかくしもあらざりし御いどみ心を、はかなかりし所の車争ひに、人の御心の動きにけるを、かの殿には、さまでも思し寄らざりけり。

 [第二段 源氏、御息所を旅所に見舞う]
 かかる御もの思ひの乱れに、御心地、なほ例ならずのみ思さるれば、ほかに渡りたまひて、御修法などせさせたまふ。大将殿聞きたまひて、いかなる御心地にかと、いとほしう、思し起して渡りたまへり。
 例ならぬ旅所なれば、いたう忍びたまふ。心よりほかなるおこたりなど、罪ゆるされぬべく聞こえつづけたまひて、悩みたまふ人の御ありさまも、憂へきこえたまふ。
 「みづからはさしも思ひ入れはべらねど、親たちのいとことことしう思ひまどはるるが心苦しさに、かかるほどを見過ぐさむとてなむ。よろづを思しのどめたる御心ならば、いとうれしうなむ」
 など、語らひきこえたまふ。常よりも心苦しげなる御けしきを、ことわりに、あはれに見たてまつりたまふ。
 うちとけぬ朝ぼらけに、出でたまふ御さまのをかしきにも、なほふり離れなむことは思し返さる。
 「やむごとなき方に、いとど心ざし添ひたまふべきことも出で来にたれば、一つ方に思ししづまりたまひなむを、かやうに待ちきこえつつあらむも、心のみ尽きぬべきこと」
 なかなかもの思ひのおどろかさるる心地したまふに、御文ばかりぞ、暮れつ方ある。
 「日ごろ、すこしおこたるさまなりつる心地の、にはかにいといたう苦しげにはべるを、え引きよかでなむ」
 とあるを、「例のことつけ」と、見たまふものから、
 「袖濡るる恋路とかつは知りながら
  おりたつ田子のみづからぞ憂き
 『山の井の水』もことわりに」
 とぞある。「御手は、なほここらの人のなかにすぐれたりかし」と見たまひつつ、「いかにぞやもある世かな。心も容貌も、とりどりに捨つべくもなく、また思ひ定むべきもなきを」。苦しう思さる。御返り、いと暗うなりにたれど、
 「袖のみ濡るるや、いかに。深からぬ御ことになむ。
  浅みにや人はおりたつわが方は
  身もそほつまで深き恋路を
 おぼろけにてや、この御返りを、みづから聞こえさせぬ」
 などあり。


 [第三段 葵の上に御息所のもののけ出現する]
 大殿には、御もののけいたう起こりて、いみじうわづらひたまふ。「この御生きすだま、故父大臣の御霊など言ふものあり」と聞きたまふにつけて、思しつづくれば、
 「身一つの憂き嘆きよりほかに、人を悪しかれなど思ふ心もなけれど、もの思ひにあくがるなる魂は、さもやあらむ」
 と思し知らるることもあり。
 年ごろ、よろづに思ひ残すことなく過ぐしつれど、かうしも砕けぬを、はかなきことの折に、人の思ひ消ち、なきものにもてなすさまなりし御禊の後、ひとふしに思し浮かれにし心、鎮まりがたう思さるるけにや、すこしうちまどろみたまふ夢には、かの姫君とおぼしき人の、いときよらにてある所に行きて、とかく引きまさぐり、うつつにも似ず、たけくいかきひたぶる心出で来て、うちかなぐるなど見えたまふこと、度かさなりにけり。
 「あな、心憂や。げに、身を捨ててや、往にけむ」と、うつし心ならずおぼえたまふ折々もあれば、「さならぬことだに、人の御ためには、よさまのことをしも言ひ出でぬ世なれば、ましてこれは、いとよう言ひなしつべきたよりなり」と思すに、いと名たたしう、
 「ひたすら世に亡くなりて、後に怨み残すは世の常のことなり。それだに、人の上にては、罪深うゆゆしきを、うつつのわが身ながら、さる疎ましきことを言ひつけらるる宿世の憂きこと。すべて、つれなき人にいかで心もかけきこえじ」
 と思し返せど、思ふもものをなり。


 [第四段 斎宮、秋に宮中の初斎院に入る]
 斎宮は、去年内裏に入りたまふべかりしを、さまざま障はることありて、この秋入りたまふ。九月には、やがて野の宮に移ろひたまふべければ、ふたたびの御祓へのいそぎ、とりかさねてあるべきに、ただあやしうほけほけしうて、つくづくと臥し悩みたまふを、宮人、いみじき大事にて、御祈りなど、さまざま仕うまつる。
 おどろおどろしきさまにはあらず、そこはかとなくて、月日を過ぐしたまふ。大将殿も、常にとぶらひきこえたまへど、まさる方のいたうわづらひたまへば、御心のいとまなげなり。
 まださるべきほどにもあらずと、皆人もたゆみたまへるに、にはかに御けしきありて、悩みたまへば、いとどしき御祈り、数を尽くしてせさせたまへれど、例の執念き御もののけ一つ、さらに動かず、やむごとなき験者ども、めづらかなりともてなやむ。さすがに、いみじう調ぜられて、心苦しげに泣きわびて、
 「すこしゆるべたまへや。大将に聞こゆべきことあり」とのたまふ。
 「さればよ。あるやうあらむ」
 とて、近き御几帳のもとに入れたてまつりたり。むげに限りのさまにものしたまふを、聞こえ置かまほしきこともおはするにやとて、大臣も宮もすこし退きたまへり。加持の僧ども、声しづめて法華経を誦みたる、いみじう尊し。
 御几帳の帷子引き上げて見たてまつりたまへば、いとをかしげにて、御腹はいみじう高うて臥したまへるさま、よそ人だに、見たてまつらむに心乱れぬべし。まして惜しう悲しう思す、ことわりなり。白き御衣に、色あひいとはなやかにて、御髪のいと長うこちたきを、引き結ひてうち添へたるも、「かうてこそ、らうたげになまめきたる方添ひてをかしかりけれ」と見ゆ。御手をとらへて、
 「あな、いみじ。心憂きめを見せたまふかな」
 とて、ものも聞こえたまはず泣きたまへば、例はいとわづらはしう恥づかしげなる御まみを、いとたゆげに見上げて、うちまもりきこえたまふに、涙のこぼるるさまを見たまふは、いかがあはれの浅からむ。
 あまりいたう泣きたまへば、「心苦しき親たちの御ことを思し、また、かく見たまふにつけて、口惜しうおぼえたまふにや」と思して、
 「何ごとも、いとかうな思し入れそ。さりともけしうはおはせじ。いかなりとも、かならず逢ふ瀬あなれば、対面はありなむ。大臣、宮なども、深き契りある仲は、めぐりても絶えざなれば、あひ見るほどありなむと思せ」
 と、慰めたまふに、
 「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける」
 と、なつかしげに言ひて、
 「嘆きわび空に乱るるわが魂を
  結びとどめよしたがへのつま」
 とのたまふ声、けはひ、その人にもあらず、変はりたまへり。「いとあやし」と思しめぐらすに、ただ、かの御息所なりけり。あさましう、人のとかく言ふを、よからぬ者どもの言ひ出づることも、聞きにくく思して、のたまひ消つを、目に見す見す、「世には、かかることこそはありけれ」と、疎ましうなりぬ。「あな、心憂」と思されて、
 「かくのたまへど、誰とこそ知らね。たしかにのたまへ」
 とのたまへば、ただそれなる御ありさまに、あさましとは世の常なり。人々近う参るも、かたはらいたう思さる。


 [第五段 葵の上、男子を出産]
 すこし御声もしづまりたまへれば、隙おはするにやとて、宮の御湯持て寄せたまへるに、かき起こされたまひて、ほどなく生まれたまひぬ。うれしと思すこと限りなきに、人に駆り移したまへる御もののけども、ねたがりまどふけはひ、いともの騒がしうて、後の事、またいと心もとなし。
 言ふ限りなき願ども立てさせたまふけにや、たひらかに事なり果てぬれば、山の座主、何くれやむごとなき僧ども、したり顔に汗おしのごひつつ、急ぎまかでぬ。
 多くの人の心を尽くしつる日ごろの名残、すこしうちやすみて、「今はさりとも」と思す。御修法などは、またまた始め添へさせたまへど、まづは、興あり、めづらしき御かしづきに、皆人ゆるべり。
 院をはじめたてまつりて、親王たち、上達部、残るなき産養どもの、めづらかにいかめしきを、夜ごとに見ののしる。男にてさへおはすれば、そのほどの作法、にぎははしくめでたし。


 かの御息所は、かかる御ありさまを聞きたまひても、ただならず。「かねては、いと危ふく聞こえしを、たひらかにもはた」と、うち思しけり。
 あやしう、我にもあらぬ御心地を思しつづくるに、御衣なども、ただ芥子の香に染み返りたるあやしさに、御ゆする参り、御衣着替へなどしたまひて、試みたまへど、なほ同じやうにのみあれば、わが身ながらだに疎ましう思さるるに、まして、人の言ひ思はむことなど、人にのたまふべきことならねば、心ひとつに思し嘆くに、いとど御心変はりもまさりゆく。
 大将殿は、心地すこしのどめたまひて、あさましかりしほどの問はず語りも、心憂く思し出でられつつ、「いとほど経にけるも心苦しう、また気近う見たてまつらむには、いかにぞや。うたておぼゆべきを、人の御ためいとほしう」、よろづに思して、御文ばかりぞありける。
 いたうわづらひたまひし人の御名残ゆゆしう、心ゆるびなげに、誰も思したれば、ことわりにて、御歩きもなし。なほいと悩ましげにのみしたまへば、例のさまにてもまだ対面したまはず。若君のいとゆゆしきまで見えたまふ御ありさまを、今から、いとさまことにもてかしづききこえたまふさま、おろかならず、ことあひたる心地して、大臣もうれしういみじと思ひきこえたまへるに、ただ、この御心地おこたり果てたまはぬを、心もとなく思せど、「さばかりいみじかりし名残にこそは」と思して、いかでかは、さのみは心をも惑はしたまはむ。


 若君の御まみのうつくしさなどの、春宮にいみじう似たてまつりたまへるを、見たてまつりたまひても、まづ、恋しう思ひ出でられさせたまふに、忍びがたくて、参りたまはむとて、
 「内裏などにもあまり久しう参りはべらねば、いぶせさに、今日なむ初立ちしはべるを、すこし気近きほどにて聞こえさせばや。あまりおぼつかなき御心の隔てかな」
 と、恨みきこえたまへれば、
 「げに、ただひとへに艶にのみあるべき御仲にもあらぬを、いたう衰へたまへりと言ひながら、物越にてなどあべきかは」
 とて、臥したまへる所に、御座近う参りたれば、入りてものなど聞こえたまふ。
 御いらへ、時々聞こえたまふも、なほいと弱げなり。されど、むげに亡き人と思ひきこえし御ありさまを思し出づれば、夢の心地して、ゆゆしかりしほどのことどもなど聞こえたまふついでにも、かのむげに息も絶えたるやうにおはせしが、引き返し、つぶつぶとのたまひしことども思し出づるに、心憂ければ、
 「いさや、聞こえまほしきこといと多かれど、まだいとたゆげに思しためればこそ」
 とて、「御湯参れ」などさへ、扱ひきこえたまふを、いつならひたまひけむと、人々あはれ がりきこゆ。
 いとをかしげなる人の、いたう弱りそこなはれて、あるかなきかのけしきにて臥したまへるさま、いとらうたげに心苦しげなり。御髪の乱れたる筋もなく、はらはらとかかれる枕のほど、ありがたきまで見ゆれば、「年ごろ、何ごとを飽かぬことありて思ひつらむ」と、あやしきまでうちまもられたまふ。
 「院などに参りて、いととうまかでなむ。かやうにて、おぼつかなからず見たてまつらば、うれしかるべきを、宮のつとおはするに、心地なくやと、つつみて過ぐしつるも苦しきを、なほやうやう心強く思しなして、例の御座所にこそ。あまり若くもてなしたまへば、かたへは、かくもものしたまふぞ」
 など、聞こえおきたまひて、いときよげにうち装束きて出でたまふを、常よりは目とどめて、見出だして臥したまへり。


 [第六段 秋の司召の夜、葵の上死去する]
 秋の司召あるべき定めにて、大殿も参りたまへば、君達も労はり望みたまふことどもありて、殿の御あたり離れたまはねば、皆ひき続き出でたまひぬ。
 殿の内、人少なにしめやかなるほどに、にはかに例の御胸をせきあげて、いといたう惑ひたまふ。内裏に御消息聞こえたまふほどもなく、絶え入りたまひぬ。足を空にて、誰も誰も、まかでたまひぬれば、除目の夜なりけれど、かくわりなき御障りなれば、みな事破れたるやうなり。
 ののしり騒ぐほど、夜中ばかりなれば、山の座主、何くれの僧都たちも、え請じあへたまはず。今はさりとも、と思ひたゆみたりつるに、あさましければ、殿の内の人、ものにぞあたる。所々の御とぶらひの使など、立ちこみたれど、え聞こえつかず、ゆすりみちて、いみじき御心惑ひども、いと恐ろしきまで見えたまふ。
 御もののけのたびたび取り入れたてまつりしを思して、御枕などもさながら、二、三日見たてまつりたまへど、やうやう変はりたまふことどものあれば、限り、と思し果つるほど、誰も誰もいといみじ。
 大将殿は、悲しきことに、ことを添へて、世の中をいと憂きものに思し染みぬれば、ただならぬ御あたりの弔ひどもも、心憂しとのみぞ、なべて思さるる。院に、思し嘆き、弔ひきこえさせたまふさま、かへりて面立たしげなるを、うれしき瀬もまじりて、大臣は御涙のいとまなし。
 人の申すに従ひて、いかめしきことどもを、生きや返りたまふと、さまざまに残ることなく、かつ損なはれたまふことどものあるを見る見るも、尽きせず思し惑へど、かひなくて日ごろになれば、いかがはせむとて、鳥辺野に率てたてまつるほど、いみじげなること、多かり。


 [第七段 葵の上の葬送とその後]
 こなたかなたの御送りの人ども、寺々の念仏僧など、そこら広き野に所もなし。院をばさらにも申さず、后の宮、春宮などの御使、さらぬ所々のも参りちがひて、飽かずいみじき御とぶらひを聞こえたまふ。大臣はえ立ち上がりたまはず、
 「かかる齢の末に、若く盛りの子に後れたてまつりて、もごよふこと」
 と恥ぢ泣きたまふを、ここらの人悲しう見たてまつる。
 夜もすがらいみじうののしりつる儀式なれど、いともはかなき御屍ばかりを御名残にて、暁深く帰りたまふ。
 常のことなれど、人一人か、あまたしも見たまはぬことなればにや、類ひなく思し焦がれたり。八月二十余日の有明なれば、空もけしきもあはれ少なからぬに、大臣の闇に暮れ惑ひたまへるさまを見たまふも、ことわりにいみじければ、空のみ眺められたまひて、
 「のぼりぬる煙はそれとわかねども
  なべて雲居のあはれなるかな」


 殿におはし着きて、つゆまどろまれたまはず。年ごろの御ありさまを思し出でつつ、
 「などて、つひにはおのづから見直したまひてむと、のどかに思ひて、なほざりのすさびにつけても、つらしとおぼえられたてまつりけむ。世を経て、疎く恥づかしきものに思ひて過ぎ果てたまひぬる」
 など、悔しきこと多く、思しつづけらるれど、かひなし。にばめる御衣たてまつれるも、夢の心地して、「われ先立たましかば、深くぞ染めたまはまし」と、思すさへ、
 「限りあれば薄墨衣浅けれど
  涙ぞ袖を淵となしける」
 とて、念誦したまへるさま、いとどなまめかしさまさりて、経忍びやかに誦みたまひつつ、「法界三昧普賢大士」とうちのたまへる、行ひ馴れたる法師よりはけなり。若君を見たてまつりたまふにも、「何に忍ぶの」と、いとど露けけれど、「かかる形見さへなからましかば」と、思し慰む。
 宮はしづみ入りて、そのままに起き上がりたまはず、危ふげに見えたまふを、また思し騒ぎて、御祈りなどせさせたまふ。


 はかなう過ぎゆけば、御わざのいそぎなどせさせたまふも、思しかけざりしことなれば、尽きせずいみじうなむ。なのめにかたほなるをだに、人の親はいかが思ふめる、ましてことわりなり。また、類ひおはせぬをだに、さうざうしく思しつるに、袖の上の玉の砕けたりけむよりも、あさましげなり。
 大将の君は、二条院にだに、あからさまにも渡りたまはず、あはれに心深う思ひ嘆きて、行ひをまめにしたまひつつ、明かし暮らしたまふ。所々には、御文ばかりぞたてまつりたまふ。
 かの御息所は、斎宮は左衛門の司に入りたまひにければ、いとどいつくしき御きよまはりにことつけて、聞こえも通ひたまはず。憂しと思ひ染みにし世も、なべて厭はしうなりたまひて、「かかるほだしだに添はざらましかば、願はしきさまにもなりなまし」と思すには、まづ対の姫君の、さうざうしくてものしたまふらむありさまぞ、ふと思しやらるる。
 夜は、御帳の内に一人臥したまふに、宿直の人々は近うめぐりてさぶらへど、かたはら寂しくて、「時しもあれ」と寝覚めがちなるに、声すぐれたる限り選りさぶらはせたまふ念仏の、暁方など、忍びがたし。


 「深き秋のあはれまさりゆく風の音、身にしみけるかな」と、ならはぬ御独寝に明かしかねたまへる朝ぼらけの霧りわたれるに、菊のけしきばめる枝に、濃き青鈍の紙なる文つけて、さし置きて往にけり。「今めかしうも」とて、見たまへば、御息所の御手なり。
 「聞こえぬほどは、思し知るらむや。
  人の世をあはれと聞くも露けきに
  後るる袖を思ひこそやれ
 ただ今の空に思ひたまへあまりてなむ」
 とあり。「常よりも優にも書いたまへるかな」と、さすがに置きがたう見たまふものから、「つれなの御弔ひや」と心憂し。さりとて、かき絶え音なう聞こえざらむもいとほしく、人の御名の朽ちぬべきことを思し乱る。
 「過ぎにし人は、とてもかくても、さるべきにこそはものしたまひけめ、何にさることを、さださだとけざやかに見聞きけむ」と悔しきは、わが御心ながら、なほえ思し直すまじきなめりかし。
 「斎宮の御きよまはりもわづらはしくや」など、久しう思ひわづらひたまへど、「わざとある御返りなくは、情けなくや」とて、紫のにばめる紙に、
 「こよなうほど経はべりにけるを、思ひたまへおこたらずながら、つつましきほどは、さらば、思し知るらむやとてなむ。
  とまる身も消えしもおなじ露の世に
  心置くらむほどぞはかなき
 かつは思し消ちてよかし。御覧ぜずもやとて、誰れにも」
 と聞こえたまへり。
 里におはするほどなりければ、忍びて見たまひて、ほのめかしたまへるけしきを、心の鬼にしるく見たまひて、「さればよ」と思すも、いといみじ。
 「なほ、いと限りなき身の憂さなりけり。かやうなる聞こえありて、院にもいかに思さむ。故前坊の、同じき御はらからと言ふなかにも、いみじう思ひ交はしきこえさせたまひて、この斎宮の御ことをも、ねむごろに聞こえつけさせたまひしかば、『その御代はりにも、やがて見たてまつり扱はむ』など、常にのたまはせて、『やがて内裏住みしたまへ』と、たびたび聞こえさせたまひしをだに、いとあるまじきこと、と思ひ離れにしを、かく心よりほかに若々しきもの思ひをして、つひに憂き名をさへ流し果てつべきこと」
 と、思し乱るるに、なほ例のさまにもおはせず。
 さるは、おほかたの世につけて、心にくくよしある聞こえありて、昔より名高くものしたまへば、野の宮の御移ろひのほどにも、をかしう今めきたること多くしなして、「殿上人どもの好ましきなどは、朝夕の露分けありくを、そのころの役になむする」など聞きたまひても、大将の君は、「ことわりぞかし。ゆゑは飽くまでつきたまへるものを。もし、世の中に飽き果てて下りたまひなば、さうざうしくもあるべきかな」と、さすがに思されけり。


 [第八段 三位中将と故人を追慕する]
 御法事など過ぎぬれど、正日までは、なほ籠もりおはす。ならはぬ御つれづれを、心苦しがりたまひて、三位中将は常に参りたまひつつ、世の中の御物語など、まめやかなるも、また例の乱りがはしきことをも聞こえ出でつつ、慰めきこえたまふに、かの内侍ぞ、うち笑ひたまふくさはひにはなるめる。大将の君は、
 「あな、いとほしや。祖母殿の上、ないたう軽めたまひそ」
 といさめたまふものから、常にをかしと思したり。
 かの十六夜の、さやかならざりし秋のことなど、さらぬも、さまざまの好色事どもを、かたみに隈なく言ひあらはしたまふ、果て果ては、あはれなる世を言ひ言ひて、うち泣きなどもしたまひけり。
 時雨うちして、ものあはれなる暮つ方、中将の君、鈍色の直衣、指貫、うすらかに衣更へして、いと雄々しうあざやかに、心恥づかしきさまして参りたまへり。
 君は、西のつまの高欄におしかかりて、霜枯れの前栽見たまふほどなりけり。風荒らかに吹き、時雨さとしたるほど、涙もあらそふ心地して、
 「雨となり雲とやなりにけむ、今は知らず」
 と、うちひとりごちて、頬杖つきたまへる御さま、「女にては、見捨てて亡くならむ魂かならずとまりなむかし」と、色めかしき心地に、うちまもられつつ、近うついゐたまへれば、しどけなくうち乱れたまへるさまながら、紐ばかりをさし直したまふ。
 これは、今すこしこまやかなる夏の御直衣に、紅のつややかなるひき重ねて、やつれたまへるしも、見ても飽かぬ心地ぞする。
 中将も、いとあはれなるまみに眺めたまへり。
 「雨となりしぐるる空の浮雲を
  いづれの方とわきて眺めむ
 行方なしや」
 と、独り言のやうなるを、
 「見し人の雨となりにし雲居さへ
  いとど時雨にかき暮らすころ」
 とのたまふ御けしきも、浅からぬほどしるく見ゆれば、
 「あやしう、年ごろはいとしもあらぬ御心ざしを、院など、居立ちてのたまはせ、大臣の御もてなしも心苦しう、大宮の御方ざまに、もて離るまじきなど、かたがたにさしあひたれば、えしもふり捨てたまはで、もの憂げなる御けしきながら、ありへたまふなめりかしと、いとほしう見ゆる折々ありつるを、まことに、やむごとなく重きかたは、ことに思ひきこえたまひけるなめり」
 と見知るに、いよいよ口惜しうおぼゆ。よろづにつけて光失せぬる心地して、屈じいたかりけり。
 枯れたる下草のなかに、龍胆、撫子などの、咲き出でたるを折らせたまひて、中将の立ちたまひぬる後に、若君の御乳母の宰相の君して、
 「草枯れのまがきに残る撫子を
  別れし秋のかたみとぞ見る
 にほひ劣りてや御覧ぜらるらむ」
 と聞こえたまへり。げに何心なき御笑み顔ぞ、いみじううつくしき。宮は、吹く風につけてだに、木の葉よりけにもろき御涙は、まして、とりあへたまはず。
 「今も見てなかなか袖を朽たすかな
  垣ほ荒れにし大和撫子」


 なほ、いみじうつれづれなれば、朝顔の宮に、「今日のあはれは、さりとも見知りたまふらむ」と推し量らるる御心ばへなれば、暗きほどなれど、聞こえたまふ。絶え間遠けれど、さのものとなりにたる御文なれば、咎なくて御覧ぜさす。空の色したる唐の紙に、
 「わきてこの暮こそ袖は露けけれ
  もの思ふ秋はあまた経ぬれど
 いつも時雨は」
 とあり。御手などの心とどめて書きたまへる、常よりも見どころありて、「過ぐしがたきほどなり」と人も聞こえ、みづからも思されければ、
 「大内山を、思ひやりきこえながら、えやは」とて、
 「秋霧に立ちおくれぬと聞きしより
  しぐるる空もいかがとぞ思ふ」
 とのみ、ほのかなる墨つきにて、思ひなし心にくし。
 何ごとにつけても、見まさりはかたき世なめるを、つらき人しもこそと、あはれにおぼえたまふ人の御心ざまなる。
 「つれなながら、さるべき折々のあはれを過ぐしたまはぬ、これこそ、かたみに情けも見果つべきわざなれ。なほ、ゆゑづきよしづきて、人目に見ゆばかりなるは、あまりの難も出で来けり。対の姫君を、さは生ほし立てじ」と思す。「つれづれにて恋しと思ふらむかし」と、忘るる折なけれど、ただ女親なき子を、置きたらむ心地して、見ぬほど、うしろめたく、「いかが思ふらむ」とおぼえぬぞ、心やすきわざなりける。


 暮れ果てぬれば、大殿油近く参らせたまひて、さるべき限りの人びと、御前にて物語などせさせたまふ。
 中納言の君といふは、年ごろ忍び思ししかど、この御思ひのほどは、なかなかさやうなる筋にもかけたまはず。「あはれなる御心かな」と見たてまつる。おほかたにはなつかしううち語らひたまひて、
 「かう、この日ごろ、ありしよりけに、誰も誰も紛るるかたなく、見なれ見なれて、えしも常にかからずは、恋しからじや。いみじきことをばさるものにて、ただうち思ひめぐらすこそ、耐へがたきこと多かりけれ」
 とのたまへば、いとどみな泣きて、
 「いふかひなき御ことは、ただかきくらす心地しはべるは、さるものにて、名残なきさまにあくがれ果てさせたまはむほど、思ひたまふるこそ」
 と、聞こえもやらず。あはれと見わたしたまひて、
 「名残なくは、いかがは。心浅くも取りなしたまふかな。心長き人だにあらば、見果てたまひなむものを。命こそはかなけれ」
 とて、燈をうち眺めたまへるまみの、うち濡れたまへるほどぞ、めでたき。
 とりわきてらうたくしたまひし小さき童の、親どももなく、いと心細げに思へる、ことわりに見たまひて、
 「あてきは、今は我をこそは思ふべき人なめれ」
 とのたまへば、いみじう泣く。ほどなき衵、人よりは黒う染めて、黒き汗衫、萱草の袴など着たるも、をかしき姿なり。
 「昔を忘れざらむ人は、つれづれを忍びても、幼なき人を見捨てず、ものしたまへ。見し世の名残なく、人びとさへ離れなば、たつきなさもまさりぬべくなむ」
 など、みな心長かるべきことどもをのたまへど、「いでや、いとど待遠にぞなりたまはむ」と思ふに、いとど心細し。
 大殿は、人びとに、際々ほど置きつつ、はかなきもてあそびものども、また、まことにかの御形見なるべきものなど、わざとならぬさまに取りなしつつ、皆配らせたまひけり。


 [第九段 源氏、左大臣邸を辞去する]
 君は、かくてのみも、いかでかはつくづくと過ぐしたまはむとて、院へ参りたまふ。御車さし出でて、御前など参り集るほど、折知り顔なる時雨うちそそきて、木の葉さそふ風、あわたたしう吹き払ひたるに、御前にさぶらふ人々、ものいと心細くて、すこし隙ありつる袖ども湿ひわたりぬ。
 夜さりは、やがて二条院に泊りたまふべしとて、侍ひの人びとも、かしこにて待ちきこえむとなるべし、おのおの立ち出づるに、今日にしもとぢむまじきことなれど、またなくもの悲し。
 大臣も宮も、今日のけしきに、また悲しさ改めて思さる。宮の御前に御消息聞こえたまへり。
 「院におぼつかながりのたまはするにより、今日なむ参りはべる。あからさまに立ち出ではべるにつけても、今日までながらへはべりにけるよと、乱り心地のみ動きてなむ、聞こえさせむもなかなかにはべるべければ、そなたにも参りはべらぬ」
 とあれば、いとどしく宮は、目も見えたまはず、沈み入りて、御返りも聞こえたまはず。
 大臣ぞ、やがて渡りたまへる。いと堪へがたげに思して、御袖も引き放ちたまはず。見たてまつる人々もいと悲し。
 大将の君は、世を思しつづくること、いとさまざまにて、泣きたまふさま、あはれに心深きものから、いとさまよくなまめきたまへり。大臣、久しうためらひたまひて、
 「齢のつもりには、さしもあるまじきことにつけてだに、涙もろなるわざにはべるを、まして、干る世なう思ひたまへ惑はれはべる心を、えのどめはべらねば、人目も、いと乱りがはしう、心弱きさまにはべるべければ、院などにも参りはべらぬなり。ことのついでには、さやうにおもむけ奏せさせたまへ。いくばくもはべるまじき老いの末に、うち捨てられたるが、つらうもはべるかな」
 と、せめて思ひ静めてのたまふけしき、いとわりなし。君も、たびたび鼻うちかみて、
 「後れ先立つほどの定めなさは、世のさがと見たまへ知りながら、さしあたりておぼえはべる心惑ひは、類ひあるまじきわざとなむ。院にも、ありさま奏しはべらむに、推し量らせたまひてむ」と聞こえたまふ。
 「さらば、時雨も隙なくはべるめるを、暮れぬほどに」と、そそのかしきこえたまふ。
 うち見まはしたまふに、御几帳の後、障子のあなたなどのあき通りたるなどに、女房三十人ばかりおしこりて、濃き、薄き鈍色どもを着つつ、皆いみじう心細げにて、うちしほれたれつつゐ集りたるを、いとあはれ、と見たまふ。
 「思し捨つまじき人もとまりたまへれば、さりとも、もののついでには立ち寄らせたまはじやなど、慰めはべるを、ひとへに思ひやりなき女房などは、今日を限りに、思し捨てつる故里と思ひ屈じて、長く別れぬる悲しびよりも、ただ時々馴れ仕うまつる年月の名残なかるべきを、嘆きはべるめるなむ、ことわりなる。うちとけおはしますことははべらざりつれど、さりともつひにはと、あいな頼めしはべりつるを。げにこそ、心細き夕べにはべれ」
 とても、泣きたまひぬ。
 「いと浅はかなる人びとの嘆きにもはべるなるかな。まことに、いかなりともと、のどかに思ひたまへつるほどは、おのづから御目離るる折もはべりつらむを、なかなか今は、何を頼みにてかはおこたりはべらむ。今御覧じてむ」
 とて出でたまふを、大臣見送りきこえたまひて、入りたまへるに、御しつらひよりはじめ、ありしに変はることもなけれど、空蝉のむなしき心地ぞしたまふ。
 御帳の前に、御硯などうち散らして、手習ひ捨てたまへるを取りて、目をおししぼりつつ見たまふを、若き人々は、悲しきなかにも、ほほ笑むあるべし。あはれなる古言ども、唐のも大和のも書きけがしつつ、草にも真名にも、さまざまめづらしきさまに書き混ぜたまへり。
 「かしこの御手や」
 と、空を仰ぎて眺めたまふ。よそ人に見たてまつりなさむが、惜しきなるべし。「旧き枕故き衾、誰と共にか」とある所に、
 「なき魂ぞいとど悲しき寝し床の
  あくがれがたき心ならひに」
 また、「霜の花白し」とある所に、
 「君なくて塵つもりぬる常夏の
  露うち払ひいく夜寝ぬらむ」
 一日の花なるべし、枯れて混じれり。
 宮に御覧ぜさせたまひて、
 「いふかひなきことをばさるものにて、かかる悲しき類ひ、世になくやはと、思ひなしつつ、契り長からで、かく心を惑はすべくてこそはありけめと、かへりてはつらく、前の世を思ひやりつつなむ、覚ましはべるを、ただ、日ごろに添へて、恋しさの堪へがたきと、この大将の君の、今はとよそになりたまはむなむ、飽かずいみじく思ひたまへらるる。一日、二日も見えたまはず、かれがれにおはせしをだに、飽かず胸いたく思ひはべりしを、朝夕の光失ひては、いかでかながらふべからむ」
 と、御声もえ忍びあへたまはず泣いたまふに、御前なるおとなおとなしき人など、いと悲しくて、さとうち泣きたる、そぞろ寒き夕べのけしきなり。
 若き人びとは、所々に群れゐつつ、おのがどち、あはれなることどもうち語らひて、
 「殿の思しのたまはするやうに、若君を見たてまつりてこそは、慰むべかめれと思ふも、いとはかなきほどの御形見にこそ」
 とて、おのおの、「あからさまにまかでて、参らむ」と言ふもあれば、かたみに別れ惜しむほど、おのがじしあはれなることども多かり。


 院へ参りたまへれば、
 「いといたう面痩せにけり。精進にて日を経るけにや」
 と、心苦しげに思し召して、御前にて物など参らせたまひて、とやかくやと思し扱ひきこえさせたまへるさま、あはれにかたじけなし。
 中宮の御方に参りたまへれば、人びと、めづらしがり見たてまつる。命婦の君して、
 「思ひ尽きせぬことどもを、ほど経るにつけてもいかに」
 と、御消息聞こえたまへり。
 「常なき世は、おほかたにも思うたまへ知りにしを、目に近く見はべりつるに、いとはしきこと多く思うたまへ乱れしも、たびたびの御消息に慰めはべりてなむ、今日までも」
 とて、さらぬ折だにある御けしき取り添へて、いと心苦しげなり。無紋の表の御衣に、鈍色の御下襲、纓巻きたまへるやつれ姿、はなやかなる御装ひよりも、なまめかしさまさりたまへり。
 春宮にも久しう参らぬおぼつかなさなど、聞こえたまひて、夜更けてぞ、まかでたまふ。


 

第三章 紫の君の物語 新手枕の物語
 [第一段 源氏、紫の君と新手枕を交わす]
 二条院には、方々払ひみがきて、男女、待ちきこえたり。上臈ども皆参う上りて、我も我もと装束き、化粧じたるを見るにつけても、かのゐ並み屈じたりつるけしきどもぞ、あはれに思ひ出でられたまふ。
 御装束たてまつり替へて、西の対に渡りたまへり。衣更えの御しつらひ、くもりなくあざやかに見えて、よき若人童女の、形、姿めやすくととのへて、「少納言がもてなし、心もとなきところなう、心にくし」と見たまふ。
 姫君、いとうつくしうひきつくろひておはす。
 「久しかりつるほどに、いとこよなうこそ大人びたまひにけれ」
 とて、小さき御几帳ひき上げて見たてまつりたまへば、うちそばみて笑ひたまへる御さま、飽かぬところなし。
 「火影の御かたはらめ、頭つきなど、ただ、かの心尽くしきこゆる人に、違ふところなくなりゆくかな」
 と見たまふに、いとうれし。
 近く寄りたまひて、おぼつかなかりつるほどのことどもなど聞こえたまひて、
 「日ごろの物語、のどかに聞こえまほしけれど、忌ま忌ましうおぼえはべれば、しばし他方にやすらひて、参り来む。今は、とだえなく見たてまつるべければ、厭はしうさへや思されむ」
 と、語らひきこえたまふを、少納言はうれしと聞くものから、なほ危ふく思ひきこゆ。「やむごとなき忍び所多うかかづらひたまへれば、またわづらはしきや立ち代はりたまはむ」と思ふぞ、憎き心なるや。
 御方に渡りたまひて、中将の君といふに、御足など参りすさびて、大殿籠もりぬ。
 朝には、若君の御もとに御文たてまつりたまふ。あはれなる御返りを見たまふにも、尽きせぬことどものみなむ。

 いとつれづれに眺めがちなれど、何となき御歩きも、もの憂く思しなられて、思しも立たれず。
 姫君の、何ごともあらまほしうととのひ果てて、いとめでたうのみ見えたまふを、似げなからぬほどに、はた、見なしたまへれば、けしきばみたることなど、折々聞こえ試みたまへど、見も知りたまはぬけしきなり。
 つれづれなるままに、ただこなたにて碁打ち、偏つぎなどしつつ、日を暮らしたまふに、心ばへのらうらうじく愛敬づき、はかなき戯れごとのなかにも、うつくしき筋をし出でたまへば、思し放ちたる年月こそ、たださるかたのらうたさのみはありつれ、しのびがたくなりて、心苦しけれど、いかがありけむ、人のけぢめ見たてまつりわくべき御仲にもあらぬに、男君はとく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬ朝あり。
 人びと、「いかなれば、かくおはしますならむ。御心地の例ならず思さるるにや」と見たてまつり嘆くに、君は渡りたまふとて、御硯の箱を、御帳のうちにさし入れておはしにけり。
 人まにからうして頭もたげたまへるに、引き結びたる文、御枕のもとにあり。何心もなく、ひき開けて見たまへば、
 「あやなくも隔てけるかな夜をかさね
  さすがに馴れし夜の衣を」
 と、書きすさびたまへるやうなり。「かかる御心おはすらむ」とは、かけても思し寄らざりしかば、
 「などてかう心憂かりける御心を、うらなく頼もしきものに思ひきこえけむ」
 と、あさましう思さる。


 昼つかた、渡りたまひて、
 「悩ましげにしたまふらむは、いかなる御心地ぞ。今日は、碁も打たで、さうざうしや」
 とて、覗きたまへば、いよいよ御衣ひきかづきて臥したまへり。人びとは退きつつさぶらへば、寄りたまひて、
 「など、かくいぶせき御もてなしぞ。思ひのほかに心憂くこそおはしけれな。人もいかにあやしと思ふらむ」
 とて、御衾をひきやりたまへれば、汗におしひたして、額髪もいたう濡れたまへり。
 「あな、うたて。これはいとゆゆしきわざぞよ」
 とて、よろづにこしらへきこえたまへど、まことに、いとつらしと思ひたまひて、つゆの御いらへもしたまはず。
 「よしよし。さらに見えたてまつらじ。いと恥づかし」
 など怨じたまひて、御硯開けて見たまへど、物もなければ、「若の御ありさまや」と、らうたく見たてまつりたまひて、日一日、入りゐて、慰めきこえたまへど、解けがたき御けしき、いとどらうたげなり。


 [第二段 結婚の儀式の夜]
 その夜さり、亥の子餅参らせたり。かかる御思ひのほどなれば、ことことしきさまにはあらで、こなたばかりに、をかしげなる桧破籠などばかりを、色々にて参れるを見たまひて、君、南のかたに出でたまひて、惟光を召して、
 「この餅、かう数々に所狭きさまにはあらで、明日の暮れに参らせよ。今日は忌ま忌ましき日なりけり」
 と、うちほほ笑みてのたまふ御けしきを、心とき者にて、ふと思ひ寄りぬ。惟光、たしかにも承らで、
 「げに、愛敬の初めは、日選りして聞こし召すべきことにこそ。さても、子の子はいくつか仕うまつらすべうはべらむ」
 と、まめだちて申せば、
 「三つが一つかにてもあらむかし」
 とのたまふに、心得果てて、立ちぬ。「もの馴れのさまや」と君は思す。人にも言はで、手づからといふばかり、里にてぞ、作りゐたりける。
 君は、こしらへわびたまひて、今はじめ盗みもて来たらむ人の心地するも、いとをかしくて、「年ごろあはれと思ひきこえつるは、片端にもあらざりけり。人の心こそうたてあるものはあれ。今は一夜も隔てむことのわりなかるべきこと」と思さる。
 のたまひし餅、忍びて、いたう夜更かして持て参れり。「少納言はおとなしくて、恥づかしくや思さむ」と、思ひやり深く心しらひて、娘の弁といふを呼び出でて、
 「これ、忍びて参らせたまへ」
 とて、香壷の筥を一つ、さし入れたり。
 「たしかに、御枕上に参らすべき祝ひの物にはべる。あな、かしこ。あだにな」
 と言へば、「あやし」と思へど、
 「あだなることは、まだならはぬものを」
 とて、取れば、
 「まことに、今はさる文字忌ませたまへよ。よも混じりはべらじ」
 と言ふ。若き人にて、けしきもえ深く思ひ寄らねば、持て参りて、御枕上の御几帳よりさし入れたるを、君ぞ、例の聞こえ知らせたまふらむかし。
 人はえ知らぬに、翌朝、この筥をまかでさせたまへるにぞ、親しき限りの人びと、思ひ合はすることどもありける。御皿どもなど、いつのまにかし出でけむ。花足いときよらにして、餅のさまも、ことさらび、いとをかしう調へたり。
 少納言は、「いと、かうしもや」とこそ思ひきこえさせつれ、あはれにかたじけなく、思しいたらぬことなき御心ばへを、まづうち泣かれぬ。
 「さても、うちうちにのたまはせよな。かの人も、いかに思ひつらむ」
 と、ささめきあへり。


 かくて後は、内裏にも院にも、あからさまに参りたまへるほどだに、静心なく、面影に恋しければ、「あやしの心や」と、我ながら思さる。通ひたまひし所々よりは、うらめしげにおどろかしきこえたまひなどすれば、いとほしと思すもあれど、新手枕の心苦しくて、「夜をや隔てむ」と、思しわづらはるれば、いともの憂くて、悩ましげにのみもてなしたまひて、
 「世の中のいと憂くおぼゆるほど過ぐしてなむ、人にも見えたてまつるべき」
 とのみいらへたまひつつ、過ぐしたまふ。
 今后は、御匣殿なほこの大将にのみ心つけたまへるを、
 「げにはた、かくやむごとなかりつる方も失せたまひぬめるを、さてもあらむに、などか口惜しからむ」
 など、大臣のたまふに、「いと憎し」と、思ひきこえたまひて、
 「宮仕へも、をさをさしくだにしなしたまへらば、などか悪しからむ」
 と、参らせたてまつらむことを思しはげむ。
 君も、おしなべてのさまにはおぼえざりしを、口惜しとは思せど、ただ今はことざまに分くる御心もなくて、
 「何かは、かばかり短かめる世に。かくて思ひ定まりなむ。人の怨みも負ふまじかりけり」
 と、いとど危ふく思し懲りにたり。
 「かの御息所は、いといとほしけれど、まことのよるべと頼みきこえむには、かならず心おかれぬべし。年ごろのやうにて見過ぐしたまはば、さるべき折ふしにもの聞こえあはする人にてはあらむ」など、さすがに、ことのほかには思し放たず。
 「この姫君を、今まで世人もその人とも知りきこえぬも、物げなきやうなり。父宮に知らせきこえてむ」と、思ほしなりて、御裳着のこと、人にあまねくはのたまはねど、なべてならぬさまに思しまうくる御用意など、いとありがたけれど、女君は、こよなう疎みきこえたまひて、「年ごろよろづに頼みきこえて、まつはしきこえけるこそ、あさましき心なりけれ」と、悔しうのみ思して、さやかにも見合はせたてまつりたまはず、聞こえ戯れたまふも、苦しうわりなきものに思しむすぼほれて、ありしにもあらずなりたまへる御ありさまを、をかしうもいとほしうも思されて、
 「年ごろ、思ひきこえし本意なく、馴れはまさらぬ御けしきの、心憂きこと」と、怨みきこえたまふほどに、年も返りぬ。


 [第三段 新年の参賀と左大臣邸へ挨拶回り]
 朔日の日は、例の、院に参りたまひてぞ、内裏、春宮などにも参りたまふ。それより大殿にまかでたまへり。大臣、新しき年ともいはず、昔の御ことども聞こえ出でたまひて、さうざうしく悲しと思すに、いとどかくさへ渡りたまへるにつけて、念じ返したまへど、堪へがたう思したり。
 御年の加はるけにや、ものものしきけさへ添ひたまひて、ありしよりけに、きよらに見えたまふ。立ち出でて、御方に入りたまへれば、人びともめづらしう見たてまつりて、忍びあへず。
 若君見たてまつりたまへば、こよなうおよすけて、笑ひがちにおはするも、あはれなり。まみ、口つき、ただ春宮の御同じさまなれば、「人もこそ見たてまつりとがむれ」と見たまふ。
 御しつらひなども変はらず、御衣掛の御装束など、例のやうにし掛けられたるに、女のが並ばぬこそ、栄なくさうざうしけれ。
 宮の御消息にて、
 「今日は、いみじく思ひたまへ忍ぶるを、かく渡らせたまへるになむ、なかなか」
 など聞こえたまひて、
 「昔にならひはべりにける御よそひも、月ごろは、いとど涙に霧りふたがりて、色あひなく御覧ぜられはべらむと思ひたまふれど、今日ばかりは、なほやつれさせたまへ」
 とて、いみじくし尽くしたまへるものども、また重ねてたてまつれたまへり。かならず今日たてまつるべき、と思しける御下襲は、色も織りざまも、世の常ならず、心ことなるを、かひなくやはとて、着替へたまふ。来ざらましかば、口惜しう思さましと、心苦し。御返りに、
 「春や来ぬるとも、まづ御覧ぜられになむ、参りはべりつれど、思ひたまへ出でらるること多くて、え聞こえさせはべらず。
  あまた年今日改めし色衣
  着ては涙ぞふる心地する
 えこそ思ひたまへしづめね」
 と聞こえたまへり。御返り、
 「新しき年ともいはずふるものは
  ふりぬる人の涙なりけり」
 おろかなるべきことにぞあらぬや。

 


    十 賢木
光る源氏の二十三歳秋九月から二十五歳夏まで近衛大将時代の物語

 

第一章 六条御息所の物語 秋の別れと伊勢下向の物語


六条御息所、伊勢下向を決意---斎宮の御下り、近うなりゆくままに
野の宮訪問と暁の別れ---九月七日ばかりなれば
伊勢下向の日決定---御文、常よりもこまやかなるは
斎宮、宮中へ向かう---十六日、桂川にて御祓へしたまふ
斎宮、伊勢へ向かう---心にくくよしある御けはひなれば
第二章 光る源氏の物語 父桐壷帝の崩御

十月、桐壷院、重体となる---院の御悩み、神無月になりては
十一月一日、桐壷院、崩御---大后も、参りたまはむとするを
諒闇の新年となる---年かへりぬれど、世の中今めかしきことなく
源氏朧月夜と逢瀬を重ねる---帝は、院の御遺言違へず、あはれに思したれど
第三章 藤壷の物語 塗籠事件

源氏、再び藤壷に迫る---内裏に参りたまはむことは
藤壷、出家を決意---「いづこを面にてかは、またも見えたてまつらむ
第四章 光る源氏の物語 雲林院参籠

秋、雲林院に参籠---大将の君は、宮をいと恋しう思ひきこえたまへど
朝顔斎院と和歌を贈答---吹き交ふ風も近きほどにて
源氏、二条院に帰邸---女君は、日ごろのほどに、ねびまさり
朱雀帝と対面---おほかたのことども、宮の御事に触れたることなど
藤壷に挨拶---「御前にさぶらひて、今まで、更かし
初冬のころ、源氏朧月夜と和歌贈答---大将、頭の弁の誦じつることを思ふに
第五章 藤壷の物語 法華八講主催と出家

十一月一日、故桐壷院の御国忌---中宮は、院の御はてのことにうち続き
十二月十日過ぎ、藤壷、法華八講主催の後、出家す---十二月十余日ばかり、中宮の御八講なり
後に残された源氏---殿にても、わが御方に一人うち臥したまひて
第六章 光る源氏の物語 寂寥の日々

諒闇明けの新年を迎える---年も変はりぬれば、内裏わたりはなやかに
源氏一派の人々の不遇---司召のころ、この宮の人は
韻塞ぎに無聊を送る---夏の雨、のどかに降りて、つれづれなるころ
第七章 朧月夜の物語 村雨の紛れの密会露見

源氏、朧月夜と密会中、右大臣に発見される---そのころ、尚侍の君まかでたまへり
右大臣、源氏追放を画策する---大臣は、思ひのままに、籠めたるところ
【出典】
【校訂】


 

第一章 六条御息所の物語 秋の別れと伊勢下向の物語
 [第一段 六条御息所、伊勢下向を決意]
 斎宮の御下り、近うなりゆくままに、御息所、もの心細く思ほす。やむごとなくわづらはしきものにおぼえたまへりし大殿の君も亡せたまひて後、さりともと世人も聞こえあつかひ、宮のうちにも心ときめきせしを、その後しも、かき絶え、あさましき御もてなしを見たまふに、まことに憂しと思すことこそありけめと、知り果てたまひぬれば、よろづのあはれを思し捨てて、ひたみちに出で立ちたまふ。
 親添ひて下りたまふ例も、ことになけれど、いと見放ちがたき御ありさまなるにことつけて、「憂き世を行き離れむ」と思すに、大将の君、さすがに、今はとかけ離れたまひなむも、口惜しく思されて、御消息ばかりは、あはれなるさまにて、たびたび通ふ。対面したまはむことをば、今さらにあるまじきことと、女君も思す。「人は心づきなしと、思ひ置きたまふこともあらむに、我は、今すこし思ひ乱るることのまさるべきを、あいなし」と、心強く思すなるべし。
 もとの殿には、あからさまに渡りたまふ折々あれど、いたう忍びたまへば、大将殿、え知りたまはず。たはやすく御心にまかせて、参うでたまふべき御すみかにはたあらねば、おぼつかなくて月日も隔たりぬるに、院の上、おどろおどろしき御悩みにはあらで、例ならず、時々悩ませたまへば、いとど御心の暇なけれど、「つらき者に思ひ果てたまひなむも、いとほしく、人聞き情けなくや」と思し起して、野の宮に参うでたまふ。

 [第二段 野の宮訪問と暁の別れ]
 九月七日ばかりなれば、「むげに今日明日」と思すに、女方も心あわたたしけれど、「立ちながら」と、たびたび御消息ありければ、「いでや」とは思しわづらひながら、「いとあまり埋もれいたきを、物越ばかりの対面は」と、人知れず待ちきこえたまひけり。
 遥けき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり。秋の花、みな衰へつつ、浅茅が原も枯れ枯れなる虫の音に、松風、すごく吹きあはせて、そのこととも聞き分かれぬほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶なり。
 むつましき御前、十余人ばかり、御随身、ことことしき姿ならで、いたう忍びたまへれど、ことにひきつくろひたまへる御用意、いとめでたく見えたまへば、御供なる好き者ども、所からさへ身にしみて思へり。御心にも、「などて、今まで立ちならさざりつらむ」と、過ぎぬる方、悔しう思さる。
 ものはかなげなる小柴垣を大垣にて、板屋どもあたりあたりいとかりそめなり。黒木の鳥居ども、さすがに神々しう見わたされて、わづらはしきけしきなるに、神司の者ども、ここかしこにうちしはぶきて、おのがどち、物うち言ひたるけはひなども、他にはさま変はりて見ゆ。火焼屋かすかに光りて、人気すくなく、しめじめとして、ここにもの思はしき人の、月日を隔てたまへらむほどを思しやるに、いといみじうあはれに心苦し。
 北の対のさるべき所に立ち隠れたまひて、御消息聞こえたまふに、遊びはみなやめて、心にくきけはひ、あまた聞こゆ。
 何くれの人づての御消息ばかりにて、みづからは対面したまふべきさまにもあらねば、「いとものし」と思して、
 「かうやうの歩きも、今はつきなきほどになりにてはべるを、思ほし知らば、かう注連のほかにはもてなしたまはで。いぶせうはべることをも、あきらめはべりにしがな」
 と、まめやかに聞こえたまへば、人びと、
 「げに、いとかたはらいたう」
 「立ちわづらはせたまふに、いとほしう」
 など、あつかひきこゆれば、「いさや。ここの人目も見苦しう、かの思さむことも、若々しう、出でゐむが、今さらにつつましきこと」と思すに、いともの憂けれど、情けなうもてなさむにもたけからねば、とかくうち嘆き、やすらひて、ゐざり出でたまへる御けはひ、いと心にくし。
 「こなたは、簀子ばかりの許されははべりや」
 とて、上りゐたまへり。
 はなやかにさし出でたる夕月夜に、うち振る舞ひたまへるさま、匂ひに、似るものなくめでたし。月ごろのつもりを、つきづきしう聞こえたまはむも、まばゆきほどになりにければ、榊をいささか折りて持たまへりけるを、挿し入れて、
 「変らぬ色をしるべにてこそ、斎垣も越えはべりにけれ。さも心憂く」
 と聞こえたまへば、
 「神垣はしるしの杉もなきものを
  いかにまがへて折れる榊ぞ」
 と聞こえたまへば、
 「少女子があたりと思へば榊葉の
  香をなつかしみとめてこそ折れ」
 おほかたのけはひわづらはしけれど、御簾ばかりはひき着て、長押におしかかりてゐたまへり。
 心にまかせて見たてまつりつべく、人も慕ひざまに思したりつる年月は、のどかなりつる御心おごりに、さしも思されざりき。
 また、心にうちに、「いかにぞや、疵ありて」、思ひきこえたまひにし後、はた、あはれもさめつつ、かく御仲も隔たりぬるを、めづらしき御対面の昔おぼえたるに、「あはれ」と、思し乱るること限りなし。来し方、行く先、思し続けられて、心弱く泣きたまひぬ。
 女は、さしも見えじと思しつつむめれど、え忍びたまはぬ御けしきを、いよいよ心苦しう、なほ思しとまるべきさまにぞ、聞こえたまふめる。
 月も入りぬるにや、あはれなる空を眺めつつ、怨みきこえたまふに、ここら思ひ集めたまへるつらさも消えぬべし。やうやう、「今は」と、思ひ離れたまへるに、「さればよ」と、なかなか心動きて、思し乱る。
 殿上の若君達などうち連れて、とかく立ちわづらふなる庭のたたずまひも、げに艶なるかたに、うけばりたるありさまなり。思ほし残すことなき御仲らひに、聞こえ交はしたまふことども、まねびやらむかたなし。
 やうやう明けゆく空のけしき、ことさらに作り出でたらむやうなり。
 「暁の別れはいつも露けきを
  こは世に知らぬ秋の空かな」
 出でがてに、御手をとらへてやすらひたまへる、いみじうなつかし。
 風、いと冷やかに吹きて、松虫の鳴きからしたる声も、折知り顔なるを、さして思ふことなきだに、聞き過ぐしがたげなるに、まして、わりなき御心惑ひどもに、なかなか、こともゆかぬにや。
 「おほかたの秋の別れも悲しきに
  鳴く音な添へそ野辺の松虫」
 悔しきこと多かれど、かひなければ、明け行く空もはしたなうて、出でたまふ。道のほどいと露けし。
 女も、え心強からず、名残あはれにて眺めたまふ。ほの見たてまつりたまへる月影の御容貌、なほとまれる匂ひなど、若き人びとは身にしめて、あやまちもしつべく、めできこゆ。
 「いかばかりの道にてか、かかる御ありさまを見捨てては、別れきこえむ」
 と、あいなく涙ぐみあへり。


 [第三段 伊勢下向の日決定]
 御文、常よりもこまやかなるは、思しなびくばかりなれど、またうち返し、定めかねたまふべきことならねば、いとかひなし。
 男は、さしも思さぬことをだに、情けのためにはよく言ひ続けたまふべかめれば、まして、おしなべての列には思ひきこえたまはざりし御仲の、かくて背きたまひなむとするを、口惜しうもいとほしうも、思し悩むべし。
 旅の御装束よりはじめ、人びとのまで、何くれの御調度など、いかめしうめづらしきさまにて、とぶらひきこえたまへど、何とも思されず。あはあはしう心憂き名をのみ流して、あさましき身のありさまを、今はじめたらむやうに、ほど近くなるままに、起き臥し嘆きたまふ。
 斎宮は、若き御心地に、不定なりつる御出で立ちの、かく定まりゆくを、うれし、とのみ思したり。世人は、例なきことと、もどきもあはれがりも、さまざまに聞こゆべし。何ごとも、人にもどきあつかはれぬ際はやすげなり。なかなか世に抜け出でぬる人の御あたりは、所狭きこと多くなむ。


 [第四段 斎宮、宮中へ向かう]
 十六日、桂川にて御祓へしたまふ。常の儀式にまさりて、長奉送使など、さらぬ上達部も、やむごとなく、おぼえあるを選らせたまへり。院の御心寄せもあればなるべし。出でたまふほどに、大将殿より例の尽きせぬことども聞こえたまへり。「かけまくもかしこき御前にて」と、木綿につけて、
 「鳴る神だにこそ、
  八洲もる国つ御神も心あらば
  飽かぬ別れの仲をことわれ
 思うたまふるに、飽かぬ心地しはべるかな」
 とあり。いとさわがしきほどなれど、御返りあり。宮の御をば、女別当して書かせたまへり。
 「国つ神空にことわる仲ならば
  なほざりごとをまづや糾さむ」
 大将は、御ありさまゆかしうて、内裏にも参らまほしく思せど、うち捨てられて見送らむも、人悪ろき心地したまへば、思しとまりて、つれづれに眺めゐたまへり。
 宮の御返りのおとなおとなしきを、ほほ笑みて見ゐたまへり。「御年のほどよりは、をかしうもおはすべきかな」と、ただならず。かうやうに例に違へるわづらはしさに、かならず心かかる御癖にて、「いとよう見たてまつりつべかりしいはけなき御ほどを、見ずなりぬるこそねたけれ。世の中定めなければ、対面するやうもありなむかし」など思す。


 [第五段 斎宮、伊勢へ向かう]
 心にくくよしある御けはひなれば、物見車多かる日なり。申の時に内裏に参りたまふ。
 御息所、御輿に乗りたまへるにつけても、父大臣の限りなき筋に思し志して、いつきたてまつりたまひしありさま、変はりて、末の世に内裏を見たまふにも、もののみ尽きせず、あはれに思さる。十六にて故宮に参りたまひて、二十にて後れたてまつりたまふ。三十にてぞ、今日また九重を見たまひける。
 「そのかみを今日はかけじと忍ぶれど
  心のうちにものぞ悲しき」
 斎宮は、十四にぞなりたまひける。いとうつくしうおはするさまを、うるはしうしたてたてまつりたまへるぞ、いとゆゆしきまで見えたまふを、帝、御心動きて、別れの櫛たてまつりたまふほど、いとあはれにて、しほたれさせたまひぬ。
 出でたまふを待ちたてまつるとて、八省に立て続けたる出車どもの袖口、色あひも、目馴れぬさまに、心にくきけしきなれば、殿上人どもも、私の別れ惜しむ多かり。
 暗う出でたまひて、二条より洞院の大路を折れたまふほど、二条の院の前なれば、大将の君、いとあはれに思されて、榊にさして、
 「振り捨てて今日は行くとも鈴鹿川
  八十瀬の波に袖は濡れじや」
 と聞こえたまへれど、いと暗う、ものさわがしきほどなれば、またの日、関のあなたよりぞ、御返しある。
 「鈴鹿川八十瀬の波に濡れ濡れず
  伊勢まで誰れか思ひおこせむ」
 ことそぎて書きたまへるしも、御手いとよしよししくなまめきたるに、「あはれなるけをすこし添へたまへらましかば」と思す。
 霧いたう降りて、ただならぬ朝ぼらけに、うち眺めて独りごちにおはす。
 「行く方を眺めもやらむこの秋は
  逢坂山を霧な隔てそ」
 西の対にも渡りたまはで、人やりならず、もの寂しげに眺め暮らしたまふ。まして、旅の空は、いかに御心尽くしなること多かりけむ。


 

第二章 光る源氏の物語 父桐壷帝の崩御
 [第一段 十月、桐壷院、重体となる]
 院の御悩み、神無月になりては、いと重くおはします。世の中に惜しみきこえぬ人なし。内裏にも、思し嘆きて行幸あり。弱き御心地にも、春宮の御事を、返す返す聞こえさせたまひて、次には大将の御こと、
 「はべりつる世に変はらず、大小のことを隔てず、何ごとも御後見と思せ。齢のほどよりは、世をまつりごたむにも、をさをさ憚りあるまじうなむ、見たまふる。かならず世の中たもつべき相ある人なり。さるによりて、わづらはしさに、親王にもなさず、ただ人にて、朝廷の御後見をせさせむと、思ひたまへしなり。その心違へさせたまふな」
 と、あはれなる御遺言ども多かりけれど、女のまねぶべきことにしあらねば、この片端だにかたはらいたし。
 帝も、いと悲しと思して、さらに違へきこえさすまじきよしを、返す返す聞こえさせたまふ。御容貌も、いときよらにねびまさらせたまへるを、うれしく頼もしく見たてまつらせたまふ。限りあれば、急ぎ帰らせたまふにも、なかなかなること多くなむ。
 春宮も、一度にと思し召しけれど、ものさわがしきにより、日を変へて、渡らせたまへり。御年のほどよりは、大人びうつくしき御さまにて、恋しと思ひきこえさせたまひけるつもりに、何心もなくうれしと思し、見たてまつりたまふ御けしき、いとあはれなり。
 中宮は、涙に沈みたまへるを、見たてまつらせたまふも、さまざま御心乱れて思し召さる。よろづのことを聞こえ知らせたまへど、いとものはかなき御ほどなれば、うしろめたく悲しと見たてまつらせたまふ。
 大将にも、朝廷に仕うまつりたまふべき御心づかひ、この宮の御後見したまふべきことを、返す返すのたまはす。
 夜更けてぞ帰らせたまふ。残る人なく仕うまつりてののしるさま、行幸に劣るけぢめなし。飽かぬほどにて帰らせたまふを、いみじう思し召す。

 [第二段 十一月一日、桐壷院、崩御]
 大后も、参りたまはむとするを、中宮のかく添ひおはするに、御心置かれて、思しやすらふほどに、おどろおどろしきさまにもおはしまさで、隠れさせたまひぬ。足を空に、思ひ惑ふ人多かり。
 御位を去らせたまふといふばかりにこそあれ、世のまつりごとをしづめさせたまへることも、我が御世の同じことにておはしまいつるを、帝はいと若うおはします、祖父大臣、いと急にさがなくおはして、その御ままになりなむ世を、いかならむと、上達部、殿上人、皆思ひ嘆く。
 中宮、大将殿などは、ましてすぐれて、ものも思しわかれず、後々の御わざなど、孝じ仕うまつりたまふさまも、そこらの親王たちの御中にすぐれたまへるを、ことわりながら、いとあはれに、世人も見たてまつる。藤の御衣にやつれたまへるにつけても、限りなくきよらに心苦しげなり。去年、今年とうち続き、かかることを見たまふに、世もいとあぢきなう思さるれど、かかるついでにも、まづ思し立たるることはあれど、また、さまざまの御ほだし多かり。
 御四十九日までは、女御、御息所たち、みな、院に集ひたまへりつるを、過ぎぬれば、散り散りにまかでたまふ。師走の二十日なれば、おほかたの世の中とぢむる空のけしきにつけても、まして晴るる世なき、中宮の御心のうちなり。大后の御心も知りたまへれば、心にまかせたまへらむ世の、はしたなく住み憂からむを思すよりも、馴れきこえたまへる年ごろの御ありさまを、思ひ出できこえたまはぬ時の間なきに、かくてもおはしますまじう、みな他々へと出でたまふほどに、悲しきこと限りなし。
 宮は、三条の宮に渡りたまふ。御迎へに兵部卿宮参りたまへり。雪うち散り、風はげしうて、院の内、やうやう人目かれゆきて、しめやかなるに、大将殿、こなたに参りたまひて、古き御物語聞こえたまふ。御前の五葉の雪にしをれて、下葉枯れたるを見たまひて、親王、
 「蔭ひろみ頼みし松や枯れにけむ
  下葉散りゆく年の暮かな」
 何ばかりのことにもあらぬに、折から、ものあはれにて、大将の御袖、いたう濡れぬ。池の隙なう氷れるに、
 「さえわたる池の鏡のさやけきに
  見なれし影を見ぬぞ悲しき」
 と、思すままに、あまり若々しうぞあるや。王命婦、
 「年暮れて岩井の水もこほりとぢ
  見し人影のあせもゆくかな」
 そのついでに、いと多かれど、さのみ書き続くべきことかは。
 渡らせたまふ儀式、変はらねど、思ひなしにあはれにて、旧き宮は、かへりて旅心地したまふにも、御里住み絶えたる年月のほど、思しめぐらさるべし。


 [第三段 諒闇の新年となる]
 年かへりぬれど、世の中今めかしきことなく静かなり。まして大将殿は、もの憂くて籠もりゐたまへり。除目のころなど、院の御時をばさらにもいはず、年ごろ劣るけぢめなくて、御門のわたり、所なく立ち込みたりし馬、車うすらぎて、宿直物の袋をさをさ見えず、親しき家司どもばかり、ことに急ぐことなげにてあるを見たまふにも、「今よりは、かくこそは」と思ひやられて、ものすさまじくなむ。
 御匣殿は、二月に、尚侍になりたまひぬ。院の御思ひにやがて尼になりたまへる、替はりなりけり。やむごとなくもてなし、人がらもいとよくおはすれば、あまた参り集りたまふなかにも、すぐれて時めきたまふ。后は、里がちにおはしまいて、参りたまふ時の御局には梅壷をしたれば、弘徽殿には尚侍の君住みたまふ。登花殿の埋れたりつるに、晴れ晴れしうなりて、女房なども数知らず集ひ参りて、今めかしう花やぎたまへど、御心のうちは、思ひのほかなりしことどもを忘れがたく嘆きたまふ。いと忍びて通はしたまふことは、なほ同じさまなるべし。「ものの聞こえもあらばいかならむ」と思しながら、例の御癖なれば、今しも御心ざしまさるべかめり。
 院のおはしましつる世こそ憚りたまひつれ、后の御心いちはやくて、かたがた思しつめたることどもの報いせむ、と思すべかめり。ことにふれて、はしたなきことのみ出で来れば、かかるべきこととは思ししかど、見知りたまはぬ世の憂さに、立ちまふべくも思されず。
 左の大殿も、すさまじき心地したまひて、ことに内裏にも参りたまはず。故姫君を、引きよきて、この大将の君に聞こえつけたまひし御心を、后は思しおきて、よろしうも思ひきこえたまはず。大臣の御仲も、もとよりそばそばしうおはするに、故院の御世にはわがままにおはせしを、時移りて、したり顔におはするを、あぢきなしと思したる、ことわりなり。
 大将は、ありしに変はらず渡り通ひたまひて、さぶらひし人々をも、なかなかにこまかに思しおきて、若君をかしづき思ひきこえたまへること、限りなければ、あはれにありがたき御心と、いとどいたつききこえたまふことども、同じさまなり。限りなき御おぼえの、あまりもの騒がしきまで、暇なげに見えたまひしを、通ひたまひし所々も、かたがたに絶えたまふことどもあり、軽々しき御忍びありきも、あいなう思しなりて、ことにしたまはねば、いとのどやかに、今しもあらまほしき御ありさまなり。
 西の対の姫君の御幸ひを、世人もめできこゆ。少納言なども、人知れず、「故尼上の御祈りのしるし」と見たてまつる。父親王も思ふさまに聞こえ交はしたまふ。嫡腹の、限りなくと思すは、はかばかしうもえあらぬに、ねたげなること多くて、継母の北の方は、やすからず思すべし。物語にことさらに作り出でたるやうなる御ありさまなり。
 斎院は、御服にて下りゐたまひにしかば、朝顔の姫君は、替はりにゐたまひにき。賀茂のいつきには、孫王のゐたまふ例、多くもあらざりけれど、さるべき女御子やおはせざりけむ。大将の君、年月経れど、なほ御心離れたまはざりつるを、かう筋ことになりたまひぬれば、口惜しくと思す。中将におとづれたまふことも、同じことにて、御文などは絶えざるべし。昔に変はる御ありさまなどをば、ことに何とも思したらず、かやうのはかなしごとどもを、紛るることなきままに、こなたかなたと思し悩めり。


 [第四段 源氏朧月夜と逢瀬を重ねる]
 帝は、院の御遺言違へず、あはれに思したれど、若うおはしますうちにも、御心なよびたるかたに過ぎて、強きところおはしまさぬなるべし、母后、祖父大臣とりどりしたまふことは、え背かせたまはず、世のまつりごと、御心にかなはぬやうなり。
 わづらはしさのみまされど、尚侍の君は、人知れぬ御心し通へば、わりなくてと、おぼつかなくはあらず。五壇の御修法の初めにて、慎しみおはします隙をうかがひて、例の、夢のやうに聞こえたまふ。かの、昔おぼえたる細殿の局に、中納言の君、紛らはして入れたてまつる。人目もしげきころなれば、常よりも端近なる、そら恐ろしうおぼゆ。
 朝夕に見たてまつる人だに、飽かぬ御さまなれば、まして、めづらしきほどにのみある御対面の、いかでかはおろかならむ。女の御さまも、げにぞめでたき御盛りなる。重りかなるかたは、いかがあらむ、をかしうなまめき若びたる心地して、見まほしき御けはひなり。
 ほどなく明け行くにや、とおぼゆるに、ただここにしも、
 「宿直申し、さぶらふ」
 と、声づくるなり。「また、このわたりに隠ろへたる近衛司ぞあるべき。腹ぎたなきかたへの教へおこするぞかし」と、大将は聞きたまふ。をかしきものから、わづらはし。
 ここかしこ尋ねありきて、
 「寅一つ」
 と申すなり。女君、
 「心からかたがた袖を濡らすかな
  明くと教ふる声につけても」
 とのたまふさま、はかなだちて、いとをかし。
 「嘆きつつわが世はかくて過ぐせとや
  胸のあくべき時ぞともなく」
 静心なくて、出でたまひぬ。
 夜深き暁月夜の、えもいはず霧りわたれるに、いといたうやつれて、振る舞ひなしたまへるしも、似るものなき御ありさまにて、承香殿の御兄の藤少将、藤壷より出でて、月の少し隈ある立蔀のもとに立てりけるを、知らで過ぎたまひけむこそいとほしけれ。もどききこゆるやうもありなむかし。
 かやうのことにつけても、もて離れつれなき人の御心を、かつはめでたしと思ひきこえたまふものから、わが心の引くかたにては、なほつらう心憂し、とおぼえたまふ折多かり。


 

第三章 藤壷の物語 塗籠事件
 [第一段 源氏、再び藤壷に迫る]
 内裏に参りたまはむことは、うひうひしく、所狭く思しなりて、春宮を見たてまつりたまはぬを、おぼつかなく思ほえたまふ。また、頼もしき人もものしたまはねば、ただこの大将の君をぞ、よろづに頼みきこえたまへるに、なほ、この憎き御心のやまぬに、ともすれば御胸をつぶしたまひつつ、いささかもけしきを御覧じ知らずなりにしを思ふだに、いと恐ろしきに、今さらにまた、さる事の聞こえありて、わが身はさるものにて、春宮の御ためにかならずよからぬこと出で来なむ、と思すに、いと恐ろしければ、御祈りをさへせさせて、このこと思ひやませたてまつらむと、思しいたらぬことなく逃れたまふを、いかなる折にかありけむ、あさましうて、近づき参りたまへり。心深くたばかりたまひけむことを、知る人なかりければ、夢のやうにぞありける。
 まねぶべきやうなく聞こえ続けたまへど、宮、いとこよなくもて離れきこえたまひて、果て果ては、御胸をいたう悩みたまへば、近うさぶらひつる命婦、弁などぞ、あさましう見たてまつりあつかふ。男は、憂し、つらし、と思ひきこえたまふこと、限りなきに、来し方行く先、かきくらす心地して、うつし心失せにければ、明け果てにけれど、出でたまはずなりぬ。
 御悩みにおどろきて、人びと近う参りて、しげうまがへば、我にもあらで、塗籠に押し入れられておはす。御衣ども隠し持たる人の心地ども、いとむつかし。宮は、ものをいとわびし、と思しけるに、御気上がりて、なほ悩ましうせさせたまふ。兵部卿宮、大夫など参りて、
 「僧召せ」
 など騒ぐを、大将、いとわびしう聞きおはす。からうして、暮れゆくほどにぞおこたりたまへる。
 かく籠もりゐたまへらむとは思しもかけず、人びとも、また御心惑はさじとて、かくなむとも申さぬなるべし。昼の御座にゐざり出でておはします。よろしう思さるるなめりとて、宮もまかでたまひなどして、御前人少なになりぬ。例もけ近くならさせたまふ人少なければ、ここかしこの物のうしろなどにぞさぶらふ。命婦の君などは、
 「いかにたばかりて、出だしたてまつらむ。今宵さへ、御気上がらせたまはむ、いとほしう」
 など、うちささめき扱ふ。
 君は、塗籠の戸の細めに開きたるを、やをらおし開けて、御屏風のはさまに伝ひ入りたまひぬ。めづらしくうれしきにも、涙落ちて見たてまつりたまふ。
 「なほ、いと苦しうこそあれ。世や尽きぬらむ」
 とて、外の方を見出だしたまへるかたはら目、言ひ知らずなまめかしう見ゆ。御くだものをだに、とて参り据ゑたり。箱の蓋などにも、なつかしきさまにてあれど、見入れたまはず。世の中をいたう思し悩めるけしきにて、のどかに眺め入りたまへる、いみじうらうたげなり。髪ざし、頭つき、御髪のかかりたるさま、限りなき匂はしさなど、ただ、かの対の姫君に違ふところなし。年ごろ、すこし思ひ忘れたまへりつるを、「あさましきまでおぼえたまへるかな」と見たまふままに、すこしもの思ひのはるけどころある心地したまふ。
 気高う恥づかしげなるさまなども、さらに異人とも思ひ分きがたきを、なほ、限りなく昔より思ひしめきこえてし心の思ひなしにや、「さまことに、いみじうねびまさりたまひにけるかな」と、たぐひなくおぼえたまふに、心惑ひして、やをら御帳のうちにかかづらひ入りて、御衣の褄を引きならしたまふ。けはひしるく、さと匂ひたるに、あさましうむくつけう思されて、やがてひれ伏したまへり。「見だに向きたまへかし」と心やましうつらうて、引き寄せたまへるに、御衣をすべし置きて、ゐざりのきたまふに、心にもあらず、御髪の取り添へられたりければ、いと心憂く、宿世のほど、思し知られて、いみじ、と思したり。
 男も、ここら世をもてしづめたまふ御心、みな乱れて、うつしざまにもあらず、よろづのことを泣く泣く怨みきこえたまへど、まことに心づきなし、と思して、いらへも聞こえたまはず。ただ、
 「心地の、いと悩ましきを。かからぬ折もあらば、聞こえてむ」
 とのたまへど、尽きせぬ御心のほどを言ひ続けたまふ。
 さすがに、いみじと聞きたまふふしもまじるらむ。あらざりしことにはあらねど、改めて、いと口惜しう思さるれば、なつかしきものから、いとようのたまひ逃れて、今宵も明け行く。
 せめて従ひきこえざらむもかたじけなく、心恥づかしき御けはひなれば、
 「ただ、かばかりにても、時々、いみじき愁へをだに、はるけはべりぬべくは、何のおほけなき心もはべらじ」
 など、たゆめきこえたまふべし。なのめなることだに、かやうなる仲らひは、あはれなることも添ふなるを、まして、たぐひなげなり。
 明け果つれば、二人して、いみじきことどもを聞こえ、宮は、半ばは亡きやうなる御けしきの心苦しければ、
 「世の中にありと聞こし召されむも、いと恥づかしければ、やがて亡せはべりなむも、また、この世ならぬ罪となりはべりぬべきこと」
 など聞こえたまふも、むくつけきまで思し入れり。
 「逢ふことのかたきを今日に限らずは
  今幾世をか嘆きつつ経む
 御ほだしにもこそ」
 と聞こえたまへば、さすがに、うち嘆きたまひて、
 「長き世の恨みを人に残しても
  かつは心をあだと知らなむ」
 はかなく言ひなさせたまへるさまの、言ふよしなき心地すれど、人の思さむところも、わが御ためも苦しければ、我にもあらで、出でたまひぬ。

 [第二段 藤壷、出家を決意]
 「いづこを面にてかは、またも見えたてまつらむ。いとほしと思し知るばかり」と思して、御文も聞こえたまはず。うち絶えて、内裏、春宮にも参りたまはず、籠もりおはして、起き臥し、「いみじかりける人の御心かな」と、人悪ろく恋しう悲しきに、心魂も失せにけるにや、悩ましうさへ思さる。もの心細く、「なぞや、世に経れば憂さこそまされ」と、思し立つには、この女君のいとらうたげにて、あはれにうち頼みきこえたまへるを、振り捨てむこと、いとかたし。
 宮も、その名残、例にもおはしまさず。かうことさらめきて籠もりゐ、おとづれたまはぬを、命婦などはいとほしがりきこゆ。宮も、春宮の御ためを思すには、「御心置きたまはむこと、いとほしく、世をあぢきなきものに思ひなりたまはば、ひたみちに思し立つこともや」と、さすがに苦しう思さるべし。
 「かかること絶えずは、いとどしき世に、憂き名さへ漏り出でなむ。大后の、あるまじきことにのたまふなる位をも去りなむ」と、やうやう思しなる。院の思しのたまはせしさまの、なのめならざりしを思し出づるにも、「よろづのこと、ありしにもあらず、変はりゆく世にこそあめれ。戚夫人の見けむ目のやうにあらずとも、かならず、人笑へなることは、ありぬべき身にこそあめれ」など、世の疎ましく、過ぐしがたう思さるれば、背きなむことを思し取るに、春宮、見たてまつらで面変はりせむこと、あはれに思さるれば、忍びやかにて参りたまへり。
 大将の君は、さらぬことだに、思し寄らぬことなく仕うまつりたまふを、御心地悩ましきにことつけて、御送りにも参りたまはず。おほかたの御とぶらひは、同じやうなれど、「むげに、思し屈しにける」と、心知るどちは、いとほしがりきこゆ。
 宮は、いみじううつくしうおとなびたまひて、めづらしううれしと思して、むつれきこえたまふを、かなしと見たてまつりたまふにも、思し立つ筋はいとかたけれど、内裏わたりを見たまふにつけても、世のありさま、あはれにはかなく、移り変はることのみ多かり。
 大后の御心もいとわづらはしくて、かく出で入りたまふにも、はしたなく、事に触れて苦しければ、宮の御ためにも危ふくゆゆしう、よろづにつけて思ほし乱れて、
 「御覧ぜで、久しからむほどに、容貌の異ざまにてうたてげに変はりてはべらば、いかが思さるべき」
 と聞こえたまへば、御顔うちまもりたまひて、
 「式部がやうにや。いかでか、さはなりたまはむ」
 と、笑みてのたまふ。いふかひなくあはれにて、
 「それは、老いてはべれば醜きぞ。さはあらで、髪はそれよりも短くて、黒き衣などを着て、夜居の僧のやうになりはべらむとすれば、見たてまつらむことも、いとど久しかるべきぞ」
 とて泣きたまへば、まめだちて、
 「久しうおはせぬは、恋しきものを」
 とて、涙の落つれば、恥づかしと思して、さすがに背きたまへる、御髪はゆらゆらときよらにて、まみのなつかしげに匂ひたまへるさま、おとなびたまふままに、ただかの御顔を脱ぎすべたまへり。御歯のすこし朽ちて、口の内黒みて、笑みたまへる薫りうつくしきは、女にて見たてまつらまほしうきよらなり。「いと、かうしもおぼえたまへるこそ、心憂けれ」と、玉の瑕に思さるるも、世のわづらはしさの、空恐ろしうおぼえたまふなりけり。


 

第四章 光る源氏の物語 雲林院参籠
 [第一段 秋、雲林院に参籠]
 大将の君は、宮をいと恋しう思ひきこえたまへど、「あさましき御心のほどを、時々は、思ひ知るさまにも見せたてまつらむ」と、念じつつ過ぐしたまふに、人悪ろく、つれづれに思さるれば、秋の野も見たまひがてら、雲林院に詣でたまへり。
 「故母御息所の御兄の律師の籠もりたまへる坊にて、法文など読み、行なひせむ」と思して、二、三日おはするに、あはれなること多かり。
 紅葉やうやう色づきわたりて、秋の野のいとなまめきたるなど見たまひて、故里も忘れぬべく思さる。法師ばらの、才ある限り召し出でて、論議せさせて聞こしめさせたまふ。所からに、いとど世の中の常なさを思し明かしても、なほ、「憂き人しもぞ」と、思し出でらるるおし明け方の月影に、法師ばらの閼伽たてまつるとて、からからと鳴らしつつ、菊の花、濃き薄き紅葉など、折り散らしたるも、はかなげなれど、
 「このかたのいとなみは、この世もつれづれならず、後の世はた、頼もしげなり。さも、あぢきなき身をもて悩むかな」
 など、思し続けたまふ。律師の、いと尊き声にて、
 「念仏衆生摂取不捨」
 と、うちのべて行なひたまへるは、いとうらやましければ、「なぞや」と思しなるに、まづ、姫君の心にかかりて思ひ出でられたまふぞ、いと悪ろき心なるや。
 例ならぬ日数も、おぼつかなくのみ思さるれば、御文ばかりぞ、しげう聞こえたまふめる。
 「行き離れぬべしやと、試みはべる道なれど、つれづれも慰めがたう、心細さまさりてなむ。聞きさしたることありて、やすらひはべるほど、いかに」
 など、陸奥紙にうちとけ書きたまへるさへぞ、めでたき。
 「浅茅生の露のやどりに君をおきて
  四方の嵐ぞ静心なき」
 など、こまやかなるに、女君もうち泣きたまひぬ。御返し、白き色紙に、
 「風吹けばまづぞ乱るる色変はる
  浅茅が露にかかるささがに」
 とのみありて、「御手はいとをかしうのみなりまさるものかな」と、独りごちて、うつくしとほほ笑みたまふ。
 常に書き交はしたまへば、わが御手にいとよく似て、今すこしなまめかしう、女しきところ書き添へたまへり。「何ごとにつけても、けしうはあらず生ほし立てたりかし」と思ほす。

 [第二段 朝顔斎院と和歌を贈答]
 吹き交ふ風も近きほどにて、斎院にも聞こえたまひけり。中将の君に、
 「かく、旅の空になむ、もの思ひにあくがれにけるを、思し知るにもあらじかし」
 など、怨みたまひて、御前には、
 「かけまくはかしこけれどもそのかみの
  秋思ほゆる木綿欅かな
 昔を今に、と思ひたまふるもかひなく、とり返されむもののやうに」
 と、なれなれしげに、唐の浅緑の紙に、榊に木綿つけなど、神々しうしなして参らせたまふ。
 御返り、中将、
 「紛るることなくて、来し方のことを思ひたまへ出づるつれづれのままには、思ひやりきこえさすること多くはべれど、かひなくのみなむ」
 と、すこし心とどめて多かり。御前のは、木綿の片端に、
 「そのかみやいかがはありし木綿欅
  心にかけてしのぶらむゆゑ
 近き世に」
 とぞある。
 「御手、こまやかにはあらねど、らうらうじう、草などをかしうなりにけり。まして、朝顔もねびまさりたまふらむかし」と思ほゆるも、ただならず、恐ろしや。
 「あはれ、このころぞかし。野の宮のあはれなりしこと」と思し出でて、「あやしう、やうのもの」と、神恨めしう思さるる御癖の、見苦しきぞかし。わりなう思さば、さもありぬべかりし年ごろは、のどかに過ぐいたまひて、今は悔しう思さるべかめるも、あやしき御心なりや。
 院も、かくなべてならぬ御心ばへを見知りきこえたまへれば、たまさかなる御返りなどは、えしももて離れきこえたまふまじかめり。すこしあいなきことなりかし。
 六十巻といふ書、読みたまひ、おぼつかなきところどころ解かせなどしておはしますを、「山寺には、いみじき光行なひ出だしたてまつれり」と、「仏の御面目あり」と、あやしの法師ばらまでよろこびあへり。しめやかにて、世の中を思ほしつづくるに、帰らむことももの憂かりぬべけれど、人一人の御こと思しやるがほだしなれば、久しうもえおはしまさで、寺にも御誦経いかめしうせさせたまふ。あるべき限り、上下の僧ども、そのわたりの山賤まで物賜び、尊きことの限りを尽くして出でたまふ。見たてまつり送るとて、このもかのもに、あやしきしはふるひどもも集りてゐて、涙を落としつつ見たてまつる。黒き御車のうちにて、藤の御袂にやつれたまへれば、ことに見えたまはねど、ほのかなる御ありさまを、世になく思ひきこゆべかめり。


 [第三段 源氏、二条院に帰邸]
 女君は、日ごろのほどに、ねびまさりたまへる心地して、いといたうしづまりたまひて、世の中いかがあらむと思へるけしきの、心苦しうあはれにおぼえたまへば、あいなき心のさまざま乱るるやしるからむ、「色変はる」とありしもらうたうおぼえて、常よりことに語らひきこえたまふ。
 山づとに持たせたまへりし紅葉、御前のに御覧じ比ぶれば、ことに染めましける露の心も見過ぐしがたう、おぼつかなさも、人悪るきまでおぼえたまへば、ただおほかたにて宮に参らせたまふ。命婦のもとに、
 「入らせたまひにけるを、めづらしきこととうけたまはるに、宮の間の事、おぼつかなくなりはべりにければ、静心なく思ひたまへながら、行ひもつとめむなど、思ひ立ちはべりし日数を、心ならずやとてなむ、日ごろになりはべりにける。紅葉は、一人見はべるに、錦暗う思ひたまふればなむ。折よくて御覧ぜさせたまへ」
 などあり。
 げに、いみじき枝どもなれば、御目とまるに、例の、いささかなるものありけり。人びと見たてまつるに、御顔の色も移ろひて、
 「なほ、かかる心の絶えたまはぬこそ、いと疎ましけれ。あたら思ひやり深うものしたまふ人の、ゆくりなく、かうやうなること、折々混ぜたまふを、人もあやしと見るらむかし」
 と、心づきなく思されて、瓶に挿させて、廂の柱のもとにおしやらせたまひつ。


 [第四段 朱雀帝と対面]
 おほかたのことども、宮の御事に触れたることなどをば、うち頼めるさまに、すくよかなる御返りばかり聞こえたまへるを、「さも心かしこく、尽きせずも」と、恨めしうは見たまへど、何ごとも後見きこえならひたまひにたれば、「人あやしと、見とがめもこそすれ」と思して、まかでたまふべき日、参りたまへり。
 まづ、内裏の御方に参りたまへれば、のどやかにおはしますほどにて、昔今の御物語聞こえたまふ。御容貌も、院にいとよう似たてまつりたまひて、今すこしなまめかしき気添ひて、なつかしうなごやかにぞおはします。かたみにあはれと見たてまつりたまふ。
 尚侍の君の御ことも、なほ絶えぬさまに聞こし召し、けしき御覧ずる折もあれど、
 「何かは、今はじめたることならばこそあらめ。さも心交はさむに、似げなかるまじき人のあはひなりかし」
 とぞ思しなして、咎めさせたまはざりける。
 よろづの御物語、文の道のおぼつかなく思さるることどもなど、問はせたまひて、また、好き好きしき歌語りなども、かたみに聞こえ交はさせたまふついでに、かの斎宮の下りたまひし日のこと、容貌のをかしくおはせしなど、語らせたまふに、我もうちとけて、野の宮のあはれなりし曙も、みな聞こえ出でたまひてけり。
 二十日の月、やうやうさし出でて、をかしきほどなるに、
 「遊びなども、せまほしきほどかな」
 とのたまはす。
 「中宮の、今宵、まかでたまふなる、とぶらひにものしはべらむ。院ののたまはせおくことはべりしかば。また、後見仕うまつる人もはべらざめるに。春宮の御ゆかり、いとほしう思ひたまへられはべりて」
 と奏したまふ。
 「春宮をば、今の皇子になしてなど、のたまはせ置きしかば、とりわきて心ざしものすれど、ことにさしわきたるさまにも、何ごとをかはとてこそ。年のほどよりも、御手などのわざとかしこうこそものしたまふべけれ。何ごとにも、はかばかしからぬみづからの面起こしになむ」
 と、のたまはすれば、
 「おほかた、したまふわざなど、いとさとく大人びたるさまにものしたまへど、まだ、いと片なりに」
 など、その御ありさまも奏したまひて、まかでたまふに、大宮の御兄の藤大納言の子の、頭の弁といふが、世にあひ、はなやかなる若人にて、思ふことなきなるべし、妹の麗景殿の御方に行くに、大将の御前駆を忍びやかに追へば、しばし立ちとまりて、
 「白虹日を貫けり。太子畏ぢたり」
 と、いとゆるるかにうち誦じたるを、大将、いとまばゆしと聞きたまへど、咎むべきことかは。后の御けしきは、いと恐ろしう、わづらはしげにのみ聞こゆるを、かう親しき人びとも、けしきだち言ふべかめることどももあるに、わづらはしう思されけれど、つれなうのみもてなしたまへり。


 [第五段 藤壷に挨拶]
 「御前にさぶらひて、今まで、更かしはべりにける」
 と、聞こえたまふ。
 月のはなやかなるに、「昔、かうやうなる折は、御遊びせさせたまひて、今めかしうもてなさせたまひし」など、思し出づるに、同じ御垣の内ながら、変はれること多く悲し。
 「九重に霧や隔つる雲の上の
  月をはるかに思ひやるかな」
 と、命婦して、聞こえ伝へたまふ。ほどなければ、御けはひも、ほのかなれど、なつかしう聞こゆるに、つらさも忘られて、まづ涙ぞ落つる。
 「月影は見し世の秋に変はらぬを
  隔つる霧のつらくもあるかな
 霞も人のとか、昔もはべりけることにや」
 など聞こえたまふ。
 宮は、春宮を飽かず思ひきこえたまひて、よろづのことを聞こえさせたまへど、深うも思し入れたらぬを、いとうしろめたく思ひきこえたまふ。例は、いととく大殿籠もるを、「出でたまふまでは起きたらむ」と思すなるべし。恨めしげに思したれど、さすがに、え慕ひきこえたまはぬを、いとあはれと、見たてまつりたまふ。


 [第六段 初冬のころ、源氏朧月夜と和歌贈答]
 大将、頭の弁の誦じつることを思ふに、御心の鬼に、世の中わづらはしうおぼえたまひて、尚侍の君にも訪れきこえたまはで、久しうなりにけり。
 初時雨、いつしかとけしきだつに、いかが思しけむ、かれより、
 「木枯の吹くにつけつつ待ちし間に
  おぼつかなさのころも経にけり」
 と聞こえたまへり。折もあはれに、あながちに忍び書きたまへらむ御心ばへも、憎からねば、御使とどめさせて、唐の紙ども入れさせたまへる御厨子開けさせたまひて、なべてならぬを選り出でつつ、筆なども心ことにひきつくろひたまへるけしき、艶なるを、御前なる人びと、「誰ればかりならむ」とつきじろふ。
 「聞こえさせても、かひなきもの懲りにこそ、むげにくづほれにけれ。身のみもの憂きほどに、
  あひ見ずてしのぶるころの涙をも
  なべての空の時雨とや見る
 心の通ふならば、いかに眺めの空ももの忘れしはべらむ」
 など、こまやかになりにけり。
 かうやうにおどろかしきこゆるたぐひ多かめれど、情けなからずうち返りごちたまひて、御心には深う染まざるべし。


 

第五章 藤壷の物語 法華八講主催と出家
 [第一段 十一月一日、故桐壷院の御国忌]
 中宮は、院の御はてのことにうち続き、御八講のいそぎをさまざまに心づかひせさせたまひけり。
 霜月の朔日ごろ、御国忌なるに、雪いたう降りたり。大将殿より宮に聞こえたまふ。
 「別れにし今日は来れども見し人に
  行き逢ふほどをいつと頼まむ」
 いづこにも、今日はもの悲しう思さるるほどにて、御返りあり。
 「ながらふるほどは憂けれど行きめぐり
  今日はその世に逢ふ心地して」
 ことにつくろひてもあらぬ御書きざまなれど、あてに気高きは思ひなしなるべし。筋変はり今めかしうはあらねど、人にはことに書かせたまへり。今日は、この御ことも思ひ消ちて、あはれなる雪の雫に濡れ濡れ行ひたまふ。

 [第二段 十二月十日過ぎ、藤壷、法華八講主催の後、出家す]
 十二月十余日ばかり、中宮の御八講なり。いみじう尊し。日々に供養ぜさせたまふ御経よりはじめ、玉の軸、羅の表紙、帙簀の飾りも、世になきさまにととのへさせたまへり。さらぬことのきよらだに、世の常ならずおはしませば、ましてことわりなり。仏の御飾り、花机のおほひなどまで、まことの極楽思ひやらる。
 初めの日は、先帝の御料。次の日は、母后の御ため。またの日は、院の御料。五巻の日なれば、上達部なども、世のつつましさをえしも憚りたまはで、いとあまた参りたまへり。今日の講師は、心ことに選らせたまへれば、「薪こる」ほどよりうちはじめ、同じう言ふ言の葉も、いみじう尊し。親王たちも、さまざまの捧物ささげてめぐりたまふに、大将殿の御用意など、なほ似るものなし。常におなじことのやうなれど、見たてまつるたびごとに、めづらしからむをば、いかがはせむ。
 果ての日、わが御ことを結願にて、世を背きたまふよし、仏に申させたまふに、皆人びと驚きたまひぬ。兵部卿宮、大将の御心も動きて、あさましと思す。
 親王は、なかばのほどに立ちて、入りたまひぬ。心強う思し立つさまのたまひて、果つるほどに、山の座主召して、忌むこと受けたまふべきよし、のたまはす。御伯父の横川の僧都、近う参りたまひて、御髪下ろしたまふほどに、宮の内ゆすりて、ゆゆしう泣きみちたり。何となき老い衰へたる人だに、今はと世を背くほどは、あやしうあはれなるわざを、まして、かねての御けしきにも出だしたまはざりつることなれば、親王もいみじう泣きたまふ。
 参りたまへる人々も、おほかたのことのさまも、あはれ尊ければ、みな、袖濡らしてぞ帰りたまひける。
 故院の御子たちは、昔の御ありさまを思し出づるに、いとど、あはれに悲しう思されて、みな、とぶらひきこえたまふ。大将は、立ちとまりたまひて、聞こえ出でたまふべきかたもなく、暮れまどひて思さるれど、「などか、さしも」と、人見たてまつるべければ、親王など出でたまひぬる後にぞ、御前に参りたまへる。
 やうやう人静まりて、女房ども、鼻うちかみつつ、所々に群れゐたり。月は隈なきに、雪の光りあひたる庭のありさまも、昔のこと思ひやらるるに、いと堪へがたう思さるれど、いとよう思し静めて、
 「いかやうに思し立たせたまひて、かうにはかには」
 と聞こえたまふ。
 「今はじめて、思ひたまふることにもあらぬを、ものさわがしきやうなりつれば、心乱れぬべく」
 など、例の、命婦して聞こえたまふ。
 御簾のうちのけはひ、そこら集ひさぶらふ人の衣の音なひ、しめやかに振る舞ひなして、うち身じろきつつ、悲しげさの慰めがたげに漏り聞こゆるけしき、ことわりに、いみじと聞きたまふ。
 風、はげしう吹きふぶきて、御簾のうちの匂ひ、いともの深き黒方にしみて、名香の煙もほのかなり。大将の御匂ひさへ薫りあひ、めでたく、極楽思ひやらるる夜のさまなり。
 春宮の御使も参れり。のたまひしさま、思ひ出できこえさせたまふにぞ、御心強さも堪へがたくて、御返りも聞こえさせやらせたまはねば、大将ぞ、言加はへ聞こえたまひける。
 誰も誰も、ある限り心収まらぬほどなれば、思すことどもも、えうち出でたまはず。
 「月のすむ雲居をかけて慕ふとも
  この世の闇になほや惑はむ
 と思ひたまへらるるこそ、かひなく。思し立たせたまへる恨めしさは、限りなう」
 とばかり聞こえたまひて、人々近うさぶらへば、さまざま乱るる心のうちをだに、え聞こえあらはしたまはず、いぶせし。
 「おほふかたの憂きにつけては厭へども
  いつかこの世を背き果つべき
 かつ、濁りつつ」
 など、かたへは御使の心しらひなるべし。あはれのみ尽きせねば、胸苦しうてまかでたまひぬ。


 [第三段 後に残された源氏]
 殿にても、わが御方に一人うち臥したまひて、御目もあはず、世の中厭はしう思さるるにも、春宮の御ことのみぞ心苦しき。
 「母宮をだに朝廷がたざまにと、思しおきしを、世の憂さに堪へず、かくなりたまひにたれば、もとの御位にてもえおはせじ。我さへ見たてまつり捨てては」など、思し明かすこと限りなし。
 「今は、かかるかたざまの御調度どもをこそは」と思せば、年の内にと、急がせたまふ。命婦の君も御供になりにければ、それも心深うとぶらひたまふ。詳しう言ひ続けむに、ことことしきさまなれば、漏らしてけるなめり。さるは、かうやうの折こそ、をかしき歌など出で来るやうもあれ、さうざうしや。
 参りたまふも、今はつつましさ薄らぎて、御みづから聞こえたまふ折もありけり。思ひしめてしことは、さらに御心に離れねど、まして、あるまじきことなりかし。


 

第六章 光る源氏の物語 寂寥の日々
 [第一段 諒闇明けの新年を迎える]
 年も変はりぬれば、内裏わたりはなやかに、内宴、踏歌など聞きたまふも、もののみあはれにて、御行なひしめやかにしたまひつつ、後の世のことをのみ思すに、頼もしく、むつかしかりしこと、離れて思ほさる。常の御念誦堂をば、さるものにて、ことに建てられたる御堂の、西の対の南にあたりて、すこし離れたるに渡らせたまひて、とりわきたる御行なひせさせたまふ。
 大将、参りたまへり。改まるしるしもなく、宮の内のどかに、人目まれにて、宮司どもの親しきばかり、うちうなだれて、見なしにやあらむ、屈しいたげに思へり。
 白馬ばかりぞ、なほ牽き変へぬものにて、女房などの見ける。所狭う参り集ひたまひし上達部など、道を避きつつひき過ぎて、向かひの大殿に集ひたまふを、かかるべきことなれど、あはれに思さるるに、千人にも変へつべき御さまにて、深うたづね参りたまへるを見るに、あいなく涙ぐまる。
 客人も、いとものあはれなるけしきに、うち見まはしたまひて、とみに物ものたまはず。さま変はれる御住まひに、御簾の端、御几帳も青鈍にて、隙々よりほの見えたる薄鈍、梔子の袖口など、なかなかなまめかしう、奥ゆかしう思ひやられたまふ。「解けわたる池の薄氷、岸の柳のけしきばかりは、時を忘れぬ」など、さまざま眺められたまひて、「むべも心ある」と、忍びやかにうち誦じたまへる、またなうなまめかし。
 「ながめかる海人のすみかと見るからに
  まづしほたるる松が浦島」
 と聞こえたまへば、奥深うもあらず、みな仏に譲りきこえたまへる御座所なれば、すこしけ近き心地して、
 「ありし世のなごりだになき浦島に
  立ち寄る波のめづらしきかな」
 とのたまふも、ほの聞こゆれば、忍ぶれど、涙ほろほろとこぼれたまひぬ。世を思ひ澄ましたる尼君たちの見るらむも、はしたなければ、言少なにて出でたまひぬ。
 「さも、たぐひなくねびまさりたまふかな」
 「心もとなきところなく世に栄え、時にあひたまひし時は、さる一つものにて、何につけてか世を思し知らむと、推し量られたまひしを」
 「今はいといたう思ししづめて、はかなきことにつけても、ものあはれなるけしけさへ添はせたまへるは、あいなう心苦しうもあるかな」
 など、老いしらへる人々、うち泣きつつ、めできこゆ。宮も思し出づること多かり。

 [第二段 源氏一派の人々の不遇]
 司召のころ、この宮の人は、賜はるべき官も得ず、おほかたの道理にても、宮の御賜はりにても、かならずあるべき加階などをだにせずなどして、嘆くたぐひいと多かり。かくても、いつしかと御位を去り、御封などの停まるべきにもあらぬを、ことつけて変はること多かり。皆かねて思し捨ててし世なれど、宮人どもも、よりどころなげに悲しと思へるけしきどもにつけてぞ、御心動く折々あれど、「わが身をなきになしても、春宮の御代をたひらかにおはしまさば」とのみ思しつつ、御行なひたゆみなくつとめさせたまふ。
 人知れず危ふくゆゆしう思ひきこえさせたまふことしあれば、「我にその罪を軽めて、宥したまへ」と、仏を念じきこえたまふに、よろづを慰めたまふ。
 大将も、しか見たてまつりたまひて、ことわりに思す。この殿の人どもも、また同じきさまに、からきことのみあれば、世の中はしたなく思されて、籠もりおはす。
 左の大臣も、公私ひき変へたる世のありさまに、もの憂く思して、致仕の表たてまつりたまふを、帝は、故院のやむごとなく重き御後見と思して、長き世のかためと聞こえ置きたまひし御遺言を思し召すに、捨てがたきものに思ひきこえたまへるに、かひなきことと、たびたび用ゐさせたまはねど、せめて返さひ申したまひて、籠もりゐたまひぬ。
 今は、いとど一族のみ、返す返す栄えたまふこと、限りなし。世の重しとものしたまへる大臣の、かく世を逃がれたまへば、朝廷も心細う思され、世の人も、心ある限りは嘆きけり。
 御子どもは、いづれともなく人がらめやすく世に用ゐられて、心地よげにものしたまひしを、こよなう静まりて、三位中将なども、世を思ひ沈めるさま、こよなし。かの四の君をも、なほ、かれがれにうち通ひつつ、めざましうもてなされたれば、心解けたる御婿のうちにも入れたまはず。思ひ知れとにや、このたびの司召にも漏れぬれど、いとしも思ひ入れず。
 大将殿、かう静かにておはするに、世ははかなきものと見えぬるを、ましてことわり、と思しなして、常に参り通ひたまひつつ、学問をも遊びをももろともにしたまふ。
 いにしへも、もの狂ほしきまで、挑みきこえたまひしを思し出でて、かたみに今もはかなきことにつけつつ、さすがに挑みたまへり。
 春秋の御読経をばさるものにて、臨時にも、さまざま尊き事どもをせさせたまひなどして、また、いたづらに暇ありげなる博士ども召し集めて、文作り、韻塞ぎなどやうのすさびわざどもをもしなど、心をやりて、宮仕へをもをさをさしたまはず、御心にまかせてうち遊びておはするを、世の中には、わづらはしきことどもやうやう言ひ出づる人びとあるべし。


 [第三段 韻塞ぎに無聊を送る]
 夏の雨、のどかに降りて、つれづれなるころ、中将、さるべき集どもあまた持たせて参りたまへり。殿にも、文殿開けさせたまひて、まだ開かぬ御厨子どもの、めづらしき古集のゆゑなからぬ、すこし選り出でさせたまひて、その道の人びと、わざとはあらねどあまた召したり。殿上人も大学のも、いと多う集ひて、左右にこまどりに方分かせたまへり。賭物どもなど、いと二なくて、挑みあへり。
 塞ぎもて行くままに、難き韻の文字どもいと多くて、おぼえある博士どもなどの惑ふところどころを、時々うちのたまふさま、いとこよなき御才のほどなり。
 「いかで、かうしもたらひたまひけむ」
 「なほさるべきにて、よろづのこと、人にすぐれたまへるなりけり」
 と、めできこゆ。つひに、右負けにけり。
 二日ばかりありて、中将負けわざしたまへり。ことことしうはあらで、なまめきたる桧破籠ども、賭物などさまざまにて、今日も例の人びと、多く召して、文など作らせたまふ。
 階のもとの薔薇、けしきばかり咲きて、春秋の花盛りよりもしめやかにをかしきほどなるに、うちとけ遊びたまふ。
 中将の御子の、今年初めて殿上する、八つ、九つばかりにて、声いとおもしろく、笙の笛吹きなどするを、うつくしびもてあそびたまふ。四の君腹の二郎なりけり。世の人の思へる寄せ重くて、おぼえことにかしづけり。心ばへもかどかどしう、容貌もをかしくて、御遊びのすこし乱れゆくほどに、「高砂」を出だして謡ふ、いとうつくし。大将の君、御衣脱ぎてかづけたまふ。
 例よりは、うち乱れたまへる御顔の匂ひ、似るものなく見ゆ。薄物の直衣、単衣を着たまへるに、透きたまへる肌つき、ましていみじう見ゆるを、年老いたる博士どもなど、遠く見たてまつりて、涙落しつつゐたり。「逢はましものを、小百合ばの」と謡ふとぢめに、中将、御土器参りたまふ。
 「それもがと今朝開けたる初花に
  劣らぬ君が匂ひをぞ見る」
 ほほ笑みて、取りたまふ。
 「時ならで今朝咲く花は夏の雨に
  しをれにけらし匂ふほどなく
 衰へにたるものを」
 と、うちさうどきて、らうがはしく聞こし召しなすを、咎め出でつつ、しひきこえたまふ。
 多かめりし言どもも、かうやうなる折のまほならぬこと、数々に書きつくる、心地なきわざとか、貫之が諌め、たふるる方にて、むつかしければ、とどめつ。皆、この御ことをほめたる筋にのみ、大和のも唐のも作り続けたり。わが御心地にも、いたう思しおごりて、
 「文王の子、武王の弟」
 と、うち誦じたまへる御名のりさへぞ、げに、めでたき。「成王の何」とか、のたまはむとすらむ。そればかりや、また心もとなからむ。
 兵部卿宮も常に渡りたまひつつ、御遊びなども、をかしうおはする宮なれば、今めかしき御あはひどもなり。


 

第七章 朧月夜の物語 村雨の紛れの密会露見
 [第一段 源氏、朧月夜と密会中、右大臣に発見される]
 そのころ、尚侍の君まかでたまへり。瘧病に久しう悩みたまひて、まじなひなども心やすくせむとてなりけり。修法など始めて、おこたりたまひぬれば、誰も誰も、うれしう思すに、例の、めづらしき隙なるをと、聞こえ交はしたまひて、わりなきさまにて、夜な夜な対面したまふ。
 いと盛りに、にぎははしきけはひしたまへる人の、すこしうち悩みて、痩せ痩せになりたまへるほど、いとをかしげなり。
 后の宮も一所におはするころなれば、けはひいと恐ろしけれど、かかることしもまさる御癖なれば、いと忍びて、たび重なりゆけば、けしき見る人びともあるべかめれど、わづらはしうて、宮には、さなむと啓せず。
 大臣、はた思ひかけたまはぬに、雨にはかにおどろおどろしう降りて、神いたう鳴りさわぐ暁に、殿の君達、宮司など立ちさわぎて、こなたかなたの人目しげく、女房どもも怖ぢまどひて、近う集ひ参るに、いとわりなく、出でたまはむ方なくて、明け果てぬ。
 御帳のめぐりにも、人びとしげく並みゐたれば、いと胸つぶらはしく思さる。心知りの人二人ばかり、心を惑はす。
 神鳴り止み、雨すこしを止みぬるほどに、大臣渡りたまひて、まづ、宮の御方におはしけるを、村雨のまぎれにてえ知りたまはぬに、軽らかにふとはひ入りたまひて、御簾引き上げたまふままに、
 「いかにぞ。いとうたてありつる夜のさまに、思ひやりきこえながら、参り来でなむ。中将、宮の亮など、さぶらひつや」
 など、のたまふけはひの、舌疾にあはつけきを、大将は、もののまぎれにも、左の大臣の御ありさま、ふと思し比べられて、たとしへなうぞ、ほほ笑まれたまふ。げに、入り果ててものたまへかしな。
 尚侍の君、いとわびしう思されて、やをらゐざり出でたまふに、面のいたう赤みたるを、「なほ悩ましう思さるるにや」と見たまひて、
 「など、御けしきの例ならぬ。もののけなどのむつかしきを、修法延べさすべかりけり」
 とのたまふに、薄二藍なる帯の、御衣にまつはれて引き出でられたるを見つけたまひて、あやしと思すに、また、畳紙の手習ひなどしたる、御几帳のもとに落ちたり。「これはいかなる物どもぞ」と、御心おどろかれて、
 「かれは、誰れがぞ。けしき異なるもののさまかな。たまへ。それ取りて誰がぞと見はべらむ」
 とのたまふにぞ、うち見返りて、我も見つけたまへる。紛らはすべきかたもなければ、いかがは応へきこえたまはむ。我にもあらでおはするを、「子ながらも恥づかしと思すらむかし」と、さばかりの人は、思し憚るべきぞかし。されど、いと急に、のどめたるところおはせぬ大臣の、思しもまはさずなりて、畳紙を取りたまふままに、几帳より見入れたまへるに、いといたうなよびて、慎ましからず添ひ臥したる男もあり。今ぞ、やをら顔ひき隠して、とかう紛らはす。あさましう、めざましう心やましけれど、直面には、いかでか現はしたまはむ。目もくるる心地すれば、この畳紙を取りて、寝殿に渡りたまひぬ。
 尚侍の君は、我かの心地して、死ぬべく思さる。大将殿も、「いとほしう、つひに用なき振る舞ひのつもりて、人のもどきを負はむとすること」と思せど、女君の心苦しき御けしきを、とかく慰めきこえたまふ。

 [第二段 右大臣、源氏追放を画策する]
 大臣は、思ひのままに、籠めたるところおはせぬ本性に、いとど老いの御ひがみさへ添ひたまふに、これは何ごとにかはとどこほりたまはむ。ゆくゆくと、宮にも愁へきこえたまふ。
 「かうかうのことなむはべる。この畳紙は、右大将の御手なり。昔も、心宥されでありそめにけることなれど、人柄によろづの罪を宥して、さても見むと、言ひはべりし折は、心もとどめず、めざましげにもてなされにしかば、やすからず思ひたまへしかど、さるべきにこそはとて、世に穢れたりとも、思し捨つまじきを頼みにて、かく本意のごとくたてまつりながら、なほ、その憚りありて、うけばりたる女御なども言はせたまはぬをだに、飽かず口惜しう思ひたまふるに、また、かかることさへはべりければ、さらにいと心憂くなむ思ひなりはべりぬる。男の例とはいひながら、大将もいとけしからぬ御心なりけり。斎院をもなほ聞こえ犯しつつ、忍びに御文通はしなどして、けしきあることなど、人の語りはべりしをも、世のためのみにもあらず、我がためもよかるまじきことなれば、よもさる思ひやりなきわざ、し出でられじとなむ、時の有職と天の下をなびかしたまへるさま、ことなめれば、大将の御心を、疑ひはべらざりつる」
 などのたまふに、宮は、いとどしき御心なれば、いとものしき御けしきにて、
 「帝と聞こゆれど、昔より皆人思ひ落としきこえて、致仕の大臣も、またなくかしづく一つ女を、兄の坊にておはするにはたてまつらで、弟の源氏にて、いときなきが元服の副臥にとり分き、また、この君をも宮仕へにと心ざしてはべりしに、をこがましかりしありさまなりしを、誰れも誰れもあやしとやは思したりし。皆、かの御方にこそ御心寄せはべるめりしを、その本意違ふさまにてこそは、かくてもさぶらひたまふめれど、いとほしさに、いかでさる方にても、人に劣らぬさまにもてなしきこえむ、さばかりねたげなりし人の見るところもあり、などこそは思ひはべれど、忍びて我が心の入る方に、なびきたまふにこそははべらめ。斎院の御ことは、ましてさもあらむ。何ごとにつけても、朝廷の御方にうしろやすからず見ゆるは、春宮の御世、心寄せ殊なる人なれば、ことわりになむあめる」
 と、すくすくしうのたまひ続くるに、さすがにいとほしう、「など、聞こえつることぞ」と、思さるれば、
 「さはれ、しばし、このこと漏らしはべらじ。内裏にも奏せさせたまふな。かくのごと、罪はべりとも、思し捨つまじきを頼みにて、あまえてはべるなるべし。うちうちに制しのたまはむに、聞きはべらずは、その罪に、ただみづから当たりはべらむ」
 など、聞こえ直したまへど、ことに御けしきも直らず。
 「かく、一所におはして隙もなきに、つつむところなく、さて入りものせらるらむは、ことさらに軽め弄ぜらるるにこそは」と思しなすに、いとどいみじうめざましく、「このついでに、さるべきことども構へ出でむに、よきたよりなり」と、思しめぐらすべし。

 


花散里
光る源氏の二十五歳夏、近衛大将時代の物語


 

花散里の物語
 [第一段 花散里訪問を決意]
 人知れぬ、御心づからのもの思はしさは、いつとなきことなめれど、かくおほかたの世につけてさへ、わづらはしう思し乱るることのみまされば、もの心細く、世の中なべて厭はしう思しならるるに、さすがなること多かり。
 麗景殿と聞こえしは、宮たちもおはせず、院隠れさせたまひて後、いよいよあはれなる御ありさまを、ただこの大将殿の御心にもて隠されて、過ぐしたまふなるべし。
 御おとうとの三の君、内裏わたりにてはかなうほのめきたまひしなごりの、例の御心なれば、さすがに忘れも果てたまはず、わざとももてなしたまはぬに、人の御心をのみ尽くし果てたまふべかめるをも、このごろ残ることなく思し乱るる世のあはれのくさはひには、思ひ出でたまふには、忍びがたくて、五月雨の空めづらしく晴れたる雲間に渡りたまふ。

 [第二段 中川の女と和歌を贈答]
 何ばかりの御よそひなく、うちやつして、御前などもなく、忍びて、中川のほどおはし過ぐるに、ささやかなる家の、木立などよしばめるに、よく鳴る琴を、あづまに調べて、掻き合はせ、にぎははしく弾きなすなり。
 御耳とまりて、門近なる所なれば、すこしさし出でて見入れたまへば、大きなる桂の木の追ひ風に、祭のころ思し出でられて、そこはかとなくけはひをかしきを、「ただ一目見たまひし宿りなり」と見たまふ。ただならず、「ほど経にける、おぼめかしくや」と、つつましけれど、過ぎがてにやすらひたまふ、折しも、ほととぎす鳴きて渡る。もよほしきこえ顔なれば、御車おし返させて、例の、惟光入れたまふ。
 「をちかへりえぞ忍ばれぬほととぎす
  ほの語らひし宿の垣根に」
 寝殿とおぼしき屋の西の妻に人びとゐたり。先々も聞きし声なれば、声づくりけしきとりて、御消息聞こゆ。若やかなるけしきどもして、おぼめくなるべし。
 「ほととぎす言問ふ声はそれなれど
  あなおぼつかな五月雨の空」
 ことさらたどると見れば、
 「よしよし、植ゑし垣根も」
 とて出づるを、人知れぬ心には、ねたうもあはれにも思ひけり。
 「さも、つつむべきことぞかし。ことわりにもあれば、さすがなり。かやうの際に、筑紫の五節が、らうたげなりしはや」
 と、まづ思し出づ。
 いかなるにつけても、御心の暇なく苦しげなり。年月を経ても、なほかやうに、見しあたり、情け過ぐしたまはぬにしも、なかなか、あまたの人のもの思ひぐさなり。


 [第三段 姉麗景殿女御と昔を語る]
 かの本意の所は、思しやりつるもしるく、人目なく、静かにておはするありさまを見たまふも、いとあはれなり。まづ、女御の御方にて、昔の御物語など聞こえたまふに、夜更けにけり。
 二十日の月さし出づるほどに、いとど木高き蔭ども木暗く見えわたりて、近き橘の薫りなつかしく匂ひて、女御の御けはひ、ねびにたれど、あくまで用意あり、あてにらうたげなり。
 「すぐれてはなやかなる御おぼえこそなかりしかど、むつましうなつかしき方には思したりしものを」
 など、思ひ出できこえたまふにつけても、昔のことかきつらね思されて、うち泣きたまふ。
 ほととぎす、ありつる垣根のにや、同じ声にうち鳴く。「慕ひ来にけるよ」と、思さるるほども、艶なりかし。「いかに知りてか」など、忍びやかにうち誦んじたまふ。
 「橘の香をなつかしみほととぎす
  花散る里をたづねてぞとふ
 いにしへの忘れがたき慰めには、なほ参りはべりぬべかりけり。こよなうこそ、紛るることも、数添ふこともはべりけれ。おほかたの世に従ふものなれば、昔語もかきくづすべき人少なうなりゆくを、まして、つれづれも紛れなく思さるらむ」
 と聞こえたまふに、いとさらなる世なれど、ものをいとあはれに思し続けたる御けしきの浅からぬも、人の御さまからにや、多くあはれぞ添ひにける。
 「人目なく荒れたる宿は橘の
  花こそ軒のつまとなりけれ」
 とばかりのたまへる、「さはいへど、人にはいとことなりけり」と、思し比べらる。


 [第四段 花散里を訪問]
 西面には、わざとなく、忍びやかにうち振る舞ひたまひて、覗きたまへるも、めづらしきに添へて、世に目なれぬ御さまなれば、つらさも忘れぬべし。何やかやと、例の、なつかしく語らひたまふも、思さぬことにあらざるべし。
 かりにも見たまふかぎりは、おしなべての際にはあらず、さまざまにつけて、いふかひなしと思さるるはなければにや、憎げなく、我も人も情けを交はしつつ、過ぐしたまふなりけり。それをあいなしと思ふ人は、とにかくに変はるも、「ことわりの、世のさが」と、思ひなしたまふ。ありつる垣根も、さやうにて、ありさま変はりにたるあたりなりけり。

 


須磨
光る源氏の二十六歳春三月下旬から二十七歳春三月上巳日まで無位無官時代の都と須磨の物語

第一章 光る源氏の物語 逝く春と離別の物語


源氏、須磨退去を決意---世の中、いとわづらはしく
左大臣邸に離京の挨拶---三月二十日あまりのほどになむ
二条院の人々との離別---殿におはしたれば、わが御方の人びとも
花散里邸に離京の挨拶---花散里の心細げに思して
旅生活の準備と身辺整理---よろづのことどもしたためさせたまふ
藤壷に離京の挨拶---明日とて、暮には、院の御墓拝みたてまつりたまふ
桐壷院の御墓に離京の挨拶---月待ち出でて出でたまふ
東宮に離京の挨拶---明け果つるほどに帰りたまひて
離京の当日---その日は、女君に御物語のどかに聞こえ暮らし
第二章 光る源氏の物語 夏の長雨と鬱屈の物語

須磨の住居---おはすべき所は、行平の中納言の
京の人々へ手紙---やうやう事静まりゆくに、長雨のころ
伊勢の御息所へ手紙---まことや、騒がしかりしほどの紛れに
朧月夜尚侍参内する---尚侍の君は、人笑へにいみじう思しくづほるるを
第三章 光る源氏の物語 須磨の秋の物語

須磨の秋---須磨には、いとど心尽くしの秋風に
配所の月を眺める---月のいとはなやかにさし出でたるに
筑紫五節と和歌贈答---そのころ、大弐は上りける
都の人々の生活---都には、月日過ぐるままに
須磨の生活---かの御住まひには、久しくなるままに
明石入道の娘---明石の浦は、ただはひ渡るほどなれば
第四章 光る源氏の物語 信仰生活と神の啓示の物語

須磨で新年を迎える---須磨には、年返りて、日長くつれづれなるに
上巳の祓と嵐---弥生の朔日に出で来たる巳の日

第一章 光る源氏の物語 逝く春と離別の物語
 [第一段 源氏、須磨退去を決意]
 世の中、いとわづらはしく、はしたなきことのみまされば、「せめて知らず顔にあり経ても、これよりまさることもや」と思しなりぬ。
 「かの須磨は、昔こそ人の住みかなどもありけれ、今は、いと里離れ心すごくて、海人の家だにまれに」など聞きたまへど、「人しげく、ひたたけたらむ住まひは、いと本意なかるべし。さりとて、都を遠ざからむも、故郷おぼつかなかるべきを」、人悪くぞ思し乱るる。
 よろづのこと、来し方行く末、思ひ続けたまふに、悲しきこといとさまざまなり。憂きものと思ひ捨てつる世も、今はと住み離れなむことを思すには、いと捨てがたきこと多かるなかにも、姫君の、明け暮れにそへては、思ひ嘆きたまへるさまの、心苦しうあはれなるを、「行きめぐりても、また逢ひ見むことをかならず」と、思さむにてだに、なほ一、二日のほど、よそよそに明かし暮らす折々だに、おぼつかなきものにおぼえ、女君も心細うのみ思ひたまへるを、「幾年そのほどと限りある道にもあらず、逢ふを限りに隔たりゆかむも、定めなき世に、やがて別るべき門出にもや」と、いみじうおぼえたまへば、「忍びてもろともにもや」と、思し寄る折あれど、さる心細からむ海づらの、波風よりほかに立ちまじる人もなからむに、かくらうたき御さまにて、引き具したまへらむも、いとつきなく、わが心にも、「なかなか、もの思ひのつまなるべきを」など思し返すを、女君は、「いみじからむ道にも、後れきこえずだにあらば」と、おもむけて、恨めしげに思いたり。
 かの花散里にも、おはし通ふことこそまれなれ、心細くあはれなる御ありさまを、この御蔭に隠れてものしたまへば、思し嘆きたるさまも、いとことわりなり。なほざりにても、ほのかに見たてまつり通ひたまひし所々、人知れぬ心をくだきたまふ人ぞ多かりける。
 入道の宮よりも、「ものの聞こえや、またいかがとりなさむ」と、わが御ためつつましけれど、忍びつつ御とぶらひ常にあり。「昔、かやうに相思し、あはれをも見せたまはましかば」と、うち思ひ出でたまふにも、「さも、さまざまに、心をのみ尽くすべかりける人の御契りかな」と、つらく思ひきこえたまふ。

 [第二段 左大臣邸に離京の挨拶]
 三月二十日あまりのほどになむ、都を離れたまひける。人にいつとしも知らせたまはず、ただいと近う仕うまつり馴れたる限り、七、八人ばかり御供にて、いとかすかに出で立ちたまふ。さるべき所々に、御文ばかりうち忍びたまひしにも、あはれと忍ばるばかり尽くいたまへるは、見どころもありぬべかりしかど、その折の、心地の紛れに、はかばかしうも聞き置かずなりにけり。
 二、三日かねて、夜に隠れて、大殿に渡りたまへり。網代車のうちやつれたるにて、女車のやうにて隠ろへ入りたまふも、いとあはれに、夢とのみ見ゆ。御方、いと寂しげにうち荒れたる心地して、若君の御乳母ども、昔さぶらひし人のなかに、まかで散らぬ限り、かく渡りたまへるをめづらしがりきこえて、参う上り集ひて見たてまつるにつけても、ことにもの深からぬ若き人びとさへ、世の常なさ思ひ知られて、涙にくれたり。
 若君はいとうつくしうて、され走りおはしたり。
 「久しきほどに、忘れぬこそ、あはれなれ」
 とて、膝に据ゑたまへる御けしき、忍びがたげなり。
 大臣、こなたに渡りたまひて、対面したまへり。
 「つれづれに籠もらせたまへらむほど、何とはべらぬ昔物語も、参りて、聞こえさせむと思うたまへれど、身の病重きにより、朝廷にも仕うまつらず、位をも返したてまつりてはべるに、私ざまには腰のべてなむと、ものの聞こえひがひがしかるべきを、今は世の中憚るべき身にもはべらねど、いちはやき世のいと恐ろしうはべるなり。かかる御ことを見たまふるにつけて、命長きは心憂く思うたまへらるる世の末にもはべるかな。天の下をさかさまになしても、思うたまへ寄らざりし御ありさまを見たまふれば、よろづいとあぢきなくなむ」
 と聞こえたまひて、いたうしほたれたまふ。
 「とあることも、かかることも、前の世の報いにこそはべるなれば、言ひもてゆけば、ただ、みづからのおこたりになむはべる。さして、かく、官爵を取られず、あさはかなることにかかづらひてだに、朝廷のかしこまりなる人の、うつしざまにて世の中にあり経るは、咎重きわざに人の国にもしはべるなるを、遠く放ちつかはすべき定めなどもはべるなるは、さま異なる罪に当たるべきにこそはべるなれ。濁りなき心にまかせて、つれなく過ぐしはべらむも、いと憚り多く、これより大きなる恥にのぞまぬさきに、世を逃れなむと思うたまへ立ちぬる」
 など、こまやかに聞こえたまふ。
 昔の御物語、院の御こと、思しのたまはせし御心ばへなど聞こえ出でたまひて、御直衣の袖もえ引き放ちたまはぬに、君も、え心強くもてなしたまはず。若君の何心なく紛れありきて、これかれに馴れきこえたまふを、いみじと思いたり。
 「過ぎはべりにし人を、世に思うたまへ忘るる世なくのみ、今に悲しびはべるを、この御ことになむ、もしはべる世ならましかば、いかやうに思ひ嘆きはべらまし。よくぞ短くて、かかる夢を見ずなりにけると、思うたまへ慰めはべる。幼くものしたまふが、かく齢過ぎぬるなかにとまりたまひて、なづさひきこえぬ月日や隔たりたまはむと思ひたまふるをなむ、よろづのことよりも、悲しうはべる。いにしへの人も、まことに犯しあるにてしも、かかることに当たらざりけり。なほさるべきにて、人の朝廷にもかかるたぐひ多うはべりけり。されど、言ひ出づる節ありてこそ、さることもはべりけれ、とざま、かうざまに、思ひたまへ寄らむかたなくなむ」
 など、多くの御物語聞こえたまふ。
 三位中将も参りあひたまひて、大御酒など参りたまふに、夜更けぬれば、泊まりたまひて、人びと御前にさぶらはせたまひて、物語などせさせたまふ。人よりはこよなう忍び思す中納言の君、言へばえに悲しう思へるさまを、人知れずあはれと思す。人皆静まりぬるに、とりわきて語らひたまふ。これにより泊まりたまへるなるべし。
 明けぬれば、夜深う出でたまふに、有明の月いとをかし。花の木どもやうやう盛り過ぎて、わづかなる木蔭の、いと白き庭に薄く霧りわたりたる、そこはかとなく霞みあひて、秋の夜のあはれにおほくたちまされり。隅の高欄におしかかりて、とばかり、眺めたまふ。
 中納言の君、見たてまつり送らむとにや、妻戸おし開けてゐたり。
 「また対面あらむことこそ、思へばいと難けれ。かかりける世を知らで、心やすくもありぬべかりし月ごろ、さしも急がで、隔てしよ」
 などのたまへば、ものも聞こえず泣く。
 若君の御乳母の宰相の君して、宮の御前より御消息聞こえたまへり。
 「身づから聞こえまほしきを、かきくらす乱り心地ためらひはべるほどに、いと夜深う出でさせたまふなるも、さま変はりたる心地のみしはべるかな。心苦しき人のいぎたなきほどは、しばしもやすらはせたまはで」
 と聞こえたまへれば、うち泣きたまひて、
 「鳥辺山燃えし煙もまがふやと
  海人の塩焼く浦見にぞ行く」
 御返りともなくうち誦じたまひて、
 「暁の別れは、かうのみや心尽くしなる。思ひ知りたまへる人もあらむかし」
 とのたまへば、
 「いつとなく、別れといふ文字こそうたてはべるなるなかにも、今朝はなほたぐひあるまじう思うたまへらるるほどかな」
 と、鼻声にて、げに浅からず思へり。
 「聞こえさせまほしきことも、返す返す思うたまへながら、ただに結ぼほれはべるほど、推し量らせたまへ。いぎたなき人は、見たまへむにつけても、なかなか、憂き世逃れがたう思うたまへられぬべければ、心強う思うたまへなして、急ぎまかではべり」
 と聞こえたまふ。
 出でたまふほどを、人びと覗きて見たてまつる。
 入り方の月いと明きに、いとどなまめかしうきよらにて、ものを思いたるさま、虎、狼だに泣きぬべし。まして、いはけなくおはせしほどより見たてまつりそめてし人びとなれば、たとしへなき御ありさまをいみじと思ふ。
 まことや、御返り、
 「亡き人の別れやいとど隔たらむ
  煙となりし雲居ならでは」
 取り添へて、あはれのみ尽きせず、出でたまひぬる名残、ゆゆしきまで泣きあへり。


 [第三段 二条院の人々との離別]
 殿におはしたれば、わが御方の人びとも、まどろまざりけるけしきにて、所々に群れゐて、あさましとのみ世を思へるけしきなり。侍には、親しう仕まつる限りは、御供に参るべき心まうけして、私の別れ惜しむほどにや、人もなし。さらぬ人は、とぶらひ参るも重き咎めあり、わづらはしきことまされば、所狭く集ひし馬、車の方もなく、寂しきに、「世は憂きものなりけり」と、思し知らる。
 台盤なども、かたへは塵ばみて、畳、所々引き返したり。「見るほどだにかかり。ましていかに荒れゆかむ」と思す。
 西の対に渡りたまへれば、御格子も参らで、眺め明かしたまひければ、簀子などに、若き童女、所々に臥して、今ぞ起き騒ぐ。宿直姿どもをかしうてゐるを見たまふにも、心細う、「年月経ば、かかる人びとも、えしもあり果てでや、行き散らむ」など、さしもあるまじきことさへ、御目のみとまりけり。
 「昨夜は、しかしかして夜更けにしかばなむ。例の思はずなるさまにや思しなしつる。かくてはべるほどだに御目離れずと思ふを、かく世を離るる際には、心苦しきことのおのづから多かりける、ひたやごもりにてやは。常なき世に、人にも情けなきものと心おかれ果てむと、いとほしうてなむ」
 と聞こえたまへば、
 「かかる世を見るよりほかに、思はずなることは、何ごとにか」
 とばかりのたまひて、いみじと思し入れたるさま、人よりことなるを、ことわりぞかし、父親王、いとおろかにもとより思しつきにけるに、まして、世の聞こえをわづらはしがりて、訪れきこえたまはず、御とぶらひにだに渡りたまはぬを、人の見るらむことも恥づかしく、なかなか知られたてまつらでやみなましを、継母の北の方などの、
 「にはかなりし幸ひのあわたたしさ。あな、ゆゆしや。思ふ人、方々につけて別れたまふ人かな」
 とのたまひけるを、さる便りありて漏り聞きたまふにも、いみじう心憂ければ、これよりも絶えて訪れきこえたまはず。また頼もしき人もなく、げにぞ、あはれなる御ありさまなる。
 「なほ世に許されがたうて、年月を経ば、巌の中にも迎へたてまつらむ。ただ今は、人聞きのいとつきなかるべきなり。朝廷にかしこまりきこゆる人は、明らかなる月日の影をだに見ず、安らかに身を振る舞ふことも、いと罪重かなり。過ちなけれど、さるべきにこそかかることもあらめと思ふに、まして思ふ人具するは、例なきことなるを、ひたおもむきにものぐるほしき世にて、立ちまさることもありなむ」
 など聞こえ知らせたまふ。
 日たくるまで大殿籠もれり。帥宮、三位中将などおはしたり。対面したまはむとて、御直衣などたてまつる。
 「位なき人は」
 とて、無紋の直衣、なかなか、いとなつかしきを着たまひて、うちやつれたまへる、いとめでたし。御鬢かきたまふとて、鏡台に寄りたまへるに、面痩せたまへる影の、我ながらいとあてにきよらなれば、
 「こよなうこそ、衰へにけれ。この影のやうにや痩せてはべる。あはれなるわざかな」
 とのたまへば、女君、涙一目うけて、見おこせたまへる、いと忍びがたし。
 「身はかくてさすらへぬとも君があたり
  去らぬ鏡の影は離れじ」
 と、聞こえたまへば、
 「別れても影だにとまるものならば
  鏡を見ても慰めてまし」
 柱隠れにゐ隠れて、涙を紛らはしたまへるさま、「なほ、ここら見るなかにたぐひなかりけり」と、思し知らるる人の御ありさまなり。
 親王は、あはれなる御物語聞こえたまひて、暮るるほどに帰りたまひぬ。


 [第四段 花散里邸に離京の挨拶]
 花散里の心細げに思して、常に聞こえたまふもことわりにて、「かの人も、今ひとたび見ずは、つらしとや思はむ」と思せば、その夜は、また出でたまふものから、いともの憂くて、いたう更かしておはしたれば、女御、
 「かく数まへたまひて、立ち寄らせたまへること」
 と、よろこびきこえたまふさま、書き続けむもうるさし。
 いといみじう心細き御ありさま、ただ御蔭に隠れて過ぐいたまへる年月、いとど荒れまさらむほど思しやられて、殿の内、いとかすかなり。
 月おぼろにさし出でて、池広く、山木深きわたり、心細げに見ゆるにも、住み離れたらむ巌のなか、思しやらる。
 西面は、「かうしも渡りたまはずや」と、うち屈して思しけるに、あはれ添へたる月影の、なまめかしうしめやかなるに、うち振る舞ひたまへるにほひ、似るものなくて、いと忍びやかに入りたまへば、すこしゐざり出でて、やがて月を見ておはす。またここに御物語のほどに、明け方近うなりにけり。
 「短か夜のほどや。かばかりの対面も、またはえしもやと思ふこそ、ことなしにて過ぐしつる年ごろも悔しう、来し方行く先のためしになるべき身にて、何となく心のどまる世なくこそありけれ」
 と、過ぎにし方のことどものたまひて、鶏もしばしば鳴けば、世につつみて急ぎ出でたまふ。例の、月の入り果つるほど、よそへられて、あはれなり。女君の濃き御衣に映りて、げに、漏るる顔なれば、
 「月影の宿れる袖はせばくとも
  とめても見ばやあかぬ光を」
 いみじと思いたるが、心苦しければ、かつは慰めきこえたまふ。
 「行きめぐりつひにすむべき月影の
  しばし雲らむ空な眺めそ
 思へば、はかなしや。ただ、知らぬ涙のみこそ、心を昏らすものなれ」
 などのたまひて、明けぐれのほどに出でたまひぬ。


 [第五段 旅生活の準備と身辺整理]
 よろづのことどもしたためさせたまふ。親しう仕まつり、世になびかぬ限りの人びと、殿の事とり行なふべき上下、定め置かせたまふ。御供に慕ひきこゆる限りは、また選り出でたまへり。
 かの山里の御住みかの具は、えさらずとり使ひたまふべきものども、ことさらよそひもなくことそぎて、さるべき書ども文集など入りたる箱、さては琴一つぞ持たせたまふ。所狭き御調度、はなやかなる御よそひなど、さらに具したまはず、あやしの山賤めきてもてなしたまふ。
 さぶらふ人びとよりはじめ、よろづのこと、みな西の対に聞こえわたしたまふ。領じたまふ御荘、御牧よりはじめて、さるべき所々、券など、みなたてまつり置きたまふ。それよりほかの御倉町、納殿などいふことまで、少納言をはかばかしきものに見置きたまへれば、親しき家司ども具して、しろしめすべきさまどものたまひ預く。
  わが御方の中務、中将などやうの人びと、つれなき御もてなしながら、見たてまつるほどこそ慰めつれ、「何ごとにつけてか」と思へども、
 「命ありてこの世にまた帰るやうもあらむを、待ちつけむと思はむ人は、こなたにさぶらへ」
 とのたまひて、上下、皆参う上らせたまふ。
 若君の御乳母たち、花散里なども、をかしきさまのはさるものにて、まめまめしき筋に思し寄らぬことなし。


 尚侍の御もとに、わりなくして聞こえたまふ。
 「問はせたまはぬも、ことわりに思ひたまへながら、今はと、世を思ひ果つるほどの憂さもつらさも、たぐひなきことにこそはべりけれ。
  逢ふ瀬なき涙の河に沈みしや
  流るる澪の初めなりけむ
 と思ひたまへ出づるのみなむ、罪逃れがたうはべりける」
 道のほども危ふければ、こまかには聞こえたまはず。
 女、いといみじうおぼえたまひて、忍びたまへど、御袖よりあまるも所狭うなむ。
 「涙河浮かぶ水泡も消えぬべし
  流れて後の瀬をも待たずて」
 泣く泣く乱れ書きたまへる御手、いとをかしげなり。今ひとたび対面なくやと思すは、なほ口惜しけれど、思し返して、憂しと思しなすゆかり多うて、おぼろけならず忍びたまへば、いとあながちにも聞こえたまはずなりぬ。


 [第六段 藤壷に離京の挨拶]
 明日とて、暮には、院の御墓拝みたてまつりたまふとて、北山へ詣でたまふ。暁かけて月出づるころなれば、まづ、入道の宮に参うでたまふ。近き御簾の前に御座参りて、御みづから聞こえさせたまふ。春宮の御事をいみじううしろめたきものに思ひきこえたまふ。
 かたみに心深きどちの御物語は、よろづあはれまさりけむかし。なつかしうめでたき御けはひの昔に変はらぬに、つらかりし御心ばへも、かすめきこえさせまほしけれど、今さらにうたてと思さるべし、わが御心にも、なかなか今ひときは乱れまさりぬべければ、念じ返して、ただ、
 「かく思ひかけぬ罪に当たりはべるも、思うたまへあはすることの一節になむ、空も恐ろしうはべる。惜しげなき身はなきになしても、宮の御世にだに、ことなくおはしまさば」
 とのみ聞こえたまふぞ、ことわりなるや。
 宮も、みな思し知らるることにしあれぼ、御心のみ動きて、聞こえやりたまはず。大将、よろづのことかき集め思し続けて、泣きたまへるけしき、いと尽きせずなまめきたり。
 「御山に参りはべるを、御ことつてや」
 と聞こえたまふに、とみにものも聞こえたまはず、わりなくためらひたまふ御けしきなり。
 「見しはなくあるは悲しき世の果てを
  背きしかひもなくなくぞ経る」
 いみじき御心惑ひどもに、思し集むることどもも、えぞ続けさせたまはぬ。
 「別れしに悲しきことは尽きにしを
  またぞこの世の憂さはまされる」


 [第七段 桐壷院の御墓に離京の挨拶]
 月待ち出でて出でたまふ。御供にただ五、六人ばかり、下人もむつましき限りして、御馬にてぞおはする。さらなることなれど、ありし世の御ありきに異なり、皆いと悲しう思ふなり。なかに、かの御禊の日、仮の御随身にて仕うまつりし右近の将監の蔵人、得べきかうぶりもほど過ぎつるを、つひに御簡削られ、官も取られて、はしたなければ、御供に参るうちなり。
 賀茂の下の御社を、かれと見渡すほど、ふと思ひ出でられて、下りて、御馬の口を取る。
 「ひき連れて葵かざししそのかみを
  思へばつらし賀茂の瑞垣」
 と言ふを、「げに、いかに思ふらむ。人よりけにはなやかなりしものを」と思すも、心苦し。
 君も、御馬より下りたまひて、御社のかた拝みたまふ。神にまかり申したまふ。
 「憂き世をば今ぞ別るるとどまらむ
  名をば糺の神にまかせて」
 とのたまふさま、ものめでする若き人にて、身にしみてあはれにめでたしと見たてまつる。
 御山に詣うでたまひて、おはしましし御ありさま、ただ目の前のやうに思し出でらる。限りなきにても、世に亡くなりぬる人ぞ、言はむかたなく口惜しきわざなりける。よろづのことを泣く泣く申したまひても、そのことわりをあらはに承りたまはねば、「さばかり思しのたまはせしさまざまの御遺言は、いづちか消え失せにけむ」と、いふかひなし。
 御墓は、道の草茂くなりて、分け入りたまふほど、いとど露けきに、月も隠れて、森の木立、木深く心すごし。帰り出でむ方もなき心地して、拝みたまふに、ありし御面影、さやかに見えたまへる、そぞろ寒きほどなり。
 「亡き影やいかが見るらむよそへつつ
  眺むる月も雲隠れぬる」


 [第八段 東宮に離京の挨拶]
 明け果つるほどに帰りたまひて、春宮にも御消息聞こえたまふ。王命婦を御代はりにてさぶらはせたまへば、「その局に」とて、
 「今日なむ、都離れはべる。また参りはべらずなりぬるなむ、あまたの憂へにまさりて思うたまへられはべる。よろづ推し量りて啓したまへ。
 いつかまた春の都の花を見む
 時失へる山賤にして」
 桜の散りすきたる枝につけたまへり。「かくなむ」と御覧ぜさすれば、幼き御心地にもまめだちておはします。
 「御返りいかがものしはべらむ」
 と啓すれば、
 「しばし見ぬだに恋しきものを、遠くはましていかに、と言へかし」
 とのたまはす。「ものはかなの御返りや」と、あはれに見たてまつる。あぢきなきことに御心をくだきたまひし昔のこと、折々の御ありさま、思ひ続けらるるにも、もの思ひなくて我も人も過ぐいたまひつべかりける世を、心と思し嘆きけるを悔しう、わが心ひとつにかからむことのやうにぞおぼゆる。御返りは、
 「さらに聞こえさせやりはべらず。御前には啓しはべりぬ。心細げに思し召したる御けしきもいみじくなむ」
 と、そこはかとなく、心の乱れけるなるべし。
 「咲きてとく散るは憂けれどゆく春は
  花の都を立ち帰り見よ
 時しあらば」
 と聞こえて、名残もあはれなる物語をしつつ、一宮のうち、忍びて泣きあへり。
 一目も見たてまつれる人は、かく思しくづほれぬる御ありさまを、嘆き惜しみきこえぬ人なし。まして、常に参り馴れたりしは、知り及びたまふまじき長女、御厠人まで、ありがたき御顧みの下なりつるを、「しばしにても、見たてまつらぬほどや経む」と、思ひ嘆きけり。
 おほかたの世の人も、誰かはよろしく思ひきこえむ。七つになりたまひしこのかた、帝の御前に夜昼さぶらひたまひて、奏したまふことのならぬはなかりしかば、この御いたはりにかからぬ人なく、御徳をよろこばぬやはありし。やむごとなき上達部、弁官などのなかにも多かり。それより下は数知らぬを、思ひ知らぬにはあらねど、さしあたりて、いちはやき世を思ひ憚りて、参り寄るもなし。世ゆすりて惜しみきこえ、下に朝廷をそしり、恨みたてまつれど、「身を捨ててとぶらひ参らむにも、何のかひかは」と思ふにや、かかる折は人悪ろく、恨めしき人多く、「世の中はあぢきなきものかな」とのみ、よろづにつけて思す。


 [第九段 離京の当日]
 その日は、女君に御物語のどかに聞こえ暮らしたまひて、例の、夜深く出でたまふ。狩の御衣など、旅の御よそひ、いたくやつしたまひて、
 「月出でにけりな。なほすこし出でて、見だに送りたまへかし。いかに聞こゆべきこと多くつもりにけりとおぼえむとすらむ。一日、二日たまさかに隔たる折だに、あやしういぶせき心地するものを」
 とて、御簾巻き上げて、端にいざなひきこえたまへば、女君、泣き沈みたまへるを、ためらひて、ゐざり出でたまへる、月影に、いみじうをかしげにてゐたまへり。「わが身かくてはかなき世を別れなば、いかなるさまにさすらへたまはむ」と、うしろめたく悲しけれど、思し入りたるに、いとどしかるべければ、
 「生ける世の別れを知らで契りつつ
  命を人に限りけるかな
 はかなし」
 など、あさはかに聞こえなしたまへば、
 「惜しからぬ命に代へて目の前の
  別れをしばしとどめてしがな」
 「げに、さぞ思さるらむ」と、いと見捨てがたけれど、明け果てなば、はしたなかるべきにより、急ぎ出でたまひぬ。


 道すがら、面影につと添ひて、胸もふたがりながら、御舟に乗りたまひぬ。日長きころなれば、追風さへ添ひて、まだ申の時ばかりに、かの浦に着きたまひぬ。かりそめの道にても、かかる旅をならひたまはぬ心地に、心細さもをかしさもめづらかなり。大江殿と言ひける所は、いたう荒れて、松ばかりぞしるしなる。
 「唐国に名を残しける人よりも
  行方知られぬ家居をやせむ」
 渚に寄る波のかつ返るを見たまひて、「うらやましくも」と、うち誦じたまへるさま、さる世の古言なれど、珍しう聞きなされ、悲しとのみ御供の人々思へり。うち顧みたまへるに、来し方の山は霞はるかにて、まことに「三千里の外」の心地するに、櫂の雫も堪へがたし。
 「故郷を峰の霞は隔つれど
  眺むる空は同じ雲居か」
 つらからぬものなくなむ。


 

第二章 光る源氏の物語 夏の長雨と鬱屈の物語
 [第一段 須磨の住居]
 おはすべき所は、行平の中納言の、「藻塩垂れつつ」侘びける家居近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり。
 垣のさまよりはじめて、めづらかに見たまふ。茅屋ども、葦葺ける廊めく屋など、をかしうしつらひなしたり。所につけたる御住まひ、やう変はりて、「かからぬ折ならば、をかしうもありなまし」と、昔の御心のすさび思し出づ。
 近き所々の御荘の司召して、さるべきことどもなど、良清朝臣、親しき家司にて、仰せ行なふもあはれなり。時の間に、いと見所ありてしなさせたまふ。水深う遣りなし、植木どもなどして、今はと静まりたまふ心地、うつつならず。国の守も親しき殿人なれば、忍びて心寄せ仕うまつる。かかる旅所ともなう、人騒がしけれども、はかばかしう物をものたまひあはすべき人しなければ、知らぬ国の心地して、いと埋れいたく、「いかで年月を過ぐさまし」と思しやらる。

 [第二段 京の人々へ手紙]
 やうやう事静まりゆくに、長雨のころになりて、京のことも思しやらるるに、恋しき人多く、女君の思したりしさま、春宮の御事、若君の何心もなく紛れたまひしなどをはじめ、ここかしこ思ひやりきこえたまふ。
 京へ人出だし立てたまふ。二条院へたてまつりたまふと、入道の宮のとは、書きもやりたまはず、昏されたまへり。宮には、
 「松島の海人の苫屋もいかならむ
  須磨の浦人しほたるるころ
 いつとはべらぬなかにも、来し方行く先かきくらし、『汀まさりて』なむ」
 尚侍の御もとに、例の、中納言の君の私事のやうにて、中なるに、
 「つれづれと過ぎにし方の思うたまへ出でらるるにつけても、
  こりずまの浦のみるめのゆかしきを
  塩焼く海人やいかが思はむ」
 さまざま書き尽くしたまふ言の葉、思ひやるべし。
 大殿にも、宰相の乳母にも、仕うまつるべきことなど書きつかはす。


 京には、この御文、所々に見たまひつつ、御心乱れたまふ人びとのみ多かり。二条院の君は、そのままに起きも上がりたまはず、尽きせぬさまに思しこがるれば、さぶらふ人びともこしらへわびつつ、心細う思ひあへり。
 もてならしたまひし御調度ども、弾きならしたまひし御琴、脱ぎ捨てたまへる御衣の匂ひなどにつけても、今はと世になからむ人のやうにのみ思したれば、かつはゆゆしうて、少納言は、僧都に御祈りのことなど聞こゆ。二方に御修法などせさせたまふ。かつは、「思し嘆く御心静めたまひて、思ひなき世にあらせたてまつりたまへ」と、心苦しきままに祈り申したまふ。
 旅の御宿直物など、調じてたてまつりたまふ。かとりの御直衣、指貫、さま変はりたる心地するもいみじきに、「去らぬ鏡」とのたまひし面影の、げに身に添ひたまへるもかひなし。
 出で入りたまひし方、寄りゐたまひし真木柱などを見たまふにも、胸のみふたがりて、ものをとかう思ひめぐらし、世にしほじみぬる齢の人だにあり、まして、馴れむつびきこえ、父母にもなりて生ほし立てならはしたまへれば、恋しう思ひきこえたまへる、ことわりなり。ひたすら世になくなりなむは、言はむ方なくて、やうやう忘れ草も生ひやすらむ、聞くほどは近けれど、いつまでと限りある御別れにもあらで、思すに尽きせずなむ。


 入道宮にも、春宮の御事により思し嘆くさま、いとさらなり。御宿世のほどを思すには、いかが浅く思されむ。年ごろはただものの聞こえなどのつつましさに、「すこし情けあるけしき見せば、それにつけて人のとがめ出づることもこそ」とのみ、ひとへに思し忍びつつ、あはれをも多う御覧じ過ぐし、すくすくしうもてなしたまひしを、「かばかり憂き世の人言なれど、かけてもこの方には言ひ出づることなくて止みぬるばかりの、人の御おもむけも、あながちなりし心の引く方にまかせず、かつはめやすくもて隠しつるぞかし」。あはれに恋しうも、いかが思し出でざらむ。御返りも、すこしこまやかにて、
 「このころは、いとど、
  塩垂るることをやくにて松島に
  年ふる海人も嘆きをぞつむ」


 尚侍君の御返りには、
 「浦にたく海人だにつつむ恋なれば
  くゆる煙よ行く方ぞなき
 さらなることどもは、えなむ」
 とばかり、いささか書きて、中納言の君の中にあり。思し嘆くさまなど、いみじう言ひたり。あはれと思ひきこえたまふ節々もあれば、うち泣かれたまひぬ。


 姫君の御文は、心ことにこまかなりし御返りなれば、あはれなること多くて、
 「浦人の潮くむ袖に比べ見よ
  波路へだつる夜の衣を」
 ものの色、したまへるさまなど、いときよらなり。何ごともらうらうじうものしたまふを、思ふさまにて、「今は他事に心あわたたしう、行きかかづらふ方もなく、しめやかにてあるべきものを」と思すに、いみじう口惜しう、夜昼面影におぼえて、堪へがたう思ひ出でられたまへば、「なほ忍びてや迎へまし」と思す。またうち返し、「なぞや、かく憂き世に、罪をだに失はむ」と思せば、やがて御精進にて、明け暮れ行なひておはす。
 大殿の若君の御事などあるにも、いと悲しけれど、「おのづから逢ひ見てむ。頼もしき人々ものしたまへば、うしろめたうはあらず」と、思しなさるるは、なかなか、子の道の惑はれぬにやあらむ。


 [第三段 伊勢の御息所へ手紙]
 まことや、騒がしかりしほどの紛れに漏らしてけり。かの伊勢の宮へも御使ありけり。かれよりも、ふりはへ尋ね参れり。浅からぬことども書きたまへり。言の葉、筆づかひなどは、人よりことになまめかしく、いたり深う見えたり。
 「なほうつつとは思ひたまへられぬ御住ひをうけたまはるも、明けぬ夜の心惑ひかとなむ。さりとも、年月隔てたまはじと、思ひやりきこえさするにも、罪深き身のみこそ、また聞こえさせむこともはるかなるべけれ。
  うきめかる伊勢をの海人を思ひやれ
  藻塩垂るてふ須磨の浦にて
 よろづに思ひたまへ乱るる世のありさまも、なほいかになり果つべきにか」
 と多かり。
 「伊勢島や潮干の潟に漁りても
  いふかひなきは我が身なりけり」
 ものをあはれと思しけるままに、うち置きうち置き書きたまへる、白き唐の紙、四、五枚ばかりを巻き続けて、墨つきなど見所あり。
 「あはれに思ひきこえし人を、ひとふし憂しと思ひきこえし心あやまりに、かの御息所も思ひ倦じて別れたまひにし」と思せば、今にいとほしうかたじけなきものに思ひきこえたまふ。折からの御文、いとあはれなれば、御使さへむつましうて、二、三日据ゑさせたまひて、かしこの物語などせさせて聞こしめす。
 若やかにけしきある侍の人なりけり。かくあはれなる御住まひなれば、かやうの人もおのづからもの遠からで、ほの見たてまつる御さま、容貌を、いみじうめでたし、と涙落しをりけり。御返り書きたまふ、言の葉、思ひやるべし。
 「かく世を離るべき身と、思ひたまへましかば、同じくは慕ひきこえましものを、などなむ。つれづれと、心細きままに、
  伊勢人の波の上漕ぐ小舟にも
  うきめは刈らで乗らましものを
  海人がつむなげきのなかに塩垂れて
  いつまで須磨の浦に眺めむ
 聞こえさせむことの、いつともはべらぬこそ、尽きせぬ心地しはべれ」
 などぞありける。かやうに、いづこにもおぼつかなからず聞こえかはしたまふ。


 花散里も、悲しと思しけるままに書き集めたまへる御心、御心見たまふ、をかしきも目なれぬ心地して、いづれもうち見つつ慰めたまへど、もの思ひのもよほしぐさなめり。
 「荒れまさる軒のしのぶを眺めつつ
  しげくも露のかかる袖かな」
 とあるを、「げに、葎よりほかの後見もなきさまにておはすらむ」と思しやりて、「長雨に築地所々崩れてなむ」と聞きたまへば、京の家司のもとに仰せつかはして、近き国々の御荘の者などもよほさせて、仕うまつるべき由のたまはす。


 [第四段 朧月夜尚侍参内する]
 尚侍の君は、人笑へにいみじう思しくづほるるを、大臣いとかなしうしたまふ君にて、せちに、宮にも内裏にも奏したまひければ、「限りある女御、御息所にもおはせず、公ざまの宮仕へ」と思し直り、また、「かの憎かりしゆゑこそ、いかめしきことも出で来しか」。許されたまひて、参りたまふべきにつけても、なほ心に染みにし方ぞ、あはれにおぼえたまける。
 七月になりて参りたまふ。いみじかりし御思ひの名残なれば、人のそしりもしろしめされず、例の、主上につとさぶらはせたまひて、よろづに怨み、かつはあはれに契らせたまふ。
 御さま容貌もいとなまめかしうきよらなれど、思ひ出づることのみ多かる心のうちぞ、かたじけなき。御遊びのついでに、
 「その人のなきこそ、いとさうざうしけれ。いかにましてさ思ふ人多からむ。何ごとも光なき心地するかな」とのたまはせて、「院の思しのたまはせし御心を違へつるかな。罪得らむかし」
 とて、涙ぐませたまふに、え念じたまはず。
 「世の中こそ、あるにつけてもあぢきなきものなりけれ、と思ひ知るままに、久しく世にあらむものとなむ、さらに思はぬ。さもなりなむに、いかが思さるべき。近きほどの別れに思ひ落とされむこそ、ねたけれ。生ける世にとは、げに、よからぬ人の言ひ置きけむ」
 と、いとなつかしき御さまにて、ものをまことにあはれと思し入りてのたまはするにつけて、ほろほろとこぼれ出づれば、
 「さりや。いづれに落つるにか」
 とのたまはす。
 「今まで御子たちのなきこそ、さうざうしけれ。春宮を院ののたまはせしさまに思へど、よからぬことども出で来めれば、心苦しう」
 など、世を御心のほかにまつりごちなしたまふ人びとのあるに、若き御心の、強きところなきほどにて、いとほしと思したることも多かり。


 

第三章 光る源氏の物語 須磨の秋の物語
 [第一段 須磨の秋]
 須磨には、いとど心尽くしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平中納言の、「関吹き越ゆる」と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。
 御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、一人目を覚まして、枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに、枕浮くばかりになりにけり。琴をすこしかき鳴らしたまへるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、弾きさしたまひて、
 「恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は
  思ふ方より風や吹くらむ」
 と歌ひたまへるに、人びとおどろきて、めでたうおぼゆるに、忍ばれで、あいなう起きゐつつ、鼻を忍びやかにかみわたす。
 「げに、いかに思ふらむ。我が身ひとつにより、親、兄弟、片時立ち離れがたく、ほどにつけつつ思ふらむ家を別れて、かく惑ひあへる」と思すに、いみじくて、「いとかく思ひ沈むさまを、心細しと思ふらむ」と思せば、昼は何くれとうちのたまひ紛らはし、つれづれなるままに、色々の紙を継ぎつつ、手習ひをしたまひ、めづらしきさまなる唐の綾などに、さまざまの絵どもを描きすさびたまへる屏風の面どもなど、いとめでたく見所あり。
 人びとの語り聞こえし海山のありさまを、遥かに思しやりしを、御目に近くては、げに及ばぬ磯のたたずまひ、二なく描き集めたまへり。
 「このころの上手にすめる千枝、常則などを召して、作り絵仕うまつらせばや」
 と、心もとながりあへり。なつかしうめでたき御さまに、世のもの思ひ忘れて、近う馴れ仕うまつるをうれしきことにて、四、五人ばかりぞ、つとさぶらひける。
 前栽の花、色々咲き乱れ、おもしろき夕暮れに、海見やらるる廊に出でたまひて、たたずみたまふさまの、ゆゆしうきよらなること、所からは、ましてこの世のものと見えたまはず。白き綾のなよよかなる、紫苑色などたてまつりて、こまやかなる御直衣、帯しどけなくうち乱れたまへる御さまにて、
 「釈迦牟尼仏の弟子」
 と名のりて、ゆるるかに読みたまへる、また世に知らず聞こゆ。
 沖より舟どもの歌ひののしりて漕ぎ行くなども聞こゆ。ほのかに、ただ小さき鳥の浮かべると見やらるるも、心細げなるに、雁の連ねて鳴く声、楫の音にまがへるを、うち眺めたまひて、涙こぼるるをかき払ひたまへる御手つき、黒き御数珠に映えたまへる、故郷の女恋しき人びと、心みな慰みにけり。
 「初雁は恋しき人の列なれや
  旅の空飛ぶ声の悲しき」
 とのたまへば、良清、
 「かきつらね昔のことぞ思ほゆる
  雁はその世の友ならねども」
 民部大輔、
 「心から常世を捨てて鳴く雁を
  雲のよそにも思ひけるかな」
 前右近将督、
 「常世出でて旅の空なる雁がねも
  列に遅れぬほどぞ慰む
 友まどはしては、いかにはべらまし」
 と言ふ。親の常陸になりて、下りしにも誘はれで、参れるなりけり。下には思ひくだくべかめれど、ほこりかにもてなして、つれなきさまにしありく。

 [第二段 配所の月を眺める]
 月のいとはなやかにさし出でたるに、「今宵は十五夜なりけり」と思し出でて、殿上の御遊び恋しく、「所々眺めたまふらむかし」と思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ。
 「二千里外故人心」
 と誦じたまへる、例の涙もとどめられず。入道の宮の、「霧や隔つる」とのたまはせしほど、言はむ方なく恋しく、折々のこと思ひ出でたまふに、よよと、泣かれたまふ。
 「夜更けはべりぬ」
 と聞こゆれど、なほ入りたまはず。
 「見るほどぞしばし慰むめぐりあはむ
  月の都は遥かなれども」
 その夜、主上のいとなつかしう昔物語などしたまひし御さまの、院に似たてまつりたまへりしも、恋しく思で出できこえたまひて、
 「恩賜の御衣は今此に在り」
 と誦じつつ入りたまひぬ。御衣はまことに身を放たず、かたはらに置きたまへり。
 「憂しとのみひとへにものは思ほえで
  左右にも濡るる袖かな」


 [第三段 筑紫五節と和歌贈答]
 そのころ、大弐は上りける。いかめしく類広く、娘がちにて所狭かりければ、北の方は舟にて上る。浦づたひに逍遥しつつ来るに、他よりもおもしろきわたりなれば、心とまるに、「大将かくておはす」と聞けば、あいなう、好いたる若き娘たちは、舟の内さへ恥づかしう、心懸想せらる。まして、五節の君は、綱手引き過ぐるも口惜しきに、琴の声、風につきて遥かに聞こゆるに、所のさま、人の御ほど、物の音の心細さ、取り集め、心ある限りみな泣きにけり。
 帥、御消息聞こえたり。
 「いと遥かなるほどよりまかり上りては、まづいつしかさぶらひて、都の御物語もとこそ、思ひたまへはべりつれ、思ひの外に、かくておはしましける御宿をまかり過ぎはべる、かたじけなう悲しうもはべるかな。あひ知りてはべる人びと、さるべきこれかれ、参で来向ひてあまたはべれば、所狭さを思ひたまへ憚りはべることどもはべりて、えさぶらはぬこと。ことさらに参りはべらむ」
 など聞こえたり。子の筑前守ぞ参れる。この殿の、蔵人になし顧みたまひし人なれば、いとも悲し。いみじと思へども、また見る人びとのあれば、聞こえを思ひて、しばしもえ立ち止まらず。
 「都離れて後、昔親しかりし人びと、あひ見ること難うのみなりにたるに、かくわざと立ち寄りものしたること」
 とのたまふ。御返りもさやうになむ。
 守、泣く泣く帰りて、おはする御ありさま語る。帥よりはじめ、迎への人びと、まがまがしう泣き満ちたり。五節は、とかくして聞こえたり。
 「琴の音に弾きとめらるる綱手縄
  たゆたふ心君知るらめや
 好き好きしさも、人な咎めそ」
 と聞こえたり。ほほ笑みて見たまふ、いと恥づかしげなり。
 「心ありて引き手の綱のたゆたはば
  うち過ぎましや須磨の浦波
 いさりせむとは思はざりしはや」
 とあり。駅の長に句詩取らする人もありけるを、まして、落ちとまりぬべくなむおぼえける。


 [第四段 都の人々の生活]
 都には、月日過ぐるままに、帝を初めたてまつりて、恋ひきこゆる折ふし多かり。春宮は、まして、常に思し出でつつ忍びて泣きたまふ。見たてまつる御乳母、まして命婦の君は、いみじうあはれに見たてまつる。
 入道の宮は、春宮の御ことをゆゆしうのみ思ししに、大将もかくさすらへたまひぬるを、いみじう思し嘆かる。
 御兄弟の親王たち、むつましう聞こえたまひし上達部など、初めつ方はとぶらひきこえたまふなどありき。あはれなる文を作り交はし、それにつけても、世の中にのみめでられたまへば、后の宮聞こしめして、いみじうのたまひけり。
 「朝廷の勘事なる人は、心に任せてこの世のあぢはひをだに知ること難うこそあなれ。おもしろき家居して、世の中を誹りもどきて、かの鹿を馬と言ひけむ人のひがめるやうに追従する」
 など、悪しきことども聞こえければ、わづらはしとて、消息聞こえたまふ人なし。
 二条院の姫君は、ほど経るままに、思し慰む折なし。東の対にさぶらひし人びとも、みな渡り参りし初めは、「などかさしもあらむ」と思ひしかど、見たてまつり馴るるままに、なつかしうをかしき御ありさま、まめやかなる御心ばへも、思ひやり深うあはれなれば、まかで散るもなし。なべてならぬ際の人びとには、ほの見えなどしたまふ。「そこらのなかにすぐれたる御心ざしもことわりなりけり」と見たてまつる。


 [第五段 須磨の生活]
 かの御住まひには、久しくなるままに、え念じ過ぐすまじうおぼえたまへど、「我が身だにあさましき宿世とおぼゆる住まひに、いかでかは、うち具しては、つきなからむ」さまを思ひ返したまふ。所につけて、よろづのことさま変はり、見たまへ知らぬ下人のうへをも、見たまひ慣らはぬ御心地に、めざましうかたじけなう、みづから思さる。煙のいと近く時々立ち来るを、「これや海人の塩焼くならむ」と思しわたるは、おはします後の山に、柴といふものふすぶるなりけり。めづらかにて、
 「山賤の庵に焚けるしばしばも
  言問ひ来なむ恋ふる里人」


 冬になりて雪降り荒れたるころ、空のけしきもことにすごく眺めたまひて、琴を弾きすさびたまひて、良清に歌うたはせ、大輔、横笛吹きて、遊びたまふ。心とどめてあはれなる手など弾きたまへるに、他物の声どもはやめて、涙をのごひあへり。
 昔、胡の国に遣しけむ女を思しやりて、「ましていかなりけむ。この世に我が思ひきこゆる人などをさやうに放ちやりたらむこと」など思ふも、あらむことのやうにゆゆしうて、
 「霜の後の夢」
 と誦じたまふ。
 月いと明うさし入りて、はかなき旅の御座所、奥まで隈なし。床の上に夜深き空も見ゆ。入り方の月影、すごく見ゆるに、
 「ただ是れ西に行くなり」
 と、ひとりごちたまて、
 「いづ方の雲路に我も迷ひなむ
  月の見るらむことも恥づかし」
 とひとりごちたまひて、例のまどろまれぬ暁の空に、千鳥いとあはれに鳴く。
 「友千鳥諸声に鳴く暁は
  ひとり寝覚の床も頼もし」
 また起きたる人もなければ、返す返すひとりごちて臥したまへり。
 夜深く御手水参り、御念誦などしたまふも、めづらしきことのやうに、めでたうのみおぼえたまへば、え見たてまつり捨てず、家にあからさまにもえ出でざりけり。


 [第六段 明石入道の娘]
 明石の浦は、ただはひ渡るほどなれば、良清の朝臣、かの入道の娘を思ひ出でて、文など遣りけれど、返り事もせず、父入道ぞ、
 「聞こゆべきことなむ。あからさまに対面もがな」
 と言ひけれど、「うけひかざらむものゆゑ、行きかかりて、むなしく帰らむ後手もをこなるべし」と、屈じいたうて行かず。
 世に知らず心高く思へるに、国の内は守のゆかりのみこそはかしこきことにすめれど、ひがめる心はさらにさも思はで年月を経けるに、この君かくておはすと聞きて、母君に語らふやう、
 「桐壷の更衣の御腹の、源氏の光る君こそ、朝廷の御かしこまりにて、須磨の浦にものしたまふなれ。吾子の御宿世にて、おぼえぬことのあるなり。いかでかかるついでに、この君にをたてまつらむ」
 と言ふ。母、
 「あな、かたはや。京の人の語るを聞けば、やむごとなき御妻ども、いと多く持ちたまひて、そのあまり、忍び忍び帝の御妻さへあやまちたまひて、かくも騒がれたまふなる人は、まさにかくあやしき山賤を、心とどめたまひてむや」
 と言ふ。腹立ちて、
 「え知りたまはじ。思ふ心ことなり。さる心をしたまへ。ついでして、ここにもおはしまさせむ」
 と、心をやりて言ふもかたくなしく見ゆ。まばゆきまでしつらひかしづきけり。母君、
 「などか、めでたくとも、ものの初めに、罪に当たりて流されておはしたらむ人をしも思ひかけむ。さても心をとどめたまふべくはこそあらめ、たはぶれにてもあるまじきことなり」
 と言ふを、いといたくつぶやく。
 「罪に当たることは、唐土にも我が朝廷にも、かく世にすぐれ、何ごとも人にことになりぬる人の、かならずあることなり。いかにものしたまふ君ぞ。故母御息所は、おのが叔父にものしたまひし按察使大納言の御娘なり。いとかうざくなる名をとりて、宮仕へに出だしたまへりしに、国王すぐれて時めかしたまふこと、並びなかりけるほどに、人の嫉み重くて亡せたまひにしかど、この君のとまりたまへる、いとめでたしかし。女は心高くつかふべきものなり。おのれ、かかる田舎人なりとて、思し捨てじ」
 など言ひゐたり。
 この娘、すぐれたる容貌ならねど、なつかしうあてはかに、心ばせあるさまなどぞ、げに、やむごとなき人に劣るまじかりける。身のありさまを、口惜しきものに思ひ知りて、
 「高き人は、我を何の数にも思さじ。ほどにつけたる世をばさらに見じ。命長くて、思ふ人びとに後れなば、尼にもなりなむ、海の底にも入りなむ」
 などぞ思ひける。
 父君、所狭く思ひかしづきて、年に二たび、住吉に詣でさせけり。神の御しるしをぞ、人知れず頼み思ひける。


 

第四章 光る源氏の物語 信仰生活と神の啓示の物語
 [第一段 須磨で新年を迎える]
 須磨には、年返りて、日長くつれづれなるに、植ゑし若木の桜ほのかに咲き初めて、空のけしきうららかなるに、よろづのこと思し出でられて、うち泣きたまふ折多かり。
 二月二十日あまり、去にし年、京を別れし時、心苦しかりし人びとの御ありさまなど、いと恋しく、「南殿の桜、盛りになりぬらむ。一年の花の宴に、院の御けしき、内裏の主上のいときよらになまめいて、わが作れる句を誦じたまひし」も、思ひ出できこえたまふ。
 「いつとなく大宮人の恋しきに
  桜かざしし今日も来にけり」
 いとつれづれなるに、大殿の三位中将は、今は宰相になりて、人柄のいとよければ、時世のおぼえ重くてものしたまへど、世の中あはれにあぢきなく、ものの折ごとに恋しくおぼえたまへば、「ことの聞こえありて罪に当たるともいかがはせむ」と思しなして、にはかに参うでたまふ。
 うち見るより、めづらしううれしきにも、ひとつ涙ぞこぼれける。
 住まひたまへるさま、言はむかたなく唐めいたり。所のさま、絵に描きたらむやうなるに、竹編める垣しわたして、石の階、松の柱、おろそかなるものから、めづらかにをかし。
 山賤めきて、ゆるし色の黄がちなるに、青鈍の狩衣、指貫、うちやつれて、ことさらに田舎びもてなしたまへるしも、いみじう、見るに笑まれてきよらなり。
 取り使ひたまへる調度も、かりそめにしなして、御座所もあらはに見入れらる。碁、双六盤、調度、弾棊の具など、田舎わざにしなして、念誦の具、行なひ勤めたまひけりと見えたり。もの参れるなど、ことさら所につけ、興ありてしなしたり。
 海人ども漁りして、貝つ物持て参れるを、召し出でて御覧ず。浦に年経るさまなど問はせたまふに、さまざま安げなき身の愁へを申す。そこはかとなくさへづるも、「心の行方は同じこと。何か異なる」と、あはれに見たまふ。御衣どもなどかづけさせたまふを、生けるかひありと思へり。御馬ども近う立てて、見やりなる倉か何ぞなる稲取り出でて飼ふなど、めづらしう見たまふ。
 「飛鳥井」すこし歌ひて、月ごろの御物語、泣きみ笑ひみ、
 「若君の何とも世を思さでものしたまふ悲しさを、大臣の明け暮れにつけて思し嘆く」
 など語りたまふに、堪へがたく思したり。尽きすべくもあらねば、なかなか片端もえまねばず。
 夜もすがらまどろまず、文作り明かしたまふ。さ言ひながらも、ものの聞こえをつつみて、急ぎ帰りたまふ。いとなかなかなり。御土器参りて、
 「酔ひの悲しび涙そそく春の盃の裏」
 と、諸声に誦じたまふ。御供の人も涙を流す。おのがじし、はつかなる別れ惜しむべかめり。
 朝ぼらけの空に雁連れて渡る。主人の君、
 「故郷をいづれの春か行きて見む
  うらやましきは帰る雁がね」
 宰相、さらに立ち出でむ心地せで、
 「あかなくに雁の常世を立ち別れ
  花の都に道や惑はむ」
 さるべき都の苞など、由あるさまにてあり。主人の君、かくかたじけなき御送りにとて、黒駒たてまつりたまふ。
 「ゆゆしう思されぬべけれど、風に当たりては、嘶えぬべければなむ」
 と申したまふ。世にありがたげなる御馬のさまなり。
 「形見に偲びたまへ」
 とて、いみじき笛の名ありけるなどばかり、人咎めつべきことは、かたみにえしたまはず。
 日やうやうさし上がりて、心あわたたしければ、顧みのみしつつ出でたまふを、見送りたまふけしき、いとなかなかなり。
 「いつまた対面は」
 と申したまふに、主人、
 「雲近く飛び交ふ鶴も空に見よ
  我は春日の曇りなき身ぞ
 かつは頼まれながら、かくなりぬる人、昔のかしこき人だに、はかばかしう世にまたまじらふこと難くはべりければ、何か、都のさかひをまた見むとなむ思ひはべらぬ」
 などのたまふ。宰相、
 「たづかなき雲居にひとり音をぞ鳴く
  翼並べし友を恋ひつつ
 かたじけなく馴れきこえはべりて、いとしもと悔しう思ひたまへらるる折多く」
 など、しめやかにもあらで帰りたまひぬる名残、いとど悲しう眺め暮らしたまふ。

 [第二段 上巳の祓と嵐]
 弥生の朔日に出で来たる巳の日、
 「今日なむ、かく思すことある人は、御禊したまふべき」
 と、なまさかしき人の聞こゆれば、海づらもゆかしうて出でたまふ。いとおろそかに、軟障ばかりを引きめぐらして、この国に通ひける陰陽師召して、祓へせさせたまふ。舟にことことしき人形乗せて流すを見たまふに、よそへられて、
 「知らざりし大海の原に流れ来て
  ひとかたにやはものは悲しき」
 とて、ゐたまへる御さま、さる晴れに出でて、言ふよしなく見えたまふ。
 海の面うらうらと凪ぎわたりて、行方も知らぬに、来し方行く先思し続けられて、
 「八百よろづ神もあはれと思ふらむ
  犯せる罪のそれとなければ」
 とのたまふに、にはかに風吹き出でて、空もかき暮れぬ。御祓へもし果てず、立ち騒ぎたり。肱笠雨とか降りきて、いとあわたたしければ、みな帰りたまはむとするに、笠も取りあへず。さる心もなきに、よろづ吹き散らし、またなき風なり。波いといかめしう立ちて、人びとの足をそらなり。海の面は、衾を張りたらむやうに光り満ちて、雷鳴りひらめく。落ちかかる心地して、からうしてたどり来て、
 「かかる目は見ずもあるかな」
 「風などは吹くも、けしきづきてこそあれ。あさましうめづらかなり」
 と惑ふに、なほ止まず鳴りみちて、雨の脚当たる所、徹りぬべく、はらめき落つ。「かくて世は尽きぬるにや」と、心細く思ひ惑ふに、君は、のどやかに経うち誦じておはす。
 暮れぬれば、雷すこし鳴り止みて、風ぞ、夜も吹く。
 「多く立てつる願の力なるべし」
 「今しばし、かくあらば、波に引かれて入りぬべかりけり」
 「高潮といふものになむ、とりあへず人そこなはるるとは聞けど、いと、かかることは、まだ知らず」
 と言ひあへり。
 暁方、みなうち休みたり。君もいささか寝入りたまへれば、そのさまとも見えぬ人来て、
 「など、宮より召しあるには参りたまはぬ」
 とて、たどりありくと見るに、おどろきて、「さは、海の中の龍王の、いといたうものめでするものにて、見入れたるなりけり」と思すに、いとものむつかしう、この住まひ堪へがたく思しなりぬ。

                             


明石
光る源氏の二十七歳春から二十八歳秋まで、明石の浦の別れと政界復帰の物語

 

第一章 光る源氏の物語 須磨の嵐と神の導きの物語


須磨の嵐続く---なほ雨風やまず、雷鳴り静まらで
光る源氏の祈り---「かくしつつ世は尽きぬべきにや」と思さるるに
嵐収まる---やうやう風なほり、雨の脚しめり、星の光も見ゆるに
明石入道の迎えの舟---渚に小さやかなる舟寄せて、人二、三人ばかり
第二章 明石の君の物語 明石での新生活の物語

明石入道の浜の館---浜のさま、げにいと心ことなり
京への手紙---すこし御心静まりては、京の御文ども聞こえたまふ
明石の入道とその娘---明石の入道、行なひ勤めたるさま
夏四月となる---四月になりぬ。更衣の御装束、御帳の帷子など
源氏、入道と琴を合奏---入道もえ堪へで、供養法たゆみて
入道の問わず語り---いたく更けゆくままに、浜風涼しうて
明石の娘へ懸想文---思ふこと、かつがつ叶ひぬる心地して
都の天変地異---その年、朝廷に、もののさとししきりて
第三章 明石の君の物語 結婚の喜びと嘆きの物語

明石の侘び住まい---明石には、例の、秋、浜風のことなるに
明石の君を初めて訪ねる---忍びて吉しき日見て
紫の君に手紙---二条の君の、風のつてにも漏り聞きたまはむことは
明石の君の嘆き---女、思ひしもしるきに、今ぞまことに
第四章 明石の君の物語 明石の浦の別れの秋の物語

七月二十日過ぎ、帰京の宣旨下る---年変はりぬ。内裏に御薬のことありて
明石の君の懐妊---そのころは、夜離れなく語らひたまふ
離別間近の日---明後日ばかりになりて
離別の朝---立ちたまふ暁は、夜深く出でたまひて
残された明石の君の嘆き---正身の心地、たとふべき方なくて
第五章 光る源氏の物語 帰京と政界復帰の物語

難波の御祓い---君は、難波の方に渡りて御祓へしたまひて
源氏、参内---召しありて、内裏に参りたまふ
明石の君への手紙、他---まことや、かの明石には
【出典】
【校訂】


 

第一章 光る源氏の物語 須磨の嵐と神の導きの物語
 [第一段 須磨の嵐続く]
 なほ雨風やまず、雷鳴り静まらで、日ごろになりぬ。いとどものわびしきこと、数知らず、来し方行く先、悲しき御ありさまに、心強うしもえ思しなさず、「いかにせまし。かかりとて、都に帰らむことも、まだ世に許されもなくては、人笑はれなることこそまさらめ。なほ、これより深き山を求めてや、あと絶えなまし」と思すにも、「波風に騒がれてなど、人の言ひ伝へむこと、後の世まで、いと軽々しき名や流し果てむ」と思し乱る。
 夢にも、ただ同じさまなる物のみ来つつ、まつはしきこゆと見たまふ。雲間なくて、明け暮るる日数に添へて、京の方もいとどおぼつかなく、「かくながら身をはふらかしつるにや」と、心細う思せど、頭さし出づべくもあらぬ空の乱れに、出で立ち参る人もなし。
 二条院よりぞ、あながちにあやしき姿にて、そほち参れる。道かひにてだに、人か何ぞとだに御覧じわくべくもあらず、まづ追い払ひつべき賤の男の、むつましうあはれに思さるるも、我ながらかたじけなく、屈しにける心のほど思ひ知らる。御文に、
 「あさましくを止みなきころのけしきに、いとど空さへ閉づる心地して、眺めやる方なくなむ。
  浦風やいかに吹くらむ思ひやる
  袖うち濡らし波間なきころ」
 あはれに悲しきことども書き集めたまへり。いとど汀まさりぬべく、かきくらす心地したまふ。
 「京にも、この雨風、あやしき物のさとしなりとて、仁王会など行はるべしとなむ聞こえはべりし。内裏に参りたまふ上達部なども、すべて道閉ぢて、政事も絶えてなむはべる」
 など、はかばかしうもあらず、かたくなしう語りなせど、京の方のことと思せばいぶかしうて、御前に召し出でて、問はせたまふ。
 「ただ、例の雨のを止みなく降りて、風は時々吹き出でて、日ごろになりはべるを、例ならぬことに驚きはべるなり。いとかく、地の底徹るばかりの氷降り、雷の静まらぬことははべらざりき」
 など、いみじきさまに驚き懼ぢてをる顔のいとからきにも、心細さまさりける。

 [第二段 光る源氏の祈り]
 「かくしつつ世は尽きぬべきにや」と思さるるに、そのまたの日の暁より、風いみじう吹き、潮高う満ちて、波の音荒きこと、巌も山も残るまじきけしきなり。雷の鳴りひらめくさま、さらに言はむ方なくて、「落ちかかりぬ」とおぼゆるに、ある限りさかしき人なし。
 「我はいかなる罪を犯して、かく悲しき目を見るらむ。父母にもあひ見ず、かなしき妻子の顔をも見で、死ぬべきこと」
 と嘆く。君は御心を静めて、「何ばかりのあやまちにてか、この渚に命をば極めむ」と、強う思しなせど、いともの騒がしければ、色々の幣帛ささげさせたまひて、
 「住吉の神、近き境を鎮め守りたまふ。まことに迹を垂れたまふ神ならば、助けたまへ」
 と、多くの大願を立てたまふ。おのおのみづからの命をば、さるものにて、かかる御身のまたなき例に沈みたまひぬべきことのいみじう悲しき、心を起こして、すこしものおぼゆる限りは、「身に代へてこの御身一つを救ひたてまつらむ」と、とよみて、諸声に仏、神を念じたてまつる。
 「帝王の深き宮に養はれたまひて、いろいろの楽しみにおごりたまひしかど、深き御慈しみ、大八洲にあまねく、沈める輩をこそ多く浮かべたまひしか。今、何の報いにか、ここら横様なる波風には溺ほれたまはむ。天地、ことわりたまへ。罪なくて罪に当たり、官、位を取られ、家を離れ、境を去りて、明け暮れ安き空なく、嘆きたまふに、かく悲しき目をさへ見、命尽きなむとするは、前の世の報いか、この世の犯しか、神、仏、明らかにましまさば、この愁へやすめたまへ」
 と、御社の方に向きて、さまざまの願を立てたまふ。
 また、海の中の龍王、よろづの神たちに願を立てさせたまふに、いよいよ鳴りとどろきて、おはしますに続きたる廊に落ちかかりぬ。炎燃え上がりて、廊は焼けぬ。心魂なくて、ある限り惑ふ。後の方なる大炊殿とおぼしき屋に移したてまつりて、上下となく立ち込みて、いとらうがはしく泣きとよむ声、雷にも劣らず。空は墨をすりたるやうにて、日も暮れにけり。


 [第三段 嵐収まる]
 やうやう風なほり、雨の脚しめり、星の光も見ゆるに、この御座所のいとめづらかなるも、いとかたじけなくて、寝殿に返し移したてまつらむとするに、
 「焼け残りたる方も疎ましげに、そこらの人の踏みとどろかし惑へるに、御簾などもみな吹き散らしてけり」
 「夜を明してこそは」
 とたどりあへるに、君は御念誦したまひて、思しめぐらすに、いと心あわたたし。
 月さし出でて、潮の近く満ち来ける跡もあらはに、名残なほ寄せ返る波荒きを、柴の戸押し開けて、眺めおはします。近き世界に、ものの心を知り、来し方行く先のことうちおぼえ、とやかくやとはかばかしう悟る人もなし。あやしき海人どもなどの、貴き人おはする所とて、集り参りて、聞きも知りたまはぬことどもをさへづりあへるも、いとめづらかなれど、え追ひも払はず。
 「この風、今しばし止まざらましかば、潮上りて残る所なからまし。神の助けおろかならざりけり」
 と言ふを聞きたまふも、いと心細しといへばおろかなり。
 「海にます神の助けにかからずは
  潮の八百会にさすらへなまし」
 ひねもすにいりもみつる雷の騷ぎに、さこそいへ、いたう困じたまひにければ、心にもあらずうちまどろみたまふ。かたじけなき御座所なれば、ただ寄りゐたまへるに、故院、ただおはしまししさまながら立ちたまひて、
 「など、かくあやしき所にものするぞ」
 とて、御手を取りて引き立てたまふ。
 「住吉の神の導きたまふままには、はや舟出して、この浦を去りね」
 とのたまはす。いとうれしくて、
 「かしこき御影に別れたてまつりにしこなた、さまざま悲しきことのみ多くはべれば、今はこの渚に身をや捨てはべりなまし」
 と聞こえたまへば、
 「いとあるまじきこと。これは、ただいささかなる物の報いなり。我は、位に在りし時、あやまつことなかりしかど、おのづから犯しありければ、その罪を終ふるほど暇なくて、この世を顧みざりつれど、いみじき愁へに沈むを見るに、堪へがたくて、海に入り、渚に上り、いたく困じにたれど、かかるついでに内裏に奏すべきことのあるによりなむ、急ぎ上りぬる」
 とて、立ち去りたまひぬ。
 飽かず悲しくて、「御供に参りなむ」と泣き入りたまひて、見上げたまへれば、人もなく、月の顔のみきらきらとして、夢の心地もせず、御けはひ止まれる心地して、空の雲あはれにたなびけり。
 年ごろ、夢にうちにも見たてまつらで、恋しうおぼつかなき御さまを、ほのかなれど、さだかに見たてまつりつるのみ、面影におぼえたまひて、「我がかく悲しびを極め、命尽きなむとしつるを、助けに翔りたまへる」と、あはれに思すに、「よくぞかかる騷ぎもありける」と、名残頼もしう、うれしうおぼえたまふこと、限りなし。
 胸つとふたがりて、なかなかなる御心惑ひに、うつつの悲しきこともうち忘れ、「夢にも御応へを今すこし聞こえずなりぬること」といぶせさに、「またや見えたまふ」と、ことさらに寝入りたまへど、さらに御目も合はで、暁方になりにけり。


 [第四段 明石入道の迎えの舟]
 渚に小さやかなる舟寄せて、人二、三人ばかり、この旅の御宿りをさして参る。何人ならむと問へば、
 「明石の浦より、前の守新発意の、御舟装ひて参れるなり。源少納言、さぶらひたまはば、対面してことの心とり申さむ」
 と言ふ。良清、おどろきて、
 「入道は、かの国の得意にて、年ごろあひ語らひはべりつれど、私に、いささかあひ恨むることはべりて、ことなる消息をだに通はさで、久しうなりはべりぬるを、波の紛れに、いかなることかあらむ」
 と、おぼめく。君の、御夢なども思し合はすることもありて、「はや会へ」とのたまへば、舟に行きて会ひたり。「さばかり激しかりつる波風に、いつの間にか舟出しつらむ」と、心得がたく思へり。
 「去ぬる朔日の日の夢に、さま異なるものの告げ知らすることはべりしかば、信じがたきことと思うたまへしかど、『十三日にあらたなるしるし見せむ。舟装ひまうけて、かならず、雨風止まば、この浦にを寄せよ』と、かねて示すことのはべりしかば、試みに舟の装ひをまうけて待ちはべりしに、いかめしき雨、風、雷のおどろかしはべりつれば、人の朝廷にも、夢を信じて国を助くるたぐひ多うはべりけるを、用ゐさせたまはぬまでも、このいましめの日を過ぐさず、このよしを告げ申しはべらむとて、舟出だしはべりつるに、あやしき風細う吹きて、この浦に着きはべること、まことに神のしるべ違はずなむ。ここにも、もししろしめすことやはべりつらむ、とてなむ。いと憚り多くはべれど、このよし、申したまへ」
 と言ふ。良清、忍びやかに伝へ申す。
 君、思しまはすに、夢うつつさまざま静かならず、さとしのやうなることどもを、来し方行く末思し合はせて、
 「世の人の聞き伝へむ後のそしりもやすからざるべきを憚りて、まことの神の助けにもあらむを、背くものならば、またこれよりまさりて、人笑はれなる目をや見む。うつつざまの人の心だになほ苦し。はかなきことをもつつみて、我より齢まさり、もしは位高く、時世の寄せ今一際まさる人には、なびき従ひて、その心むけをたどるべきものなりけり。退きて咎なしとこそ、昔、さかしき人も言ひ置きけれ。げに、かく命を極め、世にまたなき目の限りを見尽くしつ。さらに後のあとの名をはぶくとても、たけきこともあらじ。夢の中にも父帝の御教へありつれば、また何ごとか疑はむ」
 と思して、御返りのたまふ。
 「知らぬ世界に、めづらしき愁への限り見つれど、都の方よりとて、言問ひおこする人もなし。ただ行方なき空の月日の光ばかりを、故郷の友と眺めはべるに、うれしき釣舟をなむ。かの浦に、静やかに隠ろふべき隈はべりなむや」
 とのたまふ。限りなくよろこび、かしこまり申す。
 「ともあれ、かくもあれ、夜の明け果てぬ先に御舟にたてまつれ」
 とて、例の親しき限り、四、五人ばかりして、たてまつりぬ。
 例の風出で来て、飛ぶやうに明石に着きたまひぬ。ただはひ渡るほどに片時の間といへど、なほあやしきまで見ゆる風の心なり。


 

第二章 明石の君の物語 明石での新生活の物語
 [第一段 明石入道の浜の館]
 浜のさま、げにいと心ことなり。人しげう見ゆるのみなむ、御願ひに背きける。入道の領占めたる所々、海のつらにも山隠れにも、時々につけて、興をさかすべき渚の苫屋、行なひをして後世のことを思ひ澄ましつべき山水のつらに、いかめしき堂を建てて三昧を行なひ、この世のまうけに、秋の田の実を刈り収め、残りの齢積むべき稲の倉町どもなど、折々、所につけたる見どころありてし集めたり。
 高潮に怖ぢて、このころ、娘などは岡辺の宿に移して住ませければ、この浜の館に心やすくおはします。
 舟より御車にたてまつり移るほど、日やうやうさし上がりて、ほのかに見たてまつるより、老忘れ、齢延ぶる心地して、笑みさかえて、まづ住吉の神を、かつがつ拝みたてまつる。月日の光を手に得たてまつりたる心地して、いとなみ仕うまつること、ことわりなり。
 所のさまをばさらにも言はず、作りなしたる心ばへ、木立、立石、前栽などのありさま、えも言はぬ入江の水など、絵に描かば、心のいたり少なからむ絵師は描き及ぶまじと見ゆ。月ごろの御住まひよりは、こよなくあきらかに、なつかしき。御しつらひなど、えならずして、住まひけるさまなど、げに都のやむごとなき所々に異ならず、艶にまばゆきさまは、まさりざまにぞ見ゆる。

 [第二段 京への手紙]
 すこし御心静まりては、京の御文ども聞こえたまふ。参れりし使は、今は、
 「いみじき道に出で立ちて悲しき目を見る」
 と泣き沈みて、あの須磨に留まりたるを召して、身にあまれる物ども多くたまひて遣はす。むつましき御祈りの師ども、さるべき所々には、このほどの御ありさま、詳しく言ひつかはすべし。
 入道の宮ばかりには、めづらかにてよみがへるさまなど聞こえたまふ。二条院のあはれなりしほどの御返りは、書きもやりたまはず、うち置きうち置き、おしのごひつつ聞こえたまふ御けしき、なほことなり。
 「返す返すいみじき目の限りを尽くし果てつるありさまなれば、今はと世を思ひ離るる心のみまさりはべれど、『鏡を見ても』とのたまひし面影の離るる世なきを、かくおぼつかなながらやと、ここら悲しきさまざまのうれはしさは、さしおかれて、
  遥かにも思ひやるかな知らざりし
  浦よりをちに浦伝ひして
 夢のうちなる心地のみして、覚め果てぬほど、いかにひがこと多からむ」
 と、げに、そこはかとなく書き乱りたまへるしもぞ、いと見まほしき側目なるを、「いとこよなき御心ざしのほど」と、人びと見たてまつる。
 おのおの、故郷に心細げなる言伝てすべかめり。
 を止みなかりし空のけしき、名残なく澄みわたりて、漁する海人ども誇らしげなり。須磨はいと心細く、海人の岩屋もまれなりしを、人しげき厭ひはしたまひしかど、ここはまた、さまことにあはれなること多くて、よろづに思し慰まる。


 [第三段 明石の入道とその娘]
 明石の入道、行なひ勤めたるさま、いみじう思ひ澄ましたるを、ただこの娘一人をもてわづらひたるけしき、いとかたはらいたきまで、時々漏らし愁へきこゆ。御心地にも、をかしと聞きおきたまひし人なれば、「かくおぼえなくてめぐりおはしたるも、さるべき契りあるにや」と思しながら、「なほ、かう身を沈めたるほどは、行なひより他のことは思はじ。都の人も、ただなるよりは、言ひしに違ふと思さむも、心恥づかしう」思さるれば、けしきだちたまふことなし。ことに触れて、「心ばせ、ありさま、なべてならずもありけるかな」と、ゆかしう思されぬにしもあらず。
 ここにはかしこまりて、みづからもをさをさ参らず、もの隔たりたる下の屋にさぶらふ。さるは、明け暮れ見たてまつらまほしう、飽かず思ひきこえて、「思ふ心を叶へむ」と、仏、神をいよいよ念じたてまつる。
 年は六十ばかりになりたれど、いときよげにあらまほしう、行なひさらぼひて、人のほどのあてはかなればにやあらむ、うちひがみほれぼれしきことはあれど、いにしへのことをも知りて、ものきたなからず、よしづきたることも交れれば、昔物語などせさせて聞きたまふに、すこしつれづれの紛れなり。
 年ごろ、公私御暇なくて、さしも聞き置きたまはぬ世の古事どもくづし出でて、「かかる所をも人をも、見ざらましかば、さうざうしくや」とまで、興ありと思すことも交る。
 かうは馴れきこゆれど、いと気高う心恥づかしき御ありさまに、さこそ言ひしか、つつましうなりて、わが思ふことは心のままにもえうち出できこえぬを、「心もとなう、口惜し」と、母君と言ひ合はせて嘆く。
 正身は、「おしなべての人だに、めやすきは見えぬ世界に、世にはかかる人もおはしけり」と見たてまつりしにつけて、身のほど知られて、いと遥かにぞ思ひきこえける。親たちのかく思ひあつかふを聞くにも、「似げなきことかな」と思ふに、ただなるよりはものあはれなり。


 [第四段 夏四月となる]
 四月になりぬ。更衣の御装束、御帳の帷子など、よしあるさまにし出でつつ、よろづに仕うまつりいとなむを、「いとほしう、すずろなり」と思せど、人ざまのあくまで思ひ上がりたるさまのあてなるに、思しゆるして見たまふ。
 京よりも、うちしきりたる御とぶらひども、たゆみなく多かり。のどやかなる夕月夜に、海の上曇りなく見えわたれるも、住み馴れたまひし故郷の池水、思ひまがへられたまふに、言はむかたなく恋しきこと、何方となく行方なき心地したまひて、ただ目の前に見やらるるは、淡路島なりけり。
 「あはと、遥かに」などのたまひて、
 「あはと見る淡路の島のあはれさへ
  残るくまなく澄める夜の月」
 久しう手触れたまはぬ琴を、袋より取り出でたまひて、はかなくかき鳴らしたまへる御さまを、見たてまつる人もやすからず、あはれに悲しう思ひあへり。
 「広陵」といふ手を、ある限り弾きすましたまへるに、かの岡辺の家も、松の響き波の音に合ひて、心ばせある若人は身にしみて思ふべかめり。何とも聞きわくまじきこのもかのものしはふる人どもも、すずろはしくて、浜風をひきありく。


 [第五段 源氏、入道と琴を合奏]
 入道もえ堪へで、供養法たゆみて、急ぎ参れり。
 「さらに、背きにし世の中も取り返し思ひ出でぬべくはべり。後の世に願ひはべる所のありさまも、思うたまへやらるる夜の、さまかな」
 と泣く泣く、めできこゆ。
 わが御心にも、折々の御遊び、その人かの人の琴笛、もしは声の出でしさまに、時々につけて、世にめでられたまひしありさま、帝よりはじめたてまつりて、もてかしづきあがめたてまつりたまひしを、人の上もわが御身のありさまも、思し出でられて、夢の心地したまふままに、かき鳴らしたまへる声も、心すごく聞こゆ。
 古人は涙もとどめあへず、岡辺に、琵琶、箏の琴取りにやりて、入道、琵琶の法師になりて、いとをかしう珍しき手一つ二つ弾きたり。
 箏の御琴参りたれば、少し弾きたまふも、さまざまいみじうのみ思ひきこえたり。いと、さしも聞こえぬ物の音だに、折からこそはまさるものなるを、はるばると物のとどこほりなき海づらなるに、なかなか、春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭ども、なまめかしきに、水鶏のうちたたきたるは、「誰が門さして」と、あはれにおぼゆ。
 音もいと二なう出づる琴どもを、いとなつかしう弾き鳴らしたるも、御心とまりて、
 「これは、女のなつかしきさまにてしどけなう弾きたるこそ、をかしけれ」
 と、おほかたにのたまふを、入道はあいなくうち笑みて、
 「あそばすよりなつかしきさまなるは、いづこのかはべらむ。なにがし、延喜の御手より弾き伝へたること、四代になむなりはべりぬるを、かうつたなき身にて、この世のことは捨て忘れはべりぬるを、もののせちにいぶせき折々は、かき鳴らしはべりしを、あやしう、まねぶ者のはべるこそ、自然にかの先大王の御手に通ひてはべれ。山伏のひが耳に、松風を聞きわたしはべるにやあらむ。いかで、これも忍びて聞こしめさせてしがな」
 と聞こゆるままに、うちわななきて、涙落とすべかめり。
 君、
 「琴を琴とも聞きたまふまじかりけるあたりに、ねたきわざかな」
 とて、押しやりたまふに、
 「あやしう、昔より箏は、女なむ弾き取るものなりける。嵯峨の御伝へにて、女五の宮、さる世の中の上手にものしたまひけるを、その御筋にて、取り立てて伝ふる人なし。すべて、ただ今世に名を取れる人びと、掻き撫での心やりばかりにのみあるを、ここにかう弾きこめたまへりける、いと興ありけることかな。いかでかは、聞くべき」
 とのたまふ。
 「聞こしめさむには、何の憚りかはべらむ。御前に召しても。商人の中にてだにこそ、古琴聞きはやす人は、はべりけれ。琵琶なむ、まことの音を弾きしづむる人、いにしへも難うはべりしを、をさをさとどこほることなうなつかしき手など、筋ことになむ。いかでたどるにかはべらむ。荒き波の声に交るは、悲しくも思うたまへられながら、かき積むるもの嘆かしさ、紛るる折々もはべり」
 など好きゐたれば、をかしと思して、箏の琴取り替へて賜はせたり。
 げに、いとすぐしてかい弾きたり。今の世に聞こえぬ筋弾きつけて、手づかひいといたう唐めき、ゆの音深う澄ましたり。「伊勢の海」ならねど、「清き渚に貝や拾はむ」など、声よき人に歌はせて、我も時々拍子とりて、声うち添へたまふを、琴弾きさしつつ、めできこゆ。御くだものなど、めづらしきさまにて参らせ、人びとに酒強ひそしなどして、おのづからもの忘れしぬべき夜のさまなり。


 [第六段 入道の問わず語り]
 いたく更けゆくままに、浜風涼しうて、月も入り方になるままに、澄みまさり、静かなるほどに、御物語残りなく聞こえて、この浦に住みはじめしほどの心づかひ、後の世を勤むるさま、かきくづし聞こえて、この娘のありさま、問はず語りに聞こゆ。をかしきものの、さすがにあはれと聞きたまふ節もあり。
 「いと取り申しがたきことなれど、わが君、かうおぼえなき世界に、仮にても、移ろひおはしましたるは、もし、年ごろ老法師の祈り申しはべる神仏のあはれびおはしまして、しばしのほど、御心をも悩ましたてまつるにやとなむ思うたまふる。
 その故は、住吉の神を頼みはじめたてまつりて、この十八年になりはべりぬ。女の童いときなうはべりしより、思ふ心はべりて、年ごとの春秋ごとに、かならずかの御社に参ることなむはべる。昼夜の六時の勤めに、みづからの蓮の上の願ひをば、さるものにて、ただこの人を高き本意叶へたまへと、なむ念じはべる。
 前の世の契りつたなくてこそ、かく口惜しき山賤となりはべりけめ、親、大臣の位を保ちたまへりき。みづからかく田舎の民となりにてはべり。次々、さのみ劣りまからば、何の身にかなりはべらむと、悲しく思ひはべるを、これは、生れし時より頼むところなむはべる。いかにして都の貴き人にたてまつらむと思ふ心、深きにより、ほどほどにつけて、あまたの人の嫉みを負ひ、身のためからき目を見る折々も多くはべれど、さらに苦しみと思ひはべらず。命の限りは狭き衣にもはぐくみはべりなむ。かくながら見捨てはべりなば、波のなかにも交り失せね、となむ掟てはべる」
 など、すべてまねぶべくもあらぬことどもを、うち泣きうち泣き聞こゆ。
 君も、ものをさまざま思し続くる折からは、うち涙ぐみつつ聞こしめす。
 「横さまの罪に当たりて、思ひかけぬ世界にただよふも、何の罪にかとおぼつかなく思ひつる、今宵の御物語に聞き合はすれば、げに浅からぬ前の世の契りにこそはと、あはれになむ。などかは、かくさだかに思ひ知りたまひけることを、今までは告げたまはざりつらむ。都離れし時より、世の常なきもあぢきなう、行なひより他のことなくて月日を経るに、心も皆くづほれにけり。かかる人ものしたまふとは、ほの聞きながら、いたづら人をばゆゆしきものにこそ思ひ捨てたまふらめと、思ひ屈しつるを、さらば導きたまふべきにこそあなれ。心細き一人寝の慰めにも」
 などのたまふを、限りなくうれしと思へり。
 「一人寝は君も知りぬやつれづれと
  思ひ明かしの浦さびしさを
 まして年月思ひたまへわたるいぶせさを、推し量らせたまへ」
 と聞こゆるけはひ、うちわななきたれど、さすがにゆゑなからず。
 「されど、浦なれたまへらむ人は」とて、
 「旅衣うら悲しさに明かしかね
  草の枕は夢も結ばず」
 と、うち乱れたまへる御さまは、いとぞ愛敬づき、言ふよしなき御けはひなる。数知らぬことども聞こえ尽くしたれど、うるさしや。ひがことどもに書きなしたれば、いとど、をこにかたくなしき入道の心ばへも、あらはれぬべかめり。


 [第七段 明石の娘へ懸想文]
 思ふこと、かつがつ叶ひぬる心地して、涼しう思ひゐたるに、またの日の昼つ方、岡辺に御文つかはす。心恥づかしきさまなめるも、なかなか、かかるものの隈にぞ、思ひの外なることも籠もるべかめると、心づかひしたまひて、高麗の胡桃色の紙に、えならずひきつくろひて、
 「をちこちも知らぬ雲居に眺めわび
  かすめし宿の梢をぞ訪ふ
 『思ふには』」
 とばかりやありけむ。
 入道も、人知れず待ちきこゆとて、かの家に来ゐたりけるもしるければ、御使いとまばゆきまで酔はす。
 御返り、いと久し。内に入りてそそのかせど、娘はさらに聞かず。恥づかしげなる御文のさまに、さし出でむ手つきも、恥づかしうつつまし。人の御ほど、わが身のほど思ふに、こよなくて、心地悪しとて寄り臥しぬ。
 言ひわびて、入道ぞ書く。
 「いとかしこきは、田舎びてはべる袂に、つつみあまりぬるにや。さらに見たまへも、及びはべらぬかしこさになむ。さるは、
  眺むらむ同じ雲居を眺むるは
  思ひも同じ思ひなるらむ
 となむ見たまふる。いと好き好きしや」
 と聞こえたり。陸奥紙に、いたう古めきたれど、書きざまよしばみたり。「げにも、好きたるかな」と、めざましう見たまふ。御使に、なべてならぬ玉裳などかづけたり。
 またの日、
 「宣旨書きは、見知らずなむ」とて、
 「いぶせくも心にものを悩むかな
  やよやいかにと問ふ人もなみ
 『言ひがたみ』」
 と、このたびは、いといたうなよびたる薄様に、いとうつくしげに書きたまへり。若き人のめでざらむも、いとあまり埋れいたからむ。めでたしとは見れど、なずらひならぬ身のほどの、いみじうかひなければ、なかなか、世にあるものと、尋ね知りたまふにつけて、涙ぐまれて、さらに例の動なきを、せめて言はれて、浅からず染めたる紫の紙に、墨つき濃く薄く紛らはして、
 「思ふらむ心のほどややよいかに
  まだ見ぬ人の聞きか悩まむ」
 手のさま、書きたるさまなど、やむごとなき人にいたう劣るまじう、上衆めきたり。
 京のことおぼえて、をかしと見たまへど、うちしきりて遣はさむも、人目つつましければ、二、三日隔てつつ、つれづれなる夕暮れ、もしは、ものあはれなる曙などやうに紛らはして、折々、同じ心に見知りぬべきほど推し量りて、書き交はしたまふに、似げなからず。
 心深う思ひ上がりたるけしきも、見ではやまじと思すものから、良清が領じて言ひしけしきもめざましう、年ごろ心つけてあらむを、目の前に思ひ違へむもいとほしう思しめぐらされて、「人進み参らば、さる方にても、紛らはしてむ」と思せど、女はた、なかなかやむごとなき際の人よりも、いたう思ひ上がりて、ねたげにもてなしきこえたれば、心比べにてぞ過ぎける。
 京のことを、かく関隔たりては、いよいよおぼつかなく思ひきこえたまひて、「いかにせまし。たはぶれにくくもあるかな。忍びてや、迎へたてまつりてまし」と、思し弱る折々あれど、「さりとも、かくてやは、年を重ねむと、今さらに人悪ろきことをば」と、思し静めたり。


 [第八段 都の天変地異]
 その年、朝廷に、もののさとししきりて、もの騒がしきこと多かり。三月十三日、雷鳴りひらめき、雨風騒がしき夜、帝の御夢に、院の帝、御前の御階のもとに立たせたまひて、御けしきいと悪しうて、にらみきこえさせたまふを、かしこまりておはします。聞こえさせたまふことも多かり。源氏の御事なりけむかし。
 いと恐ろしう、いとほしと思して、后に聞こえさせたまひければ、
 「雨など降り、空乱れたる夜は、思ひなしなることはさぞはべる。軽々しきやうに、思し驚くまじきこと」
 と聞こえたまふ。
 にらみたまひしに、目見合はせたまふと見しけにや、御目患ひたまひて、堪へがたう悩みたまふ。御つつしみ、内裏にも宮にも限りなくせさせたまふ。
 太政大臣亡せたまひぬ。ことわりの御齢なれど、次々におのづから騒がしきことあるに、大宮もそこはかとなう患ひたまひて、ほど経れば弱りたまふやうなる、内裏に思し嘆くこと、さまざまなり。
 「なほ、この源氏の君、まことに犯しなきにてかく沈むならば、かならずこの報いありなむとなむおぼえはべる。今は、なほもとの位をも賜ひてむ」
 とたびたび思しのたまふを、
 「世のもどき、軽々しきやうなるべし。罪に懼ぢて都を去りし人を、三年をだに過ぐさず許されむことは、世の人もいかが言ひ伝へはべらむ」
 など、后かたく諌めたまふに、思し憚るほどに月日かさなりて、御悩みども、さまざまに重りまさらせたまふ。


 

第三章 明石の君の物語 結婚の喜びと嘆きの物語
 [第一段 明石の侘び住まい]
 明石には、例の、秋、浜風のことなるに、一人寝もまめやかにものわびしうて、入道にも折々語らはせたまふ。
 「とかく紛らはして、こち参らせよ」
 とのたまひて、渡りたまはむことをばあるまじう思したるを、正身はた、さらに思ひ立つべくもあらず。
 「いと口惜しき際の田舎人こそ、仮に下りたる人のうちとけ言につきて、さやうに軽らかに語らふわざをもすなれ、人数にも思されざらむものゆゑ、我はいみじきもの思ひをや添へむ。かく及びなき心を思へる親たちも、世籠もりて過ぐす年月こそ、あいな頼みに、行く末心にくく思ふらめ、なかなかなる心をや尽くさむ」と思ひて、「ただこの浦におはせむほど、かかる御文ばかりを聞こえかはさむこそ、おろかならね。年ごろ音にのみ聞きて、いつかはさる人の御ありさまをほのかにも見たてまつらむなど、思ひかけざりし御住まひにて、まほならねどほのかにも見たてまつり、世になきものと聞き伝へし御琴の音をも風につけて聞き、明け暮れの御ありさまおぼつかなからで、かくまで世にあるものと思し尋ぬるなどこそ、かかる海人のなかに朽ちぬる身にあまることなれ」
 など思ふに、いよいよ恥づかしうて、つゆも気近きことは思ひ寄らず。
 親たちは、ここらの年ごろの祈りの叶ふべきを思ひながら、
 「ゆくりかに見せたてまつりて、思し数まへざらむ時、いかなる嘆きをかせむ」
 と思ひやるに、ゆゆしくて、
 「めでたき人と聞こゆとも、つらういみじうもあるべきかな。目にも見えぬ仏、神を頼みたてまつりて、人の御心をも、宿世をも知らで」
 など、うち返し思ひ乱れたり。君は、
 「このころの波の音に、かの物の音を聞かばや。さらずは、かひなくこそ」
 など、常はのたまふ。

 [第二段 明石の君を初めて訪ねる]
 忍びて吉しき日見て、母君のとかく思ひわづらふを聞き入れず、弟子どもなどにだに知らせず、心一つに立ちゐ、かかやくばかりしつらひて、十三日の月のはなやかにさし出でたるに、ただ「あたら夜の」と聞こえたり。
 君は、「好きのさまや」と思せど、御直衣たてまつりひきつくろひて、夜更かして出でたまふ。御車は二なく作りたれど、所狭しとて、御馬にて出でたまふ。惟光などばかりをさぶらはせたまふ。やや遠く入る所なりけり。道のほども、四方の浦々見わたしたまひて、思ふどち見まほしき入江の月影にも、まづ恋しき人の御ことを思ひ出できこえたまふに、やがて馬引き過ぎて、赴きぬべく思す。
 「秋の夜の月毛の駒よ我が恋ふる
  雲居を翔れ時の間も見む」
 と、うちひとりごたれたまふ。
 造れるさま、木深く、いたき所まさりて、見どころある住まひなり。海のつらはいかめしうおもしろく、これは心細く住みたるさま、「ここにゐて、思ひ残すことはあらじ」と、思しやらるるに、ものあはれなり。三昧堂近くて、鐘の声、松風に響きあひて、もの悲しう、岩に生ひたる松の根ざしも、心ばへあるさまなり。前栽どもに虫の声を尽くしたり。ここかしこのありさまなど御覧ず。娘住ませたる方は、心ことに磨きて、月入れたる真木の戸口、けしきばかり押し開けたり。
 うちやすらひ、何かとのたまふにも、「かうまでは見えたてまつらじ」と深う思ふに、もの嘆かしうて、うちとけぬ心ざまを、「こよなうも人めきたるかな。さしもあるまじき際の人だに、かばかり言ひ寄りぬれば、心強うしもあらずならひたりしを、いとかくやつれたるに、あなづらはしきにや」とねたう、さまざまに思し悩めり。「情けなうおし立たむも、ことのさまに違へり。心比べに負けむこそ、人悪ろけれ」など、乱れ怨みたまふさま、げにもの思ひ知らむ人にこそ見せまほしけれ。
 近き几帳の紐に、箏の琴の弾き鳴らされたるも、けはひしどけなく、うちとけながら掻きまさぐりけるほど見えてをかしければ、
 「この、聞きならしたる琴をさへや」
 など、よろづにのたまふ。
 「むつごとを語りあはせむ人もがな
  憂き世の夢もなかば覚むやと」
 「明けぬ夜にやがて惑へる心には
  いづれを夢とわきて語らむ」
 ほのかなるけはひ、伊勢の御息所にいとようおぼえたり。何心もなくうちとけてゐたりけるを、かうものおぼえぬに、いとわりなくて、近かりける曹司の内に入りて、いかで固めけるにか、いと強きを、しひてもおし立ちたまはぬさまなり。されど、さのみもいかでかあらむ。
 人ざま、いとあてに、そびえて、心恥づかしきけはひぞしたる。かうあながちなりける契りを思すにも、浅からずあはれなり。御心ざしの、近まさりするなるべし、常は厭はしき夜の長さも、とく明けぬる心地すれば、「人に知られじ」と思すも、心あわたたしうて、こまかに語らひ置きて、出でたまひぬ。
 御文、いと忍びてぞ今日はある。あいなき御心の鬼なりや。ここにも、かかることいかで漏らさじとつつみて、御使ことことしうももてなさぬを、胸いたく思へり。
 かくて後は、忍びつつ時々おはす。「ほどもすこし離れたるに、おのづからもの言ひさがなき海人の子もや立ちまじらむ」と思し憚るほどを、「さればよ」と思ひ嘆きたるを、「げに、いかならむ」と、入道も極楽の願ひをば忘れて、ただこの御けしきを待つことにはす。今さらに心を乱るも、いといとほしげなり。


 [第三段 紫の君に手紙]
 二条の君の、風のつてにも漏り聞きたまはむことは、「たはぶれにても、心の隔てありけると、思ひ疎まれたてまつらむ、心苦しう恥づかしう」思さるるも、あながちなる御心ざしのほどなりかし。「かかる方のことをば、さすがに、心とどめて怨みたまへりし折々、などて、あやなきすさびごとにつけても、さ思はれたてまつりけむ」など、取り返さまほしう、人のありさまを見たまふにつけても、恋しさの慰む方なければ、例よりも御文こまやかに書きたまひて、
 「まことや、我ながら心より外なるなほざりごとにて、疎まれたてまつりし節々を、思ひ出づるさへ胸いたきに、また、あやしうものはかなき夢をこそ見はべしりか。かう聞こゆる問はず語りに、隔てなき心のほどは思し合はせよ。『誓ひしことも』」など書きて、
 「何事につけても、
  しほしほとまづぞ泣かるるかりそめの
  みるめは海人のすさびなれども」
 とある御返り、何心なくらうたげに書きて、
 「忍びかねたる御夢語りにつけても、思ひ合はせらるること多かるを、
  うらなくも思ひけるかな契りしを
  松より波は越えじものぞと」
 おいらかなるものから、ただならずかすめたまへるを、いとあはれに、うち置きがたく見たまひて、名残久しう、忍びの旅寝もしたまはず。


 [第四段 明石の君の嘆き]
 女、思ひしもしるきに、今ぞまことに身も投げつべき心地する。
 「行く末短げなる親ばかりを頼もしきものにて、いつの世に人並々になるべき身と思はざりしかど、ただそこはかとなくて過ぐしつる年月は、何ごとをか心をも悩ましけむ、かういみじうもの思はしき世にこそありけれ」
 と、かねて推し量り思ひしよりも、よろづに悲しけれど、なだらかにもてなして、憎からぬさまに見えたてまつる。
 あはれとは月日に添へて思しませど、やむごとなき方の、おぼつかなくて年月を過ぐしたまひ、ただならずうち思ひおこせたまふらむが、いと心苦しければ、独り臥しがちにて過ぐしたまふ。
 絵をさまざま描き集めて、思ふことどもを書きつけ、返りこと聞くべきさまにしなしたまへり。見む人の心に染みぬべきもののさまなり。いかでか、空に通ふ御心ならむ、二条の君も、ものあはれに慰む方なくおぼえたまふ折々、同じやうに絵を描き集めたまひつつ、やがて我が御ありさま、日記のやうに書きたまへり。いかなるべき御さまどもにかあらむ。


 

第四章 明石の君の物語 明石の浦の別れの秋の物語
 [第一段 七月二十日過ぎ、帰京の宣旨下る]
 年変はりぬ。内裏に御薬のことありて、世の中さまざまにののしる。当代の御子は、右大臣の女、承香殿の女御の御腹に男御子生まれたまへる、二つになりたまへば、いといはけなし。春宮にこそは譲りきこえたまはめ。朝廷の御後見をし、世をまつりごつべき人を思しめぐらすに、この源氏のかく沈みたまふこと、いとあたらしうあるまじきことなれば、つひに后の御諌めを背きて、赦されたまふべき定め出で来ぬ。
 去年より、后も御もののけ悩みたまひ、さまざまのもののさとししきり、騒がしきを、いみじき御つつしみどもをしたまふしるしにや、よろしうおはしましける御目の悩みさへ、このころ重くならせたまひて、もの心細く思されければ、七月二十余日のほどに、また重ねて、京へ帰りたまふべき宣旨下る。
 つひのことと思ひしかど、世の常なきにつけても、「いかになり果つべきにか」と嘆きたまふを、かうにはかなれば、うれしきに添へても、また、この浦を今はと思ひ離れむことを思し嘆くに、入道、さるべきことと思ひながら、うち聞くより胸ふたがりておぼゆれど、「思ひのごと栄えたまはばこそは、我が思ひの叶ふにはあらめ」など、思ひ直す。

 [第二段 明石の君の懐妊]
 そのころは、夜離れなく語らひたまふ。六月ばかりより心苦しきけしきありて悩みけり。かく別れたまふべきほどなれば、あやにくなるにやありけむ、ありしよりもあはれに思して、「あやしうもの思ふべき身にもありけるかな」と思し乱る。
 女は、さらにも言はず思ひ沈みたり。いとことわりなりや。思ひの外に悲しき道に出で立ちたまひしかど、「つひには行きめぐり来なむ」と、かつは思し慰めき。
 このたびはうれしき方の御出で立ちの、「またやは帰り見るべき」と思すに、あはれなり。
 さぶらふ人びと、ほどほどにつけてはよろこび思ふ。京よりも御迎へに人びと参り、心地よげなるを、主人の入道、涙にくれて、月も立ちぬ。
 ほどさへあはれなる空のけしきに、「なぞや、心づから今も昔も、すずろなることにて身をはふらかすらむ」と、さまざまに思し乱れたるを、心知れる人びとは、
 「あな憎、例の御癖ぞ」
 と、見たてまつりむつかるめり。
 「月ごろは、つゆ人にけしき見せず、時々はひ紛れなどしたまへるつれなさを」
 「このころ、あやにくに、なかなかの、人の心づくしにか」
 と、つきじろふ。少納言、しるべして聞こえ出でし初めのことなど、ささめきあへるを、ただならず思へり。


 [第三段 離別間近の日]
 明後日ばかりになりて、例のやうにいたくも更かさで渡りたまへり。さやかにもまだ見たまはぬ容貌など、「いとよしよししう、気高きさまして、めざましうもありけるかな」と、見捨てがたく口惜しう思さる。「さるべきさまにして迎へむ」と思しなりぬ。さやうにぞ語らひ慰めたまふ。
 男の御容貌、ありさまはた、さらにも言はず。年ごろの御行なひにいたく面痩せたまへるしも、言ふ方なくめでたき御ありさまにて、心苦しげなるけしきにうち涙ぐみつつ、あはれ深く契りたまへるは、「ただかばかりを、幸ひにても、などか止まざらむ」とまでぞ見ゆめれど、めでたきにしも、我が身のほどを思ふも、尽きせず。波の声、秋の風には、なほ響きことなり。塩焼く煙かすかにたなびきて、とりあつめたる所のさまなり。
 「このたびは立ち別るとも藻塩焼く
  煙は同じ方になびかむ」
 とのたまへば、
 「かきつめて海人のたく藻の思ひにも
  今はかひなき恨みだにせじ」
 あはれにうち泣きて、言少ななるものから、さるべき節の御応へなど浅からず聞こゆ。この、常にゆかしがりたまふ物の音など、さらに聞かせたてまつらざりつるを、いみじう恨みたまふ。
 「さらば、形見にも偲ぶばかりの一琴をだに」
 とのたまひて、京より持ておはしたりし琴の御琴取りに遣はして、心ことなる調べをほのかにかき鳴らしたまへる、深き夜の澄めるは、たとへむ方なし。
 入道、え堪へで箏の琴取りてさし入れたり。みづからも、いとど涙さへそそのかされて、とどむべき方なきに、誘はるるなるべし、忍びやかに調べたるほど、いと上衆めきたり。入道の宮の御琴の音を、ただ今のまたなきものに思ひきこえたるは、「今めかしう、あなめでた」と、聞く人の心ゆきて、容貌さへ思ひやらるることは、げに、いと限りなき御琴の音なり。
 これはあくまで弾き澄まし、心にくくねたき音ぞまされる。この御心にだに、初めてあはれになつかしう、まだ耳なれたまはぬ手など、心やましきほどに弾きさしつつ、飽かず思さるるにも、「月ごろ、など強ひても、聞きならさざりつらむ」と、悔しう思さる。心の限り行く先の契りをのみしたまふ。
 「琴は、また掻き合はするまでの形見に」
 とのたまふ。女、
 「なほざりに頼め置くめる一ことを
  尽きせぬ音にやかけて偲ばむ」
 言ふともなき口すさびを、恨みたまひて、
 「逢ふまでのかたみに契る中の緒の
  調べはことに変はらざらなむ
 この音違はぬさきにかならずあひ見む」
 と頼めたまふめり。されど、ただ別れむほどのわりなさを思ひ咽せたるも、いとことわりなり。


 [第四段 離別の朝]
 立ちたまふ暁は、夜深く出でたまひて、御迎への人びとも騒がしければ、心も空なれど、人まをはからひて、
 「うち捨てて立つも悲しき浦波の
  名残いかにと思ひやるかな」
 御返り、
 「年経つる苫屋も荒れて憂き波の
  返る方にや身をたぐへまし」
 と、うち思ひけるままなるを見たまふに、忍びたまへど、ほろほろとこぼれぬ。心知らぬ人びとは、
 「なほかかる御住まひなれど、年ごろといふばかり馴れたまへるを、今はと思すは、さもあることぞかし」
 など見たてまつる。
 良清などは、「おろかならず思すなめりかし」と、憎くぞ思ふ。
 うれしきにも、「げに、今日を限りに、この渚を別るること」などあはれがりて、口々しほたれ言ひあへることどもあめり。されど、何かはとてなむ。
 入道、今日の御まうけ、いといかめしう仕うまつれり。人びと、下の品まで、旅の装束めづらしきさまなり。いつの間にかしあへけむと見えたり。御よそひは言ふべくもあらず。御衣櫃あまたかけさぶらはす。まことの都の苞にしつべき御贈り物ども、ゆゑづきて、思ひ寄らぬ隈なし。今日たてまつるべき狩の御装束に、
 「寄る波に立ちかさねたる旅衣
  しほどけしとや人の厭はむ」
 とあるを御覧じつけて、騒がしけれど、
 「かたみにぞ換ふべかりける逢ふことの
  日数隔てむ中の衣を」
 とて、「心ざしあるを」とて、たてまつり替ふ。御身になれたるどもを遣はす。げに、今一重偲ばれたまふべきことを添ふる形見なめり。えならぬ御衣に匂ひの移りたるを、いかが人の心にも染めざらむ。
 入道、
 「今はと世を離れはべりにし身なれども、今日の御送りに仕うまつらぬこと」
 など申して、かひをつくるもいとほしながら、若き人は笑ひぬべし。
 「世をうみにここらしほじむ身となりて
  なほこの岸をえこそ離れね
 心の闇は、いとど惑ひぬべくはべれば、境までだに」と聞こえて、
 「好き好きしきさまなれど、思し出でさせたまふ折はべらば」
 など、御けしき賜はる。いみじうものをあはれと思して、所々うち赤みたまへる御まみのわたりなど、言はむかたなく見えたまふ。
 「思ひ捨てがたき筋もあめれば、今いととく見直したまひてむ。ただこの住みかこそ見捨てがたけれ。いかがすべき」とて、
 「都出でし春の嘆きに劣らめや
  年経る浦を別れぬる秋」
 とて、おし拭ひたまへるに、いとどものおぼえず、しほたれまさる。立ちゐもあさましうよろぼふ。


 [第五段 残された明石の君の嘆き]
 正身の心地、たとふべき方なくて、かうしも人に見えじと思ひ沈むれど、身の憂きをもとにて、わりなきことなれど、うち捨てたまへる恨みのやる方なきに、たけきこととは、ただ涙に沈めり。母君も慰めわびては、
 「何に、かく心尽くしなることを思ひそめけむ。すべて、ひがひがしき人に従ひける心のおこたりぞ」
 と言ふ。
 「あなかまや。思し捨つまじきこともものしたまふめれば、さりとも、思すところあらむ。思ひ慰めて、御湯などをだに参れ。あな、ゆゆしや」
 とて、片隅に寄りゐたり。乳母、母君など、ひがめる心を言ひ合はせつつ、
 「いつしか、いかで思ふさまにて見たてまつらむと、年月を頼み過ぐし、今や、思ひ叶ふとこそ頼みきこえつれ、心苦しきことをも、もののはじめに見るかな」
 と嘆くを見るにも、いとほしければ、いとどほけられて、昼は日一日、寝をのみ寝暮らし、夜はすくよかに起きゐて、「数珠の行方も知らずなりにけり」とて、手をおしすりて仰ぎゐたり。
 弟子どもにあはめられて、月夜に出でて行道するものは、遣水に倒れ入りにけり。よしある岩の片側に腰もつきそこなひて、病み臥したるほどになむ、すこしもの紛れける。


 

第五章 光る源氏の物語 帰京と政界復帰の物語
 [第一段 難波の御祓い]
 君は、難波の方に渡りて御祓へしたまひて、住吉にも、平らかにて、いろいろの願果たし申すべきよし、御使して申させたまふ。にはかに所狭うて、みづからはこのたびえ詣でたまはず、ことなる御逍遥などなくて、急ぎ入りたまひぬ。
 二条院におはしまし着きて、都の人も、御供の人も、夢の心地して行き合ひ、喜び泣きどもゆゆしきまで立ち騷ぎたり。
 女君も、かひなきものに思し捨てつる命、うれしう思さるらむかし。いとうつくしげにねびととのほりて、御もの思ひのほどに、所狭かりし御髪のすこしへがれたるしも、いみじうめでたきを、「今はかくて見るべきぞかし」と、御心落ちゐるにつけては、また、かの飽かず別れし人の思へりしさま、心苦しう思しやらる。なほ世とともに、かかる方にて御心の暇ぞなきや。
 その人のことどもなど聞こえ出でたまへり。思し出でたる御けしき浅からず見ゆるを、ただならずや見たてまつりたまふらむ、わざとならず、「身をば思はず」など、ほのめかしたまふぞ、をかしうらうたく思ひきこえたまふ。かつ、「見るにだに飽かぬ御さまを、いかで隔てつる年月ぞ」と、あさましきまで思ほすに、取り返し、世の中もいと恨めしうなむ。
 ほどもなく、元の御位あらたまりて、員より外の権大納言になりたまふ。次々の人も、さるべき限りは元の官返し賜はり、世に許さるるほど、枯れたりし木の春にあへる心地して、いとめでたげなり。

 [第二段 源氏、参内]
 召しありて、内裏に参りたまふ。御前にさぶらひたまふに、ねびまさりて、「いかで、さるものむつかしき住まひに年経たまひつらむ」と見たてまつる。女房などの、院の御時さぶらひて、老いしらへるどもは、悲しくて、今さらに泣き騒ぎめできこゆ。
 主上も、恥づかしうさへ思し召されて、御よそひなどことに引きつくろひて出でおはします。御心地、例ならで、日ごろ経させたまひければ、いたう衰へさせたまへるを、昨日今日ぞ、すこしよろしう思されける。御物語しめやかにありて、夜に入りぬ。
 十五夜の月おもしろう静かなるに、昔のこと、かき尽くし思し出でられて、しほたれさせたまふ。もの心細く思さるるなるべし。
 「遊びなどもせず、昔聞きし物の音なども聞かで、久しうなりにけるかな」
 とのたまはするに、
 「わたつ海にしなえうらぶれ蛭の児の
  脚立たざりし年は経にけり」
 と聞こえたまへり。いとあはれに心恥づかしう思されて、
 「宮柱めぐりあひける時しあれば
  別れし春の恨み残すな」
 いとなまめかしき御ありさまなり。
 院の御ために、八講行はるべきこと、まづ急がせたまふ。春宮を見たてまつりたまふに、こよなくおよすけさせたまひて、めづらしう思しよろこびたるを、限りなくあはれと見たてまつりたまふ。御才もこよなくまさらせたまひて、世をたもたせたまはむに、憚りあるまじく、かしこく見えさせたまふ。
 入道の宮にも、御心すこし静めて、御対面のほどにも、あはれなることどもあらむかし。


 [第三段 明石の君への手紙、他]
 まことや、かの明石には、返る波に御文つかはす。ひき隠してこまやかに書きたまふめり。
 「波のよるよるいかに、
  嘆きつつ明石の浦に朝霧の
  立つやと人を思ひやるかな」
 かの帥の娘五節、あいなく、人知らぬもの思ひさめぬる心地して、まくなぎつくらせてさし置かせけり。
 「須磨の浦に心を寄せし舟人の
  やがて朽たせる袖を見せばや」
 「手などこよなくまさりにけり」と、見おほせたまひて、遣はす。
 「帰りてはかことやせまし寄せたりし
  名残に袖の干がたかりしを」
 「飽かずをかし」と思しし名残なれば、おどろかされたまひて、いとど思し出づれど、このころは、さやうの御振る舞ひ、さらにつつみたまふめり。
 花散里などにも、ただ御消息などばかりにて、おぼつかなく、なかなか恨めしげなり。




澪標
光る源氏の二十八歳初冬十月から二十九歳冬まで内大臣時代の物語

 

第一章 光る源氏の物語 光る源氏の政界領導と御世替わり


故桐壷院の追善法華御八講---さやかに見えたまひし夢の後は
朱雀帝と源氏の朧月夜尚侍をめぐる確執---下りゐなむの御心づかひ近くなりぬるにも
東宮の御元服と御世替わり---明くる年の如月に、春宮の御元服のことあり
第二章 明石の物語 明石の姫君誕生

宿曜の予言と姫君誕生---まことや、「かの明石に
宣旨の娘を乳母に選定---さる所に、はかばかしき人しもありがたからむ
乳母、明石へ出発---車にてぞ京のほどは行き離れける
紫の君に姫君誕生を語る---女君には、言にあらはして
姫君の五十日の祝---「五月五日にぞ、五十日には当たるらむ」と
紫の君、嫉妬を覚える---うち返し見たまひつつ、「あはれ」と
第三章 光る源氏の物語 新旧後宮女性の動向

花散里訪問---かく、この御心とりたまふほどに
筑紫の五節と朧月夜尚侍---かやうのついでにも、五節を思し忘れず
旧後宮の女性たちの動向---院はのどやかに思しなりて
冷泉帝後宮の入内争い---兵部卿親王、年ごろの御心ばへのつらく思はずにて
第四章 明石の物語 住吉浜の邂逅

住吉詣で---その秋、住吉に詣でたまふ
住吉社頭の盛儀---松原の深緑なるに、花紅葉をこき散らしたる
源氏、惟光と住吉の神徳を感ず---君は、夢にも知りたまはず
源氏、明石の君に和歌を贈る---かの明石の舟、この響きに圧されて
明石の君、翌日住吉に詣でる---かの人は、過ぐしきこえて、またの日ぞ
第五章 光る源氏の物語 冷泉帝後宮の入内争い

斎宮と母御息所上京---まことや、かの斎宮も替はりたまひにしかば
御息所、斎宮を源氏に託す---かくまでも思しとどめたりけるを
六条御息所、死去---七、八日ありて亡せたまひにけり
斎宮を養女とし、入内を計画---下りたまひしほどより
朱雀院と源氏の斎宮をめぐる確執---院にも、かの下りたまひし大極殿の
冷泉帝後宮の入内争い---入道の宮、兵部卿宮の、姫君をいつしかと


 

第一章 光る源氏の物語 光る源氏の政界領導と御世替わり
 [第一段 故桐壷院の追善法華御八講]
 さやかに見えたまひし夢の後は、院の帝の御ことを心にかけきこえたまひて、「いかで、かの沈みたまふらむ罪、救ひたてまつることをせむ」と、思し嘆きけるを、かく帰りたまひては、その御急ぎしたまふ。神無月に御八講したまふ。世の人なびき仕うまつること、昔のやうなり。
 大后、御悩み重くおはしますうちにも、「つひにこの人をえ消たずなりなむこと」と、心病み思しけれど、帝は院の御遺言を思ひきこえたまふ。ものの報いありぬべく思しけるを、直し立てたまひて、御心地涼しくなむ思しける。時々おこり悩ませたまひし御目も、さはやぎたまひぬれど、「おほかた世にえ長くあるまじう、心細きこと」とのみ、久しからぬことを思しつつ、常に召しありて、源氏の君は参りたまふ。世の中のことなども、隔てなくのたまはせつつ、御本意のやうなれば、おほかたの世の人も、あいなく、うれしきことに喜びきこえける。

 [第二段 朱雀帝と源氏の朧月夜尚侍をめぐる確執]
 下りゐなむの御心づかひ近くなりぬるにも、尚侍、心細げに世を思ひ嘆きたまへる、いとあはれに思されけり。
 「大臣亡せたまひ、大宮も頼もしげなくのみ篤いたまへるに、我が世残り少なき心地するになむ、いといとほしう、名残なきさまにてとまりたまはむとすらむ。昔より、人には思ひ落としたまへれど、みづからの心ざしのまたなきならひに、ただ御ことのみなむ、あはれにおぼえける。立ちまさる人、また御本意ありて見たまふとも、おろかならぬ心ざしはしも、なずらはざらむと思ふさへこそ、心苦しけれ」
 とて、うち泣きたまふ。
 女君、顔はいと赤く匂ひて、こぼるばかりの御愛敬にて、涙もこぼれぬるを、よろづの罪忘れて、あはれにらうたしと御覧ぜらる。
 「などか、御子をだに持たまへるまじき。口惜しうもあるかな。契り深き人のためには、今見出でたまひてむと思ふも、口惜しや。限りあれば、ただ人にてぞ見たまはむかし」
 など、行く末のことをさへのたまはするに、いと恥づかしうも悲しうもおぼえたまふ。御容貌など、なまめかしうきよらにて、限りなき御心ざしの年月に添ふやうにもてなさせたまふに、めでたき人なれど、さしも思ひたまへらざりしけしき、心ばへなど、もの思ひ知られたまふままに、「などて、わが心の若くいはけなきにまかせて、さる騷ぎをさへ引き出でて、わが名をばさらにもいはず、人の御ためさへ」など思し出づるに、いと憂き御身なり。


 [第三段 東宮の御元服と御世替わり]
 明くる年の如月に、春宮の御元服のことあり。十一になりたまへど、ほどよりおほきに、おとなしうきよらにて、ただ源氏の大納言の御顔を二つに写したらむやうに見えたまふ。いとまばゆきまで光りあひたまへるを、世人めでたきものに聞こゆれど、母宮は、いみじうかたはらいたきことに、あいなく御心を尽くしたまふ。
 内裏にも、めでたしと見たてまつりたまひて、世の中譲りきこえたまふべきことなど、なつかしう聞こえ知らせたまふ。
 同じ月の二十余日、御国譲りのことにはかなれば、大后思しあわてたり。
 「かひなきさまながらも、心のどかに御覧ぜらるべきことを思ふなり」
 とぞ、聞こえ慰めたまひける。
 坊には承香殿の皇子ゐたまひぬ。世の中改まりて、引き変へ今めかしきことども多かり。源氏の大納言、内大臣になりたまひぬ。数定まりて、くつろぐ所もなかりければ、加はりたまふなりけり。
 やがて世の政事をしたまふべきなれど、「さやうの事しげき職には堪へずなむ」とて、致仕の大臣、摂政したまふべきよし、譲りきこえたまふ。
 「病によりて、位を返したてまつりてしを、いよいよ老のつもり添ひて、さかしきことはべらじ」
 と、受けひき申したまはず。「人の国にも、こと移り世の中定まらぬ折は、深き山に跡を絶えたる人だにも、治まれる世には、白髪も恥ぢず出で仕へけるをこそ、まことの聖にはしけれ。病に沈みて、返し申したまひける位を、世の中変はりてまた改めたまはむに、さらに咎あるまじう」、公、私定めらる。さる例もありければ、すまひ果てたまはで、太政大臣になりたまふ。御年も六十三にぞなりたまふ。
 世の中すさまじきにより、かつは籠もりゐたまひしを、とりかへし花やぎたまへば、御子どもなど沈むやうにものしたまへるを、皆浮かびたまふ。とりわきて、宰相中将、権中納言になりたまふ。かの四の君の御腹の姫君、十二になりたまふを、内裏に参らせむとかしづきたまふ。かの「高砂」歌ひし君も、かうぶりせさせて、いと思ふさまなり。腹々に御子どもいとあまた次々に生ひ出でつつ、にぎははしげなるを、源氏の大臣は羨みたまふ。
 大殿腹の若君、人よりことにうつくしうて、内裏、春宮の殿上したまふ。故姫君の亡せたまひにし嘆きを、宮、大臣、またさらに改めて思し嘆く。されど、おはせぬ名残も、ただこの大臣の御光に、よろづもてなされたまひて、年ごろ、思し沈みつる名残なきまで栄えたまふ。なほ昔に御心ばへ変はらず、折節ごとに渡りたまひなどしつつ、若君の御乳母たち、さらぬ人びとも、年ごろのほどまかで散らざりけるは、皆さるべきことに触れつつ、よすがつけむことを思しおきつるに、幸ひ人多くなりぬべし。
 二条院にも、同じごと待ちきこえける人を、あはれなるものに思して、年ごろの胸あくばかりと思せば、中将、中務やうの人びとには、ほどほどにつけつつ情けを見えたまふに、御いとまなくて、他歩きもしたまはず。
 二条院の東なる宮、院の御処分なりしを、二なく改め造らせたまふ。「花散里などやうの心苦しき人びと住ませむ」など、思し当てて繕はせたまふ。


 

第二章 明石の物語 明石の姫君誕生
 [第一段 宿曜の予言と姫君誕生]
 まことや、「かの明石に、心苦しげなりしことはいかに」と、思し忘るる時なければ、公、私いそがしき紛れに、え思すままにも訪ひたまはざりけるを、三月朔日のほど、「このころや」と思しやるに、人知れずあはれにて、御使ありけり。とく帰り参りて、
 「十六日になむ。女にて、たひらかにものしたまふ」
 と告げきこゆ。めづらしきさまにてさへあなるを思すに、おろかならず。「などて、京に迎へて、かかることをもせさせざりけむ」と、口惜しう思さる。
 宿曜に、
 「御子三人。帝、后かならず並びて生まれたまふべし。中の劣りは、太政大臣にて位を極むべし」
 と、勘へ申したりしこと、さしてかなふなめり。おほかた、上なき位に昇り、世をまつりごちたまふべきこと、さばかりかしこかりしあまたの相人どもの聞こえ集めたるを、年ごろは世のわづらはしさにみな思し消ちつるを、当帝のかく位にかなひたまひぬることを、思ひのごとうれしと思す。みづからも、「もて離れたまへる筋は、さらにあるまじきこと」と思す。
 「あまたの皇子たちのなかに、すぐれてらうたきものに思したりしかど、ただ人に思しおきてける御心を思ふに、宿世遠かりけり。内裏のかくておはしますを、あらはに人の知ることならねど、相人の言むなしからず」
 と、御心のうちに思しけり。今、行く末のあらましごとを思すに、
 「住吉の神のしるべ、まことにかの人も世になべてならぬ宿世にて、ひがひがしき親も及びなき心をつかふにやありけむ。さるにては、かしこき筋にもなるべき人の、あやしき世界にて生まれたらむは、いとほしうかたじけなくもあるべきかな。このほど過ぐして迎へてむ」
 と思して、東の院、急ぎ造らすべきよし、もよほし仰せたまふ。

 [第二段 宣旨の娘を乳母に選定]
 さる所に、はかばかしき人しもありがたからむを思して、故院にさぶらひし宣旨の娘、宮内卿の宰相にて亡くなりにし人の子なりしを、母なども亡せて、かすかなる世に経けるが、はかなきさまにて子産みたりと、聞こしめしつけたるを、知る便りありて、ことのついでにまねびきこえける人召して、さるべきさまにのたまひ契る。
 まだ若く、何心もなき人にて、明け暮れ人知れぬあばらやに、眺むる心細さなれば、深うも思ひたどらず、この御あたりのことをひとへにめでたう思ひきこえて、参るべきよし申させたり。いとあはれにかつは思して、出だし立てたまふ。
 もののついでに、いみじう忍びまぎれておはしまいたり。さは聞こえながら、いかにせましと思ひ乱れけるを、いとかたじけなきに、よろづ思ひ慰めて、
 「ただ、のたまはせむままに」
 と聞こゆ。吉ろしき日なりければ、急がし立てたまひて、
 「あやしう、思ひやりなきやうなれど、思ふさま殊なることにてなむ。みづからもおぼえぬ住まひに結ぼほれたりし例を思ひよそへて、しばし念じたまへ」
 など、ことのありやう詳しう語らひたまふ。
 主上の宮仕へ時々せしかば、見たまふ折もありしを、いたう衰へにけり。家のさまも言ひ知らず荒れまどひて、さすがに、大きなる所の、木立など疎ましげに、「いかで過ぐしつらむ」と見ゆ。人のさま、若やかにをかしければ、御覧じ放たれず。とかく戯れたまひて、
 「取り返しつべき心地こそすれ。いかに」
 とのたまふにつけても、「げに、同じうは、御身近うも仕うまつり馴れば、憂き身も慰みなまし」と見たてまつる。
 「かねてより隔てぬ仲とならはねど
  別れは惜しきものにぞありける
 慕ひやしなまし」
 とのたまへば、うち笑ひて、
 「うちつけの別れを惜しむかことにて
  思はむ方に慕ひやはせぬ」
 馴れて聞こゆるを、いたしと思す。


 [第三段 乳母、明石へ出発]
 車にてぞ京のほどは行き離れける。いと親しき人さし添へたまひて、ゆめ漏らすまじく、口がためたまひて遣はす。御佩刀、さるべきものなど、所狭きまで思しやらぬ隈なし。乳母にも、ありがたうこまやかなる御いたはりのほど、浅からず。
 入道の思ひかしづき思ふらむありさま、思ひやるも、ほほ笑まれたまふこと多く、また、あはれに心苦しうも、ただこのことの御心にかかるも、浅からぬにこそは。御文にも、「おろかにもてなし思ふまじ」と、返す返すいましめたまへり。
 「いつしかも袖うちかけむをとめ子が
  世を経て撫づる岩の生ひ先」
 津の国までは舟にて、それよりあなたは馬にて、急ぎ行き着きぬ。
 入道待ちとり、喜びかしこまりきこゆること、限りなし。そなたに向きて拝みきこえて、ありがたき御心ばへを思ふに、いよいよいたはしう、恐ろしきまで思ふ。
 稚児のいとゆゆしきまでうつくしうおはすること、たぐひなし。「げに、かしこき御心に、かしづききこえむと思したるは、むべなりけり」と見たてまつるに、あやしき道に出で立ちて、夢の心地しつる嘆きもさめにけり。いとうつくしうらうたうおぼえて、扱ひきこゆ。
 子持ちの君も、月ごろものをのみ思ひ沈みて、いとど弱れる心地に、生きたらむともおぼえざりつるを、この御おきての、すこしもの思ひ慰めらるるにぞ、頭もたげて、御使にも二なきさまの心ざしを尽くす。とく参りなむと急ぎ苦しがれば、思ふことどもすこし聞こえ続けて、
 「ひとりして撫づるは袖のほどなきに
  覆ふばかりの蔭をしぞ待つ」
 と聞こえたり。あやしきまで御心にかかり、ゆかしう思さる。


 [第四段 紫の君に姫君誕生を語る]
 女君には、言にあらはしてをさをさ聞こえたまはぬを、聞きあはせたまふこともこそ、と思して、
 「さこそあなれ。あやしうねぢけたるわざなりや。さもおはせなむと思ふあたりには、心もとなくて、思ひの外に、口惜しくなむ。女にてあなれば、いとこそものしけれ。尋ね知らでもありぬべきことなれど、さはえ思ひ捨つまじきわざなりけり。呼びにやりて見せたてまつらむ。憎みたまふなよ」
 と聞こえたまへば、面うち赤みて、
 「あやしう、つねにかやうなる筋のたまひつくる心のほどこそ、われながら疎ましけれ。もの憎みは、いつならふべきにか」
 と怨じまたへば、いとよくうち笑みて、
 「そよ。誰がならはしにかあらむ。思はずにぞ見えたまふや。人の心より外なる思ひやりごとして、もの怨じなどしたまふよ。思へば悲し」
 とて、果て果ては涙ぐみたまふ。年ごろ飽かず恋しと思ひきこえたまひし御心のうちども、折々の御文の通ひなど思し出づるには、「よろづのこと、すさびにこそあれ」と思ひ消たれたまふ。
 「この人を、かうまで思ひやり言問ふは、なほ思ふやうのはべるぞ。まだきに聞こえば、またひが心得たまふべければ」
 とのたまひさして、
 「人がらのをかしかりしも、所からにや、めづらしうおぼえきかし」
 など語りきこえたまふ。
 あはれなりし夕べの煙、言ひしことなど、まほならねど、その夜の容貌ほの見し、琴の音のなまめきたりしも、すべて御心とまれるさまにのたまひ出づるにも、
 「われはまたなくこそ悲しと思ひ嘆きしか、すさびにても、心を分けたまひけむよ」
 と、ただならず、思ひ続けたまひて、「われは、われ」と、うち背き眺めて、
 「あはれなりし世のありさまかな」
 と、独り言のやうにうち嘆きて、
 「思ふどちなびく方にはあらずとも
  われぞ煙に先立ちなまし」
 「何とか。心憂や。
  誰れにより世を海山に行きめぐり
  絶えぬ涙に浮き沈む身ぞ
 いでや、いかでか見えたてまつらむ。命こそかなひがたかべいものなめれ。はかなきことにて、人に心おかれじと思ふも、ただ一つゆゑぞや」
 とて、箏の御琴引き寄せて、掻き合せすさびたまひて、そそのかしきこえたまへど、かの、すぐれたりけむもねたきにや、手も触れたまはず。いとおほどかにうつくしう、たをやぎたまへるものから、さすがに執念きところつきて、もの怨じしたまへるが、なかなか愛敬づきて腹立ちなしたまふを、をかしう見どころありと思す。


  [第五段 姫君の五十日の祝]
 「五月五日にぞ、五十日には当たるらむ」と、人知れず数へたまひて、ゆかしうあはれに思しやる。「何ごとも、いかにかひあるさまにもてなし、うれしからまし。口惜しのわざや。さる所にしも、心苦しきさまにて、出で来たるよ」と思す。「男君ならましかば、かうしも御心にかけたまふまじきを、かたじけなういとほしう、わが御宿世も、この御ことにつけてぞかたほなりけり」と思さるる。
 御使出だし立てたまふ。
 「かならずその日違へずまかり着け」
 とのたまへば、五日に行き着きぬ。思しやることも、ありがたうめでたきさまにて、まめまめしき御訪らひもあり。
 「海松や時ぞともなき蔭にゐて
  何のあやめもいかにわくらむ
 心のあくがるるまでなむ。なほ、かくてはえ過ぐすまじきを、思ひ立ちたまひね。さりとも、うしろめたきことは、よも」
 と書いたまへり。
 入道、例の、喜び泣きしてゐたり。かかる折は、生けるかひもつくり出でたる、ことわりなりと見ゆ。
 ここにも、よろづ所狭きまで思ひ設けたりけれど、この御使なくは、闇の夜にてこそ暮れぬべかりけれ。乳母も、この女君のあはれに思ふやうなるを、語らひ人にて、世の慰めにしけり。をさをさ劣らぬ人も、類に触れて迎へ取りてあらすれど、こよなく衰へたる宮仕へ人などの、巌の中尋ぬるが落ち止まれるなどこそあれ、これは、こよなうこめき思ひあがれり。
 聞きどころある世の物語などして、大臣の君の御ありさま、世にかしづかれたまへる御おぼえのほども、女心地にまかせて限りなく語り尽くせば、「げに、かく思し出づばかりの名残とどめたる身も、いとたけくやうやう思ひなりけり。御文ももろともに見て、心のうちに、
 「あはれ、かうこそ思ひの外に、めでたき宿世はありけれ。憂きものはわが身こそありけれ」
 と、思ひ続けらるれど、「乳母のことはいかに」など、こまやかに訪らはせたまへるも、かたじけなく、何ごとも慰めけり。
 御返りには、
 「数ならぬみ島隠れに鳴く鶴を
  今日もいかにと問ふ人ぞなき
 よろづに思うたまへ結ぼほるるありさまを、かくたまさかの御慰めにかけはべる命のほども、はかなくなむ。げに、後ろやすく思うたまへ置くわざもがな」
 とまめやかに聞こえたり。


 [第六段 紫の君、嫉妬を覚える]
 うち返し見たまひつつ、「あはれ」と、長やかにひとりごちたまふを、女君、しり目に見おこせて、
 「浦よりをちに漕ぐ舟の」
 と、忍びやかにひとりごち、眺めたまふを、
 「まことは、かくまでとりなしたまふよ。こは、ただ、かばかりのあはれぞや。所のさまなど、うち思ひやる時々、来し方のこと忘れがたき独り言を、ようこそ聞き過ぐいたまはね」
 など、恨みきこえたまひて、上包ばかりを見せたてまつらせたまふ。筆などのいとゆゑづきて、やむごとなき人苦しげなるを、「かかればなめり」と、思す。


 

第三章 光る源氏の物語 新旧後宮女性の動向
 [第一段 花散里訪問]
 かく、この御心とりたまふほどに、花散里などを離れ果てたまひぬるこそ、いとほしけれ。公事も繁く、所狭き御身に、思し憚るに添へても、めづらしく御目おどろくことのなきほど、思ひしづめたまふなめり。
 五月雨つれづれなるころ、公私もの静かなるに、思し起こして渡りたまへり。よそながらも、明け暮れにつけて、よろづに思しやり訪らひきこえたまふを頼みにて、過ぐいたまふ所なれば、今めかしう心にくきさまに、そばみ恨みたまふべきならねば、心やすげなり。年ごろに、いよいよ荒れまさり、すごげにておはす。
 女御の君に御物語聞こえたまひて、西の妻戸に夜更かして立ち寄りたまへり。月おぼろにさし入りて、いとど艶なる御ふるまひ、尽きもせず見えたまふ。いとどつつましけれど、端近ううち眺めたまひけるさまながら、のどやかにてものしたまふけはひ、いとめやすし。水鶏のいと近う鳴きたるを、
 「水鶏だにおどろかさずはいかにして
  荒れたる宿に月を入れまし」
 と、いとなつかしう、言ひ消ちたまへるぞ、
 「とりどりに捨てがたき世かな。かかるこそ、なかなか身も苦しけれ」
 と思す。
 「おしなべてたたく水鶏におどろかば
  うはの空なる月もこそ入れ
 うしろめたう」
 とは、なほ言に聞こえたまへど、あだあだしき筋など、疑はしき御心ばへにはあらず。年ごろ、待ち過ぐしきこえたまへるも、さらにおろかには思されざりけり。「空な眺めそ」と、頼めきこえたまひし折のことも、のたまひ出でて、
 「などて、たぐひあらじと、いみじうものを思ひ沈みけむ。憂き身からは、同じ嘆かしさにこそ」
 とのたまへるも、おいらかにらうたげなり。例の、いづこの御言の葉にかあらむ、尽きせずぞ語らひ慰めきこえたまふ。

 [第二段 筑紫の五節と朧月夜尚侍]
 かやうのついでにも、五節を思し忘れず、「また見てしがな」と、心にかけたまへれど、いとかたきことにて、え紛れたまはず。
 女、もの思ひ絶えぬを、親はよろづに思ひ言ふこともあれど、世に経むことを思ひ絶えたり。
 心やすき殿造りしては、「かやうの人集へても、思ふさまにかしづきたまふべき人も出でものしたまはば、さる人の後見にも」と思す。
 かの院の造りざま、なかなか見どころ多く、今めいたり。よしある受領などを選りて、当て当てに催したまふ。
 尚侍の君、なほえ思ひ放ちきこえたまはず。こりずまに立ち返り、御心ばへもあれど、女は憂きに懲りたまひて、昔のやうにもあひしらへきこえたまはず。なかなか、所狭う、さうざうしう世の中、思さる。


 [第三段 旧後宮の女性たちの動向]
 院はのどやかに思しなりて、時々につけて、をかしき御遊びなど、好ましげにておはします。女御、更衣、みな例のごとさぶらひたまへど、春宮の御母女御のみぞ、とり立てて時めきたまふこともなく、尚侍の君の御おぼえにおし消たれたまへりしを、かく引き変へ、めでたき御幸ひにて、離れ出でて宮に添ひたてまつりたまへる。
 この大臣の御宿直所は、昔の淑景舎なり。梨壷に春宮はおはしませば、近隣の御心寄せに、何ごとも聞こえ通ひて、宮をも後見たてまつりたまふ。
 入道后の宮、御位をまた改めたまふべきならねば、太上天皇になずらへて、御封賜らせたまふ。院司どもなりて、さまことにいつくし。御行なひ、功徳のことを、常の御いとなみにておはします。年ごろ、世に憚りて出で入りも難く、見たてまつりたまはぬ嘆きをいぶせく思しけるに、思すさまにて、参りまかでたまふもいとめでたければ、大后は、「憂きものは世なりけり」と思し嘆く。
 大臣はことに触れて、いと恥づかしげに仕まつり、心寄せきこえたまふも、なかなかいとほしげなるを、人もやすからず、聞こえけり。


 [第四段 冷泉帝後宮の入内争い]
 兵部卿親王、年ごろの御心ばへのつらく思はずにて、ただ世の聞こえをのみ思し憚りたまひしことを、大臣は憂きものに思しおきて、昔のやうにもむつびきこえたまはず。
 なべての世には、あまねくめでたき御心なれど、この御あたりは、なかなか情けなき節も、うち交ぜたまふを、入道の宮は、いとほしう本意なきことに見たてまつりたまへり。
 世の中のこと、ただなかばを分けて、太政大臣、この大臣の御ままなり。
 権中納言の御女、その年の八月に参らせたまふ。祖父殿ゐたちて、儀式などいとあらまほし。
 兵部卿宮の中の君も、さやうに心ざしてかしづきたまふ名高きを、大臣は、人よりまさりたまへとしも思さずなむありける。いかがしたまはむとすらむ。


 

第四章 明石の物語 住吉浜の邂逅
 [第一段 住吉詣で]
 その秋、住吉に詣でたまふ。願ども果たしたまふべければ、いかめしき御ありきにて、世の中ゆすりて、上達部、殿上人、我も我もと仕うまつりたまふ。
 折しも、かの明石の人、年ごとの例のことにて詣づるを、去年今年は障ることありて、おこたりける、かしこまり取り重ねて、思ひ立ちけり。
 舟にて詣でたり。岸にさし着くるほど、見れば、ののしりて詣でたまふ人のけはひ、渚に満ちて、いつくしき神宝を持て続けたり。楽人、十列など、装束をととのへ、容貌を選びたり。
 「誰が詣でたまへるぞ」
 と問ふめれば、
 「内大臣殿の御願果たしに詣でたまふを、知らぬ人もありけり」
 とて、はかなきほどの下衆だに、心地よげにうち笑ふ。
 「げに、あさましう、月日もこそあれ。なかなか、この御ありさまを遥かに見るも、身のほど口惜しうおぼゆ。さすがに、かけ離れたてまつらぬ宿世ながら、かく口惜しき際の者だに、もの思ひなげにて、仕うまつるを色節に思ひたるに、何の罪深き身にて、心にかけておぼつかなう思ひきこえつつ、かかりける御響きをも知らで、立ち出でつらむ」
 など思ひ続くるに、いと悲しうて、人知れずしほたれけり。

 [第二段 住吉社頭の盛儀]
 松原の深緑なるに、花紅葉をこき散らしたると見ゆる表の衣の、濃き薄き、数知らず。六位のなかにも蔵人は青色しるく見えて、かの賀茂の瑞垣恨みし右近将監も靫負になりて、ことことしげなる随身具したる蔵人なり。
 良清も同じ佐にて、人よりことにもの思ひなきけしきにて、おどろおどろしき赤衣姿、いときよげなり。
 すべて見し人びと、引き変へはなやかに、何ごと思ふらむと見えて、うち散りたるに、若やかなる上達部、殿上人の、我も我もと思ひいどみ、馬鞍などまで飾りを整へ磨きたまへるは、いみじき物に、田舎人も思へり。
 御車を遥かに見やれば、なかなか、心やましくて、恋しき御影をもえ見たてまつらず。河原大臣の御例をまねびて、童随身を賜りたまひける、いとをかしげに装束き、みづら結ひて、紫裾濃の元結なまめかしう、丈姿ととのひ、うつくしげにて十人、さまことに今めかしう見ゆ。
 大殿腹の若君、限りなくかしづき立てて、馬添ひ、童のほど、皆作りあはせて、やう変へて装束きわけたり。
 雲居遥かにめでたく見ゆるにつけても、若君の数ならぬさまにてものしたまふを、いみじと思ふ。いよいよ御社の方を拝みきこゆ。
 国の守参りて、御まうけ、例の大臣などの参りたまふよりは、ことに世になく仕うまつりけむかし。
 いとはしたなければ、
 「立ち交じり、数ならぬ身の、いささかのことせむに、神も見入れ、数まへたまふべきにもあらず。帰らむにも中空なり。今日は難波に舟さし止めて、祓へをだにせむ」
 とて、漕ぎ渡りぬ。


 [第三段 源氏、惟光と住吉の神徳を感ず]
 君は、夢にも知りたまはず、夜一夜、いろいろのことをせさせたまふ。まことに、神の喜びたまふべきことを、し尽くして、来し方の御願にもうち添へ、ありがたきまで、遊びののしり明かしたまふ。
 惟光やうの人は、心のうちに神の御徳をあはれにめでたしと思ふ。あからさまに立ち出でたまへるに、さぶらひて、聞こえ出でたり。
 「住吉の松こそものはかなしけれ
  神代のことをかけて思へば」
 げに、と思し出でて、
 「荒かりし波のまよひに住吉の
  神をばかけて忘れやはする
 験ありな」
 とのたまふも、いとめでたし。


 [第四段 源氏、明石の君に和歌を贈る]
 かの明石の舟、この響きに圧されて、過ぎぬることも聞こゆれば、「知らざりけるよ」と、あはれに思す。神の御しるべを思し出づるも、おろかならねば、「いささかなる消息をだにして、心慰めばや。なかなかに思ふらむかし」と思す。
 御社立ちたまて、所々に逍遥を尽くしたまふ。難波の御祓へ、七瀬によそほしう仕まつる。堀江のわたりを御覧じて、
 「今はた同じ難波なる」
 と、御心にもあらで、うち誦じたまへるを、御車のもと近き惟光、うけたまはりやしつらむ、さる召しもやと、例にならひて懐にまうけたる柄短き筆など、御車とどむる所にてたてまつれり。「をかし」と思して、畳紙に、
 「みをつくし恋ふるしるしにここまでも
  めぐり逢ひけるえには深しな」
 とて、たまへれば、かしこの心知れる下人して遣りけり。駒並めて、うち過ぎたまふにも、心のみ動くに、露ばかりなれど、いとあはれにかたじけなくおぼえて、うち泣きぬ。
 「数ならで難波のこともかひなきに
  などみをつくし思ひそめけむ」
 田蓑の島に御禊仕うまつる、御祓への物につけてたてまつる。日暮れ方になりゆく。
 夕潮満ち来て、入江の鶴も声惜しまぬほどのあはれなる折からなればにや、人目もつつまず、あひ見まほしくさへ思さる。
 「露けさの昔に似たる旅衣
  田蓑の島の名には隠れず」
 道のままに、かひある逍遥遊びののしりたまへど、御心にはなほかかりて思しやる。遊女どもの集ひ参れる、上達部と聞こゆれど、若やかにこと好ましげなるは、皆、目とどめたまふべかめり。されど、「いでや、をかしきことも、もののあはれも、人からこそあべけれ。なのめなることをだに、すこしあはき方に寄りぬるは、心とどむるたよりもなきものを」と思すに、おのが心をやりて、よしめきあへるも疎ましう思しけり。


 [第五段 明石の君、翌日住吉に詣でる]
 かの人は、過ぐしきこえて、またの日ぞ吉ろしかりければ、御幣たてまつる。ほどにつけたる願どもなど、かつがつ果たしける。また、なかなかもの思ひ添はりて、明け暮れ、口惜しき身を思ひ嘆く。
 今や京におはし着くらむと思ふ日数も経ず、御使あり。このころのほどに迎へむことをぞのたまへる。
 「いと頼もしげに、数まへのたまふめれど、いさや、また、島漕ぎ離れ、中空に心細きことやあらむ」
 と、思ひわづらふ。
 入道も、さて出だし放たむは、いとうしろめたう、さりとて、かく埋もれ過ぐさむを思はむも、なかなか来し方の年ごろよりも、心尽くしなり。よろづにつつましう、思ひ立ちがたきことを聞こゆ。


 

第五章 光る源氏の物語 冷泉帝後宮の入内争い
 [第一段 斎宮と母御息所上京]
 まことや、かの斎宮も替はりたまひにしかば、御息所上りたまひてのち、変はらぬさまに何ごとも訪らひきこえたまふことは、ありがたきまで、情けを尽くしたまへど、「昔だにつれなかりし御心ばへの、なかなかならむ名残は見じ」と、思ひ放ちたまへれば、渡りたまひなどすることはことになし。
 あながちに動かしきこえたまひても、わが心ながら知りがたく、とかくかかづらはむ御歩きなども、所狭う思しなりにたれば、強ひたるさまにもおはせず。
 斎宮をぞ、「いかにねびなりたまひぬらむ」と、ゆかしう思ひきこえたまふ。
 なほ、かの六条の旧宮をいとよく修理しつくろひたりければ、みやびかにて住みたまひけり。よしづきたまへること、旧りがたくて、よき女房など多く、好いたる人の集ひ所にて、ものさびしきやうなれど、心やれるさまにて経たまふほどに、にはかに重くわづらひたまひて、もののいと心細く思されければ、罪深き所ほとりに年経つるも、いみじう思して、尼になりたまひぬ。
 大臣、聞きたまひて、かけかけしき筋にはあらねど、なほさる方のものをも聞こえあはせ、人に思ひきこえつるを、かく思しなりにけるが口惜しうおぼえたまへば、おどろきながら渡りたまへり。飽かずあはれなる御訪らひ聞こえたまふ。
 近き御枕上に御座よそひて、脇息におしかかりて、御返りなど聞こえたまふも、いたう弱りたまへるけはひなれば、「絶えぬ心ざしのほどは、え見えたてまつらでや」と、口惜しうて、いみじう泣いたまふ。

 [第二段 御息所、斎宮を源氏に託す]
 かくまでも思しとどめたりけるを、女も、よろづにあはれに思して、斎宮の御ことをぞ聞こえたまふ。
 「心細くてとまりたまはむを、かならず、ことに触れて数まへきこえたまへ。また見ゆづる人もなく、たぐひなき御ありさまになむ。かひなき身ながらも、今しばし世の中を思ひのどむるほどは、とざまかうざまにものを思し知るまで、見たてまつらむことこそ思ひたまへつれ」
 とても、消え入りつつ泣いたまふ。
 「かかる御ことなくてだに、思ひ放ちきこえさすべきにもあらぬを、まして、心の及ばむに従ひては、何ごとも後見きこえむとなむ思うたまふる。さらに、うしろめたくな思ひきこえたまひそ」
 など聞こえたまへば、
 「いとかたきこと。まことにうち頼むべき親などにて、見ゆづる人だに、女親に離れぬるは、いとあはれなることにこそはべるめれ。まして、思ほし人めかさむにつけても、あぢきなき方やうち交り、人に心も置かれたまはむ。うたてある思ひやりごとなれど、かけてさやうの世づいたる筋に思し寄るな。憂き身を抓みはべるにも、女は、思ひの外にてもの思ひを添ふるものになむはべりければ、いかでさる方をもて離れて、見たてまつらむと思うたまふる」
 など聞こえたまへば、「あいなくものたまふかな」と思せど、
 「年ごろに、よろづ思うたまへ知りにたるものを、昔の好き心の名残あり顔にのたまひなすも本意なくなむ。よし、おのづから」
 とて、外は暗うなり、内は大殿油のほのかにものより通りて見ゆるを、「もしや」と思して、やをら御几帳のほころびより見たまへば、心もとなきほどの火影に、御髪いとをかしげにはなやかにそぎて、寄りゐたまへる、絵に描きたらむさまして、いみじうあはれなり。帳の東面に添ひ臥したまへるぞ、宮ならむかし。御几帳のしどけなく引きやられたるより、御目とどめて見通したまへれば、頬杖つきて、いともの悲しと思いたるさまなり。はつかなれど、いとうつくしげならむと見ゆ。
 御髪のかかりたるほど、頭つき、けはひ、あてに気高きものから、ひぢぢかに愛敬づきたまへるけはひ、しるく見えたまへば、心もとなくゆかしきにも、「さばかりのたまふものを」と、思し返す。


 「いと苦しさまさりはべる。かたじけなきを、はや渡らせたまひね」
 とて、人にかき臥せられたまふ。
 「近く参り来たるしるしに、よろしう思さればうれしかるべきを、心苦しきわざかな。いかに思さるるぞ」
 とて、覗きたまふけしきなれば、
 「いと恐ろしげにはべるや。乱り心地のいとかく限りなる折しも渡らせたまへるは、まことに浅からずなむ。思ひはべることを、すこしも聞こえさせつれば、さりともと、頼もしくなむ」
 と聞こえさせたまふ。
 「かかる御遺言の列に思しけるも、いとどあはれになむ。故院の御子たち、あまたものしたまへど、親しくむつび思ほすも、をさをさなきを、主上の同じ御子たちのうちに数まへきこえたまひしかば、さこそは頼みきこえはべらめ。すこしおとなしきほどになりぬる齢ながら、あつかふ人もなければ、さうざうしきを」
 など聞こえて、帰りたまひぬ。御訪らひ、今すこしたちまさりて、しばしば聞こえたまふ。


 [第三段 六条御息所、死去]
 七、八日ありて亡せたまひにけり。あへなう思さるるに、世もいとはかなくて、もの心細く思されて、内裏へも参りたまはず、とかくの御ことなど掟てさせたまふ。また頼もしき人もことにおはせざりけり。古き斎宮の宮司など、仕うまつり馴れたるぞ、わづかにことども定めける。
 御みづからも渡りたまへり。宮に御消息聞こえたまふ。
 「何ごともおぼえはべらでなむ」
 と、女別当して、聞こえたまへり。
 「聞こえさせ、のたまひ置きしこともはべしを、今は、隔てなきさまに思されば、うれしくなむ」
 と聞こえたまひて、人びと召し出でて、あるべきことども仰せたまふ。いと頼もしげに、年ごろの御心ばへ、取り返しつべう見ゆ。いといかめしう、殿の人びと、数もなう仕うまつらせたまへり。あはれにうち眺めつつ、御精進にて、御簾下ろしこめて行はせたまふ。
 宮には、常に訪らひきこえたまふ。やうやう御心静まりたまひては、みづから御返りなど聞こえたまふ。つつましう思したれど、御乳母など、「かたじけなし」と、そそのかしきこゆるなりけり。
 雪、霙、かき乱れ荒るる日、「いかに、宮のありさま、かすかに眺めたまふらむ」と思ひやりきこえたまひて、御使たてまつれたまへり。
 「ただ今の空を、いかに御覧ずらむ。
  降り乱れひまなき空に亡き人の
  天翔るらむ宿ぞ悲しき」
 空色の紙の、曇らはしきに書いたまへり。若き人の御目にとどまるばかりと、心してつくろひたまへる、いと目もあやなり。
 宮は、いと聞こえにくくしたまへど、これかれ、
 「人づてには、いと便なきこと」
 と責めきこゆれば、鈍色の紙の、いと香ばしう艶なるに、墨つきなど紛らはして、
 「消えがてにふるぞ悲しきかきくらし
  わが身それとも思ほえぬ世に」
 つつましげなる書きざま、いとおほどかに、御手すぐれてはあらねど、らうたげにあてはかなる筋に見ゆ。


 [第四段 斎宮を養女とし、入内を計画]
 下りたまひしほどより、なほあらず思したりしを、「今は心にかけて、ともかくも聞こえ寄りぬべきぞかし」と思すには、例の、引き返し、
 「いとほしくこそ。故御息所の、いとうしろめたげに心おきたまひしを。ことわりなれど、世の中の人も、さやうに思ひ寄りぬべきことなるを、引き違へ、心清くてあつかひきこえむ。主上の今すこしもの思し知る齢にならせたまひなば、内裏住みせさせたてまつりて、さうざうしきに、かしづきぐさにこそ」と思しなる。
 いとまめやかにねむごろに聞こえたまひて、さるべき折々は渡りなどしたまふ。
 「かたじけなくとも、昔の御名残に思しなずらへて、気遠からずもてなさせたまはばなむ、本意なる心地すべき」
 など聞こえたまへど、わりなくもの恥ぢをしたまふ奥まりたる人ざまにて、ほのかにも御声など聞かせたてまつらむは、いと世になくめづらかなることと思したれば、人びとも聞こえわづらひて、かかる御心ざまを愁へきこえあへり。
 「女別当、内侍などいふ人びと、あるは、離れたてまつらぬわかむどほりなどにて、心ばせある人々多かるべし。この、人知れず思ふ方のまじらひをさせさたてまつらむに、人に劣りたまふまじかめり。いかでさやかに、御容貌を見てしがな」
 と思すも、うちとくべき御親心にはあらずやありけむ。
 わが御心も定めがたければ、かく思ふといふことも、人にも漏らしたまはず。御わざなどの御ことをも取り分きてせさせたまへば、ありがたき御心を、宮人もよろこびあへり。


 はかなく過ぐる月日に添へて、いとどさびしく、心細きことのみまさるに、さぶらふ人びとも、やうやうあかれ行きなどして、下つ方の京極わたりなれば、人気遠く、山寺の入相の声々に添へても、音泣きがちにてぞ、過ぐしたまふ。同じき御親と聞こえしなかにも、片時の間も立ち離れたてまつりたまはで、ならはしたてまつりたまひて、斎宮にも親添ひて下りたまふことは、例なきことなるを、あながちに誘ひきこえたまひし御心に、限りある道にては、たぐひきこえたまはずなりにしを、干る世なう思し嘆きたり。
 さぶらふ人びと、貴きも賤しきもあまたあり。されど、大臣の、
 「御乳母たちだに、心にまかせたること、引き出だし仕うまつるな」
 など、親がり申したまへば、「いと恥づかしき御ありさまに、便なきこと聞こし召しつけられじ」と言ひ思ひつつ、はかなきことの情けも、さらにつくらず。


 [第五段 朱雀院と源氏の斎宮をめぐる確執]
 院にも、かの下りたまひし大極殿のいつかしかりし儀式に、ゆゆしきまで見えたまひし御容貌を、忘れがたう思しおきければ、
 「参りたまひて、斎院など、御はらからの宮々おはしますたぐひにて、さぶらひたまへ」
 と、御息所にも聞こえたまひき。されど、「やむごとなき人びとさぶらひたまふに、数々なる御後見もなくてや」と思しつつみ、「主上は、いとあつしうおはしますも恐ろしう、またもの思ひや加へたまはむ」と、憚り過ぐしたまひしを、今は、まして誰かは仕うまつらむと、人びと思ひたるを、ねむごろに院には思しのたまはせけり。
 大臣、聞きたまひて、「院より御けしきあらむを、引き違へ、横取りたまはむを、かたじけなきこと」と思すに、人の御ありさまのいとらうたげに、見放たむはまた口惜しうて、入道の宮にぞ聞こえたまひける。
 「かうかうのことをなむ、思うまへわづらふに、母御息所、いと重々しく心深きさまにものしはべりしを、あぢきなき好き心にまかせて、さるまじき名をも流し、憂きものに思ひ置かれはべりにしをなむ、世にいとほしく思ひたまふる。この世にて、その恨みの心とけず過ぎはべりにしを、今はとなりての際に、この斎宮の御ことをなむ、ものせられしかば、さも聞き置き、心にも残すまじうこそは、さすがに見おきたまひけめ、と思ひたまふるにも、忍びがたう。おほかたの世につけてだに、心苦しきことは見聞き過ぐされぬわざにはべるを、いかで、なき蔭にても、かの恨み忘るばかり、と思ひたまふるを、内裏にも、さこそおとなびさせたまへど、いときなき御齢におはしますを、すこし物の心知る人はさぶらはれてもよくやと思ひたまふるを、御定めに」
 など聞こえたまへば、
 「いとよう思し寄りけるを、院にも、思さむことは、げにかたじけなう、いとほしかるべけれど、かの御遺言をかこちて、知らず顔に参らせたてまつりたまへかし。今はた、さやうのこと、わざとも思しとどめず、御行なひがちになりたまひて、かう聞こえたまふを、深うしも思しとがめじと思ひたまふる」
 「さらば、御けしきありて、数まへさせたまはば、もよほしばかりの言を、添ふるになしはべらむ。とざまかうざまに、思ひたまへ残すことなきに、かくまでさばかりの心構へも、まねびはべるに、世人やいかにとこそ、憚りはべれ」
 など聞こえたまて、後には、「げに、知らぬやうにて、ここに渡したてまつりてむ」と思す。
 女君にも、しかなむ思ひ語らひきこえて、
 「過ぐいたまはむに、いとよきほどなるあはひならむ」
 と、聞こえ知らせたまへば、うれしきことに思して、御渡りのことをいそぎたまふ。


 [第六段 冷泉帝後宮の入内争い]
 入道の宮、兵部卿宮の、姫君をいつしかとかしづき騷ぎたまふめるを、「大臣の隙ある仲にて、いかがもてなしたまはむ」と、心苦しく思す。
 権中納言の御女は、弘徽殿の女御と聞こゆ。大殿の御子にて、いとよそほしうもてかしづきたまふ。主上もよき御遊びがたきに思いたり。
 「宮の中の君も同じほどにおはすれば、うたて雛遊びの心地すべきを、おとなしき御後見は、いとうれしかべいこと」
 と思しのたまひて、さる御けしき聞こえたまひつつ、大臣のよろづに思し至らぬことなく、公方の御後見はさらにもいはず、明け暮れにつけて、こまかなる御心ばへの、いとあはれに見えたまふを、頼もしきものに思ひきこえたまひて、いとあつしくのみおはしませば、参りなどしたまひても、心やすくさぶらひたまふこともかたきを、すこしおとなびて、添ひさぶらはむ御後見は、かならずあるべきことなりけり。



蓬生
光る源氏の須磨明石離京時代から帰京後までの末摘花の物語

第一章 末摘花の物語 光る源氏の須磨明石離京時代


末摘花の孤独---藻塩たれつつわびたまひしころほひ
常陸宮邸の窮乏---もとより荒れたりし宮の内
常陸宮邸の荒廃---はかなきことにても、見訪らひきこゆる人は
末摘花の気紛らし---はかなき古歌、物語などやうのすさびごとにて
乳母子の侍従と叔母---侍従などいひし御乳母子のみこそ
第二章 末摘花の物語 光る源氏帰京後

顧みられない末摘花---さるほどに、げに世の中に赦されたまひて
法華御八講---冬になりゆくままに、いとど、かき付かむかたなく
叔母、末摘花を誘う---例はさしもむつびぬを、誘ひ立てむの心にて
侍従、叔母に従って離京---されど、動くべうもあらねば
常陸宮邸の寂寥---霜月ばかりになれば、雪、霰がちにて
第三章 末摘花の物語 久しぶりの再会の物語

花散里訪問途上---卯月ばかりに、花散里を思ひ出できこえたまひて
惟光、邸内を探る---惟光入りて、めぐるめぐる人の音する方やと
源氏、邸内に入る---「などかいと久しかりつる。いかにぞ
末摘花と再会---姫君は、さりともと待ち過ぐしたまへる
第四章 末摘花の物語 その後の物語

末摘花への生活援助---祭、御禊などのほど、御いそぎどもに
常陸宮邸に活気戻る---今は限りと、あなづり果てて、さまざまに
末摘花のその後---二年ばかりこの古宮に眺めたまひて

第一章 末摘花の物語 光る源氏の須磨明石離京時代
 [第一段 末摘花の孤独]
 藻塩垂れつつわびたまひしころほひ、都にも、さまざまに思し嘆く人多かりしを、さても、わが御身の拠り所あるは、一方の思ひこそ苦しげなりしか、二条の上なども、のどやかにて、旅の御住みかをもおぼつかなからず、聞こえ通ひたまひつつ、位を去りたまへる仮の御よそひをも、竹の子の世の憂き節を、時々につけてあつかひきこえたまふに、慰めたまひけむ、なかなか、その数と人にも知られず、立ち別れたまひしほどの御ありさまをも、よそのことに思ひやりたまふ人びとの、下の心くだきたまふたぐひ多かり。
 常陸宮の君は、父親王の亡せたまひにし名残に、また思ひあつかふ人もなき御身にて、いみじう心細げなりしを、思ひかけぬ御ことの出で来て、訪らひきこえたまふこと絶えざりしを、いかめしき御勢にこそ、ことにもあらず、はかなきほどの御情けばかりと思したりしかど、待ち受けたまふ袂の狭きに、大空の星の光を盥の水に映したる心地して過ぐしたまひしほどに、かかる世の騷ぎ出で来て、なべての世憂く思し乱れしまぎれに、わざと深からぬ方の心ざしはうち忘れたるやうにて、遠くおはしましにしのち、ふりはへてしもえ尋ねきこえたまはず。その名残に、しばしは、泣く泣くも過ぐしたまひしを、年月経るままに、あはれにさびしき御ありさまなり。
 古き女ばらなどは、
 「いでや、いと口惜しき御宿世なりけり。おぼえず神仏の現はれたまへらむやうなりし御心ばへに、かかるよすがも人は出でおはするものなりけりと、ありがたう見たてまつりしを、おほかたの世の事といひながら、また頼む方なき御ありさまこそ、悲しけれ」
 と、つぶやき嘆く。さる方にありつきたりしあなたの年ごろは、いふかひなきさびしさに目なれて過ぐしたまふを、なかなかすこし世づきてならひにける年月に、いと堪へがたく思ひ嘆くべし。すこしも、さてありぬべき人びとは、おのづから参りつきてありしを、皆次々に従ひて行き散りぬ。女ばらの命堪へぬもありて、月日に従ひては、上下人数少なくなりゆく。

 [第二段 常陸宮邸の窮乏]
 もとより荒れたりし宮の内、いとど狐の棲みかになりて、うとましう、気遠き木立に、梟の声を朝夕に耳ならしつつ、人気にこそ、さやうのものもせかれて影隠しけれ、木霊など、けしからぬものども、所得て、やうやう形を現はし、ものわびしきことのみ数知らぬに、まれまれ残りてさぶらふ人は、
 「なほ、いとわりなし。この受領どもの、おもしろき家造り好むが、この宮の木立を心につけて、放ちたまはせてむやと、ほとりにつきて、案内し申さするを、さやうにせさせたまひて、いとかう、もの恐ろしからぬ御住まひに、思し移ろはなむ。立ちとまりさぶらふ人も、いと堪へがたし」
 など聞こゆれど、
 「あな、いみじや。人の聞き思はむこともあり。生ける世に、しか名残なきわざ、いかがせむ。かく恐ろしげに荒れ果てぬれど、親の御影とまりたる心地する古き住みかと思ふに、慰みてこそあれ」
 と、うち泣きつつ、思しもかけず。
 御調度どもを、いと古代になれたるが、昔やうにてうるはしきを、なまもののゆゑ知らむと思へる人、さるもの要じて、わざとその人かの人にせさせたまへると尋ね聞きて、案内するも、おのづからかかる貧しきあたりと思ひあなづりて言ひ来るを、例の女ばら、
 「いかがはせむ。そこそは世の常のこと」
 とて、取り紛らはしつつ、目に近き今日明日の見苦しさを繕はむとする時もあるを、いみじう諌めたまひて、
 「見よと思ひたまひてこそ、しおかせたまひけめ。などてか、軽々しき人の家の飾りとはなさむ。亡き人の御本意違はむが、あはれなること」
 とのたまひて、さるわざはせさせたまはず。


 [第三段 常陸宮邸の荒廃]
 はかなきことにても、見訪らひきこゆる人はなき御身なり。ただ、御兄の禅師の君ばかりぞ、まれにも京に出でたまふ時は、さしのぞきたまへど、それも、世になき古めき人にて、同じき法師といふなかにも、たづきなく、この世を離れたる聖にものしたまひて、しげき草、蓬をだに、かき払はむものとも思ひ寄りたまはず。
 かかるままに、浅茅は庭の面も見えず、しげき蓬は軒を争ひて生ひのぼる。葎は西東の御門を閉ぢこめたるぞ頼もしけれど、崩れがちなるめぐりの垣を馬、牛などの踏みならしたる道にて、春夏になれば、放ち飼ふ総角の心さへぞ、めざましき。
 八月、野分荒かりし年、廊どもも倒れ伏し、下の屋どもの、はかなき板葺なりしなどは、骨のみわづかに残りて、立ちとまる下衆だになし。煙絶えて、あはれにいみじきこと多かり。
 盗人などいふひたぶる心ある者も、思ひやりの寂しければにや、この宮をば不要のものに踏み過ぎて、寄り来ざりければ、かくいみじき野良、薮なれども、さすがに寝殿のうちばかりは、ありし御しつらひ変らず、つややかに掻い掃きなどする人もなし。塵は積もれど、紛るることなきうるはしき御住まひにて、明かし暮らしたまふ。


 [第四段 末摘花の気紛らし]
 はかなき古歌、物語などやうのすさびごとにてこそ、つれづれをも紛らはし、かかる住まひをも思ひ慰むるわざなめれ、さやうのことにも心遅くものしたまふ。わざと好ましからねど、おのづからまた急ぐことなきほどは、同じ心なる文通はしなどうちしてこそ、若き人は木草につけても心を慰めたまふべけれど、親のもてかしづきたまひし御心掟のままに、世の中をつつましきものに思して、まれにも言通ひたまふべき御あたりをも、さらに馴れたまはず、古りにたる御厨子開けて、『唐守』、『藐姑射の刀自』、『かぐや姫の物語』の絵に描きたるをぞ、時々のまさぐりものにしたまふ。
 古歌とても、をかしきやうに選り出で、題をも読人をもあらはし心得たるこそ見所もありけれ、うるはしき紙屋紙、陸奥紙などのふくだめるに、古言どもの目馴れたるなどは、いとすさまじげなるを、せめて眺めたまふ折々は、ひき広げたまふ。今の世の人のすめる、経うち読み、行なひなどいふことは、いと恥づかしくしたまひて、見たてまつる人もなけれど、数珠など取り寄せたまはず。かやうにうるはしくぞものしたまひける。


 [第五段 乳母子の侍従と叔母]
 侍従などいひし御乳母子のみこそ、年ごろあくがれ果てぬ者にてさぶらひつれど、通ひ参りし斎院亡せたまひなどして、いと堪へがたく心細きに、この姫君の母北の方のはらから、世におちぶれて受領の北の方になりたまへるありけり。
 娘どもかしづきて、よろしき若人どもも、「むげに知らぬ所よりは、親どももまうで通ひしを」と思ひて、時々行き通ふ。この姫君は、かく人疎き御癖なれば、むつましくも言ひ通ひたまはず。
 「おのれをばおとしめたまひて、面伏せに思したりしかば、姫君の御ありさまの心苦しげなるも、え訪らひきこえず」
 など、なま憎げなる言葉ども言ひ聞かせつつ、時々聞こえけり。
 もとよりありつきたるさやうの並々の人は、なかなかよき人の真似に心をつくろひ、思ひ上がるも多かるを、やむごとなき筋ながらも、かうまで落つべき宿世ありければにや、心すこしなほなほしき御叔母にぞありける。
 「わがかく劣りのさまにて、あなづらはしく思はれたりしを、いかで、かかる世の末に、この君を、わが娘どもの使人になしてしがな。心ばせなどの古びたる方こそあれ、いとうしろやすき後見ならむ」と思ひて、
 「時々ここに渡らせたまひて。御琴の音もうけたまはらまほしがる人なむはべる」
 と聞こえけり。この侍従も、常に言ひもよほせど、人にいどむ心にはあらで、ただこちたき御ものづつみなれば、さもむつびたまはぬを、ねたしとなむ思ひける。
 かかるほどに、かの家主人、大弐になりぬ。娘どもあるべきさまに見置きて、下りなむとす。この君を、なほも誘はむの心深くて、
 「はるかに、かくまかりなむとするに、心細き御ありさまの、常にしも訪らひきこえねど、近き頼みはべりつるほどこそあれ、いとあはれにうしろめたくなむ」
 など、言よがるを、さらに受け引きたまはねば、
 「あな、憎。ことことしや。心一つに思し上がるとも、さる薮原に年経たまふ人を、大将殿も、やむごとなくしも思ひきこえたまはじ」
 など、怨じうけひけり。


 

第二章 末摘花の物語 光る源氏帰京後
 [第一段 顧みられない末摘花]
 さるほどに、げに世の中に赦されたまひて、都に帰りたまふと、天の下の喜びにて立ち騒ぐ。我もいかで、人より先に、深き心ざしを御覧ぜられむとのみ、思ひきほふ男、女につけて、高きをも下れるをも、人の心ばへを見たまふに、あはれに思し知ること、さまざまなり。かやうに、あわたたしきほどに、さらに思ひ出でたまふけしき見えで月日経ぬ。
 「今は限りなりけり。年ごろ、あらぬさまなる御さまを、悲しういみじきことを思ひながらも、萌え出づる春に逢ひたまはなむと念じわたりつれど、たびしかはらなどまで喜び思ふなる、御位改まりなどするを、よそにのみ聞くべきなりけり。悲しかりし折のうれはしさは、ただわが身一つのためになれるとおぼえし、かひなき世かな」と、心くだけて、つらく悲しければ、人知れず音をのみ泣きたまふ。
 大弐の北の方、
 「さればよ。まさに、かくたづきなく、人悪ろき御ありさまを、数まへたまふ人はありなむや。仏、聖も、罪軽きをこそ導きよくしたまふなれ、かかる御ありさまにて、たけく世を思し、宮、上などのおはせし時のままにならひたまへる、御心おごりの、いとほしきこと」
 と、いとどをこがましげに思ひて、
 「なほ、思ほし立ちね。世の憂き時は、見えぬ山路をこそは尋ぬなれ。田舎などは、むつかしきものと思しやるらめど、ひたぶるに人悪ろげには、よも、もてなしきこえじ」
 など、いと言よく言へば、むげに屈んじにたる女ばら、
 「さもなびきたまはなむ。たけきこともあるまじき御身を、いかに思して、かく立てたる御心ならむ」
 と、もどきつぶやく。
 侍従も、かの大弐の甥だつ人、語らひつきて、とどむべくもあらざりければ、心よりほかに出で立ちて、
 「見たてまつり置かむが、いと心苦しきを」
 とて、そそのかしきこゆれど、なほ、かくかけ離れて久しうなりたまひぬる人に頼みをかけたまふ。御心のうちに、「さりとも、あり経ても、思し出づるついであらじやは。あはれに心深き契りをしたまひしに、わが身は憂くて、かく忘られたるにこそあれ、風のつてにても、我かくいみじきありさまを聞きつけたまはば、かならず訪らひ出でたまひてむ」と、年ごろ思しければ、おほかたの御家居も、ありしよりけにあさましけれど、わが心もて、はかなき御調度どもなども取り失はせたまはず、心強く同じさまにて念じ過ごしたまふなりけり。
 音泣きがちに、いとど思し沈みたるは、ただ山人の赤き木の実一つを顔に放たぬと見えたまふ、御側目などは、おぼろけの人の見たてまつりゆるすべきにもあらずかし。詳しくは聞こえじ。いとほしう、もの言ひさがなきやうなり。

 [第二段 法華御八講]
 冬になりゆくままに、いとど、かき付かむかたなく、悲しげに眺め過ごしたまふ。かの殿には、故院の御料の御八講、世の中ゆすりてしたまふ。ことに僧などは、なべてのは召さず、才すぐれ行なひにしみ、尊き限りを選らせたまひければ、この禅師の君参りたまへりけり。
 帰りざまに立ち寄りたまひて、
 「しかしか。権大納言殿の御八講に参りてはべるなり。いとかしこう、生ける浄土の飾りに劣らず、いかめしうおもしろきことどもの限りをなむしたまひつる。仏菩薩の変化の身にこそものしたまふめれ。五つの濁り深き世に、などて生まれたまひけむ」
 と言ひて、やがて出でたまひぬ。
 言少なに、世の人に似ぬ御あはひにて、かひなき世の物語をだにえ聞こえ合はせたまはず。「さても、かばかりつたなき身のありさまを、あはれにおぼつかなくて過ぐしたまふは、心憂の仏菩薩や」と、つらうおぼゆるを、「げに、限りなめり」と、やうやう思ひなりたまふに、大弐の北の方、にはかに来たり。


 [第三段 叔母、末摘花を誘う]
 例はさしもむつびぬを、誘ひ立てむの心にて、たてまつるべき御装束など調じて、よき車に乗りて、面もち、けしき、ほこりかにもの思ひなげなるさまして、ゆくりもなく走り来て、門開けさするより、人悪ろく寂しきこと、限りもなし。左右の戸もみなよろぼひ倒れにければ、男ども助けてとかく開け騒ぐ。いづれか、この寂しき宿にもかならず分けたる跡あなる三つの径と、たどる。
 わづかに南面の格子上げたる間に寄せたれば、いとどはしたなしと思したれど、あさましう煤けたる几帳さし出でて、侍従出で来たり。容貌など、衰へにけり。年ごろいたうつひえたれど、なほものきよげによしあるさまして、かたじけなくとも、取り変へつべく見ゆ。
 「出で立ちなむことを思ひながら、心苦しきありさまの見捨てたてまつりがたきを。侍従の迎へになむ参り来たる。心憂く思し隔てて、御みづからこそあからさまにも渡らせたまはね、この人をだに許させたまへとてなむ。などかうあはれげなるさまには」
 とて、うちも泣くべきぞかし。されど、行く道に心をやりて、いと心地よげなり。
 「故宮おはせしとき、おのれをば面伏せなりと思し捨てたりしかば、疎々しきやうになりそめにしかど、年ごろも、何かは。やむごとなきさまに思しあがり、大将殿などおはしまし通ふ御宿世のほどを、かたじけなく思ひたまへられしかばなむ、むつびきこえさせむも、憚ること多くて、過ぐしはべるを、世の中のかく定めもなかりければ、数ならぬ身は、なかなか心やすくはべるものなりけり。及びなく見たてまつりし御ありさまの、いと悲しく心苦しきを、近きほどはおこたる折も、のどかに頼もしくなむはべりけるを、かく遥かにまかりなむとすれば、うしろめたくあはれになむおぼえたまふ」
 など語らへど、心解けても応へたまはず。
 「いとうれしきことなれど、世に似ぬさまにて、何かは。かうながらこそ朽ちも失せめとなむ思ひはべる」
 とのみのたまへば、
 「げに、しかなむ思さるべけれど、生ける身を捨て、かくむくつけき住まひするたぐひははべらずやあらむ。大将殿の造り磨きたまはむにこそは、引きかへ玉の台にもなりかへらめとは、頼もしうははべれど、ただ今は、式部卿宮の御女よりほかに、心分けたまふ方もなかなり。昔より好き好きしき御心にて、なほざりに通ひたまひける所々、皆思し離れにたなり。まして、かうものはかなきさまにて、薮原に過ぐしたまへる人をば、心きよく我を頼みたまへるありさまと尋ねきこえたまふこと、いとかたくなむあるべき」
 など言ひ知らするを、げにと思すも、いと悲しくて、つくづくと泣きたまふ。


 [第四段 侍従、叔母に従って離京]
 されど、動くべうもあらねば、よろづに言ひわづらひ暮らして、
 「さらば、侍従をだに」
 と、日の暮るるままに急げば、心あわたたしくて、泣く泣く、
 「さらば、まづ今日は。かう責めたまふ送りばかりにまうではべらむ。かの聞こえたまふもことわりなり。また、思しわづらふもさることにはべれば、中に見たまふるも心苦しくなむ」
 と、忍びて聞こゆ。
 この人さへうち捨ててむとするを、恨めしうもあはれにも思せど、言ひ止むべき方もなくて、いとど音をのみたけきことにてものしたまふ。
 形見に添へたまふべき身馴れ衣も、しほなれたれば、年経ぬるしるし見せたまふべきものなくて、わが御髪の落ちたりけるを取り集めて、鬘にしたまへるが、九尺余ばかりにて、いときよらなるを、をかしげなる箱に入れて、昔の薫衣香のいとかうばしき、一壷具して賜ふ。
 「絶ゆまじき筋を頼みし玉かづら
  思ひのほかにかけ離れぬる
 故ままの、のたまひ置きしこともありしかば、かひなき身なりとも、見果ててむとこそ思ひつれ。うち捨てらるるもことわりなれど、誰に見ゆづりてかと、恨めしうなむ」
 とて、いみじう泣いたまふ。この人も、ものも聞こえやらず。
 「ままの遺言は、さらにも聞こえさせず、年ごろの忍びがたき世の憂さを過ぐしはべりつるに、かくおぼえぬ道にいざなはれて、遥かにまかりあくがるること」とて、
 「玉かづら絶えてもやまじ行く道の
  手向の神もかけて誓はむ
 命こそ知りはべらね」
 など言ふに、
 「いづら。暗うなりぬ」
 と、つぶやかれて、心も空にて引き出づれば、かへり見のみせられける。
 年ごろわびつつも行き離れざりつる人の、かく別れぬることを、いと心細う思すに、世に用ゐらるまじき老人さへ、
 「いでや、ことわりぞ。いかでか立ち止まりたまはむ。われらも、えこそ念じ果つまじけれ」
 と、おのが身々につけたるたよりども思ひ出でて、止まるまじう思へるを、人悪ろく聞きおはす。


 [第五段 常陸宮邸の寂寥]
 霜月ばかりになれば、雪、霰がちにて、ほかには消ゆる間もあるを、朝日、夕日をふせぐ蓬葎の蔭に深う積もりて、越の白山思ひやらるる雪のうちに、出で入る下人だになくて、つれづれと眺めたまふ。はかなきことを聞こえ慰め、泣きみ笑ひみ紛らはしつる人さへなくて、夜も塵がましき御帳のうちも、かたはらさびしく、もの悲しく思さる。
 かの殿には、めづらし人に、いとどもの騒がしき御ありさまにて、いとやむごとなく思されぬ所々には、わざともえ訪れたまはず。まして、「その人はまだ世にやおはすらむ」とばかり思し出づる折もあれど、尋ねたまふべき御心ざしも急がであり経るに、年変はりぬ。


 

第三章 末摘花の物語 久しぶりの再会の物語
 [第一段 花散里訪問途上]
 卯月ばかりに、花散里を思ひ出できこえたまひて、忍びて対の上に御暇聞こえて出でたまふ。日ごろ降りつる名残の雨、いますこしそそきて、をかしきほどに、月さし出でたり。昔の御ありき思し出でられて、艶なるほどの夕月夜に、道のほど、よろづのこと思し出でておはするに、形もなく荒れたる家の、木立しげく森のやうなるを過ぎたまふ。
 大きなる松に藤の咲きかかりて、月影になよびたる、風につきてさと匂ふがなつかしく、そこはかとなき香りなり。橘に変はりてをかしければ、さし出でたまへるに、柳もいたうしだりて、築地も障はらねば、乱れ伏したり。
 「見し心地する木立かな」と思すは、早う、この宮なりけり。いとあはれにて、おし止めさせたまふ。例の、惟光はかかる御忍びありきに後れねば、さぶらひけり。召し寄せて、
 「ここは、常陸の宮ぞかしな」
 「しかはべる」
 と聞こゆ。
 「ここにありし人は、まだや眺むらむ。訪らふべきを、わざとものせむも所狭し。かかるついでに、入りて消息せよ。よく尋ね入りてを、うち出でよ。人違へしては、をこならむ」
 とのたまふ。
 ここには、いとど眺めまさるころにて、つくづくとおはしけるに、昼寝の夢に故宮の見えたまひければ、覚めて、いと名残悲しく思して、漏り濡れたる廂の端つ方おし拭はせて、ここかしこの御座引きつくろはせなどしつつ、例ならず世づきたまひて、
 「亡き人を恋ふる袂のひまなきに
  荒れたる軒のしづくさへ添ふ」
 も、心苦しきほどになむありける。

 [第二段 惟光、邸内を探る]
 惟光入りて、めぐるめぐる人の音する方やと見るに、いささかの人気もせず。「さればこそ、往き来の道に見入るれど、人住みげもなきものを」と思ひて、帰り参るほどに、月明くさし出でたるに、見れば、格子二間ばかり上げて、簾動くけしきなり。わづかに見つけたる心地、恐ろしくさへおぼゆれど、寄りて、声づくれば、いともの古りたる声にて、まづしはぶきを先にたてて、
 「かれは誰れそ。何人ぞ」
 と問ふ。名のりして、
 「侍従の君と聞こえし人に、対面賜はらむ」
 と言ふ。
 「それは、ほかになむものしたまふ。されど、思しわくまじき女なむはべる」
 と言ふ声、いたうねび過ぎたれど、聞きし老人と聞き知りたり。
 内には、思ひも寄らず、狩衣姿なる男、忍びやかにもてなし、なごやかなれば、見ならはずなりにける目にて、「もし、狐などの変化にや」とおぼゆれど、近う寄りて、
 「たしかになむ、うけたまはらまほしき。変はらぬ御ありさまならば、尋ねきこえさせたまふべき御心ざしも、絶えずなむおはしますめるかし。今宵も行き過ぎがてに、止まらせたまへるを、いかが聞こえさせむ。うしろやすくを」
 と言へば、女どもうち笑ひて、
 「変はらせたまふ御ありさまならば、かかる浅茅が原を移ろひたまはでははべりなむや。ただ推し量りて聞こえさせたまへかし。年経たる人の心にも、たぐひあらじとのみ、めづらかなる世をこそは見たてまつり過ごしはべれ」
 と、ややくづし出でて、問はず語りもしつべきが、むつかしければ、
 「よしよし。まづ、かくなむ、聞こえさせむ」
 とて参りぬ。


 [第三段 源氏、邸内に入る]
 「などかいと久しかりつる。いかにぞ。昔のあとも見えぬ蓬のしげさかな」
 とのたまへば、
 「しかしかなむ、たどり寄りてはべりつる。侍従が叔母の少将といひはべりし老人なむ、変はらぬ声にてはべりつる」
 と、ありさま聞こゆ。いみじうあはれに、
 「かかるしげき中に、何心地して過ぐしたまふらむ。今まで訪はざりけるよ」
 と、わが御心の情けなさも思し知らる。
 「いかがすべき。かかる忍びあるきも難かるべきを、かかるついでならでは、え立ち寄らじ。変はらぬありさまならば、げにさこそはあらめと、推し量らるる人ざまになむ」
 とはのたまひながら、ふと入りたまはむこと、なほつつましう思さる。ゆゑある御消息もいと聞こえまほしけれど、見たまひしほどの口遅さも、まだ変らずは、御使の立ちわづらはむもいとほしう、思しとどめつ。惟光も、
 「さらにえ分けさせたまふまじき、蓬の露けさになむはべる。露すこし払はせてなむ、入らせたまふべき」
 と聞こゆれば、
 「尋ねても我こそ訪はめ道もなく
  深き蓬のもとの心を」
 と独りごちて、なほ下りたまへば、御先の露を、馬の鞭して払ひつつ入れたてまつる。
 雨そそきも、なほ秋の時雨めきてうちそそけば、
 「御傘さぶらふ。げに、木の下露は、雨にまさりて」
 と聞こゆ。御指貫の裾は、いたうそほちぬめり。昔だにあるかなきかなりし中門など、まして形もなくなりて、入りたまふにつけても、いと無徳なるを、立ちまじり見る人なきぞ心やすかりける。


 [第四段 末摘花と再会]
 姫君は、さりともと待ち過ぐしたまへる心もしるく、うれしけれど、いと恥づかしき御ありさまにて対面せむも、いとつつましく思したり。大弐の北の方のたてまつり置きし御衣どもをも、心ゆかず思されしゆかりに、見入れたまはざりけるを、この人びとの、香の御唐櫃に入れたりけるが、いとなつかしき香したるをたてまつりければ、いかがはせむに、着替へたまひて、かの煤けたる御几帳引き寄せておはす。
 入りたまひて、
 「年ごろの隔てにも、心ばかりは変はらずなむ、思ひやりきこえつるを、さしもおどろかいたまはぬ恨めしさに、今までこころみきこえつるを、杉ならぬ木立のしるさに、え過ぎでなむ、負けきこえにける」
 とて、帷子をすこしかきやりたまへれば、例の、いとつつましげに、とみにも応へきこえたまはず。かくばかり分け入りたまへるが浅からぬに、思ひ起こしてぞ、ほのかに聞こえ出でたまひける。
 「かかる草隠れに過ぐしたまひける年月のあはれも、おろかならず、また変はらぬ心ならひに、人の御心のうちもたどり知らずながら、分け入りはべりつる露けさなどを、いかが思す。年ごろのおこたり、はた、なべての世に思しゆるすらむ。今よりのちの御心にかなはざらむなむ、言ひしに違ふ罪も負ふべき」
 など、さしも思されぬことも、情け情けしう聞こえなしたまふことども、あむめり。


 立ちとどまりたまはむも、所のさまよりはじめ、まばゆき御ありさまなれば、つきづきしうのたまひすぐして、出でたまひなむとす。引き植ゑしならねど、松の木高くなりにける年月のほどもあはれに、夢のやうなる御身のありさまも思し続けらる。
 「藤波のうち過ぎがたく見えつるは
  松こそ宿のしるしなりけれ
 数ふれば、こよなう積もりぬらむかし。都に変はりにけることの多かりけるも、さまざまあはれになむ。今、のどかにぞ鄙の別れに衰へし世の物語も聞こえ尽くすべき。年経たまへらむ春秋の暮らしがたさなども、誰にかは愁へたまはむと、うらもなくおぼゆるも、かつは、あやしうなむ」
 など聞こえたまへば、
 「年を経て待つしるしなきわが宿を
  花のたよりに過ぎぬばかりか」
 と忍びやかにうちみじろきたまへるけはひも、袖の香も、「昔よりはねびまさりたまへるにや」と思さる。


 月入り方になりて、西の妻戸の開きたるより、障はるべき渡殿だつ屋もなく、軒のつまも残りなければ、いとはなやかにさし入りたれば、あたりあたり見ゆるに、昔に変はらぬ御しつらひのさまなど、忍草にやつれたる上の見るめよりは、みやびかに見ゆるを、昔物語に塔こぼちたる人もありけるを思しあはするに、同じさまにて年古りにけるもあはれなり。ひたぶるにものづつみしたるけはひの、さすがにあてやかなるも、心にくく思されて、さる方にて忘れじと心苦しく思ひしを、年ごろさまざまのもの思ひに、ほれぼれしくて隔てつるほど、つらしと思はれつらむと、いとほしく思す。
 かの花散里も、あざやかに今めかしうなどは花やぎたまはぬ所にて、御目移しこよなからぬに、咎多う隠れにけり。


 

第四章 末摘花の物語 その後の物語
 [第一段 末摘花への生活援助]
 祭、御禊などのほど、御いそぎどもにことつけて、人のたてまつりたる物いろいろに多かるを、さるべき限り御心加へたまふ。中にもこの宮にはこまやかに思し寄りて、むつましき人びとに仰せ言賜ひ、下部どもなど遣はして、蓬払はせ、めぐりの見苦しきに、板垣といふもの、うち堅め繕はせたまふ。かう尋ね出でたまへりと、聞き伝へむにつけても、わが御ため面目なければ、渡りたまふことはなし。御文いとこまやかに書きたまひて、二条院近き所を造らせたまふを、
 「そこになむ渡したてまつるべき。よろしき童女など、求めさぶらはせたまへ」
 など、人びとの上まで思しやりつつ、訪らひきこえたまへば、かくあやしき蓬のもとには、置き所なきまで、女ばらも空を仰ぎてなむ、そなたに向きて喜びきこえける。
 なげの御すさびにても、おしなべたる世の常の人をば、目止め耳立てたまはず、世にすこしこれはと思ほえ、心地にとまる節あるあたりを尋ね寄りたまふものと、人の知りたるに、かく引き違へ、何ごともなのめにだにあらぬ御ありさまを、ものめかし出でたまふは、いかなりける御心にかありけむ。これも昔の契りなめりかし。

 [第二段 常陸宮邸に活気戻る]
  今は限りと、あなづり果てて、さまざまに迷ひ散りあかれし上下の人びと、我も我も参らむと争ひ出づる人もあり。心ばへなど、はた、埋もれいたきまでよくおはする御ありさまに、心やすくならひて、ことなることなきなま受領などやうの家にある人は、ならはずはしたなき心地するもありて、うちつけの心みえに参り帰り、君は、いにしへにもまさりたる御勢のほどにて、ものの思ひやりもまして添ひたまひにければ、こまやかに思しおきてたるに、にほひ出でて、宮の内やうやう人目見え、木草の葉もただすごくあはれに見えなされしを、遣水かき払ひ、前栽のもとだちも涼しうしなしなどして、ことなるおぼえなき下家司の、ことに仕へまほしきは、かく御心とどめて思さるることなめりと見取りて、御けしき賜はりつつ、追従し仕うまつる。


 [第三段 末摘花のその後]
 二年ばかりこの古宮に眺めたまひて、東の院といふ所になむ、後は渡したてまつりたまひける。対面したまふことなどは、いとかたけれど、近きしめのほどにて、おほかたにも渡りたまふに、さしのぞきなどしたまひつつ、いとあなづらはしげにもてなしきこえたまはず。
 かの大弐の北の方、上りて驚き思へるさま、侍従が、うれしきものの、今しばし待ちきこえざりける心浅さを、恥づかしう思へるほどなどを、今すこし問はず語りもせまほしけれど、いと頭いたう、うるさく、もの憂ければなむ。今またもついであらむ折に、思ひ出でて聞こゆべき、とぞ。



関屋
光る源氏の須磨明石離京時代から帰京後までの空蝉の物語

 

第一章 空蝉の物語 逢坂関での再会の物語


空蝉、夫と常陸国下向---伊予介といひしは、故院崩れさせたまひて
源氏、石山寺参詣---関入る日しも、この殿、石山に御願果しに
逢坂の関での再会---九月晦日なれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草
第二章 空蝉の物語 手紙を贈る

昔の小君と紀伊守---石山より出でたまふ御迎へに右衛門佐参りてぞ
空蝉へ手紙を贈る---佐召し寄せて、御消息あり。「今は
第三章 空蝉の物語 夫の死去後に出家

夫常陸介死去---かかるほどに、この常陸守、老いの積もりにや
空蝉、出家す---しばしこそ、「さのたまひしものを」など


 

第一章 空蝉の物語 逢坂関での再会の物語
 [第一段 空蝉、夫と常陸国下向]
 伊予介といひしは、故院崩れさせたまひて、またの年、常陸になりて下りしかば、かの帚木もいざなはれにけり。須磨の御旅居も遥かに聞きて、人知れず思ひやりきこえぬにしもあらざりしかど、伝へ聞こゆべきよすがだになくて、筑波嶺の山を吹き越す風も、浮きたる心地して、いささかの伝へだになくて、年月かさなりにけり。限れることもなかりし御旅居なれど、京に帰り住みたまひて、またの年の秋ぞ、常陸は上りける。

 [第二段 源氏、石山寺参詣]
 関入る日しも、この殿、石山に御願果しに詣でたまひけり。京より、かの紀伊守などいひし子ども、迎へに来たる人びと、「この殿かく詣でたまふべし」と告げければ、「道のほど騒がしかりなむものぞ」とて、まだ暁より急ぎけるを、女車多く、所狭うゆるぎ来るに、日たけぬ。
 打出の浜来るほどに、「殿は、粟田山越えたまひぬ」とて、御前の人びと、道もさりあへず来込みぬれば、関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。車など、かたへは後らかし、先に立てなどしたれど、なほ、類広く見ゆ。
 車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる。殿も、かく世に栄え出でたまふめづらしさに、数もなき御前ども、皆目とどめたり。


 [第三段 逢坂の関での再会]
 九月晦日なれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、色々の襖のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、今、右衛門佐なるを召し寄せて、
 「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」
 などのたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とりかへして、ものあはれなり。
 「行くと来とせき止めがたき涙をや
  絶えぬ清水と人は見るらむ
 え知りたまはじかし」と思ふに、いとかひなし。


 

第二章 空蝉の物語 手紙を贈る
 [第一段 昔の小君と紀伊守]
 石山より出でたまふ御迎へに右衛門佐参りてぞ、まかり過ぎしかしこまりなど申す。昔、童にて、いとむつましうらうたきものにしたまひしかば、かうぶりなど得しまで、この御徳に隠れたりしを、おぼえぬ世の騷ぎありしころ、ものの聞こえに憚りて、常陸に下りしをぞ、すこし心置きて年ごろは思しけれど、色にも出だしたまはず、昔のやうにこそあらねど、なほ親しき家人のうちには数へたまひけり。
 紀伊守といひしも、今は河内守にぞなりにける。その弟の右近将監解けて御供に下りしをぞ、とりわきてなし出でたまひければ、それにぞ誰も思ひ知りて、「などてすこしも、世に従ふ心をつかひけむ」など、思ひ出でける。

 [第二段 空蝉へ手紙を贈る]
 佐召し寄せて、御消息あり。「今は思し忘れぬべきことを、心長くもおはするかな」と思ひゐたり。
 「一日は、契り知られしを、さは思し知りけむや。
  わくらばに行き逢ふ道を頼みしも
  なほかひなしや潮ならぬ海
 関守の、さもうらやましく、めざましかりしかな」
 とあり。
 「年ごろのとだえも、うひうひしくなりにけれど、心にはいつとなく、ただ今の心地するならひになむ。好き好きしう、いとど憎まれむや」
 とて、賜へれば、かたじけなくて持て行きて、
 「なほ、聞こえたまへ。昔にはすこし思しのくことあらむと思ひたまふるに、同じやうなる御心のなつかしさなむ、いとどありがたき。すさびごとぞ用なきことと思へど、えこそすくよかに聞こえ返さね。女にては、負けきこえたまへらむに、罪ゆるされぬべし」
 など言ふ。今は、ましていと恥づかしう、よろづのこと、うひうひしき心地すれど、めづらしきにや、え忍ばれざりけむ、
 「逢坂の関やいかなる関なれば
  しげき嘆きの仲を分くらむ
 夢のやうになむ」
 と聞こえたり。あはれもつらさも、忘れぬふしと思し置かれたる人なれば、折々は、なほ、のたまひ動かしけり。


 

第三章 空蝉の物語 夫の死去後に出家
 [第一段 夫常陸介死去]
 かかるほどに、この常陸守、老いの積もりにや、悩ましくのみして、もの心細かりければ、子どもに、ただこの君の御ことをのみ言ひ置きて、
 「よろづのこと、ただこの御心にのみ任せて、ありつる世に変はらで仕うまつれ」
 とのみ、明け暮れ言ひけり。
 女君、「心憂き宿世ありて、この人にさへ後れて、いかなるさまにはふれ惑ふべきにかあらむ」と思ひ嘆きたまふを見るに、
 「命の限りあるものなれば、惜しみ止むべき方もなし。いかでか、この人の御ために残し置く魂もがな。わが子どもの心も知らぬを」
 と、うしろめたう悲しきことに、言ひ思へど、心にえ止めぬものにて、亡せぬ。

 [第二段 空蝉、出家す]
 しばしこそ、「さのたまひしものを」など、情けつくれど、うはべこそあれ、つらきこと多かり。とあるもかかるも世の道理なれば、身一つの憂きことにて、嘆き明かし暮らす。ただ、この河内守のみぞ、昔より好き心ありて、すこし情けがりける。
 「あはれにのたまひ置きし、数ならずとも、思し疎までのたまはせよ」
 など追従し寄りて、いとあさましき心の見えければ、
 「憂き宿世ある身にて、かく生きとまりて、果て果ては、めづらしきことどもを聞き添ふるかな」と、人知れず思ひ知りて、人にさなむとも知らせで、尼になりにけり。
 ある人びと、いふかひなしと、思ひ嘆く。守も、いとつらう、
 「おのれを厭ひたまふほどに。残りの御齢は多くものしたまふらむ


絵合
光る源氏の内大臣時代三十一歳春の後宮制覇の物語

 

第一章 前斎宮の物語 前斎宮をめぐる朱雀院と光る源氏の確執


朱雀院、前斎宮の入内に際して贈り物する---前斎宮の御参りのこと
源氏、朱雀院の心中を思いやる---「院の御ありさまは、女にて
帝と弘徽殿女御と斎宮女御---中宮も内裏にぞおはしましける
源氏、朱雀院と語る---院には、かの櫛の筥の御返り
第二章 後宮の物語 中宮の御前の物語絵合せ

権中納言方、絵を集める---主上は、よろづのことに、すぐれて絵を
源氏方、須磨の絵日記を準備---「物語絵こそ、心ばへ見えて
三月十日、中宮の御前の物語絵合せ---かう絵ども集めらると聞きたまひて
「竹取」対「宇津保」---中宮も参らせたまへるころにて
「伊勢物語」対「正三位」---次に、『伊勢物語』に『正三位』を
第三章 後宮の物語 帝の御前の絵合せ

帝の御前の絵合せの企画---大臣参りたまひて、かくとりどりに争ひ騒ぐ
三月二十日過ぎ、帝の御前の絵合せ---その日と定めて、にはかなるやうなれど
左方、勝利をおさめる---定めかねて夜に入りぬ。左はなほ数一つある果てに
第四章 光る源氏の物語 光る源氏世界の黎明

学問と芸事の清談---夜明け方近くなるほどに
光る源氏体制の夜明け---二十日あまりの月さし出でて
冷泉朝の盛世---そのころのことには
嵯峨野に御堂を建立---大臣ぞ、なほ常なきものに世を思して


 

第一章 前斎宮の物語 前斎宮をめぐる朱雀院と光る源氏の確執
 [第一段 朱雀院、前斎宮の入内に際して贈り物する]
 前斎宮の御参りのこと、中宮の御心に入れてもよほしきこえたまふ。こまかなる御とぶらひまで、とり立てたる御後見もなしと思しやれど、大殿は、院に聞こし召さむことを憚りたまひて、二条院に渡したてまつらむことをも、このたびは思し止まりて、ただ知らず顔にもてなしたまへれど、おほかたのことどもは、とりもちて親めききこえたまふ。
 院はいと口惜しく思し召せど、人悪ろければ、御消息など絶えにたるを、その日になりて、えならぬ御よそひども、御櫛の筥、打乱の筥、香壷の筥ども、世の常ならず、くさぐさの御薫物ども、薫衣香、またなきさまに、百歩の外を多く過ぎ匂ふまで、心ことに調へさせたまへり。大臣見たまひもせむにと、かねてよりや思しまうけけむ、いとわざとがましかむめり。
 殿も渡りたまへるほどにて、「かくなむ」と、女別当御覧ぜさす。ただ、御櫛の筥の片つ方を見たまふに、尽きせずこまかになまめきて、めづらしきさまなり。挿櫛の筥の心葉に、
 「別れ路に添へし小櫛をかことにて
  遥けき仲と神やいさめし」
 大臣、これを御覧じつけて、思しめぐらすに、いとかたじけなくいとほしくて、わが御心のならひ、あやにくなる身を抓みて、
 「かの下りたまひしほど、御心に思ほしけむこと、かう年経て帰りたまひて、その御心ざしをも遂げたまふべきほどに、かかる違ひ目のあるを、いかに思すらむ。御位を去り、もの静かにて、世を恨めしとや思すらむ」など、「我になりて心動くべきふしかな」と、思し続けたまふに、いとほしく、「何にかくあながちなることを思ひはじめて、心苦しく思ほし悩ますらむ。つらしとも、思ひきこえしかど、また、なつかしうあはれなる御心ばへを」など、思ひ乱れたまひて、とばかりうち眺めたまへり。
 「この御返りは、いかやうにか聞こえさせたまふらむ。また、御消息もいかが」
 など、聞こえたまへど、いとかたはらいたければ、御文はえ引き出でず。宮は悩ましげに思ほして、御返りいともの憂くしたまへど、
 「聞こえたまはざらむも、いと情けなく、かたじけなかるべし」
 と、人びとそそのかしわづらひきこゆるけはひを聞きたまひて、
 「いとあるまじき御ことなり。しるしばかり聞こえさせたまへ」
 と聞こえたまふも、いと恥づかしけれど、いにしへ思し出づるに、いとなまめき、きよらにて、いみじう泣きたまひし御さまを、そこはかとなくあはれと見たてまつりたまひし御幼心も、ただ今のこととおぼゆるに、故御息所の御ことなど、かきつらねあはれに思されて、ただかく、
 「別るとて遥かに言ひし一言も
  かへりてものは今ぞ悲しき」
 とばかりやありけむ。御使の禄、品々に賜はす。大臣は、御返りをいとゆかしう思せど、え聞こえたまはず。

 [第二段 源氏、朱雀院の心中を思いやる]
 「院の御ありさまは、女にて見たてまつらまほしきを、この御けはひも似げなからず、いとよき御あはひなめるを、内裏は、まだいといはけなくおはしますめるに、かく引き違へきこゆるを、人知れず、ものしとや思すらむ」など、憎きことをさへ思しやりて、胸つぶれたまへど、今日になりて思し止むべきことにしあらねば、事どもあるべきさまにのたまひおきて、むつましう思す修理宰相を詳しく仕うまつるべくのたまひて、内裏に参りたまひぬ。
 「うけばりたる親ざまには、聞こし召されじ」と、院をつつみきこえたまひて、御訪らひばかりと、見せたまへり。よき女房などは、もとより多かる宮なれば、里がちなりしも参り集ひて、いと二なく、けはひあらまほし。
 「あはれ、おはせましかば、いかにかひありて、思しいたづかまし」と、昔の御心ざま思し出づるに、「おほかたの世につけては、惜しうあたらしかりし人の御ありさまぞや。さこそえあらぬものなりけれ。よしありし方は、なほすぐれて」、物の折ごとに思ひ出できこえたまふ。


 [第三段 帝と弘徽殿女御と斎宮女御]
 中宮も内裏にぞおはしましける。主上は、めづらしき人参りたまふと聞こし召しければ、いとうつくしう御心づかひしておはします。ほどよりはいみじうされおとなびたまへり。宮も、
 「かく恥づかしき人参りたまふを、御心づかひして、見えたてまつらせたまへ」
 と聞こえたまひけり。
 人知れず、「大人は恥づかしうやあらむ」と思しけるを、いたう夜更けて参う上りたまへり。いとつつましげにおほどかにて、ささやかにあえかなるけはひのしたまへれば、いとをかし、と思しけり。
 弘徽殿には、御覧じつきたれば、睦ましうあはれに心やすく思ほし、これは、人ざまもいたうしめり、恥づかしげに、大臣の御もてなしもやむごとなくよそほしければ、あなづりにくく思されて、御宿直などは等しくしたまへど、うちとけたる御童遊びに、昼など渡らせたまふことは、あなたがちにおはします。
 権中納言は、思ふ心ありて聞こえたまひけるに、かく参りたまひて、御女にきしろふさまにてさぶらひたまふを、方々にやすからず思すべし。


 [第四段 源氏、朱雀院と語る]
 院には、かの櫛の筥の御返り御覧ぜしにつけても、御心離れがたかりけり。
 そのころ、大臣の参りたまへるに、御物語こまやかなり。ことのついでに、斎宮の下りたまひしこと、先々ものたまひ出づれば、聞こえ出でたまひて、さ思ふ心なむありしなどは、えあらはしたまはず。大臣も、かかる御けしき聞き顔にはあらで、ただ「いかが思したる」とゆかしさに、とかうかの御事をのたまひ出づるに、あはれなる御けしき、あさはかならず見ゆれば、いといとほしく思す。
 「めでたしと、思ほししみにける御容貌、いかやうなるをかしさにか」と、ゆかしう思ひきこえたまへど、さらにえ見たてまつりたまはぬを、ねたう思ほす。
 いと重りかにて、夢にもいはけたる御ふるまひなどのあらばこそ、おのづからほの見えたまふついでもあらめ、心にくき御けはひのみ深さまされば、見たてまつりたまふままに、いとあらまほしと思ひきこえたまへり。
 かく隙間なくて、二所さぶらひたまへば、兵部卿宮、すがすがともえ思ほし立たず、「帝、おとなびたまひなば、さりとも、え思ほし捨てじ」とぞ、待ち過ぐしたまふ。二所の御おぼえども、とりどりに挑みたまへり。


 

第二章 後宮の物語 中宮の御前の物語絵合せ
 [第一段 権中納言方、絵を集める]
 主上は、よろづのことに、すぐれて絵を興あるものに思したり。立てて好ませたまへばにや、二なく描かせたまふ。斎宮の女御、いとをかしう描かせたまふべければ、これに御心移りて、渡らせたまひつつ、描き通はさせたまふ。
 殿上の若き人びとも、このことまねぶをば、御心とどめてをかしきものに思ほしたれば、まして、をかしげなる人の、心ばへあるさまに、まほならず描きすさび、なまめかしう添ひ臥して、とかく筆うちやすらひたまへる御さま、らうたげさに御心しみて、いとしげう渡らせたまひて、ありしよりけに御思ひまされるを、権中納言、聞きたまひて、あくまでかどかどしく今めきたまへる御心にて、「われ人に劣りなむや」と思しはげみて、すぐれたる上手どもを召し取りて、いみじくいましめて、またなきさまなる絵どもを、二なき紙どもに描き集めさせたまふ。

 [第二段 源氏方、須磨の絵日記を準備]
 「物語絵こそ、心ばへ見えて、見所あるものなれ」
 とて、おもしろく心ばへある限りを選りつつ描かせたまふ。例の月次の絵も、見馴れぬさまに、言の葉を書き続けて、御覧ぜさせたまふ。
 わざとをかしうしたれば、また、こなたにてもこれを御覧ずるに、心やすくも取り出でたまはず、いといたく秘めて、この御方へ持て渡らせたまふを惜しみ、領じたまへば、大臣、聞きたまひて、
 「なほ、権中納言の御心ばへの若々しさこそ、改まりがたかめれ」
 など笑ひたまふ。
 「あながちに隠して、心やすくも御覧ぜさせず、悩ましきこゆる、いとめざましや。古代の御絵どものはべる、参らせむ」
 と奏したまひて、殿に古きも新しきも、絵ども入りたる御厨子ども開かせたまひて、女君ともろともに、「今めかしきは、それそれ」と、選り調へさせたまふ。
 「長恨歌」「王昭君」などやうなる絵は、おもしろくあはれなれど、「事の忌みあるは、こたみはたてまつらじ」と選り止めたまふ。
 かの旅の御日記の箱をも取り出でさせたまひて、このついでにぞ、女君にも見せたてまつりたまひける。御心深く知らで今見む人だに、すこしもの思ひ知らむ人は、涙惜しむまじくあはれなり。まいて、忘れがたく、その世の夢を思し覚ます折なき御心どもには、取りかへし悲しう思し出でらる。今まで見せたまはざりける恨みをぞ聞こえたまひける。
 「一人ゐて嘆きしよりは海人の住む
  かたをかくてぞ見るべかりける
 おぼつかなさは、慰みなましものを」
 とのたまふ。いとあはれと、思して、
 「憂きめ見しその折よりも今日はまた
  過ぎにしかたにかへる涙か」
 中宮ばかりには、見せたてまつるべきものなり。かたはなるまじき一帖づつ、さすがに浦々のありさまさやかに見えたるを、選りたまふついでにも、かの明石の家居ぞ、まづ、「いかに」と思しやらぬ時の間なき。


 [第三段 三月十日、中宮の御前の物語絵合せ]
 かう絵ども集めらると聞きたまひて、権中納言、いと心を尽くして、軸、表紙、紐の飾り、いよいよ調へたまふ。
 弥生の十日のほどなれば、空もうららかにて、人の心ものび、ものおもしろき折なるに、内裏わたりも、節会どものひまなれば、ただかやうのことどもにて、御方々暮らしたまふを、同じくは、御覧じ所もまさりぬべくてたてまつらむの御心つきて、いとわざと集め参らせたまへり。
 こなたかなたと、さまざまに多かり。物語絵は、こまやかになつかしさまさるめるを、梅壷の御方は、いにしへの物語、名高くゆゑある限り、弘徽殿は、そのころ世にめづらしく、をかしき限りを選り描かせたまへれば、うち見る目の今めかしきはなやかさは、いとこよなくまされり。
 主上の女房なども、よしある限り、「これは、かれは」など定めあへるを、このころのことにすめり。


 [第四段 「竹取」対「宇津保」]
 中宮も参らせたまへるころにて、方々、御覧じ捨てがたく思ほすことなれば、御行なひも怠りつつ御覧ず。この人びとのとりどりに論ずるを聞こし召して、左右と方分かたせたまふ。
 梅壷の御方には、平典侍、侍従の内侍、少将の命婦。右には、大弐の典侍、中将の命婦、兵衛の命婦を、ただ今は心にくき有職どもにて、心々に争ふ口つきどもを、をかしと聞こし召して、まづ、物語の出で来はじめの祖なる『竹取の翁』に『宇津保の俊蔭』を合はせて争ふ。
 「なよ竹の世々に古りにけること、をかしきふしもなけれど、かくや姫のこの世の濁りにも穢れず、はるかに思ひのぼれる契り高く、神代のことなめれば、あさはかなる女、目及ばぬならむかし」
 と言ふ。右は、
 「かぐや姫ののぼりけむ雲居は、げに、及ばぬことなれば、誰も知りがたし。この世の契りは竹の中に結びければ、下れる人のこととこそは見ゆめれ。ひとつ家の内は照らしけめど、百敷のかしこき御光には並ばずなりにけり。阿部のおほしが千々の黄金を捨てて、火鼠の思ひ片時に消えたるも、いとあへなし。車持の親王の、まことの蓬莱の深き心も知りながら、いつはりて玉の枝に疵をつけたるをあやまちとなす」。
 絵は、巨勢の相覧、手は、紀貫之書けり。紙屋紙に唐の綺をばいして、赤紫の表紙、紫檀の軸、世の常の装ひなり。
 「俊蔭は、はげしき波風におぼほれ、知らぬ国に放たれしかど、なほ、さして行きける方の心ざしもかなひて、つひに、人の朝廷にもわが国にも、ありがたき才のほどを広め、名を残しける古き心を言ふに、絵のさまも、唐土と日の本とを取り並べて、おもしろきことども、なほ並びなし」
 と言ふ。白き色紙、青き表紙、黄なる玉の軸なり。絵は、常則、手は、道風なれば、今めかしうをかしげに、目もかかやくまで見ゆ。左は、そのことわりなし。


 [第五段 「伊勢物語」対「正三位」]
 次に、『伊勢物語』に『正三位』を合はせて、また定めやらず。これも、右はおもしろくにぎははしく、内裏わたりよりうちはじめ、近き世のありさまを描きたるは、をかしう見所まさる。
 平内侍、
 「伊勢の海の深き心をたどらずて
  ふりにし跡と波や消つべき
 世の常のあだことのひきつくろひ飾れるに圧されて、業平が名をや朽たすべき」
 と、争ひかねたり。右の典侍、
 「雲の上に思ひのぼれる心には
  千尋の底もはるかにぞ見る」
 「兵衛の大君の心高さは、げに捨てがたけれど、在五中将の名をば、え朽たさじ」
 とのたまはせて、宮、
 「みるめこそうらふりぬらめ年経にし
  伊勢をの海人の名をや沈めむ」
 かやうの女言にて、乱りがはしく争ふに、一巻に言の葉を尽くして、えも言ひやらず。ただ、あさはかなる若人どもは、死にかへりゆかしがれど、主上のも、宮のも片端をだにえ見ず、いといたう秘めさせたまふ。


  

第三章 後宮の物語 帝の御前の絵合せ
 [第一段 帝の御前の絵合せの企画]
 大臣参りたまひて、かくとりどりに争ひ騒ぐ心ばへども、をかしく思して、
 「同じくは、御前にて、この勝負定めむ」
 と、のたまひなりぬ。かかることもやと、かねて思しければ、中にもことなるは選りとどめたまへるに、かの「須磨」「明石」の二巻は、思すところありて、取り交ぜさせたまへり。
 中納言も、その御心劣らず。このころの世には、ただかくおもしろき紙絵をととのふることを、天の下いとなみたり。
 「今あらため描かむことは、本意なきことなり。ただありけむ限りをこそ」
 とのたまへど、中納言は人にも見せで、わりなき窓を開けて、描かせたまひけるを、院にも、かかること聞かせたまひて、梅壷に御絵どもたてまつらせたまへり。
 年の内の節会どものおもしろく興あるを、昔の上手どものとりどりに描けるに、延喜の御手づから事の心書かせたまへるに、またわが御世の事も描かせたまへる巻に、かの斎宮の下りたまひし日の大極殿の儀式、御心にしみて思しければ、描くべきやう詳しく仰せられて、公茂が仕うまつれるが、いといみじきをたてまつらせたまへり。
 艶に透きたる沈の箱に、同じき心葉のさまなど、いと今めかし。御消息はただ言葉にて、院の殿上にさぶらふ左近中将を御使にてあり。かの大極殿の御輿寄せたる所の、神々しきに、
 「身こそかくしめの外なれそのかみの
  心のうちを忘れしもせず」
 とのみあり。聞こえたまはざらむも、いとかたじけなければ、苦しう思しながら、昔の御簪の端をいささか折りて、
 「しめのうちは昔にあらぬ心地して
  神代のことも今ぞ恋しき」
 とて、縹の唐の紙に包みて参らせたまふ。御使の禄など、いとなまめかし。
 院の帝御覧ずるに、限りなくあはれと思すにぞ、ありし世を取り返さまほしく思ほしける。大臣をもつらしと思ひきこえさせたまひけむかし。過ぎにし方の御報いにやありけむ。
 院の御絵は、后の宮より伝はりて、あの女御の御方にも多く参るべし。尚侍の君も、かやうの御好ましさは人にすぐれて、をかしきさまにとりなしつつ集めたまふ。

 [第二段 三月二十日過ぎ、帝の御前の絵合せ]
 その日と定めて、にはかなるやうなれど、をかしきさまにはかなうしなして、左右の御絵ども参らせたまふ。女房のさぶらひに御座よそはせて、北南方々別れてさぶらふ。殿上人は、後涼殿の簀子に、おのおの心寄せつつさぶらふ。
 左は、紫檀の箱に蘇芳の花足、敷物には紫地の唐の錦、打敷は葡萄染の唐の綺なり。童六人、赤色に桜襲の汗衫、衵は紅に藤襲の織物なり。姿、用意など、なべてならず見ゆ。
 右は、沈の箱に浅香の下机、打敷は青地の高麗の錦、あしゆひの組、花足の心ばへなど、今めかし。童、青色に柳の汗衫、山吹襲の衵着たり。
 皆、御前に舁き立つ。主上の女房、前後と、装束き分けたり。
 召しありて、内大臣、権中納言、参りたまふ。その日、帥宮も参りたまへり。いとよしありておはするうちに、絵を好みたまへば、大臣の、下にすすめたまへるやうやあらむ、ことことしき召しにはあらで、殿上におはするを、仰せ言ありて御前に参りたまふ。
 この判仕うまつりたまふ。いみじう、げに描き尽くしたる絵どもあり。さらにえ定めやりたまはず。
 例の四季の絵も、いにしへの上手どものおもしろきことどもを選びつつ、筆とどこほらず描きながしたるさま、たとへむかたなしと見るに、紙絵は限りありて、山水のゆたかなる心ばへをえ見せ尽くさぬものなれば、ただ筆の飾り、人の心に作り立てられて、今のあさはかなるも、昔のあと恥なく、にぎははしく、あなおもしろと見ゆる筋はまさりて、多くの争ひども、今日は方々に興あることも多かり。
 朝餉の御障子を開けて、中宮もおはしませば、深うしろしめしたらむと思ふに、大臣もいと優におぼえたまひて、所々の判ども心もとなき折々に、時々さし応へたまひけるほど、あらまほし。


 [第三段 左方、勝利をおさめる]
 定めかねて夜に入りぬ。左はなほ数一つある果てに、「須磨」の巻出で来たるに、中納言の御心、騒ぎにけり。あなたにも心して、果ての巻は心ことにすぐれたるを選り置きたまへるに、かかるいみじきものの上手の、心の限り思ひすまして静かに描きたまへるは、たとふべきかたなし。
 親王よりはじめたてまつりて、涙とどめたまはず。その世に、「心苦し悲し」と思ほししほどよりも、おはしけむありさま、御心に思ししことども、ただ今のやうに見え、所のさま、おぼつかなき浦々、磯の隠れなく描きあらはしたまへり。
 草の手に仮名の所々に書きまぜて、まほの詳しき日記にはあらず、あはれなる歌などもまじれる、たぐひゆかし。誰もこと事思ほさず、さまざまの御絵の興、これに皆移り果てて、あはれにおもしろし。よろづ皆おしゆづりて、左、勝つになりぬ。


 

第四章 光る源氏の物語 光る源氏世界の黎明
 [第一段 学問と芸事の清談]
 夜明け方近くなるほどに、ものいとあはれに思されて、御土器など参るついでに、昔の御物語ども出で来て、
 「いはけなきほどより、学問に心を入れてはべりしに、すこしも才などつきぬべくや御覧じけむ、院ののたまはせしやう、『才学といふもの、世にいと重くするものなればにやあらむ、いたう進みぬる人の、命、幸ひと並びぬるは、いとかたきものになむ。品高く生まれ、さらでも人に劣るまじきほどにて、あながちにこの道な深く習ひそ』と、諌めさせたまひて、本才の方々のもの教へさせたまひしに、つたなきこともなく、またとり立ててこのことと心得ることもはべらざりき。絵描くことのみなむ、あやしくはかなきものなから、いかにしてかは心ゆくばかり描きて見るべきと、思ふ折々はべりしを、おぼえぬ山賤になりて、四方の海の深き心を見しに、さらに思ひ寄らぬ隈なく至られにしかど、筆のゆく限りありて、心よりはことゆかずなむ思うたまへられしを、ついでなくて、御覧ぜさすべきならねば、かう好き好きしきやうなる、後の聞こえやあらむ」
 と、親王に申したまへば、
 「何の才も、心より放ちて習ふべきわざならねど、道々に物の師あり、学び所あらむは、事の深さ浅さは知らねど、おのづから移さむに跡ありぬべし。筆取る道と碁打つこととぞ、あやしう魂のほど見ゆるを、深き労なく見ゆるおれ者も、さるべきにて、書き打つたぐひも出で来れど、家の子の中には、なほ人に抜けぬる人、何ごとをも好み得けるとぞ見えたる。院の御前にて、親王たち、内親王、いづれかは、さまざまとりどりの才習はさせたまはざりけむ。その中にも、とり立てたる御心に入れて、伝へ受けとらせたまへるかひありて、『文才をばさるものにて言はず、さらぬことの中には、琴弾かせたまふことなむ一の才にて、次には横笛、琵琶、箏の琴をなむ、次々に習ひたまへる』と、主上も思しのたまはせき。世の人、しか思ひきこえさせたるを、絵はなほ筆のついでにすさびさせたまふあだこととこそ思ひたまへしか、いとかう、まさなきまで、いにしへの墨がきの上手ども、跡をくらうなしつべかめるは、かへりて、けしからぬわざなり」
 と、うち乱れて聞こえたまひて、酔ひ泣きにや、院の御こと聞こえ出でて、皆うちしほれたまひぬ。

 [第二段 光る源氏体制の夜明け]
 二十日あまりの月さし出でて、こなたは、まださやかならねど、おほかたの空をかしきほどなるに、書司の御琴召し出でて、和琴、権中納言賜はりたまふ。さはいへど、人にまさりてかき立てたまへり。親王、箏の御琴、大臣、琴、琵琶は少将の命婦仕うまつる。上人の中にすぐれたるを召して、拍子賜はす。いみじうおもしろし。
 明け果つるままに、花の色も人の御容貌ども、ほのかに見えて、鳥のさへづるほど、心地ゆき、めでたき朝ぼらけなり。禄どもは、中宮の御方より賜はす。親王は、御衣また重ねて賜はりたまふ。


 [第三段 冷泉朝の盛世]
 そのころのことには、この絵の定めをしたまふ。
 「かの浦々の巻は、中宮にさぶらはせたまへ」
 と聞こえさせたまひければ、これが初め、残りの巻々ゆかしがらせたまへど、
 「今、次々に」
 と聞こえさせたまふ。主上にも御心ゆかせたまひて思し召したるを、うれしく見たてまつりたまふ。
 はかなきことにつけても、かうもてなしきこえたまへば、権中納言は、「なほ、おぼえ圧さるべきにや」と、心やましう思さるべかめり。主上の御心ざしは、もとより思ししみにければ、なほ、こまやかに思し召したるさまを、人知れず見たてまつり知りたまひてぞ、頼もしく、「さりとも」と思されける。
 さるべき節会どもにも、「この御時よりと、末の人の言ひ伝ふべき例を添へむ」と思し、私ざまのかかるはかなき御遊びも、めづらしき筋にせさせたまひて、いみじき盛りの御世なり。


 [第四段 嵯峨野に御堂を建立]
 大臣ぞ、なほ常なきものに世を思して、今すこしおとなびおはしますと見たてまつりて、なほ世を背きなむと深く思ほすべかめる。
 「昔のためしを見聞くにも、齢足らで、官位高く昇り、世に抜けぬる人の、長くえ保たぬわざなりけり。この御世には、身のほどおぼえ過ぎにたり。中ごろなきになりて沈みたりし愁へに代はりて、今までもながらふるなり。今より後の栄えは、なほ命うしろめたし。静かに籠もりゐて、後の世のことをつとめ、かつは齢をも延べむ」と思ほして、山里ののどかなるを占めて、御堂を造らせたまひ、仏経のいとなみ添へてせさせたまふめるに、末の君達、思ふさまにかしづき出だして見むと思し召すにぞ、とく捨てたまはむことは、かたげなる。いかに思しおきつるにかと、いと知りがたし。



松風
光る源氏の内大臣時代三十一歳秋の大堰山荘訪問の物語

第一章 明石の物語 上洛と老夫婦の別れの秋


二条東院の完成、明石に上洛を促す---東の院造りたてて、花散里と聞こえし
明石方、大堰の山荘を修理---昔、母君の御祖父、中務宮と聞こえけるが
惟光を大堰に派遣---かやうに思ひ寄るらむとも知りたまはで
腹心の家来を明石に派遣---親しき人々、いみじう忍びて下し遣はす
老夫婦、父娘の別れの歌---秋のころほひなれば、もののあはれ
明石入道の別離の詞---「世の中を捨てはじめしに、かかる人の国に
明石一行の上洛---御車は、あまた続けむも所狭く
第二章 明石の物語 上洛後、源氏との再会

大堰山荘での生活始まる---家のさまもおもしろうて、年ごろ経つる海づらに
大堰山荘訪問の暇乞い---かやうにものはかなくて明かし暮らすに
源氏と明石の再会---忍びやかに、御前疎きは混ぜで、御心づかひして
源氏、大堰山荘で寛ぐ---繕ふべき所、所の預かり、今加へたる家司などに
嵯峨御堂に出向き大堰山荘に宿泊---御寺に渡りたまうて、月ごとの
第三章 明石の物語 桂院での饗宴

大堰山荘を出て桂院に向かう---またの日は京へ帰らせたまふべければ
桂院に到着、饗宴始まる---いとよそほしくさし歩みたまふほど
饗宴の最中に勅使来訪---おのおの絶句など作りわたして、月はなやかに
第四章 紫の君の物語 嫉妬と姫君への関心

二条院に帰邸---殿におはして、とばかりうち休みたまふ
源氏、紫の君に姫君を養女とする件を相談---その夜は、内裏にもさぶらひたまふべけれど

 

第一章 明石の物語 上洛と老夫婦の別れの秋
 [第一段 二条東院の完成、明石に上洛を促す]
 東の院造りたてて、花散里と聞こえし、移ろはしたまふ。西の対、渡殿などかけて、政所、家司など、あるべきさまにし置かせたまふ。東の対は、明石の御方と思しおきてたり。北の対は、ことに広く造らせたまひて、かりにても、あはれと思して、行く末かけて契り頼めたまひし人びと集ひ住むべきさまに、隔て隔てしつらはせたまへるしも、なつかしう見所ありてこまかなる。寝殿は塞げたまはず、時々渡りたまふ御住み所にして、さるかたなる御しつらひどもし置かせたまへり。
 明石には御消息絶えず、今はなほ上りたまひぬべきことをばのたまへど、女は、なほ、わが身のほどを思ひ知るに、
 「こよなくやむごとなき際の人びとだに、なかなかさてかけ離れぬ御ありさまのつれなきを見つつ、もの思ひまさりぬべく聞くを、まして、何ばかりのおぼえなりとてか、さし出でまじらはむ。この若君の御面伏せに、数ならぬ身のほどこそ現はれめ。たまさかにはひ渡りたまふついでを待つことにて、人笑へに、はしたなきこと、いかにあらむ」
 と思ひ乱れても、また、さりとて、かかる所に生ひ出で、数まへられたまはざらむも、いとあはれなれば、ひたすらにもえ恨み背かず。親たちも、「げに、ことわり」と思ひ嘆くに、なかなか、心も尽き果てぬ。

 [第二段 明石方、大堰の山荘を修理]
 昔、母君の御祖父、中務宮と聞こえけるが領じたまひける所、大堰川のわたりにありけるを、その御後、はかばかしうあひ継ぐ人もなくて、年ごろ荒れまどふを思ひ出でて、かの時より伝はりて宿守のやうにてある人を呼び取りて語らふ。
 「世の中を今はと思ひ果てて、かかる住まひに沈みそめしかども、末の世に、思ひかけぬこと出で来てなむ、さらに都の住みか求むるを、にはかにまばゆき人中、いとはしたなく、田舎びにける心地も静かなるまじきを、古き所尋ねて、となむ思ひ寄る。さるべき物は上げ渡さむ。修理などして、かたのごと人住みぬべくは繕ひなされなむや」
 と言ふ。預り、
 「この年ごろ、領ずる人もものしたまはず、あやしきやうになりてはべれば、下屋にぞ繕ひて宿りはべるを、この春のころより、内の大殿の造らせたまふ御堂近くて、かのわたりなむ、いと気騷がしうなりにてはべる。いかめしき御堂ども建てて、多くの人なむ、造りいとなみはべるめる。静かなる御本意ならば、それや違ひはべらむ」
 「何か。それも、かの殿の御蔭に、かたかけてと思ふことありて。おのづから、おひおひに内のことどもはしてむ。まづ、急ぎておほかたのことどもをものせよ」
 と言ふ。
 「みづから領ずる所にはべらねど、また知り伝へたまふ人もなければ、かごかなるならひにて、年ごろ隠ろへはべりつるなり。御荘の田畠などいふことの、いたづらに荒れはべりしかば、故民部大輔の君に申し賜はりて、さるべき物などたてまつりてなむ、領じ作りはべる」
 など、そのあたりの貯へのことどもを危ふげに思ひて、髭がちにつなしにくき顔を、鼻などうち赤めつつ、はちぶき言へば、
 「さらに、その田などやうのことは、ここに知るまじ。ただ年ごろのやうに思ひてものせよ。券などはここになむあれど、すべて世の中を捨てたる身にて、年ごろともかくも尋ね知らぬを、そのことも今詳しくしたためむ」
 など言ふにも、大殿のけはひをかくれば、わづらはしくて、その後、物など多く受け取りてなむ、急ぎ造りける。


 [第三段 惟光を大堰に派遣]
 かやうに思ひ寄るらむとも知りたまはで、上らむことをもの憂がるも、心得ず思し、「若君の、さてつくづくとものしたまふを、後の世に人の言ひ伝へむ、今一際、人悪ろき疵にや」と思ほすに、造り出でてぞ、「しかしかの所をなむ思ひ出でたる」と聞こえさせける。「人に交じらはむことを苦しげにのみものするは、かく思ふなりけり」と心得たまふ。「口惜しからぬ心の用意かな」と思しなりぬ。
 惟光朝臣、例の忍ぶる道は、いつとなくいろひ仕うまつる人なれば、遣はして、さるべきさまに、ここかしこの用意などせさせたまひけり。
 「あたり、をかしうて、海づらに通ひたる所のさまになむはべりける」
 と聞こゆれば、「さやうの住まひに、よしなからずはありぬべし」と思す。
 造らせたまふ御堂は、大覚寺の南にあたりて、滝殿の心ばへなど、劣らずおもしろき寺なり。
 これは、川面に、えもいはぬ松蔭に、何のいたはりもなく建てたる寝殿のことそぎたるさまも、おのづから山里のあはれを見せたり。内のしつらひなどまで思し寄る。


 [第四段 腹心の家来を明石に派遣]
 親しき人びと、いみじう忍びて下し遣はす。逃れがたくて、今はと思ふに、年経つる浦を離れなむこと、あはれに、入道の心細くて一人止まらむことを思ひ乱れて、よろづに悲し。「すべて、など、かく、心尽くしになりはじめけむ身にか」と、露のかからぬたぐひうらやましくおぼゆ。
 親たちも、かかる御迎へにて上る幸ひは、年ごろ寝ても覚めても、願ひわたりし心ざしのかなふと、いとうれしけれど、あひ見で過ぐさむいぶせさの堪へがたう悲しければ、夜昼思ひほれて、同じことをのみ、「さらば、若君をば見たてまつらでは、はべるべきか」と言ふよりほかのことなし。
 母君も、いみじうあはれなり。年ごろだに、同じ庵にも住まずかけ離れつれば、まして誰れによりてかは、かけ留まらむ。ただ、あだにうち見る人のあさはかなる語らひだに、見なれそなれて、別るるほどは、ただならざめるを、まして、もてひがめたる頭つき、心おきてこそ頼もしげなけれど、またさるかたに、「これこそは、世を限るべき住みかなれ」と、あり果てぬ命を限りに思ひて、契り過ぐし来つるを、にはかに行き離れなむも心細し。
 若き人びとの、いぶせう思ひ沈みつるは、うれしきものから、見捨てがたき浜のさまを、「または、えしも帰らじかし」と、寄する波に添へて、袖濡れがちなり。


 [第五段 老夫婦、父娘の別れの歌]
 秋のころほひなれば、もののあはれ取り重ねたる心地して、その日とある暁に、秋風涼しくて、虫の音もとりあへぬに、海の方を見出だしてゐたるに、入道、例の、後夜より深う起きて、鼻すすりうちして、行なひいましたり。いみじう言忌すれど、誰も誰もいとしのびがたし。
 若君は、いともいともうつくしげに、夜光りけむ玉の心地して、袖よりほかに放ちきこえざりつるを、見馴れてまつはしたまへる心ざまなど、ゆゆしきまで、かく、人に違へる身をいまいましく思ひながら、「片時見たてまつらでは、いかでか過ぐさむとすらむ」と、つつみあへず。
 「行く先をはるかに祈る別れ路に
  堪へぬは老いの涙なりけり
 いともゆゆしや」
 とて、おしのごひ隠す。尼君、
 「もろともに都は出で来このたびや
  ひとり野中の道に惑はむ」
 とて、泣きたまふさま、いとことわりなり。ここら契り交はして積もりぬる年月のほどを思へば、かう浮きたることを頼みて、捨てし世に帰るも、思へばはかなしや。御方、
 「いきてまたあひ見むことをいつとてか
  限りも知らぬ世をば頼まむ
 送りにだに」
 と切にのたまへど、方々につけて、えさるまじきよしを言ひつつ、さすがに道のほども、いとうしろめたなきけしきなり。


 [第六段 明石入道の別離の詞]
 「世の中を捨てはじめしに、かかる人の国に思ひ下りはべりしことども、ただ君の御ためと、思ふやうに明け暮れの御かしづきも心にかなふやうもやと、思ひたまへ立ちしかど、身のつたなかりける際の思ひ知らるること多かりしかば、さらに、都に帰りて、古受領の沈めるたぐひにて、貧しき家の蓬葎、元のありさま改むることもなきものから、公私に、をこがましき名を広めて、親の御なき影を恥づかしめむことのいみじさになむ、やがて世を捨てつる門出なりけりと人にも知られにしを、その方につけては、よう思ひ放ちてけりと思ひはべるに、君のやうやう大人びたまひ、もの思ほし知るべきに添へては、など、かう口惜しき世界にて錦を隠しきこゆらむと、心の闇晴れ間なく嘆きわたりはべりしままに、仏神を頼みきこえて、さりとも、かうつたなき身に引かれて、山賤の庵には混じりたまはじ、と思ふ心一つを頼みはべりしに、思ひ寄りがたくて、うれしきことどもを見たてまつりそめても、なかなか身のほどを、とざまかうざまに悲しう嘆きはべりつれど、若君のかう出でおはしましたる御宿世の頼もしさに、かかる渚に月日を過ぐしたまはむも、いとかたじけなう、契りことにおぼえたまへば、見たてまつらざらむ心惑ひは、静めがたけれど、この身は長く世を捨てし心はべり。君達は、世を照らしたまふべき光しるければ、しばし、かかる山賤の心を乱りたまふばかりの御契りこそはありけめ。天に生まるる人の、あやしき三つの途に帰るらむ一時に思ひなずらへて、今日、長く別れたてまつりぬ。命尽きぬと聞こしめすとも、後のこと思しいとなむな。さらぬ別れに、御心動かしたまふな」と言ひ放つものから、「煙ともならむ夕べまで、若君の御ことをなむ、六時の勤めにも、なほ心ぎたなく、うち交ぜはべりぬべき」
 とて、これにぞ、うちひそみぬる。


 [第七段 明石一行の上洛]
 御車は、あまた続けむも所狭く、片へづつ分けむもわづらはしとて、御供の人びとも、あながちに隠ろへ忍ぶれば、舟にて忍びやかにと定めたり。辰の時に舟出したまふ。昔の人もあはれと言ひける浦の朝霧隔たりゆくままに、いともの悲しくて、入道は、心澄み果つまじく、あくがれ眺めゐたり。ここら年を経て、今さらに帰るも、なほ思ひ尽きせず、尼君は泣きたまふ。
 「かの岸に心寄りにし海人舟の
  背きし方に漕ぎ帰るかな」
 御方、
 「いくかへり行きかふ秋を過ぐしつつ
  浮木に乗りてわれ帰るらむ」
 思ふ方の風にて、限りける日違へず入りたまひぬ。人に見咎められじの心もあれば、路のほども軽らかにしなしたり。


 

第二章 明石の物語 上洛後、源氏との再会
 [第一段 大堰山荘での生活始まる]
 家のさまもおもしろうて、年ごろ経つる海づらにおぼえたれば、所変へたる心地もせず。昔のこと思ひ出でられて、あはれなること多かり。造り添へたる廊など、ゆゑあるさまに、水の流れもをかしうしなしたり。まだこまやかなるにはあらねども、住みつかばさてもありぬべし。
 親しき家司に仰せ賜ひて、御まうけのことせさせたまひけり。渡りたまはむことは、とかう思したばかるほどに、日ごろ経ぬ。
 なかなかもの思ひ続けられて、捨てし家居も恋しう、つれづれなれば、かの御形見の琴を掻き鳴らす。折の、いみじう忍びがたければ、人離れたる方にうちとけてすこし弾くに、松風はしたなく響きあひたり。尼君、もの悲しげにて寄り臥したまへるに、起き上がりて、
 「身を変へて一人帰れる山里に
  聞きしに似たる松風ぞ吹く」
 御方、
 「故里に見し世の友を恋ひわびて
  さへづることを誰れか分くらむ」

 [第二段 大堰山荘訪問の暇乞い]
 かやうにものはかなくて明かし暮らすに、大臣、なかなか静心なく思さるれば、人目をもえ憚りあへたまはで、渡りたまふを、女君は、かくなむとたしかに知らせたてまつりたまはざりけるを、例の、聞きもや合はせたまふとて、消息聞こえたまふ。
 「桂に見るべきことはべるを、いさや、心にもあらでほど経にけり。訪らはむと言ひし人さへ、かのわたり近く来ゐて、待つなれば、心苦しくてなむ。嵯峨野の御堂にも、飾りなき仏の御訪らひすべければ、二、三日ははべりなむ」
 と聞こえたまふ。
 「桂の院といふ所、にはかに造らせたまふと聞くは、そこに据ゑたまへるにや」と思すに、心づきなければ、「斧の柄さへ改めたまはむほどや、待ち遠に」と、心ゆかぬ御けしきなり。
 「例の、比べ苦しき御心、いにしへのありさま、名残なしと、世人も言ふなるものを」、何やかやと御心とりたまふほどに、日たけぬ。


 [第三段 源氏と明石の再会]
 忍びやかに、御前疎きは混ぜで、御心づかひして渡りたまひぬ。たそかれ時におはし着きたり。狩の御衣にやつれたまへりしだに世に知らぬ心地せしを、まして、さる御心してひきつくろひたまへる御直衣姿、世になくなまめかしうまばゆき心地すれば、思ひむせべる心の闇も晴るるやうなり。
 めづらしう、あはれにて、若君を見たまふも、いかが浅く思されむ。今まで隔てける年月だに、あさましく悔しきまで思ほす。
 「大殿腹の君をうつくしげなりと、世人もて騒ぐは、なほ時世によれば、人の見なすなりけり。かくこそは、すぐれたる人の山口はしるかりけれ」
 と、うち笑みたる顔の何心なきが、愛敬づき、匂ひたるを、いみじうらうたしと思す。
 乳母の、下りしほどは衰へたりし容貌、ねびまさりて、月ごろの御物語など、馴れ聞こゆるを、あはれに、さる塩屋のかたはらに過ぐしつらむことを、思しのたまふ。
 「ここにも、いと里離れて、渡らむこともかたきを、なほ、かの本意ある所に移ろひたまへ」
 とのたまへど、
 「いとうひうひしきほど過ぐして」
 と聞こゆるも、ことわりなり。夜一夜、よろづに契り語らひ、明かしたまふ。


 [第四段 源氏、大堰山荘で寛ぐ]
 繕ふべき所、所の預かり、今加へたる家司などに仰せらる。桂の院に渡りたまふべしとありければ、近き御荘の人びと、参り集まりたりけるも、皆尋ね参りたり。前栽どもの折れ伏したるなど、繕はせたまふ。
 「ここかしこの立石どもも皆転び失せたるを、情けありてしなさば、をかしかりぬべき所かな。かかる所をわざと繕ふも、あいなきわざなり。さても過ぐし果てねば、立つ時もの憂く、心とまる、苦しかりき」
 など、来し方のことものたまひ出でて、泣きみ笑ひみ、うちとけのたまへる、いとめでたし。
 尼君、のぞきて見たてまつるに、老いも忘れ、もの思ひも晴るる心地してうち笑みぬ。
 東の渡殿の下より出づる水の心ばへ、繕はせたまふとて、いとなまめかしき袿姿うちとけたまへるを、いとめでたううれしと見たてまつるに、閼伽の具などのあるを見たまふに、思し出でて、
 「尼君は、こなたにか。いとしどけなき姿なりけりや」
 とて、御直衣召し出でて、たてまつる。几帳のもとに寄りたまひて、
 「罪軽く生ほし立てたまへる、人のゆゑは、御行なひのほどあはれにこそ、思ひなしきこゆれ。いといたく思ひ澄ましたまへりし御住みかを捨てて、憂き世に帰りたまへる心ざし、浅からず。またかしこには、いかにとまりて、思ひおこせたまふらむと、さまざまになむ」
 と、いとなつかしうのたまふ。
 「捨てはべりし世を、今さらにたち帰り、思ひたまへ乱るるを、推し量らせたまひければ、命長さのしるしも、思ひたまへ知られぬる」と、うち泣きて、「荒磯蔭に、心苦しう思ひきこえさせはべりし二葉の松も、今は頼もしき御生ひ先と、祝ひきこえさするを、浅き根ざしゆゑや、いかがと、かたがた心尽くされはべる」
 など聞こゆるけはひ、よしなからねば、昔物語に、親王の住みたまひけるありさまなど、語らせたまふに、繕はれたる水の音なひ、かことがましう聞こゆ。
 「住み馴れし人は帰りてたどれども
  清水は宿の主人顔なる」
 わざとはなくて、言ひ消つさま、みやびかによし、と聞きたまふ。
 「いさらゐははやくのことも忘れじを
  もとの主人や面変はりせる
 あはれ」
 と、うち眺めて、立ちたまふ姿、にほひ、世に知らず、とのみ思ひきこゆ。


 [第五段 嵯峨御堂に出向き大堰山荘に宿泊]
 御寺に渡りたまうて、月ごとの十四、五日、晦日の日、行はるべき普賢講、阿弥陀、釈迦の念仏の三昧をばさるものにて、またまた加へ行はせたまふべきことなど、定め置かせたまふ。堂の飾り、仏の御具など、めぐらし仰せらる。月の明きに帰りたまふ。
 ありし夜のこと、思し出でらるる、折過ぐさず、かの琴の御琴さし出でたり。そこはかとなくものあはれなるに、え忍びたまはで、掻き鳴らしたまふ。まだ調べも変はらず、ひきかへし、その折今の心地したまふ。
 「契りしに変はらぬ琴の調べにて
  絶えぬ心のほどは知りきや」
 女、
 「変はらじと契りしことを頼みにて
  松の響きに音を添へしかな」
 と聞こえ交はしたるも、似げなからぬこそは、身にあまりたるありさまなめれ。こよなうねびまさりにける容貌、けはひ、え思ほし捨つまじう、若君、はた、尽きもせずまぼられたまふ。
 「いかにせまし。隠ろへたるさまにて生ひ出でむが、心苦しう口惜しきを、二条の院に渡して、心のゆく限りもてなさば、後のおぼえも罪免れなむかし」
 と思ほせど、また、思はむこといとほしくて、えうち出でたまはで、涙ぐみて見たまふ。幼き心地に、すこし恥ぢらひたりしが、やうやううちとけて、もの言ひ笑ひなどして、むつれたまふを見るままに、匂ひまさりてうつくし。抱きておはするさま、見るかひありて、宿世こよなしと見えたり。


 

第三章 明石の物語 桂院での饗宴
 [第一段 大堰山荘を出て桂院に向かう]
 またの日は京へ帰らせたまふべければ、すこし大殿籠もり過ぐして、やがてこれより出でたまふべきを、桂の院に人びと多く参り集ひて、ここにも殿上人あまた参りたり。御装束などしたまひて、
 「いとはしたなきわざかな。かく見あらはさるべき隈にもあらぬを」
 とて、騒がしきに引かれて出でたまふ。心苦しければ、さりげなく紛らはして立ちとまりたまへる戸口に、乳母、若君抱きてさし出でたり。あはれなる御けしきに、かき撫でたまひて、
 「見では、いと苦しかりぬべきこそ、いとうちつけなれ。いかがすべき。いと里遠しや」
 とのたまへば、
 「遥かに思ひたまへ絶えたりつる年ごろよりも、今からの御もてなしの、おぼつかなうはべらむは、心尽くしに」
 など聞こゆ。若君、手をさし出でて、立ちたまへるを慕ひたまへば、ついゐたまひて、
 「あやしう、もの思ひ絶えぬ身にこそありけれ。しばしにても苦しや。いづら。など、もろともに出でては、惜しみたまはぬ。さらばこそ、人心地もせめ」
 とのたまへば、うち笑ひて、女君に「かくなむ」と聞こゆ。
 なかなかもの思ひ乱れて臥したれば、とみにしも動かれず。あまり上衆めかしと思したり。人びともかたはらいたがれば、しぶしぶにゐざり出でて、几帳にはた隠れたるかたはら目、いみじうなまめいてよしあり、たをやぎたるけはひ、皇女たちといはむにも足りぬべし。
 帷子引きやりて、こまやかに語らひたまふとて、とばかり返り見たまへるに、さこそ静めつれ、見送りきこゆ。
 いはむかたなき盛りの御容貌なり。いたうそびやぎたまへりしが、すこしなりあふほどになりたまひにける御姿など、「かくてこそものものしかりけれ」と、御指貫の裾まで、なまめかしう愛敬のこぼれ出るぞ、あながちなる見なしなるべき。
 かの、解けたりし蔵人も、還りなりにけり。靭負尉にて、今年かうぶり得てけり。昔に改め、心地よげにて、御佩刀取りに寄り来たり。人影を見つけて、
 「来し方のもの忘れしはべらねど、かしこければえこそ。浦風おぼえはべりつる暁の寝覚にも、おどろかしきこえさすべきよすがだになくて」
 と、けしきばむを、
 「八重立つ山は、さらに島隠れにも劣らざりけるを、松も昔のと、たどられつるに、忘れぬ人もものしたまひけるに、頼もし」
 など言ふ。
 「こよなしや。我も思ひなきにしもあらざりしを」
 など、あさましうおぼゆれど、
 「今、ことさらに」
 と、うちけざやぎて、参りぬ。

 [第二段 桂院に到着、饗宴始まる]
 いとよそほしくさし歩みたまふほど、かしかましう追ひ払ひて、御車の尻に、頭中将、兵衛督乗せたまふ。
 「いと軽々しき隠れ家、見あらはされぬるこそ、ねたう」
 と、いたうからがりたまふ。
 「昨夜の月に、口惜しう御供に後れはべりにけると思ひたまへられしかば、今朝、霧を分けて参りはべりつる。山の錦は、まだしうはべりけり。野辺の色こそ、盛りにはべりけれ。なにがしの朝臣の、小鷹にかかづらひて、立ち後れはべりぬる、いかがなりぬらむ」
 など言ふ。
 「今日は、なほ桂殿に」とて、そなたざまにおはしましぬ。にはかなる御饗応と騷ぎて、鵜飼ども召したるに、海人のさへづり思し出でらる。
 野に泊りぬる君達、小鳥しるしばかりひき付けさせたる荻の枝など、苞にして参れり。大御酒あまたたび順流れて、川のわたり危ふげなれば、酔ひに紛れておはしまし暮らしつ。


 [第三段 饗宴の最中に勅使来訪]
 おのおの絶句など作りわたして、月はなやかにさし出づるほどに、大御遊び始まりて、いと今めかし。
 弾きもの、琵琶、和琴ばかり、笛ども上手の限りして、折に合ひたる調子吹き立つるほど、川風吹き合はせておもしろきに、月高くさし上がり、よろづのこと澄める夜のやや更くるほどに、殿上人、四、五人ばかり連れて参れり。
 上にさぶらひけるを、御遊びありけるついでに、
 「今日は、六日の御物忌明く日にて、かならず参りたまふべきを、いかなれば」
 と仰せられければ、ここに、かう泊らせたまひにけるよし聞こし召して、御消息あるなりけり。御使は、蔵人弁なりけり。
 「月のすむ川のをちなる里なれば
  桂の影はのどけかるらむ
 うらやましう」
 とあり。かしこまりきこえさせたまふ。
 上の御遊びよりも、なほ所からの、すごさ添へたるものの音をめでて、また酔ひ加はりぬ。ここにはまうけの物もさぶらはざりければ、大堰に、
 「わざとならぬまうけの物や」
 と、言ひつかはしたり。取りあへたるに従ひて参らせたり。衣櫃二荷にてあるを、御使の弁はとく帰り参れば、女の装束かづけたまふ。
 「久方の光に近き名のみして
  朝夕霧も晴れぬ山里」
 行幸待ちきこえたまふ心ばへなるべし。「中に生ひたる」と、うち誦んじたまふついでに、かの淡路島を思し出でて、躬恒が「所からか」とおぼめきけむことなど、のたまひ出でたるに、ものあはれなる酔ひ泣きどもあるべし。
 「めぐり来て手に取るばかりさやけきや
  淡路の島のあはと見し月」
 頭中将、
 「浮雲にしばしまがひし月影の
  すみはつる夜ぞのどけかるべき」
 左大弁、すこしおとなびて、故院の御時にも、むつましう仕うまつりなれし人なりけり。
 「雲の上のすみかを捨てて夜半の月
  いづれの谷にかげ隠しけむ」
 心々にあまたあめれど、うるさくてなむ。
 気近ううち静まりたる御物語、すこしうち乱れて、千年も見聞かまほしき御ありさまなれば、斧の柄も朽ちぬべけれど、今日さへはとて、急ぎ帰りたまふ。
 物ども品々にかづけて、霧の絶え間に立ち混じりたるも、前栽の花に見えまがひたる色あひなど、ことにめでたし。近衛府の名高き舎人、物の節どもなどさぶらふに、さうざうしければ、「其駒」など乱れ遊びて、脱ぎかけたまふ色々、秋の錦を風の吹きおほふかと見ゆ。
 ののしりて帰らせたまふ響きを、大堰にはもの隔てて聞きて、名残さびしう眺めたまふ。「御消息をだにせで」と、大臣も御心にかかれり。


 

第四章 紫の君の物語 嫉妬と姫君への関心
 [第一段 二条院に帰邸]
 殿におはして、とばかりうち休みたまふ。山里の御物語など聞こえたまふ。
 「暇聞こえしほど過ぎつれば、いと苦しうこそ。この好き者どもの尋ね来て、いといたう強ひ止めしに、引かされて。今朝は、いとなやまし」
 とて、大殿籠もれり。例の、心とけず見えたまへど、見知らぬやうにて、
 「なずらひならぬほどを、思し比ぶるも、悪ろきわざなめり。我は我と思ひなしたまへ」
 と、教へきこえたまふ。
 暮れかかるほどに、内裏へ参りたまふに、ひきそばめて急ぎ書きたまふは、かしこへなめり。側目こまやかに見ゆ。うちささめきて遣はすを、御達など、憎みきこゆ。

 [第二段 源氏、紫の君に姫君を養女とする件を相談]
 その夜は、内裏にもさぶらひたまふべけれど、解けざりつる御けしきとりに、夜更けぬれど、まかでたまひぬ。ありつる御返り持て参れり。え引き隠したまはで、御覧ず。ことに憎かるべきふしも見えねば、
 「これ、破り隠したまへ。むつかしや。かかるものの散らむも、今はつきなきほどになりにけり」
 とて、御脇息に寄りゐたまひて、御心のうちには、いとあはれに恋しう思しやらるれば、燈をうち眺めて、ことにものものたまはず。文は広ごりながらあれど、女君、見たまはぬやうなるを、
 「せめて、見隠したまふ御目尻こそ、わづらはしけれ」
 とて、うち笑みたまへる御愛敬、所狭きまでこぼれぬべし。
 さし寄りたまひて、
 「まことは、らうたげなるものを見しかば、契り浅くも見えぬを、さりとて、ものめかさむほども憚り多かるに、思ひなむわづらひぬる。同じ心に思ひめぐらして、御心に思ひ定めたまへ。いかがすべき。ここにて育みたまひてむや。蛭の子が齢にもなりにけるを、罪なきさまなるも思ひ捨てがたうこそ。いはけなげなる下つ方も、紛らはさむなど思ふを、めざましと思さずは、引き結ひたまへかし」
 と聞こえたまふ。
 「思はずにのみとりなしたまふ御心の隔てを、せめて見知らず、うらなくやはとてこそ。いはけなからむ御心には、いとようかなひぬべくなむ。いかにうつくしきほどに」
 とて、すこしうち笑みたまひぬ。稚児をわりなうらうたきものにしたまふ御心なれば、「得て、抱きかしづかばや」と思す。
 「いかにせまし。迎へやせまし」と思し乱る。渡りたまふこといとかたし。嵯峨野の御堂の念仏など待ち出でて、月に二度ばかりの御契りなめり。年のわたりには、立ちまさりぬべかめるを、及びなきことと思へども、なほいかがもの思はしからぬ。


薄雲
光る源氏の内大臣時代三十一歳冬十二月から三十二歳秋までの物語

第一章 明石の物語 母子の雪の別れ


明石、姫君の養女問題に苦慮する---冬になりゆくままに、川づらの住まひ
尼君、姫君を養女に出すことを勧める---尼君、思ひやり深き人にて
明石と乳母、和歌を唱和---雪、霰がちに、心細さまさりて
明石の母子の雪の別れ---この雪すこし解けて渡りたまへり
姫君、二条院へ到着---暗うおはし着きて、御車寄するより
歳末の大堰の明石---大堰には、尽きせず恋しきにも
第二章 源氏の女君たちの物語 新春の女君たちの生活

東の院の花散里---年も返りぬ。うららかなる空に
源氏、大堰山荘訪問を思いつく---山里のつれづれをも絶えず思しやれば
源氏、大堰山荘から嵯峨野の御堂、桂院に回る---かしこには、いとのどやかに
第三章 藤壷の物語 藤壷女院の崩御

太政大臣薨去と天変地異---そのころ、太政大臣亡せたまひぬ
藤壷入道宮の病臥---入道后の宮、春のはじめより悩みわたらせたまひて
藤壷入道宮の崩御---大臣は、朝廷方ざまにても、かくやむごとなき
源氏、藤壷を哀悼---かしこき御身のほどと聞こゆるなかにも
第四章 冷泉帝の物語 出生の秘密と譲位ほのめかし

夜居僧都、帝に密奏---御わざなども過ぎて、事ども静まりて
冷泉帝、出生の秘密を知る---主上、「何事ならむ。この世に恨み残るべく
帝、譲位の考えを漏らす---その日、式部卿の親王亡せたまひぬるよし
帝、源氏への譲位を思う---主上は、王命婦に詳しきことは
源氏、帝の意向を峻絶---秋の司召に、太政大臣になりたまふべきこと
第五章 光る源氏の物語 春秋優劣論と六条院造営の計画

斎宮女御、二条院に里下がり---斎宮の女御は、思ししもしるき御後見にて
源氏、女御と往時を語る---御几帳ばかりを隔てて、みづから
女御に春秋の好みを問う---「はかばかしき方の望みはさるものにて
源氏、紫の君と語らう---対に渡りたまひて、とみにも入りたまはず
源氏、大堰の明石を訪う---「山里の人も、いかに」など、絶えず思しやれど

 

第一章 明石の物語 母子の雪の別れ
 [第一段 明石、姫君の養女問題に苦慮する]
 冬になりゆくままに、川づらの住まひ、いとど心細さまさりて、うはの空なる心地のみしつつ明かし暮らすを、君も、
 「なほ、かくては、え過ぐさじ。かの、近き所に思ひ立ちね」
 と、すすめたまへど、「つらき所多く心見果てむも、残りなき心地すべきを、いかに言ひてか」などいふやうに思ひ乱れたり。
 「さらば、この若君を。かくてのみは、便なきことなり。思ふ心あれば、かたじけなし。対に聞き置きて、常にゆかしがるを、しばし見ならはさせて、袴着の事なども、人知れぬさまならずしなさむとなむ思ふ」
 と、まめやかに語らひたまふ。「さ思すらむ」と思ひわたることなれば、いとど胸つぶれぬ。
 「改めてやむごとなき方にもてなされたまふとも、人の漏り聞かむことは、なかなかにや、つくろひがたく思されむ」
 とて、放ちがたく思ひたる、ことわりにはあれど、
 「うしろやすからぬ方にやなどは、な疑ひたまひそ。かしこには、年経ぬれど、かかる人もなきが、さうざうしくおぼゆるままに、前斎宮のおとなびものしたまふをだにこそ、あながちに扱ひきこゆめれば、まして、かく憎みがたげなめるほどを、おろかには見放つまじき心ばへに」
 など、女君の御ありさまの思ふやうなることも語りたまふ。
 「げに、いにしへは、いかばかりのことに定まりたまふべきにかと、つてにもほの聞こえし御心の、名残なく静まりたまへるは、おぼろけの御宿世にもあらず、人の御ありさまも、ここらの御なかにすぐれたまへるにこそは」と思ひやられて、「数ならぬ人の並びきこゆべきおぼえにもあらぬを、さすがに、立ち出でて、人もめざましと思すことやあらむ。わが身は、とてもかくても同じこと。生ひ先遠き人の御うへも、つひには、かの御心にかかるべきにこそあめれ。さりとならば、げにかう何心なきほどにや譲りきこえまし」と思ふ。
 また、「手を放ちて、うしろめたからむこと。つれづれも慰む方なくては、いかが明かし暮らすべからむ。何につけてか、たまさかの御立ち寄りもあらむ」など、さまざまに思ひ乱るるに、身の憂きこと、限りなし。

 [第二段 尼君、姫君を養女に出すことを勧める]
 尼君、思ひやり深き人にて、
 「あぢきなし。見たてまつらざらむことは、いと胸いたかりぬべけれど、つひにこの御ためによかるべからむことをこそ思はめ。浅く思してのたまふことにはあらじ。ただうち頼みきこえて、渡したてまつりたまひてよ。母方からこそ、帝の御子も際々におはすめれ。この大臣の君の、世に二つなき御ありさまながら、世に仕へたまふは、故大納言の、今ひときざみなり劣りたまひて、更衣腹と言はれたまひし、けぢめにこそはおはすめれ。まして、ただ人はなずらふべきことにもあらず。また、親王たち、大臣の御腹といへど、なほさし向かひたる劣りの所には、人も思ひ落とし、親の御もてなしも、え等しからぬものなり。まして、これは、やむごとなき御方々にかかる人、出でものしたまはば、こよなく消たれたまひなむ。ほどほどにつけて、親にもひとふしもてかしづかれぬる人こそ、やがて落としめられぬはじめとはなれ。御袴着のほども、いみじき心を尽くすとも、かかる深山隠れにては、何の栄かあらむ。ただ任せきこえたまひて、もてなしきこえたまはむありさまをも、聞きたまへ」
 と教ふ。
 さかしき人の心の占どもにも、もの問はせなどするにも、なほ「渡りたまひてはまさるべし」とのみ言へば、思ひ弱りにたり。
 殿も、しか思しながら、思はむところのいとほしさに、しひてもえのたまはで、
 「御袴着のことは、いかやうにか」
 とのたまへる御返りに、
 「よろづのこと、かひなき身にたぐへきこえては、げに生ひ先もいとほしかるべくおぼえはべるを、たち交じりても、いかに人笑へにや」
 と聞こえたるを、いとどあはれに思す。
 日など取らせたまひて、忍びやかに、さるべきことなどのたまひおきてさせたまふ。放ちきこえむことは、なほいとあはれにおぼゆれど、「君の御ためによかるべきことをこそは」と念ず。
 「乳母をもひき別れなむこと。明け暮れのもの思はしさ、つれづれをもうち語らひて、慰めならひつるに、いとどたつきなきことをさへ取り添へ、いみじくおぼゆべきこと」と、君も泣く。
 乳母も、
 「さるべきにや、おぼえぬさまにて、見たてまつりそめて、年ごろの御心ばへの、忘れがたう恋しうおぼえたまふべきを、うち絶えきこゆることはよもはべらじ。つひにはと頼みながら、しばしにても、よそよそに、思ひのほかの交じらひしはべらむが、安からずもはべるべきかな」
 など、うち泣きつつ過ぐすほどに、師走にもなりぬ。


 [第三段 明石と乳母、和歌を唱和]
 雪、霰がちに、心細さまさりて、「あやしくさまざまに、もの思ふべかりける身かな」と、うち嘆きて、常よりもこの君を撫でつくろひつつ見ゐたり。
 雪かきくらし降りつもる朝、来し方行く末のこと、残らず思ひつづけて、例はことに端近なる出で居などもせぬを、汀の氷など見やりて、白き衣どものなよよかなるあまた着て、眺めゐたる様体、頭つき、うしろでなど、「限りなき人と聞こゆとも、かうこそはおはすらめ」と人びとも見る。落つる涙をかき払ひて、
 「かやうならむ日、ましていかにおぼつかなからむ」と、らうたげにうち泣きて、
 「雪深み深山の道は晴れずとも
  なほ文かよへ跡絶えずして」
 とのたまへば、乳母、うち泣きて、
 「雪間なき吉野の山を訪ねても
  心のかよふ跡絶えめやは」
 と言ひ慰む。


 [第四段 明石の母子の雪の別れ]
 この雪すこし解けて渡りたまへり。例は待ちきこゆるに、さならむとおぼゆることにより、胸うちつぶれて、人やりならず、おぼゆ。
 「わが心にこそあらめ。いなびきこえむをしひてやは、あぢきな」とおぼゆれど、「軽々しきやうなり」と、せめて思ひ返す。
 いとうつくしげにて、前にゐたまへるを見たまふに、
 「おろかには思ひがたかりける人の宿世かな」
 と思ほす。この春より生ふす御髪、尼削ぎのほどにて、ゆらゆらとめでたく、つらつき、まみの薫れるほどなど、言へばさらなり。よそのものに思ひやらむほどの心の闇、推し量りたまふに、いと心苦しければ、うち返しのたまひ明かす。
 「何か。かく口惜しき身のほどならずだにもてなしたまはば」
 と聞こゆるものから、念じあへずうち泣くけはひ、あはれなり。
 姫君は、何心もなく、御車に乗らむことを急ぎたまふ。寄せたる所に、母君みづから抱きて出でたまへり。片言の、声はいとうつくしうて、袖をとらへて、「乗りたまへ」と引くも、いみじうおぼえて、
 「末遠き二葉の松に引き別れ
  いつか木高きかげを見るべき」
 えも言ひやらず、いみじう泣けば、
 「さりや、あな苦し」と思して、
 「生ひそめし根も深ければ武隈の
  松に小松の千代をならべむ
 のどかにを」
 と、慰めたまふ。さることとは思ひ静むれど、えなむ堪へざりける。乳母の少将とて、あてやかなる人ばかり、御佩刀、天児やうの物取りて乗る。人だまひによろしき若人、童女など乗せて、御送りに参らす。
 道すがら、とまりつる人の心苦しさを、「いかに。罪や得らむ」と思す。


 [第五段 姫君、二条院へ到着]
 暗うおはし着きて、御車寄するより、はなやかにけはひことなるを、田舎びたる心地どもは、「はしたなくてや交じらはむ」と思ひつれど、西表をことにしつらはせたまひて、小さき御調度ども、うつくしげに調へさせたまへり。乳母の局には、西の渡殿の、北に当れるをせさせたまへり。
 若君は、道にて寝たまひにけり。抱き下ろされて、泣きなどはしたまはず。こなたにて御くだもの参りなどしたまへど、やうやう見めぐらして、母君の見えぬをもとめて、らうたげにうちひそみたまへば、乳母召し出でて、慰め紛らはしきこえたまふ。
 「山里のつれづれ、ましていかに」と思しやるはいとほしけれど、明け暮れ思すさまにかしづきつつ、見たまふは、ものあひたる心地したまふらむ。
 「いかにぞや、人の思ふべき瑕なきことは、このわたりに出でおはせで」
 と、口惜しく思さる。
 しばしは、人びともとめて泣きなどしたまひしかど、おほかた心やすくをかしき心ざまなれば、上にいとよくつき睦びきこえたまへれば、「いみじううつくしきもの得たり」と思しけり。こと事なく抱き扱ひ、もてあそびきこえたまひて、乳母も、おのづから近う仕うまつり馴れにけり。また、やむごとなき人の乳ある、添へて参りたまふ。
 御袴着は、何ばかりわざと思しいそぐことはなけれど、けしきことなり。御しつらひ、雛遊びの心地してをかしう見ゆ。参りたまへる客人ども、ただ明け暮れのけぢめしなければ、あながちに目も立たざりき。ただ、姫君の襷引き結ひたまへる胸つきぞ、うつくしげさ添ひて見えたまへる。


 [第六段 歳末の大堰の明石]
 大堰には、尽きせず恋しきにも、身のおこたりを嘆き添へたり。さこそ言ひしか、尼君もいとど涙もろなれど、かくもてかしづかれたまふを聞くはうれしかりけり。何ごとをか、なかなか訪らひきこえたまはむ、ただ御方の人びとに、乳母よりはじめて、世になき色あひを思ひいそぎてぞ、贈りきこえたまひける。
 「待ち遠ならむも、いとどさればよ」と思はむに、いとほしければ、年の内に忍びて渡りたまへり。
 いとどさびしき住まひに、明け暮れのかしづきぐさをさへ離れきこえて、思ふらむことの心苦しければ、御文なども絶え間なく遣はす。
 女君も、今はことに怨じきこえたまはず、うつくしき人に罪ゆるしきこえたまへり。


 

第二章  源氏の女君たちの物語 新春の女君たちの生活
 [第一段 東の院の花散里]
 年も返りぬ。うららかなる空に、思ふことなき御ありさまは、いとどめでたく、磨き改めたる御よそひに、参り集ひたまふめる人の、おとなしきほどのは、七日、御よろこびなどしたまふ、ひき連れたまへり。
 若やかなるは、何ともなく心地よげに見えたまふ。次々の人も、心のうちには思ふこともやあらむ、うはべは誇りかに見ゆる、ころほひなりかし。
 東の院の対の御方も、ありさまは好ましう、あらまほしきさまに、さぶらふ人びと、童女の姿など、うちとけず、心づかひしつつ過ぐしたまふに、近きしるしはこよなくて、のどかなる御暇の隙などには、ふとはひ渡りなどしたまへど、夜たち泊りなどやうに、わざとは見えたまはず。
 ただ、御心ざまのおいらかにこめきて、「かばかりの宿世なりける身にこそあらめ」と思ひなしつつ、ありがたきまでうしろやすくのどかにものしたまへば、をりふしの御心おきてなども、こなたの御ありさまに劣るけぢめこよなからずもてなしたまひて、あなづりきこゆべうはあらねば、同じごと、人参り仕うまつりて、別当どもも事おこたらず、なかなか乱れたるところなく、目やすき御ありさまなり。

 [第二段 源氏、大堰山荘訪問を思いつく]
 山里のつれづれをも絶えず思しやれば、公私もの騒がしきほど過ぐして、渡りたまふとて、常よりことにうち化粧じたまひて、桜の御直衣に、えならぬ御衣ひき重ねて、たきしめ、装束きたまひて、まかり申したまふさま、隈なき夕日に、いとどしくきよらに見えたまふを、女君、ただならず見たてまつり送りたまふ。
 姫君は、いはけなく御指貫の裾にかかりて、慕ひきこえたまふほどに、外にも出でたまひぬべければ、立ちとまりて、いとあはれと思したり。こしらへおきて、「明日帰り来む」と、口ずさびて出でたまふに、渡殿の戸口に待ちかけて、中将の君して聞こえたまへり。
 「舟とむる遠方人のなくはこそ
  明日帰り来む夫と待ち見め」
 いたう馴れて聞こゆれば、いとにほひやかにほほ笑みて、
 「行きて見て明日もさね来むなかなかに
  遠方人は心置くとも」
 何事とも聞き分かでされありきたまふ人を、上はうつくしと見たまへば、遠方人のめざましきも、こよなく思しゆるされにたり。
 「いかに思ひおこすらむ。われにて、いみじう恋しかりぬべきさまを」
 と、うちまもりつつ、ふところに入れて、うつくしげなる御乳をくくめたまひつつ、戯れゐたまへる御さま、見どころ多かり。御前なる人々は、
 「などか、同じくは」
 「いでや」
 など、語らひあへり。


 [第三段 源氏、大堰山荘から嵯峨野の御堂、桂院に回る]
 かしこには、いとのどやかに、心ばせあるけはひに住みなして、家のありさまも、やう離れめづらしきに、みづからのけはひなどは、見るたびごとに、やむごとなき人々などに劣るけぢめこよなからず、容貌、用意あらまほしうねびまさりゆく。
 「ただ、世の常のおぼえにかき紛れたらば、さるたぐひなくやはと思ふべきを、世に似ぬひがものなる親の聞こえなどこそ、苦しけれ。人のほどなどは、さてもあるべきを」など思す。
 はつかに、飽かぬほどにのみあればにや、心のどかならず立ち帰りたまふも苦しくて、「夢のわたりの浮橋か」とのみ、うち嘆かれて、箏の琴のあるを引き寄せて、かの明石にて、小夜更けたりし音も、例の思し出でらるれば、琵琶をわりなく責めたまへば、すこし掻き合はせたる、「いかで、かうのみひき具しけむ」と思さる。若君の御ことなど、こまやかに語りたまひつつおはす。
 ここは、かかる所なれど、かやうに立ち泊りたまふ折々あれば、はかなき果物、強飯ばかりはきこしめす時もあり。近き御寺、桂殿などにおはしまし紛らはしつつ、いとまほには乱れたまはねど、また、いとけざやかにはしたなく、おしなべてのさまにはもてなしたまはぬなどこそは、いとおぼえことには見ゆめれ。
 女も、かかる御心のほどを見知りきこえて、過ぎたりと思すばかりのことはし出でず、また、いたく卑下せずなどして、御心おきてにもて違ふことなく、いとめやすくぞありける。
 おぼろけにやむごとなき所にてだに、かばかりもうちとけたまふことなく、気高き御もてなしを聞き置きたれば、
 「近きほどに交じらひては、なかなかいと目馴れて、人あなづられなることどももぞあらまし。たまさかにて、かやうにふりはへたまへるこそ、たけき心地すれ」
 と思ふべし。
 明石にも、さこそ言ひしか、この御心おきて、ありさまをゆかしがりて、おぼつかなからず、人は通はしつつ、胸つぶるることもあり、また、おもだたしく、うれしと思ふことも多くなむありける。


 

第三章 藤壷の物語 藤壷女院の崩御
 [第一段 太政大臣薨去と天変地異]
 そのころ、太政大臣亡せたまひぬ。世の重しとおはしつる人なれば、朝廷にも思し嘆く。しばし、籠もりたまひしほどをだに、天の下の騷ぎなりしかば、まして、悲しと思ふ人多かり。源氏の大臣も、いと口惜しく、よろづのこと、おし譲りきこえてこそ、暇もありつるを、心細く、事しげくも思されて、嘆きおはす。
 帝は、御年よりはこよなう大人大人しうねびさせたまひて、世の政事も、うしろめたく思ひきこえたまふべきにはあらねども、またとりたてて御後見したまふべき人もなきを、「誰れに譲りてかは、静かなる御本意もかなはむ」と思すに、いと飽かず口惜し。
 後の御わざなどにも、御子ども孫に過ぎてなむ、こまやかに弔らひ、扱ひたまひける。
 その年、おほかた世の中騒がしくて、朝廷ざまに、もののさとししげく、のどかならで、
 「天つ空にも、例に違へる月日星の光見え、雲のたたずまひあり」
 とのみ、世の人おどろくこと多くて、道々の勘文どもたてまつれるにも、あやしく世になべてならぬことども混じりたり。内の大臣のみなむ、御心のうちに、わづらはしく思し知らるることありける。

 [第二段 藤壷入道宮の病臥]
 入道后の宮、春のはじめより悩みわたらせたまひて、三月にはいと重くならせたまひぬれば、行幸などあり。院に別れたてまつらせたまひしほどは、いといはけなくて、もの深くも思されざりしを、いみじう思し嘆きたる御けしきなれば、宮もいと悲しく思し召さる。
 「今年は、かならず逃るまじき年と思ひたまへつれど、おどろおどろしき心地にもはべらざりつれば、命の限り知り顔にはべらむも、人やうたて、ことことしう思はむと憚りてなむ、功徳のことなども、わざと例よりも取り分きてしもはべらずなりにける。
 参りて、心のどかに昔の御物語もなど思ひたまへながら、うつしざまなる折少なくはべりて、口惜しく、いぶせくて過ぎはべりぬること」
 と、いと弱げに聞こえたまふ。
 三十七にぞおはしましける。されど、いと若く盛りにおはしますさまを、惜しく悲しと見たてまつらせたまふ。
 「慎ませたまふべき御年なるに、晴れ晴れしからで、月ごろ過ぎさせたまふことをだに、嘆きわたりはべりつるに、御慎みなどをも、常よりことにせさせたまはざりけること」
 と、いみじう思し召したり。ただこのころぞ、おどろきて、よろづのことせさせたまふ。月ごろは、常の御悩みとのみうちたゆみたりつるを、源氏の大臣も深く思し入りたり。限りあれば、ほどなく帰らせたまふも、悲しきこと多かり。
 宮、いと苦しうて、はかばかしうものも聞こえさせたまはず。御心のうちに思し続くるに、「高き宿世、世の栄えも並ぶ人なく、心のうちに飽かず思ふことも人にまさりける身」と思し知らる。主上の、夢のうちにも、かかる事の心を知らせたまはぬを、さすがに心苦しう見たてまつりたまひて、これのみぞ、うしろめたくむすぼほれたることに、思し置かるべき心地したまひける。


 [第三段 藤壷入道宮の崩御]
 大臣は、朝廷方ざまにても、かくやむごとなき人の限り、うち続き亡せたまひなむことを思し嘆く。人知れぬあはれ、はた、限りなくて、御祈りなど思し寄らぬことなし。年ごろ思し絶えたりつる筋さへ、今一度、聞こえずなりぬるが、いみじく思さるれば、近き御几帳のもとに寄りて、御ありさまなども、さるべき人びとに問ひ聞きたまへば、親しき限りさぶらひて、こまかに聞こゆ。
 「月ごろ悩ませたまへる御心地に、御行なひを時の間もたゆませたまはずせさせたまふ積もりの、いとどいたうくづほれさせたまふに、このころとなりては、柑子などをだに、触れさせたまはずなりにたれば、頼みどころなくならせたまひにたること」
 と、泣き嘆く人びと多かり。
 「院の御遺言にかなひて、内裏の御後見仕うまつりたまふこと、年ごろ思ひ知りはべること多かれど、何につけてかは、その心寄せことなるさまをも、漏らしきこえむとのみ、のどかに思ひはべりけるを、今なむあはれに口惜しく」
 と、ほのかにのたまはするも、ほのぼの聞こゆるに、御応へも聞こえやりたまはず、泣きたまふさま、いといみじ。「などかうしも心弱きさまに」と、人目を思し返せど、いにしへよりの御ありさまを、おほかたの世につけても、あたらしく惜しき人の御さまを、心にかなふわざならねば、かけとどめきこえむ方なく、いふかひなく思さるること限りなし。
 「はかばかしからぬ身ながらも、昔より、御後見仕うまつるべきことを、心のいたる限り、おろかならず思ひたまふるに、太政大臣の隠れたまひぬるをだに、世の中、心あわたたしく思ひたまへらるるに、また、かくおはしませば、よろづに心乱れはべりて、世にはべらむことも、残りなき心地なむしはべる」
 など聞こえたまふほどに、燈火などの消え入るやうにて果てたまひぬれば、いふかひなく悲しきことを思し嘆く。


 [第四段 源氏、藤壷を哀悼]
 かしこき御身のほどと聞こゆるなかにも、御心ばへなどの、世のためしにもあまねくあはれにおはしまして、豪家にことよせて、人の愁へとあることなどもおのづからうち混じるを、いささかもさやうなる事の乱れなく、人の仕うまつることをも、世の苦しみとあるべきことをば、止めたまふ。
 功徳の方とても、勧むるによりたまひて、いかめしうめづらしうしたまふ人なども、昔のさかしき世に皆ありけるを、これは、さやうなることなく、ただもとよりの宝物、得たまふべき年官、年爵、御封の物のさるべき限りして、まことに心深きことどもの限りをし置かせたまへれば、何とわくまじき山伏などまで惜しみきこゆ。
 をさめたてまつるにも、世の中響きて、悲しと思はぬ人なし。殿上人など、なべてひとつ色に黒みわたりて、ものの栄なき春の暮なり。二条院の御前の桜を御覧じても、花の宴の折など思し出づ。「今年ばかりは」と、一人ごちたまひて、人の見とがめつべければ、御念誦堂に籠もりゐたまひて、日一日泣き暮らしたまふ。夕日はなやかにさして、山際の梢あらはなるに、雲の薄くわたれるが、鈍色なるを、何ごとも御目とどまらぬころなれど、いとものあはれに思さる。
 「入り日さす峰にたなびく薄雲は
  もの思ふ袖に色やまがへる」
 人聞かぬ所なれば、かひなし。


 

第四章 冷泉帝の物語 出生の秘密と譲位ほのめかし
 [第一段 夜居僧都、帝に密奏]
 御わざなども過ぎて、事ども静まりて、帝、もの心細く思したり。この入道の宮の御母后の御世より伝はりて、次々の御祈りの師にてさぶらひける僧都、故宮にもいとやむごとなく親しきものに思したりしを、朝廷にも重き御おぼえにて、いかめしき御願ども多く立てて、世にかしこき聖なりける、年七十ばかりにて、今は終りの行なひをせむとて籠もりたるが、宮の御事によりて出でたるを、内裏より召しありて、常にさぶらはせたまふ。
 このごろは、なほもとのごとく参りさぶらはるべきよし、大臣も勧めのたまへば、
 「今は、夜居など、いと堪へがたうおぼえはべれど、仰せ言のかしこきにより、古き心ざしを添へて」
 とて、さぶらふに、静かなる暁に、人も近くさぶらはず、あるはまかでなどしぬるほどに、古代にうちしはぶきつつ、世の中のことども奏したまふついでに、
 「いと奏しがたく、かへりては罪にもやまかり当たらむと思ひたまへ憚る方多かれど、知ろし召さぬに、罪重くて、天眼恐ろしく思ひたまへらるることを、心にむせびはべりつつ、命終りはべりなば、何の益かははべらむ。仏も心ぎたなしとや思し召さむ」
 とばかり奏しさして、えうち出でぬことあり。

 [第二段 冷泉帝、出生の秘密を知る]
 主上、「何事ならむ。この世に恨み残るべく思ふことやあらむ。法師は、聖といへども、あるまじき横様の嫉み深く、うたてあるものを」と思して、
 「いはけなかりし時より、隔て思ふことなきを、そこには、かく忍び残されたることありけるをなむ、つらく思ひぬる」
 とのたまはすれば、
 「あなかしこ。さらに、仏の諌め守りたまふ真言の深き道をだに、隠しとどむることなく広め仕うまつりはべり。まして、心に隈あること、何ごとにかはべらむ。
 これは来し方行く先の大事とはべることを、過ぎおはしましにし院、后の宮、ただ今世をまつりごちたまふ大臣の御ため、すべて、かへりてよからぬ事にや漏り出ではべらむ。かかる老法師の身には、たとひ愁へはべりとも、何の悔かはべらむ。仏天の告げあるによりて奏しはべるなり。
 わが君はらまれおはしましたりし時より、故宮の深く思し嘆くことありて、御祈り仕うまつらせたまふゆゑなむはべりし。詳しくは法師の心にえ悟りはべらず。事の違ひめありて、大臣横様の罪に当たりたまひし時、いよいよ懼ぢ思し召して、重ねて御祈りども承はりはべりしを、大臣も聞こし召してなむ、またさらに言加へ仰せられて、御位に即きおはしまししまで仕うまつることどもはべりし。
 その承りしさま」
 とて、詳しく奏するを聞こし召すに、あさましうめづらかにて、恐ろしうも悲しうも、さまざまに御心乱れたり。
 とばかり、御応へもなければ、僧都、「進み奏しつるを便なく思し召すにや」と、わづらはしく思ひて、やをらかしこまりてまかづるを、召し止めて、
 「心に知らで過ぎなましかば、後の世までの咎めあるべかりけることを、今まで忍び籠められたりけるをなむ、かへりてはうしろめたき心なりと思ひぬる。またこの事を知りて漏らし伝ふるたぐひやあらむ」
 とのたまはす。
 「さらに、なにがしと王命婦とより他の人、この事のけしき見たるはべらず。さるによりなむ、いと恐ろしうはべる。天変しきりにさとし、世の中静かならぬは、このけなり。いときなく、ものの心知ろし召すまじかりつるほどこそはべりつれ、やうやう御齢足りおはしまして、何事もわきまへさせたまふべき時に至りて、咎をも示すなり。よろづのこと、親の御世より始まるにこそはべるなれ。何の罪とも知ろし召さぬが恐ろしきにより、思ひたまへ消ちてしことを、さらに心より出しはべりぬること」
 と、泣く泣く聞こゆるほどに、明け果てぬれば、まかでぬ。
 主上は、夢のやうにいみじきことを聞かせたまひて、いろいろに思し乱れさせたまふ。
 「故院の御ためもうしろめたく、大臣のかくただ人にて世に仕へたまふも、あはれにかたじけなかりける事」
 かたがた思し悩みて、日たくるまで出でさせたまはねば、「かくなむ」と聞きたまひて、大臣も驚きて参りたまへるを、御覧ずるにつけても、いとど忍びがたく思し召されて、御涙のこぼれさせたまひぬるを、
 「おほかた故宮の御事を、干る世なく思し召したるころなればなめり」
 と見たてまつりたまふ。


 [第三段 帝、譲位の考えを漏らす]
 その日、式部卿の親王亡せたまひぬるよし奏するに、いよいよ世の中の騒がしきことを嘆き思したり。かかるころなれば、大臣は里にもえまかでたまはで、つとさぶらひたまふ。
 しめやかなる御物語のついでに、
 「世は尽きぬるにやあらむ、もの心細く例ならぬ心地なむするを、天の下もかくのどかならぬに、よろづあわたたしくなむ。故宮の思さむところによりてこそ、世間のことも思ひ憚りつれ、今は心やすきさまにても過ぐさまほしくなむ」
 と語らひきこえたまふ。
 「いとあるまじき御ことなり。世の静かならぬことは、かならず政事の直く、ゆがめるにもよりはべらず。さかしき世にしもなむ、よからぬことどももはべりける。聖の帝の世にも、横様の乱れ出で来ること、唐土にもはべりける。わが国にもさなむはべる。まして、ことわりの齢どもの、時至りぬるを、思し嘆くべきことにもはべらず」
 など、すべて多くのことどもを聞こえたまふ。片端まねぶも、いとかたはらいたしや。
 常よりも黒き御装ひに、やつしたまへる御容貌、違ふところなし。主上も、年ごろ御鏡にも、思しよることなれど、聞こし召ししことの後は、またこまかに見たてまつりたまひつつ、ことにいとあはれに思し召さるれば、「いかで、このことをかすめ聞こえばや」と思せど、さすがに、はしたなくも思しぬべきことなれば、若き御心地につつましくて、ふともえうち出できこえたまはぬほどは、ただおほかたのことどもを、常よりことになつかしう聞こえさせたまふ。
 うちかしこまりたまへるさまにて、いと御けしきことなるを、かしこき人の御目には、あやしと見たてまつりたまへど、いとかく、さださだと聞こし召したらむとは思さざりけり。


 [第四段 帝、源氏への譲位を思う]
 主上は、王命婦に詳しきことは、問はまほしう思し召せど、
 「今さらに、しか忍びたまひけむこと知りにけりと、かの人にも思はれじ。ただ、大臣にいかでほのめかし問ひきこえて、先々のかかる事の例はありけりやと問ひ聞かむ」
 とぞ思せど、さらについでもなければ、いよいよ御学問をせさせたまひつつ、さまざまの書どもを御覧ずるに、
 「唐土には、現はれても忍びても、乱りがはしき事いと多かりけり。日本には、さらに御覧じ得るところなし。たとひあらむにても、かやうに忍びたらむことをば、いかでか伝へ知るやうのあらむとする。一世の源氏、また納言、大臣になりて後に、さらに親王にもなり、位にも即きたまへるも、あまたの例ありけり。人柄のかしこきにことよせて、さもや譲りきこえまし」
 など、よろづにぞ思しける。


 [第五段 源氏、帝の意向を峻絶]
 秋の司召に、太政大臣になりたまふべきこと、うちうちに定め申したまふついでになむ、帝、思し寄する筋のこと、漏らしきこえたまひけるを、大臣、いとまばゆく、恐ろしう思して、さらにあるまじきよしを申し返したまふ。
 「故院の御心ざし、あまたの皇子たちの御中に、とりわきて思し召しながら、位を譲らせたまはむことを思し召し寄らずなりにけり。何か、その御心改めて、及ばぬ際には昇りはべらむ。ただ、もとの御おきてのままに、朝廷に仕うまつりて、今すこしの齢かさなりはべりなば、のどかなる行なひに籠もりはべりなむと思ひたまふる」
 と、常の御言の葉に変はらず奏したまへば、いと口惜しうなむ思しける。
 太政大臣になりたまふべき定めあれど、しばし、と思すところありて、ただ御位添ひて、牛車聴されて参りまかでしたまふを、帝、飽かず、かたじけなきものに思ひきこえたまひて、なほ親王になりたまふべきよしを思しのたまはすれど、
 「世の中の御後見したまふべき人なし。権中納言、大納言になりて、右大将かけたまへるを、今一際あがりなむに、何ごとも譲りてむ。さて後に、ともかくも、静かなるさまに」
 とぞ思しける。なほ思しめぐらすに、
 「故宮の御ためにもいとほしう、また主上のかく思し召し悩めるを見たてまつりたまふもかたじけなきに、誰れかかることを漏らし奏しけむ」
 と、あやしう思さる。
 命婦は、御匣殿の替はりたる所に移りて、曹司たまはりて参りたり。大臣、対面したまひて、
 「このことを、もし、もののついでに、露ばかりにても漏らし奏したまふことやありし」
 と案内したまへど、
 「さらに。かけても聞こし召さむことを、いみじきことに思し召して、かつは、罪得ることにやと、主上の御ためを、なほ思し召し嘆きたりし」
 と聞こゆるにも、ひとかたならず心深くおはせし御ありさまなど、尽きせず恋ひきこえたまふ。


 

第五章 光る源氏の物語 春秋優劣論と六条院造営の計画
 [第一段 斎宮女御、二条院に里下がり]
 斎宮の女御は、思ししもしるき御後見にて、やむごとなき御おぼえなり。御用意、ありさまなども、思ふさまにあらまほしう見えたまへれば、かたじけなきものにもてかしづききこえたまへり。
 秋のころ、二条院にまかでたまへり。寝殿の御しつらひ、いとど輝くばかりしたまひて、今はむげの親ざまにもてなして、扱ひきこえたまふ。
 秋の雨いと静かに降りて、御前の前栽の色々乱れたる露のしげさに、いにしへのことどもかき続け思し出でられて、御袖も濡れつつ、女御の御方に渡りたまへり。こまやかなる鈍色の御直衣姿にて、世の中の騒がしきなどことつけたまひて、やがて御精進なれば、数珠ひき隠して、さまよくもてなしたまへる、尽きせずなまめかしき御ありさまにて、御簾の内に入りたまひぬ。

 [第二段 源氏、女御と往時を語る]
 御几帳ばかりを隔てて、みづから聞こえたまふ。
 「前栽どもこそ残りなく紐解きはべりにけれ。いとものすさまじき年なるを、心やりて時知り顔なるも、あはれにこそ」
 とて、柱に寄りゐたまへる夕ばえ、いとめでたし。昔の御ことども、かの野の宮に立ちわづらひし曙などを、聞こえ出でたまふ。いとものあはれと思したり。
 宮も、「かくれば」とにや、すこし泣きたまふけはひ、いとらうたげにて、うち身じろきたまふほども、あさましくやはらかになまめきておはすべかめる。「見たてまつらぬこそ、口惜しけれ」と、胸のうちつぶるるぞ、うたてあるや。
 「過ぎにし方、ことに思ひ悩むべきこともなくてはべりぬべかりし世の中にも、なほ心から、好き好きしきことにつけて、もの思ひの絶えずもはべりけるかな。さるまじきことどもの、心苦しきが、あまたはべりし中に、つひに心も解けず、むすぼほれて止みぬること、二つなむはべる。
 一つは、この過ぎたまひにし御ことよ。あさましうのみ思ひつめて止みたまひにしが、長き世の愁はしきふしと思ひたまへられしを、かうまでも仕うまつり、御覧ぜらるるをなむ、慰めに思うたまへなせど、燃えし煙の、むすぼほれたまひけむは、なほいぶせうこそ思ひたまへらるれ」
 とて、今一つはのたまひさしつ。
 「中ごろ、身のなきに沈みはべりしほど、方々に思ひたまへしことは、片端づつかなひにたり。東の院にものする人の、そこはかとなくて、心苦しうおぼえわたりはべりしも、おだしう思ひなりにてはべり。心ばへの憎からぬなど、我も人も見たまへあきらめて、いとこそさはやかなれ。
 かく立ち返り、朝廷の御後見仕うまつるよろこびなどは、さしも心に深く染まず、かやうなる好きがましき方は、静めがたうのみはべるを、おぼろけに思ひ忍びたる御後見とは、思し知らせたまふらむや。あはれとだにのたまはせずは、いかにかひなくはべらむ」
 とのたまへば、むつかしうて、御応へもなければ、
 「さりや。あな心憂」
 とて、異事に言ひ紛らはしたまひつ。
 「今は、いかでのどやかに、生ける世の限り、思ふこと残さず、後の世の勤めも心にまかせて、籠もりゐなむと思ひはべるを、この世の思ひ出にしつべきふしのはべらぬこそ、さすがに口惜しうはべりぬべけれ。かならず、幼き人のはべる、生ひ先いと待ち遠なりや、かたじけなくとも、なほ、この門広げさせたまひて、はべらずなりなむ後にも、数まへさせたまへ」
 など聞こえたまふ。
 御応へは、いとおほどかなるさまに、からうして一言ばかりかすめたまへるけはひ、いとなつかしげなるに聞きつきて、しめじめと暮るるまでおはす。


 [第三段 女御に春秋の好みを問う]
 「はかばかしき方の望みはさるものにて、年のうち行き交はる時々の花紅葉、空のけしきにつけても、心の行くこともしはべりにしがな。春の花の林、秋の野の盛りを、とりどりに人争ひはべりける、そのころの、げにと心寄るばかりあらはなる定めこそはべらざなれ。
 唐土には、春の花の錦に如くものなしと言ひはべめり。大和言の葉には、秋のあはれを取り立てて思へる。いづれも時々につけて見たまふに、目移りて、えこそ花鳥の色をも音をもわきまへはべらね。
 狭き垣根のうちなりとも、その折の心見知るばかり、春の花の木をも植ゑわたし、秋の草をも堀り移して、いたづらなる野辺の虫をも棲ませて、人に御覧ぜさせむと思ひたまふるを、いづ方にか御心寄せはべるべからむ」
 と聞こえたまふに、いと聞こえにくきことと思せど、むげに絶えて御応へ聞こえたまはざらむもうたてあれば、
 「まして、いかが思ひ分きはべらむ。げに、いつとなきなかに、あやしと聞きし夕べこそ、はかなう消えたまひにし露のよすがにも、思ひたまへられぬべけれ」
 と、しどけなげにのたまひ消つも、いとらうたげなるに、え忍びたまはで、
 「君もさはあはれを交はせ人知れず
  わが身にしむる秋の夕風
 忍びがたき折々もはべりかし」
 と聞こえたまふに、「いづこの御応へかはあらむ、心得ず」と思したる御けしきなり。このついでに、え籠めたまはで、恨みきこえたまふことどもあるべし。
 今すこし、ひがこともしたまひつべけれども、いとうたてと思いたるも、ことわりに、わが御心も、「若々しうけしからず」と思し返して、うち嘆きたまへるさまの、もの深うなまめかしきも、心づきなうぞ思しなりぬる。
 やをらづつひき入りたまひぬるけしきなれば、
 「あさましうも、疎ませたまひぬるかな。まことに心深き人は、かくこそあらざなれ。よし、今よりは、憎ませたまふなよ。つらからむ」
 とて、渡りたまひぬ。
 うちしめりたる御匂ひのとまりたるさへ、疎ましく思さる。人びと、御格子など参りて、
 「この御茵の移り香、言ひ知らぬものかな」
 「いかでかく取り集め、柳の枝に咲かせたる御ありさまならむ」
 「ゆゆしう」
 と聞こえあへり。


 [第四段 源氏、紫の君と語らう]
 対に渡りたまひて、とみにも入りたまはず、いたう眺めて、端近う臥したまへり。燈籠遠くかけて、近く人びとさぶらはせたまひて、物語などせさせたまふ。
 「かうあながちなることに胸ふたがる癖の、なほありけるよ」
 と、わが身ながら思し知らる。
 「これはいと似げなきことなり。恐ろしう罪深き方は多うまさりけめど、いにしへの好きは、思ひやりすくなきほどの過ちに、仏神も許したまひけむ」と、思しさますも、「なほ、この道は、うしろやすく深き方のまさりけるかな」
 と、思し知られたまふ。
 女御は、秋のあはれを知り顔に応へ聞こえてけるも、「悔しう恥づかし」と、御心ひとつにものむつかしうて、悩ましげにさへしたまふを、いとすくよかにつれなくて、常よりも親がりありきたまふ。
 女君に、
 「女御の、秋に心を寄せたまへりしもあはれに、君の、春の曙に心しめたまへるもことわりにこそあれ。時々につけたる木草の花によせても、御心とまるばかりの遊びなどしてしがなと、公私のいとなみしげき身こそふさはしからね、いかで思ふことしてしがなと、ただ、御ためさうざうしくやと思ふこそ、心苦しけれ」
 など語らひきこえたまふ。


 [第五段 源氏、大堰の明石を訪う]
 「山里の人も、いかに」など、絶えず思しやれど、所狭さのみまさる御身にて、渡りたまふこと、いとかたし。
 「世の中をあぢきなく憂しと思ひ知るけしき、などかさしも思ふべき。心やすく立ち出でて、おほぞうの住まひはせじと思へる」を、「おほけなし」とは思すものから、いとほしくて、例の、不断の御念仏にことつけて渡りたまへり。
 住み馴るるままに、いと心すごげなる所のさまに、いと深からざらむことにてだに、あはれ添ひぬべし。まして、見たてまつるにつけても、つらかりける御契りの、さすがに、浅からぬを思ふに、なかなかにて慰めがたきけしきなれば、こしらへかねたまふ。
 いと木繁き中より、篝火どもの影の、遣水の螢に見えまがふもをかし。
 「かかる住まひにしほじまざらましかば、めづらかにおぼえまし」
 とのたまふに、
 「漁りせし影忘られぬ篝火は
  身の浮舟や慕ひ来にけむ
 思ひこそ、まがへられはべれ」
 と聞こゆれば、
 「浅からぬしたの思ひを知らねばや
  なほ篝火の影は騒げる
 誰れ憂きもの」
 と、おし返し恨みたまへる。
 おほかたもの静かに思さるるころなれば、尊きことどもに御心とまりて、例よりは日ごろ経たまふにや、すこし思ひ紛れけむ、とぞ。



朝顔
光る源氏の内大臣時代三十二歳の晩秋九月から冬までの物語
 

第一章 朝顔姫君の物語 昔の恋の再燃


九月、故桃園式部卿宮邸を訪問---斎院は、御服にて下りゐたまひにきかし
朝顔姫君と対話---あなたの御前を見やりたまへば
帰邸後に和歌を贈答しあう---心やましくて立ち出でたまひぬるは
源氏、執拗に朝顔姫君を恋う---東の対に離れおはして、宣旨を迎へつつ
第二章 朝顔姫君の物語 老いてなお旧りせぬ好色心

朝顔姫君訪問の道中---夕つ方、神事なども止まりてさうざうしきに
宮邸に到着して門を入る---宮には、北面の人しげき方なる御門は
宮邸で源典侍と出会う---宮の御方に、例の、御物語聞こえたまふに
朝顔姫君と和歌を詠み交わす---西面には御格子参りたれど、厭ひきこえ顔ならむも
朝顔姫君、源氏の求愛を拒む---いふかひなくて、いとまめやかに怨じきこえて
第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影

紫の君、嫉妬す---大臣は、あながちに思しいらるるにしもあらねど
夜の庭の雪まろばし---雪のいたう降り積もりたる上に
源氏、往古の女性を語る---「一年、中宮の御前に雪の山作られたりし
藤壷、源氏の夢枕に立つ---月いよいよ澄みて、静かにおもしろし
源氏、藤壷を供養す---なかなか飽かず、悲しと思すに、とく起きたまひて

第一章 朝顔姫君の物語 昔の恋の再燃
 [第一段 九月、故桃園式部卿宮邸を訪問]
 斎院は、御服にて下りゐたまひにきかし。大臣、例の、思しそめつること、絶えぬ御癖にて、御訪らひなどいとしげう聞こえたまふ。宮、わづらはしかりしことを思せば、御返りもうちとけて聞こえたまはず。いと口惜しと思しわたる。
 長月になりて、桃園宮に渡りたまひぬるを聞きて、女五の宮のそこにおはすれば、そなたの御訪らひにことづけて参うでたまふ。故院の、この御子たちをば、心ことにやむごとなく思ひきこえたまへりしかば、今も親しく次々に聞こえ交はしたまふめり。同じ寝殿の西東にぞ住みたまひける。ほどもなく荒れにける心地して、あはれにけはひしめやかなり。
 宮、対面したまひて、御物語聞こえたまふ。いと古めきたる御けはひ、しはぶきがちにおはす。年長におはすれど、故大殿の宮は、あらまほしく古りがたき御ありさまなるを、もて離れ、声ふつつかに、こちごちしくおぼえたまへるも、さるかたなり。
 「院の上、隠れたまひてのち、よろづ心細くおぼえはべりつるに、年の積もるままに、いと涙がちにて過ぐしはべるを、この宮さへかくうち捨てたまへれば、いよいよあるかなきかに、とまりはべるを、かく立ち寄り訪はせたまふになむ、もの忘れしぬべくはべる」
 と聞こえたまふ。
 「かしこくも古りたまへるかな」と思へど、うちかしこまりて、
 「院隠れたまひてのちは、さまざまにつけて、同じ世のやうにもはべらず、おぼえぬ罪に当たりはべりて、知らぬ世に惑ひはべりしを、たまたま、朝廷に数まへられたてまつりては、またとり乱り暇なくなどして、年ごろも、参りていにしへの御物語をだに聞こえうけたまはらぬを、いぶせく思ひたまへわたりつつなむ」
 など聞こえたまふを、
 「いともいともあさましく、いづ方につけても定めなき世を、同じさまにて見たまへ過ぐす命長さの恨めしきこと多くはべれど、かくて、世に立ち返りたまへる御よろこびになむ、ありし年ごろを見たてまつりさしてましかば、口惜しからましとおぼえはべり」
 と、うちわななきたまひて、
 「いときよらにねびまさりたまひにけるかな。童にものしたまへりしを見たてまつりそめし時、世にかかる光の出でおはしたることと驚かれはべりしを、時々見たてまつるごとに、ゆゆしくおぼえはべりてなむ。内裏の上なむ、いとよく似たてまつらせたまへりと、人びと聞こゆるを、さりとも、劣りたまへらむとこそ、推し量りはべれ」
 と、長々と聞こえたまへば、
 「ことにかくさし向かひて人のほめぬわざかな」と、をかしく思す。
 「山賤になりて、いたう思ひくづほれはべりし年ごろののち、こよなく衰へにてはべるものを。内裏の御容貌は、いにしへの世にも並ぶ人なくやとこそ、ありがたく見たてまつりはべれ。あやしき御推し量りになむ」
 と聞こえたまふ。
 「時々見たてまつらば、いとどしき命や延びはべらむ。今日は老いも忘れ、憂き世の嘆きみな去りぬる心地なむ」
 とても、また泣いたまふ。
 「三の宮うらやましく、さるべき御ゆかり添ひて、親しく見たてまつりたまふを、うらやみはべる。この亡せたまひぬるも、さやうにこそ悔いたまふ折々ありしか」
 とのたまふにぞ、すこし耳とまりたまふ。
 「さも、さぶらひ馴れなましかば、今に思ふさまにはべらまし。皆さし放たせたまひて」
 と、恨めしげにけしきばみきこえたまふ。

 [第二段 朝顔姫君と対話]
 あなたの御前を見やりたまへば、枯れ枯れなる前栽の心ばへもことに見渡されて、のどやかに眺めたまふらむ御ありさま、容貌も、いとゆかしくあはれにて、え念じたまはで、
 「かくさぶらひたるついでを過ぐしはべらむは、心ざしなきやうなるを、あなたの御訪らひ聞こゆべかりけり」
 とて、やがて簀子より渡りたまふ。
 暗うなりたるほどなれど、鈍色の御簾に、黒き御几帳の透影あはれに、追風なまめかしく吹き通し、けはひあらまほし。簀子はかたはらいたければ、南の廂に入れたてまつる。
 宣旨、対面して、御消息は聞こゆ。
 「今さらに、若々しき心地する御簾の前かな。神さびにける年月の労数へられはべるに、今は内外も許させたまひてむとぞ頼みはべりける」
 とて、飽かず思したり。
 「ありし世は皆夢に見なして、今なむ、覚めてはかなきにやと、思ひたまへ定めがたくはべるに、労などは、静かにやと定めきこえさすべうはべらむ」
 と、聞こえ出だしたまへり。「げにこそ定めがたき世なれ」と、はかなきことにつけても思し続けらる。
 「人知れず神の許しを待ちし間に
  ここらつれなき世を過ぐすかな
 今は、何のいさめにか、かこたせたまはむとすらむ。なべて、世にわづらはしきことさへはべりしのち、さまざまに思ひたまへ集めしかな。いかで片端をだに」
 と、あながちに聞こえたまふ、御用意なども、昔よりも今すこしなまめかしきけさへ添ひたまひにけり。さるは、いといたう過ぐしたまへど、御位のほどには合はざめり。
 「なべて世のあはればかりを問ふからに
  誓ひしことと神やいさめむ」
 とあれば、
 「あな、心憂。その世の罪は、みな科戸の風にたぐへてき」
 とのたまふ愛敬も、こよなし。
 「みそぎを、神は、いかがはべりけむ」
 など、はかなきことを聞こゆるも、まめやかには、いとかたはらいたし。世づかぬ御ありさまは、年月に添へても、もの深くのみ引き入りたまひて、え聞こえたまはぬを、見たてまつり悩めり。
 「好き好きしきやうになりぬるを」
 など、浅はかならずうち嘆きて立ちたまふ。
 「齢の積もりには、面なくこそなるわざなりけれ。世に知らぬやつれを、今ぞ、とだに聞こえさすべくやは、もてなしたまひける」
 とて、出でたまふ名残、所狭きまで、例の聞こえあへり。
 おほかたの、空もをかしきほどに、木の葉の音なひにつけても、過ぎにしもののあはれとり返しつつ、その折々、をかしくもあはれにも、深く見えたまひし御心ばへなども、思ひ出できこえさす。


 [第三段 帰邸後に和歌を贈答しあう]
 心やましくて立ち出でたまひぬるは、まして、寝覚がちに思し続けらる。とく御格子参らせたまひて、朝霧を眺めたまふ。枯れたる花どもの中に、朝顔のこれかれにはひまつはれて、あるかなきかに咲きて、匂ひもことに変はれるを、折らせたまひてたてまつれたまふ。
 「けざやかなりし御もてなしに、人悪ろき心地しはべりて、うしろでもいとどいかが御覧じけむと、ねたく。されど、
  見し折のつゆ忘られぬ朝顔の
  花の盛りは過ぎやしぬらむ
 年ごろの積もりも、あはれとばかりは、さりとも、思し知るらむやとなむ、かつは」
 など聞こえたまへり。おとなびたる御文の心ばへに、「おぼつかなからむも、見知らぬやうにや」と思し、人びとも御硯とりまかなひて、聞こゆれば、
 「秋果てて霧の籬にむすぼほれ
  あるかなきかに移る朝顔」
 似つかはしき御よそへにつけても、露けく」
 とのみあるは、何のをかしきふしもなきを、いかなるにか、置きがたく御覧ずめり。青鈍の紙の、なよびかなる墨つきはしも、をかしく見ゆめり。人の御ほど、書きざまなどに繕はれつつ、その折は罪なきことも、つきづきしくまねびなすには、ほほゆがむこともあめればこそ、さかしらに書き紛らはしつつ、おぼつかなきことも多かりけり。
 立ち返り、今さらに若々しき御文書きなども、似げなきこと、と思せども、なほかく昔よりもて離れぬ御けしきながら、口惜しくて過ぎぬるを思ひつつ、えやむまじく思さるれば、さらがへりて、まめやかに聞こえたまふ。


 [第四段 源氏、執拗に朝顔姫君を恋う]
 東の対に離れおはして、宣旨を迎へつつ語らひたまふ。さぶらふ人びとの、さしもあらぬ際のことをだに、なびきやすなるなどは、過ちもしつべく、めできこゆれど、宮は、そのかみだにこよなく思し離れたりしを、今は、まして、誰も思ひなかるべき御齢、おぼえにて、「はかなき木草につけたる御返りなどの、折過ぐさぬも、軽々しくや、とりなさるらむ」など、人の物言ひを憚りたまひつつ、うちとけたまふべき御けしきもなければ、古りがたく同じさまなる御心ばへを、世の人に変はり、めづらしくもねたくも思ひきこえたまふ。
 世の中に漏り聞こえて、
 「前斎院を、ねむごろに聞こえたまへばなむ、女五の宮などもよろしく思したなり。似げなからぬ御あはひならむ」
 など言ひけるを、対の上は伝へ聞きたまひて、しばしは、
 「さりとも、さやうならむこともあらば、隔てては思したらじ」
 と思しけれど、うちつけに目とどめきこえたまふに、御けしきなども、例ならずあくがれたるも心憂く、
 「まめまめしく思しなるらむことを、つれなく戯れに言ひなしたまひけむよと、同じ筋にはものしたまへど、おぼえことに、昔よりやむごとなく聞こえたまふを、御心など移りなば、はしたなくもあべいかな。年ごろの御もてなしなどは、立ち並ぶ方なく、さすがにならひて、人に押し消たれむこと」
 など、人知れず思し嘆かる。
 「かき絶え名残なきさまにはもてなしたまはずとも、いとものはかなきさまにて見馴れたまへる年ごろの睦び、あなづらはしき方にこそはあらめ」
 など、さまざまに思ひ乱れたまふに、よろしきことこそ、うち怨じなど憎からず聞こえたまへ、まめやかにつらしと思せば、色にも出だしたまはず。
 端近う眺めがちに、内裏住みしげくなり、役とは御文を書きたまへば、
 「げに、人の言葉むなしかるまじきなめり。けしきをだにかすめたまへかし」
 と、疎ましくのみ思ひきこえたまふ。


 

第二章 朝顔姫君の物語 老いてなお旧りせぬ好色心
 [第一段 朝顔姫君訪問の道中]
 夕つ方、神事なども止まりてさうざうしきに、つれづれと思しあまりて、五の宮に例の近づき参りたまふ。雪うち散りて艶なるたそかれ時に、なつかしきほどに馴れたる御衣どもを、いよいよたきしめたまひて、心ことに化粧じ暮らしたまへれば、いとど心弱からむ人はいかがと見えたり。さすがに、まかり申しはた、聞こえたまふ。
 「女五の宮の悩ましくしたまふなるを、訪らひきこえになむ」
 とて、ついゐたまへれど、見もやりたまはず、若君をもてあそび、紛らはしおはする側目の、ただならぬを、
 「あやしく、御けしきの変はれるべきころかな。罪もなしや。塩焼き衣のあまり目馴れ、見だてなく思さるるにやとて、とだえ置くを、またいかが」
 など聞こえたまへば、
 「馴れゆくこそ、げに、憂きこと多かりけれ」
 とばかりにて、うち背きて臥したまへるは、見捨てて出でたまふ道、もの憂けれど、宮に御消息聞こえたまひてければ、出でたまひぬ。
 「かかりけることもありける世を、うらなくて過ぐしけるよ」
 と思ひ続けて、臥したまへり。鈍びたる御衣どもなれど、色合ひ重なり、好ましくなかなか見えて、雪の光にいみじく艶なる御姿を見出だして、
 「まことに離れまさりたまはば」
 と、忍びあへず思さる。
 御前など忍びやかなる限りして、
 「内裏より他の歩きは、もの憂きほどになりにけりや。桃園宮の心細きさまにてものしたまふも、式部卿宮に年ごろは譲りきこえつるを、今は頼むなど思しのたまふも、ことわりに、いとほしければ」
 など、人びとにものたまひなせど、
 「いでや。御好き心の古りがたきぞ、あたら御疵なめる」
 「軽々しきことも出で来なむ」
 など、つぶやきあへり。

 [第二段 宮邸に到着して門を入る]
 宮には、北面の人しげき方なる御門は、入りたまはむも軽々しければ、西なるがことことしきを、人入れさせたまひて、宮の御方に御消息あれば、「今日しも渡りたまはじ」と思しけるを、驚きて開けさせたまふ。
 御門守、寒げなるけはひ、うすすき出で来て、とみにもえ開けやらず。これより他の男はたなきなるべし。ごほごほと引きて、
 「錠のいといたく銹びにければ、開かず」
 と愁ふるを、あはれと聞こし召す。
 「昨日今日と思すほどに、三年のあなたにもなりにける世かな。かかるを見つつ、かりそめの宿りをえ思ひ捨てず、木草の色にも心を移すよ」と、思し知らるる。口ずさびに、
 「いつのまに蓬がもととむすぼほれ
  雪降る里と荒れし垣根ぞ」
 やや久しう、ひこしらひ開けて、入りたまふ。


 [第三段 宮邸で源典侍と出会う]
 宮の御方に、例の、御物語聞こえたまふに、古事どものそこはかとなきうちはじめ、聞こえ尽くしたまへど、御耳もおどろかず、ねぶたきに、宮も欠伸うちしたまひて、
 「宵まどひをしはべれば、ものもえ聞こえやらず」
 とのたまふほどもなく、鼾とか、聞き知らぬ音すれば、よろこびながら立ち出でたまはむとするに、またいと古めかしきしはぶきうちして、参りたる人あり。
 「かしこけれど、聞こし召したらむと頼みきこえさするを、世にある者とも数まへさせたまはぬになむ。院の上は、祖母殿と笑はせたまひし」
 など、名のり出づるにぞ、思し出づる。
 源典侍といひし人は、尼になりて、この宮の御弟子にてなむ行なふと聞きしかど、今まであらむとも尋ね知りたまはざりつるを、あさましうなりぬ。
 「その世のことは、みな昔語りになりゆくを、はるかに思ひ出づるも、心細きに、うれしき御声かな。親なしに臥せる旅人と、育みたまへかし」
 とて、寄りゐたまへる御けはひに、いとど昔思ひ出でつつ、古りがたくなまめかしきさまにもてなして、いたうすげみにたる口つき、思ひやらるる声づかひの、さすがに舌つきにて、うちされむとはなほ思へり。
 「言ひこしほどに」など聞こえかかる、まばゆさよ。「今しも来たる老いのやうに」など、ほほ笑まれたまふものから、ひきかへ、これもあはれなり。
 「この盛りに挑みたまひし女御、更衣、あるはひたすら亡くなりたまひ、あるはかひなくて、はかなき世にさすらへたまふもあべかめり。入道の宮などの御齢よ。あさましとのみ思さるる世に、年のほど身の残り少なげさに、心ばへなども、ものはかなく見えし人の、生きとまりて、のどやかに行なひをもうちして過ぐしけるは、なほすべて定めなき世なり」
 と思すに、ものあはれなる御けしきを、心ときめきに思ひて、若やぐ。
 「年経れどこの契りこそ忘られね
  親の親とか言ひし一言」
 と聞こゆれば、疎ましくて、
 「身を変へて後も待ち見よこの世にて
  親を忘るるためしありやと
 頼もしき契りぞや。今のどかにぞ、聞こえさすべき」
 とて、立ちたまひぬ。


 [第四段 朝顔姫君と和歌を詠み交わす]
 西面には御格子参りたれど、厭ひきこえ顔ならむもいかがとて、一間、二間は下ろさず。月さし出でて、薄らかに積もれる雪の光りあひて、なかなかいとおもしろき夜のさまなり。
 「ありつる老いらくの心げさうも、良からぬものの世のたとひとか聞きし」と思し出でられて、をかしくなむ。今宵は、いとまめやかに聞こえたまひて、
 「一言、憎しなども、人伝てならでのたまはせむを、思ひ絶ゆるふしにもせむ」
 と、おり立ちて責めきこえたまへど、
 「昔、われも人も若やかに、罪許されたりし世にだに、故宮などの心寄せ思したりしを、なほあるまじく恥づかしと思ひきこえてやみにしを、世の末に、さだすぎ、つきなきほどにて、一声もいとまばゆからむ」
 と思して、さらに動きなき御心なれば、「あさましう、つらし」と思ひきこえたまふ。
 さすがに、はしたなくさし放ちてなどはあらぬ人伝ての御返りなどぞ、心やましきや。夜もいたう更けゆくに、風のけはひ、はげしくて、まことにいともの心細くおぼゆれば、さまよきほど、おし拭ひたまひて、
 「つれなさを昔に懲りぬ心こそ
  人のつらきに添へてつらけれ
 心づからの」
 とのたまひすさぶるを、
 「げに」
 「かたはらいたし」
 と、人びと、例の、聞こゆ。
 「あらためて何かは見えむ人のうへに
  かかりと聞きし心変はりを
 昔に変はることは、ならはず」
 など聞こえたまへり。


 [第五段 朝顔姫君、源氏の求愛を拒む]
 いふかひなくて、いとまめやかに怨じきこえて出でたまふも、いと若々しき心地したまへば、
 「いとかく、世の例になりぬべきありさま、漏らしたまふなよ。ゆめゆめ。いさら川などもなれなれしや」
 とて、せちにうちささめき語らひたまへど、何ごとにかあらむ。人びとも、
 「あな、かたじけな。あながちに情けおくれても、もてなしきこえたまふらむ」
 「軽らかにおし立ちてなどは見えたまはぬ御けしきを。心苦しう」
 と言ふ。
 げに、人のほどの、をかしきにも、あはれにも、思し知らぬにはあらねど、
 「もの思ひ知るさまに見えたてまつるとて、おしなべての世の人のめできこゆらむ列にや思ひなされむ。かつは、軽々しき心のほども見知りたまひぬべく、恥づかしげなめる御ありさまを」と思せば、「なつかしからむ情けも、いとあいなし。よその御返りなどは、うち絶えで、おぼつかなかるまじきほどに聞こえたまひ、人伝ての御いらへ、はしたなからで過ぐしてむ。年ごろ、沈みつる罪失ふばかり御行なひを」とは思し立てど、「にはかにかかる御ことをしも、もて離れ顔にあらむも、なかなか今めかしきやうに見え聞こえて、人のとりなさじやは」と、世の人の口さがなさを思し知りにしかば、かつ、さぶらふ人にもうちとけたまはず、いたう御心づかひしたまひつつ、やうやう御行なひをのみしたまふ。
 御兄弟の君達あまたものしたまへど、ひとつ御腹ならねば、いとうとうとしく、宮のうちいとかすかになり行くままに、さばかりめでたき人の、ねむごろに御心を尽くしきこえたまへば、皆人、心を寄せきこゆるも、ひとつ心と見ゆ。


 

第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影
 [第一段 紫の君、嫉妬す]
 大臣は、あながちに思しいらるるにしもあらねど、つれなき御けしきのうれたきに、負けてやみなむも口惜しく、げにはた、人の御ありさま、世のおぼえことに、あらまほしく、ものを深く思し知り、世の人の、とあるかかるけぢめも聞き集めたまひて、昔よりもあまた経まさりて思さるれば、今さらの御あだけも、かつは世のもどきをも思しながら、
 「むなしからむは、いよいよ人笑へなるべし。いかにせむ」
 と、御心動きて、二条院に夜離れ重ねたまふを、女君は、たはぶれにくくのみ思す。忍びたまへど、いかがうちこぼるる折もなからむ。
 「あやしく例ならぬ御けしきこそ、心得がたけれ」
 とて、御髪をかきやりつつ、いとほしと思したるさまも、絵に描かまほしき御あはひなり。
 「宮亡せたまひて後、主上のいとさうざうしげにのみ世を思したるも、心苦しう見たてまつり、太政大臣もものしたまはで、見譲る人なきことしげさになむ。このほどの絶え間などを、見ならはぬことに思すらむも、ことわりに、あはれなれど、今はさりとも、心のどかに思せ。おとなびたまひためれど、まだいと思ひやりもなく、人の心も見知らぬさまにものしたまふこそ、らうたけれ」
 など、まろがれたる御額髪、ひきつくろひたまへど、いよいよ背きてものも聞こえたまはず。
 「いといたく若びたまへるは、誰がならはしきこえたるぞ」
 とて、「常なき世に、かくまで心置かるるもあぢきなのわざや」と、かつはうち眺めたまふ。
 「斎院にはかなしごと聞こゆるや、もし思しひがむる方ある。それは、いともて離れたることぞよ。おのづから見たまひてむ。昔よりこよなうけどほき御心ばへなるを、さうざうしき折々、ただならで聞こえ悩ますに、かしこもつれづれにものしたまふ所なれば、たまさかの応へなどしたまへど、まめまめしきさまにもあらぬを、かくなむあるとしも、愁へきこゆべきことにやは。うしろめたうはあらじとを、思ひ直したまへ」
 など、日一日慰めきこえたまふ。

 [第二段 夜の庭の雪まろばし]
 雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつつ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮に、人の御容貌も光まさりて見ゆ。
 「時々につけても、人の心を移すめる花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に、雪の光りあひたる空こそ、あやしう、色なきものの、身にしみて、この世のほかのことまで思ひ流され、おもしろさもあはれさも、残らぬ折なれ。すさまじき例に言ひ置きけむ人の心浅さよ」
 とて、御簾巻き上げさせたまふ。
 月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして、雪まろばしせさせたまふ。
 をかしげなる姿、頭つきども、月に映えて、大きやかに馴れたるが、さまざまの衵乱れ着、帯しどけなき宿直姿、なまめいたるに、こよなうあまれる髪の末、白きにはましてもてはやしたる、いとけざやかなり。
 小さきは、童げてよろこび走るに、扇なども落して、うちとけ顔をかしげなり。
 いと多うまろばさむと、ふくつけがれど、えも押し動かさでわぶめり。かたへは、東のつまなどに出でゐて、心もとなげに笑ふ。


 [第三段 源氏、往古の女性を語る]
 「一年、中宮の御前に雪の山作られたりし、世に古りたることなれど、なほめづらしくもはかなきことをしなしたまへりしかな。何の折々につけても、口惜しう飽かずもあるかな。
 いとけどほくもてなしたまひて、くはしき御ありさまを見ならしたてまつりしことはなかりしかど、御交じらひのほどに、うしろやすきものには思したりきかし。
 うち頼みきこえて、とあることかかる折につけて、何ごとも聞こえかよひしに、もて出でてらうらうじきことも見えたまはざりしかど、いふかひあり、思ふさまに、はかなきことわざをもしなしたまひしはや。世にまた、さばかりのたぐひありなむや。
 やはらかにおびれたるものから、深うよしづきたるところの、並びなくものしたまひしを、君こそは、さいへど、紫のゆゑ、こよなからずものしたまふめれど、すこしわづらはしき気添ひて、かどかどしさのすすみたまへるや、苦しからむ。
 前斎院の御心ばへは、またさまことにぞ見ゆる。さうざうしきに、何とはなくとも聞こえあはせ、われも心づかひせらるべきあたり、ただこの一所や、世に残りたまへらむ」
 とのたまふ。
 「尚侍こそは、らうらうじくゆゑゆゑしき方は、人にまさりたまへれ。浅はかなる筋など、もて離れたまへりける人の御心を、あやしくもありけることどもかな」
 とのたまへば、
 「さかし。なまめかしう容貌よき女の例には、なほ引き出でつべき人ぞかし。さも思ふに、いとほしく悔しきことの多かるかな。まいて、うちあだけ好きたる人の、年積もりゆくままに、いかに悔しきこと多からむ。人よりはことなき静けさ、と思ひしだに」
 など、のたまひ出でて、尚侍の君の御ことにも、涙すこしは落したまひつ。
 「この、数にもあらずおとしめたまふ山里の人こそは、身のほどにはややうち過ぎ、ものの心など得つべけれど、人よりことなべきものなれば、思ひ上がれるさまをも、見消ちてはべるかな。いふかひなき際の人はまだ見ず。人は、すぐれたるは、かたき世なりや。
 東の院にながむる人の心ばへこそ、古りがたくらうたけれ。さはた、さらにえあらぬものを、さる方につけての心ばせ、人にとりつつ見そめしより、同じやうに世をつつましげに思ひて過ぎぬるよ。今はた、かたみに背くべくもあらず、深うあはれと思ひはべる」
 など、昔今の御物語に夜更けゆく。


 [第四段 藤壷、源氏の夢枕に立つ]
 月いよいよ澄みて、静かにおもしろし。女君、
 「氷閉ぢ石間の水は行きなやみ
  空澄む月の影ぞ流るる」
 外を見出だして、すこし傾きたまへるほど、似るものなくうつくしげなり。髪ざし、面様の、恋ひきこゆる人の面影にふとおぼえて、めでたければ、いささか分くる御心もとり重ねつべし。鴛鴦のうち鳴きたるに、
 「かきつめて昔恋しき雪もよに
  あはれを添ふる鴛鴦の浮寝か」
 入りたまひても、宮の御ことを思ひつつ大殿籠もれるに、夢ともなくほのかに見たてまつるを、いみじく恨みたまへる御けしきにて、
 「漏らさじとのたまひしかど、憂き名の隠れなかりければ、恥づかしう、苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」
 とのたまふ。御応へ聞こゆと思すに、襲はるる心地して、女君の、
 「こは、など、かくは」
 とのたまふに、おどろきて、いみじく口惜しく、胸のおきどころなく騒げば、抑へて、涙も流れ出でにけり。今も、いみじく濡らし添へたまふ。
 女君、いかなることにかと思すに、うちもみじろかで臥したまへり。
 「とけて寝ぬ寝覚さびしき冬の夜に
  むすぼほれつる夢の短さ」


 [第五段 源氏、藤壷を供養す]
 なかなか飽かず、悲しと思すに、とく起きたまひて、さとはなくて、所々に御誦経などせさせたまふ。
 「苦しき目見せたまふと、恨みたまへるも、さぞ思さるらむかし。行なひをしたまひ、よろづに罪軽げなりし御ありさまながら、この一つことにてぞ、この世の濁りをすすいたまはざらむ」
 と、ものの心を深く思したどるに、いみじく悲しければ、
 「何わざをして、知る人なき世界におはすらむを、訪らひきこえに参うでて、罪にも代はりきこえばや」
 など、つくづくと思す。
 「かの御ために、とり立てて何わざをもしたまふむは、人とがめきこえつべし。内裏にも、御心の鬼に思すところやあらむ」
 と、思しつつむほどに、阿弥陀仏を心にかけて念じたてまつりたまふ。「同じ蓮に」とこそは、
 「亡き人を慕ふ心にまかせても
  影見ぬ三つの瀬にや惑はむ」
 と思すぞ、憂かりけるとや。




少女
光る源氏の太政大臣時代三十三歳の夏四月から三十五歳冬十月までの物語

第一章 朝顔姫君の物語 藤壷代償の恋の諦め


故藤壷の一周忌明ける---年変はりて、宮の御果ても過ぎぬれば
源氏、朝顔姫君を諦める---女五の宮の御方にも、かやうに折過ぐさず
第二章 夕霧の物語 光る源氏の子息教育の物語

子息夕霧の元服と教育論---大殿腹の若君の御元服のこと、思しいそぐを
大学寮入学の準備---字つくることは、東の院にてしたまふ
響宴と詩作の会---事果ててまかづる博士、才人ども召して
夕霧の勉学生活---うち続き、入学といふことせさせたまひて
大学寮試験の予備試験---今は寮試受けさせむとて、まづわが御前にて
試験の当日---大学に参りたまふ日は、寮門に
第三章 光る源氏周辺の人々の物語 内大臣家の物語

斎宮女御の立后と光る源氏の太政大臣就任---かくて、后ゐたまふべきを
夕霧と雲居雁の幼恋---冠者の君、一つにて生ひ出でたまひしかど
内大臣、大宮邸に参上---所々の大饗どもも果てて、世の中の御いそぎもなく
弘徽殿女御の失意---「女はただ心ばせよりこそ、世に用ゐらるる
夕霧、内大臣と対面---大臣、和琴ひき寄せたまひて、律の調べの
内大臣、雲居雁の噂を立ち聞く---大臣出でたまひぬるやうにて、忍びて人に
第四章 内大臣家の物語 雲居雁の養育をめぐる物語

内大臣、母大宮の養育を恨む---二日ばかりありて、参りたまへり
内大臣、乳母らを非難する---姫君は、何心もなくておはするに
大宮、内大臣を恨む---宮は、いといとほしと思すなかにも
大宮、夕霧に忠告---かく騒がるらむとも知らで、冠者の君
第五章 夕霧の物語 幼恋の物語

夕霧と雲居雁の恋の煩悶---「いとど文なども通はむことのかたきなめり」と
内大臣、弘徽殿女御を退出させる---大臣は、そのままに参りたまはず、宮を
夕霧、大宮邸に参上---折しも冠者の君参りたまへり
夕霧と雲居雁のわずかの逢瀬---宮の御文にて
乳母、夕霧の六位を蔑む---御殿油参り、殿まかでたまふけはひ
第六章 夕霧の物語 五節舞姫への恋

惟光の娘、五節舞姫となる---大殿には、今年、五節たてまつりたまふ
夕霧、五節舞姫を恋慕---大学の君、胸のみふたがりて、物なども
宮中における五節の儀---浅葱の心やましければ、内裏へ参ることもせず
夕霧、舞姫の弟に恋文を託す---やがて皆とめさせたまひて、宮仕へすべき
花散里、夕霧の母代となる---かの人は、文をだにえやりたまはず
歳末、夕霧の衣装を準備---年の暮には、睦月の御装束など
第七章 光る源氏の物語 六条院造営

二月二十日過ぎ、朱雀院へ行幸---朔日にも、大殿は御ありきしなければ
弘徽殿大后を見舞う---夜更けぬれど、かかるついでに、大后の宮おはします方を
源氏、六条院造営を企図す---大殿、静かなる御住まひを、同じくは広く
秋八月に六条院完成---八月にぞ、六条院造り果てて渡りたまふ
秋の彼岸の頃に引っ越し始まる---彼岸のころほひ渡りたまふ
九月、中宮と紫の上和歌を贈答---長月になれば、紅葉むらむら色づきて
【出典】
【校訂】


 

第一章 朝顔姫君の物語 藤壷代償の恋の諦め
 [第一段 故藤壷の一周忌明ける]
 年変はりて、宮の御果ても過ぎぬれば、世の中色改まりて、更衣のほどなども今めかしきを、まして祭のころは、おほかたの空のけしき心地よげなるに、前斎院はつれづれと眺めたまふを、前なる桂の下風、なつかしきにつけても、若き人びとは思ひ出づることどもあるに、大殿より、
 「御禊の日は、いかにのどやかに思さるらむ」
 と、訪らひきこえさせたまへり。
 「今日は、
  かけきやは川瀬の波もたちかへり
  君が禊の藤のやつれを」
 紫の紙、立文すくよかにて、藤の花につけたまへり。折のあはれなれば、御返りあり。
 「藤衣着しは昨日と思ふまに
  今日は禊の瀬にかはる世を
 はかなく」
 とばかりあるを、例の、御目止めたまひて見おはす。
 御服直しのほどなどにも、宣旨のもとに、所狭きまで、思しやれることどもあるを、院は見苦しきことに思しのたまへど、
 「をかしやかに、けしきばめる御文などのあらばこそ、とかくも聞こえ返さめ、年ごろも、おほやけざまの折々の御訪らひなどは聞こえならはしたまひて、いとまめやかなれば、いかがは聞こえも紛らはすべからむ」
 と、もてわづらふべし。

 [第二段 源氏、朝顔姫君を諦める]
 女五の宮の御方にも、かやうに折過ぐさず聞こえたまへば、いとあはれに、
 「この君の、昨日今日の稚児と思ひしを、かくおとなびて、訪らひたまふこと。容貌のいともきよらなるに添へて、心さへこそ人にはことに生ひ出でたまへれ」
 と、ほめきこえたまふを、若き人びとは笑ひきこゆ。
 こなたにも対面したまふ折は、
 「この大臣の、かくいとねむごろに聞こえたまふめるを、何か、今始めたる御心ざしにもあらず。故宮も、筋異になりたまひて、え見たてまつりたまはぬ嘆きをしたまひては、思ひ立ちしことをあながちにもて離れたまひしことなど、のたまひ出でつつ、悔しげにこそ思したりし折々ありしか。
 されど、故大殿の姫君ものせられし限りは、三の宮の思ひたまはむことのいとほしさに、とかく言添へきこゆることもなかりしなり。今は、そのやむごとなくえさらぬ筋にてものせられし人さへ、亡くなられにしかば、げに、などてかは、さやうにておはせましも悪しかるまじとうちおぼえはべるにも、さらがへりてかくねむごろに聞こえたまふも、さるべきにもあらむとなむ思ひはべる」
 など、いと古代に聞こえたまふを、心づきなしと思して、
 「故宮にも、しか心ごはきものに思はれたてまつりて過ぎはべりにしを、今さらに、また世になびきはべらむも、いとつきなきことになむ」
 と聞こえたまひて、恥づかしげなる御けしきなれば、しひてもえ聞こえおもむけたまはず。
 宮人も、上下、みな心かけきこえたれば、世の中いとうしろめたくのみ思さるれど、かの御みづからは、わが心を尽くし、あはれを見えきこえて、人の御けしきのうちもゆるばむほどをこそ待ちわたりたまへ、さやうにあながちなるさまに、御心破りきこえむなどは、思さざるべし。


 

第二章 夕霧の物語 光る源氏の子息教育の物語
 [第一段 子息夕霧の元服と教育論]
 大殿腹の若君の御元服のこと、思しいそぐを、二条の院にてと思せど、大宮のいとゆかしげに思したるもことわりに心苦しければ、なほやがてかの殿にてせさせたてまつりたまふ。
 右大将をはじめきこえて、御伯父の殿ばら、みな上達部のやむごとなき御おぼえことにてのみものしたまへば、主人方にも、我も我もと、さるべきことどもは、とりどりに仕うまつりたまふ。おほかた世ゆすりて、所狭き御いそぎの勢なり。
 四位になしてむと思し、世人も、さぞあらむと思へるを、
 「まだいときびはなるほどを、わが心にまかせたる世にて、しかゆくりなからむも、なかなか目馴れたることなり」
 と思しとどめつ。
 浅葱にて殿上に帰りたまふを、大宮は、飽かずあさましきことと思したるぞ、ことわりにいとほしかりける。
 御対面ありて、このこと聞こえたまふに、
 「ただ今、かうあながちにしも、まだきに老いつかすまじうはべれど、思ふやうはべりて、大学の道にしばしならはさむの本意はべるにより、今二、三年をいたづらの年に思ひなして、おのづから朝廷にも仕うまつりぬべきほどにならば、今、人となりはべりなむ。
 みづからは、九重のうちに生ひ出ではべりて、世の中のありさまも知りはべらず、夜昼、御前にさぶらひて、わづかになむはかなき書なども習ひはべりし。ただ、かしこき御手より伝へはべりしだに、何ごとも広き心を知らぬほどは、文の才をまねぶにも、琴笛の調べにも、音耐へず、及ばぬところの多くなむはべりける。
 はかなき親に、かしこき子のまさる例は、いとかたきことになむはべれば、まして、次々伝はりつつ、隔たりゆかむほどの行く先、いとうしろめたなきによりなむ、思ひたまへおきてはべる。
 高き家の子として、官位爵位心にかなひ、世の中盛りにおごりならひぬれば、学問などに身を苦しめむことは、いと遠くなむおぼゆべかめる。戯れ遊びを好みて、心のままなる官爵に昇りぬれば、時に従ふ世人の、下には鼻まじろきをしつつ、追従し、けしきとりつつ従ふほどは、おのづから人とおぼえて、やむごとなきやうなれど、時移り、さるべき人に立ちおくれて、世衰ふる末には、人に軽めあなづらるるに、取るところなきことになむはべる。
 なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。さしあたりては、心もとなきやうにはべれども、つひの世の重鎮となるべき心おきてを習ひなば、はべらずなりなむ後も、うしろやすかるべきによりなむ。ただ今は、はかばかしからずながらも、かくて育みはべらば、せまりたる大学の衆とて、笑ひあなづる人もよもはべらじと思うたまふる」
 など、聞こえ知らせたまへば、うち嘆きたまひて、
 「げに、かくも思し寄るべかりけることを。この大将なども、あまり引き違へたる御ことなりと、かたぶけはべるめるを、この幼心地にも、いと口惜しく、大将、左衛門の督の子どもなどを、我よりは下臈と思ひおとしたりしだに、皆おのおの加階し昇りつつ、およすげあへるに、浅葱をいとからしと思はれたるに、心苦しくはべるなり」
 と聞こえたまへば、うち笑みひたまひて、
 「いとおよすげても恨みはべるななりな。いとはかなしや。この人のほどよ」
 とて、いとうつくしと思したり。
 「学問などして、すこしものの心得はべらば、その恨みはおのづから解けはべりなむ」
 と聞こえたまふ。

 [第二段 大学寮入学の準備]
 字つくることは、東の院にてしたまふ。東の対をしつらはれたり。上達部、殿上人、珍しくいぶかしきことにして、我も我もと集ひ参りたまへり。博士どももなかなか臆しぬべし。
 「憚るところなく、例あらむにまかせて、なだむることなく、厳しう行なへ」
 と仰せたまへば、しひてつれなく思ひなして、家より他に求めたる装束どもの、うちあはず、かたくなしき姿などをも恥なく、面もち、声づかひ、むべむべしくもてなしつつ、座に着き並びたる作法よりはじめ、見も知らぬさまどもなり。
 若き君達は、え堪へずほほ笑まれぬ。さるは、もの笑ひなどすまじく、過ぐしつつ静まれる限りをと、選り出だして、瓶子なども取らせたまへるに、筋異なりけるまじらひにて、右大将、民部卿などの、おほなおほな土器とりたまへるを、あさましく咎め出でつつおろす。
 「おほし、垣下あるじ、はなはだ非常にはべりたうぶ。かくばかりのしるしとあるなにがしを知らずしてや、朝廷には仕うまつりたうぶ。はなはだをこなり」
 など言ふに、人びと皆ほころびて笑ひぬれば、また、
 「鳴り高し。鳴り止まむ。はなはだ非常なり。座を引きて立ちたうびなむ」
 など、おどし言ふも、いとをかし。
 見ならひたまはぬ人びとは、珍しく興ありと思ひ、この道より出で立ちたまへる上達部などは、したり顔にうちほほ笑みなどしつつ、かかる方ざまを思し好みて、心ざしたまふがめでたきことと、いとど限りなく思ひきこえたまへり。
 いささかもの言ふをも制す。無礼げなりとても咎む。かしかましうののしりをる顔どもも、夜に入りては、なかなか今すこし掲焉なる火影に、猿楽がましくわびしげに、人悪ろげなるなど、さまざまに、げにいとなべてならず、さまことなるわざなりけり。
 大臣は、
 「いとあざれ、かたくななる身にて、けうさうしまどはかされなむ」
 とのたまひて、御簾のうちに隠れてぞ御覧じける。
 数定まれる座に着きあまりて、帰りまかづる大学の衆どもあるを聞こしめして、釣殿の方に召しとどめて、ことに物など賜はせけり。


 [第三段 響宴と詩作の会]
 事果ててまかづる博士、才人ども召して、またまた詩文作らせたまふ。上達部、殿上人も、さるべき限りをば、皆とどめさぶらはせたまふ。博士の人びとは、四韻、ただの人は、大臣をはじめたてまつりて、絶句作りたまふ。興ある題の文字選りて、文章博士たてまつる。短きころの夜なれば、明け果ててぞ講ずる。左中弁、講師仕うまつる。容貌いときよげなる人の、声づかひものものしく、神さびて読み上げたるほど、いとおもしろし。おぼえ心ことなる博士なりけり。
 かかる高き家に生まれたまひて、世界の栄花にのみ戯れたまふべき御身をもちて、窓の螢をむつび、枝の雪を馴らしたまふ心ざしのすぐれたるよしを、よろづのことによそへなずらへて、心々に作り集めたる句ごとにおもしろく、「唐土にも持て渡り伝へまほしげなる夜の詩文どもなり」となむ、そのころ世にめでゆすりける。
 大臣の御はさらなり。親めきあはれなることさへすぐれたるを、涙おとして誦じ騷ぎしかど、女のえ知らぬことまねぶは憎きことをと、うたてあれば漏らしつ。


 [第四段 夕霧の勉学生活]
 うち続き、入学といふことせさせたまひて、やがて、この院のうちに御曹司作りて、まめやかに才深き師に預けきこえたまひてぞ、学問せさせたてまつりたまひける。
 大宮の御もとにも、をさをさ参うでたまはず。夜昼うつくしみて、なほ稚児のやうにのみもてなしきこえたまへれば、かしこにては、えもの習ひたまはじとて、静かなる所に籠めたてまつりたまへるなりけり。
 「一月に三度ばかりを参りたまへ」
 とぞ、許しきこえたまひける。
 つと籠もりゐたまひて、いぶせきままに、殿を、
 「つらくもおはしますかな。かく苦しからでも、高き位に昇り、世に用ゐらるる人はなくやはある」
 と思ひきこえたまへど、おほかたの人がら、まめやかに、あだめきたるところなくおはすれば、いとよく念じて、
 「いかでさるべき書どもとく読み果てて、交じらひもし、世にも出でたらむ」
 と思ひて、ただ四、五月のうちに、『史記』などいふ書、読み果てたまひてけり。


 [第五段 大学寮試験の予備試験]
 今は寮試受けさせむとて、まづ我が御前にて試みさせたまふ。
 例の、大将、左大弁、式部大輔、左中弁などばかりして、御師の大内記を召して、『史記』の難き巻々、寮試受けむに、博士のかへさふべきふしぶしを引き出でて、一わたり読ませたてまつりたまふに、至らぬ句もなく、かたがたに通はし読みたまへるさま、爪じるし残らず、あさましきまでありがたければ、
 「さるべきにこそおはしけれ」
 と、誰も誰も、涙落としたまふ。大将は、まして、
 「故大臣おはせましかば」
 と、聞こえ出でて泣きたまふ。殿も、え心強うもてなしたまはず、
 「人のうへにて、かたくななりと見聞きはべりしを、子のおとなぶるに、親の立ちかはり痴れゆくことは、いくばくならぬ齢ながら、かかる世にこそはべりけれ」
 などのたまひて、おし拭ひたまふを見る御師の心地、うれしく面目ありと思へり。
 大将、盃さしたまへば、いたう酔ひ痴れてをる顔つき、いと痩せ痩せなり。
 世のひがものにて、才のほどよりは用ゐられず、すげなくて身貧しくなむありけるを、御覧じ得るところありて、かくとりわき召し寄せたるなりけり。
 身に余るまで御顧みを賜はりて、この君の御徳に、たちまちに身を変へたると思へば、まして行く先は、並ぶ人なきおぼえにぞあらむかし。


 [第六段 試験の当日]
 大学に参りたまふ日は、寮門に、上達部の御車ども数知らず集ひたり。おほかた世に残りたるあらじと見えたるに、またなくもてかしづかれて、つくろはれ入りたまへる冠者の君の御さま、げに、かかる交じらひには堪へず、あてにうつくしげなり。
 例の、あやしき者どもの立ちまじりつつ来ゐたる座の末をからしと思すぞ、いとことわりなるや。
 ここにてもまた、おろしののしる者どもありて、めざましけれど、すこしも臆せず読み果てたまひつ。
 昔おぼえて大学の栄ゆるころなれば、上中下の人、我も我もと、この道に志し集れば、いよいよ、世の中に、才ありはかばかしき人多くなむありける。文人擬生などいふなることどもよりうちはじめ、すがすがしう果てたまへれば、ひとへに心に入れて、師も弟子も、いとど励みましたまふ。
 殿にも、文作りしげく、博士、才人ども所得たり。すべて何ごとにつけても、道々の人の才のほど現はるる世になむありける。


 

第三章 光る源氏周辺の人々の物語 内大臣家の物語
 [第一段 斎宮女御の立后と光る源氏の太政大臣就任]
 かくて、后ゐたまふべきを、
 「斎宮女御をこそは、母宮も、後見と譲りきこえたまひしかば」
 と、大臣もことづけたまふ。源氏のうちしきり后にゐたまはむこと、世の人許しきこえず。
 「弘徽殿の、まづ人より先に参りたまひにしもいかが」
 など、うちうちに、こなたかなたに心寄せきこゆる人々、おぼつかながりきこゆ。
 兵部卿宮と聞こえし、今は式部卿にて、この御時にはましてやむごとなき御おぼえにておはする、御女、本意ありて参りたまへり。同じごと、王女御にてさぶらひたまふを、
 「同じくは、御母方にて親しくおはすべきにこそは、母后のおはしまさぬ御代はりの後見に」
 とことよせて、似つかはしかるべく、とりどりに思し争ひたれど、なほ梅壷ゐたまひぬ。御幸ひの、かく引きかへすぐれたまへりけるを、世の人おどろききこゆ。
 大臣、太政大臣に上がりたまひて、大将、内大臣になりたまひぬ。世の中のことども政りごちたまふべく譲りきこえたまふ。人がら、いとすくよかに、きらきらしくて、心もちゐなどもかしこくものしたまふ。学問を立ててしたまひければ、韻塞には負けたまひしかど、公事にかしこくなむ。
 腹々に御子ども十余人、おとなびつつものしたまふも、次々になり出でつつ、劣らず栄えたる御家のうちなり。女は、女御と今一所なむおはしける。わかむどほり腹にて、あてなる筋は劣るまじけれど、その母君、按察使大納言の北の方になりて、さしむかへる子どもの数多くなりて、「それに混ぜて後の親に譲らむ、いとあいなし」とて、とり放ちきこえたまひて、大宮にぞ預けきこえたまへりける。女御にはこよなく思ひおとしきこえたまひつれど、人がら、容貌など、いとうつくしくぞおはしける。

 [第二段 夕霧と雲居雁の幼恋]
 冠者の君、一つにて生ひ出でたまひしかど、おのおの十に余りたまひて後は、御方ことにて、
 「むつましき人なれど、男子にはうちとくまじきものなり」
 と、父大臣聞こえたまひて、けどほくなりにたるを、幼心地に思ふことなきにしもあらねば、はかなき花紅葉につけても、雛遊びの追従をも、ねむごろにまつはれありきて、心ざしを見えきこえたまへば、いみじう思ひ交はして、けざやかには今も恥ぢきこえたまはず。
 御後見どもも、
 「何かは、若き御心どちなれば、年ごろ見ならひたまへる御あはひを、にはかにも、いかがはもて離れはしたなめきこえむ」
 と見るに、女君こそ何心なくおはすれど、男は、さこそものげなきほどと見きこゆれ、おほけなく、いかなる御仲らひにかありけむ、よそよそになりては、これをぞ静心なく思ふべき。
 まだ片生なる手の生ひ先うつくしきにて、書き交はしたまへる文どもの、心幼くて、おのづから落ち散る折あるを、御方の人びとは、ほのぼの知れるもありけれど、「何かは、かくこそ」と、誰にも聞こえむ。見隠しつつあるなるべし。


 [第三段 内大臣、大宮邸に参上]
 所々の大饗どもも果てて、世の中の御いそぎもなく、のどやかになりぬるころ、時雨うちして、荻の上風もただならぬ夕暮に、大宮の御方に、内大臣参りたまひて、姫君渡しきこえたまひて、御琴など弾かせたてまつりたまふ。宮は、よろづのものの上手におはすれば、いづれも伝へたてまつりたまふ。
 「琵琶こそ、女のしたるに憎きやうなれど、らうらうじきものにはべれ。今の世にまことしう伝へたる人、をさをさはべらずなりにたり。何の親王、くれの源氏」
 など数へたまひて、
 「女の中には、太政大臣の、山里に籠め置きたまへる人こそ、いと上手と聞きはべれ。物の上手の後にはべれど、末になりて、山賤にて年経たる人の、いかでさしも弾きすぐれけむ。かの大臣、いと心ことにこそ思ひてのたまふ折々はべれ。こと事よりは、遊びの方の才はなほ広う合はせ、かれこれに通はしはべるこそ、かしこけれ、独り事にて、上手となりけむこそ、珍しきことなれ」
 などのたまひて、宮にそそのかしきこえたまへば、
 「柱さすことうひうひしくなりにけりや」
 とのたまへど、おもしろう弾きたまふ。
 「幸ひにうち添へて、なほあやしうめでたかりける人なりや。老いの世に、持たまへらぬ女子をまうけさせたてまつりて、身に添へてもやつしゐたらず、やむごとなきに譲れる心おきて、こともなかるべき人なりとぞ聞きはべる」
 など、かつ御物語聞こえたまふ。


 [第四段 弘徽殿女御の失意]
 「女はただ心ばせよりこそ、世に用ゐらるるものにはべりけれ」
 など、人の上のたまひ出でて、
 「女御を、けしうはあらず、何ごとも人に劣りては生ひ出でずかしと思ひたまへしかど、思はぬ人におされぬる宿世になむ、世は思ひのほかなるものと思ひはべりぬる。この君をだに、いかで思ふさまに見なしはべらむ。春宮の御元服、ただ今のことになりぬるをと、人知れず思うたまへ心ざしたるを、かういふ幸ひ人の腹の后がねこそ、また追ひ次ぎぬれ。立ち出でたまへらむに、ましてきしろふ人ありがたくや」
 とうち嘆きたまへば、
 「などか、さしもあらむ。この家にさる筋の人出でものしたまはで止むやうあらじと、故大臣の思ひたまひて、女御の御ことをも、ゐたちいそぎたまひしものを。おはせましかば、かくもてひがむることもなからまし」
 など、この御ことにてぞ、太政大臣をも恨めしげに思ひきこえたまへる。
 姫君の御さまの、いときびはにうつくしうて、箏の御琴弾きたまふを、御髪のさがり、髪ざしなどの、あてになまめかしきをうちまもりたまへば、恥ぢらひて、すこしそばみたまへるかたはらめ、つらつきうつくしげにて、取由の手つき、いみじう作りたる物の心地するを、宮も限りなくかなしと思したり。掻きあはせなど弾きすさびたまひて、押しやりたまひつ。


 [第五段 夕霧、内大臣と対面]
 大臣、和琴ひき寄せたまひて、律の調べのなかなか今めきたるを、さる上手の乱れて掻い弾きたまへる、いとおもしろし。御前の梢ほろほろと残らぬに、老い御達など、ここかしこの御几帳のうしろに、かしらを集へたり。
 「風の力蓋し寡し」
 と、うち誦じたまひて、
 「琴の感ならねど、あやしくものあはれなる夕べかな。なほ、あそばさむや」
 とて、「秋風楽」に掻きあはせて、唱歌したまへる声、いとおもしろければ、皆さまざま、大臣をもいとうつくしと思ひきこえたまふに、いとど添へむとにやあらむ、冠者の君参りたまへり。
 「こなたに」とて、御几帳隔てて入れたてまつりたまへり。
 「をさをさ対面もえ賜はらぬかな。などかく、この御学問のあながちならむ。才のほどよりあまり過ぎぬるもあぢきなきわざと、大臣も思し知れることなるを、かくおきてきこえたまふ、やうあらむとは思ひたまへながら、かう籠もりおはすることなむ、心苦しうはべる」
 と聞こえたまひて、
 「時々は、ことわざしたまへ。笛の音にも古事は、伝はるものなり」
 とて、御笛たてまつりたまふ。
 いと若うをかしげなる音に吹きたてて、いみじうおもしろければ、御琴どもをばしばし止めて、大臣、拍子おどろおどろしからずうち鳴らしたまひて、
 「萩が花摺り」
 など歌ひたまふ。
 「大殿も、かやうの御遊びに心止めたまひて、いそがしき御政事どもをば逃れたまふなりけり。げに、あぢきなき世に、心のゆくわざをしてこそ、過ぐしはべりなまほしけれ」
 などのたまひて、御土器参りたまふに、暗うなれば、御殿油参り、御湯漬、くだものなど、誰も誰もきこしめす。
 姫君はあなたに渡したてまつりたまひつ。しひて気遠くもてなしたまひ、「御琴の音ばかりをも聞かせたてまつらじ」と、今はこよなく隔てきこえたまふを、
 「いとほしきことありぬべき世なるこそ」
 と、近う仕うまつる大宮の御方のねび人ども、ささめきけり。


 [第六段 内大臣、雲居雁の噂を立ち聞く]
 大臣出でたまひぬるやうにて、忍びて人にもののたまふとて立ちたまへりけるを、やをらかい細りて出でたまふ道に、かかるささめき言をするに、あやしうなりたまひて、御耳とどめたまへば、わが御うへをぞ言ふ。
 「かしこがりたまへど、人の親よ。おのづから、おれたることこそ出で来べかめれ」
 「子を知るといふは、虚言なめり」
 などぞ、つきしろふ。
 「あさましくもあるかな。さればよ。思ひ寄らぬことにはあらねど、いはけなきほどにうちたゆみて。世は憂きものにもありけるかな」
 と、けしきをつぶつぶと心得たまへど、音もせで出でたまひぬ。
 御前駆追ふ声のいかめしきにぞ、
 「殿は、今こそ出でさせたまひけれ」
 「いづれの隈におはしましつらむ」
 「今さへかかる御あだけこそ」
 と言ひあへり。ささめき言の人びとは、
 「いとかうばしき香のうちそよめき出でつるは、冠者の君のおはしつるとこそ思ひつれ」
 「あな、むくつけや。しりう言や、ほの聞こしめしつらむ。わづらはしき御心を」
 と、わびあへり。
 殿は、道すがら思すに、
 「いと口惜しく悪しきことにはあらねど、めづらしげなきあはひに、世人も思ひ言ふべきこと。大臣の、しひて女御をおし沈めたまふもつらきに、わくらばに、人にまさることもやとこそ思ひつれ、ねたくもあるかな」
 と思す。殿の御仲の、おほかたには昔も今もいとよくおはしながら、かやうの方にては、挑みきこえたまひし名残も思し出でて、心憂ければ、寝覚がちにて明かしたまふ。
 「大宮をも、さやうのけしきには御覧ずらむものを、世になくかなしくしたまふ御孫にて、まかせて見たまふならむ」
 と、人びとの言ひしけしきを、ねたしと思すに、御心動きて、すこし男々しくあざやぎたる御心には、静めがたし。


 

第四章 内大臣家の物語 雲居雁の養育をめぐる物語
 [第一段 内大臣、母大宮の養育を恨む]
 二日ばかりありて、参りたまへり。しきりに参りたまふ時は、大宮もいと御心ゆき、うれしきものに思いたり。御尼額ひきつくろひ、うるはしき御小袿などたてまつり添へて、子ながら恥づかしげにおはする御人ざまなれば、まほならずぞ見えたてまつりたまふ。
 大臣御けしき悪しくて、
 「ここにさぶらふもはしたなく、人びといかに見はべらむと、心置かれにたり。はかばかしき身にはべらねど、世にはべらむ限り、御目離れず御覧ぜられ、おぼつかなき隔てなくとこそ思ひたまふれ。
 よからぬもののうへにて、恨めしと思ひきこえさせつべきことの出でまうで来たるを、かうも思うたまへじとかつは思ひたまふれど、なほ静めがたくおぼえはべりてなむ」
 と、涙おし拭ひたまふに、宮、化粧じたまへる御顔の色違ひて、御目も大きになりぬ。
 「いかやうなることにてか、今さらの齢の末に、心置きては思さるらむ」
 と聞こえたまふも、さすがにいとほしけれど、
 「頼もしき御蔭に、幼き者をたてまつりおきて、みづからをばなかなか幼くより見たまへもつかず、まづ目に近きが、交じらひなどはかばかしからぬを、見たまへ嘆きいとなみつつ、さりとも人となさせたまひてむと頼みわたりはべりつるに、思はずなることのはべりければ、いと口惜しうなむ。
 まことに天の下並ぶ人なき有職にはものせらるめれど、親しきほどにかかるは、人の聞き思ふところも、あはつけきやうになむ、何ばかりのほどにもあらぬ仲らひにだにしはべるを、かの人の御ためにも、いとかたはなることなり。さし離れ、きらきらしうめづらしげあるあたりに、今めかしうもてなさるるこそ、をかしけれ。ゆかりむつび、ねぢけがましきさまにて、大臣も聞き思すところはべりなむ。
 さるにても、かかることなむと、知らせたまひて、ことさらにもてなし、すこしゆかしげあることをまぜてこそはべらめ。幼き人びとの心にまかせて御覧じ放ちけるを、心憂く思うたまふ」
 など聞こえたまふに、夢にも知りたまはぬことなれば、あさましう思して、
 「げに、かうのたまふもことわりなれど、かけてもこの人びとの下の心なむ知りはべらざりける。げに、いと口惜しきことは、ここにこそまして嘆くべくはべれ。もろともに罪をおほせたまふは、恨めしきことになむ。
 見たてまつりしより、心ことに思ひはべりて、そこに思しいたらぬことをも、すぐれたるさまにもてなさむとこそ、人知れず思ひはべれ。ものげなきほどを、心の闇に惑ひて、いそぎものせむとは思ひ寄らぬことになむ。
 さても、誰かはかかることは聞こえけむ。よからぬ世の人の言につきて、きはだけく思しのたまふも、あぢきなく、むなしきことにて、人の御名や汚れむ」
 とのたまへば、
 「何の、浮きたることにかはべらむ。さぶらふめる人びとも、かつは皆もどき笑ふべかめるものを、いと口惜しく、やすからず思うたまへらるるや」
 とて、立ちたまひぬ。
 心知れるどちは、いみじういとほしく思ふ。一夜のしりう言の人びとは、まして心地も違ひて、「何にかかる睦物語をしけむ」と、思ひ嘆きあへり。

 [第二段 内大臣、乳母らを非難する]
 姫君は、何心もなくておはするに、さしのぞきたまへれば、いとらうたげなる御さまを、あはれに見たてまつりたまふ。
 「若き人といひながら、心幼くものしたまひけるを知らで、いとかく人なみなみにと思ひける我こそ、まさりてはかなかりけれ」
 とて、御乳母どもをさいなみのたまふに、聞こえむ方なし。
 「かやうのことは、限りなき帝の御いつき女も、おのづから過つ例、昔物語にもあめれど、けしきを知り伝ふる人、さるべき隙にてこそあらめ」
 「これは、明け暮れ立ちまじりたまひて年ごろおはしましつるを、何かは、いはけなき御ほどを、宮の御もてなしよりさし過ぐしても、隔てきこえさせむと、うちとけて過ぐしきこえつるを、一昨年ばかりよりは、けざやかなる御もてなしになりにてはべるめるに、若き人とても、うち紛ればみ、いかにぞや、世づきたる人もおはすべかめるを、夢に乱れたるところおはしまさざめれば、さらに思ひ寄らざりけること」
 と、おのがどち嘆く。
 「よし、しばし、かかること漏らさじ。隠れあるまじきことなれど、心をやりて、あらぬこととだに言ひなされよ。今かしこに渡したてまつりてむ。宮の御心のいとつらきなり。そこたちは、さりとも、いとかかれとしも、思はれざりけむ」
 とのたまへば、「いとほしきなかにも、うれしくのたまふ」と思ひて、
 「あな、いみじや。大納言殿に聞きたまはむことをさへ思ひはべれば、めでたきにても、ただ人の筋は、何のめづらしさにか思ひたまへかけむ」
 と聞こゆ。
 姫君は、いと幼げなる御さまにて、よろづに申したまへども、かひあるべきにもあらねば、うち泣きたまひて、
 「いかにしてか、いたづらになりたまふまじきわざはすべからむ」
 と、忍びてさるべきどちのたまひて、大宮をのみぞ恨みきこえたまふ。


 [第三段 大宮、内大臣を恨む]
 宮は、いといとほしと思すなかにも、男君の御かなしさはすぐれたまふにやあらむ、かかる心のありけるも、うつくしう思さるるに、情けなく、こよなきことのやうに思しのたまへるを、
 「などかさしもあるべき。もとよりいたう思ひつきたまふことなくて、かくまでかしづかむとも思し立たざりしを、わがかくもてなしそめたればこそ、春宮の御ことをも思しかけためれ。とりはづして、ただ人の宿世あらば、この君よりほかにまさるべき人やはある。容貌、ありさまよりはじめて、等しき人のあるべきかは。これより及びなからむ際にもとこそ思へ」
 と、わが心ざしのまさればにや、大臣を恨めしう思ひきこえたまふ。御心のうちを見せたてまつりたらば、ましていかに恨みきこえたまはむ。


 [第四段 大宮、夕霧に忠告]
 かく騒がるらむとも知らで、冠者の君参りたまへり。一夜も人目しげうて、思ふことをもえ聞こえずなりにしかば、常よりもあはれにおぼえたまひければ、夕つ方おはしたるなるべし。
 宮、例は是非知らず、うち笑みて待ちよろこびきこえたまふを、まめだちて物語など聞こえたまふついでに、
 「御ことにより、内大臣の怨じてものしたまひにしかば、いとなむいとほしき。ゆかしげなきことをしも思ひそめたまひて、人にもの思はせたまひつべきが心苦しきこと。かうも聞こえじと思へど、さる心も知りたまはでやと思へばなむ」
 と聞こえたまへば、心にかかれることの筋なれば、ふと思ひ寄りぬ。面赤みて、
 「何ごとにかはべらむ。静かなる所に籠もりはべりにしのち、ともかくも人に交じる折なければ、恨みたまふべきことはべらじとなむ思ひたまふる」
 とて、いと恥づかしと思へるけしきを、あはれに心苦しうて、
 「よし。今よりだに用意したまへ」
 とばかりにて、異事に言ひなしたまうつ。


 

第五章 夕霧の物語 幼恋の物語
 [第一段 夕霧と雲居雁の恋の煩悶]
                                                                                                                                               「いとど文なども通はむことのかたきなめり」と思ふに、いと嘆かしう、物参りなどしたまへど、さらに参らで、寝たまひぬるやうなれど、心も空にて、人静まるほどに、中障子を引けど、例はことに鎖し固めなどもせぬを、つと鎖して、人の音もせず。いと心細くおぼえて、障子に寄りかかりてゐたまへるに、女君も目を覚まして、風の音の竹に待ちとられて、うちそよめくに、雁の鳴きわたる声の、ほのかに聞こゆるに、幼き心地にも、とかく思し乱るるにや、
 「雲居の雁もわがごとや」
 と、独りごちたまふけはひ、若うらうたげなり。
 いみじう心もとなければ、
 「これ、開けさせたまへ。小侍従やさぶらふ」
 とのたまへど、音もせず。御乳母子なりけり。独り言を聞きたまひけるも恥づかしうて、あいなく御顔も引き入れたまへど、あはれは知らぬにしもあらぬぞ憎きや。乳母たちなど近く臥して、うちみじろくも苦しければ、かたみに音もせず。
 「さ夜中に友呼びわたる雁が音に
  うたて吹き添ふ荻の上風」
 「身にもしみけるかな」と思ひ続けて、宮の御前に帰りて嘆きがちなるも、「御目覚めてや聞かせたまふらむ」とつつましく、みじろき臥したまへり。
 あいなくもの恥づかしうて、わが御方にとく出でて、御文書きたまへれど、小侍従もえ逢ひたまはず、かの御方ざまにもえ行かず、胸つぶれておぼえたまふ。
 女はた、騒がれたまひしことのみ恥づかしうて、「わが身やいかがあらむ、人やいかが思はむ」とも深く思し入れず、をかしうらうげにて、うち語らふさまなどを、疎ましとも思ひ離れたまはざりけり。
 また、かう騒がるべきこととも思さざりけるを、御後見どももいみじうあはめきこゆれば、え言も通はしたまはず。おとなびたる人や、さるべき隙をも作り出づらむ、男君も、今すこしものはかなき年のほどにて、ただいと口惜しとのみ思ふ。

 [第二段 内大臣、弘徽殿女御を退出させる]
 大臣は、そのままに参りたまはず、宮をいとつらしと思ひきこえたまふ。北の方には、かかることなむと、けしきも見せたてまつりたまはず、ただおほかた、いとむつかしき御けしきにて、
 「中宮のよそほひことにて参りたまへるに、女御の世の中思ひしめりてものしたまふを、心苦しう胸いたきに、まかでさせたてまつりて、心やすくうち休ませたてまつらむ。さすがに、主上につとさぶらはせたまひて、夜昼おはしますめれば、ある人びとも心ゆるびせず、苦しうのみわぶめるに」
 とのたまひて、にはかにまかでさせたてまつりたまふ。御暇も許されがたきを、うちむつかりたまて、主上はしぶしぶに思し召したるを、しひて御迎へしたまふ。
 「つれづれに思されむを、姫君渡して、もろともに遊びなどしたまへ。宮に預けたてまつりたる、うしろやすけれど、いとさくじりおよすけたる人立ちまじりて、おのづから気近きも、あいなきほどになりにたればなむ」
 と聞こえたまひて、にはかに渡しきこえたまふ。
 宮、いとあへなしと思して、
 「ひとりものせられし女亡くなりたまひて後、いとさうざうしく心細かりしに、うれしうこの君を得て、生ける限りのかしづきものと思ひて、明け暮れにつけて、老いのむつかしさも慰めむとこそ思ひつれ、思ひのほかに隔てありて思しなすも、つらく」
 など聞こえたまへば、うちかしこまりて、
 「心に飽かず思うたまへらるることは、しかなむ思うたまへらるるとばかり聞こえさせしになむ。深く隔て思ひたまふることは、いかでかはべらむ。
 内裏にさぶらふが、世の中恨めしげにて、このころまかでてはべるに、いとつれづれに思ひて屈しはべれば、心苦しう見たまふるを、もろともに遊びわざをもして慰めよと思うたまへてなむ、あからさまにものしはべる」とて、「育み、人となさせたまへるを、おろかにはよも思ひきこえさせじ」
 と申したまへば、かう思し立ちにたれば、止めきこえさせたまふとも、思し返すべき御心ならぬに、いと飽かず口惜しう思されて、
 「人の心こそ憂きものはあれ。とかく幼き心どもにも、われに隔てて疎ましかりけることよ。また、さもこそあらめ、大臣の、ものの心を深う知りたまひながら、われを怨じて、かく率て渡したまふこと。かしこにて、これよりうしろやすきこともあらじ」
 と、うち泣きつつのたまふ。


 [第三段 夕霧、大宮邸に参上]
 折しも冠者の君参りたまへり。「もしいささかの隙もや」と、このころはしげうほのめきたまふなりけり。内大臣の御車のあれば、心の鬼にはしたなくて、やをら隠れて、わが御方に入りゐたまへり。
 内大殿の君達、左少将、少納言、兵衛佐、侍従、大夫などいふも、皆ここには参り集ひたれど、御簾の内は許したまはず。
 左兵衛督、権中納言なども、異御腹なれど、故殿の御もてなしのままに、今も参り仕うまつりたまふことねむごろなれば、その御子どももさまざま参りたまへど、この君に似るにほひなく見ゆ。
 大宮の御心ざしも、なずらひなく思したるを、ただこの姫君をぞ、気近うらうたきものと思しかしづきて、御かたはらさけず、うつくしきものに思したりつるを、かくて渡りたまひなむが、いとさうざうしきことを思す。
 殿は、
 「今のほどに、内裏に参りはべりて、夕つ方迎へに参りはべらむ」
 とて、出でたまひぬ。
 「いふかひなきことを、なだらかに言ひなして、さてもやあらまし」と思せど、なほ、いと心やましければ、「人の御ほどのすこしものものしくなりなむに、かたはならず見なして、そのほど、心ざしの深さ浅さのおもむきをも見定めて、許すとも、ことさらなるやうにもてなしてこそあらめ。制し諌むとも、一所にては、幼き心のままに、見苦しうこそあらめ。宮も、よもあながちに制したまふことあらじ」
 と思せば、女御の御つれづれにことつけて、ここにもかしこにもおいらかに言ひなして、渡したまふなりけり。


 [第四段 夕霧と雲居雁のわずかの逢瀬]
 宮の御文にて、
 「大臣こそ、恨みもしたまはめ、君は、さりとも心ざしのほども知りたまふらむ。渡りて見えたまへ」
 と聞こえたまへれば、いとをかしげにひきつくろひて渡りたまへり。十四になむおはしける。かたなりに見えたまへど、いと子めかしう、しめやかに、うつくしきさましたまへり。
 「かたはらさけたてまつらず、明け暮れのもてあそびものに思ひきこえつるを、いとさうざうしくもあるべきかな。残りすくなき齢のほどにて、御ありさまを見果つまじきことと、命をこそ思ひつれ、今さらに見捨てて移ろひたまふや、いづちならむと思へば、いとこそあはれなれ」
 とて泣きたまふ。姫君は、恥づかしきことを思せば、顔ももたげたまはで、ただ泣きにのみ泣きたまふ。男君の御乳母、宰相の君出で来て、
 「同じ君とこそ頼みきこえさせつれ、口惜しくかく渡らせたまふこと。殿はことざまに思しなることおはしますとも、さやうに思しなびかせたまふな」
 など、ささめき聞こゆれば、いよいよ恥づかしと思して、物ものたまはず。
 「いで、むつかしきことな聞こえられそ。人の宿世宿世、いと定めがたく」
 とのたまふ。
 「いでや、ものげなしとあなづりきこえさせたまふにはべるめりかし。さりとも、げに、わが君人に劣りきこえさせたまふと、聞こしめし合はせよ」
 と、なま心やましきままに言ふ。
 冠者の君、物のうしろに入りゐて見たまふに、人の咎めむも、よろしき時こそ苦しかりけれ、いと心細くて、涙おし拭ひつつおはするけしきを、御乳母、いと心苦しう見て、宮にとかく聞こえたばかりて、夕まぐれの人のまよひに、対面せさせたまへり。
 かたみにもの恥づかしく胸つぶれて、物も言はで泣きたまふ。
 「大臣の御心のいとつらければ、さはれ、思ひやみなむと思へど、恋しうおはせむこそわりなかるべけれ。などて、すこし隙ありぬべかりつる日ごろ、よそに隔てつらむ」
 とのたまふさまも、いと若うあはれげなれば、
 「まろも、さこそはあらめ」
 とのたまふ。
 「恋しとは思しなむや」
 とのたまへば、すこしうなづきたまふさまも、幼げなり。


 [第五段 乳母、夕霧の六位を蔑む]
 御殿油参り、殿まかでたまふけはひ、こちたく追ひののしる御前駆の声に、人びと、
 「そそや」
 など懼ぢ騒げば、いと恐ろしと思してわななきたまふ。さも騒がればと、ひたぶる心に、許しきこえたまはず。御乳母参りてもとめたてまつるに、けしきを見て、
 「あな、心づきなや。げに、宮知らせたまはぬことにはあらざりけり」
 と思ふに、いとつらく、
 「いでや、憂かりける世かな。殿の思しのたまふことは、さらにも聞こえず、大納言殿にもいかに聞かせたまはむ。めでたくとも、もののはじめの六位宿世よ」
 と、つぶやくもほの聞こゆ。ただこの屏風のうしろに尋ね来て、嘆くなりけり。
 男君、「我をば位なしとて、はしたなむるなりけり」と思すに、世の中恨めしければ、あはれもすこしさむる心地して、めざまし。
 「かれ聞きたまへ。
  くれなゐの涙に深き袖の色を
  浅緑にや言ひしをるべき
 恥づかし」
 とのたまへば、
 「いろいろに身の憂きほどの知らるるは
  いかに染めける中の衣ぞ」
 と、物のたまひ果てぬに、殿入りたまへば、わりなくて渡りたまひぬ。
 男君は、立ちとまりたる心地も、いと人悪く、胸ふたがりて、わが御方に臥したまひぬ。
 御車三つばかりにて、忍びやかに急ぎ出でたまふけはひを聞くも、静心なければ、宮の御前より、「参りたまへ」とあれど、寝たるやうにて動きもしたまはず。
 涙のみ止まらねば、嘆きあかして、霜のいと白きに急ぎ出でたまふ。うちはれたるまみも、人に見えむが恥づかしきに、宮はた、召しまつはすべかめれば、心やすき所にとて、急ぎ出でたまふなりけり。
 道のほど、人やりならず、心細く思ひ続くるに、空のけしきもいたう雲りて、まだ暗かりけり。
 「霜氷うたてむすべる明けぐれの
  空かきくらし降る涙かな」


 

第六章 夕霧の物語 五節舞姫への恋
 [第一段 惟光の娘、五節舞姫となる]
 大殿には、今年、五節たてまつりたまふ。何ばかりの御いそぎならねど、童女の装束など、近うなりぬとて、急ぎせさせたまふ。
 東の院には、参りの夜の人びとの装束せさせたまふ。殿には、おほかたのことども、中宮よりも、童女、下仕への料など、えならでたてまつれたまへり。
 過ぎにし年、五節など止まれりしが、さうざうしかりし積もり取り添へ、上人の心地も、常よりもはなやかに思ふべかめる年なれば、所々挑みて、いといみじくよろづを尽くしたまふ聞こえあり。
 按察使大納言、左衛門督、上の五節には、良清、今は近江守にて左中弁なるなむ、たてまつりける。皆止めさせたまひて、宮仕へすべく、仰せ言ことなる年なれば、女をおのおのたてまつりたまふ。
 殿の舞姫は、惟光朝臣の、津守にて左京大夫かけたるが女、容貌などいとをかしげなる聞こえあるを召す。からいことに思ひたれど、
 「大納言の、外腹の女をたてまつらるなるに、朝臣のいつき女出だし立てたらむ、何の恥かあるべき」
 と苛めば、わびて、同じくは宮仕へやがてせさすべく思ひおきてたり。
 舞習はしなどは、里にていとよう仕立てて、かしづきなど、親しう身に添ふべきは、いみじう選り整へて、その日の夕つけて参らせたり。
 殿にも、御方々の童女、下仕へのすぐれたるをと、御覧じ比べ、選り出でらるる心地どもは、ほどほどにつけて、いとおもだたしげなり。
 御前に召して御覧ぜむうちならしに、御前を渡らせてと定めたまふ。捨つべうもあらず、とりどりなる童女の様体、容貌を思しわづらひて、
 「今一所の料を、これよりたてまつらばや」
 など笑ひたまふ。ただもてなし用意によりてぞ選びに入りける。

 [第二段 夕霧、五節舞姫を恋慕]
 大学の君、胸のみふたがりて、物なども見入れられず、屈じいたくて、書も読まで眺め臥したまへるを、心もや慰むと立ち出でて、紛れありきたまふ。
 さま、容貌はめでたくをかしげにて、静やかになまめいたまへれば、若き女房などは、いとをかしと見たてまつる。
 上の御方には、御簾の前にだに、もの近うももてなしたまはず。わが御心ならひ、いかに思すにかありけむ、疎々しければ、御達なども気遠きを、今日はものの紛れに、入り立ちたまへるなめり。
 舞姫かしづき下ろして、妻戸の間に屏風など立てて、かりそめのしつらひなるに、やをら寄りてのぞきたまへば、悩ましげにて添ひ臥したり。
 ただ、かの人の御ほどと見えて、今すこしそびやかに、様体などのことさらび、をかしきところはまさりてさへ見ゆ。暗ければ、こまかには見えねど、ほどのいとよく思ひ出でらるるさまに、心移るとはなけれど、ただにもあらで、衣の裾を引き鳴らいたまふに、何心もなく、あやしと思ふに、
 「天にます豊岡姫の宮人も
  わが心ざすしめを忘るな
 少女子が袖振る山の瑞垣の」
 とのたまふぞ、うちつけなりける。
 若うをかしき声なれど、誰ともえ思ひたどられず、なまむつかしきに、化粧じ添ふとて、騷ぎつる後見ども、近う寄りて人騒がしうなれば、いと口惜しうて、立ち去りたまひぬ。


 [第三段 宮中における五節の儀]
 浅葱の心やましければ、内裏へ参ることもせず、もの憂がりたまふを、五節にことつけて、直衣など、さま変はれる色聴されて参りたまふ。きびはにきよらなるものから、まだきにおよすけて、されありきたまふ。帝よりはじめたてまつりて、思したるさまなべてならず、世にめづらしき御おぼえなり。
 五節の参る儀式は、いづれともなく、心々に二なくしたまへるを、「舞姫の容貌、大殿と大納言とはすぐれたり」とめでののしる。げに、いとをかしげなれど、ここしううつくしげなることは、なほ大殿のには、え及ぶまじかりけり。
 ものきよげに今めきて、そのものとも見ゆまじう仕立てたる様体などの、ありがたうをかしげなるを、かう誉めらるるなめり。例の舞姫どもよりは、皆すこしおとなびつつ、げに心ことなる年なり。
 殿参りたまひて御覧ずるに、昔御目とまりたまひし少女の姿を思し出づ。辰の日の暮つ方つかはす。御文のうち思ひやるべし。
 「少女子も神さびぬらし天つ袖
  古き世の友よはひ経ぬれば」
 年月の積もりを数へて、うち思しけるままのあはれを、え忍びたまはぬばかりの、をかしうおぼゆるも、はかなしや。
 「かけて言へば今日のこととぞ思ほゆる
  日蔭の霜の袖にとけしも」
 青摺りの紙よくとりあへて、紛らはし書いたる、濃墨、薄墨、草がちにうち交ぜ乱れたるも、人のほどにつけてはをかしと御覧ず。
 冠者の君も、人の目とまるにつけても、人知れず思ひありきたまへど、あたり近くだに寄せず、いとけけしうもてなしたれば、ものつつましきほどの心には、嘆かしうてやみぬ。容貌はしも、いと心につきて、つらき人の慰めにも、見るわざしてむやと思ふ。


 [第四段 夕霧、舞姫の弟に恋文を託す]
 やがて皆とめさせたまひて、宮仕へすべき御けしきありけれど、このたびはまかでさせて、近江のは辛崎の祓へ、津の守は難波と、挑みてまかでぬ。大納言もことさらに参らすべきよし奏せさせたまふ。左衛門督、その人ならぬをたてまつりて、咎めありけれど、それもとどめさせたまふ。
 津の守は、「典侍あきたるに」と申させたれば、「さもや労らまし」と大殿も思いたるを、かの人は聞きたまひて、いと口惜しと思ふ。
 「わが年のほど、位など、かくものげなからずは、乞ひ見てましものを。思ふ心ありとだに知られでやみなむこと」
 と、わざとのことにはあらねど、うち添へて涙ぐまるる折々あり。
 せうとの童殿上する、常にこの君に参り仕うまつるを、例よりもなつかしう語らひたまひて、
 「五節はいつか内裏へ参る」
 と問ひたまふ。
 「今年とこそは聞きはべれ」
 と聞こゆ。
 「顔のいとよかりしかば、すずろにこそ恋しけれ。ましが常に見るらむも羨ましきを、また見せてむや」
 とのたまへば、
 「いかでかさははべらむ。心にまかせてもえ見はべらず。男兄弟とて、近くも寄せはべらねば、まして、いかでか君達には御覧ぜさせむ」
 と聞こゆ。
 「さらば、文をだに」
 とて賜へり。「先々かやうのことは言ふものを」と苦しけれど、せめて賜へば、いとほしうて持て往ぬ。
 年のほどよりは、されてやありけむ、をかしと見けり。緑の薄様の、好ましき重ねなるに、手はまだいと若けれど、生ひ先見えて、いとをかしげに、
 「日影にもしるかりけめや少女子が
  天の羽袖にかけし心は」
 二人見るほどに、父主ふと寄り来たり。恐ろしうあきれて、え引き隠さず。
 「なぞの文ぞ」
 とて取るに、面赤みてゐたり。
 「よからぬわざしけり」
 と憎めば、せうと逃げて行くを、呼び寄せて、
 「誰がぞ」
 と問へば、
 「殿の冠者の君の、しかしかのたまうて賜へる」
 と言へば、名残なくうち笑みて、
 「いかにうつくしき君の御され心なり。きむぢらは、同じ年なれど、いふかひなくはかなかめりかし」
 など誉めて、母君にも見す。
 「この君達の、すこし人数に思しぬべからましかば、宮仕へよりは、たてまつりてまし。殿の御心おきて見るに、見そめたまひてむ人を、御心とは忘れたまふまじきとこそ、いと頼もしけれ。明石の入道の例にやならまし」
 など言へど、皆急ぎ立ちにたり。


 [第五段 花散里、夕霧の母代となる]
 かの人は、文をだにえやりたまはず、立ちまさる方のことし心にかかりて、ほど経るままに、わりなく恋しき面影にまたあひ見でやと思ふよりほかのことなし。宮の御もとへ、あいなく心憂くて参りたまはず。おはせしかた、年ごろ遊び馴れし所のみ、思ひ出でらるることまされば、里さへ憂くおぼえたまひつつ、また籠もりゐたまへり。
 殿は、この西の対にぞ、聞こえ預けたてまつりたまひける。
 「大宮の御世の残り少なげなるを、おはせずなりなむのちも、かく幼きほどより見ならして、後見おぼせ」
 と聞こえたまへば、ただのたまふままの御心にて、なつかしうあはれに思ひ扱ひたてまつりたまふ。
 ほのかになど見たてまつるにも、
 「容貌のまほならずもおはしけるかな。かかる人をも、人は思ひ捨てたまはざりけり」など、「わが、あながちに、つらき人の御容貌を心にかけて恋しと思ふもあぢきなしや。心ばへのかうやうにやはらかならむ人をこそあひ思はめ」
 と思ふ。また、
 「向ひて見るかひなからむもいとほしげなり。かくて年経たまひにけれど、殿の、さやうなる御容貌、御心と見たまうて、浜木綿ばかりの隔てさし隠しつつ、何くれともてなし紛らはしたまふめるも、むべなりけり」
 と思ふ心のうちぞ、恥づかしかりける。
 大宮の容貌ことにおはしませど、まだいときよらにおはし、ここにもかしこにも、人は容貌よきものとのみ目馴れたまへるを、もとよりすぐれざりける御容貌の、ややさだ過ぎたる心地して、痩せ痩せに御髪少ななるなどが、かくそしらはしきなりけり。


 [第六段 歳末、夕霧の衣装を準備]
 年の暮には、睦月の御装束など、宮はただ、この君一所の御ことを、まじることなういそぎたまふ。あまた領、いときよらに仕立てたまへるを見るも、もの憂くのみおぼゆれば、
 「朔日などには、かならずしも内裏へ参るまじう思ひたまふるに、何にかくいそがせたまふらむ」
 と聞こえたまへば、
 「などてか、さもあらむ。老いくづほれたらむ人のやうにものたまふかな」
 とのたまへば、
 「老いねど、くづほれたる心地ぞするや」
 と独りごちて、うち涙ぐみてゐたまへり。
 「かのことを思ふならむ」と、いと心苦しうて、宮もうちひそみたまひぬ。
 「男は、口惜しき際の人だに、心を高うこそつかふなれ。あまりしめやかに、かくなものしたまひそ。何とか、かう眺めがちに思ひ入れたまふべき。ゆゆしう」
 とのたまふも、
 「何かは。六位など人のあなづりはべるめれば、しばしのこととは思うたまふれど、内裏へ参るももの憂くてなむ。故大臣おはしまさましかば、戯れにても、人にはあなづられはべらざらまし。もの隔てぬ親におはすれど、いとけけしうさし放ちて思いたれば、おはしますあたりに、たやすくも参り馴れはべらず。東の院にてのみなむ、御前近くはべる。対の御方こそ、あはれにものしたまへ、親今一所おはしまさましかば、何ごとを思ひはべらまし」
 とて、涙の落つるを紛らはいたまへるけしき、いみじうあはれなるに、宮は、いとどほろほろと泣きたまひて、
 「母にも後るる人は、ほどほどにつけて、さのみこそあはれなれど、おのづから宿世宿世に、人と成りたちぬれば、おろかに思ふもなきわざなるを、思ひ入れぬさまにてものしたまへ。故大臣の今しばしだにものしたまへかし。限りなき蔭には、同じことと頼みきこゆれど、思ふにかなはぬことの多かるかな。内大臣の心ばへも、なべての人にはあらずと、世人もめで言ふなれど、昔に変はることのみまさりゆくに、命長さも恨めしきに、生ひ先遠き人さへ、かくいささかにても、世を思ひしめりたまへれば、いとなむよろづ恨めしき世なる」
 とて、泣きおはします。


 

第七章 光る源氏の物語 六条院造営
 [第一段 二月二十日過ぎ、朱雀院へ行幸]
 朔日にも、大殿は御ありきしなければ、のどやかにておはします。良房の大臣と聞こえける、いにしへの例になずらへて、白馬ひき、節会の日、内裏の儀式をうつして、昔の例よりも事添へて、いつかしき御ありさまなり。
 如月の二十日あまり、朱雀院に行幸あり。花盛りはまだしきほどなれど、弥生は故宮の御忌月なり。とく開けたる桜の色もいとおもしろければ、院にも御用意ことにつくろひ磨かせたまひ、行幸に仕うまつりたまふ上達部、親王たちよりはじめ、心づかひしたまへり。
 人びとみな、青色に、桜襲を着たまふ。帝は、赤色の御衣たてまつれり。召しありて、太政大臣参りたまふ。おなじ赤色を着たまへれば、いよいよひとつものとかかやきて見えまがはせたまふ。人びとの装束、用意、常にことなり。院も、いときよらにねびまさらせたまひて、御さまの用意、なまめきたる方に進ませたまへり。
 今日は、わざとの文人も召さず、ただその才かしこしと聞こえたる学生十人を召す。式部の司の試みの題をなずらへて、御題賜ふ。大殿の太郎君の試みたまふべきなめり。臆だかき者どもは、ものもおぼえず、繋がぬ舟に乗りて池に放れ出でて、いと術なげなり。
 日やうやうくだりて、楽の舟ども漕ぎまひて、調子ども奏するほどの、山風の響きおもしろく吹きあはせたるに、冠者の君は、
 「かう苦しき道ならでも交じらひ遊びぬべきものを」
 と、世の中恨めしうおぼえたまひけり。
 「春鴬囀」舞ふほどに、昔の花の宴のほど思し出でて、院の帝も、
 「また、さばかりのこと見てむや」
 とのたまはするにつけて、その世のことあはれに思し続けらる。舞ひ果つるほどに、大臣、院に御土器参りたまふ。
 「鴬のさへづる声は昔にて
  睦れし花の蔭ぞ変はれる」
 院の上、
 「九重を霞隔つるすみかにも
  春と告げくる鴬の声」
 帥の宮と聞こえし、今は兵部卿にて、今の上に御土器参りたまふ。
 「いにしへを吹き伝へたる笛竹に
  さへづる鳥の音さへ変はらぬ」
 あざやかに奏しなしたまへる、用意ことにめでたし。取らせたまひて、
 「鴬の昔を恋ひてさへづるは
  木伝ふ花の色やあせたる」
 とのたまはする御ありさま、こよなくゆゑゆゑしくおはします。これは御私ざまに、うちうちのことなれば、あまたにも流れずやなりにけむ、また書き落してけるにやあらむ。
 楽所遠くておぼつかなければ、御前に御琴ども召す。兵部卿宮、琵琶。内大臣、和琴。箏の御琴、院の御前に参りて、琴は、例の太政大臣に賜はりたまふ。せめきこえたまふ。さるいみじき上手のすぐれたる御手づかひどもの、尽くしたまへる音は、たとへむかたなし。唱歌の殿上人あまたさぶらふ。「安名尊」遊びて、次に「桜人」。月おぼろにさし出でてをかしきほどに、中島のわたりに、ここかしこ篝火どもして、大御遊びはやみぬ。

 [第二段 弘徽殿大后を見舞う]
 夜更けぬれど、かかるついでに、大后の宮おはします方を、よきて訪らひきこえさせたまはざらむも、情けなければ、帰さに渡らせたまふ。大臣もろともにさぶらひたまふ。
 后待ち喜びたまひて、御対面あり。いといたうさだ過ぎたまひにける御けはひにも、故宮を思ひ出できこえたまひて、「かく長くおはしますたぐひもおはしけるものを」と、口惜しう思ほす。
 「今はかく古りぬる齢に、よろづのこと忘られはべりにけるを、いとかたじけなく渡りおはしまいたるになむ、さらに昔の御世のこと思ひ出でられはべる」
 と、うち泣きたまふ。
 「さるべき御蔭どもに後れはべりてのち、春のけぢめも思うたまへわかれぬを、今日なむ慰めはべりぬる。またまたも」
 と聞こえたまふ。大臣もさるべきさまに聞こえて、
 「ことさらにさぶらひてなむ」
 と聞こえたまふ。のどやかならで帰らせたまふ響きにも、后は、なほ胸うち騒ぎて、
 「いかに思し出づらむ。世をたもちたまふべき御宿世は、消たれぬものにこそ」
 と、いにしへを悔い思す。
 尚侍の君も、のどやかに思し出づるに、あはれなること多かり。今もさるべき折、風のつてにもほのめききこえたまふこと絶えざるべし。
 后は、朝廷に奏せさせたまふことある時々ぞ、御たうばりの年官年爵、何くれのことに触れつつ、御心にかなはぬ時ぞ、「命長くてかかる世の末を見ること」と、取り返さまほしう、よろづ思しむつかりける。
 老いもておはするままに、さがなさもまさりて、院もくらべ苦しう、たとへがたくぞ思ひきこえたまひける。
 かくて、大学の君、その日の文うつくしう作りたまひて、進士になりたまひぬ。年積もれるかしこき者どもを選らばせたまひしかど、及第の人、わづかに三人なむありける。
 秋の司召に、かうぶり得て、侍従になりたまひぬ。かの人の御こと、忘るる世なけれど、大臣の切にまもりきこえたまふもつらければ、わりなくてなども対面したまはず。御消息ばかり、さりぬべきたよりに聞こえたまひて、かたみに心苦しき御仲なり。


 [第三段 源氏、六条院造営を企図す]
 大殿、静かなる御住まひを、同じくは広く見どころありて、ここかしこにておぼつかなき山里人などをも、集へ住ませむの御心にて、六条京極のわたりに、中宮の御古き宮のほとりを、四町をこめて造らせたまふ。
 式部卿宮、明けむ年ぞ五十になりたまひける御賀のこと、対の上思しまうくるに、大臣も、「げに、過ぐしがたきことどもなり」と思して、「さやうの御いそぎも、同じくめづらしからむ御家居にて」と、いそがせたまふ。
 年返りて、ましてこの御いそぎのこと、御としみのこと、楽人、舞人の定めなどを、御心に入れていとなみたまふ。経、仏、法事の日の装束、禄などをなむ、上はいそがせたまひける。
 東の院に、分けてしたまふことどもあり。御なからひ、ましていとみやびかに聞こえ交はしてなむ、過ぐしたまひける。
 世の中響きゆすれる御いそぎなるを、式部卿宮にも聞こしめして、
 「年ごろ、世の中にはあまねき御心なれど、このわたりをばあやにくに情けなく、事に触れてはしたなめ、宮人をも御用意なく、愁はしきことのみ多かるに、つらしと思ひ置きたまふことこそはありけめ」
 と、いとほしくもからくも思しけるを、かくあまたかかづらひたまへる人びと多かるなかに、取りわきたる御思ひすぐれて、世に心にくくめでたきことに、思ひかしづかれたまへる御宿世をぞ、わが家まではにほひ来ねど、面目に思すに、また、
 「かくこの世にあまるまで、響かし営みたまふは、おぼえぬ齢の末の栄えにもあるべきかな」
 と喜びたまふを、北の方は、「心ゆかず、ものし」とのみ思したり。女御、御まじらひのほどなどにも、大臣の御用意なきやうなるを、いよいよ恨めしと思ひしみたまへるなるべし。


 [第四段 秋八月に六条院完成]
 八月にぞ、六条院造り果てて渡りたまふ。未申の町は、中宮の御古宮なれば、やがておはしますべし。辰巳は、殿のおはすべき町なり。丑寅は、東の院に住みたまふ対の御方、戌亥の町は、明石の御方と思しおきてさせたまへり。もとありける池山をも、便なき所なるをば崩し変へて、水の趣き、山のおきてを改めて、さまざまに、御方々の御願ひの心ばへを造らせたまへり。
 南の東は、山高く、春の花の木、数を尽くして植ゑ、池のさまおもしろくすぐれて、御前近き前栽、五葉、紅梅、桜、藤、山吹、岩躑躅などやうの、春のもてあそびをわざとは植ゑで、秋の前栽をば、むらむらほのかに混ぜたり。
 中宮の御町をば、もとの山に、紅葉の色濃かるべき植木どもを添へて、泉の水遠く澄ましやり、水の音まさるべき巌立て加へ、滝落として、秋の野をはるかに作りたる、そのころにあひて、盛りに咲き乱れたり。嵯峨の大堰のわたりの野山、無徳にけおされたる秋なり。
 北の東は、涼しげなる泉ありて、夏の蔭によれり。前近き前栽、呉竹、下風涼しかるべく、木高き森のやうなる木ども木深くおもしろく、山里めきて、卯の花の垣根ことさらにしわたして、昔おぼゆる花橘、撫子、薔薇、苦丹などやうの花、草々を植ゑて、春秋の木草、そのなかにうち混ぜたり。東面は、分けて馬場の御殿作り、埒結ひて、五月の御遊び所にて、水のほとりに菖蒲植ゑ茂らせて、向かひに御厩して、世になき上馬どもをととのへ立てさせたまへり。
 西の町は、北面築き分けて、御倉町なり。隔ての垣に松の木茂く、雪をもてあそばむたよりによせたり。冬のはじめの朝、霜むすぶべき菊の籬、われは顔なる柞原、をさをさ名も知らぬ深山木どもの、木深きなどを移し植ゑたり。


 [第五段 秋の彼岸の頃に引っ越し始まる]
 彼岸のころほひ渡りたまふ。ひとたびにと定めさせたまひしかど、騒がしきやうなりとて、中宮はすこし延べさせたまふ。例のおいらかにけしきばまぬ花散里ぞ、その夜、添ひて移ろひたまふ。
 春の御しつらひは、このころに合はねど、いと心ことなり。御車十五、御前四位五位がちにて、六位の殿上人などは、さるべき限りを選らせたまへり。こちたきほどにはあらず、世のそしりもやと省きたまへれば、何事もおどろおどろしういかめしきことはなし。
 今一方の御けしきも、をさをさ落としたまはで、侍従君添ひて、そなたはもてかしづきたまへば、げにかうもあるべきことなりけりと見えたり。
 女房の曹司町ども、当て当てのこまけぞ、おほかたのことよりもめでたかりける。
 五、六日過ぎて、中宮まかでさせたまふ。この御けしきはた、さは言へど、いと所狭し。御幸ひのすぐれたまへりけるをばさるものにて、御ありさまの心にくく重りかにおはしませば、世に重く思はれたまへること、すぐれてなむおはしましける。
 この町々の中の隔てには、塀ども廊などを、とかく行き通はして、気近くをかしきあはひにしなしたまへり。


 [第六段 九月、中宮と紫の上和歌を贈答]
 長月になれば、紅葉むらむら色づきて、宮の御前えも言はずおもしろし。風うち吹きたる夕暮に、御箱の蓋に、色々の花紅葉をこき混ぜて、こなたにたてまつらせたまへり。
 大きやかなる童女の、濃き衵、紫苑の織物重ねて、赤朽葉の羅の汗衫、いといたうなれて、廊、渡殿の反橋を渡りて参る。うるはしき儀式なれど、童女のをかしきをなむ、え思し捨てざりける。さる所にさぶらひなれたれば、もてなし、ありさま、他のには似ず、このましうをかし。御消息には、
 「心から春まつ園はわが宿の
  紅葉を風のつてにだに見よ」
 若き人々、御使もてはやすさまどもをかし。
 御返りは、この御箱の蓋に苔敷き、巌などの心ばへして、五葉の枝に、
 「風に散る紅葉は軽し春の色を
  岩根の松にかけてこそ見め」
 この岩根の松も、こまかに見れば、えならぬ作りごとどもなりけり。とりあへず思ひ寄りたまへるゆゑゆゑしさなどを、をかしく御覧ず。御前なる人びともめであへり。大臣、
 「この紅葉の御消息、いとねたげなめり。春の花盛りに、この御応へは聞こえたまへ。このころ紅葉を言ひ朽さむは、龍田姫の思はむこともあるを、さし退きて、花の蔭に立ち隠れてこそ、強きことは出で来め」
 と聞こえたまふも、いと若やかに尽きせぬ御ありさまの見どころ多かるに、いとど思ふやうなる御住まひにて、聞こえ通はしたまふ。
 大堰の御方は、「かう方々の御移ろひ定まりて、数ならぬ人は、いつとなく紛らはさむ」と思して、神無月になむ渡りたまひける。御しつらひ、ことのありさま劣らずして、渡したてまつりたまふ。姫君の御ためを思せば、おほかたの作法も、けぢめこよなからず、いとものものしくもてなさせたまへり。



    玉 鬘

 年月隔たりぬれど、飽かざりし夕顔を、つゆ忘れたまはず、心々なる人のありさまどもを、見たまひ重ぬるにつけても、「あらましかば」と、あはれに口惜しくのみ思し出づ。
 右近は、何の人数ならねど、なほ、その形見と見たまひて、らうたきものに思したれば、古人の数に仕うまつり馴れたり。須磨の御移ろひのほどに、対の上の御方に、皆人びと聞こえ渡したまひしほどより、そなたにさぶらふ。心よくかいひそめたるものに、女君も思したれど、心のうちには、
 「故君ものしたまはましかば、明石の御方ばかりのおぼえには劣りたまはざらまし。さしも深き御心ざしなかりけるをだに、落としあぶさず、取りしたためたまふ御心長さなりければ、まいて、やむごとなき列にこそあらざらめ、この御殿移りの数のうちには交じらひたまひなまし」
 と思ふに、飽かず悲しくなむ思ひける。
 かの西の京にとまりし若君をだに行方も知らず、ひとへにものを思ひつつみ、また、「今さらにかひなきことによりて、我が名漏らすな」と、口がためたまひしを憚りきこえて、尋ねても音づれきこえざりしほどに、その御乳母の男、少弐になりて、行きければ、下りにけり。かの若君の四つになる年ぞ、筑紫へは行きける。


 母君の御行方を知らむと、よろづの神仏に申して、夜昼泣き恋ひて、さるべき所々を尋ねきこえけれど、つひにえ聞き出でず。
 「さらばいかがはせむ。若君をだにこそは、御形見に見たてまつらめ。あやしき道に添へたてまつりて、遥かなるほどにおはせむことの悲しきこと。なほ、父君にほのめかさむ」
 と思ひけれど、さるべきたよりもなきうちに、
 「母君のおはしけむ方も知らず、尋ね問ひたまはば、いかが聞こえむ」
 「まだ、よくも見なれたまはぬに、幼き人をとどめたてまつりたまはむも、うしろめたかるべし」
 「知りながら、はた、率て下りねと許したまふべきにもあらず」
 など、おのがじし語らひあはせて、いとうつくしう、ただ今から気高くきよらなる御さまを、ことなるしつらひなき舟に乗せて漕ぎ出づるほどは、いとあはれになむおぼえける。
 幼き心地に、母君を忘れず、折々に、
 「母の御もとへ行くか」
 と問ひたまふにつけて、涙絶ゆる時なく、娘どもも思ひこがるるを、「舟路ゆゆし」と、かつは諌めけり。
  おもしろき所々を見つつ、
 「心若うおはせしものを、かかる路をも見せたてまつるものにもがな」
 「おはせましかば、われらは下らざらまし」
 と、京の方を思ひやらるるに、帰る浪もうらやましく、心細きに、舟子どもの荒々しき声にて、
 「うらがなしくも、遠く来にけるかな」
 と、歌ふを聞くままに、二人さし向ひて泣きけり。
 「舟人もたれを恋ふとか大島の
  うらがなしげに声の聞こゆる」
 「来し方も行方も知らぬ沖に出でて
  あはれいづくに君を恋ふらむ」
 鄙の別れに、おのがじし心をやりて言ひける。
 金の岬過ぎて、「われは忘れず」など、世とともの言種になりて、かしこに到り着きては、まいて遥かなるほどを思ひやりて、恋ひ泣きて、この君をかしづきものにて、明かし暮らす。
 夢などに、いとたまさかに見えたまふ時などもあり。同じさまなる女など、添ひたまうて見えたまへば、名残心地悪しく悩みなどしければ、
 「なほ、世に亡くなりたまひにけるなめり」
 と思ひなるも、いみじくのみなむ。



 少弐、任果てて上りなどするに、遥けきほどに、ことなる勢ひなき人は、たゆたひつつ、すがすがしくも出で立たぬほどに、重き病して、死なむとする心地にも、この君の十ばかりにもなりたまへるさまの、ゆゆしきまでをかしげなるを見たてまつりて、
 「我さへうち捨てたてまつりて、いかなるさまにはふれたまはむとすらむ。あやしき所に生ひ出でたまふも、かたじけなく思ひきこゆれど、いつしかも京に率てたてまつりて、さるべき人にも知らせたてまつりて、御宿世にまかせて見たてまつらむにも、都は広き所なれば、いと心やすかるべしと、思ひいそぎつるを、ここながら命堪へずなりぬること」
 と、うしろめたがる。男子三人あるに、
 「ただこの姫君、京に率てたてまつるべきことを思へ。わが身の孝をば、な思ひそ」
 となむ言ひ置きける。
 その人の御子とは、館の人にも知らせず、ただ「孫のかしづくべきゆゑある」とぞ言ひなしければ、人に見せず、限りなくかしづききこゆるほどに、にはかに亡せぬれば、あはれに心細くて、ただ京の出で立ちをすれど、この少弐の仲悪しかりける国の人多くなどして、とざまかうざまに、懼ぢ憚りて、われにもあらで年を過ぐすに、この君、ねびととのひたまふままに、母君よりもまさりてきよらに、父大臣の筋さへ加はればにや、品高くうつくしげなり。心ばせおほどかにあらまほしうものしたまふ。


 [第四段 玉鬘への求婚]
 聞きついつつ、好いたる田舎人ども、心かけ消息がる、いと多かり。ゆゆしくめざましくおぼゆれば、誰も誰も聞き入れず。
 「容貌などは、さてもありぬべけれど、いみじきかたはのあれば、人にも見せで尼になして、わが世の限りは持たらむ」
 と言ひ散らしたれば、
 「故少弐の孫は、かたはなむあむなる」
 「あたらものを」
 と、言ふなるを聞くもゆゆしく、
 「いかさまにして、都に率てたてまつりて、父大臣に知らせたてまつらむ。いときなきほどを、いとらうたしと思ひきこえたまへりしかば、さりともおろかには思ひ捨てきこえたまはじ」
 など言ひ嘆くほど、仏神に願を立ててなむ念じける。
 娘どもも男子どもも、所につけたるよすがども出で来て、住みつきにたり。心のうちにこそ急ぎ思へど、京のことはいや遠ざかるやうに隔たりゆく。もの思し知るままに、世をいと憂きものに思して、年三などしたまふ。二十ばかりになりたまふままに、生ひととのほりて、いとあたらしくめでたし。
 この住む所は、肥前国とぞいひける。そのわたりにもいささか由ある人は、まづこの少弐の孫のありさまを聞き伝へて、なほ、絶えず訪れ来るも、いといみじう、耳かしかましきまでなむ。


 

第二章 玉鬘の物語 大夫監の求婚と筑紫脱出
 [第一段 大夫の監の求婚]
 大夫監とて、肥後国に族広くて、かしこにつけてはおぼえあり、勢ひいかめしき武士ありけり。むくつけき心のなかに、いささか好きたる心混じりて、容貌ある女を集めて見むと思ひける。この姫君を聞きつけて、
 「いみじきかたはありとも、我は見隠して持たらむ」
 と、いとねむごろに言ひかかるを、いとむくつけく思ひて、
 「いかで、かかることを聞かで、尼になりなむとす」
 と、言はせたれば、いよいよあやふがりて、おしてこの国に越え来ぬ。
 この男子どもを呼びとりて、語らふことは、
 「思ふさまになりなば、同じ心に勢ひを交はすべきこと」
 など語らふに、二人は赴きにけり。
 「しばしこそ、似げなくあはれと思ひきこえけれ、おのおの我が身のよるべと頼まむに、いと頼もしき人なり。これに悪しくせられては、この近き世界にはめぐらひなむや」
 「よき人の御筋といふとも、親に数まへられたてまつらず、世に知られでは、何のかひかはあらむ。この人のかくねむごろに思ひきこえたまへるこそ、今は御幸ひなれ」
 「さるべきにてこそは、かかる世界にもおはしましけめ。逃げ隠れたまふとも、何のたけきことかはあらむ」
 「負けじ魂に、怒りなば、せぬことどももしてむ」
 と言ひ脅せば、「いといみじ」と聞きて、中の兄なる豊後介なむ、
 「なほ、いとたいだいしく、あたらしきことなり。故少弐ののたまひしこともあり。とかく構へて、京に上げたてまつりてむ」
 と言ふ。娘どもも泣きまどひて、
 「母君のかひなくてさすらへたまひて、行方をだに知らぬかはりに、人なみなみにて見たてまつらむとこそ思ふに」
 「さるものの中に混じりたまひなむこと」
 と思ひ嘆くをも知らで、「我はいとおぼえ高き身」と思ひて、文など書きておこす。手などきたなげなう書きて、唐の色紙、香ばしき香に入れしめつつ、をかしく書きたりと思ひたる言葉ぞ、いとだみたりける。みづからも、この家の次郎を語らひとりて、うち連れて来たり。

 [第二段 大夫の監の訪問]
 三十ばかりなる男の、丈高くものものしく太りて、きたなげなけれど、思ひなし疎ましく、荒らかなる振る舞ひなど、見るもゆゆしくおぼゆ。色あひ心地よげに、声いたう嗄れてさへづりゐたり。懸想人は夜に隠れたるをこそ、よばひとは言ひけれ、さまかへたる春の夕暮なり。秋ならねども、あやしかりけりと見ゆ。
 心を破らじとて、祖母おとど出で会ふ。
 「故少弐のいと情けび、きらきらしくものしたまひしを、いかでかあひ語らひ申さむと思ひたまへしかども、さる心ざしをも見え聞こえずはべりしほどに、いと悲しくて、隠れたまひにしを、その代はりに、いかうに仕うまつるべくなむ、心ざしを励まして、今日は、いとひたぶるに、強ひてさぶらひつる。
 このおはしますらむ女君、筋ことにうけたまはれば、いとかたじけなし。ただ、なにがしらが私の君と思ひ申して、いただきになむささげたてまつるべき。おとどもしぶしぶにおはしげなることは、よからぬ女どもあまたあひ知りてはべるを聞こしめし疎むななり。さりとも、すやつばらを、人並みにはしはべりなむや。わが君をば、后の位に落としたてまつらじものをや」
 など、いとよげに言ひ続く。
 「いかがは。かくのたまふを、いと幸ひありと思ひたまふるを、宿世つたなき人にやはべらむ、思ひ憚ることはべりて、いかでか人に御覧ぜられむと、人知れず嘆きはべるめれば、心苦しう見たまへわづらひぬる」
 と言ふ。
 「さらに、な思し憚りそ。天下に、目つぶれ、足折れたまへりとも、なにがしは仕うまつりやめてむ。国のうちの仏神は、おのれになむ靡きたまへる」
 など、誇りゐたり。
 「その日ばかり」と言ふに、「この月は季の果てなり」など、田舎びたることを言ひ逃る。


 [第三段 大夫の監、和歌を詠み贈る]
 下りて行く際に、歌詠ままほしかりければ、やや久しう思ひめぐらして、
 「君にもし心違はば松浦なる
  鏡の神をかけて誓はむ
 この和歌は、仕うまつりたりとなむ思ひたまふる」
 と、うち笑みたるも、世づかずうひうひうしや。あれにもあらねば、返しすべくも思はねど、娘どもに詠ますれど、
 「まろは、ましてものもおぼえず」
 とてゐたれば、いと久しきに思ひわづらひて、うち思ひけるままに、
 「年を経て祈る心の違ひなば
  鏡の神をつらしとや見む」
 とわななかし出でたるを、
 「待てや。こはいかに仰せらるる」
 と、ゆくりかに寄り来たるけはひに、おびえて、おとど、色もなくなりぬ。娘たち、さはいへど、心強く笑ひて、
 「この人の、さまことにものしたまふを、引き違へはべらば、思はれむを、なほ、ほけほけしき人の、神かけて、聞こえひがめたまふなめりや」
 と解き聞かす。
 「おい、さり、さり」とうなづきて、「をかしき御口つきかな。なにがしら、田舎びたりといふ名こそはべれ、口惜しき民にははべらず。都の人とても、何ばかりかあらむ。みな知りてはべり。な思しあなづりそ」
 とて、また、詠まむと思へれども、堪へずやありけむ、往ぬめり。


 [第四段 玉鬘、筑紫を脱出]
 次郎が語らひ取られたるも、いと恐ろしく心憂くて、この豊後介を責むれば、
 「いかがは仕まつるべからむ。語らひあはすべき人もなし。まれまれの兄弟は、この監に同じ心ならずとて、仲違ひにたり。この監にあたまれては、いささかの身じろきせむも、所狭くなむあるべき。なかなかなる目をや見む」
 と、思ひわづらひにたれど、姫君の人知れず思いたるさまの、いと心苦しくて、生きたらじと思ひ沈みたまへる、ことわりとおぼゆれば、いみじきことを思ひ構へて出で立つ。妹たちも、年ごろ経ぬるよるべを捨てて、この御供に出で立つ。
 あてきと言ひしは、今は兵部の君といふぞ、添ひて、夜逃げ出でて舟に乗りける。大夫の監は、肥後に帰り行きて、四月二十日のほどに、日取りて来むとするほどに、かくて逃ぐるなりけり。
 姉おもとは、類広くなりて、え出で立たず。かたみに別れ惜しみて、あひ見むことの難きを思ふに、年経つる故里とて、ことに見捨てがたきこともなし。ただ、松浦の宮の前の渚と、かの姉おもとの別るるをなむ、顧みせられて、悲しかりける。
 「浮島を漕ぎ離れても行く方や
  いづく泊りと知らずもあるかな」
 「行く先も見えぬ波路に舟出して
  風にまかする身こそ浮きたれ」
 いとあとはかなき心地して、うつぶし臥したまへり。


 [第五段 都に帰着]
 「かく、逃げぬるよし、おのづから言ひ出で伝へば、負けじ魂にて、追ひ来なむ」と思ふに、心も惑ひて、早舟といひて、さまことになむ構へたりければ、思ふ方の風さへ進みて、危ふきまで走り上りぬ。響の灘もなだらかに過ぎぬ。
 「海賊の舟にやあらむ。小さき舟の、飛ぶやうにて来る」
 など言ふ者あり。海賊のひたぶるならむよりも、かの恐ろしき人の追ひ来るにやと思ふに、せむかたなし。
 「憂きことに胸のみ騒ぐ響きには
  響の灘もさはらざりけり」
 「川尻といふ所、近づきぬ」
 と言ふにぞ、すこし生き出づる心地する。例の、舟子ども、
 「唐泊より、川尻おすほどは」
 と歌ふ声の、情けなきも、あはれに聞こゆ。
 豊後介、あはれになつかしう歌ひすさみて、
 「いとかなしき妻子も忘れぬ」
 とて、思へば、
 「げにぞ、皆うち捨ててける。いかがなりぬらむ。はかばかしく身の助けと思ふ郎等どもは、皆率て来にけり。我を悪しと思ひて、追ひまどはして、いかがしなすらむ」と思ふに、「心幼くも、顧みせで、出でにけるかな」
 と、すこし心のどまりてぞ、あさましき事を思ひ続くるに、心弱くうち泣かれぬ。
 「胡の地の妻児をば虚しく棄て捐てつ」
 と誦ずるを、兵部の君聞きて、
 「げに、あやしのわざや。年ごろ従ひ来つる人の心にも、にはかに違ひて逃げ出でにしを、いかに思ふらむ」
 と、さまざま思ひ続けらるる。
 「帰る方とても、そこ所と行き着くべき故里もなし。知れる人と言ひ寄るべき頼もしき人もおぼえず。ただ一所の御ためにより、ここらの年つき住み馴れつる世界を離れて、浮べる波風にただよひて、思ひめぐらす方なし。この人をも、いかにしたてまつらむとするぞ」
 と、あきれておぼゆれど、「いかがはせむ」とて、急ぎ入りぬ。


 

第三章 玉鬘の物語 玉鬘、右近と椿市で邂逅
 [第一段 岩清水八幡宮へ参詣]
 九条に、昔知れりける人の残りたりけるを訪らひ出でて、その宿りを占め置きて、都のうちといへど、はかばかしき人の住みたるわたりにもあらず、あやしき市女、商人のなかにて、いぶせく世の中を思ひつつ、秋にもなりゆくままに、来し方行く先、悲しきこと多かり。
 豊後介といふ頼もし人も、ただ水鳥の陸に惑へる心地して、つれづれにならはぬありさまのたづきなきを思ふに、帰らむにもはしたなく、心幼く出で立ちにけるを思ふに、従ひ来たりし者どもも、類に触れて逃げ去り、本の国に帰り散りぬ。
 住みつくべきやうもなきを、母おとど、明け暮れ嘆きいとほしがれば、
 「何か。この身は、いとやすくはべり。人一人の御身に代へたてまつりて、いづちもいづちもまかり失せなむに咎あるまじ。我らいみじき勢ひになりても、若君をさるものの中にはふらしたてまつりては、何心地かせまし」
 と語らひ慰めて、
 「神仏こそは、さるべき方にも導き知らせたてまつりたまはめ。近きほどに、八幡の宮と申すは、かしこにても参り祈り申したまひし松浦、筥崎、同じ社なり。かの国を離れたまふとても、多くの願立て申したまひき。今、都に帰りて、かくなむ御験を得てまかり上りたると、早く申したまへ」
 とて、八幡に詣でさせたてまつる。それのわたり知れる人に言ひ尋ねて、五師とて、早く親の語らひし大徳残れるを呼びとりて、詣でさせたてまつる。

 [第二段 初瀬の観音へ参詣]
 「うち次ぎては、仏の御なかには、初瀬なむ、日の本のうちには、あらたなる験現したまふと、唐土にだに聞こえあむなり。まして、わが国のうちにこそ、遠き国の境とても、年経たまへれば、若君をば、まして恵みたまひてむ」
 とて、出だしたてまつる。ことさらに徒歩よりと定めたり。ならはぬ心地に、いとわびしく苦しけれど、人の言ふままに、ものもおぼえで歩みたまふ。
 「いかなる罪深き身にて、かかる世にさすらふらむ。わが親、世に亡くなりたまへりとも、われをあはれと思さば、おはすらむ所に誘ひたまへ。もし、世におはせば、御顔見せたまへ」
 と、仏を念じつつ、ありけむさまをだにおぼえねば、ただ、「親おはせましかば」と、ばかりの悲しさを、嘆きわたりたまへるに、かくさしあたりて、身のわりなきままに、取り返しいみじくおぼえつつ、からうして、椿市といふ所に、四日といふ巳の時ばかりに、生ける心地もせで、行き着きたまへり。
 歩むともなく、とかくつくろひたれど、足のうら動かれず、わびしければ、せむかたなくて休みたまふ。この頼もし人なる介、弓矢持ちたる人二人、さては下なる者、童など三、四人、女ばらある限り三人、壷装束して、樋洗めく者、古き下衆女二人ばかりとぞある。
 いとかすかに忍びたり。大御燈明のことなど、ここにてし加へなどするほどに日暮れぬ。家主人の法師、
 「人宿したてまつらむとする所に、何人のものしたまふぞ。あやしき女どもの、心にまかせて」
 とむつかるを、めざましく聞くほどに、げに、人びと来ぬ。


 [第三段 右近も初瀬へ参詣]
 これも徒歩よりなめり。よろしき女二人、下人どもぞ、男女、数多かむめる。馬四、五つ牽かせて、いみじく忍びやつしたれど、きよげなる男どもなどあり。
 法師は、せめてここに宿さまほしくして、頭掻きありく。いとほしけれど、また、宿り替へむもさま悪しくわづらはしければ、人びとは奥に入り、他に隠しなどして、かたへは片つ方に寄りぬ。軟障などひき隔てておはします。
 この来る人も恥づかしげもなし。いたうかいひそめて、かたみに心づかひしたり。
 さるは、かの世とともに恋ひ泣く右近なりけり。年月に添へて、はしたなき交じらひのつきなくなりゆく身を思ひなやみて、この御寺になむたびたび詣でける。
 例ならひにければ、かやすく構へたりけれど、徒歩より歩み堪へがたくて、寄り臥したるに、この豊後介、隣の軟障のもとに寄り来て、参り物なるべし、折敷手づから取りて、
 「これは、御前に参らせたまへ。御台などうちあはで、いとかたはらいたしや」
 と言ふを聞くに、「わが並の人にはあらじ」と思ひて、物のはさまより覗けば、この男の顔、見し心地す。誰とはえおぼえず。いと若かりしほどを見しに、太り黒みてやつれたれば、多くの年隔てたる目には、ふとしも見分かぬなりけり。
 「三条、ここに召す」
 と呼び寄する女を見れば、また見し人なり。
 「故御方に、下人なれど、久しく仕うまつりなれて、かの隠れたまへりし御住みかまでありし者なりけり」
 と見なして、いみじく夢のやうなり。主とおぼしき人は、いとゆかしけれど、見ゆべくも構へず。思ひわびて、
 「この女に問はむ。兵藤太といひし人も、これにこそあらめ。姫君のおはするにや」
 と思ひ寄るに、いと心もとなくて、この中隔てなる三条を呼ばすれど、食ひ物に心入れて、とみにも来ぬ、いと憎しとおぼゆるも、うちつけなりや。


 [第四段 右近、玉鬘に再会す]
 からうして、
 「おぼえずこそはべれ。筑紫の国に、二十年ばかり経にける下衆の身を、知らせたまふべき京人よ。人違へにやはべらむ」
 とて、寄り来たり。田舎びたる掻練に衣など着て、いといたう太りにけり。わが齢もいとどおぼえて恥づかしけれど、
 「なほ、さし覗け。われをば見知りたりや」
 とて、顔をさし出でたり。この女の手を打ちて、
 「あが御許にこそおはしましけれ。あな、うれしともうれし。いづくより参りたまひたるぞ。上はおはしますや」
 と、いとおどろおどろしく泣く。若き者にて見なれし世を思ひ出づるに、隔て来にける年月数へられて、いとあはれなり。
 「まづ、おとどはおはすや。若君は、いかがなりたまひにし。あてきと聞こえしは」
 とて、君の御ことは、言ひ出でず。
 「皆おはします。姫君も大人になりておはします。まづ、おとどに、かくなむと聞こえむ」
 とて入りぬ。
 皆、驚きて、
 「夢の心地もするかな」
 「いとつらく、言はむかたなく思ひきこゆる人に、対面しぬべきことよ」
 とて、この隔てに寄り来たり。気遠く隔てつる屏風だつもの、名残なくおし開けて、まづ言ひやるべき方なく泣き交はす。老い人は、ただ、
 「わが君は、いかがなりたまひにし。ここらの年ごろ、夢にてもおはしまさむ所を見むと、大願を立つれど、遥かなる世界にて、風の音にてもえ聞き伝へたてまつらぬを、いみじく悲しと思ふに、老いの身の残りとどまりたるも、いと心憂けれど、うち捨てたてまつりたまへる若君の、らうたくあはれにておはしますを、冥途のほだしにもてわづらひきこえてなむ、またたきはべる」
 と言ひ続くれば、昔その折、いふかひなかりしことよりも、応へむ方なくわづらはしと思へども、
 「いでや、聞こえてもかひなし。御方は、はや亡せたまひにき」
 と言ふままに、二、三人ながらむせかへり、いとむつかしく、せきかねたり。


 [第五段 右近、初瀬観音に感謝]
 日暮れぬと、急ぎたちて、御燈明の事どもしたため果てて、急がせば、なかなかいと心あわたたしくて立ち別る。「もろともにや」と言へど、かたみに供の人のあやしと思ふべければ、この介にも、ことのさまだに言ひ知らせあへず。われも人もことに恥づかしくはあらで、皆下り立ちぬ。
 右近は、人知れず目とどめて見るに、なかにうつくしげなるうしろでの、いといたうやつれて、卯月の単衣めくものに着こめたまへる髪の透影、いとあたらしくめでたく見ゆ。心苦しう悲しと見たてまつる。
 すこし足なれたる人は、とく御堂に着きにけり。この君をもてわづらひきこえつつ、初夜行なふほどにぞ上りたまへる。いと騒がしく人詣で混みてののしる。右近が局は、仏の右の方に近き間にしたり。この御師は、まだ深からねばにや、西の間に遠かりけるを、
 「なほ、ここにおはしませ」
 と、尋ね交はし言ひたれば、男どもをばとどめて、介にかうかうと言ひあはせて、こなたに移したてまつる。
 「かくあやしき身なれど、ただ今の大殿になむさぶらひはべれば、かくかすかなる道にても、らうがはしきことははべらじと頼みはべる。田舎びたる人をば、かやうの所には、よからぬ生者どもの、あなづらはしうするも、かたじけなきことなり」
 とて、物語いとせまほしけれど、おどろおどろしき行なひの紛れ、騒がしきにもよほされて、仏拝みたてまつる。右近は心のうちに、
 「この人を、いかで尋ねきこえむと申しわたりつるに、かつがつ、かくて見たてまつれば、今は思ひのごと、大臣の君の、尋ねたてまつらむの御心ざし深かめるに、知らせたてまつりて、幸ひあらせたてまつりたまへ」
 など申しけり。


 [第六段 三条、初瀬観音に祈願]
 国々より、田舎人多く詣でたりけり。この国の守の北の方も、詣でたりけり。いかめしく勢ひたるをうらやみて、この三条が言ふやう、
 「大悲者には、異事も申さじ。あが姫君、大弐の北の方、ならずは、当国の受領の北の方になしたてまつらむ。三条らも、随分に栄えて、返り申しは仕うまつらむ」
 と、額に手を当てて念じ入りてをり。右近、「いとゆゆしくも言ふかな」と聞きて、
 「いと、いたくこそ田舎びにけれな。中将殿は、昔の御おぼえだにいかがおはしましし。まして、今は、天の下を御心にかけたまへる大臣にて、いかばかりいつかしき御仲に、御方しも、受領の妻にて、品定まりておはしまさむよ」
 と言へば、
 「あなかま。たまへ。大臣たちもしばし待て。大弐の御館の上の、清水の御寺、観世音寺に参りたまひし勢ひは、帝の御幸にやは劣れる。あな、むくつけ」
 とて、なほさらに手をひき放たず、拝み入りてをり。
 筑紫人は、三日籠もらむと心ざしたまへり。右近は、さしも思はざりけれど、かかるついで、のどかに聞こえむとて、籠もるべきよし、大徳呼びて言ふ。御あかし文など書きたる心ばへなど、さやうの人はくだくだしうわきまへければ、常のことにて、
 「例の藤原の瑠璃君といふが御ためにたてまつる。よく祈り申したまへ。その人、このころなむ見たてまつり出でたる。その願も果たしたてまつるべし」
 と言ふを聞くも、あはれなり。法師、
 「いとかしこきことかな。たゆみなく祈り申しはべる験にこそはべれ」
 と言ふ。いと騒がしう、夜一夜行なふなり。


 [第七段 右近、主人の光る源氏について語る]
 明けぬれば、知れる大徳の坊に下りぬ。物語、心やすくとなるべし。姫君のいたくやつれたまへる、恥づかしげに思したるさま、いとめでたく見ゆ。
 「おぼえぬ高き交じらひをして、多くの人をなむ見集むれど、殿の上の御容貌に似る人おはせじとなむ、年ごろ見たてまつるを、また、生ひ出でたまふ姫君の御さま、いとことわりにめでたくおはします。かしづきたてまつりたまふさまも、並びなかめるに、かうやつれたまへる御さまの、劣りたまふまじく見えたまふは、ありがたうなむ。
 大臣の君、父帝の御時より、そこらの女御、后、それより下は残るなく見たてまつり集めたまへる御目にも、当代の御母后と聞こえしと、この姫君の御容貌とをなむ、『よき人とはこれを言ふにやあらむとおぼゆる』と聞こえたまふ。
 見たてまつり並ぶるに、かの后の宮をば知りきこえず、姫君はきよらにおはしませど、まだ、片なりにて、生ひ先ぞ推し量られたまふ。
 上の御容貌は、なほ誰か並びたまはむと、なむ見えたまふ。殿も、すぐれたりと思しためるを、言に出でては、何かは数へのうちには聞こえたまはむ。『我に並びたまへるこそ、君はおほけなけれ』となむ、戯れきこえたまふ。
 見たてまつるに、命延ぶる御ありさまどもを、またさるたぐひおはしましなむやとなむ思ひはべるに、いづくか劣りたまはむ。ものは限りあるものなれば、すぐれたまへりとて、頂きを離れたる光やはおはする。ただ、これを、すぐれたりとは聞こゆべきなめりかし」
 と、うち笑みて見たてまつれば、老い人もうれしと思ふ。


 [第八段 乳母、右近に依頼]
 「かかる御さまを、ほとほとあやしき所に沈めたてまつりぬべかりしに、あたらしく悲しうて、家かまどをも捨て、男女の頼むべき子どもにも引き別れてなむ、かへりて知らぬ世の心地する京にまうで来し。
 あが御許、はやくよきさまに導ききこえたまへ。高き宮仕へしたまふ人は、おのづから行き交じりたるたよりものしたまふらむ。父大臣に聞こしめされ、数まへられたまふべきたばかり、思し構へよ」
 と言ふ。恥づかしう思いて、うしろ向きたまへり。
 「いでや、身こそ数ならねど、殿も御前近く召し使ひたまへば、ものの折ごとに、『いかにならせたまひにけむ』と聞こえ出づるを、聞こしめし置きて、『われいかで尋ねきこえむと思ふを、聞き出でたてまつりたらば』となむ、のたまはする」
 と言へば、
 「大臣の君は、めでたくおはしますとも、さるやむごとなき妻どもおはしますなり。まづまことの親とおはする大臣にを知らせたてまつりたまへ」
 など言ふに、ありしさまなど語り出でて、
 「世に忘れがたく悲しきことになむ思して、『かの御代はりに見たてまつらむ。子も少なきがさうざうしきに、わが子を尋ね出でたると人には知らせて』と、そのかみよりのたまふなり。
 心の幼かりけることは、よろづにものつつましかりしほどにて、え尋ねても聞こえで過ごししほどに、少弐になりたまへるよしは、御名にて知りにき。まかり申しに、殿に参りたまへりし日、ほの見たてまつりしかども、え聞こえで止みにき。
 さりとも、姫君をば、かのありし夕顔の五条にぞとどめたてまつりたまへらむとぞ思ひし。あな、いみじや。田舎人にておはしまさましよ」
 など、うち語らひつつ、日一日、昔物語、念誦などしつつ。


 [第九段 右近、玉鬘一行と約束して別れる]
 参り集ふ人のありさまども、見下さるる方なり。前より行く水をば、初瀬川といふなりけり。右近、
 「二本の杉のたちどを尋ねずは
  古川野辺に君を見ましや
 うれしき瀬にも」
 と聞こゆ。
 「初瀬川はやくのことは知らねども
  今日の逢ふ瀬に身さへ流れぬ」
 と、うち泣きておはするさま、いとめやすし。
 「容貌はいとかくめでたくきよげながら、田舎び、こちこちしうおはせましかば、いかに玉の瑕ならまし。いで、あはれ、いかでかく生ひ出でたまひけむ」
 と、おとどをうれしく思ふ。
 母君は、ただいと若やかにおほどかにて、やはやはとぞ、たをやぎたまへりし。これは気高く、もてなしなど恥づかしげに、よしめきたまへり。筑紫を心にくく思ひなすに、皆、見し人は里びにたるに、心得がたくなむ。
 暮るれば、御堂に上りて、またの日も行なひ暮らしたまふ。
 秋風、谷より遥かに吹きのぼりて、いと肌寒きに、ものいとあはれなる心どもには、よろづ思ひ続けられて、人並々ならむこともありがたきことと思ひ沈みつるを、この人の物語のついでに、父大臣の御ありさま、腹々の何ともあるまじき御子ども、皆ものめかしなしたてたまふを聞けば、かかる下草頼もしくぞ思しなりぬる。
 出づとても、かたみに宿る所も問ひ交はして、もしまた追ひ惑はしたらむ時と、危ふく思ひけり。右近が家は、六条の院近きわたりなりければ、ほど遠からで、言ひ交はすもたつき出で来ぬる心地しけり。


 

第四章 光る源氏の物語 玉鬘を養女とする物語
 [第一段 右近、六条院に帰参する]
 右近は、大殿に参りぬ。このことをかすめ聞こゆるついでもやとて、急ぐなりけり。御門引き入るるより、けはひことに広々として、まかで参りする車多くまよふ。数ならで立ち出づるも、まばゆき心地する玉の台なり。その夜は御前にも参らで、思ひ臥したり。
 またの日、昨夜里より参れる上臈、若人どものなかに、取り分きて右近を召し出づれば、おもだたしくおぼゆ。大臣も御覧じて、
 「などか、里居は久しくしつるぞ。例ならずやまめ人の、引き違へ、こまがへるやうもありかし。をかしきことなどありつらむかし」
 など、例の、むつかしう、戯れ事などのたまふ。
 「まかでて、七日に過ぎはべりぬれど、をかしきことははべりがたくなむ。山踏しはべりて、あはれなる人をなむ見たまへつけたりし」
 「何人ぞ」
 と問ひたまふ。「ふと聞こえ出でむも、まだ上に聞かせたてまつらで、取り分き申したらむを、のちに聞きたまうては、隔てきこえけりとや思さむ」など、思ひ乱れて、
 「今聞こえさせはべらむ」
 とて、人びと参れば、聞こえさしつ。
 大殿油など参りて、うちとけ並びおはします御ありさまども、いと見るかひ多かり。女君は、二十七八にはなりたまひぬらむかし、盛りにきよらにねびまさりたまへり。すこしほど経て見たてまつるは、「また、このほどにこそ、にほひ加はりたまひにけれ」と見えたまふ。
 かの人をいとめでたし、劣らじと見たてまつりしかど、思ひなしにや、なほこよなきに、「幸ひのなきとあるとは、隔てあるべきわざかな」と見合はせらる。

 [第二段 右近、源氏に玉鬘との邂逅を語る]
 大殿籠もるとて、右近を御脚参りに召す。
 「若き人は、苦しとてむつかるめり。なほ年経ぬるどちこそ、心交はして睦びよかりけれ」
 とのたまへば、人びと忍びて笑ふ。
 「さりや。誰か、その使ひならいたまはむをば、むつからむ」
 「うるさき戯れ事言ひかかりたまふを、わづらはしきに」
 など言ひあへり。
 「上も、年経ぬるどちうちとけ過ぎ、はた、むつかりたまはむとや。さるまじき心と見ねば、危ふし」
 など、右近に語らひて笑ひたまふ。いと愛敬づき、をかしきけさへ添へたまへり。
 今は朝廷に仕へ、忙しき御ありさまにもあらぬ御身にて、世の中のどやかに思さるるままに、ただはかなき御戯れ事をのたまひ、をかしく人の心を見たまふあまりに、かかる古人をさへぞ戯れたまふ。
 「かの尋ね出でたりけむや、何ざまの人ぞ。尊き修行者語らひて、率て来たるか」
 と問ひたまへば、
 「あな、見苦しや。はかなく消えたまひにし夕顔の露の御ゆかりをなむ、見たまへつけたりし」
 と聞こゆ。
 「げに、あはれなりけることかな。年ごろはいづくにか」
 とのたまへば、ありのままには聞こえにくくて、
 「あやしき山里になむ。昔人もかたへは変はらではべりければ、その世の物語し出ではべりて、堪へがたく思ひたまへりし」
 など聞こえゐたり。
 「よし、心知りたまはぬ御あたりに」
 と、隠しきこえたまへば、上、
 「あな、わづらはし。ねぶたきに、聞き入るべくもあらぬものを」
 とて、御袖して御耳塞ぎたまひつ。
 「容貌などは、かの昔の夕顔と劣らじや」
 などのたまへば、
 「かならずさしもいかでかものしたまはむと思ひたまへりしを、こよなうこそ生ひまさりて見えたまひしか」
 と聞こゆれば、
 「をかしのことや。誰ばかりとおぼゆ。この君と」
 とのたまへば、
 「いかでか、さまでは」
 と聞こゆれば、
 「したり顔にこそ思ふべけれ。我に似たらばしも、うしろやすしかし」
 と、親めきてのたまふ。


 [第三段 源氏、玉鬘を六条院へ迎える]
 かく聞きそめてのちは、召し放しつつ、
 「さらば、かの人、このわたりに渡いたてまつらむ。年ごろ、もののついでごとに、口惜しう惑はしつることを思ひ出でつるに、いとうれしく聞き出でながら、今までおぼつかなきも、かひなきことになむ。
 父大臣には、何か知られむ。いとあまたもて騒がるめるが、数ならで、今はじめ立ち交じりたらむが、なかなかなることこそあらめ。我は、かうさうざうしきに、おぼえぬ所より尋ね出だしたるとも言はむかし。好き者どもの心尽くさするくさはひにて、いといたうもてなさむ」
 など語らひたまへば、かつがついとうれしく思ひつつ、
 「ただ御心になむ。大臣に知らせたてまつらむとも、誰れかは伝へほのめかしたまはむ。いたづらに過ぎものしたまひし代はりには、ともかくも引き助けさせたまはむことこそは、罪軽ませたまはめ」
 と聞こゆ。
 「いたうもかこちなすかな」
 と、ほほ笑みながら、涙ぐみたまへり。
 「あはれに、はかなかりける契りとなむ、年ごろ思ひわたる。かくて集へる方々のなかに、かの折の心ざしばかり思ひとどむる人なかりしを、命長くて、わが心長さをも見はべるたぐひ多かめるなかに、いふかひなくて、右近ばかりを形見に見るは、口惜しくなむ。思ひ忘るる時なきに、さてものしたまはば、いとこそ本意かなふ心地すべけれ」
 とて、御消息たてまつれたまふ。かの末摘花のいふかひなかりしを思し出づれば、さやうに沈みて生ひ出でたらむ人のありさまうしろめたくて、まづ、文のけしきゆかしく思さるるなりけり。ものまめやかに、あるべかしく書きたまひて、端に、
 「かく聞こゆるを、
  知らずとも尋ねて知らむ三島江に
  生ふる三稜の筋は絶えじを」
 となむありける。
 御文、みづからまかでて、のたまふさまなど聞こゆ。御装束、人びとの料などさまざまあり。上にも語らひきこえたまへるなるべし、御匣殿などにも、設けの物召し集めて、色あひ、しざまなど、ことなるをと、選らせたまへれば、田舎びたる目どもには、まして珍らしきまでなむ思ひける。


 [第四段 玉鬘、源氏に和歌を返す]
 正身は、
 「ただかことばかりにても、まことの親の御けはひならばこそうれしからめ。いかでか知らぬ人の御あたりには交じらはむ」
 と、おもむけて、苦しげに思したれど、あるべきさまを、右近聞こえ知らせ、人びとも、
 「おのづから、さて人だちたまひなば、大臣の君も尋ね知りきこえたまひなむ。親子の御契りは、絶えて止まぬものなり」
 「右近が、数にもはべらず、いかでか御覧じつけられむと思ひたまへしだに、仏神の御導きはべらざりけりや。まして、誰れも誰れもたひらかにだにおはしまさば」
 と、皆聞こえ慰む。
 「まづ御返りを」と、責めて書かせたてまつる。
 「いとこよなく田舎びたらむものを」
 と恥づかしく思いたり。唐の紙のいと香ばしきを取り出でて、書かせたてまつる。
 「数ならぬ三稜や何の筋なれば
  憂きにしもかく根をとどめけむ」
 とのみ、ほのかなり。手は、はかなだち、よろぼはしけれど、あてはかにて口惜しからねば、御心落ちゐにけり。
 住みたまふべき御かた御覧ずるに、
 「南の町には、いたづらなる対どもなどなし。勢ひことに住み満ちたまへれば、顕証に人しげくもあるべし。中宮のおはします町は、かやうの人も住みぬべく、のどやかなれど、さてさぶらふ人の列にや聞きなさむ」と思して、「すこし埋れたれど、丑寅の町の西の対、文殿にてあるを、異方へ移して」と思す。
 「あひ住みにも、忍びやかに心よくものしたまふ御方なれば、うち語らひてもありなむ」
 と思しおきつ。


 [第五段 源氏、紫の上に夕顔について語る]
 上にも、今ぞ、かのありし昔の世の物語聞こえ出でたまひける。かく御心に籠めたまふことありけるを、恨みきこえたまふ。
 「わりなしや。世にある人の上とてや、問はず語りは聞こえ出でむ。かかるついでに隔てぬこそは、人にはことには思ひきこゆれ」
 とて、いとあはれげに思し出でたり。
 「人の上にてもあまた見しに、いと思はぬなかも、女といふものの心深きをあまた見聞きしかば、さらに好き好きしき心はつかはじとなむ思ひしを、おのづからさるまじきをもあまた見しなかに、あはれとひたぶるにらうたきかたは、またたぐひなくなむ思ひ出でらるる。世にあらましかば、北の町にものする人の並には、などか見ざらまじ。人のありさま、とりどりになむありける。かどかどしう、をかしき筋などはおくれたりしかども、あてはかにらうたくもありしかな」
 などのたまふ。
 「さりとも、明石のなみには、立ち並べたまはざらまし」
 とのたまふ。なほ北の御殿をば、めざましと心置きたまへり。姫君の、いとうつくしげにて、何心もなく聞きたまふが、らうたければ、また、「ことわりぞかし」と思し返さる。


 [第六段 玉鬘、六条院に入る]
 かくいふは、九月のことなりけり。渡りたまはむこと、すがすがしくもいかでかはあらむ。よろしき童女、若人など求めさす。筑紫にては、口惜しからぬ人びとも、京より散りぼひ来たるなどを、たよりにつけて呼び集めなどしてさぶらはせしも、にはかに惑ひ出でたまひし騷ぎに、皆おくらしてければ、また人もなし。京はおのづから広き所なれば、市女などやうのもの、いとよく求めつつ、率て来。その人の御子などは知らせざりけり。
 右近が里の五条に、まづ忍びて渡したてまつりて、人びと選りととのへ、装束ととのへなどして、十月にぞ渡りたまふ。
 大臣、東の御方に聞こえつけたてまつりたまふ。
 「あはれと思ひし人の、ものうじして、はかなき山里に隠れゐにけるを、幼き人のありしかば、年ごろも人知れず尋ねはべりしかども、え聞き出ででなむ、をうなになるまで過ぎにけるを、おぼえぬかたよりなむ、聞きつけたる時にだにとて、移ろはしはべるなり」とて、「母も亡くなりにけり。中将を聞こえつけたるに、悪しくやはある。同じごと後見たまへ。山賤めきて生ひ出でたれば、鄙びたること多からむ。さるべく、ことに触れて教へたまへ」
 と、いとこまやかに聞こえたまふ。
 「げに、かかる人のおはしけるを、知りきこえざりけるよ。姫君の一所ものしたまふがさうざうしきに、よきことかな」
 と、おいらかにのたまふ。
 「かの親なりし人は、心なむありがたきまでよかりし。御心もうしろやすく思ひきこゆれば」
 などのたまふ。
 「つきづきしく後む人なども、こと多からで、つれづれにはべるを、うれしかるべきこと」
 になむのたまふ。
 殿のうちの人は、御女とも知らで、
 「何人、また尋ね出でたまへるならむ」
 「むつかしき古者扱ひかな」
 と言ひけり。
 御車三つばかりして、人の姿どもなど、右近あれば、田舎びず仕立てたり。殿よりぞ、綾、何くれとたてまつれたまへる。


 [第七段 源氏、玉鬘に対面する]
 その夜、やがて大臣の君渡りたまへり。昔、光る源氏などいふ御名は、聞きわたりたてまつりしかど、年ごろのうひうひしさに、さしも思ひきこえざりけるを、ほのかなる大殿油に、御几帳のほころびよりはつかに見たてまつる、いとど恐ろしくさへぞおぼゆるや。
 渡りたまふ方の戸を、右近かい放てば、
 「この戸口に入るべき人は、心ことにこそ」
 と笑ひたまひて、廂なる御座についゐたまひて、
 「燈こそ、いと懸想びたる心地すれ。親の顔はゆかしきものとこそ聞け。さも思さぬか」
 とて、几帳すこし押しやりたまふ。わりなく恥づかしければ、そばみておはする様体など、いとめやすく見ゆれば、うれしくて、
 「今すこし、光見せむや。あまり心にくし」
 とのたまへば、右近、かかげてすこし寄す。
 「おもなの人や」
 とすこし笑ひたまふ。げにとおぼゆる御まみの恥づかしげさなり。いささかも異人と隔てあるさまにものたまひなさず、いみじく親めきて、
 「年ごろ御行方を知らで、心にかけぬ隙なく嘆きはべるを、かうて見たてまつるにつけても、夢の心地して、過ぎにし方のことども取り添へ、忍びがたきに、えなむ聞こえられざりける」
 とて、御目おし拭ひたまふ。まことに悲しう思し出でらる。御年のほど、数へたまひて、
 「親子の仲の、かく年経たるたぐひあらじものを。契りつらくもありけるかな。今は、ものうひうひしく、若びたまふべき御ほどにもあらじを、年ごろの御物語など聞こえまほしきに、などかおぼつかなくは」
 と恨みたまふに、聞こえむこともなく、恥づかしければ、
 「脚立たず沈みそめはべりにけるのち、何ごともあるかなきかになむ」
 と、ほのかに聞こえたまふ声ぞ、昔人にいとよくおぼえて若びたりける。ほほ笑みて、
 「沈みたまひけるを、あはれとも、今は、また誰れかは」
 とて、心ばへいふかひなくはあらぬ御応へと思す。右近に、あるべきことのたまはせて、渡りたまひぬ。


 [第八段 源氏、玉鬘の人物に満足する]
 めやすくものしたまふを、うれしく思して、上にも語りきこえたまふ。
 「さる山賤のなかに年経たれば、いかにいとほしげならむとあなづりしを、かへりて心恥づかしきまでなむ見ゆる。かかる者ありと、いかで人に知らせて、兵部卿宮などの、この籬のうち好ましうしたまふ心乱りにしがな。好き者どもの、いとうるはしだちてのみ、このわたりに見ゆるも、かかる者のくさはひのなきほどなり。いたうもてなしてしがな。なほうちあはぬ人のけしき見集めむ」
 とのたまへば、
 「あやしの人の親や。まづ人の心励まさむことを先に思すよ。けしからず」
 とのたまふ。
 「まことに君をこそ、今の心ならましかば、さやうにもてなして見つべかりけれ。いと無心にしなしてしわざぞかし」
 とて、笑ひたまふに、面赤みておはする、いと若くをかしげなり。硯引き寄せたまうて、手習に、
 「恋ひわたる身はそれなれど玉かづら
  いかなる筋を尋ね来つらむ
 あはれ」
 と、やがて独りごちたまへば、「げに、深く思しける人の名残なめり」と見たまふ。


 [第九段 玉鬘の六条院生活始まる]
 中将の君にも、
 「かかる人を尋ね出でたるを、用意して睦び訪らへ」
 とのたまひければ、こなたに参うでたまひて、
 「人数ならずとも、かかる者さぶらふと、まづ召し寄すべくなむはべりける。御渡りのほどにも、参り仕うまつらざりけること」
 と、いとまめまめしう聞こえたまへば、かたはらいたきまで、心知れる人は思ふ。
 心の限り尽くしたりし御住まひなりしかど、あさましう田舎びたりしも、たとしへなくぞ思ひ比べらるるや。御しつらひよりはじめ、今めかしう気高くて、親、はらからと睦びきこえたまふ御さま、容貌よりはじめ、目もあやにおぼゆるに、今ぞ、三条も大弐をあなづらはしく思ひける。まして、監が息ざしけはひ、思ひ出づるもゆゆしきこと限りなし。
 豊後介の心ばへをありがたきものに君も思し知り、右近も思ひ言ふ。「おほぞうなるは、ことも怠りぬべし」とて、こなたの家司ども定め、あるべきことどもおきてさせたまふ。豊後介もなりぬ。
 年ごろ田舎び沈みたりし心地に、にはかに名残もなく、いかでか、かりにても立ち出で見るべきよすがなくおぼえし大殿のうちを、朝夕に出で入りならし、人を従へ、事行なふ身となれば、いみじき面目と思ひけり。大臣の君の御心おきての、こまかにありがたうおはしますこと、いとかたじけなし。


 

第五章 光る源氏の物語 末摘花の物語と和歌論
 [第一段 歳末の衣配り]
 年の暮に、御しつらひのこと、人びとの装束など、やむごとなき御列に思しおきてたる、「かかりとも、田舎びたることや」と、山賤の方にあなづり推し量りきこえたまひて調じたるも、たてまつりたまふついでに、織物どもの、我も我もと、手を尽くして織りつつ持て参れる細長、小袿の、色々さまざまなるを御覧ずるに、
 「いと多かりけるものどもかな。方々に、うらやみなくこそものすべかりけれ」
 と、上に聞こえたまへば、御匣殿に仕うまつれるも、こなたにせさせたまへるも、皆取う出させたまへり。
 かかる筋はた、いとすぐれて、世になき色あひ、匂ひを染めつけたまへば、ありがたしと思ひきこえたまふ。
 ここかしこの擣殿より参らせたる擣物ども御覧じ比べて、濃き赤きなど、さまざまを選らせたまひつつ、御衣櫃、衣筥どもに入れさせたまうて、おとなびたる上臈どもさぶらひて、「これは、かれは」と取り具しつつ入る。上も見たまひて、
 「いづれも、劣りまさるけぢめも見えぬものどもなめるを、着たまはむ人の御容貌に思ひよそへつつたてまつれたまへかし。着たる物のさまに似ぬは、ひがひがしくもありかし」
 とのたまへば、大臣うち笑ひて、
 「つれなくて、人の御容貌推し量らむの御心なめりな。さては、いづれをとか思す」
 と聞こえたまへば、
 「それも鏡にては、いかでか」
 と、さすが恥ぢらひておはす。
 紅梅のいと紋浮きたる葡萄染の御小袿、今様色のいとすぐれたるとは、かの御料。桜の細長に、つややかなる掻練取り添へては、姫君の御料なり。
 浅縹の海賦の織物、織りざまなまめきたれど、匂ひやかならぬに、いと濃き掻練具して、夏の御方に。
 曇りなく赤きに、山吹の花の細長は、かの西の対にたてまつれたまふを、上は見ぬやうにて思しあはす。「内の大臣の、はなやかに、あなきよげとは見えながら、なまめかしう見えたる方のまじらぬに似たるなめり」と、げに推し量らるるを、色には出だしたまはねど、殿見やりたまへるに、ただならず。
 「いで、この容貌のよそへは、人腹立ちぬべきことなり。よきとても、物の色は限りあり、人の容貌は、おくれたるも、またなほ底ひあるものを」
 とて、かの末摘花の御料に、柳の織物の、よしある唐草を乱れ織れるも、いとなまめきたれば、人知れずほほ笑まれたまふ。
 梅の折枝、蝶、鳥、飛びちがひ、唐めいたる白き小袿に、濃きがつややかなる重ねて、明石の御方に。思ひやり気高きを、上はめざましと見たまふ。
 空蝉の尼君に、青鈍の織物、いと心ばせあるを見つけたまひて、御料にある梔子の御衣、聴し色なる添へたまひて、同じ日着たまふべき御消息聞こえめぐらしたまふ。げに、似ついたる見むの御心なりけり。

 [第二段 末摘花の返歌]
 皆、御返りどもただならず。御使の禄、心々なるに、末摘、東の院におはすれば、今すこしさし離れ、艶なるべきを、うるはしくものしたまふ人にて、あるべきことは違へたまはず、山吹の袿の、袖口いたくすすけたるを、うつほにてうち掛けたまへり。御文には、いとかうばしき陸奥紙の、すこし年経、厚きが黄ばみたるに、
 「いでや、賜へるは、なかなかにこそ。
  着てみれば恨みられけり唐衣
  返しやりてむ袖を濡らして」
 御手の筋、ことに奥よりにたり。いといたくほほ笑みたまひて、とみにもうち置きたまはねば、上、何ごとならむと見おこせたまへり。
 御使にかづけたる物を、いと侘しくかたはらいたしと思して、御けしき悪しければ、すべりまかでぬ。いみじく、おのおのはささめき笑ひけり。かやうにわりなう古めかしう、かたはらいたきところのつきたまへるさかしらに、もてわづらひぬべう思す。恥づかしきまみなり。


 [第三段 源氏の和歌論]
 「古代の歌詠みは、『唐衣』、『袂濡るる』かことこそ離れねな。まろも、その列ぞかし。さらに一筋にまつはれて、今めきたる言の葉にゆるぎたまはぬこそ、ねたきことは、はたあれ。人の中なることを、をりふし、御前などのわざとある歌詠みのなかにては、『円居』離れぬ三文字ぞかし。昔の懸想のをかしき挑みには、『あだ人』といふ五文字を、やすめどころにうち置きて、言の葉の続きたよりある心地すべかめり」
 など笑ひたまふ。
 「よろづの草子、歌枕、よく案内知り見尽くして、そのうちの言葉を取り出づるに、詠みつきたる筋こそ、強うは変はらざるべけれ。
 常陸の親王の書き置きたまへりける紙屋紙の草子をこそ、見よとておこせたりしか。和歌の髄脳いと所狭う、病去るべきことろ多かりしかば、もとよりおくれたる方の、いとどなかなか動きすべくも見えざりしかば、むつかしくて返してき。よく案内知りたまへる人の口つきにては、目馴れてこそあれ」
 とて、をかしく思いたるさまぞ、いとほしきや。
 上、いとまめやかにて、
 「などて、返したまひけむ。書きとどめて、姫君にも見せたてまつりたまふべかりけるものを。ここにも、もののなかなりしも、虫みな損なひてければ。見ぬ人はた、心ことにこそは遠かりけれ」
 とのたまふ。
 「姫君の御学問に、いと用なからむ。すべて女は、立てて好めることまうけてしみぬるは、さまよからぬことなり。何ごとも、いとつきなからむは口惜しからむ。ただ心の筋を、漂はしからずもてしづめおきて、なだらかならむのみなむ、めやすかるべかりける」
 などのたまひて、返しは思しもかけねば、
 「返しやりてむ、とあめるに、これよりおし返したまはざらむも、ひがひがしからむ」
 と、そそのかしきこえたまふ。情け捨てぬ御心にて、書きたまふ。いと心やすげなり。
 「返さむと言ふにつけても片敷の
  夜の衣を思ひこそやれ
 ことわりなりや」
 とぞあめる。



初音
光る源氏の太政大臣時代三十六歳の新春正月の物語

 

第一章 光る源氏の物語 新春の六条院の女性たち


春の御殿の紫の上の周辺---年立ちかへる朝の空のけしき
明石姫君、実母と和歌を贈答---姫君の御方に渡りたまへれば
夏の御殿の花散里を訪問---夏の御住まひを見たまへば
続いて玉鬘を訪問---まだいたくも住み馴れたまはぬ
冬の御殿の明石御方に泊まる---暮れ方になるほどに、明石の御方に
六条院の正月二日の臨時客---今日は、臨時客のことに紛らはしてぞ
第二章 光る源氏の物語 二条東院の女性たちの物語

二条東院の末摘花を訪問---かうののしる馬車の音を
続いて空蝉を訪問---空蝉の尼衣にも、さしのぞきたまへり
第三章 光る源氏の物語 男踏歌

男踏歌、六条院に回り来る---今年は男踏歌あり
源氏、踏歌の後宴を計画す---夜明け果てぬれば

 

第一章 光る源氏の物語 新春の六条院の女性たち
 [第一段 春の御殿の紫の上の周辺]
 年立ちかへる朝の空のけしき、名残なく曇らぬうららかげさには、数ならぬ垣根のうちだに、雪間の草若やかに色づきはじめ、いつしかとけしきだつ霞に、木の芽もうちけぶり、おのづから人の心ものびらかにぞ見ゆるかし。まして、いとど玉を敷ける御前の、庭よりはじめ見所多く、磨きましたまへる御方々のありさま、まねびたてむも言の葉足るまじくなむ。
 春の御殿の御前、とりわきて、梅の香も御簾のうちの匂ひに吹きまがひ、生ける仏の御国とおぼゆ。さすがにうちとけて、やすらかに住みなしたまへり。さぶらふ人びとも、若やかにすぐれたるは、姫君の御方にと選りたまひて、すこし大人びたる限り、なかなかよしよししく、装束ありさまよりはじめて、めやすくもてつけて、ここかしこに群れゐつつ、歯固めの祝ひして、餅鏡をさへ取り混ぜて、千年の蔭にしるき年のうちの祝ひ事どもして、そぼれあへるに、大臣の君さしのぞきたまへれば、懐手ひきなほしつつ、「いとはしたなきわざかな」と、わびあへり。
 「いとしたたかなるみづからの祝ひ事どもかな。皆おのおの思ふことの道々あらむかし。すこし聞かせよや。われことぶきせむ」
 とうち笑ひたまへる御ありさまを、年のはじめの栄えに見たてまつる。われはと思ひあがれる中将の君ぞ、
 「『かねてぞ見ゆる』などこそ、鏡の影にも語らひはんべりつれ。私の祈りは、何ばかりのことをか」
 など聞こゆ。
 朝のほどは人びと参り混みて、もの騒がしかりけるを、夕つ方、御方々の参座したまはむとて、心ことにひきつくろひ、化粧じたまふ御影こそ、げに見るかひあめれ。
 「今朝、この人びとの戯れ交はしつる、いとうらやましく見えつるを、上にはわれ見せたてまつらむ」
 とて、乱れたる事どもすこしうち混ぜつつ、祝ひきこえたまふ。
 「薄氷解けぬる池の鏡には
  世に曇りなき影ぞ並べる」
 げに、めでたき御あはひどもなり。
 「曇りなき池の鏡によろづ代を
  すむべき影ぞしるく見えける」
 何事につけても、末遠き御契りを、あらまほしく聞こえ交はしたまふ。今日は子の日なりけり。げに、千年の春をかけて祝はむに、ことわりなる日なり。

 [第二段 明石姫君、実母と和歌を贈答]
 姫君の御方に渡りたまへれば、童女、下仕へなど、御前の山の小松引き遊ぶ。若き人びとの心地ども、おきどころなく見ゆ。北の御殿より、わざとがましくし集めたる鬚籠ども、破籠などたてまつれたまへり。えならぬ五葉の枝に移る鴬も、思ふ心あらむかし。
 「年月を松にひかれて経る人に
  今日鴬の初音聞かせよ
 『音せぬ里の』」
 と聞こえたまへるを、「げに、あはれ」と思し知る。言忌もえしあへたまはぬけしきなり。
 「この御返りは、みづから聞こえたまへ。初音惜しみたまふべき方にもあらずかし」
 とて、御硯取りまかなひ、書かせたてまつりたまふ。いとうつくしげにて、明け暮れ見たてまつる人だに、飽かず思ひきこゆる御ありさまを、今までおぼつかなき年月の隔たりにけるも、「罪得がましう、心苦し」と思す。
 「ひき別れ年は経れども鴬の
  巣立ちし松の根を忘れめや」
 幼き御心にまかせて、くだくだしくぞあめる。


 [第三段 夏の御殿の花散里を訪問]
 夏の御住まひを見たまへば、時ならぬけにや、いと静かに見えて、わざと好ましきこともなくて、あてやかに住みたるけはひ見えわたる。
 年月に添へて、御心の隔てもなく、あはれなる御仲なり。今は、あながちに近やかなる御ありさまも、もてなしきこえたまはざりけり。いと睦ましくありがたからむ妹背の契りばかり、聞こえ交はしたまふ。御几帳隔てたれど、すこし押しやりたまへば、またさておはす。
 「縹は、げに、にほひ多からぬあはひにて、御髪などもいたく盛り過ぎにけり。やさしき方にあらぬと、葡萄鬘してぞつくろひたまふべき。我ならざらむ人は、見醒めしぬべき御ありさまを、かくて見るこそうれしく本意あれ。心軽き人の列にて、われに背きたまひなましかば」など、御対面の折々は、まづ、「わが心の長きも、人の御心の重きをも、うれしく、思ふやうなり」
 と思しけり。こまやかに、ふる年の御物語など、なつかしう聞こえたまひて、西の対へ渡りたまひぬ。


 [第四段 続いて玉鬘を訪問]
 まだいたくも住み馴れたまはぬほどよりは、けはひをかしくしなして、をかしげなる童女の姿なまめかしく、人影あまたして、御しつらひ、あるべき限りなれど、こまやかなる御調度は、いとしも調へたまはぬを、さる方にものきよげに住みなしたまへり。
 正身も、あなをかしげと、ふと見えて、山吹にもてはやしたまへる御容貌など、いとはなやかに、ここぞ曇れると見ゆるところなく、隈なく匂ひきらきらしく、見まほしきさまぞしたまへる。もの思ひに沈みたまへるほどのしわざにや、髪の裾すこし細りて、さはらかにかかれるしも、いとものきよげに、ここかしこいとけざやかなるさましたまへるを、「かくて見ざらましかば」と思すにつけても、えしも見過ぐしたまふまじ。
 かくいと隔てなく見たてまつりなれたまへど、なほ思ふに、隔たり多くあやしきが、うつつの心地もしたまはねば、まほならずもてなしたまへるも、いとをかし。
 「年ごろになりぬる心地して、見たてまつるにも心やすく、本意かなひぬるを、つつみなくもてなしたまひて、あなたなどにも渡りたまへかし。いはけなき初琴習ふ人もあめるを、もろともに聞きならしたまへ。うしろめたく、あはつけき心持たる人なき所なり」
 と聞こえたまへば、
 「のたまはせむままにこそは」
 と聞こえたまふ。さもあることぞかし。


 [第五段 冬の御殿の明石御方に泊まる]
 暮れ方になるほどに、明石の御方に渡りたまふ。近き渡殿の戸押し開くるより、御簾のうちの追風、なまめかしく吹き匂はして、ものよりことに気高く思さる。正身は見えず。いづらと見まはしたまふに、硯のあたりにぎははしく、草子どもなど取り散らしたるなど取りつつ見たまふ。唐の東京錦のことことしき端さしたる茵に、をかしげなる琴うち置き、わざとめきよしある火桶に、侍従をくゆらかして、物ごとにしめたるに、衣被香の香のまがへる、いと艶なり。手習どもの乱れうちとけたるも、筋変はり、ゆゑある書きざまなり。ことことしう草がちなどにもされ書かず、めやすく書きすましたり。
 小松の御返りを、めづらしと見けるままに、あはれなる古事ども書きまぜて、
 「めづらしや花のねぐらに木づたひて
  谷の古巣を訪へる鴬
 声待ち出でたる」
 なども、
 「咲ける岡辺に家しあれば」
 など、ひき返し慰めたる筋など書きまぜつつあるを、取りて見たまひつつほほ笑みたまへる、恥づかしげなり。
 筆さし濡らして書きすさみたまふほどに、ゐざり出でて、さすがにみづからのもてなしは、かしこまりおきて、めやすき用意なるを、「なほ、人よりはことなり」と思す。白きに、けざやかなる髪のかかりの、すこしさはらかなるほどに薄らぎにけるも、いとどなまめかしさ添ひて、なつかしければ、「新しき年の御騒がれもや」と、つつましけれど、こなたに泊りたまひぬ。「なほ、おぼえことなりかし」と、方々に心おきて思す。
 南の御殿には、ましてめざましがる人びとあり。まだ曙のほどに渡りたまひぬ。かうしもあるまじき夜深さぞかしと思ふに、名残もただならず、あはれに思ふ。
 待ちとりたまへるはた、なまけやけしと思すべかめる心のうち、量られたまひて、
 「あやしきうたた寝をして、若々しかりけるいぎたなさを、さしもおどろかしたまはで」
 と、御けしきとりたまふもをかしく見ゆ。ことなる御いらへもなければ、わづらはしくて、そら寝をしつつ、日高く大殿籠もり起きたり。


 [第六段 六条院の正月二日の臨時客]
 今日は、臨時客のことに紛らはしてぞ、面隠したまふ。上達部、親王たちなど、例の、残りなく参りたまへり。御遊びありて、引出物、禄など、二なし。そこら集ひたまへるが、我も劣らじともてなしたまへるなかにも、すこしなずらひなるだにも見えたまはぬものかな。とり放ちては、いと有職多くものしたまふころなれど、御前にては気圧されたまふも、悪るしかし。何の数ならぬ下部どもなどだに、この院に参る日は、心づかひことなりけり。まして若やかなる上達部などは、思ふ心などものしたまひて、すずろに心懸想したまひつつ、常の年よりもことなり。
 花の香誘ふ夕風、のどやかにうち吹きたるに、御前の梅やうやうひもときて、あれは誰れ時なるに、物の調べどもおもしろく、「この殿」うち出でたる拍子、いとはなやかなり。大臣も時々声うち添へたまへる「さき草」の末つ方、いとなつかしくめでたく聞こゆ。何ごとも、さしいらへしたまふ御光にはやされて、色をも音をも増すけぢめ、ことになむ分かれける。


 

第二章 光る源氏の物語 二条東院の女性たちの物語
 [第一段 二条東院の末摘花を訪問]
 かうののしる馬車の音を、もの隔てて聞きたまふ御方々は、蓮の中の世界に、まだ開けざらむ心地もかくやと、心やましげなり。まして、東の院に離れたまへる御方々は、年月に添へて、つれづれの数のみまされど、「世の憂きめ見えぬ山路」に思ひなずらへて、つれなき人の御心をば、何とかは見たてまつりとがめむ、その他の心もとなく寂しきことはたなければ、行なひの方の人は、その紛れなく勤め、仮名のよろづの草子の学問、心に入れたまはむ人は、また願ひに従ひ、ものまめやかにはかばかしきおきてにも、ただ心の願ひに従ひたる住まひなり。騒がしき日ごろ過ぐして渡りたまへり。
 常陸宮の御方は、人のほどあれば、心苦しく思して、人目の飾りばかりは、いとよくもてなしきこえたまふ。いにしへ、盛りと見えし御若髪も、年ごろに衰ひゆき、まして、滝の淀み恥づかしげなる御かたはらめなどを、いとほしと思せば、まほにも向かひたまはず。
 柳は、げにこそすさまじかりけれと見ゆるも、着なしたまへる人からなるべし。光もなく黒き掻練の、さゐさゐしく張りたる一襲、さる織物の袿着たまへる、いと寒げに心苦し。襲の衣などは、いかにしなしたるにかあらむ。
 御鼻の色ばかり、霞にも紛るまじうはなやかなるに、御心にもあらずうち嘆かれたまひて、ことさらに御几帳引きつくろひ隔てたまふ。なかなか、女はさしも思したらず、今は、かくあはれに長き御心のほどを、おだしきものにうちとけ頼みきこえたまへる御さま、あはれなり。
 かかる方にも、おしなべての人ならず、いとほしく悲しき人の御さまに思せば、あはれに、我だにこそはと、御心とどめたまへるも、ありがたきぞかし。御声なども、いと寒げに、うちわななきつつ語らひきこえたまふ。見わづらひたまひて、
 「御衣どもの事など、後見きこゆる人ははべりや。かく心やすき御住まひは、ただいとうちとけたるさまに、含みなえたるこそよけれ。うはべばかりつくろひたる御よそひは、あいなくなむ」
 と聞こえたまへば、こちごちしくさすがに笑ひたまひて、
 「醍醐の阿闍梨の君の御あつかひしはべるとて、衣どももえ縫ひはべらでなむ。皮衣をさへ取られにし後、寒くはべる」
 と聞こえたまふは、いと鼻赤き御兄なりけり。心うつくしといひながら、あまりうちとけ過ぎたりと思せど、ここにては、いとまめにきすくの人にておはす。
 「皮衣はいとよし。山伏の蓑代衣に譲りたまひてあへなむ。さて、このいたはりなき白妙の衣は、七重にも、などか重ねたまはざらむ。さるべき折々は、うち忘れたらむこともおどろかしたまへかし。もとよりおれおれしく、たゆき心のおこたりに。まして方々の紛らはしき競ひにも、おのづからなむ」
 とのたまひて、向かひの院の御倉開けさせたまひて、絹、綾などたてまつらせたまふ。
 荒れたる所もなけれど、住みたまはぬ所のけはひは静かにて、御前の木立ばかりぞいとおもしろく、紅梅の咲き出でたる匂ひなど、見はやす人もなきを見わたしたまひて、
 「ふるさとの春の梢に訪ね来て
  世の常ならぬ花を見るかな」
 と独りごちたまへど、聞き知りたまはざりけむかし。

 [第二段 続いて空蝉を訪問]
 空蝉の尼衣にも、さしのぞきたまへり。うけばりたるさまにはあらず、かごやかに局住みにしなして、仏ばかりに所得させたてまつりて、行なひ勤めけるさまあはれに見えて、経、仏の御飾り、はかなくしたる閼伽の具なども、をかしげになまめかしう、なほ心ばせありと見ゆる人のけはひなり。
 青鈍の几帳、心ばへをかしきに、いたくゐ隠れて、袖口ばかりぞ色ことなるしもなつかしければ、涙ぐみたまひて、
 「『松が浦島』をはるかに思ひてぞやみぬべかりける。昔より心憂かりける御契りかな。さすがにかばかりの御睦びは、絶ゆまじかりけるよ」
 などのたまふ。尼君も、ものあはれなるけはひにて、
 「かかる方に頼みきこえさするしもなむ、浅くはあらず思ひたまへ知られはべりける」
 と聞こゆ。
 「つらき折々重ねて、心惑はしたまひし世の報いなどを、仏にかしこまりきこゆるこそ苦しけれ。思し知るや。かくいと素直にもあらぬものをと、思ひ合はせたまふこともあらじやはとなむ思ふ」
 とのたまふ。「かのあさましかりし世の古事を聞き置きたまへるなめり」と、恥づかしく、
 「かかるありさまを御覧じ果てらるるよりほかの報いは、いづくにかはべらむ」
 とて、まことにうち泣きぬ。いにしへよりももの深く恥づかしげさまさりて、かくもて離れたること、と思すしも、見放ちがたく思さるれど、はかなきことをのたまひかくべくもあらず、おほかたの昔今の物語をしたまひて、「かばかりの言ふかひだにあれかし」と、あなたを見やりたまふ。
 かやうにても、御蔭に隠れたる人びと多かり。皆さしのぞきわたしたまひて、
 「おぼつかなき日数つもる折々あれど、心のうちはおこたらずなむ。ただ限りある道の別れのみこそうしろめたけれ。『命を知らぬ』」
 など、なつかしくのたまふ。いづれをも、ほどほどにつけてあはれと思したり。我はと思しあがりぬべき御身のほどなれど、さしもことことしくもてなしたまはず、所につけ、人のほどにつけつつ、さまざまあまねくなつかしくおはしませば、ただかばかりの御心にかかりてなむ、多くの人びと年を経ける。


 

第三章 光る源氏の物語 男踏歌
 [第一段 男踏歌、六条院に回り来る]
 今年は男踏歌あり。内裏より朱雀院に参りて、次にこの院に参る。道のほど遠くなどして、夜明け方になりにけり。月の曇りなく澄みまさりて、薄雪すこし降れる庭のえならぬに、殿上人なども、物の上手多かるころほひにて、笛の音もいとおもしろう吹き立てて、この御前はことに心づかひしたり。御方々物見に渡りたまふべく、かねて御消息どもありければ、左右の対、渡殿などに、御局しつつおはす。
 西の対の姫君は、寝殿の南の御方に渡りたまひて、こなたの姫君に御対面ありけり。上も一所におはしませば、御几帳ばかり隔てて聞こえたまふ。
 朱雀院の后の御方などめぐりけるほどに、夜もやうやう明けゆけば、水駅にてこと削がせたまふべきを、例あることより、ほかにさまことに加へて、いみじくもてはやさせたまふ。
 影すさまじき暁月夜に、雪はやうやう降り積む。松風木高く吹きおろし、ものすさまじくもありぬべきほどに、青色のなえばめるに、白襲の色あひ、何の飾りかは見ゆる。
 插頭の綿は、何の匂ひもなきものなれど、所からにやおもしろく、心ゆき、命延ぶるほどなり。
 殿の中将の君、内の大殿の君達ぞ、ことにすぐれてめやすくはなやかなる。
 ほのぼのと明けゆくに、雪やや散りて、そぞろ寒きに、「竹河」謡ひて、かよれる姿、なつかしき声々の、絵にも描きとどめがたからむこそ口惜しけれ。
 御方々、いづれもいづれも劣らぬ袖口ども、こぼれ出でたるこちたさ、物の色あひなども、曙の空に、春の錦たち出でにける霞のうちかと見えわたさる。あやしく心のうちゆく見物にぞありける。
 さるは、高巾子の世離れたるさま、寿詞の乱りがはしき、をこめきたることを、ことことしくとりなしたる、なかなか何ばかりのおもしろかるべき拍子も聞こえぬものを。例の、綿かづきわたりてまかでぬ。

 [第二段 源氏、踏歌の後宴を計画す]
 夜明け果てぬれば、御方々帰りわたりたまひぬ。大臣の君、すこし大殿籠もりて、日高く起きたまへり。
 「中将の声は、弁少将にをさをさ劣らざめるは。あやしう有職ども生ひ出づるころほひにこそあれ。いにしへの人は、まことにかしこき方やすぐれたることも多かりけむ、情けだちたる筋は、このころの人にえしもまさらざりけむかし。中将などをば、すくすくしき朝廷人にしなしてむとなむ思ひおきてし、みづからのいとあざればみたるかたくなしさを、もて離れよと思ひしかども、なほ下にはほの好きたる筋の心をこそとどむべかめれ。もてしづめ、すくよかなるうはべばかりは、うるさかめり」
 など、いとうつくしと思したり。「万春楽」と、御口ずさみにのたまひて、
 「人びとのこなたに集ひたまへるついでに、いかで物の音こころみてしがな。私の後宴すべし」
 とのたまひて、御琴どもの、うるはしき袋どもして秘めおかせたまへる、皆引き出でて、おし拭ひ、ゆるべる緒、調へさせたまひなどす。御方々、心づかひいたくしつつ、心懸想を尽くしたまふらむかし。



胡蝶
光る源氏の太政大臣時代三十六歳の春三月から四月の物語


第一章 光る源氏の物語 春の町の船楽と季の御読経


三月二十日頃の春の町の船楽---弥生の二十日あまりのころほひ
船楽、夜もすがら催される---暮れかかるほどに、「皇じやう」といふ楽
蛍兵部卿宮、玉鬘を思う---夜も明けぬ。朝ぼらけの鳥のさへづりを
中宮、春の季の御読経主催す---今日は、中宮の御読経の初めなりけり
紫の上と中宮和歌を贈答---御消息、殿の中将の君して
第二章 玉鬘の物語 初夏の六条院に求婚者たち多く集まる

玉鬘に恋人多く集まる---西の対の御方は、かの踏歌の折の御対面の後は
玉鬘へ求婚者たちの恋文---更衣の今めかしう改まれるころほひ
源氏、玉鬘の女房に教訓す---右近を召し出でて
右近の感想---右近も、うち笑みつつ見たてまつりて
源氏、求婚者たちを批評---「かう何やかやと聞こゆるをも
第三章 玉鬘の物語 夏の雨と養父の恋慕の物語

源氏、玉鬘と和歌を贈答---御前近き呉竹の、いと若やかに生ひたちて
源氏、紫の上に玉鬘を語る---殿は、いとどらうたしと思ひきこえたまふ
源氏、玉鬘を訪問し恋情を訴える---雨のうち降りたる名残の
源氏、自制して帰る---雨はやみて、風の竹に鳴るほど
苦悩する玉鬘---またの朝、御文とくあり

第一章 光る源氏の物語 春の町の船楽と季の御読経
 [第一段 三月二十日頃の春の町の船楽]
 弥生の二十日あまりのころほひ、春の御前のありさま、常よりことに尽くして匂ふ花の色、鳥の声、ほかの里には、まだ古りぬにやと、めづらしう見え聞こゆ。山の木立、中島のわたり、色まさる苔のけしきなど、若き人びとのはつかに心もとなく思ふべかめるに、唐めいたる舟造らせたまひける、急ぎ装束かせたまひて、下ろし始めさせたまふ日は、雅楽寮の人召して、舟の楽せらる。親王たち上達部など、あまた参りたまへり。
 中宮、このころ里におはします。かの「春待つ園は」と励ましきこえたまへりし御返りもこのころやと思し、大臣の君も、いかでこの花の折、御覧ぜさせむと思しのたまへど、ついでなくて軽らかにはひわたり、花をももてあそびたまふべきならねば、若き女房たちの、ものめでしぬべきを舟に乗せたまうて、南の池の、こなたに通しかよはしなさせたまへるを、小さき山を隔ての関に見せたれど、その山の崎より漕ぎまひて、東の釣殿に、こなたの若き人びと集めさせたまふ。
 龍頭鷁首を、唐のよそひにことことしうしつらひて、楫取の棹さす童べ、皆みづら結ひて、唐土だたせて、さる大きなる池の中にさし出でたれば、まことの知らぬ国に来たらむ心地して、あはれにおもしろく、見ならはぬ女房などは思ふ。
 中島の入江の岩蔭にさし寄せて見れば、はかなき石のたたずまひも、ただ絵に描いたらむやうなり。こなたかなた霞みあひたる梢ども、錦を引きわたせるに、御前の方ははるばると見やられて、色をましたる柳、枝を垂れたる、花もえもいはぬ匂ひを散らしたり。ほかには盛り過ぎたる桜も、今盛りにほほ笑み、廊をめぐれる藤の色も、こまやかに開けゆきにけり。まして池の水に影を写したる山吹、岸よりこぼれていみじき盛りなり。水鳥どもの、つがひを離れず遊びつつ、細き枝どもを食ひて飛びちがふ、鴛鴦の波の綾に紋を交じへたるなど、ものの絵やうにも描き取らまほしき、まことに斧の柄も朽たいつべう思ひつつ、日を暮らす。
 「風吹けば波の花さへ色見えて
  こや名に立てる山吹の崎」
 「春の池や井手の川瀬にかよふらむ
  岸の山吹そこも匂へり」
 「亀の上の山も尋ねじ舟のうちに
  老いせぬ名をばここに残さむ」
 「春の日のうららにさしてゆく舟は
  棹のしづくも花ぞ散りける」
 などやうの、はかなごとどもを、心々に言ひ交はしつつ、行く方も帰らむ里も忘れぬべう、若き人びとの心を移すに、ことわりなる水の面になむ。

 [第二段 船楽、夜もすがら催される]
 暮れかかるほどに、「皇じやう」といふ楽、いとおもしろく聞こゆるに、心にもあらず、釣殿にさし寄せられて下りぬ。ここのしつらひ、いとこと削ぎたるさまに、なまめかしきに、御方々の若き人どもの、われ劣らじと尽くしたる装束、容貌、花をこき交ぜたる錦に劣らず見えわたる。世に目馴れずめづらかなる楽ども仕うまつる。舞人など、心ことに選ばせたまひて。
 夜に入りぬれば、いと飽かぬ心地して、御前の庭に篝火ともして、御階のもとの苔の上に、楽人召して、上達部、親王たちも、皆おのおの弾きもの、吹きものとりどりにしたまふ。
 物の師ども、ことにすぐれたる限り、双調吹きて、上に待ちとる御琴どもの調べ、いとはなやかにかき立てて、「安名尊」遊びたまふほど、「生けるかひあり」と、何のあやめも知らぬ賤の男も、御門のわたり隙なき馬、車の立処に混じりて、笑みさかえ聞きにけり。
 空の色、物の音も、春の調べ、響きは、いとことにまさりけるけぢめを、人びと思し分くらむかし。夜もすがら遊び明かしたまふ。返り声に「喜春楽」立ちそひて、兵部卿宮、「青柳」折り返しおもしろく歌ひたまふ。主人の大臣も言加へたまふ。


 [第三段 蛍兵部卿宮、玉鬘を思う]
 夜も明けぬ。朝ぼらけの鳥のさへづりを、中宮はもの隔てて、ねたう聞こし召しけり。いつも春の光を籠めたまへる大殿なれど、心をつくるよすがのまたなきを、飽かぬことに思す人びともありけるに、西の対の姫君、こともなき御ありさま、大臣の君も、わざと思しあがめきこえたまふ御けしきなど、皆世に聞こえ出でて、思ししもしるく、心なびかしたまふ人多かるべし。
 わが身さばかりと思ひ上がりたまふ際の人こそ、便りにつけつつ、けしきばみ、言出で聞こえたまふもありけれ、えしもうち出でぬ中の思ひに燃えぬべき若君達などもあるべし。そのうちに、ことの心を知らで、内の大殿の中将などは、好きぬべかめり。
 兵部卿宮はた、年ごろおはしける北の方も亡せたまひて、この三年ばかり、独り住みにてわびたまへば、うけばりて今はけしきばみたまふ。
 今朝も、いといたうそら乱れして、藤の花をかざして、なよびさうどきたまへる御さま、いとをかし。大臣も、思ししさまかなふと、下には思せど、せめて知らず顔をつくりたまふ。
 御土器のついでに、いみじうもて悩みたまうて、
 「思ふ心はべらずは、まかり逃げはべりなまし。いと堪へがたしや」
 とすまひたまふ。
 「紫のゆゑに心をしめたれば
  淵に身投げむ名やは惜しけき」
 とて、大臣の君に、同じかざしを参りたまふ。いといたうほほ笑みたまひて、
 「淵に身を投げつべしやとこの春は
  花のあたりを立ち去らで見よ」
 と切にとどめたまへば、え立ちあかれたまはで、今朝の御遊び、ましていとおもしろし。


 [第四段 中宮、春の季の御読経主催す]
 今日は、中宮の御読経の初めなりけり。やがてまかでたまはで、休み所とりつつ、日の御よそひに替へたまふ人びとも多かり。障りあるは、まかでなどもしたまふ。
 午の時ばかりに、皆あなたに参りたまふ。大臣の君をはじめたてまつりて、皆着きわたりたまふ。殿上人なども、残るなく参る。多くは、大臣の御勢ひにもてなされたまひて、やむごとなく、いつくしき御ありさまなり。
 春の上の御心ざしに、仏に花たてまつらせたまふ。鳥蝶に装束き分けたる童べ八人、容貌などことに整へさせたまひて、鳥には、銀の花瓶に桜をさし、蝶は、金の瓶に山吹を、同じき花の房いかめしう、世になき匂ひを尽くさせたまへり。
 南の御前の山際より漕ぎ出でて、御前に出づるほど、風吹きて、瓶の桜すこしうち散りまがふ。いとうららかに晴れて、霞の間より立ち出でたるは、いとあはれになまめきて見ゆ。わざと平張なども移されず、御前に渡れる廊を、楽屋のさまにして、仮に胡床どもを召したり。
 童べども、御階のもとに寄りて、花どもたてまつる。行香の人びと取り次ぎて、閼伽に加へさせたまふ。


 [第五段 紫の上と中宮和歌を贈答]
 御消息、殿の中将の君して聞こえたまへり。
 「花園の胡蝶をさへや下草に
  秋待つ虫はうとく見るらむ」
 宮、「かの紅葉の御返りなりけり」と、ほほ笑みて御覧ず。昨日の女房たちも、
 「げに、春の色は、え落とさせたまふまじかりけり」
 と、花におれつつ聞こえあへり。鴬のうららかなる音に、「鳥の楽」はなやかに聞きわたされて、池の水鳥もそこはかとなくさへづりわたるに、「急」になり果つるほど、飽かずおもしろし。「蝶」は、ましてはかなきさまに飛び立ちて、山吹の籬のもとに、咲きこぼれたる花の蔭に舞ひ出づる。
 宮の亮をはじめて、さるべき上人ども、禄取り続きて、童べに賜ぶ。鳥には桜の細長、蝶には山吹襲賜はる。かねてしも取りあへたるやうなり。物の師どもは、白き一襲、腰差など、次ぎ次ぎに賜ふ。中将の君には、藤の細長添へて、女の装束かづけたまふ。御返り、
 「昨日は音に泣きぬべくこそは。
  胡蝶にも誘はれなまし心ありて
  八重山吹を隔てざりせば」
 とぞありける。すぐれたる御労どもに、かやうのことは堪へぬにやありけむ、思ふやうにこそ見えぬ御口つきどもなめれ。
 まことや、かの見物の女房たち、宮のには、皆けしきある贈り物どもせさせたまうけり。さやうのこと、くはしければむつかし。
 明け暮れにつけても、かやうのはかなき御遊びしげく、心をやりて過ぐしたまへば、さぶらふ人も、おのづからもの思ひなき心地してなむ、こなたかなたにも聞こえ交はしたまふ。


 

第二章 玉鬘の物語 初夏の六条院に求婚者たち多く集まる
 [第一段 玉鬘に恋人多く集まる]
 西の対の御方は、かの踏歌の折の御対面の後は、こなたにも聞こえ交はしたまふ。深き御心もちゐや、浅くもいかにもあらむ、けしきいと労あり、なつかしき心ばへと見えて、人の心隔つべくもものしたまはぬ人ざまなれば、いづ方にも皆心寄せきこえたまへり。
 聞こえたまふ人いとあまたものしたまふ。されど、大臣、おぼろけに思し定むべくもあらず、わが御心にも、すくよかに親がり果つまじき御心や添ふらむ、「父大臣にも知らせやしてまし」など、思し寄る折々もあり。
 殿の中将は、すこし気近く、御簾のもとなどにも寄りて、御応へみづからなどするも、女はつつましう思せど、さるべきほどと人びとも知りきこえたれば、中将はすくすくしくて思ひも寄らず。
 内の大殿の君たちは、この君に引かれて、よろづにけしきばみ、わびありくを、その方のあはれにはあらで、下に心苦しう、「まことの親にさも知られたてまつりにしがな」と、人知れぬ心にかけたまへれど、さやうにも漏らしきこえたまはず、ひとへにうちとけ頼みきこえたまふ心むけなど、らうたげに若やかなり。似るとはなけれど、なほ母君のけはひにいとよくおぼえて、これはかどめいたるところぞ添ひたる。

 [第二段 玉鬘へ求婚者たちの恋文]
 更衣の今めかしう改まれるころほひ、空のけしきなどさへ、あやしうそこはかとなくをかしきを、のどやかにおはしませば、よろづの御遊びにて過ぐしたまふに、対の御方に、人びとの御文しげくなりゆくを、「思ひしこと」とをかしう思いて、ともすれば渡りたまひつつ御覧じ、さるべきには御返りそそのかしきこえたまひなどするを、うちとけず苦しいことに思いたり。
 兵部卿宮の、ほどなく焦られがましきわびごとどもを書き集めたまへる御文を御覧じつけて、こまやかに笑ひたまふ。
 「はやうより隔つることなう、あまたの親王たちの御中に、この君をなむ、かたみに取り分きて思ひしに、ただかやうの筋のことなむ、いみじう隔て思うたまひてやみにしを、世の末に、かく好きたまへる心ばへを見るが、をかしうもあはれにもおぼゆるかな。なほ、御返りなど聞こえたまへ。すこしもゆゑあらむ女の、かの親王よりほかに、また言の葉を交はすべき人こそ世におぼえね。いとけしきある人の御さまぞや」
 と、若き人はめでたまひぬべく聞こえ知らせたまへど、つつましくのみ思いたり。
 右大将の、いとまめやかに、ことことしきさましたる人の、「恋の山には孔子の倒ふれ」まねびつべきけしきに愁へたるも、さる方にをかしと、皆見比べたまふ中に、唐の縹の紙の、いとなつかしう、しみ深う匂へるを、いと細く小さく結びたるあり。
 「これは、いかなれば、かく結ぼほれたるにか」
 とて、引き開けたまへり。手いとをしうて、
 「思ふとも君は知らじなわきかへり
  岩漏る水に色し見えねば」
 書きざま今めかしうそぼれたり。
 「これはいかなるぞ」
 と問ひきこえたまへど、はかばかしうも聞こえたまはず。


 [第三段 源氏、玉鬘の女房に教訓す]
 右近を召し出でて、
 「かやうに訪づれきこえむ人をば、人選りして、応へなどはせさせよ。好き好きしうあざれがましき今やうの人の、便ないことし出でなどする、男の咎にしもあらぬことなり。
 我にて思ひしにも、あな情けな、恨めしうもと、その折にこそ、無心なるにや、もしはめざましかるべき際は、けやけうなどもおぼえけれ、わざと深からで、花蝶につけたる便りごとは、心ねたうもてないたる、なかなか心立つやうにもあり。また、さて忘れぬるは、何の咎かはあらむ。
 ものの便りばかりのなほざりごとに、口疾う心得たるも、さらでありぬべかりける、後の難とありぬべきわざなり。すべて、女のものづつみせず、心のままに、もののあはれも知り顔つくり、をかしきことをも見知らむなむ、その積もりあぢきなかるべきを、宮、大将は、おほなおほななほざりごとをうち出でたまふべきにもあらず、またあまりもののほど知らぬやうならむも、御ありさまに違へり。
 その際より下は、心ざしのおもむきに従ひて、あはれをも分きたまへ。労をも数へたまへ」
 など聞こえたまへば、君はうち背きておはする、側目いとをかしげなり。撫子の細長に、このころの花の色なる御小袿、あはひ気近う今めきて、もてなしなども、さはいへど、田舎びたまへりし名残こそ、ただありに、おほどかなる方にのみは見えたまひけれ、人のありさまをも見知りたまふままに、いとさまよう、なよびかに、化粧なども、心してもてつけたまへれば、いとど飽かぬところなく、はなやかにうつくしげなり。他人と見なさむは、いと口惜しかべう思さる。


 [第四段 右近の感想]
 右近も、うち笑みつつ見たてまつりて、「親と聞こえむには、似げなう若くおはしますめり。さし並びたまへらむはしも、あはひめでたしかし」と、思ひゐたり。
 「さらに人の御消息などは、聞こえ伝ふることはべらず。先々も知ろしめし御覧じたる三つ、四つは、引き返し、はしたなめきこえむもいかがとて、御文ばかり取り入れなどしはべるめれど、御返りは、さらに。聞こえさせたまふ折ばかりなむ。それをだに、苦しいことに思いたる」
 と聞こゆ。
 「さて、この若やかに結ぼほれたるは誰がぞ。いといたう書いたるけしきかな」
 と、ほほ笑みて御覧ずれば、
 「かれは、執念うとどめてまかりにけるにこそ。内の大殿の中将の、このさぶらふみるこをぞ、もとより見知りたまへりける、伝へにてはべりける。また見入るる人もはべらざりしにこそ」
 と聞こゆれば、
 「いとらうたきことかな。下臈なりとも、かの主たちをば、いかがいとさははしたなめむ。公卿といへど、この人のおぼえに、かならずしも並ぶまじきこそ多かれ。さるなかにも、いとしづまりたる人なり。おのづから思ひあはする世もこそあれ。掲焉にはあらでこそ、言ひ紛らはさめ。見所ある文書きかな」
 など、とみにもうち置きたまはず。


 [第五段 源氏、求婚者たちを批評]
 「かう何やかやと聞こゆるをも、思すところやあらむと、ややましきを、かの大臣に知られたてまつりたまはむことも、まだ若々しう何となきほどに、ここら年経たまへる御仲にさし出でたまはむことは、いかがと思ひめぐらしはべる。なほ世の人のあめる方に定まりてこそは、人びとしう、さるべきついでもものしたまはめと思ふを。
 宮は、独りものしたまふやうなれど、人柄いといたうあだめいて、通ひたまふ所あまた聞こえ、召人とか、憎げなる名のりする人どもなむ、数あまた聞こゆる。
 さやうならむことは、憎げなうて見直いたまはむ人は、いとようなだらかにもて消ちてむ。すこし心に癖ありては、人に飽かれぬべきことなむ、おのづから出で来ぬべきを、その御心づかひなむあべき。
 大将は、年経たる人の、いたうねび過ぎたるを、厭ひがてにと求むなれど、それも人びとわづらはしがるなり。さもあべいことなれば、さまざまになむ、人知れず思ひ定めかねはべる。
 かうざまのことは、親などにも、さはやかに、わが思ふさまとて、語り出でがたきことなれど、さばかりの御齢にもあらず。今は、などか何ごとをも御心に分いたまはざらむ。まろを、昔ざまになずらへて、母君と思ひないたまへ。御心に飽かざらむことは、心苦しく」
 など、いとまめやかにて聞こえたまへば、苦しうて、御いらへ聞こえむともおぼえたまはず。いと若々しきもうたておぼえて、
 「何ごとも思ひ知りはべらざりけるほどより、親などは見ぬものにならひはべりて、ともかくも思うたまへられずなむ」
 と、聞こえたまふさまのいとおいらかなれば、げにと思いて、
 「さらば世のたとひの、後の親をそれと思いて、おろかならぬ心ざしのほども、見あらはし果てたまひてむや」
 など、うち語らひたまふ。思すさまのことは、まばゆければ、えうち出でたまはず。けしきある言葉は時々混ぜたまへど、見知らぬさまなれば、すずろにうち嘆かれて渡りたまふ。


 

第三章 玉鬘の物語 夏の雨と養父の恋慕の物語
 [第一段 源氏、玉鬘と和歌を贈答]
 御前近き呉竹の、いと若やかに生ひたちて、うちなびくさまのなつかしきに、立ちとまりたまうて、
 「ませのうちに根深く植ゑし竹の子の
  おのが世々にや生ひわかるべき
 思へば恨めしかべいことぞかし」
 と、御簾を引き上げて聞こえたまへば、ゐざり出でて、
 「今さらにいかならむ世か若竹の
  生ひ始めけむ根をば尋ねむ
 なかなかにこそはべらめ」
 と聞こえたまふを、いとあはれと思しけり。さるは、心のうちにはさも思はずかし。いかならむ折聞こえ出でむとすらむと、心もとなくあはれなれど、この大臣の御心ばへのいとありがたきを、
 「親と聞こゆとも、もとより見馴れたまはぬは、えかうしもこまやかならずや」
 と、昔物語を見たまふにも、やうやう人のありさま、世の中のあるやうを見知りたまへば、いとつつましう、心と知られたてまつらむことはかたかるべう、思す。

 [第二段 源氏、紫の上に玉鬘を語る]
 殿は、いとどらうたしと思ひきこえたまふ。上にも語り申したまふ。
 「あやしうなつかしき人のありさまにもあるかな。かのいにしへのは、あまりはるけどころなくぞありし。この君は、もののありさまも見知りぬべく、気近き心ざま添ひて、うしろめたからずこそ見ゆれ」
 など、ほめたまふ。ただにしも思すまじき御心ざまを見知りたまへれば、思し寄りて、
 「ものの心得つべくはものしたまふめるを、うらなくしもうちとけ、頼みきこえたまふらむこそ、心苦しけれ」
 とのたまへば、
 「など、頼もしげなくやはあるべき」
 と聞こえたまへば、
 「いでや、われにても、また忍びがたう、もの思はしき折々ありし御心ざまの、思ひ出でらるるふしぶしなくやは」
 と、ほほ笑みて聞こえたまへば、「あな、心疾」とおぼいて、
 「うたても思し寄るかな。いと見知らずしもあらじ」
 とて、わづらはしければ、のたまひさして、心のうちに、「人のかう推し量りたまふにも、いかがはあべからむ」と思し乱れ、かつは、ひがひがしう、けしからぬ我が心のほども、思ひ知られたまうけり。
 心にかかれるままに、しばしば渡りたまひつつ見たてまつりたまふ。


 [第三段 源氏、玉鬘を訪問し恋情を訴える]
 雨のうち降りたる名残の、いとものしめやかなる夕つ方、御前の若楓、柏木などの、青やかに茂りあひたるが、何となく心地よげなる空を見い出したまひて、
 「和してまた清し」
 とうち誦じたまうて、まづ、この姫君の御さまの、匂ひやかげさを思し出でられて、例の、忍びやかに渡りたまへり。
 手習などして、うちとけたまへりけるを、起き上がりたまひて、恥ぢらひたまへる顔の色あひ、いとをかし。なごやかなるけはひの、ふと昔思し出でらるるにも、忍びがたくて、
 「見そめたてまつりしは、いとかうしもおぼえたまはずと思ひしを、あやしう、ただそれかと思ひまがへらるる折々こそあれ。あはれなるわざなりけり。中将の、さらに昔ざまの匂ひにも見えぬならひに、さしも似ぬものと思ふに、かかる人もものしたまうけるよ」
 とて、涙ぐみたまへり。箱の蓋なる御果物の中に、橘のあるをまさぐりて、
 「橘の薫りし袖によそふれば
  変はれる身とも思ほえぬかな
 世とともの心にかけて忘れがたきに、慰むことなくて過ぎつる年ごろを、かくて見たてまつるは、夢にやとのみ思ひなすを、なほえこそ忍ぶまじけれ。思し疎むななよ」
 とて、御手をとらへたまへれば、女、かやうにもならひたまざりつるを、いとうたておぼゆれど、おほどかなるさまにてものしたまふ。
 「袖の香をよそふるからに橘の
  身さへはかなくなりもこそすれ」
 むつかしと思ひてうつぶしたまへるさま、いみじうなつかしう、手つきのつぶつぶと肥えたまへる、身なり、肌つきのこまやかにうつくしげなるに、なかなかなるもの思ひ添ふ心地したまて、今日はすこし思ふこと聞こえ知らせたまひける。
 女は、心憂く、いかにせむとおぼえて、わななかるけしきもしるけれど、
 「何か、かく疎ましとは思いたる。いとよくも隠して、人に咎めらるべくもあらぬ心のほどぞよ。さりげなくてをもて隠したまへ。浅くも思ひきこえさせぬ心ざしに、また添ふべければ、世にたぐひあるまじき心地なむするを、この訪づれきこゆる人びとには、思し落とすべくやはある。いとかう深き心ある人は、世にありがたかるべきわざなれば、うしろめたくのみこそ」
 とのたまふ。いとさかしらなる御親心なりかし。


 [第四段 源氏、自制して帰る]
 雨はやみて、風の竹に生るほど、はなやかにさし出でたる月影、をかしき夜のさまもしめやかなるに、人びとは、こまやかなる御物語にかしこまりおきて、気近くもさぶらはず。
 常に見たてまつりたまふ御仲なれど、かくよき折しもありがたければ、言に出でたまへるついでの、御ひたぶる心にや、なつかしいほどなる御衣どものけはひは、いとよう紛らはしすべしたまひて、近やかに臥したまへば、いと心憂く、人の思はむこともめづらかに、いみじうおぼゆ。
 「まことの親の御あたりならましかば、おろかには見放ちたまふとも、かくざまの憂きことはあらましや」と悲しきに、つつむとすれどこぼれ出でつつ、いと心苦しき御けしきなれば、
 「かう思すこそつらけれ。もて離れ知らぬ人だに、世のことわりにて、皆許すわざなめるを、かく年経ぬる睦ましさに、かばかり見えたてまつるや、何の疎ましかるべきぞ。これよりあながちなる心は、よも見せたてまつらじ。おぼろけに忍ぶるにあまるほどを、慰むるぞや」
 とて、あはれげになつかしう聞こえたまふこと多かり。まして、かやうなるけはひは、ただ昔の心地して、いみじうあはれなり。
 わが御心ながらも、「ゆくりかにあはつけきこと」と思し知らるれば、いとよく思し返しつつ、人もあやしと思ふべければ、いたう夜も更かさで出でたまひぬ。
 「思ひ疎みたまはば、いと心憂くこそあるべけれ。よその人は、かうほれぼれしうはあらぬものぞよ。限りなく、そこひ知らぬ心ざしなれば、人の咎むべきさまにはよもあらじ。ただ昔恋しき慰めに、はかなきことをも聞こえむ。同じ心に応へなどしたまへ」
 と、いとこまかに聞こえたまへど、我にもあらぬさまして、いといと憂しと思いたれば、
 「いとさばかりには見たてまつらぬ御心ばへを、いとこよなくも憎みたまふべかめるかな」
 と嘆きたまひて、
 「ゆめ、けしきなくてを」
 とて、出でたまひぬ。
 女君も、御年こそ過ぐしたまひにたるほどなれ、世の中を知りたまはぬなかにも、すこしうち世馴れたる人のありさまをだに見知りたまはねば、これより気近きさまにも思し寄らず、「思ひの外にもありける世かな」と、嘆かしきに、いとけしきも悪しければ、人びと、御心地悩ましげに見えたまふと、もて悩みきこゆ。
 「殿の御けしきの、こまやかに、かたじけなくもおはしますかな。まことの御親と聞こゆとも、さらにかばかり思し寄らぬことなくは、もてなしきこえたまはじ」
 など、兵部なども、忍びて聞こゆるにつけて、いとど思はずに、心づきなき御心のありさまを、疎ましう思ひ果てたまふにも、身ぞ心憂かりける。


 [第五段 苦悩する玉鬘]
 またの朝、御文とくあり。悩ましがりて臥したまへれど、人びと御硯など参りて、「御返りとく」と聞こゆれば、しぶしぶに見たまふ。白き紙の、うはべはおいらかに、すくすくしきに、いとめでたう書いたまへり。
 「たぐひなかりし御けしきこそ、つらきしも忘れがたう。いかに人見たてまつりけむ。
  うちとけて寝も見ぬものを若草の
  ことあり顔にむすぼほるらむ
 幼くこそものしたまひけれ」
 と、さすがに親がりたる御言葉も、いと憎しと見たまひて、御返り事聞こえざらむも、人目あやしければ、ふくよかなる陸奥紙に、ただ、
 「うけたまはりぬ。乱り心地の悪しうはべれば、聞こえさせぬ」
 とのみあるに、「かやうのけしきは、さすがにすくよかなり」とほほ笑みて、恨みどころある心地したまふ、うたてある心かな。
 色に出でたまひてのちは、「太田の松の」と思はせたることなく、むつかしう聞こえたまふこと多かれば、いとど所狭き心地して、おきどころなきもの思ひつきて、いと悩ましうさへしたまふ。
 かくて、ことの心知る人は少なうて、疎きも親しきも、むげの親ざまに思ひきこえたるを、
 「かうやうのけしきの漏り出でば、いみじう人笑はれに、憂き名にもあるべきかな。父大臣などの尋ね知りたまふにても、まめまめしき御心ばへにもあらざらむものから、ましていとあはつけう、待ち聞き思さむこと」
 と、よろづにやすげなう思し乱る。
 宮、大将などは、殿の御けしき、もて離れぬさまに伝へ聞きたまうて、いとねむごろに聞こえたまふ。この岩漏る中将も、大臣の御許しを見てこそ、かたよりにほの聞きて、まことの筋をば知らず、ただひとへにうれしくて、おりたち恨みきこえまどひありくめり。


 

   

 

            現代語訳 補足 英訳 目次

      二十五、 蛍   



 


 今はかく重々しきほどに、よろづのどやかに思ししづめたる御ありさまなれば、頼みきこえさせたまへる人びと、さまざまにつけて、皆思ふさまに定まり、ただよはしからで、あらまほしくて過ぐしたまふ。
 対の姫君こそ、いとほしく、思ひのほかなる思ひ添ひて、いかにせむと思し乱るめれ。かの監が憂かりしさまには、なずらふべきけはひならねど、かかる筋に、かてけも人の思ひ寄りきこゆべきことならねば、心ひとつに思しつつ、「様ことに疎まし」と思ひきこえたまふ。
 何ごとをも思し知りにたる御齢なれば、とざまかうざまに思し集めつつ、母君のおはせずなりにける口惜しさも、またとりかへし惜しく悲しくおぼゆ。
 大臣も、うち出でそめたまひては、なかなか苦しく思せど、人目を憚りたまひつつ、はかなきことをもえ聞こえたまはず、苦しくも思さるるままに、しげく渡りたまひつつ、御前の人遠く、のどやかなる折は、ただならずけしきばみきこえたまふごとに、胸つぶれつつ、けざやかにはしたなく聞こゆべきにはあらねば、ただ見知らぬさまにもてなしきこえたまふ。
 人ざまのわららかに、気近くものしたまへば、いたくまめだち、心したまへど、なほをかしく愛敬づきたるけはひのみ見えたまへり。


 兵部卿宮などは、まめやかにせめきこえたまふ。御労のほどはいくばくならぬに、五月雨になりぬる愁へをしたまひて、
 「すこし気近きほどをだに許したまはば、思ふことをも、片端はるけてしがな」
 と、聞こえたまへるを、殿御覧じて、
 「なにかは。この君達の好きたまはむは、見所ありなむかし。もて離れてな聞こえたまひそ。御返り、時々聞こえたまへ」
 とて、教へて書かせたてまつりたまへど、いとどうたておぼえたまへば、「乱り心地悪し」とて、聞こえたまはず。
 人びとも、ことにやむごとなく寄せ重きなども、をさをさなし。ただ、母君の御叔父なりける、宰相ばかりの人の娘にて、心ばせなど口惜しからぬが、世に衰へ残りたるを、尋ねとりたまへる、宰相の君とて、手などもよろしく書き、おほかたも大人びたる人なれば、さるべき折々の御返りなど書かせたまへば、召し出でて、言葉などのたまひて書かせたまふ。
 ものなどのたまふさまを、ゆかしと思すなるべし。
 正身は、かくうたてあるもの嘆かしさの後は、この宮などは、あはれげに聞こえたまふ時は、すこし見入れたまふ時もありけり。何かと思ふにはあらず、「かく心憂き御けしき見ぬわざもがな」と、さすがにされたるところつきて思しけり。
 殿は、あいなくおのれ心懸想して、宮を待ちきこえたまふも知りたまはで、よろしき御返りのあるをめづらしがりて、いと忍びやかにおはしましたり。
 妻戸の間に御茵参らせて、御几帳ばかりを隔てにて、近きほどなり。
 いといたう心して、空薫物心にくきほどに匂はして、つくろひおはするさま、親にはあらで、むつかしきさかしら人の、さすがにあはれに見えたまふ。宰相の君なども、人の御いらへ聞こえむこともおぼえず、恥づかしくてゐたるを、「埋もれたり」と、ひきつみたまへば、いとわりなし。



 夕闇過ぎて、おぼつかなき空のけしきの曇らはしきに、うちしめりたる宮の御けはひも、いと艶なり。うちよりほのめく追風も、いとどしき御匂ひのたち添ひたれば、いと深く薫り満ちて、かねて思ししよりもをかしき御けはひを、心とどめたまひけり。
 うち出でて、思ふ心のほどをのたまひ続けたる言の葉、おとなおとなしく、ひたぶるに好き好きしくはあらで、いとけはひことなり。大臣、いとをかしと、ほの聞きおはす。
 姫君は、東面に引き入りて大殿籠もりにけるを、宰相の君の御消息伝へに、ゐざり入りたるにつけて、
 「いとあまり暑かはしき御もてなしなり。よろづのこと、さまに従ひてこそめやすけれ。ひたぶるに若びたまふべきさまにもあらず。この宮たちをさへ、さし放ちたる人伝てに聞こえたまふまじきことなりかし。御声こそ惜しみたまふとも、すこし気近くだにこそ」
 など、諌めきこえたまへど、いとわりなくて、ことづけてもはひ入りたまひぬべき御心ばへなれば、とざまかうざまにわびしければ、すべり出でて、母屋の際なる御几帳のもとに、かたはら臥したまへる。



 何くれと言長き御いらへ聞こえたまふこともなく、思しやすらふに、寄りたまひて、御几帳の帷子を一重うちかけたまふにあはせて、さと光るもの。紙燭をさし出でたるかとあきれたり。
 蛍を薄きかたに、この夕つ方いと多く包みおきて、光をつつみ隠したまへりけるを、さりげなく、とかくひきつくろふやうにて。
 にはかにかく掲焉に光れるに、あさましくて、扇をさし隠したまへるかたはら目、いとをかしげなり。
 「おどろかしき光見えば、宮も覗きたまひなむ。わが女と思すばかりのおぼえに、かくまでのたまふなめり。人ざま容貌など、いとかくしも具したらむとは、え推し量りたまはじ。いとよく好きたまひぬべき心、惑はさむ」
 と、かまへありきたまふなりけり。まことのわが姫君をば、かくしも、もて騷ぎたまはじ、うたてある御心なりけり。
 こと方より、やをらすべり出でて、渡りたまひぬ。



 宮は、人のおはするほど、さばかりと推し量りたまふが、すこし気近きけはひするに、御心ときめきせられたまひて、えならぬ羅の帷子の隙より見入れたまへるに、一間ばかり隔てたる見わたしに、かくおぼえなき光のうちほのめくを、をかしと見たまふ。
 ほどもなく紛らはして隠しつ。されどほのかなる光、艶なることのつまにもしつべく見ゆ。ほのかなれど、そびやかに臥したまへりつる様体のをかしかりつるを、飽かず思して、げに、このこと御心にしみにけり。
 「鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに
  人の消つには消ゆるものかは
 思ひ知りたまひぬや」
 と聞こえたまふ。かやうの御返しを、思ひまはさむもねぢけたれば、疾きばかりをぞ。
 「声はせで身をのみ焦がす蛍こそ
  言ふよりまさる思ひなるらめ」
 など、はかなく聞こえなして、御みづからは引き入りたまひにければ、いとはるかにもてなしたまふ愁はしさを、いみじく怨みきこえたまふ。
 好き好きしきやうなれば、ゐたまひも明かさで、軒の雫も苦しさに、濡れ濡れ夜深く出でたまひぬ。時鳥などかならずうち鳴きけむかし。うるさければこそ聞きも止めね。
 「御けはひなどのなまめかしさは、いとよく大臣の君に似たてまつりたまへり」と、人びともめできこえけり。昨夜、いと女親だちてつくろひたまひし御けはひを、うちうちは知らで、「あはれにかたじけなし」と皆言ふ。



 姫君は、かくさすがなる御けしきを、
 「わがみづからの憂さぞかし。親などに知られたてまつり、世の人めきたるさまにて、かやうなる御心ばへならましかば、などかはいと似げなくもあらまし。人に似ぬありさまこそ、つひに世語りにやならむ」
 と、起き臥し思しなやむ。さるは、「まことにゆかしげなきさまにはもてなし果てじ」と、大臣は思しけり。なほ、さる御心癖なれば、中宮なども、いとうるはしくや思ひきこえたまへる、ことに触れつつ、ただならず聞こえ動かしなどしたまへど、やむごとなき方の、およびなくわづらはしさに、おり立ちあらはし聞こえ寄りたまはぬを、この君は、人の御さまも、気近く今めきたるに、おのづから思ひ忍びがたきに、折々、人見たてまつりつけば疑ひ負ひぬべき御もてなしなどは、うち交じるわざなれど、ありがたく思し返しつつ、さすがなる御仲なりけり。


 


 五日には、馬場の御殿に出でたまひけるついでに、渡りたまへり。
 「いかにぞや。宮は夜や更かしたまひし。いたくも馴らしきこえじ。わづらはしき気添ひたまへる人ぞや。人の心破り、ものの過ちすまじき人は、かたくこそありけれ」
 など、活けみ殺しみ戒めおはする御さま、尽きせず若くきよげに見えたまふ。艶も色もこぼるばかりなる御衣に、直衣はかなく重なれるあはひも、いづこに加はれるきよらにかあらむ、この世の人の染め出だしたると見えず、常の色も変へぬ文目も、今日はめづらかに、をかしくおぼゆる薫りなども、「思ふことなくは、をかしかりぬべき御ありさまかな」と姫君思す。
 宮より御文あり。白き薄様にて、御手はいとよしありて書きなしたまへり。見るほどこそをかしかりけれ、まねび出づれば、ことなることなしや。
 「今日さへや引く人もなき水隠れに
  生ふる菖蒲の根のみ泣かれむ」
 例にも引き出でつべき根に結びつけたまへれば、「今日の御返り」などそそのかしおきて、出でたまひぬ。これかれも、「なほ」と聞こゆれば、御心にもいかが思しけむ、
 「あらはれていとど浅くも見ゆるかな
  菖蒲もわかず泣かれける根の
 若々しく」
 とばかり、ほのかにぞあめる。「手を今すこしゆゑづけたらば」と、宮は好ましき御心に、いささか飽かぬことと見たまひけむかし。
 楽玉など、えならぬさまにて、所々より多かり。思し沈みつる年ごろの名残なき御ありさまにて、心ゆるびたまふことも多かるに、「同じくは、人の疵つくばかりのことなくてもやみにしがな」と、いかが思さざらむ。


 殿は、東の御方にもさしのぞきたまひて、
 「中将の、今日の司の手結ひのついでに、男ども引き連れてものすべきさまに言ひしを、さる心したまへ。まだ明きほどに来なむものぞ。あやしく、ここにはわざとならず忍ぶることをも、この親王たちの聞きつけて、訪らひものしたまへば、おのづからことことしくなむあるを、用意したまへ」
 など聞こえたまふ。
 馬場の御殿は、こなたの廊より見通すほど遠からず。
 「若き人びと、渡殿の戸開けて物見よや。左の司に、いとよしある官人多かるころなり。せうせうの殿上人に劣るまじ」
 とのたまへば、物見むことをいとをかしと思へり。
 対の御方よりも、童女など、物見に渡り来て、廊の戸口に御簾青やかに掛けわたして、今めきたる裾濃の御几帳ども立てわたし、童、下仕へなどさまよふ。菖蒲襲の衵、二藍の羅の汗衫着たる童女ぞ、西の対のなめる。
 好ましく馴れたる限り四人、下仕へは、楝の裾濃の裳、撫子の若葉の色したる唐衣、今日のよそひどもなり。
 こなたのは、濃き一襲に、撫子襲の汗衫などおほどかにて、おのおの挑み顔なるもてなし、見所あり。
 若やかなる殿上人などは、目をたててけしきばむ。未の時に、馬場の御殿に出でたまひて、げに親王たちおはし集ひたり。手結ひの公事にはさま変りて、次将たちかき連れ参りて、さまことに今めかしく遊び暮らしたまふ。
 女は、何のあやめも知らぬことなれど、舎人どもさへ艶なる装束を尽くして、身を投げたる手まどはしなどを見るぞ、をかしかりける。
 南の町も通して、はるばるとあれば、あなたにもかやうの若き人どもは見けり。「打毬楽」「落蹲」など遊びて、勝ち負けの乱声どもののしるも、夜に入り果てて、何事も見えずなりぬ果てぬ。舎人どもの禄、品々賜はる。いたく更けて、人びと皆あかれたまひぬ。



 大臣は、こなたに大殿籠もりぬ。物語など聞こえたまひて、
 「兵部卿宮の、人よりはこよなくものしたまふかな。容貌などはすぐれねど、用意けしきなど、よしあり、愛敬づきたる君なり。忍びて見たまひつや。よしといへど、なほこそあれ」
 とのたまふ。
 「御弟にこそものしたまへど、ねびまさりてぞ見えたまひける。年ごろ、かく折過ぐさず渡り、睦びきこえたまふと聞きはべれど、昔の内裏わたりにてほの見たてまつりしのち、おぼつかなしかし。いとよくこそ、容貌などねびまさりたまひにけれ。帥の親王よくものしたまふめれど、けはひ劣りて、大君けしきにぞものしたまひける」
 とのたまへば、「ふと見知りたまひにけり」と思せど、ほほ笑みて、なほあるを、良しとも悪しともかけたまはず。
 人の上を難つけ、落としめざまのこと言ふ人をば、いとほしきものにしたまへば、
 「右大将などをだに、心にくき人にすめるを、何ばかりかはある。近きよすがにて見むは、飽かぬことにやあらむ」
 と、見たまへど、言に表はしてものたまはず。
 今はただおほかたの御睦びにて、御座なども異々にて大殿籠もる。「などてかく離れそめしぞ」と、殿は苦しがりたまふ。おほかた、何やかやともそばみきこえたまはで、年ごろかく折ふしにつけたる御遊びどもを、人伝てに見聞きたまひけるに、今日めづらしかりつることばかりをぞ、この町のおぼえきらきらしと思したる。
 「その駒もすさめぬ草と名に立てる
  汀の菖蒲今日や引きつる」
 とおほどかに聞こえたまふ。何ばかりのことにもあらねど、あはれと思したり。
 「鳰鳥に影をならぶる若駒は
  いつか菖蒲に引き別るべき」
 あいだちなき御ことどもなりや。
 「朝夕の隔てあるやうなれど、かくて見たてまつるは、心やすくこそあれ」
 戯れごとなれど、のどやかにおはする人ざまなれば、静まりて聞こえなしたまふ。
 床をば譲りきこえたまひて、御几帳引き隔てて大殿籠もる。気近くなどあらむ筋をば、いと似げなかるべき筋に、思ひ離れ果てきこえたまへれば、あながちにも聞こえたまはず。


 


 長雨例の年よりもいたくして、晴るる方なくつれづれなれば、御方々、絵物語などのすさびにて、明かし暮らしたまふ。明石の御方は、さやうのことをもよしありてしなしたまひて、姫君の御方にたてまつりたまふ。
 西の対には、ましてめづらしくおぼえたまふことの筋なれば、明け暮れ書き読みいとなみおはす。つきなからぬ若人あまたあり。さまざまにめづらかなる人の上などを、真にや偽りにや、言ひ集めたるなかにも、「わがありさまのやうなるはなかりけり」と見たまふ。
 『住吉』の姫君の、さしあたりけむ折はさるものにて、今の世のおぼえもなほ心ことなめるに、主計頭が、ほとほとしかりけむなどぞ、かの監がゆゆしさを思しなずらへたまふ。
 殿も、こなたかなたにかかるものどもの散りつつ、御目に離れねば、
 「あな、むつかし。女こそ、ものうるさがらず、人に欺かれむと生まれたるものなれ。ここらのなかに、真はいと少なからむを、かつ知る知る、かかるすずろごとに心を移し、はかられたまひて、暑かはしき五月雨の、髪の乱るるも知らで、書きたまふよ」
 とて、笑ひたまふものから、また、
 「かかる世の古言ならでは、げに、何をか紛るることなきつれづれを慰めまし。さても、この偽りどものなかに、げにさもあらむとあはれを見せ、つきづきしく続けたる、はた、はかなしごとと知りながら、いたづらに心動き、らうたげなる姫君のもの思へる見るに、かた心つくかし。
 また、いとあるまじきことかなと見る見る、おどろおどろしくとりなしけるが目おどろきて、静かにまた聞くたびぞ、憎けれど、ふとをかしき節、あらはなるなどもあるべし。
 このころ、幼き人の女房などに時々読まするを立ち聞けば、ものよく言ふものの世にあるべきかな。虚言をよくしなれたる口つきよりぞ言ひ出だすらむとおぼゆれど、さしもあらじや」
 とのたまへば、
 「げに、偽り馴れたる人や、さまざまにさも汲みはべらむ。ただいと真のこととこそ思うたまへられけれ」
 とて、硯をおしやりたまへば、
 「こちなくも聞こえ落としてけるかな。神代より世にあることを、記しおきけるななり。『日本紀』などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」
 とて、笑ひたまふ。


 「その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、善きも悪しきも、世に経る人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に籠めがたくて、言ひおき初めたるなり。善きさまに言ふとては、善きことの限り選り出でて、人に従はむとては、また悪しきさまの珍しきことを取り集めたる、皆かたがたにつけたる、この世の他のことならずかし。
 人の朝廷の才、作りやう変はる、同じ大和の国のことなれば、昔今のに変はるべし、深きこと浅きことのけぢめこそあらめ、ひたぶるに虚言と言ひ果てむも、ことの心違ひてなむありける。
 仏の、いとうるはしき心にて説きおきたまへる御法も、方便といふことありて、悟りなきものは、ここかしこ違ふ疑ひを置きつべくなむ。『方等経』の中に多かれど、言ひもてゆけば、ひとつ旨にありて、菩提と煩悩との隔たりなむ、この、人の善き悪しきばかりのことは変はりける。
 よく言へば、すべて何ごとも空しからずなりぬや」
 と、物語をいとわざとのことにのたまひなしつ。
 「さて、かかる古言の中に、まろがやうに実法なる痴者の物語はありや。いみじく気遠きものの姫君も、御心のやうにつれなく、そらおぼめきしたるは世にあらじな。いざ、たぐひなき物語にして、世に伝へさせむ」
 と、さし寄りて聞こえたまへば、顔を引き入れて、
 「さらずとも、かく珍かなることは、世語りにこそはなりはべりぬべかめれ」
 とのたまへば、
 「珍かにやおぼえたまふ。げにこそ、またなき心地すれ」
 とて、寄りゐたまへるさま、いとあざれたり。
 「思ひあまり昔の跡を訪ぬれど
  親に背ける子ぞたぐひなき
 不孝なるは、仏の道にもいみじくこそ言ひたれ」
 とのたまへど、顔ももたげたまはねば、御髪をかきやりつつ、いみじく怨みたまへば、からうして、
 「古き跡を訪ぬれどげになかりけり
  この世にかかる親の心は」
 と聞こえたまふも、心恥づかしければ、いといたくも乱れたまはず。
 かくして、いかなるべき御ありさまならむ。



 紫の上も、姫君の御あつらへにことつけて、物語は捨てがたく思したり。『くまのの物語』の絵にてあるを、
 「いとよく描きたる絵かな」
 とて御覧ず。小さき女君の、何心もなくて昼寝したまへるところを、昔のありさま思し出でて、女君は見たまふ。
 「かかる童どちだに、いかにされたりけり。まろこそ、なほ例にしつべく、心のどけさは人に似ざりけれ」
 と聞こえ出でたまへり。げに、たぐひ多からぬことどもは、好み集めたまへりけりかし。
 「姫君の御前にて、この世馴れたる物語など、な読み聞かせたまひそ。みそか心つきたるものの娘などは、をかしとにはあらねど、かかること世にはありけりと、見馴れたまはむぞ、ゆゆしきや」
 とのたまふも、こよなしと、対の御方聞きたまはば、心置きたまひつべくなむ。
 上、
 「心浅げなる人まねどもは、見るにもかたはらいたくこそ。『宇津保』の藤原君の女こそ、いと重りかにはかばかしき人にて、過ちなかめれど、すくよかに言ひ出でたることもしわざも、女しきところなかめるぞ、一様なめる」
 とのたまへば、
 「うつつの人も、さぞあるべかめる。人びとしく立てたる趣きことにて、よきほどにかまへぬや。よしなからぬ親の、心とどめて生ほしたてたる人の、子めかしきを生けるしるしにて、後れたること多かるは、何わざしてかしづきしぞと、親のしわざさへ思ひやらるるこそ、いとほしけれ。
 げに、さいへど、その人のけはひよと見えたるは、かひあり、おもだたしかし。言葉の限りまばゆくほめおきたるに、し出でたるわざ、言ひ出でたることのなかに、げにと見え聞こゆることなき、いと見劣りするわざなり。
 すべて、善からぬ人に、いかで人ほめさせじ」
 など、ただ「この姫君の、点つかれたまふまじく」と、よろづに思しのたまふ。
 継母の腹ぎたなき昔物語も多かるを、このころ、「心見えに心づきなし」と思せば、いみじく選りつつなむ、書きととのへさせ、絵などにも描かせたまひける。



 中将の君を、こなたには気遠くもてなしきこえたまへれど、姫君の御方には、さしもさし放ちきこえたまはずならはしたまふ。
 「わが世のほどは、とてもかくても同じことなれど、なからむ世を思ひやるに、なほ見つき、思ひしみぬることどもこそ、取り分きてはおぼゆべけれ」
 とて、南面の御簾の内は許したまへり。台盤所、女房のなかは許したまはず。あまたおはせぬ御仲らひにて、いとやむごとなくかしづききこえたまへり。
 おほかたの心もちゐなども、いとものものしく、まめやかにものしたまふ君なれば、うしろやすく思し譲れり。まだいはけたる御雛遊びなどのけはひの見ゆれば、かの人の、もろともに遊びて過ぐしし年月の、まづ思ひ出でらるれば、雛の殿の宮仕へ、いとよくしたまひて、折々にうちしほたれたまひけり。
 さもありぬべきあたりには、はかなしごとものたまひ触るるはあまたあれど、頼みかくべくもしなさず。さる方になどかは見ざらむと、心とまりぬべきをも、強ひてなほざりごとにしなして、なほ「かの、緑の袖を見え直してしがな」と思ふ心のみぞ、やむごとなき節にはとまりける。
 あながちになどかかづらひまどはば、倒ふるる方に許したまひもしつべかめれど、「つらしと思ひし折々、いかで人にもことわらせたてまつらむ」と思ひおきし、忘れがたくて、正身ばかりには、おろかならぬあはれを尽くし見せて、おほかたには焦られ思へらず。
 兄の君達なども、なまねたしなどのみ思ふこと多かり。対の姫君の御ありさまを、右中将は、いと深く思ひしみて、言ひ寄るたよりもいとはかなければ、この君をぞかこち寄りけれど、
 「人の上にては、もどかしきわざなりけり」
 と、つれなくいらへてぞものしたまひける。昔の父大臣たちの御仲らひに似たり。


 内の大臣は、御子ども腹々いと多かるに、その生ひ出でたるおぼえ、人柄に従ひつつ、心にまかせたるやうなるおぼえ、御勢にて、皆なし立てたまふ。女はあまたもおはせぬを、女御も、かく思ししことのとどこほりたまひ、姫君も、かくこと違ふさまにてものしたまへば、いと口惜しと思す。
 かの撫子を忘れたまはず、ものの折にも語り出でたまひしことなれば、
 「いかになりにけむ。ものはかなかりける親の心に引かれて、らうたげなりし人を、行方知らずなりにたること。すべて女子といはむものなむ、いかにもいかにも目放つまじかりける。さかしらにわが子と言ひて、あやしきさまにてはふれやすらむ。とてもかくても、聞こえ出で来ば」
 と、あはれに思しわたる。君達にも、
 「もし、さやうなる名のりする人あらば、耳とどめよ。心のすさびにまかせて、さるまじきことも多かりしなかに、これは、いとしか、おしなべての際にも思はざりし人の、はかなきもの倦むじをして、かく少なかりけるもののくさはひ一つを、失ひたることの口惜しきこと」
 と、常にのたまひ出づ。中ごろなどはさしもあらず、うち忘れたまひけるを、人の、さまざまにつけて、女子かしづきたまへるたぐひどもに、わが思ほすにしもかなはぬが、いと心憂く、本意なく思すなりけり。
 夢見たまひて、いとよく合はする者召して、合はせたまひけるに、
 「もし、年ごろ御心に知られたまはぬ御子を、人のものになして、聞こしめし出づることや」
 と聞こえたりければ、
 「女子の人の子になることは、をさをさなしかし。いかなることにかあらむ」
 など、このころぞ、思しのたまふべかめる


    


 

   

            現代語訳 補足 英訳 目次

      二十六、 常  夏 
 


   
 



 いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。中将の君もさぶらひたまふ。親しき殿上人あまたさぶらひて、西川よりたてまつれる鮎、近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じて参らす。例の大殿の君達、中将の御あたり尋ねて参りたまへり。
 「さうざうしくねぶたかりつる、折よくものしたまへるかな」
 とて、大御酒参り、氷水召して、水飯など、とりどりにさうどきつつ食ふ。
 風はいとよく吹けども、日のどかに曇りなき空の、西日になるほど、蝉の声などもいと苦しげに聞こゆれば、
 「水の上無徳なる今日の暑かはしさかな。無礼の罪は許されなむや」
 とて、寄り臥したまへり。
 「いとかかるころは、遊びなどもすさまじく、さすがに、暮らしがたきこそ苦しけれ。宮仕へする若き人びと堪へがたからむな。帯も解かぬほどよ。ここにてだにうち乱れ、このころ世にあらむことの、すこし珍しく、ねぶたさ覚めぬべからむ、語りて聞かせたまへ。何となく翁びたる心地して、世間のこともおぼつかなしや」
 などのたまへど、珍しきこととて、うち出で聞こえむ物語もおぼえねば、かしこまりたるやうにて、皆いと涼しき高欄に、背中押しつつさぶらひたまふ。


 「いかで聞きしことぞや、大臣のほか腹の娘尋ね出でて、かしづきたまふなるとまねぶ人ありしかば、まことにや」
 と、弁少将に問ひたまへば、
 「ことことしく、さまで言ひなすべきことにもはべらざりけるを。この春のころほひ、夢語りしたまひけるを、ほの聞き伝へはべりける女の、『われなむかこつべきことある』と、名のり出ではべりけるを、中将の朝臣なむ聞きつけて、『まことにさやうに触ればひぬべきしるしやある』と、尋ねとぶらひはべりける。詳しきさまは、え知りはべらず。げに、このころ珍しき世語りになむ、人びともしはべるなる。かやうのことにぞ、人のため、おのづから家損なるわざにはべりけれ」
 と聞こゆ。「まことなりけり」と思して、
 「いと多かめる列に、離れたらむ後るる雁を、強ひて尋ねたまふが、ふくつけきぞ。いとともしきに、さやうならむもののくさはひ、見出でまほしけれど、名のりももの憂き際とや思ふらむ、さらにこそ聞こえね。さても、もて離れたることにはあらじ。らうがはしくとかく紛れたまふめりしほどに、底清く澄まぬ水にやどる月は、曇りなきやうのいかでかあらむ」
 と、ほほ笑みてのたまふ。中将の君も、詳しく聞きたまふことなれば、えしもまめだたず。少将と藤侍従とは、いとからしと思ひたり。
 「朝臣や、さやうの落葉をだに拾へ。人悪ろき名の後の世に残らむよりは、同じかざしにて慰めむに、なでふことかあらむ」
 と、弄じたまふやうなり。かやうのことにてぞ、うはべはいとよき御仲の、昔よりさすがに隙ありける。まいて、中将をいたくはしたなめて、わびさせたまふつらさを思しあまりて、「なまねたしとも、漏り聞きたまへかし」と思すなりけり。
 かく聞きたまふにつけても、
 「対の姫君を見せたらむ時、またあなづらはしからぬ方にもてなされなむはや。いとものきらきらしく、かひあるところつきたまへる人にて、善し悪しきけぢめも、けざやかにもてはやし、またもて消ち軽むることも、人に異なる大臣なれば、いかにものしと思ふらむ。おぼえぬさまにて、この君をさし出でたらむに、え軽くは思さじ。いときびしくもてなしてむ」など思す。



 夕つけゆく風、いと涼しくて、帰り憂く若き人びとは思ひたり。
 「心やすくうち休み涼まむや。やうやうかやうの中に、厭はれぬべき齢にもなりにけりや」
 とて、西の対に渡りたまへば、君達、皆御送りに参りたまふ。
 たそかれ時のおぼおぼしきに、同じ直衣どもなれば、何ともわきまへられぬに、大臣、姫君を、
 「すこし外出でたまへ」
 とて、忍びて、
 「少将、侍従など率てまうで来たり。いと翔けり来まほしげに思へるを、中将の、いと実法の人にて率て来ぬ、無心なめりかし。
 この人びとは、皆思ふ心なきならじ。なほなほしき際をだに、窓の内なるほどは、ほどに従ひて、ゆかしく思ふべかめるわざなれば、この家のおぼえ、うちうちのくだくだしきほどよりは、いと世に過ぎて、ことことしくなむ言ひ思ひなすべかめる。かたがたものすめれど、さすがに人の好きごと言ひ寄らむにつきなしかし。
 かくてものしたまふは、いかでさやうならむ人のけしきの、深さ浅さをも見むなど、さうざうしきままに願ひ思ひしを、本意なむ叶ふ心地しける」
 など、ささめきつつ聞こえたまふ。
 御前に、乱れがはしき前栽なども植ゑさせたまはず、撫子の色をととのへたる、唐の、大和の、籬いとなつかしく結ひなして、咲き乱れたる夕ばえ、いみじく見ゆ。皆、立ち寄りて、心のままにも折り取らぬを、飽かず思ひつつやすらふ。
 「有職どもなりな。心もちゐなども、とりどりにつけてこそめやすけれ。右の中将は、ましてすこし静まりて、心恥づかしき気まさりたり。いかにぞや、おとづれ聞こゆや。はしたなくも、なさし放ちたまひそ」
 などのたまふ。
 中将の君は、かくよきなかに、すぐれてをかしげになまめきたまへり。
 「中将を厭ひたまふこそ、大臣は本意なけれ。交じりものなく、きらきらしかめるなかに、大君だつ筋にて、かたくななりとにや」
 とのたまへば、
 「来まさば、といふ人もはべりけるを」
 と聞こえたまふ。
 「いで、その御肴もてはやされむさまは願はしからず。ただ、幼きどちの結びおきけむ心も解けず、年月、隔てたまふ心むけのつらきなり。まだ下臈なり、世の聞き耳軽しと思はれば、知らず顔にて、ここに任せたまへらむに、うしろめたくはありなましや」
 など、うめきたまふ。「さは、かかる御心の隔てある御仲なりけり」と聞きたまふにも、親に知られたてまつらむことのいつとなきは、あはれにいぶせく思す。



 月もなきころなれば、燈籠に御殿油参れり。
 「なほ、気近くて暑かはしや。篝火こそよけれ」
 とて、人召して、
 「篝火の台一つ、こなたに」
 と召す。をかしげなる和琴のある、引き寄せたまひて、掻き鳴らしたまへば、律にいとよく調べられたり。音もいとよく鳴れば、すこし弾きたまひて、
 「かやうのことは御心に入らぬ筋にやと、月ごろ思ひおとしきこえけるかな。秋の夜の月影涼しきほど、いと奥深くはあらで、虫の声に掻き鳴らし合はせたるほど、気近く今めかしきものの音なり。ことことしき調べ、もてなししどけなしや。
 このものよ、さながら多くの遊び物の音、拍子を調へとりたるなむいとかしこき。大和琴とはかなく見せて、際もなくしおきたることなり。広く異国のことを知らぬ女のためとなむおぼゆる。
 同じくは、心とどめて物などに掻き合はせて習ひたまへ。深き心とて、何ばかりもあらずながら、またまことに弾き得ることはかたきにやあらむ、ただ今は、この内大臣になずらふ人なしかし。
 ただはかなき同じ菅掻きの音に、よろづのものの音、籠もり通ひて、いふかたもなくこそ、響きのぼれ」
 と語りたまへば、ほのぼの心得て、いかでと思すことなれば、いとどいぶかしくて、
 「このわたりにて、さりぬべき御遊びの折など、聞きはべりなむや。あやしき山賤などのなかにも、まねぶものあまたはべるなることなれば、おしなべて心やすくやとこそ思ひたまへつれ。さは、すぐれたるは、さまことにやはべらむ」
 と、ゆかしげに、切に心に入れて思ひたまへれば、
 「さかし。あづまとぞ名も立ち下りたるやうなれど、御前の御遊びにも、まづ書司を召すは、人の国は知らず、ここにはこれをものの親としたるにこそあめれ。
 そのなかにも、親としつべき御手より弾き取りたまへらむは、心ことなりなむかし。ここになども、さるべからむ折にはものしたまひなむを、この琴に、手惜しまずなど、あきらかに掻き鳴らしたまはむことやかたからむ。ものの上手は、いづれの道も心やすからずのみぞあめる。
 さりとも、つひには聞きたまひてむかし」
 とて、調べすこし弾きたまふ。ことつひいと二なく、今めかしくをかし。「これにもまされる音や出づらむ」と、親の御ゆかしさたち添ひて、このことにてさへ、「いかならむ世に、さてうちとけ弾きたまはむを聞かむ」など、思ひゐたまへり。
 「貫河の瀬々のやはらた」と、いとなつかしく謡ひたまふ。「親避くるつま」は、すこしうち笑ひつつ、わざともなく掻きなしたまひたる菅掻きのほど、いひ知らずおもしろく聞こゆ。
 「いで、弾きたまへ。才は人になむ恥ぢぬ。「想夫恋」ばかりこそ、心のうちに思ひて、紛らはす人もありけめ、おもなくて、かれこれに合はせつるなむよき」
 と、切に聞こえたまへど、さる田舎の隈にて、ほのかに京人と名のりける、古王君女教へきこえければ、ひがことにもやとつつましくて、手触れたまはず。
 「しばしも弾きたまはなむ。聞き取ることもや」と心もとなきに、この御琴によりぞ、近くゐざり寄りて、
 「いかなる風の吹き添ひて、かくは響きはべるぞとよ」
 とて、うち傾きたまへるさま、火影にいとうつくしげなり。笑ひたまひて、
 「耳固からぬ人のためには、身にしむ風も吹き添ふかし」
 とて、押しやりたまふ。いと心やまし。



 人びと近くさぶらへば、例の戯れごともえ聞こえたまはで、
 「撫子を飽かでも、この人びとの立ち去りぬるかな。いかで、大臣にも、この花園見せたてまつらむ。世もいと常なきをと思ふに、いにしへも、もののついでに語り出でたまへりしも、ただ今のこととぞおぼゆる」
 とて、すこしのたまひ出でたるにも、いとあはれなり。
 「撫子のとこなつかしき色を見ば
  もとの垣根を人や尋ねむ
 このことのわづらはしさにこそ、繭ごもりも心苦しう思ひきこゆれ」
 とのたまふ。君、うち泣きて、
 「山賤の垣ほに生ひし撫子の
  もとの根ざしを誰れか尋ねむ」
 はかなげに聞こえないたまへるさま、げにいとなつかしく若やかなり。
 「来ざらましかば」
 とうち誦じたまひて、いとどしき御心は、苦しきまで、なほえ忍び果つまじく思さる。



 渡りたまふことも、あまりうちしきり、人の見たてまつり咎むべきほどは、心の鬼に思しとどめて、さるべきことをし出でて、御文の通はぬ折なし。ただこの御ことのみ、明け暮れ御心にはかかりたり。
 「なぞ、かくあいなきわざをして、やすからぬもの思ひをすらむ。さ思はじとて、心のままにもあらば、世の人のそしり言はむことの軽々しさ、わがためをばさるものにて、この人の御ためいとほしかるべし。限りなき心ざしといふとも、春の上の御おぼえに並ぶばかりは、わが心ながらえあるまじく」思し知りたり。「さて、その劣りの列にては、何ばかりかはあらむ。わが身ひとつこそ、人よりは異なれ、見む人のあまたが中に、かかづらはむ末にては、何のおぼえかはたけからむ。異なることなき納言の際の、二心なくて思はむには、劣りぬべきことぞ」
 と、みづから思し知るに、いといとほしくて、「宮、大将などにや許してまし。さてもて離れ、いざなひ取りては、思ひも絶えなむや。いひかひなきにて、さもしてむ」と思す折もあり。
 されど、渡りたまひて、御容貌を見たまひ、今は御琴教へたてまつりたまふにさへことづけて、近やかに馴れ寄りたまふ。
 姫君も、初めこそむくつけく、うたてとも思ひたまひしか、「かくても、なだらかに、うしろめたき御心はあらざりけり」と、やうやう目馴れて、いとしも疎みきこえたまはず、さるべき御いらへも、馴れ馴れしからぬほどに聞こえかはしなどして、見るままにいと愛敬づき、薫りまさりたまへれば、なほさてもえ過ぐしやるまじく思し返す。
 「さはまた、さて、ここながらかしづき据ゑて、さるべき折々に、はかなくうち忍び、ものをも聞こえて慰みなむや。かくまだ世馴れぬほどの、わづらはしさにこそ、心苦しくはありけれ、おのづから関守強くとも、ものの心知りそめ、いとほしき思ひなくて、わが心も思ひ入りなば、しげくとも障はらじかし」と思し寄る、いとけしからぬことなりや。
 いよいよ心やすからず、思ひわたらむ苦しからむ。なのめに思ひ過ぐさむことの、とざまかくざまにもかたきぞ、世づかずむつかしき御語らひなりける。



 内の大殿は、この今の御女のことを、「殿の人も許さず、軽み言ひ、世にもほきたることと誹りきこゆ」と、聞きたまふに、少将の、ことのついでに、太政大臣の「さることや」ととぶらひたまひしこと、語りきこゆれば、
 「さかし。そこにこそは、年ごろ、音にも聞こえぬ山賤の子迎へ取りて、ものめかしたつれ。をさをさ人の上もどきたまはぬ大臣の、このわたりのことは、耳とどめてぞおとしめたまふや。これぞ、おぼえある心地しける」
 とのたまふ。少将の、
 「かの西の対に据ゑたまへる人は、いとこともなきけはひ見ゆるわたりになむはべるなる。兵部卿宮など、いたう心とどめてのたまひわづらふとか。おぼろけにはあらじとなむ、人びと推し量りはべめる」
 と申したまへば、
 「いで、それは、かの大臣の御女と思ふばかりのおぼえのいといみじきぞ。人の心、皆さこそある世なめれ。かならずさしもすぐれじ。人びとしきほどならば、年ごろ聞こえなまし。
 あたら、大臣の、塵もつかず、この世には過ぎたまへる御身のおぼえありさまに、おもだたしき腹に、女かしづきて、げに疵なからむと、思ひやりめでたきがものしたまはぬは。
 おほかたの子の少なくて、心もとなきなめりかし。劣り腹なれど、明石の御許の産み出でたるはしも、さる世になき宿世にて、あるやうあらむとおぼゆかし。
 その今姫君は、ようせずは、実の御子にもあらじかし。さすがにいとけしきあるところつきたまへる人にて、もてないたまふならむ」
 と、言ひおとしたまふ。
 「さて、いかが定めらるなる。親王こそまつはし得たまはむ。もとより取り分きて御仲よし、人柄も警策なる御あはひどもならむかし」
 などのたまひては、なほ、姫君の御こと、飽かず口惜し。「かやうに、心にくくもてなして、いかにしなさむなど、やすからずいぶかしがらせましものを」とねたければ、位さばかりと見ざらむ限りは、許しがたく思すなりけり。
 大臣なども、ねむごろに口入れかへさひたまはむにこそは、負くるやうにてもなびかめと思すに、男方は、さらに焦られきこえたまはず、心やましくなむ。



 とかく思しめぐらすままに、ゆくりもなく軽らかにはひ渡りたまへり。少将も御供に参りたまふ。
 姫君は、昼寝したまへるほどなり。羅の単衣を着たまひて臥したまへるさま、暑かはしくは見えず、いとらうたげにささやかなり。透きたまへる肌つきなど、いとうつくしげなる手つきして、扇を持たまへりけるながら、かひなを枕にて、うちやられたる御髪のほど、いと長くこちたくはあらねど、いとをかしき末つきなり。
 人びとものの後に寄り臥しつつうち休みたれば、ふともおどろいたまはず。扇を鳴らしたまへるに、何心もなく見上げたまへるまみ、らうたげにて、つらつき赤めるも、親の御目にはうつくしくのみ見ゆ。
 「うたた寝はいさめきこゆるものを。などか、いとものはかなきさまにては大殿籠もりける。人びとも近くさぶらはで、あやしや。
 女は、身を常に心づかひして守りたらむなむよかるべき。心やすくうち捨てざまにもてなしたる、品なきことなり。
 さりとて、いとさかしく身かためて、不動の陀羅尼誦みて、印つくりてゐたらむも憎し。うつつの人にもあまり気遠く、もの隔てがましきなど、気高きやうとても、人にくく、心うつくしくはあらぬわざなり。
 太政大臣の、后がねの姫君ならはしたまふなる教へは、よろづのことに通はしなだらめて、かどかどしきゆゑもつけじ、たどたどしくおぼめくこともあらじと、ぬるらかにこそ掟てたまふなれ。
 げに、さもあることなれど、人として、心にもするわざにも、立ててなびく方は方とあるものなれば、生ひ出でたまふさまあらむかし。この君の人となり、宮仕へに出だし立てたまはむ世のけしきこそ、いとゆかしけれ」
 などのたまひて、
 「思ふやうに見たてまつらむと思ひし筋は、難うなりにたる御身なれど、いかで人笑はれならずしなしたてまつらむとなむ、人の上のさまざまなるを聞くごとに、思ひ乱れはべる。
 心みごとにねむごろがらむ人のねぎごとに、なしばしなびきたまひそ。思ふさまはべり」
 など、いとらうたしと思ひつつ聞こえたまふ。
 「昔は、何ごとも深くも思ひ知らで、なかなか、さしあたりていとほしかりしことの騒ぎにも、おもなくて見えたてまつりけるよ」と、今ぞ思ひ出づるに、胸ふたがりて、いみじく恥づかしき。
 大宮よりも、常におぼつかなきことを恨みきこえたまへど、かくのたまふるがつつましくて、え渡り見たてまつりたまはず。


 


 大臣、この北の対の今姫君を、
 「いかにせむ。さかしらに迎へ率て来て。人かく誹るとて、返し送らむも、いと軽々しく、もの狂ほしきやうなり。かくて籠めおきたれば、まことにかしづくべき心あるかと、人の言ひなすなるもねたし。女御の御方などに交じらはせて、さるをこのものにしないてむ。人のいとかたはなるものに言ひおとすなる容貌はた、いとさ言ふばかりにやはある」
 など思して、女御の君に、
 「かの人参らせむ。見苦しからむことなどは、老いしらへる女房などして、つつまず言ひ教へさせたまひて御覧ぜよ。若き人びとの言種には、な笑はせさせたまひそ。うたてあはつけきやうなり」
 と、笑ひつつ聞こえたまふ。
 「などか、いとさことのほかにははべらむ。中将などの、いと二なく思ひはべりけむかね言に足らずといふばかりにこそははべらめ。かくのたまひ騒ぐを、はしたなう思はるるにも、かたへはかかやかしきにや」
 と、いと恥づかしげにて聞こえさせたまふ。この御ありさまは、こまかにをかしげさはなくて、いとあてに澄みたるものの、なつかしきさま添ひて、おもしろき梅の花の開けさしたる朝ぼらけおぼえて、残り多かりげにほほ笑みたまへるぞ、人に異なりける、と見たてまつりたまふ。
 「中将の、いとさ言へど、心若きたどり少なさに」
 など申したまふも、いとほしげなる人の御おぼえかな。


 やがて、この御方のたよりに、たたずみおはして、のぞきたまへば、簾高くおし張りて、五節の君とて、されたる若人のあると、双六をぞ打ちたまふ。手をいと切におしもみて、
 「せうさい、せうさい」
 とこふ声ぞ、いと舌疾きや。「あな、うたて」と思して、御供の人の前駆追ふをも、手かき制したまうて、なほ、妻戸の細目なるより、障子の開きあひたるを見入れたまふ。
 この従姉妹も、はた、けしきはやれる、
 「御返しや、御返しや」
 と、筒をひねりて、とみに打ち出でず。中に思ひはありやすらむ、いとあさへたるさまどもしたり。
 容貌はひぢぢかに、愛敬づきたるさまして、髪うるはしく、罪軽げなるを、額のいと近やかなると、声のあはつけさとにそこなはれたるなめり。取りたててよしとはなけれど、異人とあらがふべくもあらず、鏡に思ひあはせられたまふに、いと宿世心づきなし。
 「かくてものしたまふは、つきなくうひうひしくなどやある。ことしげくのみありて、訪らひまうでずや」
 とのたまへば、例の、いと舌疾にて、
 「かくてさぶらふは、何のもの思ひかはべらむ。年ごろ、おぼつかなく、ゆかしく思ひきこえさせし御顔、常にえ見たてまつらぬばかりこそ、手打たぬ心地しはべれ」
 と聞こえたまふ。
 「げに、身に近く使ふ人もをさをさなきに、さやうにても見ならしたてまつらむと、かねては思ひしかど、えさしもあるまじきわざなりけり。なべての仕うまつり人こそ、とあるもかかるも、おのづから立ち交らひて、人の耳をも目をも、かならずしもとどめぬものなれば、心やすかべかめれ。それだに、その人の女、かの人の子と知らるる際になれば、親兄弟の面伏せなる類ひ多かめり。まして」
 とのたまひさしつる、御けしきの恥づかしきも知らず、
 「何か、そは、ことことしく思ひたまひて交らひはべらばこそ、所狭からめ。大御大壷取りにも、仕うまつりなむ」
 と聞こえたまへば、え念じたまはで、うち笑ひたまひて、
 「似つかはしからぬ役ななり。かくたまさかに会へる親の孝せむの心あらば、このもののたまふ声を、すこしのどめて聞かせたまへ。さらば、命も延びなむかし」
 と、をこめいたまへる大臣にて、ほほ笑みてのたまふ。



 「舌の本性にこそははべらめ。幼くはべりし時だに、故母の常に苦しがり教へはべりし。妙法寺の別当大徳の、産屋にはべりける、あえものとなむ嘆きはべりたうびし。いかでこの舌疾さやめはべらむ」
 と思ひ騒ぎたるも、いと孝養の心深く、あはれなりと見たまふ。
 「その、気近く入り立ちたりけむ大徳こそは、あぢきなかりけれ。ただその罪の報いななり。唖、言吃とぞ、大乗誹りたる罪にも、数へたるかし」
 とのたまひて、「子ながら恥づかしくおはする御さまに、見えたてまつらむこそ恥づかしけれ。いかに定めて、かくあやしきけはひも尋ねず迎へ寄せけむ」と思し、「人びともあまた見つぎ、言ひ散らさむこと」と、思ひ返したまふものから、
 「女御里にものしたまふ時々、渡り参りて、人のありさまなども見ならひたまへかし。ことなることなき人も、おのづから人に交じらひ、さる方になれば、さてもありぬかし。さる心して、見えたてまつりたまひなむや」
 とのたまへば、
 「いとうれしきことにこそはべるなれ。ただ、いかでもいかでも、御方々に数まへしろしめされむことをなむ、寝ても覚めても、年ごろ何ごとを思ひたまへつるにもあらず。御許しだにはべらば、水を汲みいただきても、仕うまつりなむ」
 と、いとよげに、今すこしさへづれば、いふかひなしと思して、
 「いとしか、おりたちて薪拾ひたまはずとも、参りたまひなむ。ただかのあえものにしけむ法の師だに遠くは」
 と、をこごとにのたまひなすをも知らず、同じき大臣と聞こゆるなかにも、いときよげにものものしく、はなやかなるさまして、おぼろけの人見えにくき御けしきをも見知らず、
 「さて、いつか女御殿には参りはべらむずる」
 と聞こゆれば、
 「よろしき日などやいふべからむ。よし、ことことしくは何かは。さ思はれば、今日にても」
 とのたまひ捨てて渡りたまひぬ。



 よき四位五位たちの、いつききこえて、うち身じろきたまふにも、いといかめしき御勢ひなるを見送りきこえて、
 「いで、あな、めでたのわが親や。かかりける胤ながら、あやしき小家に生ひ出でけること」
 とのたまふ。五節、
 「あまりことことしく、恥づかしげにぞおはする。よろしき親の、思ひかしづかむにぞ、尋ね出でられたまはまし」
 と言ふも、わりなし。
 「例の、君の、人の言ふこと破りたまひて、めざまし。今は、ひとつ口に言葉な交ぜられそ。あるやうあるべき身にこそあめれ」
 と、腹立ちたまふ顔やう、気近く、愛敬づきて、うちそぼれたるは、さる方にをかしく罪許されたり。
 ただ、いと鄙び、あやしき下人の中に生ひ出でたまへれば、もの言ふさまも知らず。ことなるゆゑなき言葉をも、声のどやかに押ししづめて言ひ出だしたるは、打ち聞き、耳異におぼえ、をかしからぬ歌語りをするも、声づかひつきづきしくて、残り思はせ、本末惜しみたるさまにてうち誦じたるは、深き筋思ひ得ぬほどの打ち聞きには、をかしかなりと、耳もとまるかし。
 いと心深くよしあることを言ひゐたりとも、よろしき心地あらむと聞こゆべくもあらず、あはつけき声ざまにのたまひ出づる言葉こはごはしく、言葉たみて、わがままに誇りならひたる乳母の懐にならひたるさまに、もてなしいとあやしきに、やつるるなりけり。
 いといふかひなくはあらず、三十文字あまり、本末あはぬ歌、口疾くうち続けなどしたまふ。



 「さて、女御殿に参れとのたまひつるを、しぶしぶなるさまならば、ものしくもこそ思せ。夜さりまうでむ。大臣の君、天下に思すとも、この御方々のすげなくしたまはむには、殿のうちには立てりなむはや」
 とのたまふ。御おぼえのほど、いと軽らかなりや。
 まづ御文たてまつりたまふ。
 「葦垣のま近きほどにはさぶらひながら、今まで影踏むばかりのしるしもはべらぬは、勿来の関をや据ゑさせたまへらむとなむ。知らねども、武蔵野といへばかしこけれども。あなかしこや、あなかしこや」
 と、点がちにて、裏には、
 「まことや、暮にも参り来むと思うたまへ立つは、厭ふにはゆるにや。いでや、いでや、あやしきは水無川にを」
 とて、また端に、かくぞ、
 「草若み常陸の浦のいかが崎
  いかであひ見む田子の浦波
 大川水の」
 と、青き色紙一重ねに、いと草がちに、いかれる手の、その筋とも見えず、ただよひたる書きざまも下長に、わりなくゆゑばめり。行のほど、端ざまに筋交ひて、倒れぬべく見ゆるを、うち笑みつつ見て、さすがにいと細く小さく巻き結びて、撫子の花につけたり。



 樋洗童しも、いと馴れてきよげなる、今参りなりけり。女御の御方の台盤所に寄りて、
 「これ、参らせたまへ」
 と言ふ。下仕へ見知りて、
 「北の対にさぶらふ童なりけり」
 とて、御文取り入る。大輔の君といふ、持て参りて、引き解きて御覧ぜさす。
 女御、ほほ笑みてうち置かせたまへるを、中納言の君といふ、近くゐて、そばそば見けり。
 「いと今めかしき御文のけしきにもはべめるかな」
 と、ゆかしげに思ひたれば、
 「草の文字は、え見知らねばにやあらむ、本末なくも見ゆるかな」
 とて、賜へり。
 「返りこと、かくゆゑゆゑしく書かずは、悪ろしとや思ひおとされむ。やがて書きたまへ」
 と、譲りたまふ。もて出でてこそあらね、若き人は、ものをかしくて、皆うち笑ひぬ。御返り乞へば、
 「をかしきことの筋にのみまつはれてはべめれば、聞こえさせにくくこそ。宣旨書きめきては、いとほしからむ」
 とて、ただ、御文めきて書く。
 「近きしるしなき、おぼつかなさは、恨めしく、
  常陸なる駿河の海の須磨の浦に
  波立ち出でよ筥崎の松」
 と書きて、読みきこゆれば、
 「あな、うたて。まことにみづからのにもこそ言ひなせ」
 と、かたはらいたげに思したれど、
 「それは聞かむ人わきまへはべりなむ」
 とて、おし包みて出だしつ。
 御方見て、
 「をかしの御口つきや。待つとのたまへるを」
 とて、いとあまえたる薫物の香を、返す返す薫きしめゐたまへり。紅といふもの、いと赤らかにかいつけて、髪けづりつくろひたまへる、さる方ににぎははしく、愛敬づきたり。御対面のほど、さし過ぐしたることもあらむかし。


 

   

            現代語訳 補足 英訳 目次

      二十七、 篝 火 
 


   
 



 このごろ、世の人の言種に、「内の大殿の今姫君」と、ことに触れつつ言ひ散らすを、源氏の大臣聞こしめして、
 「ともあれ、かくもあれ、人見るまじくて籠もりゐたらむ女子を、なほざりのかことにても、さばかりにものめかし出でて、かく、人に見せ、言ひ伝へらるるこそ、心得ぬことなれ。いと際々しうものしたまふあまりに、深き心をも尋ねずもて出でて、心にもかなはねば、かくはしたなきなるべし。よろづのこと、もてなしからにこそ、なだらかなるものなめれ」
 と、いとほしがりたまふ。
 かかるにつけても、「げによくこそと、親と聞こえながらも、年ごろの御心を知りきこえず、馴れたてまつらましに、恥ぢがましきことやあらまし」と、対の姫君思し知るを、右近もいとよく聞こえ知らせけり。
 憎き御心こそ添ひたれど、さりとて、御心のままに押したちてなどもてなしたまはず、いとど深き御心のみまさりたまへば、やうやうなつかしううちとけきこえたまふ。


 秋になりぬ。初風涼しく吹き出でて、背子が衣もうらさびしき心地したまふに、忍びかねつつ、いとしばしば渡りたまひて、おはしまし暮らし、御琴なども習はしきこえたまふ。
 五、六日の夕月夜は疾く入りて、すこし雲隠るるけしき、荻の音もやうやうあはれなるほどになりにけり。御琴を枕にて、もろともに添ひ臥したまへり。かかる類ひあらむやと、うち嘆きがちにて夜更かしたまふも、人の咎めたてまつらむことを思せば、渡りたまひなむとて、御前の篝火のすこし消えがたなるを、御供なる右近の大夫を召して、灯しつけさせたまふ。
 いと涼しげなる遣水のほとりに、けしきことに広ごり臥したる檀の木の下に、打松おどろおどろしからぬほどに置きて、さし退きて灯したれば、御前の方は、いと涼しくをかしきほどなる光に、女の御さま見るにかひあり。御髪の手あたりなど、いと冷やかにあてはかなる心地して、うちとけぬさまにものをつつましと思したるけしき、いとらうたげなり。帰り憂く思しやすらふ。
 「絶えず人さぶらひて、灯しつけよ。夏の月なきほどは、庭の光なき、いとものむつかしく、おぼつかなしや」
 とのたまふ。
 「篝火にたちそふ恋の煙こそ
  世には絶えせぬ炎なりけれ
 いつまでとかや。ふすぶるならでも、苦しき下燃えなりけり」
 と聞こえたまふ。女君、「あやしのありさまや」と思すに、
 「行方なき空に消ちてよ篝火の
  たよりにたぐふ煙とならば
 人のあやしと思ひはべらむこと」
 とわびたまへば、「くはや」とて、出でたまふに、東の対の方に、おもしろき笛の音、箏に吹きあはせたり。
 「中将の、例のあたり離れぬどち遊ぶにぞありける。頭中将にこそあなれ。いとわざとも吹きなる音かな」
 とて、立ちとまりたまふ。



 御消息、「こなたになむ、いと影涼しき篝火に、とどめられてものする」
 とのたまへれば、うち連れて三人参りたまへり。
 「風の音秋になりけりと、聞こえつる笛の音に、忍ばれでなむ」
 とて、御琴ひき出でて、なつかしきほどに弾きたまふ。源中将は、「盤渉調」にいとおもしろく吹きたり。頭中将、心づかひして出だし立てがたうす。「遅し」とあれば、弁少将、拍子打ち出でて、忍びやかに歌ふ声、鈴虫にまがひたり。二返りばかり歌はせたまひて、御琴は中将に譲らせたまひつ。げに、かの父大臣の御爪音に、をさをさ劣らず、はなやかにおもしろし。
 「御簾のうちに、物の音聞き分く人ものしたまふらむかし。今宵は、盃など心してを。盛り過ぎたる人は、酔ひ泣きのついでに、忍ばぬこともこそ」
 とのたまへば、姫君もげにあはれと聞きたまふ。
 絶えせぬ仲の御契り、おろかなるまじきものなればにや、この君たちを人知れず目にも耳にもとどめたまへど、かけてさだに思ひ寄らず、この中将は、心の限り尽くして、思ふ筋にぞ、かかるついでにも、え忍び果つまじき心地すれど、さまよくもてなして、をさをさ心とけても掻きわたさず。


 

   

            現代語訳 補足 英訳 目次

      二十八、 野 分  
 


   
 



 中宮の御前に、秋の花を植ゑさせたまへること、常の年よりも見所多く、色種を尽くして、よしある黒木赤木の籬を結ひまぜつつ、同じき花の枝ざし、姿、朝夕露の光も世の常ならず、玉かとかかやきて作りわたせる野辺の色を見るに、はた、春の山も忘られて、涼しうおもしろく、心もあくがるるやうなり。
 春秋の争ひに、昔より秋に心寄する人は数まさりけるを、名立たる春の御前の花園に心寄せし人びと、また引きかへし移ろふけしき、世のありさまに似たり。
 これを御覧じつきて、里居したまふほど、御遊びなどもあらまほしけれど、八月は故前坊の御忌月なれば、心もとなく思しつつ明け暮るるに、この花の色まさるけしきどもを御覧ずるに、野分、例の年よりもおどろおどろしく、空の色変りて吹き出づ。
 花どものしをるるを、いとさしも思ひしまぬ人だに、あなわりなと思ひ騒がるるを、まして、草むらの露の玉の緒乱るるままに、御心惑ひもしぬべく思したり。おほふばかりの袖は、秋の空にしもこそ欲しげなりけれ。暮れゆくままに、ものも見えず吹きまよはして、いとむくつけければ、御格子など参りぬるに、うしろめたくいみじと、花の上を思し嘆く。


 南の御殿にも、前栽つくろはせたまひける折にしも、かく吹き出でて、もとあらの小萩、はしたなく待ちえたる風のけしきなり。折れ返り、露もとまるまじく吹き散らすを、すこし端近くて見たまふ。
 大臣は、姫君の御方におはしますほどに、中将の君参りたまひて、東の渡殿の小障子の上より、妻戸の開きたる隙を、何心もなく見入れたまへるに、女房のあまた見ゆれば、立ちとまりて、音もせで見る。
 御屏風も、風のいたく吹きければ、押し畳み寄せたるに、見通しあらはなる廂の御座にゐたまへる人、ものに紛るべくもあらず、気高くきよらに、さとにほふ心地して、春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す。あぢきなく、見たてまつるわが顔にも移り来るやうに、愛敬はにほひ散りて、またなくめづらしき人の御さまなり。
 御簾の吹き上げらるるを、人びと押へて、いかにしたるにかあらむ、うち笑ひたまへる、いといみじく見ゆ。花どもを心苦しがりて、え見捨てて入りたまはず。御前なる人びとも、さまざまにものきよげなる姿どもは見わたさるれど、目移るべくもあらず。
 「大臣のいと気遠くはるかにもてなしたまへるは、かく見る人ただにはえ思ふまじき御ありさまを、いたり深き御心にて、もし、かかることもやと思すなりけり」
 と思ふに、けはひ恐ろしうて、立ち去るにぞ、西の御方より、内の御障子引き開けて渡りたまふ。
 「いとうたて、あわたたしき風なめり。御格子下ろしてよ。男どもあるらむを、あらはにもこそあれ」
 と聞こえたまふを、また寄りて見れば、もの聞こえて、大臣もほほ笑みて見たてまつりたまふ。親ともおぼえず、若くきよげになまめきて、いみじき御容貌の盛りなり。
 女もねびととのひ、飽かぬことなき御さまどもなるを、身にしむばかりおぼゆれど、この渡殿の格子も吹き放ちて、立てる所のあらはになれば、恐ろしうて立ち退きぬ。今参れるやうにうち声づくりて、簀子の方に歩み出でたまへれば、
 「さればよ。あらはなりつらむ」
 とて、「かの妻戸の開きたりけるよ」と、今ぞ見咎めたまふ。
 「年ごろかかることのつゆなかりつるを。風こそ、げに巌も吹き上げつべきものなりけれ。さばかりの御心どもを騒がして。めづらしくうれしき目を見つるかな」とおぼゆ。



 人びと参りて、
 「いといかめしう吹きぬべき風にはべり。艮の方より吹きはべれば、この御前はのどけきなり。馬場の御殿、南の釣殿などは、危ふげになむ」
 とて、とかくこと行なひののしる。
 「中将は、いづこよりものしつるぞ」
 「三条の宮にはべりつるを、『風いたく吹きぬべし』と、人びとの申しつれば、おぼつかなさに参りはべりつる。かしこには、まして心細く、風の音をも、今はかへりて、若き子のやうに懼ぢたまふめれば。心苦しさに、まかではべりなむ」
 と申したまへば、
 「げに、はや、まうでたまひね。老いもていきて、また若うなること、世にあるまじきことなれど、げに、さのみこそあれ」
 など、あはれがりきこえたまひて、
 「かく騒がしげにはべめるを、この朝臣さぶらへばと、思ひたまへ譲りてなむ」
 と、御消息聞こえたまふ。
 道すがらいりもみする風なれど、うるはしくものしたまふ君にて、三条宮と六条院とに参りて、御覧ぜられたまはぬ日なし。内裏の御物忌などに、えさらず籠もりたまふべき日より外は、いそがしき公事、節会などの、暇いるべく、ことしげきにあはせても、まづこの院に参り、宮よりぞ出でたまひければ、まして今日、かかる空のけしきにより、風のさきにあくがれありきたまふもあはれに見ゆ。
 宮、いとうれしう、頼もしと待ち受けたまひて、
 「ここらの齢に、まだかく騒がしき野分にこそあはざりつれ」
 と、ただわななきにわななきたまふ。
 大きなる木の枝などの折るる音も、いとうたてあり。御殿の瓦さへ残るまじく吹き散らすに、
 「かくてものしたまへること」
 と、かつはのたまふ。そこら所狭かりし御勢ひのしづまりて、この君を頼もし人に思したる、常なき世なり。今もおほかたのおぼえの薄らぎたまふことはなけれど、内の大殿の御けはひは、なかなかすこし疎くぞありける。
 中将、夜もすがら荒き風の音にも、すずろにものあはれなり。心にかけて恋しと思ふ人の御ことは、さしおかれて、ありつる御面影の忘られぬを、
 「こは、いかにおぼゆる心ぞ。あるまじき思ひもこそ添へ。いと恐ろしきこと」
 と、みづから思ひ紛らはし、異事に思ひ移れど、なほ、ふとおぼえつつ、
 「来し方行く末、ありがたくもものしたまひけるかな。かかる御仲らひに、いかで東の御方、さるものの数にて立ち並びたまひつらむ。たとしへなかりけりや。あな、いとほし」
 とおぼゆ。大臣の御心ばへを、ありがたしと思ひ知りたまふ。
 人柄のいとまめやかなれば、似げなさを思ひ寄らねど、「さやうならむ人をこそ、同じくは、見て明かし暮らさめ。限りあらむ命のほども、今すこしはかならず延びなむかし」と思ひ続けらる。



 暁方に風すこししめりて、村雨のやうに降り出づ。
 「六条院には、離れたる屋ども倒れたり」
 など人びと申す。
 「風の吹きまふほど、広くそこら高き心地する院に、人びと、おはします御殿のあたりにこそしげけれ、東の町などは、人少なに思されつらむ」
 とおどろきたまひて、まだほのぼのとするに参りたまふ。
 道のほど、横さま雨いと冷やかに吹き入る。空のけしきもすごきに、あやしくあくがれたる心地して、
 「何ごとぞや。またわが心に思ひ加はれるよ」と思ひ出づれば、「いと似げなきことなりけり。あな、もの狂ほし」
 と、とざまかうざまに思ひつつ、東の御方に、まづ参うでたまへれば、懼ぢ極じておはしけるに、とかく聞こえ慰めて、人召して、所々つくろはすべきよしなど言ひおきて、南の御殿に参りたまへれば、まだ御格子も参らず。
 おはしますに当れる高欄に押しかかりて、見わたせば、山の木どもも吹きなびかして、枝ども多く折れ伏したり。草むらはさらにもいはず、桧皮、瓦、所々の立蔀、透垣などやうのもの乱りがはし。
 日のわづかにさし出でたるに、憂へ顔なる庭の露きらきらとして、空はいとすごく霧りわたれるに、そこはかとなく涙の落つるを、おし拭ひ隠して、うちしはぶきたまへれば、
 「中将の声づくるにぞあなる。夜はまだ深からむは」
 とて、起きたまふなり。何ごとにかあらむ、聞こえたまふ声はせで、大臣うち笑ひたまひて、
 「いにしへだに知らせたてまつらずなりにし、暁の別れよ。今ならひたまはむに、心苦しからむ」
 とて、とばかり語らひきこえたまふけはひども、いとをかし。女の御いらへは聞こえねど、ほのぼの、かやうに聞こえ戯れたまふ言の葉の趣きに、「ゆるびなき御仲らひかな」と、聞きゐたまへり。



 御格子を御手づから引き上げたまへば、気近きかたはらいたさに、立ち退きてさぶらひたまふ。
 「いかにぞ。昨夜、宮は待ちよろこびたまひきや」
 「しか。はかなきことにつけても、涙もろにものしたまへば、いと不便にこそはべれ」
 と申したまへば、笑ひたまひて、
 「今いくばくもおはせじ。まめやかに仕うまつり見えたてまつれ。内大臣は、こまかにしもあるまじうこそ、愁へたまひしか。人柄あやしうはなやかに、男々しき方によりて、親などの御孝をも、いかめしきさまをば立てて、人にも見おどろかさむの心あり、まことにしみて深きところはなき人になむ、ものせられける。さるは、心の隈多く、いとかしこき人の、末の世にあまるまで、才類ひなく、うるさながら。人として、かく難なきことはかたかりける」
 などのたまふ。
 「いとおどろおどろしかりつる風に、中宮に、はかばかしき宮司などさぶらひつらむや」
 とて、この君して、御消息聞こえたまふ。
 「夜の風の音は、いかが聞こし召しつらむ。吹き乱りはべりしに、おこりあひはべりて、いと堪へがたき、ためらひはべるほどになむ」
 と聞こえたまふ。



 中将下りて、中の廊の戸より通りて、参りたまふ。朝ぼらけの容貌、いとめでたくをかしげなり。東の対の南の側に立ちて、御前の方を見やりたまへば、御格子、まだ二間ばかり上げて、ほのかなる朝ぼらけのほどに、御簾巻き上げて人びとゐたり。
 高欄に押しかかりつつ、若やかなる限りあまた見ゆ。うちとけたるはいかがあらむ、さやかならぬ明けぼののほど、色々なる姿は、いづれともなくをかし。
 童女下ろさせたまひて、虫の籠どもに露飼はせたまふなりけり。紫苑、撫子、濃き薄き衵どもに、女郎花の汗衫などやうの、時にあひたるさまにて、四、五人連れて、ここかしこの草むらに寄りて、色々の籠どもを持てさまよひ、撫子などの、いとあはれげなる枝ども取り持て参る、霧のまよひは、いと艶にぞ見えける。
 吹き来る追風は、紫苑ことごとに匂ふ空も、香のかをりも、触ればひたまへる御けはひにやと、いと思ひやりめでたく、心懸想せられて、立ち出でにくけれど、忍びやかにうちおとなひて、歩み出でたまへるに、人びと、けざやかにおどろき顔にはあらねど、皆すべり入りぬ。
 御参りのほどなど、童なりしに、入り立ち馴れたまへる、女房なども、いとけうとくはあらず。御消息啓せさせたまひて、宰相の君、内侍など、けはひすれば、私事も忍びやかに語らひたまふ。これはた、さいへど、気高く住みたるけはひありさまを見るにも、さまざまにもの思ひ出でらる。


 


 南の御殿には、御格子参りわたして、昨夜、見捨てがたかりし花どもの、行方も知らぬやうにてしをれ伏したるを見たまひけり。中将、御階にゐたまひて、御返り聞こえたまふ。
 「荒き風をも防がせたまふべくやと、若々しく心細くおぼえはべるを、今なむ慰みはべりぬる」
 と聞こえたまへれば、
 「あやしくあえかにおはする宮なり。女どちは、もの恐ろしく思しぬべかりつる夜のさまなれば、げに、おろかなりとも思いつらむ」
 とて、やがて参りたまふ。御直衣などたてまつるとて、御簾引き上げて入りたまふに、「短き御几帳引き寄せて、はつかに見ゆる御袖口は、さにこそはあらめ」と思ふに、胸つぶつぶと鳴る心地するも、うたてあれば、他ざまに見やりつ。
 殿、御鏡など見たまひて、忍びて、
 「中将の朝けの姿は、きよげなりな。ただ今は、きびはなるべきほどを、かたくなしからず見ゆるも、心の闇にや」
 とて、わが御顔は、古りがたくよしと見たまふべかめり。いといたう心懸想したまひて、
 「宮に見えたてまつるは、恥づかしうこそあれ。何ばかりあらはなるゆゑゆゑしさも、見えたまはぬ人の、奥ゆかしく心づかひせられたまふぞかし。いとおほどかに女しきものから、けしきづきてぞおはするや」
 とて、出でたまふに、中将ながめ入りて、とみにもおどろくまじきけしきにてゐたまへるを、心疾き人の御目にはいかが見たまひけむ、立ちかへり、女君に、
 「昨日、風の紛れに、中将は見たてまつりやしてけむ。かの戸の開きたりしによ」
 とのたまへば、面うち赤みて、
 「いかでか、さはあらむ。渡殿の方には、人の音もせざりしものを」
 と聞こえたまふ。
 「なほ、あやし」とひとりごちて、渡りたまひぬ。
 御簾の内に入りたまひぬれば、中将、渡殿の戸口に人びとのけはひするに寄りて、ものなど言ひ戯るれど、思ふことの筋々嘆かしくて、例よりもしめりてゐたまへり。


 こなたより、やがて北に通りて、明石の御方を見やりたまへば、はかばかしき家司だつ人なども見えず、馴れたる下仕ひどもぞ、草の中にまじりて歩く。童女など、をかしき衵姿うちとけて、心とどめ取り分き植ゑたまふ龍胆、朝顔のはひまじれる籬も、みな散り乱れたるを、とかく引き出で尋ぬるなるべし。
 もののあはれにおぼえけるままに、箏の琴を掻きまさぐりつつ、端近うゐたまへるに、御前駆追ふ声のしければ、うちとけ萎えばめる姿に、小袿ひき落として、けぢめ見せたる、いといたし。端の方についゐたまひて、風の騷ぎばかりをとぶらひたまひて、つれなく立ち帰りたまふ、心やましげなり。
 「おほかたに荻の葉過ぐる風の音も
  憂き身ひとつにしむ心地して」
 とひとりごちけり。



 西の対には、恐ろしと思ひ明かしたまひける、名残に、寝過ぐして、今ぞ鏡なども見たまひける。
 「ことことしく前駆、な追ひそ」
 とのたまへば、ことに音せで入りたまふ。屏風なども皆畳み寄せ、ものしどけなくしなしたるに、日のはなやかにさし出でたるほど、けざけざと、ものきよげなるさましてゐたまへり。近くゐたまひて、例の、風につけても同じ筋に、むつかしう聞こえ戯れたまへば、堪へずうたてと思ひて、
 「かう心憂ければこそ、今宵の風にもあくがれなまほしくはべりつれ」
 と、むつかりたまへば、いとよくうち笑ひたまひて、
 「風につきてあくがれたまはむや、軽々しからむ。さりとも、止まる方ありなむかし。やうやうかかる御心むけこそ添ひにけれ。ことわりや」
 とのたまへば、
 「げに、うち思ひのままに聞こえてけるかな」
 と思して、みづからもうち笑みたまへる、いとをかしき色あひ、つらつきなり。酸漿などいふめるやうにふくらかにて、髪のかかれる隙々うつくしうおぼゆ。まみのあまりわららかなるぞ、いとしも品高く見えざりける。その他は、つゆ難つくべうもあらず。



 中将、いとこまやかに聞こえたまふを、「いかでこの御容貌見てしがな」と思ひわたる心にて、隅の間の御簾の、几帳は添ひながらしどけなきを、やをら引き上げて見るに、紛るるものどもも取りやりたれば、いとよく見ゆ。かく戯れたまふけしきのしるきを、
 「あやしのわざや。親子と聞こえながら、かく懐離れず、もの近かべきほどかは」
 と目とまりぬ。「見やつけたまはむ」と恐ろしけれど、あやしきに、心もおどろきて、なほ見れば、柱隠れにすこしそばみたまへりつるを、引き寄せたまへるに、御髪の並み寄りて、はらはらとこぼれかかりたるほど、女も、いとむつかしく苦しと思うたまへるけしきながら、さすがにいとなごやかなるさまして、寄りかかりたまへるは、
 「ことと馴れ馴れしきにこそあめれ。いで、あなうたて。いかなることにかあらむ。思ひ寄らぬ隈なくおはしける御心にて、もとより見馴れ生ほしたてたまはぬは、かかる御思ひ添ひたまへるなめり。むべなりけりや。あな、疎まし」
 と思ふ心も恥づかし。「女の御さま、げに、はらからといふとも、すこし立ち退きて、異腹ぞかし」など思はむは、「などか、心あやまりもせざらむ」とおぼゆ。
 昨日見し御けはひには、け劣りたれど、見るに笑まるるさまは、立ちも並びぬべく見ゆる。八重山吹の咲き乱れたる盛りに、露のかかれる夕映えぞ、ふと思ひ出でらるる。折にあはぬよそへどもなれど、なほ、うちおぼゆるやうよ。花は限りこそあれ、そそけたるしべなどもまじるかし、人の御容貌のよきは、たとへむ方なきものなりけり。
 御前に人も出で来ず、いとこまやかにうちささめき語らひ聞こえたまふに、いかがあらむ、まめだちてぞ立ちたまふ。女君、
 「吹き乱る風のけしきに女郎花
  しをれしぬべき心地こそすれ」
 詳しくも聞こえぬに、うち誦じたまふをほの聞くに、憎きもののをかしければ、なほ見果てまほしけれど、「近かりけりと見えたてまつらじ」と思ひて、立ち去りぬ。
 御返り、
 「下露になびかましかば女郎花
  荒き風にはしをれざらまし
 なよ竹を見たまへかし」
 など、ひが耳にやありけむ、聞きよくもあらずぞ。



 東の御方へ、これよりぞ渡りたまふ。今朝の朝寒なるうちとけわざにや、もの裁ちなどするねび御達、御前にあまたして、細櫃めくものに、綿引きかけてまさぐる若人どもあり。いときよらなる朽葉の羅、今様色の二なく擣ちたるなど、引き散らしたまへり。
 「中将の下襲か。御前の壷前栽の宴も止まりぬらむかし。かく吹き散らしてむには、何事かせられむ。すさまじかるべき秋なめり」
 などのたまひて、何にかあらむ、さまざまなるものの色どもの、いときよらなれば、「かやうなる方は、南の上にも劣らずかし」と思す。御直衣、花文綾を、このころ摘み出だしたる花して、はかなく染め出でたまへる、いとあらまほしき色したり。
 「中将にこそ、かやうにては着せたまはめ。若き人のにてめやすかめり」
 などやうのことを聞こえたまひて、渡りたまひぬ。


 


 むつかしき方々めぐりたまふ御供に歩きて、中将は、なま心やましう、書かまほしき文など、日たけぬるを思ひつつ、姫君の御方に参りたまへり。
 「まだあなたになむおはします。風に懼ぢさせたまひて、今朝はえ起き上がりたまはざりつる」
 と、御乳母ぞ聞こゆる。
 「もの騒がしげなりしかば、宿直も仕うまつらむと思ひたまへしを、宮の、いとも心苦しう思いたりしかばなむ。雛の殿は、いかがおはすらむ」
 と問ひたまへば、人びと笑ひて、
 「扇の風だに参れば、いみじきことに思いたるを、ほとほとしくこそ吹き乱りはべりしか。この御殿あつかひに、わびにてはべり」など語る。
 「ことことしからぬ紙やはべる。御局の硯」
 と乞ひたまへば、御厨子に寄りて、紙一巻、御硯の蓋に取りおろしてたてまつれば、
 「いな、これはかたはらいたし」
 とのたまへど、北の御殿のおぼえを思ふに、すこしなのめなる心地して、文書きたまふ。
 紫の薄様なりけり。墨、心とめておしすり、筆の先うち見つつ、こまやかに書きやすらひたまへる、いとよし。されど、あやしく定まりて、憎き口つきこそものしたまへ。
 「風騒ぎむら雲まがふ夕べにも
  忘るる間なく忘られぬ君」
 吹き乱れたる苅萱につけたまへれば、人びと、
 「交野の少将は、紙の色にこそととのへはべりけれ」と聞こゆ。
 「さばかりの色も思ひ分かざりけりや。いづこの野辺のほとりの花」
 など、かやうの人びとにも、言少なに見えて、心解くべくももてなさず、いとすくすくしう気高し。
 またも書いたまうて、馬の助に賜へれば、をかしき童、またいと馴れたる御随身などに、うちささめきて取らするを、若き人びと、ただならずゆかしがる。

 [第二段 夕霧、明石姫君を垣間見る]
 渡らせたまふとて、人びとうちそよめき、几帳引き直しなどす。見つる花の顔どもも、思ひ比べまほしうて、例はものゆかしからぬ心地に、あながちに、妻戸の御簾を引き着て、几帳のほころびより見れば、もののそばより、ただはひ渡りたまふほどぞ、ふとうち見えたる。
 人のしげくまがへば、何のあやめも見えぬほどに、いと心もとなし。薄色の御衣に、髪のまだ丈にははづれたる末の、引き広げたるやうにて、いと細く小さき様体、らうたげに心苦し。
 「一昨年ばかりは、たまさかにもほの見たてまつりしに、またこよなく生ひまさりたまふなめりかし。まして盛りいかならむ」と思ふ。「かの見つる先々の、桜、山吹といはば、これは藤の花とやいふべからむ。木高き木より咲きかかりて、風になびきたるにほひは、かくぞあるかし」と思ひよそへらる。「かかる人びとを、心にまかせて明け暮れ見たてまつらばや。さもありぬべきほどながら、隔て隔てのけざやかなるこそつらけれ」など思ふに、まめ心も、なまあくがるる心地す。


 祖母宮の御もとにも参りたまへれば、のどやかにて御行なひしたまふ。よろしき若人など、ここにもさぶらへど、もてなしけはひ、装束どもも、盛りなるあたりには似るべくもあらず。容貌よき尼君たちの、墨染にやつれたるぞ、なかなかかかる所につけては、さるかたにてあはれなりける。
 内の大臣も参りたまへるに、御殿油など参りて、のどやかに御物語など聞こえたまふ。
 「姫君を久しく見たてまつらぬがあさましきこと」
 とて、ただ泣きに泣きにたまふ。
 「今このころのほどに参らせむ。心づからもの思はしげにて、口惜しう衰へにてなむはべめる。女こそ、よく言はば、持ちはべるまじきものなりけれ。とあるにつけても、心のみなむ尽くされはべりける」
 など、なほ心解けず思ひおきたるけしきしてのたまへば、心憂くて、切にも聞こえたまはず。そのついでにも、
 「いと不調なる娘まうけはべりて、もてわづらひはべりぬ」
 と、愁へきこえたまひて、笑ひたまふ。宮、
 「いで、あやし。女といふ名はして、さがなかるやうやある」
 とのたまへば、
 「それなむ見苦しきことになむはべる。いかで、御覧ぜさせむ」
 と、聞こえたまふとや。


 

   

            現代語訳 補足 目次

      二十九、 行 幸   
 


   
 



 かく思しいたらぬことなく、いかでよからむことはと、思し扱ひたまへど、この音無の滝こそ、うたていとほしく、南の上の御推し量りごとにかなひて、軽々しかるべき御名なれ。かの大臣、何ごとにつけても、きはぎはしう、すこしもかたはなるさまのことを、思し忍ばずなどものしたまふ御心ざまを、「さて思ひ隈なく、けざやかなる御もてなしなどのあらむにつけては、をこがましうもや」など、思し返さふ。
 その師走に、大原野の行幸とて、世に残る人なく見騒ぐを、六条院よりも、御方々引き出でつつ見たまふ。卯の時に出でたまうて、朱雀より五条の大路を、西ざまに折れたまふ。桂川のもとまで、物見車隙なし。
 行幸といへど、かならずかうしもあらぬを、今日は親王たち、上達部も、皆心ことに、御馬鞍をととのへ、随身、馬副の容貌丈だち、装束を飾りたまうつつ、めづらかにをかし。左右大臣、内大臣、納言より下はた、まして残らず仕うまつりたまへり。青色の袍、葡萄染の下襲を、殿上人、五位六位まで着たり。
 雪ただいささかづつうち散りて、道の空さへ艶なり。親王たち、上達部なども、鷹にかかづらひたまへるは、めづらしき狩の御よそひどもをまうけたまふ。近衛の鷹飼どもは、まして世に目馴れぬ摺衣を乱れ着つつ、けしきことなり。めづらしうをかしきことに競ひ出でつつ、その人ともなく、かすかなる足弱き車など、輪を押しひしがれ、あはれげなるもあり。浮橋のもとなどにも、好ましう立ちさまよふよき車多かり。


 西の対の姫君も立ち出でたまへり。そこばく挑み尽くしたまへる人の御容貌ありさまを見たまふに、帝の、赤色の御衣たてまつりて、うるはしう動きなき御かたはらめに、なずらひきこゆべき人なし。
 わが父大臣を、人知れず目をつけたてまつりたまへど、きらきらしうものきよげに、盛りにはものしたまへど、限りありかし。いと人にすぐれたるただ人と見えて、御輿のうちよりほかに、目移るべくもあらず。
 まして、容貌ありや、をかしやなど、若き御達の消えかへり心うつす中少将、何くれの殿上人やうの人は、何にもあらず消えわたれるは、さらに類ひなうおはしますなりけり。源氏の大臣の御顔ざまは、異ものとも見えたまはぬを、思ひなしの今すこしいつかしう、かたじけなくめでたきなり。
 さは、かかる類ひはおはしがたかりけり。あてなる人は、皆ものきよげにけはひ異なべいものとのみ、大臣、中将などの御にほひに目馴れたまへるを、出で消えどものかたはなるにやあらむ、同じ目鼻とも見えず、口惜しうぞ圧されたるや。
 兵部卿宮もおはす。右大将の、さばかり重りかによしめくも、今日のよそひいとなまめきて、やなぐひなど負ひて、仕うまつりたまへり。色黒く鬚がちに見えて、いと心づきなし。いかでかは、女のつくろひたてたる顔の色あひには似たらむ。いとわりなきことを、若き御心地には、見おとしたまうてけり。
 大臣の君の思し寄りてのたまふことを、「いかがはあらむ、宮仕へは、心にもあらで、見苦しきありさまにや」と思ひつつみたまふを、「馴れ馴れしき筋などをばもて離れて、おほかたに仕うまつり御覧ぜられむは、をかしうもありなむかし」とぞ、思ひ寄りたまうける。


 
 かうて、野におはしまし着きて、御輿とどめ、上達部の平張にもの参り、御装束ども、直衣、狩のよそひなどに改めたまふほどに、六条院より、御酒、御くだものなどたてまつらせたまへり。今日仕うまつりたまふべく、かねて御けしきありけれど、御物忌のよしを奏せさせたまへりけるなりけり。
 蔵人の左衛門尉を御使にて、雉一枝たてまつらせたまふ。仰せ言には何とかや、さやうの折のことまねぶに、わづらはしくなむ。
 「雪深き小塩山にたつ雉の
  古き跡をも今日は尋ねよ」
 太政大臣の、かかる野の行幸に仕うまつりたまへる例などやありけむ。大臣、御使をかしこまりもてなさせたまふ。
 「小塩山深雪積もれる松原に
  今日ばかりなる跡やなからむ」
 と、そのころほひ聞きしことの、そばそば思ひ出でらるるは、ひがことにやあらむ。



 またの日、大臣、西の対に、
 「昨日、主上は見たてまつりたまひきや。かのことは、思しなびきぬらむや」
 と聞こえたまへり。白き色紙に、いとうちとけたる文、こまかにけしきばみてもあらぬが、をかしきを見たまうて、
 「あいなのことや」
 と笑ひたまふものから、「よくも推し量らせたまふものかな」と思す。御返りに、
 「昨日は、
  うちきらし朝ぐもりせし行幸には
 さやかに空の光やは見し
 おぼつかなき御ことどもになむ」
 とあるを、上も見たまふ。
 「ささのことをそそのかししかど、中宮かくておはす、ここながらのおぼえには、便なかるべし。かの大臣に知られても、女御かくてまたさぶらひたまへばなど、思ひ乱るめりし筋なり。若人の、さも馴れ仕うまつらむに、憚る思ひなからむは、主上をほの見たてまつりて、えかけ離れて思ふはあらじ」
 とのたまへば、
 「あな、うたて。めでたしと見たてまつるとも、心もて宮仕ひ思ひ立たむこそ、いとさし過ぎたる心ならめ」
 とて、笑ひたまふ。
 「いで、そこにしもぞ、めできこえたまはむ」
 などのたまうて、また御返り、
 「あかねさす光は空に曇らぬを
  などて行幸に目をきらしけむ
 なほ、思し立て」
 など、絶えず勧めたまふ。



 「とてもかうても、まづ御裳着のことをこそは」と思して、その御まうけの御調度の、こまかなるきよらども加へさせたまひ、何くれの儀式を、御心にはいとも思ほさぬことをだに、おのづからよだけくいかめしくなるを、まして、「内の大臣にも、やがてこのついでにや知らせたてまつりてまし」と思し寄れば、いとめでたくなむ。「年返りて、二月に」と思す。
 「女は、聞こえ高く、名隠したまふべきほどならぬも、人の御女とて、籠もりおはするほどは、かならずしも、氏神の御つとめなど、あらはならぬほどなればこそ、年月はまぎれ過ぐしたまへ、この、もし思し寄ることもあらむには、春日の神の御心違ひぬべきも、つひには隠れてやむまじきものから、あぢきなく、わざとがましき後の名まで、うたたあるべし。なほなほしき人の際こそ、今様とては、氏改むることのたはやすきもあれ」など思しめぐらすに、「親子の御契り、絶ゆべきやうなし。同じくは、わが心許してを、知らせたてまつらむ」
 など思し定めて、この御腰結には、かの大臣をなむ、御消息聞こえたまうければ、大宮、去年の冬つ方より悩みたまふこと、さらにおこたりたまはねば、かかるに合はせて、便なかるべきよし、聞こえたまへり。
 中将の君も、夜昼、三条にぞさぶらひたまひて、心の隙なくものしたまうて、折悪しきを、いかにせましと思す。
 「世も、いと定めなし。宮も亡せさせたまはば、御服あるべきを、知らず顔にてものしたまはむ、罪深きこと多からむ。おはする世に、このこと表はしてむ」
 と思し取りて、三条の宮に、御訪らひがてら渡りたまふ。


 


 今はまして、忍びやかにふるまひたまへど、行幸に劣らずよそほしく、いよいよ光をのみ添へたまふ御容貌などの、この世に見えぬ心地して、めづらしう見たてまつりたまふには、いとど御心地の悩ましさも、取り捨てらるる心地して、起きゐたまへり。御脇息にかかりて、弱げなれど、ものなどいとよく聞こえたまふ。
 「けしうはおはしまさざりけるを、なにがしの朝臣の心惑はして、おどろおどろしう嘆ききこえさすめれば、いかやうにものせさせたまふにかとなむ、おぼつかながりきこえさせつる。内裏などにも、ことなるついでなき限りは参らず、朝廷に仕ふる人ともなくて籠もりはべれば、よろづうひうひしう、よだけくなりにてはべり。齢など、これよりまさる人、腰堪へぬまで屈まりありく例、昔も今もはべめれど、あやしくおれおれしき本性に、添ふもの憂さになむはべるべき」
 など聞こえたまふ。
 「年の積もりの悩みと思うたまへつつ、月ごろになりぬるを、今年となりては、頼み少なきやうにおぼえはべれば、今一度、かく見たてまつりきこえさすることもなくてやと、心細く思ひたまへつるを、今日こそ、またすこし延びぬる心地しはべれ。今は惜しみとむべきほどにもはべらず。さべき人びとにも立ち後れ、世の末に残りとまれる類ひを、人の上にて、いと心づきなしと見はべりしかば、出で立ちいそぎをなむ、思ひもよほされはべるに、この中将の、いとあはれにあやしきまで思ひあつかひ、心を騒がいたまふ見はべるになむ、さまざまにかけとめられて、今まで長びきはべる」
 と、ただ泣きに泣きて、御声のわななくも、をこがましけれど、さることどもなれば、いとあはれなり。


 御物語ども、昔今のとり集め聞こえたまふついでに、
 「内の大臣は、日隔てず参りたまふことしげからむを、かかるついでに対面のあらば、いかにうれしからむ。いかで聞こえ知らせむと思ふことのはべるを、さるべきついでなくては、対面もありがたければ、おぼつかなくてなむ」
 と聞こえたまふ。
 「公事のしげきにや、私の心ざしの深からぬにや、さしもとぶらひものしはべらず。のたまはすべからむことは、何さまのことにかは。中将の恨めしげに思はれたることもはべるを、『初めのことは知らねど、今はけに聞きにくくもてなすにつけて、立ちそめにし名の、取り返さるるものにもあらず、をこがましきやうに、かへりては世人も言ひ漏らすなるを』などものしはべれば、立てたるところ、昔よりいと解けがたき人の本性にて、心得ずなむ見たまふる」
 と、この中将の御ことと思してのたまへば、うち笑ひたまひて、
 「いふかひなきに、許し捨てたまふこともやと聞きはべりて、ここにさへなむかすめ申すやうありしかど、いと厳しう諌めたまふよしを見はべりし後、何にさまで言をもまぜはべりけむと、人悪う悔い思うたまへてなむ。
 よろづのことにつけて、清めといふことはべれば、いかがは、さもとり返しすすいたまはざらむとは思うたまへながら、かう口惜しき濁りの末に、待ちとり深う住むべき水こそ出で来がたかべい世なれ。何ごとにつけても、末になれば、落ちゆくけぢめこそやすくはべめれ。いとほしう聞きたまふる」
 など申したまうて、


 「さるは、かの知りたまふべき人をなむ、思ひまがふることはべりて、不意に尋ね取りてはべるを、その折は、さるひがわざとも明かしはべらずありしかば、あながちにことの心を尋ね返さふこともはべらで、たださるものの種の少なきを、かことにても、何かはと思うたまへ許して、をさをさ睦びも見はべらずして、年月はべりつるを、いかでか聞こしめしけむ、内裏に仰せらるるやうなむある。
 尚侍、宮仕へする人なくては、かの所のまつりごとしどけなく、女官なども公事を仕うまつるに、たづきなく、こと乱るるやうになむありけるを、ただ今、主上にさぶらふ故老の典侍二人、またさるべき人びと、さまざまに申さするを、はかばかしう選ばせたまはむ尋ねに、類ふべき人なむなき。
 なほ、家高う、人のおぼえ軽からで、家のいとなみたてたらぬ人なむ、いにしへよりなり来にける。したたかにかしこきかたの選びにては、その人ならでも、年月の労になりのぼる類ひあれど、しか類ふべきもなしとならば、おほかたのおぼえをだに選らせたまはむとなむ、うちうちに仰せられたりしを、似げなきこととしも、何かは思ひたまはむ。
 宮仕へは、さるべき筋にて、上も下も思ひ及び、出で立つこそ心高きことなれ。公様にて、さる所のことをつかさどり、まつりごとのおもぶきをしたため知らむことは、はかばかしからず、あはつけきやうにおぼえたれど、などかまたさしもあらむ。ただ、わが身のありさまからこそ、よろづのことはべめれと、思ひ弱りはべりしついでになむ。
 齢のほどなど問ひ聞きはべれば、かの御尋ねあべいことになむありけるを、いかなべいことぞとも、申しあきらめまほしうはべる。ついでなくては対面はべるべきにもはべらず。やがてかかることなむと、あらはし申すべきやうを思ひめぐらして、消息申ししを、御悩みにことづけて、もの憂げにすまひたまへりし。
 げに、折しも便なう思ひとまりはべるに、よろしうものせさせたまひければ、なほ、かう思ひおこせるついでにとなむ思うたまふる。さやうに伝へものせさせたまへ」
 と聞こえたまふ。宮、
 「いかに、いかに、はべりけることにか。かしこには、さまざまにかかる名のりする人を、厭ふことなく拾ひ集めらるめるに、いかなる心にて、かくひき違へかこちきこえらるらむ。この年ごろ、うけたまはりて、なりぬるにや」
 と、聞こえたまへば、
 「さるやうはべることなり。詳しきさまは、かの大臣もおのづから尋ね聞きたまうてむ。くだくだしき直人の仲らひに似たることにはべれば、明かさむにつけても、らうがはしう人言ひ伝へはべらむを、中将の朝臣にだに、まだわきまへ知らせはべらず。人にも漏らさせたまふまじ」
 と、御口かためきこえたまふ。


 内の大殿、かく三条の宮に太政大臣渡りおはしまいたるよし、聞きたまひて、
 「いかに寂しげにて、いつかしき御さまを待ちうけきこえたまふらむ。御前どももてはやし、御座ひきつくろふ人も、はかばかしうあらじかし。中将は、御供にこそものせられつらめ」
 など、おどろきたまうて、御子どもの君達、睦しうさるべきまうち君たち、たてまつれたまふ。
 「御くだもの、御酒など、さりぬべく参らせよ。みづからも参るべきを、かへりてもの騒がしきやうならむ」
 などのたまふほどに、大宮の御文あり。
 「六条の大臣の訪らひに渡りたまへるを、もの寂しげにはべれば、人目のいとほしうも、かたじけなうもあるを、ことことしう、かう聞こえたるやうにはあらで、渡りたまひなむや。対面に聞こえまほしげなることもあなり」
 と聞こえたまへり。
 「何ごとにかはあらむ。この姫君の御こと、中将の愁へにや」と思しまはすに、「宮もかう御世残りなげにて、このことと切にのたまひ、大臣も憎からぬさまに一言うち出で恨みたまはむに、とかく申しかへさふことえあらじかし。つれなくて思ひ入れぬを見るにはやすからず、さるべきついであらば、人の御言になびき顔にて許してむ」と思す。
 「御心をさしあはせてのたまはむこと」と思ひ寄りたまふに、「いとど否びどころなからむが、また、などかさしもあらむ」とやすらはるる、いとけしからぬ御あやにく心なりかし。「されど、宮かくのたまひ、大臣も対面すべく待ちおはするにや、かたがたにかたじけなし。参りてこそは、御けしきに従はめ」
 など思ほしなりて、御装束心ことにひきつくろひて、御前などもことことしきさまにはあらで渡りたまふ。



 君達いとあまた引きつれて入りたまふさま、ものものしう頼もしげなり。丈だちそぞろかにものしたまふに、太さもあひて、いと宿徳に、面もち、歩まひ、大臣といはむに足らひたまへり。
 葡萄染の御指貫、桜の下襲、いと長うは尻引きて、ゆるゆるとことさらびたる御もてなし、あなきらきらしと見えたまへるに、六条殿は、桜の唐の綺の御直衣、今様色の御衣ひき重ねて、しどけなき大君姿、いよいよたとへむものなし。光こそまさりたまへ、かうしたたかにひきつくろひたまへる御ありさまに、なずらへても見えたまはざりけり。
 君達次々に、いとものきよげなる御仲らひにて、集ひたまへり。藤大納言、春宮大夫など、今は聞こゆる子どもも、皆なり出でつつものしたまふ。おのづから、わざともなきに、おぼえ高くやむごとなき殿上人、蔵人頭、五位の蔵人、近衛の中、少将、弁官など、人柄はなやかにあるべかしき、十余人集ひたまへれば、いかめしう、次々のただ人も多くて、土器あまたたび流れ、皆酔ひになりて、おのおのかう幸ひ人にすぐれたまへる御ありさまを物語にしけり。


 大臣も、めづらしき御対面に、昔のこと思し出でられて、よそよそにてこそ、はかなきことにつけて、挑ましき御心も添ふべかめれ、さし向かひきこえたまひては、かたみにいとあはれなることの数々思し出でつつ、例の、隔てなく、昔今のことども、年ごろの御物語に、日暮れゆく。御土器など勧め参りたまふ。
 「さぶらはでは悪しかりぬべかりけるを、召しなきに憚りて。うけたまはり過ぐしてましかば、御勘事や添はまし」
 と申したまふに、
 「勘当は、こなたざまになむ。勘事と思ふこと多くはべる」
 など、けしきばみたまふに、このことにやと思せば、わづらはしうて、かしこまりたるさまにてものしたまふ。
 「昔より、公私のことにつけて、心の隔てなく、大小のこと聞こえうけたまはり、羽翼を並ぶるやうにて、朝廷の御後見をも仕うまつるとなむ思うたまへしを、末の世となりて、そのかみ思うたまへし本意なきやうなること、うち交りはべれど、うちうちの私事にこそは。
 おほかたの心ざしは、さらに移ろふことなくなむ。何ともなくて積もりはべる年齢に添へて、いにしへのことなむ恋しかりけるを、対面賜はることもいとまれにのみはべれば、こと限りありて、世だけき御ふるまひとは思うたまへながら、親しきほどには、その御勢ひをも、引きしじめたまひてこそは、訪らひものしたまはめとなむ、恨めしき折々はべる」
 と聞こえたまへば、
 「いにしへは、げに面馴れて、あやしくたいだいしきまで馴れさぶらひ、心に隔つることなく御覧ぜられしを、朝廷に仕うまつりし際は、羽翼を並べたる数にも思ひはべらで、うれしき御かへりみをこそ、はかばかしからぬ身にて、かかる位に及びはべりて、朝廷に仕うまつりはべることに添へても、思うたまへ知らぬにははべらぬを、齢の積もりには、げにおのづからうちゆるぶことのみなむ、多くはべりける」
 などかしこまり申したまふ。
 そのついでに、ほのめかし出でたまひてけり。大臣、
 「いとあはれに、めづらかなることにもはべるかな」と、まづうち泣きたまひて、「そのかみより、いかになりにけむと尋ね思うたまへしさまは、何のついでにかはべりけむ、愁へに堪へず、漏らし聞こしめさせし心地なむしはべる。今かく、すこし人数にもなりはべるにつけて、はかばかしからぬ者どもの、かたがたにつけてさまよひはべるを、かたくなしく、見苦しと見はべるにつけても、またさるさまにて、数々に連ねては、あはれに思うたまへらるる折に添へても、まづなむ思ひたまへ出でらるる」
 とのたまふついでに、かのいにしへの雨夜の物語に、いろいろなりし御睦言の定めを思し出でて、泣きみ笑ひみ、皆うち乱れたまひぬ。



 夜いたう更けて、おのおのあかれたまふ。
 「かく参り来あひては、さらに、久しくなりぬる世の古事、思うたまへ出でられ、恋しきことの忍びがたきに、立ち出でむ心地もしはべらず」
 とて、をさをさ心弱くおはしまさぬ六条殿も、酔ひ泣きにや、うちしほれたまふ。宮はたまいて、姫君の御ことを思し出づるに、ありしにまさる御ありさま、勢ひを見たてまつりたまふに、飽かず悲しくて、とどめがたく、しほしほと泣きたまふ尼衣は、げに心ことなりけり。
 かかるついでなれど、中将の御ことをば、うち出でたまはずなりぬ。ひとふし用意なしと思しおきてければ、口入れむことも人悪く思しとどめ、かの大臣はた、人の御けしきなきに、さし過ぐしがたくて、さずがにむすぼほれたる心地したまうけり。
 「今宵も御供にさぶらふべきを、うちつけに騒がしくもやとてなむ。今日のかしこまりは、ことさらになむ参るべくはべる」
 と申したまへば、
 「さらば、この御悩みもよろしう見えたまふを、かならず聞こえし日違へさせたまはず、渡りたまふべき」よし、聞こえ契りたまふ。
 御けしきどもようて、おのおの出でたまふ響き、いといかめし。君達の御供の人びと、
 「何ごとありつるならむ。めづらしき御対面に、いと御けしきよげなりつるは」
 「また、いかなる御譲りあるべきにか」
 など、ひが心を得つつ、かかる筋とは思ひ寄らざりけり。


 


 大臣、うちつけにいといぶかしう、心もとなうおぼえたまへど、
 「ふと、しか受けとり、親がらむも便なからむ。尋ね得たまへらむ初めを思ふに、定めて心きよう見放ちたまはじ。やむごとなき方々を憚りて、うけばりてその際にはもてなさず、さすがにわづらはしう、ものの聞こえを思ひて、かく明かしたまふなめり」
 と思すは、口惜しけれど、
 「それを疵とすべきことかは。ことさらにも、かの御あたりに触ればはせむに、などかおぼえの劣らむ。宮仕へざまにおもむきたまへらば、女御などの思さむこともあぢきなし」と思せど、「ともかくも、思ひ寄りのたまはむおきてを違ふべきことかは」
 と、よろづに思しけり。
 かくのたまふは、二月朔日ころなりけり。十六日、彼岸の初めにて、いと吉き日なりけり。近うまた吉き日なしと勘へ申しけるうちに、宮よろしうおはしませば、いそぎ立ちたまうて、例の渡りたまうても、大臣に申しあらはししさまなど、いとこまかにあべきことども教へきこえたまへば、
 「あはれなる御心は、親と聞こえながらも、ありがたからむを」
 と思すものから、いとなむうれしかりける。
 かくて後は、中将の君にも、忍びてかかることの心のたまひ知らせけり。
 「あやしのことどもや。むべなりけり」
 と、思ひあはすることどもあるに、かのつれなき人の御ありさまよりも、なほもあらず思ひ出でられて、「思ひ寄らざりけることよ」と、しれじれしき心地す。されど、「あるまじう、ねじけたるべきほどなりけり」と、思ひ返すことこそは、ありがたきまめまめしさなめれ。


 かくてその日になりて、三条の宮より、忍びやかに御使あり。御櫛の筥など、にはかなれど、ことどもいときよらにしたまうて、御文には、
 「聞こえむにも、いまいましきありさまを、今日は忍びこめはべれど、さるかたにても、長き例ばかりを思し許すべうや、とてなむ。あはれにうけたまはり、あきらめたる筋をかけきこえむも、いかが。御けしきに従ひてなむ。
  ふたかたに言ひもてゆけば玉櫛笥
  わが身はなれぬ懸子なりけり」
 と、いと古めかしうわななきたまへるを、殿もこなたにおはしまして、ことども御覧じ定むるほどなれば、見たまうて、
 「古代なる御文書きなれど、いたしや、この御手よ。昔は上手にものしたまけるを、年に添へて、あやしく老いゆくものにこそありけれ。いとからく御手ふるひにけり」
 など、うち返し見たまうて、
 「よくも玉櫛笥にまつはれたるかな。三十一字の中に、異文字は少なく添へたることのかたきなり」
 と、忍びて笑ひたまふ。


 中宮より、白き御裳、唐衣、御装束、御髪上の具など、いと二なくて、例の、壷どもに、唐の薫物、心ことに香り深くてたてまつりたまへり。
 御方々、皆心々に、御装束、人々の料に、櫛扇まで、とりどりにし出でたまへるありさま、劣りまさらず、さまざまにつけて、かばかりの御心ばせどもに、挑み尽くしたまへれば、をかしう見ゆるを、東の院の人びとも、かかる御いそぎは聞きたまうけれども、訪らひきこえたまふべき数ならねば、ただ聞き過ぐしたるに、常陸の宮の御方、あやしうものうるはしう、さるべきことの折過ぐさぬ古代の御心にて、いかでかこの御いそぎを、よそのこととは聞き過ぐさむ、と思して、形のごとなむし出でたまうける。
 あはれなる御心ざしなりかし。青鈍の細長一襲、落栗とかや、何とかや、昔の人のめでたうしける袷の袴一具、紫のしらきり見ゆる霰地の御小袿と、よき衣筥に入れて、包いとうるはしうて、たてまつれたまへり。
 御文には、
 「知らせたまふべき数にもはべらねば、つつましけれど、かかる折は思たまへ忍びがたくなむ。これ、いとあやしけれど、人にも賜はせよ」
 と、おいらかなり。殿、御覧じつけて、いとあさましう、例の、と思すに、御顔赤みぬ。
 「あやしき古人にこそあれ。かくものづつみしたる人は、引き入り沈み入りたるこそよけれ。さすがに恥ぢがましや」とて、「返りことはつかはせ。はしたなく思ひなむ。父親王の、いとかなしうしたまひける、思ひ出づれば、人に落さむはいと心苦しき人なり」
 と聞こえたまふ。御小袿の袂に、例の、同じ筋の歌ありけり。
 「わが身こそ恨みられけれ唐衣
  君が袂に馴れずと思へば」
 御手は、昔だにありしを、いとわりなうしじかみ、彫深う、強う、堅う書きたまへり。大臣、憎きものの、をかしさをばえ念じたまはで、
 「この歌詠みつらむほどこそ。まして今は力なくて、所狭かりけむ」
 と、いとほしがりたまふ。
 「いで、この返りこと、騒がしうとも、われせむ」
 とのたまひて、
 「あやしう、人の思ひ寄るまじき御心ばへこそ、あらでもありぬべけれ」
 と、憎さに書きたまうて、
 「唐衣また唐衣唐衣
  かへすがへすも唐衣なる」
 とて、
 「いとまめやかに、かの人の立てて好む筋なれば、ものしてはべるなり」
 とて、見せたてまつりたまへば、君、いとにほひやかに笑ひたまひて、
 「あな、いとほし。弄じたるやうにもはべるかな」
 と、苦しがりたまふ。ようなしごといと多かりや。


 
 内大臣は、さしも急がれたまふまじき御心なれど、めづらかに聞きたまうし後は、いつしかと御心にかかりたれば、疾く参りたまへり。
 儀式など、あべい限りにまた過ぎて、めづらしきさまにしなさせたまへり。「げにわざと御心とどめたまうけること」と見たまふも、かたじけなきものから、やう変はりて思さる。
 亥の時にて、入れたてまつりたまふ。例の御まうけをばさるものにて、内の御座いと二なくしつらはせたまうて、御肴参らせたまふ。御殿油、例のかかる所よりは、すこし光見せて、をかしきほどにもてなしきこえたまへり。
 いみじうゆかしう思ひきこえたまへど、今宵はいとゆくりかなべければ、引き結びたまふほど、え忍びたまはぬけしきなり。
 主人の大臣、
 「今宵は、いにしへざまのことはかけはべらねば、何のあやめも分かせたまふまじくなむ。心知らぬ人目を飾りて、なほ世の常の作法に」
 と聞こえたまふ。
 「げに、さらに聞こえさせやるべき方はべらずなむ」
 御土器参るほどに、
 「限りなきかしこまりをば、世に例なきことと聞こえさせながら、今までかく忍びこめさせたまひける恨みも、いかが添へはべらざらむ」
 と聞こえたまふ。
 「恨めしや沖つ玉藻をかづくまで
  磯がくれける海人の心よ」
 とて、なほつつみもあへずしほたれたまふ。姫君は、いと恥づかしき御さまどものさし集ひ、つつましさに、え聞こえたまはねば、殿、
 「よるべなみかかる渚にうち寄せて
  海人も尋ねぬ藻屑とぞ見し
 いとわりなき御うちつけごとになむ」
 と聞こえたまへば、
 「いとことわりになむ」
 と、聞こえやる方なくて、出でたまひぬ。



 親王たち、次々、人びと残るなく集ひたまへり。御懸想人もあまた混じりたまへれば、この大臣、かく入りおはしてほど経るを、いかなることにかと疑ひたまへり。
 かの殿の君達、中将、弁の君ばかりぞ、ほの知りたまへりける。人知れず思ひしことを、からうも、うれしうも思ひなりたまふ。弁は、
 「よくぞうち出でざりける」とささめきて、「さま異なる大臣の御好みどもなめり。中宮の御類ひに仕立てたまはむとや思すらむ」
 など、おのおの言ふよしを聞きたまへど、
 「なほ、しばしは御心づかひしたまうて、世にそしりなきさまにもてなさせたまへ。何ごとも、心やすきほどの人こそ、乱りがはしう、ともかくもはべべかめれ、こなたをもそなたをも、さまざま人の聞こえ悩まさむ、ただならむよりはあぢきなきを、なだらかに、やうやう人目をも馴らすなむ、よきことにははべるべき」
 と申したまへば、
 「ただ御もてなしになむ従ひはべるべき。かうまで御覧ぜられ、ありがたき御育みに隠ろへはべりけるも、前の世の契りおろかならじ」
 と申したまふ。
 御贈物など、さらにもいはず、すべて引出物、禄ども、品々につけて、例あること限りあれど、またこと加へ、二なくせさせたまへり。大宮の御悩みにことづけたまうし名残もあれば、ことことしき御遊びなどはなし。
 兵部卿宮、
 「今はことづけやりたまふべき滞りもなきを」
 と、おりたち聞こえたまへど、
 「内裏より御けしきあること、かへさひ奏し、またまた仰せ言に従ひてなむ、異ざものことは、ともかくも思ひ定むべき」
 とぞ聞こえさせたまひける。
 父大臣は、
 「ほのかなりしさまを、いかでさやかにまた見む。なまかたほなること見えたまはば、かうまでことことしうもてなし思さじ」
 など、なかなか心もとなう恋しう思ひきこえたまふ。
 今ぞ、かの御夢も、まことに思しあはせける。女御ばかりには、さだかなることのさまを聞こえたまうけり。


 世の人聞きに、「しばしこのこと出ださじ」と、切に籠めたまへど、口さがなきものは世の人なりけり。自然に言ひ漏らしつつ、やうやう聞こえ出で来るを、かのさがな者の君聞きて、女御の御前に、中将、少将さぶらひたまふに出で来て、
 「殿は、御女まうけたまふべかなり。あな、めでたや。いかなる人、二方にもてなさるらむ。聞けば、かれも劣り腹なり」
 と、あふなげにのたまへば、女御、かたはらいたしと思して、ものものたまはず。中将、
 「しか、かしづかるべきゆゑこそものしたまふらめ。さても、誰が言ひしことを、かくゆくりなくうち出でたまふぞ。もの言ひただならぬ女房などこそ、耳とどむれ」
 とのたまへば、
 「あなかま。皆聞きてはべり。尚侍になるべかなり。宮仕へにと急ぎ出で立ちはべりしことは、さやうの御かへりみもやとてこそ、なべての女房たちだに仕うまつらぬことまで、おりたち仕うまつれ。御前のつらくおはしますなり」
 と、恨みかくれば、皆ほほ笑みて、
 「尚侍あかば、なにがしこそ望まむと思ふを、非道にも思しかけけるかな」
 などのたまふに、腹立ちて、
 「めでたき御仲に、数ならぬ人は、混じるまじかりけり。中将の君ぞつらくおはする。さかしらに迎へたまひて、軽めあざけりたまふ。せうせうの人は、え立てるまじき殿の内かな。あな、かしこ。あな、かしこ」
 と、後へざまにゐざり退きて、見おこせたまふ。憎げもなけれど、いと腹悪しげに目尻引き上げたり。
 中将は、かく言ふにつけても、「げにし過ちたること」と思へば、まめやかにてものしたまふ。少将は、
 「かかる方にても、類ひなき御ありさまを、おろかにはよも思さじ。御心しづめたまうてこそ。堅き巌も沫雪になしたまうつべき御けしきなれば、いとよう思ひかなひたまふ時もありなむ」
 と、ほほ笑みて言ひゐたまへり。中将も、
 「天の岩門鎖し籠もりたまひなむや、めやすく」
 とて、立ちぬれば、ほろほろと泣きて、
 「この君達さへ、皆すげなくしたまふに、ただ御前の御心のあはれにおはしませば、さぶらふなり」
 とて、いとかやすく、いそしく、下臈童女などの仕うまつりたらぬ雑役をも、立ち走り、やすく惑ひありきつつ、心ざしを尽くして宮仕へしありきて、
 「尚侍に、おれを、申しなしたまへ」
 と責めきこゆれば、あさましう、「いかに思ひて言ふことならむ」と思すに、ものも言はれたまはず。



 大臣、この望みを聞きたまひて、いとはなやかにうち笑ひたまひて、女御の御方に参りたまへるついでに、
 「いづら、この、近江の君。こなたに」と召せば、
 「を」 と、いとけざやかに聞こえて、出で来たり。
 「いと、仕へたる御けはひ、公人にて、げにいかにあひたらむ。尚侍のことは、などか、おのれに疾くはものせざりし」
 と、いとまめやかにてのたまへば、いとうれしと思ひて、
 「さも、御けしき賜はらまほしうはべりしかど、この女御殿など、おのづから伝へ聞こえさせたまひてむと、頼みふくれてなむさぶらひつるを、なるべき人ものしたまふやうに聞きたまふれば、夢に富したる心地しはべりてなむ、胸に手を置きたるやうにはべる」
 と申したまふ。舌ぶりいとものさはやかなり。笑みたまひぬべきを念じて、
 「いとあやしう、おぼつかなき御癖なりや。さも思しのたまはましかば、まづ人の先に奏してまし。太政大臣の御女、やむごとなくとも、ここに切に申さむことは、聞こし召さぬやうあらざらまし。今にても、申し文を取り作りて、びびしう書き出だされよ。長歌などの心ばへあらむを御覧ぜむには、捨てさせたまはじ。主上は、そのうちに情け捨てずおはしませば」
 など、いとようすかしたまふ。人の親げなく、かたはなりや。
 「大和歌は、悪し悪しも続けはべりなむ。むねむねしき方のことはた、殿より申させたまはば、つま声のやうにて、御徳をもかうぶりはべらむ」
 とて、手を押しすりて聞こえゐたり。御几帳のうしろなどにて聞く女房、死ぬべくおぼゆ。もの笑ひに堪へぬは、すべり出でてなむ、慰めける。女御も御面赤みて、わりなう見苦しと思したり。殿も、
 「ものむつかしき折は、近江の君見るこそ、よろづ紛るれ」
 とて、ただ笑ひ種につくりたまへど、世人は、
 「恥ぢがてら、はしたなめたまふ」
 など、さまざま言ひけり。



 

   

            現代語訳 補足 目次

      三十、 藤 袴    
 


   
 



 尚侍の御宮仕へのことを、誰れも誰れもそそのかしたまふも、
 「いかならむ。親と思ひきこゆる人の御心だに、うちとくまじき世なりければ、ましてさやうの交じらひにつけて、心よりほかに便なきこともあらば、中宮も女御も、方がたにつけて心おきたまはば、はしたなからむに、わが身はかくはかなきさまにて、いづ方にも深く思ひとどめられたてまつるほどもなく、浅きおぼえにて、ただならず思ひ言ひ、いかで人笑へなるさまに見聞きなさむと、うけひたまふ人びとも多く、とかくにつけて、やすからぬことのみありぬべき」
 を、もの思し知るまじきほどにしあらねば、さまざまに思ほし乱れ、人知れずもの嘆かし。
 「さりとて、かかるありさまも悪しきことはなけれど、この大臣の御心ばへの、むつかしく心づきなきも、いかなるついでにかは、もて離れて、人の推し量るべかめる筋を、心きよくもあり果つべき。
 まことの父大臣も、この殿の思さむところ、憚りたまひて、うけばりてとり放ち、けざやぎたまふべきことにもあらねば、なほとてもかくても、見苦しう、かけかけしきありさまにて、心を悩まし、人にもて騒がるべき身なめり」
 と、なかなかこの親尋ねきこえたまひて後は、ことに憚りたまふけしきもなき大臣の君の御もてなしを取り加へつつ、人知れずなむ嘆かしかりける。
 思ふことを、まほならずとも、片端にてもうちかすめつべき女親もおはせず、いづ方もいづ方も、いと恥づかしげに、いとうるはしき御さまどもには、何ごとをかは、さなむ、かくなむとも聞こえ分きたまはむ。世の人に似ぬ身のありさまを、うち眺めつつ、夕暮の空のあはれげなるけしきを、端近うて見出だしたまへるさま、いとをかし。


 薄き鈍色の御衣、なつかしきほどにやつれて、例に変はりたる色あひにしも、容貌はいとはなやかにもてはやされておはするを、御前なる人びとは、うち笑みて見たてまつるに、宰相中将、同じ色の、今すこしこまやかなる直衣姿にて、纓巻きたまへる姿しも、またいとなまめかしくきよらにておはしたり。
 初めより、ものまめやかに心寄せきこえたまへば、もて離れて疎々しきさまには、もてなしたまはざりしならひに、今、あらざりけりとて、こよなく変はらむもうたてあれば、なほ御簾に几帳添へたる御対面は、人伝てならでありけり。殿の御消息にて、内裏より仰せ言あるさま、やがてこの君のうけたまはりたまへるなりけり。
 御返り、おほどかなるものから、いとめやすき聞こえなしたまふけはひの、らうらうじくなつかしきにつけても、かの野分の朝の御朝顔は、心にかかりて恋しきを、うたてある筋に思ひし、聞き明らめて後は、なほもあらぬ心地添ひて、
 「この宮仕ひを、おほかたにしも思し放たじかし。さばかり見所ある御あはひどもにて、をかしきさまなることのわづらはしき、はた、かならず出で来なむかし」
 と思ふに、ただならず、胸ふたがる心地すれど、つれなくすくよかにて、
 「人に聞かすまじとはべりつることを聞こえさせむに、いかがはべるべき」
 とけしき立てば、近くさぶらふ人も、すこし退きつつ、御几帳のうしろなどにそばみあへり。



 そら消息をつきづきしくとり続けて、こまやかに聞こえたまふ。主上の御けしきのただならぬ筋を、さる御心したまへ、などやうの筋なり。いらへたまはむ言もなくて、ただうち嘆きたまへるほど、忍びやかに、うつくしくいとなつかしきに、なほえ忍ぶまじく、
 「御服も、この月には脱がせたまふべきを、日ついでなむ吉ろしからざりける。十三日に、河原へ出でさせたまふべきよしのたまはせつ。なにがしも御供にさぶらふべくなむ思ひたまふる」
 と聞こえたまへば、
 「たぐひたまはむもことことしきやうにやはべらむ。忍びやかにてこそよくはべらめ」
 とのたまふ。この御服なんどの詳しきさまを、人にあまねく知らせじとおもむけたまへるけしき、いと労あり。中将も、
 「漏らさじと、つつませたまふらむこそ、心憂けれ。忍びがたく思ひたまへらるる形見なれば、脱ぎ捨てはべらむことも、いともの憂くはべるものを。さても、あやしうもて離れぬことの、また心得がたきにこそはべれ。この御あらはし衣の色なくは、えこそ思ひたまへ分くまじかりけれ」
 とのたまへば、
 「何ごとも思ひ分かぬ心には、ましてともかくも思ひたまへたどられはべらねど、かかる色こそ、あやしくものあはれなるわざにはべりけれ」
 とて、例よりもしめりたる御けしき、いとらうたげにをかし。



 かかるついでにとや思ひ寄りけむ、蘭の花のいとおもしろきを持たまへりけるを、御簾のつまよりさし入れて、
 「これも御覧ずべきゆゑはありけり」
 とて、とみにも許さで持たまへれば、うつたへに思ひ寄らで取りたまふ御袖を、引き動かしたり。
 「同じ野の露にやつるる藤袴
  あはれはかけよかことばかりも」
 「道の果てなる」とかや、いと心づきなくうたてなりぬれど、見知らぬさまに、やをら引き入りて、
 「尋ぬるにはるけき野辺の露ならば
  薄紫やかことならまし
 かやうにて聞こゆるより、深きゆゑはいかが」
 とのたまへば、すこしうち笑ひて、
 「浅きも深きも、思し分く方ははべりなむと思ひたまふる。まめやかには、いとかたじけなき筋を思ひ知りながら、えしづめはべらぬ心のうちを、いかでかしろしめさるべき。なかなか思し疎まむがわびしさに、いみじく籠めはべるを、今はた同じと、思ひたまへわびてなむ。
 頭中将のけしきは御覧じ知りきや。人の上に、なんど思ひはべりけむ。身にてこそ、いとをこがましく、かつは思ひたまへ知られけれ。なかなかかの君は思ひさまして、つひに、御あたり離るまじき頼みに、思ひ慰めたるけしきなど見はべるも、いとうらやましくねたきに、あはれとだに思しおけよ」
 など、こまかに聞こえ知らせたまふこと多かれど、かたはらいたければ書かぬなり。
 尚侍の君、やうやう引き入りつつ、むつかしと思したれば、
 「心憂き御けしきかな。過ちすまじき心のほどは、おのづから御覧じ知らるるやうもはべらむものを」
 とて、かかるついでに、今すこし漏らさまほしけれど、
 「あやしくなやましくなむ」
 とて、入り果てたまひぬれば、いといたくうち嘆きて立ちたまひぬ。



 「なかなかにもうち出でてけるかな」と、口惜しきにつけても、かの、今すこし身にしみておぼえし御けはひを、かばかりの物越しにても、「ほのかに御声をだに、いかならむついでにか聞かむ」と、やすからず思ひつつ、御前に参りたまへれば、出でたまひて、御返りなど聞こえたまふ。
 「この宮仕へを、しぶげにこそ思ひたまへれ。宮などの、練じたまへる人にて、いと心深きあはれを尽くし、言ひ悩ましたまふになむ、心やしみたまふらむと思ふになむ、心苦しき。
 されど、大原野の行幸に、主上を見たてまつりたまひては、いとめでたくおはしけり、と思ひたまへりき。若き人は、ほのかにも見たてまつりて、えしも宮仕への筋もて離れじ。さ思ひてなむ、このこともかくものせし」
 などのたまへば、
 「さても、人ざまは、いづ方につけてかは、たぐひてものしたまふらむ。中宮、かく並びなき筋にておはしまし、また、弘徽殿、やむごとなく、おぼえことにてものしたまへば、いみじき御思ひありとも、立ち並びたまふこと、かたくこそはべらめ。
 宮は、いとねむごろに思したなるを、わざと、さる筋の御宮仕へにもあらぬものから、ひき違へたらむさまに御心おきたまはむも、さる御仲らひにては、いといとほしくなむ聞きたまふる」
 と、おとなおとなしく申したまふ。



 「かたしや。わが心ひとつなる人の上にもあらぬを、大将さへ、我をこそ恨むなれ。すべて、かかることの心苦しさを見過ぐさで、あやなき人の恨み負ふ、かへりては軽々しきわざなりけり。かの母君の、あはれに言ひおきしことの忘れざりしかば、心細き山里になど聞きしを、かの大臣、はた、聞き入れたまふべくもあらずと愁へしに、いとほしくて、かく渡しはじめたるなり。ここにかくものめかすとて、かの大臣も人めかいたまふなめり」
 と、つきづきしくのたまひなす。
 「人柄は、宮の御人にていとよかるべし。今めかしく、いとなまめきたるさまして、さすがにかしこく、過ちすまじくなどして、あはひはめやすからむ。さてまた、宮仕へにも、いとよく足らひたらむかし。容貌よく、らうらうじきものの、公事などにもおぼめかしからず、はかばかしくて、主上の常に願はせたまふ御心には、違ふまじ」
 などのたまふけしきの見まほしければ、
 「年ごろかくて育みきこえたまひける御心ざしを、ひがざまにこそ人は申すなれ。かの大臣も、さやうになむおもむけて、大将の、あなたざまのたよりにけしきばみたりけるにも、いらへける」
 と聞こえたまへば、うち笑ひて、
 「かたがたいと似げなきことかな。なほ、宮仕へをも、御心許して、かくなむと思されむさまにぞ従ふべき。女は三に従ふものにこそあなれど、ついでを違へて、おのが心にまかせむことは、あるまじきことなり」
 とのたまふ。



 「うちうちにも、やむごとなきこれかれ、年ごろを経てものしたまへば、えその筋の人数にはものしたまはで、捨てがてらにかく譲りつけ、おほぞうの宮仕への筋に、領ぜむと思しおきつる、いとかしこくかどあることなりとなむ、よろこび申されけると、たしかに人の語り申しはべりしなり」
 と、いとうるはしきさまに語り申したまへば、「げに、さは思ひたまふらむかし」と思すに、いとほしくて、
 「いとまがまがしき筋にも思ひ寄りたまひけるかな。いたり深き御心ならひならむかし。今おのづから、いづ方につけても、あらはなることありなむ。思ひ隈なしや」
 と笑ひたまふ。御けしきはけざやかなれど、なほ、疑ひは置かる。大臣も、
 「さりや。かく人の推し量る、案に落つることもあらましかば、いと口惜しくねぢけたらまし。かの大臣に、いかで、かく心清きさまを知らせたてまつらむ」
 と思すにぞ、「げに、宮仕への筋にて、けざやかなるまじく紛れたるおぼえを、かしこくも思ひ寄りたまひけるかな」と、むくつけく思さる。
 かくて御服など脱ぎたまひて、
 「月立たば、なほ参りたまはむこと忌あるべし。十月ばかりに」
 と思しのたまふを、内裏にも心もとなく聞こし召し、聞こえたまふ人びとは、誰も誰も、いと口惜しくて、この御参りの先にと、心寄せのよすがよすがに責めわびたまへど、
 「吉野の滝をせ堰かむよりも難きことなれば、いとわりなし」
 と、おのおのいらふ。
 中将も、なかなかなることをうち出でて、「いかに思すらむ」と苦しきままに、駆けりありきて、いとねむごろに、おほかたの御後見を思ひあつかひたるさまにて、追従しありきたまふ。たはやすく、軽らかにうち出でては聞こえかかりたまはず、めやすくもてしづめたまへり。


 


 まことの御はらからの君達は、え寄り来ず、「宮仕へのほどの御後見を」と、おのおの心もとなくぞ思ひける。
 頭中将、心を尽くしわびしことは、かき絶えにたるを、「うちつけなりける御心かな」と、人びとはをかしがるに、殿の御使にておはしたり。なほもて出でず、忍びやかに御消息なども聞こえ交はしたまひければ、月の明かき夜、桂の蔭に隠れてものしたまへり。見聞き入るべくもあらざりしを、名残なく南の御簾の前に据ゑたてまつる。
 みづから聞こえたまはむことはしも、なほつつましければ、宰相の君していらへ聞こえたまふ。
 「なにがしらを選びてたてまつりたまへるは、人伝てならぬ御消息にこそはべらめ。かくもの遠くては、いかが聞こえさすべからむ。みづからこそ、数にもはべらねど、絶えぬたとひもはべなるは。いかにぞや、古代のことなれど、頼もしくぞ思ひたまへける」
 とて、ものしと思ひたまへり。
 「げに、年ごろの積もりも取り添へて、聞こえまほしけれど、日ごろあやしく悩ましくはべれば、起き上がりなどもえしはべらでなむ。かくまでとがめたまふも、なかなか疎々しき心地なむしはべりける」
 と、いとまめだちて聞こえ出だしたまへり。
 「悩ましく思さるらむ御几帳のもとをば、許させたまふまじくや。よしよし。げに、聞こえさするも、心地なかりけり」
 とて、大臣の御消息ども忍びやかに聞こえたまふ用意など、人には劣りたまはず、いとめやすし。


 「参りたまはむほどの案内、詳しきさまもえ聞かぬを、うちうちにのたまはむなむよからむ。何ごとも人目に憚りて、え参り来ず、聞こえぬことをなむ、なかなかいぶせく思したる」
 など、語りきこえたまふついでに、
 「いでや、をこがましきことも、えぞ聞こえさせぬや。いづ方につけても、あはれをば御覧じ過ぐすべくやはありけると、いよいよ恨めしさも添ひはべるかな。まづは、今宵などの御もてなしよ。北面だつ方に召し入れて、君達こそめざましくも思し召さめ、下仕へなどやうの人びととだに、うち語らはばや。またかかるやうはあらじかし。さまざまにめづらしき世なりかし」
 と、うち傾きつつ、恨み続けたるもをかしければ、かくなむと聞こゆ。
 「げに、人聞きを、うちつけなるやうにやと憚りはべるほどに、年ごろの埋れいたさをも、あきらめはべらぬは、いとなかなかなること多くなむ」
 と、ただすくよかに聞こえなしたまふに、まばゆくて、よろづおしこめたり。
 「妹背山深き道をば尋ねずて
  緒絶の橋に踏み迷ひけるよ」
 と恨むるも、人やりならず。
 「惑ひける道をば知らず妹背山
  たどたどしくぞ誰も踏み見し」
 「いづ方のゆゑとなむ、え思し分かざめりし。何ごとも、わりなきまで、おほかたの世を憚らせたまふめれば、え聞こえさせたまはぬになむ。おのづからかくのみもはべらじ」
 と聞こゆるも、さることなれば、
 「よし、長居しはべらむも、すさまじきほどなり。やうやう労積もりてこそは、かことをも」
 とて、立ちたまふ。
 月隈なくさし上がりて、空のけしきも艶なるに、いとあてやかにきよげなる容貌して、御直衣の姿、好ましくはなやかにて、いとをかし。
 宰相中将のけはひありさまには、え並びたまはねど、これもをかしかめるは、「いかでかかる御仲らひなりけむ」と、若き人びとは、例の、さるまじきことをも取り立ててめであへり。


 


 大将は、この中将は同じ右の次将なれば、常に呼び取りつつ、ねむごろに語らひ、大臣にも申させたまひけり。人柄もいとよく、朝廷の御後見となるべかめる下形なるを、「などかはあらむ」と思しながら、「かの大臣のかくしたまへることを、いかがは聞こえ返すべからむ。さるやうあることにこそ」と、心得たまへる筋さへあれば、任せきこえたまへり。
 この大将は、春宮の女御の御はらからにぞおはしける。大臣たちをおきたてまつりて、さしつぎの御おぼえ、いとやむごとなき君なり。年三十二三のほどにものしたまふ。
 北の方は、紫の上の御姉ぞかし。式部卿宮の御大君よ。年のほど三つ四つがこのかみは、ことなるかたはにもあらぬを、人柄やいかがおはしけむ、「嫗」とつけて心にも入れず、いかで背きなむと思へり。
 その筋により、六条の大臣は、大将の御ことは、「似げなくいとほしからむ」と思したるなめり。色めかしくうち乱れたるところなきさまながら、いみじくぞ心を尽くしありきたまひける。
 「かの大臣も、もて離れても思したらざなり。女は、宮仕へをもの憂げに思いたなり」と、うちうちのけしきも、さる詳しきたよりあれば、漏り聞きて、
 「ただ大殿の御おもむけの異なるにこそはあなれ。まことの親の御心だに違はずは」
 と、この弁の御許にも責ためたまふ。


 九月にもなりぬ。初霜むすぼほれ、艶なる朝に、例の、とりどりなる御後見どもの、引きそばみつつ持て参る御文どもを、見たまふこともなくて、読みきこゆるばかりを聞きたまふ。大将殿のには、
 「なほ頼み来しも、過ぎゆく空のけしきこそ、心尽くしに、
  数ならば厭ひもせまし長月に
  命をかくるほどぞはかなき」
 「月たたば」とある定めを、いとよく聞きたまふなめり。
 兵部卿宮は、
 「いふかひなき世は、聞こえむ方なきを、
  朝日さす光を見ても玉笹の
  葉分けの霜を消たずもあらなむ
 思しだに知らば、慰む方もありぬべくなむ」
 とて、いとかしけたる下折れの霜も落とさず持て参れる御使さへぞ、うちあひたるや。
 式部卿宮の左兵衛督は、殿の上の御はらからぞかし。親しく参りなどしたまふ君なれば、おのづからいとよくものの案内も聞きて、いみじくぞ思ひわびける。いと多く怨み続けて、
 「忘れなむと思ふもものの悲しきを
  いかさまにしていかさまにせむ」
 紙の色、墨つき、しめたる匂ひも、さまざまなるを、人びとも皆、
 「思し絶えぬべかめるこそ、さうざうしけれ」
 など言ふ。
 宮の御返りをぞ、いかが思すらむ、ただいささかにて、
 「心もて光に向かふ葵だに
  朝おく霜をおのれやは消つ」
 とほのかなるを、いとめづらしと見たまふに、みづからはあはれを知りぬべき御けしきにかけたまひつれば、つゆばかりなれど、いとうれしかりけり。
 かやうに何となけれど、さまざまなる人々の、御わびごとも多かり。
 女の御心ばへは、この君をなむ本にすべきと、大臣たち定めきこえたまひけりとや。

 


 

   

           現代語訳 補足 目次

      三十一、 真 木 柱    
 


   
 




 「内裏に聞こし召さむこともかしこし。しばし人にあまねく漏らさじ」と諌めきこえたまへど、さしもえつつみあへたまはず。ほど経れど、いささかうちとけたる御けしきもなく、「思はずに憂き宿世なりけり」と、思ひ入りたまへるさまのたゆみなきを、「いみじうつらし」と思へど、おぼろけならぬ契りのほど、あはれにうれしく思ふ。
 見るままにめでたく、思ふさまなる御容貌、ありさまを、「よそのものに見果ててやみなましよ」と思ふだに胸つぶれて、石山の仏をも、弁の御許をも、並べて預かまほしう思へど、女君の、深くものしと疎みにければ、え交じらはで籠もりゐにけり。
 げに、そこら心苦しげなることどもを、とりどりに見しかど、心浅き人のためにぞ、寺の験も現はれける。
 大臣も、「心ゆかず口惜し」と思せど、いふかひなきことにて、「誰れも誰れもかく許しそめたまへることなれば、引き返し許さぬけしきを見せむも、人のためいとほしう、あいなし」と思して、儀式いと二なくもてかしづきたまふ。
 いつしかと、わが殿に渡いたてまつらむことを思ひいそぎたまへど、軽々しくふとうちとけ渡りたまはむに、かしこに待ち取りて、よくも思ふまじき人のものしたまふなるが、いとほしさにことづけたまひて、
 「なほ、心のどかに、なだらかなるさまにて、音なく、いづ方にも、人のそしり恨みなかるべくをもてなしたまへ」
 とぞ聞こえたまふ。


 父大臣は、
 「なかなかめやすかめり。ことにこまかなる後見なき人の、なまほの好いたる宮仕へに出で立ちて、苦しげにやあらむとぞ、うしろめたかりし。心ざしはありながら、女御かくてものしたまふをおきて、いかがもてなさまし」
 など、忍びてのたまひけり。げに、帝と聞こゆとも、人に思し落とし、はかなきほどに見えたてまつりたまひて、ものものしくももてなしたまはずは、あはつけきやうにもあべかりけり。
 三日の夜の御消息ども、聞こえ交はしたまひけるけしきを伝へ聞きたまひてなむ、この大臣の君の御心を、「あはれにかたじけなく、ありがたし」とは思ひきこえたまひける。
 かう忍びたまふ御仲らひのことなれど、おのづから、人のをかしきことに語り伝へつつ、次々に聞き洩らしつつ、ありがたき世語りにぞささめきける。内裏にも聞こし召してけり。
 「口惜しう、宿世異なりける人なれど、さ思しし本意もあるを。宮仕へなど、かけかけしき筋ならばこそは、思ひ絶えたまはめ」
 などのたまはせけり。



 霜月になりぬ。神事などしげく、内侍所にもこと多かるころにて、女官ども、内侍ども参りつつ、今めかしう人騒がしきに、大将殿、昼もいと隠ろへたるさまにもてなして、籠もりおはするを、いと心づきなく、尚侍の君は思したり。
 宮などは、まいていみじう口惜しと思す。兵衛督は、妹の北の方の御ことをさへ、人笑へに思ひ嘆きて、とり重ねもの思ほしけれど、「をこがましう、恨み寄りても、今はかひなし」と思ひ返す。
 大将は、名に立てるまめ人の、年ごろいささか乱れたるふるまひなくて過ぐしたまへる、名残なく心ゆきて、あらざりしさまに好ましう、宵暁のうち忍びたまへる出で入りも、艶にしなしたまへるを、をかしと人びと見たてまつる。
 女は、わららかににぎははしくもてなしたまふ本性も、もて隠して、いといたう思ひ結ぼほれ、心もてあらぬさまはしるきことなれど、「大臣の思すらむこと、宮の御心ざまの、心深う、情け情けしうおはせし」などを思ひ出でたまふに、「恥づかしう、口惜しう」のみ思ほすに、もの心づきなき御けしき絶えず。



 殿も、いとほしう人びとも思ひ疑ひける筋を、心きよくあらはしたまひて、「わが心ながら、うちつけにねぢけたることは好まずかし」と、昔よりのことも思し出でて、紫の上にも、
 「思し疑ひたりしよ」
 など聞こえたまふ。「今さらに人の心癖もこそ」と思しながら、ものの苦しう思されし時、「さてもや」と、思し寄りたまひしことなれば、なほ思しも絶えず。
 大将のおはせぬ昼つ方渡りたまへり。女君、あやしう悩ましげにのみもてないたまひて、すくよかなる折もなくしをれたまへるを、かくて渡りたまへれば、すこし起き上がりたまひて、御几帳にはた隠れておはす。
 殿も、用意ことに、すこしけけしきさまにもてないたまひて、おほかたのことどもなど聞こえたまふ。すくよかなる世の常の人にならひては、まして言ふ方なき御けはひありさまを見知りたまふにも、思ひのほかなる身の、置きどころなく恥づかしきにも、涙ぞこぼれける。
 やうやう、こまやかなる御物語になりて、近き御脇息に寄りかかりて、すこしのぞきつつ、聞こえたまふ。いとをかしげに面痩せたまへるさまの、見まほしう、らうたいことの添ひたまへるにつけても、「よそに見放つも、あまりなる心のすさびぞかし」と口惜し。
 「おりたちて汲みは見ねども渡り川
  人の瀬とはた契らざりしを
 思ひのほかなりや」
 とて、鼻うちかみたまふけはひ、なつかしうあはれなり。
 女は顔を隠して、
 「みつせ川渡らぬさきにいかでなほ
  涙の澪の泡と消えなむ」
 「心幼なの御消えどころや。さても、かの瀬は避き道なかなるを、御手の先ばかりは、引き助けきこえてむや」と、ほほ笑みたまひて、「まめやかには、思し知ることもあらむかし。世になき痴れ痴れしさも、またうしろやすさも、この世にたぐひなきほどを、さりともとなむ、頼もしき」
 と聞こえたまふを、いとわりなう、聞き苦しと思いたれば、いとほしうて、のたまひ紛らはしつつ、
 「内裏にのたまはすることなむいとほしきを、なほ、あからさまに参らせたてまつらむ。おのがものと領じ果てては、さやうの御交じらひもかたげなめる世なめり。思ひそめきこえし心は違ふさまなめれど、二条の大臣は、心ゆきたまふなれば、心やすくなむ」
 など、こまかに聞こえたまふ。あはれにも恥づかしくも聞きたまふこと多かれど、ただ涙にまつはれておはす。いとかう思したるさまの心苦しければ、思すさまにも乱れたまはず、ただ、あるべきやう、御心づかひを教へきこえたまふ。かしこに渡りたまはむことを、とみにも許しきこえたまふまじき御けしきなり。


 


 内裏へ参りたまはむことを、やすからぬことに大将思せど、そのついでにや、まかでさせたてまつらむの御心つきたまひて、ただあからさまのほどを許しきこえたまふ。かく忍び隠ろへたまふ御ふるまひも、ならひたまはぬ心地に苦しければ、わが殿のうち修理ししつらひて、年ごろは荒らし埋もれ、うち捨てたまへりつる御しつらひ、よろづの儀式を改めいそぎたまふ。
 北の方の思し嘆くらむ御心も知りたまはず、かなしうしたまひし君達をも、目にもとめたまはず、なよびかに情け情けしき心うちまじりたる人こそ、とざまかうざまにつけても、人のため恥がましからむことをば、推し量り思ふところもありけれ、ひたおもむきにすくみたまへる御心にて、人の御心動きぬべきこと多かり。
 女君、人に劣りたまふべきことなし。人の御本性も、さるやむごとなき父親王の、いみじうかしづきたてまつりたまへるおぼえ、世に軽からず、御容貌なども、いとようおはしけるを、あやしう、執念き御もののけにわづらひたまひて、この年ごろ、人にも似たまはず、うつし心なき折々多くものしたまひて、御仲もあくがれてほど経にけれど、やむごとなきものとは、また並ぶ人なく思ひきこえたまへるを、めづらしう御心移る方の、なのめにだにあらず、人にすぐれたまへる御ありさまよりも、かの疑ひおきて、皆人の推し量りしことさへ、心きよくて過ぐいたまひけるなどを、ありがたうあはれと、思ひましきこえたまふも、ことわりになむ。
 式部卿宮聞こし召して、
 「今は、しか今めかしき人を渡して、もてかしづかむ片隅に、人悪ろくて添ひものしたまはむも、人聞きやさしかるべし。おのがあらむこなたは、いと人笑へなるさまに従ひなびかでも、ものしたまひなむ」
 とのたまひて、宮の東の対を払ひしつらひて、「渡したてまつらむ」と思しのたまふを、「親の御あたりといひながら、今は限りの身にて、たち返り見えたてまつらむこと」と、思ひ乱れたまふに、いとど御心地もあやまりて、うちはへ臥しわづらひたまふ。
 本性は、いと静かに心よく、子めきたまへる人の、時々、心あやまりして、人に疎まれぬべきことなむ、うち混じりたまひける。


 住まひなどの、あやしうしどけなく、もののきよらもなくやつして、いと埋れいたくもてなしたまへるを、玉を磨ける目移しに、心もとまらねど、年ごろの心ざしひき替ふるものならねば、心には、いとあはれと思ひきこえたまふ。
 「昨日今日の、いと浅はかなる人の御仲らひだに、よろしき際になれば、皆思ひのどむる方ありてこそ見果つなれ。いと身も苦しげにもてなしたまひつれば、聞こゆべきこともうち出で聞こえにくくなむ。
 年ごろ契りきこゆることにはあらずや。世の人にも似ぬ御ありさまを、見たてまつり果てむとこそは、ここら思ひしづめつつ過ぐし来るに、えさしもあり果つまじき御心おきてに、思し疎むな。
 幼き人びともはべれば、とざまかうざまにつけて、おろかにはあらじと聞こえわたるを、女の御心の乱りがはしきままに、かく恨みわたりたまふ。ひとわたり見果てたまはぬほど、さもありぬべきことなれど、まかせてこそ、今しばし御覧じ果てめ。
 宮の聞こし召し疎みて、さはやかにふと渡したてまつりてむと思しのたまふなむ、かへりていと軽々しき。まことに思しおきつることにやあらむ、しばし勘事したまふべきにやあらむ」
 と、うち笑ひてのたまへる、いとねたげに心やまし。


 [第三段 鬚黒、北の方を慰める(二)]
 御召人だちて、仕うまつり馴れたる木工の君、中将の御許などいふ人びとだに、ほどにつけつつ、「やすからずつらし」と思ひきこえたるを、北の方は、うつし心ものしたまふほどにて、いとなつかしううち泣きてゐたまへり。
 「みづからを、ほけたり、ひがひがし、とのたまひ、恥ぢしむるは、ことわりなることになむ。宮の御ことをさへ取り混ぜのたまふぞ、漏り聞きたまはむはいとほしう、憂き身のゆかり軽々しきやうなる。耳馴れにてはべれば、今はじめていかにもものを思ひはべらず」
 とて、うち背きたまへる、らうたげなり。
 いとささやかなる人の、常の御悩みに痩せ衰へ、ひはづにて、髪いとけうらにて長かりけるが、わけたるやうに落ち細りて、削ることもをさをさしたまはず、涙にまつはれたるは、いとあはれなり。
 こまかに匂へるところはなくて、父宮に似たてまつりて、なまめいたる容貌したまへるを、もてやつしたまへれば、いづこのはなやかなるけはひかはあらむ。
 「宮の御ことを、軽くはいかが聞こゆる。恐ろしう、人聞きかたはになのたまひなしそ」とこしらへて、
 「かの通ひはべる所の、いとまばゆき玉の台に、うひうひしう、きすくなるさまにて出で入るほども、かたがたに人目たつらむと、かたはらいたければ、心やすく移ろはしてむと思ひはべるなり。
 太政大臣の、さる世にたぐひなき御おぼえをば、さらにも聞こえず、心恥づかしう、いたり深うおはすめる御あたりに、憎げなること漏り聞こえば、いとなむいとほしう、かたじけなかるべき。
 なだらかにて、御仲よくて、語らひてものしたまへ。宮に渡りたまへりとも、忘るることははべらじ。とてもかうても、今さらに心ざしの隔たることはあるまじけれど、世の聞こえ人笑へに、まろがためにも軽々しうなむはべるべきを、年ごろの契り違へず、かたみに後見むと、思せ」
 と、こしらへ聞こえたまへば、
 「人の御つらさは、ともかくも知りきこえず。世の人にも似ぬ身の憂きをなむ、宮にも思し嘆きて、今さらに人笑へなることと、御心を乱りたまふなれば、いとほしう、いかでか見えたてまつらむ、となむ。
 大殿の北の方と聞こゆるも、異人にやはものしたまふ。かれは、知らぬさまにて生ひ出でたまへる人の、末の世に、かく人の親だちもてないたまふつらさをなむ、思ほしのたまふなれど、ここにはともかくも思はずや。もてないたまはむさまを見るばかり」
 とのたまへば、
 「いとようのたまふを、例の御心違ひにや、苦しきことも出で来む。大殿の北の方の知りたまふことにもはべらず。いつき女のやうにてものしたまへば、かく思ひ落とされたる人の上までは知りたまひなむや。人の御親げなくこそものしたまふべかめれ。かかることの聞こえあらば、いとど苦しかるべきこと」
 など、日一日入りゐて、語らひ申したまふ。



 暮れぬれば、心も空に浮きたちて、いかで出でなむと思ほすに、雪かきたれて降る。かかる空にふり出でむも、人目いとほしう、この御けしきも、憎げにふすべ恨みなどしたまはば、なかなかことつけて、われも迎へ火つくりてあるべきを、いとおいらかに、つれなうもてなしたまへるさまの、いと心苦しければ、いかにせむ、と思ひ乱れつつ、格子などもさながら、端近ううち眺めてゐたまへり。
 北の方けしきを見て、
 「あやにくなめる雪を、いかで分けたまはむとすらむ。夜も更けぬめりや」
 とそそのかしたまふ。「今は限り、とどむとも」と思ひめぐらしたまへるけしき、いとあはれなり。
 「かかるには、いかでか」
 とのたまふものから、
 「なほ、このころばかり。心のほどを知らで、とかく人の言ひなし、大臣たちも、左右に聞き思さむことを憚りてなむ、とだえあらむはいとほしき。思ひしづめて、なほ見果てたまへ。ここになど渡しては、心やすくはべりなむ。かく世の常なる御けしき見えたまふ時は、ほかざまに分くる心も失せてなむ、あはれに思ひきこゆる」
 など、語らひたまへば、
 「立ちとまりたまひても、御心のほかならむは、なかなか苦しうこそあるべけれ。よそにても、思ひだにおこせたまはば、袖の氷も解けなむかし」
 など、なごやかに言ひゐたまへり。


 御火取り召して、いよいよ焚きしめさせたてまつりたまふ。みづからは、萎えたる御衣ども、うちとけたる御姿、いとど細う、か弱げなり。しめりておはする、いと心苦し。御目のいたう泣き腫れたるぞ、すこしものしけれど、いとあはれと見る時は、罪なう思して、
 「いかで過ぐしつる年月ぞ」と、「名残なう移ろふ心のいと軽きぞや」とは思ふ思ふ、なほ心懸想は進みて、そら嘆きをうちしつつ、なほ装束したまひて、小さき火取り取り寄せて、袖に引き入れてしめゐたまへり。
 なつかしきほどに萎えたる御装束に、容貌も、かの並びなき御光にこそ圧さるれど、いとあざやかに男々しきさまして、ただ人と見えず、心恥づかしげなり。
 侍に、人びと声して、
 「雪すこし隙あり。夜は更けぬらむかし」
 など、さすがにまほにはあらで、そそのかしきこえて、声づくりあへり。
 中将、木工など、「あはれの世や」などうち嘆きつつ、語らひて臥したるに、正身は、いみじう思ひしづめて、らうたげに寄り臥したまへりと見るほどに、にはかに起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取りを取り寄せて、殿の後ろに寄りて、さと沃かけたまふほど、人のややみあふるほどもなう、あさましきに、あきれてものしたまふ。
 さるこまかなる灰の、目鼻にも入りて、おぼほれてものもおぼえず。払ひ捨てたまへど、立ち満ちたれば、御衣ども脱ぎたまひつ。
 うつし心にてかくしたまふぞと思はば、またかへりみすべくもあらずあさましけれど、
 「例の御もののけの、人に疎ませむとするわざ」
 と、御前なる人びとも、いとほしう見たてまつる。
 立ち騷ぎて、御衣どもたてまつり替へなどすれど、そこらの灰の、鬢のわたりにも立ちのぼり、よろづの所に満ちたる心地すれば、きよらを尽くしたまふわたりに、さながら参うでたまふべきにもあらず。
 「心違ひとはいひながら、なほめづらしう、見知らぬ人の御ありさまなりや」と爪弾きせられ、疎ましうなりて、あはれと思ひつる心も残らねど、「このころ、荒立てては、いみじきこと出で来なむ」と思ししづめて、夜中になりぬれど、僧など召して、加持参り騒ぐ。呼ばひののしりたまふ声など、思ひ疎みたまはむにことわりなり。



 夜一夜、打たれ引かれ、泣きまどひ明かしたまひて、すこしうち休みたまへるほどに、かしこへ御文たてまつれたまふ。
 「昨夜、にはかに消え入る人のはべしにより、雪のけしきもふり出でがたく、やすらひはべしに、身さへ冷えてなむ。御心をばさるものにて、人いかに取りなしはべりけむ」
 と、きすくに書きたまへり。
 「心さへ空に乱れし雪もよに
  ひとり冴えつる片敷の袖
 堪へがたくこそ」
 と、白き薄様に、つつやかに書いたまへれど、ことにをかしきところもなし。手はいときよげなり。才かしこくなどぞものしたまひける。
 尚侍の君、夜がれを何とも思されぬに、かく心ときめきしたまへるを、見も入れたまはねば、御返りなし。男、胸つぶれて、思ひ暮らしたまふ。
 北の方は、なほいと苦しげにしたまへば、御修法など始めさせたまふ。心のうちにも、「このころばかりだに、ことなく、うつし心にあらせたまへ」と念じたまふ。「まことの心ばへのあはれなるを見ず知らずは、かうまで思ひ過ぐすべくもなきけ疎さかな」と、思ひゐたまへり。



 暮るれば、例の、急ぎ出でたまふ。御装束のことなども、めやすくしなしたまはず、世にあやしう、うちあはぬさまにのみむつかりたまふを、あざやかなる御直衣なども、え取りあへたまはで、いと見苦し。
 昨夜のは、焼けとほりて、疎ましげに焦れたるにほひなども、ことやうなり。御衣どもに移り香もしみたり。ふすべられけるほどあらはに、人も倦じたまひぬべければ、脱ぎ替へて、御湯殿など、いたうつくろひたまふ。
 木工の君、御薫物しつつ、
 「ひとりゐて焦がるる胸の苦しきに
  思ひあまれる炎とぞ見じ
 名残なき御もてなしは、見たてまつる人だに、ただにやは」
 と、口おほひてゐたる、まみ、いといたし。されど、「いかなる心にて、かやうの人にものを言ひけむ」などのみぞおぼえたまひける。情けなきことよ。
 「憂きことを思ひ騒げばさまざまに
  くゆる煙ぞいとど立ちそふ
 いとことのほかなることどもの、もし聞こえあらば、中間になりぬべき身なめり」
 と、うち嘆きて出でたまひぬ。
 一夜ばかりの隔てだに、まためづらしう、をかしさまさりておぼえたまふありさまに、いとど心を分くべくもあらずおぼえて、心憂ければ、久しう籠もりゐたまへり。


 


 修法などし騒げど、御もののけこちたくおこりてののしるを聞きたまへば、「あるまじき疵もつき、恥ぢがましきこと、かならずありなむ」と、恐ろしうて寄りつきたまはず。
 殿に渡りたまふ時も、異方に離れゐたまひて、君達ばかりをぞ呼び放ちて見たてまつりたまふ。女一所、十二、三ばかりにて、また次々、男二人なむおはしける。近き年ごろとなりては、御仲も隔たりがちにてならはしたまへれど、やむごとなう、立ち並ぶ方なくてならひたまへれば、「今は限り」と見たまふに、さぶらふ人びとも、「いみじう悲し」と思ふ。
 父宮、聞きたまひて、
 「今は、しかかけ離れて、もて出でたまふらむに、さて、心強くものしたまふ、いと面なう人笑へなることなり。おのがあらむ世の限りは、ひたぶるにしも、などか従ひくづほれたまはむ」
 と聞こえたまひて、にはかに御迎へあり。
 北の方、御心地すこし例になりて、世の中をあさましう思ひ嘆きたまふに、かくと聞こえたまへれば、
 「しひて立ちとまりて、人の絶え果てむさまを見果てて、思ひとぢめむも、今すこし人笑へにこそあらめ」
 など思し立つ。
 御兄弟の君達、兵衛督は、上達部におはすれば、ことことしとて、中将、侍従、民部大輔など、御車三つばかりしておはしたり。「さこそはあべかめれ」と、かねて思ひつることなれど、さしあたりて今日を限りと思へば、さぶらふ人びとも、ほろほろと泣きあへり。
 「年ごろならひたまはぬ旅住みに、狭くはしたなくては、いかでかあまたはさぶらはむ。かたへは、おのおの里にまかでて、しづまらせたまひなむに」
 など定めて、人びとおのがじし、はかなきものどもなど、里に運びやりつつ、乱れ散るべし。御調度どもは、さるべきは皆したため置きなどするままに、上下泣き騒ぎたるは、いとゆゆしく見ゆ。

 [第二段 母君、子供たちを諭す]
 君達は、何心もなくてありきたまふを、母君、皆呼び据ゑたまひて、
 「みづからは、かく心憂き宿世、今は見果てつれば、この世に跡とむべきにもあらず、ともかくもさすらへなむ。生ひ先遠うて、さすがに、散りぼひたまはむありさまどもの、悲しうもあべいかな。
 姫君は、となるともかうなるとも、おのれに添ひたまへ。なかなか、男君たちは、えさらず参うで通ひ見えたてまつらむに、人の心とどめたまふべくもあらず、はしたなうてこそただよはめ。
 宮のおはせむほど、形のやうに交じらひをすとも、かの大臣たちの御心にかかれる世にて、かく心おくべきわたりぞと、さすがに知られて、人にもなり立たむこと難し。さりとて、山林に引き続きまじらむこと、後の世までいみじきこと」
 と泣きたまふに、皆、深き心は思ひ分かねど、うちひそみて泣きおはさうず。
 「昔物語などを見るにも、世の常の心ざし深き親だに、時に移ろひ、人に従へば、おろかにのみこそなりけれ。まして、形のやうにて、見る前にだに名残なき心は、かかりどころありてももてないたまはじ」
 と、御乳母どもさし集ひて、のたまひ嘆く。



 日も暮れ、雪降りぬべき空のけしきも、心細う見ゆる夕べなり。
 「いたう荒れはべりなむ。早う」
 と、御迎への君達そそのかしきこえて、御目おし拭ひつつ眺めおはす。姫君は、殿いとかなしうしたてまつりたまふならひに、
 「見たてまつらではいかでかあらむ。『今』なども聞こえで、また会ひ見ぬやうもこそあれ」
 と思ほすに、うつぶし伏して、「え渡るまじ」と思ほしたるを、
 「かく思したるなむ、いと心憂き」
 など、こしらへきこえたまふ。「ただ今も渡りたまはなむ」と、待ちきこえたまへど、かく暮れなむに、まさに動きたまひなむや。
 常に寄りゐたまふ東面の柱を、人に譲る心地したまふもあはれにて、姫君、桧皮色の紙の重ね、ただいささかに書きて、柱の干割れたるはさまに、笄の先して押し入れたまふ。
 「今はとて宿かれぬとも馴れ来つる
  真木の柱はわれを忘るな」
 えも書きやらで泣きたまふ。母君、「いでや」とて、
 「馴れきとは思ひ出づとも何により
  立ちとまるべき真木の柱ぞ」
 御前なる人びとも、さまざまに悲しく、「さしも思はぬ木草のもとさへ恋しからむこと」と、目とどめて、鼻すすりあへり。
 木工の君は、殿の御方の人にてとどまるに、中将の御許、
 「浅けれど石間の水は澄み果てて
  宿もる君やかけ離るべき
 思ひかけざりしことなり。かくて別れたてまつらむことよ」
 と言へば、木工、
 「ともかくも岩間の水の結ぼほれ
  かけとむべくも思ほえぬ世を
 いでや」
 とてうち泣く。
 御車引き出でて返り見るも、「またはいかでかは見む」と、はかなき心地す。梢をも目とどめて、隠るるまでぞ返り見たまひける。君が住むゆゑにはあらで、ここら年経たまへる御住みかの、いかでか偲びどころなくはあらむ。


 
 宮には待ち取り、いみじう思したり。母北の方、泣き騷ぎたまひて、
 「太政大臣を、めでたきよすがと思ひきこえたまへれど、いかばかりの昔の仇敵にかおはしけむとこそ思ほゆれ。
 女御をも、ことに触れ、はしたなくもてなしたまひしかど、それは、御仲の恨み解けざりしほど、思ひ知れとにこそはありけめと思しのたまひ、世の人も言ひなししだに、なほ、さやはあるべき。
 人一人を思ひかしづきたまはむゆゑは、ほとりまでもにほふ例こそあれど、心得ざりしを、まして、かく末に、すずろなる継子かしづきをして、おのれ古したまへるいとほしみに、実法なる人のゆるぎどころあるまじきをとて、取り寄せもてかしづきたまふは、いかがつらからぬ」
 と、言ひ続けののしりたまへば、宮は、
 「あな、聞きにくや。世に難つけられたまはぬ大臣を、口にまかせてなおとしめたまひそ。かしこき人は、思ひおき、かかる報いもがなと、思ふことこそはものせられけめ。さ思はるるわが身の不幸なるにこそはあらめ。
 つれなうて、皆かの沈みたまひし世の報いは、浮かべ沈め、いとかしこくこそは思ひわたいたまふめれ。おのれ一人をば、さるべきゆかりと思ひてこそは、一年も、さる世の響きに、家よりあまることどももありしか。それをこの生の面目にてやみぬべきなめり」
 とのたまふに、いよいよ腹立ちて、まがまがしきことなどを言ひ散らしたまふ。この大北の方ぞ、さがな者なりける。
 大将の君、かく渡りたまひにけるを聞きて、
 「いとあやしう、若々しき仲らひのやうに、ふすべ顔にてものしたまひけるかな。正身は、しかひききりに際々しき心もなきものを、宮のかく軽々しうおはする」
 と思ひて、君達もあり、人目もいとほしきに、思ひ乱れて、尚侍の君に、
 「かくあやしきことなむはべる。なかなか心やすくは思ひたまへなせど、さて片隅に隠ろへてもありぬべき人の心やすさを、おだしう思ひたまへつるに、にはかにかの宮ものしたまふならむ。人の聞き見ることも情けなきを、うちほのめきて、参り来なむ」
 とて出でたまふ。
 よき上の御衣、柳の下襲、青鈍の綺の指貫着たまひて、引きつくろひたまへる、いとものものし。「などかは似げなからむ」と、人びとは見たてまつるを、尚侍の君は、かかることどもを聞きたまふにつけても、身の心づきなう思し知らるれば、見もやりたまはず。



 宮に恨み聞こえむとて、参うでたまふままに、まづ、殿におはしたれば、木工の君など出で来て、ありしさま語りきこゆ。姫君の御ありさま聞きたまひて、男々しく念じたまへど、ほろほろとこぼるる御けしき、いとあはれなり。
 「さても、世の人にも似ず、あやしきことどもを見過ぐすここらの年ごろの心ざしを、見知りたまはずありけるかな。いと思ひのままならむ人は、今までも立ちとまるべくやはある。よし、かの正身は、とてもかくても、いたづら人と見えたまへば、同じことなり。幼き人びとも、いかやうにもてなしたまはむとすらむ」
 と、うち嘆きつつ、かの真木柱を見たまふに、手も幼けれど、心ばへのあはれに恋しきままに、道すがら涙おしのごひつつ参うでたまへれば、対面したまふべくもあらず。
 「何か。ただ時に移る心の、今はじめて変はりたまふにもあらず。年ごろ思ひうかれたまふさま、聞きわたりても久しくなりぬるを、いづくをまた思ひ直るべき折とか待たむ。いとどひがひがしきさまのみこそ見え果てたまはめ」
 と諌め申したまふ、ことわりなり。
 「いと、若々しき心地もしはべるかな。思ほし捨つまじき人びともはべればと、のどかに思ひはべりける心のおこたりを、かへすがへす聞こえてもやるかたなし。今はただ、なだらかに御覧じ許して、罪さりどころなう、世人にもことわらせてこそ、かやうにももてないたまはめ」
 など、聞こえわづらひておはす。「姫君をだに見たてまつらむ」と聞こえたまへれど、出だしたてまつるべくもあらず。
 男君たち、十なるは、殿上したまふ。いとうつくし。人にほめられて、容貌などようはあらねど、いとらうらうじう、ものの心やうやう知りたまへり。
 次の君は、八つばかりにて、いとらうたげに、姫君にもおぼえたれば、かき撫でつつ、
 「あこをこそは、恋しき御形見にも見るべかめれ」
 など、うち泣きて語らひたまふ。宮にも、御けしき賜はらせたまへど、
 「風邪おこりて、ためらひはべるほどにて」
 とあれば、はしたなくて出でたまひぬ。


 小君達をば車に乗せて、語らひおはす。六条殿には、え率ておはせねば、殿にとどめて、
 「なほ、ここにあれ。来て見むにも心やすかるべく」
 とのたまふ。うち眺めて、いと心細げに見送りたるさまども、いとあはれなるに、もの思ひ加はりぬる心地すれど、女君の御さまの、見るかひありてめでたきに、ひがひがしき御さまを思ひ比ぶるにも、こよなくて、よろづを慰めたまふ。
 うち絶えて訪れもせず、はしたなかりしにことづけ顔なるを、宮には、いみじうめざましがり嘆きたまふ。
 春の上も聞きたまひて、
 「ここにさへ、恨みらるるゆゑになるが苦しきこと」
 と嘆きたまふを、大臣の君、いとほしと思して、
 「難きことなり。おのが心ひとつにもあらぬ人のゆかりに、内裏にも心おきたるさまに思したなり。兵部卿宮なども、怨じたまふと聞きしを、さいへど、思ひやり深うおはする人にて、聞きあきらめ、恨み解けたまひにたなり。おのづから人の仲らひは、忍ぶることと思へど、隠れなきものなれば、しか思ふべき罪もなし、となむ思ひはべる」
 とのたまふ。


 


 かかることどもの騷ぎに、尚侍の君の御けしき、いよいよ晴れ間なきを、大将は、いとほしと思ひあつかひきこえて、
 「この参りたまはむとありしことも、絶え切れて、妨げきこえつるを、内裏にも、なめく心あるさまに聞こしめし、人びとも思すところあらむ。公人を頼みたる人はなくやはある」
 と思ひ返して、年返りて、参らせたてまつりたまふ。男踏歌ありければ、やがてそのほどに、儀式いといかめしく、二なくて参りたまふ。
 かたがたの大臣たち、この大将の御勢ひさへさしあひ、宰相中将、ねむごろに心しらひきこえたまふ。兄弟の君達も、かかる折にと集ひ、追従し寄りて、かしづきたまふさま、いとめでたし。
 承香殿の東面に御局したり。西に宮の女御はおはしければ、馬道ばかりの隔てなるに、御心のうちは、遥かに隔たりけむかし。御方々、いづれとなく挑み交はしたまひて、内裏わたり、心にくくをかしきころほひなり。ことに乱りがはしき更衣たち、あまたもさぶらひたまはず。
 中宮、弘徽殿女御、この宮の女御、左の大殿の女御などさぶらひたまふ。さては、中納言、宰相の御女二人ばかりぞさぶらひたまひける。


 踏歌は、方々に里人参り、さまことに、けににぎははしき見物なれば、誰も誰もきよらを尽くし、袖口の重なり、こちたくめでたくととのへたまふ。春宮の女御も、いとはなやかにもてなしたまひて、宮は、まだ若くおはしませど、すべていと今めかし。
 御前、中宮の御方、朱雀院とに参りて、夜いたう更けにければ、六条の院には、このたびは所狭しとはぶきたまふ。朱雀院より帰り参りて、春宮の御方々めぐるほどに、夜明けぬ。
 ほのぼのとをかしき朝ぼらけに、いたく酔ひ乱れたるさまして、「竹河」謡ひけるほどを見れば、内の大殿の君達は、四、五人ばかり、殿上人のなかに、声すぐれ、容貌きよげにて、うち続きたまへる、いとめでたし。
 童なる八郎君は、むかひ腹にて、いみじうかしづきたまふが、いとうつくしうて、大将殿の太郎君と立ち並みたるを、尚侍の君も、よそ人と見たまはねば、御目とまりけり。やむごとなくまじらひ馴れたまへる御方々よりも、この御局の袖口、おほかたのけはひ今めかしう、同じものの色あひ、襲なりなれど、ものよりことにはなやかなり。
 正身も女房たちも、かやうに御心やりて、しばしは過ぐいたまはまし、と思ひあへり。
 皆同じごと、かづけわたす綿のさまも、匂ひ香ことにらうらうじうしないたまひて、こなたは水駅なりけれど、けはひにぎははしく、人びと心懸想しそして、限りある御饗などのことどもも、したるさま、ことに用意ありてなむ、大将殿せさせたまへりける。


 宿直所にゐたまひて、日一日、聞こえ暮らしたまふことは、
 「夜さり、まかでさせたてまつりてむ。かかるついでにと、思し移るらむ御宮仕へなむ、やすからぬ」
 とのみ、同じことを責めきこえたまへど、御返りなし。さぶらふ人びとぞ、
 「大臣の、『心あわたたしきほどならで、まれまれの御参りなれば、御心ゆかせたまふばかり。許されありてを、まかでさせたまへ』と、聞こえさせたまひしかば、今宵は、あまりすがすがしうや」
 と聞こえたるを、いとつらしと思ひて、
 「さばかり聞こえしものを、さも心にかなはぬ世かな」
 とうち嘆きてゐたまへり。
 兵部卿宮、御前の御遊びにさぶらひたまひて、静心なく、この御局のあたり思ひやられたまへば、念じあまりて聞こえたまへり。大将は、司の御曹司にぞおはしける。「これより」とて取り入れたれば、しぶしぶに見たまふ。
 「深山木に羽うち交はしゐる鳥の
  またなくねたき春にもあるかな
 さへづる声も耳とどめられてなむ」
 とあり。いとほしう、面赤みて、聞こえむかたなく思ひゐたまへるに、主上渡らせたまふ。



 月の明かきに、御容貌はいふよしなくきよらにて、ただ、かの大臣の御けはひに違ふところなくおはします。「かかる人はまたもおはしけり」と、見たてまつりたまふ。かの御心ばへは浅からぬも、うたてもの思ひ加はりしを、これは、などかはさしもおぼえさせたまはむ。いとなつかしげに、思ひしことの違ひにたる怨みをのたまはするに、面おかむかたなくぞおぼえたまふや。顔をもて隠して、御いらへもえ聞こえたまはねば、
 「あやしうおぼつかなきわざかな。よろこびなども、思ひ知りたまはむと思ふことあるを、聞き入れたまはぬさまにのみあるは、かかる御癖なりけり」
 とのたまはせて、
 「などてかく灰あひがたき紫を
  心に深く思ひそめけむ
 濃くなり果つまじきにや」
 と仰せらるるさま、いと若くきよらに恥づかしきを、「違ひたまへるところやある」と思ひ慰めて、聞こえたまふ。宮仕への労もなくて、今年、加階したまへる心にや。
 「いかならむ色とも知らぬ紫を
  心してこそ人は染めけれ
 今よりなむ思ひたまへ知るべき」
 と聞こえたまへば、うち笑みて、
 「その、今より染めたまはむこそ、かひなかべいことなれ。愁ふべき人あらば、ことわり聞かまほしくなむ」
 と、いたう怨みさせたまふ御けしきの、まめやかにわづらはしければ、「いとうたてもあるかな」とおぼえて、「をかしきさまをも見えたてまつらじ、むつかしき世の癖なりけり」と思ふに、まめだちてさぶらひたまへば、え思すさまなる乱れごともうち出でさせたまはで、「やうやうこそは目馴れめ」と思しけり。


 大将は、かく渡らせたまへるを聞きたまひて、いとど静心なければ、急ぎまどはしたまふ。みづからも、「似げなきことも出で来ぬべき身なりけり」と心憂きに、えのどめたまはず、まかでさせたまふべきさま、つきづきしきことづけども作り出でて、父大臣など、かしこくたばかりたまひてなむ、御暇許されたまひける。
 「さらば。物懲りして、また出だし立てぬ人もぞある。いとこそからけれ。人より先に進みにし心ざしの、人に後れて、けしき取り従ふよ。昔のなにがしが例も、引き出でつべき心地なむする」
 とて、まことにいと口惜しと思し召したり。
 聞こし召ししにも、こよなき近まさりを、はじめよりさる御心なからむにてだにも、御覧じ過ぐすまじきを、まいていとねたう、飽かず思さる。
 されど、ひたぶるに浅き方に、思ひ疎まれじとて、いみじう心深きさまにのたまひ契りて、なつけたまふも、かたじけなう、「われは、われ、と思ふものを」と思す。
 御輦車寄せて、こなた、かなたの、御かしづき人ども心もとながり、大将も、いとものむつかしうたち添ひ、騷ぎたまふまで、えおはしまし離れず。
 「かういと厳しき近き守りこそむつかしけれ」
 と憎ませたまふ。
 「九重に霞隔てば梅の花
  ただ香ばかりも匂ひ来じとや」
 殊なることなきことなれども、御ありさま、けはひを見たてまつるほどは、をかしくもやありけむ。
 「野をなつかしみ、明いつべき夜を、惜しむべかめる人も、身をつみて心苦しうなむ。いかでか聞こゆべき」
 と思し悩むも、「いとかたじけなし」と、見たてまつる。
 「香ばかりは風にもつてよ花の枝に
  立ち並ぶべき匂ひなくとも」
 さすがにかけ離れぬけはひを、あはれと思しつつ、返り見がちにて渡らせたまひぬ。


 やがて今宵、かの殿にと思しまうけたるを、かねては許されあるまじきにより、漏らしきこえたまはで、
 「にはかにいと乱り風邪の悩ましきを、心やすき所にうち休みはべらむほど、よそよそにてはいとおぼつかなくはべらむを」
 と、おいらかに申しないたまひて、やがて渡したてまつりたまふ。
 父大臣、にはかなるを、「儀式なきやうにや」と思せど、「あながちに、さばかりのことを言ひ妨げむも、人の心おくべし」と思せば、
 「ともかくも。もとより進退ならぬ人の御ことなれば」
 とぞ、聞こえたまひける。
 六条殿ぞ、「いとゆくりなく本意なし」と思せど、などかはあらむ。女も、塩やく煙のなびきけるかたを、あさましと思せど、盗みもて行きたらましと思しなずらへて、いとうれしく心地おちゐぬ。
 かの、入りゐさせたまへりしことを、いみじう怨じきこえさせたまふも、心づきなく、なほなほしき心地して、世には心解けぬ御もてなし、いよいよけしき悪し。
 かの宮にも、さこそたけうのたまひしか、いみじう思しわぶれど、絶えて訪れず。ただ思ふことかなひぬる御かしづきに、明け暮れいとなみて過ぐしたまふ。


 二月にもなりぬ。大殿は、
 「さても、つれなきわざなりや。いとかう際々しうとしも思はで、たゆめられたるねたさを」
 人悪ろく、すべて御心にかからぬ折なく、恋しう思ひ出でられたまふ。
 「宿世などいふもの、おろかならぬことなれど、わがあまりなる心にて、かく人やりならぬものは思ふぞかし」
 と、起き臥し面影にぞ見えたまふ。
 大将の、をかしやかに、わららかなる気もなき人に添ひゐたらむに、はかなき戯れごともつつましう、あいなく思されて、念じたまふを、雨いたう降りて、いとのどやかなるころ、かやうのつれづれも紛らはし所に渡りたまひて、語らひたまひしさまなどの、いみじう恋しければ、御文たてまつりたまふ。
 右近がもとに忍びてつかはすも、かつは、思はむことを思すに、何ごともえ続けたまはで、ただ思はせたることどもぞありける。
 「かきたれてのどけきころの春雨に
  ふるさと人をいかに偲ぶや
 つれづれに添へて、うらめしう思ひ出でらるること多うはべるを、いかでか分き聞こゆべからむ」
 などあり。
 隙に忍びて見せたてまつれば、うち泣きて、わが心にも、ほど経るままに思ひ出でられたまふ御さまを、まほに、「恋しや、いかで見たてまつらむ」などは、えのたまはぬ親にて、「げに、いかでかは対面もあらむ」と、あはれなり。
 時々、むつかしかりし御けしきを、心づきなう思ひきこえしなどは、この人にも知らせたまはぬことなれば、心ひとつに思し続くれど、右近は、ほのけしき見けり。いかなりけることならむとは、今に心得がたく思ひける。
 御返り、「聞こゆるも恥づかしけれど、おぼつかなくやは」とて、書きたまふ。
 「眺めする軒の雫に袖ぬれて
  うたかた人を偲ばざらめや
 ほどふるころは、げに、ことなるつれづれもまさりはべりけり。あなかしこ」
 と、ゐやゐやしく書きなしたまへり。



 引き広げて、玉水のこぼるるやうに思さるるを、「人も見ば、うたてあるべし」と、つれなくもてなしたまへど、胸に満つ心地して、かの昔の、尚侍の君を朱雀院の后の切に取り籠めたまひし折など思し出づれど、さしあたりたることなればにや、これは世づかずぞあはれなりける。
 「好いたる人は、心からやすかるまじきわざなりけり。今は何につけてか心をも乱らまし。似げなき恋のつまなりや」
 と、さましわびたまひて、御琴掻き鳴らして、なつかしう弾きなしたまひし爪音、思ひ出でられたまふ。あづまの調べを、すが掻きて、
 「玉藻はな刈りそ」
 と、歌ひすさびたまふも、恋しき人に見せたらば、あはれ過ぐすまじき御さまなり。
 内裏にも、ほのかに御覧ぜし御容貌ありさまを、心にかけたまひて、
 「赤裳垂れ引き去にし姿を」
 と、憎げなる古事なれど、御言種になりてなむ、眺めさせたまひける。御文は、忍び忍びにありけり。身を憂きものに思ひしみたまひて、かやうのすさびごとをも、あいなく思しければ、心とけたる御いらへも聞こえたまはず。
 なほ、かの、ありがたかりし御心おきてを、かたがたにつけて思ひしみたまへる御ことぞ、忘られざりける。



 三月になりて、六条殿の御前の、藤、山吹のおもしろき夕ばえを見たまふにつけても、まづ見るかひありてゐたまへりし御さまのみ思し出でらるれば、春の御前をうち捨てて、こなたに渡りて御覧ず。
 呉竹の籬に、わざとなう咲きかかりたるにほひ、いとおもしろし。
 「色に衣を」
 などのたまひて、
 「思はずに井手の中道隔つとも
  言はでぞ恋ふる山吹の花
 顔に見えつつ」
 などのたまふも、聞く人なし。かく、さすがにもて離れたることは、このたびぞ思しける。げに、あやしき御心のすさびなりや。
 かりの子のいと多かるを御覧じて、柑子、橘などやうに紛らはして、わざとならずたてまつれたまふ。御文は、「あまり人もぞ目立つる」など思して、すくよかに、
 「おぼつかなき月日も重なりぬるを、思はずなる御もてなしなりと恨みきこゆるも、御心ひとつにのみはあるまじう聞きはべれば、ことなるついでならでは、対面の難からむを、口惜しう思ひたまふる」
 など、親めき書きたまひて、
 「同じ巣にかへりしかひの見えぬかな
  いかなる人か手ににぎるらむ
 などか、さしもなど、心やましうなむ」
 などあるを、大将も見たまひて、うち笑ひて、
 「女は、まことの親の御あたりにも、たはやすくうち渡り見えたてまつりたまはむこと、ついでなくてあるべきことにあらず。まして、なぞ、この大臣の、をりをり思ひ放たず、恨み言はしたまふ」
 と、つぶやくも、憎しと聞きたまふ。
 「御返り、ここにはえ聞こえじ」
 と、書きにくくおぼいたれば、
 「まろ聞こえむ」
 と代はるも、かたはらいたしや。
 「巣隠れて数にもあらぬかりの子を
 いづ方にかは取り隠すべき
 よろしからぬ御けしきにおどろきて。すきずきしや」
 と聞こえたまへり。
 「この大将の、かかるはかなしごと言ひたるも、まだこそ聞かざりつれ。めづらしう」
 とて、笑ひたまふ。心のうちには、かく領じたるを、いとからしと思す。


 


 かの、もとの北の方は、月日隔たるままに、あさましと、ものを思ひ沈み、いよいよ呆け疾れてものしたまふ。大将殿のおほかたの訪らひ、何ごとをも詳しう思しおきて、君達をば、変はらず思ひかしづきたまへば、えしもかけ離れたまはず、まめやかなる方の頼みは、同じことにてなむものしたまひける。
 姫君をぞ、堪へがたく恋ひきこえたまへど、絶えて見せたてまつりたまはず。若き御心のうちに、この父君を、誰れも誰れも、許しなう恨みきこえて、いよいよ隔てたまふことのみまされば、心細く悲しきに、男君たちは、常に参り馴れつつ、尚侍の君の御ありさまなどをも、おのづからことにふれてうち語りて、
 「まろらをも、らうたくなつかしうなむしたまふ。明け暮れをかしきことを好みてものしたまふ」
 など言ふに、うらやましう、かやうにても安らかに振る舞ふ身ならざりけむを嘆きたまふ。あやしう、男女につけつつ、人にものを思はする尚侍の君にぞおはしける。


 その年の十一月に、いとをかしき稚児をさへ抱き出でたまへれば、大将も、思ふやうにめでたしと、もてかしづきたまふこと、限りなし。そのほどのありさま、言はずとも思ひやりつべきことぞかし。父大臣も、おのづから思ふやうなる御宿世と思したり。
 わざとかしづきたまふ君達にも、御容貌などは劣りたまはず。頭中将も、この尚侍の君を、いとなつかしきはらからにて、睦びきこえたまふものから、さすがなる御けしきうちまぜつつ、
 「宮仕ひに、かひありてものしたまはましものを」
 と、この若君のうつくしきにつけても、
 「今まで皇子たちのおはせぬ嘆きを見たてまつるに、いかに面目あらまし」
 と、あまりのことをぞ思ひてのたまふ。
 公事は、あるべきさまに知りなどしつつ、参りたまふことぞ、やがてかくてやみぬべかめる。さてもありぬべきことなりかし。


 まことや、かの内の大殿の御女の、尚侍のぞみし君も、さるものの癖なれば、色めかしう、さまよふ心さへ添ひて、もてわづらひたまふ。女御も、「つひに、あはあはしきこと、この君ぞ引き出でむ」と、ともすれば、御胸つぶしたまへど、大臣の、
 「今は、なまじらひそ」
 と、制しのたまふをだに聞き入れず、まじらひ出でてものしたまふ。
 いかなる折にかありけむ、殿上人あまた、おぼえことなる限り、この女御の御方に参りて、物の音など調べ、なつかしきほどの拍子打ち加へてあそぶ。秋の夕べのただならぬに、宰相中将も寄りおはして、例ならず乱れてものなどのたまふを、人びとめづらしがりて、
 「なほ、人よりことにも」
 とめづるに、この近江の君、人びとの中を押し分けて出でゐたまふ。
 「あな、うたてや。こはなぞ」
 と引き入るれど、いとさがなげににらみて、張りゐたれば、わづらはしくて、
 「あうなきことや、のたまひ出でむ」
 と、つき交はすに、この世に目馴れぬまめ人をしも、
 「これぞな、これぞな」
 とめでて、ささめき騒ぐ声、いとしるし。人びと、いと苦しと思ふに、声いとさはやかにて、
 「沖つ舟よるべ波路に漂はば
  棹さし寄らむ泊り教へよ
 棚なし小舟漕ぎ返り、同じ人をや。あな、悪や」
 と言ふを、いとあやしう、
 「この御方には、かう用意なきこと聞こえぬものを」と思ひまはすに、「この聞く人なりけり」
 と、をかしうて、
 「よるべなみ風の騒がす舟人も
  思はぬ方に磯伝ひせず」
 とて、はしたなかめり、とや。


 

   

 

           現代語訳 補足 目次

      三十二、 梅 枝    
 


   
 




 御裳着のこと、思しいそぐ御心おきて、世の常ならず。春宮も同じ二月に、御かうぶりのことあるべければ、やがて御参りもうち続くべきにや。
 正月の晦日なれば、公私のどやかなるころほひに、薫物合はせたまふ。大弐の奉れる香ども御覧ずるに、「なほ、いにしへのには劣りてやあらむ」と思して、二条院の御倉開けさせたまひて、唐の物ども取り渡させたまひて、御覧じ比ぶるに、
 「錦、綾なども、なほ古きものこそなつかしうこまやかにはありけれ」
 とて、近き御しつらひの、物の覆ひ、敷物、茵などの端どもに、故院の御世の初めつ方、高麗人のたてまつれりける綾、緋金錦どもなど、今の世のものに似ず、なほさまざま御覧じあてつつせさせたまひて、このたびの綾、羅などは、人びとに賜はす。
 香どもは、昔今の、取り並べさせたまひて、御方々に配りたてまつらせたまふ。
 「二種づつ合はせさせたまへ」
 と、聞こえさせたまへり。贈り物、上達部の禄など、世になきさまに、内にも外にも、ことしげくいとなみたまふに添へて、方々に選りととのへて、鉄臼の音耳かしかましきころなり。
 大臣は、寝殿に離れおはしまして、承和の御いましめの二つの方を、いかでか御耳には伝へたまひけむ、心にしめて合はせたまふ。
 上は、東の中の放出に、御しつらひことに深うしなさせたまひて、八条の式部卿の御方を伝へて、かたみに挑み合はせたまふほど、いみじう秘したまへば、
 「匂ひの深さ浅さも、勝ち負けの定めあるべし」
 と大臣のたまふ。人の御親げなき御あらそひ心なり。
 いづ方にも、御前にさぶらふ人あまたならず。御調度どもも、そこらのきよらを尽くしたまへるなかにも、香壷の御筥どものやう、壷の姿、火取りの心ばへも、目馴れぬさまに、今めかしう、やう変へさせたまへるに、所々の心を尽くしたまへらむ匂ひどもの、すぐれたらむどもを、かぎあはせて入れむと思すなりけり。


 二月の十日、雨すこし降りて、御前近き紅梅盛りに、色も香も似るものなきほどに、兵部卿宮渡りたまへり。御いそぎの今日明日になりにけることども、訪らひきこえたまふ。昔より取り分きたる御仲なれば、隔てなく、そのことかのこと、と聞こえあはせたまひて、花をめでつつおはするほどに、前斎院よりとて、散り過ぎたる梅の枝につけたる御文持て参れり。宮、聞こしめすこともあれば、
 「いかなる御消息のすすみ参れるにか」
 とて、をかしと思したれば、ほほ笑みて、
 「いと馴れ馴れしきこと聞こえつけたりしを、まめやかに急ぎものしたまへるなめり」
 とて、御文は引き隠したまひつ。
 沈の筥に、瑠璃の坏二つ据ゑて、大きにまろがしつつ入れたまへり。心葉、紺瑠璃には五葉の枝、白きには梅を選りて、同じくひき結びたる糸のさまも、なよびやかになまめかしうぞしたまへる。
 「艶あるもののさまかな」
 とて、御目止めたまへるに、
 「花の香は散りにし枝にとまらねど
  うつらむ袖に浅くしまめや」
 ほのかなるを御覧じつけて、宮はことことしう誦じたまふ。
 宰相中将、御使尋ねとどめさせたまひて、いたう酔はしたまふ。紅梅襲の唐の細長添へたる女の装束かづけたまふ。御返りもその色の紙にて、御前の花を折らせてつけさせたまふ。
 宮、
 「うちのこと思ひやらるる御文かな。何ごとの隠ろへあるにか、深く隠したまふ」
 と恨みて、いとゆかしと思したり。
 「何ごとかはべらむ。隈々しく思したるこそ、苦しけれ」
 とて、御硯のついでに、
 「花の枝にいとど心をしむるかな
  人のとがめむ香をばつつめど」
 とやありつらむ。
 「まめやかには、好き好きしきやうなれど、またもなかめる人の上にて、これこそはことわりのいとなみなめれと、思ひたまへなしてなむ。いと醜ければ、疎き人はかたはらいたさに、中宮まかでさせたてまつりてと思ひたまふる。親しきほどに馴れきこえかよへど、恥づかしきところの深うおはする宮なれば、何ごとも世の常にて見せたてまつらむ、かたじけなくてなむ」
 など、聞こえたまふ。
 「あえものも、げに、かならず思し寄るべきことなりけり」
 と、ことわり申したまふ。



 このついでに、御方々の合はせたまふども、おのおの御使して、
 「この夕暮れのしめりにこころみむ」
 と聞こえたまへれば、さまざまをかしうしなして奉りたまへり。
 「これ分かせたまへ。誰れにか見せむ」
 と聞こえたまひて、御火取りども召して、こころみさせたまふ。
 「知る人にもあらずや」
 と卑下したまへど、言ひ知らぬ匂ひどもの、進み遅れたる香一種などが、いささかの咎を分きて、あながちに劣りまさりのけぢめをおきたまふ。かのわが御二種のは、今ぞ取う出させたまふ。
 右近の陣の御溝水のほとりになずらへて、西の渡殿の下より出づる汀近う埋ませたまへるを、惟光の宰相の子の兵衛尉、堀りて参れり。宰相中将、取りて伝へ参らせたまふ。宮、
 「いと苦しき判者にも当たりてはべるかな。いと煙たしや」
 と、悩みたまふ。同じうこそは、いづくにも散りつつ広ごるべかめるを、人びとの心々に合はせたまへる、深さ浅さを、かぎあはせたまへるに、いと興あること多かり。
 さらにいづれともなき中に、斎院の御黒方、さいへども、心にくくしづやかなる匂ひ、ことなり。侍従は、大臣の御は、すぐれてなまめかしうなつかしき香なりと定めたまふ。
 対の上の御は、三種ある中に、梅花、はなやかに今めかしう、すこしはやき心しつらひを添へて、めづらしき薫り加はれり。
 「このころの風にたぐへむには、さらにこれにまさる匂ひあらじ」
 とめでたまふ。
 夏の御方には、人びとの、かう心々に挑みたまふなる中に、数々にも立ち出でずやと、煙をさへ思ひ消えたまへる御心にて、ただ荷葉を一種合はせたまへり。さま変はりしめやかなる香して、あはれになつかし。
 冬の御方にも、時々によれる匂ひの定まれるに消たれむもあいなしと思して、薫衣香の方のすぐれたるは、前の朱雀院のをうつさせたまひて、公忠朝臣の、ことに選び仕うまつれりし百歩の方など思ひ得て、世に似ずなまめかしさを取り集めたる、心おきてすぐれたりと、いづれをも無徳ならず定めたまふを、
 「心ぎたなき判者なめり」
 と聞こえたまふ。



 月さし出でぬれば、大御酒など参りて、昔の御物語などしたまふ。霞める月の影心にくきを、雨の名残の風すこし吹きて、花の香なつかしきに、御殿のあたり言ひ知らず匂ひ満ちて、人の御心地いと艶あり。
 蔵人所の方にも、明日の御遊びのうちならしに、御琴どもの装束などして、殿上人などあまた参りて、をかしき笛の音ども聞こゆ。
 内の大殿の頭中将、弁少将なども、見参ばかりにてまかづるを、とどめさせたまひて、御琴ども召す。
 宮の御前に琵琶、大臣に箏の御琴参りて、頭中将、和琴賜はりて、はなやかに掻きたてたるほど、いとおもしろく聞こゆ。宰相中将、横笛吹きたまふ。折にあひたる調子、雲居とほるばかり吹きたてたり。弁少将、拍子取りて、「梅が枝」出だしたるほど、いとをかし。童にて、韻塞ぎの折、「高砂」謡ひし君なり。宮も大臣もさしいらへしたまひて、ことことしからぬものから、をかしき夜の御遊びなり。
 御土器参るに、宮、
 「鴬の声にやいとどあくがれむ
  心しめつる花のあたりに
 千代も経ぬべし」
 と聞こえたまへば、
 「色も香もうつるばかりにこの春は
  花咲く宿をかれずもあらなむ」
 頭中将に賜へば、取りて、宰相中将にさす。
 「鴬のねぐらの枝もなびくまで
  なほ吹きとほせ夜半の笛竹」
 宰相中将、
 「心ありて風の避くめる花の木に
  とりあへぬまで吹きや寄るべき
 情けなく」
 と、皆うち笑ひたまふ。弁少将、
 「霞だに月と花とを隔てずは
  ねぐらの鳥もほころびなまし」
 まことに、明け方になりてぞ、宮帰りたまふ。御贈り物に、みづからの御料の御直衣の御よそひ一領、手触れたまはぬ薫物二壷添へて、御車にたてまつらせたまふ。宮、
 「花の香をえならぬ袖にうつしもて
  ことあやまりと妹やとがめむ」
 とあれば、
 「いと屈したりや」
 と笑ひたまふ。御車かくるほどに、追ひて、
 「めづらしと故里人も待ちぞ見む
  花の錦を着て帰る君
 またなきことと思さるらむ」
 とあれば、いといたうからがりたまふ。次々の君達にも、ことことしからぬさまに、細長、小袿などかづけたまふ。


 


 かくて、西の御殿に、戌の時に渡りたまふ。宮のおはします西の放出をしつらひて、御髪上の内侍なども、やがてこなたに参れり。上も、このついでに、中宮に御対面あり。御方々の女房、押しあはせたる、数しらず見えたり。
 子の時に御裳たてまつる。大殿油ほのかなれど、御けはひいとめでたしと、宮は見たてまつれたまふ。大臣、
 「思し捨つまじきを頼みにて、なめげなる姿を、進み御覧ぜられはべるなり。後の世のためしにやと、心狭く忍び思ひたまふる」
 など聞こえたまふ。宮、
 「いかなるべきこととも思うたまへ分きはべらざりつるを、かうことことしうとりなさせたまふになむ、なかなか心おかれぬべく」
 と、のたまひ消つほどの御けはひ、いと若く愛敬づきたるに、大臣も、思すさまにをかしき御けはひどもの、さし集ひたまへるを、あはひめでたく思さる。母君の、かかる折だにえ見たてまつらぬを、いみじと思へりしも心苦しうて、参う上らせやせましと思せど、人のもの言ひをつつみて、過ぐしたまひつ。
 かかる所の儀式は、よろしきにだに、いとこと多くうるさきを、片端ばかり、例のしどけなくまねばむもなかなかにやとて、こまかに書かず。


 春宮の御元服は、二十余日のほどになむありける。いと大人しくおはしませば、人の女ども競ひ参らすべきことを、心ざし思すなれど、この殿の思しきざすさまの、いとことなれば、なかなかにてや交じらはむと、左の大臣なども、思しとどまるなるを聞こしめして、
 「いとたいだいしきことなり。宮仕への筋は、あまたあるなかに、すこしのけぢめを挑まむこそ本意ならめ。そこらの警策の姫君たち、引き籠められなば、世に映えあらじ」
 とのたまひて、御参り延びぬ。次々にもとしづめたまひけるを、かかるよし所々に聞きたまひて、左大臣殿の三の君参りたまひぬ。麗景殿と聞こゆ。
 この御方は、昔の御宿直所、淑景舎を改めしつらひて、御参り延びぬるを、宮にも心もとながらせたまへば、四月にと定めさせたまふ。御調度どもも、もとあるよりもととのへて、御みづからも、ものの下形、絵様などをも御覧じ入れつつ、すぐれたる道々の上手どもを召し集めて、こまかに磨きととのへさせたまふ。
 草子の筥に入るべき草子どもの、やがて本にもしたまふべきを選らせたまふ。いにしへの上なき際の御手どもの、世に名を残したまへるたぐひのも、いと多くさぶらふ。



 「よろづのこと、昔には劣りざまに、浅くなりゆく世の末なれど、仮名のみなむ、今の世はいと際なくなりたる。古き跡は、定まれるやうにはあれど、広き心ゆたかならず、一筋に通ひてなむありける。
 妙にをかしきことは、外よりてこそ書き出づる人びとありけれど、女手を心に入れて習ひし盛りに、こともなき手本多く集へたりしなかに、中宮の母御息所の、心にも入れず走り書いたまへりし一行ばかり、わざとならぬを得て、際ことにおぼえしはや。
 さて、あるまじき御名も立てきこえしぞかし。悔しきことに思ひしみたまへりしかど、さしもあらざりけり。宮にかく後見仕うまつることを、心深うおはせしかば、亡き御影にも見直したまふらむ。
 宮の御手は、こまかにをかしげなれど、かどや後れたらむ」
 と、うちささめきて聞こえたまふ。
 「故入道宮の御手は、いとけしき深うなまめきたる筋はありしかど、弱きところありて、にほひぞすくなかりし。
 院の尚侍こそ、今の世の上手におはすれど、あまりそぼれて癖ぞ添ひためる。さはありとも、かの君と、前斎院と、ここにとこそは、書きたまはめ」
 と、聴しきこえたまへば、
 「この数には、まばゆくや」
 と聞こえたまへば、
 「いたうな過ぐしたまひそ。にこやかなる方のなつかしさは、ことなるものを。真名のすすみたるほどに、仮名はしどけなき文字こそ混じるめれ」
 とて、まだ書かぬ草子ども作り加へて、表紙、紐などいみじうせさせたまふ。
 「兵部卿宮、左衛門督などにものせむ。みづから一具は書くべし。けしきばみいますがりとも、え書き並べじや」
 と、われぼめをしたまふ。



 墨、筆、並びなく選り出でて、例の所々に、ただならぬ御消息あれば、人びと、難きことに思して、返さひ申したまふもあれば、まめやかに聞こえたまふ。高麗の紙の薄様だちたるが、せめてなまめかしきを、
 「この、もの好みする若き人びと、試みむ」
 とて、宰相中将、式部卿宮の兵衛督、内の大殿の頭中将などに、
 「葦手、歌絵を、思ひ思ひに書け」
 とのたまへば、皆心々に挑むべかめり。
 例の寝殿に離れおはしまして書きたまふ。花ざかり過ぎて、浅緑なる空うららかなるに、古き言どもなど思ひすましたまひて、御心のゆく限り、草のも、ただのも、女手も、いみじう書き尽くしたまふ。
 御前に人しげからず、女房二、三人ばかり、墨など擦らせたまひて、ゆゑある古き集の歌など、いかにぞやなど選り出でたまふに、口惜しからぬ限りさぶらふ。
 御簾上げわたして、脇息の上に草子うち置き、端近くうち乱れて、筆の尻くはへて、思ひめぐらしたまへるさま、飽く世なくめでたし。白き赤きなど、掲焉なる枚は、筆とり直し、用意したまへるさまさへ、見知らむ人は、げにめでぬべき御ありさまなり。



 「兵部卿宮渡りたまふ」と聞こゆれば、おどろきて、御直衣たてまつり、御茵参り添へさせたまひて、やがて待ち取り、入れたてまつりたまふ。この宮もいときよげにて、御階段さまよく歩み上りたまふほど、内にも人びとのぞきて見たてまつる。うちかしこまりて、かたみにうるはしだちたまへるも、いときよらなり。
 「つれづれに籠もりはべるも、苦しきまで思うたまへらるる心ののどけさに、折よく渡らせたまへる」
 と、よろこびきこえたまふ。かの御草子待たせて渡りたまへるなりけり。やがて御覧ずれば、すぐれてしもあらぬ御手を、ただかたかどに、いといたう筆澄みたるけしきありて書きなしたまへり。歌も、ことさらめき、そばみたる古言どもを選りて、ただ三行ばかりに、文字少なに好ましくぞ書きたまへる。大臣、御覧じ驚きぬ。
 「かうまでは思ひたまへずこそありつれ。さらに筆投げ捨てつべしや」
 と、ねたがりたまふ。
 「かかる御中に面なくくだす筆のほど、さりともとなむ思うたまふる」
 など、戯れたまふ。
 書きたまへる草子どもも、隠したまふべきならねば、取う出たまひて、かたみに御覧ず。
 唐の紙の、いとすくみたるに、草書きたまへる、すぐれてめでたしと見たまふに、高麗の紙の、肌こまかに和うなつかしきが、色などははなやかならで、なまめきたるに、おほどかなる女手の、うるはしう心とどめて書きたまへる、たとふべきかたなし。
 見たまふ人の涙さへ、水茎に流れ添ふ心地して、飽く世あるまじきに、また、ここの紙屋の色紙の、色あひはなやかなるに、乱れたる草の歌を、筆にまかせて乱れ書きたまへる、見所限りなし。しどろもどろに愛敬づき、見まほしければ、さらに残りどもに目も見やりたまはず。



 左衛門督は、ことことしうかしこげなる筋をのみ好みて書きたれど、筆の掟て澄まぬ心地して、いたはり加へたるけしきなり。歌なども、ことさらめきて、選り書きたり。
 女の御は、まほにも取り出でたまはず。斎院のなどは、まして取う出たまはざりけり。葦手の草子どもぞ、心々にはかなうをかしき。
 宰相中将のは、水の勢ひ豊に書きなし、そそけたる葦の生ひざまなど、難波の浦に通ひて、こなたかなたいきまじりて、いたう澄みたるところあり。また、いといかめしう、ひきかへて、文字やう、石などのたたずまひ、好み書きたまへる枚もあめり。
 「目も及ばず。これは暇いりぬべきものかな」
 と、興じめでたまふ。何事ももの好みし、艶がりおはする親王にて、いといみじうめできこえたまふ。



 今日はまた、手のことどものたまひ暮らし、さまざまの継紙の本ども、選り出でさせたまへるついでに、御子の侍従して、宮にさぶらふ本ども取りに遣はす。
 嵯峨の帝の、『古万葉集』を選び書かせたまへる四巻、延喜の帝の、『古今和歌集』を、唐の浅縹の紙を継ぎて、同じ色の濃き紋の綺の表紙、同じき玉の軸、緞の唐組の紐など、なまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつつ、いみじう書き尽くさせたまへる、大殿油短く参りて御覧ずるに、
 「尽きせぬものかな。このころの人は、ただかたそばをけしきばむにこそありけれ」
 など、めでたまふ。やがてこれはとどめたてまつりたまふ。
 「女子などを持てはべらましにだに、をさをさ見はやすまじきには伝ふまじきを、まして、朽ちぬべきを」
 など聞こえてたてまつれたまふ。侍従に、唐の本などのいとわざとがましき、沈の筥に入れて、いみじき高麗笛添へて、奉れたまふ。
 またこのころは、ただ仮名の定めをしたまひて、世の中に手書くとおぼえたる、上中下の人々にも、さるべきものども思しはからひて、尋ねつつ書かせたまふ。この御筥には、立ち下れるをば混ぜたまはず、わざと、人のほど、品分かせたまひつつ、草子、巻物、皆書かせたてまつりたまふ。
 よろづにめづらかなる御宝物ども、人の朝廷までありがたげなる中に、この本どもなむ、ゆかしと心動きたまふ若人、世に多かりける。御絵どもととのへさせたまふ中に、かの『須磨の日記』は、末にも伝へ知らせむと思せど、「今すこし世をも思し知りなむに」と思し返して、まだ取り出でたまはず。


 


 内の大臣は、この御いそぎを、人の上にて聞きたまふも、いみじう心もとなく、さうざうしと思す。姫君の御ありさま、盛りにととのひて、あたらしううつくしげなり。つれづれとうちしめりたまへるほど、いみじき御嘆きぐさなるに、かの人の御けしき、はた、同じやうになだらかなれば、「心弱く進み寄らむも、人笑はれに、人のねむごろなりしきざみに、なびきなましかば」など、人知れず思し嘆きて、一方に罪をもおほせたまはず。
 かくすこしたわみたまへる御けしきを、宰相の君は聞きたまへど、しばしつらかりし御心を憂しと思へば、つれなくもてなし、しづめて、さすがに他ざまの心はつくべくもおぼえず、心づから戯れにくき折多かれど、「浅緑」聞こえごちし御乳母どもに、納言に上りて見えむの御心深かるべし。


 大臣は、「あやしう浮きたるさまかな」と、思し悩みて、
 「かのわたりのこと、思ひ絶えにたらば、右大臣、中務宮などの、けしきばみ言はせたまふめるを、いづくも思ひ定められよ」
 とのたまへど、ものも聞こえたまはず、かしこまりたる御さまにてさぶらひたまふ。
 「かやうのことは、かしこき御教へにだに従ふべくもおぼえざりしかば、言まぜま憂けれど、今思ひあはするには、かの御教へこそ、長き例にはありけれ。
 つれづれとものすれば、思ふところあるにやと、世人も推し量るらむを、宿世の引く方にて、なほなほしきことにありありてなびく、いと尻びに、人悪ろきことぞや。
 いみじう思ひのぼれど、心にしもかなはず、限りのあるものから、好き好きしき心つかはるな。いはけなくより、宮の内に生ひ出でて、身を心にまかせず、所狭く、いささかの事のあやまりもあらば、軽々しきそしりをや負はむと、つつみしだに、なほ好き好きしき咎を負ひて、世にはしたなめられき。
 位浅く、何となき身のほど、うちとけ、心のままなる振る舞ひなどものせらるな。心おのづからおごりぬれば、思ひしづむべきくさはひなき時、女のことにてなむ、かしこき人、昔も乱るる例ありける。
 さるまじきことに心をつけて、人の名をも立て、みづからも恨みを負ふなむ、つひのほだしとなりける。とりあやまりつつ見む人の、わが心にかなはず、忍ばむこと難き節ありとも、なほ思ひ返さむ心をならひて、もしは親の心にゆづり、もしは親なくて世の中かたほにありとも、人柄心苦しうなどあらむ人をば、それを片かどに寄せても見たまへ。わがため、人のため、つひによかるべき心ぞ深うあるべき」
 など、のどやかにつれづるなる折は、かかる心づかひをのみ教へたまふ。



 かやうなる御諌めにつきて、戯れにても他ざまの心を思ひかかるは、あはれに、人やりならずおぼえたまふ。女も、常よりことに、大臣の思ひ嘆きたまへる御けしきに、恥づかしう、憂き身と思し沈めど、上はつれなくおほどかにて、眺め過ぐしたまふ。
 御文は、思ひあまりたまふ折々、あはれに心深きさまに聞こえたまふ。「誰がまことをか」と思ひながら、世馴れたる人こそ、あながちに人の心をも疑ふなれ、あはれと見たまふふし多かり。
 「中務宮なむ、大殿にも御けしき賜はりて、さもやと、思し交はしたなる」
 と人の聞こえければ、大臣は、ひき返し御胸ふたがるべし。忍びて、
 「さることをこそ聞きしか。情けなき人の御心にもありけるかな。大臣の、口入れたまひしに、執念かりきとて、引き違へたまふなるべし。心弱くなびきても、人笑へならましこと」
 など、涙を浮けてのたまへば、姫君、いと恥づかしきにも、そこはかとなく涙のこぼるれば、はしたなくて背きたまへる、らうたげさ限りなし。
 「いかにせまし。なほや進み出でて、けしきをとらまし」
 など、思し乱れて立ちたまひぬる名残も、やがて端近う眺めたまふ。
 「あやしく、心おくれても進み出でつる涙かな。いかに思しつらむ」
 など、よろづに思ひゐたまへるほどに、御文あり。さすがにぞ見たまふ。こまやかにて、
 「つれなさは憂き世の常になりゆくを
  忘れぬ人や人にことなる」
 とあり。「けしきばかりもかすめぬ、つれなさよ」と、思ひ続けたまふは憂けれど、
 「限りとて忘れがたきを忘るるも
  こや世になびく心なるらむ」
 とあるを、「あやし」と、うち置かれず、傾きつつ見ゐたまへり。


 

   

            現代語訳 補足 目次

      三十三、 藤 裏 葉   
 


   
 



 御いそぎのほどにも、宰相中将は眺めがちにて、ほれぼれしき心地するを、「かつはあやしく、わが心ながら執念きぞかし。あながちにかう思ふことならば、関守の、うちも寝ぬべきけしきに思ひ弱りたまふなるを聞きながら、同じくは、人悪からぬさまに見果てむ」と念ずるも、苦しう思ひ乱れたまふ。
 女君も、大臣のかすめたまひしことの筋を、「もし、さもあらば、何の名残かは」と嘆かしうて、あやしく背き背きに、さすがなる御もろ恋なり。
 大臣も、さこそ心強がりたまひしかど、たけからぬに思しわづらひて、「かの宮にも、さやうに思ひ立ち果てたまひなば、またとかく改め思ひかかづらはむほど、人のためも苦しう、わが御方ざまにも人笑はれに、おのづから軽々しきことやまじらむ。忍ぶとすれど、うちうちのことあやまりも、世に漏りにたるべし。とかく紛らはして、なほ負けぬべきなめり」と、思しなりぬ。
 上はつれなくて、恨み解けぬ御仲なれば、「ゆくりなく言ひ寄らむもいかが」と、思し憚りて、「ことことしくもてなさむも、人の思はむところをこなり。いかなるついでしてかはほのめかすべき」など思すに、三月二十日、大殿の大宮の御忌日にて、極楽寺に詣でたまへり。


 君達皆ひき連れ、勢ひあらまほしく、上達部などもあまた参り集ひたまへるに、宰相中将、をさをさけはひ劣らず、よそほしくて、容貌など、ただ今のいみじき盛りにねびゆきて、取り集めめでたき人の御ありさまなり。
 この大臣をば、つらしと思ひきこえたまひしより、見えたてまつるも、心づかひせられて、いといたう用意し、もてしづめてものしたまふを、大臣も、常よりは目とどめたまふ。御誦経など、六条院よりもせさせたまへり。宰相君は、まして、よろづをとりもちて、あはれにいとなみ仕うまつりたまふ。
 夕かけて、皆帰りたまふほど、花は皆散り乱れ、霞たどたどしきに、大臣、昔を思し出でて、なまめかしううそぶき眺めたまふ。宰相も、あはれなる夕べのけしきに、いとどうちしめりて、「雨気あり」と、人びとの騒ぐに、なほ眺め入りてゐたまへり。心ときめきに見たまふことやありけむ、袖を引き寄せて、
 「などか、いとこよなくは勘じたまへる。今日の御法の縁をも尋ね思さば、罪許したまひてよや。残り少なくなりゆく末の世に、思ひ捨てたまへるも、恨みきこゆべくなむ」
 とのたまへば、うちかしこまりて、
 「過ぎにし御おもむけも、頼みきこえさすべきさまに、うけたまはりおくことはべりしかど、許しなき御けしきに、憚りつつなむ」
 と聞こえたまふ。
 心あわたたしき雨風に、皆ちりぢりに競ひ帰りたまひぬ。君、「いかに思ひて、例ならずけしきばみたまひつらむ」など、世とともに心をかけたる御あたりなれば、はかなきことなれど、耳とまりて、とやかうやと思ひ明かしたまふ。



 ここらの年ごろの思ひのしるしにや、かの大臣も、名残なく思し弱りて、はかなきついでの、わざとはなく、さすがにつきづきしからむを思すに、四月の朔日ごろ、御前の藤の花、いとおもしろう咲き乱れて、世の常の色ならず、ただに見過ぐさむこと惜しき盛りなるに、遊びなどしたまひて、暮れ行くほどの、いとど色まされるに、頭中将して、御消息あり。
 「一日の花の蔭の対面の、飽かずおぼえはべりしを、御暇あらば、立ち寄りたまひなむや」
 とあり。御文には、
 「わが宿の藤の色濃きたそかれに
  尋ねやは来ぬ春の名残を」
 げに、いとおもしろき枝につけたまへり。待ちつけたまへるも、心ときめきせられて、かしこまりきこえたまふ。
 「なかなかに折りやまどはむ藤の花
  たそかれ時のたどたどしくは」
 と聞こえて、
 「口惜しくこそ臆しにけれ。取り直したまへよ」
 と聞こえたまふ。
 「御供にこそ」
 とのたまへば、
 「わづらはしき随身は、否」
 とて、返しつ。
 大臣の御前に、かくなむ、とて、御覧ぜさせたまふ。
 「思ふやうありてものしたまへるにやあらむ。さも進みものしたまはばこそは、過ぎにし方の孝なかりし恨みも解けめ」
 とのたまふ。御心おごり、こよなうねたげなり。
 「さしもはべらじ。対の前の藤、常よりもおもしろう咲きてはべるなるを、静かなるころほひなれば、遊びせむなどにやはべらむ」
 と申したまふ。
 「わざと使ひさされたりけるを、早うものしたまへ」
 と許したまふ。いかならむと、下には苦しう、ただならず。
 「直衣こそあまり濃くて、軽びためれ。非参議のほど、何となき若人こそ、二藍はよけれ、ひき繕はむや」
 とて、わが御料の心ことなるに、えならぬ御衣ども具して、御供に持たせてたてまつれたまふ。



 わが御方にて、心づかひいみじう化粧じて、たそかれも過ぎ、心やましきほどに参うでたまへり。主人の君達、中将をはじめて、七、八人うち連れて迎ヘ入れたてまつる。いづれとなくをかしき容貌どもなれど、なほ、人にすぐれて、あざやかにきよらなるもなから、なつかしう、よしづき、恥づかしげなり。
 大臣、御座ひきつくろはせなどしたまふ御用意、おろかならず。御冠などしたまひて、出でたまふとて、北の方、若き女房などに、
 「覗きて見たまへ。いと警策にねびまさる人なり。用意などいと静かに、ものものしや。あざやかに、抜け出でおよすけたる方は、父大臣にもまさりざまにこそあめれ。
 かれは、ただいと切になまめかしう愛敬づきて、見るに笑ましく、世の中忘るる心地ぞしたまふ。公ざまは、すこしたはれて、あざれたる方なりし、ことわりぞかし。
 これは、才の際もまさり、心もちゐ男々しく、すくよかに足らひたりと、世におぼえためり」
 などのたまひてぞ、対面したまふ。ものまめやかに、むべむべしき御物語は、すこしばかりにて、花の興に移りたまひぬ。
 「春の花、いづれとなく、皆開け出づる色ごとに、目おどろかぬはなきを、心短くうち捨てて散りぬるが、恨めしうおぼゆるころほひ、この花のひとり立ち後れて、夏に咲きかかるほどなむ、あやしう心にくくあはれにおぼえはべる。色もはた、なつかしきゆかりにしつべし」
 とて、うちほほ笑みたまへる、けしきありて、匂ひきよげなり。



 月はさし出でぬれど、花の色さだかにも見えぬほどなるを、もてあそぶに心を寄せて、大酒参り、御遊びなどしたまふ。大臣、ほどなく空酔ひをしたまひて、乱りがはしく強ひ酔はしたまふを、さる心して、いたうすまひ悩めり。
 「君は、末の世にはあまるまで、天の下の有職にものしたまふめるを、齢古りぬる人、思ひ捨てたまふなむつらかりける。文籍にも、家礼といふことあるべくや。なにがしの教へも、よく思し知るらむと思ひたまふるを、いたう心悩ましたまふと、恨みきこゆべくなむ」
 などのたまひて、酔ひ泣きにや、をかしきほどにけしきばみたまふ。
 「いかでか。昔を思うたまへ出づる御変はりどもには、身を捨つるさまにもとこそ、思うたまへ知りはべるを、いかに御覧じなすことにかはべらむ。もとより、おろかなる心のおこたりにこそ」
 と、かしこまりきこえたまふ。御時よく、さうどきて、
 「藤の裏葉の」
 とうち誦じたまへる、御けしきを賜はりて、頭中将、花の色濃く、ことに房長きを折りて、客人の御盃に加ふ。取りて、もて悩むに、大臣、
 「紫にかことはかけむ藤の花
  まつより過ぎてうれたけれども」
 宰相、盃を持ちながら、けしきばかり拝したてまつりたまへるさま、いとよしあり。
 「いく返り露けき春を過ぐし来て
  花の紐解く折にあふらむ」
 頭中将に賜へば、
 「たをやめの袖にまがへる藤の花
  見る人からや色もまさらむ」
 次々順流るめれど、酔ひの紛れにはかばかしからで、これよりまさらず。



 七日の夕月夜、影ほのかなるに、池の鏡のどかに澄みわたれり。げに、まだほのかなる梢どもの、さうざうしきころなるに、いたうけしきばみ横たはれる松の、木高きほどにはあらぬに、かかれる花のさま、世の常ならずおもしろし。
 例の、弁少将、声いとなつかしくて、「葦垣」を謡ふ。大臣、
 「いとけやけうも仕うまつるかな」
 と、うち乱れたまひて、
 「年経にけるこの家の」
 と、うち加へたまへる御声、いとおもしろし。をかしきほどに乱りがはしき御遊びにて、もの思ひ残らずなりぬめり。
 やうやう夜更け行くほどに、いたうそら悩みして、
 「乱り心地いと堪へがたうて、まかでむ空もほとほとしうこそはべりぬべけれ。宿直所譲りたまひてむや」
 と、中将に愁へたまふ。大臣、
 「朝臣や、御休み所求めよ。翁いたう酔ひ進みて無礼なれば、まかり入りぬ」
 と言ひ捨てて、入りたまひぬ。
 中将、
 「花の蔭の旅寝よ。いかにぞや、苦しきしるべにぞはべるや」
 と言へば、
 「松に契れるは、あだなる花かは。ゆゆしや」
 と責めたまふ。中将は、心のうちに、「ねたのわざや」と思ふところあれど、人ざまの思ふさまにめでたきに、「かうもあり果てなむ」と、心寄せわたることなれば、うしろやすく導きつ。
 男君は、夢かとおぼえたまふにも、わが身いとどいつかしうぞおぼえたまひけむかし。女は、いと恥づかしと思ひしみてものしたまふも、ねびまされる御ありさま、いとど飽かぬところなくめやすし。
 「世の例にもなりぬべかりつる身を、心もてこそ、かうまでも思し許さるめれ。あはれを知りたまはぬも、さま異なるわざかな」
 と、怨みきこえたまふ。
 「少将の進み出だしつる『葦垣』の趣きは、耳とどめたまひつや。いたき主かなな。『河口の』とこそ、さしいらへまほしかりつれ」
 とのたまへば、女、いと聞き苦し、と思して、
 「浅き名を言ひ流しける河口は
  いかが漏らしし関の荒垣
 あさまし」
 とのたまふさま、いとこめきたり。すこしうち笑ひて、
 「漏りにける岫田の関を河口の
  浅きにのみはおほせざらなむ
 年月の積もりも、いとわりなくて悩ましきに、ものおぼえず」
 と、酔ひにかこちて、苦しげにもてなして、明くるも知らず顔なり。人びと、聞こえわづらふを、大臣、
 「したり顔なる朝寝かな」
 と、とがめたまふ。されど、明かし果てでぞ出でたまふ。ねくたれの御朝顔、見るかひありかし。



 御文は、なほ忍びたりつるさまの心づかひにてあるを、なかなか今日はえ聞こえたまはぬを、もの言ひさがなき御達つきじろふに、大臣渡りて見たまふぞ、いとわりなきや。
 「尽きせざりつる御けしきに、いとど思ひ知らるる身のほどを。堪へぬ心にまた消えぬべきも、
  とがむなよ忍びにしぼる手もたゆみ
  今日あらはるる袖のしづくを」
 など、いと馴れ顔なり。うち笑みて、
 「手をいみじうも書きなられにけるかな」
 などのたまふも、昔の名残なし。
 御返り、いと出で来がたげなれば、「見苦しや」とて、さも思し憚りぬべきことなれば、渡りたまひぬ。
 御使の禄、なべてならぬさまにて賜へり。中将、をかしきさまにもてなしたまふ。常にひき隠しつつ隠ろへありきし御使、今日は、面もちなど、人びとしく振る舞ふめり。右近将監なる人の、むつましう思し使ひたまふなりけり。
 六条の大臣も、かくと聞こし召してけり。宰相、常よりも光添ひて参りたまへれば、うちまもりたまひて、
 「今朝はいかに。文などものしつや。賢しき人も、女の筋には乱るる例あるを、人悪ろくかかづらひ、心いられせで過ぐされたるなむ、すこし人に抜けたりける御心とおぼえける。
 大臣の御おきての、あまりすくみて、名残なくくづほれたまひぬるを、世人も言ひ出づることあらむや。さりとても、わが方たけう思ひ顔に、心おごりして、好き好きしき心ばへなど漏らしたまふな。
 さこそおいらかに、大きなる心おきてと見ゆれど、下の心ばへ男々しからず癖ありて、人見えにくきところつきたまへる人なり」
 など、例の教へきこえたまふ。ことうちあひ、めやすき御あはひ、と思さる。
 御子とも見えず、すこしがこのかみばかりと見えたまふ。ほかほかにては、同じ顔を写し取りたると見ゆるを、御前にては、さまざま、あなめでたと見えたまへり。
 大臣は、薄き御直衣、白き御衣の唐めきたるが、紋けざやかにつやつやと透きたるをたてまつりて、なほ尽きせずあてになまめかしうおはします。
 宰相殿は、すこし色深き御直衣に、丁子染めの焦がるるまでしめる、白き綾のなつかしきを着たまへる、ことさらめきて艶に見ゆ。



 灌仏率てたてまつりて、御導師遅く参りければ、日暮れて、御方々より童女出だし、布施など、公ざまに変はらず、心々にしたまへり。御前の作法を移して、君達なども参り集ひて、なかなか、うるはしき御前よりも、あやしう心づかひせられて臆しがちなり。
 宰相は、静心なく、いよいよ化粧じ、ひきつくろひて出でたまふを、わざとならねど、情けだちたまふ若人は、恨めしと思ふもありけり。年ごろの積もり取り添へて、思ふやうなる御仲らひなめれば、水も漏らむやは。
 主人の大臣、いとどしき近まさりを、うつくしきものに思して、いみじうもてかしづききこえたまふ。負けぬる方の口惜しさは、なほ思せど、罪も残るまじうぞ、まめやかなる御心ざまなどの、年ごろ異心なくて過ぐしたまへるなどを、ありがたく思し許す。
 女御の御ありさまなどよりも、はなやかにめでたくあらまほしければ、北の方、さぶらふ人びとなどは、心よからず思ひ言ふもあれど、何の苦しきことかはあらむ。按察使の北の方なども、かかる方にて、うれしと思ひきこえたまひけり。


 


 かくて、六条院の御いそぎは、二十余日のほどなりけり。対の上、御阿礼に詣うでたまふとて、例の御方々いざなひきこえたまへど、なかなか、さしも引き続きて心やましきを思して、誰も誰もとまりたまひて、ことことしきほどにもあらず、御車二十ばかりして、御前なども、くだくだしき人数多くもあらず、ことそぎたるしも、けはひことなり。
 祭の日の暁に詣うでたまひて、かへさには、物御覧ずべき御桟敷におはします。御方々の女房、おのおの車引き続きて、御前、所占めたるほど、いかめしう、「かれはそれ」と、遠目よりおどろおどろしき御勢ひなり。
 大臣は、中宮の御母御息所の、車押し避けられたまへりし折のこと思し出でて、
 「時により心おごりして、さやうなることなむ、情けなきことなりける。こよなく思ひ消ちたりし人も、嘆き負ふやうにて亡くなりにき」
 と、そのほどはのたまひ消ちて、
 「残りとまれる人の、中将は、かくただ人にて、わづかになりのぼるめり。宮は並びなき筋にておはするも、思へば、いとこそあはれなれ。すべていと定めなき世なればこそ、何ごとも思ふままにて、生ける限りの世を過ぐさまほしけれと、残りたまはむ末の世などの、たとしへなき衰へなどをさへ、思ひ憚らるれば」
 と、うち語らひたまひて、上達部なども御桟敷に参り集ひたまへれば、そなたに出でたまひぬ。


 近衛司の使は、頭中将なりけり。かの大殿にて、出で立つ所よりぞ人びとは参りたまうける。藤典侍も使なりけり。おぼえことにて、内裏、春宮よりはじめたてまつりて、六条院などよりも、御訪らひども所狭きまで、御心寄せいとめでたし。
 宰相中将、出で立ちの所にさへ訪らひたまへり。うちとけずあはれを交はしたまふ御仲なれば、かくやむごとなき方に定まりたまひぬるを、ただならずうち思ひけり。
 「何とかや今日のかざしよかつ見つつ
  おぼめくまでもなりにけるかな
 あさまし」
 とあるを、折過ぐしたまはぬばかりを、いかが思ひけむ、いともの騒がしく、車に乗るほどなれど、
 「かざしてもかつたどらるる草の名は
  桂を折りし人や知るらむ
 博士ならでは」
 と聞こえたり。はかなけれど、ねたきいらへと思す。なほ、この内侍にぞ、思ひ離れず、はひまぎれたまふべき。



 かくて、御参りは北の方添ひたまふべきを、「常に長々しうえ添ひさぶらひたまはじ。かかるついでに、かの御後見をや添へまし」と思す。
 上も、「つひにあるべきことの、かく隔たりて過ぐしたまふを、かの人も、ものしと思ひ嘆かるらむ。この御心にも、今はやうやうおぼつかなく、あはれに思し知るらむ。かたがた心おかれたてまつらむも、あいなし」と思ひなりたまひて、
 「この折に添へたてまつりたまへ。まだいとあえかなるほどもうしろめたきに、さぶらふ人とても、若々しきのみこそ多かれ。御乳母たちなども、見及ぶことの心いたる限りあるを、みづからは、えつとしもさぶらはざらむほど、うしろやすかるべく」
 と聞こえたまへば、「いとよく思し寄るかな」と思して、「さなむ」と、あなたにも語らひのたまひければ、いみじくうれしく、思ふこと叶ひはべる心地して、人の装束、何かのことも、やむごとなき御ありさまに劣るまじくいそぎたつ。
 尼君なむ、なほこの御生ひ先見たてまつらむの心深かりける。「今一度見たてまつる世もや」と、命をさへ執念くなして念じけるを、「いかにしてかは」と、思ふも悲し。
 その夜は、上添ひて参りたまふに、さて、車にも立ちくだりうち歩みなど、人悪るかるべきを、わがためは思ひ憚らず、ただ、かく磨きたてたてまつりたまふ玉の疵にて、わがかくながらふるを、かつはいみじう心苦しう思ふ。
 御参りの儀式、「人の目おどろくぼかりのことはせじ」と思しつつめど、おのづから世の常のさまにぞあらぬや。限りもなくかしづきすゑたてまつりたまひて、上は、「まことにあはれにうつくし」と思ひきこえたまふにつけても、人に譲るまじう、「まことにかかることもあらましかば」と思す。大臣も、宰相の君も、ただこのことひとつをなむ、「飽かぬことかな」と、思しける。


 三日過ごしてぞ、上はまかでさせたまふ。たち変はりて参りたまふ夜、御対面あり。
 「かくおとなびたまふけぢめになむ、年月のほども知られはべれば、疎々しき隔ては、残るまじくや」
 と、なつかしうのたまひて、物語などしたまふ。これもうちとけぬる初めなめり。ものなどうち言ひたるけはひなど、むべこそはと、めざましう見たまふ。
 また、いと気高う盛りなる御けしきを、かたみにめでたしと見て、「そこらの御中にもすぐれたる御心ざしにて、並びなきさまに定まりたまひけるも、いとことわり」と思ひ知らるるに、「かうまで、立ち並びきこゆる契り、おろかなりやは」と思ふものから、出でたまふ儀式の、いとことによそほしく、御輦車など聴されたまひて、女御の御ありさまに異ならぬを、思ひ比ぶるに、さすがなる身のほどなり。
 いとうつくしげに、雛のやうなる御ありさまを、夢の心地して見たてまつるにも、涙のみとどまらぬは、一つものとぞ見えざりける。年ごろよろづに嘆き沈み、さまざま憂き身と思ひ屈しつる命も延べまほしう、はればれしきにつけて、まことに住吉の神もおろかならず思ひ知らる。
 思ふさまにかしづききこえて、心およばぬことはた、をさをさなき人のらうらうじさなれば、おほかたの寄せ、おぼえよりはじめ、なべてならぬ御ありさま容貌なるに、宮も、若き御心地に、いと心ことに思ひきこえたまへり。
 挑みたまへる御方々の人などは、この母君の、かくてさぶらひたまふを、疵に言ひなしなどすれど、それに消たるべくもあらず。いまめかしう、並びなきことをば、さらにもいはず、心にくくよしある御けはひを、はかなきことにつけても、あらまほしうもてなしきこえたまへれば、殿上人なども、めづらしき挑み所にて、とりどりにさぶらふ人びとも、心をかけたる女房の、用意ありさまさへ、いみじくととのへなしたまへり。
 上も、さるべき折節には参りたまふ。御仲らひあらまほしううちとけゆくに、さりとてさし過ぎもの馴れず、あなづらはしかるべきもてなし、はた、つゆなく、あやしくあらまほしき人のありさま、心ばへなり。


 


 大臣も、「長からずのみ思さるる御世のこなたに」と、思しつる御参りの、かひあるさまに見たてまつりなしたまひて、心からなれど、世に浮きたるやうにて、見苦しかりつる宰相の君も、思ひなくめやすきさまにしづまりたまひぬれば、御心おちゐ果てたまひて、「今は本意も遂げなむ」と、思しなる。
 対の上の御ありさまの、見捨てがたきにも、「中宮おはしませば、おろかならぬ御心寄せなり。この御方にも、世に知られたる親ざまには、まづ思ひきこえたまふべければ、さりとも」と、思し譲りけり。
 夏の御方の、時に花やぎたまふまじきも、「宰相のものしたまへば」と、皆とりどりにうしろめたからず思しなりゆく。
 明けむ年、四十になりたまふ、御賀のことを、朝廷よりはじめたてまつりて、大きなる世のいそぎなり。
 その秋、太上天皇に准らふ御位得たまうて、御封加はり、年官年爵など、皆添ひたまふ。かからでも、世の御心に叶はぬことなけれど、なほめづらしかりける昔の例を改めで、院司どもなどなり、さまことにいつくしうなり添ひたまへば、内裏に参りたまふべきこと、難かるべきをぞ、かつは思しける。
 かくても、なほ飽かず帝は思して、世の中を憚りて、位をえ譲りきこえぬことをなむ、朝夕の御嘆きぐさなりける。
 内大臣上がりたまひて、宰相中将、中納言になりたまひぬ。御よろこびに出でたまふ。光いとどまさりたまへるさま、容貌よりはじめて、飽かぬことなきを、主人の大臣も、「なかなか人に圧されまし宮仕へよりは」と、思し直る。
 女君の大輔乳母、「六位宿世」と、つぶやきし宵のこと、ものの折々に思し出でければ、菊のいとおもしろくて、移ろひたるを賜はせて、
 「浅緑若葉の菊を露にても
  濃き紫の色とかけきや
 からかりし折の一言葉こそ忘られね」
 と、いと匂ひやかにほほ笑みて賜へり。恥づかしう、いとほしきものから、うつくしう見たてまつる。
 「双葉より名立たる園の菊なれば
  浅き色わく露もなかりき
 いかに心おかせたまへりけるにか」
 と、いと馴れて苦しがる。


 御勢ひまさりて、かかる御住まひも所狭ければ、三条殿に渡りたまひぬ。すこし荒れにたるを、いとめでたく修理しなして、宮のおはしましし方を改めしつらひて住みたまふ。昔おぼえて、あはれに思ふさまなる御住まひなり。
 前栽どもなど、小さき木どもなりしも、いとしげき蔭となり、一村薄も心にまかせて乱れたりける、つくろはせたまふ。遣水の水草もかき改めて、いと心ゆきたるけしきなり。
 をかしき夕暮のほどを、二所眺めたまひて、あさましかりし世の、御幼さの物語などしたまふに、恋しきことも多く、人の思ひけむことも恥づかしう、女君は思し出づ。古人どもの、まかで散らず、曹司曹司にさぶらひけるなど、参う上り集りて、いとうれしと思ひあへり。
 男君、
 「なれこそは岩守るあるじ見し人の
  行方は知るや宿の真清水」
 女君、
 「亡き人の影だに見えずつれなくて
  心をやれるいさらゐの水」
 などのたまふほどに、大臣、内裏よりまかでたまひけるを、紅葉の色に驚かされて渡りたまへり。


 
 昔おはさひし御ありさまにも、をさをさ変はることなく、あたりあたりおとなしく住まひたまへるさま、はなやかなるを見たまふにつけても、いとものあはれに思さる。中納言も、けしきことに、顔すこし赤みて、いとどしづまりてものしたまふ。
 あらまほしくうつくしげなる御あはひなれど、女は、またかかる容貌のたぐひも、などかなからむと見えたまへり。男は、際もなくきよらにおはす。古人ども御前に所得て、神さびたることども聞こえ出づ。ありつる御手習どもの、散りたるを御覧じつけて、うちしほたれたまふ。
 「この水の心尋ねまほしけれど、翁は言忌して」
 とのたまふ。
 「そのかみの老木はむべも朽ちぬらむ
  植ゑし小松も苔生ひにけり」
 男君の御宰相の乳母、つらかりし御心も忘れねば、したり顔に、
 「いづれをも蔭とぞ頼む双葉より
  根ざし交はせる松の末々」
 老人どもも、かやうの筋に聞こえ集めたるを、中納言は、をかしと思す。女君は、あいなく面赤み、苦しと聞きたまふ。


 
 神無月の二十日あまりのほどに、六条院に行幸あり。紅葉の盛りにて、興あるべきたびの行幸なるに、朱雀院にも御消息ありて、院さへ渡りおはしますべければ、世にめづらしくありがたきことにて、世人も心をおどろかす。主人の院方も、御心を尽くし、目もあやなる御心まうけをせさせたまふ。
 巳の時に行幸ありて、まづ、馬場殿に左右の寮の御馬牽き並べて、左右近衛立ち添ひたる作法、五月の節にあやめわかれず通ひたり。未くだるほどに、南の寝殿に移りおはします。道のほどの反橋、渡殿には錦を敷き、あらはなるべき所には軟障を引き、いつくしうしなさせたまへり。
 東の池に舟ども浮けて、御厨子所の鵜飼の長、院の鵜飼を召し並べて、鵜をおろさせたまへり。小さき鮒ども食ひたり。わざとの御覧とはなけれども、過ぎさせたまふ道の興ばかりになむ。
 山の紅葉、いづ方も劣らねど、西の御前は心ことなるを、中の廊の壁を崩し、中門を開きて、霧の隔てなくて御覧ぜさせたまふ。
 御座、二つよそひて、主人の御座は下れるを、宣旨ありて直させたまふほど、めでたく見えたれど、帝は、なほ限りあるゐやゐやしさを尽くして見せたてまつりたまはぬことをなむ、思しける。
 池の魚を、左少将取り、蔵人所の鷹飼の、北野に狩仕まつれる鳥一番を、右少将捧げて、寝殿の東より御前に出でて、御階の左右に膝をつきて奏す。太政大臣、仰せ言賜ひて、調じて御膳に参る。親王たち、上達部などの御まうけも、めづらしきさまに、常の事どもを変へて仕うまつらせたまへり。


 
 皆御酔ひになりて、暮れかかるほどに、楽所の人召す。わざとの大楽にはあらず、なまめかしきほどに、殿上の童べ、舞仕うまつる。朱雀院の紅葉の賀、例の古事思し出でらる。「賀王恩」といふものを奏するほどに、太政大臣の御弟子の十ばかりなる、切におもしろう舞ふ。内裏の帝、御衣ぬぎて賜ふ。太政大臣下りて舞踏したまふ。
 主人の院、菊を折らせたまひて、「青海波」の折を思し出づ。
 「色まさる籬の菊も折々に
  袖うちかけし秋を恋ふらし」
 大臣、その折は、同じ舞に立ち並びきこえたまひしを、我も人にはすぐれたまへる身ながら、なほこの際はこよなかりけるほど、思し知らる。時雨、折知り顔なり。
 「紫の雲にまがへる菊の花
  濁りなき世の星かとぞ見る
 時こそありけれ」
 と聞こえたまふ。



 夕風の吹き敷く紅葉の色々、濃き薄き、錦を敷きたる渡殿の上、見えまがふ庭の面に、容貌をかしき童べの、やむごとなき家の子どもなどにて、青き赤き白橡、蘇芳、葡萄染めなど、常のごと、例のみづらに、額ばかりのけしきを見せて、短きものどもをほのかに舞ひつつ、紅葉の蔭に返り入るほど、日の暮るるもいと惜しげなり。
 楽所などおどろおどろしくはせず。上の御遊び始まりて、書司の御琴ども召す。ものの興切なるほどに、御前に皆御琴ども参れり。宇多法師の変はらぬ声も、朱雀院は、いとめづらしくあはれに聞こし召す。
 「秋をへて時雨ふりぬる里人も
  かかる紅葉の折をこそ見ね」
 うらめしげにぞ思したるや。帝、
 「世の常の紅葉とや見るいにしへの
  ためしにひける庭の錦を」
 と、聞こえ知らせたまふ。御容貌いよいよねびととのほりたまひて、ただ一つものと見えさせたまふを、中納言さぶらひたまふが、ことことならぬこそ、めざましかめれ。あてにめでたきけはひや、思ひなしに劣りまさらむ、あざやかに匂はしきところは、添ひてさへ見ゆ。
 笛仕うまつりたまふ、いとおもしろし。唱歌の殿上人、御階にさぶらふ中に、弁少将の声すぐれたり。なほさるべきにこそと見えたる御仲らひなめり。



  

  

            現代語訳 補足 目次

      三十四、 若 菜 上   
 


   
 



 朱雀院の帝、ありし御幸ののち、そのころほひより、例ならず悩みわたらせたまふ。もとよりあつしくおはしますうちに、このたびはもの心細く思し召されて、
 「年ごろ行なひの本意深きを、后の宮おはしましつるほどは、よろづ憚りきこえさせたまひて、今まで思しとどこほりつるを、なほその方にもよほすにやあらむ、世に久しかるまじき心地なむする」
 などのたまはせて、さるべき御心まうけどもせさせたまふ。
 御子たちは、春宮をおきたてまつりて、女宮たちなむ四所おはしましける。その中に、藤壷と聞こえしは、先帝の源氏にぞおはしましける。
 まだ坊と聞こえさせし時参りたまひて、高き位にも定まりたまべかりし人の、取り立てたる御後見もおはせず、母方もその筋となく、ものはかなき更衣腹にてものしたまひければ、御交じらひのほども心細げにて、大后の、尚侍を参らせたてまつりたまひて、かたはらに並ぶ人なくもてなしきこえたまひなどせしほどに、気圧されて、帝も御心のうちに、いとほしきものには思ひきこえさせたまひながら、下りさせたまひにしかば、かひなく口惜しくて、世の中を恨みたるやうにて亡せたまひにし。
 その御腹の女三の宮を、あまたの御中に、すぐれてかなしきものに思ひかしづききこえたまふ。
 そのほど、御年、十三、四ばかりおはす。
 「今はと背き捨て、山籠もりしなむ後の世にたちとまりて、誰を頼む蔭にてものしたまはむとすらむ」
 と、ただこの御ことをうしろめたく思し嘆く。
 西山なる御寺造り果てて、移ろはせたまはむほどの御いそぎをせさせたまふに添へて、またこの宮の御裳着のことを思しいそがせたまふ。
 院のうちにやむごとなく思す御宝物、御調度どもをばさらにもいはず、はかなき御遊びものまで、すこしゆゑある限りをば、ただこの御方に取りわたしたてまつらせたまひて、その次々をなむ、異御子たちには、御処分どもありける。


 春宮は、「かかる御悩みに添へて、世を背かせたまふべき御心づかひになむ」と聞かせたまひて、渡らせたまへり。母女御、添ひきこえさせたまひて参りたまへり。すぐれたる御おぼえにしもあらざりしかど、宮のかくておはします御宿世の、限りなくめでたければ、年ごろの御物語、こまやかに聞こえさせたまひけり。
 宮にも、よろづのこと、世をたもちたまはむ御心づかひなど、聞こえ知らせたまふ。御年のほどよりはいとよく大人びさせたまひて、御後見どもも、こなたかなた、軽々しからぬ仲らひにものしたまへば、いとうしろやすく思ひきこえさせたまふ。
 「この世に恨み残ることもはべらず。女宮たちのあまた残りとどまる行く先を思ひやるなむ、さらぬ別れにもほだしなりぬべかりける。さきざき、人の上に見聞きしにも、女は心よりほかに、あはあはしく、人におとしめらるる宿世あるなむ、いと口惜しく悲しき。
 いづれをも、思ふやうならむ御世には、さまざまにつけて、御心とどめて思し尋ねよ。その中に、後見などあるは、さる方にも思ひ譲りはべり。
 三の宮なむ、いはけなき齢にて、ただ一人を頼もしきものとならひて、うち捨ててむ後の世に、ただよひさすらへむこと、いといとうしろめたく悲しくはべる」
 と、御目おし拭ひつつ、聞こえ知らせさせたまふ。
 女御にも、うつくしきさまに聞こえつけさせたまふ。されど、女御の、人よりはまさりて時めきたまひしに、皆挑み交はしたまひしほど、御仲らひども、えうるはしからざりしかば、その名残にて、「げに、今はわざと憎しなどはなくとも、まことに心とどめて思ひ後見むとまでは思さずもや」とぞ推し量らるるかし。
 朝夕に、この御ことを思し嘆く。年暮れゆくままに、御悩みまことに重くなりまさらせたまひて、御簾の外にも出でさせたまはず。御もののけにて、時々悩ませたまふこともありつれど、いとかくうちはへをやみなきさまにはおはしまさざりつるを、「このたびは、なほ、限りなり」と思し召したり。
 御位を去らせたまひつれど、なほその世に頼みそめたてまつりたまへる人びとは、今もなつかしくめでたき御ありさまを、心やりどころに参り仕うまつりたまふ限りは、心を尽くして惜しみきこえたまふ。



 六条院よりも、御訪らひしばしばあり。みづからも参りたまふべきよし、聞こし召して、院はいといたく喜びきこえさせたまふ。
 中納言の君参りたまへるを、御簾の内に召し入れて、御物語こまやかなり。
 「故院の上の、今はのきざみに、あまたの御遺言ありし中に、この院の御こと、今の内裏の御ことなむ、取り分きてのたまひ置きしを、公けとなりて、こと限りありければ、うちうちの御心寄せは、変らずながら、はかなきことのあやまりに、心おかれたてまつることもありけむと思ふを、年ごろことに触れて、その恨み残したまへるけしきをなむ漏らしたまはぬ。
 賢しき人といへど、身の上になりぬれば、こと違ひて、心動き、かならずその報い見え、ゆがめることなむ、いにしへだに多かりける。
 いかならむ折にか、その御心ばへほころぶべからむと、世の人もおもむけ疑ひけるを、つひに忍び過ぐしたまひて、春宮などにも心を寄せきこえたまふ。今はた、またなく親しかるべき仲となり、睦び交はしたまへるも、限りなく心には思ひながら、本性の愚かなるに添へて、子の道の闇にたち交じり、かたくななるさまにやとて、なかなかよそのことに聞こえ放ちたるさまにてはべる。
 内裏の御ことは、かの御遺言違へず仕うまつりおきてしかば、かく末の世の明らけき君として、来しかたの御面をも起こしたまふ。本意のごと、いとうれしくなむ。
 この秋の行幸の後、いにしへのこととり添へて、ゆかしくおぼつかなくなむおぼえたまふ。対面に聞こゆべきことどもはべり。かならずみづから訪らひものしたまふべきよし、もよほし申したまへ」
 など、うちしほたれつつのたまはす。



 中納言の君、
 「過ぎはべりにけむ方は、ともかくも思うたまへ分きがたくはべり。年まかり入りはべりて、朝廷にも仕うまつりはべるあひだ、世の中のことを見たまへまかりありくほどには、大小のことにつけても、うちうちのさるべき物語などのついでにも、『いにしへのうれはしきことありてなむ』など、うちかすめ申さるる折ははべらずなむ。
 『かく朝廷の御後見を仕うまつりさして、静かなる思ひをかなへむと、ひとへに籠もりゐし後は、何ごとをも、知らぬやうにて、故院の御遺言のごともえ仕うまつらず、御位におはしましし世には、齢のほども、身のうつはものも及ばず、かしこき上の人びと多くて、その心ざしを遂げて御覧ぜらるることもなかりき。今、かく政事を去りて、静かにおはしますころほひ、心のうちをも隔てなく、参りうけたまはらまほしきを、さすがに何となく所狭き身のよそほひにて、おのづから月日を過ぐすこと』
 となむ、折々嘆き申したまふ」
 など、奏したまふ。
 二十にもまだわづかなるほどなれど、いとよくととのひ過ぐして、容貌も盛りに匂ひて、いみじくきよらなるを、御目にとどめてうちまもらせたまひつつ、このもてわづらはせたまふ姫宮の御後見に、これをやなど、人知れず思し寄りけり。
 「太政大臣のわたりに、今は住みつかれにたりとな。年ごろ心得ぬさまに聞きしが、いとほしかりしを、耳やすきものから、さすがにねたく思ふことこそあれ」
 とのたまはする御けしきを、「いかにのたまはするにか」と、あやしく思ひめぐらすに、「この姫宮をかく思し扱ひて、さるべき人あらば、預けて、心やすく世をも思ひ離ればや、となむ思しのたまはする」と、おのづから漏り聞きたまふ便りありければ、「さやうの筋にや」とは思ひぬれど、ふと心得顔にも、何かはいらへきこえさせむ。ただ、
 「はかばかしくもはべらぬ身には、寄るべもさぶらひがたくのみなむ」
 とばかり奏して止みぬ。



 女房などは、覗きて見きこえて、
 「いとありがたくも見えたまふ容貌、用意かな」
 「あな、めでた」
 など、集りて聞こゆるを、老いしらへるは、
 「いで、さりとも、かの院のかばかりにおはせし御ありさまには、えなずらひきこえたまはざめり。いと目もあやにこそきらよにものしたまひしか」
 など、言ひしろふを聞こしめして、
 「まことに、かれはいとさま異なりし人ぞかし。今はまた、その世にもねびまさりて、光るとはこれを言ふべきにやと見ゆる匂ひなむ、いとど加はりにたる。うるはしだちて、はかばかしき方に見れば、いつくしくあざやかに、目も及ばぬ心地するを、また、うちとけて、戯れごとをも言ひ乱れ遊べば、その方につけては、似るものなく愛敬づき、なつかしくうつきしきことの、並びなきこそ、世にありがたけれ。何ごとにも前の世推し量られて、めづらかなる人のありさまなり。
 宮の内に生ひ出でて、帝王の限りなくかなしきものにしたまひ、さばかり撫でかしづき、身に変へて思したりしかど、心のままにも驕らず、卑下して、二十がうちには、納言にもならずなりにきかし。一つ余りてや、宰相にて大将かけたまへりけむ。
 それに、これはいとこよなく進みにためるは、次々の子の世のおぼえのまさるなめりかし。まことに賢き方の才、心もちゐなどは、これもをさをさ劣るまじく、あやまりても、およすけまさりたるおぼえ、いと異なめり」
 など、めでさせたまふ。



 姫宮のいとうつくしげにて、若く何心なき御ありさまなるを見たてまつりたまふにも、
 「見はやしたてまつり、かつは、まだ片生ひならむことをば、見隠し教へきこえつべからむ人の、うしろやすからむに預けきこえばや」
 など聞こえたまふ。
 大人しき御乳母ども召し出でて、御裳着のほどのことなどのたまはするついでに、
 「六条の大殿の、式部卿親王の女生ほし立てけむやうに、この宮を預かりて育まむ人もがな。ただ人の中にはありがたし。内裏には中宮さぶらひたまふ。次々の女御たちとても、いとやむごとなき限りものせらるるに、はかばかしき後見なくて、さやうの交じらひ、いとなかなかならむ。
 この権中納言の朝臣の独りありつるほどに、うちかすめてこそ試みるべかりけれ。若けれど、いと警策に、生ひ先頼もしげなる人にこそあめるを」
 とのたまはす。
 「中納言は、もとよりいとまめ人にて、年ごろも、かのわたりに心をかけて、ほかざまに思ひ移ろふべくもはべらざりけるに、その思ひ叶ひては、いとど揺るぐ方はべらじ。
 かの院こそ、なかなか、なほいかなるにつけても、人をゆかしく思したる心は、絶えずものせさせたまふなれ。その中にも、やむごとなき御願ひ深くて、前斎院などをも、今に忘れがたくこそ、聞こえたまふなれ」
 と申す。
 「いで、その旧りせぬあだけこそは、いとうしろめたけれ」
 とはのたまはすれど、
 「げに、あまたの中にかかづらひて、めざましかるべき思ひはありとも、なほやがて親ざまに定めたるにて、さもや譲りおききこえまし」
 なども、思し召すべし。
 「まことに、少しも世づきてあらせむと思はむ女子持たらば、同じくは、かの人のあたりにこそ、触ればはせまほしけれ。いくばくならぬこの世のあひだは、さばかり心ゆくありさまにてこそ、過ぐさまほしけれ。
 われ女ならば、同じはらからなりとも、かならず睦び寄りなまし。若かりし時など、さなむおぼえし。まして、女の欺かれむは、いと、ことわりぞや」
 とのたまはせて、御心のうちに、尚侍の君の御ことも、思し出でらるべし。


 


 この御後見どもの中に、重々しき御乳母の兄、左中弁なる、かの院の親しき人にて、年ごろ仕うまつるありけり。この宮にも心寄せことにてさぶらへば、参りたるにあひて、物語するついでに、
 「上なむ、しかしか御けしきありて聞こえたまひしを、かの院に、折あらば漏らしきこえさせたまへ。皇女たちは、独りおはしますこそは例のことなれど、さまざまにつけて心寄せたてまつり、何ごとにつけても、御後見したまふ人あるは頼もしげなり。
 上をおきたてまつりて、また真心に思ひきこえたまふべき人もなければ、おのらは、仕うまつるとても、何ばかりの宮仕へにかあらむ。わが心一つにしもあらで、おのづから思ひの他のこともおはしまし、軽々しき聞こえもあらむ時には、いかさまにかは、わづらはしからむ。御覧ずる世に、ともかくも、この御こと定まりたらば、仕うまつりよくなむあるべき。
 かしこき筋と聞こゆれど、女は、いと宿世定めがたくおはしますものなれば、よろづに嘆かしく、かくあまたの御中に、取り分ききこえさせたまふにつけても、人の嫉みあべかめるを、いかで塵も据ゑたてまつらじ」
 と語らふに、弁、
 「いかなるべき御ことにかあらむ。院は、あやしきまで御心長く、仮にても見そめたまへる人は、御心とまりたるをも、またさしも深からざりけるをも、かたがたにつけて尋ね取りたまひつつ、あまた集へきこえたまへれど、やむごとなく思したるは、限りありて、一方なめれば、それにことよりて、かひなげなる住まひしたまふ方々こそは多かめるを、御宿世ありて、もし、さやうにおはしますやうもあらば、いみじき人と聞こゆとも、立ち並びておしたちたまふことは、えあらじとこそは推し量らるれど、なほ、いかがと憚らるることありてなむおぼゆる。
 さるは、『この世の栄え、末の世に過ぎて、身に心もとなきことはなきを、女の筋にてなむ、人のもどきをも負ひ、わが心にも飽かぬこともある』となむ、常にうちうちのすさびごとにも思しのたまはすなる。
 げに、おのれらが見たてまつるにも、さなむおはします。かたがたにつけて、御蔭に隠したまへる人、皆その人ならず立ち下れる際にはものしたまはねど、限りあるただ人どもにて、院の御ありさまに並ぶべきおぼえ具したるやはおはすめる。
 それに、同じくは、げにさもおはしまさば、いかにたぐひたる御あはひならむ」
 と語らふを、


 乳母、またことのついでに、
 「しかしかなむ、なにがしの朝臣にほのめかしはべしかば、『かの院には、かならずうけひき申させたまひてむ。年ごろの御本意かなひて思しぬべきことなるを、こなたの御許しまことにありぬべくは、伝へきこえむ』となむ申しはべりしを、いかなるべきことにかははべらむ。
 ほどほどにつけて、人の際々思しわきまへつつ、ありがたき御心ざまにものしたまふなれど、ただ人だに、またかかづらひ思ふ人立ち並びたることは、人の飽かぬことにしはべめるを、めざましきこともやはべらむ。御後見望みたまふ人びとは、あまたものしたまふめり。
 よく思し定めてこそよくはべらめ。限りなき人と聞こゆれど、今の世のやうとては、皆ほがらかに、あるべかしくて、世の中を御心と過ぐしたまひつべきもおはしますべかめるを、姫宮は、あさましくおぼつかなく、心もとなくのみ見えさせたまふに、さぶらふ人びとは、仕うまつる限りこそはべらめ。
 おほかたの御心おきてに従ひきこえて、賢しき下人もなびきさぶらふこそ、頼りあることにはべらめ。取り立てたる御後見ものしたまはざらむは、なほ心細きわざになむはべるべき」
 と聞こゆ。



 「しか思ひたどるによりなむ。皇女たちの世づきたるありさまは、うたてあはあはしきやうにもあり、また高き際といへども、女は男に見ゆるにつけてこそ、悔しげなることも、めざましき思ひも、おのづからうちまじるわざなめれと、かつは心苦しく思ひ乱るるを、また、さるべき人に立ちおくれて、頼む蔭どもに別れぬる後、心を立てて世の中に過ぐさむことも、昔は、人の心たひらかにて、世に許さるまじきほどのことをば、思ひ及ばぬものとならひたりけむ、今の世には、好き好きしく乱りがはしきことも、類に触れて聞こゆめりかし。
 昨日まで高き親の家にあがめられかしづかれし人の女の、今日は直々しく下れる際の好き者どもに名を立ち欺かれて、亡き親の面を伏せ、影を恥づかしむるたぐひ多く聞こゆる。言ひもてゆけば皆同じことなり。
 ほどほどにつけて、宿世などいふなることは、知りがたきわざなれば、よろづにうしろめたくなむ。すべて、悪しくも善くも、さるべき人の心に許しおきたるままにて世の中を過ぐすは、宿世宿世にて、後の世に衰へある時も、みづからの過ちにはならず。
 あり経て、こよなき幸ひあり、めやすきことになる折は、かくても悪しからざりけりと見ゆれど、なほ、たちまちふとうち聞きつけたるほどは、親に知られず、さるべき人も許さぬに、心づからの忍びわざし出でたるなむ、女の身にはますことなき疵とおぼゆるわざなる。
 直々しきただ人の仲らひにてだに、あはつけく心づきなきことなり。みづからの心より離れてあるべきにもあらぬを、思ふ心よりほかに人にも見えず、宿世のほど定められむなむ、いと軽々しく、身のもてなし、ありさま推し量らるることなるを。
 あやしくものはかなき心ざまにやと見ゆめる御さまなるを、これかれの心にまかせ、もてなしきこゆなる、さやうなることの世に漏り出でむこと、いと憂きことなり」
 など、見捨てたてまつりたまはむ後の世を、うしろめたげに思ひきこえさせたまへれば、いよいよわづらはしく思ひあへり。



 「今すこしものをも思ひ知りたまふほどまで見過ぐさむとこそは、年ごろ念じつるを、深き本意も遂げずなりぬべき心地のするに思ひもよほされてなむ。
 かの六条の大殿は、げに、さりともものの心得て、うしろやすき方はこよなかりなむを、方々にあまたものせらるべき人びとを知るべきにもあらずかし。とてもかくても、人の心からなり。のどかにおちゐて、おほかたの世のためしとも、うしろやすき方は並びなくものせらるる人なり。さらで良ろしかるべき人、誰ればかりかはあらむ。
 兵部卿宮、人柄はめやすしかし。同じき筋にて、異人とわきまへおとしむべきにはあらねど、あまりいたくなよびよしめくほどに、重き方おくれて、すこし軽びたるおぼえや進みにたらむ。なほ、さる人はいと頼もしげなくなむある。
 また、大納言の朝臣の家司望むなる、さる方に、ものまめやかなるべきことにはあなれど、さすがにいかにぞや。さやうにおしなべたる際は、なほめざましくなむあるべき。
 昔も、かうやうなる選びには、何事も人に異なるおぼえあるに、ことよりてこそありけれ。ただひとへに、またなく待ちゐむ方ばかりを、かしこきことに思ひ定めむは、いと飽かず口惜しかるべきわざになむ。
 右衛門督の下にわぶなるよし、尚侍のものせられし、その人ばかりなむ、位など今すこしものめかしきほどになりなば、などかは、とも思ひ寄りぬべきを、まだ年いと若くて、むげに軽びたるほどなり。
 高き心ざし深くて、やもめにて過ぐしつつ、いたくしづまり思ひ上がれるけしき、人には抜けて、才などもこともなく、つひには世のかためとなるべき人なれば、行く末も頼もしけれど、なほまたこのためにと思ひ果てむには、限りぞあるや」
 と、よろづに思しわづらひたり。
 かうやうにも思し寄らぬ姉宮たちをば、かけても聞こえ悩ましたまふ人もなし。あやしく、うちうちにのたまはする御ささめき言どもの、おのづからひろごりて、心を尽くす人びと多かりけり。



 太政大臣も、
 「この衛門督の、今までひとりのみありて、皇女たちならずは得じと思へるを、かかる御定めども出で来たなる折に、さやうにもおもむけたてまつりて、召し寄せられたらむ時、いかばかりわがためにも面目ありてうれしからむ」
 と、思しのたまひて、尚侍の君には、かの姉北の方して、伝へ申したまふなりけり。よろづ限りなき言の葉を尽くして奏せさせ、御けしき賜はらせたまふ。
 兵部卿宮は、左大将の北の方を聞こえ外したまひて、聞きたまふらむところもあり、かたほならむことはと、選り過ぐしたまふに、いかがは御心の動かざらむ。限りなく思し焦られたり。
 藤大納言は、年ごろ院の別当にて、親しく仕うまつりてさぶらひ馴れにたるを、御山籠もりしたまひなむ後、寄り所なく心細かるべきに、この宮の御後見にことよせて、顧みさせたまふべく、御けしき切に賜はりたまふなるべし。



 権中納言も、かかることどもを聞きたまふに、
 「人伝てにもあらず、さばかりおもむけさせたまへりし御けしきを見たてまつりてしかば、おのづから便りにつけて、漏らし、聞こし召さることもあらば、よももて離れてはあらじかし」
 と、心ときめきもしつべけれど、
 「女君の今はとうちとけて頼みたまへるを、年ごろ、つらきにもことつけつべかりしほどだに、他ざまの心もなくて過ぐしてしを、あやにくに、今さらに立ち返り、にはかに物をや思はせきこえむ。なのめならずやむごとなき方にかかづらひなば、何ごとも思ふままならで、左右に安からずは、わが身も苦しくこそはあらめ」
 など、もとより好き好きしからぬ心なれば、思ひしづめつつうち出でねど、さすがに他ざまに定まり果てたまはむも、いかにぞやおぼえて、耳はとまりけり。


 
 春宮にも、かかることども聞こし召して、
 「さし当たりたるただ今のことよりも、後の世の例ともなるべきことなるを、よく思し召しめぐらすべきことなり。人柄よろしとても、ただ人は限りあるを、なほ、しか思し立つことならば、かの六条院にこそ、親ざまに譲りきこえさせたまはめ」
 となむ、わざとの御消息とはあらねど、御けしきありけるを、待ち聞かせたまひても、
 「げに、さることなり。いとよく思しのたまはせたり」
 と、いよいよ御心立たせまひて、まづ、かの弁してぞ、かつがつ案内伝へきこえさせたまひける。



 この宮の御こと、かく思しわづらふさまは、さきざきも皆聞きおきたまへれば、
 「心苦しきことにもあなるかな。さはありとも、院の御世残りすくなしとて、ここにはまた、いくばく立ちおくれたてまつるべしとてか、その御後見の事をば受けとりきこえむ。げに、次第を過たぬにて、今しばしのほども残りとまる限りあらば、おほかたにつけては、いづれの皇女たちをも、よそに聞き放ちたてまつるべきにもあらねど、またかく取り分きて聞きおきたてまつりてむをば、ことにこそは後見きこえめと思ふを、それだにいと不定なる世の定めなさなりや」
 とのたまひて、
 「まして、ひとつに頼まれたてまつるべき筋に、むつび馴れきこえむことは、いとなかなかに、うち続き世を去らむきざみ心苦しく、みづからのためにも浅からぬほだしになむあるべき。
 中納言などは、年若く軽々しきやうなれど、行く先遠くて、人柄も、つひに朝廷の御後見ともなりぬべき生ひ先なめれば、さも思し寄らむに、などかこよなからむ。
 されど、いといたくまめだちて、思ふ人定まりにてぞあめれば、それに憚らせたまふにやあらむ」
 などのたまひて、みづからは思し離れたるさまなるを、弁は、おぼろけの御定めにもあらぬを、かくのたまへば、いとほしく、口惜しくも思ひて、うちうちに思し立ちにたるさまなど、詳しく聞こゆれば、さすがに、うち笑みつつ、
 「いとかなしくしたてまつりたまふ皇女なめれば、あながちにかく来し方行く先のたどりも深きなめりかしな。ただ、内裏にこそたてまつりたまはめ。やむごとなきまづの人びとおはすといふことは、よしなきことなり。それにさはるべきことにもあらず。かならずさりとて、末の人疎かなるやうもなし。
 故院の御時に、大后の、坊の初めの女御にて、いきまきたまひしかど、むげの末に参りたまへりし入道宮に、しばしは圧されたまひにきかし。
 この皇女の御母女御こそは、かの宮の御はらからにものしたまひけめ。容貌も、さしつぎには、いとよしと言はれたまひし人なりしかば、いづ方につけても、この姫宮おしなべての際にはよもおはせじを」
 など、いぶかしくは思ひきこえたまふべし。


 


 年も暮れぬ。朱雀院には、御心地なほおこたるさまにもおはしまさねば、よろづあわたたしく思し立ちて、御裳着のことは、思しいそぐさま、来し方行く先ありがたげなるまで、いつくしくののしる。
 御しつらひは、柏殿の西面に、御帳、御几帳よりはじめて、ここの綾錦混ぜさせたまはず、唐土の后の飾りを思しやりて、うるはしくことことしく、かかやくばかり調へさせたまへり。
 御腰結には、太政大臣をかねてより聞こえさせたまへりければ、ことことしくおはする人にて、参りにくく思しけれど、院の御言を昔より背き申したまはねば、参りたまふ。
 今二所の大臣たち、その残り上達部などは、わりなき障りあるも、あながちにためらひ助けつつ参りたまふ。親王たち八人、殿上人はたさらにもいはず、内裏、春宮の残らず参り集ひて、いかめしき御いそぎの響きなり。
 院の御こと、このたびこそとぢめなれと、帝、春宮をはじめたてまつりて、心苦しく聞こし召しつつ、蔵人所、納殿の唐物ども、多く奉らせたまへり。
 六条院よりも、御とぶらひいとこちたし。贈り物ども、人びとの禄、尊者の大臣の御引出物など、かの院よりぞ奉らせたまひける。


 中宮よりも、御装束、櫛の筥、心ことに調ぜさせたまひて、かの昔の御髪上の具、ゆゑあるさまに改め加へて、さすがに元の心ばへも失はず、それと見せて、その日の夕つ方、奉れさせたまふ。宮の権の亮、院の殿上にもさぶらふを御使にて、姫宮の御方に参らすべくのたまはせつれど、かかる言ぞ、中にありける。
 「さしながら昔を今に伝ふれば
  玉の小櫛ぞ神さびにける」
 院、御覧じつけて、あはれに思し出でらるることもありけり。あえ物けしうはあらじと譲りきこえたまへるほど、げに、おもだたしき簪なれば、御返りも、昔のあはれをばさしおきて、
 「さしつぎに見るものにもが万世を
  黄楊の小櫛の神さぶるまで」
 とぞ祝ひきこえたまへる。



 御心地いと苦しきを念じつつ、思し起こして、この御いそぎ果てぬれば、三日過ぐして、つひに御髪下ろしたまふ。よろしきほどの人の上にてだに、今はとてさま変はるは悲しげなるわざなれば、まして、いとあはれげに御方々も思し惑ふ。
 尚侍の君は、つとさぶらひたまひて、いみじく思し入りたるを、こしらへかねたまひて、
 「子を思ふ道は限りありけり。かく思ひしみたまへる別れの堪へがたくもあるかな」
 とて、御心乱れぬべけれど、あながちに御脇息にかかりたまひて、山の座主よりはじめて、御忌むことの阿闍梨三人さぶらひて、法服などたてまつるほど、この世を別れたまふ御作法、いみじく悲し。
 今日は、世を思ひ澄ましたる僧たちなどだに、涙もえとどめねば、まして女宮たち、女御、更衣、ここらの男女、上下ゆすり満ちて泣きとよむに、いと心あわたたしう、かからで、静やかなる所に、やがて籠もるべく思しまうけける本意違ひて思し召さるるも、「ただ、この幼き宮にひかされて」と思しのたまはす。
 内裏よりはじめたてまつりて、御とぶらひのしげさ、いとさらなり。


 
 六条院も、すこし御心地よろしくと聞きたてまつらせたまひて、参りたまふ。御賜ばりの御封などこそ、皆同じごと、下りゐの帝と等しく定まりたまへれど、まことの太上天皇の儀式にはうけばりたまはず。世のもてなし思ひきこえたるさまなどは、心ことなれど、ことさらに削ぎたまひて、例の、ことことしからぬ御車にたてまつりて、上達部など、さるべき限り、車にてぞ仕うまつりたまへる。
 院には、いみじく待ちよろこびきこえさせたまひて、苦しき御心地を思し強りて、御対面あり。うるはしきさまならず、ただおはします方に、御座よそひ加へて、入れたてまつりたまふ。
 変はりたまへる御ありさま見たてまつりたまふに、来し方行く先暮れて、悲しくとめがたく思さるれば、とみにもえためらひたまはず。
 「故院におくれたてまつりしころほひより、世の常なく思うたまへられしかば、この方の本意深く進みはべりにしを、心弱く思うたまへたゆたふことのみはべりつつ、つひにかく見たてまつりなしはべるまで、おくれたてまつりはべりぬる心のぬるさを、恥づかしく思うたまへらるるかな。
 身にとりては、ことにもあるまじく思うたまへたちはべる折々あるを、さらにいと忍びがたきこと多かりぬべきわざにこそはべりけれ」
 と、慰めがたく思したり。



 院も、もの心細く思さるるに、え心強からず、うちしほれたまひつつ、いにしへ、今の御物語、いと弱げに聞こえさせたまひて、
 「今日か明日かとおぼえはべりつつ、さすがにほど経ぬるを、うちたゆみて、深き本意の端にても遂げずなりなむこと、と思ひ起こしてなむ。
 かくても残りの齢なくは、行なひの心ざしも叶ふまじけれど、まづ仮にても、のどめおきて、念仏をだにと思ひはべる。はかばかしからぬ身にても、世にながらふること、ただこの心ざしにひきとどめられたると、思うたまへ知られぬにしもあらぬを、今まで勤めなき怠りをだに、安からずなむ」
 とて、思しおきてたるさまなど、詳しくのたまはするついでに、
 「女皇女たちを、あまたうち捨てはべるなむ心苦しき。中にも、また思ひ譲る人なきをば、取り分きうしろめたく、見わづらひはべる」
 とて、まほにはあらぬ御けしき、心苦しく見たてまつりたまふ。



 御心のうちにも、さすがにゆかしき御ありさまなれば、思し過ぐしがたくて、
 「げに、ただ人よりも、かかる筋には、私ざまの御後見なきは、口惜しげなるわざになむはべりける。春宮かくておはしませば、いとかしこき末の世の儲けの君と、天の下の頼みどころに仰ぎきこえさするを。
 まして、このことと聞こえ置かせたまはむことは、一事として疎かに軽め申したまふべきにはべらねば、さらに行く先のこと思し悩むべきにもはべらねど、げに、こと限りあれば、公けとなりたまひ、世の政事御心にかなふべしとは言ひながら、女の御ために、何ばかりのけざやかなる御心寄せあるべきにもはべらざりけり。
 すべて、女の御ためには、さまざま真の御後見とすべきものは、なほさるべき筋に契りを交はし、えさらぬことに、育みきこゆる御護りめはべるなむ、うしろやすかるべきことにはべるを、なほ、しひて後の世の御疑ひ残るべくは、よろしきに思し選びて、忍びて、さるべき御預かりを定めおかせたまふべきになむはべなる」
 と、奏したまふ。



 「さやうに思ひ寄る事はべれど、それも難きことになむありける。いにしへの例を聞きはべるにも、世をたもつ盛りの皇女にだに、人を選びて、さるさまのことをしたまへるたぐひ多かりけり。
 ましてかく、今はとこの世を離るる際にて、ことことしく思ふべきにもあらねど、また、しか捨つる中にも、捨てがたきことありて、さまざまに思ひわづらひはべるほどに、病は重りゆく。また取り返すべきにもあらぬ月日の過ぎゆけば、心あわたたしくなむ。
 かたはらいたき譲りなれど、このいはけなき内親王、一人、分きて育み生ほして、さるべきよすがをも、御心に思し定めて預けたまへ、と聞こえまほしきを。
 権中納言などの独りものしつるほどに、進み寄るべくこそありけれ。太政大臣君に先ぜられて、ねたくおぼえはべる」
 と聞こえたまふ。
 「中納言の朝臣、まめやかなる方は、いとよく仕うまつりぬべくはべるを、何ごともまだ浅くて、たどり少なくこそはべらめ。
 かたじけなくとも、深き心にて後見きこえさせはべらむに、おはします御蔭に変りては思されじを、ただ行く先短くて、仕うまつりさすことやはべらむと、疑はしき方のみなむ、心苦しくはべるべき」
 と、受け引き申したまひつ。



 夜に入りぬれば、主人の院方も、客人の上達部たちも、皆御前にて、御饗のこと、精進物にて、うるはしからず、なまめかしくせさせたまへり。院の御前に、浅香の懸盤に御鉢など、昔に変はりて参るを、人びと、涙おし拭ひたまふ。あはれなる筋のことどもあれど、うるさければ書かず。
 夜更けて帰りたまふ。禄ども、次々に賜ふ。別当大納言も御送りに参りたまふ。主人の院は、今日の雪にいとど御邪加はりて、かき乱り悩ましく思さるれど、この宮の御事、聞こえ定めつるを、心やすく思しけり。


 


 六条院は、なま心苦しう、さまざま思し乱る。
 紫の上も、かかる御定めなむと、かねてもほの聞きたまひけれど、
 「さしもあらじ。前斎院をも、ねむごろに聞こえたまふやうなりしかど、わざとしも思し遂げずなりにしを」
 など思して、「さることもやある」とも問ひきこえたまはず、何心もなくておはするに、いとほしく、
 「この事をいかに思さむ。わが心はつゆも変はるまじく、さることあらむにつけては、なかなかいとど深さこそまさらめ、見定めたまはざらむほど、いかに思ひ疑ひたまはむ」
 など安からず思さる。
 今の年ごろとなりては、ましてかたみに隔てきこえたまふことなく、あはれなる御仲なれば、しばし心に隔て残したることあらむもいぶせきを、その夜はうち休みて明かしたまひつ。


 またの日、雪うち降り、空のけしきもものあはれに、過ぎにし方行く先の御物語聞こえ交はしたまふ。
 「院の頼もしげなくなりたまひにたる、御とぶらひに参りて、あはれなることどものありつるかな。女三の宮の御ことを、いと捨てがたげに思して、しかしかなむのたまはせつけしかば、心苦しくて、え聞こえ否びずなりにしを、ことことしくぞ人は言ひなさむかし。
 今は、さやうのことも初ひ初ひしく、すさまじく思ひなりにたれば、人伝てにけしきばませたまひしには、とかく逃れきこえしを、対面のついでに、心深きさまなることどもを、のたまひ続けしには、えすくすくしくも返さひ申さでなむ。
 深き御山住みに移ろひたまはむほどにこそは、渡したてまつらめ。あぢきなくや思さるべき。いみじきことありとも、御ため、あるより変はることはさらにあるまじきを、心なおきたまひそよ。
 かの御ためこそ、心苦しからめ。それもかたはならずもてなしてむ。誰も誰も、のどかにて過ぐしたまはば」
 など聞こえたまふ。
 はかなき御すさびごとをだに、めざましきものに思して、心やすからぬ御心ざまなれば、「いかが思さむ」と思すに、いとつれなくて、
 「あはれなる御譲りにこそはあなれ。ここには、いかなる心をおきたてまつるべきにか。めざましく、かくてなど、咎めらるまじくは、心やすくてもはべなむを、かの母女御の御方ざまにても、疎からず思し数まへてむや」
 と、卑下したまふを、
 「あまり、かう、うちとけたまふ御ゆるしも、いかなればと、うしろめたくこそあれ。まことは、さだに思しゆるいて、われも人も心得て、なだらかにもてなし過ぐしたまはば、いよいよあはれになむ。
 ひがこと聞こえなどせむ人の言、聞き入れたまふな。すべて、世の人の口といふものなむ、誰が言ひ出づることともなく、おのづから人の仲らひなど、うちほほゆがみ、思はずなること出で来るものなるを、心ひとつにしづめて、ありさまに従ふなむよき。まだきに騒ぎて、あいなきもの怨みしたまふな」
 と、いとよく教へきこえたまふ。



 心のうちにも、
 「かく空より出で来にたるやうなることにて、逃れたまひがたきを、憎げにも聞こえなさじ。わが心に憚りたまひ、いさむることに従ひたまふべき、おのがどちの心より起これる懸想にもあらず。せかるべき方なきものから、をこがましく思ひむすぼほるるさま、世人に漏り聞こえじ。
 式部卿宮の大北の方、常にうけはしげなることどもをのたまひ出でつつ、あぢきなき大将の御ことにてさへ、あやしく恨み嫉みたまふなるを、かやうに聞きて、いかにいちじるく思ひ合はせたまはむ」
 など、おいらかなる人の御心といへど、いかでかはかばかりの隈はなからむ。今はさりともとのみ、わが身を思ひ上がり、うらなくて過ぐしける世の、人笑へならむことを、下には思ひ続けたまへど、いとおいらかにのみもてなしたまへり。


 


 年も返りぬ。朱雀院には、姫宮、六条院に移ろひたまはむ御いそぎをしたまふ。聞こえたまへる人びと、いと口惜しく思し嘆く。内裏にも御心ばへありて、聞こえたまひけるほどに、かかる御定めを聞こし召して、思し止まりにけり。
 さるは、今年ぞ四十になりたまひければ、御賀のこと、朝廷にも聞こし召し過ぐさず、世の中の営みにて、かねてより響くを、ことのわづらひ多くいかめしきことは、昔より好みたまはぬ御心にて、皆かへさひ申したまふ。
 正月二十三日、子の日なるに、左大将殿の北の方、若菜参りたまふ。かねてけしきも漏らしたまはで、いといたく忍びて思しまうけたりければ、にはかにて、えいさめ返しきこえたまはず。忍びたれど、さばかりの御勢ひなれば、渡りたまふ御儀式など、いと響きことなり。
 南の御殿の西の放出に御座よそふ。屏風、壁代よりはじめ、新しく払ひしつらはれたり。うるはしく倚子などは立てず、御地敷四十枚、御茵、脇息など、すべてその御具ども、いときよらにせさせたまへり。
 螺鈿の御厨子二具に、御衣筥四つ据ゑて、夏冬の御装束。香壷、薬の筥、御硯、ゆする坏、掻上の筥などやうのもの、うちうちきよらを尽くしたまへり。御插頭の台には、沈、紫檀を作り、めづらしきあやめを尽くし、同じき金をも、色使ひなしたる、心ばへあり、今めかしく。
 尚侍の君、もののみやび深く、かどめきたまへる人にて、目馴れぬさまにしなしたまへる、おほかたのことをば、ことさらにことことしからぬほどなり。


 人びと参りなどしたまひて、御座に出でたまふとて、尚侍の君に御対面あり。御心のうちには、いにしへ思し出づることもさまざまなりけむかし。
 いと若くきよらにて、かく御賀などいふことは、ひが数へにやと、おぼゆるさまの、なまめかしく、人の親げなくおはしますを、めづらしくて年月隔てて見たてまつりたまふは、いと恥づかしけれど、なほけざやかなる隔てもなくて、御物語聞こえ交はしたまふ。
 幼き君も、いとうつくしくてものしたまふ。尚侍の君は、うち続きても御覧ぜられじとのたまひけるを、大将、かかるついでにだに御覧ぜさせむとて、二人同じやうに、振分髪の何心なき直衣姿どもにておはす。
 「過ぐる齢も、みづからの心にはことに思ひとがめられず、ただ昔ながらの若々しきありさまにて、改むることもなきを、かかる末々のもよほしになむ、なまはしたなきまで思ひ知らるる折もはべりける。
 中納言のいつしかとまうけたなるを、ことことしく思ひ隔てて、まだ見せずかし。人よりことに、数へ取りたまひける今日の子の日こそ、なほうれたけれ。しばしは老を忘れてもはべるべきを」
 と聞こえたまふ。



 尚侍の君も、いとよくねびまさり、ものものしきけさへ添ひて、見るかひあるさましたまへり。
 「若葉さす野辺の小松を引き連れて
  もとの岩根を祈る今日かな」
 と、せめておとなび聞こえたまふ。沈の折敷四つして、御若菜さまばかり参れり。御土器取りたまひて、
 「小松原末の齢に引かれてや
  野辺の若菜も年を摘むべき」
 など聞こえ交はしたまひて、上達部あまた南の廂に着きたまふ。
 式部卿宮は、参りにくく思しけれど、御消息ありけるに、かく親しき御仲らひにて、心あるやうならむも便なくて、日たけてぞ渡りたまへる。
 大将のしたり顔にて、かかる御仲らひに、うけばりてものしたまふも、げに心やましげなるわざなめれど、御孫の君たちは、いづ方につけても、おり立ちて雑役したまふ。籠物四十枝、折櫃物四十。中納言をはじめたてまつりて、さるべき限り取り続きたまへり。御土器くだり、若菜の御羹参る。御前には、沈の懸盤四つ、御坏どもなつかしく、今めきたるほどにせられたり。



 朱雀院の御薬のこと、なほたひらぎ果てたまはぬにより、楽人などは召さず。御笛など、太政大臣の、その方は整へたまひて、
 「世の中に、この御賀よりまためづらしくきよら尽くすべきことあらじ」
 とのたまひて、すぐれたる音の限りを、かねてより思しまうけたりければ、忍びやかに御遊びあり。
 とりどりにたてまつる中に、和琴は、かの大臣の第一に秘したまひける御琴なり。さるものの上手の、心をとどめて弾き馴らしたまへる音、いと並びなきを、異人は掻きたてにくくしたまへば、衛門督の固く否ぶるを責めたまへば、げにいとおもしろく、をさをさ劣るまじく弾く。
 「何ごとも、上手の嗣といひながら、かくしもえ継がぬわざぞかし」と、心にくくあはれに人びと思す。調べに従ひて、跡ある手ども、定まれる唐土の伝へどもは、なかなか尋ね知るべき方あらはなるを、心にまかせて、ただ掻き合はせたるすが掻きに、よろづの物の音調へられたるは、妙におもしろく、あやしきまで響く。
 父大臣は、琴の緒もいと緩に張りて、いたう下して調べ、響き多く合はせてぞ掻き鳴らしたまふ。これは、いとわららかに昇る音の、なつかしく愛敬づきたるを、「いとかうしもは聞こえざりしを」と、親王たちも驚きたまふ。
 琴は、兵部卿宮弾きたまふ。この御琴は、宜陽殿の御物にて、代々に第一の名ありし御琴を、故院の末つ方、一品宮の好みたまふことにて、賜はりたまへりけるを、この折のきよらを尽くしたまはむとするため、大臣の申し賜はりたまへる御伝へ伝へを思すに、いとあはれに、昔のことも恋しく思し出でらる。
 親王も、酔ひ泣きえとどめたまはず。御けしきとりたまひて、琴は御前に譲りきこえさせたまふ。もののあはれにえ過ぐしたまはで、めづらしきもの一つばかり弾きたまふに、ことことしからねど、限りなくおもしろき夜の御遊びなり。
 唱歌の人びと御階に召して、すぐれたる声の限り出だして、返り声になる。夜の更け行くままに、物の調べども、なつかしく変はりて、「青柳」遊びたまふほど、げに、ねぐらの鴬おどろきぬべく、いみじくおもしろし。私事のさまにしなしたまひて、禄など、いと警策にまうけられたりけり。



 暁に、尚侍君帰りたまふ。御贈り物などありけり。
 「かう世を捨つるやうにて明かし暮らすほどに、年月の行方も知らず顔なるを、かう数へ知らせたまへるにつけては、心細くなむ。
 時々は、老いやまさると見たまひ比べよかし。かく古めかしき身の所狭さに、思ふに従ひて対面なきも、いと口惜しくなむ」
 など聞こえたまひて、あはれにもをかしくも、思ひ出できこえたまふことなきにしもあらねば、なかなかほのかにて、かく急ぎ渡りたまふを、いと飽かず口惜しくぞ思されける。
 尚侍の君も、まことの親をばさるべき契りばかりに思ひきこえたまひて、ありがたくこまかなりし御心ばへを、年月に添へて、かく世に住み果てたまふにつけても、おろかならず思ひきこえたまひけり。


 


 かくて、如月の十余日に、朱雀院の姫宮、六条院へ渡りたまふ。この院にも、御心まうけ世の常ならず。若菜参りし西の放出に御帳立てて、そなたの一、二の対、渡殿かけて、女房の局々まで、こまかにしつらひ磨かせたまへり。内裏に参りたまふ人の作法をまねびて、かの院よりも御調度など運ばる。渡りたまふ儀式、言へばさらなり。
 御送りに、上達部などあまた参りたまふ。かの家司望みたまひし大納言も、やすからず思ひながらさぶらひたまふ。御車寄せたる所に、院渡りたまひて、下ろしたてまつりたまふなども、例には違ひたることどもなり。
 ただ人におはすれば、よろづのこと限りありて、内裏参りにも似ず、婿の大君といはむにもこと違ひて、めづらしき御仲のあはひどもになむ。


 三日がほど、かの院よりも、主人の院方よりも、いかめしくめづらしきみやびを尽くしたまふ。
 対の上も、ことに触れてただにも思されぬ世のありさまなり。げに、かかるにつけて、こよなく人に劣り消たるることもあるまじけれど、また並ぶ人なくならひたまひて、はなやかに生ひ先遠く、あなづりにくきけはひにて移ろひたまへるに、なまはしたなく思さるれど、つれなくのみもてなして、御渡りのほども、もろ心にはかなきこともし出でたまひて、いとらうたげなる御ありさまを、いとどありがたしと思ひきこえたまふ。
 姫宮は、げに、まだいと小さく、片なりにおはするうちにも、いといはけなきけしきして、ひたみちに若びたまへり。
 かの紫のゆかり尋ね取りたまへりし折思し出づるに、
 「かれはされていふかひありしを、これは、いといはけなくのみ見えたまへば、よかめり。憎げにおしたちたることなどはあるまじかめり」
 と思すものから、「いとあまりものの栄なき御さまかな」と見たてまつりたまふ。



 三日がほどは、夜離れなく渡りたまふを、年ごろさもならひたまはぬ心地に、忍ぶれど、なほものあはれなり。御衣どもなど、いよいよ薫きしめさせたまふものから、うち眺めてものしたまふけしき、いみじくらうたげにをかし。
 「などて、よろづのことありとも、また人をば並べて見るべきぞ。あだあだしく、心弱くなりおきにけるわがおこたりに、かかることも出で来るぞかし。若けれど、中納言をばえ思しかけずなりぬめりしを」
 と、われながらつらく思し続くるに、涙ぐまれて、
 「今宵ばかりは、ことわりと許したまひてむな。これより後のとだえあらむこそ、身ながらも心づきなかるべけれ。また、さりとて、かの院に聞こし召さむことよ」
 と、思ひ乱れたまへる御心のうち、苦しげなり。すこしほほ笑みて、
 「みづからの御心ながらだに、え定めたまふまじかなるを、ましてことわりも何も、いづこにとまるべきにか」
 と、いふかひなげにとりなしたまへば、恥づかしうさへおぼえたまひて、つらづゑをつきたまひて、寄り臥したまへれば、硯を引き寄せたまひて、
 「目に近く移れば変はる世の中を
  行く末遠く頼みけるかな」
 古言など書き交ぜたまふを、取りて見たまひて、はかなき言なれど、げにと、ことわりにて、
 「命こそ絶ゆとも絶えめ定めなき
  世の常ならぬ仲の契りを」
 とみにもえ渡りたまはぬを、
 「いとかたはらいたきわざかな」
 と、そそのかしきこえたまへば、なよよかにをかしきほどに、えならず匂ひて渡りたまふを、見出だしたまふも、いとただにはあらずかし。



 年ごろ、さもやあらむと思ひしことどもも、今はとのみもて離れたまひつつ、さらばかくにこそはとうちとけゆく末に、ありありて、かく世の聞き耳もなのめならぬことの出で来ぬるよ。思ひ定むべき世のありさまにもあらざりければ、今より後もうしろめたくぞ思しなりぬる。
 さこそつれなく紛らはしたまへど、さぶらふ人々も、
 「思はずなる世なりや。あまたものしたまふやうなれど、いづ方も、皆こなたの御けはひにはかたさり憚るさまにて過ぐしたまへばこそ、ことなくなだらかにもあれ、おしたちてかばかりなるありさまに、消たれてもえ過ぐしたまふまじ」
 「また、さりとて、はかなきことにつけても、安からぬことのあらむ折々、かならずわづらはしきことども出で来なむかし」
 など、おのがじしうち語らひ嘆かしげなるを、つゆも見知らぬやうに、いとけはひをかしく物語などしたまひつつ、夜更くるまでおはす。


 
 かう人のただならず言ひ思ひたるも、聞きにくしと思して、
 「かく、これかれあまたものしたまふめれど、御心にかなひて、今めかしくすぐれたる際にもあらずと、目馴れてさうざうしく思したりつるに、この宮のかく渡りたまへるこそ、めやすけれ。
 なほ、童心の失せぬにやあらむ、われも睦びきこえてあらまほしきを、あいなく隔てあるさまに人びとやとりなさむとすらむ。ひとしきほど、劣りざまなど思ふ人にこそ、ただならず耳たつことも、おのづから出で来るわざなれ、かたじけなく、心苦しき御ことなめれば、いかで心おかれたてまつらじとなむ思ふ」
 などのたまへば、中務、中将の君などやうの人びと、目をくはせつつ、
 「あまりなる御思ひやりかな」
 など言ふべし。昔は、ただならぬさまに使ひならしたまひし人どもなれば、年ごろはこの御方にさぶらひて、皆心寄せきこえたるなめり。
 異御方々よりも、
 「いかに思すらむ。もとより思ひ離れたる人びとは、なかなか心安きを」
 など、おもむけつつ、とぶらひきこえたまふもあるを、
 「かくおしはかる人こそ、なかなか苦しけれ。世の中もいと常なきものを、などてかさのみは思ひ悩まむ」
 など思す。
 あまり久しき宵居も、例ならず人やとがめむと、心の鬼に思して、入りたまひぬれば、御衾参りぬれど、げにかたはらさびしき夜な夜な経にけるも、なほ、ただならぬ心地すれど、かの須磨の御別れの折などを思し出づれば、
 「今はと、かけ離れたまひても、ただ同じ世のうちに聞きたてまつらましかばと、わが身までのことはうち置き、あたらしく悲しかりしありさまぞかし。さて、その紛れに、われも人も命堪へずなりなましかば、いふかひあらまし世かは」
 と思し直す。
 風うち吹きたる夜のけはひ冷ひかにて、ふとも寝入られたまふぬを、近くさぶらふ人びと、あやしとや聞かむと、うちも身じろきたまはぬも、なほいと苦しげなり。夜深き鶏の声の聞こえたるも、ものあはれなり。



 わざとつらしとにはあらねど、かやうに思ひ乱れたまふけにや、かの御夢に見えたまひければ、うちおどろきたまひて、いかにと心騒がしたまふに、鶏の音待ち出でたまへれば、夜深きも知らず顔に、急ぎ出でたまふ。いといはけなき御ありさまなれば、乳母たち近くさぶらひけり。
 妻戸押し開けて出でたまふを、見たてまつり送る。明けぐれの空に、雪の光見えておぼつかなし。名残までとまれる御匂ひ、
 「闇はあやなし」
 と独りごたる。
 雪は所々消え残りたるが、いと白き庭の、ふとけぢめ見えわかれぬほどなるに、
 「なほ残れる雪」
 と忍びやかに口ずさびたまひつつ、御格子うち叩きたまふも、久しくかかることなかりつるならひに、人びとも空寝をしつつ、やや待たせたてまつりて、引き上げたり。
 「こよなく久しかりつるに、身も冷えにけるは。懼ぢきこゆる心のおろかならぬにこそあめれ。さるは、罪もなしや」
 とて、御衣ひきやりなどしたまふに、すこし濡れたる御単衣の袖をひき隠して、うらもなくなつかしきものから、うちとけてはたあらぬ御用意など、いと恥づかしげにをかし。
 「限りなき人と聞こゆれど、難かめる世を」
 と、思し比べらる。
 よろづいにしへのことを思し出でつつ、とけがたき御けしきを怨みきこえたまひて、その日は暮らしたまひつれば、え渡りたまはで、寝殿には御消息を聞こえたまふ。
 「今朝の雪に心地あやまりて、いと悩ましくはべれば、心安き方にためらひはべる」
 とあり。御乳母、
 「さ聞こえさせはべりぬ」
 とばかり、言葉に聞こえたり。
 「異なることなの御返りや」と思す。「院に聞こし召さむこともいとほし。このころばかりつくろはむ」と思せど、えさもあらぬを、「さは思ひしことぞかし。あな苦し」と、みづから思ひ続けたまふ。
 女君も、「思ひやりなき御心かな」と、苦しがりたまふ。



 今朝は、例のやうに大殿籠もり起きさせたまひて、宮の御方に御文たてまつれたまふ。ことに恥づかしげもなき御さまなれど、御筆などひきつくろひて、白き紙に、
 「中道を隔つるほどはなけれども
  心乱るる今朝のあは雪」
 梅に付けたまへり。人召して、
 「西の渡殿よりたてまつらせよ」
 とのたまふ。やがて見出だして、端近くおはします。白き御衣どもを着たまひて、花をまさぐりたまひつつ、「友待つ雪」のほのかに残れる上に、うち散り添ふ空を眺めたまへり。鴬の若やかに、近き紅梅の末にうち鳴きなるを、
 「袖こそ匂へ」
 と花をひき隠して、御簾押し上げて眺めたまへるさま、夢にも、かかる人の親にて、重き位と見えたまはず、若うなまめかしき御さまなり。
 御返り、すこしほど経る心地すれば、入りたまひて、女君に花見せたてまつりたまふ。
 「花といはば、かくこそ匂はまほしけれな。桜に移しては、また塵ばかりも心分くる方なくやあらまし」
 などのたまふ。
 「これも、あまた移ろはぬほど、目とめるにやあらむ。花の盛りに並べて見ばや」
 などのたまふに、御返りあり。紅の薄様に、あざやかにおし包まれたるを、胸つぶれて、御手のいと若きを、
 「しばし見せたてまつらであらばや。隔つとはなけれど、あはあはしきやうならむは、人のほどかたじけなし」
 と思すに、ひき隠したまはむも心おきたまふべければ、かたそば広げたまへるを、しりめに見おこせて添ひ臥したまへり。
 「はかなくてうはの空にぞ消えぬべき
  風にただよふ春のあは雪」
 御手、げにいと若く幼げなり。「さばかりのほどになりぬる人は、いとかくはおはせぬものを」と、目とまれど、見ぬやうに紛らはして、止みたまひぬ。
 異人の上ならば、「さこそあれ」などは、忍びて聞こえたまふべけれど、いとほしくて、ただ、
 「心安くを、思ひなしたまへ」
 とのみ聞こえたまふ。



 今日は、宮の御方に昼渡りたまふ。心ことにうち化粧じたまへる御ありさま、今見たてまつる女房などは、まして見るかひありと思ひきこゆらむかし。御乳母などやうの老いしらへる人びとぞ、
 「いでや。この御ありさま一所こそめでたけれ、めざましきことはありなむかし」
 と、うち混ぜて思ふもありける。
 女宮は、いとらうたげに幼きさまにて、御しつらひなどのことことしく、よだけくうるはしきに、みづからは何心もなく、ものはかなき御ほどにて、いと御衣がちに、身もなく、あえかなり。ことに恥ぢなどもしたまはず、ただ稚児の面嫌ひせぬ心地して、心安くうつくしきさましたまへり。
 「院の帝は、ををしくすくよかなる方の御才などこそ、心もとなくおはしますと、世人思ひためれ、をかしき筋、なまめきゆゑゆゑしき方は、人にまさりたまへるを、などて、かくおいらかに生ほしたてたまひけむ。さるは、いと御心とどめたまへる皇女と聞きしを」
 と思ふも、なま口惜しけれど、憎からず見たてまつりたまふ。
 ただ聞こえたまふままに、なよなよとなびきたまひて、御いらへなどをも、おぼえたまひけることは、いはけなくうちのたまひ出でて、え見放たず見えたまふ。
 昔の心ならましかば、うたて心劣りせましを、今は、世の中を皆さまざまに思ひなだらめて、
 「とあるもかかるも、際離るることは難きものなりけり。とりどりにこそ多うはありけれ、よその思ひは、いとあらまほしきほどなりかし」
 と思すに、差し並び目離れず見たてまつりたまへる年ごろよりも、対の上の御ありさまぞなほありがたく、「われながらも生ほしたてけり」と思す。一夜のほど、朝の間も、恋しくおぼつかなく、いとどしき御心ざしのまさるを、「などかくおぼゆらむ」と、ゆゆしきまでなむ。



 院の帝は、月のうちに御寺に移ろひたまひぬ。この院に、あはれなる御消息ども聞こえたまふ。姫宮の御ことはさらなり。
 わづらはしく、いかに聞くところやなど、憚りたまふことなくて、ともかくも、ただ御心にかけてもてなしたまふべくぞ、たびたび聞こえたまひける。されど、あはれにうしろめたく、幼くおはするを思ひきこえたまひけり。
 紫の上にも、御消息ことにあり。
 「幼き人の、心地なきさまにて移ろひものすらむを、罪なく思しゆるして、後見たまへ。尋ねたまふべきゆゑもやあらむとぞ。
  背きにしこの世に残る心こそ
  入る山路のほだしなりけれ
 闇をえはるけで聞こゆるも、をこがましくや」
 とあり。大殿も見たまひて、
 「あはれなる御消息を。かしこまり聞こえたまへ」
 とて、御使にも、女房して、土器さし出でさせたまひて、しひさせたまふ。「御返りはいかが」など、聞こえにくく思したれど、ことことしくおもしろかるべき折のことならねば、ただ心をのべて、
 「背く世のうしろめたくはさりがたき
  ほだしをしひてかけな離れそ」
 などやうにぞあめりし。
 女の装束に、細長添へてかづけたまふ。御手などのいとめでたきを、院御覧じて、何ごともいと恥づかしげなめるあたりに、いはけなくて見えたまふらむこと、いと心苦しう思したり。


 


 今はとて、女御、更衣たちなど、おのがじし別れたまふも、あはれなることなむ多かりける。
 尚侍の君は、故后の宮のおはしましし二条の宮にぞ住みたまふ。姫宮の御ことをおきては、この御ことをなむかへりみがちに、帝も思したりける。尼になりなむと思したれど、
 「かかるきほひには、慕ふやうに心あわたたしく」
 と諌めたまひて、やうやう仏の御ことなどいそがせたまふ。
 六条の大殿は、あはれに飽かずのみ思してやみにし御あたりなれば、年ごろも忘れがたく、
 「いかならむ折に対面あらむ。今一たびあひ見て、その世のことも聞こえまほしく」
 のみ思しわたるを、かたみに世の聞き耳も憚りたまふべき身のほどに、いとほしげなりし世の騷ぎなども思し出でらるれば、よろづにつつみ過ぐしたまひけるを、かうのどやかになりたまひて、世の中を思ひしづまりたまふらむころほひの御ありさま、いよいよゆかしく、心もとなければ、あるまじきこととは思しながら、おほかたの御とぶらひにことつけて、あはれなるさまに常に聞こえたまふ。
 若々しかるべき御あはひならねば、御返りも時々につけて聞こえ交はしたまふ。昔よりもこよなくうち具し、ととのひ果てにたる御けはひを見たまふにも、なほ忍びがたくて、昔の中納言の君のもとにも、心深きことどもを常にのたまふ。


 かの人の兄なる和泉の前の守を召し寄せて、若々しく、いにしへに返りて語らひたまふ。
 「人伝てならで、物越しに聞こえ知らすべきことなむある。さりぬべく聞こえなびかして、いみじく忍びて参らむ。
 今は、さやうのありきも所狭き身のほどに、おぼろけならず忍ぶれば、そこにもまた人には漏らしたまはじと思ふに、かたみにうしろやすくなむ」
 とのたまふ。尚侍の君、
 「いでや。世の中を思ひ知るにつけても、昔よりつらき御心を、ここら思ひつめつる年ごろの果てに、あはれに悲しき御ことをさし置きて、いかなる昔語りをか聞こえむ。
 げに、人は漏り聞かぬやうありとも、心の問はむこそいと恥づかしかるべけれ」
 とうち嘆きたまひつつ、なほ、さらにあるまじきよしをのみ聞こゆ。


 
 「いにしへ、わりなかりし世にだに、心交はしたまはぬことにもあらざりしを。げに、背きたまひぬる御ためうしろめたきやうにはあれど、あらざりしことにもあらねば、今しもけざやかにきよまはりて、立ちにしわが名、今さらに取り返したまふべきにや」
 と思し起こして、この信太の森を道のしるべにて参うでたまふ。女君には、
 「東の院にものする常陸の君の、日ごろわづらひて久しくなりにけるを、もの騒がしき紛れに訪らはねば、いとほしくてなむ。昼など、けざやかに渡らむも便なきを、夜の間に忍びてとなむ、思ひはべる。人にもかくとも知らせじ」
 と聞こえたまひて、いといたく心懸想したまふを、例はさしも見えたまはぬあたりを、あやし、と見たまひて、思ひ合はせたまふこともあれど、姫宮の御事の後は、何事も、いと過ぎぬる方のやうにはあらず、すこし隔つる心添ひて、見知らぬやうにておはす。



 その日は、寝殿へも渡りたまはで、御文書き交はしたまふ。薫き物などに心を入れて暮らしたまふ。
 宵過ぐして、睦ましき人の限り、四、五人ばかり、網代車の、昔おぼえてやつれたるにて出でたまふ。和泉守して、御消息聞こえたまふ。かく渡りおはしましたるよし、ささめき聞こゆれば、驚きたまひて、
 「あやしく。いかやうに聞こえたるにか」
 とむつかりたまへど、
 「をかしやかにて帰したてまつらむに、いと便なうはべらむ」
 とて、あながちに思ひめぐらして、入れたてまつる。御とぶらひなど聞こえたまひて、
 「ただここもとに、物越しにても。さらに昔のあるまじき心などは、残らずなりにけるを」
 と、わりなく聞こえたまへば、いたく嘆く嘆くゐざり出でたまへり。
 「さればよ。なほ、気近さは」
 と、かつ思さる。かたみに、おぼろけならぬ御みじろきなれば、あはれも少なからず。東の対なりけり。辰巳の方の廂に据ゑたてまつりて、御障子のしりばかりは固めたれば、
 「いと若やかなる心地もするかな。年月の積もりをも、紛れなく数へらるる心ならひに、かくおぼめかしきは、いみじうつらくこそ」
 と怨みきこえたまふ。



 夜いたく更けゆく。玉藻に遊ぶ鴛鴦の声々など、あはれに聞こえて、しめじめと人目少なき宮の内のありさまも、「さも移りゆく世かな」と思し続くるに、平中がまねならねど、まことに涙もろになむ。昔に変はりて、おとなおとなしくは聞こえたまふものから、「これをかくてや」と、引き動かしたまふ。
 「年月をなかに隔てて逢坂の
  さも塞きがたく落つる涙か」
 女、
 「涙のみ塞きとめがたきに清水にて
  ゆき逢ふ道ははやく絶えにき」
 などかけ離れきこえたまへど、いにしへを思し出づるも、
 「誰れにより、多うはさるいみじきこともありし世の騷ぎぞは」と思ひ出でたまふに、「げに、今一たびの対面はありもすべかりけり」
 と、思し弱るも、もとよりづしやかなるところはおはせざりし人の、年ごろは、さまざまに世の中を思ひ知り、来し方を悔しく、公私のことに触れつつ、数もなく思し集めて、いといたく過ぐしたまひにたれど、昔おぼえたる御対面に、その世のことも遠からぬ心地して、え心強くももてなしたまはず。
 なほ、らうらうじく、若うなつかしくて、一方ならぬ世のつつましさをもあはれをも、思ひ乱れて、嘆きがちにてものしたまふけしきなど、今始めたらむよりもめづらしくあはれにて、明けゆくもいと口惜しくて、出でたまはむ空もなし。



 朝ぼらけのただならぬ空に、百千鳥の声もいとうららかなり。花は皆散り過ぎて、名残かすめる梢の浅緑なる木立、「昔、藤の宴したまひし、このころのことなりけりかし」と思し出づる、年月の積もりにけるほども、その折のこと、かき続けあはれに思さる。
 中納言の君、見たてまつり送るとて、妻戸押し開けたるに、立ち返りたまひて、
 「この藤よ。いかに染めけむ色にか。なほ、えならぬ心添ふ匂ひにこそ。いかでか、この蔭をば立ち離るべき」
 と、わりなく出でがてに思しやすらひたり。
 山際よりさし出づる日のはなやかなるにさしあひ、目もかかやく心地する御さまの、こよなくねび加はりたまへる御けはひなどを、めづらしくほど経ても見たてまつるは、まして世の常ならずおぼゆれば、
 「さる方にても、などか見たてまつり過ぐしたまはざらむ。御宮仕へにも限りありて、際ことに離れたまふこともなかりしを。故宮の、よろづに心を尽くしたまひ、よからぬ世の騷ぎに、軽々しき御名さへ響きてやみにしよ」
 など思ひ出でらる。名残多く残りぬらむ御物語のとぢめには、げに残りあらせまほしきわざなめるを、御身、心にえまかせたまふまじく、ここらの人目もいと恐ろしくつつましければ、やうやうさし上がり行くに、心あわたたしくて、廊の戸に御車さし寄せたる人びとも、忍びて声づくりきこゆ。
 人召して、かの咲きかかりたる花、一枝折らせたまへり。
 「沈みしも忘れぬものをこりずまに
  身も投げつべき宿の藤波」
 いといたく思しわづらひて、寄りゐたまへるを、心苦しう見たてまつる。女君も、今さらにいとつつましく、さまざまに思ひ乱れたまへるに、花の蔭は、なほなつかしくて、
 「身を投げむ淵もまことの淵ならで
  かけじやさらにこりずまの波」
 いと若やかなる御振る舞ひを、心ながらもゆるさぬことに思しながら、関守の固からぬたゆみにや、いとよく語らひおきて出でたまふ。
 そのかみも、人よりこよなく心とどめて思うたまへりし御心ざしながら、はつかにてやみにし御仲らひには、いかでかはあはれも少なからむ。



 いみじく忍び入りたまへる御寝くたれのさまを待ち受けて、女君、さばかりならむと心得たまへれど、おぼめかしくもてなしておはす。なかなかうちふすべなどしたまへらむよりも、心苦しく、「など、かくしも見放ちたまへらむ」と思さるれば、ありしよりけに深き契りをのみ、長き世をかけて聞こえたまふ。
 尚侍の君の御ことも、また漏らすべきならねど、いにしへのことも知りたまへれば、まほにはあらねど、
 「物越しに、はつかなりつる対面なむ、残りある心地する。いかで人目咎めあるまじくもて隠しては、今一たびも」
 と、語らひきこえたまふ。うち笑ひて、
 「今めかしくもなり返る御ありさまかな。昔を今に改め加へたまふほど、中空なる身のため苦しく」
 とて、さすがに涙ぐみたまへるまみの、いとらうたげに見ゆるに、
 「かう心安からぬ御けしきこそ苦しけれ。ただおいらかに引き抓みなどして、教へたまへ。隔てあるべくも、ならはしきこえぬを、思はずにこそなりにける御心なれ」
 とて、よろづに御心とりたまふほどに、何ごともえ残したまはずなりぬめり。
 宮の御方にも、とみにえ渡りたまはず、こしらへきこえつつおはします。姫宮は、何とも思したらぬを、御後見どもぞ安からず聞こえける。わづらはしうなど見えたまふけしきならば、そなたもまして心苦しかるべきを、おいらかにうつくしきもて遊びぐさに思ひきこえたまへり。


 


 桐壷の御方は、うちはへえまかでたまはず。御暇のありがたければ、心安くならひたまへる若き御心に、いと苦しくのみ思したり。
 夏ごろ、悩ましくしたまふを、とみにも許しきこえたまはねば、いとわりなしと思す。めづらしきさまの御心地にぞありける。まだいとあえかなる御ほどに、いとゆゆしくぞ、誰れも誰れも思すらむかし。からうしてまかでたまへり。
 姫宮のおはします御殿の東面に、御方はしつらひたり。明石の御方、今は御身に添ひて、出で入りたまふも、あらまほしき御宿世なりかし。


 対の上、こなたに渡りて対面したまふついでに、
 「姫宮にも、中の戸開けて聞こえむ。かねてよりもさやうに思ひしかど、ついでなきにはつつましきを、かかる折に聞こえ馴れなば、心安くなむあるべき」
 と、大殿に聞こえたまへば、うち笑みて、
 「思ふやうなるべき御語らひにこそはあなれ。いと幼げにものしたまふめるを、うしろやすく教へなしたまへかし」
 と、許しきこえたまふ。宮よりも、明石の君の恥づかしげにて交じらむを思せば、御髪すましひきつくろひておはする、たぐひあらじと見えたまへり。
 大殿は、宮の御方に渡りたまひて、
 「夕方、かの対にはべる人の、淑景舎に対面せむとて出で立つ。そのついでに、近づききこえさせまほしげにものすめるを、許して語らひたまへ。心などはいとよき人なり。まだ若々しくて、御遊びがたきにもつきなからずなむ」
 など、聞こえたまふ。
 「恥づかしうこそはあらめ。何ごとをか聞こえむ」
 と、おいらかにのたまふ。
 「人のいらへは、ことにしたがひてこそは思し出でめ。隔て置きてなもてなしたまひそ」
 と、こまかに教へきこえたまふ。「御仲うるはしくて過ぐしたまへ」と思す。
 あまりに何心もなき御ありさまを見あらはされむも、恥づかしくあぢきなけれど、さのたまはむを、「心隔てむもあいなし」と、思すなりけり。



 対には、かく出で立ちなどしたまふものから、
 「我より上の人やはあるべき。身のほどなるものはかなきさまを、見えおきたてまつりたるばかりこそあらめ」
 など、思ひ続けられて、うち眺めたまふ。手習などするにも、おのづから古言も、もの思はしき筋にのみ書かるるを、「さらば、わが身には思ふことありけり」と、身ながらぞ思し知らるる。
 院、渡りたまひて、宮、女御の君などの御さまどもを、「うつくしうもおはするかな」と、さまざま見たてまつりたまへる御目うつしには、年ごろ目馴れたまへる人の、おぼろけならむが、いとかくおどろかるべきにもあらぬを、「なほ、たぐひなくこそは」と見たまふ。ありがたきことなりかし。
 あるべき限り、気高う恥づかしげにととのひたるに添ひて、はなやかに今めかしく、にほひなまめきたるさまざまの香りも、取りあつめ、めでたき盛りに見えたまふ。去年より今年はまさり、昨日より今日はめづらしく、常に目馴れぬさまのしたまへるを、「いかでかくしもありけむ」と思す。
 うちとけたりつる御手習を、硯の下にさし入れたまへれど、見つけたまひて、引き返し見たまふ。手などの、いとわざとも上手と見えで、らうらうじくうつくしげに書きたまへり。
 「身に近く秋や来ぬらむ見るままに
  青葉の山も移ろひにけり」
 とある所に、目とどめたまひて、
 「水鳥の青羽は色も変はらぬを
  萩の下こそけしきことなれ」
 など書き添へつつすさびたまふ。ことに触れて、心苦しき御けしきの、下にはおのづから漏りつつ見ゆるを、ことなく消ちたまへるも、ありがたくあはれに思さる。
 今宵は、いづ方にも御暇ありぬべければ、かの忍び所に、いとわりなくて、出でたまひにけり。「いとあるまじきこと」と、いみじく思し返すにも、かなはざりけり。



 春宮の御方は、実の母君よりも、この御方をば睦ましきものに頼みきこえたまへり。いとうつくしげにおとなびまさりたまへるを、思ひ隔てず、かなしと見たてまつりたまふ。
 御物語など、いとなつかしく聞こえ交はしたまひて、中の戸開けて、宮にも対面したまへり。
 いと幼げにのみ見えたまへば、心安くて、おとなおとなしく親めきたるさまに、昔の御筋をも尋ねきこえたまふ。中納言の乳母といふ召し出でて、
 「同じかざしを尋ねきこゆれば、かたじけなけれど、分かぬさまに聞こえさすれど、ついでなくてはべりつるを、今よりは疎からず、あなたなどにもものしたまひて、おこたらむことは、おどろかしなどもものしたまはむなむ、うれしかるべき」
 などのたまへば、
 「頼もしき御蔭どもに、さまざまに後れきこえたまひて、心細げにおはしますめるを、かかる御ゆるしのはべめれば、ますことなくなむ思うたまへられける。背きたまひにし上の御心向けも、ただかくなむ御心隔てきこえたまはず、まだいはけなき御ありさまをも、はぐくみたてまつらせたまふべくぞはべめりし。うちうちにも、さなむ頼みきこえさせたまひし」
 など聞こゆ。
 「いとかたじけなかりし御消息の後は、いかでとのみ思ひはべれど、何ごとにつけても、数ならぬ身なむ口惜しかりける」
 と、安らかにおとなびたるけはひにて、宮にも、御心につきたまふべく、絵などのこと、雛の捨てがたきさま、若やかに聞こえたまへば、「げに、いと若く心よげなる人かな」と、幼き御心地にはうちとけたまへり。



 さて後は、常に御文通ひなどして、をかしき遊びわざなどにつけても、疎からず聞こえ交はしたまふ。世の中の人も、あいなう、かばかりになりぬるあたりのことは、言ひあつかふものなれば、初めつ方は、
 「対の上、いかに思すらむ。御おぼえ、いとこの年ごろのやうにはおはせじ。すこしは劣りなむ」
 など言ひけるを、今すこし深き御心ざし、かくてしも勝るさまなるを、それにつけても、また安からず言ふ人びとあるに、かく憎げなくさへ聞こえ交はしたまへば、こと直りて、目安くなむありける。


 


 神無月に、対の上、院の御賀に、嵯峨野の御堂にて、薬師仏供養じたてまつりたまふ。いかめしきことは、切にいさめ申したまへば、忍びやかにと思しおきてたり。
 仏、経箱、帙簀のととのへ、まことの極楽思ひやらる。最勝王経、金剛般若、寿命経など、いとゆたけき御祈りなり。上達部いと多く参りたまへり。
 御堂のさま、おもしろくいはむかたなく、紅葉の蔭分けゆく野辺のほどよりはじめて、見物なるに、かたへは、きほひ集りたまふなるべし。
 霜枯れわたれる野原のままに、馬車の行きちがふ音しげく響きたり。御誦経われもわれもと、御方々いかめしくせさせたまふ。


 二十三日を御としみの日にて、この院は、かく隙間なく集ひたまへるうちに、わが御私の殿と思す二条の院にて、その御まうけせさせたまふ。御装束をはじめ、おほかたのことどもも、皆こなたにのみしたまふ。御方々も、さるべきことども分けつつ望み仕うまつりたまふ。
 対どもは、人の局々にしたるを払ひて、殿上人、諸大夫、院司、下人までのまうけ、いかめしくせさせたまへり。
 寝殿の放出を、例のしつらひにて、螺鈿の倚子立てたり。
 御殿の西の間に、御衣の机十二立てて、夏冬の御よそひ、御衾など、例のごとく、紫の綾の覆どもうるはしく見えわたりて、うちの心はあらはならず。
 御前に置物の机二つ、唐の地の裾濃の覆したり。插頭の台は、沈の花足、黄金の鳥、銀の枝にゐたる心ばへなど、淑景舎の御あづかりにて、明石の御方のせさせたまへる、ゆゑ深く心ことなり。
 うしろの御屏風四帖は、式部卿宮なむせさせたまひける。いみじく尽くして、例の四季の絵なれど、めづらしき泉水、潭など、目馴れずおもしろし。北の壁に添へて、置物の御厨子、二具立てて、御調度ども例のことなり。
 南の廂に、上達部、左右の大臣、式部卿宮をはじめたてまつりて、次々はまして参りたまはぬ人なし。舞台の左右に、楽人の平張打ちて、西東に屯食八十具、禄の唐櫃四十づつ続けて立てたり。



 未の時ばかりに楽人参る。「万歳楽」、「皇じやう」など舞ひて、日暮れかかるほどに、高麗の乱声して、「落蹲」舞ひ出でたるほど、なほ常の目馴れぬ舞のさまなれば、舞ひ果つるほどに、権中納言、衛門督下りて、「入綾」をほのかに舞ひて、紅葉の蔭に入りぬる名残、飽かず興ありと人びと思したり。
 いにしへの朱雀院の行幸に、「青海波」のいみじかりし夕べ、思ひ出でたまふ人々は、権中納言、衛門督、また劣らず立ち続きたまひにける、世々のおぼえありさま、容貌、用意などもをさをさ劣らず、官位はやや進みてさへこそなど、齢のほどをも数へて、「なほ、さるべきにて、昔よりかく立ち続きたる御仲らひなりけり」と、めでたく思ふ。
 主人の院も、あはれに涙ぐましく、思し出でらるることども多かり。



 夜に入りて、楽人どもまかり出づ。北の政所の別当ども、人びと率ゐて、禄の唐櫃に寄りて、一つづつ取りて、次々賜ふ。白きものどもを品々かづきて、山際より池の堤過ぐるほどのよそ目は、千歳をかねて遊ぶ鶴の毛衣に思ひまがへらる。
 御遊び始まりて、またいとおもしろし。御琴どもは、春宮よりぞ調へさせたまひける。朱雀院よりわたり参れる琵琶、琴。内裏より賜はりたまへる箏の御琴など、皆昔おぼえたるものの音どもにて、めづらしく掻き合はせたまへるに、何の折にも、過ぎにし方の御ありさま、内裏わたりなど思し出でらる。
 「故入道の宮おはせましかば、かかる御賀など、われこそ進み仕うまつらましか。何ごとにつけてかは心ざしも見えたてまつりけむ」
 と、飽かず口惜しくのみ思ひ出できこえたまふ。
 内裏にも、故宮のおはしまさぬことを、何ごとにも栄なくさうざうしく思さるるに、この院の御ことをだに、例の跡をあるさまのかしこまりを尽くしてもえ見せたてまつらぬを、世とともに飽かぬ心地したまふも、今年はこの御賀にことつけて、行幸などもあるべく思しおきてけれど、
 「世の中のわづらひならむこと、さらにせさせたまふまじくなむ」
 と否び申したまふこと、たびたびになりぬれば、口惜しく思しとまりぬ。



 師走の二十日余りのほどに、中宮まかでさせたまひて、今年の残りの御祈りに、奈良の京の七大寺に、御誦経、布四千反、この近き都の四十寺に、絹四百疋を分かちてせさせたまふ。
 ありがたき御はぐくみを思し知りながら、何ごとにつけてか、深き御心ざしをもあらはし御覧ぜさせたまはむとて、父宮、母御息所のおはせまし御ための心ざしをも取り添へ思すに、かくあながちに、朝廷にも聞こえ返させたまへば、ことども多くとどめさせたまひつ。
 「四十の賀といふことは、さきざきを聞きはべるにも、残りの齢久しき例なむ少なかりけるを、このたびは、なほ、世の響きとどめさせたまひて、まことに後に足らむことを数へさせたまへ」
 とありけれど、公ざまにて、なほいといかめしくなむありける。



 宮のおはします町の寝殿に、御しつらひなどして、さきざきにこと変はらず、上達部の禄など、大饗になずらへて、親王たちにはことに女の装束、非参議の四位、まうち君達など、ただの殿上人には、白き細長一襲、腰差などまで、次々に賜ふ。
 装束限りなくきよらを尽くして、名高き帯、御佩刀など、故前坊の御方ざまにて伝はり参りたるも、またあはれになむ。古き世の一の物と名ある限りは、皆集ひ参る御賀になむあめる。昔物語にも、もの得させたるを、かしこきことには数へ続けためれど、いとうるさくて、こちたき御仲らひのことどもは、えぞ数へあへはべらぬや。



 内裏には、思し初めてしことどもを、むげにやはとて、中納言にぞつけさせたまひてける。そのころの右大将、病して辞したまひけるを、この中納言に、御賀のほどよろこび加へむと思し召して、にはかになさせたまひつ。
 院もよろこび聞こえさせたまふものから、
 「いと、かく、にはかに余る喜びをなむ、いちはやき心地しはべる」
 と卑下し申したまふ。
 丑寅の町に、御しつらひまうけたまひて、隠ろへたるやうにしなしたまへれど、今日は、なほかたことに儀式まさりて、所々の饗なども、内蔵寮、穀倉院より、仕うまつらせたまへり。
 屯食など、公けざまにて、頭中将宣旨うけたまはりて、親王たち五人、左右の大臣、大納言二人、中納言三人、宰相五人、殿上人は、例の、内裏、春宮、院、残る少なし。
 御座、御調度どもなどは、太政大臣詳しくうけたまはりて、仕うまつらせたまへり。今日は、仰せ言ありて渡り参りたまへり。院も、いとかしこくおどろき申したまひて、御座に着きたまひぬ。
 母屋の御座に向へて、大臣の御座あり。いときよらにものものしく太りて、この大臣ぞ、今盛りの宿徳とは見えたまへる。
 主人の院は、なほいと若き源氏の君に見えたまふ。御屏風四帖に、内裏の御手書かせたまへる、唐の綾の薄毯に、下絵のさまなどおろかならむやは。おもしろき春秋の作り絵などよりも、この御屏風の墨つきのかかやくさまは、目も及ばず、思ひなしさへめでたくなむありける。
 置物の御厨子、弾き物、吹き物など、蔵人所より賜はりたまへり。大将の御勢ひ、いといかめしくなりたまひにたれば、うち添へて、今日の作法いとことなり。御馬四十疋、左右の馬寮、六衛府の官人、上より次々に牽きととのふるほど、日暮れ果てぬ。



 例の、「万歳楽」、「賀王恩」などいふ舞、けしきばかり舞ひて、大臣の渡りたまへるに、めづらしくもてはやしたまへる御遊びに、皆人、心を入れたまへり。琵琶は、例の兵部卿宮、何ごとにも世に難きものの上手におはして、いと二なし。御前に琴の御琴。大臣、和琴弾きたまふ。
 年ごろ添ひたまひにける御耳の聞きなしにや、いと優にあはれに思さるれば、琴も御手をさをさ隠したまはず、いみじき音ども出づ。
 昔の御物語どもなど出で来て、今はた、かかる御仲らひに、いづ方につけても、聞こえかよひたまふべき御睦びなど、心よく聞こえたまひて、御酒あまたたび参りて、もののおもしろさもとどこほりなく、御酔ひ泣きどもえとどめたまはず。
 御贈り物に、すぐれたる和琴一つ、好みたまふ高麗笛添へて。紫檀の箱一具に、唐の本ども、ここの草の本など入れて。御車に追ひてたてまつれたまふ。御馬ども迎へ取りて、右馬寮ども、高麗の楽して、ののしる。六衛府の官人の禄ども、大将賜ふ。
 御心と削ぎたまひて、いかめしきことどもは、このたび停めたまへれど、内裏、春宮、一院、后の宮、次々の御ゆかりいつくしきほど、いひ知らず見えにたることなれば、なほかかる折には、めでたくなむおぼえける。


 [第九段 饗宴の後の感懐]
 大将の、ただ一所おはするを、さうざうしく栄なき心地せしかど、あまたの人にすぐれ、おぼえことに、人柄もかたはらなきやうにものしたまふにも、かの母北の方の、伊勢の御息所との恨み深く、挑みかはしたまひけむほどの御宿世どもの行く末見えたるなむ、さまざまなりける。
 その日の御装束どもなど、こなたの上なむしたまひける。禄どもおほかたのことをぞ、三条の北の方はいそぎたまふめりし。折節につけたる御いとなみ、うちうちのもののきよらをも、こなたにはただよそのことにのみ聞きわたりたまふを、何事につけてかは、かかるものものしき数にもまじらひたまはましと、おぼえたるを、大将の君の御ゆかりに、いとよく数まへられたまへり。


 


 年返りぬ。桐壷の御方近づきたまひぬるにより、正月朔日より、御修法不断にせさせたまふ。寺々、社々の御祈り、はた数も知らず。大殿の君、ゆゆしきことを見たまへてしかば、かかるほどのこと、いと恐ろしきものに思ししみたるを、対の上などのさることしたまはぬは、口惜しくさうざうしきものから、うれしく思さるるに、まだいとあえかなる御ほどに、いかにおはせむと、かねて思し騒ぐに、二月ばかりより、あやしく御けしき変はりて悩みたまふに、御心ども騒ぐべし。
 陰陽師どもも、所を変へてつつしみたまふべく申しければ、他のさし離れたらむはおぼつかなしとて、かの明石の御町の中の対に渡したてまつりたまふ。こなたは、ただおほきなる対二つ、廊どもなむめぐりてありけるに、御修法の壇隙なく塗りて、いみじき験者ども集ひて、ののしる。
 母君、この時にわが御宿世も見ゆべきわざなめれば、いみじき心を尽くしたまふ。


 かの大尼君も、今はこよなきほけ人にてぞありけむかし。この御ありさまを見たてまつるは、夢の心地して、いつしかと参り、近づき馴れたてまつる。
 年ごろ、母君はかう添ひさぶらひたまへど、昔のことなど、まほにしも聞こえ知らせたまはざりけるを、この尼君、喜びにえ堪へで、参りては、いと涙がちに、古めかしきことどもを、わななき出でつつ語りきこゆ。
 初めつ方は、あやしくむつかしき人かなと、うちまもりたまひしかど、かかる人ありとばかりは、ほの聞きおきたまへれば、なつかしくもてなしたまへり。
 生まれたまひしほどのこと、大殿の君のかの浦におはしましたりしありさま、
 「今はとて京へ上りたまひしに、誰も誰も、心を惑はして、今は限り、かばかりの契りにこそはありけれと嘆きしを、若君のかく引き助けたまへる御宿世の、いみじくかなしきこと」
 と、ほろほろと泣けば、
 「げに、あはれなりける昔のことを、かく聞かせざらましかば、おぼつかなくても過ぎぬべかりけり」
 と思して、うち泣きたまふ。心のうちには、
 「わが身は、げにうけばりていみじかるべき際にはあらざりけるを、対の上の御もてなしに磨かれて、人の思へるさまなども、かたほにはあらぬなりけり。人びとをばまたなきものに。思ひ消ち、こよなき心おごりをばしつれ。世人は、下に言ひ出づるやうもありつらむかし」
 など思し知り果てぬ。
 母君をば、もとよりかくすこしおぼえ下れる筋と知りながら、生まれたまひけむほどなどをば、さる世離れたる境にてなども知りたまはざりけり。いとあまりおほどきたまへるけにこそは。あやしくおぼおぼしかりけることなりや。
 かの入道の、今は仙人の、世にも住まぬやうにてゐたなるを聞きたまふも、心苦しくなど、かたがたに思ひ乱れたまひぬ。



 いとものあはれに眺めておはするに、御方参りたまひて、日中の御加持に、こなたかなたより参り集ひ、もの騒がしくののしるに、御前にこと人もさぶらはず、尼君、所得ていと近くさぶらひたまふ。
 「あな、見苦しや。短き御几帳引き寄せてこそ、さぶらひたまはめ。風など騒がしくて、おのづからほころびの隙もあらむに。医師などやうのさまして。いと盛り過ぎたまへりや」
 など、なまかたはらいたく思ひたまへり。よしめきそして振る舞ふと、おぼゆめれども、もうもうに耳もおぼおぼしかりければ、「ああ」と、傾きてゐたり。
 さるは、いとさ言ふばかりにもあらずかし。六十五、六のほどなり。尼姿、いとかはらかに、あてなるさまして、目艶やかに泣き腫れたるけしきの、あやしく昔思ひ出でたるさまなれば、胸うちつぶれて、
 「古代のひが言どもや、はべりつらむ。よく、この世のほかなるやうなるひがおぼえどもにとり混ぜつつ、あやしき昔のことどもも出でまうで来つらむはや。夢の心地こそしはべれ」
 と、うちほほ笑みて見たてまつりたまへば、いとなまめかしくきよらにて、例よりもいたくしづまり、もの思したるさまに見えたまふ。わが子ともおぼえたまはず、かたじけなきに、
 「いとほしきことどもを聞こえたまひて、思し乱るるにや。今はかばかりと御位を極めたまはむ世に、聞こえも知らせむとこそ思へ、口惜しく思し捨つべきにはあらねど、いといとほしく心劣りしたまふらむ」
 とおぼゆ。



 御加持果ててまかでぬるに、御くだものなど近くまかなひなし、「こればかりをだに」と、いと心苦しげに思ひて聞こえたまふ。
 尼君は、いとめでたううつくしう見たてまつるままにも、涙はえとどめず。顔は笑みて、口つきなどは見苦しくひろごりたれど、まみのわたりうちしぐれて、ひそみゐたり。
 「あな、かたはらいた」
 と、目くはすれど、聞きも入れず。
 「老の波かひある浦に立ち出でて
  しほたるる海人を誰れかとがめむ
 昔の世にも、かやうなる古人は、罪許されてなむはべりける」
 と聞こゆ。御硯なる紙に、
 「しほたるる海人を波路のしるべにて
  尋ねも見ばや浜の苫屋を」
 御方もえ忍びたまはで、うち泣きたまひぬ。
 「世を捨てて明石の浦に住む人も
  心の闇ははるけしもせじ」
 など聞こえ、紛らはしたまふ。別れけむ暁のことも、夢の中に思し出でられぬを、「口惜しくもありけるかな」と思す。



 弥生の十余日のほどに、平らかに生まれたまひぬ。かねてはおどろおどろしく思し騷ぎしかど、いたく悩みたまふことなくて、男御子にさへおはすれば、限りなく思すさまにて、大殿も御心落ちゐたまひぬ。
 こなたは隠れの方にて、ただ気近きほどなるに、いかめしき御産養などのうちしきり、響きよそほしきありさま、げに「かひある浦」と、尼君のためには見えたれど、儀式なきやうなれば、渡りたまひなむとす。
 対の上も渡りたまへり。白き御装束したまひて、人の親めきて、若宮をつと抱きてゐたまへるさま、いとをかし。みづからかかること知りたまはず、人の上にても見ならひたまはねば、いとめづらかにうつくしと思ひきこえたまへり。むつかしげにおはするほどを、絶えず抱きとりたまへば、まことの祖母君は、ただ任せたてまつりて、御湯殿の扱ひなどを仕うまつりたまふ。
 春宮の宣旨なる典侍ぞ仕うまつる。御迎湯に、おりたちたまへるもいとあはれに、うちうちのこともほの知りたるに、
 「すこしかたほならば、いとほしからましを、あさましく気高く、げに、かかる契りことにものしたまひける人かな」
 と見きこゆ。このほどの儀式なども、まねびたてむに、いとさらなりや。



 六日といふに、例の御殿に渡りたまひぬ。七日の夜、内裏よりも御産養のことあり。
 朱雀院の、かく世を捨ておはします御代はりにや、蔵人所より、頭弁、宣旨うけたまはりて、めづらかなるさまに仕うまつれり。禄の衣など、また中宮の御方よりも、公事にはたちまさり、いかめしくせさせたまふ。次々の親王たち、大臣の家々、そのころのいとなみにて、われもわれもと、きよらを尽くして仕うまつりたまふ。
 大殿の君も、このほどのことどもは、例のやうにもこと削がせたまはで、世になく響きこちたきほどに、うちうちのなまめかしくこまかなるみやびに、まねび伝ふべき節は、目も止まらずなりにけり。大殿の君も、若宮をほどなく抱きたてまつりたまひて、
 「大将のあまたまうけたなるを、今まで見せぬがうらめしきに、かくらうたき人をぞ得たてまつりたる」
 と、うつくしみきこえたまふは、ことわりなりや。
 日々に、ものを引き伸ぶるやうにおよすけたまふ。御乳母など、心知らぬはとみに召さで、さぶらふ中に、品、心すぐれたる限りを選りて、仕うまつらせたまふ。



 御方の御心おきての、らうらうじく気高く、おほどかなるものの、さるべき方には卑下して、憎らかにもうけばらぬなどを、褒めぬ人なし。
 対の上は、まほならねど、見え交はしたまひて、さばかり許しなく思したりしかど、今は、宮の御徳に、いと睦ましく、やむごとなく思しなりにたり。稚児うつくしみたまふ御心にて、天児など、御手づから作りそそくりおはするも、いと若々し。明け暮れこの御かしづきにて過ぐしたまふ。
 かの古代の尼君は、若宮をえ心のどかに見たてまつらぬなむ、飽かずおぼえける。なかなか見たてまつり初めて、恋ひきこゆるにぞ、命もえ堪ふまじかめる。


 


 かの明石にも、かかる御こと伝へ聞きて、さる聖心地にも、いとうれしくおぼえければ、
 「今なむ、この世の境を心やすく行き離るべき」
 と弟子どもに言ひて、この家をば寺になし、あたりの田などやうのものは、皆その寺のことにしおきて、この国の奥の郡に、人も通ひがたく深き山あるを、年ごろも占めおきながら、あしこに籠もりなむ後、また人には見え知らるべきにもあらずと思ひて、ただすこしのおぼつかなきこと残りければ、今までながらへけるを、今はさりともと、仏神を頼み申してなむ移ろひける。
 この近き年ごろとなりては、京に異なることならで、人も通はしたてまつらざりつ。これより下したまふ人ばかりにつけてなむ、一行にても、尼君さるべき折節のことも通ひける。思ひ離るる世のとぢめに、文書きて、御方にたてまつれたまへり。


 「この年ごろは、同じ世の中のうちにめぐらひはべりつれど、何かは、かくながら身を変へたるやうに思うたまへなしつつ、させることなき限りは、聞こえうけたまはらず。
 仮名文見たまふるは、目の暇いりて、念仏も懈台するやうに、益なうてなむ、御消息もたてまつらぬを、伝てにうけたまはれば、若君は春宮に参りたまひて、男宮生まれたまへるよしをなむ、深く喜び申しはべる。
 そのゆゑは、みづからかくつたなき山伏の身に、今さらにこの世の栄えを思ふにもはべらず。過ぎにし方の年ごろ、心ぎたなく、六時の勤めにも、ただ御ことを心にかけて、蓮の上の露の願ひをばさし置きてなむ念じたてまつりし。
 わがおもと生まれたまはむとせし、その年の二月のその夜の夢に見しやう、
 『みづから須弥の山を、右の手に捧げたり。山の左右より、月日の光さやかにさし出でて世を照らす。みづからは山の下の蔭に隠れて、その光にあたらず。山をば広き海に浮かべおきて、小さき舟に乗りて、西の方をさして漕ぎゆく』
 となむ見はべし。
 夢覚めて、朝より数ならぬ身に頼むところ出で来ながら、何ごとにつけてか、さるいかめしきことをば待ち出でむと、心のうちに思ひはべしを、そのころより孕まれたまひにしこなた、俗の方の書を見はべしにも、また内教の心を尋ぬる中にも、夢を信ずべきこと多くはべしかば、賤しき懐のうちにも、かたじけなく思ひいたづきたてまつりしかど、力及ばぬ身に思うたまへかねてなむ、かかる道に赴きはべりにし。
 また、この国のことに沈みはべりて、老の波にさらに立ち返らじと思ひとぢめて、この浦に年ごろはべしほども、わが君を頼むことに思ひきこえはべしかばなむ、心一つに多くの願を立てはべし。その返り申し、平らかに思ひのごと時にあひたまふ。
 若君、国の母となりたまひて、願ひ満ちたまはむ世に、住吉の御社をはじめ、果たし申したまへ。さらに何ごとをかは疑ひはべらむ。
 この一つの思ひ、近き世にかなひはべりぬれば、はるかに西の方、十万億の国隔てたる、九品の上の望み疑ひなくなりはべりぬれば、今はただ迎ふる蓮を待ちはべるほど、その夕べまで、水草清き山の末にて勤めはべらむとてなむ、まかり入りぬる。
  光出でむ暁近くなりにけり
  今ぞ見し世の夢語りする」
 とて、月日書きたり。



 「命終らむ月日も、さらにな知ろしめしそ。いにしへより人の染めおきける藤衣にも、何かやつれたまふ。ただわが身は変化のものと思しなして、老法師のためには功徳をつくりたまへ。この世の楽しみに添へても、後の世を忘れたまふな。
 願ひはべる所にだに至りはべりなば、かならずまた対面ははべりなむ。娑婆の他の岸に至りて、疾くあひ見むとを思せ」
 さて、かの社に立て集めたる願文どもを、大きなる沈の文箱に、封じ籠めてたてまつりたまへり。
 尼君には、ことごとにも書かず、ただ、
 「この月の十四日になむ、草の庵まかり離れて、深き山に入りはべりぬる。かひなき身をば、熊狼にも施しはべりなむ。そこには、なほ思ひしやうなる御世を待ち出でたまへ。明らかなる所にて、また対面はありなむ」
 とのみあり。



 尼君、この文を見て、かの使ひの大徳に問へば、
 「この御文書きたまひて、三日といふになむ、かの絶えたる峰に移ろひたまひにし。なにがしらも、かの御送りに、麓まではさぶらひしかど、皆返したまひて、僧一人、童二人なむ、御供にさぶらはせたまふ。今はと世を背きたまひし折を、悲しきとぢめと思うたまへしかど、残りはべりけり。
 年ごろ行なひの隙々に、寄り臥しながら掻き鳴らしたまひし琴の御琴、琵琶とり寄せたまひて、掻い調べたまひつつ、仏にまかり申したまひてなむ、御堂に施入したまひし。さらぬものどもも、多くはたてまつりたまひて、その残りをなむ、御弟子ども六十余人なむ、親しき限りさぶらひける、ほどにつけて皆処分したまひて、なほし残りをなむ、京の御料とて送りたてまつりたてまつりたまへる。
 今はとてかき籠もり、さるはるけき山の雲霞に混じりたまひにし、むなしき御跡にとまりて、悲しび思ふ人びとなむ多くはべる」
 など、この大徳も、童にて京より下りし人の、老法師になりてとまれる、いとあはれに心細しと思へり。仏の御弟子のさかしき聖だに、鷲の峰をばたどたどしからず頼みきこえながら、なほ薪尽きける夜の惑ひは深かりけるを、まして尼君の悲しと思ひたまへること限りなし。



 御方は、南の御殿におはするを、「かかる御消息なむある」とありければ、忍びて渡りたまへり。重々しく身をもてなして、おぼろけならでは、通ひあひたまふこともかたきを、「あはれなることなむ」と聞きて、おぼつかなければ、うち忍びてものしたまへるに、いといみじく悲しげなるけしきにてゐたまへり。
 火近く取り寄せて、この文を見たまふに、げにせきとめむかたぞなかりける。よその人は、何とも目とどむまじきことの、まづ、昔来し方のこと思ひ出で、恋しと思ひわたりたまふ心には、「あひ見で過ぎ果てぬるにこそは」と、見たまふに、いみじくいふかひなし。
 涙をえせきとめず、この夢語りを、かつは行く先頼もしく、
 「さらば、ひが心にて、わが身をさしもあるまじきさまにあくがらしたまふと、中ごろ思ひただよはれしことは、かくはかなき夢に頼みをかけて、心高くものしたまふなりけり」
 と、かつがつ思ひ合はせたまふ。


 
 尼君、久しくためらひて、
 「君の御徳には、うれしくおもただしきことをも、身にあまりて並びなく思ひはべり。あはれにいぶせき思ひもすぐれてこそはべりけれ。
 数ならぬ方にても、ながらへし都を捨てて、かしこに沈みゐしをだに、世人に違ひたる宿世にもあるかな、と思ひはべしかど、生ける世にゆき離れ、隔たるべき仲の契りとは思ひかけず、同じ蓮に住むべき後の世の頼みをさへかけて年月を過ぐし来て、にはかにかくおぼえぬ御こと出で来て、背きにし世に立ち返りてはべる、かひある御ことを見たてまつりよろこぶものから、片つかたには、おぼつかなく悲しきことのうち添ひて絶えぬを、つひにかくあひ見ず隔てながらこの世を別れぬるなむ、口惜しくおぼえはべる。
 世に経し時だに、人に似ぬ心ばへにより、世をもてひがむるやうなりしを、若きどち頼みならひて、おのおのはまたなく契りおきてければ、かたみにいと深くこそ頼みはべしか。いかなれば、かく耳に近きほどながら、かくて別れぬらむ」
 と言ひ続けて、いとあはれにうちひそみたまふ。御方もいみじく泣きて、
 「人にすぐれむ行く先のことも、おぼえずや。数ならぬ身には、何ごとも、けざやかにかひあるべきにもあらぬものから、あはれなるありさまに、おぼつかなくてやみなむのみこそ口惜しけれ。
 よろづのこと、さるべき人の御ためとこそおぼえはべれ、さて絶え籠もりたまひなば、世の中も定めなきに、やがて消えたまひなば、かひなくなむ」
 とて、夜もすがら、あはれなることどもを言ひつつ明かしたまふ。



 「昨日も、大殿の君の、あなたにありと見置きたまひてしを、にはかにはひ隠れたらむも、軽々しきやうなるべし。身ひとつは、何ばかりも思ひ憚りはべらず。かく添ひたまふ御ためなどのいとほしきになむ、心にまかせて身をももてなしにくかるべき」
 とて、暁に帰り渡りたまひぬ。
 「若宮はいかがおはします。いかでか見たてまつるべき」
 とても泣きぬ。
 「今見たてまつりたまひてむ。女御の君も、いとあはれになむ思し出でつつ、聞こえさせたまふめる。院も、ことのついでに、もし世の中思ふやうならば、ゆゆしきかね言なれど、尼君そのほどまでながらへたまはなむ、とのたまふめりき。いかに思すことにかあらむ」
 とのたまへば、またうち笑みて、
 「いでや、さればこそ、さまざま例なき宿世にこそはべれ」
 とて喜ぶ。この文箱は持たせて参う上りたまひぬ。


 


 宮より、とく参りたまふべきよしのみあれば、
 「かく思したる、ことわりなり。めづらしきことさへ添ひて、いかに心もとなく思さるらむ」
 と、紫の上ものたまひて、若宮忍びて参らせたてまつらむ御心づかひしたまふ。
 御息所は、御暇の心やすからぬに懲りたまひて、かかるついでに、しばしあらまほしく思したり。ほどなき御身に、さる恐ろしきことをしたまへれば、すこし面痩せ細りて、いみじくなまめかしき御さましたまへり。
 「かく、ためらひがたくおはするほど、つくろひたまひてこそは」
 など、御方などは心苦しがりきこえたまふを、大殿は、
 「かやうに面痩せて見えたてまつりたまはむも、なかなかあはれなるべきわざなり」
 などのたまふ。


 対の上などの渡りたまひぬる夕つ方、しめやかなるに、御方、御前に参りたまひて、この文箱聞こえ知らせたまふ。
 「思ふさまにかなひ果てさせたまふまでは、取り隠して置きてはべるべけれど、世の中定めがたければ、うしろめたさになむ。何ごとをも御心と思し数まへざらむこなた、ともかくも、はかなくなりはべりなば、かならずしも今はのとぢめを、御覧ぜらるべき身にもはべらねば、なほ、うつし心失せずはべる世になむ、はかなきことをも、聞こえさせ置くべくはべりける、と思ひはべりて。
 むつかしくあやしき跡なれど、これも御覧ぜよ。この願文は、近き御厨子などに置かせたまひて、かならずさるべからむ折に御覧じて、このうちのことどもはせさせたまへ。
 疎き人には、な漏らさせたまひそ。かばかりと見たてまつりおきつれば、みづからも世を背きはべなむと思うたまへなりゆけば、よろづ心のどかにもおぼえはべらず。
 対の上の御心、おろかに思ひきこえさせたまふな。いとありがたくものしたまふ、深き御けしきを見はべれば、身にはこよなくまさりて、長き御世にもあらなむとぞ思ひはべる。もとより、御身に添ひきこえさせむにつけても、つつましき身のほどにはべれば、譲りきこえそめはべりにしを、いとかうしも、ものしたまはじとなむ、年ごろは、なほ世の常に思うたまへわたりはべりつる。
 今は、来し方行く先、うしろやすく思ひなりにてはべり」
 など、いと多く聞こえたまふ。涙ぐみて聞きおはす。かくむつましかるべき御前にも、常にうちとけぬさましたまひて、わりなくものづつみしたるさまなり。この文の言葉、いとうたてこはく、憎げなるさまを、陸奥国紙にて、年経にければ、黄ばみ厚肥えたる五、六枚、さすがに香にいと深くしみたるに書きたまへり。
 いとあはれと思して、御額髪のやうやう濡れゆく、御側目、あてになまめかし。



 院は、姫宮の御方におはしけるを、中の御障子よりふと渡りたまへれば、えしも引き隠さで、御几帳をすこし引き寄せて、みづからははた隠れたまへり。
 「若宮は、おどろきたまへりや。時の間も恋しきわざなりけり」
 と聞こえたまへば、御息所はいらへも聞こえたまはねば、御方、
 「対に渡しきこえたまひつ」
 と聞こえたまふ。
 「いとあやしや。あなたにこの宮を領じたてまつりて、懐をさらに放たずもて扱ひつつ、人やりならず衣も皆濡らして、脱ぎかへがちなめる。軽々しく、などかく渡したてまつりたまふ。こなたに渡りてこそ見たてまつりたまはめ」
 とのたまへば、
 「いと、うたて。思ひぐまなき御ことかな。女におはしまさむにだに、あなたにて見たてまつりたまはむこそよくはべらめ。まして男は、限りなしと聞こえさすれど、心やすくおぼえたまふを。戯れにても、かやうに隔てがましきこと、なさかしがり聞こえさせたまひそ」
 と聞こえたまふ。うち笑ひて、
 「御仲どもにまかせて、見放ちきこゆべきななりな。隔てて、今は、誰も誰もさし放ち、さかしらなどのたまふこそ幼けれ。まづは、かやうにはひ隠れて、つれなく言ひ落としたまふめりかし」
 とて、御几帳を引きやりたまへれば、母屋の柱に寄りかかりて、いときよげに、心恥づかしげなるさましてものしたまふ。


 
 ありつる箱も、惑ひ隠さむもさま悪しければ、さておはするを、
 「なぞの箱。深き心あらむ。懸想人の長歌詠みて封じこめたる心地こそすれ」
 とのたまへば、
 「あな、うたてや。今めかしくなり返らせたまふめる御心ならひに、聞き知らぬやうなる御すさび言どもこそ、時々出で来れ」
 とて、ほほ笑みたまへれど、ものあはれなりける御けしきどもしるければ、あやしとうち傾きたまへるさまなれば、わづらはしくて、
 「かの明石の岩屋より、忍びてはべし御祈りの巻数、また、まだしき願などのはべりけるを、御心にも知らせたてまつるべき折あらば、御覧じおくべくやとてはべるを、ただ今は、ついでなくて、何かは開けさせたまはむ」
 と聞こえたまふに、「げに、あはれなるべきありさまぞかし」と思して、
 「いかに行なひまして住みたまひにたらむ。命長くて、ここらの年ごろ勤むる罪も、こよなからむかし。世の中に、よしあり、賢しき方々の、人とて見るにも、この世に染みたるほどの濁り深きにやあらむ、賢き方こそあれ、いと限りありつつ及ばざりけりや。
 さもいたり深く、さすがに、けしきありし人のありさまかな。聖だち、この世離れ顔にもあらぬものから、下の心は、皆あらぬ世に通ひ住みにたるとこそ、見えしか。
 まして、今は心苦しきほだしもなく、思ひ離れにたらむをや。かやすき身ならば、忍びて、いと会はまほしくこそ」
 とのたまふ。
 「今は、かのはべりし所をも捨てて、鳥の音聞こえぬ山にとなむ聞きはべる」
 と聞こゆれば、
 「さらば、その遺言ななりな。消息は通はしたまふや。尼君、いかに思ひたまふらむ。親子の仲よりも、またさるさまの契りは、ことにこそ添ふべけれ」
 とて、うち涙ぐみたまへり。



 「年の積もりに、世の中のありさまを、とかく思ひ知りゆくままに、あやしく恋しく思ひ出でらるる人の御ありさまなれば、深き契りの仲らひは、いかにあはれならむ」
 などのたまふついでに、「この夢語りも思し合はすることもや」と思ひて、
 「いとあやしき梵字とかいふやうなる跡にはべめれど、御覧じとどむべき節もや混じりはべるとてなむ。今はとて別れはべりにしかど、なほこそ、あはれは残りはべるものなりけれ」
 とて、さまよくうち泣きたまふ。寄りたまひて、
 「いとかしこく、なほほれぼれしからずこそあるべけれ。手なども、すべて何ごとも、わざと有職にしつべかりける人の、ただこの世経る方の心おきてこそ少なかりけれ。
 かの先祖の大臣は、いとかしこくありがたき心ざしを尽くして、朝廷に仕うまつりたまひけるほどに、ものの違ひめありて、その報いにかく末はなきなりなど、人言ふめりしを、女子の方につけたれど、かくていと嗣なしといふべきにはあらぬも、そこらの行なひのしるしにこそはあらめ」
 など、涙おし拭ひたまひつつ、この夢のわたりに目とどめたまふ。
 「あやしくひがひがしく、すずろに高き心ざしありと人も咎め、また我ながらも、さるまじき振る舞ひを、仮にてもするかな、と思ひしことは、この君の生まれたまひし時に、契り深く思ひ知りにしかど、目の前に見えぬあなたのことは、おぼつかなくこそ思ひわたりつれ、さらば、かかる頼みありて、あながちには望みしなりけり。
 横さまに、いみじき目を見、ただよひしも、この人一人のためにこそありけれ。いかなる願をか心に起こしけむ」
 とゆかしければ、心のうちに拝みて取りたまひつ。



 「これは、また具してたてまつるべきものはべり。今また聞こえ知らせはべらむ」
 と、女御には聞こえたまふ。そのついでに、
 「今は、かく、いにしへのことをもたどり知りたまひぬれど、あなたの御心ばへを、おろかに思しなすな。もとよりさるべき仲、えさらぬ睦びよりも、横さまの人のなげのあはれをもかけ、一言の心寄せあるは、おぼろけのことにもあらず。
 まして、ここになどさぶらひ馴れたまふを見る見るも、初めの心ざし変はらず、深くねむごろに思ひきこえたるを。
 いにしへの世のたとへにも、さこそはうはべには育みけれと、らうらうじきたどりあらむも、賢きやうなれど、なほあやまりても、わがため下の心ゆがみたらむ人を、さも思ひ寄らず、うらなからむためは、引き返しあはれに、いかでかかるにはと、罪得がましきにも、思ひ直ることもあるべし。
 おぼろけの昔の世のあだならぬ人は、違ふ節々あれど、ひとりひとり罪なき時には、おのづからもてなす例どもあるべかめり。さしもあるまじきことに、かどかどしく癖をつけ、愛敬なく、人をもて離るる心あるは、いとうちとけがたく、思ひぐまなきわざになむあるべき。
 多くはあらねど、人の心の、とあるさまかかるおもむきを見るに、ゆゑよしといひ、さまざまに口惜しからぬ際の心ばせあるべかめり。皆おのおの得たる方ありて、取るところなくもあらねど、また、取り立てて、わが後見に思ひ、まめまめしく選び思はむには、ありがたきわざになむ。
 ただまことに心の癖なくよきことは、この対をのみなむ、これをぞおいらかなる人といふべかりける、となむ思ひはべる。よしとて、またあまりひたたけて頼もしげなきも、いと口惜しや」
 とばかりのたまふに、かたへの人は思ひやられぬかし。



 「そこにこそ、すこしものの心得てものしたまふめるを、いとよし、睦び交はして、この御後見をも、同じ心にてものしたまへ」
 など、忍びやかにのたまふ。
 「のたまはせねど、いとありがたき御けしきを見たてまつるままに、明け暮れの言種に聞こえはべる。めざましきものになど思しゆるさざらむに、かうまで御覧じ知るべきにもあらぬを、かたはらいたきまで数まへのたまはすれば、かへりてはまばゆくさへなむ。
 数ならぬ身の、さすがに消えぬは、世の聞き耳も、いと苦しく、つつましく思うたまへらるるを、罪なきさまに、もて隠されたてまつりつつのみこそ」
 と聞こえたまへば、
 「その御ためには、何の心ざしかはあらむ。ただ、この御ありさまを、うち添ひてもえ見たてまつらぬおぼつかなさに、譲りきこえらるるなめり。それもまた、とりもちて、掲焉になどあらぬ御もてなしどもに、よろづのことなのめに目やすくなれば、いとなむ思ひなくうれしき。
 はかなきことにて、ものの心得ずひがひがしき人は、立ち交じらふにつけて、人のためさへからきことありかし。さ直しどころなく、誰もものしたまふめれば、心やすくなむ」
 とのたまふにつけても、
 「さりや、よくこそ卑下しにけれ」
 など、思ひ続けたまふ。対へ渡りたまひぬ。



 「さも、いとやむごとなき御心ざしのみまさるめるかな。げにはた、人よりことに、かくしも具したまへるありさまの、ことわりと見えたまへるこそめでたけれ。
 宮の御方、うはべの御かしづきのみめでたくて、渡りたまふことも、えなのめならざめるは、かたじけなきわざなめりかし。同じ筋にはおはすれど、今一際は心苦しく」
 としりうごちきこえたまふにつけても、わが宿世は、いとたけくぞ、おぼえたまひける。
 「やむごとなきだに、思すさまにもあらざめる世に、まして立ちまじるべきおぼえにしあらねば、すべて今は、恨めしき節もなし。ただ、かの絶え籠もりにたる山住みを思ひやるのみぞ、あはれにおぼつかなき」
 尼君も、ただ、「福地の園に種まきて」とやうなりし一言をうち頼みて、後の世を思ひやりつつ眺めゐたまへり。


 


 大将の君は、この姫宮の御ことを、思ひ及ばぬにしもあらざりしかば、目に近くおはしますを、いとただにもおぼえず、おほかたの御かしづきにつけて、こなたにはさりぬべき折々に参り馴れ、おのづから御けはひ、ありさまも見聞きたまふに、いと若くおほどきたまへる一筋にて、上の儀式はいかめしく、世の例にしつばかりもてかしづきたてまつりたまへれど、をさをさけざやかにもの深くは見えず。
 女房なども、おとなおとなしきは少なく、若やかなる容貌人の、ひたぶるにうちはなやぎ、さればめるはいと多く、数知らぬまで集ひさぶらひつつ、もの思ひなげなる御あたりとはいひながら、何ごとものどやかに心しづめたるは、心のうちのあらはにしも見えぬわざなれば、身に人知れぬ思ひ添ひたらむも、またまことに心地ゆきげに、とどこほりなかるべきにしうち混じれば、かたへの人にひかれつつ、同じけはひもてなしになだらかなるを、ただ明け暮れは、いはけたる遊び戯れに心入れたる童女のありさまなど、院は、いと目につかず見たまふことどもあれど、一つさまに世の中を思しのたまはぬ御本性なれば、かかる方をもまかせて、さこそはあらまほしからめ、と御覧じゆるしつつ、戒めととのへさせたまはず。
 正身の御ありさまばかりをば、いとよく教へきこえたまふに、すこしもてつけたまへり。


 かやうのことを、大将の君も、
 「げにこそ、ありがたき世なりけれ。紫の御用意、けしきの、ここらの年経ぬれど、ともかくも漏り出で見え聞こえたるところなく、しづやかなるをもととして、さすがに、心うつくしう、人をも消たず、身をもやむごとなく、心にくくもてなし添へたまへること」
 と、見し面影も忘れがたくのみなむ思ひ出でられける。
 「わが御北の方も、あはれと思す方こそ深けれ、いふかひあり、すぐれたるらうらうじさなど、ものしたまはぬ人なり。おだしきものに、今はと目馴るるに、心ゆるびて、なほかくさまざまに、集ひたまへるありさまどもの、とりどりにをかしきを、心ひとつに思ひ離れがたきを、ましてこの宮は、人の御ほどを思ふにも、限りなく心ことなる御ほどに、取り分きたる御けしきしもあらず、人目の飾りばかりにこそ」
 と見たてまつり知る。わざとおほけなき心にしもあらねど、「見たてまつる折ありなむや」と、ゆかしく思ひきこえたまひけり。



 衛門督の君も、院に常に参り、親しくさぶらひ馴れたまひし人なれば、この宮を父帝のかしづきあがめたてまつりたまひし御心おきてなど、詳しく見たてまつりおきて、さまざまの御定めありしころほひより聞こえ寄り、院にも、「めざましとは思し、のたまはせず」と聞きしを、かくことざまになりたまへるは、いと口惜しく、胸いたき心地すれば、なほえ思ひ離れず。
 その折より語らひつきにける女房のたよりに、御ありさまなども聞き伝ふるを慰めに思ふぞ、はかなかりける。
 「対の上の御けはひには、なほ圧されたまひてなむ」と、世人もまねび伝ふるを聞きては、
 「かたじけなくとも、さるものは思はせたてまつらざらまし。げに、たぐひなき御身にこそ、あたらざらめ」
 と、常にこの小侍従といふ御乳主をも言ひはげまして、
 「世の中定めなきを、大殿の君、もとより本意ありて思しおきてたる方に赴きたまはば」
 と、たゆみなく思ひありきけり。



 弥生ばかりの空うららかなる日、六条の院に、兵部卿宮、衛門督など参りたまへり。大殿出でたまひて、御物語などしたまふ。
 「静かなる住まひは、このころこそいとつれづれに紛るることなかりけれ。公私にことなしや。何わざしてかは暮らすべき」
 などのたまひて、
 「今朝、大将のものしつるは、いづ方にぞ。いとさうざうしきを、例の、小弓射させて見るべかりけり。好むめる若人どもも見えつるを、ねたう出でやしぬる」
 と、問はせたまふ。
 「大将の君は、丑寅の町に、人びとあまたして、鞠もて遊ばして見たまふ」
 と聞こしめして、
 「乱りがはしきことの、さすがに目覚めてかどかどしきぞかし。いづら、こなたに」
とて、御消息あれば、参りたまへり。若君達めく人びと多かりけり。
 「鞠持たせたまへりや。誰々かものしつる」
 とのたまふ。
 「これかれはべりつ」
 「こなたへまかでむや」
 とのたまひて、寝殿の東面、桐壺は若宮具したてまつりて、参りたまひにしころなれば、こなた隠ろへたりけり。遣水などのゆきあひはれて、よしあるかかりのほどを尋ねて立ち出づ。太政大臣殿の君達、頭弁、兵衛佐、大夫の君など、過ぐしたるも、まだ片なりなるも、さまざまに、人よりまさりてのみものしたまふ。



 やうやう暮れかかるに、「風吹かず、かしこき日なり」と興じて、弁君もえしづめず立ちまじれば、大殿、
 「弁官もえをさめあへざめるを、上達部なりとも、若き衛府司たちは、などか乱れたまはざらむ。かばかりの齢にては、あやしく見過ぐす、口惜しくおぼえしわざなり。さるは、いと軽々なりや。このことのさまよ」
 などのたまふに、大将も督君も、皆下りたまひて、えならぬ花の蔭にさまよひたまふ夕ばえ、いときよげなり。をさをささまよく静かならぬ、乱れごとなめれど、所から人からなりけり。
 ゆゑある庭の木立のいたく霞みこめたるに、色々紐ときわたる花の木ども、わづかなる萌黄の蔭に、かくはかなきことなれど、善き悪しきけぢめあるを挑みつつ、われも劣らじと思ひ顔なる中に、衛門督のかりそめに立ち混じりたまへる足もとに、並ぶ人なかりけり。
 容貌いときよげに、なまめきたるさましたる人の、用意いたくして、さすがに乱りがはしき、をかしく見ゆ。
 御階の間にあたれる桜の蔭に寄りて、人びと、花の上も忘れて心に入れたるを、大殿も宮も、隅の高欄に出でて御覧ず。



 いと労ある心ばへども見えて、数多くなりゆくに、上臈も乱れて、冠の額すこしくつろぎたり。大将の君も、御位のほど思ふこそ、例ならぬ乱りがはしさかなとおぼゆれ、見る目は、人よりけに若くをかしげにて、桜の直衣のやや萎えたるに、指貫の裾つ方、すこしふくみて、けしきばかり引き上げたまへり。
 軽々しうも見えず、ものきよげなるうちとけ姿に、花の雪のやうに降りかかれば、うち見上げて、しをれたる枝すこし押し折りて、御階の中のしなのほどにゐたまひぬ。督の君続きて、
 「花、乱りがはしく散るめりや。桜は避きてこそ」
 などのたまひつつ、宮の御前の方を後目に見れば、例の、ことにをさまらぬけはひどもして、色々こぼれ出でたる御簾のつま、透影など、春の手向けの幣袋にやとおぼゆ。



 御几帳どもしどけなく引きやりつつ、人気近く世づきてぞ見ゆるに、唐猫のいと小さくをかしげなるを、すこし大きなる猫追ひ続きて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、人びとおびえ騒ぎて、そよそよと身じろきさまよふけはひども、衣の音なひ、耳かしかましき心地す。
 猫は、まだよく人にもなつかぬにや、綱いと長く付きたりけるを、物にひきかけまつはれにけるを、逃げむとひこしろふほどに、御簾の側いとあらはに引き開けられたるを、とみにひき直す人もなし。この柱のもとにありつる人びとも、心あわたたしげにて、もの懼ぢしたるけはひどもなり。



 几帳の際すこし入りたるほどに、袿姿にて立ちたまへる人あり。階より西の二の間の東の側なれば、まぎれどころもなくあらはに見入れらる。
 紅梅にやあらむ、濃き薄き、すぎすぎに、あまた重なりたるけぢめ、はなやかに、草子のつまのやうに見えて、桜の織物の細長なるべし。御髪のすそまでけざやかに見ゆるは、糸をよりかけたるやうになびきて、裾のふさやかにそがれたる、いとうつくしげにて、七、八寸ばかりぞ余りたまへる。御衣の裾がちに、いと細くささやかにて、姿つき、髪のかかりたまへる側目、言ひ知らずあてにらうたげなり。夕影なれば、さやかならず、奥暗き心地するも、いと飽かず口惜し。
 鞠に身を投ぐる若君達の、花の散るを惜しみもあへぬけしきどもを見るとて、人びと、あらはをふともえ見つけぬなるべし。猫のいたく鳴けば、見返りたまへる面もち、もてなしなど、いとおいらかにて、若くうつくしの人やと、ふと見えたり。



 大将、いとかたはらいたけれど、はひ寄らむもなかなかいと軽々しければ、ただ心を得させて、うちしはぶきたまへるにぞ、やをらひき入りたまふ。さるは、わが心地にも、いと飽かぬ心地したまへど、猫の綱ゆるしつれば、心にもあらずうち嘆かる。
 まして、さばかり心をしめたる衛門督は、胸ふとふたがりて、誰ればかりにかはあらむ、ここらの中にしるき袿姿よりも、人に紛るべくもあらざりつる御けはひなど、心にかかりておぼゆ。
 さらぬ顔にもてなしたれど、「まさに目とどめじや」と、大将はいとほしく思さる。わりなき心地の慰めに、猫を招き寄せてかき抱きたれば、いと香ばしくて、らうたげにうち鳴くも、なつかしく思ひよそへらるるぞ、好き好きしきや。


 


 大殿御覧じおこせて、
 「上達部の座、いと軽々しや。こなたにこそ」
 とて、対の南面に入りたまへれば、みなそなたに参りたまひぬ。宮もゐ直りたまひて、御物語したまふ。
 次々の殿上人は、簀子に円座召して、わざとなく、椿餅、梨、柑子やうのものども、さまざまに箱の蓋どもにとり混ぜつつあるを、若き人びとそぼれ取り食ふ。さるべき乾物ばかりして、御土器参る。
 衛門督は、いといたく思ひしめりて、ややもすれば、花の木に目をつけて眺めやる。大将は、心知りに、「あやしかりつる御簾の透影思ひ出づることやあらむ」と思ひたまふ。
 「いと端近なりつるありさまを、かつは軽々しと思ふらむかし。いでや。こなたの御ありさまの、さはあるまじかめるものを」と思ふに、「かかればこそ、世のおぼえのほどよりは、うちうちの御心ざしぬるきやうにはありけれ」
 と思ひ合はせて、
 「なほ、内外の用意多からず、いはけなきは、らうたきやうなれど、うしろめたきやうなりや」
 と、思ひ落とさる。
 宰相の君は、よろづの罪をもをさをさたどられず、おぼえぬものの隙より、ほのかにもそれと見たてまつりつるにも、「わが昔よりの心ざしのしるしあるべきにや」と、契りうれしき心地して、飽かずのみおぼゆ。


 院は、昔物語し出でたまひて、
 「太政大臣の、よろづのことにたち並びて、勝ち負けの定めしたまひし中に、鞠なむえ及ばずなりにし。はかなきことは、伝へあるまじけれど、ものの筋はなほこよなかりけり。いと目も及ばず、かしこうこそ見えつれ」
 とのたまへば、うちほほ笑みて、
 「はかばかしき方にはぬるくはべる家の風の、さしも吹き伝へはべらむに、後の世のため、異なることなくこそはべりぬべけれ」
 と申したまへば、
 「いかでか。何ごとも人に異なるけぢめをば、記し伝ふべきなり。家の伝へなどに書き留め入れたらむこそ、興はあらめ」
 など、戯れたまふ御さまの、匂ひやかにきよらなるを見たてまつるにも、
 「かかる人にならひて、いかばかりのことにか心を移す人はものしたまはむ。何ごとにつけてか、あはれと見ゆるしたまふばかりは、なびかしきこゆべき」
 と、思ひめぐらすに、いとどこよなく、御あたりはるかなるべき身のほども思ひ知らるれば、胸のみふたがりてまかでたまひぬ。



 大将の君一つ車にて、道のほど物語したまふ。
 「なほ、このころのつれづれには、この院に参りて、紛らはすべきなりけり」
 「今日のやうならむ暇の隙待ちつけて、花の折過ぐさず参れ、とのたまひつるを、春惜しみがてら、月のうちに、小弓持たせて参りたまへ」
 と語らひ契る。おのおの別るる道のほど物語したまうて、宮の御事のなほ言はまほしければ、
 「院には、なほこの対にのみものせさせたまふなめりな。かの御おぼえの異なるなめりかし。この宮いかに思すらむ。帝の並びなくならはしたてまつりたまへるに、さしもあらで、屈したまひにたらむこそ、心苦しけれ」
 と、あいなく言へば、
 「たいだいしきこと。いかでかさはあらむ。こなたは、さま変はりて生ほしたてたまへる睦びのけぢめばかりにこそあべかめれ。宮をば、かたがたにつけて、いとやむごとなく思ひきこえたまへるものを」
 と語りたまへば、
 「いで、あなかま。たまへ。皆聞きてはべり。いといとほしげなる折々あなるをや。さるは、世におしなべたらぬ人の御おぼえを。ありがたきわざなりや」
 と、いとほしがる。
 「いかなれば花に木づたふ鴬の
  桜をわきてねぐらとはせぬ
 春の鳥の、桜一つにとまらぬ心よ。あやしとおぼゆることぞかし」
 と、口ずさびに言へば、
 「いで、あなあぢきなのもの扱ひや、さればよ」と思ふ。
 「深山木にねぐら定むるはこ鳥も
  いかでか花の色に飽くべき
 わりなきこと。ひたおもむきにのみやは」
 といらへて、わづらはしければ、ことに言はせずなりぬ。異事に言ひ紛らはして、おのおの別れぬ。


 督の君は、なほ大殿の東の対に、独り住みにてぞものしたまひける。思ふ心ありて、年ごろかかる住まひをするに、人やりならずさうざうしく心細き折々あれど、
 「わが身かばかりにて、などか思ふことかなはざらむ」
 とのみ、心おごりをするに、この夕べより屈しいたく、もの思はしくて、
 「いかならむ折に、またさばかりにても、ほのかなる御ありさまをだに見む。ともかくもかき紛れたる際の人こそ、かりそめにもたはやすき物忌、方違への移ろひも軽々しきに、おのづからともかくものの隙をうかがひつくるやうもあれ」
 など思ひやる方なく、
 「深き窓のうちに、何ばかりのことにつけてか、かく深き心ありけりとだに知らせたてまつるべき」
 と胸痛くいぶせければ、小侍従がり、例の、文やりたまふ。
 「一日、風に誘はれて、御垣の原をわけ入りてはべしに、いとどいかに見落としたまひけむ。その夕べより、乱り心地かきくらし、あやなく今日は眺め暮らしはべる」
 など書きて、
 「よそに見て折らぬ嘆きはしげれども
  なごり恋しき花の夕かげ」
 とあれど、侍従は一日の心も知らねば、ただ世の常の眺めにこそはと思ふ。



 御前に人しげからぬほどなれば、かの文を持て参りて、
 「この人の、かくのみ、忘れぬものに、言問ひものしたまふこそわづらはしくはべれ。心苦しげなるありさまも見たまへあまる心もや添ひはべらむと、みづからの心ながら知りがたくなむ」
 と、うち笑ひて聞こゆれば、
 「いとうたてあることをも言ふかな」
 と、何心もなげにのたまひて、文広げたるを御覧ず。
 「見もせぬ」と言ひたるところを、あさましかりし御簾のつまを思し合はせらるるに、御面赤みて、大殿の、さばかりことのついでごとに、
 「大将に見えたまふな。いはけなき御ありさまなんめれば、おのづからとりはづして、見たてまつるやうもありなむ」
 と、戒めきこえたまふを思し出づるに、
 「大将の、さることのありしと語りきこえたらむ時、いかにあはめたまはむ」
 と、人の見たてまつりけむことをば思さで、まづ、憚りきこえたまふ心のうちぞ幼かりける。
 常よりも御さしらへなければ、すさまじく、しひて聞こゆべきことにもあらねば、ひき忍びて、例の書く。
 「一日は、つれなし顔をなむ。めざましうと許しきこえざりしを、『見ずもあらぬ』やいかに。あな、かけかけし」
 と、はやりかに走り書きて、
 「いまさらに色にな出でそ山桜
  およばぬ枝に心かけきと
 かひなきことを」
 とあり。


  

  

            現代語訳 補足 目次

      三十五、 若 菜 下   
 


   
 



 ことわりとは思へども、「うれたくも言へるかな。いでや、なぞ、かく異なることなきあへしらひばかりを慰めにては、いかが過ぐさむ。かかる人伝てならで、一言をものたまひ聞こゆる世ありなむや」
 と思ふにつけて、おほかたにては、惜しくめでたしと思ひきこゆる院の御ため、なまゆがむ心や添ひにたらむ。
 晦日の日は、人びとあまた参りたまへり。なまもの憂く、すずろはしけれど、「そのあたりの花の色をも見てや慰む」と思ひて参りたまふ。
 殿上の賭弓、如月にとありしを過ぎて、三月はた御忌月なれば、口惜しくと人びと思ふに、この院に、かかるまとゐあるべしと聞き伝へて、例の集ひたまふ。左右の大将、さる御仲らひにて参りたまへば、次将たちなど挑みかはして、小弓とのたまひしかど、歩弓のすぐれたる上手どもありければ、召し出でて射させたまふ。
 殿上人どもも、つきづきしき限りは、皆前後の心、こまどりに方分きて、暮れゆくままに、今日にとぢむる霞のけしきもあわたたしく、乱るる夕風に、花の蔭いとど立つことやすからで、人びといたく酔ひ過ぎたまひて、
 「艶なる賭物ども、こなたかなた人びとの御心見えぬべきを。柳の葉を百度当てつべき舎人どもの、うけばりて射取る、無人なりや。すこしここしき手つきどもをこそ、挑ませめ」
 とて、大将たちよりはじめて、下りたまふに、衛門督、人よりけに眺めをしつつものしたまへば、かの片端心知れる御目には、見つけつつ、
 「なほ、いとけしき異なり。わづらはしきこと出で来べき世にやあらむ」
 と、われさへ思ひつきぬる心地す。この君たち、御仲いとよし。さる仲らひといふ中にも、心交はしてねむごろなれば、はかなきことにても、もの思はしくうち紛るることあらむを、いとほしくおぼえたまふ。
 みづからも、大殿を見たてまつるに、気恐ろしくまぶゆく、
 「かかる心はあるべきものか。なのめならむにてだに、けしからず、人に点つかるべき振る舞ひはせじと思ふものを。ましておほけなきこと」
 と思ひわびては、
 「かのありし猫をだに、得てしがな。思うこと語らふべくはあらねど、かたはら寂しき慰めにも、なつけむ」
 と思ふに、もの狂ほしく、「いかでかは盗み出でむ」と、それさへぞ難きことなりける。

 
 女御の御方に参りて、物語など聞こえ紛らはし試みる。いと奥深く、心恥づかしき御もてなしにて、まほに見えたまふこともなし。かかる御仲らひにだに、気遠くならひたるを、「ゆくりかにあやしくは、ありしわざぞかし」とは、さすがにうちおぼゆれど、おぼろけにしめたるわが心から、浅くも思ひなされず。
 春宮に参りたまひて、「論なう通ひたまへるところあらむかし」と、目とどめて見たてまつるに、匂ひやかになどはあらぬ御容貌なれど、さばかりの御ありさまはた、いと異にて、あてになまめかしくおはします。
 内裏の御猫の、あまた引き連れたりけるはらからどもの、所々にあかれて、この宮にも参れるが、いとをかしげにて歩くを見るに、まづ思ひ出でらるれば、
 「六条の院の姫宮の御方にはべる猫こそ、いと見えぬやうなる顔して、をかしうはべしか。はつかになむ見たまへし」
 と啓したまへば、わざとらうたくせさせたまふ御心にて、詳しく問はせたまふ。
 「唐猫の、ここのに違へるさましてなむはべりし。同じやうなるものなれど、心をかしく人馴れたるは、あやしくなつかしきものになむはべる」
 など、ゆかしく思さるばかり、聞こえなしたまふ。
 聞こし召しおきて、桐壺の御方より伝へて聞こえさせたまひければ、参らせたまへり。「げに、いとうつくしげなる猫なりけり」と、人びと興ずるを、衛門督は、「尋ねむと思したりき」と、御けしきを見おきて、日ごろ経て参りたまへり。
 童なりしより、朱雀院の取り分きて思し使はせたまひしかば、御山住みに後れきこえては、またこの宮にも親しう参り、心寄せきこえたり。御琴など教へきこえたまふとて、
 「御猫どもあまた集ひはべりにけり。いづら、この見し人は」
 と尋ねて見つけたまへり。いとらうたくおぼえて、かき撫でてゐたり。宮も、
 「げに、をかしきさましたりけり。心なむ、まだなつきがたきは、見馴れぬ人を知るにやあらむ。ここなる猫ども、ことに劣らずかし」
 とのたまへば、
 「これは、さるわきまへ心も、をさをさはべらぬものなれど、その中にも心かしこきは、おのづから魂はべらむかし」など聞こえて、「まさるどもさぶらふめるを、これはしばし賜はり預からむ」
 と申したまふ。心のうちに、あながちにをこがましく、かつはおぼゆるに、これを尋ね取りて、夜もあたり近く臥せたまふ。
 明け立てば、猫のかしづきをして、撫で養ひたまふ。人気遠かりし心も、いとよく馴れて、ともすれば、衣の裾にまつはれ、寄り臥し睦るるを、まめやかにうつくしと思ふ。いといたく眺めて、端近く寄り臥したまへるに、来て、「ねう、ねう」と、いとらうたげに鳴けば、かき撫でて、「うたても、すすむかな」と、ほほ笑まる。
 「恋ひわぶる人のかたみと手ならせば
  なれよ何とて鳴く音なるらむ
 これも昔の契りにや」
 と、顔を見つつのたまへば、いよいよらうたげに鳴くを、懐に入れて眺めゐたまへり。御達などは、
 「あやしく、にはかなる猫のときめくかな。かやうなるもの見入れたまはぬ御心に」
 と、とがめけり。宮より召すにも参らせず、取りこめて、これを語らひたまふ。


 
 左大将殿の北の方は、大殿の君たちよりも、右大将の君をば、なほ昔のままに、疎からず思ひきこえたまへり。心ばへのかどかどしく、気近くおはする君にて、対面したまふ時々も、こまやかに隔てたるけしきなくもてなしたまへれば、大将も、淑景舎などの、疎々しく及びがたげなる御心ざまのあまりなるに、さま異なる御睦びにて、思ひ交はしたまへり。
 男君、今はまして、かのはじめの北の方をももて離れ果てて、並びなくもてかしづききこえたまふ。この御腹には、男君達の限りなれば、さうざうしとて、かの真木柱の姫君を得て、かしづかまほしくしたまへど、祖父宮など、さらに許したまはず、
 「この君をだに、人笑へならぬさまにて見む」
 と思し、のたまふ。
 親王の御おぼえいとやむごとなく、内裏にも、この宮の御心寄せ、いとこよなくて、このことと奏したまふことをば、え背きたまはず、心苦しきものに思ひきこえたまへり。おほかたも今めかしくおはする宮にて、この院、大殿にさしつぎたてまつりては、人も参り仕うまつり、世人も重く思ひきこえけり。
 大将も、さる世の重鎮となりたまふべき下形なれば、姫君の御おぼえ、などてかはかなくはあらむ。聞こえ出づる人びと、ことに触れて多かれど、思しも定めず。衛門督を、「さも、けしきばまば」と思すべかめれど、猫には思ひ落としたてまつるにや、かけても思ひ寄らぬぞ、口惜しかりける。
 母君の、あやしく、なほひがめる人にて、世の常のありさまにもあらず、もて消ちたまへるを、口惜しきものに思して、継母の御あたりをば、心つけてゆかしく思ひて、今めきたる御心ざまにぞものしたまひける。

 兵部卿宮、なほ一所のみおはして、御心につきて思しけることどもは、皆違ひて、世の中もすさまじく、人笑へに思さるるに、「さてのみやはあまえて過ぐすべき」と思して、このわたりにけしきばみ寄りたまへれば、大宮、
 「何かは。かしづかむと思はむ女子をば、宮仕へに次ぎては、親王たちにこそは見せたてまつらめ。ただ人の、すくよかに、なほなほしきをのみ、今の世の人のかしこくする、品なきわざなり」
 とのたまひて、いたくも悩ましたてまつりたまはず、受け引き申したまひつ。
 親王、あまり怨みどころなきを、さうざうしと思せど、おほかたのあなづりにくきあたりなれば、えしも言ひすべしたまはで、おはしましそめぬ。いと二なくかしづききこえたまふ。
 大宮は、女子あまたものしたまひて、
 「さまざまもの嘆かしき折々多かるに、物懲りしぬべけれど、なほこの君のことの思ひ放ちがたくおぼえてなむ。母君は、あやしきひがものに、年ごろに添へてなりまさりたまふ。大将はた、わがことに従はずとて、おろかに見捨てられためれば、いとなむ心苦しき」
 とて、御しつらひをも、立ちゐ、御手づから御覧じ入れ、よろづにかたじけなく御心に入れたまへり。

 宮は、亡せたまひにける北の方を、世とともに恋ひきこえたまひて、「ただ、昔の御ありさまに似たてまつりたらむ人を見む」と思しけるに、「悪しくはあらねど、さま変はりてぞものしたまひける」と思すに、口惜しくやありけむ、通ひたまふさま、いともの憂げなり。
 大宮、「いと心づきなきわざかな」と思し嘆きたり。母君も、さこそひがみたまへれど、うつし心出で来る時は、「口惜しく憂き世」と、思ひ果てたまふ。
 大将の君も、「さればよ。いたく色めきたまへる親王を」と、はじめよりわが御心に許したまはざりしことなればにや、ものしと思ひたまへり。
 尚侍の君も、かく頼もしげなき御さまを、近く聞きたまふには、「さやうなる世の中を見ましかば、こなたかなた、いかに思し見たまはまし」など、なまをかしくも、あはれにも思し出でけり。
 「そのかみも、気近く見聞こえむとは、思ひ寄らざりきかし。ただ、情け情けしう、心深きさまにのたまひわたりしを、あへなくあはつけきやうにや、聞き落としたまひけむ」と、いと恥づかしく、年ごろも思しわたることなれば、「かかるあたりにて、聞きたまはむことも、心づかひせらるべく」など思す。
 これよりも、さるべきことは扱ひきこえたまふ。せうとの君たちなどして、かかる御けしきも知らず顔に、憎からず聞こえまつはしなどするに、心苦しくて、もて離れたる御心はなきに、大北の方といふさがな者ぞ、常に許しなく怨じきこえたまふ。
 「親王たちは、のどかに二心なくて、見たまはむをだにこそ、はなやかならぬ慰めには思ふべけれ」
 とむつかりたまふを、宮も漏り聞きたまひては、「いと聞きならはぬことかな。昔、いとあはれと思ひし人をおきても、なほ、はかなき心のすさびは絶えざりしかど、かう厳しきもの怨じは、ことになかりしものを」
 心づきなく、いとど昔を恋ひきこえたまひつつ、故里にうち眺めがちにのみおはします。さ言ひつつも、二年ばかりになりぬれば、かかる方に目馴れて、ただ、さる方の御仲にて過ぐしたまふ。


 


 はかなくて、年月もかさなりて、内裏の帝、御位に即かせたまひて、十八年にならせたまひぬ。
 「嗣の君とならせたまふべき御子おはしまさず、ものの栄なきに、世の中はかなくおぼゆるを、心やすく、思ふ人々にも対面し、私ざまに心をやりて、のどかに過ぎまほしくなむ」
 と、年ごろ思しのたまはせつるを、日ごろいと重く悩ませたまふことありて、にはかに下りゐさせたまひぬ。世の人、「飽かず盛りの御世を、かく逃れたまふこと」と惜しみ嘆けど、春宮もおとなびさせたまひにたれば、うち嗣ぎて、世の中の政事など、ことに変はるけぢめもなかりけり。
 太政大臣、致仕の表たてまつりて、籠もりゐたまひぬ。
 「世の中の常なきにより、かしこき帝の君も、位を去りたまひぬるに、年深き身の冠を挂けむ、何か惜しからむ」
 と思しのたまひて、左大将、右大臣になりたまひてぞ、世の中の政事仕うまつりたまひける。女御の君は、かかる御世をも待ちつけたまはで、亡せたまひにければ、限りある御位を得たまへれど、ものの後ろの心地して、かひなかりけり。
 六条の女御の御腹の一の宮、坊にゐたまひぬ。さるべきこととかねて思ひしかど、さしあたりてはなほめでたく、目おどろかるるわざなりけり。右大将の君、大納言になりたまひぬ。いよいよあらまほしき御仲らひなり。
 六条院は、下りゐたまひぬる冷泉院の、御嗣おはしまさぬを、飽かず御心のうちに思す。同じ筋なれど、思ひ悩ましき御ことならで、過ぐしたまへるばかりに、罪は隠れて、末の世まではえ伝ふまじかりける御宿世、口惜しくさうざうしく思せど、人にのたまひあはせぬことなれば、いぶせくなむ。
 春宮の女御は、御子たちあまた数添ひたまひて、いとど御おぼえ並びなし。源氏の、うち続き后にゐたまふべきことを、世人飽かず思へるにつけても、冷泉院の后は、ゆゑなくて、あながちにかくしおきたまへる御心を思すに、いよいよ六条院の御ことを、年月に添へて、限りなく思ひきこえたまへり。
 院の帝、思し召ししやうに、御幸も、所狭からで渡りたまひなどしつつ、かくてしも、げにめでたくあらまほしき御ありさまなり。


 姫宮の御ことは、帝、御心とどめて思ひきこえたまふ。おほかたの世にも、あまねくもてかしづかれたまふを、対の上の御勢ひには、えまさりたまはず。年月経るままに、御仲いとうるはしく睦びきこえ交はしたまひて、いささか飽かぬことなく、隔ても見えたまはぬものから、
 「今は、かうおほぞうの住まひならで、のどやかに行なひをも、となむ思ふ。この世はかばかりと、見果てつる心地する齢にもなりにけり。さりぬべきさまに思し許してよ」
 と、まめやかに聞こえたまふ折々あるを、
 「あるまじく、つらき御ことなり。みづから、深き本意あることなれど、とまりてさうざうしくおぼえたまひ、ある世に変はらむ御ありさまの、うしろめたさによりこそ、ながらふれ。つひにそのこと遂げなむ後に、ともかくも思しなれ」
 などのみ、妨げきこえたまふ。
 女御の君、ただこなたを、まことの御親にもてなしきこえたまひて、御方は隠れがの御後見にて、卑下しものしたまへるしもぞ、なかなか、行く先頼もしげにめでたかりける。
 尼君も、ややもすれば、堪へぬよろこびの涙、ともすれば落ちつつ、目をさへ拭ひただして、命長き、うれしげなる例になりてものしたまふ。

 住吉の御願、かつがつ果たしたまはむとて、春宮女御の御祈りに詣でたまはむとて、かの箱開けて御覧ずれば、さまざまのいかめしきことども多かり。
 年ごとの春秋の神楽に、かならず長き世の祈りを加へたる願ども、げに、かかる御勢ひならでは、果たしたまふべきこととも思ひおきてざりけり。ただ走り書きたる趣きの、才々しくはかばかしく、仏神も聞き入れたまふべき言の葉明らかなり。
 「いかでさる山伏の聖心に、かかることどもを思ひよりけむ」と、あはれにおほけなくも御覧ず。「さるべきにて、しばしかりそめに身をやつしける、昔の世の行なひ人にやありけむ」など思しめぐらすに、いとど軽々しくも思されざりけり。
 このたびは、この心をば表はしたまはず、ただ、院の御物詣でにて出で立ちたまふ。浦伝ひのもの騒がしかりしほど、そこらの御願ども、皆果たし尽くしたまへれども、なほ世の中にかくおはしまして、かかるいろいろの栄えを見たまふにつけても、神の御助けは忘れがたくて、対の上も具しきこえさせたまひて、詣でさせたまふ、響き世の常ならず。いみじくことども削ぎ捨てて、世の煩ひあるまじく、と省かせたまへど、限りありければ、めづらかによそほしくなむ。


 上達部も、大臣二所をおきたてまつりては、皆仕うまつりたまふ。舞人は、衛府の次将どもの、容貌きよげに、丈だち等しき限りを選らせたまふ。この選びに入らぬをば恥に、愁へ嘆きたる好き者どもありけり。
 陪従も、石清水、賀茂の臨時の祭などに召す人びとの、道々のことにすぐれたる限りを整へさせたまへり。加はりたる二人なむ、近衛府の名高き限りを召したりける。
 御神楽の方には、いと多く仕うまつれり。内裏、春宮、院の殿上人、方々に分かれて、心寄せ仕うまつる。数も知らず、いろいろに尽くしたる上達部の御馬、鞍、馬副、随身、小舎人童、次々の舎人などまで、整へ飾りたる見物、またなきさまなり。
 女御殿、対の上は、一つに奉りたり。次の御車には、明石の御方、尼君忍びて乗りたまへり。女御の御乳母、心知りにて乗りたり。方々のひとだまひ、上の御方の五つ、女御殿の五つ、明石の御あかれの三つ、目もあやに飾りたる装束、ありさま、言へばさらなり。さるは、
 「尼君をば、同じくは、老の波の皺延ぶばかりに、人めかしくて詣でさせむ」
 と、院はのたまひけれど、
 「このたびは、かくおほかたの響きに立ち交じらむもかたはらいたし。もし思ふやうならむ世の中を待ち出でたらば」
 と、御方はしづめたまひけるを、残りの命うしろめたくて、かつがつものゆかしがりて、慕ひ参りたまふなりけり。さるべきにて、もとよりかく匂ひたまふ御身どもよりも、いみじかりける契り、あらはに思ひ知らるる人の御ありさまなり。

 十月中の十日なれば、神の斎垣にはふ葛も色変はりて、松の下紅葉など、音にのみ秋を聞かぬ顔なり。ことことしき高麗、唐土の楽よりも、東遊の耳馴れたるは、なつかしくおもしろく、波風の声に響きあひて、さる木高き松風に吹き立てたる笛の音も、ほかにて聞く調べには変はりて身にしみ、御琴に打ち合はせたる拍子も、鼓を離れて調へとりたるかた、おどろおどろしからぬも、なまめかしくすごうおもしろく、所からは、まして聞こえけり。
 山藍に摺れる竹の節は、松の緑に見えまがひ、插頭の色々は、秋の草に異なるけぢめ分かれで、何ごとにも目のみまがひいろふ。
 「求子」果つる末に、若やかなる上達部は、肩ぬぎて下りたまふ。匂ひもなく黒き袍に、蘇芳襲の、葡萄染の袖を、にはかに引きほころばしたるに、紅深き衵の袂の、うちしぐれたるにけしきばかり濡れたる、松原をば忘れて、紅葉の散るに思ひわたさる。
 見るかひ多かる姿どもに、いと白く枯れたる荻を、高やかにかざして、ただ一返り舞ひて入りぬるは、いとおもしろく飽かずぞありける。

 大殿、昔のこと思し出でられ、中ごろ沈みたまひし世のありさまも、目の前のやうに思さるるに、その世のこと、うち乱れ語りたまふべき人もなければ、致仕の大臣をぞ、恋しく思ひきこえたまひける。
 入りたまひて、二の車に忍びて、
 「誰れかまた心を知りて住吉の
  神代を経たる松にこと問ふ」
 御畳紙に書きたまへり。尼君うちしほたる。かかる世を見るにつけても、かの浦にて、今はと別れたまひしほど、女御の君のおはせしありさまなど思ひ出づるも、いとかたじけなかりける身の宿世のほどを思ふ。世を背きたまひし人も恋しく、さまざまにもの悲しきを、かつはゆゆしと言忌して、
 「住の江をいけるかひある渚とは
  年経る尼も今日や知るらむ」
 遅くは便なからむと、ただうち思ひけるままなりけり。
 「昔こそまづ忘られね住吉の
  神のしるしを見るにつけても」
 と独りごちけり。

 夜一夜遊び明かしたまふ。二十日の月はるかに澄みて、海の面おもしろく見えわたるに、霜のいとこちたく置きて、松原も色まがひて、よろづのことそぞろ寒く、おもしろさもあはれさも立ち添ひたり。
 対の上、常の垣根のうちながら、時々につけてこそ、興ある朝夕の遊びに、耳古り目馴れたまひけれ、御門より外の物見、をさをさしたまはず、ましてかく都のほかのありきは、まだ慣らひたまはねば、珍しくをかしく思さる。
 「住の江の松に夜深く置く霜は
  神の掛けたる木綿鬘かも」
 篁の朝臣の、「比良の山さへ」と言ひける雪の朝を思しやれば、祭の心うけたまふしるしにやと、いよいよ頼もしくなむ。女御の君、
 「神人の手に取りもたる榊葉に
  木綿かけ添ふる深き夜の霜」
 中務の君、
 「祝子が木綿うちまがひ置く霜は
  げにいちじるき神のしるしか」
 次々数知らず多かりけるを、何せむにかは聞きおかむ。かかるをりふしの歌は、例の上手めきたまふ男たちも、なかなか出で消えして、松の千歳より離れて、今めかしきことなければ、うるさくてなむ。

 ほのぼのと明けゆくに、霜はいよいよ深くて、本末もたどたどしきまで、酔ひ過ぎにたる神楽おもてどもの、おのが顔をば知らで、おもしろきことに心はしみて、庭燎も影しめりたるに、なほ、「万歳、万歳」と、榊葉を取り返しつつ、祝ひきこゆる御世の末、思ひやるぞいとどしきや。
 よろづのこと飽かずおもしろきままに、千夜を一夜になさまほしき夜の、何にもあらで明けぬれば、返る波にきほふも口惜しく、若き人々思ふ。
 松原に、はるばると立て続けたる御車どもの、風にうちなびく下簾の隙々も、常磐の蔭に、花の錦を引き加へたると見ゆるに、袍の色々けぢめおきて、をかしき懸盤取り続きて、もの参りわたすをぞ、下人などは目につきて、めでたしとは思へる。
 尼君の御前にも、浅香の折敷に、青鈍の表折りて、精進物を参るとて、「めざましき女の宿世かな」と、おのがじしはしりうごちけり。
 詣でたまひし道は、ことことしくて、わづらはしき神宝、さまざまに所狭げなりしを、帰さはよろづの逍遥を尽くしたまふ。言ひ続くるもうるさく、むつかしきことどもなれば。
 かかる御ありさまをも、かの入道の、聞かず見ぬ世にかけ離れたうべるのみなむ、飽かざりける。難きことなりかし、交じらはましも見苦しくや。世の中の人、これを例にて、心高くなりぬべきころなめり。よろづのことにつけて、めであさみ、世の言種にて、「明石の尼君」とぞ、幸ひ人に言ひける。かの致仕の大殿の近江の君は、双六打つ時の言葉にも、
 「明石の尼君、明石の尼君」
 とぞ賽は乞ひける。


 


 入道の帝は、御行なひをいみじくしたまひて、内裏の御ことをも聞き入れたまはず。春秋の行幸になむ、昔思ひ出でられたまふこともまじりける。姫宮の御ことをのみぞ、なほえ思し放たで、この院をば、なほおほかたの御後見に思ひきこえたまひて、うちうちの御心寄せあるべく奏せさせたまふ。二品になりたまひて、御封などまさる。いよいよはなやかに御勢ひ添ふ。
 対の上、かく年月に添へて、かたがたにまさりたまふ御おぼえに、
 「わが身はただ一所の御もてなしに、人には劣らねど、あまり年積もりなば、その御心ばへもつひに衰へなむ。さらむ世を見果てぬさきに、心と背きにしがな」
 と、たゆみなく思しわたれど、さかしきやうにや思さむとつつまれて、はかばかしくもえ聞こえたまはず。内裏の帝さへ、御心寄せことに聞こえたまへば、おろかに聞かれたてまつらむもいとほしくて、渡りたまふこと、やうやう等しきやうになりゆく。
 さるべきこと、ことわりとは思ひながら、さればよとのみ、やすからず思されけれど、なほつれなく同じさまにて過ぐしたまふ。春宮の御さしつぎの女一の宮を、こなたに取り分きてかしづきたてまつりたまふ。その御扱ひになむ、つれづれなる御夜がれのほども慰めたまひける。いづれも分かず、うつくしくかなしと思ひきこえたまへり。


 夏の御方は、かくとりどりなる御孫扱ひをうらやみて、大将の君の典侍腹の君を、切に迎へてぞかしづきたまふ。いとをかしげにて、心ばへも、ほどよりはされおよすけたれば、大殿の君もらうたがりたまふ。少なき御嗣と思ししかど、末に広ごりて、こなたかなたいと多くなり添ひたまふを、今はただ、これをうつくしみ扱ひたまひてぞ、つれづれも慰めたまひける。
 右の大殿の参り仕うまつりたまふこと、いにしへよりもまさりて親しく、今は北の方もおとなび果てて、かの昔のかけかけしき筋思ひ離れたまふにや、さるべき折も渡りまうでたまふ。対の上にも御対面ありて、あらまほしく聞こえ交はしたまひけり。
 姫宮のみぞ、同じさまに若くおほどきておはします。女御の君は、今は公ざまに思ひ放ちきこえたまひて、この宮をばいと心苦しく、幼からむ御女のやうに、思ひはぐくみたてまつりたまふ。


 朱雀院の、
 「今はむげに世近くなりぬる心地して、もの心細きを、さらにこの世のこと顧みじと思ひ捨つれど、対面なむ今一度あらまほしきを、もし恨み残りもこそすれ、ことことしきさまならで渡りたまふべく」
 聞こえたまひければ、大殿も、
 「げに、さるべきことなり。かかる御けしきなからむにてだに、進み参りたまふべきを。まして、かう待ちきこえたまひけるが、心苦しきこと」
 と、参りたまふべきこと思しまうく。
 「ついでなく、すさまじきさまにてやは、はひ渡りたまふべき。何わざをしてか、御覧ぜさせたまふべき」
 と、思しめぐらす。
 「このたび足りたまはむ年、若菜など調じてや」と、思して、さまざまの御法服のこと、斎の御まうけのしつらひ、何くれとさまことに変はれることどもなれば、人の御心しつらひども入りつつ、思しめぐらす。
 いにしへも、遊びの方に御心とどめさせたまへりしかば、舞人、楽人などを、心ことに定め、すぐれたる限りをととのへさせたまふ。右の大殿の御子ども二人、大将の御子、典侍の腹の加へて三人、まだ小さき七つより上のは、皆殿上せさせたまふ。兵部卿宮の童孫王、すべてさるべき宮たちの御子ども、家の子の君たち、皆選び出でたまふ。
 殿上の君達も、容貌よく、同じき舞の姿も、心ことなるべきを定めて、あまたの舞のまうけをせさせたまふ。いみじかるべきたびのこととて、皆人心を尽くしたまひてなむ。道々のものの師、上手、暇なきころなり。

 宮は、もとより琴の御琴をなむ習ひたまひけるを、いと若くて院にもひき別れたてまつりたまひしかば、おぼつかなく思して、
 「参りたまはむついでに、かの御琴の音なむ聞かまほしき。さりとも琴ばかりは弾き取りたまひつらむ」
 と、しりうごとに聞こえたまひけるを、内裏にも聞こし召して、
 「げに、さりとも、けはひことならむかし。院の御前にて、手尽くしたまはむついでに、参り来て聞かばや」
 などのたまはせけるを、大殿の君は伝へ聞きたまひて、
 「年ごろさりぬべきついでごとには、教へきこゆることもあるを、そのけはひは、げにまさりたまひにたれど、まだ聞こし召しどころあるもの深き手には及ばぬを、何心もなくて参りたまへらむついでに、聞こし召さむとゆるしなくゆかしがらせたまはむは、いとはしたなかるべきことにも」
 と、いとほしく思して、このころぞ御心とどめて教へきこえたまふ。
 調べことなる手、二つ三つ、おもしろき大曲どもの、四季につけて変はるべき響き、空の寒さぬるさをととのへ出でて、やむごとなかるべき手の限りを、取り立てて教へきこえたまふに、心もとなくおはするやうなれど、やうやう心得たまふままに、いとよくなりたまふ。
 「昼は、いと人しげく、なほ一度も揺し按ずる暇も、心あわたたしければ、夜々なむ、静かにことの心もしめたてまつるべき」
 とて、対にも、そのころは御暇聞こえたまひて、明け暮れ教へきこえたまふ。

 女御の君にも、対の上にも、琴は習はしたてまつりたまはざりければ、この折、をさをさ耳馴れぬ手ども弾きたまふらむを、ゆかしと思して、女御も、わざとありがたき御暇を、ただしばしと聞こえたまひてまかでたまへり。
 御子二所おはするを、またもけしきばみたまひて、五月ばかりにぞなりたまへれば、神事などにことづけておはしますなりけり。十一日過ぐしては、参りたまふべき御消息うちしきりあれど、かかるついでに、かくおもしろき夜々の御遊びをうらやましく、「などて我に伝へたまはざりけむ」と、つらく思ひきこえたまふ。
 冬の夜の月は、人に違ひてめでたまふ御心なれば、おもしろき夜の雪の光に、折に合ひたる手ども弾きたまひつつ、さぶらふ人びとも、すこしこの方にほのめきたるに、御琴どもとりどりに弾かせて、遊びなどしたまふ。
 年の暮れつ方は、対などにはいそがしく、こなたかなたの御いとなみに、おのづから御覧じ入るることどもあれば、
 「春のうららかならむ夕べなどに、いかでこの御琴の音聞かむ」
 とのたまひわたるに、年返りぬ。

 院の御賀、まづ朝廷よりせさせたまふことどもこちたきに、さしあひては便なく思されて、すこしほど過ごしたまふ。二月十余日と定めたまひて、楽人、舞人など参りつつ、御遊び絶えず。
 「この対に、常にゆかしくする御琴の音、いかでかの人びとの箏、琵琶の音も合はせて、女楽試みさせむ。ただ今のものの上手どもこそ、さらにこのわたりの人びとの御心しらひどもにまさらね。
 はかばかしく伝へ取りたることは、をさをさなけれど、何ごとも、いかで心に知らぬことあらじとなむ、幼きほどに思ひしかば、世にあるものの師といふ限り、また高き家々の、さるべき人の伝へどもをも、残さず試みし中に、いと深く恥づかしきかなとおぼゆる際の人なむなかりし。
 そのかみよりも、またこのころの若き人びとの、されよしめき過ぐすに、はた浅くなりにたるべし。琴はた、まして、さらにまねぶ人なくなりにたりとか。この御琴の音ばかりだに伝へたる人、をさをさあらじ」
 とのたまへば、何心なくうち笑みて、うれしく、「かくゆるしたまふほどになりにける」と思す。
 二十一、二ばかりになりたまへど、なほいといみじく片なりに、きびはなる心地して、細くあえかにうつくしくのみ見えたまふ。
 「院にも見えたてまつりたまはで、年経ぬるを、ねびまさりたまひにけりと御覧ずばかり、用意加へて見えたてまつりたまへ」
 と、ことに触れて教へきこえたまふ。
 「げに、かかる御後見なくては、ましていはけなくおはします御ありさま、隠れなからまし」
 と、人びとも見たてまつる。


 

 正月二十日ばかりになれば、空もをかしきほどに、風ぬるく吹きて、御前の梅も盛りになりゆく。おほかたの花の木どもも、皆けしきばみ、霞みわたりにけり。
 「月たたば、御いそぎ近く、もの騒がしからむに、掻き合はせたまはむ御琴の音も、試楽めきて人言ひなさむを、このころ静かなるほどに試みたまへ」
 とて、寝殿に渡したてまつりたまふ。
 御供に、我も我もと、ものゆかしがりて、参う上らまほしがれど、こなたに遠きをば、選りとどめさせたまひて、すこしねびたれど、よしある限り選りてさぶらはせたまふ。
 童女は、容貌すぐれたる四人、赤色に桜の汗衫、薄色の織物の衵、浮紋の表の袴、紅の擣ちたる、さま、もてなしすぐれたる限りを召したり。女御の御方にも、御しつらひなど、いとどあらたまれるころのくもりなきに、おのおの挑ましく、尽くしたるよそほひども、鮮やかに二なし。
 童は、青色に蘇芳の汗衫、唐綾の表の袴、衵は山吹なる唐の綺を、同じさまに調へたり。明石の御方のは、ことことしからで、紅梅二人、桜二人、青磁の限りにて、衵濃く薄く、擣目などえならで着せたまへり。
 宮の御方にも、かく集ひたまふべく聞きたまひて、童女の姿ばかりは、ことにつくろはせたまへり。青丹に柳の汗衫、葡萄染の衵など、ことに好ましくめづらしきさまにはあらねど、おほかたのけはひの、いかめしく気高きことさへ、いと並びなし。


 廂の中の御障子を放ちて、こなたかなた御几帳ばかりをけぢめにて、中の間は、院のおはしますべき御座よそひたり。今日の拍子合はせには童べを召さむとて、右の大殿の三郎、尚侍の君の御腹の兄君、笙の笛、左大将の御太郎、横笛と吹かせて、簀子にさぶらはせたまふ。
 内には、御茵ども並べて、御琴ども参り渡す。秘したまふ御琴ども、うるはしき紺地の袋どもに入れたる取り出でて、明石の御方に琵琶、紫の上に和琴、女御の君に箏の御琴、宮には、かくことことしき琴はまだえ弾きたまはずやと、あやふくて、例の手馴らしたまへるをぞ、調べてたてまつりたまふ。
 「箏の御琴は、ゆるぶとなけれど、なほ、かく物に合はする折の調べにつけて、琴柱の立処乱るるものなり。よくその心しらひ調ふべきを、女はえ張りしづめじ。なほ、大将をこそ召し寄せつべかめれ。この笛吹ども、まだいと幼げにて、拍子調へむ頼み強からず」
 と笑ひたまひて、
 「大将、こなたに」
 と召せば、御方々恥づかしく、心づかひしておはす。明石の君を放ちては、いづれも皆捨てがたき御弟子どもなれば、御心加へて、大将の聞きたまはむに、難なかるべくと思す。
 「女御は、常に上の聞こし召すにも、物に合はせつつ弾きならしたまへれば、うしろやすきを、和琴こそ、いくばくならぬ調べなれど、あと定まりたることなくて、なかなか女のたどりぬべけれ。春の琴の音は、皆掻き合はするものなるを、乱るるところもや」
 と、なまいとほしく思す。

 大将、いといたく心懸想して、御前のことことしく、うるはしき御試みあらむよりも、今日の心づかひは、ことにまさりておぼえたまへば、あざやかなる御直衣、香にしみたる御衣ども、袖いたくたきしめて、引きつくろひて参りたまふほど、暮れ果てにけり。
 ゆゑあるたそかれ時の空に、花は去年の古雪思ひ出でられて、枝もたわむばかり咲き乱れたり。ゆるるかにうち吹く風に、えならず匂ひたる御簾の内の香りも吹き合はせて、鴬誘ふつまにしつべく、いみじき御殿のあたりの匂ひなり。御簾の下より、箏の御琴のすそ、すこしさし出でて、
 「軽々しきやうなれど、これが緒調へて、調べ試みたまへ。ここにまた疎き人の入るべきやうもなきを」
 とのたまへば、うちかしこまりて賜はりたまふほど、用意多くめやすくて、「壱越調」の声に発の緒を立てて、ふとも調べやらでさぶらひたまへば、
 「なほ、掻き合はせばかりは、手一つ、すさまじからでこそ」
 とのたまへば、
 「さらに、今日の御遊びのさしいらへに、交じらふばかりの手づかひなむ、おぼえずはべりける」
 と、けしきばみたまふ。
 「さもあることなれど、女楽にえことまぜでなむ逃げにけると、伝はらむ名こそ惜しけれ」
 とて笑ひたまふ。
 調べ果てて、をかしきほどに掻き合はせばかり弾きて、参らせたまひつ。この御孫の君達の、いとうつくしき宿直姿どもにて、吹き合はせたる物の音ども、まだ若けれど、生ひ先ありて、いみじくをかしげなり。

 御琴どもの調べども調ひ果てて、掻き合はせたまへるほど、いづれとなき中に、琵琶はすぐれて上手めき、神さびたる手づかひ、澄み果てておもしろく聞こゆ。
 和琴に、大将も耳とどめたまへるに、なつかしく愛敬づきたる御爪音に、掻き返したる音の、めづらしく今めきて、さらにこのわざとある上手どもの、おどろおどろしく掻き立てたる調べ調子に劣らず、にぎははしく、「大和琴にもかかる手ありけり」と聞き驚かる。深き御労のほどあらはに聞こえて、おもしろきに、大殿御心落ちゐて、いとありがたく思ひきこえたまふ。
 箏の御琴は、ものの隙々に、心もとなく漏り出づる物の音がらにて、うつくしげになまめかしくのみ聞こゆ。
 琴は、なほ若き方なれど、習ひたまふ盛りなれば、たどたどしからず、いとよくものに響きあひて、「優になりにける御琴の音かな」と、大将聞きたまふ。拍子とりて唱歌したまふ。院も、時々扇うち鳴らして、加へたまふ御声、昔よりもいみじくおもしろく、すこしふつつかに、ものものしきけ添ひて聞こゆ。大将も、声いとすぐれたまへる人にて、夜の静かになりゆくままに、言ふ限りなくなつかしき夜の御遊びなり。

 月心もとなきころなれば、灯籠こなたかなたに懸けて、火よきほどに灯させたまへり。
 宮の御方を覗きたまへれば、人よりけに小さくうつくしげにて、ただ御衣のみある心地す。匂ひやかなる方は後れて、ただいとあてやかにをかしく、二月の中の十日ばかりの青柳の、わづかに枝垂りはじめたらむ心地して、鴬の羽風にも乱れぬべく、あえかに見えたまふ。
 桜の細長に、御髪は左右よりこぼれかかりて、柳の糸のさましたり。
 「これこそは、限りなき人の御ありさまなめれ」と見ゆるに、女御の君は、同じやうなる御なまめき姿の、今すこし匂ひ加はりて、もてなしけはひ心にくく、よしあるさましたまひて、よく咲きこぼれたる藤の花の、夏にかかりて、かたはらに並ぶ花なき、朝ぼらけの心地ぞしたまへる。
 さるは、いとふくらかなるほどになりたまひて、悩ましくおぼえたまひければ、御琴もおしやりて、脇息におしかかりたまへり。ささやかになよびかかりたまへるに、御脇息は例のほどなれば、およびたる心地して、ことさらに小さく作らばやと見ゆるぞ、いとあはれげにおはしける。
 紅梅の御衣に、御髪のかかりはらはらときよらにて、火影の御姿、世になくうつくしげなるに、紫の上は、葡萄染にやあらむ、色濃き小袿、薄蘇芳の細長に、御髪のたまれるほど、こちたくゆるるかに、大きさなどよきほどに、様体あらまほしく、あたりに匂ひ満ちたる心地して、花といはば桜に喩へても、なほものよりすぐれたるけはひ、ことにものしたまふ。
 かかる御あたりに、明石はけ圧さるべきを、いとさしもあらず、もてなしなどけしきばみ恥づかしく、心の底ゆかしきさまして、そこはかとなくあてになまめかしく見ゆ。
 柳の織物の細長、萌黄にやあらむ、小袿着て、羅の裳のはかなげなる引きかけて、ことさら卑下したれど、けはひ、思ひなしも、心にくくあなづらはしからず。
 高麗の青地の錦の端さしたる茵に、まほにもゐで、琵琶をうち置きて、ただけしきばかり弾きかけて、たをやかに使ひなしたる撥のもてなし、音を聞くよりも、またありがたくなつかしくて、五月待つ花橘、花も実も具しておし折れる薫りおぼゆ。

 これもかれも、うちとけぬ御けはひどもを聞き見たまふに、大将も、いと内ゆかしくおぼえたまふ。対の上の、見し折よりも、ねびまさりたまへらむありさまゆかしきに、静心もなし。
 「宮をば、今すこしの宿世及ばましかば、わがものにても見たてまつりてまし。心のいとぬるきぞ悔しきや。院は、たびたびさやうにおもむけて、しりう言にものたまはせけるを」と、ねたく思へど、すこし心やすき方に見えたまふ御けはひに、あなづりきこゆとはなけれど、いとしも心は動かざりけり。
 この御方をば、何ごとも思ひ及ぶべき方なく、気遠くて、年ごろ過ぎぬれば、「いかでか、ただおほかたに。心寄せあるさまをも見たてまつらむ」とばかりの、口惜しく嘆かしきなりけり。あながちに、あるまじくおほけなき心地などは、さらにものしたまはず、いとよくもてをさめたまへり。


 


 夜更けゆくけはひ、冷やかなり。臥待の月はつかにさし出でたる、
 「心もとなしや、春の朧月夜よ。秋のあはれ、はた、かうやうなる物の音に、虫の声縒り合はせたる、ただならず、こよなく響き添ふ心地すかし」
 とのたまへば、大将の君、
 「秋の夜の隈なき月には、よろづの物とどこほりなきに、琴笛の音も、あきらかに澄める心地はしはべれど、なほことさらに作り合はせたるやうなる空のけしき、花の露も、いろいろ目移ろひ心散りて、限りこそはべれ。
 春の空のたどたどしき霞の間より、おぼろなる月影に、静かに吹き合はせたるやうには、いかでか。笛の音なども、艶に澄みのぼり果てずなむ。
 女は春をあはれぶと、古き人の言ひ置きはべりける。げに、さなむはべりける。なつかしく物のととのほることは、春の夕暮こそことにはべりけれ」
 と申したまへば、
 「いな、この定めよ。いにしへより人の分きかねたることを、末の世に下れる人の、えあきらめ果つまじくこそ。物の調べ、曲のものどもはしも、げに律をば次のものにしたるは、さもありかし」
 などのたまひて、
 「いかに。ただ今、有職のおぼえ高き、その人かの人、御前などにて、たびたび試みさせたまふに、すぐれたるは、数少なくなりためるを、そのこのかみと思へる上手ども、いくばくえまねび取らぬにやあらむ。このかくほのかなる女たちの御中に弾きまぜたらむに、際離るべくこそおぼえね。
 年ごろかく埋れて過ぐすに、耳などもすこしひがひがしくなりにたるにやあらむ、口惜しうなむ。あやしく、人の才、はかなくとりすることども、ものの栄ありてまさる所なる。その、御前の御遊びなどに、ひときざみに選ばるる人びと、それかれといかにぞ」
 とのたまへば、大将、
 「それをなむ、とり申さむと思ひはべりつれど、あきらかならぬ心のままに、およすけてやはと思ひたまふる。上りての世を聞き合はせはべらねばにや、衛門督の和琴、兵部卿宮の御琵琶などをこそ、このころめづらかなる例に引き出ではべめれ。
 げに、かたはらなきを、今宵うけたまはる物の音どもの、皆ひとしく耳おどろきはべるは。なほ、かくわざともあらぬ御遊びと、かねて思うたまへたゆみける心の騒ぐにやはべらむ。唱歌など、いと仕うまつりにくくなむ。
 和琴は、かの大臣ばかりこそ、かく折につけて、こしらへなびかしたる音など、心にまかせて掻き立てたまへるは、いとことにものしたまへ、をさをさ際離れぬものにはべめるを、いとかしこく整ひてこそはべりつれ」
 と、めできこえたまふ。
 「いと、さことことしき際にはあらぬを、わざとうるはしくも取りなさるるかな」
 とて、したり顔にほほ笑みたまふ。
 「げに、けしうはあらぬ弟子どもなりかし。琵琶はしも、ここに口入るべきことまじらぬを、さいへど、物のけはひ異なるべし。おぼえぬ所にて聞き始めたりしに、めづらしき物の声かなとなむおぼえしかど、その折よりは、またこよなく優りにたるをや」
 と、せめて我かしこにかこちなしたまへば、女房などは、すこしつきしろふ。


 「よろづのこと、道々につけて習ひまねばば、才といふもの、いづれも際なくおぼえつつ、わが心地に飽くべき限りなく、習ひ取らむことはいと難けれど、何かは、そのたどり深き人の、今の世にをさをさなければ、片端をなだらかにまねび得たらむ人、さるかたかどに心をやりてもありぬべきを、琴なむ、なほわづらはしく、手触れにくきものはありける。
 この琴は、まことに跡のままに尋ねとりたる昔の人は、天地をなびかし、鬼神の心をやはらげ、よろづの物の音のうちに従ひて、悲しび深き者も喜びに変はり、賤しく貧しき者も高き世に改まり、宝にあづかり、世にゆるさるるたぐひ多かりけり。
 この国に弾き伝ふる初めつ方まで、深くこの事を心得たる人は、多くの年を知らぬ国に過ぐし、身をなきになして、この琴をまねび取らむと惑ひてだに、し得るは難くなむありける。げにはた、明らかに空の月星を動かし、時ならぬ霜雪を降らせ、雲雷を騒がしたる例、上りたる世にはありけり。
 かく限りなきものにて、そのままに習ひ取る人のありがたく、世の末なればにや、いづこのそのかみの片端にかはあらむ。されど、なほ、かの鬼神の耳とどめ、かたぶきそめにけるものなればにや、なまなまにまねびて、思ひかなはぬたぐひありけるのち、これを弾く人、よからずとかいふ難をつけて、うるさきままに、今はをさをさ伝ふる人なしとか。いと口惜しきことにこそあれ。
 琴の音を離れては、何琴をか物を調へ知るしるべとはせむ。げに、よろづのこと衰ふるさまは、やすくなりゆく世の中に、一人出で離れて、心を立てて、唐土、高麗と、この世に惑ひありき、親子を離れむことは、世の中にひがめる者になりぬべし。
 などか、なのめにて、なほこの道を通はし知るばかりの端をば、知りおかざらむ。調べ一つに手を弾き尽くさむことだに、はかりもなきものななり。いはむや、多くの調べ、わづらはしき曲多かるを、心に入りし盛りには、世にありとあり、ここに伝はりたる譜といふものの限りをあまねく見合はせて、のちのちは、師とすべき人もなくてなむ、好み習ひしかど、なほ上りての人には、当たるべくもあらじをや。まして、この後といひては、伝はるべき末もなき、いとあはれになむ」
 などのたまへば、大将、げにいと口惜しく恥づかしと思す。
 「この御子たちの御中に、思ふやうに生ひ出でたまふものしたまはば、その世になむ、そもさまでながらへとまるやうあらば、いくばくならぬ手の限りも、とどめたてまつるべき。三の宮、今よりけしきありて見えたまふを」
 などのたまへば、明石の君は、いとおもだたしく、涙ぐみて聞きゐたまへり。


 
 女御の君は、箏の御琴をば、上に譲りきこえて、寄り臥したまひぬれば、和琴を大殿の御前に参りて、気近き御遊びになりぬ。「葛城」遊びたまふ。はなやかにおもしろし。大殿折り返し謡ひたまふ御声、たとへむかたなく愛敬づきめでたし。
 月やうやうさし上るままに、花の色香ももてはやされて、げにいと心にくきほどなり。箏の琴は、女御の御爪音は、いとらうたげになつかしく、母君の御けはひ加はりて、揺の音深く、いみじく澄みて聞こえつるを、この御手づかひは、またさま変はりて、ゆるるかにおもしろく、聞く人ただならず、すずろはしきまで愛敬づきて、輪の手など、すべてさらに、いとかどある御琴の音なり。
 返り声に、皆調べ変はりて、律の掻き合はせども、なつかしく今めきたるに、琴は、五個の調べ、あまたの手の中に、心とどめてかならず弾きたまふべき五、六の発刺を、いとおもしろく澄まして弾きたまふ。さらにかたほならず、いとよく澄みて聞こゆ。
 春秋よろづの物に通へる調べにて、通はしわたしつつ弾きたまふ。心しらひ、教へきこえたまふさま違へず、いとよくわきまへたまへるを、いとうつくしく、おもだたしく思ひきこえたまふ。

 この君達の、いとうつくしく吹き立てて、切に心入れたるを、らうたがりたまひて、
 「ねぶたくなりにたらむに。今宵の遊びは、長くはあらで、はつかなるほどにと思ひつるを。とどめがたき物の音どもの、いづれともなきを、聞き分くほどの耳とからぬたどたどしさに、いたく更けにけり。心なきわざなりや」
 とて、笙の笛吹く君に、土器さしたまひて、御衣脱ぎてかづけたまふ。横笛の君には、こなたより、織物の細長に、袴などことことしからぬさまに、けしきばかりにて、大将の君には、宮の御方より、杯さし出でて、宮の御装束一領かづけたてまつりたまふを、大殿、
 「あやしや。物の師をこそ、まづはものめかしたまはめ。愁はしきことなり」
 とのたまふに、宮のおはします御几帳のそばより、御笛をたてまつる。うち笑ひたまひて取りたまふ。いみじき高麗笛なり。すこし吹き鳴らしたまへば、皆立ち出でたまふほどに、大将立ち止まりたまひて、御子の持ちたまへる笛を取りて、いみじくおもしろく吹き立てたまへるが、いとめでたく聞こゆれば、いづれもいづれも、皆御手を離れぬものの伝へ伝へ、いと二なくのみあるにてぞ、わが御才のほど、ありがたく思し知られける。

 大将殿は、君達を御車に乗せて、月の澄めるにまかでたまふ。道すがら、箏の琴の変はりていみじかりつる音も、耳につきて恋しくおぼえたまふ。
 わが北の方は、故大宮の教へきこえたまひしかど、心にもしめたまはざりしほどに、別れたてまつりたまひにしかば、ゆるるかにも弾き取りたまはで、男君の御前にては、恥ぢてさらに弾きたまはず。何ごともただおいらかに、うちおほどきたるさまして、子ども扱ひを、暇なく次々したまへば、をかしきところもなくおぼゆ。さすがに、腹悪しくて、もの妬みうちしたる、愛敬づきてうつくしき人ざまにぞものしたまふめる。


 


 院は、対へ渡りたまひぬ。上は、止まりたまひて、宮に御物語など聞こえたまひて、暁にぞ渡りたまへる。日高うなるまで大殿籠れり。
 「宮の御琴の音は、いとうるさくなりにけりな。いかが聞きたまひし」
 と聞こえたまへば、
 「初めつ方、あなたにてほの聞きしは、いかにぞやありしを、いとこよなくなりにけり。いかでかは、かく異事なく教へきこえたまはむには」
 といらへきこえたまふ。
 「さかし。手を取る取る、おぼつかなからぬ物の師なりかし。これかれにも、うるさくわづらはしくて、暇いるわざなれば、教へたてまつらぬを、院にも内裏にも、琴はさりとも習はしきこゆらむとのたまふと聞くがいとほしく、さりとも、さばかりのことをだに、かく取り分きて御後見にと預けたまへるしるしにはと、思ひ起こしてなむ」
 など聞こえたまふついでにも、
 「昔、世づかぬほどを、扱ひ思ひしさま、その世には暇もありがたくて、心のどかに取りわき教へきこゆることなどもなく、近き世にも、何となく次々、紛れつつ過ぐして、聞き扱はぬ御琴の音の、出で栄えしたりしも、面目ありて、大将の、いたくかたぶきおどろきたりしけしきも、思ふやうにうれしくこそありしか」
 など聞こえたまふ。


 かやうの筋も、今はまたおとなおとなしく、宮たちの御扱ひなど、取りもちてしたまふさまも、いたらぬことなく、すべて何ごとにつけても、もどかしくたどたどしきこと混じらず、ありがたき人の御ありさまなれば、いとかく具しぬる人は、世に久しからぬ例もあなるをと、ゆゆしきまで思ひきこえたまふ。
 さまざまなる人のありさまを見集めたまふままに、取り集め足らひたることは、まことにたぐひあらじとのみ思ひきこえたまへり。今年は三十七にぞなりたまふ。見たてまつりたまひし年月のことなども、あはれに思し出でたるついでに、
 「さるべき御祈りなど、常よりも取り分きて、今年はつつしみたまへ。もの騒がしくのみありて、思ひいたらぬこともあらむを、なほ、思しめぐらして、大きなることどももしたまはば、おのづからせさせてむ。故僧都のものしたまはずなりにたるこそ、いと口惜しけれ。おほかたにてうち頼まむにも、いとかしこかりし人を」
 などのたまひ出づ。

 「みづからは、幼くより、人に異なるさまにて、ことことしく生ひ出でて、今の世のおぼえありさま、来し方にたぐひ少なくなむありける。されど、また、世にすぐれて悲しきめを見る方も、人にはまさりけりかし。
 まづは、思ふ人にさまざま後れ、残りとまれる齢の末にも、飽かず悲しと思ふこと多く、あぢきなくさるまじきことにつけても、あやしくもの思はしく、心に飽かずおぼゆること添ひたる身にて過ぎぬれば、それに代へてや、思ひしほどよりは、今までもながらふるならむとなむ、思ひ知らるる。
 君の御身には、かの一節の別れより、あなたこなた、もの思ひとて、心乱りたまふばかりのことあらじとなむ思ふ。后といひ、ましてそれより次々は、やむごとなき人といへど、皆かならずやすからぬもの思ひ添ふわざなり。
 高き交じらひにつけても、心乱れ、人に争ふ思ひの絶えぬも、やすげなきを、親の窓のうちながら過ぐしたまへるやうなる心やすきことはなし。そのかた、人にすぐれたりける宿世とは思し知るや。
 思ひの外に、この宮のかく渡りものしたまへるこそは、なま苦しかるべけれど、それにつけては、いとど加ふる心ざしのほどを、御みづからの上なれば、思し知らずやあらむ。ものの心も深く知りたまふめれば、さりともとなむ思ふ」
 と聞こえたまへば、
 「のたまふやうに、ものはかなき身には、過ぎにたるよそのおぼえはあらめど、心に堪へぬもの嘆かしさのみうち添ふや、さはみづからの祈りなりける」
 とて、残り多げなるけはひ、恥づかしげなり。
 「まめやかには、いと行く先少なき心地するを、今年もかく知らず顔にて過ぐすは、いとうしろめたくこそ。さきざきも聞こゆること、いかで御許しあらば」
 と聞こえたまふ。
 「それはしも、あるまじきことになむ。さて、かけ離れたまひなむ世に残りては、何のかひかあらむ。ただかく何となくて過ぐる年月なれど、明け暮れの隔てなきうれしさのみこそ、ますことなくおぼゆれ。なほ思ふさま異なる心のほどを見果てたまへ」
 とのみ聞こえたまふを、例のことと心やましくて、涙ぐみたまへるけしきを、いとあはれと見たてまつりたまひて、よろづに聞こえ紛らはしたまふ。


 「多くはあらねど、人のありさまの、とりどりに口惜しくはあらぬを見知りゆくままに、まことの心ばせおいらかに落ちゐたるこそ、いと難きわざなりけれとなむ、思ひ果てにたる。
 大将の母君を、幼かりしほどに見そめて、やむごとなくえ避らぬ筋には思ひしを、常に仲よからず、隔てある心地して止みにしこそ、今思へば、いとほしく悔しくもあれ。
 また、わが過ちにのみもあらざりけりなど、心ひとつになむ思ひ出づる。うるはしく重りかにて、そのことの飽かぬかなとおぼゆることもなかりき。ただ、いとあまり乱れたるところなく、すくすくしく、すこしさかしとやいふべかりけむと、思ふには頼もしく、見るにはわづらはしかりし人ざまになむ。
 中宮の御母御息所なむ、さま異に心深くなまめかしき例には、まづ思ひ出でらるれど、人見えにくく、苦しかりしさまになむありし。怨むべきふしぞ、げにことわりとおぼゆるふしを、やがて長く思ひつめて、深く怨ぜられしこそ、いと苦しかりしか。
 心ゆるびなく恥づかしくて、我も人もうちたゆみ、朝夕の睦びを交はさむには、いとつつましきところのありしかば、うちとけては見落とさるることやなど、あまりつくろひしほどに、やがて隔たりし仲ぞかし。
 いとあるまじき名を立ちて、身のあはあはしくなりぬる嘆きを、いみじく思ひしめたまへりしがいとほしく、げに人がらを思ひしも、我罪ある心地して止みにし慰めに、中宮をかくさるべき御契りとはいひながら、取りたてて、世のそしり、人の恨みをも知らず、心寄せたてまつるを、かの世ながらも見直されぬらむ。今も昔も、なほざりなる心のすさびに、いとほしく悔しきことも多くなむ」
 と、来し方の人の御上、すこしづつのたまひ出でて、
 「内裏の御方の御後見は、何ばかりのほどならずと、あなづりそめて、心やすきものに思ひしを、なほ心の底見えず、際なく深きところある人になむ。うはべは人になびき、おいらかに見えながら、うちとけぬけしき下に籠もりて、そこはかとなく恥づかしきところこそあれ」
 とのたまへば、
 「異人は見ねば知らぬを、これは、まほならねど、おのづからけしき見る折々もあるに、いとうちとけにくく、心恥づかしきありさましるきを、いとたとしへなきうらなさを、いかに見たまふらむと、つつましけれど、女御は、おのづから思し許すらむとのみ思ひてなむ」
 とのたまふ。
 さばかりめざましと心置きたまへりし人を、今はかく許して見え交はしなどしたまふも、女御の御ための真心なるあまりぞかしと思すに、いとありがたければ、
 「君こそは、さすがに隈なきにはあらぬものから、人により、ことに従ひ、いとよく二筋に心づかひはしたまひけれ。さらにここら見れど、御ありさまに似たる人はなかりけり。いとけしきこそものしたまへ」
 と、ほほ笑みて聞こえたまふ。
 「宮に、いとよく弾き取りたまへりしことの喜び聞こえむ」
 とて、夕つ方渡りたまひぬ。我に心置く人やあらむとも思したらず、いといたく若びて、ひとへに御琴に心入れておはす。
 「今は、暇許してうち休ませたまへかし。物の師は心ゆかせてこそ。いと苦しかりつる日ごろのしるしありて、うしろやすくなりたまひにけり」
 とて、御琴どもおしやりて、大殿籠もりぬ。

 対には、例のおはしまさぬ夜は、宵居したまひて、人びとに物語など読ませて聞きたまふ。
 「かく、世のたとひに言ひ集めたる昔語りどもにも、あだなる男、色好み、二心ある人にかかづらひたる女、かやうなることを言ひ集めたるにも、つひに寄る方ありてこそあめれ。あやしく、浮きても過ぐしつるありさまかな。げに、のたまひつるやうに、人より異なる宿世もありける身ながら、人の忍びがたく飽かぬことにするもの思ひ離れぬ身にてや止みなむとすらむ。あぢきなくもあるかな」
 など思ひ続けて、夜更けて大殿籠もりぬる、暁方より、御胸を悩みたまふ。人びと見たてまつり扱ひて、
 「御消息聞こえさせむ」
 と聞こゆるを、
 「いと便ないこと」
 と制したまひて、堪へがたきを押さへて明かしたまひつ。御身もぬるみて、御心地もいと悪しけれど、院もとみに渡りたまはぬほど、かくなむとも聞こえず。


 
 女御の御方より御消息あるに、
 「かく悩ましくてなむ」
 と聞こえたまへるに、驚きて、そなたより聞こえたまへるに、胸つぶれて、急ぎ渡りたまへるに、いと苦しげにておはす。
 「いかなる御心地ぞ」
 とて探りたてまつりたまへば、いと熱くおはすれば、昨日聞こえたまひし御つつしみの筋など思し合はせたまひて、いと恐ろしく思さる。
 御粥などこなたに参らせたれど、御覧じも入れず、日一日添ひおはして、よろづに見たてまつり嘆きたまふ。はかなき御くだものをだに、いともの憂くしたまひて、起き上がりたまふこと絶えて、日ごろ経ぬ。
 いかならむと思し騒ぎて、御祈りども、数知らず始めさせたまふ。僧召して、御加持などせさせたまふ。そこところともなく、いみじく苦しくしたまひて、胸は時々おこりつつ患ひたまふさま、堪へがたく苦しげなり。
 さまざまの御慎しみ限りなけれど、しるしも見えず。重しと見れど、おのづからおこたるけぢめあらば頼もしきを、いみじく心細く悲しと見たてまつりたまふに、異事思されねば、御賀の響きも静まりぬ。かの院よりも、かく患ひたまふよし聞こし召して、御訪らひいとねむごろに、たびたび聞こえたまふ。

 同じさまにて、二月も過ぎぬ。いふ限りなく思し嘆きて、試みに所を変へたまはむとて、二条の院に渡したてまつりたまひつ。院の内ゆすり満ちて、思ひ嘆く人多かり。
 冷泉院も聞こし召し嘆く。この人亡せたまはば、院も、かならず世を背く御本意遂げたまひてむと、大将の君なども、心を尽くして見たてまつり扱ひたまふ。
 御修法などは、おほかたのをばさるものにて、取り分きて仕うまつらせたまふ。いささかもの思し分く隙には、
 「聞こゆることを、さも心憂く」
 とのみ恨みきこえたまへど、限りありて別れ果てたまはむよりも、目の前に、わが心とやつし捨てたまはむ御ありさまを見ては、さらに片時堪ふまじくのみ、惜しく悲しかるべければ、
 「昔より、みづからぞかかる本意深きを、とまりてさうざうしく思されむ心苦しさに引かれつつ過ぐすを、さかさまにうち捨てたまはむとや思す」
 とのみ、惜しみきこえたまふに、げにいと頼みがたげに弱りつつ、限りのさまに見えたまふ折々多かるを、いかさまにせむと思し惑ひつつ、宮の御方にも、あからさまに渡りたまはず。御琴どももすさまじくて、皆引き籠められ、院の内の人びとは、皆ある限り二条の院に集ひ参りて、この院には、火を消ちたるやうにて、ただ女どちおはして、人ひとりの御けはひなりけりと見ゆ。

 女御の君も渡りたまひて、もろともに見たてまつり扱ひたまふ。
 「ただにもおはしまさで、もののけなどいと恐ろしきを、早く参りたまひね」
 と、苦しき御心地にも聞こえたまふ。若宮の、いとうつくしうておはしますを見たてまつりたまひても、いみじく泣きたまひて、
 「おとなびたまはむを、え見たてまつらずなりなむこと。忘れたまひなむかし」
 とのたまへば、女御、せきあへず悲しと思したり。
 「ゆゆしく、かくな思しそ。さりともけしうはものしたまはじ。心によりなむ、人はともかくもある。おきて広きうつはものには、幸ひもそれに従ひ、狭き心ある人は、さるべきにて、高き身となりても、ゆたかにゆるべる方は後れ、急なる人は、久しく常ならず、心ぬるくなだらかなる人は、長き例なむ多かりける」
 など、仏神にも、この御心ばせのありがたく、罪軽きさまを申し明らめさせたまふ。
 御修法の阿闍梨たち、夜居などにても、近くさぶらふ限りのやむごとなき僧などは、いとかく思し惑へる御けはひを聞くに、いといみじく心苦しければ、心を起こして祈りきこゆ。すこしよろしきさまに見えたまふ時、五、六日うちまぜつつ、また重りわづらひたまふこと、いつとなくて月日を経たまへば、「なほ、いかにおはすべきにか。よかるまじき御心地にや」と、思し嘆く。
 御もののけなど言ひて出で来るもなし。悩みたまふさま、そこはかと見えず、ただ日に添へて、弱りたまふさまにのみ見ゆれば、いともいとも悲しくいみじく思すに、御心の暇もなげなり。


 


 まことや、衛門督は、中納言になりにきかし。今の御世には、いと親しく思されて、いと時の人なり。身のおぼえまさるにつけても、思ふことのかなはぬ愁はしさを思ひわびて、この宮の御姉の二の宮をなむ得たてまつりてける。下臈の更衣腹におはしましければ、心やすき方まじりて思ひきこえたまへり。
 人柄も、なべての人に思ひなずらふれば、けはひこよなくおはすれど、もとよりしみにし方こそなほ深かりけれ、慰めがたき姨捨にて、人目に咎めらるまじきばかりに、もてなしきこえたまへり。
 なほ、かの下の心忘られず、小侍従といふ語らひ人は、宮の御侍従の乳母の娘なりけり。その乳母の姉ぞ、かの督の君の御乳母なりければ、早くより気近く聞きたてまつりて、まだ宮幼くおはしましし時より、いときよらになむおはします、帝のかしづきたてまつりたまふさまなど、聞きおきたてまつりて、かかる思ひもつきそめたるなりけり。


 かくて、院も離れおはしますほど、人目少なくしめやかならむを推し量りて、小侍従を迎へ取りつつ、いみじう語らふ。
 「昔より、かく命も堪ふまじく思ふことを、かかる親しきよすがありて、御ありさまを聞き伝へ、堪へぬ心のほどをも聞こし召させて、頼もしきに、さらにそのしるしのなければ、いみじくなむつらき。
 院の上だに、『かくあまたにかけかけしくて、人に圧されたまふやうにて、一人大殿籠もる夜な夜な多く、つれづれにて過ぐしたまふなり』など、人の奏しけるついでにも、すこし悔い思したる御けしきにて、
 『同じくは、ただ人の心やすき後見を定めむには、まめやかに仕うまつるべき人をこそ、定むべかりけれ』と、のたまはせて、『女二の宮の、なかなかうしろやすく、行く末長きさまにてものしたまふなること』
 と、のたまはせけるを伝へ聞きしに。いとほしくも、口惜しくも、いかが思ひ乱るる。
 げに、同じ御筋とは尋ねきこえしかど、それはそれとこそおぼゆるわざなりけれ」
 と、うちうめきたまへば、小侍従、
 「いで、あな、おほけな。それをそれとさし置きたてまつりたまひて、また、いかやうに限りなき御心ならむ」
 と言へば、うちほほ笑みて、
 「さこそはありけれ。宮にかたじけなく聞こえさせ及びけるさまは、院にも内裏にも聞こし召しけり。などてかは、さてもさぶらはざらましとなむ、ことのついでにはのたまはせける。いでや、ただ、今すこしの御いたはりあらましかば」
 など言へば、
 「いと難き御ことなりや。御宿世とかいふことはべなるを、もとにて、かの院の言出でてねむごろに聞こえたまふに、立ち並び妨げきこえさせたまふべき御身のおぼえとや思されし。このころこそ、すこしものものしく、御衣の色も深くなりたまへれ」
 と言へば、いふかひなくはやりかなる口強さに、え言ひ果てたまはで、
 「今はよし。過ぎにし方をば聞こえじや。ただ、かくありがたきものの隙に、気近きほどにて、この心のうちに思ふことの端、すこし聞こえさせつべくたばかりたまへ。おほけなき心は、すべて、よし見たまへ、いと恐ろしければ、思ひ離れてはべり」
 とのたまへば、
 「これよりおほけなき心は、いかがはあらむ。いとむくつけきことをも思し寄りけるかな。何しに参りつらむ」
 と、はちふく。

 「いで、あな、聞きにく。あまりこちたくものをこそ言ひなしたまふべけれ。世はいと定めなきものを、女御、后も、あるやうありて、ものしたまふたぐひなくやは。まして、その御ありさまよ。思へば、いとたぐひなくめでたけれど、うちうちは心やましきことも多かるらむ。
 院の、あまたの御中に、また並びなきやうにならはしきこえたまひしに、さしもひとしからぬ際の御方々にたち混じり、めざましげなることもありぬべくこそ。いとよく聞きはべりや。世の中はいと常なきものを、ひときはに思ひ定めて、はしたなく、突き切りなることなのたまひそよ」
 とのたまへば、
 「人に落とされたまへる御ありさまとて、めでたき方に改めたまふべきにやははべらむ。これは世の常の御ありさまにもはべらざめり。ただ、御後見なくて漂はしくおはしまさむよりは、親ざまに、と譲りきこえたまひしかば、かたみにさこそ思ひ交はしきこえさせたまひためれ。あいなき御落としめ言になむ」
 と、果て果ては腹立つを、よろづに言ひこしらへて、
 「まことは、さばかり世になき御ありさまを見たてまつり馴れたまへる御心に、数にもあらずあやしきなれ姿を、うちとけて御覧ぜられむとは、さらに思ひかけぬことなり。ただ一言、物越にて聞こえ知らすばかりは、何ばかりの御身のやつれにかはあらむ。神仏にも思ふこと申すは、罪あるわざかは」
 と、いみじき誓言をしつつのたまへば、しばしこそ、いとあるまじきことに言ひ返しけれ、もの深からぬ若人は、人のかく身に代へていみじく思ひのたまふを、え否び果てで、
 「もし、さりぬべき隙あらば、たばかりはべらむ。院のおはしまさぬ夜は、御帳のめぐりに人多くさぶらひて、御座のほとりに、さるべき人かならずさぶらひたまへば、いかなる折をかは、隙を見つけはべるべからむ」
 と、わびつつ参りぬ。

 いかに、いかにと、日々に責められ極じて、さるべき折うかがひつけて、消息しおこせたり。喜びながら、いみじくやつれ忍びておはしぬ。
 まことに、わが心にもいとけしからぬことなれば、気近く、なかなか思ひ乱るることもまさるべきことまでは、思ひも寄らず、ただ、
 「いとほのかに御衣のつまばかりを見たてまつりし春の夕の、飽かず世とともに思ひ出でられたまふ御ありさまを、すこし気近くて見たてまつり、思ふことをも聞こえ知らせては、一行の御返りなどもや見せたまふ、あはれとや思し知る」
 とぞ思ひける。
 四月十余日ばかりのことなり。御禊明日とて、斎院にたてまつりたまふ女房十二人、ことに上臈にはあらぬ若き人、童女など、おのがじしもの縫ひ、化粧などしつつ、物見むと思ひまうくるも、とりどりに暇なげにて、御前の方しめやかにて、人しげからぬ折なりけり。
 近くさぶらふ按察使の君も、時々通ふ源中将、責めて呼び出ださせければ、下りたる間に、ただこの侍従ばかり、近くはさぶらふなりけり。よき折と思ひて、やをら御帳の東面の御座の端に据ゑつ。さまでもあるべきことなりやは。

 宮は、何心もなく大殿籠もりにけるを、近く男のけはひのすれば、院のおはすると思したるに、うちかしこまりたるけしき見せて、床の下に抱き下ろしたてまつるに、物に襲はるるかと、せめて見上げたまへれば、あらぬ人なりけり。
 あやしく聞きも知らぬことどもをぞ聞こゆるや。あさましくむくつけくなりて、人召せど、近くもさぶらはねば、聞きつけて参るもなし。わななきたまふさま、水のやうに汗も流れて、ものもおぼえたまはぬけしき、いとあはれにらうたげなり。
 「数ならねど、いとかうしも思し召さるべき身とは、思うたまへられずなむ。
 昔よりおほけなき心のはべりしを、ひたぶるに籠めて止みはべなましかば、心のうちに朽たして過ぎぬべかりけるを、なかなか、漏らしきこえさせて、院にも聞こし召されにしを、こよなくもて離れてものたまはせざりけるに、頼みをかけそめはべりて、身の数ならぬひときはに、人より深き心ざしを空しくなしはべりぬることと、動かしはべりにし心なむ、よろづ今はかひなきことと思うたまへ返せど、いかばかりしみはべりにけるにか、年月に添へて、口惜しくも、つらくも、むくつけくも、あはれにも、いろいろに深く思うたまへまさるに、せきかねて、かくおほけなきさまを御覧ぜられぬるも、かつは、いと思ひやりなく恥づかしければ、罪重き心もさらにはべるまじ」
 と言ひもてゆくに、この人なりけりと思すに、いとめざましく恐ろしくて、つゆいらへもしたまはず。
 「いとことわりなれど、世に例なきことにもはべらぬを、めづらかに情けなき御心ばへならば、いと心憂くて、なかなかひたぶるなる心もこそつきはべれ、あはれとだにのたまはせば、それをうけたまはりてまかでなむ」
 と、よろづに聞こえたまふ。

 よその思ひやりはいつくしく、もの馴れて見えたてまつらむも恥づかしく推し量られたまふに、「ただかばかり思ひつめたる片端聞こえ知らせて、なかなかかけかけしきことはなくて止みなむ」と思ひしかど、いとさばかり気高う恥づかしげにはあらで、なつかしくらうたげに、やはやはとのみ見えたまふ御けはひの、あてにいみじくおぼゆることぞ、人に似させたまはざりける。
 賢しく思ひ鎮むる心も失せて、「いづちもいづちも率て隠したてまつりて、わが身も世に経るさまならず、跡絶えて止みなばや」とまで思ひ乱れぬ。
 ただいささかまどろむともなき夢に、この手馴らしし猫の、いとらうたげにうち鳴きて来たるを、この宮に奉らむとて、わが率て来たるとおぼしきを、何しに奉りつらむと思ふほどに、おどろきて、いかに見えつるならむ、と思ふ。
 宮は、いとあさましく、うつつともおぼえたまはぬに、胸ふたがりて、思しおぼほるるを、
 「なほ、かく逃れぬ御宿世の、浅からざりけると思ほしなせ。みづからの心ながらも、うつし心にはあらずなむ、おぼえはべる」
 かのおぼえなかりし御簾のつまを、猫の綱引きたりし夕べのことも聞こえ出でたり。
 「げに、さはたありけむよ」
 と、口惜しく、契り心憂き御身なりけり。「院にも、今はいかでかは見えたてまつらむ」と、悲しく心細くて、いと幼げに泣きたまふを、いとかたじけなく、あはれと見たてまつりて、人の御涙をさへ拭ふ袖は、いとど露けさのみまさる。

 明けゆくけしきなるに、出でむ方なく、なかなかなり。
 「いかがはしはべるべき。いみじく憎ませたまへば、また聞こえさせむこともありがたきを、ただ一言御声を聞かせたまへ」
 と、よろづに聞こえ悩ますも、うるさくわびしくて、もののさらに言はれたまはねば、
 「果て果ては、むくつけくこそなりはべりぬれ。また、かかるやうはあらじ」
 と、いと憂しと思ひきこえて、
 「さらば不用なめり。身をいたづらにやはなし果てぬ。いと捨てがたきによりてこそ、かくまでもはべれ。今宵に限りはべりなむもいみじくなむ。つゆにても御心ゆるしたまふさまならば、それに代へつるにても捨てはべりなまし」
 とて、かき抱きて出づるに、果てはいかにしつるぞと、あきれて思さる。
 隅の間の屏風をひき広げて、戸を押し開けたれば、渡殿の南の戸の、昨夜入りしがまだ開きながらあるに、まだ明けぐれのほどなるべし、ほのかに見たてまつらむの心あれば、格子をやをら引き上げて、
 「かう、いとつらき御心に、うつし心も失せはべりぬ。すこし思ひのどめよと思されば、あはれとだにのたまはせよ」
 と、脅しきこゆるを、いとめづらかなりと思して物も言はむとしたまへど、わななかれて、いと若々しき御さまなり。
 ただ明けに明けゆくに、いと心あわたたしくて、
 「あはれなる夢語りも聞こえさすべきを、かく憎ませたまへばこそ。さりとも、今思し合はすることもはべりなむ」
 とて、のどかならず立ち出づる明けぐれ、秋の空よりも心尽くしなり。
 「起きてゆく空も知られぬ明けぐれに
  いづくの露のかかる袖なり」
 と、ひき出でて愁へきこゆれば、出でなむとするに、すこし慰めたまひて、
 「明けぐれの空に憂き身は消えななむ
  夢なりけりと見てもやむべく」
 と、はかなげにのたまふ声の、若くをかしげなるを、聞きさすやうにて出でぬる魂は、まことに身を離れて止まりぬる心地す。

 女宮の御もとにも参うでたまはで、大殿へぞ忍びておはしぬる。うち臥したれど目も合はず、見つる夢のさだかに合はむことも難きをさへ思ふに、かの猫のありしさま、いと恋しく思ひ出でらる。
 「さてもいみじき過ちしつる身かな。世にあらむことこそ、まばゆくなりぬれ」
 と、恐ろしくそら恥づかしき心地して、ありきなどもしたまはず。女の御ためはさらにもいはず、わが心地にもいとあるまじきことといふ中にも、むくつけくおぼゆれば、思ひのままにもえ紛れありかず。
 帝の御妻をも取り過ちて、ことの聞こえあらむに、かばかりおぼえむことゆゑは、身のいたづらにならむ、苦しくおぼゆまじ。しか、いちじるき罪にはあたらずとも、この院に目をそばめられたてまつらむことは、いと恐ろしく恥づかしくおぼゆ。
 限りなき女と聞こゆれど、すこし世づきたる心ばへ混じり、上はゆゑあり子めかしきにも、従はぬ下の心添ひたるこそ、とあることかかることにうちなびき、心交はしたまふたぐひもありけれ、これは深き心もおはせねど、ひたおもむきにもの懼ぢしたまへる御心に、ただ今しも、人の見聞きつけたらむやうに、まばゆく、恥づかしく思さるれば、明かき所にだにえゐざり出でたまはず。いと口惜しき身なりけりと、みづから思し知るべし。
 悩ましげになむ、とありければ、大殿聞きたまひて、いみじく御心を尽くしたまふ御事にうち添へて、またいかにと驚かせたまひて、渡りたまへり。
 そこはかと苦しげなることも見えたまはず、いといたく恥ぢらひしめりて、さやかにも見合はせたてまつりたまはぬを、「久しくなりぬる絶え間を恨めしく思すにや」と、いとほしくて、かの御心地のさまなど聞こえたまひて、
 「今はのとぢめにもこそあれ。今さらにおろかなるさまを見えおかれじとてなむ。いはけなかりしほどより扱ひそめて、見放ちがたければ、かう月ごろよろづを知らぬさまに過ぐしはべるぞ。おのづから、このほど過ぎば、見直したまひてむ」
 など聞こえたまふ。かくけしきも知りたまはぬも、いとほしく心苦しく思されて、宮は人知れず涙ぐましく思さる。

 督の君は、まして、なかなかなる心地のみまさりて、起き臥し明かし暮らしわびたまふ。祭の日などは、物見に争ひ行く君達かき連れ来て言ひそそのかせど、悩ましげにもてなして、眺め臥したまへり。
 女宮をば、かしこまりおきたるさまにもてなしきこえて、をさをさうちとけても見えたてまつりたまはず、わが方に離れゐて、いとつれづれに心細く眺めゐたまへるに、童べの持たる葵を見たまひて、
 「悔しくぞ摘み犯しける葵草
  神の許せるかざしならぬに」
 と思ふも、いとなかなかなり。
 世の中静かならぬ車の音などを、よそのことに聞きて、人やりならぬつれづれに、暮らしがたくおぼゆ。
 女宮も、かかるけしきのすさまじげさも見知られたまへば、何事とは知りたまはねど、恥づかしくめざましきに、もの思はしくぞ思されける。
 女房など、物見に皆出でて、人少なにのどやかなれば、うち眺めて、箏の琴なつかしく弾きまさぐりておはするけはひも、さすがにあてになまめかしけれど、「同じくは今ひと際及ばざりける宿世よ」と、なほおぼゆ。
 「もろかづら落葉を何に拾ひけむ
  名は睦ましきかざしなれども」
 と書きすさびゐたる、いとなめげなるしりう言なりかし。


 


 大殿の君は、まれまれ渡りたまひて、えふとも立ち帰りたまはず、静心なく思さるるに、
 「絶え入りたまひぬ」
 とて、人参りたれば、さらに何事も思し分かれず、御心も暮れて渡りたまふ。道のほどの心もとなきに、げにかの院は、ほとりの大路まで人立ち騒ぎたり。殿のうち泣きののしるけはひ、いとまがまがし。我にもあらで入りたまへれば、
 「日ごろは、いささか隙見えたまへるを、にはかになむ、かくおはします」
 とて、さぶらふ限りは、我も後れたてまつらじと、惑ふさまども、限りなし。御修法どもの檀こぼち、僧なども、さるべき限りこそまかでね、ほろほろと騒ぐを見たまふに、「さらば限りにこそは」と思し果つるあさましさに、何事かはたぐひあらむ。
 「さりとも、もののけのするにこそあらめ。いと、かくひたぶるにな騷ぎそ」
 と鎮めたまひて、いよいよいみじき願どもを立て添へさせたまふ。すぐれたる験者どもの限り召し集めて、
 「限りある御命にて、この世尽きたまひぬとも、ただ、今しばしのどめたまへ。不動尊の御本の誓ひあり。その日数をだに、かけ止めたてまつりたまへ」
 と、頭よりまことに黒煙を立てて、いみじき心を起こして加持したてまつる。院も、
 「ただ、今一度目を見合はせたまへ。いとあへなく限りなりつらむほどをだに、え見ずなりにけることの、悔しく悲しきを」
 と思し惑へるさま、止まりたまふべきにもあらぬを、見たてまつる心地ども、ただ推し量るべし。いみじき御心のうちを、仏も見たてまつりたまふにや、月ごろさらに現はれ出で来ぬもののけ、小さき童女に移りて、呼ばひののしるほどに、やうやう生き出でたまふに、うれしくもゆゆしくも思し騒がる。


 いみじく調ぜられて、
 「人は皆去りね。院一所の御耳に聞こえむ。おのれを月ごろ調じわびさせたまふが、情けなくつらければ、同じくは思し知らせむと思ひつれど、さすがに命も堪ふまじく、身を砕きて思し惑ふを見たてまつれば、今こそ、かくいみじき身を受けたれ、いにしへの心の残りてこそ、かくまでも参り来たるなれば、ものの心苦しさをえ見過ぐさで、つひに現はれぬること。さらに知られじと思ひつるものを」
 とて、髪を振りかけて泣くけはひ、ただ昔見たまひしもののけのさまと見えたり。あさましく、むくつけしと、思ししみにしことの変はらぬもゆゆしければ、この童女の手をとらへて、引き据ゑて、さま悪しくもせさせたまはず。
 「まことにその人か。よからぬ狐などいふなるものの、たぶれたるが、亡き人の面伏なること言ひ出づるもあなるを、たしかなる名のりせよ。また人の知らざらむことの、心にしるく思ひ出でられぬべからむを言へ。さてなむ、いささかにても信ずべき」
 とのたまへば、ほろほろといたく泣きて、
 「わが身こそあらぬさまなれそれながら
  そらおぼれする君は君なり
 いとつらし、いとつらし」
 と泣き叫ぶものから、さすがにもの恥ぢしたるけはひ、変らず、なかなかいと疎ましく、心憂けば、もの言はせじと思す。
 「中宮の御事にても、いとうれしくかたじけなしとなむ、天翔りても見たてまつれど、道異になりぬれば、子の上までも深くおぼえぬにやあらむ、なほ、みづからつらしと思ひきこえし心の執なむ、止まるものなりける。
 その中にも、生きての世に、人より落として思し捨てしよりも、思ふどちの御物語のついでに、心善からず憎かりしありさまをのたまひ出でたりしなむ、いと恨めしく。今はただ亡きに思し許して、異人の言ひ落としめむをだに、はぶき隠したまへとこそ思へ、とうち思ひしばかりに、かくいみじき身のけはひなれば、かく所狭きなり。
 この人を、深く憎しと思ひきこゆることはなけれど、守り強く、いと御あたり遠き心地して、え近づき参らず、御声をだにほのかになむ聞きはべる。
 よし、今は、この罪軽むばかりのわざをせさせたまへ。修法、読経とののしることも、身には苦しくわびしき炎とのみまつはれて、さらに尊きことも聞こえねば、いと悲しくなむ。
 中宮にも、このよしを伝へ聞こえたまへ。ゆめ御宮仕へのほどに、人ときしろひ嫉む心つかひたまふな。斎宮におはしまししころほひの御罪軽むべからむ功徳のことを、かならずせさせたまへ。いと悔しきことになむありける」
 など、言ひ続くれど、もののけに向かひて物語したまはむも、かたはらいたければ、封じ込めて、上をば、また異方に、忍びて渡したてまつりたまふ。


 かく亡せたまひにけりといふこと、世の中に満ちて、御弔らひに聞こえたまふ人々あるを、いとゆゆしく思す。今日の帰さ見に出でたまひける上達部など、帰りたまふ道に、かく人の申せば、
 「いといみじきことにもあるかな。生けるかひありつる幸ひ人の、光失ふ日にて、雨はそほ降るなりけり」
 と、うちつけ言したまふ人もあり。また、
 「かく足らひぬる人は、かならずえ長からぬことなり。『何を桜に』といふ古言もあるは。かかる人の、いとど世にながらへて、世の楽しびを尽くさば、かたはらの人苦しからむ。今こそ、二品の宮は、もとの御おぼえ現はれたまはめ。いとほしげに圧されたりつる御おぼえを」
 など、うちささめきけり。
 衛門督、昨日暮らしがたかりしを思ひて、今日は、御弟ども、左大弁、藤宰相など、奥の方に乗せて見たまひけり。かく言ひあへるを聞くにも、胸うちつぶれて、
 「何か憂き世に久しかるべき」
 と、うち誦じ独りごちて、かの院へ皆参りたまふ。たしかならぬことなればゆゆしくや、とて、ただおほかたの御訪らひに参りたまへるに、かく人の泣き騒げば、まことなりけりと、立ち騷ぎたまへり。
 式部卿宮も渡りたまひて、いといたく思しほれたるさまにてぞ入りたまふ。人の御消息も、え申し伝へたまはず。大将の君、涙を拭ひて立ち出でたまへるに、
 「いかに、いかに。ゆゆしきさまに人の申しつれば、信じがたきことにてなむ。ただ久しき御悩みをうけたまはり嘆ぎて参りつる」
 などのたまふ。
 「いと重くなりて、月日経たまへるを、この暁より絶え入りたまへりつるを、もののけのしたるになむありける。やうやう生き出でたまふやうに聞きなしはべりて、今なむ皆人心静むめれど、まだいと頼もしげなしや。心苦しきことにこそ」
 とて、まことにいたく泣きたまへるけしきなり。目もすこし腫れたり。衛門督、わがあやしき心ならひにや、この君の、いとさしも親しからぬ継母の御ことを、いたく心しめたまへるかな、と目をとどむ。
 かく、これかれ参りたまへるよし聞こし召して、
 「重き病者の、にはかにとぢめつるさまなりつるを、女房などは、心もえ収めず、乱りがはしく騷ぎはべりけるに、みづからもえのどめず、心あわたたしきほどにてなむ。ことさらになむ、かくものしたまへるよろこびは聞こゆべき」
 とのたまへり。督の君は胸つぶれて、かかる折のらうろうならずはえ参るまじく、けはひ恥づかしく思ふも、心のうちぞ腹ぎたなかりける。

 かく生き出でたまひての後しも、恐ろしく思して、またまた、いみじき法どもを尽くして加へ行なはせたまふ。
 うつし人にてだに、むくつけかりし人の御けはひの、まして世変はり、妖しきもののさまになりたまへらむを思しやるに、いと心憂ければ、中宮を扱ひきこえたまふさへぞ、この折はもの憂く、言ひもてゆけば、女の身は、皆同じ罪深きもとゐぞかしと、なべての世の中厭はしく、かの、また人も聞かざりし御仲の睦物語に、すこし語り出でたまへりしことを言ひ出でたりしに、まことと思し出づるに、いとわづらはしく思さる。
 御髪下ろしてむと切に思したれば、忌むことの力もやとて、御頂しるしばかり挟みて、五戒ばかり受けさせたてまつりたまふ。御戒の師、忌むことのすぐれたるよし、仏に申すにも、あはれに尊きこと混じりて、人悪く御かたはらに添ひゐて、涙おし拭ひたまひつつ、仏を諸心に念じきこえたまふさま、世にかしこくおはする人も、いとかく御心惑ふことにあたりては、え静めたまはぬわざなりけり。
 いかなるわざをして、これを救ひかけとどめたてまつらむとのみ、夜昼思し嘆くに、ほれぼれしきまで、御顔もすこし面痩せたまひにたり。

 五月などは、まして、晴れ晴れしからぬ空のけしきに、えさはやぎたまはねど、ありしよりはすこし良ろしきさまなり。されど、なほ絶えず悩みわたりたまふ。
 もののけの罪救ふべきわざ、日ごとに法華経一部づつ供養ぜさせたまふ。日ごとに何くれと尊きわざせさせたまふ。御枕上近くても、不断の御読経、声尊き限りして読ませたまふ。現はれそめては、折々悲しげなることどもを言へど、さらにこのもののけ去り果てず。
 いとど暑きほどは、息も絶えつつ、いよいよのみ弱りたまへば、いはむかたなく思し嘆きたり。なきやうなる御心地にも、かかる御けしきを心苦しく見たてまつりたまひて、
 「世の中に亡くなりなむも、わが身にはさらに口惜しきこと残るまじけれど、かく思し惑ふめるに、空しく見なされたてまつらむが、いと思ひ隈なかるべければ」
 思ひ起こして、御湯などいささか参るけにや、六月になりてぞ、時々御頭もたげたまひける。めづらしく見たてまつりたまふにも、なほ、いとゆゆしくて、六条の院にはあからさまにもえ渡りたまはず。


 


 姫宮は、あやしかりしことを思し嘆きしより、やがて例のさまにもおはせず、悩ましくしたまへど、おどろおどろしくはあらず、立ちぬる月より、物きこし召さで、いたく青みそこなはれたまふ。
 かの人は、わりなく思ひあまる時々は、夢のやうに見たてまつりけれど、宮、尽きせずわりなきことに思したり。院をいみじく懼ぢきこえたまへる御心に、ありさまも人のほども、等しくだにやはある、いたくよしめきなまめきたれば、おほかたの人目にこそ、なべての人には優りてめでらるれ、幼くより、さるたぐひなき御ありさまに馴らひたまへる御心には、めざましくのみ見たまふほどに、かく悩みわたりたまふは、あはれなる御宿世にぞありける。
 御乳母たち見たてまつりとがめて、院の渡らせたまふこともいとたまさかになるを、つぶやき恨みたてまつる。
 かく悩みたまふと聞こし召してぞ渡りたまふ。女君は、暑くむつかしとて、御髪澄まして、すこしさはやかにもてなしたまへり。臥しながらうちやりたまへりしかば、とみにも乾かねど、つゆばかりうちふくみ、まよふ筋もなくて、いときよらにゆらゆらとして、青み衰へたまへるしも、色は真青に白くうつくしげに、透きたるやうに見ゆる御肌つきなど、世になくらうたげなり。もぬけたる虫の殻などのやうに、まだいとただよはしげにおはす。
 年ごろ住みたまはで、すこし荒れたりつる院の内、たとしへなく狭げにさへ見ゆ。昨日今日かくものおぼえたまふ隙にて、心ことにつくろはれたる遣水、前栽の、うちつけに心地よげなるを見出だしたまひても、あはれに、今まで経にけるを思ほす。


 池はいと涼しげにて、蓮の花の咲きわたれるに、葉はいと青やかにて、露きらきらと玉のやうに見えわたるを、
 「かれ見たまへ。おのれ一人も涼しげなるかな」
 とのたまふに、起き上がりて見出だしたまへるも、いとめづらしければ、
 「かくて見たてまつるこそ、夢の心地すれ。いみじく、わが身さへ限りとおぼゆる折々のありしはや」
 と、涙を浮けてのたまへば、みづからもあはれに思して、
 「消え止まるほどやは経べきたまさかに
  蓮の露のかかるばかりを」
 とのたまふ。
 「契り置かむこの世ならでも蓮葉に
  玉ゐる露の心隔つな」
 出でたまふ方ざまはもの憂けれど、内裏にも院にも、聞こし召さむところあり、悩みたまふと聞きてもほど経ぬるを、目に近きに心を惑はしつるほど、見たてまつることもをさをさなかりつるに、かかる雲間にさへやは絶え籠もらむと、思し立ちて、渡りたまひぬ。

 宮は、御心の鬼に、見えたてまつらむも恥づかしう、つつましく思すに、物など聞こえたまふ御いらへも、聞こえたまはねば、日ごろの積もりを、さすがにさりげなくてつらしと思しけると、心苦しければ、とかくこしらへきこえたまふ。大人びたる人召して、御心地のさまなど問ひたまふ。
 「例のさまならぬ御心地になむ」
 と、わづらひたまふ御ありさまを聞こゆ。
 「あやしく。ほど経てめづらしき御ことにも」
 とばかりのたまひて、御心のうちには、
 「年ごろ経ぬる人びとだにもさることなきを、不定なる御事にもや」
 と思せば、ことにともかくものたまひあへしらひたまはで、ただ、うち悩みたまへるさまのいとらうたげなるを、あはれと見たてまつりたまふ。
 からうして思し立ちて渡りたまひしかば、ふともえ帰りたまはで、二、三日おはするほど、「いかに、いかに」とうしろめたく思さるれば、御文をのみ書き尽くしたまふ。
 「いつの間に積もる御言の葉にかあらむ。いでや、やすからぬ世をも見るかな」
 と、若君の御過ちを知らぬ人は言ふ。侍従ぞ、かかるにつけても胸うち騷ぎける。
 かの人も、かく渡りたまへりと聞くに、おはけなく心誤りして、いみじきことどもを書き続けて、おこせたまへり。対にあからさまに渡りたまへるほどに、人間なりければ、忍びて見せたてまつる。
 「むつかしきもの見するこそ、いと心憂けれ。心地のいとど悪しきに」
 とて臥したまへれば、
 「なほ、ただ、この端書きの、いとほしげにはべるぞや」
 とて広げたれば、人の参るに、いと苦しくて、御几帳引き寄せて去りぬ。
 いとど胸つぶるるに、院入りたまへば、えよくも隠したまはで、御茵の下にさし挟みたまひつ。

 夜さりつ方、二条の院へ渡りたまはむとて、御暇聞こえたまふ。
 「ここには、けしうはあらず見えたまふを、まだいとただよはしげなりしを、見捨てたるやうに思はるるも、今さらにいとほしくてなむ。ひがひがしく聞こえなす人ありとも、ゆめ心置きたまふな。今見直したまひてむ」
 と語ひたまふ。例は、なまいはけなき戯れ言なども、うちとけ聞こえたまふを、いたくしめりて、さやかにも見合はせたてまつりたまはぬを、ただ世の恨めしき御けしきと心得たまふ。
 昼の御座にうち臥したまひて、御物語など聞こえたまふほどに暮れにけり。すこし大殿籠もり入りにけるに、ひぐらしのはなやかに鳴くにおどろきたまひて、
 「さらば、道たどたどしからぬほどに」
 とて、御衣などたてまつり直す。
 「月待ちて、とも言ふなるものを」
 と、いと若やかなるさましてのたまふは、憎からずかし。「その間にも、とや思す」と、心苦しげに思して、立ち止まりたまふ。
 「夕露に袖濡らせとやひぐらしの
  鳴くを聞く聞く起きて行くらむ」
 片なりなる御心にまかせて言ひ出でたまへるもらうたければ、ついゐて、
 「あな、苦しや」
 と、うち嘆きたまふ。
 「待つ里もいかが聞くらむ方がたに
  心騒がすひぐらしの声」
 など思しやすらひて、なほ情けなからむも心苦しければ、止まりたまひぬ。静心なく、さすがに眺められたまひて、御くだものばかり参りなどして、大殿籠もりぬ。

 まだ朝涼みのほどに渡りたまはむとて、とく起きたまふ。
 「昨夜のかはほりを落として、これは風ぬるくこそありけれ」
 とて、御扇置きたまひて、昨日うたた寝したまへりし御座のあたりを、立ち止まりて見たまふに、御茵のすこしまよひたるつまより、浅緑の薄様なる文の、押し巻きたる端見ゆるを、何心もなく引き出でて御覧ずるに、男の手なり。紙の香などいと艶に、ことさらめきたる書きざまなり。二重ねにこまごまと書きたるを見たまふに、「紛るべき方なく、その人の手なりけり」と見たまひつ。
 御鏡など開けて参らする人は、見たまふ文にこそはと、心も知らぬに、小侍従見つけて、昨日の文の色と見るに、いといみじく、胸つぶつぶと鳴る心地す。御粥など参る方に目も見やらず、
 「いで、さりとも、それにはあらじ。いといみじく、さることはありなむや。隠いたまひてけむ」
 と思ひなす。
 宮は、何心もなく、まだ大殿籠もれり。
 「あな、いはけな。かかる物を散らしたまひて。我ならぬ人も見つけたらましかば」
 と思すも、心劣りして、
 「さればよ。いとむげに心にくきところなき御ありさまを、うしろめたしとは見るかし」
 と思す。

 出でたまひぬれば、人びとすこしあかれぬるに、侍従寄りて、
 「昨日の物は、いかがせさせたまひてし。今朝、院の御覧じつる文の色こそ、似てはべりつれ」
 と聞こゆれば、あさましと思して、涙のただ出で来に出で来れば、いとほしきものから、「いふかひなの御さまや」と見たてまつる。
 「いづくにかは、置かせたまひてし。人びとの参りしに、ことあり顔に近くさぶらはじと、さばかりの忌みをだに、心の鬼に避りはべしを。入らせたまひしほどは、すこしほど経はべりにしを、隠させたまひつらむとなむ、思うたまへし」
 と聞こゆれば、
 「いさ、とよ。見しほどに入りたまひしかば、ふともえ置きあへで、さし挟みしを、忘れにけり」
 とのたまふに、いと聞こえむかたなし。寄りて見れば、いづくのかはあらむ。
 「あな、いみじ。かの君も、いといたく懼ぢ憚りて、けしきにても漏り聞かせたまふことあらばと、かしこまりきこえたまひしものを。ほどだに経ず、かかることの出でまうで来るよ。すべて、いはけなき御ありさまにて、人にも見えさせたまひければ、年ごろさばかり忘れがたく、恨み言ひわたりたまひしかど、かくまで思うたまへし御ことかは。誰が御ためにも、いとほしくはべるべきこと」
 と、憚りもなく聞こゆ。心やすく若くおはすれば、馴れきこえたるなめり。いらへもしたまはで、ただ泣きにのみぞ泣きたまふ。いと悩ましげにて、つゆばかりの物もきこしめさねば、
 「かく悩ましくせさせたまふを、見おきたてまつりたまひて、今はおこたり果てたまひにたる御扱ひに、心を入れたまへること」
 と、つらく思ひ言ふ。


 大殿は、この文のなほあやしく思さるれば、人見ぬ方にて、うち返しつつ見たまふ。「さぶらふ人びとの中に、かの中納言の手に似たる手して書きたるか」とまで思し寄れど、言葉づかひきらきらと、まがふべくもあらぬことどもあり。
 「年を経て思ひわたりけることの、たまさかに本意かなひて、心やすからぬ筋を書き尽くしたる言葉、いと見所ありてあはれなれど、いとかくさやかには書くべしや。あたら人の、文をこそ思ひやりなく書きけれ。落ち散ることもこそと思ひしかば、昔、かやうにこまかなるべき折ふしにも、ことそぎつつこそ書き紛らはししか。人の深き用意は難きわざなりけり」
 と、かの人の心をさへ見落としたまひつ。

 「さても、この人をばいかがもてなしきこゆべき。めづらしきさまの御心地も、かかることの紛れにてなりけり。いで、あな、心憂や。かく、人伝てならず憂きことを知るしる、ありしながら見たてまつらむよ」
 と、わが御心ながらも、え思ひ直すまじくおぼゆるを、
 「なほざりのすさびと、初めより心をとどめぬ人だに、また異ざまの心分くらむと思ふは、心づきなく思ひ隔てらるるを、ましてこれは、さま異に、おほけなき人の心にもありけるかな。
 帝の御妻をも過つたぐひ、昔もありけれど、それはまたいふ方異なり。宮仕へといひて、我も人も同じ君に馴れ仕うまつるほどに、おのづから、さるべき方につけても、心を交はしそめ、もののまぎれ多かりぬべきわざなり。
 女御、更衣といへど、とある筋かかる方につけて、かたほなる人もあり、心ばせかならず重からぬうち混じりて、思はずなることもあれど、おぼろけの定かなる過ち見えぬほどは、さても交じらふやうもあらむに、ふとしもあらはならぬ紛れありぬべし。
 かくばかり、またなきさまにもてなしきこえて、うちうちの心ざし引く方よりも、いつくしくかたじけなきものに思ひはぐくまむ人をおきて、かかることは、さらにたぐひあらじ」
 と、爪弾きせられたまふ。
 「帝と聞こゆれど、ただ素直に、公ざまの心ばへばかりにて、宮仕へのほどもものすさまじきに、心ざし深き私のねぎ言になびき、おのがじしあはれを尽くし、見過ぐしがたき折のいらへをも言ひそめ、自然に心通ひそむらむ仲らひは、同じけしからぬ筋なれど、寄る方ありや。わが身ながらも、さばかりの人に心分けたまふべくはおぼえぬものを」
 と、いと心づきなけれど、また「けしきに出だすべきことにもあらず」など、思し乱るるにつけて、
 「故院の上も、かく御心には知ろし召してや、知らず顔を作らせたまひけむ。思へば、その世のことこそは、いと恐ろしく、あるまじき過ちなりけれ」
 と、近き例を思すにぞ、恋の山路は、えもどくまじき御心まじりける。


 


 つれなしづくりたまへど、もの思し乱るるさまのしるければ、女君、消え残りたるいとほしみに渡りたまひて、「人やりならず、心苦しう思ひやりきこえたまふにや」と思して、
 「心地はよろしくなりにてはべるを、かの宮の悩ましげにおはすらむに、とく渡りたまひにしこそ、いとほしけれ」
 と聞こえたまへば、
 「さかし。例ならず見えたまひしかど、異なる心地にもおはせねば、おのづから心のどかに思ひてなむ。内裏よりは、たびたび御使ありけり。今日も御文ありつとか。院の、いとやむごとなく聞こえつけたまへれば、上もかく思したるなるべし。すこしおろかになどもあらむは、こなたかなた思さむことの、いとほしきぞや」
 とて、うめきたまへば、
 「内裏の聞こし召さむよりも、みづから恨めしと思ひきこえたまはむこそ、心苦しからめ。我は思し咎めずとも、よからぬさまに聞こえなす人びと、かならずあらむと思へば、いと苦しくなむ」
 などのたまへば、
 「げに、あながちに思ふ人のためには、わづらはしきよすがなけれど、よろづにたどり深きこと、とやかくやと、おほよそ人の思はむ心さへ思ひめぐらさるるを、これはただ、国王の御心やおきたまはむとばかりを憚らむは、浅き心地ぞしける」
 と、ほほ笑みてのたまひ紛らはす。渡りたまはむことは、
 「もろともに帰りてを。心のどかにあらむ」
 とのみ聞こえたまふを、
 「ここには、しばし心やすくてはべらむ。まづ渡りたまひて、人の御心も慰みなむほどにを」
 と、聞こえ交はしたまふほどに、日ごろ経ぬ。


 姫宮は、かく渡りたまはぬ日ごろの経るも、人の御つらさにのみ思すを、今は、「わが御おこたりうち混ぜてかくなりぬる」と思すに、院も聞こし召しつけて、いかに思し召さむと、世の中つつましくなむ。
 かの人も、いみじげにのみ言ひわたれども、小侍従もわづらはしく思ひ嘆きて、「かかることなむ、ありし」と告げてければ、いとあさましく、
 「いつのほどにさること出で来けむ。かかることは、あり経れば、おのづからけしきにても漏り出づるやうもや」
 と思ひしだに、いとつつましく、空に目つきたるやうにおぼえしを、「ましてさばかり違ふべくもあらざりしことどもを見たまひてけむ」、恥づかしく、かたじけなく、かたはらいたきに、朝夕、涼みもなきころなれど、身もしむる心地して、いはむかたなくおぼゆ。
 「年ごろ、まめごとにもあだことにも、召しまつはし参り馴れつるものを。人よりはこまかに思しとどめたる御けしきの、あはれになつかしきを、あさましくおほけなきものに心おかれたてまつりては、いかでかは目をも見合はせたてまつらむ。さりとて、かき絶えほのめき参らざらむも、人目あやしく、かの御心にも思し合はせむことのいみじさ」
 など、やすからず思ふに、心地もいと悩ましくて、内裏へも参らず。さして重き罪には当たるべきならねど、身のいたづらになりぬる心地すれば、「さればよ」と、かつはわが心も、いとつらくおぼゆ。
 「いでや、しづやかに心にくきけはひ見えたまはぬわたりぞや。まづは、かの御簾のはさまも、さるべきことかは。軽々しと、大将の思ひたまへるけしき見えきかし」
 など、今ぞ思ひ合はする。しひてこのことを思ひさまさむと思ふ方にて、あながちに難つけたてまつらまほしきにやあらむ。

 「良きやうとても、あまりひたおもむきにおほどかにあてなる人は、世のありさまも知らず、かつ、さぶらふ人に心おきたまふこともなくて、かくいとほしき御身のためも、人のためも、いみじきことにもあるかな」
 と、かの御ことの心苦しさも、え思ひ放たれたまはず。
 宮は、いとらうたげにて悩みわたりたまふさまの、なほいと心苦しく、かく思ひ放ちたまふにつけては、あやにくに、憂きに紛れぬ恋しさの苦しく思さるれば、渡りたまひて、見たてまつりたまふにつけても、胸いたくいとほしく思さる。
 御祈りなど、さまざまにせさせたまふ。おほかたのことは、ありしに変らず、なかなか労しくやむごとなくもてなしきこゆるさまをましたまふ。気近くうち語らひきこえたまふさまは、いとこよなく御心隔たりて、かたはらいたければ、人目ばかりをめやすくもてなして、思しのみ乱るるに、この御心のうちしもぞ苦しかりける。
 さること見きとも表はしきこえたまはぬに、みづからいとわりなく思したるさまも、心幼し。
 「いとかくおはするけぞかし。良きやうといひながら、あまり心もとなく後れたる、頼もしげなきわざなり」
 と思すに、世の中なべてうしろめたく、
 「女御の、あまりやはらかにおびれたまへるこそ、かやうに心かけきこえむ人は、まして心乱れなむかし。女は、かうはるけどころなくなよびたるを、人もあなづらはしきにや、さるまじきに、ふと目とまり、心強からぬ過ちはし出づるなりけり」
 と思す。

 「右の大臣の北の方の、取り立てたる後見もなく、幼くより、ものはかなき世にさすらふるやうにて、生ひ出でたまひけれど、かどかどしく労ありて、我もおほかたには親めきしかど、憎き心の添はぬにしもあらざりしを、なだらかにつれなくもてなして過ぐし、この大臣の、さる無心の女房に心合はせて入り来たりけむにも、けざやかにもて離れたるさまを、人にも見え知られ、ことさらに許されたるありさまにしなして、わが心と罪あるにはなさずなりにしなど、今思へば、いかにかどあることなりけり。
 契り深き仲なりければ、長くかくて保たむことは、とてもかくても、同じごとあらましものから、心もてありしこととも、世人も思ひ出でば、すこし軽々しき思ひ加はりなまし、いといたくもてなしてしわざなり」と思し出づ。

 二条の尚侍の君をば、なほ絶えず、思ひ出できこえたまへど、かくうしろめたき筋のこと、憂きものに思し知りて、かの御心弱さも、少し軽く思ひなされたまひけり。
 つひに御本意のことしたまひてけりと聞きたまひては、いとあはれに口惜しく、御心動きて、まづ訪らひきこえたまふ。今なむとだににほはしたまはざりけるつらさを、浅からず聞こえたまふ。
 「海人の世をよそに聞かめや須磨の浦に
  藻塩垂れしも誰れならなくに
 さまざまなる世の定めなさを心に思ひつめて、今まで後れきこえぬる口惜しさを、思し捨てつとも、避りがたき御回向のうちには、まづこそはと、あはれになむ」
 など、多く聞こえたまへり。
 とく思し立ちにしことなれど、この御妨げにかかづらひて、人にはしか表はしたまはぬことなれど、心のうちあはれに、昔よりつらき御契りを、さすがに浅くしも思し知られぬなど、かたがたに思し出でらる。
 御返り、今はかくしも通ふまじき御文のとぢめと思せば、あはれにて、心とどめて書きたまふ、墨つきなど、いとをかし。
 「常なき世とは身一つにのみ知りはべりにしを、後れぬとのたまはせたるになむ、げに、
  海人舟にいかがは思ひおくれけむ
  明石の浦にいさりせし君
 回向には、あまねきかどにても、いかがは」
 とあり。濃き青鈍の紙にて、樒にさしたまへる、例のことなれど、いたく過ぐしたる筆つかひ、なほ古りがたくをかしげなり。

 二条院におはしますほどにて、女君にも、今はむげに絶えぬることにて、見せたてまつりたまふ。
 「いといたくこそ恥づかしめられたれ。げに、心づきなしや。さまざま心細き世の中のありさまを、よく見過ぐしつるやうなるよ。なべての世のことにても、はかなくものを言ひ交はし、時々によせて、あはれをも知り、ゆゑをも過ぐさず、よそながらの睦び交はしつべき人は、斎院とこの君とこそは残りありつるを、かくみな背き果てて、斎院はた、いみじうつとめて、紛れなく行なひにしみたまひにたなり。
 なほ、ここらの人のありさまを聞き見る中に、深く思ふさまに、さずがになつかしきことの、かの人の御なずらひにだにもあらざりけるかな。女子を生ほし立てむことよ、いと難かるべきわざなりけり。
 宿世などいふらむものは、目に見えぬわざにて、親の心に任せがたし。生ひ立たむほどの心づかひは、なほ力入るべかめり。よくこそ、あまたかたがたに心を乱るまじき契りなりけれ。年深くいらざりしほどは、さうざうしのわざや、さまざまに見ましかばとなむ、嘆かしきをりをりありし。
 若宮を、心して生ほし立てたてまつりたまへ。女御は、ものの心を深く知りたまふほどならで、かく暇なき交らひをしたまへば、何事も心もとなき方にぞものしたまふらむ。御子たちなむ、なほ飽く限り人に点つかるまじくて、世をのどかに過ぐしたまはむに、うしろめたかるまじき心ばせ、つけまほしきわざなりける。限りありて、とざままうざまの後見まうくるただ人は、おのづからそれにも助けられぬるを」
 など聞こえたまへば、
 「はかばかしきさまの御後見ならずとも、世にながらへむ限りは、見たてまつらぬやうあらじと思ふを、いかならむ」
 とて、なほものを心細げにて、かく心にまかせて、行なひをもとどこほりなくしたまふ人々を、うらやましく思ひきこえたまへり。
 「尚侍の君に、さま変はりたまへらむ装束など、まだ裁ち馴れぬほどは訪らふべきを、袈裟などはいかに縫ふものぞ。それせさせたまへ。一領は、六条の東の君にものしつけむ。うるはしき法服だちては、うたて見目もけうとかるべし。さすがに、その心ばへ見せてを」
 など聞こえたまふ。
 青鈍の一領を、ここにはせさせたまふ。作物所の人召して、忍びて、尼の御具どものさるべきはじめのたまはす。御茵、上席、屏風、几帳などのことも、いと忍びて、わざとがましくいそがせたまひけり。


 


 かくて、山の帝の御賀も延びて、秋とありしを、八月は大将の御忌月にて、楽所のこと行なひたまはむに、便なかるべし。九月は、院の大后の崩れたまひにし月なれば、十月にと思しまうくるを、姫宮いたく悩みたまへば、また延びぬ。
 衛門督の御預かりの宮なむ、その月には参りたまひける。太政大臣居立ちて、いかめしくこまかに、もののきよら、儀式を尽くしたまへりけり。督の君も、そのついでにぞ、思ひ起こして出でたまひける。なほ、悩ましく、例ならず病づきてのみ過ぐしたまふ。
 宮も、うちはへてものをつつましく、いとほしとのみ思し嘆くけにやあらむ、月多く重なりたまふままに、いと苦しげにおはしませば、院は、心憂しと思ひきこえたまふ方こそあれ、いとらうたげにあえかなるさまして、かく悩みわたりたまふを、いかにおはせむと嘆かしくて、さまざまに思し嘆く。御祈りなど、今年は紛れ多くて過ぐしたまふ。


 御山にも聞こし召して、らうたく恋しと思ひきこえたまふ。月ごろかくほかほかにて、渡りたまふこともをさをさなきやうに、人の奏しければ、いかなるにかと御胸つぶれて、世の中も今さらに恨めしく思して、
 「対の方のわづらひけるころは、なほその扱ひにと聞こし召してだに、なまやすからざりしを、そののち、直りがたくものしたまふらむは、そのころほひ、便なきことや出で来たりけむ。みづから知りたまふことならねど、良からぬ御後見どもの心にて、いかなることかありけむ。内裏わたりなどの、みやびを交はすべき仲らひなどにも、けしからず憂きこと言ひ出づるたぐひも聞こゆかし」
 とさへ思し寄るも、こまやかなること思し捨ててし世なれど、なほ子の道は離れがたくて、宮に御文こまやかにてありけるを、大殿、おはしますほどにて、見たまふ。
 「そのこととなくて、しばしばも聞こえぬほどに、おぼつかなくてのみ年月の過ぐるなむ、あはれなりける。悩みたまふなるさまは、詳しく聞きしのち、念誦のついでにも思ひやらるるは、いかが。世の中寂しく思はずなることありとも、忍び過ぐしたまへ。恨めしげなるけしきなど、おぼろけにて、見知り顔にほのめかす、いと品おくれたるわざになむ」
 など、教へきこえたまへり。
 いといとほしく心苦しく、「かかるうちうちのあさましきをば、聞こし召すべきにはあらで、わがおこたりに、本意なくのみ聞き思すらむことを」とばかり思し続けて、
 「この御返りをば、いかが聞こえたまふ。心苦しき御消息に、まろこそいと苦しけれ。思はずに思ひきこゆることありとも、おろかに、人の見咎むばかりはあらじとこそ思ひはべれ。誰が聞こえたるにかあらむ」
 とのたまふに、恥ぢらひて背きたまへる御姿も、いとらうたげなり。いたく面痩せて、もの思ひ屈したまへる、いとどあてにをかし。

 「いと幼き御心ばへを見おきたまひて、いたくはうしろめたがりきこえたまふなりけりと、思ひあはせたてまつれば、今より後もよろづになむ。かうまでもいかで聞こえじと思へど、上の、御心に背くと聞こし召すらむことの、やすからず、いぶせきを、ここにだに聞こえ知らせでやはとてなむ。
 いたり少なく、ただ、人の聞こえなす方にのみ寄るべかめる御心には、ただおろかに浅きとのみ思し、また、今はこよなくさだ過ぎにたるありさまも、あなづらはしく目馴れてのみ見なしたまふらむも、かたがたに口惜しくもうれたくもおぼゆるを、院のおはしまさむほどは、なほ心収めて、かの思しおきてたるやうありけむ、さだ過ぎ人をも、同じくなずらへきこえて、いたくな軽めたまひそ。
 いにしへより本意深き道にも、たどり薄かるべき女方にだに、皆思ひ後れつつ、いとぬるきこと多かるを、みづからの心には、何ばかり思しまよふべきにはあらねど、今はと捨てたまひけむ世の後見に譲りおきたまへる御心ばへの、あはれにうれしかりしを、ひき続き争ひきこゆるやうにて、同じさまに見捨てたてまつらむことの、あへなく思されむにつつみてなむ。
 心苦しと思ひし人びとも、今はかけとどめらるるほだしばかりなるもはべらず。女御も、かくて、行く末は知りがたけれど、御子たち数添ひたまふめれば、みづからの世だにのどけくはと見おきつべし。その他は、誰も誰も、あらむに従ひて、もろともに身を捨てむも、惜しかるまじき齢どもになりにたるを、やうやうすずしく思ひはべる。
 院の御世の残り久しくもおはせじ。いと篤しくいとどなりまさりたまひて、もの心細げにのみ思したるに、今さらに思はずなる御名の漏り聞こえて、御心乱りたまふな。この世はいとやすし。ことにもあらず。後の世の御道の妨げならむも、罪いと恐ろしからむ」
 など、まほにそのこととは明かしたまはねど、つくづくと聞こえ続けたまふに、涙のみ落ちつつ、我にもあらず思ひしみておはすれば、我もうち泣きたまひて、
 「人の上にても、もどかしく聞き思ひし古人のさかしらよ。身に代はることにこそ。いかにうたての翁やと、むつかしくうるさき御心添ふらむ」
 と、恥ぢたまひつつ、御硯引き寄せたまひて、手づから押し擦り、紙取りまかなひ、書かせたてまつりたまへど、御手もわななきて、え書きたまはず。
 「かのこまかなりし返事は、いとかくしもつつまず通はしたまふらむかし」と思しやるに、いと憎ければ、よろづのあはれも冷めぬべけれど、言葉など教へて書かせたてまつりたまふ。

 参りたまはむことは、この月かくて過ぎぬ。二の宮の御勢ひ殊にて参りたまひけるを、古めかしき御身ざまにて、立ち並び顔ならむも、憚りある心地しけり。
 「霜月はみづからの忌月なり。年の終りはた、いともの騒がし。また、いとどこの御姿も見苦しく、待ち見たまはむをと思ひはべれど、さりとて、さのみ延ぶべきことにやは。むつかしくもの思し乱れず、あきらかにもてなしたまひて、このいたく面痩せたまへる、つくろひたまへ」
 など、いとらうたしと、さすがに見たてまつりたまふ。
 衛門督をば、何ざまのことにも、ゆゑあるべきをりふしには、かならずことさらにまつはしたまひつつ、のたまはせ合はせしを、絶えてさる御消息もなし。人あやしと思ふらむと思せど、「見むにつけても、いとどほれぼれしきかた恥づかしく、見むにはまたわが心もただならずや」と思し返されつつ、やがて月ごろ参りたまはぬをも咎めなし。
 おほかたの人は、なほ例ならず悩みわたりて、院にはた、御遊びなどなき年なれば、とのみ思ひわたるを、大将の君ぞ、「あるやうあることなるべし。好色者は、さだめてわがけしきとりしことには、忍ばぬにやありけむ」と思ひ寄れど、いとかく定かに残りなきさまならむとは、思ひ寄りたまはざりけり。

 十二月になりにけり。十余日と定めて、舞ども習らし、殿のうちゆすりてののしる。二条の院の上は、まだ渡りたまはざりけるを、この試楽によりてぞ、えしづめ果てで渡りたまへる。女御の君も里におはします。このたびの御子は、また男にてなむおはしましける。すぎすぎいとをかしげにておはするを、明け暮れもて遊びたてまつりたまふになむ、過ぐる齢のしるし、うれしく思されける。試楽に、右大臣殿の北の方も渡りたまへり。
 大将の君、丑寅の町にて、まづうちうちに調楽のやうに、明け暮れ遊び習らしたまひければ、かの御方は、御前の物は見たまはず。
 衛門督を、かかることの折も交じらはせざらむは、いと栄なく、さうざうしかるべきうちに、人あやしと傾きぬべきことなれば、参りたまふべきよしありけるを、重くわづらふよし申して参らず。
 さるは、そこはかと苦しげなる病にもあらざなるを、思ふ心のあるにやと、心苦しく思して、取り分きて御消息つかはす。父大臣も、
 「などか返さひ申されける。ひがひがしきやうに、院にも聞こし召さむを、おどろおどろしき病にもあらず、助けて参りたまへ」
 とそそのかしたまふに、かく重ねてのたまへれば、苦しと思ふ思ふ参りぬ。

 まだ上達部なども集ひたまはぬほどなりけり。例の気近き御簾の内に入れたまひて、母屋の御簾下ろしておはします。げに、いといたく痩せ痩せに青みて、例も誇りかにはなやぎたる方は、弟の君たちにはもて消たれて、いと用意あり顔にしづめたるさまぞことなるを、いとどしづめてさぶらひたまふさま、「などかは皇女たちの御かたはらにさし並べたらむに、さらに咎あるまじきを、ただことのさまの、誰も誰もいと思ひやりなきこそ、いと罪許しがたけれ」など、御目とまれど、さりげなく、いとなつかしく、
 「そのこととなくて、対面もいと久しくなりにけり。月ごろは、いろいろの病者を見あつかひ、心の暇なきほどに、院の御賀のため、ここにものしたまふ皇女の、法事仕うまつりたまふべくありしを、次々とどこほることしげくて、かく年もせめつれば、え思ひのごとくしあへで、型のごとくなむ、斎の御鉢参るべきを、御賀などいへば、ことことしきやうなれど、家に生ひ出づる童べの数多くなりにけるを御覧ぜさせむとて、舞など習はしはじめし、そのことをだに果たさむとて。拍子調へむこと、また誰にかはと思ひめぐらしかねてなむ、月ごろ訪ぶらひものしたまはぬ恨みも捨ててける」
 とのたまふ御けしきの、うらなきやうなるものから、いといと恥づかしきに、顔の色違ふらむとおぼえて、御いらへもとみに聞こえず。

 「月ごろ、かたがたに思し悩む御こと、承り嘆きはべりながら、春のころほひより、例も患ひはべる乱り脚病といふもの、所狭く起こり患ひはべりて、はかばかしく踏み立つることもはべらず、月ごろに添へて沈みはべりてなむ、内裏などにも参らず、世の中跡絶えたるやうにて籠もりはべる。
 院の御齢足りたまふ年なり、人よりさだかに数へたてまつり仕うまつるべきよし、致仕の大臣思ひ及び申されしを、『冠を掛け、車を惜しまず捨ててし身にて、進み仕うまつらむに、つくところなし。げに、下臈なりとも、同じごと深きところはべらむ。その心御覧ぜられよ』と、催し申さるることのはべしかば、重き病を相助けてなむ、参りてはべし。
 今は、いよいよいとかすかなるさまに思し澄まして、いかめしき御よそひを待ちうけたてまつりたまはむこと、願はしくも思すまじく見たてまつりはべしを、事どもをば削がせたまひて、静かなる御物語の深き御願ひ叶はせたまはむなむ、まさりてはべるべき」
 と申したまへば、いかめしく聞きし御賀の事を、女二の宮の御方ざまには言ひなさぬも、労ありと思す。
 「ただかくなむ。こと削ぎたるさまに世人は浅く見るべきを、さはいへど、心得てものせらるるに、さればよとなむ、いとど思ひなられはべる。大将は、公方は、やうやう大人ぶめれど、かうやうに情けびたる方は、もとよりしまぬにやあらむ。
 かの院、何事も心及びたまはぬことは、をさをさなきうちにも、楽の方のことは御心とどめて、いとかしこく知り調へたまへるを、さこそ思し捨てたるやうなれ、静かに聞こしめし澄まさむこと、今しもなむ心づかひせらるべき。かの大将ともろともに見入れて、舞の童べの用意、心ばへ、よく加へたまへ。物の師などいふものは、ただわが立てたることこそあれ、いと口惜しきものなり」
 など、いとなつかしくのたまひつくるを、うれしきものから、苦しくつつましくて、言少なにて、この御前をとく立ちなむと思へば、例のやうにこまやかにもあらで、やうやうすべり出でぬ。
 東の御殿にて、大将のつくろひ出だしたまふ楽人、舞人の装束のことなど、またまた行なひ加へたまふ。あるべき限りいみじく尽くしたまへるに、いとど詳しき心しらひ添ふも、げにこの道は、いと深き人にぞものしたまふめる。


 


 今日は、かかる試みの日なれど、御方々物見たまはむに、見所なくはあらせじとて、かの御賀の日は、赤き白橡に、葡萄染の下襲を着るべし、今日は、青色に蘇芳襲、楽人三十人、今日は白襲を着たる、辰巳の方の釣殿に続きたる廊を楽所にて、山の南の側より御前に出づるほど、「仙遊霞」といふもの遊びて、雪のただいささか散るに、春のとなり近く、梅のけしき見るかひありてほほ笑みたり。
 廂の御簾の内におはしませば、式部卿宮、右大臣ばかりさぶらひたまひて、それより下の上達部は簀子に、わざとならぬ日のことにて、御饗応など、気近きほどに仕うまつりなしたり。
 右の大殿の四郎君、大将殿の三郎君、兵部卿宮の孫王の君たち二人は、「万歳楽」。まだいと小さきほどにて、いとろうたげなり。四人ながら、いづれとなく高き家の子にて、容貌をかしげにかしづき出でたる、思ひなしも、やむごとなし。
 また、大将の典侍腹の二郎君、式部卿宮の兵衛督といひし、今は源中納言の御子、「皇じやう」。右の大殿の三郎君、「陵王」。大将殿の太郎、「落蹲」。さては「太平楽」、「喜春楽」などいふ舞どもをなむ、同じ御仲らひの君たち、大人たちなど舞ひける。
 暮れゆけば、御簾上げさせたまひて、物の興まさるに、いとうつくしき御孫の君たちの容貌、姿にて、舞のさまも、世に見えぬ手を尽くして、御師どもも、おのおの手の限りを教へきこえけるに、深きかどかどしさを加へて、珍らかに舞ひたまふを、いづれをもいとらうたしと思す。老いたまへる上達部たちは、皆涙落としたまふ。式部卿宮も、御孫を思して、御鼻の色づくまでしほたれたまふ。


 主人の院、
 「過ぐる齢に添へては、酔ひ泣きこそとどめがたきわざなりけれ。衛門督、心とどめてほほ笑まるる、いと心恥づかしや。さりとも、今しばしならむ。さかさまに行かぬ年月よ。老いはえ逃れぬわざなり」
 とて、うち見やりたまふに、人よりけにまめだち屈じて、まことに心地もいと悩ましければ、いみじきことも目もとまらぬ心地する人をしも、さしわきて、空酔ひをしつつかくのたまふ。戯れのやうなれど、いとど胸つぶれて、盃のめぐり来るも頭いたくおぼゆれば、けしきばかりにて紛らはすを、御覧じ咎めて、持たせながらたびたび強ひたまへば、はしたなくて、もてわづらふさま、なべての人に似ずをかし。
 心地かき乱りて堪へがたければ、まだことも果てぬにまかでたまひぬるままに、いといたく惑ひて、
 「例の、いとおどろおどろしき酔ひにもあらぬを、いかなればかかるならむ。つつましとものを思ひつるに、気ののぼりぬるにや。いとさいふばかり臆すべき心弱さとはおぼえぬを、言ふかひなくもありけるかな」
 とみづから思ひ知らる。
 しばしの酔ひの惑ひにもあらざりけり。やがていといたくわづらひたまふ。大臣、母北の方思し騷ぎて、よそよそにていとおぼつかなしとて、殿に渡したてまつりたまふを、女宮の思したるさま、またいと心苦し。

 ことなくて過ぐす月日は、心のどかにあいな頼みして、いとしもあらぬ御心ざしなれど、今はと別れたてまつるべき門出にやと思ふは、あはれに悲しく、後れて思し嘆かむことのかたじけなきを、いみじと思ふ。母御息所も、いといみじく嘆きたまひて、
 「世のこととして、親をばなほさるものにおきたてまつりて、かかる御仲らひは、とある折もかかる折も、離れたまはぬこそ例のことなれ、かく引き別れて、たひらかにものしたまふまでも過ぐしたまはむが、心尽くしなるべきことを、しばしここにて、かくて試みたまへ」
 と、御かたはらに御几帳ばかりを隔てて見たてまつりたまふ。
 「ことわりや。数ならぬ身にて、及びがたき御仲らひに、なまじひに許されたてまつりて、さぶらふしるしには、長く世にはべりて、かひなき身のほども、すこし人と等しくなるけぢめをもや御覧ぜらるる、とこそ思うたまへつれ、いといみじく、かくさへなりはべれば、深き心ざしをだに御覧じ果てられずやなりはべりなむと思うたまふるになむ、とまりがたき心地にも、え行きやるまじく思ひたまへらるる」
 など、かたみに泣きたまひて、とみにもえ渡りたまはねば、また母北の方、うしろめたく思して、
 「などか、まづ見えむとは思ひたまふまじき。われは、心地もすこし例ならず心細き時は、あまたの中に、まづ取り分きてゆかしくも頼もしくもこそおぼえたまへ。かくいとおぼつかなきこと」
 と恨みきこえたまふも、また、いとことわりなり。
 「人より先なりけるけぢめにや、取り分きて思ひならひたるを、今になほかなしくしたまひて、しばしも見えぬをば苦しきものにしたまへば、心地のかく限りにおぼゆる折しも、見えたてまつらざらむ、罪深く、いぶせかるべし。
 今はと頼みなく聞かせたまはば、いと忍びて渡りたまひて御覧ぜよ。かならずまた対面賜はらむ。あやしくたゆくおろかなる本性にて、ことに触れておろかに思さるることありつらむこそ、悔しくはべれ。かかる命のほどを知らで、行く末長くのみ思ひはべりけること」
 と、泣く泣く渡りたまひぬ。宮はとまりたまひて、言ふ方なく思しこがれたり。


 大殿に待ち受けきこえたまひて、よろづに騷ぎたまふ。さるは、たちまちにおどろおどろしき御心地のさまにもあらず、月ごろ物などをさらに参らざりけるに、いとどはかなき柑子などをだに触れたまはず、ただ、やうやうものに引き入るるやうに見えたまふ。
 さる時の有職の、かくものしたまへば、世の中惜しみあたらしがりて、御訪らひに参りたまはぬ人なし。内裏よりも院よりも、御訪らひしばしば聞こえつつ、いみじく惜しみ思し召したるにも、いとどしき親たちの御心のみ惑ふ。
 六条院にも、「いと口惜しきわざなり」と思しおどろきて、御訪らひにたびたびねむごろに父大臣にも聞こえたまふ。大将は、ましていとよき御仲なれば、気近くものしたまひつつ、いみじく嘆きありきたまふ。
 御賀は、二十五日になりにけり。かかる時のやむごとなき上達部の重く患ひたまふに、親、兄弟、あまたの人びと、さる高き御仲らひの嘆きしをれたまへるころほひにて、ものすさまじきやうなれど、次々に滞りつることだにあるを、さて止むまじきことなれば、いかでかは思し止まらむ。女宮の御心のうちをぞ、いとほしく思ひきこえさせたまふ。
 例の、五十寺の御誦経、また、かのおはします御寺にも、摩訶毘盧遮那の。



  

  

            現代語訳 補足 目次

      三十六、 柏 木   
 


   
 



 衛門督の君、かくのみ悩みわたりたまふこと、なほおこたらで、年も返りぬ。大臣、北の方、思し嘆くさまを見たてまつるに、
 「しひてかけ離れなむ命、かひなく、罪重かるべきことを思ふ、心は心として、また、あながちにこの世に離れがたく、惜しみ留めまほしき身かは。いはけなかりしほどより、思ふ心異にて、何ごとをも、人に今一際まさらむと、公私のことに触れて、なのめならず思ひ上りしかど、その心叶ひがたかりけり」
 と、一つ二つの節ごとに、身を思ひ落としてしこなた、なべての世の中すさまじう思ひなりて、後の世の行なひに本意深く進みにしを、親たちの御恨みを思ひて、野山にもあくがれむ道の重きほだしなるべくおぼえしかば、とざまかうざまに紛らはしつつ過ぐしつるを、つひに、
 「なほ、世に立ちまふべくもおぼえぬもの思ひの、一方ならず身に添ひにたるは、我より他に誰かはつらき、心づからもてそこなひつるにこそあめれ」
 と思ふに、恨むべき人もなし。
 「神、仏をもかこたむ方なきは、これ皆さるべきにこそはあらめ。誰も千年の松ならぬ世は、つひに止まるべきにもあらぬを、かく、人にも、すこしうちしのばれぬべきほどにて、なげのあはれをもかけたまふ人あらむをこそは、一つ思ひに燃えぬるしるしにはせめ。
 せめてながらへば、おのづからあるまじき名をも立ち、我も人も、やすからぬ乱れ出で来るやうもあらむよりは、なめしと、心置いたまふらむあたりにも、さりとも思し許いてむかし。よろづのこと、今はのとぢめには、皆消えぬべきわざなり。また、異ざまの過ちしなければ、年ごろものの折ふしごとには、まつはしならひたまひにし方のあはれも出で来なむ」
 など、つれづれに思ひ続くるも、うち返し、いとあぢきなし。


 「などかく、ほどもなくしなしつる身ならむ」と、かきくらし思ひ乱れて、枕も浮きぬばかり、人やりならず流し添へつつ、いささか隙ありとて、人びと立ち去りたまへるほどに、かしこに御文たてまつれたまふ。
 「今は限りになりにてはべるありさまは、おのづから聞こしめすやうもはべらむを、いかがなりぬるとだに、御耳とどめさせたまはぬも、ことわりなれど、いと憂くもはべるかな」
 など聞こゆるに、いみじうわななけば、思ふことも皆書きさして、
 「今はとて燃えむ煙もむすぼほれ
  絶えぬ思ひのなほや残らむ
 あはれとだにのたまはせよ。心のどめて、人やりならぬ闇に惑はむ道の光にもしはべらむ」
 と聞こえたまふ。
 侍従にも、こりずまに、あはれなることどもを言ひおこせたまへり。
 「みづからも、今一度言ふべきことなむ」
 とのたまへれば、この人も、童より、さるたよりに参り通ひつつ、見たてまつり馴れたる人なれば、おほけなき心こそうたておぼえたまひつれ、今はと聞くは、いと悲しうて、泣く泣く、
 「なほ、この御返り。まことにこれをとぢめにもこそはべれ」
 と聞こゆれば、
 「われも、今日か明日かの心地して、もの心細ければ、おほかたのあはればかりは思ひ知らるれど、いと心憂きことと思ひ懲りにしかば、いみじうなむつつましき」
 とて、さらに書いたまはず。
 御心本性の、強くづしやかなるにはあらねど、恥づかしげなる人の御けしきの、折々にまほならぬが、いと恐ろしうわびしきなるべし。されど、御硯などまかなひて責めきこゆれば、しぶしぶに書いたまふ。取りて、忍びて宵の紛れに、かしこに参りぬ。

 大臣、かしこき行なひ人、葛城山より請じ出でたる、待ち受けたまひて、加持参らせむとしたまふ。御修法、読経なども、いとおどろおどろしう騷ぎたり。人の申すままに、さまざま聖だつ験者などの、をさをさ世にも聞こえず、深き山に籠もりたるなどをも、弟の君たちを遣はしつつ、尋ね召すに、けにくく心づきなき山伏どもなども、いと多く参る。患ひたまふさまの、そこはかとなくものを心細く思ひて、音をのみ、時々泣きたまふ。
 陰陽師なども、多くは女の霊とのみ占ひ申しければ、さることもやと思せど、さらにもののけの現はれ出で来るもなきに、思ほしわづらひて、かかる隈々をも尋ねたまふなりけり。
 この聖も、丈高やかに、まぶしつべたましくて、荒らかにおどろおどろしく陀羅尼読むを、
 「いで、あな憎や。罪の深き身にやあらむ、陀羅尼の声高きは、いと気恐ろしくて、いよいよ死ぬべくこそおぼゆれ」
 とて、やをらすべり出でて、この侍従と語らひたまふ。
 大臣は、さも知りたまはず、うち休みたると、人びとして申させたまへば、さ思して、忍びやかにこの聖と物語したまふ。おとなびたまへれど、なほはなやぎたるところつきて、もの笑ひしたまふ大臣の、かかる者どもと向ひゐて、この患ひそめたまひしありさま、何ともなくうちたゆみつつ、重りたまへること、
 「まことに、このもののけ、現はるべう念じたまへ」
 など、こまやかに語らひたまふも、いとあはれなり。
 「かれ聞きたまへ。何の罪とも思し寄らぬに、占ひよりけむ女の霊こそ、まことにさる御執の身に添ひたるならば、厭はしき身をひきかへ、やむごとなくこそなりぬべけれ。
 さてもおほけなき心ありて、さるまじき過ちを引き出でて、人の御名をも立て、身をも顧みぬたぐひ、昔の世にもなくやはありける、と思ひ直すに、なほけはひわづらはしう、かの御心に、かかる咎を知られたてまつりて、世にながらへむことも、いとまばゆくおぼゆるは、げに異なる御光なるべし。
 深き過ちもなきに、見合はせたてまつりし夕べのほどより、やがてかき乱り、惑ひそめにし魂の、身にも返らずなりにしを、かの院のうちにあくがれありかば、結びとどめたまへよ」
 など、いと弱げに、殻のやうなるさまして、泣きみ笑ひみ語らひたまふ。

 宮もものをのみ恥づかしうつつましと思したるさまを語る。さてうちしめり、面痩せたまへらむ御さまの、面影に見たてまつる心地して、思ひやられたまへば、げにあくがるらむ魂や、行き通ふらむなど、いとどしき心地も乱るれば、
 「今さらに、この御ことよ、かけても聞こえじ。この世はかうはかなくて過ぎぬるを、長き世のほだしにもこそと思ふなむ、いとほしき。心苦しき御ことを、平らかにとだにいかで聞き置いたてまつらむ。見し夢を心一つに思ひ合はせて、また語る人もなきが、いみじういぶせくもあるかな」
 など、取り集め思ひしみたまへるさまの深きを、かつはいとうたて恐ろしう思へど、あはれはた、え忍ばず、この人もいみじう泣く。
 紙燭召して、御返り見たまへば、御手もなほいとはかなげに、をかしきほどに書いたまひて、
 「心苦しう聞きながら、いかでかは。ただ推し量り。『残らむ』とあるは、
  立ち添ひて消えやしなまし憂きことを
  思ひ乱るる煙比べに
 後るべうやは」
 とばかりあるを、あはれにかたじけなしと思ふ。
 「いでや、この煙ばかりこそは、この世の思ひ出でならめ。はかなくもありけるかな」
 と、いとど泣きまさりたまひて、御返り、臥しながら、うち休みつつ書いたまふ。言の葉の続きもなう、あやしき鳥の跡のやうにて、
 「行方なき空の煙となりぬとも
  思ふあたりを立ちは離れじ
 夕はわきて眺めさせたまへ。咎めきこえさせたまはむ人目をも、今は心やすく思しなりて、かひなきあはれをだにも、絶えずかけさせたまへ」
 など書き乱りて、心地の苦しさまさりければ、
 「よし。いたう更けぬさきに、帰り参りたまひて、かく限りのさまになむとも聞こえたまへ。今さらに、人あやしと思ひ合はせむを、わが世の後さへ思ふこそ口惜しけれ。いかなる昔の契りにて、いとかかることしも心にしみけむ」
 と、泣く泣くゐざり入りたまひぬれば、例は無期に迎へ据ゑて、すずろ言をさへ言はせまほしうしたまふを、言少なにても、と思ふがあはれなるに、えも出でやらず。御ありさまを乳母も語りて、いみじく泣き惑ふ。大臣などの思したるけしきぞいみじきや。
 「昨日今日、すこしよろしかりつるを、などかいと弱げには見えたまふ」
 と騷ぎたまふ。
 「何か、なほとまりはべるまじきなめり」
 と聞こえたまひて、みづからも泣いたまふ。

 宮は、この暮れつ方より悩ましうしたまひけるを、その御けしきと、見たてまつり知りたる人びと、騷ぎみちて、大殿にも聞こえたりければ、驚きて渡りたまへり。御心のうちは、
 「あな、口惜しや。思ひまずる方なくて見たてまつらましかば、めづらしくうれしからまし」
 と思せど、人にはけしき漏らさじと思せば、験者など召し、御修法はいつとなく不断にせらるれば、僧どもの中に験ある限り皆参りて、加持参り騒ぐ。
 夜一夜悩み明かさせたまひて、日さし上がるほどに生まれたまひぬ。男君と聞きたまふに、
 「かく忍びたることの、あやにくに、いちじるき顔つきにてさし出でたまへらむこそ苦しかるべけれ。女こそ、何となく紛れ、あまたの人の見るものならねばやすけれ」
 と思すに、また、
 「かく、心苦しき疑ひ混じりたるにては、心やすき方にものしたまふもいとよしかし。さても、あやしや。わが世とともに恐ろしと思ひしことの報いなめり。この世にて、かく思ひかけぬことにむかはりぬれば、後の世の罪も、すこし軽みなむや」
 と思す。
 人はた知らぬことなれば、かく心ことなる御腹にて、末に出でおはしたる御おぼえいみじかりなむと、思ひいとなみ仕うまつる。
 御産屋の儀式、いかめしうおどろおどろし。御方々、さまざまにし出でたまふ御産養、世の常の折敷、衝重、高坏などの心ばへも、ことさらに心々に挑ましさ見えつつなむ。
 五日の夜、中宮の御方より、子持ちの御前の物、女房の中にも、品々に思ひ当てたる際々、公事にいかめしうせさせたまへり。御粥、屯食五十具、所々の饗、院の下部、庁の召次所、何かの隈まで、いかめしくせさせたまへり。宮司、大夫よりはじめて、院の殿上人、皆参れり。
 七夜は、内裏より、それも公ざまなり。致仕の大臣など、心ことに仕うまつりたまふべきに、このころは、何ごとも思されで、おほぞうの御訪らひのみぞありける。
 宮たち、上達部など、あまた参りたまふ。おほかたのけしきも、世になきまでかしづききこえたまへど、大殿の御心のうちに、心苦しと思すことありて、いたうももてはやしきこえたまはず、御遊びなどはなかりけり。

 宮は、さばかりひはづなる御さまにて、いとむくつけう、ならはぬことの恐ろしう思されけるに、御湯などもきこしめさず、身の心憂きことを、かかるにつけても思し入れば、
 「さはれ、このついでにも死なばや」
 と思す。大殿は、いとよう人目を飾り思せど、まだむつかしげにおはするなどを、取り分きても見たてまつりたまはずなどあれば、老いしらへる人などは、
 「いでや、おろそかにもおはしますかな。めづらしうさし出でたまへる御ありさまの、かばかりゆゆしきまでにおはしますを」
 と、うつくしみきこゆれば、片耳に聞きたまひて、
 「さのみこそは、思し隔つることもまさらめ」
 と恨めしう、わが身つらくて、尼にもなりなばや、の御心尽きぬ。
 夜なども、こなたには大殿籠もらず、昼つ方などぞさしのぞきたまふ。
 「世の中のはかなきを見るままに、行く末短う、もの心細くて、行なひがちになりにてはべれば、かかるほどのらうがはしき心地するにより、え参り来ぬを、いかが、御心地はさはやかに思しなりにたりや。心苦しうこそ」
 とて、御几帳の側よりさしのぞきたまへり。御頭もたげたまひて、
 「なほ、え生きたるまじき心地なむしはべるを、かかる人は罪も重かなり。尼になりて、もしそれにや生きとまると試み、また亡くなるとも、罪を失ふこともやとなむ思ひはべる」
 と、常の御けはひよりは、いとおとなびて聞こえたまふを、
 「いとうたて、ゆゆしき御ことなり。などてか、さまでは思す。かかることは、さのみこそ恐ろしかなれど、さてながらへぬわざならばこそあらめ」
 と聞こえたまふ。御心のうちには、
 「まことにさも思し寄りてのたまはば、さやうにて見たてまつらむは、あはれなりなむかし。かつ見つつも、ことに触れて心置かれたまはむが心苦しう、我ながらも、え思ひ直すまじう、憂きことうち混じりぬべきを、おのづからおろかに人の見咎むることもあらむが、いといとほしう、院などの聞こし召さむことも、わがおこたりにのみこそはならめ。御悩みにことづけて、さもやなしたてまつりてまし」
 など思し寄れど、また、いとあたらしう、あはれに、かばかり遠き御髪の生ひ先を、しかやつさむことも心苦しければ、
 「なほ、強く思しなれ。けしうはおはせじ。限りと見ゆる人も、たひらなる例近ければ、さすがに頼みある世になむ」
 など聞こえたまひて、御湯参りたまふ。いといたう青み痩せて、あさましうはかなげにてうち臥したまへる御さま、おほどき、うつくしげなれば、
 「いみじき過ちありとも、心弱く許しつべき御さまかな」
 と見たてまつりたまふ。


 


 山の帝は、めづらしき御こと平かなりと聞こし召して、あはれにゆかしう思ほすに、
 「かく悩みたまふよしのみあれば、いかにものしたまふべきにか」
 と、御行なひも乱れて思しけり。
 さばかり弱りたまへる人の、ものを聞こし召さで、日ごろ経たまへば、いと頼もしげなくなりたまひて、年ごろ見たてまつらざりしほどよりも、院のいと恋しくおぼえたまふを、
 「またも見たてまつらずなりぬるにや」
 と、いたう泣いたまふ。かく聞こえたまふさま、さるべき人して伝へ奏せさせたまひければ、いと堪へがたう悲しと思して、あるまじきこととは思し召しながら、夜に隠れて出でさせたまへり。
 かねてさる御消息もなくて、にはかにかく渡りおはしまいたれば、主人の院、おどろきかしこまりきこえたまふ。
 「世の中を顧みすまじう思ひはべりしかど、なほ惑ひ覚めがたきものは、子の道の闇になむはべりければ、行なひも懈怠して、もし後れ先立つ道の道理のままならで別れなば、やがてこの恨みもやかたみに残らむと、あぢきなさに、この世のそしりをば知らで、かくものしはべる」
 と聞こえたまふ。御容貌、異にても、なまめかしうなつかしきさまに、うち忍びやつれたまひて、うるはしき御法服ならず、墨染の御姿、あらまほしうきよらなるも、うらやましく見たてまつりたまふ。例の、まづ涙落としたまふ。
 「患ひたまふ御さま、ことなる御悩みにもはべらず。ただ月ごろ弱りたまへる御ありさまに、はかばかしう物なども参らぬ積もりにや、かくものしたまふにこそ」
 など聞こえたまふ。


 「かたはらいたき御座なれども」
 とて、御帳の前に、御茵参りて入れたてまつりたまふ。宮をも、とかう人びと繕ひきこえて、床のしもに下ろしたてまつる。御几帳すこし押しやらせたまひて、
 「夜居加持僧などの心地すれど、まだ験つくばかりの行なひにもあらねば、かたはらいたけれど、ただおぼつかなくおぼえたまふらむさまを、さながら見たまふべきなり」
 とて、御目おし拭はせたまふ。宮も、いと弱げに泣いたまひて、
 「生くべうもおぼえはべらぬを、かくおはしまいたるついでに、尼になさせたまひてよ」
 と聞こえたまふ。
 「さる御本意あらば、いと尊きことなるを、さすがに、限らぬ命のほどにて、行く末遠き人は、かへりてことの乱れあり、世の人に誹らるるやうありぬべき」
 などのたまはせて、大殿の君に、
 「かくなむ進みのたまふを、今は限りのさまならば、片時のほどにても、その助けあるべきさまにてとなむ、思ひたまふる」
 とのたまへば、
 「日ごろもかくなむのたまへど、邪気などの、人の心たぶろかして、かかる方にて進むるやうもはべなるをとて、聞きも入れはべらぬなり」
 と聞こえたまふ。
 「もののけの教へにても、それに負けぬとて、悪しかるべきことならばこそ憚らめ、弱りにたる人の、限りとてものしたまはむことを、聞き過ぐさむは、後の悔い心苦しうや」
 とのたまふ。

 御心の内、限りなううしろやすく譲りおきし御ことを、受けとりたまひて、さしも心ざし深からず、わが思ふやうにはあらぬ御けしきを、ことに触れつつ、年ごろ聞こし召し思しつめけること、色に出でて恨みきこえたまふべきにもあらねば、世の人の思ひ言ふらむところも口惜しう思しわたるに、
 「かかる折に、もて離れなむも、何かは、人笑へに、世を恨みたるけしきならで、さもあらざらむ。おほかたの後見には、なほ頼まれぬべき御おきてなるを、ただ預けおきたてまつりししるしには思ひなして、憎げに背くさまにはあらずとも、御処分に広くおもしろき宮賜はりたまへるを、繕ひて住ませたてまつらむ。
 わがおはします世に、さる方にても、うしろめたからず聞きおき、またかの大殿も、さいふとも、いとおろかにはよも思ひ放ちたまはじ、その心ばへをも見果てむ」
 と思ほし取りて、
 「さらば、かくものしたるついでに、忌むこと受けたまはむをだに、結縁にせむかし」
 とのたまはす。
 大殿の君、憂しと思す方も忘れて、こはいかなるべきことぞと、悲しく口惜しければ、え堪へたまはず、内に入りて、
 「などか、いくばくもはべるまじき身をふり捨てて、かうは思しなりにける。なほ、しばし心を静めたまひて、御湯参り、物などをも聞こし召せ。尊きことなりとも、御身弱うては、行なひもしたまひてむや。かつは、つくろひたまひてこそ」
 と聞こえたまへど、頭ふりて、いとつらうのたまふと思したり。つれなくて、恨めしと思すこともありけるにやと見たてまつりたまふに、いとほしうあはれなり。とかく聞こえ返さひ、思しやすらふほどに、夜明け方になりぬ。


 
 帰り入らむに、道も昼ははしたなかるべしと急がせたまひて、御祈りにさぶらふ中に、やむごとなう尊き限り召し入れて、御髪下ろさせたまふ。いと盛りにきよらなる御髪を削ぎ捨てて、忌むこと受けたまふ作法、悲しう口惜しければ、大殿はえ忍びあへたまはず、いみじう泣いたまふ。
 院はた、もとより取り分きてやむごとなう、人よりもすぐれて見たてまつらむと思ししを、この世には甲斐なきやうにないたてまつるも、飽かず悲しければ、うちしほたれたまふ。
 「かくても、平かにて、同じうは念誦をも勤めたまへ」
 と聞こえ置きたまひて、明け果てぬるに、急ぎて出でさせたまひぬ。
 宮は、なほ弱う消え入るやうにしたまひて、はかばかしうもえ見たてまつらず、ものなども聞こえたまはず。大殿も、
 「夢のやうに思ひたまへ乱るる心惑ひに、かう昔おぼえたる御幸のかしこまりをも、え御覧ぜられぬらうがはしさは、ことさらに参りはべりてなむ」
 と聞こえたまふ。御送りに人びと参らせたまふ。
 「世の中の、今日か明日かにおぼえはべりしほどに、また知る人もなくて、漂はむことの、あはれに避りがたうおぼえはべしかば、御本意にはあらざりけめど、かく聞こえつけて、年ごろは心やすく思ひたまへつるを、もしも生きとまりはべらば、さま異に変りて、人しげき住まひはつきなかるべきを、さるべき山里などにかけ離れたらむありさまも、またさすがに心細かるべくや。さまに従ひて、なほ、思し放つまじく」
 など聞こえたまへば、
 「さらにかくまで仰せらるるなむ、かへりて恥づかしう思ひたまへらるる。乱り心地、とかく乱れはべりて、何事もえわきまへはべらず」
 とて、げに、いと堪へがたげに思したり。
 後夜の御加持に、御もののけ出で来て、
 「かうぞあるよ。いとかしこう取り返しつと、一人をば思したりしが、いとねたかりしかば、このわたりに、さりげなくてなむ、日ごろさぶらひつる。今は帰りなむ」
 とて、うち笑ふ。いとあさましう、
 「さは、このもののけのここにも、離れざりけるにやあらむ」
 と思すに、いとほしう悔しう思さる。宮、すこし生き出でたまふやうなれど、なほ頼みがたげに見えたまふ。さぶらふ人びとも、いといふかひなうおぼゆれど、「かうても、平かにだにおはしまさば」と、念じつつ、御修法また延べて、たゆみなく行なはせなど、よろづにせさせたまふ。


 


 かの衛門督は、かかる御事を聞きたまふに、いとど消え入るやうにしたまひて、むげに頼む方少なうなりたまひにたり。女宮のあはれにおぼえたまへば、ここに渡りたまはむことは、今さらに軽々しきやうにもあらむを、上も大臣も、かくつと添ひおはすれば、おのづからとりはづして見たてまつりたまふやうもあらむに、あぢきなしと思して、
 「かの宮に、とかくして今一度参うでむ」
 とのたまふを、さらに許しきこえたまはず。誰にも、この宮の御ことを聞こえつけたまふ。はじめより母御息所は、をさをさ心ゆきたまはざりしを、この大臣の居立ちねむごろに聞こえたまひて、心ざし深かりしに負けたまひて、院にも、いかがはせむと思し許しけるを、二品の宮の御こと思ほし乱れけるついでに、
 「なかなか、この宮は行く先うしろやすく、まめやかなる後見まうけたまへり」
 と、のたまはすと聞きたまひしを、かたじけなう思ひ出づ。
 「かくて、見捨てたてまつりぬるなめりと思ふにつけては、さまざまにいとほしけれど、心よりほかなる命なれば、堪へぬ契り恨めしうて、思し嘆かれむが、心苦しきこと。御心ざしありて訪らひものせさせたまへ」
 と、母上にも聞こえたまふ。
 「いで、あなゆゆし。後れたてまつりては、いくばく世に経べき身とて、かうまで行く先のことをばのたまふ」
 とて、泣きにのみ泣きたまへば、え聞こえやりたまはず。右大弁の君にぞ、大方の事どもは詳しう聞こえたまふ。
 心ばへののどかによくおはしつる君なれば、弟の君たちも、まだ末々の若きは、親とのみ頼みきこえたまへるに、かう心細うのたまふを、悲しと思はぬ人なく、殿のうちの人も嘆く。
 公も、惜しみ口惜しがらせたまふ。かく限りと聞こし召して、にはかに権大納言になさせたまへり。よろこびに思ひ起こして、今一度も参りたまふやうもやあると、思しのたまはせけれど、さらにえためらひやりたまはで、苦しきなかにも、かしこまり申したまふ。大臣も、かく重き御おぼえを見たまふにつけても、いよいよ悲しうあたらしと思し惑ふ。


 大将の君、常にいと深う思ひ嘆き、訪らひきこえたまふ。御喜びにもまづ参うでたまへり。このおはする対のほとり、こなたの御門は、馬、車たち込み、人騒がしう騷ぎ満ちたり。今年となりては、起き上がることもをさをさしたまはねば、重々しき御さまに、乱れながらは、え対面したまはで、思ひつつ弱りぬること、と思ふに口惜しければ、
 「なほ、こなたに入らせたまへ。いとらうがはしきさまにはべる罪は、おのづから思し許されなむ」
 とて、臥したまへる枕上の方に、僧などしばし出だしたまひて、入れたてまつりたまふ。
 早うより、いささか隔てたまふことなう、睦び交はしたまふ御仲なれば、別れむことの悲しう恋しかるべき嘆き、親兄弟の御思ひにも劣らず。今日は喜びとて、心地よげならましをと思ふに、いと口惜しう、かひなし。
 「などかく頼もしげなくはなりたまひにける。今日は、かかる御喜びに、いささかすくよかにもやとこそ思ひはべりつれ」
 とて、几帳のつま引き上げたまへれば、
 「いと口惜しう、その人にもあらずなりにてはべりや」
 とて、烏帽子ばかりおし入れて、すこし起き上がらむとしたまへど、いと苦しげなり。白き衣どもの、なつかしうなよよかなるをあまた重ねて、衾ひきかけて臥したまへり。御座のあたりものきよげに、けはひ香うばしう、心にくくぞ住みなしたまへる。
 うちとけながら、用意ありと見ゆ。重く患ひたる人は、おのづから髪髭も乱れ、ものむつかしきけはひも添ふわざなるを、痩せさらぼひたるしも、いよいよ白うあてなるさまして、枕をそばたてて、ものなど聞こえたまふけはひ、いと弱げに、息も絶えつつ、あはれげなり。

 「久しう患ひたまへるほどよりは、ことにいたうもそこなはれたまはざりけり。常の御容貌よりも、なかなかまさりてなむ見えたまふ」
 とのたまふものから、涙おし拭ひて、
 「後れ先立つ隔てなくとこそ契りきこえしか。いみじうもあるかな。この御心地のさまを、何事にて重りたまふとだに、え聞き分きはべらず。かく親しきほどながら、おぼつかなくのみ」
 などのたまふに、
 「心には、重くなるけぢめもおぼえはべらず。そこどころと苦しきこともなければ、たちまちにかうも思ひたまへざりしほどに、月日も経で弱りはべりにければ、今はうつし心も失せたるやうになむ。
 惜しげなき身を、さまざまにひき留めらるる祈り、願などの力にや、さすがにかかづらふも、なかなか苦しうはべれば、心もてなむ、急ぎ立つ心地しはべる。
 さるは、この世の別れ、避りがたきことは、いと多うなむ。親にも仕うまつりさして、今さらに御心どもを悩まし、君に仕うまつることも半ばのほどにて、身を顧みる方、はた、ましてはかばかしからぬ恨みを留めつる大方の嘆きをば、さるものにて。
 また心の内に思ひたまへ乱るることのはべるを、かかる今はのきざみにて、何かは漏らすべきと思ひはべれど、なほ忍びがたきことを、誰にかは愁へはべらむ。これかれあまたものすれど、さまざまなることにて、さらにかすめはべらむも、あいなしかし。
 六条の院にいささかなる事の違ひ目ありて、月ごろ、心の内にかしこまり申すことなむはべりしを、いと本意なう、世の中心細う思ひなりて、病づきぬとおぼえはべしに、召しありて、院の御賀の楽所の試みの日参りて、御けしきを賜はりしに、なほ許されぬ御心ばへあるさまに、御目尻を見たてまつりはべりて、いとど世にながらへむことも憚り多うおぼえなりはべりて、あぢきなう思ひたまへしに、心の騷ぎそめて、かく静まらずなりぬるになむ。
 人数には思し入れざりけめど、いはけなうはべし時より、深く頼み申す心のはべりしを、いかなる讒言などのありけるにかと、これなむ、この世の愁へにて残りはべるべければ、論なうかの後の世の妨げにもやと思ひたまふるを、ことのついではべらば、御耳留めて、よろしう明らめ申させたまへ。
 亡からむ後ろにも、この勘事許されたらむなむ、御徳にはべるべき」
 などのたまふままに、いと苦しげにのみ見えまされば、じみじうて、心の内に思ひ合はすることどもあれど、さして確かには、えしも推し量らず。
 「いかなる御心の鬼にかは。さらに、さやうなる御けしきもなく、かく重りたまへる由をも聞きおどろき嘆きたまふこと、限りなうこそ口惜しがり申したまふめりしか。など、かく思すことあるにては、今まで残いたまひつらむ。こなたかなた明らめ申すべかりけるものを。今はいふかひなしや」
 とて、取り返さまほしう悲しく思さる。
 「げに、いささかも隙ありつる折、聞こえうけたまはるべうこそはべりけれ。されど、いとかう今日明日としもやはと、みづからながら知らぬ命のほどを、思ひのどめはべりけるもはかなくなむ。このことは、さらに御心より漏らしたまふまじ。さるべきついではべらむ折には、御用意加へたまへとて、聞こえおくになむ。
 一条にものしたまふ宮、ことに触れて訪らひきこえたまへ。心苦しきさまにて、院などにも聞こし召されたまはむを、つくろひたまへ」
 などのたまふ。言はまほしきことは多かるべけれど、心地せむかたなくなりにければ、
 「出でさせたまひね」
 と、手かききこえたまふ。加持参る僧ども近う参り、上、大臣などおはし集りて、人びとも立ち騒げば、泣く泣く出でたまひぬ。

 女御をばさらにも聞こえず、この大将の御方などもいみじう嘆きたまふ。心おきての、あまねく人のこのかみ心にものしたまひければ、右の大殿の北の方も、この君をのみぞ、睦ましきものに思ひきこえたまひければ、よろづに思ひ嘆きたまひて、御祈りなど取り分きてせさせたまひけれど、やむ薬ならねば、かひなきわざになむありける。女宮にも、つひにえ対面しきこえたまはで、泡の消え入るやうにて亡せたまひぬ。
 年ごろ、下の心こそねむごろに深くもなかりしか、大方には、いとあらまほしくもてなしかしづききこえて、気なつかしう、心ばへをかしう、うちとけぬさまにて過ぐいたまひければ、つらき節もことになし。ただ、
 「かく短かりける御身にて、あやしくなべての世すさまじう思ひたまへけるなりけり」
 と思ひ出でたまふに、いみじうて、思し入りたるさま、いと心苦し。
 御息所も、「いみじう人笑へに口惜し」と、見たてまつり嘆きたまふこと、限りなし。
 大臣、北の方などは、ましていはむかたなく、
 「我こそ先立ため。世のことわりなうつらいこと」
 と焦がれたまへど、何のかひなし。
 尼宮は、おほけなき心もうたてのみ思されて、世に長かれとしも思さざりしを、かくなむと聞きたまふは、さすがにいとあはれなりかし。
 「若君の御ことを、さぞと思ひたりしも、げに、かかるべき契りにてや、思ひのほかに心憂きこともありけむ」と思し寄るに、さまざまもの心細うて、うち泣かれたまひぬ。


 


 弥生になれば、空のけしきもものうららかにて、この君、五十日のほどになりたまひて、いと白ううつくしう、ほどよりはおよすけて、物語などしたまふ。大殿渡りたまひて、
 「御心地は、さはやかになりたまひにたりや。いでや、いとかひなくもはべるかな。例の御ありさまにて、かく見なしたてまつらましかば、いかにうれしうはべらまし。心憂く、思し捨てけること」
 と、涙ぐみて怨みきこえたまふ。日々に渡りたまひて、今しも、やむごとなく限りなきさまにもてなしきこえたまふ。
 御五十日に餅参らせたまはむとて、容貌異なる御さまを、人びと、「いかに」など聞こえやすらへど、院渡らせたまひて、
 「何か。女にものしたまはばこそ、同じ筋にて、いまいましくもあらめ」
 とて、南面に小さき御座などよそひて、参らせたまふ。御乳母、いとはなやかに装束きて、御前のもの、いろいろを尽くしたる籠物、桧破籠の心ばへどもを、内にも外にも、もとの心を知らぬことなれば、取り散らし、何心もなきを、「いと心苦しうまばゆきわざなりや」と思す。


 宮も起きゐたまひて、御髪の末の所狭う広ごりたるを、いと苦しと思して、額など撫でつけておはするに、几帳を引きやりてゐたまへば、いと恥づかしうて背きたまへるを、いとど小さう細りたまひて、御髪は惜しみきこえて、長う削ぎたりければ、後ろは異にけぢめも見えたまはぬほどなり。
 すぎすぎ見ゆる鈍色ども、黄がちなる今様色など着たまひて、まだありつかぬ御かたはらめ、かくてしもうつくしき子どもの心地して、なまめかしうをかしげなり。
 「いで、あな心憂。墨染こそ、なほ、いとうたて目もくるる色なりけれ。かやうにても、見たてまつることは、絶ゆまじきぞかしと、思ひ慰めはべれど、古りがたうわりなき心地する涙の人悪ろさを、いとかう思ひ捨てられたてまつる身の咎に思ひなすも、さまざまに胸いたう口惜しくなむ。取り返すものにもがなや」
 と、うち嘆きたまひて、
 「今はとて思し離れば、まことに御心と厭ひ捨てたまひけると、恥づかしう心憂くなむおぼゆべき。なほ、あはれと思せ」
 と聞こえたまへば、
 「かかるさまの人は、もののあはれも知らぬものと聞きしを、ましてもとより知らぬことにて、いかがは聞こゆべからむ」
 とのたまへば、
 「かひなのことや。思し知る方もあらむものを」
 とばかりのたまひさして、若君を見たてまつりたまふ。

 御乳母たちは、やむごとなく、めやすき限りあまたさぶらふ。召し出でて、仕うまつるべき心おきてなどのたまふ。
 「あはれ、残り少なき世に、生ひ出づべき人にこそ」
 とて、抱き取りたまへば、いと心やすくうち笑みて、つぶつぶと肥えて白ううつくし。大将などの稚児生ひ、ほのかに思し出づるには似たまはず。女御の御宮たち、はた、父帝の御方ざまに、王気づきて気高うこそおはしませ、ことにすぐれてめでたうしもおはせず。
 この君、いとあてなるに添へて、愛敬づき、まみの薫りて、笑がちなるなどを、いとあはれと見たまふ。思ひなしにや、なほ、いとようおぼえたりかし。ただ今ながら、眼居ののどかに恥づかしきさまも、やう離れて、薫りをかしき顔ざまなり。
 宮はさしも思し分かず。人はた、さらに知らぬることなれば、ただ一所の御心の内にのみぞ、
 「あはれ、はかなかりける人の契りかな」
 と見たまふに、大方の世の定めなさも思し続けられて、涙のほろほろとこぼれぬるを、今日は言忌みすべき日をと、おし拭ひ隠したまふ。
 「静かに思ひて嗟くに堪へたり」
 と、うち誦うじたまふ。五十八を十取り捨てたる御齢なれど、末になりたる心地したまひて、いとものあはれに思さる。「汝が爺に」とも、諌めまほしう思しけむかし。

 「このことの心知れる人、女房の中にもあらむかし。知らぬこそ、ねたけれ。烏滸なりと見るらむ」、と安からず思せど、「わが御咎あることはあへなむ。二つ言はむには、女の御ためこそ、いとほしけれ」
 など思して、色にも出だしたまはず。いと何心なう物語して笑ひたまへるまみ、口つきのうつくしきも、「心知らざらむ人はいかがあらむ。なほ、いとよく似通ひたりけり」、と見たまふに、「親たちの、子だにあれかしと、泣いたまふらむにも、え見せず、人知れずはかなき形見ばかりをとどめ置きて、さばかり思ひ上がり、およすけたりし身を、心もて失ひつるよ」
 と、あはれに惜しければ、めざましと思ふ心もひき返し、うち泣かれたまひぬ。
 人びとすべり隠れたるほどに、宮の御もとに寄りたまひて、
 「この人をば、いかが見たまふや。かかる人を捨てて、背き果てたまひぬべき世にやありける。あな、心憂」
 と、おどろかしきこえたまへば、顔うち赤めておはす。
 「誰が世にか種は蒔きしと人問はば
  いかが岩根の松は答へむ
 あはれなり」
 など、忍びて聞こえたまふに、御いらへもなうて、ひれふしたまへり。ことわりと思せば、しひても聞こえたまはず。
 「いかに思すらむ。もの深うなどはおはせねど、いかでかはただには」
 と、推し量りきこえたまふも、いと心苦しうなむ。

 大将の君は、かの心に余りて、ほのめかし出でたりしを、
 「いかなることにかありけむ。すこしものおぼえたるさまならましかば、さばかりうち出でそめたりしに、いとようけしきは見てましを。いふかひなきとぢめにて、折悪しういぶせくて、あはれにもありしかな」
 と、面影忘れがたうて、兄弟の君たちよりも、しひて悲しとおぼえたまひけり。
 「女宮のかく世を背きたまへるありさま、おどろおどろしき御悩みにもあらで、すがやかに思し立ちけるほどよ。また、さりとも、許しきこえたまふべきことかは。
 二条の上の、さばかり限りにて、泣く泣く申したまふと聞きしをば、いみじきことに思して、つひにかくかけとどめたてまつりたまへるものを」
 など、取り集めて思ひくだくに、
 「なほ、昔より絶えず見ゆる心ばへ、え忍ばぬ折々ありきかし。いとようもて静めたるうはべは、人よりけに用意あり、のどかに、何ごとをこの人の心のうちに思ふらむと、見る人も苦しきまでありしかど、すこし弱きところつきて、なよび過ぎたりしけぞかし。
 いみじうとも、さるまじきことに心を乱りて、かくしも身に代ふべきことにやはありける。人のためにもいとほしう、わが身はいたづらにやなすべき。さるべき昔の契りといひながら、いと軽々しう、あぢきなきことなりかし」
 など、心一つに思へど、女君にだに聞こえ出でたまはず。さるべきついでなくて、院にもまだえ申したまはざりけり。さるは、かかることをなむかすめし、と申し出でて、御けしきも見まほしかりけり。
 父大臣、母北の方は、涙のいとまなく思し沈みて、はかなく過ぐる日数をも知りたまはず、御わざの法服、御装束、何くれのいそぎをも、君たち、御方々、とりどりになむ、せさせたまひける。
 経仏のおきてなども、右大弁の君せさせたまふ。七日七日の御誦経などを、人の聞こえおどろかすにも、
 「我にな聞かせそ。かくいみじと思ひ惑ふに、なかなか道妨げにもこそ」
 とて、亡きやうに思し惚れたり。


 


 一条の宮には、まして、おぼつかなうて別れたまひにし恨みさへ添ひて、日ごろ経るままに、広き宮の内、人気少なう心細げにて、親しく使ひ慣らしたまひし人は、なほ参り訪らひきこゆ。
 好みたまひし鷹、馬など、その方の預りどもも、皆つくところなう思ひ倦じて、かすかに出で入るを見たまふも、ことに触れてあはれは尽きぬものになむありける。もて使ひたまひし御調度ども、常に弾きたまひし琵琶、和琴などの緒も取り放ちやつされて、音を立てぬも、いと埋れいたきわざなりや。
 御前の木立いたう煙りて、花は時を忘れぬけしきなるを眺めつつ、もの悲しく、さぶらふ人びとも、鈍色にやつれつつ、寂しうつれづれなる昼つ方、前駆はなやかに追ふ音して、ここに止まりぬる人あり。
 「あはれ、故殿の御けはひとこそ、うち忘れては思ひつれ」
 とて、泣くもあり。大将殿のおはしたるなりけり。御消息聞こえ入れたまへり。例の弁の君、宰相などのおはしたると思しつるを、いと恥づかしげにきよらなるもてなしにて入りたまへり。
 母屋の廂に御座よそひて入れたてまつる。おしなべたるやうに、人びとのあへしらひきこえむは、かたじけなきさまのしたまへれば、御息所ぞ対面したまへる。
 「いみじきことを思ひたまへ嘆く心は、さるべき人びとにも越えてはべれど、限りあれば、聞こえさせやる方なうて、世の常になりはべりにけり。今はのほどにも、のたまひ置くことはべりしかば、おろかならずなむ。
 誰ものどめがたき世なれど、後れ先立つほどのけぢめには、思ひたまへ及ばむに従ひて、深き心のほどをも御覧ぜられにしがなとなむ。神事などのしげきころほひ、私の心ざしにまかせて、つくづくと籠もりゐはべらむも、例ならぬことなりければ、立ちながらはた、なかなかに飽かず思ひたまへらるべうてなむ、日ごろを過ぐしはべりにける。
 大臣などの心を乱りたまふさま、見聞きはべるにつけても、親子の道の闇をばさるものにて、かかる御仲らひの、深く思ひとどめたまひけむほどを、推し量りきこえさするに、いと尽きせずなむ」
 とて、しばしばおし拭ひ、鼻うちかみたまふ。あざやかに気高きものから、なつかしうなまめいたり。


 御息所も鼻声になりたまひて、
 「あはれなることは、その常なき世のさがにこそは。いみじとても、またたぐひなきことにやはと、年積もりぬる人は、しひて心強うさましはべるを、さらに思し入りたるさまの、いとゆゆしきまで、しばしも立ち後れたまふまじきやうに見えはべれば、すべていと心憂かりける身の、今までながらへはべりて、かくかたがたにはかなき世の末のありさまを見たまへ過ぐすべきにやと、いと静心なくなむ。
 おのづから近き御仲らひにて、聞き及ばせたまふやうもはべりけむ。初めつ方より、をさをさうけひききこえざりし御ことを、大臣の御心むけも心苦しう、院にもよろしきやうに思し許いたる御けしきなどのはべしかば、さらばみづからの心おきての及ばぬなりけりと、思ひたまへなしてなむ、見たてまつりつるを、かく夢のやうなることを見たまふるに、思ひたまへ合はすれば、みづからの心のほどなむ、同じうは強うもあらがひきこえましを、と思ひはべるに、なほいと悔しう。それは、かやうにしも思ひ寄りはべらざりきかし。
 皇女たちは、おぼろけのことならで、悪しくも善くも、かやうに世づきたまふことは、え心にくからぬことなりと、古めき心には思ひはべしを、いづかたにもよらず、中空に憂き御宿世なりければ、何かは、かかるついでに煙にも紛れたまひなむは、この御身のための人聞きなどは、ことに口惜しかるまじけれど、さりとても、しかすくよかに、え思ひ静むまじう、悲しう見たてまつりはべるに、いとうれしう、浅からぬ御訪らひのたびたびになりはべめるを、有り難うもと聞こえはべるも、さらば、かの御契りありけるにこそはと、思ふやうにしも見えざりし御心ばへなれど、今はとて、これかれにつけおきたまひける御遺言の、あはれなるになむ、憂きにもうれしき瀬はまじりはべりける」
 とて、いといたう泣いたまふけはひなり。

 大将も、とみにえためらひたまはず。
 「あやしう、いとこよなくおよすけたまへりし人の、かかるべうてや、この二、三年のこなたなむ、いたうしめりて、もの心細げに見えたまひしかば、あまり世のことわりを思ひ知り、もの深うなりぬる人の、澄み過ぎて、かかる例、心うつくしからず、かへりては、あざやかなる方のおぼえ薄らぐものなりとなむ、常にはかばかしからぬ心に諌めきこえしかば、心浅しと思ひたまへりし。よろづよりも、人にまさりて、げに、かの思し嘆くらむ御心の内の、かたじけなけれど、いと心苦しうもはべるかな」
 など、なつかしうこまやかに聞こえたまひて、ややほど経てぞ出でたまふ。
 かの君は、五、六年のほどのこのかみなりしかど、なほ、いと若やかに、なまめき、あいだれてものしたまひし。これは、いとすくよかに重々しく、男々しきけはひして、顔のみぞいと若うきよらなること、人にすぐれたまへる。若き人びとは、もの悲しさもすこし紛れて見出だしたてまつる。
 御前近き桜のいとおもしろきを、「今年ばかりは」と、うちおぼゆるも、いまいましき筋なりければ、
 「あひ見むことは」
 と口ずさびて、
 「時しあれば変はらぬ色に匂ひけり
  片枝枯れにし宿の桜も」
 わざとならず誦じなして立ちたまふに、いととう、
 「この春は柳の芽にぞ玉はぬく
  咲き散る花の行方知らねば」
 と聞こえたまふ。いと深きよしにはあらねど、今めかしう、かどありとは言はれたまひし更衣なりけり。「げに、めやすきほどの用意なめり」と見たまふ。

 致仕の大殿に、やがて参りたまへれば、君たちあまたものしたまひけり。
 「こなたに入らせたまへ」
 とあれば、大臣の御出居の方に入りたまへり。ためらひて対面したまへり。古りがたうきよげなる御容貌、いたう痩せ衰へて、御髭などもとりつくろひたまはねば、しげりて、親の孝よりも、けにやつれたまへり。見たてまつりたまふより、いと忍びがたければ、「あまりにをさまらず乱れ落つる涙こそ、はしたなけれ」と思へば、せめてぞもて隠したまふ。
 大臣も、「取り分きて御仲よくものしたまひしを」と見たまふに、ただ降りに降り落ちて、えとどめたまはず、尽きせぬ御事どもを聞こえ交はしたまふ。
 一条の宮に参でたりつるありさまなど聞こえたまふ。いとどしう、春雨かと見ゆるまで、軒の雫に異ならず、濡らし添へたまふ。畳紙に、かの「柳の芽にぞ」とありつるを、書いたまへるをたてまつりたまへば、「目も見えずや」と、おし絞りつつ見たまふ。
 うちひそみつつぞ見たまふ御さま、例は心強うあざやかに、誇りかなる御けしき名残なく、人悪ろし。さるは、異なることなかめれど、この「玉はぬく」とある節の、げにと思さるるに、心乱れて、久しうえためらひたまはず。
 「君の御母君の隠れたまへりし秋なむ、世に悲しきことの際にはおぼえはべりしを、女は限りありて、見る人少なう、とあることもかかることもあらはならねば、悲しびも隠ろへてなむありける。
 はかばかしからねど、朝廷も捨てたまはず、やうやう人となり、官位につけて、あひ頼む人びと、おのづから次々に多うなりなどして、おどろき口惜しがるも、類に触れてあるべし。
 かう深き思ひは、その大方の世のおぼえも、官位も思ほえず。ただことなることなかりしみづからのありさまのみこそ、堪へがたく恋しかりけれ。何ばかりのことにてか、思ひさますべからむ」
 と、空を仰ぎて眺めたまふ。
 夕暮の雲のけしき、鈍色に霞みて、花の散りたる梢どもをも、今日ぞ目とどめたまふ。この御畳紙に、
 「木の下の雫に濡れてさかさまに
  霞の衣着たる春かな」
 大将の君、
 「亡き人も思はざりけむうち捨てて
  夕べの霞君着たれとは」
 弁の君、
 「恨めしや霞の衣誰れ着よと
  春よりさきに花の散りけむ」
 御わざなど、世の常ならず、いかめしうなむありける。大将殿の北の方をばさるものにて、殿は心ことに、誦経なども、あはれに深き心ばへを加へたまふ。

 かの一条の宮にも、常に訪らひきこえたまふ。卯月ばかりの卯の花は、そこはかとなう心地よげに、一つ色なる四方の梢もをかしう見えわたるを、もの思ふ宿は、よろづのことにつけて静かに心細う、暮らしかねたまふに、例の渡りたまへり。
 庭もやうやう青み出づる若草見えわたり、ここかしこの砂子薄きものの隠れの方に、蓬も所得顔なり。前栽に心入れてつくろひたまひしも、心にまかせて茂りあひ、一村薄も頼もしげに広ごりて、虫の音添へむ秋思ひやらるるより、いとものあはれに露けくて、分け入りたまふ。
 伊予簾かけ渡して、鈍色の几帳の衣更へしたる透影、涼しげに見えて、よき童女の、こまやかに鈍ばめる汗衫のつま、頭つきなどほの見えたる、をかしけれど、なほ目おどろかるる色なりかし。
 今日は簀子にゐたまへば、茵さし出でたり。「いと軽らかなる御座なり」とて、例の、御息所おどろかしきこゆれど、このごろ、悩ましとて寄り臥したまへり。とかく聞こえ紛らはすほど、御前の木立ども、思ふことなげなるけしきを見たまふも、いとものあはれなり。
 柏木と楓との、ものよりけに若やかなる色して、枝さし交はしたるを、
 「いかなる契りにか、末逢へる頼もしさよ」
 などのたまひて、忍びやかにさし寄りて、
 「ことならば馴らしの枝にならさなむ
  葉守の神の許しありきと
 御簾の外の隔てあるほどこそ、恨めしけれ」
 とて、長押に寄りゐたまへり。
 「なよび姿はた、いといたうたをやぎけるをや」
 と、これかれつきしろふ。この御あへしらひきこゆる少将の君といふ人して、
 「柏木に葉守の神はまさずとも
  人ならすべき宿の梢か
 うちつけなる御言の葉になむ、浅う思ひたまへなりぬる」
 と聞こゆれば、げにと思すに、すこしほほ笑みたまひぬ。

 御息所ゐざり出でたまふけはひすれば、やをらゐ直りたまひぬ。
 「憂き世の中を、思ひたまへ沈む月日の積もるけぢめにや、乱り心地も、あやしうほれぼれしうて過ぐしはべるを、かくたびたび重ねさせたまふ御訪らひの、いとかたじけなきに、思ひたまへ起こしてなむ」
 とて、げに悩ましげなる御けはひなり。
 「思ほし嘆くは、世のことわりなれど、またいとさのみはいかが。よろづのこと、さるべきにこそはべめれ。さすがに限りある世になむ」
 と、慰めきこえたまふ。
 「この宮こそ、聞きしよりは心の奥見えたまへ、あはれ、げに、いかに人笑はれなることを取り添へて思すらむ」
 と思ふもただならねば、いたう心とどめて、御ありさまも問ひきこえたまひけり。
 「容貌ぞいとまほにはえものしたまふまじけれど、いと見苦しうかたはらいたきほどにだにあらずは、などて、見る目により人をも思ひ飽き、また、さるまじきに心をも惑はすべきぞ。さま悪しや。ただ、心ばせのみこそ、言ひもてゆかむには、やむごとなかるべけれ」と思ほす。
 「今はなほ昔に思ほしなずらへて、疎からずもてなさせたまへ」
 など、わざと懸想びてはあらねど、ねむごろにけしきばみて聞こえたまふ。直衣姿いとあざやかにて、丈だちものものしう、そぞろかにぞ見えたまひける。
 「かの大殿は、よろづのことなつかしうなまめき、あてに愛敬づきたまへることの並びなきなり」
 「これは、男々しうはなやかに、あなきよらと、ふと見えたまふにほひぞ、人に似ぬや」
 と、うちささめきて、
 「同じうは、かやうにても出で入りたまはましかば」
 など、人びと言ふめり。
 「右将軍が墓に草初めて青し」
 と、うち口ずさびて、それもいと近き世のことなれば、さまざまに近う遠う、心乱るやうなりし世の中に、高きも下れるも、惜しみあたらしがらぬはなきも、むべむべしき方をばさるものにて、あやしう情けを立てたる人にぞものしたまひければ、さしもあるまじき公人、女房などの年古めきたるどもさへ、恋ひ悲しびきこゆる。まして、上には、御遊びなどの折ごとにも、まづ思し出でてなむ、しのばせたまひける。
 「あはれ、衛門督」
 といふ言種、何ごとにつけても言はぬ人なし。六条の院には、ましてあはれと思し出づること、月日に添へて多かり。
 この若君を、御心一つには形見と見なしたまへど、人の思ひ寄らぬことなれば、いとかひなし。秋つ方になれば、この君は、ゐざりなど。



  

  

            現代語訳 補足 目次

      三十七、 横 笛   
 


   
 



 故権大納言のはかなく亡せたまひにし悲しさを、飽かず口惜しきものに、恋ひしのびたまふ人多かり。六条の院にも、おほかたにつけてだに、世にめやすき人の亡くなるをば、惜しみたまふ御心に、まして、これは、朝夕に親しく参り馴れつつ、人よりも御心とどめ思したりしかば、いかにぞやと、思し出づることはありながら、あはれは多く、折々につけてしのびたまふ。
 御果てにも、誦経など、取り分きせさせたまふ。よろづも知らず顔にいはけなき御ありさまを見たまふにも、さすがにいみじくあはれなれば、御心のうちに、また心ざしたまうて、黄金百両をなむ別にせさせたまひける。大臣は、心も知らでぞかしこまり喜びきこえさせたまふ。
 大将の君も、ことども多くしたまひ、とりもちてねむごろに営みたまふ。かの一条の宮をも、このほどの御心ざし深く訪らひきこえたまふ。兄弟の君たちよりもまさりたる御心のほどを、いとかくは思ひきこえざりきと、大臣、上も、喜びきこえたまふ。亡き後にも、世のおぼえ重くものしたまひけるほどの見ゆるに、いみじうあたらしうのみ、思し焦がるること、尽きせず。


 山の帝は、二の宮も、かく人笑はれなるやうにて眺めたまふなり、入道の宮も、この世の人めかしきかたは、かけ離れたまひぬれば、さまざまに飽かず思さるれど、すべてこの世を思し悩まじ、と忍びたまふ。御行なひのほどにも、「同じ道をこそは勤めたまふらめ」など思しやりて、かかるさまになりたまて後は、はかなきことにつけても、絶えず聞こえたまふ。
 御寺のかたはら近き林に抜き出でたる筍、そのわたりの山に掘れる野老などの、山里につけてはあはれなれば、たてまつれたまふとて、御文こまやかなる端に、
 「春の野山、霞もたどたどしけれど、心ざし深く堀り出でさせてはべるしるしばかりになむ。
  世を別れ入りなむ道はおくるとも
  同じところを君も尋ねよ
 いと難きわざになむある」
 と聞こえたまへるを、涙ぐみて見たまふほどに、大殿の君渡りたまへり。例ならず、御前近き櫑子どもを、「なぞ、あやし」と御覧ずるに、院の御文なりけり。見たまへば、いとあはれなり。
 「今日か、明日かの心地するを、対面の心にかなはぬこと」
 など、こまやかに書かせたまへり。この「同じところ」の御ともなひを、ことにをかしき節もなき。聖言葉なれど、「げに、さぞ思すらむかし。我さへおろかなるさまに見えたてまつりて、いとどうしろめたき御思ひの添ふべかめるを、いといとほし」と思す。
 御返りつつましげに書きたまひて、御使には、青鈍の綾一襲賜ふ。書き変へたまへりける紙の、御几帳の側よりほの見ゆるを、取りて見たまへば、御手はいとはかなげにて、
 「憂き世にはあらぬところのゆかしくて
  背く山路に思ひこそ入れ」
 「うしろめたげなる御けしきなるに、このあらぬ所求めたまへる、いとうたて、心憂し」
 と聞こえたまふ。
 今は、まほにも見えたてまつりたまはず、いとうつくしうらうたげなる御額髪、面つきのをかしさ、ただ稚児のやうに見えたまひて、いみじうらうたきを見たてまつりたまふにつけては、「など、かうはなりにしことぞ」と、罪得ぬべく思さるれば、御几帳ばかり隔てて、またいとこよなう気遠く、疎々しうはあらぬほどに、もてなしきこえてぞおはしける。

 若君は、乳母のもとに寝たまへりける、起きて這ひ出でたまひて、御袖を引きまつはれたてまつりたまふさま、いとうつくし。
 白き羅に、唐の小紋の紅梅の御衣の裾、いと長くしどけなげに引きやられて、御身はいとあらはにて、うしろの限りに着なしたまへるさまは、例のことなれど、いとらうたげに白くそびやかに、柳を削りて作りたらむやうなり。
 頭は露草してことさらに色どりたらむ心地して、口つきうつくしうにほひ、まみのびらかに、恥づかしう薫りたるなどは、なほいとよく思ひ出でらるれど、
 「かれは、いとかやうに際離れたるきよらはなかりしものを、いかでかからむ。宮にも似たてまつらず、今より気高くものものしう、さま異に見えたまへるけしきなどは、わが御鏡の影にも似げなからず」見なされたまふ。
 わづかに歩みなどしたまふほどなり。この筍の櫑子に、何とも知らず立ち寄りて、いとあわたたしう取り散らして、食ひかなぐりなどしたまへば、
 「あな、らうがはしや。いと不便なり。かれ取り隠せ。食ひ物に目とどめたまふと、もの言ひさがなき女房もこそ言ひなせ」
 とて、笑ひたまふ。かき抱きたまひて、
 「この君のまみのいとけしきあるかな。小さきほどの稚児を、あまた見ねばにやあらむ、かばかりのほどは、ただいはけなきものとのみ見しを、今よりいとけはひ異なるこそ、わづらはしけれ。女宮ものしたまふめるあたりに、かかる人生ひ出でて、心苦しきこと、誰がためにもありなむかし。
 あはれ、そのおのおのの生ひゆく末までは、見果てむとすらむやは。花の盛りは、ありなめど」
 と、うちまもりきこえたまふ。
 「うたて、ゆゆしき御ことにも」
 と、人びとは聞こゆ。
 御歯の生ひ出づるに食ひ当てむとて、筍をつと握り待ちて、雫もよよと食ひ濡らしたまへば、
 「いとねぢけたる色好みかな」とて、
 「憂き節も忘れずながら呉竹の
  こは捨て難きものにぞありける」
 と、率て放ちて、のたまひかくれど、うち笑ひて、何とも思ひたらず、いとそそかしう、這ひ下り騷ぎたまふ。
 月日に添へて、この君のうつくしうゆゆしきまで生ひまさりたまふに、まことに、この憂き節、皆思し忘れぬべし。
 「この人の出でものしたまふべき契りにて、さる思ひの外の事もあるにこそはありけめ。逃れ難かなるわざぞかし」
 と、すこしは思し直さる。みづからの御宿世も、なほ飽かぬこと多かり。
 「あまた集へたまへる中にも、この宮こそは、かたほなる思ひまじらず、人の御ありさまも、思ふに飽かぬところなくてものしたまふべきを、かく思はざりしさまにて見たてまつること」
 と思すにつけてなむ、過ぎにし罪許し難く、なほ口惜しかりける。


 


 大将の君は、かの今はのとぢめにとどめし一言を、心ひとつに思ひ出でつつ、「いかなりしことぞ」とは、いと聞こえまほしう、御けしきもゆかしきを、ほの心得て思ひ寄らるることもあれば、なかなかうち出でて聞こえむもかたはらいたくて、「いかならむついでに、この事の詳しきありさまも明きらめ、また、かの人の思ひ入りたりしさまをも聞こしめさむ」と、思ひわたりたまふ。
 秋の夕べのものあはれなるに、一条の宮を思ひやりきこえたまひて、渡りたまへり。うちとけ、しめやかに、御琴どもなど弾きたまふほどなるべし。深くもえ取りやらで、やがてその南の廂に入れたてまつりたまへり。端つ方なりける人の、ゐざり入りつるけはひどもしるく、衣の音なひも、おほかたの匂ひ香うばしく、心にくきほどなり。
 例の、御息所、対面したまひて、昔の物語ども聞こえ交はしたまふ。わが御殿の、明け暮れ人しげくて、もの騒がしく、幼き君たちなど、すだきあわてたまふにならひたまひて、いと静かにものあはれなり。うち荒れたる心地すれど、あてに気高く住みなしたまひて、前栽の花ども、虫の音しげき野辺と乱れたる夕映えを、見わたしたまふ。


 和琴を引き寄せたまへれば、律に調べられて、いとよく弾きならしたる、人香にしみて、なつかしうおぼゆ。
 「かやうなるあたりに、思ひのままなる好き心ある人は、静むることなくて、さま悪しきけはひをもあらはし、さるまじき名をも立つるぞかし」
 など、思ひ続けつつ、掻き鳴らしたまふ。
 故君の常に弾きたまひし琴なりけり。をかしき手一つなど、すこし弾きたまひて、
 「あはれ、いとめづらかなる音に掻き鳴らしたまひしはや。この御琴にも籠もりてはべらむかし。承りあらはしてしがな」
 とのたまへば、
 「琴の緒絶えにし後より、昔の御童遊びの名残をだに、思ひ出でたまはずなむなりにてはべめる。院の御前にて、女宮たちのとりどりの御琴ども、試みきこえたまひしにも、かやうの方は、おぼめかしからずものしたまふとなむ、定めきこえたまふめりしを、あらぬさまにほれぼれしうなりて、眺め過ぐしたまふめれば、世の憂きつまにといふやうになむ見たまふる」
 と聞こえたまへば、
 「いとことわりの御思ひなりや。限りだにある」
 と、うち眺めて、琴は押しやりたまへれば、
 「かれ、なほさらば、声に伝はることもやと、聞きわくばかり鳴らさせたまへ。ものむつかしう思うたまへ沈める耳をだに、明きらめはべらむ」
 と聞こえたまふを、
 「しか伝はる中の緒は、異にこそははべらめ。それをこそ承らむとは聞こえつれ」
 とて、御簾のもと近く押し寄せたまへど、とみにしも受けひきたまふまじきことなれば、しひても聞こえたまはず。

 月さし出でて曇りなき空に、羽うち交はす雁がねも、列を離れぬ、うらやましく聞きたまふらむかし。風肌寒く、ものあはれなるに誘はれて、箏の琴をいとほのかに掻き鳴らしたまへるも、奥深き声なるに、いとど心とまり果てて、なかなかに思ほゆれば、琵琶を取り寄せて、いとなつかしき音に、「想夫恋」を弾きたまふ。
 「思ひ及び顔なるは、かたはらいたけれど、これは、こと問はせたまふべくや」
 とて、切に簾の内をそそのかしきこえたまへど、まして、つつましきさしいらへなれば、宮はただものをのみあはれと思し続けたるに、
 「ことに出でて言はぬも言ふにまさるとは
  人に恥ぢたるけしきをぞ見る」
 と聞こえたまふに、ただ末つ方をいささか弾きたまふ。
 「深き夜のあはればかりは聞きわけど
  ことより顔にえやは弾きける」
 飽かずをかしきほどに、さるおほどかなるものの音がらに、古き人の心しめて弾き伝へける、同じ調べのものといへど、あはれに心すごきものの、片端を掻き鳴らして止みたまひぬれば、恨めしきまでおぼゆれど、
 「好き好きしさを、さまざまにひき出でても御覧ぜられぬるかな。秋の夜更かしはべらむも、昔の咎めやと憚りてなむ、まかではべりぬべかめる。またことさらに心してなむさぶらふべきを、この御琴どもの調べ変へず待たせたまはむや。弾き違ふることもはべりぬべき世なれば、うしろめたくこそ」
 など、まほにはあらねど、うち匂はしおきて出でたまふ。

 「今宵の御好きには、人許しきこえつべくなむありける。そこはかとなきいにしへ語りにのみ紛らはさせたまひて、玉の緒にせむ心地もしはべらぬ、残り多くなむ」
 とて、御贈り物に笛を添へてたてまつりたまふ。
 「これになむ、まことに古きことも伝はるべく聞きおきはべりしを、かかる蓬生に埋もるるもあはれに見たまふるを、御前駆に競はむ声なむ、よそながらもいぶかしうはべる」
 と聞こえたまへば、
 「似つかはしからぬ随身にこそははべるべけれ」
 とて、見たまふに、これもげに世とともに身に添へてもてあそびつつ、
 「みづからも、さらにこれが音の限りは、え吹きとほさず。思はむ人にいかで伝へてしがな」
 と、をりをり聞こえごちたまひしを思ひ出でたまふに、今すこしあはれ多く添ひて、試みに吹き鳴らす。盤渉調の半らばかり吹きさして、
 「昔を偲ぶ独り言は、さても罪許されはべりけり。これはまばゆくなむ」
 とて、出でたまふに、
 「露しげきむぐらの宿にいにしへの
  秋に変はらぬ虫の声かな」
 と、聞こえ出だしたまへり。
 「横笛の調べはことに変はらぬを
  むなしくなりし音こそ尽きせね」
 出でがてにやすらひたまふに、夜もいたく更けにけり。

 殿に帰りたまへれば、格子など下ろさせて、皆寝たまひにけり。
 「この宮に心かけきこえたまひて、かくねむごろがり聞こえたまふぞ」
 など、人の聞こえ知らせければ、かやうに夜更かしたまふもなま憎くて、入りたまふをも聞く聞く、寝たるやうにてものしたまふなるべし。
 「妹と我といるさの山の」
 と、声はいとをかしうて、独りごち歌ひて、
 「こは、など、かく鎖し固めたる。あな、埋れや。今宵の月を見ぬ里もありけり」
 と、うめきたまふ。格子上げさせたまひて、御簾巻き上げなどしたまひて、端近く臥したまへり。
 「かかる夜の月に、心やすく夢見る人は、あるものか。すこし出でたまへ。あな心憂」
 など聞こえたまへど、心やましううち思ひて、聞き忍びたまふ。
 君たちの、いはけなく寝おびれたるけはひなど、ここかしこにうちして、女房もさし混みて臥したる、人気にぎははしきに、ありつる所のありさま、思ひ合はするに、多く変はりたり。この笛をうち吹きたまひつつ、
 「いかに、名残も、眺めたまふらむ。御琴どもは、調べ変はらず遊びたまふらむかし。御息所も、和琴の上手ぞかし」
 など、思ひやりて臥したまへり。
 「いかなれば、故君、ただおほかたの心ばへは、やむごとなくもてなしきこえながら、いと深きけしきなかりけむ」
 と、それにつけても、いといぶかしうおぼゆ。
 「見劣りせむことこそ、いといとほしかるべけれ。おほかたの世につけても、限りなく聞くことは、かならずさぞあるかし」
 など思ふに、わが御仲の、うちけしきばみたる思ひやりもなくて、睦びそめたる年月のほどを数ふるに、あはれに、いとかう押したちておごりならひたまへるも、ことわりにおぼえたまひけり。

 すこし寝入りたまへる夢に、かの衛門督、ただありしさまの袿姿にて、かたはらにゐて、この笛を取りて見る。夢のうちにも、亡き人の、わづらはしう、この声を尋ねて来たる、と思ふに、
 「笛竹に吹き寄る風のことならば
  末の世長きねに伝へなむ
 思ふ方異にはべりき」
 と言ふを、問はむと思ふほどに、若君の寝おびれて泣きたまふ御声に、覚めたまひぬ。
 この君いたく泣きたまひて、つだみなどしたまへば、乳母も起き騷ぎ、上も大殿油近く取り寄せさせたまて、耳挟みして、そそくりつくろひて、抱きてゐたまへり。いとよく肥えて、つぶつぶとをかしげなる胸を開けて、乳などくくめたまふ。稚児もいとうつくしうおはする君なれば、白くをかしげなるに、御乳はいとかはらかなるを、心をやりて慰めたまふ。
 男君も寄りおはして、「いかなるぞ」などのたまふ。うちまきし散らしなどして、乱りがはしきに、夢のあはれも紛れぬべし。
 「悩ましげにこそ見ゆれ。今めかしき御ありさまのほどにあくがれたまうて、夜深き御月愛でに、格子も上げられたれば、例のもののけの入り来たるなめり」
 など、いと若くをかしき顔して、かこちたまへば、うち笑ひて、
 「あやしの、もののけのしるべや。まろ格子上げずは、道なくて、げにえ入り来ざらまし。あまたの人の親になりたまふままに、思ひいたり深くものをこそのたまひなりにたれ」
 とて、うち見やりたまへるまみの、いと恥づかしげなれば、さすがに物ものたまはで、
 「出でたまひね。見苦し」
 とて、明らかなる火影を、さすがに恥ぢたまへるさまも憎からず。まことに、この君なづみて、泣きむつかり明かしたまひつ。


 


 大将の君も、夢思し出づるに、
 「この笛のわづらはしくもあるかな。人の心とどめて思へりしものの、行くべき方にもあらず。女の御伝へはかひなきをや。いかが思ひつらむ。この世にて、数に思ひ入れぬことも、かの今はのとぢめに、一念の恨めしきも、もしはあはれとも思ふにまつはれてこそは、長き夜の闇にも惑ふわざななれ。かかればこそは、何ごとにも執はとどめじと思ふ世なれ」
 など、思し続けて、愛宕に誦経せさせたまふ。また、かの心寄せの寺にもせさせたまひて、
 「この笛をば、わざと人のさるゆゑ深きものにて、引き出でたまへりしを、たちまちに仏の道におもむけむも、尊きこととはいひながら、あへなかるべし」
 と思ひて、六条の院に参りたまひぬ。
 女御の御方におはしますほどなりけり。三の宮、三つばかりにて、中にうつくしくおはするを、こなたにぞまた取り分きておはしまさせたまひける。走り出でたまひて、
 「大将こそ、宮抱きたてまつりて、あなたへ率ておはせ」
 と、みづからかしこまりて、いとしどけなげにのたまへば、うち笑ひて、
 「おはしませ。いかでか御簾の前をば渡りはべらむ。いと軽々ならむ」
 とて、抱きたてまつりてゐたまへれば、
 「人も見ず。まろ、顔は隠さむ。なほなほ」
 とて、御袖してさし隠したまへば、いとうつくしうて、率てたてまつりたまふ。


 こなたにも、二の宮の、若君とひとつに混じりて遊びたまふ、うつくしみておはしますなりけり。隅の間のほどに下ろしたてまつりたまふを、二の宮見つけたまひて、
 「まろも大将に抱かれむ」
 とのたまふを、三の宮、
 「あが大将をや」
 とて、控へたまへり。院も御覧じて、
 「いと乱りがはしき御ありさまどもかな。公の御近き守りを、私の随身に領ぜむと争ひたまふよ。三の宮こそ、いとさがなくおはすれ。常に兄に競ひ申したまふ」
 と、諌めきこえ扱ひたまふ。大将も笑ひて、
 「二の宮は、こよなく兄心にところさりきこえたまふ御心深くなむおはしますめる。御年のほどよりは、恐ろしきまで見えさせたまふ」
 など聞こえたまふ。うち笑みて、いづれもいとうつくしと思ひきこえさせたまへり。
 「見苦しく軽々しき公卿の御座なり。あなたにこそ」
 とて、渡りたまはむとするに、宮たちまつはれて、さらに離れたまはず。宮の若君は、宮たちの御列にはあるまじきぞかしと、御心のうちに思せど、なかなかその御心ばへを、母宮の、御心の鬼にや思ひ寄せたまふらむと、これも心の癖に、いとほしう思さるれば、いとらうたきものに思ひかしづききこえたまふ。

 大将は、この君を「まだえよくも見ぬかな」と思して、御簾の隙よりさし出でたまへるに、花の枝の枯れて落ちたるを取りて、見せたてまつりて、招きたまへば、走りおはしたり。
 二藍の直衣の限りを着て、いみじう白う光りうつくしきこと、皇子たちよりもこまかにをかしげにて、つぶつぶときよらなり。なま目とまる心も添ひて見ればにや、眼居など、これは今すこし強うかどあるさままさりたれど、まじりのとぢめをかしうかをれるけしきなど、いとよくおぼえたまへり。
 口つきの、ことさらにはなやかなるさまして、うち笑みたるなど、「わが目のうちつけなるにやあらむ、大殿はかならず思し寄すらむ」と、いよいよ御けしきゆかし。
 宮たちは、思ひなしこそ気高けれ、世の常のうつくしき稚児どもと見えたまふに、この君は、いとあてなるものから、さま異にをかしげなるを、見比べたてまつりつつ、
 「いで、あはれ。もし疑ふゆゑもまことならば、父大臣の、さばかり世にいみじく思ひほれたまて、
 『子と名のり出でくる人だになきこと。形見に見るばかりの名残をだにとどめよかし』
 と、泣き焦がれたまふに、聞かせたてまつらざらむ罪得がましさ」など思ふも、「いで、いかでさはあるべきことぞ」
 と、なほ心得ず、思ひ寄る方なし。心ばへさへなつかしうあはれにて、睦れ遊びたまへば、いとらうたくおぼゆ。

 対へ渡りたまひぬれば、のどやかに御物語など聞こえておはするほどに、日暮れかかりぬ。昨夜、かの一条の宮に参うでたりしに、おはせしありさまなど聞こえ出でたまへるを、ほほ笑みて聞きおはす。あはれなる昔のこと、かかりたる節々は、あへしらひなどしたまふに、
 「かの想夫恋の心ばへは、げに、いにしへの例にも引き出でつべかりけるをりながら、女は、なほ、人の心移るばかりのゆゑよしをも、おぼろけにては漏らすまじうこそありけれと、思ひ知らるることどもこそ多かれ。
 過ぎにし方の心ざしを忘れず、かく長き用意を、人に知られぬとならば、同じうは、心きよくて、とかくかかづらひ、ゆかしげなき乱れなからむや、誰がためも心にくく、めやすかるべきことならむとなむ思ふ」
 とのたまへば、「さかし。人の上の御教へばかりは心強げにて、かかる好きはいでや」と、見たてまつりたまふ。
 「何の乱れかはべらむ。なほ、常ならぬ世のあはれをかけそめはべりにしあたりに、心短くはべらむこそ、なかなか世の常の嫌疑あり顔にはべらめとてこそ。
 想夫恋は、心とさし過ぎてこと出でたまはむや、憎きことにはべらまし、もののついでにほのかなりしは、をりからのよしづきて、をかしうなむはべりし。
 何ごとも、人により、ことに従ふわざにこそはべるべかめれ。齢なども、やうやういたう若びたまふべきほどにもものしたまはず、また、あざれがましう、好き好きしきけしきなどに、もの馴れなどもしはべらぬに、うちとけたまふにや。おほかたなつかしうめやすき人の御ありさまになむものしたまひける」
 など聞こえたまふに、いとよきついで作り出でて、すこし近く参り寄りたまひて、かの夢語りを聞こえたまへば、とみにものものたまはで、聞こしめして、思し合はすることもあり。

 「その笛は、ここに見るべきゆゑあるものなり。かれは陽成院の御笛なり。それを故式部卿宮の、いみじきものにしたまひけるを、かの衛門督は、童よりいと異なる音を吹き出でしに感じて、かの宮の萩の宴せられける日、贈り物に取らせたまへるなり。女の心は深くもたどり知らず、しかものしたるななり」
 などのたまひて、
 「末の世の伝へ、またいづ方にとかは思ひまがへむ。さやうに思ふなりけむかし」など思して、「この君もいといたり深き人なれば、思ひ寄ることあらむかし」と思す。
 その御けしきを見るに、いとど憚りて、とみにもうち出で聞こえたまはねど、せめて聞かせたてまつらむの心あれば、今しもことのついでに思ひ出でたるやうに、おぼめかしうもてなして、
 「今はとせしほどにも、とぶらひにまかりてはべりしに、亡からむ後のことども言ひ置きはべりし中に、しかしかなむ深くかしこまり申すよしを、返す返すものしはべりしかば、いかなることにかはべりけむ、今にそのゆゑをなむえ思ひたまへ寄りはべらねば、おぼつかなくはべる」
 と、いとたどたどしげに聞こえたまふに、
 「さればよ」
 と思せど、何かは、そのほどの事あらはしのたまふべきならねば、しばしおぼめかしくて、
 「しか、人の恨みとまるばかりのけしきは、何のついでにかは漏り出でけむと、みづからもえ思ひ出でずなむ。さて、今静かに、かの夢は思ひ合はせてなむ聞こゆべき。夜語らずとか、女房の伝へに言ふなり」
 とのたまひて、をさをさ御いらへもなければ、うち出で聞こえてけるを、いかに思すにかと、つつましく思しけり、とぞ。



  

  

            現代語訳 補足 目次

      三十八、 鈴 虫   
 


   
 



 夏ごろ、蓮の花の盛りに、入道の姫宮の御持仏どもあらはしたまへる、供養ぜさせたまふ。
 このたびは、大殿の君の御心ざしにて、御念誦堂の具ども、こまかに調へさせたまへるを、やがてしつらはせたまふ。幡のさまなどなつかしう、心ことなる唐の錦を選び縫はせたまへり。紫の上ぞ、急ぎせさせたまひける。
 花机の覆ひなどのをかしき目染もなつかしう、きよらなる匂ひ、染めつけられたる心ばへ、目馴れぬさまなり。夜の御帳の帷を、四面ながら上げて、後ろの方に法華の曼陀羅かけたてまつりて、銀の花瓶に、高くことことしき花の色を調へてたてまつり、名香に、唐の百歩の薫衣香を焚きたまへり。
 阿弥陀仏、脇士の菩薩、おのおの白檀して作りたてまつりたる、こまかにうつくしげなり。閼伽の具は、例の、きはやかに小さくて、青き、白き、紫の蓮を調へて、荷葉の方を合はせたる名香、蜜を隠しほほろげて、焚き匂はしたる、一つ薫りに匂ひ合ひて、いとなつかし。
 経は、六道の衆生のために六部書かせたまひて、みづからの御持経は、院ぞ御手づから書かせたまひける。これをだに、この世の結縁にて、かたみに導き交はしたまふべき心を、願文に作らせたまへり。
 さては、阿弥陀経、唐の紙はもろくて、朝夕の御手慣らしにもいかがとて、紙屋の人を召して、ことに仰せ言賜ひて、心ことにきよらに漉かせたまへるに、この春のころほひより、御心とどめて急ぎ書かせたまへるかひありて、端を見たまふ人びと、目もかかやき惑ひたまふ。
 罫かけたる金の筋よりも、墨つきの上にかかやくさまなども、いとなむめづらかなりける。軸、表紙、筥のさまなど、いへばさらなりかし。これはことに沈の花足の机に据ゑて、仏の御同じ帳台の上に飾らせたまへり。


 堂飾り果てて、講師参う上り、行道の人びと参り集ひたまへば、院もあなたに出でたまふとて、宮のおはします西の廂にのぞきたまへれば、狭き心地する仮の御しつらひに、所狭く暑げなるまで、ことことしく装束きたる女房、五、六十人ばかり集ひたり。
 北の廂の簀子まで、童女などはさまよふ。火取りどもあまたして、煙たきまで扇ぎ散らせば、さし寄りたまひて、
 「空に焚くは、いづくの煙ぞと思ひ分かれぬこそよけれ。富士の峰よりもけに、くゆり満ち出でたるは、本意なきわざなり。講説の折は、おほかたの鳴りを静めて、のどかにものの心も聞き分くべきことなれば、憚りなき衣の音なひ、人のけはひ、静めてなむよかるべき」
 など、例の、もの深からぬ若人どもの用意教へたまふ。宮は、人気に圧されたまひて、いと小さくをかしげにて、ひれ臥したまへり。
 「若君、らうがはしからむ。抱き隠したてまつれ」
 などのたまふ。
 北の御障子も取り放ちて、御簾かけたり。そなたに人びとは入れたまふ。静めて、宮にも、ものの心知りたまふべき下形を聞こえ知らせたまふ、いとあはれに見ゆ。御座を譲りたまへる仏の御しつらひ、見やりたまふも、さまざまに、
 「かかる方の御いとなみをも、もろともに急がむものとは思ひ寄らざりしことなり。よし、後の世にだに、かの花の中の宿りに、隔てなく、とを思ほせ」
 とて、うち泣きたまひぬ。
 「蓮葉を同じ台と契りおきて
  露の分かるる今日ぞ悲しき」
 と、御硯にさし濡らして、香染めなる御扇に書きつけたまへり。宮、
 「隔てなく蓮の宿を契りても
  君が心や住まじとすらむ」
 と書きたまへれば、
 「いふかひなくも思ほし朽たすかな」
 と、うち笑ひながら、なほあはれとものを思ほしたる御けしきなり。

 例の、親王たちなども、いとあまた参りたまへり。御方々より、我も我もと営み出でたまへる捧物のありさま、心ことに、所狭きまで見ゆ。七僧の法服など、すべておほかたのことどもは、皆紫の上せさせたまへり。綾のよそひにて、袈裟の縫目まで、見知る人は、世になべてならずとめでけりとや。むつかしうこまかなることどもかな。
 講師のいと尊く、ことの心を申して、この世にすぐれたまへる盛りを厭ひ離れたまひて、長き世々に絶ゆまじき御契りを、法華経に結びたまふ、尊く深きさまを表はして、ただ今の世の、才もすぐれ、豊けきさきらを、いとど心して言ひ続けたる、いと尊ければ、皆人、しほたれたまふ。
 これは、ただ忍びて、御念誦堂の初めと思したることなれど、内裏にも、山の帝も聞こし召して、皆御使どもあり。御誦経の布施など、いと所狭きまで、にはかになむこと広ごりける。
 院にまうけさせたまへりけることどもも、削ぐと思ししかど、世の常ならざりけるを、まいて、今めかしきことどもの加はりたれば、夕べの寺に置き所なげなるまで、所狭き勢ひになりてなむ、僧どもは帰りける。

 今しも、心苦しき御心添ひて、はかりもなくかしづききこえたまふ。院の帝は、この御処分の宮に住み離れたまひなむも、つひのことにて、目やすかりぬべく聞こえたまへど、
 「よそよそにては、おぼつかなかるべし。明け暮れ見たてまつり、聞こえ承らむこと怠らむに、本意違ひぬべし。げに、あり果てぬ世いくばくあるまじけれど、なほ生ける限りの心ざしをだに失ひ果てじ」
 と聞こえたまひつつ、この宮をもいとこまかにきよらに造らせたまひ、御封の物ども、国々の御荘、御牧などより奉る物ども、はかばかしきさまのは、皆かの三条の宮の御倉に納めさせたまふ。またも、建て添へさせたまひて、さまざまの御宝物ども、院の御処分に数もなく賜はりたまへるなど、あなたざまの物は、皆かの宮に運び渡し、こまかにいかめしうし置かせたまふ。
 明け暮れの御かしづき、そこらの女房のことども、上下の育みは、おしなべてわが御扱ひにてなど、急ぎ仕うまつらせたまひける。


 


 秋ごろ、西の渡殿の前、中の塀の東の際を、おしなべて野に作らせたまへり。閼伽の棚などして、その方にしなさせたまへる御しつらひなど、いとなまめきたり。
 御弟子に従ひきこえたる尼ども、御乳母、古人どもは、さるものにて、若き盛りのも、心定まり、さる方にて世を尽くしつべき限りは選りてなむ、なさせたまひける。
 さるきほひには、我も我もときしろひけれど、大殿の君聞こしめして、
 「あるまじきことなり。心ならぬ人すこしも混じりぬれば、かたへの人苦しう、あはあはしき聞こえ出で来るわざなり」
 と諌めたまひて、十余人ばかりのほどぞ、容貌異にてはさぶらふ。
 この野に虫ども放たせたまひて、風すこし涼しくなりゆく夕暮に、渡りたまひつつ、虫の音を聞きたまふやうにて、なほ思ひ離れぬさまを聞こえ悩ましたまへば、
 「例の御心はあるまじきことにこそはあなれ」
 と、ひとへにむつかしきことに思ひきこえたまへり。
 人目にこそ変はることなくもてなしたまひしか、内には憂きを知りたまふけしきしるく、こやなう変はりにし御心を、いかで見えたてまつらじの御心にて、多うは思ひなりたまひにし御世の背きなれば、今はもて離れて心やすきに、
 「なほ、かやうに」
 など聞こえたまふぞ苦しうて、「人離れたらむ御住まひにもがな」と思しなれど、およすけてえさも強ひ申したまはず。


 十五夜の夕暮に、仏の御前に宮おはして、端近う眺めたまひつつ念誦したまふ。若き尼君たち二、三人、花奉るとて鳴らす閼伽、坏の音、水のけはひなど聞こゆる、さま変はりたるいとなみに、そそきあへる、いとあはれなるに、例の渡りたまひて、
 「虫の音いとしげう乱るる夕べかな」
 とて、われも忍びてうち誦じたまふ阿弥陀の大呪、いと尊くほのぼの聞こゆ。げに、声々聞こえたる中に、鈴虫のふり出でたるほど、はなやかにをかし。
 「秋の虫の声、いづれとなき中に、松虫なむすぐれたるとて、中宮の、はるけき野辺を分けて、いとわざと尋ね取りつつ放たせたまへる、しるく鳴き伝ふるこそ少なかなれ。名には違ひて、命のほどはかなき虫にぞあるべき。
 心にまかせて、人聞かぬ奥山、はるけき野の松原に、声惜しまぬも、いと隔て心ある虫になむありける。鈴虫は、心やすく、今めいたるこそらうたけれ」
 などのたまへば、宮、
 「おほかたの秋をば憂しと知りにしを
  ふり捨てがたき鈴虫の声」
 と忍びやかにのたまふ。いとなまめいて、あてにおほどかなり。
 「いかにとかや。いで、思ひの外なる御ことにこそ」とて、
 「心もて草の宿りを厭へども
  なほ鈴虫の声ぞふりせぬ」
 など聞こえたまひて、琴の御琴召して、珍しく弾きたまふ。宮の御数珠引き怠りたまひて、御琴になほ心入れたまへり。
 月さし出でて、いとはなやかなるほどもあはれなるに、空をうち眺めて、世の中さまざまにつけて、はかなく移り変はるありさまも思し続けられて、例よりもあはれなる音に掻き鳴らしたまふ。

 今宵は、例の御遊びにやあらむと推し量りて、兵部卿宮渡りたまへり。大将の君、殿上人のさるべきなど具して参りたまへれば、こなたにおはしますと、御琴の音を尋ねて、やがて参りたまふ。
 「いとつれづれにて、わざと遊びとはなくとも、久しく絶えにたるめづらしき物の音など、聞かまほしかりつる独り琴を、いとよう尋ねたまひける」
 とて、宮も、こなたに御座よそひて入れたてまつりたまふ。内裏の御前に、今宵は月の宴あるべかりつるを、とまりてさうざうしかりつるに、この院に人びと参りたまふと聞き伝へて、これかれ上達部なども参りたまへり。虫の音の定めをしたまふ。
 御琴どもの声々掻き合はせて、おもしろきほどに、
 「月見る宵の、いつとてもものあはれならぬ折はなきなかに、今宵の新たなる月の色には、げになほ、わが世の外までこそ、よろづ思ひ流さるれ。故権大納言、何の折々にも、亡きにつけていとど偲ばるること多く、公、私、ものの折節のにほひ失せたる心地こそすれ。花鳥の色にも音にも、思ひわきまへ、いふかひあるかたの、いとうるさかりしものを」
 などのたまひ出でて、みづからも掻き合はせたまふ御琴の音にも、袖濡らしたまひつ。御簾の内にも、耳とどめてや聞きたまふらむと、片つ方の御心には思しながら、かかる御遊びのほどには、まづ恋しう、内裏などにも思し出でける。
 「今宵は鈴虫の宴にて明かしてむ」
 と思しのたまふ。

 御土器二わたりばかり参るほどに、冷泉院より御消息あり。御前の御遊びにはかにとまりぬるを口惜しがりて、左大弁、式部大輔、また人びと率ゐて、さるべき限り参りたれば、大将などは六条の院にさぶらひたまふ、と聞こし召してなりけり。
 「雲の上をかけ離れたるすみかにも
  もの忘れせぬ秋の夜の月
 同じくは」
 と聞こえたまへれば、
 「何ばかり所狭き身のほどにもあらずながら、今はのどやかにおはしますに、参り馴るることもをさをさなきを、本意なきことに思しあまりて、おどろかさせたまへる、かたじけなし」
 とて、にはかなるやうなれど、参りたまはむとす。
 「月影は同じ雲居に見えながら
  わが宿からの秋ぞ変はれる」
 異なることなかめれど、ただ昔今の御ありさまの思し続けられけるままなめり。御使に盃賜ひて、禄いと二なし。

 人びとの御車、次第のままに引き直し、御前の人びと立ち混みて、静かなりつる御遊び紛れて、出でたまひぬ。院の御車に、親王たてまつり、大将、左衛門督、藤宰相など、おはしける限り皆参りたまふ。
 直衣にて、軽らかなる御よそひどもなれば、下襲ばかりたてまつり加へて、月ややさし上がり、更けぬる空おもしろきに、若き人びと、笛などわざとなく吹かせたまひなどして、忍びたる御参りのさまなり。
 うるはしかるべき折節は、所狭くよだけき儀式を尽くして、かたみに御覧ぜられたまひ、また、いにしへのただ人ざまに思し返りて、今宵は軽々しきやうに、ふとかく参りたまへれば、いたう驚き、待ち喜びきこえたまふ。
 ねびととのひたまへる御容貌、いよいよ異ものならず。いみじき御盛りの世を、御心と思し捨てて、静かなる御ありさまに、あはれ少なからず。
 その夜の歌ども、唐のも大和のも、心ばへ深うおもしろくのみなむ。例の、言足らぬ片端は、まねぶもかたはらいたくてなむ。明け方に文など講じて、とく人びとまかでたまふ。


 


 六条の院は、中宮の御方に渡りたまひて、御物語など聞こえたまふ。
 「今はかう静かなる御住まひに、しばしばも参りぬべく、何とはなけれど、過ぐる齢に添へて、忘れぬ昔の御物語など、承り聞こえまほしう思ひたまふるに、何にもつかぬ身のありさまにて、さすがにうひうひしく、所狭くもはべりてなむ。
 我より後の人びとに、方々につけて後れゆく心地しはべるも、いと常なき世の心細さの、のどめがたうおぼえはべれば、世離れたる住まひにもやと、やうやう思ひ立ちぬるを、残りの人びとのものはかなからむ、漂はしたまふな、と先々も聞こえつけし心違へず、思しとどめてものせさせたまへ」
 など、まめやかなるさまに聞こえさせたまふ。
 例の、いと若うおほどかなる御けはひにて、
 「九重の隔て深うはべりし年ごろよりも、おぼつかなさのまさるやうに思ひたまへらるるありさまを、いと思ひの外に、むつかしうて、皆人の背きゆく世を、厭はしう思ひなることもはべりながら、その心の内を聞こえさせうけたまはらねば、何事もまづ頼もしき蔭には聞こえさせならひて、いぶせくはべる」
 と聞こえたまふ。
 「げに、公ざまにては、限りある折節の御里居も、いとよう待ちつけきこえさせしを、今は何事につけてかは、御心にまかせさせたまふ御移ろひもはべらむ。定めなき世と言ひながらも、さして厭はしきことなき人の、さはやかに背き離るるもありがたう、心やすかるべきほどにつけてだに、おのづから思ひかかづらふほだしのみはべるを、などか、その人まねにきほふ御道心は、かへりてひがひがしう推し量りきこえさする人もこそはべれ。かけてもいとあるまじき御ことになむ」
 と聞こえたまふを、「深うも汲みはかりたまはぬなめりかし」と、つらう思ひきこえたまふ。


 御息所の、御身の苦しうなりたまふらむありさま、いかなる煙の中に惑ひたまふらむ、亡き影にても、人に疎まれたてまつりたまふ御名のりなどの出で来けること、かの院にはいみじう隠したまひけるを、おのづから人の口さがなくて、伝へ聞こし召しける後、いと悲しういみじくて、なべての世の厭はしく思しなりて、仮にても、かののたまひけむありさまの詳しう聞かまほしきを、まほにはえうち出で聞こえたまはで、ただ、
 「亡き人の御ありさまの、罪軽からぬさまに、ほの聞くことのはべりしを、さるしるしあらはならでも、推し量りつべきことにはべりけれど、後れしほどのあはればかりを忘れぬことにて、もののあなた思うたまへやらざりけるがものはかなさを、いかでよう言ひ聞かせむ人の勧めをも聞きはべりて、みづからだに、かの炎をも冷ましはべりにしがなと、やうやう積もるになむ、思ひ知らるることもありける」
 など、かすめつつぞのたまふ。
 「げに、さも思しぬべきこと」と、あはれに見たてまつりたまうて、
 「その炎なむ、誰も逃るまじきことと知りながら、朝の露のかかれるほどは、思ひ捨てはべらぬになむ。目蓮が仏に近き聖の身にて、たちまちに救ひけむ例にも、え継がせたまはざらむものから、玉の簪捨てさせたまはむも、この世には恨み残るやうなるわざなり。
 やうやうさる御心ざしをしめたまひて、かの御煙晴るべきことをせさせたまへ。しか思ひたまふることはべりながら、もの騒がしきやうに、静かなる本意もなきやうなるありさまに明け暮らしはべりつつ、みづからの勤めに添へて、今静かにと思ひたまふるも、げにこそ、心幼きことなれ」
 など、世の中なべてはかなく、厭ひ捨てまほしきことを聞こえ交はしたまへど、なほ、やつしにくき御身のありさまどもなり。

 昨夜はうち忍びてかやすかりし御歩き、今朝は表はれたまひて、上達部ども、参りたまへる限りは皆御送り仕うまつりたまふ。
 春宮の女御の御ありさま、並びなく、いつきたてたまへるかひがひしさも、大将のまたいと人に異なる御さまをも、いづれとなくめやすしと思すに、なほ、この冷泉院を思ひきこえたまふ御心ざしは、すぐれて深くあはれにぞおぼえたまふ。院も常にいぶかしう思ひきこえたまひしに、御対面のまれにいぶせうのみ思されけるに、急がされたまひて、かく心安きさまにと思しなりけるになむ。
 中宮ぞ、なかなかまかでたまふこともいと難うなりて、ただ人の仲のやうに並びおはしますに、今めかしう、なかなか昔よりもはなやかに、御遊びをもしたまふ。何ごとも御心やれるありさまながら、ただかの御息所の御事を思しやりつつ、行なひの御心進みにたるを、人の許しきこえたまふまじきことなれば、功徳のことを立てて思しいとなみ、いとど心深う、世の中を思し取れるさまになりまさりたまふ。



  

  

            現代語訳 補足 目次

      三十九、 夕 霧   
 


   
 



 まめ人の名をとりて、さかしがりたまふ大将、この一条の宮の御ありさまを、なほあらまほしと心にとどめて、おほかたの人目には、昔を忘れぬ用意に見せつつ、いとねむごろにとぶらひきこえたまふ。下の心には、かくては止むまじくなむ、月日に添へて思ひまさりたまひける。
 御息所も、「あはれにありがたき御心ばへにもあるかな」と、今はいよいよもの寂しき御つれづれを、絶えず訪づれたまふに、慰めたまふことども多かり。
 初めより懸想びても聞こえたまはざりしに、
 「ひき返し懸想ばみなまめかむもまばゆし。ただ深き心ざしを見えたてまつりて、うちとけたまふ折もあらじやは」
 と思ひつつ、さるべきことにつけても、宮の御けはひありさまを見たまふ。みづからなど聞こえたまふことはさらになし。
 「いかならむついでに、思ふことをもまほに聞こえ知らせて、人の御けはひを見む」
 と思しわたるに、御息所、もののけにいたう患ひたまひて、小野といふわたりに、山里持たまへるに渡りたまへり。早うより御祈りの師に、もののけなど祓ひ捨てける律師、山籠もりして里に出でじと誓ひたるを、麓近くて、請じ下ろしたまふゆゑなりけり。
 御車よりはじめて、御前など、大将殿よりぞたてまつれたまへるを、なかなか昔の近きゆかりの君たちは、ことわざしげきおのがじしの世のいとなみに紛れつつ、えしも思ひ出できこえたまはず。
 弁の君、はた、思ふ心なきにしもあらで、けしきばみけるに、ことの外なる御もてなしなりけるには、しひてえ参でとぶらひたまはずなりにたり。
 この君は、いとかしこう、さりげなくて聞こえ馴れたまひにためり。修法などせさせたまふと聞きて、僧の布施、浄衣などやうの、こまかなるものをさへたてまつれたまふ。悩みたまふ人は、え聞こえたまはず。
 「なべての宣旨書きは、ものしと思しぬべく、ことことしき御さまなり」
 と、人びと聞こゆれば、宮ぞ御返り聞こえたまふ。
 いとをかしげにて、ただ一行りなど、おほどかなる書きざま、言葉もなつかしきところ書き添へたまへるを、いよいよ見まほしう目とまりて、しげう聞こえ通ひたまふ。
 「なほ、つひにあるやうあるべきやう御仲らひなめり」
 と、北の方けしきとりたまへれば、わづらはしくて、参うでまほしう思せど、とみにえ出で立ちたまはず。


 八月中の十日ばかりなれば、野辺のけしきもをかしきころなるに、山里のありさまのいとゆかしければ、
 「なにがし律師のめづらしう下りたなるに、せちに語らふべきことあり。御息所の患ひたまふなるもとぶらひがてら、参うでむ」
 と、おほかたにぞ聞こえて出でたまふ。御前、ことことしからで、親しき限り五、六人ばかり、狩衣にてさぶらふ。ことに深き道ならねど、松が崎の小山の色なども、さる巌ならねど、秋のけしきつきて、都に二なくと尽くしたる家居には、なほ、あはれも興もまさりてぞ見ゆるや。
 はかなき小柴垣もゆゑあるさまにしなして、かりそめなれどあてはかに住まひなしたまへり。寝殿とおぼしき東の放出に、修法の檀塗りて、北の廂におはすれば、西面に宮はおはします。
 御もののけむつかしとて、とどめたてまつりたまひけれど、いかでか離れたてまつらむと、慕ひわたりたまへるを、人に移り散るを懼ぢて、すこしの隔てばかりに、あなたには渡したてまつりたまはず。
 客人のゐたまふべき所のなければ、宮の御方の御簾の前に入れたてまつりて、上臈だつ人びと、御消息聞こえ伝ふ。
 「いとかたじけなく、かうまでのたまはせ渡らせたまへるをなむ。もしかひなくなり果てはべりなば、このかしこまりをだに聞こえさせでやと、思ひたまふるをなむ、今しばしかけとどめまほしき心つきはべりぬる」
 と、聞こえ出だしたまへり。
 「渡らせたまひし御送りにもと思うたまへしを、六条院に承りさしたることはべりしほどにてなむ。日ごろも、そこはかとなく紛るることはべりて、思ひたまふる心のほどよりは、こよなくおろかに御覧ぜらるることの、苦しうはべる」
 など、聞こえたまふ。

 宮は、奥の方にいと忍びておはしませど、ことことしからぬ旅の御しつらひ、浅きやうなる御座のほどにて、人の御けはひおのづからしるし。いとやはらかにうちみじろきなどしたまふ御衣の音なひ、さばかりななりと、聞きゐたまへり。
 心も空におぼえて、あなたの御消息通ふほど、すこし遠う隔たる隙に、例の少将の君など、さぶらふ人びとに物語などしたまひて、
 「かう参り来馴れ承ることの、年ごろといふばかりになりにけるを、こよなうもの遠うもてなさせたまへる恨めしさなむ。かかる御簾の前にて、人伝ての御消息などの、ほのかに聞こえ伝ふることよ。まだこそならはね。いかに古めかしきさまに、人びとほほ笑みたまふらむと、はしたなくなむ。
 齢積もらず軽らかなりしほどに、ほの好きたる方に面馴れなましかば、かううひうひしうもおぼえざらまし。さらに、かばかりすくすくしう、おれて年経る人は、たぐひあらじかし」
 とのたまふ。げに、いとあなづりにくげなるさましたまひつれば、さればよと、
 「なかなかなる御いらへ聞こえ出でむは、恥づかしう」
 などつきしろひて、
 「かかる御愁へ聞こしめし知らぬやうなり」
 と、宮に聞こゆれば、
 「みづから聞こえたまはざめるかたはらいたさに、代はりはべるべきを、いと恐ろしきまでものしたまふめりしを、見あつかひはべりしほどに、いとどあるかなきかの心地になりてなむ、え聞こえぬ」
 とあれば、
 「こは、宮の御消息か」とゐ直りて、「心苦しき御悩みを、身に代ふばかり嘆ききこえさせはべるも、何のゆゑにか。かたじけなけれど、ものを思し知る御ありさまなど、はればれしき方にも見たてまつり直したまふまでは、平らかに過ぐしたまはむこそ、誰が御ためにも頼もしきことにははべらめと、推し量りきこえさするによりなむ。ただあなたざまに思し譲りて、積もりはべりぬる心ざしをも知ろしめされぬは、本意なき心地なむ」
 と聞こえたまふ。「げに」と、人びとも聞こゆ。

 日入り方になり行くに、空のけしきもあはれに霧りわたりて、山の蔭は小暗き心地するに、ひぐらし鳴きしきりて、垣ほに生ふる撫子の、うちなびける色もをかしう見ゆ。
 前の前栽の花どもは、心にまかせて乱れあひたるに、水の音いと涼しげにて、山おろし心すごく、松の響き木深く聞こえわたされなどして、不断の経読む、時変はりて、鐘うち鳴らすに、立つ声もゐ変はるも、一つにあひて、いと尊く聞こゆ。
 所から、よろづのこと心細う見なさるるも、あはれにもの思ひ続けらる。出でたまはむ心地もなし。律師も、加持する音して、陀羅尼いと尊く読むなり。
 いと苦しげにし給ふなりとて、人びともそなたに集ひて、おほかたも、かかる旅所にあまた参らざりけるに、いとど人少なにて、宮は眺めたまへり。しめやかにて、「思ふこともうち出でつべき折かな」と思ひゐたまへるに、霧のただこの軒のもとまで立ちわたれば、
 「まかでむ方も見えずなり行くは、いかがすべき」とて、
 「山里のあはれを添ふる夕霧に
  立ち出でむ空もなき心地して」
 と聞こえたまへば、
 「山賤の籬をこめて立つ霧も
  心そらなる人はとどめず」
 ほのかに聞こゆる御けはひに慰めつつ、まことに帰るさ忘れ果てぬ。
 「中空なるわざかな。家路は見えず、霧の籬は、立ち止るべうもあらず遣らはせたまふ。つきなき人は、かかることこそ」
 などやすらひて、忍びあまりぬる筋もほのめかし聞こえたまふに、年ごろもむげに見知りたまはぬにはあらねど、知らぬ顔にのみもてなしたまへるを、かく言に出でて怨みきこえたまふを、わづらはしうて、いとど御いらへもなければ、いたう嘆きつつ、心のうちに、「また、かかる折ありなむや」と、思ひめぐらしたまふ。
 「情けなうあはつけきものには思はれたてまつるとも、いかがはせむ。思ひわたるさまをだに知らせたてまつらむ」
 と思ひて、人を召せば、御司の将監よりかうぶり得たる、睦ましき人ぞ参れる。忍びやかに召し寄せて、
 「この律師にかならず言ふべきことのあるを。護身などに暇なげなめる、ただ今はうち休むらむ。今宵このわたりに泊りて、初夜の時果てむほどに、かのゐたる方にものせむ。これかれ、さぶらはせよ。随身などの男どもは、栗栖野の荘近からむ、秣などとり飼はせて、ここに人あまた声なせそ。かやうの旅寝は、軽々しきやうに人もとりなすべし」
 とのたまふ。あるやうあるべしと心得て、承りて立ちぬ。

 さて、
 「道いとたどたどしければ、このわたりに宿借りはべる。同じうは、この御簾のもとに許されあらなむ。阿闍梨の下るるほどまで」
 など、つれなくのたまふ。例は、かやうに長居して、あざればみたるけしきも見えたまはぬを、「うたてもあるかな」と、宮思せど、ことさらめきて、軽らかにあなたにはひ渡りたまふは、人もさま悪しき心地して、ただ音せでおはしますに、とかく聞こえ寄りて、御消息聞こえ伝へにゐざり入る人の蔭につきて、入りたまひぬ。
 まだ夕暮の、霧に閉ぢられて、内は暗くなりにたるほどなり。あさましうて見返りたるに、宮はいとむくつけうなりたまうて、北の御障子の外にゐざり出でさせたまふを、いとようたどりて、ひきとどめたてまつりつ。
 御身は入り果てたまへれど、御衣の裾の残りて、障子は、あなたより鎖すべき方なかりければ、引きたてさして、水のやうにわななきおはす。
 人びともあきれて、いかにすべきことともえ思ひえず。こなたよりこそ鎖す錠などもあれ、いとわりなくて、荒々しくは、え引きかなぐるべくはたものしたまはねば、
 「いとあさましう。思うたまへ寄らざりける御心のほどになむ」
 と、泣きぬばかりに聞こゆれど、
 「かばかりにてさぶらはむが、人よりけに疎ましう、めざましう思さるべきにやは。数ならずとも、御耳馴れぬる年月も重なりならむ」
 とて、いとのどやかにさまよくもてしづめて、思ふことを聞こえ知らせたまふ。

 聞き入れたまふべくもあらず、悔しう、かくまでと思すことのみ、やる方なければ、のたまはむことはたましておぼえたまはず。
 「いと心憂く、若々しき御さまかな。人知れぬ心にあまりぬる好き好きしき罪ばかりこそはべらめ、これより馴れ過ぎたることは、さらに御心許されでは御覧ぜられじ。いかばかり、千々に砕けはべる思ひに堪へぬぞや。
 さりともおのづから御覧じ知るふしもはべらむものを、しひておぼめかしう、け疎うもてなさせたまふめれば、聞こえさせむ方なさに、いかがはせむ、心地なく憎しと思さるとも、かうながら朽ちぬべき愁へを、さだかに聞こえ知らせはべらむとばかりなり。言ひ知らぬ御けしきの辛きものから、いとかたじけなければ」
 とて、あながちに情け深う、用意したまへり。
 障子を押さへたまへるは、いとものはかなき固めなれど、引きも開けず。
 「かばかりのけぢめをと、しひて思さるらむこそあはれなれ」
 と、うち笑ひて、うたて心のままなるさまにもあらず。人の御ありさまの、なつかしうあてになまめいたまへること、さはいへどことに見ゆ。世とともにものを思ひたまふけにや、痩せ痩せにあえかなる心地して、うちとけたまへるままの御袖のあたりもなよびかに、気近うしみたる匂ひなど、取り集めてらうたげに、やはらかなる心地したまへり。

 風いと心細う、更けゆく夜のけしき、虫の音も、鹿の鳴く音も、滝の音も、一つに乱れて、艶あるほどなれど、ただありのあはつけ人だに、寝覚めしぬべき空のけしきを、格子もさながら、入り方の月の山の端近きほど、とどめがたう、ものあはれなり。
 「なほ、かう思し知らぬ御ありさまこそ、かへりては浅う御心のほど知らるれ。かう世づかぬまでしれじれしきうしろやすさなども、たぐひあらじとおぼえはべるを、何事にもかやすきほどの人こそ、かかるをば痴者などうち笑ひて、つれなき心もつかふなれ。
 あまりこよなく思し貶したるに、えなむ静め果つまじき心地しはべる。世の中をむげに思し知らぬにしもあらじを」
 と、よろづに聞こえせめられたまひて、いかが言ふべきと、わびしう思しめぐらす。
 世を知りたる方の心やすきやうに、折々ほのめかすも、めざましう、「げに、たぐひなき身の憂さなりや」と、思し続けたまふに、死ぬべくおぼえたまうて、
 「憂きみづからの罪を思ひ知るとても、いとかうあさましきを、いかやうに思ひなすべきにかはあらむ」
 と、いとほのかに、あはれげに泣いたまうて、
 「我のみや憂き世を知れるためしにて
  濡れそふ袖の名を朽たすべき」
 とのたまふともなきを、わが心に続けて、忍びやかにうち誦じたまへるも、かたはらいたく、いかに言ひつることぞと、思さるるに、
 「げに、悪しう聞こえつかし」
 など、ほほ笑みたまへるけしきにて、
 「おほかたは我濡衣を着せずとも
  朽ちにし袖の名やは隠るる
 ひたぶるに思しなりねかし」
 とて、月明き方に誘ひきこゆるも、あさまし、と思す。心強うもてなしたまへど、はかなう引き寄せたてまつりて、
 「かばかりたぐひなき心ざしを御覧じ知りて、心やすうもてなしたまへ。御許しあらでは、さらに、さらに」
 と、いとけざやかに聞こえたまふほど、明け方近うなりにけり。

 月隈なう澄みわたりて、霧にも紛れずさし入りたり。浅はかなる廂の軒は、ほどもなき心地すれば、月の顔に向かひたるやうなる、あやしうはしたなくて、紛らはしたまへるもてなしなど、いはむかたなくなまめきたまへり。
 故君の御こともすこし聞こえ出でて、さまようのどやかなる物語をぞ聞こえたまふ。さすがになほ、かの過ぎにし方に思し貶すをば、恨めしげに怨みきこえたまふ。御心の内にも、
 「かれは、位などもまだ及ばざりけるほどながら、誰たれも御許しありけるに、おのづからもてなされて、見馴れたまひにしを、それだにいとめざましき心のなりにしさま、ましてかうあるまじきことに、よそに聞くあたりにだにあらず、大殿などの聞き思ひたまはむことよ。なべての世のそしりをばさらにもいはず、院にもいかに聞こし召し思ほされむ」
 など、離れぬここかしこの御心を思しめぐらすに、いと口惜しう、わが心一つに、
 「かう強う思ふとも、人のもの言ひいかならむ。御息所の知りたまはざらむも、罪得がましう、かく聞きたまひて、心幼く、と思しのたまはむ」もわびしければ、
 「明かさでだに出でたまへ」
 と、やらひきこえたまふより外の言なし。
 「あさましや。ことあり顔に分けはべらむ朝露の思はむところよ。なほ、さらば思し知れよ。をこがましきさまを見えたてまつりて、賢うすかしやりつと思し離れむこそ、その際は心もえ収めあふまじう、知らぬことと、けしからぬ心づかひもならひはじむべう思ひたまへらるれ」
 とて、いとうしろめたく、なかなかなれど、ゆくりかにあざれたることの、まことにならはぬ御心地なれば、「いとほしう、わが御みづからも心劣りやせむ」など思いて、誰が御ためにも、あらはなるまじきほどの霧に立ち隠れて出でたまふ、心地そらなり。
 「荻原や軒端の露にそぼちつつ
  八重立つ霧を分けぞ行くべき
 濡衣はなほえ干させたまはじ。かうわりなうやらはせたまふ御心づからこそは」
 と聞こえたまふ。げに、この御名のたけからず漏りぬべきを、「心の問はむにだに、口ぎよう答へむ」と思せば、いみじうもて離れたまふ。
 「分け行かむ草葉の露をかことにて
  なほ濡衣をかけむとや思ふ
 めづらかなることかな」
 と、あはめたまへるさま、いとをかしう恥づかしげなり。年ごろ、人に違へる心ばせ人になりて、さまざまに情けを見えたてまつる、名残なく、うちたゆめ、好き好きしきやうなるが、いとほしう、心恥づかしげなれば、おろかならず思ひ返しつつ、「かうあながちに従ひきこえても、後をこがましくや」と、さまざまに思ひ乱れつつ出でたまふ。道の露けさも、いと所狭し。


 


 かやうの歩き、慣らひたまはぬ心地に、をかしうも心尽くしにもおぼえつつ、殿におはせば、女君の、かかる濡れをあやしと咎めたまひぬべければ、六条院の東の御殿に参うでたまひぬ。まだ朝霧も晴れず、ましてかしこにはいかに、と思しやる。
 「例ならぬ御歩きありけり」
 と、人びとはささめく。しばしうち休みたまひて、御衣脱ぎ替へたまふ。常に夏冬といときよらにしおきたまへれば、香の御唐櫃より取う出て奉りたまふ。御粥など参りて、御前に参りたまふ。
 かしこに御文たてまつりたまへれど、御覧じも入れず。にはかにあさましかりしありさま、めざましうも恥づかしうも思すに、心づきなくて、御息所の漏り聞きたまはむことも、いと恥づかしう、また、かかることやとかけて知りたまはざらむに、ただならぬふしにても見つけたまひ、人のもの言ひ隠れなき世なれば、おのづから聞きあはせて、隔てけると思さむがいと苦しければ、
 「人びとありしままに聞こえ漏らさなむ。憂しと思すともいかがはせむ」と思す。
 親子の御仲と聞こゆる中にも、つゆ隔てずぞ思ひ交はしたまへる。よその人は漏り聞けども、親に隠すたぐひこそは、昔の物語にもあめれど、さはた思されず。人びとは、
 「何かは、ほのかに聞きたまひて、ことしもあり顔に、とかく思し乱れむ。まだきに、心苦し」
 など言ひあはせて、いかならむと思ふどち、この御消息のゆかしきを、ひきも開けさせたまはねば、心もとなくて、
 「なほ、むげに聞こえさせたまはざらむも、おぼつかなく、若々しきやうにぞはべらむ」
 など聞こえて、広げたれば、
 「あやしう、何心もなきさまにて、人にかばかりにても見ゆるあはつけさの、みづからの過ちに思ひなせど、思ひやりなかりしあさましさも、慰めがたくなむ。え見ずとを言へ」
 と、ことのほかにて、寄り臥させたまひぬ。
 さるは、憎げもなく、いと心深う書いたまうて、
 「魂をつれなき袖に留めおきて
  わが心から惑はるるかな
 ほかなるものはとか、昔もたぐひありけりと思うたまへなすにも、さらに行く方知らずのみなむ」
 など、いと多かめれど、人はえまほにも見ず。例のけしきなる今朝の御文にもあらざめれど、なほえ思ひはるけず。人びとは、御けしきもいとほしきを、嘆かしう見たてまつりつつ、
 「いかなる御ことにかはあらむ。何ごとにつけても、ありがたうあはれなる御心ざまはほど経ぬれど」
 「かかる方に頼みきこえては、見劣りやしたまはむ、と思ふも危ふく」
 など、睦ましうさぶらふ限りは、おのがどち思ひ乱る。御息所もかけて知りたまはず。


 もののけにわづらひたまふ人は、重しと見れど、さはやぎたまふ隙もありてなむ、ものおぼえたまふ。日中の御加持果てて、阿闍梨一人とどまりて、なほ陀羅尼読みたまふ。よろしうおはします、喜びて、
 「大日如来虚言したまはずは。などてか、かくなにがしが心を致して仕うまつる御修法、験なきやうはあらむ。悪霊は執念きやうなれど、業障にまとはれたるはかなものなり」
 と、声はかれて怒りたまふ。いと聖だち、すくすくしき律師にて、ゆくりもなく、
 「そよや。この大将は、いつよりここには参り通ひたまふぞ」
 と問ひ申したまふ。御息所、
 「さることもはべらず。故大納言のいとよき仲にて、語らひつけたまへる心違へじと、この年ごろ、さるべきことにつけて、いとあやしくなむ語らひものしたまふも、かくふりはへ、わづらふを訪らひにとて、立ち寄りたまへりければ、かたじけなく聞きはべりし」
 と聞こえたまふ。
 「いで、あなかたは。なにがしに隠さるべきにもあらず。今朝、後夜に参う上りつるに、かの西の妻戸より、いとうるはしき男の出でたまへるを、霧深くて、なにがしはえ見分いたてまつらざりつるを、この法師ばらなむ、『大将殿の出でたまふなりけり』と、『昨夜も御車も返して泊りたまひにける』と、口々申しつる。
 げに、いと香うばしき香の満ちて、頭痛きまでありつれば、げにさなりけりと、思ひあはせはべりぬる。常にいと香うばしうものしたまふ君なり。このこと、いと切にもあらぬことなり。人はいと有職にものしたまふ。
 なにがしらも、童にものしたまうし時より、かの君の御ためのことは、修法をなむ、故大宮ののたまひつけたりしかば、一向にさるべきこと、今に承るところなれど、いと益なし。本妻強くものしたまふ。さる、時にあへる族類にて、いとやむごとなし。若君たちは、七、八人になりたまひぬ。
 え皇女の君圧したまはじ。また、女人の悪しき身をうけ、長夜の闇に惑ふは、ただかやうの罪によりなむ、さるいみじき報いをも受くるものなる。人の御怒り出で来なば、長きほだしとなりなむ。もはら受けひかず」
 と、頭振りて、ただ言ひに言ひ放てば、
 「いとあやしきことなり。さらにさるけしきにも見えたまはぬ人なり。よろづ心地の惑ひにしかば、うち休みて対面せむとてなむ、しばし立ち止まりたまへると、ここなる御達言ひしを、さやうにて泊りたまへるにやあらむ。おほかたいとまめやかに、すくよかにものしたまふ人を」
 と、おぼめいたまひながら、心のうちに、
 「さることもやありけむ。ただならぬ御けしきは、折々見ゆれど、人の御さまのいとかどかどしう、あながちに人の誹りあらむことははぶき捨て、うるはしだちたまへるに、たはやすく心許されぬことはあらじと、うちとけたるぞかし。人少なにておはするけしきを見て、はひ入りもやしたまひけむ」と思す。


 
 律師立ちぬる後に、小少将の君を召して、
 「かかることなむ聞きつる。いかなりしことぞ。などかおのれには、さなむ、かくなむとは聞かせたまはざりける。さしもあらじと思ひながら」
 とのたまへば、いとほしけれど、初めよりありしやうを、詳しう聞こゆ。今朝の御文のけしき、宮もほのかにのたまはせつるやうなど聞こえ、
 「年ごろ、忍びわたりたまひける心の内を、聞こえ知らせむとばかりにやはべりけむ。ありがたう用意ありてなむ、明かしも果てで出でたまひぬるを、人はいかに聞こえはべるにか」。
 律師とは思ひも寄らで、忍びて人の聞こえけると思ふ。ものものたまはで、いと憂く口惜しと思すに、涙ほろほろとこぼれたまひぬ。見たてまつるも、いといとほしう、「何に、ありのままに聞こえつらむ。苦しき御心地を、いとど思し乱るらむ」と悔しう思ひゐたり。
 「障子は鎖してなむ」と、よろづによろしきやうに聞こえなせど、
 「とてもかくても、さばかりに、何の用意もなく、軽らかに人に見えたまひけむこそ、いといみじけれ。うちうちの御心きようおはすとも、かくまで言ひつる法師ばら、よからぬ童べなどは、まさに言ひ残してむや。人には、いかに言ひあらがひ、さもあらぬことと言ふべきにかあらむ。すべて、心幼き限りしも、ここにさぶらひて」
 とも、えのたまひやらず。いと苦しげなる御心地に、ものを思しおどろきたれば、いといとほしげなり。気高うもてなしきこえむとおぼいたるに、世づかはしう、軽々しき名の立ちたまふべきを、おろかならず思し嘆かる。
 「かうすこしものおぼゆる隙に、渡らせたまうべう聞こえよ。そなたへ参り来べけれど、動きすべうもあらでなむ。見たてまつらで、久しうなりぬる心地すや」
 と、涙を浮けてのたまふ。参りて、
 「しかなむ聞こえさせたまふ」
 とばかり聞こゆ。

 渡りたまはむとて、御額髪の濡れまろがれたる、ひきつくろひ、単衣の御衣ほころびたる、着替へなどしたまひても、とみにもえ動いたまはず。
 「この人びともいかに思ふらむ。まだえ知りたまはで、後にいささかも聞きたまふことあらむに、つれなくてありしよ」
 と思しあはせむも、いみじう恥づかしければ、また臥したまひぬ。
 「心地のいみじう悩ましきかな。やがて直らぬさまにもありなむ、いとめやすかりぬべくこそ。脚の気の上りたる心地す」
 と、押し下させたまふ。ものをいと苦しう、さまざまに思すにには、気ぞ上がりける。
 少将、
 「上に、この御ことほのめかし聞こえける人こそはべけれ。いかなりしことぞ、と問はせたまひつれば、ありのままに聞こえさせて、御障子の固めばかりをなむ、すこしこと添へて、けざやかに聞こえさせつる。もし、さやうにかすめきこえさせたまはば、同じさまに聞こえさせたまへ」
 と申す。
 嘆いたまへるけしきは聞こえ出でず。「さればよ」と、いとわびしくて、ものものたまはぬ御枕より、雫ぞ落つる。
 「このことにのみもあらず、身の思はずになりそめしより、いみじうものをのみ思はせたてまつること」
 と、生けるかひなく思ひ続けたまひて、「この人は、かうても止まで、とかく言ひかかづらひ出でむも、わづらはしう、聞き苦しかるべう」、よろづに思す。「まいて、いふかひなく、人の言によりて、いかなる名を朽たさまし」
 など、すこし思し慰むる方はあれど、「かばかりになりぬる高き人の、かくまでも、すずろに人に見ゆるやうあはらじかし」と、宿世憂く思し屈して、夕つ方ぞ、
 「なほ、渡らせたまへ」
 とあれば、中の塗籠の戸開けあはせて、渡りたまへる。

 苦しき御心地にも、なのめならずかしこまりかしづききこえたまふ。常の御作法あやまたず、起き上がりたまうて、
 「いと乱りがはしげにはべれば、渡らせたまふも心苦しうてなむ。この二、三日ばかり見たてまつらざりけるほどの、年月の心地するも、かつはいとはかなくなむ。後、かならずしも、対面のはべるべきにもはべらざめり。まためぐり参るとも、かひやははべるべき。
 思へば、ただ時の間に隔たりぬべき世の中を、あながちにならひはべりにけるも、悔しきまでなむ」
 など泣きたまふ。
 宮も、もののみ悲しう取り集め思さるれば、聞こえたまふこともなくて見たてまつりたまふ。ものづつみをいたうしたまふ本性に、際々しうのたまひさはやぐべきにもあらねば、恥づかしとのみ思すに、いといとほしうて、いかなりしなども、問ひきこえたまはず。
 大殿油など急ぎ参らせて、御台など、こなたにて参らせたまふ。もの聞こし召さずと聞きたまひて、とかう手づからまかなひ直しなどしたまへど、触れたまふべくもあらず。ただ御心地のよろしう見えたまふぞ、胸すこしあけたまふ。


 


 かしこよりまた御文あり。心知らぬ人しも取り入れて、
 「大将殿より、少将の君にとて、御使ひあり」
 と言ふぞ、またわびしきや。少将、御文は取りつ。御息所、
 「いかなる御文にか」
 と、さすがに問ひたまふ。人知れず思し弱る心も添ひて、下に待ちきこえたまひけるに、さもあらぬなめりと思ほすも、心騷ぎして、
 「いで、その御文、なほ聞こえたまへ。あいなし。人の御名を善さまに言ひ直す人は難きものなり。そこに心きよう思すとも、しか用ゐる人は少なくこそあらめ。心うつくしきやうに聞こえ通ひたまうて、なほありしままならむこそ良からめ。あいなき甘えたるさまなるべし」
 とて、召し寄す。苦しけれどたてまつりつ。
 「あさましき御心のほどを見たてまつり表いてこそ、なかなか心やすく、ひたぶる心もつきはべりぬべけれ。
 せくからに浅さぞ見えむ山川の
 流れての名をつつみ果てずは」
 と言葉も多かれど、見も果てたまはず。
 この御文も、けざやかなるけしきにもあらで、めざましげに心地よ顔に、今宵つれなきを、いといみじと思す。
 「故督の君の御心ざまの思はずなりし時、いと憂しと思ひしかど、おほかたのもてなしは、また並ぶ人なかりしかば、こなたに力ある心地して慰めしだに、世には心もゆかざりしを。あな、いみじや。大殿のわたりに思ひのたまはむこと」
 と思ひしみたまふ。
 「なほ、いかがのたまふと、けしきをだに見む」と、心地のかき乱りくるるやうにしたまふ目、おし絞りて、あやしき鳥の跡のやうに書きたまふ。
 「頼もしげなくなりにてはべる、訪らひに渡りたまへる折にて、そそのかしきこゆれど、いとはればれしからぬさまにものしたまふめれば、見たまへわづらひてなむ。
 女郎花萎るる野辺をいづことて
 一夜ばかりの宿を借りけむ」
 と、ただ書きさして、おしひねりて出だしたまうて、臥したまひぬるままに、いといたく苦しがりたまふ。御もののけのたゆめけるにやと、人びと言ひ騒ぐ。
 例の、験ある限り、いと騒がしうののしる。宮をば、
 「なほ、渡らせたまひね」
 と、人びと聞こゆれど、御身の憂きままに、後れきこえじと思せば、つと添ひたまへり。


 大将殿は、この昼つ方、三条殿におはしにける、今宵立ち返り参でたまはむに、「ことしもあり顔に、まだきに聞き苦しかるべし」など念じたまひて、いとなかなか年ごろの心もとなさよりも、千重にもの思ひ重ねて嘆きたまふ。
 北の方は、かかる御ありきのけしきほの聞きて、心やましと聞きゐたまへるに、知らぬやうにて、君達もて遊び紛らはしつつ、わが昼の御座に臥したまへり。
 宵過ぐるほどにぞ、この御返り持て参れるを、かく例にもあらぬ鳥の跡のやうなれば、とみにも見解きたまはで、大殿油近う取り寄せて見たまふ。女君、もの隔てたるやうなれど、いと疾く見つけたまうて、はひ寄りて、御後ろより取りたまうつ。
 「あさましう。こは、いかにしたまふぞ。あな、けしからず。六条の東の上の御文なり。今朝、風邪おこりて悩ましげにしたまへるを、院の御前にはべりて、出でつるほど、またも参うでずなりぬれば、いとほしさに、今の間いかにと、聞こえたりつるなり。見たまへよ、懸想びたる文のさまか。さても、なほなほしの御さまや。年月に添へて、いたうあなづりたまふこそうれたけれ。思はむところを、むげに恥ぢたまはぬよ」
 とうちうめきて、惜しみ顔にもひこしろひたまはねば、さすがに、ふとも見で持たまへり。
 「年月に添ふるあなづらはしさは、御心ならひなべかめり」
 とばかり、かくうるはしだちたまへるに憚りて、若やかにをかしきさましてのたまへば、うち笑ひて、
 「そは、ともかくもあらむ。世の常のことなり。またあらじかし、よろしうなりぬる男の、かく紛ふ方なく、一つ所を守らへて、もの懼ぢしたる鳥の兄鷹のもののやうなるは。いかに人笑ふらむ。さるかたくなしき者に守られたまふは、御ためにもたけからずや。
 あまたが中に、なほ際まさり、ことなるけぢめ見えたるこそ、よそのおぼえも心にくく、わが心地もなほ古りがたく、をかしきこともあはれなるすぢも絶えざらめ。かく翁のなにがし守りけむやうに、おれ惑ひたれば、いとぞ口惜しき。いづこの栄えかあらむ」
 と、さすがに、この文のけしきなくをこつり取らむの心にて、欺き申したまへば、いとにほひやかにうち笑ひて、
 「ものの映え映えしさ作り出でたまふほど、古りぬる人苦しや。いと今めかしくなり変はれる御けしきのすさまじさも、見ならはずなりにける事なれば、いとなむ苦しき。かねてよりならはしたまはで」
 とかこちたまふも、憎くもあらず。
 「にはかにと思すばかりには、何ごとか見ゆらむ。いとうたてある御心の隈かな。よからずもの聞こえ知らする人ぞあるべき。あやしう、もとよりまろをば許さぬぞかし。なほ、かの緑の袖の名残、あなづらはしきにことづけて、もてなしたてまつらむと思ふやうあるにや。いろいろ聞きにくきことどもほのめくめり。あいなき人の御ためにも、いとほしう」
 などのたまへど、つひにあるべきことと思せば、ことにあらがはず。大輔の乳母、いと苦しと聞きて、ものも聞こえず。

 とかく言ひしろひて、この御文はひき隠したまひつれば、せめても漁り取らで、つれなく大殿籠もりぬれば、胸はしりて、「いかで取りてしがな」と、「御息所の御文なめり。何ごとありつらむ」と、目も合はず思ひ臥したまへり。
 女君の寝たまへるに、昨夜の御座の下などに、さりげなくて探りたまへど、なし。隠したまへらむほどもなければ、いと心やましくて、明けぬれど、とみにも起きたまはず。
 女君は、君達におどろかされて、ゐざり出でたまふにぞ、われも今起きたまふやうにて、よろづにうかがひたまへど、え見つけたまはず。女は、かく求めむとも思ひたまへらぬをぞ、「げに、懸想なき御文なりけり」と、心にも入れねば、君達のあわて遊びあひて、雛作り、拾ひ据ゑて遊びたまふ、書読み、手習ひなど、さまざまにいとあわたたし、小さき稚児這ひかかり引きしろへば、取りし文のことも思ひ出でたまはず。
 男は、異事もおぼえたまはず、かしこに疾く聞こえむと思すに、昨夜の御文のさまも、えたしかに見ずなりにしかば、「見ぬさまならむも、散らしてけると推し量りたまふべし」など、思ひ乱れたまふ。
 誰も誰も御台参りなどして、のどかになりぬる昼つ方、思ひわづらひて、
 「昨夜の御文は、何ごとかありし。あやしう見せたまはで。今日も訪らひ聞こゆべし。悩ましうて、六条にもえ参るまじければ、文をこそはたてまつらめ。何ごとかありけむ」
 とのたまふが、いとさりげなければ、「文は、をこがましう取りてけり」とすさまじうて、そのことをばかけたまはず、
 「一夜の深山風に、あやまりたまへる悩ましさななりと、をかしきやうにかこちきこえたまへかし」
 と聞こえたまふ。
 「いで、このひがこと、な常にのたまひそ。何のをかしきやうかある。世人になずらへたまふこそ、なかなか恥づかしけれ。この女房たちも、かつはあやしきまめざまを、かくのたまふと、ほほ笑むらむものを」
 と、戯れ言に言ひなして、
 「その文よ。いづら」
 とのたまへど、とみにも引き出でたまはぬほどに、なほ物語など聞こえて、しばし臥したまへるほどに、暮れにけり。

 ひぐらしの声におどろきて、「山の蔭いかに霧りふたがりぬらむ。あさましや。今日この御返事をだに」と、いとほしうて、ただ知らず顔に硯おしすりて、「いかになしてしにかとりなさむ」と、眺めおはする。
 御座の奥のすこし上がりたる所を、試みにひき上げたまへれば、「これにさし挟みたまへるなりけり」と、うれしうもをこがましうもおぼゆるに、うち笑みて見たまふに、かう心苦しきことなむありける。胸つぶれて、「一夜のことを、心ありて聞きたまうける」と思すに、いとほしう心苦し。
 「昨夜だに、いかに思ひ明かしたまうけむ。今日も、今まで文をだに」
 と、言はむ方なくおぼゆ。いと苦しげに、言ふかひなく、書き紛らはしたまへるさまにて、
 「おぼろけに思ひあまりてやは、かく書きたまうつらむ。つれなくて今宵の明けつらむ」
 と、言ふべき方のなければ、女君ぞ、いとつらう心憂き。
 「すずろに、かく、あだへ隠して。いでや、わがならはしぞや」と、さまざまに身もつらく、すべて泣きぬべき心地したまふ。
 やがて出で立ちたまはむとするを、
 「心やすく対面もあらざらむものから、人もかくのたまふ、いかならむ。坎日にもありけるを、もしたまさかに思ひ許したまはば、悪しからむ。なほ吉からむことをこそ」
 と、うるはしき心に思して、まづ、この御返りを聞こえたまふ。
 「いとめづらしき御文を、かたがたうれしう見たまふるに、この御咎めをなむ。いかに聞こし召したることにか。
  秋の野の草の茂みは分けしかど
  仮寝の枕結びやはせし
 明らめきこえさするもあやなけれど、昨夜の罪は、ひたやごもりにや」
 とあり。宮には、いと多く聞こえたまひて、御厩に足疾き御馬に移し置きて、一夜の大夫をぞたてまつれたまふ。
 「昨夜より、六条の院にさぶらひて、ただ今なむまかでつると言へ」
 とて、言ふべきやう、ささめき教へたまふ。

 かしこには、昨夜もつれなく見えたまひし御けしきを、忍びあへで、後の聞こえをもつつみあへず恨みきこえたまうしを、その御返りだに見えず、今日の暮れ果てぬるを、いかばかりの御心にかはと、もて離れてあさましう、心もくだけて、よろしかりつる御心地、またいといたう悩みたまふ。
 なかなか正身の御心のうちは、このふしをことに憂しとも思し、驚くべきことしなければ、ただおぼえぬ人に、うちとけたりしありさまを見えしことばかりこそ口惜しけれ、いとしも思ししまぬを、かくいみじうおぼいたるを、あさましう恥づかしう、明らめきこえたまふ方なくて、例よりももの恥ぢしたまへるけしき見えたまふを、「いと心苦しう、ものをのみ思ほし添ふべかりける」と見たてまつるも、胸つとふたがりて悲しければ、
 「今さらにむつかしきことをば聞こえじと思へど、なほ、御宿世とはいひながら、思はずに心幼くて、人のもどきを負ひたまふべきことを。取り返すべきことにはあらねど、今よりは、なほさる心したまへ。
 数ならぬ身ながらも、よろづに育みきこえつるを、今は何事をも思し知り、世の中のとざまかうざまのありさまをも、思したどりぬべきほどに、見たてまつりおきつることと、そなたざまはうしろやすくこそ見たてまつりつれ、なほいといはけて、強き御心おきてのなかりけることと、思ひ乱れはべるに、今しばしの命もとどめまほしうなむ。
 ただ人だに、すこしよろしくなりぬる女の、人二人と見る例は、心憂くあはつけきわざなるを、ましてかかる御身には、さばかりおぼろけにて、人の近づききこゆべきにもあらぬを、思ひのほかに心にもつかぬ御ありさまと、年ごろも見たてまつり悩みしかど、さるべき御宿世にこそは。
 院より始めたてまつりて、思しなびき、この父大臣にも許いたまふべき御けしきありしに、おのれ一人しも心をたてても、いかがはと思ひ寄りはべりしことなれば、末の世までものしき御ありさまを、わが御過ちならぬに、大空をかこちて見たてまつり過ぐすを、いとかう人のためわがための、よろづに聞きにくかりぬべきことの出で来添ひぬべきが、さても、よその御名をば知らぬ顔にて、世の常の御ありさまにだにあらば、おのづからあり経むにつけても、慰むこともやと、思ひなしはべるを、こよなう情けなき人の御心にもはべりけるかな」
 と、つぶつぶと泣きたまふ。

 いとわりなくおしこめてのたまふを、あらがひはるけむ言の葉もなくて、ただうち泣きたまへるさま、おほどかにらうたげなり。うちまもりつつ、
 「あはれ、何ごとかは、人に劣りたまへる。いかなる御宿世にて、やすからず、ものを深く思すべき契り深かりけむ」
 などのたまふままに、いみじう苦しうしたまふ。もののけなども、かかる弱目に所得るものなりければ、にはかに消え入りて、ただ冷えに冷え入りたまふ。律師も騷ぎたちたまうて、願など立てののしりたまふ。
 深き誓ひにて、今は命を限りける山籠もりを、かくまでおぼろけならず出で立ちて、壇こぼちて帰り入らむことの、面目なく、仏もつらくおぼえたまふべきことを、心を起こして祈り申したまふ。宮の泣き惑ひたまふこと、いとことわりなりかし。
 かく騒ぐほどに、大将殿より御文取り入れたる、ほのかに聞きたまひて、今宵もおはすまじきなめり、とうち聞きたまふ。
 「心憂く。世の例にも引かれたまふべきなめり。何に我さへさる言の葉を残しけむ」
 と、さまざま思し出づるに、やがて絶え入りたまひぬ。あへなくいみじと言へばおろかなり。昔より、もののけには時々患ひたまふ。限りと見ゆる折々もあれば、「例のごと取り入れたるなめり」とて、加持参り騒げど、今はのさま、しるかりけり。
 宮は、後れじと思し入りて、つと添ひ臥したまへり。人びと参りて、
 「今は、いふかひなし。いとかう思すとも、限りある道は、帰りおはすべきことにもあらず。慕ひきこえたまふとも、いかでか御心にはかなふべき」
 と、さらなることわりを聞こえて、
 「いとゆゆしう。亡き御ためにも、罪深きわざなり。今は去らせたまへ」
 と、引き動かいたてまつれど、すくみたるやうにて、ものもおぼえたまはず。
 修法の壇こぼちて、ほろほろと出づるに、さるべき限り、片へこそ立ちとまれ、今は限りのさま、いと悲しう心細し。

 所々の御弔ひ、いつの間にかと見ゆ。大将殿も、限りなく聞き驚きたまうて、まづ聞こえたまへり。六条の院よりも、致仕の大殿よりも、すべていとしげう聞こえたまふ。山の帝も聞こし召して、いとあはれに御文書いたまへり。宮は、この御消息にぞ、御ぐしもたげたまふ。
 「日ごろ重く悩みたまふと聞きわたりつれど、例も篤しうのみ聞きはべりつるならひに、うちたゆみてなむ。かひなきことをばさるものにて、思ひ嘆いたまふらむありさま推し量るなむ、あはれに心苦しき。なべての世のことわりに思し慰めたまへ」
 とあり。目も見えたまはねど、御返り聞こえたまふ。
 常にさこそあらめとのたまひけることとて、今日やがてをさめたてまつるとて、御甥の大和守にてありけるぞ、よろづに扱ひきこえける。
 骸をだにしばし見たてまつらむとて、宮は惜しみきこえたまひけれど、さてもかひあるべきならねば、皆いそぎたちて、ゆゆしげなるほどにぞ、大将おはしたる。
 「今日より後、日ついで悪しかりけり」
 など、人聞きにはのたまひて、いとも悲しうあはれに、宮の思し嘆くらむことを推し量りきこえたまうて、
 「かくしも急ぎわたりたまふべきことならず」
 と、人びといさめきこゆれど、しひておはしましぬ。

 ほどさへ遠くて、入りたまふほど、いと心すごし。ゆゆしげに引き隔てめぐらしたる儀式の方は隠して、この西面に入れたてまつる。大和守出で来て、泣く泣くかしこまりきこゆ。妻戸の簀子におし掛かりたまうて、女房呼び出でさせたまふに、ある限り、心も収まらず、物おぼえぬほどなり。
 かく渡りたまへるにぞ、いささか慰めて、少将の君は参る。物もえのたまひやらず。涙もろにおはせぬ心強さなれど、所のさま、人のけはひなどを思しやるも、いみじうて、常なき世のありさまの、人の上ならぬも、いと悲しきなりけり。ややためらひて、
 「よろしうおこたりたまふさまに承りしかば、思うたまへたゆみたりしほどに。夢も覚むるほどはべなるを、いとあさましうなむ」
 と聞こえたまへり。「思したりしさま、これに多くは御心も乱れにしぞかし」と思すに、さるべきとは言ひながらも、いとつらき人の御契りなれば、いらへをだにしたまはず。
 「いかに聞こえさせたまふとか、聞こえはべるべき」
 「いと軽らかならぬ御さまにて、かくふりはへ急ぎ渡らせたまへる御心ばへを、思し分かぬやうならむも、あまりにはべりぬべし」
 と、口々聞こゆれば、
 「ただ、推し量りて。我は言ふべきこともおぼえず」
 とて、臥したまへるもことわりにて、
 「ただ今は、亡き人と異ならぬ御ありさまにてなむ。渡らせたまへるよしは、聞こえさせはべりぬ」
 と聞こゆ。この人びともむせかへるさまなれば、
 「聞こえやるべき方もなきを。今すこしみづからも思ひのどめ、また静まりたまひなむに、参り来む。いかにしてかくにはかにと、その御ありさまなむゆかしき」
 とのたまへば、まほにはあらねど、かの思ほし嘆きしありさまを、片端づつ聞こえて、
 「かこちきこえさするさまになむ、なりはべりぬべき。今日は、いとど乱りがはしき心地どもの惑ひに、聞こえさせ違ふることどももはべりなむ。さらば、かく思し惑へる御心地も、限りあることにて、すこし静まらせたまひなむほどに、聞こえさせ承らむ」
 とて、我にもあらぬさまなれば、のたまひ出づることも口ふたがりて、
 「げにこそ、闇に惑へる心地すれ。なほ、聞こえ慰めたまひて、いささかの御返りもあらばなむ」
 などのたまひおきて、立ちわづらひたまふも、軽々しう、さすがに人騒がしければ、帰りたまひぬ。


 
 今宵しもあらじと思ひつる事どものしたため、いとほどなく際々しきを、いとあへなしと思いて、近き御荘の人びと召し仰せて、さるべき事ども仕うまつるべく、おきて定めて出でたまひぬ。事のにはかなれば、削ぐやうなりつることども、いかめしう、人数なども添ひてなむ。大和守も、
 「ありがたき殿の御心おきて」
 など、喜びかしこまりきこゆ。「名残だになくあさましきこと」と、宮は臥しまろびたまへど、かひなし。親と聞こゆとも、いとかくはならはすまじきものなりけり。見たてまつる人びとも、この御事を、またゆゆしう嘆ききこゆ。大和守、残りのことどもしたためて、
 「かく心細くては、えおはしまさじ。いと御心の隙あらじ」
 など聞こゆれど、なほ、峰の煙をだに、気近くて思ひ出できこえむと、この山里に住み果てなむと思いたり。
 御忌に籠もれる僧は、東面、そなたの渡殿、下屋などに、はかなき隔てしつつ、かすかにゐたり。西の廂をやつして、宮はおはします。明け暮るるも思し分かねど、月ごろ経ければ、九月になりぬ。


 


 山下ろしいとはげしう、木の葉の隠ろへなくなりて、よろづの事いといみじきほどなれば、おほかたの空にもよほされて、干る間もなく思し嘆き、「命さへ心にかなはず」と、厭はしういみじう思す。さぶらふ人びとも、よろづにもの悲しう思ひ惑へり。
 大将殿は、日々に訪らひきこえたまふ。寂しげなる念仏の僧など、慰むばかり、よろづの物を遣はし訪らはせたまひ、宮の御前には、あはれに心深き言の葉を尽くして怨みきこえ、かつは、尽きもせぬ御訪らひを聞こえたまへど、取りてだに御覧ぜず、すずろにあさましきことを、弱れる御心地に、疑ひなく思ししみて、消え失せたまひにしことを思し出づるに、「後の世の御罪にさへやなるらむ」と、胸に満つ心地して、この人の御ことをだにかけて聞きたまふは、いとどつらく心憂き涙のもよほしに思さる。人びとも聞こえわづらひぬ。
 一行の御返りをだにもなきを、「しばしは心惑ひしたまへる」など思しけるに、あまりにほど経ぬれば、
 「悲しきことも限りあるを。などか、かく、あまり見知りたまはずはあるべき。いふかひなく若々しきやうに」と恨めしう、「異事の筋に、花や蝶やと書けばこそあらめ、わが心にあはれと思ひ、もの嘆かしき方ざまのことを、いかにと問ふ人は、睦ましうあはれにこそおぼゆれ。
 大宮の亡せたまへりしを、いと悲しと思ひしに、致仕の大臣のさしも思ひたまへらず、ことわりの世の別れに、公々しき作法ばかりのことを孝じたまひしに、つらく心づきなかりしに、六条院の、なかなかねむごろに、後の御事をも営みたまうしが、わが方ざまといふ中にも、うれしう見たてまつりしその折に、故衛門督をば、取り分きて思ひつきにしぞかし。
 人柄のいたう静まりて、物をいたう思ひとどめたりし心に、あはれもまさりて、人より深かりしが、なつかしうおぼえし」
 など、つれづれとものをのみ思し続けて、明かし暮らしたまふ。


 女君、なほこの御仲のけしきを、
 「いかなるにかありけむ。御息所とこそ、文通はしも、こまやかにしたまふめりしか」
 など思ひ得がたくて、夕暮の空を眺め入りて臥したまへるところに、若君してたてまつれたまへる。はかなき紙の端に、
 「あはれをもいかに知りてか慰めむ
  あるや恋しき亡きや悲しき
 おぼつかなきこそ心憂けれ」
 とあれば、ほほ笑みて、
 「先ざきも、かく思ひ寄りてのたまふ、似げなの、亡きがよそへや」
 と思す。いとどしく、ことなしびに、
 「いづれとか分きて眺めむ消えかへる
  露も草葉のうへと見ぬ世を
 おほかたにこそ悲しけれ」
 と書いたまへり。「なほ、かく隔てたまへること」と、露のあはれをばさしおきて、ただならず嘆きつつおはす。
 なほ、かくおぼつかなく思しわびて、また渡りたまへり。「御忌など過ぐしてのどやかに」と思し静めけれど、さまでもえ忍びたまはず、
 「今はこの御なき名の、何かはあながちにもつつまむ。ただ世づきて、つひの思ひかなふべきにこそは」
 と、思したばかりにければ、北の方の御思ひやりを、あながちにもあらがひきこえたまはず。
 正身は強う思し離るとも、かの一夜ばかりの御恨み文をとらへどころにかこちて、「えしも、すすぎ果てたまはじ」と、頼もしかりけり。

 九月十余日、野山のけしきは、深く見知らぬ人だに、ただにやはおぼゆる。山風に堪へぬ木々の梢も、峰の葛葉も、心あわたたしう争ひ散る紛れに、尊き読経の声かすかに、念仏などの声ばかりして、人のけはひいと少なう、木枯の吹き払ひたるに、鹿はただ籬のもとにたたずみつつ、山田の引板にもおどろかず、色濃き稲どもの中に混じりてうち鳴くも、愁へ顔なり。
 滝の声は、いとどもの思ふ人をおどろかし顔に、耳かしかましうとどろき響く。草むらの虫のみぞ、よりどころなげに鳴き弱りて、枯れたる草の下より、龍胆の、われひとりのみ心長うはひ出でて、露けく見ゆるなど、皆例のこのころのことなれど、折から所からにや、いと堪へがたきほどの、もの悲しさなり。
 例の妻戸のもとに立ち寄りたまて、やがて眺め出だして立ちたまへり。なつかしきほどの直衣に、色こまやかなる御衣の擣目、いとけうらに透きて、影弱りたる夕日の、さすがに何心もなうさし来たるに、まばゆげに、わざとなく扇をさし隠したまへる手つき、「女こそかうはあらまほしけれ、それだにえあらぬを」と、見たてまつる。
 もの思ひの慰めにしつべく、笑ましき顔の匂ひにて、少将の君を、取り分きて召し寄す。簀子のほどもなけれど、奥に人や添ひゐたらむとうしろめたくて、えこまやかにも語らひたまはず。
 「なほ近くて。な放ちたまひそ。かく山深く分け入る心ざしは、隔て残るべくやは。霧もいと深しや」
 とて、わざとも見入れぬさまに、山の方を眺めて、「なほ、なほ」と切にのたまへば、鈍色の几帳を、簾のつまよりすこしおし出でて、裾をひきそばめつつゐたり。大和守の妹なれば、離れたてまつらぬうちに、幼くより生ほし立てたまうければ、衣の色いと濃くて、橡の衣一襲、小袿着たり。
 「かく尽きせぬ御ことは、さるものにて、聞こえなむ方なき御心のつらさを思ひ添ふるに、心魂もあくがれ果てて、見る人ごとに咎められはべれば、今はさらに忍ぶべき方なし」
 と、いと多く恨み続けたまふ。かの今はの御文のさまものたまひ出でて、いみじう泣きたまふ。

 この人も、ましていみじう泣き入りつつ、
 「その夜の御返りさへ見えはべらずなりにしを、今は限りの御心に、やがて思し入りて、暗うなりにしほどの空のけしきに、御心地惑ひにけるを、さる弱目に、例の御もののけの引き入れたてまつる、となむ見たまへし。
 過ぎにし御ことにも、ほとほと御心惑ひぬべかりし折をり多くはべりしを、宮の同じさまに沈みたまうしを、こしらへきこえむの御心強さになむ、やうやうものおぼえたまうし。この御嘆きをば、御前には、ただわれかの御けしきにて、あきれて暮らさせたまうし」
 など、とめがたげにうち嘆きつつ、はかばかしうもあらず聞こゆ。
 「そよや。そもあまりにおぼめかしう、いふかひなき御心なり。今は、かたじけなくとも、誰をかはよるべに思ひきこえたまはむ。御山住みも、いと深き峰に、世の中を思し絶えたる雲の中なめれば、聞こえ通ひたまはむこと難し。
 いとかく心憂き御けしき、聞こえ知らせたまへ。よろづのこと、さるべきにこそ。世にあり経じと思すとも、従はぬ世なり。まづは、かかる御別れの、御心にかなはば、あるべきことかは」
 など、よろづに多くのたまへど、聞こゆべきこともなくて、うち嘆きつつゐたり。鹿のいといたく鳴くを、「われ劣らめや」とて、
 「里遠み小野の篠原わけて来て
  我も鹿こそ声も惜しまね」
 とのたまへば、
 「藤衣露けき秋の山人は
  鹿の鳴く音に音をぞ添へつる」
 よからねど、折からに、忍びやかなる声づかひなどを、よろしう聞きなしたまへり。
 御消息とかう聞こえたまへど、
 「今は、かくあさましき夢の世を、すこしも思ひ覚ます折あらばなむ、絶えぬ御とぶらひも聞こえやるべき」
 とのみ、すくよかに言はせたまふ。「いみじういふかひなき御心なりけり」と、嘆きつつ帰りたまふ。

 道すがらも、あはれなる空を眺めて、十三日の月のいとはなやかにさし出でぬれば、小倉の山もたどるまじうおはするに、一条の宮は道なりけり。
 いとどうちあばれて、未申の方の崩れたるを見入るれば、はるばると下ろし籠めて、人影も見えず。月のみ遣水の面をあらはに澄みましたるに、大納言、ここにて遊びなどしたまうし折をりを、思ひ出でたまふ。
 「見し人の影澄み果てぬ池水に
  ひとり宿守る秋の夜の月」
 と独りごちつつ、殿におはしても、月を見つつ、心は空にあくがれたまへり。
 「さも見苦しう。あらざりし御癖かな」
 と、御達も憎みあへり。上は、まめやかに心憂く、
 「あくがれたちぬる御心なめり。もとよりさる方にならひたまへる六条院の人びとを、ともすればめでたき例にひき出でつつ、心よからずあいだちなきものに思ひたまへる、わりなしや。我も、昔よりしかならひなましかば、人目も馴れて、なかなか過ごしてまし。世の例にしつべき御心ばへと、親兄弟よりはじめたてまつり、めやすきあえものにしたまへるを、ありありては、末に恥がましきことやあらむ」
 など、いといたう嘆いたまへり。
 夜明け方近く、かたみにうち出でたまふことなくて、背き背きに嘆き明かして、朝霧の晴れ間も待たず、例の、文をぞ急ぎ書きたまふ。いと心づきなしと思せど、ありしやうにも奪ひたまはず。いとこまやかに書きて、うち置きてうそぶきたまふ。忍びたまへど、漏りて聞きつけらる。
 「いつとかはおどろかすべき明けぬ夜の
  夢覚めてとか言ひしひとこと
 上より落つる」
 とや書いたまひつらむ、おし包みて、名残も、「いかでよからむ」など口ずさびたまへり。人召して賜ひつ。「御返りことをだに見つけてしがな。なほ、いかなることぞ」と、けしき見まほしう思す。

 日たけてぞ持て参れる。紫のこまやかなる紙すくよかにて、小少将ぞ、例の聞こえたる。ただ同じさまに、かひなきよしを書きて、
 「いとほしさに、かのありつる御文に、手習ひすさびたまへるを盗みたる」
 とて、中にひき破りて入れたる、「目には見たまうてけり」と、思すばかりのうれしさぞ、いと人悪ろかりける。そこはかとなく書きたまへるを、見続けたまへれば、
 「朝夕に泣く音を立つる小野山は
  絶えぬ涙や音無の滝」
 とや、とりなすべからむ、古言など、もの思はしげに書き乱りたまへる、御手なども見所あり。
 「人の上などにて、かやうの好き心思ひ焦らるるは、もどかしう、うつし心ならぬことに見聞きしかど、身のことにては、げにいと堪へがたかるべきわざなりけり。あやしや。など、かうしも思ふべき心焦られぞ」
 と思ひ返したまへど、えしもかなはず。


 

 六条院にも聞こし召して、いとおとなしうよろづを思ひしづめ、人のそしりどころなく、めやすくて過ぐしたまふを、おもだたしう、わがいにしへ、すこしあざればみ、あだなる名を取りたまうし面起こしに、うれしう思しわたるを、
 「いとほしう、いづ方にも心苦しきことのあるべきこと。さし離れたる仲らひにてだにあらで、大臣なども、いかに思ひたまはむ。さばかりのこと、たどらぬにはあらじ。宿世といふもの、逃れわびぬることなり。ともかくも口入るべきことならず」
 と思す。女のためのみにこそ、いづ方にもいとほしけれと、あいなく聞こしめし嘆く。
 紫の上にも、来し方行く先のこと思し出でつつ、かうやうの例を聞くにつけても、亡からむ後、うしろめたう思ひきこゆるさまをのたまへば、御顔うち赤めて、「心憂く、さまで後らかしたまふべきにや」と思したり。
 「女ばかり、身をもてなすさまも所狭う、あはれなるべきものはなし。もののあはれ、折をかしきことをも、見知らぬさまに引き入り沈みなどすれば、何につけてか、世に経る映えばえしさも、常なき世のつれづれをも慰むべきぞは。
 おほかた、ものの心を知らず、いふかひなきものにならひたらむも、生ほしたてけむ親も、いと口惜しかるべきものにはあらずや。
 心にのみ籠めて、無言太子とか、小法師ばらの悲しきことにする昔のたとひのやうに、悪しきこと善きことを思ひ知りながら、埋もれなむも、いふかひなし。わが心ながらも、良きほどには、いかで保つべきぞ」
 と思しめぐらむも、今はただ女一の宮の御ためなり。


 大将の君、参りたまへるついでありて、思ひたまへらむけしきもゆかしければ、
 「御息所の忌果てぬらむな。昨日今日と思ふほどに、三年よりあなたのことになる世にこそあれ。あはれに、あぢきなしや。夕べの露かかるほどのむさぼりよ。いかでかこの髪剃りて、よろづ背き捨てむと思ふを、さものどやかなるやうにても過ぐすかな。いと悪ろきわざなりや」
 とのたまふ。
 「まことに惜しげなき人だにこそ、はべめれ」など聞こえて、「御息所の四十九日のわざなど、大和守なにがしの朝臣、一人扱ひはべる、いとあはれなるわざなりや。はかばかしきよすがなき人は、生ける世の限りにて、かかる世の果てこそ、悲しうはべりけれ」
 と、聞こえたまふ。
 「院よりも弔らはせたまふらむ。かの皇女、いかに思ひ嘆きたまふらむ。はやう聞きしよりは、この近き年ごろ、ことに触れて聞き見るに、この更衣こそ、口惜しからずめやすき人のうちなりけれ。おほかたの世につけて、惜しきわざなりや。さてもありぬべき人の、かう亡せゆくよ。
 院も、いみじう驚き思したりけり。かの皇女こそは、ここにものしたまふ入道の宮よりさしつぎには、らうたうしたまひけれ。人ざまもよくおはすべし」
 とのたまふ。
 「御心はいかがものしたまふらむ。御息所は、こともなかりし人のけはひ、心ばせになむ。親しううちとけたまはざりしかど、はかなきことのついでに、おのづから人の用意はあらはなるものになむはべる」
 と聞こえたまひて、宮の御こともかけず、いとつれなし。
 「かばかりのすくよけ心に思ひそめてむこと、諌めむにかなはじ。用ゐざらむものから、我賢しに言出でむもあいなし」
 と思して止みぬ。

 かくて御法事に、よろづとりもちてせさせたまふ。事の聞こえ、おのづから隠れなければ、大殿などにも聞きたまひて、「さやはあるべき」など、女方の心浅きやうに思しなすぞ、わりなきや。かの昔の御心あれば、君達、参で訪らひたまふ。
 誦経など、殿よりもいかめしうせさせたまふ。これかれも、さまざま劣らずしたまへれば、時の人のかやうのわざに劣らずなむありける。
 宮は、かくて住み果てなむと思し立つことありけれど、院に、人の漏らし奏しければ、
 「いとあるまじきことなり。げに、あまた、とざまかうざまに身をもてなしたまふべきことにもあらねど、後見なき人なむ、なかなかさるさまにて、あるまじき名を立ち、罪得がましき時、この世後の世、中空にもどかしき咎負ふわざなる。
 ここにかく世を捨てたるに、三の宮の同じごと身をやつしたまへる、すべなきやうに人の思ひ言ふも、捨てたる身には、思ひ悩むべきにはあらねど、かならずさしも、やうのことと争ひたまはむも、うたてあるべし。
 世の憂きにつけて厭ふは、なかなか人悪ろきわざなり。心と思ひ取る方ありて、今すこし思ひ静め、心澄ましてこそ、ともかうも」
 とたびたび聞こえたまうけり。この浮きたる御名をぞ聞こし召したるべき。「さやうのことの思はずなるにつけて倦じたまへる」と言はれたまはむことを思すなりけり。さりとて、また、「表はれてものしたまはむもあはあはしう、心づきなきこと」と、思しながら、恥づかしと思さむもいとほしきを、「何かは、我さへ聞き扱はむ」と思してなむ、この筋は、かけても聞こえたまはざりける。

 大将も、
 「とかく言ひなしつるも、今はあいなし。かの御心に許したまはむことは、難げなめり。御息所の心知りなりけりと、人には知らせむ。いかがはせむ。亡き人にすこし浅き咎は思はせて、いつありそめしことぞともなく、紛らはしてむ。さらがへりて、懸想だち、涙を尽くしかかづらはむも、いとうひうひしかるべし」
 と思ひ得たまうて、一条に渡りたまふべき日、その日ばかりと定めて、大和守召して、あるべき作法のたまひ、宮のうち払ひしつらひ、さこそいへども、女どちは、草茂う住みなしたまへりしを、磨きたるやうにしつらひなして、御心づかひなど、あるべき作法めでたう、壁代、御屏風、御几帳、御座などまで思し寄りつつ、大和守にのたまひて、かの家にぞ急ぎ仕うまつらせたまふ。
 その日、我おはしゐて、御車、御前などたてまつれたまふ。宮は、さらに渡らじと思しのたまふを、人びといみじう聞こえ、大和守も、
 「さらに承らじ。心細く悲しき御ありさまを見たてまつり嘆き、このほどの宮仕へは、堪ふるに従ひて仕うまつりぬ。
 今は、国のこともはべり、まかり下りぬべし。宮の内のことも、見たまへ譲るべき人もはべらず。いとたいだいしう、いかにと見たまふるを、かくよろづに思しいとなむを、げに、この方にとりて思たまふるには、かならずしもおはしますまじき御ありさまなれど、さこそは、いにしへも御心にかなはぬ例、多くはべれ。
 一所やは、世のもどきをも負はせたまふべき。いと幼くおはしますことなり。たけう思すとも、女の御心ひとつに、わが御身をとりしたため、顧みたまふべきやうかあらむ。なほ、人のあがめかしづきたまへらむに助けられてこそ、深き御心のかしこき御おきても、それにかかるべきものなり。
 君たちの聞こえ知らせたてまつりたまはぬなり。かつは、さるまじきことをも、御心どもに仕うまつりそめたまうて」
 と、言ひ続けて、左近、少将を責む。

 集りて聞こえこしらふるに、いとわりなく、あざやかなる御衣ども、人びとのたてまつり替へさするも、われにもあらず、なほ、いとひたぶるに削ぎ捨てまほしう思さるる御髪を、かき出でて見たまへば、六尺ばかりにて、すこし細りたれど、人はかたはにも見たてまつらず、みづからの御心には、
 「いみじの衰へや。人に見ゆべきありさまにもあらず。さまざまに心憂き身を」
 と思し続けて、また臥したまひぬ。
 「時違ひぬ。夜も更けぬべし」
 と、皆騒ぐ。時雨いと心あわたたしう吹きまがひ、よろづにもの悲しければ、
 「のぼりにし峰の煙にたちまじり
  思はぬ方になびかずもがな」
 心ひとつには強く思せど、そのころは、御鋏などやうのものは、皆とり隠して、人びとの守りきこえければ、
 「かくもて騒がざらむにてだに、何の惜しげある身にてか、をこがましう、若々しきやうにはひき忍ばむ。人聞きもうたて思すまじかべきわざを」
 と思せば、その本意のごともしたまはず。
 人びとは、皆いそぎ立ちて、おのおの、櫛、手筥、唐櫃、よろづの物を、はかばかしからぬ袋やうの物なれど、皆さきだてて運びたれば、一人止まりたまふべうもあらで、泣く泣く御車に乗りたまふも、傍らのみまもられたまて、こち渡りたまうし時、御心地の苦しきにも、御髪かき撫でつくろひ、下ろしたてまつりたまひしを思し出づるに、目も霧りていみじ。御佩刀に添へて経筥を添へたるが、御傍らも離れねば、
 「恋しさの慰めがたき形見にて
  涙にくもる玉の筥かな」
 黒きもまだしあへさせたまはず、かの手ならしたまへりし螺鈿の筥なりけり。誦経にせさせたまひしを、形見にとどめたまへるなりけり。浦島の子が心地なむ。


 
 おはしまし着きたれば、殿のうち悲しげもなく、人気多くて、あらぬさまなり。御車寄せて降りたまふを、さらに、故里とおぼえず、疎ましううたて思さるれば、とみにも下りたまはず。いとあやしう、若々しき御さまかなと、人びとも見たてまつりわづらふ。殿は、東の対の南面を、わが御方を、仮にしつらひて、住みつき顔におはす。三条殿には、人びと、
 「にはかにあさましうもなりたまひぬるかな。いつのほどにありしことぞ」
 と、驚きけり。なよらかにをかしばめることを、好ましからず思す人は、かくゆくりかなることぞうちまじりたまうける。されど、年経にけることを、音なくけしきも漏らさで過ぐしたまうけるなり、とのみ思ひなして、かく、女の御心許いたまはぬと、思ひ寄る人もなし。とてもかうても、宮の御ためにぞいとほしげなる。
 御まうけなどさま変はりて、もののはじめゆゆしげなれど、もの参らせなど、皆静まりぬるに、渡りたまて、少将の君をいみじう責めたまふ。
 「御心ざしまことに長う思されば、今日明日を過ぐして聞こえさせたまへ。なかなか、立ち帰りてもの思し沈みて、亡き人のやうにてなむ臥させたまひぬる。こしらへきこゆるをも、つらしとのみ思されたれば、何ごとも身のためこそはべれ。いとわづらはしう、聞こえさせにくくなむ」
 と言ふ。
 「いとあやしう。推し量りきこえさせしにはに違ひて、いはけなく心えがたき御心にこそありけれ」
 とて、思ひ寄れるさま、人の御ためも、わがためにも、世のもどきあるまじうのたまひ続くれば、
 「いでや、ただ今は、またいたづら人に見なしたてまつるべきにやと、あわたたしき乱り心地に、よろづ思たまへわかれず。あが君、とかくおしたちて、ひたぶるなる御心なつかはせたまひそ」
 と手をする。
 「いとまだ知らぬ世かな。憎くめざましと、人よりけに思し落とすらむ身こそいみじけれ。いかで人にもことわらせむ」
 と、いはむかたもなしと思してのたまへば、さすがにいとほしうもあり、
 「まだ知らぬは、げに世づかぬ御心がまへのけにこそはと、ことわりは、げに、いづ方にかは寄る人はべらむとすらむ」
 と、すこしうち笑ひぬ。

 かく心ごはけれど、今は、堰かれたまふべきならねば、やがてこの人をひき立てて、推し量りに入りたまふ。
 宮は、「いと心憂く、情けなくあはつけき人の心なりけり」と、ねたくつらければ、「若々しきやうには言ひ騒ぐとも」と思して、塗籠に御座ひとつ敷かせたまて、うちより鎖して大殿籠もりにけり。「これもいつまでにかは。かばかりに乱れ立ちにたる人の心どもは、いと悲しう口惜しう」思す。
 男君は、めざましうつらしと思ひきこえたまへど、かばかりにては、何のもて離るることかはと、のどかに思して、よろづに思ひ明かしたまふ。山鳥の心地ぞしたまうける。からうして明け方になりぬ。かくてのみ、ことといへば、直面なべければ、出でたまふとて、
 「ただ、いささかの隙をだに」
 と、いみじう聞こえたまへど、いとつれなし。
 「怨みわび胸あきがたき冬の夜に
  また鎖しまさる関の岩門
 聞こえむ方なき御心なりけり」
 と、泣く泣く出でたまふ。


 


 六条院にぞおはして、やすらひたまふ。東の上、
 「一条の宮渡したてまつりたまへることと、かの大殿わたりなどに聞こゆる、いかなる御ことにかは」
 と、いとおほどかにのたまふ。御几帳添へたれど、側よりほのかには、なほ見えたてまつりたまふ。
 「さやうにも、なほ人の言ひなしつべきことにはべり。故御息所は、いと心強う、あるまじきさまに言ひ放ちたまうしかど、限りのさまに、御心地の弱りけるに、また見譲るべき人のなきや悲しかりけむ、亡からむ後の後見にとやうなることのはべりしかば、もとよりの心ざしもはべりしことにて、かく思たまへなりぬるを、さまざまに、いかに人扱ひはべらむかし。さしもあるまじきをも、あやしう人こそ、もの言ひさがなきものにあれ」
 と、うち笑ひつつ、
 「かの正身なむ、なほ世に経じと深う思ひ立ちて、尼になりなむと思ひ結ぼほれたまふめれば、何かは。こなたかなたに聞きにくくもはべべきを、さやうに嫌疑離れても、また、かの遺言は違へじと思ひたまへて、ただかく言ひ扱ひはべるなり。
 院の渡らせたまへらむにも、ことのついではべらば、かうやうにまねびきこえさせたまへ。ありありて、心づきなき心つかふと、思しのたまはむを憚りはべりつれど、げに、かやうの筋にてこそ、人の諌めをも、みづからの心にも従はぬやうにはべりけれ」
 と、忍びやかに聞こえたまふ。
 「人のいつはりにやと思ひはべりつるを、まことにさるやうある御けしきにこそは。皆世の常のことなれど、三条の姫君の思さむことこそ、いとほしけれ。のどやかに慣らひたまうて」
 と聞こえたまへば、
 「らうたげにものたまはせなす、姫君かな。いと鬼しうはべるさがなものを」とて、「などてか、それをもおろかにはもてなしはべらむ。かしこけれど、御ありさまどもにても、推し量らせたまへ。
 なだらかならむのみこそ、人はつひのことにははべめれ。さがなくことがましきも、しばしはなまむつかしう、わづらはしきやうに憚らるることあれど、それにしも従ひ果つまじきわざなれば、ことの乱れ出で来ぬる後、我も人も、憎げに飽きたしや。
 なほ、南の御殿の御心もちゐこそ、さまざまにありがたう、さてはこの御方の御心などこそは、めでたきものには、見たてまつり果てはべりぬれ」
 など、ほめきこえたまへば、笑ひたまひて、
 「ものの例に引き出でたまふほどに、身の人悪ろきおぼえこそあらはれぬべう。
 さて、をかしきことは、院の、みづからの御癖をば人知らぬやうに、いささかあだあだしき御心づかひをば、大事と思いて、戒め申したまふ。後言にも聞こえたまふめるこそ、賢しだつ人の、おのが上知らぬやうにおぼえはべれ」
 とのたまへば、
 「さなむ、常にこの道をしも戒め仰せらるる。さるは、かしこき御教へならでも、いとよくをさめてはべる心を」
 とて、げにをかしと思ひたまへり。
 御前に参りたまへれば、かのことは聞こし召したれど、何かは聞き顔にもと思いて、ただうちまもりたまへるに、
 「いとめでたくきよらに、このころこそねびまさりたまへる御盛りなめれ。さるさまの好き事をしたまふとも、人のもどくべきさまもしたまはず。鬼神も罪許しつべく、あざやかにものきよげに、若う盛りに匂ひを散らしたまへり。
 もの思ひ知らぬ若人のほどにはたおはせず、かたほなるところなうねびととのほりたまへる、ことわりぞかし。女にて、などかめでざらむ。鏡を見ても、などかおごらざらむ」
 と、わが御子ながらも、思す。


 日たけて、殿には渡りたまへり。入りたまふより、若君たち、すぎすぎうつくしげにて、まつはれ遊びたまふ。女君は、帳の内に臥したまへり。
 入りたまへれど、目も見合はせたまはず。つらきにこそはあめれ、と見たまふもことわりなれど、憚り顔にももてなしたまはず、御衣をひきやりたまへれば、
 「いづことておはしつるぞ。まろは早う死にき。常に鬼とのたまへば、同じくはなり果てなむとて」
 とのたまふ。
 「御心こそ、鬼よりけにもおはすれ、さまは憎げもなければ、え疎み果つまじ」
 と、何心もなう言ひなしたまふも、心やましうて、
 「めでたきさまになまめいたまへらむあたりに、あり経べき身にもあらねば、いづちもいづちも失せなむとするを、かくだにな思し出でそ。あいなく年ごろを経けるだに、悔しきものを」
 とて、起き上がりたまへるさまは、いみじう愛敬づきて、匂ひやかにうち赤みたまへる顔、いとをかしげなり。
 「かく心幼げに腹立ちなしたまへればにや、目馴れて、この鬼こそ、今は恐ろしくもあらずなりにたれ。神々しき気を添へばや」
 と、戯れに言ひなしたまへど、
 「何ごと言ふぞ。おいらかに死にたまひね。まろも死なむ。見れば憎し。聞けば愛敬なし。見捨てて死なむはうしろめたし」
 とのたまふに、いとをかしきさまのみまされば、こまやかに笑ひて、
 「近くてこそ見たまはざらめ、よそにはなにか聞きたまはざらむ。さても、契り深かなる世を知らせむの御心ななり。にはかにうち続くべかなる冥途のいそぎは、さこそは契りきこえしか」
 と、いとつれなく言ひて、何くれと慰めこしらへきこえ慰めたまへば、いと若やかに心うつくしう、らうたき心はたおはする人なれば、なほざり言とは見たまひながら、おのづからなごみつつものしたまふを、いとあはれと思すものから、心は空にて、
 「かれも、いとわが心を立てて、強うものものしき人のけはひには見えたまはねど、もしなほ本意ならぬことにて、尼になども思ひなりたまひなば、をこがましうもあべいかな」
 と思ふに、しばしはとだえ置くまじう、あわたたしき心地して、暮れゆくままに、「今日も御返りだになきよ」と思して、心にかかりつつ、いみじう眺めをしたまふ。

 昨日今日つゆも参らざりけるもの、いささか参りなどしておはす。
 「昔より、御ために心ざしのおろかならざりしさま、大臣のつらくもてなしたまうしに、世の中の痴れがましき名を取りしかど、堪へがたきを念じて、ここかしこ、すすみけしきばみしあたりを、あまた聞き過ぐししありさまは、女だにさしもあらじとなむ、人ももどきし。
 今思ふにも、いかでかはさありけむと、わが心ながら、いにしへだに重かりけりと思ひ知らるるを、今は、かく憎みたまふとも、思し捨つまじき人びと、いと所狭きまで数添ふめれば、御心ひとつにもて離れたまふべくもあらず。また、よし見たまへや。命こそ定めなき世なれ」
 とて、うち泣きたまふこともあり。女も、昔のことを思ひ出でたまふに、
 「あはれにもありがたかりし御仲の、さすがに契り深かりけるかな」
 と、思ひ出でたまふ。なよびたる御衣ども脱いたまうて、心ことなるをとり重ねて焚きしめたまひ、めでたうつくろひ化粧じて出でたまふを、火影に見出だして、忍びがたく涙の出で来れば、脱ぎとめたまへる単衣の袖をひき寄せたまひて、
 「馴るる身を恨むるよりは松島の
  海人の衣に裁ちやかへまし
 なほうつし人にては、え過ぐすまじかりけり」
 と、独言にのたまふを、立ち止まりて、
 「さも心憂き御心かな。
  松島の海人の濡衣なれぬとて
  脱ぎ替へつてふ名を立ためやは」
 うち急ぎて、いとなほなほしや。

 かしこには、なほさし籠もりたまへるを、人びと、
 「かくてのみやは。若々しうけしからぬ聞こえもはべりぬべきを、例の御ありさまにて、あるべきことをこそ聞こえたまはめ」
 など、よろづに聞こえければ、さもあることとは思しながら、今より後のよその聞こえをも、わが御心の過ぎにし方をも、心づきなく、恨めしかりける人のゆかりと思し知りて、その夜も対面したまはず。「戯れにくく、めづらかなり」と、聞こえ尽くしたまふ。人もいとほしと見たてまつる。
 「『いささかも人心地する折あらむに、忘れたまはずは、ともかうも聞こえむ。この御服のほどは、一筋に思ひ乱るることなくてだに過ぐさむ』となむ、深く思しのたまはするを、かくいとあやにくに、知らぬ人なくなりぬめるを、なほいみじうつらきものに聞こえたまふ」
 と聞こゆ。
 「思ふ心は、また異ざまにうしろやすきものを。思はずなりける世かな」とうち嘆きて、「例のやうにておはしまさば、物越などにても、思ふことばかり聞こえて、御心破るべきにもあらず。あまたの年月をも過ぐしつべくなむ」
 など、尽きもせず聞こえたまへど、
 「なほ、かかる乱れに添へて、わりなき御心なむいみじうつらき。人の聞き思はむことも、よろづになのめならざりける身の憂さをば、さるものにて、ことさらに心憂き御心がまへなれ」
 と、また言ひ返し恨みたまひつつ、はるかにのみもてなしたまへり。

 「さりとて、かくのみやは。人の聞き漏らさむこともことわり」と、はしたなう、ここの人目もおぼえたまへば、
 「うちうちの御心づかひは、こののたまふさまにかなひても、しばしは情けばまむ。世づかぬありさまの、いとうたてあり。また、かかりとて、ひき絶え参らずは、人の御名いかがはいとほしかるべき。ひとへにものを思して、幼げなるこそいとほしけれ」
 など、この人を責めたまへば、げにと思ひ、見たてまつるも今は心苦しう、かたじけなうおぼゆるさまなれば、人通はしたまふ塗籠の北の口より、入れたてまつりてけり。
 いみじうあさましうつらしと、さぶらふ人をも、げにかかる世の人の心なれば、これよりまさる目をも見せつべかりけりと、頼もしき人もなくなり果てたまひぬる御身を、かへすがへす悲しう思す。
 男は、よろづに思し知るべきことわりを聞こえ知らせ、言の葉多う、あはれにもをかしうも聞こえ尽くしたまへど、つらく心づきなしとのみ思いたり。
 「いと、かう、言はむ方なきものに思ほされける身のほどは、たぐひなう恥づかしければ、あるまじき心のつきそめけむも、心地なく悔しうおぼえはべれど、とり返すものならぬうちに、何のたけき御名にかはあらむ。いふかひなく思し弱れ。
 思ふにかなはぬ時、身を投ぐる例もはべなるを、ただかかる心ざしを深き淵になずらへたまて、捨てつる身と思しなせ」
 と聞こえたまふ。単衣の御衣を御髪込めひきくくみて、たけきこととは、音を泣きたまふさまの、心深くいとほしければ、
 「いとうたて。いかなればいとかう思すらむ。いみじう思ふ人も、かばかりになりぬれば、おのづからゆるぶけしきもあるを、岩木よりけになびきがたきは、契り遠うて、憎しなど思ふやうあなるを、さや思すらむ」
 と思ひ寄るに、あまりなれば心憂く、三条の君の思ひたまふらむこと、いにしへも何心もなう、あひ思ひ交はしたりし世のこと、年ごろ、今はとうらなきさまにうち頼み、解けたまへるさまを思ひ出づるも、わが心もて、いとあぢきなう思ひ続けらるれば、あながちにもこしらへきこえたまはず、嘆き明かしたまうつ。

 かうのみ痴れがましうて出で入らむもあやしければ、今日は泊りて、心のどかにおはす。かくさへひたぶるなるを、あさましと宮は思いて、いよいよ疎き御けしきのまさるを、をこがましき御心かなと、かつは、つらきもののあはれなり。
 塗籠も、ことにこまかなるもの多うもあらで、香の御唐櫃、御厨子などばかりあるは、こなたかなたにかき寄せて、気近うしつらひてぞおはしける。うちは暗き心地すれど、朝日さし出でたるけはひ漏り来たるに、埋もれたる御衣ひきやり、いとうたて乱れたる御髪、かきやりなどして、ほの見たてまつりたまふ。
 いとあてに女しう、なまめいたるけはひしたまへり。男の御さまは、うるはしだちたまへる時よりも、うちとけてものしたまふは、限りもなうきよげなり。
 「故君の異なることなかりしだに、心の限り思ひあがり、御容貌まほにおはせずと、ことの折に思へりしけしきを思し出づれば、まして、かういみじう衰へにたるありさまを、しばしにても見忍びなむや」と思ふも、いみじう恥づかしう、とざまかうざまに思ひめぐらしつつ、わが御心をこしらへたまふ。
 ただかたはらいたう、ここもかしこも、人の聞き思さむことの罪さらむ方なきに、折さへいと心憂ければ、慰めがたきなりけり。
 御手水、御粥など、例の御座の方に参れり。色異なる御しつらひも、いまいましきやうなれば、東面は屏風を立てて、母屋の際に香染の御几帳など、ことことしきやうに見えぬ物、沈の二階なんどやうのを立てて、心ばへありてしつらひたり。大和守のしわざなりけり。
 人びとも、鮮やかならぬ色の、山吹、掻練、濃き衣、青鈍などを着かへさせ、薄色の裳、青朽葉などを、とかく紛らはして、御台は参る。女所にて、しどけなくよろづのことならひたる宮の内に、ありさま心とどめて、わづかなる下人をも言ひととのへ、この人一人のみ扱ひ行ふ。
 かくおぼえぬやむごとなき客人のおはすると聞きて、もと勤めざりける家司など、うちつけに参りて、政所など言ふ方にさぶらひて営みけり。


 


 かくせめても見馴れ顔に作りたまふほど、三条殿、
 「限りなめりと、さしもやはとこそ、かつは頼みつれ、まめ人の心変はるは名残なくなむと聞きしは、まことなりけり」
 と、世を試みつる心地して、「いかさまにしてこのなめげさを見じ」と思しければ、大殿へ、方違へむとて、渡りたまひにけるを、女御の里におはするほどなどに、対面したまうて、すこしもの思ひはるけどころに思されて、例のやうにも急ぎ渡りたまはず。
 大将殿も聞きたまひて、
 「さればよ。いと急にものしたまふ本性なり。この大臣もはた、おとなおとなしうのどめたるところ、さすがになく、いとひききりにはなやいたまへる人びとにて、めざまし、見じ、聞かじなど、ひがひがしきことどもし出でたまうつべき」
 と、驚かれたまうて、三条殿に渡りたまへれば、君たちも、片へは止まりたまへれば、姫君たち、さてはいと幼きとをぞ率ておはしにける、見つけてよろこびむつれ、あるは上を恋ひたてまつりて、愁へ泣きたまふを、心苦しと思す。
 消息たびたび聞こえて、迎へにたてまつれたまへど、御返りだになし。かくかたくなしう軽々しの世やと、ものしうおぼえたまへど、大臣の見聞きたまはむところもあれば、暮らして、みづから参りたまへり。


 寝殿になむおはするとて、例の渡りたまふ方は、御達のみさぶらふ。若君たちぞ、乳母に添ひておはしける。
 「今さらに若々しの御まじらひや。かかる人を、ここかしこに落しおきたまうて。など寝殿の御まじらひは。ふさはしからぬ御心の筋とは、年ごろ見知りたれど、さるべきにや、昔より心に離れがたう思ひきこえて、今はかく、くだくだしき人の数々あはれなるを、かたみに見捨つべきにやはと、頼みきこえける。はかなき一節に、かうはもてなしたまふべくや」
 と、いみじうあはめ恨み申したまへば、
 「何ごとも、今はと見飽きたまひにける身なれば、今はた、直るべきにもあらぬを、何かはとて。あやしき人びとは、思し捨てずは、うれしうこそはあらめ」
 と聞こえたまへり。
 「なだらかの御いらへや。言ひもていけば、誰が名か惜しき」
 とて、しひて渡りたまへともなくて、その夜はひとり臥したまへり。
 「あやしう中空なるころかな」と思ひつつ、君たちを前に臥せたまひて、かしこにまた、いかに思し乱るらむさま、思ひやりきこえ、やすからぬ心尽くしなれば、「いかなる人、かうやうなることをかしうおぼゆらむ」など、物懲しぬべうおぼえたまふ。
 明けぬれば、
 「人の見聞かむも若々しきを、限りとのたまひ果てば、さて試みむ。かしこなる人びとも、らうたげに恋ひきこゆめりしを、選り残したまへる、やうあらむとは見ながら、思ひ捨てがたきを、ともかくももてなしはべりなむ」
 と、脅しきこえたまへば、すがすがしき御心にて、この君達をさへや、知らぬ所に率て渡したまはむ、と危ふし。姫君を、
 「いざ、たまへかし。見たてまつりに、かく参り来ることもはしたなければ、常にも参り来じ。かしこにも人びとのらうたきを、同じ所にてだに見たてまつらむ」
 と聞こえたまふ。まだいといはけなく、をかしげにておはす、いとあはれと見たてまつりたまひて、
 「母君の御教へにな叶ひたまうそ。いと心憂く、思ひとる方なき心あるは、いと悪しきわざなり」
 と、言ひ知らせたてまつりたまふ。


 
 大臣、かかることを聞きたまひて、人笑はれなるやうに思し嘆く。
 「しばしは、さても見たまはで。おのづから思ふところものせらるらむものを。女のかくひききりなるも、かへりては軽くおぼゆるわざなり。よし、かく言ひそめつとならば、何かは愚れて、ふとしも帰りたまふ。おのづから人のけしき心ばへは見えなむ」
 とのたまはせて、この宮に、蔵人少将の君を御使にてたてまつりたまふ。
 「契りあれや君を心にとどめおきて
  あはれと思ふ恨めしと聞く
 なほ、え思し放たじ」
 とある御文を、少将持ておはして、ただ入りに入りたまふ。
 南面の簀子に円座さし出でて、人びと、もの聞こえにくし。宮は、ましてわびしと思す。
 この君は、なかにいと容貌よく、めやすきさまにて、のどやかに見まはして、いにしへを思ひ出でたるけしきなり。
 「参り馴れにたる心地して、うひうひしからぬに、さも御覧じ許さずやあらむ」
 などばかりぞかすめたまふ。御返りいと聞こえにくくて、
 「われはさらにえ書くまじ」
 とのたまへば、
 「御心ざしも隔て若々しきやうに。宣旨書き、はた聞こえさすべきにやは」
 と、集りて聞こえさすれば、まづうち泣きて、
 「故上おはせましかば、いかに心づきなし、と思しながらも、罪を隠いたまはまし」
 と思ひ出でたまふに、涙のみつらきに先だつ心地して、書きやりたまはず。
 「何ゆゑか世に数ならぬ身ひとつを
  憂しとも思ひかなしとも聞く」
 とのみ、思しけるままに、書きもとぢめたまはぬやうにて、おしつつみて出だしたまうつ。少将は、人びと物語して、
 「時々さぶらふに、かかる御簾の前は、たづきなき心地しはべるを、今よりはよすがある心地して、常に参るべし。内外なども許されぬべき、年ごろのしるし現はれはべる心地なむしはべる」
 など、けしきばみおきて出でたまひぬ。


 
 いとどしく心よからぬ御けしき、あくがれ惑ひたまふほど、大殿の君は、日ごろ経るままに、思し嘆くことしげし。典侍、かかることを聞くに、
 「われを世とともに許さぬものにのたまふなるに、かくあなづりにくきことも出で来にけるを」
 と思ひて、文などは時々たてまつれば、聞こえたり。
 「数ならば身に知られまし世の憂さを
  人のためにも濡らす袖かな」
 なまけやけしとは見たまへど、もののあはれなるほどのつれづれに、「かれもいとただにはおぼえじ」と思す片心ぞ、つきにける。
 「人の世の憂きをあはれと見しかども
  身にかへむとは思はざりしを」
 とのみあるを、思しけるままと、あはれに見る。
 この、昔、御中絶えのほどには、この内侍のみこそ、人知れぬものに思ひとめたまへりしか、こと改めて後は、いとたまさかに、つれなくなりまさりたまうつつ、さすがに君達はあまたになりにけり。
 この御腹には、太郎君、三郎君、五郎君、六郎君、中の君、四の君、五の君とおはす。内侍は、大君、三の君、六の君、次郎君、四郎君とぞおはしける。すべて十二人が中に、かたほなるなく、いとをかしげに、とりどりに生ひ出でたまひける。
 内侍腹の君達しもなむ、容貌をかしう、心ばせかどありて、皆すぐれたりける。三の君、次郎君は、東の御殿にぞ、取り分きてかしづきたてまつりたまふ。院も見馴れたまうて、いとらうたくしたまふ。
 この御仲らひのこと、言ひやるかたなく、とぞ。



  

  

            現代語訳 補足 目次

      四十、 御 法   
 


   
 



 紫の上、いたうわづらひたまひし御心地の後、いと篤しくなりたまひて、そこはかとなく悩みわたりたまふこと久しくなりぬ。
 いとおどろおどろしうはあらねど、年月重なれば、頼もしげなく、いとどあえかになりまさりたまへるを、院の思ほし嘆くこと、限りなし。しばしにても後れきこえたまはむことをば、いみじかるべく思し、みづからの御心地には、この世に飽かぬことなく、うしろめたきほだしだにまじらぬ御身なれば、あながちにかけとどめまほしき御命とも思されぬを、年ごろの御契りかけ離れ、思ひ嘆かせたてまつらむことのみぞ、人知れぬ御心のうちにも、ものあはれに思されける。後の世のためにと、尊きことどもを多くせさせたまひつつ、「いかでなほ本意あるさまになりて、しばしもかかづらはむ命のほどは、行ひを紛れなく」と、たゆみなく思しのたまへど、さらに許しきこえたまはず。
 さるは、わが御心にも、しか思しそめたる筋なれば、かくねむごろに思ひたまへるついでにもよほされて、同じ道にも入りなむと思せど、一度、家を出でたまひなば、仮にもこの世を顧みむとは思しおきてず、後の世には、同じ蓮の座をも分けむと、契り交はしきこえたまひて、頼みをかけたまふ御仲なれど、ここながら勤めたまはむほどは、同じ山なりとも、峰を隔てて、あひ見たてまつらぬ住み処にかけ離れなむことをのみ思しまうけたるに、かくいと頼もしげなきさまに悩み篤いたまへば、いと心苦しき御ありさまを、今はと行き離れむきざみには捨てがたく、なかなか、山水の住み処濁りぬべく、思しとどこほるほどに、ただうちあさへたる、思ひのままの道心起こす人びとには、こよなう後れたまひぬべかめり。
 御許しなくて、心一つに思し立たむも、さま悪しく本意なきやうなれば、このことによりてぞ、女君は、恨めしく思ひきこえたまひける。わが御身をも、罪軽かるまじきにやと、うしろめたく思されけり。


 年ごろ、私の御願にて書かせたてまつりたまひける『法華経』千部、いそぎて供養じたまふ。わが御殿と思す二条院にてぞしたまひける。七僧の法服など、品々賜はす。物の色、縫ひ目よりはじめて、きよらなること、限りなし。おほかた何ごとも、いといかめしきわざどもをせられたり。
 ことことしきさまにも聞こえたまはざりければ、詳しきことどもも知らせたまはざりけるに、女の御おきてにてはいたり深く、仏の道にさへ通ひたまひける御心のほどなどを、院はいと限りなしと見たてまつりたまひて、ただおほかたの御しつらひ、何かのことばかりをなむ、営ませたまひける。楽人、舞人などのことは、大将の君、取り分きて仕うまつりたまふ。
 内裏、春宮、后の宮たちをはじめたてまつりて、御方々、ここかしこに御誦経、俸物などばかりのことをうちしたまふだに所狭きに、まして、そのころ、この御いそぎを仕うまつらぬ所なければ、いとこちたきことどもあり。「いつのほどに、いとかくいろいろ思しまうけけむ。げに、石上の世々経たる御願にや」とぞ見えたる。
 花散里と聞こえし御方、明石なども渡りたまへり。南東の戸を開けておはします。寝殿の西の塗籠なりけり。北の廂に、方々の御局どもは、障子ばかりを隔てつつしたり。



 三月の十日なれば、花盛りにて、空のけしきなども、うららかにものおもしろく、仏のおはすなる所のありさま、遠からず思ひやられて、ことなり。深き心もなき人さへ、罪を失ひつべし。薪こる讃嘆の声も、そこら集ひたる響き、おどろおどろしきを、うち休みて静まりたるほどだにあはれに思さるるを、まして、このころとなりては、何ごとにつけても、心細くのみ思し知る。明石の御方に、三の宮して、聞こえたまへる。
 「惜しからぬこの身ながらもかぎりとて
  薪尽きなむことの悲しさ」
 御返り、心細き筋は、後の聞こえも心後れたるわざにや、そこはかとなくぞあめる。
 「薪こる思ひは今日を初めにて
  この世に願ふ法ぞはるけき」
 夜もすがら、尊きことにうち合はせたる鼓の声、絶えずおもしろし。ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花の色いろ、なほ春に心とまりぬべく匂ひわたりて、百千鳥のさへづりも、笛の音に劣らぬ心地して、もののあはれもおもしろさも残らぬほどに、陵王の舞ひ手急になるほどの末つ方の楽、はなやかににぎははしく聞こゆるに、皆人の脱ぎかけたるものの色いろなども、もののをりからにをかしうのみ見ゆ。
 親王たち、上達部の中にも、ものの上手ども、手残さず遊びたまふ。上下心地よげに、興あるけしきどもなるを見たまふにも、残り少なしと身を思したる御心のうちには、よろづのことあはれにおぼえたまふ。


 
 昨日、例ならず起きゐたまへりし名残にや、いと苦しうして臥したまへり。年ごろ、かかるものの折ごとに、参り集ひ遊びたまふ人びとの御容貌ありさまの、おのがじし才ども、琴笛の音をも、今日や見聞きたまふべきとぢめなるらむ、とのみ思さるれば、さしも目とまるまじき人の顔どもも、あはれに見えわたされたまふ。
 まして、夏冬の時につけたる遊び戯れにも、なま挑ましき下の心は、おのづから立ちまじりもすらめど、さすがに情けを交はしたまふ方々は、誰れも久しくとまるべき世にはあらざなれど、まづ我一人行方知らずなりなむを思し続くる、いみじうあはれなり。
 こと果てて、おのがじし帰りたまひなむとするも、遠き別れめきて惜しまる。花散里の御方に、
 「絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる
  世々にと結ぶ中の契りを」
 御返り、
 「結びおく契りは絶えじおほかたの
  残りすくなき御法なりとも」
 やがて、このついでに、不断の読経、懺法など、たゆみなく、尊きことどもせさせたまふ。御修法は、ことなるしるしも見えでほども経ぬれば、例のことになりて、うちはへさるべき所々、寺々にてぞせさせたまひける。



 夏になりては、例の暑さにさへ、いとど消え入りたまひぬべき折々多かり。そのことと、おどろおどろしからぬ御心地なれど、ただいと弱きさまになりたまへば、むつかしげに所狭く悩みたまふこともなし。さぶらふ人びとも、いかにおはしまさむとするにか、と思ひよるにも、まづかきくらし、あたらしう悲しき御ありさまと見たてまつる。
 かくのみおはすれば、中宮、この院にまかでさせたまふ。東の対におはしますべければ、こなたにはた待ちきこえたまふ。儀式など、例に変らねど、この世のありさまを見果てずなりぬるなどのみ思せば、よろづにつけてものあはれなり。名対面を聞きたまふにも、その人、かの人など、耳とどめて聞かれたまふ。
 上達部など、いと多く仕うまつりたまへり。久しき御対面のとだえを、めづらしく思して、御物語こまやかに聞こえたまふ。院入りたまひて、
 「今宵は、巣離れたる心地して、無徳なりや。まかりて休みはべらむ」
 とて、渡りたまひぬ。起きゐたまへるを、いとうれしと思したるも、いとはかなきほどの御慰めなり。
 「方々におはしましては、あなたに渡らせたまはむもかたじけなし。参らむこと、はたわりなくなりにてはべれば」
 とて、しばらくはこなたにおはすれば、明石の御方も渡りたまひて、心深げにしづまりたる御物語ども聞こえ交はしたまふ。



 上は、御心のうちに思しめぐらすこと多かれど、さかしげに、亡からむ後などのたまひ出づることもなし。ただなべての世の常なきありさまを、おほどかに言少ななるものから、あさはかにはあらずのたまひなしたるけはひなどぞ、言に出でたらむよりもあはれに、もの心細き御けしきは、しるう見えける。宮たちを見たてまつりたまうても、
 「おのおのの御行く末を、ゆかしく思ひきこえけるこそ、かくはかなかりける身を惜しむ心のまじりけるにや」
 とて、涙ぐみたまへる御顔の匂ひ、いみじうをかしげなり。「などかうのみ思したらむ」と思すに、中宮、うち泣きたまひぬ。ゆゆしげになどは聞こえなしたまはず、もののついでなどにぞ、年ごろ仕うまつり馴れたる人びとの、ことなるよるべなういとほしげなる、この人、かの人、
 「はべらずなりなむ後に、御心とどめて、尋ね思ほせ」
 などばかり聞こえたまひける。御読経などによりてぞ、例のわが御方に渡りたまふ。
 三の宮は、あまたの御中に、いとをかしげにて歩きたまふを、御心地の隙には、前に据ゑたてまつりたまひて、人の聞かぬ間に、
 「まろがはべらざらむに、思し出でなむや」
 と聞こえたまへば、
 「いと恋しかりなむ。まろは、内裏の上よりも宮よりも、婆をこそまさりて思ひきこゆれば、おはせずは、心地むつかしかりなむ」
 とて、目おしすりて紛らはしたまへるさま、をかしければ、ほほ笑みながら涙はおちぬ。
 「大人になりたまひなば、ここに住みたまひて、この対の前なる紅梅と桜とは、花の折々に、心とどめてもて遊びたまへ。さるべからむ折は、仏にもたてまつりたまへ」
 と聞こえたまへば、うちうなづきて、御顔をまもりて、涙の落つべかめれば、立ちておはしぬ。取り分きて生ほしたてまつりたまへれば、この宮と姫宮とをぞ、見さしきこえたまはむこと、口惜しくあはれに思されける。


 


 秋待ちつけて、世の中すこし涼しくなりては、御心地もいささかさはやぐやうなれど、なほともすれば、かことがまし。さるは、身にしむばかり思さるべき秋風ならねど、露けき折がちにて過ぐしたまふ。
 中宮は、参りたまひなむとするを、今しばしは御覧ぜよとも、聞こえまほしう思せども、さかしきやうにもあり、内裏の御使の隙なきもわづらはしければ、さも聞こえたまはぬに、あなたにもえ渡りたまはねば、宮ぞ渡りたまひける。
 かたはらいたけれど、げに見たてまつらぬもかひなしとて、こなたに御しつらひをことにせさせたまふ。「こよなう痩せ細りたまへれど、かくてこそ、あてになまめかしきことの限りなさもまさりてめでたかりけれ」と、来し方あまり匂ひ多く、あざあざとおはせし盛りは、なかなかこの世の花の薫りにもそよへられたまひしを、限りもなくらうたげにをかしげなる御さまにて、いとかりそめに世を思ひたまへるけしき、似るものなく心苦しく、すずろにもの悲し。

 
 風すごく吹き出でたる夕暮に、前栽見たまふとて、脇息に寄りゐたまへるを、院渡りて見たてまつりたまひて、
 「今日は、いとよく起きゐたまふめるは。この御前にては、こよなく御心もはればれしげなめりかし」
 と聞こえたまふ。かばかりの隙あるをも、いとうれしと思ひきこえたまへる御けしきを見たまふも、心苦しく、「つひに、いかに思し騒がむ」と思ふに、あはれなれば、
 「おくと見るほどぞはかなきともすれば
  風に乱るる萩のうは露」
 げにぞ、折れかへりとまるべうもあらぬ、よそへられたる折さへ忍びがたきを、見出だしたまひても、
 「ややもせば消えをあらそふ露の世に
  後れ先だつほど経ずもがな」
 とて、御涙を払ひあへたまはず。宮、
 「秋風にしばしとまらぬ露の世を
  誰れか草葉のうへとのみ見む」
 と聞こえ交はしたまふ御容貌ども、あらまほしく、見るかひあるにつけても、「かくて千年を過ぐすわざもがな」と思さるれど、心にかなはぬことなれば、かけとめむ方なきぞ悲しかりける。
 「今は渡らせたまひね。乱り心地いと苦しくなりはべりぬ。いふかひなくなりにけるほどと言ひながら、いとなめげにはべりや」
 とて、御几帳引き寄せて臥したまへるさまの、常よりもいと頼もしげなく見えたまへば、
 「いかに思さるるにか」
 とて、宮は、御手をとらへたてまつりて、泣く泣く見たてまつりたまふに、まことに消えゆく露の心地して、限りに見えたまへば、御誦経の使ひども、数も知らず立ち騷ぎたり。先ざきも、かくて生き出でたまふ折にならひたまひて、御もののけと疑ひたまひて、夜一夜さまざまのことをし尽くさせたまへど、かひもなく、明け果つるほどに消え果てたまひぬ。



 宮も、帰りたまはで、かくて見たてまつりたまへるを、限りなく思す。誰れも誰れも、ことわりの別れにて、たぐひあることとも思されず、めづらかにいみじく、明けぐれの夢に惑ひたまふほど、さらなりや。
 さかしき人おはせざりけり。さぶらふ女房なども、ある限り、さらにものおぼえたるなし。院は、まして思し静めむ方なければ、大将の君近く参りたまへるを、御几帳のもとに呼び寄せたてまつりたまひて、
 「かく今は限りのさまなめるを、年ごろの本意ありて思ひつること、かかるきざみに、その思ひ違へてやみなむがいといとほしき。御加持にさぶらふ大徳たち、読経の僧なども、皆声やめて出でぬなるを、さりとも、立ちとまりてものすべきもあらむ。この世にはむなしき心地するを、仏の御しるし、今はかの暗き道のとぶらひにだに頼み申すべきを、頭おろすべきよしものしたまへ。さるべき僧、誰れかとまりたる」
 などのたまふ御けしき、心強く思しなすべかめれど、御顔の色もあらぬさまに、いみじく堪へかね、御涙のとまらぬを、ことわりに悲しく見たてまつりたまふ。
 「御もののけなどの、これも、人の御心乱らむとて、かくのみものははべめるを、さもやおはしますらむ。さらば、とてもかくても、御本意のことは、よろしきことにはべなり。一日一夜忌むことのしるしこそは、むなしからずははべなれ。まことにいふかひなくなり果てさせたまひて、後の御髪ばかりをやつさせたまひても、異なるかの世の御光ともならせたまはざらむものから、目の前の悲しびのみまさるやうにて、いかがはべるべからむ」
 と申したまひて、御忌に籠もりさぶらふべき心ざしありてまかでぬ僧、その人、かの人など召して、さるべきことども、この君ぞ行ひたまふ。



 年ごろ、何やかやと、おほけなき心はなかりしかど、「いかならむ世に、ありしばかりも見たてまつらむ。ほのかにも御声をだに聞かぬこと」など、心にも離れず思ひわたりつるものを、「声はつひに聞かせたまはずなりぬるにこそはあめれ、むなしき御骸にても、今一度見たてまつらむの心ざしかなふべき折は、ただ今よりほかにいかでかあらむ」と思ふに、つつみもあへず泣かれて、女房の、ある限り騷ぎ惑ふを、
 「あなかま、しばし」
 と、しづめ顔にて、御几帳の帷を、もののたまふ紛れに、引き上げて見たまへば、ほのぼのと明けゆく光もおぼつかなければ、大殿油を近くかかげて見たてまつりたまふに、飽かずうつくしげに、めでたうきよらに見ゆる御顔のあたらしさに、この君のかくのぞきたまふを見る見るも、あながちに隠さむの御心も思されぬなめり。
 「かく何ごともまだ変らぬけしきながら、限りのさまはしるかりけるこそ」
 とて、御袖を顔におしあてたまへるほど、大将の君も、涙にくれて、目も見えたまはぬを、しひてしぼり開けて見たてまつるに、なかなか飽かず悲しきことたぐひなきに、まことに心惑ひもしぬべし。御髪のただうちやられたまへるほど、こちたくけうらにて、露ばかり乱れたるけしきもなう、つやつやとうつくしげなるさまぞ限りなき。
 火のいと明かきに、御色はいと白く光るやうにて、とかくうち紛らはすこと、ありしうつつの御もてなしよりも、いふかひなきさまにて、何心なくて臥したまへる御ありさまの、飽かぬ所なしと言はむもさらなりや。なのめにだにあらず、たぐひなきを見たてまつるに、「死に入る魂の、やがてこの御骸にとまらなむ」と思ほゆるも、わりなきことなりや。


 仕うまつり馴れたる女房などの、ものおぼゆるもなければ、院ぞ、何ごとも思しわかれず思さるる御心地を、あながちに静めたまひて、限りの御ことどもしたまふ。いにしへも、悲しと思すこともあまた見たまひし御身なれど、いとかうおり立ちてはまだ知りたまはざりけることを、すべて来し方行く先、たぐひなき心地したまふ。
 やがて、その日、とかく収めたてまつる。限りありけることなれば、骸を見つつもえ過ぐしたまふまじかりけるぞ、心憂き世の中なりける。はるばると広き野の、所もなく立ち込みて、限りなくいかめしき作法なれど、いとはかなき煙にて、はかなく昇りたまひぬるも、例のことなれど、あへなくいみじ。
 空を歩む心地して、人にかかりてぞおはしましけるを、見たてまつる人も、「さばかりいつかしき御身を」と、ものの心知らぬ下衆さへ、泣かぬなかりけり。御送りの女房は、まして夢路に惑ふ心地して、車よりもまろび落ちぬべきをぞ、もてあつかひける。
 昔、大将の君の御母君亡せたまへりし時の暁を思ひ出づるにも、かれは、なほもののおぼえけるにや、月の顔の明らかにおぼえしを、今宵はただくれ惑ひたまへり。
 十四日に亡せたまひて、これは十五日の暁なりけり。日はいとはなやかにさし上がりて、野辺の露も隠れたる隈なくて、世の中思し続くるに、いとど厭はしくいみじければ、「後るとても、幾世かは経べき。かかる悲しさの紛れに、昔よりの御本意も遂げてまほしく」思ほせど、心弱き後のそしりを思せば、「このほどを過ぐさむ」としたまふに、胸のせきあぐるぞ堪へがたかりける。


 


 大将の君も、御忌に籠もりたまひて、あからさまにもまかでたまはず、明け暮れ近くさぶらひて、心苦しくいみじき御けしきを、ことわりに悲しく見たてまつりたまひて、よろづに慰めきこえたまふ。
 風野分だちて吹く夕暮に、昔のこと思し出でて、「ほのかに見たてまつりしものを」と、恋しくおぼえたまふに、また「限りのほどの夢の心地せし」など、人知れず思ひ続けたまふに、堪へがたく悲しければ、人目にはさしも見えじ、とつつみて、
 「阿弥陀仏、阿弥陀仏」
 と引きたまふ数珠の数に紛らはしてぞ、涙の玉をばもて消ちたまひける。
 「いにしへの秋の夕べの恋しきに
  今はと見えし明けぐれの夢」
 ぞ、名残さへ憂かりける。やむごとなき僧どもさぶらはせたまひて、定まりたる念仏をばさるものにて、法華経など誦ぜさせたまふ。かたがたいとあはれなり。
 臥しても起きても涙の干る世なく、霧りふたがりて明かし暮らしたまふ。いにしへより御身のありさま思し続くるに、
 「鏡に見ゆる影をはじめて、人には異なりける身ながら、いはけなきほどより、悲しく常なき世を思ひ知るべく、仏などのすすめたまひける身を、心強く過ぐして、つひに来し方行く先も例あらじとおぼゆる悲しさを見つるかな。今は、この世にうしろめたきこと残らずなりぬ。ひたみちに行ひにおもむきなむに、障り所あるまじきを、いとかく収めむ方なき心惑ひにては、願はむ道にも入りがたくや」
 と、ややましきを、
 「この思ひすこしなのめに、忘れさせたまへ」
 と、阿弥陀仏を念じたてまつりたまふ。


 所々の御とぶらひ、内裏をはじめたてまつりて、例の作法ばかりにはあらず、いとしげく聞こえたまふ。思しめしたる心のほどには、さらに何ごとも目にも耳にもとまらず、心にかかりたまふこと、あるまじけれど、「人にほけほけしきさまに見えじ。今さらにわが世の末に、かたくなしく心弱き惑ひにて、世の中をなむ背きにける」と、流れとどまらむ名を思しつつむになむ、身を心にまかせぬ嘆きをさへうち添へたまひける。
 致仕の大臣、あはれをも折過ぐしたまはぬ御心にて、かく世になぐひなくものしたまふ人の、はかなく亡せたまひぬることを、口惜しくあはれに思して、いとしばしば問ひきこえたまふ。
 「昔、大将の御母亡せたまへりしも、このころのことぞかし」と思し出づるに、いともの悲しく、
 「その折、かの御身を惜しみきこえたまひし人の、多くも亡せたまひにけるかな。後れ先だつほどなき世なりけりや」
 など、しめやかなる夕暮にながめたまふ。空のけしきもただならねば、御子の蔵人少将してたてまつりたまふ。あはれなることなど、こまやかに聞こえたまひて、端に、
 「いにしへの秋さへ今の心地して
  濡れにし袖に露ぞおきそふ」
 御返し、
 「露けさは昔今ともおもほえず
  おほかた秋の夜こそつらけれ」
 もののみ悲しき御心のままならば、待ちとりたまひては、心弱くもと、目とどめたまひつべき大臣の御心ざまなれば、めやすきほどにと、
 「たびたびのなほざりならぬ御とぶらひの重なりぬること」
 と喜びきこえたまふ。
 「薄墨」とのたまひしよりは、今すこしこまやかにてたてまつれり。世の中に幸ひありめでたき人も、あいなうおほかたの世に嫉まれ、よきにつけても、心の限りおごりて、人のため苦しき人もあるを、あやしきまで、すずろなる人にもうけられ、はかなくし出でたまふことも、何ごとにつけても、世にほめられ、心にくく、折ふしにつけつつ、らうらうじく、ありがたかりし人の御心ばへなりかし。
 さしもあるまじきおほよその人さへ、そのころは、風の音虫の声につけつつ、涙落とさぬはなし。まして、ほのかにも見たてまつりし人の、思ひ慰むべき世なし。年ごろ睦ましく仕うまつり馴れつる人びと、しばしも残れる命、恨めしきことを嘆きつつ、尼になり、この世のほかの山住みなどに思ひ立つもありけり。



 冷泉院の后の宮よりも、あはれなる御消息絶えず、尽きせぬことども聞こえたまひて、
 「枯れ果つる野辺を憂しとや亡き人の
  秋に心をとどめざりけむ
 今なむことわり知られはべりぬる」
 とありけるを、ものおぼえぬ御心にも、うち返し、置きがたく見たまふ。「いふかひあり、をかしからむ方の慰めには、この宮ばかりこそおはしけれ」と、いささかのもの紛るるやうに思し続くるにも、涙のこぼるるを、袖の暇なく、え書きやりたまはず。
 「昇りにし雲居ながらもかへり見よ
  われ飽きはてぬ常ならぬ世に」
 おし包みたまひても、とばかり、うち眺めておはす。
 すくよかにも思されず、われながら、ことのほかにほれぼれしく思し知らるること多かる、紛らはしに、女方にぞおはします。
 仏の御前に人しげからずもてなして、のどやかに行ひたまふ。千年をももろともにと思ししかど、限りある別れぞいと口惜しきわざなりける。今は、蓮の露も異事に紛るまじく、後の世をと、ひたみちに思し立つこと、たゆみなし。されど、人聞きを憚りたまふなむ、あぢきなかりける。
 御わざのことども、はかばかしくのたまひおきつることどもなかりければ、大将の君なむ、とりもちて仕うまつりたまひける。今日やとのみ、わが身も心づかひせられたまふ折多かるを、はかなくて、積もりにけるも、夢の心地のみす。中宮なども、思し忘るる時の間なく、恋ひきこえたまふ。


  

  

            現代語訳 補足 目次

      四十一、 幻   
 


   
 



 春の光を見たまふにつけても、いとどくれ惑ひたるやうにのみ、御心ひとつは、悲しさの改まるべくもあらぬに、外には、例のやうに人びと参りたまひなどすれど、御心地悩ましきさまにもてなしたまひて、御簾の内にのみおはします。兵部卿宮渡りたまへるにぞ、ただうちとけたる方にて対面したまはむとて、御消息聞こえたまふ。
 「わが宿は花もてはやす人もなし
  何にか春のたづね来つらむ」
 宮、うち涙ぐみたまひて、
 「香をとめて来つるかひなくおほかたの
  花のたよりと言ひやなすべき」
 紅梅の下に歩み出でたまへる御さまの、いとなつかしきにぞ、これより他に見はやすべき人なくや、と見たまへる。花はほのかに開けさしつつ、をかしきほどの匂ひなり。御遊びもなく、例に変りたること多かり。
 女房なども、年ごろ経にけるは、墨染の色こまやかにて着つつ、悲しさも改めがたく、思ひさますべき世なく恋ひきこゆるに、絶えて、御方々にも渡りたまはず。紛れなく見たてまつるを慰めにて、馴れ仕うまつれる年ごろ、まめやかに御心とどめてなどはあらざりしかど、時々は見放たぬやうに思したりつる人びとも、なかなか、かかる寂しき御一人寝になりては、いとおほぞうにもてなしたまひて、夜の御宿直などにも、これかれとあまたを、御座のあたり引きさけつつ、さぶらはせたまふ。


 つれづれなるままに、いにしへの物語などしたまふ折々もあり。名残なき御聖心の深くなりゆくにつけても、さしもあり果つまじかりけることにつけつつ、中ごろ、もの恨めしう思したるけしきの、時々見えたまひしなどを思し出づるに、
 「などて、戯れにても、またまめやかに心苦しきことにつけても、さやうなる心を見えたてまつりけむ。何ごともらうらうじくおはせし御心ばへなりしかば、人の深き心もいとよう見知りたまひながら、怨じ果てたまふことはなかりしかど、一わたりづつは、いかならむとすらむ」
 と思したりしを、すこしにても心を乱りたまひけむことの、いとほしう悔しうおぼえたまふさま、胸よりもあまる心地したまふ。その折のことの心を知り、今も近う仕うまつる人びとは、ほのぼの聞こえ出づるもあり。
 入道の宮の渡りはじめたまへりしほど、その折はしも、色にはさらに出だしたまはざりしかど、ことにふれつつ、あぢきなのわざやと、思ひたまへりしけしきのあはれなりし中にも、雪降りたりし暁に立ちやすらひて、わが身も冷え入るやうにおぼえて、空のけしき激しかりしに、いとなつかしうおいらかなるものから、袖のいたう泣き濡らしたまへりけるをひき隠し、せめて紛らはしたまへりしほどの用意などを、夜もすがら、「夢にても、またはいかならむ世にか」と、思し続けらる。
 曙にしも、曹司に下るる女房なるべし、
 「いみじうも積もりにける雪かな」
 と言ふ声を聞きつけたまへる、ただその折の心地するに、御かたはらの寂しきも、いふかたなく悲し。
 「憂き世には雪消えなむと思ひつつ
  思ひの外になほぞほどふる」

 例の、紛らはしには、御手水召して行ひしたまふ。埋みたる火起こし出でて、御火桶参らす。中納言の君、中将の君など、御前近くて御物語聞こゆ。
 「独り寝常よりも寂しかりつる夜のさまかな。かくてもいとよく思ひ澄ましつべかりける世を、はかなくもかかづらひけるかな」
 と、うちながめたまふ。「我さへうち捨てては、この人びとの、いとど嘆きわびむことの、あはれにいとほしかるべき」など、見わたしたまふ。忍びやかにうち行ひつつ、経など読みたまへる御声を、よろしう思はむことにてだに涙とまるまじきを、まして、袖のしがらみせきあへぬまであはれに、明け暮れ見たてまつる人びとの心地、尽きせず思ひきこゆ。
 「この世につけては、飽かず思ふべきこと、をさをさあるまじう、高き身には生まれながら、また人よりことに、口惜しき契りにもありけるかな、と思ふこと絶えず。世のはかなく憂きを知らすべく、仏などのおきてたまへる身なるべし。それをしひて知らぬ顔にながらふれば、かく今はの夕べ近き末に、いみじきことのとぢめを見つるに、宿世のほども、みづからの心の際も、残りなく見果てて、心やすきに、今なむ露のほだしなくなりにたるを、これかれ、かくて、ありしよりけに目馴らす人びとの、今はとて行き別れむほどこそ、今一際の心乱れぬべけれ。いとはかなしかし。悪ろかりける心のほどかな」
 とて、御目おしのごひ隠したまふに、紛れず、やがてこぼるる御涙を、見たてまつる人びと、ましてせきとめむかたなし。さて、うち捨てられたてまつりなむがうれはしさを、おのおのうち出でまほしけれど、さもえ聞こえず、むせかへりてやみぬ。
 かくのみ嘆き明かしたまへる曙、ながめ暮らしたまへる夕暮などの、しめやかなる折々は、かのおしなべてには思したらざりし人びとを、御前近くて、かやうの御物語などをしたまふ。
 中将の君とてさぶらふは、まだ小さくより見たまひ馴れにしを、いと忍びつつ見たまひ過ぐさずやありけむ、いとかたはらいたきことに思ひて、馴れきこえざりけるを、かく亡せたまひて後は、その方にはあらず、人よりもらうたきものに心とどめたまへりし方ざまにも、かの御形見の筋につけてぞ、あはれに思ほしける。心ばせ容貌などもめやすくて、うなゐ松におぼえたるけはひ、ただならましよりは、らうらうじと思ほす。

 疎き人にはさらに見えたまはず。上達部なども、むつましき御兄弟の宮たちなど、常に参りたまへれど、対面したまふことをさをさなし。
 「人に向かはむほどばかりは、さかしく思ひしづめ、心収めむと思ふとも、月ごろにほけにたらむ身のありさま、かたくなしきひがことまじりて、末の世の人にもて悩まれむ、後の名さへうたてあるべし。思ひほれてなむ人にも見えざむなる、と言はれむも、同じことなれど、なほ音に聞きて思ひやることのかたはなるよりも、見苦しきことの目に見るは、こよなく際まさりてをこなり」
 と思せば、大将の君などにだに、御簾隔ててぞ対面したまひける。かく、心変りしたまへるやうに、人の言ひ伝ふべきころほひをだに思ひのどめてこそはと、念じ過ぐしたまひつつ、憂き世をも背きやりたまはず。御方々にまれにもうちほのめきたまふにつけては、まづいとせきがたき涙の雨のみ降りまされば、いとわりなくて、いづ方にもおぼつかなきさまにて過ぐしたまふ。
 后の宮は、内裏に参らせたまひて、三の宮をぞ、さうざうしき御慰めには、おはしまさせたまひける。
 「婆ののたまひしかば」
 とて、対の御前の紅梅は、いと取り分きて後見ありきたまふを、いとあはれと見たてまつりたまふ。
 如月になれば、花の木どもの盛りなるも、まだしきも、梢をかしう霞みわたれるに、かの御形見の紅梅に、鴬のはなやかに鳴き出でたれば、立ち出でて御覧ず。
 「植ゑて見し花のあるじもなき宿に
  知らず顔にて来ゐる鴬」
 と、うそぶき歩かせたまふ。

 春深くなくゆくままに、御前のありさま、いにしへに変らぬを、めでたまふ方にはあらねど、静心なく、何ごとにつけても胸いたう思さるれば、おほかたこの世の外のやうに、鳥の音も聞こえざらむ山の末ゆかしうのみ、いとどなりまさりたまふ。
 山吹などの、心地よげに咲き乱れたるも、うちつけに露けくのみ見なされたまふ。他の花は、一重散りて、八重咲く花桜盛り過ぎて、樺桜は開け、藤は後れて色づきなどこそはすめるを、その遅く疾き花の心をよく分きて、いろいろを尽くし植ゑおきたまひしかば、時を忘れず匂ひ満ちたるに、若宮、
 「まろが桜は咲きにけり。いかで久しく散らさじ。木のめぐりに帳を立てて、帷子を上げずは、風もえ吹き寄らじ」
 と、かしこう思ひ得たり、と思ひてのたまふ顔のいとうつくしきにも、うち笑まれたまひぬ。
 「覆ふばかりの袖求めけむ人よりは、いとかしこう思し寄りたまへりしかし」など、この宮ばかりをぞもてあそびに見たてまつりたまふ。
 「君に馴れきこえむことも残り少なしや。命といふもの、今しばしかかづらふべくとも、対面はえあらじかし」
 とて、例の、涙ぐみたまへれば、いとものしと思して、
 「婆ののたまひしことを、まがまがしうのたまふ」
 とて、伏目になりて、御衣の袖を引きまさぐりなどしつつ、紛らはしおはす。
 隅の間の高欄におしかかりて、御前の庭をも、御簾の内をも、見わたして眺めたまふ。女房なども、かの御形見の色変へぬもあり、例の色あひなるも、綾などはなやかにはあらず。みづからの御直衣も、色は世の常なれど、ことさらやつして、無紋をたてまつれり。御しつらひなども、いとおろそかにことそぎて、寂しく心細げにしめやかなれば、
 「今はとて荒らしや果てむ亡き人の
  心とどめし春の垣根を」
 人やりならず悲しう思さるる。

 いとつれづれなれば、入道の宮の御方に渡りたまふに、若宮も人に抱かれておはしまして、こなたの若君と走り遊び、花惜しみたまふ心ばへども深からず、いといはけなし。
 宮は、仏の御前にて、経をぞ読みたまひける。何ばかり深う思しとれる御道心にもあらざりしかども、この世に恨めしく御心乱るることもおはせず、のどやかなるままに、紛れなく行ひたまひて、一方に思ひ離れたまへるも、いとうらやましく、「かくあさへたまへる女の御心ざしにだに後れぬること」と口惜しう思さる。
 閼伽の花の、夕映えしていとおもしろく見ゆれば、
 「春に心寄せたりし人なくて、花の色もすさまじくのみ見なさるるを、仏の御飾りにてこそ見るべかりけれ」とのたまひて、「対の前の山吹こそ、なほ世に見えぬ花のさまなれ。房の大きさなどよ。品高くなどはおきてざりける花にやあらむ、はなやかににぎははしき方は、いとおもしろきものになむありける。植ゑし人なき春とも知らず顔にて、常よりも匂ひかさねたるこそ、あはれにはべれ」
 とのたまふ。御いらへに、
 「谷には春も」
 と、何心もなく聞こえたまふを、「ことしもこそあれ、心憂くも」と思さるるにつけても、「まづ、かやうのはかなきことにつけては、そのことのさらでもありなむかし、と思ふに、違ふふしなくてもやみにしかな」と、いはけなかりしほどよりの御ありさまを、「いで、何ごとぞやありし」と思し出づるには、まづ、その折かの折、かどかどしうらうらうじう、匂ひ多かりし心ざま、もてなし、言の葉のみ思ひ続けられたまふに、例の涙もろさは、ふとこぼれ出でぬるもいと苦し。

 夕暮の霞たどたどしく、をかしきほどなれば、やがて明石の御方に渡りたまへり。久しうさしものぞきたまはぬに、おぼえなき折なれば、うち驚かるれど、さまようけはひ心にくくもてつけて、「なほこそ人にはまさりたれ」と見たまふにつけては、またかうざまにはあらで、「かれはさまことにこそ、ゆゑよしをももてなしたまへりしか」と、思し比べらるるにも、面影に恋しう、悲しさのみまされば、「いかにして慰むべき心ぞ」と、いと比べ苦しう、こなたにては、のどやかに昔物語などしたまふ。
 「人をあはれと心とどめむは、いと悪ろかべきことと、いにしへより思ひ得て、すべていかなる方にも、この世に執とまるべきことなく、心づかひをせしに、おほかたの世につけて、身のいたづらにはふれぬべかりしころほひなど、とざまかうざまに思ひめぐらししに、命をもみづから捨てつべく、野山の末にはふらかさむに、ことなる障りあるまじくなむ思ひなりしを、末の世に、今は限りのほど近き身にてしも、あるまじきほだし多うかかづらひて、今まで過ぐしてけるが、心弱うも、もどかしきこと」
 など、さして一つ筋の悲しさにのみはのたまはねど、思したるさまのことわりに心苦しきを、いとほしう見たてまつりて、
 「おほかたの人目に、何ばかり惜しげなき人だに、心のうちのほだし、おのづから多うはべるなるを、ましていかでかは心やすくも思し捨てむ。さやうにあさへたることは、かへりて軽々しきもどかしさなども立ち出でて、なかなかなることなどはべるを、思したつほど、鈍きやうにはべらむや、つひに澄み果てさせたまふ方、深うはべらむと、思ひやられはべりてこそ。
 いにしへの例などを聞きはべるにつけても、心におどろかれ、思ふより違ふふしありて、世を厭ふついでになるとか。それはなほ悪るきこととこそ。なほ、しばし思しのどめさせたまひて、宮たちなどもおとなびさせたまひて、まことに動きなかるべき御ありさまに、見たてまつりなさせたまはむまでは、乱れなくはべらむこそ、心やすくも、うれしくもはべるべけれ」
 など、いとおとなびて聞こえたるけしき、いとめやすし。

 「さまで思ひのどめむ心深さこそ、浅きに劣りぬべけれ」
 などのたまひて、昔よりものを思ふことなど語り出でたまふ中に、
 「故后の宮の崩れたまへりし春なむ、花の色を見ても、まことに心あらばとおぼえし。それは、おほかたの世につけて、をかしかりし御ありさまを、幼くより見たてまつりしみて、さるとぢめの悲しさも、人よりことにおぼえしなり。
 みづから取り分く心ざしにも、もののあはれはよらぬわざなり。年経ぬる人に後れて、心収めむ方なく忘れがたきも、ただかかる仲の悲しさのみにはあらず。幼きほどより生ほしたてしありさま、もろともに老いぬる末の世にうち捨てられて、わが身も人の身も、思ひ続けらるる悲しさの、堪へがたきになむ。すべて、もののあはれも、ゆゑあることも、をかしき筋も、広う思ひめぐらす方、方々添ふことの、浅からずなるになむありける」
 など、夜更くるまで、昔今の御物語に、「かくても明かしつべき夜を」と思しながら、帰りたまふを、女もものあはれに思ふべし。わが御心にも、「あやしうもなりにける心のほどかな」と、思し知らる。
 さてもまた、例の御行ひに、夜中になりてぞ、昼の御座に、いとかりそめに寄り臥したまふ。つとめて、御文たてまつりたまふに、
 「なくなくも帰りにしかな仮の世は
  いづこもつひの常世ならぬに」
 昨夜の御ありさまは恨めしげなりしかど、いとかく、あらぬさまに思しほれたる御けしきの心苦しさに、身の上はさしおかれて、涙ぐまれたまふ。
 「雁がゐし苗代水の絶えしより
  映りし花の影をだに見ず」
 古りがたくよしある書きざまにも、なまめざましきものに思したりしを、末の世には、かたみに心ばせを見知るどちにて、うしろやすき方にはうち頼むべく、思ひ交はしたまひながら、またさりとて、ひたぶるにはたうちとけず、ゆゑありてもてなしたまへりし心おきてを、「人はさしも見知らざりきかし」など思し出づ。
 せめてさうざうしき時は、かやうにただおほかたに、うちほのめきたまふ折々もあり。昔の御ありさまには、名残なくなりにたるべし。


 


 夏の御方より、御衣更の御装束たてまつりたまふとて、
 「夏衣裁ち替へてける今日ばかり
  古き思ひもすすみやはせぬ」
 御返し、
 「羽衣の薄きに変はる今日よりは
  空蝉の世ぞいとど悲しき」
 祭の日、いとづれづれにて、「今日は物見るとて、人びと心地よげならむかし」とて、御社のありさまなど思しやる。
 「女房など、いかにさうざうしからむ。里に忍びて出でて見よかし」などのたまふ。
 中将の君の、東面にうたた寝したるを、歩みおはして見たまへば、いとささやかにをかしきさまして、起き上がりたり。つらつきはなやかに、匂ひたる顔をもて隠して、すこしふくだみたる髪のかかりなど、をかしげなり。紅の黄ばみたる気添ひたる袴、萱草色の単衣、いと濃き鈍色に黒きなど、うるはしからず重なりて、裳、唐衣も脱ぎすべしたりけるを、とかく引きかけなどするに、葵をかたはらに置きたりけるを寄りて取りたまひて、
 「いかにとかや。この名こそ忘れにけれ」とのたまへば、
 「さもこそはよるべの水に水草ゐめ
  今日のかざしよ名さへ忘るる」
 と、恥ぢらひて聞こゆ。げにと、いとほしくて、
 「おほかたは思ひ捨ててし世なれども
  葵はなほや摘みをかすべき」
 など、一人ばかりをば思し放たぬけしきなり。


 五月雨は、いとど眺めくらしたまふより他のことなく、さうざうしきに、十余日の月はなやかにさし出でたる雲間のめづらしきに、大将の君御前にさぶらひたまふ。
 花橘の、月影にいときはやかに見ゆる薫りも、追風なつかしければ、千代を馴らせる声もせなむ、と待たるるほどに、にはかに立ち出づる村雲のけしき、いとあやにくにて、いとおどろおどろしう降り来る雨に添ひて、さと吹く風に燈籠も吹きまどはして、空暗き心地するに、「窓を打つ声」など、めづらしからぬ古言を、うち誦じたまへるも、折からにや、妹が垣根におとなはせまほしき御声なり。
 「独り住みは、ことに変ることなけれど、あやしうさうざうしくこそありけれ。深き山住みせむにも、かくて身を馴らはしたらむは、こよなう心澄みぬべきわざなりけり」などのたまひて、「女房、ここに、くだものなど参らせよ。男ども召さむもことことしきほどなり」などのたまふ。
 心には、ただ空を眺めたまふ御けしきの、尽きせず心苦しければ、「かくのみ思し紛れずは、御行ひにも心澄ましたまはむこと難くや」と、見たてまつりたまふ。「ほのかに見し御面影だに忘れがたし。ましてことわりぞかし」と、思ひゐたまへり。

 「昨日今日と思ひたまふるほどに、御果てもやうやう近うなりはべりにけり。いかやうにかおきて思しめすらむ」
 と申したまへば、
 「何ばかり、世の常ならぬことをかはものせむ。かの心ざしおかれたる極楽の曼陀羅など、このたびなむ供養ずべき。経などもあまたありけるを、なにがし僧都、皆その心くはしく聞きおきたなれば、また加へてすべきことどもも、かの僧都の言はむに従ひてなむものすべき」などのたまふ。
 「かやうのこと、もとよりとりたてて思しおきてけるは、うしろやすきわざなれど、この世にはかりそめの御契りなりけりと見たまふには、形見といふばかりとどめきこえたまへる人だにものしたまはぬこそ、口惜しうはべれ」
 と申したまへば、
 「それは、仮ならず、命長き人びとにも、さやうなることのおほかた少なかりける。みづからの口惜しさにこそ。そこにこそは、門は広げたまはめ」などのたまふ。
 何ごとにつけても、忍びがたき御心弱さのつつましくて、過ぎにしこといたうものたまひ出でぬに、待たれつる山ほととぎすのほのかにうち鳴きたるも、「いかに知りてか」と、聞く人ただならず。
 「亡き人を偲ぶる宵の村雨に
  濡れてや来つる山ほととぎす」
 とて、いとど空を眺めたまふ。大将、
 「ほととぎす君につてなむふるさとの
  花橘は今ぞ盛りと」
 女房など、多く言ひ集めたれど、とどめつ。大将の君は、やがて御宿直にさぶらひたまふ。寂しき御一人寝の心苦しければ、時々かやうにさぶらひたまふに、おはせし世は、いと気遠かりし御座のあたりの、いたうも立ち離れぬなどにつけても、思ひ出でらるることも多かり。

 いと暑きころ、涼しき方にて眺めたまふに、池の蓮の盛りなるを見たまふに、「いかに多かる」など、まづ思し出でらるるに、ほれぼれしくて、つくづくとおはするほどに、日も暮れにけり。ひぐらしの声はなやかなるに、御前の撫子の夕映えを、一人のみ見たまふは、げにぞかひなかりける。
 「つれづれとわが泣き暮らす夏の日を
  かことがましき虫の声かな」
 蛍のいと多う飛び交ふも、「夕殿に蛍飛んで」と、例の、古事もかかる筋にのみ口馴れたまへり。
 「夜を知る蛍を見ても悲しきは
  時ぞともなき思ひなりけり」


 

 七月七日も、例に変りたること多く、御遊びなどもしたまはで、つれづれに眺め暮らしたまひて、星逢ひ見る人もなし。まだ夜深う、一所起きたまひて、妻戸押し開けたまへるに、前栽の露いとしげく、渡殿の戸よりとほりて見わたさるれば、出でたまひて、
 「七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見て
  別れの庭に露ぞおきそふ」
 風の音さへただならずなりゆくころしも、御法事の営みにて、ついたちころは紛らはしげなり。「今まで経にける月日よ」と思すにも、あきれて明かし暮らしたまふ。
 御正日には、上下の人びと皆斎して、かの曼陀羅など、今日ぞ供養ぜさせたまふ。例の宵の御行ひに、御手水など参らする中将の君の扇に、
 「君恋ふる涙は際もなきものを
  今日をば何の果てといふらむ」
 と書きつけたるを、取りて見たまひて、
 「人恋ふるわが身も末になりゆけど
  残り多かる涙なりけり」
 と、書き添へたまふ。
 九月になりて、九日、綿おほひたる菊を御覧じて、
 「もろともにおきゐし菊の白露も
  一人袂にかかる秋かな」


 神無月には、おほかたも時雨がちなるころ、いとど眺めたまひて、夕暮の空のけしきも、えもいはぬ心細さに、「降りしかど」と独りごちおはす。雲居を渡る雁の翼も、うらやましくまぼられたまふ。
 「大空をかよふ幻夢にだに
  見えこぬ魂の行方たづねよ」
 何ごとにつけても、紛れずのみ、月日に添へて思さる。
 五節などいひて、世の中そこはかとなく今めかしげなるころ、大将殿の君たち、童殿上したまへる率て参りたまへり。同じほどにて、二人いとうつくしきさまなり。御叔父の頭中将、蔵人少将など、小忌にて、青摺の姿ども、きよげにめやすくて、皆うち続き、もてかしづきつつ、もろともに参りたまふ。思ふことなげなるさまどもを見たまふに、いにしへ、あやしかりし日蔭の折、さすがに思し出でらるべし。
 「宮人は豊明といそぐ今日
  日影も知らで暮らしつるかな」
 「今年をばかくて忍び過ぐしつれば、今は」と、世を去りたまふべきほど近く思しまうくるに、あはれなること、尽きせず。やうやうさるべきことども、御心のうちに思し続けて、さぶらふ人びとにも、ほどほどにつけて、物賜ひなど、おどろおどろしく、今なむ限りとしなしたまはねど、近くさぶらふ人びとは、御本意遂げたまふべきけしきと見たてまつるままに、年の暮れゆくも心細く、悲しきこと限りなし。

 落ちとまりてかたはなるべき人の御文ども、破れば惜し、と思されけるにや、すこしづつ残したまへりけるを、もののついでに御覧じつけて、破らせたまひなどするに、かの須磨のころほひ、所々よりたてまつれたまひけるもある中に、かの御手なるは、ことに結ひ合はせてぞありける。
 みづからしおきたまひけることなれど、「久しうなりける世のこと」と思すに、ただ今のやうなる墨つきなど、「げに千年の形見にしつべかりけるを、見ずなりぬべきよ」と思せば、かひなくて、疎からぬ人びと、二、三人ばかり、御前にて破らせたまふ。
 いと、かからぬほどのことにてだに、過ぎにし人の跡と見るはあはれなるを、ましていとどかきくらし、それとも見分かれぬまで、降りおつる御涙の水茎に流れ添ふを、人もあまり心弱しと見たてまつるべきが、かたはらいたうはしたなければ、押しやりたまひて、
 「死出の山越えにし人を慕ふとて
  跡を見つつもなほ惑ふかな」
 さぶらふ人びとも、まほにはえ引き広げねど、それとほのぼの見ゆるに、心惑ひどもおろかならず。この世ながら遠からぬ御別れのほどを、いみじと思しけるままに書いたまへる言の葉、げにその折よりもせきあへぬ悲しさ、やらむかたなし。いとうたて、今ひときはの御心惑ひも、女々しく人悪るくなりぬべければ、よくも見たまはで、こまやかに書きたまへるかたはらに、
 「かきつめて見るもかひなし藻塩草
  同じ雲居の煙とをなれ」
 と書きつけて、皆焼かせたまふ。

 「御仏名も、今年ばかりにこそは」と思せばにや、常よりもことに、錫杖の声々などあはれに思さる。行く末ながきことを請ひ願ふも、仏の聞きたまはむこと、かたはらいたし。
 雪いたう降りて、まめやかに積もりにけり。導師のまかづるを、御前に召して、盃など、常の作法よりもさし分かせたまひて、ことに禄など賜はす。年ごろ久しく参り、朝廷にも仕うまつりて、御覧じ馴れたる御導師の、頭はやうやう色変はりてさぶらふも、あはれに思さる。例の、宮たち、上達部など、あまた参りたまへり。
 梅の花の、わづかにけしきばみはじめて雪にもてはやされたるほど、をかしきを、御遊びなどもありぬべけれど、なほ今年までは、ものの音もむせびぬべき心地したまへば、時によりたるもの、うち誦じなどばかりぞせさせたまふ。
 まことや、導師の盃のついでに、
 「春までの命も知らず雪のうちに
  色づく梅を今日かざしてむ」
 御返し、
 「千世の春見るべき花と祈りおきて
  わが身ぞ雪とともにふりぬる」
 人びと多く詠みおきたれど、もらしつ。
 その日ぞ、出でたまへる。御容貌、昔の御光にもまた多く添ひて、ありがたくめでたく見えたまふを、この古りぬる齢の僧は、あいなう涙もとどめざりけり。
 年暮れぬと思すも、心細きに、若宮の、
 「儺やらはむに、音高かるべきこと、何わざをせさせむ」
 と、走りありきたまふも、「をかしき御ありさまを見ざらむこと」と、よろづに忍びがたし。
 「もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに
  年もわが世も今日や尽きぬる」
 一日のほどのこと、「常よりことなるべく」と、おきてさせたまふ。親王たち、大臣の御引出物、品々の禄どもなど、何となう思しまうけて、とぞ。

 


  

  

            現代語訳 補足 目次

      四十二、 匂兵部卿   
 


   
 



 光隠れたまひにし後、かの御影に立ちつぎたまふべき人、そこらの御末々にありがたかりけり。下りゐの帝をかけたてまつらむはかたじけなし。当代の三の宮、その同じ御殿にて生ひ出でたまひし宮の若君と、この二所なむ、とりどりにきよらなる御名取りたまひて、げに、いとなべてならぬ御ありさまどもなれど、いとまばゆき際にはおはせざるべし。
 ただ世の常の人ざまに、めでたくあてになまめかしくおはするをもととして、さる御仲らひに、人の思ひきこえたるもてなし、ありさまも、いにしへの御響きけはひよりも、やや立ちまさりたまへるおぼえからなむ、かたへは、こよなういつくしかりける。
 紫の上の、御心寄せことに育みきこえたまひしゆゑ、三の宮は、二条院におはします。春宮をば、さるやむごとなきものにおきたてまつりたまて、帝、后、いみじうかなしうしたてまつり、かしづききこえさせたまふ宮なれば、内裏住みをせさせたてまつりたまへど、なほ心やすき故里に、住みよくしたまふなりけり。御元服したまひては、兵部卿と聞こゆ。


 女一の宮は、六条院南の町の東の対を、その世の御しつらひ改めずおはしまして、朝夕に恋ひしのびきこえたまふ。二の宮も、同じ御殿の寝殿を、時々の御休み所にしたまひて、梅壺を御曹司にしたまうて、右の大殿の中姫君を得たてまつりたまへり。次の坊がねにて、いとおぼえことに重々しう、人柄もすくよかになむものしたまひける。
 大殿の御女は、いとあまたものしたまふ。大姫君は、春宮に参りたまひて、またきしろふ人なきさまにてさぶらひたまふ。その次々、なほ皆ついでのままにこそはと、世の人も思ひきこえ、后の宮ものたまはすれど、この兵部卿宮は、さしも思したらず、わが御心より起こらざらむことなどは、すさまじく思しぬべき御けしきなめり。
 大臣も、「何かは、やうのものと、さのみうるはしうは」と静めたまへど、また、さる御けしきあらむをば、もて離れてもあるまじうおもむけて、いといたうかしづききこえたまふ。六の君なむ、そのころの、すこし我はと思ひのぼりたまへる親王たち、上達部の、御心尽くすくさはひにものしたまひける。

 さまざま集ひたまへりし御方々、泣く泣くつひにおはすべき住みかどもに、皆おのおの移ろひたまひしに、花散里と聞こえしは、東の院をぞ、御処分所にて渡りたまひにける。
 入道の宮は、三条宮におはします。今后は、内裏にのみさぶらひたまへば、院のうち寂しく、人少なになりにけるを、右の大臣、
 「人の上にて、いにしへの例を見聞くにも、生ける限りの世に、心をとどめて造り占めたる人の家居の、名残なくうち捨てられて、世の名残も常なく見ゆるは、いとあはれに、はかなさ知らるるを、わが世にあらむ限りだに、この院荒さず、ほとりの大路など、人影離れ果つまじう」
 と、思しのたまはせて、丑寅の町に、かの一条の宮を渡したてまつりたまひてなむ、三条殿と、夜ごとに十五日づつ、うるはしう通ひ住みたまひける。
 二条院とて、造り磨き、六条院の春の御殿とて、世にののしる玉の台も、ただ一人の御末のためなりけり、と見えて、明石の御方は、あまたの宮たちの御後見をしつつ、扱ひきこえたまへり。大殿は、いづかたの御ことをも、昔の御心おきてのままに、改め変ることなく、あまねき親心に仕うまつりたまふにも、「対の上の、かやうにてとまりたまへらましかば、いかばかり心を尽くして仕うまつり見えたてまつらまし。つひに、いささかも取り分きて、わが心寄せと見知りたまふべきふしもなくて、過ぎたまひにしこと」を、口惜しう飽かず悲しう思ひ出できこえたまふ。
 天の下の人、院を恋ひきこえぬなく、とにかくにつけても、世はただ火を消ちたるやうに、何ごとも栄なき嘆きをせぬ折なかりけり。まして、殿のうちの人びと、御方々、宮たちなどは、さらにも聞こえず、限りなき御ことをばさるものにて、またかの紫の御ありさまを心にしめつつ、よろづのことにつけて、思ひ出できこえたまはぬ時の間なし。春の花の盛りは、げに、長からぬにしも、おぼえまさるものとなむ。


 


 二品宮の若君は、院の聞こえつけたまへりしままに、冷泉院の帝、取り分きて思しかしづき、后の宮も、皇子たちなどおはせず、心細う思さるままに、うれしき御後見に、まめやかに頼みきこえたまへり。
 御元服なども、院にてせさせたまふ。十四にて、二月に侍従になりたまふ。秋、右近中将になりて、御たうばりの加階などをさへ、いづこの心もとなきにか、急ぎ加へておとなびさせたまふ。おはします御殿近き対を曹司にしつらひなど、みづから御覧じ入れて、若き人も、童、下仕へまで、すぐれたるを選りととのへ、女の御儀式よりもまばゆくととのへさせたまへり。
 上にも宮にも、さぶらふ女房の中にも、容貌よく、あてやかにめやすきは、皆移し渡させたまひつつ、院のうちを心につけて、住みよくありよく思ふべくとのみ、わざとがましき御扱ひぐさに思されたまへり。故致仕の大殿の女御と聞こえし御腹に、女宮ただ一所おはしけるをなむ、限りなくかしづきたまふ御ありさまに劣らず、后の宮の御おぼえの、年月にまさりたまふけはひにこそは、などかさしも、と見るまでなむ。
 母宮は、今はただ御行ひを静かにしたまひて、月の御念仏、年に二度の御八講、折々の尊き御いとなみばかりをしたまひて、つれづれにおはしませば、この君の出で入りたまふを、かへりて親のやうに、頼もしき蔭に思したれば、いとあはれにて、院にも内裏にも、召しまとはし、春宮も、次々の宮たちも、なつかしき御遊びがたきにてともなひたまへば、暇なく苦しく、「いかで身を分けてしがな」と、おぼえたまひける。


 幼心地にほの聞きたまひしことの、折々いぶかしう、おぼつかなう思ひわたれど、問ふべき人もなし。宮には、ことのけしきにても、知りけりと思されむ、かたはらいたき筋なれば、世とともの心にかけて、
 「いかなりけることにかは、何の契りにて、かうやすからぬ思ひ添ひたる身にしもなり出でけむ。善巧太子の、わが身に問ひけむ悟りをも得てしがな」とぞ、独りごたれたまひける。
 「おぼつかな誰れに問はましいかにして
  初めも果ても知らぬわが身ぞ」
 いらふべき人もなし。ことに触れて、わが身につつがある心地するも、ただならず、もの嘆かしくのみ、思ひめぐらしつつ、「宮もかく盛りの御容貌をやつしたまひて、何ばかりの御道心にてか、にはかにおもむきたまひけむ。かく、思はずなりけることの乱れに、かならず憂しと思しなるふしありけむ。人もまさに漏り出で、知らじやは。なほ、つつむべきことの聞こえにより、我にはけしきを知らする人のなきなめり」と思ふ。
 「明け暮れ、勤めたまふやうなめれど、はかなくおほどきたまへる女の御悟りのほどに、蓮の露も明らかに、玉と磨きたまはむことも難し。五つのなにがしも、なほうしろめたきを、我、この御心地を、同じうは後の世をだに」と思ふ。「かの過ぎたまひけむも、やすからぬ思ひに結ぼほれてや」など推し量るに、世を変へても対面せまほしき心つきて、元服はもの憂がりたまひけれど、すまひ果てず、おのづから世の中にもてなされて、まばゆきまではなやかなる御身の飾りも、心につかずのみ、思ひしづまりたまへり。

 内裏にも、母宮の御方ざまの御心寄せ深くて、いとあはれなるものに思され、后の宮はた、もとよりひとつ御殿にて、宮たちももろともに生ひ出で、遊びたまひし御もてなし、をさをさ改めたまはず、「末に生まれたまひて、心苦しう、おとなしうもえ見おかぬこと」と、院の思しのたまひしを、思ひ出できこえたまひつつ、おろかならず思ひきこえたまへり。
 右の大臣も、わが御子どもの君たちよりも、この君をばこまやかにやうごとなくもてなしかしづきたてまつりたまふ。
 昔、光る君と聞こえしは、さるまたなき御おぼえながら、そねみたまふ人うち添ひ、母方の御後見なくなどありしに、御心ざまもの深く、世の中を思しなだらめしほどに、並びなき御光を、まばゆからずもてしづめたまひ、つひにさるいみじき世の乱れも出で来ぬべかりしことをも、ことなく過ぐしたまひて、後の世の御勤めも後らかしたまはず、よろづさりげなくて、久しくのどけき御心おきてにこそありしか、この君は、まだしきに、世のおぼえいと過ぎて、思ひあがりたること、こよなくなどぞものしたまふ。
 げに、さるべくて、いとこの世の人とはつくり出でざりける、仮に宿れるかとも見ゆること添ひたまへり。顔容貌も、そこはかと、いづこなむすぐれたる、あなきよら、と見ゆるところもなきが、ただいとなまめかしう恥づかしげに、心の奥多かりげなるけはひの、人に似ぬなりけり。
 香のかうばしさぞ、この世の匂ひならず、あやしきまで、うち振る舞ひたまへるあたり、遠く隔たるほどの追風に、まことに百歩の外も薫りぬべき心地しける。誰も、さばかりになりぬる御ありさまの、いとやつればみ、ただありなるやはあるべき、さまざまに、われ人にまさらむと、つくろひ用意すべかめるを、かくかたはなるまで、うち忍び立ち寄らむものの隈も、しるきほのめきの隠れあるまじきに、うるさがりて、をさをさ取りもつけたまはねど、あまたの御唐櫃にうづもれたる香の香どもも、この君のは、いふよしもなき匂ひを加へ、御前の花の木も、はかなく袖触れたまふ梅の香は、春雨の雫にも濡れ、身にしむる人多く、秋の野に主なき藤袴も、もとの薫りは隠れて、なつかしき追風、ことに折なしからなむまさりける。

 かく、いとあやしきまで人のとがむる香にしみたまへるを、兵部卿宮なむ、異事よりも挑ましく思して、それは、わざとよろづのすぐれたる移しをしめたまひ、朝夕のことわざに合はせいとなみ、御前の前栽にも、春は梅の花園を眺めたまひ、秋は世の人のめづる女郎花、小牡鹿の妻にすめる萩の露にも、をさをさ御心移したまはず、老を忘るる菊に、衰へゆく藤袴、ものげなきわれもかうなどは、いとすさまじき霜枯れのころほひまで思し捨てずなど、わざとめきて、香にめづる思ひをなむ、立てて好ましうおはしける。
 かかるほどに、すこしなよびやはらぎて、好いたる方に引かれたまへりと、世の人は思ひきこえたり。昔の源氏は、すべて、かく立ててそのことと、やう変り、しみたまへる方ぞなかりしかし。
 源中将、この宮には常に参りつつ、御遊びなどにも、きしろふものの音を吹き立て、げに挑ましくも、若きどち思ひ交はしたまうつべき人ざまになむ。例の、世人は、「匂ふ兵部卿、薫る中将」と、聞きにくく言ひ続けて、そのころ、よき女おはする、やうごとなき所々は、心ときめきに、聞こえごちなどしたまふもあれば、宮は、さまざまに、をかしうもありぬべきわたりをばのたまひ寄りて、人の御けはひ、ありさまをもけしきとりたまふ。わざと御心につけて思す方は、ことになかりけり。
 「冷泉院の女一の宮をぞ、さやうにても見たてまつらばや。かひありなむかし」と思したるは、母女御もいと重く、心にくくものしたまふあたりにて、姫宮の御けはひ、げに、いとありがたくすぐれて、よその聞こえもおはしますに、まして、すこし近くもさぶらひ馴れたる女房などの、くはしき御ありさまの、ことに触れて聞こえ伝ふるなどもあるに、いとど忍びがたく思すべかめり。

 中将は、世の中を深くあぢきなきものに思ひ澄ましたる心なれば、「なかなか心とどめて、行き離れがたき思ひや残らむ」など思ふに、「わづらはしき思ひあらむあたりにかかづらはむは、つつましく」など思ひ捨てたまふ。さしあたりて、心にしむべきことのなきほど、さかしだつにやありけむ。人の許しなからむことなどは、まして思ひ寄るべくもあらず。
 十九になりたまふ年、三位の宰相にて、なほ中将も離れず。帝、后の御もてなしに、ただ人にては、憚りなきめでたき人のおぼえにてものしたまへど、心のうちには身を思ひ知るかたありて、ものあはれになどもありければ、心にまかせて、はやりかなる好きごと、をさをさ好まず、よろづのこともてしづめつつ、おのづからおよすけたる心ざまを、人にも知られたまへり。
 三の宮の、年に添へて心をくだきたまふめる、院の姫宮の御あたりを見るにも、一つ院のうちに、明け暮れ立ち馴れたまへば、ことに触れても、人のありさまを聞き見たてまつるに、「げに、いとなべてならず。心にくくゆゑゆゑしき御もてなし限りなきを、同じくは、げにかやうなる人を見むにこそ、生ける限りの心ゆくべきつまなれ」と思ひながら、おほかたこそ隔つることなく思したれ、姫宮の御方ざまの隔ては、こよなく気遠くならはさせたまふも、ことわりにわづらはしければ、あながちにもまじらひ寄らず。「もし、心より外の心もつかば、我も人もいと悪しかるべきこと」と思ひ知りて、もの馴れ寄ることもなかりけり。
 我が、かく、人にめでられむとなりたまへるありさまなれば、はかなくなげの言葉を散らしたまふあたりも、こよなくもて離るる心なく、なびきやすなるほどに、おのづからなほざりの通ひ所もあまたになるを、人のために、ことことしくなどもてなさず、いとよく紛らはし、そこはかとなく情けなからぬほどの、なかなか心やましきを、思ひ寄れる人は、誘はれつつ、三条宮に参り集まるはあまたあり。
 つれなきを見るも、苦しげなるわざなめれど、絶えなむよりは、心細きに思ひわびて、さもあるまじき際の人びとの、はかなき契りに頼みをかけたる多かり。さすがに、いとなつかしう、見所ある人の御ありさまなれば、見る人、皆心にはからるるやうにて、見過ぐさる。

 「宮のおはしまさむ世の限りは、朝夕に御目離れず御覧ぜられ、見えたてまつらむをだに」
 と思ひのたまへば、右の大臣も、あまたものしたまふ御女たちを、一人一人は、と心ざしたまひながら、え言に出でたまはず。「さすがに、ゆかしげなき仲らひなるを」とは思ひなせど、「この君たちをおきて、ほかには、なずらひなるべき人を求め出づべき世かは」と思しわづらふ。
 やむごとなきよりも、典侍腹の六の君とか、いとすぐれてをかしげに、心ばへなどもたらひて生ひ出でたまふを、世のおぼえのおとしめざまなるべきしも、かくあたらしきを、心苦しう思して、一条の宮の、さる扱ひぐさ持たまへらでさうざうしきに、迎へとりてたてまつりたまへり。
 「わざとはなくて、この人びとに見せそめては、かならず心とどめたまひてむ。人のありさまをも知る人は、ことにこそあるべけれ」など思して、いといつくしくはもてなしたまはず、今めかしくをかしきやうに、もの好みせさせて、人の心つけむたより多くつくりなしたまふ。

 賭弓の還饗のまうけ、六条院にていと心ことにしたまひて、親王をもおはしまさせむの心づかひしたまへり。
 その日、親王たち、大人におはするは、皆さぶらひたまふ。后腹のは、いづれともなく、気高くきよげにおはします中にも、この兵部卿宮は、げにいとすぐれてこよなう見えたまふ。四の親王、常陸宮と聞こゆる、更衣腹のは、思ひなしにや、けはひこよなう劣りたまへり。
 例の、左、あながちに勝ちぬ。例よりは、とくこと果てて、大将まかでたまふ。兵部卿宮、常陸宮、后腹の五の宮と、一つ車に招き乗せたてまつりて、まかでたまふ。宰相中将は、負方にて、音なくまかでたまひにけるを、
 「親王たちおはします御送りには、参りたまふまじや」
 と、おしとどめさせて、御子の右衛門督、権中納言、右大弁など、さらぬ上達部あまた、これかれに乗りまじり、誘ひ立てて、六条院へおはす。
 道のややほど経るに、雪いささか散りて、艶なるたそかれ時なり。物の音をかしきほどに吹き立て遊びて入りたまふを、「げに、ここをおきて、いかならむ仏の国にかは、かやうの折節の心やり所を求めむ」と見えたり。
 寝殿の南の廂に、常のごと南向きに、中少将着きわたり、北向きにむかひて、垣下の親王たち、上達部の御座あり。御土器など始まりて、ものおもしろくなりゆくに、「求子」舞ひて、かよる袖どものうち返す羽風に、御前近き梅の、いといたくほころびこぼれたる匂ひの、さとうち散りわたれるに、例の、中将の御薫りの、いとどしくもてはやされて、いひ知らずなまめかし。はつかにのぞく女房なども、「闇はあやなく、心もとなきほどなれど、香にこそ、げに似たるものなかりけれ」と、めであへり。
 大臣も、いとめでたしと見たまふ。容貌用意も、常よりまさりて、乱れぬさまに収めたるを見て、
 「右の中将も声加へたまへや。いたう客人だたしや」
 とのたまへば、憎からぬほどに、「神のます」など。


  

  

            現代語訳 補足 目次

      四十三、 紅 梅   
 


   
 


 そのころ、按察使大納言と聞こゆるは、故致仕の大臣の二郎なり。亡せたまひにし右衛門督のさしつぎよ。童よりらうらうじう、はなやかなる心ばへものしたまひし人にて、なりのぼりたまふ年月に添へて、まいていと世にあるかひあり、あらまほしうもてなし、御おぼえいとやむごとなかりける。
 北の方二人ものしたまひしを、もとよりのは亡くなりたまひて、今ものしたまふは、後の太政大臣の御女、真木柱離れがたくしたまひし君を、式部卿宮にて、故兵部卿親王にあはせたてまつりたまへりしを、親王亡せたまひてのち、忍びつつ通ひたまひしかど、年月経れば、えさしも憚りたまはぬなめり。
 御子は、故北の方の御腹に、二人のみぞおはしければ、さうざうしとて、神仏に祈りて、今の御腹にぞ、男君一人まうけたまへる。故宮の御方に、女君一所おはす。隔てわかず、いづれをも同じごと、思ひきこえ交はしたまへるを、おのおの御方の人などは、うるはしうもあらぬ心ばへうちまじり、なまくねくねしきことも出で来る時々あれど、北の方、いと晴れ晴れしく今めきたる人にて、罪なく取りなし、わが御方ざまに苦しかるべきことをも、なだらかに聞きなし、思ひ直したまへば、聞きにくからでめやすかりけり。


 君たち、同じほどに、すぎすぎおとなびたまひぬれば、御裳など着せたてまつりたまふ。七間の寝殿、広く大きに造りて、南面に、大納言殿、大君、西に中の君、東に宮の御方と、住ませたてまつりたまへり。
 おほかたにうち思ふほどは、父宮のおはせぬ心苦しきやうなれど、こなたかなたの御宝物多くなどして、うちうちの儀式ありさまなど、心にくく気高くなどもてなして、けはひあらまほしくおはす。
 例の、かくかしづきたまふ聞こえありて、次々に従ひつつ聞こえたまふ人多く、「内裏、春宮より御けしきあれど、内裏には中宮おはします。いかばかりの人かは、かの御けはひに並びきこえむ。さりとて、思ひ劣り卑下せむもかひなかるべし。春宮には、右大臣殿の女御、並ぶ人なげにてさぶらひたまふは、きしろひにくけれど、さのみ言ひてやは。人にまさらむと思ふ女子を、宮仕へに思ひ絶えては、何の本意かはあらむ」と思したちて、参らせたてまつりたまふ。十七、八のほどにて、うつくしう、匂ひ多かる容貌したまへり。
 中の君も、うちすがひて、あてになまめかしう、澄みたるさまはまさりて、をかしうおはすめれば、ただ人にては、あたらしく見せま憂き御さまを、「兵部卿宮の、さも思したらば」など思したる。この若君を、内裏にてなど見つけたまふ時は、召しまとはし、戯れ敵にしたまふ。心ばへありて、奥推し量らるるまみ額つきなり。
 「せうとを見てのみはえやまじと、大納言に申せよ」などのたまひかくるを、「さなむ」と聞こゆれば、うち笑みて、「いとかひあり」と思したり。
 「人に劣らむ宮仕ひよりは、この宮にこそは、よろしからむ女子は見せたてまつらまほしけれ。心ゆくにまかせて、かしづきて見たてまつらむに、命延びぬべき宮の御さまなり」
 とのたまひながら、まづ、春宮の御ことをいそぎたまひて、「春日の神の御ことわりも、わが世にやもし出で来て、故大臣の、院の女御の御ことを、胸いたく思してやみにし慰めのこともあらなむ」と、心のうちに祈りて、参らせたてまつりたまひつ。いと時めきたまふよし、人びと聞こゆ。
 かかる御まじらひの馴れたまはぬほどに、はかばかしき御後見なくてはいかがとて、北の方添ひてさぶらひたまへば、まことに限りもなく思ひかしづき、後見きこえたまふ。

 殿は、つれづれなる心地して、西の御方は、一つに慣らひたまひて、いとさうざうしくながめたまふ。東の姫君も、うとうとしくかたみにもてなしたまはで、夜々は一所に大殿籠もり、よろづの御こと習ひ、はかなき御遊びわざをも、こなたを師のやうに思ひきこえてぞ、誰れも習ひ遊びたまひける。
 もの恥ぢを世の常ならずしたまひて、母北の方にだに、さやかにはをさをささし向ひたてまつりたまはず、かたはなるまでもてなしたまふものから、心ばへけはひの埋れたるさまならず、愛敬づきたまへること、はた、人よりすぐれたまへり。
 かく、内裏参りや何やと、わが方ざまをのみ思ひ急ぐやうなるも、心苦しなど思して、
 「さるべからむさまに思し定めてのたまへ。同じこととこそは、仕うまつらめ」
 と、母君にも聞こえたまひけれど、
 「さらにさやうの世づきたるさま、思ひ立つべきにもあらぬけしきなれば、なかなかならむことは、心苦しかるべし。御宿世にまかせて、世にあらむ限りは見たてまつらむ。後ぞあはれにうしろめたけれど、世を背く方にても、おのづから人笑へに、あはつけきことなくて、過ぐしたまはなむ」
 など、うち泣きて、御心ばせの思ふやうなることをぞ聞こえたまふ。
 いづれも分かず親がりたまへど、御容貌を見ばやとゆかしう思して、「隠れたまふこそ心憂けれ」と恨みて、「人知れず、見えたまひぬべしや」と、覗きありきたまへど、絶えてかたそばをだに、え見たてまつりたまはず。
 「上おはせぬほどは、立ち代はりて参り来べきを、うとうとしく思し分くる御けしきなれば、心憂くこそ」
 など聞こえ、御簾の前にゐたまへば、御いらへなど、ほのかに聞こえたまふ。御声けはひなど、あてにをかしう、さま容貌思ひやられて、あはれにおぼゆる人の御ありさまなり。わが御姫君たちを、人に劣らじと思ひおごれど、「この君に、えしもまさらずやあらむ。かかればこそ、世の中の広きうちはわづらはしけれ。たぐひあらじと思ふに、まさる方も、おのづからありぬべかめり」など、いとどいぶかしう思ひきこえたまふ。

 「月ごろ、何となくもの騒がしきほどに、御琴の音をだにうけたまはらで久しうなりはべりにけり。西の方にはべる人は、琵琶を心に入れてはべる、さもまねび取りつべくやおぼえはべらむ。なまかたほにしたるに、聞きにくきものの音がらなり。同じくは、御心とどめて教へさせたまへ。
 翁は、とりたてて習ふものはべらざりしかど、そのかみ、盛りなりし世に遊びはべりし力にや、聞き知るばかりのわきまへは、何ごとにもいとつきなうはべらざりしを、うちとけても遊ばさねど、時々うけたまはる御琵琶の音なむ、昔おぼえはべる。
 故六条院の御伝へにて、右の大臣なむ、このころ世に残りたまへる。源中納言、兵部卿宮、何ごとにも、昔の人に劣るまじう、いと契りことにものしたまふ人びとにて、遊びの方は、取り分きて心とどめたまへるを、手づかひすこしなよびたる撥音などなむ、大臣には及びたまはずと思うたまふるを、この御琴の音こそ、いとよくおぼえたまへれ。
 琵琶は、押手しづやかなるをよきにするものなるに、柱さすほど、撥音のさま変はりて、なまめかしう聞こえたるなむ、女の御ことにて、なかなかをかしかりける。いで、遊ばさむや。御琴参れ」
 とのたまふ。女房などは、隠れたてまつるもをさをさなし。いと若き上臈だつが、見えたてまつらじと思ふはしも、心にまかせてゐたれば、「さぶらふ人さへかくもてなすが、やすからぬ」と腹立ちたまふ。


 


 若君、内裏へ参らむと、宿直姿にて参りたまへる、わざとうるはしきみづらよりも、いとをかしく見えて、いみじううつくしと思したり。麗景殿に、御ことづけ聞こえたまふ。
 「譲りきこえて、今宵もえ参るまじく、悩ましく、など聞こえよ」とのたまひて、「笛すこし仕うまつれ。ともすれば、御前の御遊びに召し出でらるる、かたはらいたしや。まだいと若き笛を」
 とうち笑みて、双調吹かせたまふ。いとをかしう吹いたまへば、
 「けしうはあらずなりゆくは、このわたりにて、おのづから物に合はするけなり。なほ、掻き合はせさせたまへ」
 と責めきこえたまへば、苦しと思したるけしきながら、爪弾きにいとよく合はせて、ただすこし掻き鳴らいたまふ。皮笛、ふつつかに馴れたる声して、この東のつまに、軒近き紅梅の、いとおもしろく匂ひたるを見たまひて、
 「御前の花、心ばへありて見ゆめり。兵部卿宮、内裏におはすなり。一枝折りて参れ。知る人ぞ知る」とて、「あはれ、光る源氏、といはゆる御盛りの大将などにおはせしころ、童にて、かやうにてまじらひ馴れきこえしこそ、世とともに恋しうはべれ。
 この宮たちを、世人も、いとことに思ひきこえ、げに人にめでられむとなりたまへる御ありさまなれど、端が端にもおぼえたまはぬは、なほたぐひあらじと思ひきこえし心のなしにやありけむ。
 おほかたにて、思ひ出でたてまつるに、胸あく世なく悲しきを、気近き人の後れたてまつりて、生きめぐらふは、おぼろけの命長さなりかし、とこそおぼえはべれ」
 など、聞こえ出でたまひて、ものあはれにすごく思ひめぐらししをれたまふ。
 ついでの忍びがたきにや、花折らせて、急ぎ参らせたまふ。
 「いかがはせむ。昔の恋しき御形見には、この宮ばかりこそは。仏の隠れたまひけむ御名残には、阿難が光放ちけむを、二度出でたまへるかと疑ふさかしき聖のありけるを、闇に惑ふはるけ所に、聞こえをかさむかし」とて、
 「心ありて風の匂はす園の梅に
  まづ鴬の訪はずやあるべき」
 と、紅の紙に若やぎ書きて、この君の懐紙に取りまぜ、押したたみて出だしたてたまふを、幼き心に、いと馴れきこえまほしと思へば、急ぎ参りたまひぬ。


 中宮の上の御局より、御宿直所に出でたまふほどなり。殿上人あまた御送りに参る中に、見つけたまひて、
 「昨日は、などいと疾くはまかでにし。いつ参りつるぞ」などのたまふ。
 「疾くまかではべりにし悔しさに、まだ内裏におはしますと人の申しつれば、急ぎ参りつるや」
 と、幼げなるものから、馴れきこゆ。
 「内裏ならで、心やすき所にも、時々は遊べかし。若き人どもの、そこはかとなく集まる所ぞ」
 とのたまふ。この君召し放ちて語らひたまへば、人びとは、近うも参らず、まかで散りなどして、しめやかになりぬれば、
 「春宮には、暇すこし許されためりな。いとしげう思しまとはすめりしを、時取られて人悪ろかめり」
 とのたまへば、
 「まつはさせたまひしこそ苦しかりしか。御前にはしも」
 と、聞こえさしてゐたれば、
 「我をば、人げなしと思ひ離れたるとな。ことわりなり。されどやすからずこそ。古めかしき同じ筋にて、東と聞こゆなるは、あひ思ひたまひてむやと、忍びて語らひきこえよ」
 などのたまふついでに、この花をたてまつれば、うち笑みて、
 「怨みてのちならましかば」
 とて、うちも置かず御覧ず。枝のさま、花房、色も香も世の常ならず。
 「園に匂へる紅の、色に取られて、香なむ、白き梅には劣れるといふめるを、いとかしこく、とり並べても咲きけるかな」
 とて、御心とどめたまふ花なれば、かひありて、もてはやしたまふ。

 「今宵は宿直なめり。やがてこなたにを」
 と、召し籠めつれば、春宮にもえ参らず、花も恥づかしく思ひぬべく香ばしくて、気近く臥せたまへるを、若き心地には、たぐひなくうれしくなつかしう思ひきこゆ。
 「この花の主人は、など春宮には移ろひたまはざりし」
 「知らず。心知らむ人になどこそ、聞きはべりしか」
 など語りきこゆ。「大納言の御心ばへは、わが方ざまに思ふべかめれ」と聞き合はせたまへど、思ふ心は異にしみぬれば、この返りこと、けざやかにものたまひやらず。
 翌朝、この君のまかづるに、なほざりなるやうにて、
 「花の香に誘はれぬべき身なりせば
  風のたよりを過ぐさましやは」
 さて、「なほ今は、翁どもにさかしらせさせで、忍びやかに」と、返す返すのたまひて、この君も、東のをば、やむごとなく睦ましう思ひましたり。
 なかなか異方の姫君は、見えたまひなどして、例の兄弟のさまなれど、童心地に、いと重りかにあらまほしうおはする心ばへを、「かひあるさまにて見たてまつらばや」と思ひありくに、春宮の御方の、いとはなやかにもてなしたまふにつけて、同じこととは思ひながら、いと飽かず口惜しければ、「この宮をだに、気近くて見たてまつらばや」と思ひありくに、うれしき花のついでなり。

 これは、昨日の御返りなれば見せたてまつる。
 「ねたげにものたまへるかな。あまり好きたる方にすすみたまへるを、許しきこえずと聞きたまひて、右の大臣、われらが見たてまつるには、いとものまめやかに、御心をさめたまふこそをかしけれ。あだ人とせむに、足らひたまへる御さまを、しひてまめだちたまはむも、見所少なくやならまし」
 など、しりうごちて、今日も参らせたまふに、また、
 「本つ香の匂へる君が袖触れば
  花もえならぬ名をや散らさむ
 とすきずきしや。あなかしこ」
 と、まめやかに聞こえたまへり。まことに言ひなさむと思ふところあるにやと、さすがに御心ときめきしたまひて、
 「花の香を匂はす宿に訪めゆかば
  色にめづとや人の咎めむ」
 など、なほ心とけずいらへたまへるを、心やましと思ひゐたまへり。
 北の方まかでたまひて、内裏わたりのことのたまふついでに、
 「若君の、一夜、宿直して、まかり出でたりし匂ひの、いとをかしかりしを、人はなほと思ひしを、宮の、いと思ほし寄りて、『兵部卿宮に近づききこえにけり。うべ、我をばすさめたり』と、けしきとり、怨じたまへりしか。ここに、御消息やありし。さも見えざりしを」
 とのたまへば、
 「さかし。梅の花めでたまふ君なれば、あなたのつまの紅梅、いと盛りに見えしを、ただならで、折りてたてまつれたりしなり。移り香は、げにこそ心ことなれ。晴れまじらひしたまはむ女などは、さはえしめぬかな。
 源中納言は、かうざまに好ましうはたき匂はさで、人柄こそ世になけれ。あやしう、前の世の契りいかなりける報いにかと、ゆかしきことにこそあれ。
 同じ花の名なれど、梅は生ひ出でけむ根こそあはれなれ。この宮などのめでたまふ、さることぞかし」
 など、花によそへても、まづかけきこえたまふ。

 宮の御方は、もの思し知るほどにねびまさりたまへれば、何ごとも見知り、聞きとどめたまはぬにはあらねど、「人に見え、世づきたらむありさまは、さらに」と思し離れたり。
 世の人も、時に寄る心ありてにや、さし向ひたる御方々には、心を尽くし聞こえわび、今めかしきこと多かれど、こなたは、よろづにつけ、ものしめやかに引き入りたまへるを、宮は、御ふさひの方に聞き伝へたまひて、深う、いかで、と思ほしなりにけり。
 若君を、常にまつはし寄せたまひつつ、忍びやかに御文あれど、大納言の君、深く心かけきこえたまひて、「さも思ひたちてのたまふことあらば」と、けしきとり、心まうけしたまふを見るに、いとほしう、
 「ひき違へて、かう思ひ寄るべうもあらぬ方にしも、なげの言の葉を尽くしたまふ、かひなげなること」
 と、北の方も思しのたまふ。
 はかなき御返りなどもなければ、負けじの御心添ひて、思ほしやむべくもあらず。「何かは、人の御ありさま、などかは、さても見たてまつらまほしう、生ひ先遠くなどは見えさせたまふに」など、北の方思ほし寄る時々あれど、いといたう色めきたまひて、通ひたまふ忍び所多く、八の宮の姫君にも、御心ざしの浅からで、いとしげうまうでありきたまふ。頼もしげなき御心の、あだあだしさなども、いとどつつましければ、まめやかには思ほし絶えたるを、かたじけなきばかりに、忍びて、母君ぞ、たまさかにさかしらがり聞こえたまふ。

 


  

  

            現代語訳 補足 目次

      四十四、 竹 河   
 


   
 

 これは、源氏の御族にも離れたまへりし、後の大殿わたりにありける悪御達の、落ちとまり残れるが、問はず語りしおきたるは、紫のゆかりにも似ざめれど、かの女どもの言ひけるは、「源氏の御末々に、ひがことどもの混じりて聞こゆるは、我よりも年の数積もり、ほけたりける人のひがことにや」などあやしがりける。いづれかはまことならむ。
 尚侍の御腹に、故殿の御子は、男三人、女二人なむおはしけるを、さまざまにかしづきたてむことを思しおきてて、年月の過ぐるも心もとながりたまひしほどに、あへなく亡せたまひにしかば、夢のやうにて、いつしかといそぎ思しし御宮仕へもおこたりぬ。
 人の心、時にのみよるわざなりければ、さばかり勢ひいかめしくおはせし大臣の御名残、うちうちの御宝物、領じたまふ所々のなど、その方の衰へはなけれど、おほかたのありさま引き変へたるやうに、殿のうちしめやかになりゆく。
 尚侍の君の御近きゆかり、そこらこそは世に広ごりたまへど、なかなかやむごとなき御仲らひの、もとよりも親しからざりしに、故殿、情けすこしおくれ、むらむらしさ過ぎたまへりける御本性にて、心おかれたまふこともありけるゆかりにや、誰れにもえなつかしく聞こえ通ひたまはず。
 六条院には、すべて、なほ昔に変らず数まへきこえたまひて、亡せたまひなむ後のことども書きおきたまへる御処分の文どもにも、中宮の御次に加へたてまつりたまへれば、右の大殿などは、なかなかその心ありて、さるべき折々訪れきこえたまふ。


 男君たちは、御元服などして、おのおのおとなびたまひにしかば、殿のおはせでのち、心もとなくあはれなることもあれど、おのづからなり出でたまひぬべかめり。「姫君たちをいかにもてなしたてまつらむ」と、思し乱る。
 内裏にも、かならず宮仕への本意深きよしを、大臣の奏しおきたまひければ、おとなびたまひぬらむ年月を推し量らせたまひて、仰せ言絶えずあれど、中宮の、いよいよ並びなくのみなりまさりたまふ御けはひにおされて、皆人無徳にものしたまふめる末に参りて、遥かに目を側められたてまつらむもわづらはしく、また人に劣り、数ならぬさまにて見む、はた、心尽くしなるべきを思ほしたゆたふ。
 冷泉院よりは、いとねむごろに思しのたまはせて、尚侍の君の、昔、本意なくて過ぐしたまうし辛さをさへ、とり返し恨みきこえたまうて、
 「今は、まいてさだすぎ、すさまじきありさまに思ひ捨てたまふとも、うしろやすき親になずらへて、譲りたまへ」
 と、いとまめやかに聞こえたまひければ、「いかがはあるべきことならむ。みづからのいと口惜しき宿世にて、思ひの外に心づきなしと思されにしが、恥づかしうかたじけなきを、この世の末にや御覧じ直されまし」など定めかねたまふ。

 容貌いとようおはする聞こえありて、心かけ申したまふ人多かり。右の大殿の蔵人少将とかいひしは、三条殿の御腹にて、兄君たちよりも引き越し、いみじうかしづきたまひ、人柄もいとをかしかりし君、いとねむごろに申したまふ。
 いづ方につけても、もて離れたまはぬ御仲らひなれば、この君たちの睦び参りたまひなどするは、気遠くもてなしたまはず。女房にも気近く馴れ寄りつつ、思ふことを語らふにも便りありて、夜昼、あたりさらぬ耳かしかましさを、うるさきものの、心苦しきに、尚侍の殿も思したり。
 母北の方の御文も、しばしばたてまつりたまひて、「いと軽びたるほどにはべるめれど、思し許す方もや」となむ、大臣も聞こえたまひける。
 姫君をば、さらにただのさまにも思しおきてたまはず、中の君をなむ、今すこし世の聞こえ軽々しからぬほどになずらひならば、さもや、と思しける。許したまはずは、盗みも取りつべく、むくつけきまで思へり。こよなきこととは思さねど、女方の心許したまはぬことの紛れあるは、音聞きもあはつけきわざなれば、聞こえつぐ人をも、「あな、かしこ。過ち引き出づな」などのたまふに、朽たされてなむ、わづらはしがりける。

 六条院の御末に、朱雀院の宮の御腹に生まれたまへりし君、冷泉院に、御子のやうに思しかしづく四位侍従、そのころ十四、五ばかりにて、いときびはに幼かるべきほどよりは、心おきておとなおとなしく、めやすく、人にまさりたる生ひ先しるくものしたまふを、尚侍の君は、婿にても見まほしく思したり。
 この殿は、かの三条の宮といと近きほどなれば、さるべき折々の遊び所には、君達に引かれて見えたまふ時々あり。心にくき女のおはする所なれば、若き男の心づかひせぬなう、見えしらひさまよふ中に、容貌のよさは、この立ち去らぬ蔵人少将、なつかしく心恥づかしげに、なまめいたる方は、この四位侍従の御ありさまに、似る人ぞなかりける。
 六条院の御けはひ近うと思ひなすが、心ことなるにやあらむ、世の中におのづからもてかしづかれたまへる人、若き人びと、心ことにめであへり。尚侍の殿も、「げにこそ、めやすけれ」などのたまひて、なつかしうもの聞こえたまひなどす。
 「院の御心ばへを思ひ出できこえて、慰む世なう、いみじうのみ思ほゆるを、その御形見にも、誰をかは見たてまつらむ。右の大臣は、ことことしき御ほどにて、ついでなき対面もかたきを」
 などのたまひて、兄弟のつらに思ひきこえたまへれば、かの君も、さるべき所に思ひて参りたまふ。世の常のすきずきしさも見えず、いといたうしづまりたるをぞ、ここかしこの若き人ども、口惜しうさうざうしきことに思ひて、言ひなやましける。


 


 睦月の朔日ころ、尚侍の君の御兄弟の大納言、「高砂」謡ひしよ、藤中納言、故大殿の太郎、真木柱の一つ腹など参りたまへり。右の大臣も、御子ども六人ながらひき連れておはしたり。御容貌よりはじめて、飽かぬことなく見ゆる人の御ありさまおぼえなり。
 君たちも、さまざまいときよげにて、年のほどよりは、官位過ぎつつ、何ごと思ふらむと見えたるべし。世とともに、蔵人の君は、かしづかれたるさま異なれど、うちしめりて思ふことあり顔なり。
 大臣は、御几帳隔てて、昔に変らず御物語聞こえたまふ。
 「そのこととなくて、しばしばもえうけまはらず。年の数添ふままに、内裏に参るより他のありき、うひうひしうなりにてはべれば、いにしへの御物語も、聞こえまほしき折々多く過ぐしはべるをなむ。
 若き男どもは、さるべきことには召しつかはせたまへ。かならずその心ざし御覧ぜられよと、いましめはべり」など聞こえたまふ。
 「今は、かく、世に経る数にもあらぬやうになりゆくありさまを、思し数まふるになむ、過ぎにし御ことも、いとど忘れがたく思うたまへられける」
 と申したまひけるついでに、院よりのたまはすること、ほのめかし聞こえたまふ。
 「はかばかしう後見なき人の交じらひは、なかなか見苦しきをと、思ひたまへなむわづらふ」
 と申したまへば、
 「内裏に仰せらるることあるやうに承りしを、いづ方に思ほし定むべきことにか。院は、げに、御位を去らせたまへるにこそ、盛り過ぎたる心地すれど、世にありがたき御ありさまは、古りがたくのみおはしますめるを、よろしう生ひ出づる女子はべらましかばと、思ひたまへよりながら、恥づかしげなる御中に、交じらふべき物のはべらでなむ、口惜しう思ひたまへらるる。
 そもそも、女一の宮の女御は、許しきこえたまふや。さきざきの人、さやうの憚りにより、とどこほることもはべりかし」
 と申したまへば、
 「女御なむ、つれづれにのどかになりにたるありさまも、同じ心に後見て、慰めまほしきをなど、かの勧めたまふにつけて、いかがなどだに思ひたまへよるになむ」
 と聞こえたまふ。
 これかれ、ここに集まりたまひて、三条の宮に参りたまふ。朱雀院の古き心ものしたまふ人びと、六条院の方ざまのも、かたがたにつけて、なほかの入道宮をば、えよきず参りたまふなめり。この殿の左近中将、右中弁、侍従の君なども、やがて大臣の御供に出でたまひぬ。ひき連れたまへる勢ひことなり。


 夕つけて、四位侍従参りたまへり。そこらおとなしき若君達も、あまたさまざまに、いづれかは悪ろびたりつる。皆めやすかりつる中に、立ち後れてこの君の立ち出でたまへる、いとこよなく目とまる心地して、例の、ものめでする若き人たちは、「なほ、ことなりけり」など言ふ。
 「この殿の姫君の御かたはらには、これをこそさし並べて見め」
 と、聞きにくく言ふ。げに、いと若うなまめかしきさまして、うちふるまひたまへる匂ひ香など、世の常ならず。「姫君と聞こゆれど、心おはせむ人は、げに人よりはまさるなめりと、見知りたまふらむかし」とぞおぼゆる。
 尚侍の殿、御念誦堂におはして、「こなたに」とのたまへれば、東の階より昇りて、戸口の御簾の前にゐたまへり。御前近き若木の梅、心もとなくつぼみて、鴬の初声もいとおほどかなるに、いと好かせたてまほしきさまのしたまへれば、人びとはかなきことを言ふに、言少なに心にくきほどなるを、ねたがりて、宰相の君と聞こゆる上臈の詠みかけたまふ。
 「折りて見ばいとど匂ひもまさるやと
  すこし色めけ梅の初花」
 「口はやし」と聞きて、
 「よそにてはもぎ木なりとや定むらむ
  下に匂へる梅の初花
 さらば袖触れて見たまへ」など言ひすさぶに、
 「まことは色よりも」
 と、口々、引きも動かしつべくさまよふ。
 尚侍の君、奥の方よりゐざり出でたまひて、
 「うたての御達や。恥づかしげなるまめ人をさへ、よくこそ、面無けれ」
 と忍びてのたまふなり。「まめ人とこそ、付けられたりけれ。いと屈じたる名かな」と思ひゐたまへり。主人の侍従、殿上などもまだせねば、所々もありかで、おはしあひたり。浅香の折敷、二つばかりして、くだもの、盃ばかりさし出でたまへり。
 「大臣は、ねびまさりたまふままに、故院にいとようこそ、おぼえたてまつりたまへれ。この君は、似たまへるところも見えたまはぬを、けはひのいとしめやかに、なまめいたるもてなししもぞ、かの御若盛り思ひやらるる。かうざまにぞおはしけむかし」
 など、思ひ出でられたまひて、うちしほたれたまふ。名残さへとまりたる香うばしさを、人びとはめでくつがへる。

 侍従の君、まめ人の名をうれたしと思ひければ、二十余日のころ、梅の花盛りなるに、「匂ひ少なげに取りなされじ。好き者ならはむかし」と思して、藤侍従の御もとにおはしたり。
 中門入りたまふほどに、同じ直衣姿なる人立てりけり。隠れなむと思ひけるを、ひきとどめたれば、この常に立ちわづらふ少将なりけり。
 「寝殿の西面に、琵琶、箏の琴の声するに、心を惑はして立てるなめり。苦しげや。人の許さぬこと思ひはじめむは、罪深かるべきわざかな」と思ふ。琴の声もやみぬれば、
 「いざ、しるべしたまへ。まろは、いとたどたどし」
 とて、ひき連れて、西の渡殿の前なる紅梅の木のもとに、「梅が枝」をうそぶきて立ち寄るけはひの、花よりもしるく、さとうち匂へれば、妻戸おし開けて、人びと、東琴をいとよく掻き合はせたり。女の琴にて、呂の歌は、かうしも合はせぬを、いたしと思ひて、今一返り、をり返し歌ふを、琵琶も二なく今めかし。
 「ゆゑありてもてないたまへるあたりぞかし」と、心とまりぬれば、今宵はすこしうちとけて、はかなしごとなども言ふ。
 内より和琴さし出でたり。かたみに譲りて、手触れぬに、侍従の君して、尚侍の殿、
 「故致仕の大臣の御爪音になむ、通ひたまへる、と聞きわたるを、まめやかにゆかしうなむ。今宵は、なほ鴬にも誘はれたまへ」
 と、のたまひ出だしたれば、「あまえて爪くふべきことにもあらぬを」と思ひて、をさをさ心にも入らず掻きわたしたまへるけしき、いと響き多く聞こゆ。
 「常に見たてまつり睦びざりし親なれど、世におはせずなりにきと思ふに、いと心細きに、はかなきことのついでにも思ひ出でたてまつるに、いとなむあはれなる。
 おほかた、この君は、あやしう故大納言の御ありさまに、いとようおぼえ、琴の音など、ただそれとこそ、おぼえつれ」
 とて泣きたまふも、古めいたまふしるしの、涙もろさにや。

 少将も、声いとおもしろうて、「さき草」謡ふ。さかしら心つきて、うち過ぐしたる人もまじらねば、おのづからかたみにもよほされて遊びたまふに、主人の侍従は、故大臣に似たてまつりたまへるにや、かやうの方は後れて、盃をのみすすむれば、「寿詞をだにせむや」と、恥づかしめられて、「竹河」を同じ声に出だして、まだ若けれど、をかしう謡ふ。簾のうちより土器さし出づ。
 「酔のすすみては、忍ぶることもつつまれず。ひがことするわざとこそ聞きはべれ。いかにもてないたまふぞ」
 と、とみにうけひかず。小袿重なりたる細長の、人香なつかしう染みたるを、取りあへたるままに、被けたまふ。「何ぞもぞ」などさうどきて、侍従は、主人の君にうち被けて去ぬ。引きとどめて被くれど、「水駅にて夜更けにけり」とて、逃げにけり。
 少将は、「この源侍従の君のかうほのめき寄るめれば、皆人これにこそ心寄せたまふらめ。わが身は、いとど屈じいたく思ひ弱りて」、あぢきなうぞ恨むる。
 「人はみな花に心を移すらむ
  一人ぞ惑ふ春の夜の闇」
 うち嘆きて立てば、内の人の返し、
 「をりからやあはれも知らむ梅の花
  ただ香ばかりに移りしもせじ」
 朝に、四位侍従のもとより、主人の侍従のもとに、
 「昨夜は、いと乱りがはしかりしを、人びといかに見たまひけむ」
 と、見たまへとおぼしう、仮名がちに書きて、
 「竹河の橋うちいでし一節に
  深き心の底は知りきや」
 と書きたり。寝殿に持て参りて、これかれ見たまふ。
 「手なども、いとをかしうもあるかな。いかなる人、今よりかくととのひたらむ。幼くて、院にも後れたてまつり、母宮のしどけなう生ほし立てたまへれど、なほ人にはまさるべきにこそあめれ」
 とて、尚侍の君は、この君たちの、手など悪しきことを恥づかしめたまふ。返りこと、げに、いと若く、
 「昨夜は、水駅をなむ、とがめきこゆめりし。
  竹河に夜を更かさじといそぎしも
  いかなる節を思ひおかまし」
 げに、この節をはじめにて、この君の御曹司におはして、けしきばみ寄る。少将の推し量りしもしるく、皆人心寄せたり。侍従の君も、若き心地に、近きゆかりにて、明け暮れ睦びまほしう思ひけり。

 弥生になりて、咲く桜あれば、散りかひくもり、おほかたの盛りなるころ、のどやかにおはする所は、紛るることなく、端近なる罪もあるまじかめり。
 そのころ、十八、九のほどやおはしけむ、御容貌も心ばへも、とりどりにぞをかしき。姫君は、いとあざやかに気高う、今めかしきさましたまひて、げに、ただ人にて見たてまつらむは、似げなうぞ見えたまふ。
 桜の細長、山吹などの、折にあひたる色あひの、なつかしきほどに重なりたる裾まで、愛敬のこぼれ落ちたるやうに見ゆる、御もてなしなども、らうらうじく、心恥づかしき気さへ添ひたまへり。
 今一所は、薄紅梅に、桜色にて、柳の糸のやうに、たをたをとたゆみ、いとそびやかになまめかしう、澄みたるさまして、重りかに心深きけはひは、まさりたまへれど、匂ひやかなるけはひは、こよなしとぞ人思へる。
 碁打ちたまふとて、さし向ひたまへる髪ざし、御髪のかかりたるさまども、いと見所あり。侍従の君、見証したまふとて、近うさぶらひたまふに、兄君たちさしのぞきたまひて、
 「侍従のおぼえ、こよなうなりにけり。御碁の見証許されにけるをや」
 とて、おとなおとなしきさましてついゐたまへば、御前なる人びと、とかうゐなほる。中将、
 「宮仕へのいそがしうなりはべるほどに、人に劣りにたるは、いと本意なきわざかな」
 と愁へたまへば、
 「弁官は、まいて、私の宮仕へおこたりぬべきままに、さのみやは思し捨てむ」
 など申したまふ。碁打ちさして、恥ぢらひておはさうずる、いとをかしげなり。
 「内裏わたりなどまかりありきても、故殿おはしまさましかば、と思ひたまへらるること多くこそ」
 など、涙ぐみて見たてまつりたまふ。二十七、八のほどにものしたまへば、いとよくととのひて、この御ありさまどもを、「いかで、いにしへ思しおきてしに、違へずもがな」と思ひゐたまへり。
 御前の花の木どもの中にも、匂ひまさりてをかしき桜を折らせて、「他のには似ずこそ」など、もてあそびたまふを、
 「幼くおはしましし時、この花は、わがぞ、わがぞと、争ひたまひしを、故殿は、姫君の御花ぞと定めたまふ。上は、若君の御木と定めたまひしを、いとさは泣きののしらねど、やすからず思ひたまへられしはや」とて、「この桜の老木になりにけるにつけても、過ぎにける齢を思ひたまへ出づれば、あまたの人に後れはべりにける、身の愁へも、止めがたうこそ」
 など、泣きみ笑ひみ聞こえたまひて、例よりはのどやかにおはす。人の婿になりて、心静かにも今は見えたまはぬを、花に心とどめてものしたまふ。

 尚侍の君、かくおとなしき人の親になりたまふ御年のほど思ふよりは、いと若うきよげに、なほ盛りの御容貌と見えたまへり。冷泉院の帝は、多くは、この御ありさまのなほゆかしう、昔恋しう思し出でられければ、何につけてかはと、思しめぐらして、姫君の御ことを、あながちに聞こえたまふにぞありける。院へ参りたまはむことは、この君たちぞ、
 「なほ、ものの栄なき心地こそすべけれ。よろづのこと、時につけたるをこそ、世人も許すめれ。げに、いと見たてまつらまほしき御ありさまは、この世にたぐひなくおはしますめれど、盛りならぬ心地ぞするや。琴笛の調べ、花鳥の色をも音をも、時に従ひてこそ、人の耳もとまるものなれ。春宮は、いかが」
 など申したまへば、
 「いさや、はじめよりやむごとなき人の、かたはらもなきやうにてのみ、ものしたまふめればこそ。なかなかにて交じらはむは、胸いたく人笑へなることもやあらむと、つつましければ。殿おはせましかば、行く末の御宿世宿世は知らず、ただ今は、かひあるさまにもてなしたまひてましを」
 などのたまひ出でて、皆ものあはれなり。



 中将など立ちたまひてのち、君たちは、打ちさしたまへる碁打ちたまふ。昔より争ひたまふ桜を賭物にて、
 「三番に、数一つ勝ちたまはむ方には、なほ花を寄せてむ」
 と、戯れ交はし聞こえたまふ。暗うなれば、端近うて打ち果てたまふ。御簾巻き上げて、人びと皆挑み念じきこゆ。折しも例の少将、侍従の君の御曹司に来たりけるを、うち連れて出でたまひにければ、おほかた人少ななるに、廊の戸の開きたるに、やをら寄りてのぞきけり。
 かう、うれしき折を見つけたるは、仏などの現れたまへらむに参りあひたらむ心地するも、はかなき心になむ。夕暮の霞の紛れは、さやかならねど、つくづくと見れば、桜色のあやめも、それと見分きつ。げに、散りなむ後の形見にも見まほしく、匂ひ多く見えたまふを、いとど異ざまになりたまひなむこと、わびしく思ひまさらる。若き人びとのうちとけたる姿ども、夕映えをかしう見ゆ。右勝たせたまひぬ。「高麗の乱声、おそしや」など、はやりかに言ふもあり。
 「右に心を寄せたてまつりて、西の御前に寄りてはべる木を、左になして、年ごろの御争ひの、かかれば、ありつるぞかし」
 と、右方は心地よげにはげましきこゆ。何ごとと知らねど、をかしと聞きて、さしいらへもせまほしけれど、「うちとけたまへる折、心地なくやは」と思ひて、出でて去ぬ。「また、かかる紛れもや」と、蔭に添ひてぞ、うかがひありきける。

 君達は、花の争ひをしつつ明かし暮らしたまふに、風荒らかに吹きたる夕つ方、乱れ落つるがいと口惜しうあたらしければ、負け方の姫君、
 「桜ゆゑ風に心の騒ぐかな
  思ひぐまなき花と見る見る」
 御方の宰相の君、
 「咲くと見てかつは散りぬる花なれば
  負くるを深き恨みともせず」
 と聞こえ助くれば、右の姫君、
 「風に散ることは世の常枝ながら
  移ろふ花をただにしも見じ」
 この御方の大輔の君、
 「心ありて池のみぎはに落つる花
  あわとなりてもわが方に寄れ」
 勝ち方の童女おりて、花の下にありきて、散りたるをいと多く拾ひて、持て参れり。
 「大空の風に散れども桜花
  おのがものとぞかきつめて見る」
 左のなれき、
 「桜花匂ひあまたに散らさじと
  おほふばかりの袖はありやは
 心せばげにこそ見ゆめれ」など言ひ落とす。


 


 かくいふに、月日はかなく過ぐすも、行く末のうしろめたきを、尚侍の殿はよろづに思す。院よりは、御消息日々にあり。女御、
 「うとうとしう思し隔つるにや。上は、ここに聞こえ疎むるなめりと、いと憎げに思しのたまへば、戯れにも苦しうなむ。同じくは、このころのほどに思し立ちね」
 など、いとまめやかに聞こえたまふ。「さるべきにこそはおはすらめ。いとかうあやにくにのたまふもかたじけなし」など思したり。
 御調度などは、そこらし置かせたまへれば、人びとの装束、何くれのはかなきことをぞいそぎたまふ。これを聞くに、蔵人少将は、死ぬばかり思ひて、母北の方をせめたてまつれば、聞きわづらひたまひて、
 「いとかたはらいたきことにつけて、ほのめかし聞こゆるも、世にかたくなしき闇の惑ひになむ。思し知る方もあらば、推し量りて、なほ慰めさせたまへ」
 など、いとほしげに聞こえたまふを、「苦しうもあるかな」と、うち嘆きたまひて、
 「いかなることと、思うたまへ定むべきやうもなきを、院よりわりなくのたまはするに、思うたまへ乱れてなむ。まめやかなる御心ならば、このほどを思ししづめて、慰めきこえむさまをも見たまひてなむ、世の聞こえもなだらかならむ」
 など申したまふも、この御参り過ぐして、中の君をと思すなるべし。「さし合はせては、うたてしたり顔ならむ。まだ、位などもあさへたるほどを」など思すに、男は、さらにしか思ひ移るべくもあらず、ほのかに見たてまつりてのちは、面影に恋しう、いかならむ折にとのみおぼゆるに、かう頼みかからずなりぬるを、思ひ嘆きたまふこと限りなし。


 かひなきことも言はむとて、例の、侍従の曹司に来たれば、源侍従の文をぞ見ゐたまへりける。ひき隠すを、さなめりと見て、奪ひ取りつ。「ことあり顔にや」と思ひて、いたうも隠さず。そこはかとなく、ただ世を恨めしげにかすめたり。
 「つれなくて過ぐる月日をかぞへつつ
  もの恨めしき暮の春かな」
 「人はかうこそ、のどやかにさまよくねたげなめれ、わがいと人笑はれなる心焦られを、かたへは目馴れて、あなづりそめられにたる」など思ふも、胸痛ければ、ことにものも言はれで、例、語らふ中将の御許の曹司の方に行くも、例の、かひあらじかしと、嘆きがちなり。
 侍従の君は、「この返りことせむ」とて、上に参りたまふを見るに、いと腹立たしうやすからず、若き心地には、ひとへにものぞおぼえける。
 あさましきまで恨み嘆けば、この前申しも、あまり戯れにくく、いとほしと思ひて、いらへもをさをさせず。かの御碁の見証せし夕暮のことも言ひ出でて、
 「さばかりの夢をだに、また見てしがな。あはれ、何を頼みにて生きたらむ。かう聞こゆることも、残り少なうおぼゆれば、つらきもあはれ、といふことこそ、まことなりけれ」
 と、いとまめだちて言ふ。「あはれとて、言ひやるべき方なきことなり。かの慰めたまふらむ御さま、つゆばかりうれしと思ふべきけしきもなければ、げに、かの夕暮の顕証なりけむに、いとどかうあやにくなる心は添ひたるならむ」と、ことわりに思ひて、
 「聞こしめさせたらば、いとどいかにけしからぬ御心なりけりと、疎みきこえたまはむ。心苦しと思ひきこえつる心も失せぬ。いとうしろめたき御心なりけり」
 と、向ひ火つくれば、
 「いでや、さはれや。今は限りの身なれば、もの恐ろしくもあらずなりにたり。さても負けたまひしこそ、いといとほしかりしか。おいらかに召し入れてやは。目くはせたてまつらましかば、こよなからましものを」など言ひて、
 「いでやなぞ数ならぬ身にかなはぬは
  人に負けじの心なりけり」
 中将、うち笑ひて、
 「わりなしや強きによらむ勝ち負けを
  心一つにいかがまかする」
 といらふるさへぞ、つらかりける。
 「あはれとて手を許せかし生き死にを
  君にまかするわが身とならば」
 泣きみ笑ひみ、語らひ明かす。

 またの日は、卯月になりにければ、兄弟の君たちの、内裏に参りさまよふに、いたう屈じ入りて眺めゐたまへれば、母北の方は、涙ぐみておはす。大臣も、
 「院の聞こしめすところもあるべし。何にかは、おほなおほな聞き入れむ、と思ひて、くやしう、対面のついでにも、うち出で聞こえずなりにし。みづからあながちに申さましかば、さりともえ違へたまはざらまし」
 などのたふ。さて、例の、
 「花を見て春は暮らしつ今日よりや
  しげき嘆きの下に惑はむ」
 と聞こえたまへり。
 御前にて、これかれ上臈だつ人びと、この御懸想人の、さまざまにいとほしげなるを聞こえ知らするなかに、中将の御許、
 「生き死にをと言ひしさまの、言にのみはあらず、心苦しげなりし」
 など聞こゆれば、尚侍の君も、いとほしと聞きたまふ。大臣、北の方の思すところにより、せめて人の御恨み深くはと、取り替へありて思すこの御参りを、さまたげやうに思ふらむはしも、めざましきこと、限りなきにても、ただ人には、かけてあるまじきものに、故殿の思しおきてたりしものを、院に参りたまはむだに、行く末のはえばえしからぬを思したる、折しも、この御文取り入れてあはれがる。御返事、
 「今日ぞ知る空を眺むるけしきにて
  花に心を移しけりとも」
 「あな、いとほし。戯れにのみも取りなすかな」
 など言へど、うるさがりて書き変へず。

 九日にぞ、参りたまふ。右の大殿、御車、御前の人びとあまたたてまつりたまへり。北の方も、恨めしと思ひきこえたまへど、年ごろさもあらざりしに、この御ことゆゑ、しげう聞こえ通ひたまへるを、またかき絶えむもうたてあれば、被け物ども、よき女の装束ども、あまたたてまつれたまへり。
 「あやしう、うつし心もなきやうなる人のありさまを、見たまへ扱ふほどに、承りとどむることもなかりけるを、おどろかさせたまはぬも、うとうとしくなむ」
 とぞありける。おいらかなるやうにてほのめかしたまへるを、いとほしと見たまふ。大臣も御文あり。
 「みづからも参るべきに、思うたまへつるに、慎む事のはべりてなむ。男ども、雑役にとて参らす。疎からず召し使はせたまへ」
 とて、源少将、兵衛佐など、たてまつれたまへり。「情けはおはすかし」と、喜びきこえたまふ。大納言殿よりも、人びとの御車たてまつれたまふ。北の方は、故大臣の御女、真木柱の姫君なれば、いづかたにつけても、睦ましう聞こえ通ひたまふべけれど、さしもあらず。
 藤中納言はしも、みづからおはして、中将、弁の君たち、もろともに事行ひたまふ。殿のおはせましかばと、よろづにつけてあはれなり。

 蔵人の君、例の人にいみじき言葉を尽くして、
 「今は限りと思ひはべる命の、さすがに悲しきを。あはれと思ふ、とばかりだに、一言のたまはせば、それにかけとどめられて、しばしもながらへやせむ」
 などあるを、持て参りて見れば、姫君二所うち語らひて、いといたう屈じたまへり。夜昼もろともに慣らひたまひて、中の戸ばかり隔てたる西東をだに、いといぶせきものにしたまひて、かたみにわたり通ひおはするを、よそよそにならむことを思すなりけり。
 心ことにしたて、ひきつくろひたてまつりたまへる御さま、いとをかし。殿の思しのたまひしさまなどを思し出でて、ものあはれなる折からにや、取りて見たまふ。「大臣、北の方の、さばかり立ち並びて、頼もしげなる御なかに、などかうすずろごとを思ひ言ふらむ」とあやしきにも、「限り」とあるを、「まことや」と思して、やがてこの御文の端に、
 「あはれてふ常ならぬ世の一言も
  いかなる人にかくるものぞは
 ゆゆしき方にてなむ、ほのかに思ひ知りたる」
 と書きたまひて、「かう言ひやれかし」とのたまふを、やがてたてまつれたるを、限りなう珍しきにも、折思しとむるさへ、いとど涙もとどまらず。
 立ちかへり、「誰が名は立たじ」など、かことがましくて、
 「生ける世の死には心にまかせねば
  聞かでややまむ君が一言
 塚の上にも掛けたまふべき御心のほど、思ひたまへましかば、ひたみちにも急がれはべらましを」
 などあるに、「うたてもいらへをしてけるかな。書き変へでやりつらむよ」と苦しげに思して、ものものたまはずなりぬ。

 大人、童、めやすき限りをととのへられたり。おほかたの儀式などは、内裏に参りたまはましに、変はることなし。まづ、女御の御方に渡りたまひて、尚侍の君は、御物語など聞こえたまふ。夜更けてなむ、上にまう上りたまひける。
 后、女御など、みな年ごろ経てねびたまへるに、いとうつくしげにて、盛りに見所あるさまを見たてまつりたまふは、などてかはおろかならむ。はなやかに時めきたまふ。ただ人だちて、心やすくもてなしたまへるさましもぞ、げに、あらまほしうめでたかりける。
 尚侍の君を、しばしさぶらひたまひなむと、御心とどめて思しけるに、いと疾く、やをら出でたまひにければ、口惜しう心憂しと思したり。
 源侍従の君をば、明け暮れ御前に召しまつはしつつ、げに、ただ昔の光る源氏の生ひ出でたまひしに劣らぬ人の御おぼえなり。院のうちには、いづれの御方にも疎からず、馴れ交じらひありきたまふ。この御方にも、心寄せあり顔にもてなして、下には、いかに見たまふらむの心さへ添ひたまへり。
 夕暮のしめやかなるに、藤侍従と連れてありくに、かの御方の御前近く見やらるる五葉に、藤のいとおもしろく咲きかかりたるを、水のほとりの石に、苔を席にて眺めゐたまへり。まほにはあらねど、世の中恨めしげにかすめつつ語らふ。
 「手にかくるものにしあらば藤の花
  松よりまさる色を見ましや」
 とて、花を見上げたるけしきなど、あやしくあはれに心苦しく思ほゆれば、わが心にあらぬ世のありさまにほのめかす。
 「紫の色はかよへど藤の花
  心にえこそかからざりけれ」
 まめなる君にて、いとほしと思へり。いと心惑ふばかりは思ひ焦られざりしかど、口惜しうはおぼえけり。

 かの少将の君はしも、まめやかに、いかにせましと、過ちもしつべく、しづめがたくなむおぼえける。聞こえたまひし人びと、中の君をと、移ろふもあり。少将の君をば、母北の方の御恨みにより、さもやと思ほして、ほのめかし聞こえたまひしを、絶えて訪れずなりにたり。
 院には、かの君たちも、親しくもとよりさぶらひたまへど、この参りたまひてのち、をさをさ参らず、まれまれ殿上の方にさしのぞきても、あぢきなう、逃げてなむまかでける。
 内裏には、故大臣の心ざしおきたまへるさまことなりしを、かく引き違へたる御宮仕へを、いかなるにか、と思して、中将を召してなむのたまはせける。
 「御けしきよろしからず。さればこそ、世人の心のうちも、傾きぬべきことなりと、かねて申しし事を、思しとるかた異にて、かう思し立ちにしかば、ともかくも聞こえがたくてはべるに、かかる仰せ言のはべれば、なにがしらが身のためも、あぢきなくなむはべる」
 と、いとものしと思ひて、尚侍の君を申したまふ。
 「いさや。ただ今、かう、にはかにしも思ひ立さざりしを。あながちに、いとほしうのたまはせしかば、後見なき交じらひの内裏わたりは、はしたなげなめるを、今は心やすき御ありさまなめるに、まかせきこえて、と思ひ寄りしなり。誰れも誰れも、便なからむ事は、ありのままにも諌めたまはで、今ひき返し、右の大臣も、ひがひがしきやうに、おもむけてのたまふなれば、苦しうなむ。これもさるべきにこそは」
 と、なだらかにのたまひて、心も騒がいたまはず。
 「その昔の御宿世は、目に見えぬものなれば、かう思しのたまはするを、これは契り異なるとも、いかがは奏し直すべきことならむ。中宮を憚りきこえたまふとて、院の女御をば、いかがしたてまつりたまはむとする。後見や何やと、かねて思し交はすとも、さしもえはべらじ。
 よし、見聞きはべらむ。よう思へば、内裏は、中宮おはしますとて、異人は交じらひたまはずや。君に仕うまつることは、それが心やすきこそ、昔より興あることにはしけれ。女御は、いささかなることの違ひ目ありて、よろしからず思ひきこえたまはむに、ひがみたるやうになむ、世の聞き耳もはべらむ」
 など、二所して申したまへば、尚侍の君、いと苦しと思して、さるは、限りなき御思ひのみ、月日に添へてまさる。
 七月よりはらみたまひにけり。「うち悩みたまへるさま、げに、人のさまざまに聞こえわづらはすも、ことわりぞかし。いかでかはかからむ人を、なのめに見聞き過ぐしてはやまむ」とぞおぼゆる。明け暮れ、御遊びをせさせたまひつつ、侍従も気近う召し入るれば、御琴の音などは聞きたまふ。かの「梅が枝」に合はせたりし中将の御許の和琴も、常に召し出でて弾かせたまへば、聞き合はするにも、ただにはおぼえざりけり。


 


 その年かへりて、男踏歌せられけり。殿上の若人どもの中に、物の上手多かるころほひなり。その中にも、すぐれたるを選らせたまひて、この四位の侍従、右の歌頭なり。かの蔵人少将、楽人の数のうちにありけり。
 十四日の月のはなやかに曇りなきに、御前より出でて、冷泉院に参る。女御も、この御息所も、上に御局して見たまふ。上達部、親王たち、ひき連れて参りたまふ。
 「右の大殿、致仕の大殿の族を離れて、きらきらしうきよげなる人はなき世なり」と見ゆ。内裏の御前よりも、この院をばいと恥づかしう、ことに思ひきこえて、「皆人用意を加ふる中にも、蔵人少将は、見たまふらむかし」と思ひやりて、静心なし。
 匂ひもなく見苦しき綿花も、かざす人がらに見分かれて、様も声も、いとをかしくぞありける。「竹河」謡ひて、御階のもとに踏みよるほど、過ぎにし夜のはかなかりし遊びも思ひ出でられければ、ひがこともしつべくて涙ぐみけり。
 后の宮の御方に参れば、上もそなたに渡らせたまひて御覧ず。月は、夜深くなるままに、昼よりもはしたなう澄み上りて、いかに見たまふらむとのみおぼゆれば、踏む空もなうただよひありきて、盃も、さして一人をのみとがめらるるは、面目なくなむ。


 夜一夜、所々かきありきて、いと悩ましう苦しくて臥したるに、源侍従を、院より召したれば、「あな、苦し。しばし休むべきに」とむつかりながら参りたまへり。御前のことどもなど問はせたまふ。
 「歌頭は、うち過ぐしたる人のさきざきするわざを、選ばれたるほど、心にくかりけり」
 とて、うつくしと思しためり。「万春楽」を御口ずさみにしたまひつつ、御息所の御方に渡らせたまへば、御供に参りたまふ。物見に参りたる里人多くて、例よりははなやかに、けはひ今めかし。
 渡殿の戸口にしばしゐて、声聞き知りたる人に、ものなどのたまふ。
 「一夜の月影は、はしたなかりしわざかな。蔵人少将の、月の光にかかやきたりしけしきも、桂の影に恥づるにはあらずやありけむ。雲の上近くては、さしも見えざりき」
 など語りたまへば、人びとあはれと、聞くもあり。
 「闇はあやなきを、月映えは、今すこし心異なり、と定めきこえし」などすかして、内より、
 「竹河のその夜のことは思ひ出づや
  しのぶばかりの節はなけれど」
 と言ふ。はかなきことなれど、涙ぐまるるも、「げに、いと浅くはおぼえぬことなりけり」と、みづから思ひ知らる。
 「流れての頼めむなしき竹河に
  世は憂きものと思ひ知りにき」
 ものあはれなるけしきを、人びとをかしがる。さるは、おり立ちて人のやうにもわびたまはざりしかど、人ざまのさすがに心苦しう見ゆるなり。
 「うち出で過ぐすこともこそはべれ。あな、かしこ」
 とて、立つほどに、「こなたに」と召し出づれば、はしたなき心地すれど、参りたまふ。
 「故六条院の、踏歌の朝に、女楽にて遊びせられける、いとおもしろかりきと、右の大臣の語られし。何ごとも、かのわたりのさしつぎなるべき人、難くなりにける世なりや。いと物の上手なる女さへ多く集まりて、いかにはかなきことも、をかしかりけむ」
 など思しやりて、御琴ども調べさせたまひて、箏は御息所、琵琶は侍従に賜ふ。和琴を弾かせたまひて、「この殿」など遊びたまふ。御息所の御琴の音、まだ片なりなるところありしを、いとよう教へないたてまつりたまひてけり。今めかしう爪音よくて、歌、曲のものなど、上手にいとよく弾きたまふ。何ごとも、心もとなく、後れたることはものしたまはぬ人なめり。
 容貌、はた、いとをかしかべしと、なほ心とまる。かやうなる折多かれど、おのづから気遠からず、乱れたまふ方なく、なれなれしうなどは怨みかけねど、折々につけて、思ふ心の違へる嘆かしさをかすむるも、いかが思しけむ、知らずかし。

 卯月に、女宮生まれたまひぬ。ことにけざやかなるものの、栄もなきやうなれど、院の御けしきに従ひて、右の大殿よりはじめて、御産養したまふ所々多かり。尚侍の君、つと抱き持ちてうつくしみたまふに、疾う参りたまふべきよしのみあれば、五十日のほどに参りたまひぬ。
 女一の宮、一所おはしますに、いとめづらしくうつくしうておはすれば、いといみじう思したり。いとどただこなたにのみおはします。女御方の人びと、「いとかからでありぬべき世かな」と、ただならず言ひ思へり。
 正身の御心どもは、ことに軽々しく背きたまふにはあらねど、さぶらふ人びとの中に、くせぐせしきことも出で来などしつつ、かの中将の君の、さいへど人のこのかみにて、のたまひしことかなひて、尚侍の君も、「むげにかく言ひ言ひの果ていかならむ。人笑へに、はしたなうもやもてなされむ。上の御心ばへは浅からねど、年経てさぶらひたまふ御方々、よろしからず思ひ放ちたまはば、苦しくもあるべきかな」と思ほすに、内裏には、まことにものしと思しつつ、たびたび御けしきありと、人の告げ聞こゆれば、わづらはしくて、中の姫君を、公ざまにて交じらはせたてまつらむことを思して、尚侍を譲りたまふ。
 朝廷、いと難うしたまふことなりければ、年ごろ、かう思しおきてしかど、え辞したまはざりしを、故大臣の御心を思して、久しうなりにける昔の例など引き出でて、そのことかなひたまひぬ。この君の御宿世にて、年ごろ申したまひしは難きなりけり、と見えたり。

 「かくて、心やすくて内裏住みもしたまへかし」と、思すにも、「いとほしう、少将のことを、母北の方のわざとのたまひしものを。頼めきこえしやうにほのめかし聞こえしも、いかに思ひたまふらむ」と思し扱ふ。
 弁の君して、心うつくしきやうに、大臣に聞こえたまふ。
 「内裏より、かかる仰せ言のあれば、さまざまに、あながちなる交じらひの好みと、世の聞き耳もいかがと思ひたまへてなむ、わづらひぬる」
 と聞こえたまへば、
 「内裏の御けしきは、思しとがむるも、ことわりになむ承る。公事につけても、宮仕へしたまはぬは、さるまじきわざになむ。はや、思し立つべきになむ」
 と申したまへり。
 また、このたびは、中宮の御けしき取りてぞ参りたまふ。「大臣おはせましかば、おし消ちたまはざらまし」など、あはれなることどもをなむ。姉君は、容貌など名高う、をかしげなりと、聞こしめしおきたりけるを、引き変へたまへるを、なま心ゆかぬやうなれど、これもいとらうらうじく、心にくくもてなしてさぶらひたまふ。

 前の尚侍の君、容貌を変へてむと思し立つを、
 「かたがたに扱ひきこえたまふほどに、行なひも心あわたたしうこそ思されめ。今すこし、いづ方も心のどかに見たてまつりなしたまひて、もどかしきところなく、ひたみちに勤めたまへ」
 と、君たちの申したまへば、思しとどこほりて、内裏には、時々忍びて参りたまふ折もあり。院には、わづらはしき御心ばへのなほ絶えねば、さるべき折も、さらに参りたまはず。いにしへを思ひ出でしが、さすがに、かたじけなうおぼえしかしこまりに、人の皆許さぬことに思へりしをも、知らず顔に思ひて参らせたてまつりて、「みづからさへ、戯れにても、若々しきことの世に聞こえたらむこそ、いとまばゆく見苦しかるべけれ」と思せど、さる罪によりと、はた、御息所にも明かしきこえたまはねば、「われを、昔より、故大臣は取り分きて思しかしづき、尚侍の君は、若君を、桜の争ひ、はかなき折にも、心寄せたまひし名残に、思し落としけるよ」と、恨めしう思ひきこえたまひけり。院の上、はた、ましていみじうつらしとぞ思しのたまはせける。
 「古めかしきあたりにさし放ちて。思ひ落とさるるも、ことわりなり」
 と、うち語らひたまひて、あはれにのみ思しまさる。

 年ごろありて、また男御子産みたまひつ。そこらさぶらひたまふ御方々に、かかることなくて年ごろになりにけるを、おろかならざりける御宿世など、世人おどろく。帝は、まして限りなくめづらしと、この今宮をば思ひきこえたまへり。「おりゐたまはぬ世ならましかば、いかにかひあらまし。今は何ごとも栄なき世を、いと口惜し」となむ思しける。
 女一の宮を、限りなきものに思ひきこえたまひしを、かくさまざまにうつくしくて、数添ひたまへれば、めづらかなる方にて、いとことにおぼいたるをなむ、女御も、「あまりかうてはものしからむ」と、御心動きける。
 ことにふれて、やすからずくねくねしきこと出で来などして、おのづから御仲も隔たるべかめり。世のこととして、数ならぬ人の仲らひにも、もとよりことわりえたる方にこそ、あいなきおほよその人も、心を寄するわざなめれば、院のうちの上下の人びと、いとやむごとなくて、久しくなりたまへる御方にのみことわりて、はかないことにも、この方ざまを良からず取りなしなどするを、御兄の君たちも、
 「さればよ。悪しうやは聞こえおきける」
 と、いとど申したまふ。心やすからず、聞き苦しきままに、
 「かからで、のどやかにめやすくて世を過ぐす人も多かめりかし。限りなき幸ひなくて、宮仕への筋は、思ひ寄るまじきわざなりけり」
 と、大上は嘆きたまふ。

 聞こえし人びとの、めやすくなり上りつつ、さてもおはせましに、かたはならぬぞあまたあるや。その中に、源侍従とて、いと若う、ひはづなりと見しは、宰相の中将にて、「匂ふや、薫るや」と、聞きにくくめで騒がるなる、げに、いと人柄重りかに心にくきを、やむごとなき親王たち、大臣の、御女を、心ざしありてのたまふなるなども、聞き入れずなどあるにつけて、「そのかみは、若う心もとなきやうなりしかど、めやすくねびまさりぬべかめり」など、言ひおはさうず。
 少将なりしも、三位中将とか言ひて、おぼえあり。
 「容貌さへ、あらまほしかりきや」
 など、なま心悪ろき仕うまつり人は、うち忍びつつ、
 「うるさげなる御ありさまよりは」
 など言ふもありて、いとほしうぞ見えし。この中将は、なほ思ひそめし心絶えず、憂くもつらくも思ひつつ、左大臣の御女を得たれど、をさをさ心もとめず、「道の果てなる常陸帯の」と、手習にも言種にもするは、いかに思ふやうのあるにかありけむ。
 御息所、やすげなき世のむつかしさに、里がちになりたまひにけり。尚侍の君、思ひしやうにはあらぬ御ありさまを、口惜しと思す。内裏の君は、なかなか今めかしう心やすげにもてなして、世にもゆゑあり、心にくきおぼえにて、さぶらひたまふ。


 


 左大臣亡せたまひて、右は左に、藤大納言、左大将かけたまへる右大臣になりたまふ。次々の人びとなり上がりて、この薫中将は、中納言に、三位の君は、宰相になりて、喜びしたまへる人びと、この御族より他に人なきころほひになむありける。
 中納言の御喜びに、前の尚侍の君に参りたまへり。御前の庭にて拝したてまつりたまふ。尚侍の君対面したまひて、
 「かく、いと草深くなりゆく葎の門を、よきたまはぬ御心ばへにも、まづ昔の御こと思ひ出でられてなむ」
 など聞こえたまふ、御声、あてに愛敬づき、聞かまほしう今めきたり。「古りがたくもおはするかな。かかれば、院の上は、怨みたまふ御心絶えぬぞかし。今つひに、ことひき出でたまひてむ」と思ふ。
 「喜びなどは、心にはいとしも思うたまへねども、まづ御覧ぜられにこそ参りはべれ。よきぬなどのたまはするは、おろかなる罪にうちかへさせたまふにや」と申したまふ。
 「今日は、さだすぎにたる身の愁へなど、聞こゆべきついでにもあらずと、つつみはべれど、わざと立ち寄りたまはむことは難きを、対面なくて、はた、さすがにくだくだしきことになむ。
 院にさぶらはるるが、いといたう世の中を思ひ乱れ、中空なるやうにただよふを、女御を頼みきこえ、また后の宮の御方にも、さりとも思し許されなむと、思ひたまへ過ぐすに、いづ方にも、なめげに心ゆかぬものに思されたなれば、いとかたはらいたくて、宮たちは、さてさぶらひたまふ。この、いと交じらひにくげなるみづからは、かくて心やすくだにながめ過ぐいたまへとて、まかでさせたるを、それにつけても、聞きにくくなむ。
 上にもよろしからず思しのたまはすなる。ついであらば、ほのめかし奏したまへ。とざまかうざまに、頼もしく思ひたまへて、出だし立てはべりしほどは、いづ方をも心やすく、うちとけ頼みきこえしかど、今は、かかること誤りに、幼うおほけなかりけるみづからの心を、もどかしくなむ」
 と、うち泣いたまふけしきなり。


 「さらにかうまで思すまじきことになむ。かかる御交じらひのやすからぬことは、昔より、さることとなりはべりにけるを、位を去りて、静かにおはしまし、何ごともけざやかならぬ御ありさまとなりにたるに、誰もうちとけたまへるやうなれど、おのおのうちうちは、いかがいどましくも思すこともなからむ。
 人は何の咎と見ぬことも、わが御身にとりては恨めしくなむ、あいなきことに心動かいたまふこと、女御、后の常の御癖なるべし。さばかりの紛れもあらじものとてやは、思し立ちけむ。ただなだらかにもてなして、御覧じ過ぐすべきことにはべるなり。男の方にて、奏すべきことにもはべらぬことになむ」
 と、いとすくすくしう申したまへば、
 「対面のついでに愁へきこえむと、待ちつけたてまつりたるかひなく、あはの御ことわりや」
 と、うち笑ひておはする、人の親にて、はかばかしがりたまへるほどよりは、いと若やかにおほどいたる心地す。「御息所も、かやうにぞおはすべかめる。宇治の姫君の心とまりておぼゆるも、かうざまなるけはひのをかしきぞかし」と思ひゐたまへり。
 尚侍も、このころまかでたまへり。こなたかなた住みたまへるけはひをかしう、おほかたのどやかに、紛るることなき御ありさまどもの、簾の内、心恥づかしうおぼゆれば、心づかひせられて、いとどもてしづめめやすきを、大上は、「近うも見ましかば」と、うち思しけり。

 大臣殿は、ただこの殿の東なりけり。大饗の垣下の君達など、あまた集ひたまふ。兵部卿宮、左の大殿の賭弓の還立、相撲の饗応などには、おはしまししを思ひて、今日の光と請じたてまつりたまひけれど、おはしまさず。
 心にくくもてかしづきたまふ姫君たちを、さるは、心ざしことに、いかで、と思ひきこえたまふべかめれど、宮ぞ、いかなるにかあらむ、御心もとめたまはざりける。源中納言の、いとどあらまほしうねびととのひ、何ごとも後れたる方なくものしたまふを、大臣も北の方も、目とどめたまひけり。
 隣のかくののしりて、行き違ふ車の音、先駆追ふ声々も、昔のこと思ひ出でられて、この殿には、ものあはれにながめたまふ。
 「故宮亡せたまひて、ほどもなく、この大臣の通ひたまひしほどを、いとあはつけいやうに、世人はもどくなりしかど、かくてものしたまふも、さすがなる方にめやすかりけり。定めなの世や。いづれにか寄るべき」などのたまふ。


 
 左の大殿の宰相中将、大饗のまたの日、夕つけてここに参りたまへり。御息所、里におはすと思ふに、いとど心げさう添ひて、
 「朝廷のかずまへたまふ喜びなどは、何ともおぼえはべらず。私の思ふことかなはぬ嘆きのみ、年月に添へて、思うたまへはるけむ方なきこと」
 と、涙おしのごふも、ことさらめいたり。二十七、八のほどの、いと盛りに匂ひ、はなやかなる容貌したまへり。
 「見苦しの君たちの、世の中を心のままにおごりて、官位をば何とも思はず、過ぐしいますがらふや。故殿のおはせましかば、ここなる人びとも、かかるすさびごとにぞ、心は乱らまし」
 とうち泣きたまふ。右兵衛督、右大弁にて、皆非参議なるを、うれはしと思へり。侍従と聞こゆめりしぞ、このころ、頭中将と聞こゆめる。年齢のほどは、かたはならねど、人に後ると嘆きたまへり。宰相は、とかくつきづきしく。

 


  

  

            現代語訳 補足 目次

      四十五、 橋 姫   
 


   
 


 そのころ、世に数まへられたまはぬ古宮おはしけり。母方なども、やむごとなくものしたまひて、筋異なるべきおぼえなどおはしけるを、時移りて、世の中にはしたなめられたまひける紛れに、なかなかいと名残なく、御後見などももの恨めしき心々にて、かたがたにつけて、世を背き去りつつ、公私に拠り所なく、さし放たれたまへるやうなり。
 北の方も、昔の大臣の御女なりける、あはれに心細く、親たちの思しおきてたりしさまなど思ひ出でたまふに、たとしへなきこと多かれど、古き御契りの二つなきばかりを、憂き世の慰めにて、かたみにまたなく頼み交はしたまへり。
 年ごろ経るに、御子ものしたまはで心もとなかりければ、さうざうしくつれづれる慰めに、「いかで、をかしからむ稚児もがな」と、宮ぞ時々思しのたまひけるに、めづらしく、女君のいとうつくしげなる、生まれたまへり。
 これを限りなくあはれと思ひかしづききこえたまふに、さし続きけしきばみたまひて、「このたびは男にても」など思したるに、同じさまにて、平らかにはしたまひながら、いといたくわづらひて亡せたまひぬ。宮、あさましう思し惑ふ。


 「あり経るにつけても、いとはしたなく、堪へがたきこと多かる世なれど、見捨てがたくあはれなる人の御ありさま、心ざまに、かけとどめらるるほだしにてこそ、過ぐし来つれ、一人とまりて、いとどすさまじくもあるべきかな。いはけなき人びとをも、一人はぐくみ立てむほど、限りある身にて、いとをこがましう、人悪ろかるべきこと」
 と思し立ちて、本意も遂げまほしうしたまひけれど、見譲る方なくて残しとどめむを、いみじう思したゆたひつつ、年月も経れば、おのおのおよすけまさりたまふさま、容貌の、うつくしうあらまほしきを、明け暮れの御慰めにて、おのづから見過ぐしたまふ。
 後に生まれたまひし君をば、さぶらふ人びとも、「いでや、折ふし心憂く」など、うちつぶやきつつ、心に入れても扱ひきこえざりけれど、限りのさまにて、何ごとも思し分かざりしほどながら、これをいと心苦しと思ひて、
 「ただ、この君を形見に見たまひて、あはれと思せ」
 とばかり、ただ一言なむ、宮に聞こえ置きたまひければ、前の世の契りもつらき折ふしなれど、「さるべきにこそはありけめと、今はと見えしまで、いとあはれと思ひて、うしろめたげにのたまひしを」と、思し出でつつ、この君をしも、いとかなしうしたてまつりたまふ。容貌なむまことにいとうつくしう、ゆゆしきまでものしたまひける。
 姫君は、心ばせ静かによしある方にて、見る目もてなしも、気高く心にくきさまぞしたまへる。いたはしくやむごとなき筋はまさりて、いづれをも、さまざまに思ひかしづききこえたまへど、かなはぬこと多く、年月に添へて、宮の内も寂しくのみなりまさる。
 さぶらひし人も、たつきなき心地するに、え忍びあへず、次々に従ひてまかで散りつつ、若君の御乳母も、さる騷ぎに、はかばかしき人をしも、選りあへたまはざりければ、ほどにつけたる心浅さにて、幼きほどを見捨てたてまつりにければ、ただ宮ぞはぐくみたまふ。

 さすがに、広くおもしろき宮の、池、山などのけしきばかり昔に変はらで、いといたう荒れまさるを、つれづれと眺めたまふ。
 家司なども、むねむねしき人もなきままに、草青やかに繁り、軒のしのぶぞ、所え顔に青みわたれる。折々につけたる花紅葉の、色をも香をも、同じ心に見はやしたまひしにこそ、慰むことも多かりけれ、いとどしく寂しく、寄りつかむ方なきままに、持仏の御飾りばかりを、わざとせさせたまひて、明け暮れ行ひたまふ。
 かかるほだしどもにかかづらふだに、思ひの外に口惜しう、「わが心ながらもかなはざりける契り」とおぼゆるを、まいて、「何にか、世の人めいて今さらに」とのみ、年月に添へて、世の中を思し離れつつ、心ばかりは聖になり果てたまひて、故君の亡せたまひにしこなたは、例の人のさまなる心ばへなど、たはぶれにても思し出でたまはざりけり。
 「などか、さしも。別るるほどの悲しびは、また世にたぐひなきやうにのみこそは、おぼゆべかめれど、あり経れば、さのみやは。なほ、世人になずらふ御心づかひをしたまひて、いとかく見苦しく、たつきなき宮の内も、おのづからもてなさるるわざもや」
 と、人はもどききこえて、何くれと、つきづきしく聞こえごつことも、類にふれて多かれど、聞こしめし入れざりけり。
 御念誦のひまひまには、この君たちをもてあそび、やうやうおよすけたまへば、琴習はし、碁打ち、偏つきなど、はかなき御遊びわざにつけても、心ばへどもを見たてまつりたまふに、姫君は、らうらうじく、深く重りかに見えたまふ。若君は、おほどかにらうたげなるさまして、ものづつみしたるけはひに、いとうつくしう、さまざまにおはす。

 春のうららかなる日影に、池の水鳥どもの、羽うち交はしつつ、おのがじしさへづる声などを、常は、はかなきことに見たまひしかども、つがひ離れぬをうらやましく眺めたまひて、君たちに、御琴ども教へきこえたまふ。いとをかしげに、小さき御ほどに、とりどり掻き鳴らしたまふ物の音ども、あはれにをかしく聞こゆれば、涙を浮けたまひて、
 「うち捨ててつがひ去りにし水鳥の
  仮のこの世にたちおくれけむ
 心尽くしなりや」
 と、目おし拭ひたまふ。容貌いときよげにおはします宮なり。年ごろの御行ひにやせ細りたまひにたれど、さてしも、あてになまめきて、君たちをかしづきたまふ御心ばへに、直衣の萎えばめるを着たまひて、しどけなき御さま、いと恥づかしげなり。
 姫君、御硯をやをらひき寄せて、手習のやうに書き混ぜたまふを、
 「これに書きたまへ。硯には書きつけざなり」
 とて、紙たてまつりたまへば、恥ぢらひて書きたまふ。
 「いかでかく巣立ちけるぞと思ふにも
  憂き水鳥の契りをぞ知る」
 よからねど、その折は、いとあはれなりけり。手は、生ひ先見えて、まだよくも続けたまはぬほどなり。
 「若君も書きたまへ」
 とあれば、今すこし幼げに、久しく書き出でたまへり。
 「泣く泣くも羽うち着する君なくは
  われぞ巣守になりは果てまし」
 御衣どもなど萎えばみて、御前にまた人もなく、いと寂しくつれづれげなるに、さまざまいとらうたげにてものしたまふを、あはれに心苦しう、いかが思さざらむ。経を片手に持たまひて、かつ読みつつ唱歌をしたまふ。
 姫君に琵琶、若君に箏の御琴、まだ幼けれど、常に合はせつつ習ひたまへば、聞きにくくもあらで、いとをかしく聞こゆ。

 父帝にも女御にも、疾く後れきこえたまひて、はかばかしき御後見の、取り立てたるおはせざりければ、才など深くもえ習ひたまはず、まいて、世の中に住みつく御心おきては、いかでかは知りたまはむ。高き人と聞こゆる中にも、あさましうあてにおほどかなる、女のやうにおはすれば、古き世の御宝物、祖父大臣の御処分、何やかやと尽きすまじかりけれど、行方もなくはかなく失せ果てて、御調度などばかりなむ、わざとうるはしくて多かりける。
 参り訪らひきこえ、心寄せたてまつる人もなし。つれづれなるままに、雅楽寮の物の師どもなどやうの、すぐれたるを召し寄せつつ、はかなき遊びに心を入れて、生ひ出でたまへれば、その方は、いとをかしうすぐれたまへり。
 源氏の大殿の御弟におはせしを、冷泉院の春宮におはしましし時、朱雀院の大后の、横様に思し構へて、この宮を、世の中に立ち継ぎたまふべく、わが御時、もてかしづきたてまつりける騷ぎに、あいなく、あなたざまの御仲らひには、さし放たれたまひにければ、いよいよかの御つぎつぎになり果てぬる世にて、え交じらひたまはず。また、この年ごろ、かかる聖になり果てて、今は限りと、よろづを思し捨てたり。
 かかるほどに、住みたまふ宮焼けにけり。いとどしき世に、あさましうあへなくて、移ろひ住みたまふべき所の、よろしきもなかりければ、宇治といふ所に、よしある山里持たまへりけるに渡りたまふ。思ひ捨てたまへる世なれども、今はと住み離れなむをあはれに思さる。
 網代のけはひ近く、耳かしかましき川のわたりにて、静かなる思ひにかなはぬ方もあれど、いかがはせむ。花紅葉、水の流れにも、心をやる便によせて、いとどしく眺めたまふより他のことなし。かく絶え籠もりぬる野山の末にも、「昔の人ものしたまはましかば」と、思ひきこえたまはぬ折なかりけり。
 「見し人も宿も煙になりにしを
  何とてわが身消え残りけむ」
 生けるかひなくぞ、思し焦がるるや。


 


 いとど、山重なれる御住み処に、尋ね参る人なし。あやしき下衆など、田舎びたる山賤どものみ、まれに馴れ参り仕うまつる。峰の朝霧晴るる折なくて、明かし暮らしたまふに、この宇治山に、聖だちたる阿闍梨住みけり。
 才いとかしこくて、世のおぼえも軽からねど、をさをさ公事にも出で仕へず、籠もりゐたるに、この宮の、かく近きほどに住みたまひて、寂しき御さまに、尊きわざをせさせたまひつつ、法文を読みならひたまへば、尊がりきこえて、常に参る。
 年ごろ学び知りたまへることどもの、深き心を解き聞かせたてまつり、いよいよこの世のいとかりそめに、あぢきなきことを申し知らすれば、
 「心ばかりは蓮の上に思ひのぼり、濁りなき池にも住みぬべきを、いとかく幼き人びとを見捨てむうしろめたさばかりになむ、えひたみちに容貌をも変へぬ」
 など、隔てなく物語したまふ。


 この阿闍梨は、冷泉院にも親しくさびらひて、御経など教へきこゆる人なりけり。京に出でたるついでに参りて、例の、さるべき文など御覧じて、問はせたまふこともあるついでに、
 「八の宮の、いとかしこく、内教の御才悟り深くものしたまひけるかな。さるべきにて、生まれたまへる人にやものしたまふらむ。心深く思ひ澄ましたまへるほど、まことの聖のおきてになむ見えたまふ」と聞こゆ。
 「いまだ容貌は変へたまはずや。俗聖とか、この若き人びとの付けたなる、あはれなることなり」などのたまはす。
 宰相中将も、御前にさぶらひたまひて、「われこそ、世の中をばいとすさまじう思ひ知りながら、行ひなど、人に目とどめらるばかりは勤めず、口惜しくて過ぐし来れ」と、人知れず思ひつつ、「俗ながら聖になりたまふ心のおきてやいかに」と、耳とどめて聞きたまふ。
 「出家の心ざしは、もとよりものしたまへるを、はかなきことに思ひとどこほり、今となりては、心苦しき女子どもの御上を、え思ひ捨てぬとなむ、嘆きはべりたうぶ」と奏す。
 さすがに、物の音めづる阿闍梨にて、
 「げに、はた、この姫君たちの、琴弾き合はせて遊びたまへる、川波にきほひて聞こえはべるは、いとおもしろく、極楽思ひやられはべるや」
 と、古体にめづれば、帝ほほ笑みたまひて、
 「さる聖のあたりに生ひ出でて、この世の方ざまは、たどたどしからむと推し量らるるを、をかしのことや。うしろめたく、思ひ捨てがたく、もてわづらひたまふらむを、もし、しばしも後れむほどは、譲りやはしたまはぬ」
 などぞのたまはする。この院の帝は、十の御子にぞおはしましける。朱雀院の、故六条院に預けきこえたまひし、入道宮の御例を思ほし出でて、「かの君たちをがな。つれづれなる遊びがたきに」などうち思しけり。

 中将の君、なかなか、親王の思ひ澄ましたまへらむ御心ばへを、「対面して、見たてまつらばや」と思ふ心ぞ深くなりぬる。さて阿闍梨の帰り入るにも、
 「かならず参りて、もの習ひきこゆべく、まづうちうちにも、けしき賜はりたまへ」
 など語らひたまふ。
 帝の、御言伝にて、「あはれなる御住まひを、人伝てに聞くこと」など聞こえたまうて、
 「世を厭ふ心は山にかよへども
  八重立つ雲を君や隔つる」
 阿闍梨、この御使を先に立てて、かの宮に参りぬ。なのめなる際の、さるべき人の使だにまれなる山蔭に、いとめづらしく、待ちよろこびたまうて、所につけたる肴などして、さる方にもてはやしたまふ。御返し、
 「あと絶えて心澄むとはなけれども
  世を宇治山に宿をこそ借れ」
 聖の方をば卑下して聞こえなしたまへれば、「なほ、世に恨み残りける」と、いとほしく御覧ず。
 阿闍梨、中将の、道心深げにものしたまふなど、語りきこえて、
 「法文などの心得まほしき心ざしなむ、いはけなかりし齢より深く思ひながら、えさらず世にあり経るほど、公私に暇なく明け暮らし、わざととぢ籠もりて習ひ読み、おほかたはかばかしくもあらぬ身にしも、世の中を背き顔ならむも、憚るべきにあらねど、おのづからうちたゆみ、紛らはしくてなむ過ぐし来るを、いとありがたき御ありさまを承り伝へしより、かく心にかけてなむ、頼みきこえさする、など、ねむごろに申したまひし」など語りきこゆ。
 宮、
 「世の中をかりそめのことと思ひ取り、厭はしき心のつきそむることも、わが身に愁へある時、なべての世も恨めしう思ひ知る初めありてなむ、道心も起こるわざなめるを、年若く、世の中思ふにかなひ、何ごとも飽かぬことはあらじとおぼゆる身のほどに、さはた、後の世をさへ、たどり知りたまふらむがありがたさ。
 ここには、さべきにや、ただ厭ひ離れよと、ことさらに仏などの勧めおもむけたまふやうなるありさまにて、おのづからこそ、静かなる思ひかなひゆけど、残り少なき心地するに、はかばかしくもあらで、過ぎぬべかめるを、来し方行く末、さらに得たるところなく思ひ知らるるを、かへりては、心恥づかしげなる法の友にこそは、ものしたまふなれ」
 などのたまひて、かたみに御消息通ひ、みづからも参うでたまふ。

 げに、聞きしよりもあはれに、住まひたまへるさまよりはじめて、いと仮なる草の庵に、思ひなし、ことそぎたり。同じき山里といへど、さる方にて心とまりぬべく、のどやかなるもあるを、いと荒ましき水の音、波の響きに、もの忘れうちし、夜など、心解けて夢をだに見るべきほどもなげに、すごく吹き払ひたり。
 「聖だちたる御ために、かかるしもこそ、心とまらぬもよほしならめ、女君たち、何心地して過ぐしたまふらむ。世の常の女しくなよびたる方は、遠くや」と推し量らるる御ありさまなり。
 仏の御隔てに、障子ばかりを隔ててぞおはすべかめる。好き心あらむ人は、けしきばみ寄りて、人の御心ばへをも見まほしう、さすがにいかがと、ゆかしうもある御けはひなり。
 されど、「さる方を思ひ離るる願ひに、山深く尋ねきこえたる本意なく、好き好きしきなほざりごとをうち出であざればまむも、ことに違ひてや」など思ひ返して、宮の御ありさまのいとあはれなるを、ねむごろにとぶらひきこえたまひ、たびたび参りたまひつつ、思ひしやうに、優婆塞ながら行ふ山の深き心、法文など、わざとさかしげにはあらで、いとよくのたまひ知らす。
 聖だつ人、才ある法師などは、世に多かれど、あまりこはごはしう、気遠げなる宿徳の僧都、僧正の際は、世に暇なくきすくにて、ものの心を問ひあらはさむも、ことことしくおぼえたまふ。
 また、その人ならぬ仏の御弟子の、忌むことを保つばかりの尊さはあれど、けはひ卑しく言葉たみて、こちなげにもの馴れたる、いとものしくて、昼は、公事に暇なくなどしつつ、しめやかなる宵のほど、気近き御枕上などに召し入れ語らひたまふにも、いとさすがにものむつかしうなどのみあるを、いとあてに、心苦しきさまして、のたまひ出づる言の葉も、同じ仏の御教へをも、耳近きたとひにひきまぜ、いとこよなく深き御悟りにはあらねど、よき人は、ものの心を得たまふ方の、いとことにものしたまひければ、やうやう見馴れたてまつりたまふたびごとに、常に見たてまつらまほしうて、暇なくなどしてほど経る時は、恋しくおぼえたまふ。
 この君の、かく尊がりきこえたまへれば、冷泉院よりも、常に御消息などありて、年ごろ、音にもをさをさ聞こえたまはず、寂しげなりし御住み処、やうやう人目見る時々あり。折ふしに、訪らひきこえたまふこと、いかめしう、この君も、まづさるべきことにつけつつ、をかしきやうにも、まめやかなるさまにも、心寄せ仕うまつりたまふこと、三年ばかりになりぬ。


 


 秋の末つ方、四季にあててしたまふ御念仏を、この川面は、網代の波も、このころはいとど耳かしかましく静かならぬを、とて、かの阿闍梨の住む寺の堂に移ろひたまひて、七日のほど行ひたまふ。姫君たちは、いと心細く、つれづれまさりて眺めたまひけるころ、中将の君、久しく参らぬかなと、思ひ出できこえたまひけるままに、有明の月の、まだ夜深くさし出づるほどに出で立ちて、いと忍びて、御供に人などもなくて、やつれておはしけり。
 川のこなたなれば、舟などもわづらはで、御馬にてなりけり。入りもてゆくままに、霧りふたがりて、道も見えぬ繁木の中を分けたまふに、いと荒ましき風のきほひに、ほろほろと落ち乱るる木の葉の露の散りかかるも、いと冷やかに、人やりならずいたく濡れたまひぬ。かかるありきなども、をさをさならひたまはぬ心地に、心細くをかしく思されけり。
 「山おろしに耐へぬ木の葉の露よりも
  あやなくもろきわが涙かな」
 山賤のおどろくもうるさしとて、随身の音もせさせたまはず。柴の籬を分けて、そこはかとなき水の流れどもを踏みしだく駒の足音も、なほ、忍びてと用意したまへるに、隠れなき御匂ひぞ、風に従ひて、主知らぬ香とおどろく寝覚めの家々ありける。
 近くなるほどに、その琴とも聞き分かれぬ物の音ども、いとすごげに聞こゆ。「常にかく遊びたまふと聞くを、ついでなくて、宮の御琴の音の名高きも、え聞かぬぞかし。よき折なるべし」と思ひつつ入りたまへば、琵琶の声の響きなりけり。「黄鐘調」に調べて、世の常の掻き合はせなれど、所からにや、耳馴れぬ心地して、掻き返す撥の音も、ものきよげにおもしろし。箏の琴、あはれになまめいたる声して、たえだえ聞こゆ。


 しばし聞かまほしきに、忍びたまへど、御けはひしるく聞きつけて、宿直人めく男、なまかたくなしき、出で来たり。
 「しかしかなむ籠もりおはします。御消息をこそ聞こえさせめ」と申す。
 「何か。しか限りある御行ひのほどを、紛らはしきこえさせむにあいなし。かく濡れ濡れ参りて、いたづらに帰らむ愁へを、姫君の御方に聞こえて、あはれとのたまはせばなむ、慰むべき」
 とのたまへば、醜き顔うち笑みて、
 「申させはべらむ」とて立つを、
 「しばしや」と召し寄せて、
 「年ごろ、人伝てにのみ聞きて、ゆかしく思ふ御琴の音どもを、うれしき折かな。しばし、すこしたち隠れて聞くべきものの隈ありや。つきなくさし過ぎて参り寄らむほど、皆琴やめたまひては、いと本意なからむ」
 とのたまふ。御けはひ、顔容貌の、さるなほなほしき心地にも、いとめでたくかたじけなくおぼゆれば、
 「人聞かぬ時は、明け暮れかくなむ遊ばせど、下人にても、都の方より参り、立ちまじる人はべる時は、音もせさせたまはず。おほかた、かくて女たちおはしますことをば隠させたまひ、なべての人に知らせたてまつらじと、思しのたまはするなり」
 と申せば、うち笑ひて、
 「あぢきなき御もの隠しなり。しか忍びたまふなれど、皆人、ありがたき世の例に、聞き出づべかめるを」とのたまひて、「なほ、しるべせよ。われは、好き好きしき心など、なき人ぞ。かくておはしますらむ御ありさまの、あやしく、げに、なべてにおぼえたまはぬなり」
 とこまやかにのたまへば、
 「あな、かしこ。心なきやうに、後の聞こえやはべらむ」
 とて、あなたの御前は、竹の透垣しこめて、皆隔てことなるを、教へ寄せたてまつれり。御供の人は、西の廊に呼び据ゑて、この宿直人あひしらふ。

 あなたに通ふべかめる透垣の戸を、すこし押し開けて見たまへば、月をかしきほどに霧りわたれるを眺めて、簾を短く巻き上げて、人びとゐたり。簀子に、いと寒げに、身細く萎えばめる童女一人、同じさまなる大人などゐたり。内なる人一人、柱に少しゐ隠れて、琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにしつつゐたるに、雲隠れたりつる月の、にはかにいと明くさし出でたれば、
 「扇ならで、これしても、月は招きつべかりけり」
 とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげに匂ひやかなるべし。
 添ひ臥したる人は、琴の上に傾きかかりて、
 「入る日を返す撥こそありけれ、さま異にも思ひ及びたまふ御心かな」
 とて、うち笑ひたるけはひ、今少し重りかによしづきたり。
 「及ばずとも、これも月に離るるものかは」
 など、はかなきことを、うち解けのたまひ交はしたるけはひども、さらによそに思ひやりしには似ず、いとあはれになつかしうをかし。
 「昔物語などに語り伝へて、若き女房などの読むをも聞くに、かならずかやうのことを言ひたる、さしもあらざりけむ」と、憎く推し量らるるを、「げに、あはれなるものの隈ありぬべき世なりけり」と、心移りぬべし。
 霧の深ければ、さやかに見ゆべくもあらず。また、月さし出でなむと思すほどに、奥の方より、「人おはす」と告げきこゆる人やあらむ、簾下ろして皆入りぬ。おどろき顔にはあらず、なごやかにもてなして、やをら隠れぬるけはひども、衣の音もせず、いとなよよかに心苦しくて、いみじうあてにみやびかなるを、あはれと思ひたまふ。
 やをら出でて、京に、御車率て参るべく、人走らせつ。ありつる侍に、
 「折悪しく参りはべりにけれど、なかなかうれしく、思ふことすこし慰めてなむ。かくさぶらふよし聞こえよ。いたう濡れにたるかことも聞こえさせむかし」
 とのたまへば、参りて聞こゆ。

 かく見えやしぬらむとは思しも寄らで、うちとけたりつることどもを、聞きやしたまひつらむと、いといみじく恥づかし。あやしく、香うばしく匂ふ風の吹きつるを、思ひかけぬほどなれば、「驚かざりける心おそさよ」と、心も惑ひて、恥ぢおはさうず。
 御消息など伝ふる人も、いとうひうひしき人なめるを、「折からにこそ、よろづのことも」と思いて、まだ霧の紛れなれば、ありつる御簾の前に歩み出でて、ついゐたまふ。
 山里びたる若人どもは、さしいらへむ言の葉もおぼえで、御茵さし出づるさまも、たどたどしげなり。
 「この御簾の前には、はしたなくはべりけり。うちつけに浅き心ばかりにては、かくも尋ね参るまじき山のかけ路に思うたまふるを、さま異にこそ。かく露けき度を重ねては、さりとも、御覧じ知るらむとなむ、頼もしうはべる」
 と、いとまめやかにのたまふ。
 若き人びとの、なだらかにもの聞こゆべきもなく、消え返りかかやかしげなるも、かたはらいたければ、女ばらの奥深きを起こし出づるほど、久しくなりて、わざとめいたるも苦しうて、
 「何ごとも思ひ知らぬありさまにて、知り顔にも、いかばかりかは、聞こゆべく」
 と、いとよしあり、あてなる声して、ひき入りながらほのかにのたまふ。
 「かつ知りながら、憂きを知らず顔なるも、世のさがと思うたまへ知るを、一所しも、あまりおぼめかせたまふらむこそ、口惜しかるべけれ。ありがたう、よろづを思ひ澄ましたる御住まひなどに、たぐひきこえさせたまふ御心のうちは、何ごとも涼しく推し量られはべれば、なほ、かく忍びあまりはべる深さ浅さのほども、分かせたまはむこそ、かひははべらめ。
 世の常の好き好きしき筋には、思しめし放つべくや。さやうの方は、わざと勧むる人はべりとも、なびくべうもあらぬ心強さになむ。
 おのづから聞こしめし合はするやうもはべりなむ。つれづれとのみ過ぐしはべる世の物語も、聞こえさせ所に頼みきこえさせ、またかく、世離れて、眺めさせたまふらむ御心の紛らはしには、さしも、驚かせたまふばかり聞こえ馴れはべらば、いかに思ふさまにはべらむ」
 など、多くのたまへば、つつましく、いらへにくくて、起こしつる老い人の出で来たるにぞ、譲りたまふ。

 たとしへなくさし過ぐして、
 「あな、かたじけなや。かたはらいたき御座のさまにもはべるかな。御簾の内にこそ。若き人びとは、物のほど知らぬやうにはべるこそ」
 など、したたかに言ふ声のさだすぎたるも、かたはらいたく君たちは思す。
 「いともあやしく、世の中に住まひたまふ人の数にもあらぬ御ありさまにて、さもありぬべき人びとだに、訪らひ数まへきこえたまふも、見え聞こえずのみなりまさりはべるめるに、ありがたき御心ざしのほどは、数にもはべらぬ心にも、あさましきまで思ひたまへはべるを、若き御心地にも思し知りながら、聞こえさせたまひにくきにやはべらむ」
 と、いとつつみなくもの馴れたるも、なま憎きものから、けはひいたう人めきて、よしある声なれば、
 「いとたづきも知らぬ心地しつるに、うれしき御けはひにこそ。何ごとも、げに、思ひ知りたまひける頼み、こよなかりけり」
 とて、寄り居たまへるを、几帳の側より見れば、曙、やうやう物の色分かるるに、げに、やつしたまへると見ゆる狩衣姿の、いと濡れしめりたるほど、「うたて、この世の外の匂ひにや」と、あやしきまで薫り満ちたり。

 この老い人はうち泣きぬ。
 「さし過ぎたる罪もやと、思うたまへ忍ぶれど、あはれなる昔の御物語の、いかならむついでにうち出で聞こえさせ、片端をも、ほのめかし知ろしめさせむと、年ごろ念誦のついでにも、うち交ぜ思うたまへわたるしるしにや、うれしき折にはべるを、まだきにおぼほれはべる涙にくれて、えこそ聞こえさせずはべりけれ」
 と、うちわななくけしき、まことにいみじくもの悲しと思へり。
 おほかた、さだ過ぎたる人は、涙もろなるものとは見聞きたまへど、いとかうしも思へるも、あやしうなりたまひて、
 「ここに、かく参るをば、たび重なりぬるを、かくあはれ知りたまへる人もなくてこそ、露けき道のほどに、独りのみそほちつれ。うれしきついでなめるを、言な残いたまひそかし」とのたまへば、
 「かかるついでしも、はべらじかし。また、はべりとも、夜の間のほど知らぬ命の、頼むべきにもはべらぬを。さらば、ただ、かかる古者、世にはべりけりとばかり、知ろしめされはべらなむ。
 三条の宮にはべりし小侍従、はかなくなりはべりにけると、ほの聞きはべりし。そのかみ、睦ましう思うたまへし同じほどの人、多く亡せはべりにける世の末に、はるかなる世界より伝はりまうで来て、この五、六年のほどなむ、これにかくさぶらひはべる。
 知ろしめさじかし。このころ、藤大納言と申すなる御兄の、右衛門の督にて隠れたまひにしは、物のついでなどにや、かの御上とて、聞こしめし伝ふることもはべらむ。
 過ぎたまひて、いくばくも隔たらぬ心地のみしはべる。その折の悲しさも、まだ袖の乾く折はべらず思うたまへらるるを、かくおとなしくならせたまひにける御齢のほども、夢のやうになむ。
 かの権大納言の御乳母にはべりしは、弁が母になむはべりし。朝夕に仕うまつり馴れはべりしに、人数にもはべらぬ身なれど、人に知らせず、御心よりはた余りけることを、折々うちかすめのたまひしを、今は限りになりたまひにし御病の末つ方に、召し寄せて、いささかのたまひ置くことなむはべりしを、聞こしめすべきゆゑなむ、一事はべれど、かばかり聞こえ出ではべるに、残りをと思しめす御心はべらば、のどかになむ、聞こしめし果てはべるべき。若き人びとも、かたはらいたく、さし過ぎたりと、つきじろひはべるも、ことわりになむ」
 とて、さすがにうち出でずなりぬ。
 あやしく、夢語り、巫女やうのものの、問はず語りすらむやうに、めづらかに思さるれど、あはれにおぼつかなく思しわたることの筋を聞こゆれば、いと奥ゆかしけれど、げに、人目もしげし、さしぐみに古物語にかかづらひて、夜を明かし果てむも、こちごちしかるべければ、
 「そこはかと思ひ分くことは、なきものから、いにしへのことと聞きはべるも、ものあはれになむ。さらば、かならずこの残り聞かせたまへ。霧晴れゆかば、はしたなかるべきやつれを、面なく御覧じとがめられぬべきさまなれば、思うたまふる心のほどよりは、口惜しうなむ」
 とて、立ちたまふに、かのおはします寺の鐘の声、かすかに聞こえて、霧いと深くたちわたれり。

 峰の八重雲、思ひやる隔て多く、あはれなるに、なほ、この姫君たちの御心のうちども心苦しう、「何ごとを思し残すらむ。かく、いと奥まりたまへるも、ことわりぞかし」などおぼゆ。
 「あさぼらけ家路も見えず尋ね来し
  槙の尾山は霧こめてけり
 心細くもはべるかな」
 と、立ち返りやすらひたまへるさまを、都の人の目馴れたるだに、なほ、いとことに思ひきこえたるを、まいて、いかがはめづらしう見きこえざらむ。御返り聞こえ伝へにくげに思ひたれば、例の、いとつつましげにて、
 「雲のゐる峰のかけ路を秋霧の
  いとど隔つるころにもあるかな」
 すこしうち嘆いたまへるけしき、浅からずあはれなり。
 何ばかりをかしきふしは見えぬあたりなれど、げに、心苦しきこと多かるにも、明うなりゆけば、さすがにひた面なる心地して、
 「なかなかなるほどに、承りさしつること多かる残りは、今すこし面馴れてこそは、恨みきこえさすべかめれ。さるは、かく世の人めいて、もてなしたまふべくは、思はずに、もの思し分かざりけりと、恨めしうなむ」
 とて、宿直人がしつらひたる西面におはして、眺めたまふ。
 「網代は、人騒がしげなり。されど、氷魚も寄らぬにやあらむ。すさまじげなるけしきなり」
 と、御供の人びと見知りて言ふ。
 「あやしき舟どもに、柴刈り積み、おのおの何となき世の営みどもに、行き交ふさまどもの、はかなき水の上に浮かびたる、誰も思へば同じことなる、世の常なさなり。われは浮かばず、玉の台に静けき身と、思ふべき世かは」と思ひ続けらる。
 硯召して、あなたに聞こえたまふ。
 「橋姫の心を<汲みて高瀬さす
  棹のしづくに袖ぞ濡れぬる
 眺めたまふらむかし」
 とて、宿直人に持たせたまへり。いと寒げに、いららぎたる顔して持て参る。御返り、紙の香など、おぼろけならむ恥づかしげなるを、疾きをこそかかる折には、とて、
 「さしかへる宇治の河長朝夕の
  しづくや袖を朽たし果つらむ
 身さへ浮きて」
 と、いとをかしげに書きたまへり。「まほにめやすくもものしたまひけり」と、心とまりぬれど、
 「御車率て参りぬ」
 と、人びと騒がしきこゆれば、宿直人ばかりを召し寄せて、
 「帰りわたらせたまはむほどに、かならず参るべし」
 などのたまふ。濡れたる御衣どもは、皆この人に脱ぎかけたまひて、取りに遣はしつる御直衣にたてまつりかへつ。

 老い人の物語、心にかかりて思し出でらる。思ひしよりは、こよなくまさりて、をかしかりつる御けはひども、面影に添ひて、「なほ、思ひ離れがたき世なりけり」と、心弱く思ひ知らる。
 御文たてまつりたまふ。懸想だちてもあらず、白き色紙の厚肥えたるに、筆ひきつくろひ選りて、墨つき見所ありて書きたまふ。
 「うちつけなるさまにやと、あいなくとどめはべりて、残り多かるも苦しきわざになむ。片端聞こえおきつるやうに、今よりは、御簾の前も、心やすく思し許すべくなむ。御山籠もり果てはべらむ日数も承りおきて、いぶせかりし霧の迷ひも、はるけはべらむ」
 などぞ、いとすくよかに書きたまへる。左近将監なる人、御使にて、
 「かの老い人訪ねて、文も取らせよ」
 とのたまふ。宿直人が寒げにてさまよひしなど、あはれに思しやりて、大きなる桧破籠やうのもの、あまたせさせたまふ。
 またの日、かの御寺にもたてまつりたまふ。「山籠もりの僧ども、このころの嵐には、いと心細く苦しからむを、さておはしますほどの布施、賜ふべからむ」と思しやりて、絹、綿など多かりけり。
 御行ひ果てて、出でたまふ朝なりければ、行ひ人どもに、綿、絹、袈裟、衣など、すべて一領のほどづつ、ある限りの大徳たちに賜ふ。
 宿直人が、御脱ぎ捨ての、艶にいみじき狩の御衣ども、えならぬ白き綾の御衣の、なよなよといひ知らず匂へるを、移し着て、身をはた、え変へぬものなれば、似つかはしからぬ袖の香を、人ごとにとがめられ、めでらるるなむ、なかなか所狭かりける。
 心にまかせて、身をやすくも振る舞はれず、いとむくつけきまで、人のおどろく匂ひを、失ひてばやと思へど、所狭き人の御移り香にて、えもすすぎ捨てぬぞ、あまりなるや。

 君は、姫君の御返りこと、いとめやすく子めかしきを、をかしく見たまふ。宮にも、「かく御消息ありき」など、人びと聞こえさせ、御覧ぜさすれば、
 「何かは。懸想だちてもてないたまはむも、なかなかうたてあらむ。例の若人に似ぬ御心ばへなめるを、亡からむ後もなど、一言うちほのめかしてしかば、さやうにて、心ぞとめたらむ」
 などのたまうけり。御みづからも、さまざまの御とぶらひの、山の岩屋にあまりしことなどのたまへるに、参うでむと思して、「三の宮の、かやうに奥まりたらむあたりの、見まさりせむこそ、をかしかるべけれと、あらましごとにだにのたまふものを、聞こえはげまして、御心騒がしたてまつらむ」と思して、のどやかなる夕暮に参りたまへり。
 例の、さまざまなる御物語、聞こえ交はしたまふついでに、宇治の宮の御こと語り出でて、見し暁のありさまなど、詳しく聞こえたまふに、宮、いと切にをかしと思いたり。
 さればよと、御けしきを見て、いとど御心動きぬべく言ひ続けたまふ。
 「さて、そのありけむ返りことは、などか見せたまはざりし。まろならましかば」と恨みたまふ。
 「さかし。いとさまざま御覧ずべかめる端をだに、見せさせたまはぬ。かのわたりは、かくいとも埋れたる身に、ひき籠めてやむべきけはひにもはべらねば、かならず御覧ぜさせばや、と思ひたまふれど、いかでか尋ね寄らせたまふべき。かやすきほどこそ、好かまほしくは、いとよく好きぬべき世にはべりけれ。うち隠ろへつつ多かめるかな。
 さるかたに見所ありぬべき女の、もの思はしき、うち忍びたる住み処ども、山里めいたる隈などに、おのづからはべべかめり。この聞こえさするわたりは、いと世づかぬ聖ざまにて、こちごちしうぞあらむ、年ごろ、思ひあなづりはべりて、耳をだにこそ、とどめはべらざりけれ。
 ほのかなりし月影の見劣りせずは、まほならむはや。けはひありさま、はた、さばかりならむをぞ、あらまほしきほどとは、おぼえはべるべき」
 など聞こえたまふ。
 果て果ては、まめだちていとねたく、「おぼろけの人に心移るまじき人の、かく深く思へるを、おろかならじ」と、ゆかしう思すこと、限りなくなりたまひぬ。
 「なほ、またまた、よくけしき見たまへ」
 と、人を勧めたまひて、限りある御身のほどのよだけさを、厭はしきまで、心もとなしと思したれば、をかしくて、
 「いでや、よしなくぞはべる。しばし、世の中に心とどめじと思うたまふるやうある身にて、なほざりごともつつましうはべるを、心ながらかなはぬ心つきそめなば、おほきに思ひに違ふべきことなむ、はべるべき」
 と聞こえたまへば、
 「いで、あな、ことことし。例の、おどろおどろしき聖言葉、見果ててしがな」
 とて笑ひたまふ。心のうちには、かの古人のほのめかしし筋などの、いとどうちおどろかれて、ものあはれなるに、をかしと見ることも、めやすしと聞くあたりも、何ばかり心にもとまらざりけり。


 


 十月になりて、五、六日のほどに、宇治へ参うでたまふ。
 「網代をこそ、このころは御覧ぜめ」と、聞こゆる人びとあれど、
 「何か、その蜉蝣に争ふ心にて、網代にも寄らむ」
 と、そぎ捨てたまひて、例の、いと忍びやかにて出で立ちたまふ。軽らかに網代車にて、かとりの直衣指貫縫はせて、ことさらび着たまへり。
 宮、待ち喜びたまひて、所につけたる御饗応など、をかしうしなしたまふ。暮れぬれば、大殿油近くて、さきざき見さしたまへる文どもの深きなど、阿闍梨も請じおろして、義など言はせたまふ。
 うちもまどろまず、川風のいと荒らましきに、木の葉の散りかふ音、水の響きなど、あはれも過ぎて、もの恐ろしく心細き所のさまなり。
 明け方近くなりぬらむと思ふほどに、ありししののめ思ひ出でられて、琴の音のあはれなることのついで作り出でて、
 「さきのたびの、霧に惑はされはべりし曙に、いとめづらしき物の音、一声承りし残りなむ、なかなかにいといぶかしう、飽かず思うたまへらるる」など聞こえたまふ。
 「色をも香をも思ひ捨ててし後、昔聞きしことも皆忘れてなむ」
 とのたまへど、人召して、琴取り寄せて、
 「いとつきなくなりにたりや。しるべする物の音につけてなむ、思ひ出でらるべかりける」
 とて、琵琶召して、客人にそそのかしたまふ。取りて調べたまふ。
 「さらに、ほのかに聞きはべりし同じものとも思うたまへられざりけり。御琴の響きからにやとこそ、思うたまへしか」
 とて、心解けても掻きたてたまはず。
 「いで、あな、さがなや。しか御耳とまるばかりの手などは、何処よりかここまでは伝はり来む。あるまじき御ことなり」
 とて、琴掻きならしたまへる、いとあはれに心すごし。かたへは、峰の松風のもてはやすなるべし。いとたどたどしげにおぼめきたまひて、心ばへあり。手一つばかりにてやめたまひつ。


 「このわたりに、おぼえなくて、折々ほのめく箏の琴の音こそ、心得たるにや、と聞く折はべれど、心とどめてなどもあらで、久しうなりにけりや。心にまかせて、おのおの掻きならすべかめるは、川波ばかりや、打ち合はすらむ。論なう、物の用にすばかりの拍子なども、とまらじとなむ、おぼえはべる」とて、「掻き鳴らしたまへ」
 と、あなたに聞こえたまへど、「思ひ寄らざりし独り言を、聞きたまひけむだにあるものを、いとかたはならむ」とひき入りつつ、皆聞きたまはず。たびたびそそのかしたまへど、とかく聞こえすさびて、やみたまひぬめれば、いと口惜しうおぼゆ。
 そのついでにも、かくあやしう、世づかぬ思ひやりにて過ぐすありさまどもの、思ひのほかなることなど、恥づかしう思いたり。
 「人にだにいかで知らせじと、はぐくみ過ぐせど、今日明日とも知らぬ身の残り少なさに、さすがに、行く末遠き人は、落ちあふれてさすらへむこと、これのみこそ、げに、世を離れむ際のほだしなりけれ」
 と、うち語らひたまへば、心苦しう見たてまつりたまふ。
 「わざとの御後見だち、はかばかしき筋にははべらずとも、うとうとしからず思しめされむとなむ思うたまふる。しばしもながらへはべらむ命のほどは、一言も、かくうち出で聞こえさせてむさまを、違へはべるまじくなむ」
 など申したまへば、「いとうれしきこと」と、思しのたまふ。

 さて、暁方の、宮の御行ひしたまふほどに、かの老い人召し出でて、会ひたまへり。
 姫君の御後見にてさぶらはせたまふ、弁の君とぞいひける。年も六十にすこし足らぬほどなれど、みやびかにゆゑあるけはひして、ものなど聞こゆ。
 故権大納言の君の、世とともにものを思ひつつ、病づき、はかなくなりたまひにしありさまを、聞こえ出でて、泣くこと限りなし。
 「げに、よその人の上と聞かむだに、あはれなるべき古事どもを、まして、年ごろおぼつかなく、ゆかしう、いかなりけむことの初めにかと、仏にも、このことをさだかに知らせたまへと、念じつる験にや、かく夢のやうにあはれなる昔語りを、おぼえぬついでに聞きつけつらむ」と思すに、涙とどめがたかりけり。
 「さても、かく、その世の心知りたる人も残りたまへりけるを。めづらかにも恥づかしうもおぼゆることの筋に、なほ、かく言ひ伝ふるたぐひや、またもあらむ。年ごろ、かけても聞き及ばざりける」とのたまへば、
 「小侍従と弁と放ちて、また知る人はべらじ。一言にても、また異人にうちまねびはべらず。かくものはかなく、数ならぬ身のほどにはべれど、夜昼かの御影に、つきたてまつりてはべりしかば、おのづからもののけしきをも見たてまつりそめしに、御心よりあまりて思しける時々、ただ二人の中になむ、たまさかの御消息の通ひもはべりし。かたはらいたければ、詳しく聞こえさせず。
 今はのとぢめになりたまひて、いささかのたまひ置くことのはべりしを、かかる身には、置き所なく、いぶせく思うたまへわたりつつ、いかにしてかは聞こしめし伝ふべきと、はかばかしからぬ念誦のついでにも、思うたまへつるを、仏は世におはしましけり、となむ思うたまへ知りぬる。
 御覧ぜさすべきものもはべり。今は、何かは、焼きも捨てはべりなむ。かく朝夕の消えを知らぬ身の、うち捨てはべりなば、落ち散るやうもこそと、いとうしろめたく思うたまふれど、この宮わたりにも、時々、ほのめかせたまふを、待ち出でたてまつりてしは、すこし頼もしく、かかる折もやと、念じはべりつる力出でまうで来てなむ。さらに、これは、この世のことにもはべらじ」
 と、泣く泣く、こまかに、生まれたまひけるほどのことも、よくおぼえつつ聞こゆ。

 「空しうなりたまひし騷ぎに、母にはべりし人は、やがて病づきて、ほども経ず隠れはべりにしかば、いとど思うたまへしづみ、藤衣たち重ね、悲しきことを思うたまへしほどに、年ごろ、よからぬ人の心をつけたりけるが、人をはかりごちて、西の海の果てまで取りもてまかりにしかば、京のことさへ跡絶えて、その人もかしこにて亡せはべりにし後、十年あまりにてなむ、あらぬ世の心地して、まかり上りたりしを、この宮は、父方につけて、童より参り通ふゆゑはべりしかば、今はかう世に交じらふべきさまにもはべらぬを、冷泉院の女御殿の御方などこそは、昔、聞き馴れたてまつりしわたりにて、参り寄るべくはべりしかど、はしたなくおぼえはべりて、えさし出ではべらで、深山隠れの朽木になりにてはべるなり。
 小侍従は、いつか亡せはべりにけむ。そのかみの、若盛りと見はべりし人は、数少なくなりはべりにける末の世に、多くの人に後るる命を、悲しく思ひたまへてこそ、さすがにめぐらひはべれ」
 など聞こゆるほどに、例の、明け果てぬ。
 「よし、さらば、この昔物語は尽きすべくなむあらぬ。また、人聞かぬ心やすき所にて聞こえむ。侍従といひし人は、ほのかにおぼゆるは、五つ、六つばかりなりしほどにや、にはかに胸を病みて亡せにきとなむ聞く。かかる対面なくは、罪重き身にて過ぎぬべかりけること」などのたまふ。

 ささやかにおし巻き合はせたる反故どもの、黴臭きを袋に縫ひ入れたる、取り出でてたてまつる。
 「御前にて失はせたまへ。『われ、なほ生くべくもあらずなりにたり』とのたまはせて、この御文を取り集めて、賜はせたりしかば、小侍従に、またあひ見はべらむついでに、さだかに伝へ参らせむ、と思うたまへしを、やがて別れはべりにしも、私事には、飽かず悲しうなむ、思うたまふる」
 と聞こゆ。つれなくて、これは隠いたまひつ。
 「かやうの古人は、問はず語りにや、あやしきことの例に言ひ出づらむ」と苦しく思せど、「かへすがへすも、散らさぬよしを誓ひつる、さもや」と、また思ひ乱れたまふ。
 御粥、強飯など参りたまふ。「昨日は、暇日なりしを、今日は、内裏の御物忌も明きぬらむ。院の女一の宮、悩みたまふ御とぶらひに、かならず参るべければ、かたがた暇なくはべるを、またこのころ過ぐして、山の紅葉散らぬさきに参るべき」よし、聞こえたまふ。
 「かく、しばしば立ち寄らせたまふ光に、山の蔭も、すこしもの明らむる心地してなむ」
 など、よろこび聞こえたまふ。

 帰りたまひて、まづこの袋を見たまへば、唐の浮線綾を縫ひて、「上」といふ文字を上に書きたり。細き組して、口の方を結ひたるに、かの御名の封つきたり。開くるも恐ろしうおぼえたまふ。
 色々の紙にて、たまさかに通ひける御文の返りこと、五つ、六つぞある。さては、かの御手にて、病は重く限りになりにたるに、またほのかにも聞こえむこと難くなりぬるを、ゆかしう思ふことは添ひにたり、御容貌も変りておはしますらむが、さまざま悲しきことを、陸奥紙五、六枚に、つぶつぶと、あやしき鳥の跡のやうに書きて、
 「目の前にこの世を背く君よりも
  よそに別るる魂ぞ悲しき」
 また、端に、
 「めづらしく聞きはべる二葉のほども、うしろめたう思うたまふる方はなけれど、
  命あらばそれとも見まし人知れぬ
  岩根にとめし松の生ひ末」
 書きさしたるやうに、いと乱りがはしうて、「小侍従の君に」と上には書きつけたり。
 紙魚といふ虫の棲み処になりて、古めきたる黴臭さながら、跡は消えず、ただ今書きたらむにも違はぬ言の葉どもの、こまごまとさだかなるを見たまふに、「げに、落ち散りたらましよ」と、うしろめたう、いとほしきことどもなり。
 「かかること、世にまたあらむや」と、心一つにいどどもの思はしさ添ひて、内裏へ参らむと思しつるも、出で立たれず。宮の御前に参りたまへれば、いと何心もなく、若やかなるさましたまひて、経読みたまふを、恥ぢらひて、もて隠したまへり。「何かは、知りにけりとも、知られたてまつらむ」など、心に籠めて、よろづに思ひゐたまへり。



  

  

            現代語訳 補足 目次

      四十六、 椎 本   
 


   
 



 如月の二十日のほどに、兵部卿宮、初瀬に詣でたまふ。古き御願なりけれど、思しも立たで年ごろになりにけるを、宇治のわたりの御中宿りのゆかしさに、多くは催されたまへるなるべし。うらめしと言ふ人もありける里の名の、なべて睦ましう思さるるゆゑもはかなしや。上達部いとあまた仕うまつりたまふ。殿上人などはさらにもいはず、世に残る人少なう仕うまつれり。
 六条院より伝はりて、右大殿知りたまふ所は、川より遠方に、いと広くおもしろくてあるに、御まうけせさせたまへり。大臣も、帰さの御迎へに参りたまふべく思したるを、にはかなる御物忌みの、重く慎みたまふべく申したなれば、え参らぬ由のかしこまり申したまへり。
 宮、なますさまじと思したるに、宰相中将、今日の御迎へに参りあひたまへるに、なかなか心やすくて、かのわたりのけしきも伝へ寄らむと、御心ゆきぬ。大臣をば、うちとけて見えにくく、ことことしきものに思ひきこえたまへり。
 御子の君たち、右大弁、侍従の宰相、権中将、頭少将、蔵人兵衛佐など、さぶらひたまふ。帝、后も心ことに思ひきこえたまへる宮なれば、おほかたの御おぼえもいと限りなく、まいて六条院の御方ざまは、次々の人も、皆私の君に、心寄せ仕うまつりたまふ。


 所につけて、御しつらひなどをかしうしなして、碁、双六、弾棊の盤どもなど取り出でて、心々にすさび暮らしたまふ。宮は、ならひたまはぬ御ありきに、悩ましく思されて、ここにやすらはむの御心も深ければ、うち休みたまひて、夕つ方ぞ、御琴など召して遊びたまふ。
 例の、かう世離れたる所は、水の音ももてはやして、物の音澄みまさる心地して、かの聖の宮にも、たださし渡るほどなれば、追風に吹き来る響きを聞きたまふに、昔のこと思し出でられて、
 「笛をいとをかしうも吹きとほしたなるかな。誰ならむ。昔の六条院の御笛の音聞きしは、いとをかしげに愛敬づきたる音にこそ吹きたまひしか。これは澄みのぼりて、ことことしき気の添ひたるは、致仕大臣の御族の笛の音にこそ似たなれ」など、独りごちおはす。
 「あはれに、久しうなりにけりや。かやうの遊びなどもせで、あるにもあらで過ぐし来にける年月の、さすがに多く数へらるるこそ、かひなけれ」
 などのたまふついでにも、姫君たちの御ありさまあたらしく、「かかる山懐にひき籠めてはやまずもがな」と思し続けらる。「宰相の君の、同じうは近きゆかりにて見まほしげなるを、さしも思ひ寄るまじかめり。まいて今やうの心浅からむ人をば、いかでかは」など思し乱れ、つれづれと眺めたまふ所は、春の夜もいと明かしがたきを、心やりたまへる旅寝の宿りは、酔の紛れにいと疾う明けぬる心地して、飽かず帰らむことを、宮は思す。
 はるばると霞みわたれる空に、散る桜あれば今開けそむるなど、いろいろ見わたさるるに、川沿ひ柳の起きふしなびく水影など、おろかならずをかしきを、見ならひたまはぬ人は、いとめづらしく見捨てがたしと思さる。
 宰相は、「かかるたよりを過ぐさず、かの宮にまうでばや」と思せど、「あまたの人目をよきて、一人漕ぎ出でたまはむ舟わたりのほども軽らかにや」と思ひやすらひたまふほどに、かれより御文あり。
 「山風に霞吹きとく声はあれど
  隔てて見ゆる遠方の白波」
 草にいとをかしう書きたまへり。宮、「思すあたりの」と見たまへば、いとをかしう思いて、「この御返りはわれせむ」とて、
 「遠方こちの汀に波は隔つとも
  なほ吹きかよへ宇治の川風」

 中将は参うでたまふ。遊びに心入れたる君たち誘ひて、さしやりたまふほど、「酣酔楽」遊びて、水に臨きたる廊に造りおろしたる階の心ばへなど、さる方にいとをかしう、ゆゑある宮なれば、人びと心して舟よりおりたまふ。
 ここはまた、さま異に、山里びたる網代屏風などの、ことさらにことそぎて、見所ある御しつらひを、さる心してかき払ひ、いといたうしなしたまへり。いにしへの、音などいと二なき弾きものどもを、わざとまうけたるやうにはあらで、次々弾き出でたまひて、壱越調の心に、「桜人」遊びたまふ。
 主人の宮、御琴をかかるついでにと、人びと思ひたまへれど、箏の琴をぞ、心にも入れず、折々掻き合はせたまふ。耳馴れぬけにやあらむ、「いともの深くおもしろし」と、若き人びと思ひしみたり。
 所につけたる饗応、いとをかしうしたまひて、よそに思ひやりしほどよりは、なま孫王めくいやしからぬ人あまた、大君、四位の古めきたるなど、かく人目見るべき折と、かねていとほしがりきこえけるにや、さるべき限り参りあひて、瓶子取る人もきたなげならず、さる方に古めきて、よしよししうもてなしたまへり。客人たちは、御女たちの住まひたまふらむ御ありさま、思ひやりつつ、心つく人もあるべし。

 かの宮は、まいてかやすきほどならぬ御身をさへ、所狭く思さるるを、かかる折にだにと、忍びかねたまひて、おもしろき花の枝を折らせたまひて、御供にさぶらふ上童のをかしきしてたてまつりたまふ。
 「山桜匂ふあたりに尋ね来て
  同じかざしを折りてけるかな
 野を睦ましみ」
 とやありけむ。「御返りは、いかでかは」など、聞こえにくく思しわづらふ。
 「かかる折のこと、わざとがましくもてなし、ほどの経るも、なかなか憎きことになむしはべりし」
 など、古人ども聞こゆれば、中の君にぞ書かせたてまつりたまふ。
 「かざし折る花のたよりに山賤の
  垣根を過ぎぬ春の旅人
 野をわきてしも」
 と、いとをかしげに、らうらうじく書きたまへり。
 げに、川風も心わかぬさまに吹き通ふ物の音ども、おもしろく遊びたまふ。御迎へに、藤大納言、仰せ言にて参りたまへり。人びとあまた参り集ひ、もの騒がしくてきほひ帰りたまふ。若き人びと、飽かず返り見のみせられける。宮は、「またさるべきついでして」と思す。
 花盛りにて、四方の霞も眺めやるほどの見所あるに、唐のも大和のも、歌ども多かれど、うるさくて尋ねも聞かぬなり。
 もの騒がしくて、思ふままにもえ言ひやらずなりにしを、飽かず宮は思して、しるべなくても御文は常にありけり。宮も、
 「なほ、聞こえたまへ。わざと懸想だちてももてなさじ。なかなか心ときめきにもなりぬべし。いと好きたまへる親王なれば、かかる人なむ、と聞きたまふが、なほもあらぬすさびなめり」
 と、そそのかしたまふ時々、中の君ぞ聞こえたまふ。姫君は、かやうのこと、戯れにももて離れたまへる御心深さなり。
 いつとなく心細き御ありさまに、春のつれづれは、いとど暮らしがたく眺めたまふ。ねびまさりたまふ御さま容貌ども、いよいよまさり、あらまほしくをかしきも、なかなか心苦しく、「かたほにもおはせましかば、あたらしう、惜しき方の思ひは薄くやあらまし」など、明け暮れ思し乱る。
 姉君二十五、中の君二十三にぞなりたまひける。

 宮は、重く慎みたまふべき年なりけり。もの心細く思して、御行ひ常よりもたゆみなくしたまふ。世に心とどめたまはねば、出で立ちいそぎをのみ思せば、涼しき道にも赴きたまひぬべきを、ただこの御ことどもに、いといとほしく、限りなき御心強さなれど、「かならず、今はと見捨てたまはむ御心は、乱れなむ」と、見たてまつる人も推し量りきこゆるを、思すさまにはあらずとも、なのめに、さても人聞き口惜しかるまじう、見ゆるされぬべき際の人の、真心に後見きこえむ、など、思ひ寄りきこゆるあらば、知らず顔にてゆるしてむ、一所一所世に住みつきたまふよすがあらば、それを見譲る方に慰めおくべきを、さまで深き心に尋ねきこゆる人もなし。
 まれまれはかなきたよりに、好きごと聞こえなどする人は、まだ若々しき人の心のすさびに、物詣での中宿り、行き来のほどのなほざりごとに、けしきばみかけて、さすがに、かく眺めたまふありさまなど推し量り、あなづらはしげにもてなすは、めざましうて、なげのいらへをだにせさせたまはず。三の宮ぞ、なほ見ではやまじと思す御心深かりける。さるべきにやおはしけむ。


 


 宰相中将、その秋、中納言になりたまひぬ。いとど匂ひまさりたまふ。世のいとなみに添へても、思すこと多かり。いかなることと、いぶせく思ひわたりし年ごろよりも、心苦しうて過ぎたまひにけむいにしへざまの思ひやらるるに、罪軽くなりたまふばかり、行ひもせまほしくなむ。かの老い人をばあはれなるものに思ひおきて、いちじるきさまならず、とかく紛らはしつつ、心寄せ訪らひたまふ。
 宇治に参うでで久しうなりにけるを、思ひ出でて参りたまへり。七月ばかりになりにけり。都にはまだ入りたたぬ秋のけしきを、音羽の山近く、風の音もいと冷やかに、槙の山辺もわづかに色づきて、なほ尋ね来たるに、をかしうめづらしうおぼゆるを、宮はまいて、例よりも待ち喜びきこえたまひて、このたびは、心細げなる物語、いと多く申したまふ。
 「亡からむ後、この君たちを、さるべきもののたよりにもとぶらひ、思ひ捨てぬものに数まへたまへ」
 など、おもむけつつ聞こえたまへば、
 「一言にても承りおきてしかば、さらに思うたまへおこたるまじくなむ。世の中に心をとどめじと、はぶきはべる身にて、何ごとも頼もしげなき生ひ先の少なさになむはべれど、さる方にてもめぐらいはべらむ限りは、変らぬ心ざしを御覧じ知らせむとなむ思うたまふる」
 など聞こえたまへば、うれしと思いたり。


 夜深き月の明らかにさし出でて、山の端近き心地するに、念誦いとあはれにしたまひて、昔物語したまふ。
 「このころの世は、いかがなりにたらむ。宮中などにて、かやうなる秋の月に、御前の御遊びの折にさぶらひあひたる中に、ものの上手とおぼしき限り、とりどりにうち合はせたる拍子など、ことことしきよりも、よしありとおぼえある女御、更衣の御局々の、おのがじしは挑ましく思ひ、うはべの情けを交はすべかめるに、夜深きほどの人の気しめりぬるに、心やましく掻い調べ、ほのかにほころび出でたる物の音など、聞き所あるが多かりしかな。
 何ごとにも、女は、もてあそびのつまにしつべく、ものはかなきものから、人の心を動かすくさはひになむあるべき。されば、罪の深きにやあらむ。子の道の闇を思ひやるにも、男は、いとしも親の心を乱さずやあらむ。女は、限りありて、いふかひなき方に思ひ捨つべきにも、なほ、いと心苦しかるべき」
 など、おほかたのことにつけてのたまへる、いかがさ思さざらむ、心苦しく思ひやらるる御心のうちなり。
 「すべて、まことに、しか思うたまへ捨てたるけにやはべらむ、みづからのことにては、いかにもいかにも深う思ひ知る方のはべらぬを、げにはかなきことなれど、声にめづる心こそ、背きがたきことにはべりけれ。さかしう聖だつ迦葉も、さればや、立ちて舞ひはべりけむ」
 など聞こえて、飽かず一声聞きし御琴の音を、切にゆかしがりたまへば、うとうとしからぬ初めにもとや思すらむ、御みづからあなたに入りたまひて、切にそそのかしきこえたまふ。箏の琴をぞ、いとほのかに掻きならしてやみたまひぬる。いとど人のけはひも絶えて、あはれなる空のけしき、所のさまに、わざとなき御遊びの心に入りてをかしうおぼゆれど、うちとけてもいかでかは弾き合はせたまはむ。
 「おのづからかばかりならしそめつる残りは、世籠もれるどちに譲りきこえてむ」
 とて、宮は仏の御前に入りたまひぬ。
 「われなくて草の庵は荒れぬとも
  このひとことはかれじとぞ思ふ
 かかる対面もこのたびや限りならむと、もの心細きに忍びかねて、かたくなしきひが言多くもなりぬるかな」
 とて、うち泣きたまふ。客人、
 「いかならむ世にかかれせむ長き世の
  契りむすべる草の庵は
 相撲など、公事ども紛れはべるころ過ぎて、さぶらはむ」
 など聞こえたまふ。

 こなたにて、かの問はず語りの古人召し出でて、残り多かる物語などせさせたまふ。入り方の月、隈なくさし入りて、透影なまめかしきに、君たちも奥まりておはす。世の常の懸想びてはあらず、心深う物語のどやかに聞こえつつものしたまへば、さるべき御いらへなど聞こえたまふ。
 「三の宮、いとゆかしう思いたるものを」と、心のうちには思ひ出でつつ、「わが心ながら、なほ人には異なりかし。さばかり御心もて許いたまふことの、さしもいそがれぬよ。もて離れて、はたあるまじきこととは、さすがにおぼえず。かやうにてものをも聞こえ交はし、折ふしの花紅葉につけて、あはれをも情けをも通はすに、憎からずものしたまふあたりなれば、宿世異にて、他ざまにもなりたまはむは」、さすがに口惜しかるべう、領じたる心地しけり。
 まだ夜深きほどに帰りたまひぬ。心細く残りなげに思いたりし御けしきを、思ひ出できこえたまひつつ、「騒がしきほど過ぐして参うでむ」と思す。兵部卿宮も、この秋のほどに紅葉見におはしまさむと、さるべきついでを思しめぐらす。
 御文は、絶えずたてまつりたまふ。女は、まめやかに思すらむとも思ひたまはねば、わづらはしくもあらで、はかなきさまにもてなしつつ、折々に聞こえ交はしたまふ。

 秋深くなりゆくままに、宮は、いみじうもの心細くおぼえたまひければ、「例の、静かなる所にて、念仏をも紛れなうせむ」と思して、君たちにもさるべきこと聞こえたまふ。
 「世のこととして、つひの別れを逃れぬわざなめれど、思ひ慰まむ方ありてこそ、悲しさをも覚ますものなめれ。また見譲る人もなく、心細げなる御ありさまどもを、うち捨ててむがいみじきこと。
 されども、さばかりのことに妨げられて、長き夜の闇にさへ惑はむが益なさを。かつ見たてまつるほどだに思ひ捨つる世を、去りなむうしろのこと、知るべきことにはあらねど、わが身一つにあらず、過ぎたまひにし御面伏せに、軽々しき心どもつかひたまふな。
 おぼろけのよすがならで、人の言にうちなびき、この山里をあくがれたまふな。ただ、かう人に違ひたる契り異なる身と思しなして、ここに世を尽くしてむと思ひとりたまへ。ひたぶるに思ひなせば、ことにもあらず過ぎぬる年月なりけり。まして、女は、さる方に絶え籠もりて、いちしるくいとほしげなる、よそのもどきを負はざらむなむよかるべき」
 などのたまふ。ともかくも身のならむやうまでは、思しも流されず、ただ、「いかにしてか、後れたてまつりては、世に片時もながらふべき」と思すに、かく心細きさまの御あらましごとに、言ふ方なき御心惑ひどもになむ。心のうちにこそ思ひ捨てたまひつらめど、明け暮れ御かたはらにならはいたまうて、にはかに別れたまはむは、つらき心ならねど、げに恨めしかるべき御ありさまになむありける。
 明日、入りたまはむとての日は、例ならず、こなたかなた、たたずみ歩きたまひて見たまふ。いとものはかなく、かりそめの宿りにて過ぐいたまひける御住まひのありさまを、「亡からむのち、いかにしてかは、若き人の絶え籠もりては過ぐいたまはむ」と、涙ぐみつつ念誦したまふさま、いときよげなり。
 おとなびたる人びと召し出でて、
 「うしろやすく仕うまつれ。何ごとも、もとよりかやすく、世に聞こえあるまじき際の人は、末の衰へも常のことにて、紛れぬべかめり。かかる際になりぬれば、人は何と思はざらめど、口惜しうてさすらへむ、契りかたじけなく、いとほしきことなむ、多かるべき。もの寂しく心細き世を経るは、例のことなり。
 生まれたる家のほど、おきてのままにもてなしたらむなむ、聞き耳にも、わが心地にも、過ちなくはおぼゆべき。にぎははしく人数めかむと思ふとも、その心にもかなふまじき世とならば、ゆめゆめ軽々しく、よからぬ方にもてなしきこゆな」
 などのたまふ。
 まだ暁に出でたまふとても、こなたに渡りたまひて、
 「無からむほど、心細くな思しわびそ。心ばかりはやりて遊びなどはしたまへ。何ごとも思ふにえかなふまじき世を。思し入られそ」
 など、返り見がちにて出でたまひぬ。二所、いとど心細くもの思ひ続けられて、起き臥しうち語らひつつ、
 「一人一人なからましかば、いかで明かし暮らさまし」
 「今、行く末も定めなき世にて、もし別るるやうもあらば」
 など、泣きみ笑ひみ、戯れごともまめごとも、同じ心に慰め交して過ぐしたまふ。


 
 かの行ひたまふ三昧、今日果てぬらむと、いつしかと待ちきこえたまふ夕暮に、人参りて、
 「今朝より、悩ましくてなむ、え参らぬ。風邪かとて、とかくつくろふとものするほどになむ。さるは、例よりも対面心もとなきを」
 と聞こえたまへり。胸つぶれて、いかなるにかと思し嘆き、御衣ども綿厚くて、急ぎせさせたまひて、たてまつれなどしたまふ。二、三日怠りたまはず。「いかに、いかに」と、人たてまつりたまへど、
 「ことにおどろおどろしくはあらず。そこはかとなく苦しうなむ。すこしもよろしくならば、今、念じて」
 など、言葉にて聞こえたまふ。阿闍梨つとさぶらひて仕うまつりける。
 「はかなき御悩みと見ゆれど、限りのたびにもおはしますらむ。君たちの御こと、何か思し嘆くべき。人は皆、御宿世といふもの異々なれば、御心にかかるべきにもおはしまさず」
 と、いよいよ思し離るべきことを聞こえ知らせつつ、「今さらにな出でたまひそ」と、諌め申すなりけり。
 八月二十日のほどなりけり。おほかたの空のけきもいとどしきころ、君たちは、朝夕、霧の晴るる間もなく、思し嘆きつつ眺めたまふ。有明の月のいとはなやかにさし出でて、水の面もさやかに澄みたるを、そなたの蔀上げさせて、見出だしたまへるに、鐘の声かすかに響きて、「明けぬなり」と聞こゆるほどに、人びと来て、
 「この夜中ばかりになむ、亡せたまひぬる」
 と泣く泣く申す。心にかけて、いかにとは絶えず思ひきこえたまへれど、うち聞きたまふには、あさましくものおぼえぬ心地して、いとどかかることには、涙もいづちか去にけむ、ただうつぶし臥したまへり。
 いみじき目も、見る目の前にておぼつかなからぬこそ、常のことなれ、おぼつかなさ添ひて、思し嘆くこと、ことわりなり。しばしにても、後れたてまつりて、世にあるべきものと思しならはぬ御心地どもにて、いかでかは後れじと泣き沈みたまへど、限りある道なりければ、何のかひなし。

 阿闍梨、年ごろ契りおきたまひけるままに、後の御こともよろづに仕うまつる。
 「亡き人になりたまへらむ御さま容貌をだに、今一度見たてまつらむ」
 と思しのたまへど、
 「今さらに、なでふさることかはべるべき。日ごろも、また会ひたまふまじきことを聞こえ知らせつれば、今はまして、かたみに御心とどめたまふまじき御心遣ひを、ならひたまふべきなり」
 とのみ聞こゆ。おはしましける御ありさまを聞きたまふにも、阿闍梨のあまりさかしき聖心を、憎くつらしとなむ思しける。
 入道の御本意は、昔より深くおはせしかど、かう見譲る人なき御ことどもの見捨てがたきを、生ける限りは明け暮れえ避らず見たてまつるを、よに心細き世の慰めにも、思し離れがたくて過ぐいたまへるを、限りある道には、先だちたまふも慕ひたまふ御心も、かなはぬわざなりけり。
 中納言殿には、聞きたまひて、いとあへなく口惜しく、今一度、心のどかにて聞こゆべかりけること多う残りたる心地して、おほかた世のありさま思ひ続けられて、いみじう泣いたまふ。「またあひ見ること難くや」などのたまひしを、なほ常の御心にも、朝夕の隔て知らぬ世のはかなさを、人よりけに思ひたまへりしかば、耳馴れて、昨日今日と思はざりけるを、かへすがへす飽かず悲しく思さる。
 阿闍梨のもとにも、君たちの御弔らひも、こまやかに聞こえたまふ。かかる御弔らひなど、また訪れきこゆる人だになき御ありさまなるは、ものおぼえぬ御心地どもにも、年ごろの御心ばへのあはれなめりしなどをも、思ひ知りたまふ。
 「世の常のほどの別れだに、さしあたりては、またたぐひなきやうにのみ、皆人の思ひ惑ふものなめるを、慰むかたなげなる御身どもにて、いかやうなる心地どもしたまふらむ」と思しやりつつ、後の御わざなど、あるべきことども、推し量りて、阿闍梨にも訪らひたまふ。ここにも、老い人どもにことよせて、御誦経などのことも思ひやりたまふ。


 


 明けぬ夜の心地ながら、九月にもなりぬ。野山のけしき、まして袖の時雨をもよほしがちに、ともすればあらそひ落つる木の葉の音も、水の響きも、涙の滝も、一つもののやうに暮れ惑ひて、「かうては、いかでか、限りあらむ御命も、しばしめぐらいたまはむ」と、さぶらふ人びとは、心細く、いみじく慰めきこえつつ。
 ここにも念仏の僧さぶらひて、おはしましし方は、仏を形見に見たてまつりつつ、時々参り仕うまつりし人びとの、御忌に籠もりたる限りは、あはれに行ひて過ぐす。
 兵部卿宮よりも、たびたび弔らひきこえたまふ。さやうの御返りなど、聞こえむ心地もしたまはず。おぼつかなければ、「中納言にはかうもあらざなるを、我をばなほ思ひ放ちたまへるなめり」と、恨めしく思す。紅葉の盛りに、文など作らせたまはむとて、出で立ちたまひしを、かく、このわたりの御逍遥、便なきころなれば、思しとまりて口惜しくなむ。


 御忌も果てぬ。限りあれば、涙も隙もやと思しやりて、いと多く書き続けたまへり。時雨がちなる夕つ方、
 「牡鹿鳴く秋の山里いかならむ
  小萩が露のかかる夕暮
 ただ今の空のけしき、思し知らぬ顔ならむも、あまり心づきなくこそあるべけれ。枯れゆく野辺も、分きて眺めらるるころになむ」
 などあり。
 「げに、いとあまり思ひ知らぬやうにて、たびたびになりぬるを、なほ、聞こえたまへ」
 など、中の宮を、例の、そそのかして、書かせたてまつりたまふ。
 「今日までながらへて、硯など近くひき寄せて見るべきものとやは思ひし。心憂くも過ぎにける日数かな」と思すに、またかきくもり、もの見えぬ心地したまへば、押しやりて、
 「なほ、えこそ書きはべるまじけれ。やうやうかう起きゐられなどしはべるが、げに、限りありけるにこそとおぼゆるも、疎ましう心憂くて」
 と、らうたげなるさまに泣きしをれておはするも、いと心苦し。
 夕暮のほどより来ける御使、宵すこし過ぎてぞ来たる。「いかでか、帰り参らむ。今宵は旅寝して」と言はせたまへど、「立ち帰りこそ、参りなめ」と急げば、いとほしうて、我さかしう思ひしづめたまふにはあらねど、見わづらひたまひて、
 「涙のみ霧りふたがれる山里は
  籬に鹿ぞ諸声に鳴く」
 黒き紙に、夜の墨つきもたどたどしければ、ひきつくろふところもなく、筆にまかせて、おし包みて出だしたまひつ。

 御使は、木幡の山のほども、雨もよにいと恐ろしげなれど、さやうのもの懼ぢすまじきをや選り出でたまひけむ、むつかしげなる笹の隈を、駒ひきとどむるほどもなくうち早めて、片時に参り着きぬ。御前にても、いたく濡れて参りたれば、禄賜ふ。
 さきざき御覧ぜしにはあらぬ手の、今すこしおとなびまさりて、よしづきたる書きざまなどを、「いづれか、いづれならむ」と、うちも置かず御覧じつつ、とみにも大殿籠もらねば、
 「待つとて、起きおはしまし」
 「また御覧ずるほどの久しきは、いかばかり御心にしむことならむ」
 と、御前なる人びと、ささめき聞こえて、憎みきこゆ。ねぶたければなめり。
 まだ朝霧深き朝に、いそぎ起きてたてまつりたまふ。
 「朝霧に友まどはせる鹿の音を
  おほかたにやはあはれとも聞く
 諸声は劣るまじくこそ」
 とあれど、「あまり情けだたむもうるさし。一所の御蔭に隠ろへたるを頼み所にてこそ、何ごとも心やすくて過ごしつれ。心よりほかにながらへて、思はずなることの紛れ、つゆにてもあらば、うしろめたげにのみ思しおくめりしなき御魂にさへ、疵やつけたてまつらむ」と、なべていとつつましう恐ろしうて、聞こえたまはず。
 この宮などを、軽らかにおしなべてのさまにも思ひきこえたまはず。なげの走り書いたまへる御筆づかひ言の葉も、をかしきさまになまめきたまへる御けはひを、あまたは見知りたまはねど、見たまひながら、「そのゆゑゆゑしく情けある方に、言をまぜきこえむも、つきなき身のありさまどもなれば、何か、ただ、かかる山伏だちて過ぐしてむ」と思す。

 中納言殿の御返りばかりは、かれよりもまめやかなるさまに聞こえたまへば、これよりも、いとけうとげにはあらず聞こえ通ひたまふ。御忌果てても、みづから参うでたまへり。東の廂の下りたる方にやつれておはするに、近う立ち寄りたまひて、古人召し出でたり。
 闇に惑ひたまへる御あたりに、いとまばゆく匂ひ満ちて入りおはしたれば、かたはらいたうて、御いらへなどをだにえしたまはねば、
 「かやうには、もてないたまはで、昔の御心むけに従ひきこえたまはむさまならむこそ、聞こえ承るかひあるべけれ。なよびけしきばみたる振る舞ひをならひはべらねば、人伝てに聞こえはべるは、言の葉も続きはべらず」
 とあれば、
 「あさましう、今までながらへはべるやうなれど、思ひさまさむ方なき夢にたどられはべりてなむ、心よりほかに空の光見はべらむもつつましうて、端近うもえみじろきはべらぬ」
 と聞こえたまへれば、
 「ことといへば、限りなき御心の深さになむ。月日の影は、御心もて晴れ晴れしくもて出でさせたまはばこそ、罪もはべらめ。行く方もなく、いぶせうおぼえはべり。また思さるらむは、しばしをも、あきらめきこえまほしくなむ」
 と申したまへば、
 「げに、こそ。いとたぐひなげなめる御ありさまを、慰めきこえたまふ御心ばへの浅からぬほど」など、聞こえ知らす。

 御心地にも、さこそいへ、やうやう心しづまりて、よろづ思ひ知られたまへば、昔ざまにても、かうまではるけき野辺を分け入りたまへる心ざしなども、思ひ知りたまふべし、すこしゐざり寄りたまへり。
 思すらむさま、またのたまひ契りしことなど、いとこまやかになつかしう言ひて、うたて雄々しきけはひなどは見えたまはぬ人なれば、け疎くすずろはしくなどはあらねど、知らぬ人にかく声を聞かせたてまつり、すずろに頼み顔なることなどもありつる日ごろを思ひ続くるも、さすがに苦しうて、つつましけれど、ほのかに一言などいらへきこえたまふさまの、げに、よろづ思ひほれたまへるけはひなれば、いとあはれと聞きたてまつりたまふ。
 黒き几帳の透影の、いと心苦しげなるに、ましておはすらむさま、ほの見し明けぐれなど思ひ出でられて、
 「色変はる浅茅を見ても墨染に
  やつるる袖を思ひこそやれ」
 と、独り言のやうにのたまへば、
 「色変はる袖をば露の宿りにて
  わが身ぞさらに置き所なき
 はつるる糸は」
 と末は言ひ消ちて、いといみじく忍びがたきけはひにて入りたまひぬなり。

 ひきとどめなどすべきほどにもあらねば、飽かずあはれにおぼゆ。老い人ぞ、こよなき御代はりに出で来て、昔今をかき集め、悲しき御物語ども聞こゆ。ありがたくあさましきことどもをも見たる人なりければ、かうあやしく衰へたる人とも思し捨てられず、いとなつかしう語らひたまふ。
 「いはけなかりしほどに、故院に後れたてまつりて、いみじう悲しきものは世なりけりと、思ひ知りにしかば、人となりゆく齢に添へて、官位、世の中の匂ひも、何ともおぼえずなむ。
 ただ、かう静やかなる御住まひなどの、心にかなひたまへりしを、かくはかなく見なしたてまつりなしつるに、いよいよいみじく、かりそめの世の思ひ知らるる心も、もよほされにたれど、心苦しうて、とまりたまへる御ことどもの、ほだしなど聞こえむは、かけかけしきやうなれど、ながらへても、かの御言あやまたず、聞こえ承らまほしさになむ。
 さるは、おぼえなき御古物語聞きしより、いとど世の中に跡とめむともおぼえずなりにたりや」
 うち泣きつつのたまへば、この人はましていみじく泣きて、えも聞こえやらず。御けはひなどの、ただそれかとおぼえたまふに、年ごろうち忘れたりつるいにしへの御ことをさへとり重ねて、聞こえやらむ方もなく、おぼほれゐたり。
 この人は、かの大納言の御乳母子にて、父は、この姫君たちの母北の方の、母方の叔父、左中弁にて亡せにけるが子なりけり。年ごろ、遠き国にあくがれ、母君も亡せたまひてのち、かの殿には疎くなり、この宮には、尋ね取りてあらせたまふなりけり。人もいとやむごとなからず、宮仕へ馴れにたれど、心地なからぬものに宮も思して、姫君たちの御後見だつ人になしたまへるなりけり。
 昔の御ことは、年ごろかく朝夕に見たてまつり馴れ、心隔つる隈なく思ひきこゆる君たちにも、一言うち出で聞こゆるついでなく、忍びこめたりけれど、中納言の君は、「古人の問はず語り、皆、例のことなれば、おしなべてあはあはしうなどは言ひ広げずとも、いと恥づかしげなめる御心どもには、聞きおきたまへらむかし」と推し量らるるが、ねたくもいとほしくもおぼゆるにぞ、「またもて離れてはやまじ」と、思ひ寄らるるつまにもなりぬべき。

 今は旅寝もすずろなる心地して、帰りたまふにも、「これや限りの」などのたまひしを、「などか、さしもやは、とうち頼みて、また見たてまつらずなりにけむ、秋やは変はれる。あまたの日数も隔てぬほどに、おはしにけむ方も知らず、あへなきわざなりや。ことに例の人めいたる御しつらひなく、いとことそぎたまふめりしかど、いとものきよげにかき払ひ、あたりをかしくもてないたまへりし御住まひも、大徳たち出で入り、こなたかなたひき隔てつつ、御念誦の具どもなどぞ、変らぬさまなれど、『仏は皆かの寺に移したてまつりてむとす』」と聞こゆるを、聞きたまふにも、かかるさまの人影などさへ絶え果てむほど、とまりて思ひたまはむ心地どもを汲みきこえたまふも、いと胸いたう思し続けらる。
 「いたく暮れはべりぬ」と申せば、眺めさして立ちたまふに、雁鳴きて渡る。
 「秋霧の晴れぬ雲居にいとどしく
  この世をかりと言ひ知らすらむ」

 兵部卿宮に対面したまふ時は、まづこの君たちの御ことを扱ひぐさにしたまふ。「今はさりとも心やすきを」と思して、宮は、ねむごろに聞こえたまひけり。はかなき御返りも、聞こえにくくつつましき方に、女方は思いたり。
 「世にいといたう好きたまへる御名のひろごりて、好ましく艶に思さるべかめるも、かういと埋づもれたる葎の下よりさし出でたらむ手つきも、いかにうひうひしく、古めきたらむ」など思ひ屈したまへり。
 「さても、あさましうて明け暮らさるるは、月日なりけり。かく、頼みがたかりける御世を、昨日今日とは思はで、ただおほかた定めなきはかなさばかりを、明け暮れのことに聞き見しかど、我も人も後れ先だつほどしもやは経む、などうち思ひけるよ」
 「来し方を思ひ続くるも、何の頼もしげなる世にもあらざりけれど、ただいつとなくのどやかに眺め過ぐし、もの恐ろしくつつましきこともなくて経つるものを、風の音も荒らかに、例見ぬ人影も、うち連れ声づくれば、まづ胸つぶれて、もの恐ろしくわびしうおぼゆることさへ添ひにたるが、いみじう堪へがたきこと」
 と、二所うち語らひつつ、干す世もなくて過ぐしたまふに、年も暮れにけり。


 


 雪霰降りしくころは、いづくもかくこそはある風の音なれど、今はじめて思ひ入りたらむ山住みの心地したまふ。女ばらなど、
 「あはれ、年は替はりなむとす。心細く悲しきことを。改まるべき春待ち出でてしがな」
 と、心を消たず言ふもあり。「難きことかな」と聞きたまふ。
 向ひの山にも、時々の御念仏に籠もりたまひしゆゑこそ、人も参り通ひしか、阿闍梨も、いかがと、おほかたにまれに訪れきこゆれど、今は何しにかはほのめき参らむ。
 いとど人目の絶え果つるも、さるべきことと思ひながら、いと悲しくなむ。何とも見ざりし山賤も、おはしまさでのち、たまさかにさしのぞき参るは、めづらしく思ほえたまふ。このころのこととて、薪、木の実拾ひて参る山人どもあり。
 阿闍梨の室より、炭などやうのものたてまつるとて、
 「年ごろにならひはべりにける宮仕への、今とて絶えはつらむが、心細さになむ」
 と聞こえたり。かならず冬籠もる山風ふせぎつべき綿衣など遣はししを、思し出でてやりたまふ。法師ばら、童べなどの上り行くも、見えみ見えずみ、いと雪深きを、泣く泣く立ち出でて見送りたまふ。
 「御髪など下ろいたまうてける、さる方にておはしまさましかば、かやうに通ひ参る人も、おのづからしげからまし」
 「いかにあはれに心細くとも、あひ見たてまつること絶えてやまましやは」
 など、語らひたまふ。
 「君なくて岩のかけ道絶えしより
  松の雪をもなにとかは見る」
 中の宮、
 「奥山の松葉に積もる雪とだに
  消えにし人を思はましかば」
 うらやましくぞ、またも降り添ふや。


 中納言の君、「新しき年は、ふとしもえ訪らひきこえざらむ」と思しておはしたり。雪もいと所狭きに、よろしき人だに見えずなりにたるを、なのめならぬけはひして、軽らかにものしたまへる心ばへの、浅うはあらず思ひ知られたまへば、例よりは見入れて、御座などひきつくろはせたまふ。
 墨染ならぬ御火桶、奥なる取り出でて、塵かき払ひなどするにつけても、宮の待ち喜びたまひし御けしきなどを、人びとも聞こえ出づ。対面したまふことをば、つつましくのみ思いたれど、思ひ隈なきやうに人の思ひたまへれば、いかがはせむとて、聞こえたまふ。
 うちとくとはなけれど、さきざきよりはすこし言の葉続けて、ものなどのたまへるさま、いとめやすく、心恥づかしげなり。「かやうにてのみは、え過ぐし果つまじ」と思ひなりたまふも、「いとうちつけなる心かな。なほ、移りぬべき世なりけり」と思ひゐたまへり。

 「宮の、いとあやしく恨みたまふことのはべるかな。あはれなりし御一言をうけたまはりおきしさまなど、ことのついでにもや、漏らし聞こえたりけむ。またいと隈なき御心のさがにて、推し量りたまふにやはべらむ、ここになむ、ともかくも聞こえさせなすべきと頼むを、つれなき御けしきなるは、もてそこなひきこゆるぞと、たびたび怨じたまへば、心よりほかなることと思うたまふれど、里のしるべ、いとこよなうもえあらがひきこえぬを、何かは、いとさしももてなしきこえたまはむ。
 好いたまへるやうに、人は聞こえなすべかめれど、心の底あやしく深うおはする宮なり。なほざりごとなどのたまふわたりの、心軽うてなびきやすなるなどを、めづらしからぬものに思ひおとしたまふにや、となむ聞くこともはべる。何ごとにもあるに従ひて、心を立つる方もなく、おどけたる人こそ、ただ世のもてなしに従ひて、とあるもかかるもなのめに見なし、すこし心に違ふふしあるにも、いかがはせむ、さるべきぞ、なども思ひなすべかめれば、なかなか心長き例になるやうもあり。
 崩れそめては、龍田の川の濁る名をも汚し、いふかひなく名残なきやうなることなども、皆うちまじるめれ。心の深うしみたまふべかめる御心ざまにかなひ、ことに背くこと多くなどものしたまはざらむをば、さらに、軽々しく、初め終り違ふやうなることなど、見せたまふまじきけしきになむ。
 人の見たてまつり知らぬことを、いとよう見きこえたるを、もし似つかはしく、さもやと思し寄らば、そのもてなしなどは、心の限り尽くして仕うまつりなむかし。御中道のほど、乱り脚こそ痛からめ」
 と、いとまめやかにて、言ひ続けたまへば、わが御みづからのこととは思しもかけず、「人の親めきていらへむかし」と思しめぐらしたまへど、なほ言ふべき言の葉もなき心地して、
 「いかにとかは。かけかけしげにのたまひ続くるに、なかなか聞こえむこともおぼえはべらで」
 と、うち笑ひたまへるも、おいらかなるものから、けはひをかしう聞こゆ。

 「かならず御みづから聞こしめし負ふべきこととも思うたまへず。それは、雪を踏み分けて参り来たる心ざしばかりを、御覧じ分かむ御このかみ心にても過ぐさせたまひてよかし。かの御心寄せは、また異にぞはべべかめる。ほのかにのたまふさまもはべめりしを、いさや、それも人の分ききこえがたきことなり。御返りなどは、いづ方にかは聞こえたまふ」
 と問ひ申したまふに、「ようぞ、戯れにも聞こえざりける。何となけれど、かうのたまふにも、いかに恥づかしう胸つぶれまし」と思ふに、え答へやりたまはず。
 「雪深き山のかけはし君ならで
  またふみかよふ跡を見ぬかな」
 と書きて、さし出でたまへれば、
 「御ものあらがひこそ、なかなか心おかれはべりぬべけれ」とて、
 「つららとぢ駒ふみしだく山川を
  しるべしがてらまづや渡らむ
 さらばしも、影さへ見ゆるしるしも、浅うははべらじ」
 と聞こえたまへば、思はずに、ものしうなりて、ことにいらへたまはず。けざやかに、いともの遠くすくみたるさまには見えたまはねど、今やうの若人たちのやうに、艶げにももてなさで、いとめやすく、のどやかなる心ばへならむとぞ、推し量られたまふ人の御けはひなる。
 かうこそは、あらまほしけれと、思ふに違はぬ心地したまふ。ことに触れて、けしきばみ寄るも、知らず顔なるさまにのみもてなしたまへば、心恥づかしうて、昔物語などをぞ、ものまめやかに聞こえたまふ。

 「暮れ果てなば、雪いとど空も閉ぢぬべうはべり」
 と、御供の人びと声づくれば、帰りたまひなむとて、
 「心苦しう見めぐらさるる御住まひのさまなりや。ただ山里のやうにいと静かなる所の、人も行き交じらぬはべるを、さも思しかけば、いかにうれしくはべらむ」
 などのたまふも、「いとめでたかるべきことかな」と、片耳に聞きて、うち笑む女ばらのあるを、中の宮は、「いと見苦しう、いかにさやうにはあるべきぞ」と見聞きゐたまへり。
 御くだものよしあるさまにて参り、御供の人びとにも、肴などめやすきほどにて、土器さし出でさせたまひけり。また御移り香もて騷がれし宿直人ぞ、鬘鬚とかいふつらつき、心づきなくてある、「はかなの御頼もし人や」と見たまひて、召し出でたり。
 「いかにぞ。おはしまさでのち、心細からむな」
 など問ひたまふ。うちひそみつつ、心弱げに泣く。
 「世の中に頼むよるべもはべらぬ身にて、一所の御蔭に隠れて、三十余年を過ぐしはべりにければ、今はまして、野山にまじりはべらむも、いかなる木のもとをかは頼むべくはべらむ」
 と申して、いとど人悪ろげなり。
 おはしましし方開けさせたまへれば、塵いたう積もりて、仏のみぞ花の飾り衰へず、行ひたまひけりと見ゆる御床など取りやりて、かき払ひたり。本意をも遂げば、と契りきこえしこと思ひ出でて、
 「立ち寄らむ蔭と頼みし椎が本
  空しき床になりにけるかな」
 とて、柱に寄りゐたまへるをも、若き人びとは、覗きてめでたてまつる。
 日暮れぬれば、近き所々に、御荘など仕うまつる人びとに、御秣取りにやりける、君も知りたまはぬに、田舎びたる人びとは、おどろおどろしくひき連れ参りたるを、「あやしう、はしたなきわざかな」と御覧ずれど、老い人に紛らはしたまひつ。おほかたかやうに仕うまつるべく、仰せおきて出でたまひぬ。


 


 年替はりぬれば、空のけしきうららかなるに、汀の氷解けたるを、ありがたくもと眺めたまふ。聖の坊より、「雪消えに摘みてはべるなり」とて、沢の芹、蕨などたてまつりたり。斎の御台に参れる。
 「所につけては、かかる草木のけしきに従ひて、行き交ふ月日のしるしも見ゆるこそ、をかしけれ」
 など、人びとの言ふを、「何のをかしきならむ」と聞きたまふ。
 「君が折る峰の蕨と見ましかば
  知られやせまし春のしるしも」
 「雪深き汀の小芹誰がために
  摘みかはやさむ親なしにして」
 など、はかなきことどもをうち語らひつつ、明け暮らしたまふ。
 中納言殿よりも宮よりも、折過ぐさず訪らひきこえたまふ。うるさく何となきこと多かるやうなれば、例の、書き漏らしたるなめり。


 花盛りのころ、宮、「かざし」を思し出でて、その折見聞きたまひし君たちなども、
 「いとゆゑありし親王の御住まひを、またも見ずなりにしこと」
 など、おほかたのあはれを口々聞こゆるに、いとゆかしう思されけり。
 「つてに見し宿の桜をこの春は
  霞隔てず折りてかざさむ」
 と、心をやりてのたまへりけり。「あるまじきことかな」と見たまひながら、いとつれづれなるほどに、見所ある御文の、うはべばかりをもて消たじとて、
 「いづことか尋ねて折らむ墨染に
  霞みこめたる宿の桜を」
 なほ、かくさし放ち、つれなき御けしきのみ見ゆれば、まことに心憂しと思しわたる。

 御心にあまりたまひては、ただ中納言を、とざまかうざまに責め恨みきこえたまへば、をかしと思ひながら、いとうけばりたる後見顔にうちいらへきこえて、あだめいたる御心ざまをも見あらはす時々は、
 「いかでか、かからむには」
 など、申したまへば、宮も御心づかひしたまふべし。
 「心にかなふあたりを、まだ見つけぬほどぞや」とのたまふ。
 大殿の六の君を思し入れぬこと、なま恨めしげに、大臣も思したりけり。されど、
 「ゆかしげなき仲らひなるうちにも、大臣のことことしくわづらはしくて、何ごとの紛れをも見とがめられむがむつかしき」
 と、下にはのたまひて、すまひたまふ。
 その年、三条宮焼けて、入道宮も、六条院に移ろひたまひ、何くれともの騒がしきに紛れて、宇治のわたりを久しう訪れきこえたまはず。まめやかなる人の御心は、またいと異なりければ、いとのどかに、「おのがものとはうち頼みながら、女の心ゆるびたまはざらむ限りは、あざればみ情けなきさまに見えじ」と思ひつつ、「昔の御心忘れぬ方を、深く見知りたまへ」と思す。


 
 その年、常よりも暑さを人わぶるに、「川面涼しからむはや」と思ひ出でて、にはかに参うでたまへり。朝涼みのほどに出でたまひければ、あやにくにさし来る日影もまばゆくて、宮のおはせし西の廂に、宿直人召し出でておはす。
 そなたの母屋の仏の御前に、君たちものしたまひけるを、気近からじとて、わが御方に渡りたまふ御けはひ、忍びたれど、おのづから、うちみじろきたまふほど近う聞こえければ、なほあらじに、こなたに通ふ障子の端の方に、かけがねしたる所に、穴のすこし開きたるを見おきたまへりければ、外に立てたる屏風をひきやりて見たまふ。
 ここもとに几帳を添へ立てたる、「あな、口惜し」と思ひて、ひき帰る、折しも、風の簾をいたう吹き上ぐべかめれば、
 「あらはにもこそあれ。その御几帳おし出でてこそ」
 と言ふ人あなり。をこがましきものの、うれしうて見たまへば、高きも短きも、几帳を二間の簾におし寄せて、この障子に向かひて、開きたる障子より、あなたに通らむとなりけり。

 まづ、一人立ち出でて、几帳よりさし覗きて、この御供の人びとの、とかう行きちがひ、涼みあへるを見たまふなりけり。濃き鈍色の単衣に、萱草の袴もてはやしたる、なかなかさま変はりてはなやかなりと見ゆるは、着なしたまへる人からなめり。
 帯はかなげにしなして、数珠ひき隠して持たまへり。いとそびやかに、様体をかしげなる人の、髪、袿にすこし足らぬほどならむと見えて、末まで塵のまよひなく、つやつやとこちたう、うつくしげなり。かたはらめなど、あならうたげと見えて、匂ひやかに、やはらかにおほどきたるけはひ、女一の宮も、かうざまにぞおはすべきと、ほの見たてまつりしも思ひ比べられて、うち嘆かる。
 またゐざり出でて、「かの障子は、あらはにもこそあれ」と、見おこせたまへる用意、うちとけたらぬさまして、よしあらむとおぼゆ。頭つき、髪ざしのほど、今すこしあてになまめかしきさまなり。
 「あなたに屏風も添へて立ててはべりつ。急ぎてしも、覗きたまはじ」
 と、若き人びと、何心なく言ふあり。
 「いみじうもあるべきわざかな」
 とて、うしろめたげにゐざり入りたまふほど、気高う心にくきけはひ添ひて見ゆ。黒き袷一襲、同じやうなる色合ひを着たまへれど、これはなつかしうなまめきて、あはれげに、心苦しうおぼゆ。
 髪、さはらかなるはどに落ちたるなるべし、末すこし細りて、色なりとかいふめる、翡翠だちていとをかしげに、糸をよりかけたるやうなり。紫の紙に書きたる経を、片手に持ちたまへる手つき、かれよりも細さまさりて、痩せ痩せなるべし。立ちたりつる君も、障子口にゐて、何ごとにかあらむ、こなたを見おこせて笑ひたる、いと愛敬づきたり。



  

  

            現代語訳 補足 目次

      四十七、 総 角   
 


   
 



 あまた年耳馴れたまひにし川風も、この秋はいとはしたなくもの悲しくて、御果ての事いそがせたまふ。おほかたのあるべかしきことどもは、中納言殿、阿闍梨などぞ仕うまつりたまひける。ここには法服の事、経の飾り、こまかなる御扱ひを、人の聞こゆるに従ひて営みたまふも、いとものはかなくあはれに、「かかるよその御後見なからましかば」と見えたり。
 みづからも参うでたまひて、今はと脱ぎ捨てたまふほどの御訪らひ、浅からず聞こえたまふ。阿闍梨もここに参れり。名香の糸ひき乱りて、「かくても経ぬる」など、うち語らひたまふほどなりけり。結び上げたるたたりの、簾のつまより、几帳のほころびに透きて見えければ、そのことと心得て、「わが涙をば玉にぬかなむ」とうち誦じたまへる、伊勢の御もかくこそありけめと、をかしく聞こゆるも、内の人は、聞き知り顔にさしいらへたまはむもつつましくて、「ものとはなしに」とか、「貫之がこの世ながらの別れをだに、心細き筋にひきかけけむも」など、げに古言ぞ、人の心をのぶるたよりなりけるを思ひ出でたまふ。


 御願文作り、経仏供養ぜらるべき心ばへなど書き出でたまへる硯のついでに、客人、
 「あげまきに長き契りを結びこめ
  同じ所に縒りも会はなむ」
 と書きて、見せたてまつりたまへれば、例の、とうるさけれど、
 「ぬきもあへずもろき涙の玉の緒に
  長き契りをいかが結ばむ」
 とあれば、「あはずは何を」と、恨めしげに眺めたまふ。
 みづからの御上は、かくそこはかとなくもて消ちて恥づかしげなるに、すがすがともえのたまひよらで、宮の御ことをぞまめやかに聞こえたまふ。
 「さしも御心に入るまじきことを、かやうの方にすこしすすみたまへる御本性に、聞こえそめたまひけむ負けじ魂にやと、とざまかうざまに、いとよくなむ御けしき見たてまつる。まことにうしろめたくはあるまじげなるを、などかくあながちにしも、もて離れたまふらむ。
 世のありさまなど、思し分くまじくは見たてまつらぬを、うたて、遠々しくのみもてなさせたまへば、かばかりうらなく頼みきこゆる心に違ひて、恨めしくなむ。ともかくも思し分くらむさまなどを、さはやかに承りにしがな」
 と、いとまめだちて聞こえたまへば、
 「違へじの心にてこそは、かうまであやしき世の例なるありさまにて、隔てなくもてなしはべれ。それを思し分かざりけるこそは、浅きことも混ざりたる心地すれ。げに、かかる住まひなどに、心あらむ人は、思ひ残す事、あるまじきを、何事にも後れそめにけるうちに、こののたまふめる筋は、いにしへも、さらにかけて、とあらばかからばなど、行く末のあらましごとに取りまぜて、のたまひ置くこともなかりしかば、なほ、かかるさまにて、世づきたる方を思ひ絶ゆべく思しおきてける、となむ思ひ合はせはべれば、ともかくも聞こえむ方なくて。さるは、すこし世籠もりたるほどにて、深山隠れには心苦しく見えたまふ人の御上を、いとかく朽木にはなし果てずもがなと、人知れず扱はしくおぼえはべれど、いかなるべき世にかあらむ」
 と、うち嘆きてもの思ひ乱れたまひけるほどのけはひ、いとあはれげなり。

 けざやかにおとなびても、いかでかは賢しがりたまはむと、ことわりにて、例の、古人召し出でてぞ語らひたまふ。
 「年ごろは、ただ後の世ざまの心ばへにて進み参りそめしを、もの心細げに思しなるめりし御末のころほひ、この御事どもを、心にまかせてもてなしきこゆべくなむのたまひ契りてしを、思しおきてたてまつりたまひし御ありさまどもには違ひて、御心ばへどもの、いといとあやにくにもの強げなるは、いかに、思しおきつる方の異なるにやと、疑はしきことさへなむ。
 おのづから聞き伝へたまふやうもあらむ。いとあやしき本性にて、世の中に心をしむる方なかりつるを、さるべきにてや、かうまでも聞こえ馴れにけむ。世人もやうやう言ひなすやうあべかめるに、同じくは昔の御ことも違へきこえず、我も人も世の常に心とけて聞こえはべらばや、と思ひよるは、つきなかるべきことにても、さやうなる例なくやはある」
 などのたまひ続けて、
 「宮の御ことをも、かく聞こゆるに、うしろめたくはあらじと、うちとけたまふさまならぬは、うちうちに、さりとも思ほし向けたることのさまあらむ。なほ、いかに、いかに」
 とうち眺めつつのたまへば、例の、悪ろびたる女ばらなどは、かかることには、憎きさかしらも言ひまぜて、言よがりなどもすめるを、いとさはあらず、心のうちには、「あらまほしかるべき御ことどもを」と思へど、

 「もとより、かく人に違ひたまへる御癖どもにはべればにや、いかにもいかにも、世の常に何やかやなど、思ひよりたまへる御けしきになむはべらぬ。
 かくて、さぶらふこれかれも、年ごろだに、何の頼もしげある木の本の隠ろへもはべらざりき。身を捨てがたく思ふ限りは、ほどほどにつけてまかで散り、昔の古き筋なる人も、多く見たてまつり捨てたるあたりに、まして今は、しばしも立ちとまりがたげにわびはべりて、おはしましし世にこそ、限りありて、かたほならむ御ありさまは、いとほしくもなど、古代なる御うるはしさに、思しもとどこほりつれ。
 今は、かう、また頼みなき御身どもにて、いかにもいかにも、世になびきたまへらむを、あながちにそしりきこえむ人は、かへりてものの心をも知らず、言ふかひなきことにてこそはあらめ。いかなる人か、いとかくて世をば過ぐし果てたまふべき。
 松の葉をすきて勤むる山伏だに、生ける身の捨てがたさによりてこそ、仏の御教へをも、道々別れては行ひなすなれ、などやうの、よからぬことを聞こえ知らせ、若き御心ども乱れたまひぬべきこと多くはべるめれど、たわむべくもものしたまはず、中の宮をなむ、いかで人めかしくも扱ひなしたてまつらむ、と思ひきこえたまふべかめる。
 かく山深く訪ねきこえさせたまふめる御心ざしの、年経て見たてまつり馴れたまへるけはひも、疎からず思ひきこえさせたまひ、今はとざまかうざまに、こまかなる筋聞こえ通ひたまふめるに、かの御方を、さやうにおもむけて聞こえたまはば、となむ思すべかめる。
 宮の御文などはべるめるは、さらにまめまめしき御ことならじ、とはべるめる」
 と聞こゆれば、
 「あはれなる御一言を聞きおき、露の世にかかづらはむ限りは、聞こえ通はむの心あれば、いづ方にも見えたてまつらむ、同じことなるべきを、さまではた、思しよるなる、いとうれしきことなれど、心の引く方なむ、かばかり思ひ捨つる世に、なほとまりぬべきものなりければ、改めてさはえ思ひなほすまじくなむ。世の常になよびかなる筋にもあらずや。
 ただかやうにもの隔てて、こと残いたるさまならず、さし向ひて、とにかくに定めなき世の物語を、隔てなく聞こえて、つつみたまふ御心の隈残らずもてなしたまはむなむ、兄弟などのさやうに睦ましきほどなるもなくて、いとさうざうしくなむ、世の中の思ふことの、あはれにも、をかしくも、愁はしくも、時につけたるありさまを、心に籠めてのみ過ぐる身なれば、さすがにたつきなくおぼゆるに、疎かるまじく頼みきこゆる。
 后の宮は、なれなれしく、さやうにそこはかとなき思ひのままなるくだくだしさを、聞こえ触るべきにもあらず。三条の宮は、親と思ひきこゆべきにもあらぬ御若々しさなれど、限りあれば、たやすく馴れきこえさせずかし。その他の女は、すべていと疎くつつましく、恐ろしくおぼえて、心からよるべなく心細きなり。
 なほざりのすさびにても、懸想だちたることは、いとまばゆくありつかず、はしたなきこちごちしさにて、まいて心にしめたる方のことは、うち出づることは難くて、怨めしくもいぶせくも思ひきこゆるけしきをだに見えたてまつらぬこそ、我ながら限りなくかたくなしきわざなれ。宮の御ことをも、さりとも悪しざまには聞こえじと、まかせてやは見たまはぬ」
 など言ひゐたまへり。老い人、はた、かばかり心細きに、あらまほしげなる御ありさまを、いと切に、さもあらせたてまつらばやと思へど、いづ方も恥づかしげなる御ありさまどもなれば、思ひのままにはえ聞こえず。

 今宵は泊りたまひて、物語などのどやかに聞こえまほしくて、やすらひ暮らしたまひつ。あざやかならず、もの怨みがちなる御けしき、やうやうわりなくなりゆけば、わづらはしくて、うちとけて聞こえたまはむことも、いよいよ苦しけれど、おほかたにてはありがたくあはれなる人の御心なれば、こよなくももてなしがたくて、対面したまふ。
 仏のおはする中の戸を開けて、御燈明の火けざやかにかかげさせて、簾に屏風を添へてぞおはする。外にも大殿油参らすれど、「悩ましうて無礼なるを。あらはに」など諌めて、かたはら臥したまへり。御くだものなど、わざとはなくしなして参らせたまへり。
 御供の人びとにも、ゆゑゆゑしき肴などして出ださせたまへり。廊めいたる方に集まりて、この御前は人げ遠くもてなして、しめじめと物語聞こえたまふ。うちとくべくもあらぬものから、なつかしげに愛敬づきて、もののたまへるさまの、なのめならず心に入りて、思ひ焦らるるもはかなし。
 「かくほどもなきものの隔てばかりを障り所にて、おぼつかなく思ひつつ過ぐす心おそさの、あまりをこがましくもあるかな」と思ひ続けらるれど、つれなくて、おほかたの世の中のことども、あはれにもをかしくも、さまざま聞き所多く語らひきこえたまふ。
 内には、「人びと、近く」などのたまひおきつれど、「さしも、もて離れたまはざらなむ」と思ふべかめれば、いとしも護りきこえず、さし退つつ、みな寄り臥して、仏の御燈火もかかぐる人もなし。ものむつかしくて、忍びて人召せど、おどろかず。
 「心地のかき乱り、悩ましくはべるを、ためらひて、暁方にもまた聞こえむ」
 とて、入りたまひなむとするけしきなり。
 「山路分けはべりつる人は、ましていと苦しけれど、かく聞こえ承るに慰めてこそはべれ。うち捨てて入らせたまひなば、いと心細からむ」
 とて、屏風をやをら押し開けて入りたまひぬ。いとむくつけくて、半らばかり入りたまへるに、引きとどめられて、いみじくねたく心憂ければ、
 「隔てなきとは、かかるをや言ふらむ。めづらかなるわざかな」
 と、あはめたまへるさまの、いよいよをかしければ、
 「隔てぬ心をさらに思し分かねば、聞こえ知らせむとぞかし。めづらかなりとも、いかなる方に、思しよるにかはあらむ。仏の御前にて誓言も立てはべらむ。うたて、な懼ぢたまひそ。御心破らじと思ひそめてはべれば。人はかくしも推し量り思ふまじかめれど、世に違へる痴者にて過ぐしはべるぞや」
 とて、心にくきほどなる火影に、御髪のこぼれかかりたるを、かきやりつつ見たまへば、人の御けはひ、思ふやうに香りをかしげなり。

 「かく心細くあさましき御住み処に、好いたらむ人は障り所あるまじげなるを、我ならで尋ね来る人もあらましかば、さてや止みなまし。いかに口惜しきわざならまし」と、来し方の心のやすらひさへ、あやふくおぼえたまへど、言ふかひなく憂しと思ひて泣きたまふ御けしきの、いといとほしければ、「かくはあらで、おのづから心ゆるびしたまふ折もありなむ」と思ひわたる。
 わりなきやうなるも心苦しくて、さまよくこしらへきこえたまふ。
 「かかる御心のほどを思ひよらで、あやしきまで聞こえ馴れにたるを、ゆゆしき袖の色など、見あらはしたまふ心浅さに、みづからの言ふかひなさも思ひ知らるるに、さまざま慰む方なく」
 と恨みて、何心もなくやつれたまへる墨染の火影を、いとはしたなくわびしと思ひ惑ひたまへり。
 「いとかくしも思さるるやうこそはと、恥づかしきに、聞こえむ方なし。袖の色をひきかけさせたまふはしも、ことわりなれど、ここら御覧じなれぬる心ざしのしるしには、さばかりの忌おくべく、今始めたることめきてやは思さるべき。なかなかなる御わきまへ心になむ」
 とて、かの物の音聞きし有明の月影よりはじめて、折々の思ふ心の忍びがたくなりゆくさまを、いと多く聞こえたまふに、「恥づかしくもありけるかな」と疎ましく、「かかる心ばへながらつれなくまめだちたまひけるかな」と、聞きたまふこと多かり。
 御かたはらなる短き几帳を、仏の御方にさし隔てて、かりそめに添ひ臥したまへり。名香のいと香ばしく匂ひて、樒のいとはなやかに薫れるけはひも、人よりはけに仏をも思ひきこえたまへる御心にて、わづらはしく、「墨染の今さらに、折ふし心焦られしたるやうに、あはあはしく、思ひそめしに違ふべければ、かかる忌なからむほどに、この御心にも、さりともすこしたわみたまひなむ」など、せめてのどかに思ひなしたまふ。
 秋の夜のけはひは、かからぬ所だに、おのづからあはれ多かるを、まして峰の嵐も籬の虫も、心細げにのみ聞きわたさる。常なき世の御物語に、時々さしいらへたまへるさま、いと見所多くめやすし。いぎたなかりつる人びとは、「かうなりけり」と、けしきとりてみな入りぬ。
 宮ののたまひしさまなど思し出づるに、「げに、ながらへば、心の外にかくあるまじきことも見るべきわざにこそは」と、もののみ悲しくて、水の音に流れ添ふ心地したまふ。

 はかなく明け方になりにけり。御供の人びと起きて声づくり、馬どものいばゆる音も、旅の宿りのあるやうなど人の語るを、思しやられて、をかしく思さる。光見えつる方の障子を押し開けたまひて、空のあはれなるをもろともに見たまふ。女もすこしゐざり出でたまへるに、ほどもなき軒の近さなれば、しのぶの露もやうやう光見えもてゆく。かたみにいと艶なるさま、容貌どもを、
 「何とはなくて、ただかやうに月をも花をも、同じ心にもてあそび、はかなき世のありさまを聞こえ合はせてなむ、過ぐさまほしき」
 と、いとなつかしきさまして語らひきこえたまへば、やうやう恐ろしさも慰みて、
 「かういとはしたなからで、もの隔ててなど聞こえば、真に心の隔てはさらにあるまじくなむ」
 といらへたまふ。
 明くなりゆき、むら鳥の立ちさまよふ羽風近く聞こゆ。夜深き朝の鐘の音かすかに響く。「今は、いと見苦しきを」と、いとわりなく恥づかしげに思したり。
 「ことあり顔に朝露もえ分けはべるまじ。また、人はいかが推し量りきこゆべき。例のやうになだらかにもてなさせたまひて、ただ世に違ひたることにて、今より後も、ただかやうにしなさせたまひてよ。よにうしろめたき心はあらじと思せ。かばかりあながちなる心のほども、あはれと思し知らぬこそかひなけれ」
 とて、出でたまはむのけしきもなし。あさましく、かたはならむとて、
 「今より後は、さればこそ、もてなしたまはむままにあらむ。今朝は、また聞こゆるに従ひたまへかし」
 とて、いとすべなしと思したれば、
 「あな、苦しや。暁の別れや。まだ知らぬことにて、げに、惑ひぬべきを」
 と嘆きがちなり。鶏も、いづ方にかあらむ、ほのかにおとなふに、京思ひ出でらる。
 「山里のあはれ知らるる声々に
  とりあつめたる朝ぼらけかな」
 女君、
 「鳥の音も聞こえぬ山と思ひしを
  世の憂きことは訪ね来にけり」
 障子口まで送りたてまつりたまひて、昨夜入りし戸口より出でて、臥したまへれど、まどろまれず。名残恋しくて、「いとかく思はましかば、月ごろも今まで心のどかならましや」など、帰らむことももの憂くおぼえたまふ。

 姫宮は、人の思ふらむことのつつましきに、とみにもうち臥されたまはで、「頼もしき人なくて世を過ぐす身の心憂きを、ある人どもも、よからぬこと何やかやと、次々に従ひつつ言ひ出づめるに、心よりほかのことありぬべき世なめり」と思しめぐらすには、
 「この人の御けはひありさまの、疎ましくはあるまじく、故宮も、さやうなる心ばへあらばと、折々のたまひ思すめりしかど、みづからは、なほかくて過ぐしてむ。我よりはさま容貌も盛りにあたらしげなる中の宮を、人なみなみに見なしたらむこそうれしからめ。人の上になしては、心のいたらむ限り思ひ後見てむ。みづからの上のもてなしは、また誰れかは見扱はむ。
 この人の御さまの、なのめにうち紛れたるほどならば、かく見馴れぬる年ごろのしるしに、うちゆるぶ心もありぬべきを、恥づかしげに見えにくきけしきも、なかなかいみじくつつましきに、わが世はかくて過ぐし果ててむ」
 と思ひ続けて、音泣きがちに明かしたまへるに、名残いと悩ましければ、中の宮の臥したまへる奥の方に添ひ臥したまふ。
 例ならず、人のささめきしけしきもあやしと、この宮は思しつつ寝たまへるに、かくておはしたれば、うれしくて、御衣ひき着せたてまつりたまふに、御移り香の紛るべくもあらず、くゆりかかる心地すれば、宿直人がもて扱ひけむ思ひあはせられて、「まことなるべし」と、いとほしくて、寝ぬるやうにてものものたまはず。
 客人は、弁のおもと呼び出でたまひて、こまかに語らひおき、御消息すくすくしく聞こえおきて出でたまひぬ。「総角を戯れにとりなししも、心もて、尋ばかりの隔ても対面しつるとや、この君も思すらむ」と、いみじく恥づかしければ、心地悪しとて、悩み暮らしたまひつ。人びと、
 「日は残りなくなりはべりぬ。はかばかしく、はかなきことをだに、また仕うまつる人もなきに、折悪しき御悩みかな」
 と聞こゆ。中の宮、組などし果てたまひて、
 「心葉など、えこそ思ひよりはべらね」
 と、せめて聞こえたまへば、暗くなりぬる紛れに起きたまひて、もろともに結びなどしたまふ。中納言殿より御文あれど、
 「今朝よりいと悩ましくなむ」
 とて、人伝てにぞ聞こえたまふ。
 「さも、見苦しく、若々しくおはす」
 と、人びとつぶやききこゆ。


 


 御服など果てて、脱ぎ捨てたまへるにつけても、かた時も後れたてまつらむものと思はざりしを、はかなく過ぎにける月日のほどを思すに、いみじく思ひのほかなる身の憂さと、泣き沈みたまへる御さまども、いと心苦しげなり。
 月ごろ黒く馴らはしたまへる御姿、薄鈍にて、いとなまめかしくて、中の宮は、げにいと盛りにて、うつくしげなる匂ひまさりたまへり。御髪など澄ましつくろはせて見たてまつりたまふに、世の物思ひ忘るる心地してめでたければ、人知れず、「近劣りしては思はずやあらむ」と、頼もしくうれしくて、今はまた見譲る人もなくて、親心にかしづきたてて見きこえたまふ。
 かの人は、つつみきこえたまひし藤の衣も改めたまへらむ長月も、静心なくて、またおはしたり。「例のやうに聞こえむ」と、また御消息あるに、心あやまりして、わづらはしくおぼゆれば、とかく聞こえすまひて対面したまはず。
 「思ひの外に心憂き御心かな。人もいかに思ひはべらむ」
 と、御文にて聞こえたまへり。
 「今はとて脱ぎはべりしほどの心惑ひに、なかなか沈みはべりてなむ、え聞こえぬ」
 とあり。
 怨みわびて、例の人召して、よろづにのたまふ。世に知らぬ心細さの慰めには、この君をのみ頼みきこえたる人びとなれば、思ひにかなひたまひて、世の常の住み処に移ろひなどしたまはむを、いとめでたかるべきことに言ひ合はせて、「ただ入れたてまつらむ」と、皆語らひ合はせけり。


 姫宮、そのけしきをば深く見知りたまはねど、「かく取り分きて人めかしなつけたまふめるに、うちとけて、うしろめたき心もやあらむ。昔物語にも、心もてやは、とあることもかかることもあめる。うちとくまじき人の心にこそあめれ」と思ひよりたまひて、
 「せめて怨み深くは、この君をおし出でむ。劣りざまならむにてだに、さても見そめては、あさはかにはもてなすまじき心なめるを、まして、ほのかにも見そめては、慰みなむ。言に出でては、いかでかは、ふとさることを待ち取る人のあらむ。本意になむあらぬと、うけひくけしきのなかなるは、かたへは人の思はむことを、あいなう浅き方にやなど、つつみたまふならむ」
 と思し構ふるを、「けしきだに知らせたまはずは、罪もや得む」と、身をつみていとほしければ、よろづにうち語らひて、
 「昔の御おもむけも、世の中をかく心細くて過ぐし果つとも、なかなか人笑へに、かろがろしき心つかふな、などのたまひおきしを、おはせし世の御ほだしにて、行ひの御心を乱りし罪だにいみじかりけむを、今はとて、さばかりのたまひし一言をだに違へじ、と思ひはべれば、心細くなどもことに思はぬを、この人びとの、あやしく心ごはきものに憎むめるこそ、いとわりなけれ。
 げに、さのみやうのものと過ぐしたまはむも、明け暮るる月日に添へても、御ことをのみこそ、あたらしく心苦しくかなしきものに思ひきこゆるを、君だに世の常にもてなしたまひて、かかる身のありさまもおもだたしく、慰むばかり見たてまつりなさばや」
 と聞こえたまはば、いかに思すにかと、心憂くて、
 「一所をのみやは、さて世に果てたまへとは、聞こえたまひけむ。はかばかしくもあらぬ身のうしろめたさは、数添ひたるやうにこそ、思されためりしか。心細き御慰めには、かく朝夕に見たてまつるより、いかなるかたにか」
 と、なま恨めしく思ひたまひつれば、げにと、いとほしくて、
 「なほ、これかれ、うたてひがひがしきものに言ひ思ふべかめるにつけて、思ひ乱れはべるぞや」
 と、言ひさしたまひつ。

 暮れゆくに、客人は帰りたまはず。姫宮、いとむつかしと思す。弁参りて、御消息ども聞こえ伝へて、怨みたまふをことわりなるよしを、つぶつぶと聞こゆれば、いらへもしたまはず、うち嘆きて、
 「いかにもてなすべき身にかは。一所おはせましかば、ともかくも、さるべき人に扱はれたてまつりて、宿世といふなる方につけて、身を心ともせぬ世なれば、皆例のことにてこそは、人笑へなる咎をも隠すなれ。ある限りの人は年積もり、さかしげにおのがじしは思ひつつ、心をやりて、似つかはしげなることを聞こえ知らすれど、こは、はかばかしきことかは。人めかしからぬ心どもにて、ただ一方に言ふにこそは」
 と見たまへば、引き動かしつばかり聞こえあへるも、いと心憂く疎ましくて、動ぜられたまはず。同じ心に何ごとも語らひきこえたまふ中の宮は、かかる筋には、今すこし心も得ずおほどかにて、何とも聞き入れたまはねば、「あやしくもありける身かな」と、ただ奥ざまに向きておはすれば、
 「例の色の御衣どもたてまつり替へよ」
 など、そそのかしきこえつつ、皆、さる心すべかめるけしきを、あさましく、「げに、何の障り所かはあらむ。ほどもなくて、かかる御住まひのかひなき、山梨の花ぞ」、逃れむ方なかりける。
 客人は、かく顕証に、これかれにも口入れさせず、「忍びやかに、いつありけむことともなくもてなしてこそ」と思ひそめたまひけることなれば、
 「御心許したまはずは、いつもいつも、かくて過ぐさむ」
 と思しのたまふを、この老い人の、おのがじし語らひて、顕証にささめき、さは言へど、深からぬけに、老いひがめるにや、いとほしくぞ見ゆる。

 姫宮、思しわづらひて、弁が参れるにのたまふ。
 「年ごろも、人に似ぬ御心寄せとのみのたまひわたりしを聞きおき、今となりては、よろづに残りなく頼みきこえて、あやしきまでうちとけにたるを、思ひしに違ふさまなる御心ばへの混じりて、恨みたまふめるこそわりなけれ。世に人めきてあらまほしき身ならば、かかる御ことをも、何かはもて離れても思はまし。
 されど、昔より思ひ離れそめたる心にて、いと苦しきを。この君の盛り過ぎたまはむも口惜し。げに、かかる住まひも、ただこの御ゆかりに所狭くのみおぼゆるを、まことに昔を思ひきこえたまふ心ざしならば、同じことに思ひなしたまへかし。身を分けたる心のうちは皆ゆづりて、見たてまつらむ心地なむすべき。なほ、かうやうによろしげに聞こえなされよ」
 と、恥ぢらひたるものから、あるべきさまをのたまひ続くれば、いとあはれと見たてまつる。
 「さのみこそは、さきざきも御けしきを見たまふれば、いとよく聞こえさすれど、さはえ思ひ改むまじ、兵部卿宮の御恨み、深さまさるめれば、またそなたざまに、いとよく後見きこえむ、となむ聞こえたまふ。それも思ふやうなる御ことどもなり。二所ながらおはしまして、ことさらに、いみじき御心尽くしてかしづききこえさせたまはむに、えしも、かく世にありがたき御ことども、さし集ひたまはざらまし。
 かしこけれど、かくいとたつきなげなる御ありさまを見たてまつるに、いかになり果てさせたまはむと、うしろめたく悲しくのみ見たてまつるを、後の御心は知りがたけれど、うつくしくめでたき御宿世どもにこそおはしましけれとなむ、かつがつ思ひきこゆる。
 故宮の御遺言違へじと思し召すかたはことわりなれど、それは、さるべき人のおはせず、品ほどならぬことやおはしまさむと思して、戒めきこえさせたまふめりしにこそ。
 この殿の、さやうなる心ばへものしたまはましかば、一所をうしろやすく見おきたてまつりて、いかにうれしからましと、折々のたまはせしものを。ほどほどにつけて、思ふ人に後れたまひぬる人は、高きも下れるも、心の外に、あるまじきさまにさすらふたぐひだにこそ多くはべるめれ。
 それ皆例のことなめれば、もどき言ふ人もはべらず。まして、かくばかり、ことさらにも作り出でまほしげなる人の御ありさまに、心ざし深くありがたげに聞こえたまふを、あながちにもて離れさせたまうて、思しおきつるやうに、行ひの本意を遂げたまふとも、さりとて雲霞をやは」
 など、すべてこと多く申し続くれば、いと憎く心づきなしと思して、ひれ臥したまへり。

 中の宮も、あいなくいとほしき御けしきかなと、見たてまつりたまひて、もろともに例のやうに大殿籠もりぬ。うしろめたく、いかにもてなさむ、とおぼえたまへど、ことさらめきて、さし籠もり隠ろへたまふべきものの隈だになき御住まひなれば、なよよかにをかしき御衣、上にひき着せたてまつりたまひて、まだけはひ暑きほどなれば、すこしまろび退きて臥したまへり。
 弁は、のたまひつるさまを客人に聞こゆ。「いかなれば、いとかくしも世を思ひ離れたまふらむ。聖だちたまへりしあたりにて、常なきものに思ひ知りたまへるにや」と思すに、いとどわが心通ひておぼゆれば、さかしだち憎くもおぼえず。
 「さらば、物越などにも、今はあるまじきことに思しなるにこそはあなれ。今宵ばかり、大殿籠もるらむあたりにも、忍びてたばかれ」
 とのたまへば、心して、人疾く静めなど、心知れるどちは思ひ構ふ。
 宵すこし過ぐるほどに、風の音荒らかにうち吹くに、はかなきさまなる蔀などは、ひしひしと紛るる音に、「人の忍びたまへる振る舞ひは、え聞きつけたまはじ」と思ひて、やをら導き入る。
 同じ所に大殿籠もれるを、うしろめたしと思へど、常のことなれば、「ほかほかにともいかが聞こえむ。御けはひをも、たどたどしからず見たてまつり知りたまへらむ」と思ひけるに、うちもまどろみたまはねば、ふと聞きつけたまて、やをら起き出でたまひぬ。いと疾くはひ隠れたまひぬ。
 何心もなく寝入りたまへるを、いといとほしく、いかにするわざぞと、胸つぶれて、もろともに隠れなばやと思へど、さもえ立ち返らで、わななくわななく見たまへば、火のほのかなるに、袿姿にて、いと馴れ顔に、几帳の帷を引き上げて入りぬるを、いみじくいとほしく、「いかにおぼえたまはむ」と思ひながら、あやしき壁の面に、屏風を立てたるうしろの、むつかしげなるにゐたまひぬ。
 「あらましごとにてだに、つらしと思ひたまへりつるを、まいて、いかにめづらかに思し疎まむ」と、いと心苦しきにも、すべてはかばかしき後見なくて、落ちとまる身どもの悲しきを思ひ続けたまふに、今はとて山に登りたまひし夕べの御さまなど、ただ今の心地して、いみじく恋しく悲しくおぼえたまふ。

 中納言は、独り臥したまへるを、心しけるにやとうれしくて、心ときめきしたまふに、やうやうあらざりけりと見る。「今すこしうつくしくらうたげなるけしきはまさりてや」とおぼゆ。
 あさましげにあきれ惑ひたまへるを、「げに、心も知らざりける」と見ゆれば、いといとほしくもあり、またおし返して、隠れたまへらむつらさの、まめやかに心憂くねたければ、これをもよそのものとはえ思ひ放つまじけれど、なほ本意の違はむ、口惜しくて、
 「うちつけに浅かりけりともおぼえたてまつらじ。この一ふしは、なほ過ぐして、つひに、宿世逃れずは、こなたざまにならむも、何かは異人のやうにやは」
 と思ひ覚まして、例の、をかしくなつかしきさまに語らひて明かしたまひつ。
 老い人どもは、しそしつと思ひて、
 「中の宮、いづこにかおはしますらむ。あやしきわざかな」
 と、たどりあへり。
 「さりとも、あるやうあらむ」
 など言ふ。
 「おほかた例の、見たてまつるに皺のぶる心地して、めでたくあはれに見まほしき御容貌ありさまを、などて、いともて離れては聞こえたまふらむ。何か、これは世の人の言ふめる、恐ろしき神ぞ、憑きたてまつりたらむ」
 と、歯はうちすきて、愛敬なげに言ひなす女あり。また、
 「あな、まがまがし。なぞのものか憑かせたまはむ。ただ、人に遠くて、生ひ出でさせたまふめれば、かかることにも、つきづきしげにもてなしきこえたまふ人もなくおはしますに、はしたなく思さるるにこそ。今おのづから見たてまつり馴れたまひなば、思ひきこえたまひてむ」
 など語らひて、
 「とくうちとけて、思ふやうにておはしまさなむ」
 と言ふ言ふ寝入りて、いびきなど、かたはらいたくするもあり。
 逢ふ人からにもあらぬ秋の夜なれど、ほどもなく明けぬる心地して、いづれと分くべくもあらずなまめかしき御けはひを、人やりならず飽かぬ心地して、
 「あひ思せよ。いと心憂くつらき人の御さま、見習ひたまふなよ」
 など、後瀬を契りて出でたまふ。我ながらあやしく夢のやうにおぼゆれど、なほつれなき人の御けしき、今一たび見果てむの心に、思ひのどめつつ、例の、出でて臥したまへり。

 弁参りて、
 「いとあやしく、中の宮は、いづくにかおはしますらむ」
 と言ふを、いと恥づかしく思ひかけぬ御心地に、「いかなりけむことにか」と思ひ臥したまへり。昨日のたまひしことを思し出でて、姫宮をつらしと思ひきこえたまふ。
 明けにける光につきてぞ、壁の中のきりぎりす這ひ出でたまへる。思すらむことのいといとほしければ、かたみにものも言はれたまはず。
 「ゆかしげなく、心憂くもあるかな。今より後も、心ゆるびすべくもあらぬ世にこそ」
 と思ひ乱れたまへり。
 弁はあなたに参りて、あさましかりける御心強さを聞きあらはして、「いとあまり深く、人憎かりけること」と、いとほしく思ひほれゐたり。
 「来し方のつらさは、なほ残りある心地して、よろづに思ひ慰めつるを、今宵なむ、まことに恥づかしく、身も投げつべき心地する。捨てがたく落としおきたてまつりたまへりけむ心苦しさを思ひきこゆる方こそ、また、ひたぶるに、身をもえ思ひ捨つまじけれ。かけかけしき筋は、いづ方にも思ひきこえじ。憂きもつらきも、かたがたに忘られたまふまじくなむ。
 宮などの、恥づかしげなく聞こえたまふめるを、同じくは心高く、と思ふ方ぞ異にものしたまふらむ、と心得果てつれば、いとことわりに恥づかしくて。また参りて、人びとに見えたてまつらむこともねたくなむ。よし、かくをこがましき身の上、また人にだに漏らしたまふな」
 と、怨じおきて、例よりも急ぎ出でたまひぬ。「誰が御ためもいとほしく」と、ささめきあへり。

 姫君も、「いかにしつることぞ、もしおろかなる心ものしたまはば」と、胸つぶれて心苦しければ、すべて、うちあはぬ人びとのさかしら、憎しと思す。さまざま思ひたまふに、御文あり。例よりはうれしとおぼえたまふも、かつはあやし。秋のけしきも知らず顔に、青き枝の、片枝いと濃く紅葉ぢたるを、
 「おなじ枝を分きて染めける山姫に
  いづれか深き色と問はばや」
 さばかり怨みつるけしきも、言少なにことそぎて、おし包みたまへるを、「そこはかとなくもてなしてやみなむとなめり」と見たまふも、心騷ぎて見る。
 かしかましく、「御返り」と言へば、「聞こえたまへ」と譲らむも、うたておぼえて、さすがに書きにくく思ひ乱れたまふ。
 「山姫の染むる心はわかねども
  移ろふ方や深きなるらむ」
 ことなしびに書きたまへるが、をかしく見えければ、なほえ怨じ果つまじくおぼゆ。
 「身を分けてなど、譲りたまふけしきは、たびたび見えしかど、うけひかぬにわびて構へたまへるなめり。そのかひなく、かくつれなからむもいとほしく、情けなきものに思ひおかれて、いよいよはじめの思ひかなひがたくやあらむ。
 とかく言ひ伝へなどすめる老い人の思はむところも軽々しく、とにかくに心を染めけむだに悔しく、かばかりの世の中を思ひ捨てむの心に、みづからもかなはざりけりと、人悪ろく思ひ知らるるを、まして、おしなべたる好き者のまねに、同じあたり返すがへす漕ぎめぐらむ、いと人笑へなる棚無し小舟めきたるべし」
 など、夜もすがら思ひ明かしたまひて、まだ有明の空もをかしきほどに、兵部卿宮の御方に参りたまふ。


 


 三条宮焼けにし後は、六条院にぞ移ろひたまへれば、近くては常に参りたまふ。宮も、思すやうなる御心地したまひけり。紛るることなくあらまほしき御住まひに、御前の前栽、他のには似ず、同じ花の姿も、木草のなびきざまも、ことに見なされて、遣水に澄める月の影さへ、絵に描きたるやうなるに、思ひつるもしるく起きおはしましけり。
 風につきて吹き来る匂ひの、いとしるくうち薫るに、ふとそれとうち驚かれて、御直衣たてまつり、乱れぬさまに引きつくろひて出でたまふ。
 階を昇りも果てず、ついゐたまへれば、「なほ、上に」などものたまはで、高欄によりゐたまひて、世の中の御物語聞こえ交はしたまふ。かのわたりのことをも、もののついでには思し出でて、「よろづに恨みたまふも、わりなしや。みづからの心にだにかなひがたきを」と思ふ思ふ、「さもおはせなむ」と思ひなるやうのあれば、例よりはまめやかに、あるべきさまなど申したまふ。
 明けぐれのほど、あやにくに霧りわたりて、空のけはひ冷やかなるに、月は霧に隔てられて、木の下も暗くなまめきたり。山里のあはれなるありさま思ひ出でたまふにや、
 「このころのほどは、かならず後らかしたまふな」
 と語らひたまふを、なほ、わづらはしがれば、
 「女郎花咲ける大野をふせぎつつ
  心せばくやしめを結ふらむ」
 と戯れたまふ。
 「霧深き朝の原の女郎花
  心を寄せて見る人ぞ見る
 なべてやは」
 など、ねたましきこゆれば、
 「あな、かしかまし」
 と、果て果ては腹立ちたまひぬ。
 年ごろかくのたまへど、人の御ありさまをうしろめたく思ひしに、「容貌なども見おとしたまふまじく推し量らるる、心ばせの近劣りするやうもや」などぞ、あやふく思ひわたりしを、「何ごとも口惜しくはものしたまふまじかめり」と思へば、かの、いとほしく、うちうちに思ひたばかりたまふありさまも違ふやうならむも、情けなきやうなるを、さりとて、さはたえ思ひ改むまじくおぼゆれば、譲りきこえて、「いづ方の恨みをも負はじ」など、下に思ひ構ふる心をも知りたまはで、心せばくとりなしたまふもをかしけれど、
 「例の、軽らかなる御心ざまに、もの思はせむこそ、心苦しかるべけれ」
 など、親方になりて聞こえたまふ。
 「よし、見たまへ。かばかり心にとまることなむ、まだなかりつる」
 など、いとまめやかにのたまへば、
 「かの心どもには、さもやとうちなびきぬべきけしきは見えずなむはべる。仕うまつりにくき宮仕えにこそはべるや」
 とて、おはしますべきやうなど、こまかに聞こえ知らせたまふ。


 二十八日の、彼岸の果てにて、吉き日なりければ、人知れず心づかひして、いみじく忍びて率てたてまつる。后の宮など聞こし召し出でては、かかる御ありきいみじく制しきこえたまへば、いとわづらはしきを、切に思したることなれば、さりげなくともて扱ふも、わりなくなむ。
 舟渡りなども所狭ければ、ことことしき御宿りなども、借りたまはず、そのわたりいと近き御庄の人の家に、いと忍びて、宮をば下ろしたてまつりたまひて、おはしぬ。見とがめたてまつるべき人もなけれど、宿直人はわづかに出でてありくにも、けしき知らせじとなるべし。
 「例の、中納言殿おはします」とて経営しあへり。君たちなまわづらはしく聞きたまへど、「移ろふ方異に匂はしおきてしかば」と、姫宮思す。中の宮は、「思ふ方異なめりしかば、さりとも」と思ひながら、心憂かりしのちは、ありしやうに姉宮をも思ひきこえたまはず、心おかれてものしたまふ。
 何やかやと御消息のみ聞こえ通ひて、いかなるべきことにかと、人びとも心苦しがる。
 宮をば、御馬にて、暗き紛れにおはしまさせたまひて、弁召し出でて、
 「ここもとに、ただ一言聞こえさすべきことなむはべるを、思し放つさま見たてまつりてしに、いと恥づかしけれど、ひたや籠もりにては、えやむまじきを、今しばし更かしてを、ありしさまには導きたまひてむや」
 など、うらもなく語らひたまへば、「いづ方にも同じことにこそは」など思ひて参りぬ。

 「さなむ」と聞こゆれば、「さればよ、思ひ移りにけり」と、うれしくて心落ちゐて、かの入りたまふべき道にはあらぬ廂の障子を、いとよくさして、対面したまへり。
 「一言聞こえさすべきが、また人聞くばかりののしらむはあやなきを、いささか開けさせたまへ。いといぶせし」
 と聞こえさせたまへど、
 「いとよく聞こえぬべし」
 とて、開けたまはず。「今はと移ろひなむを、ただならじとて言ふべきにや。何かは、例ならぬ対面にもあらず、人憎くいらへで、夜も更かさじ」など思ひて、かばかりも出でたまへるに、障子の中より御袖を捉へて引き寄せて、いみじく怨むれば、「いとうたてもあるわざかな。何に聞き入れつらむ」と、悔しくむつかしけれど、「こしらへて出だしてむ」と思して、異人と思ひわきたまふまじきさまに、かすめつつ語らひたまへる心ばへなど、いとあはれなり。
 宮は、教へきこえつるままに、一夜の戸口に寄りて、扇を鳴らしたまへば、弁も参りて導ききこゆ。さきざきも馴れにける道のしるべ、をかしと思しつつ入りたまひぬるをも、姫宮は知りたまはで、「こしらへ入れてむ」と思したり。
 をかしくもいとほしくもおぼえて、うちうちに心も知らざりける恨みおかれむも、罪さりどころなき心地すべければ、
 「宮の慕ひたまひつれば、え聞こえいなびで、ここにおはしつる。音もせでこそ、紛れたまひぬれ。このさかしだつめる人や、語らはれたてまつりぬらむ。中空に人笑へにもなりはべりぬべきかな」
 とのたまふに、今すこし思ひよらぬことの、目もあやに心づきなくなりて、
 「かく、よろづにめづらかなりける御心のほども知らで、言ふかひなき心幼さも見えたてまつりにけるおこたりに、思しあなづるにこそは」
 と、言はむ方なく思ひたまへり。

 「今は言ふかひなし。ことわりは、返すがへす聞こえさせてもあまりあらば、抓みもひねらせたまへ。やむごとなき方に思しよるめるを、宿世などいふめるもの、さらに心にかなはぬものにはべるめれば、かの御心ざしは異にはべりけるを、いとほしく思ひたまふるに、かなはぬ身こそ、置き所なく心憂くはべりけれ。
 なほ、いかがはせむに思し弱りね。この御障子の固めばかり、いと強きも、まことにもの清く推し量りきこゆる人もはべらじ。しるべと誘ひたまへる人の御心にも、まさにかく胸ふたがりて、明かすらむとは、思しなむや」
 とて、障子をも引き破りつべきけしきなれば、言はむ方なく心づきなけれど、こしらへむと思ひしづめて、
 「こののたまふ筋、宿世といふらむ方は、目にも見えぬことにて、いかにもいかにも思ひたどられず。知らぬ涙のみ霧りふたがる心地してなむ。こはいかにもてなしたまふぞと、夢のやうにあさましきに、後の世の例に言ひ出づる人もあらば、昔物語などに、をこめきて作り出でたるもののたとひにこそは、なりぬべかめれ。かく思し構ふる心のほどをも、いかなりけるとかは推し量りたまはむ。
 なほ、いとかく、おどろおどろしく心憂く、な取り集め惑はしたまひそ。心より外にながらへば、すこし思ひのどまりて聞こえむ。心地もさらにかきくらすやうにて、いと悩ましきを、ここにうち休まむ。許したまへ」
 と、いみじくわびたまへば、さすがにことわりをいとよくのたまふが、心恥づかしくらうたくおぼえて、
 「あが君、御心に従ふことのたぐひなければこそ、かくまでかたくなしくなりはべれ。言ひ知らず憎く疎ましきものに思しなすめれば、聞こえむ方なし。いとど世に跡とむべくなむおぼえぬ」とて、「さらば、隔てながらも、聞こえさせむ。ひたぶるに、なうち捨てさせたまひそ」
 とて、許したてまつりたまへれば、這ひ入りて、さすがに、入りも果てたまはぬを、いとあはれと思ひて、
 「かばかりの御けはひを慰めにて、明かしはべらむ。ゆめ、ゆめ」
 と聞こえて、うちもまどろまず、いとどしき水の音に目も覚めて、夜半のあらしに、山鳥の心地して、明かしかねたまふ。

 例の、明け行くけはひに、鐘の声など聞こゆ。「いぎたなくて出でたまふべきけしきもなきよ」と、心やましく、声づくりたまふも、げにあやしきわざなり。
 「しるべせし我やかへりて惑ふべき
  心もゆかぬ明けぐれの道
 かかる例、世にありけむや」
 とのたまへば、
 「かたがたにくらす心を思ひやれ
  人やりならぬ道に惑はば」
 と、ほのかにのたまふを、いと飽かぬ心地すれば、
 「いかに、こよなく隔たりてはべるめれば、いとわりなうこそ」
 など、よろづに怨みつつ、ほのぼのと明けゆくほどに、昨夜の方より出でたまふなり。いとやはらかに振る舞ひなしたまへる匂ひなど、艶なる御心げさうには、言ひ知らずしめたまへり。ねび人どもは、いとあやしく心得がたく思ひ惑はれけれど、「さりとも悪しざまなる御心あらむやは」と慰めたり。
 暗きほどにと、急ぎ帰りたまふ。道のほども、帰るさはいとはるけく思されて、心安くもえ行き通はざらむことの、かねていと苦しきを、「夜をや隔てむ」と思ひ悩みたまふなめり。まだ人騒がしからぬ朝のほどにおはし着きぬ。廊に御車寄せて降りたまふ。異やうなる女車のさまして隠ろへ入りたまふに、皆笑ひたまひて、
 「おろかならぬ宮仕への御心ざしとなむ思ひたまふる」
 と申したまふ。しるべのをこがましさも、いと妬くて、愁へもきこえたまはず。

 宮は、いつしかと御文たてまつりたまふ。山里には、誰も誰もうつつの心地したまはず、思ひ乱れたまへり。「さまざまに思し構へけるを、色にも出だしたまはざりけるよ」と、疎ましくつらく、姉宮をば思ひきこえたまひて、目も見合はせたてまつりたまはず。知らざりしさまをも、さはさはとは、えあきらめたまはで、ことわりに心苦しく思ひきこえたまふ。
 人びとも、「いかにはべりしことにか」など、御けしき見たてまつれど、思しほれたるやうにて、頼もし人のおはすれば、「あやしきわざかな」と思ひあへり。御文もひき解きて見せたてまつりたまへど、さらに起き上がりたまはねば、「いと久しくなりぬ」と御使わびけり。
 「世の常に思ひやすらむ露深き
  道の笹原分けて来つるも」
 書き馴れたまへる墨つきなどの、ことさらに艶なるも、おほかたにつけて見たまひしは、をかしくおぼえしを、うしろめたくもの思はしくて、我さかし人にて聞こえむも、いとつつましければ、まめやかに、あるべきやうを、いみじくせめて書かせたてまつりたまふ。
 紫苑色の細長一襲に、三重襲の袴具して賜ふ。御使苦しげに思ひたれば、包ませて、供なる人になむ贈らせたまふ。ことことしき御使にもあらず、例たてまつれたまふ上童なり。ことさらに、人にけしき漏らさじと思しければ、「昨夜のさかしがりし老い人のしわざなりけり」と、ものしくなむ、聞こしめしける。


 
 その夜も、かのしるべ誘ひたまへど、「冷泉院にかならずさぶらふべきことはべれば」とて、とまりたまひぬ。「例の、ことに触れて、すさまじげに世をもてなす」と、憎く思す。
 「いかがはせむ。本意ならざしりこととて、おろかにやは」と思ひ弱りたまひて、御しつらひなどうちあはぬ住み処なれど、さる方にをかしくしなして待ちきこえたまひけり。はるかなる御中道を、急ぎおはしましたりけるも、うれしきわざなるぞ、かつはあやしき。
 正身は、我にもあらぬさまにて、つくろはれたてまつりたまふままに、濃き御衣のいたく濡るれば、さかし人もうち泣きたまひつつ、
 「世の中に久しくもとおぼえはべらねば、明け暮れのながめにも、ただ御ことをのみなむ、心苦しく思ひきこゆるに、この人びとも、よかるべきさまのことと、聞きにくきまで言ひ知らすめれば、年経たる心どもには、さりとも、世のことわりをも知りたらむ。
 はかばかしくもあらぬ心一つを立てて、かくてのみやは、見たてまつらむ、と思ひなるやうもありしかど、ただ今かく、思ひもあへず、恥づかしきことどもに乱れ思ふべくは、さらに思ひかけはべらざりしに、これや、げに、人の言ふめる逃れがたき御契りなりけむ。いとこそ、苦しけれ。すこし思し慰みなむに、知らざりしさまをも聞こえむ。憎しと、な思し入りそ。罪もぞ得たまふ」
 と、御髪をなでつくろひつつ聞こえたまへば、いらへもしたまはねど、さすがに、かく思しのたまふが、げに、うしろめたく悪しかれとも思しおきてじを、人笑へに見苦しきこと添ひて、見扱はれたてまつらむがいみじさを、よろづに思ひゐたまへり。
 さる心もなく、あきれたまへりしけはひだに、なべてならずをかしかりしを、まいてすこし世の常になよびたまへるは、御心ざしもまさるに、たはやすく通ひたまはざらむ山道のはるけさも、胸痛きまで思して、心深げに語らひ頼めたまへど、あはれともいかにとも思ひ分きたまはず。
 言ひ知らずかしづくものの姫君も、すこし世の常の人げ近く、親せうとなどいひつつ、人のたたずまひをも見馴れたまへるは、ものの恥づかしさも、恐ろしさもなのめにやあらむ。家にあがめきこゆる人こそなけれ、かく山深き御あたりなれば、人に遠く、もの深くてならひたまへる心地に、思ひかけぬありさまの、つつましく恥づかしく、何ごとも世の人に似ず、あやしく田舎びたらむかし。はかなき御いらへにても言ひ出でむ方なくつつみたまへり。さるは、この君しもぞ、らうらうじくかどある方の匂ひはまさりたまへる。

 「三日にあたる夜、餅なむ参る」と人びとの聞こゆれば、「ことさらにさるべき祝ひのことにこそは」と思して、御前にてせさせたまふも、たどたどしく、かつは大人になりておきてたまふも、人の見るらむこと憚られて、面うち赤めておはするさま、いとをかしげなり。このかみ心にや、のどかに気高きものから、人のためあはれに情け情けしくぞおはしける。
 中納言殿より、
 「昨夜、参らむと思たまへしかど、宮仕への労も、しるしなげなる世に、思たまへ恨みてなむ。
 今宵は雑役もやと思うたまふれど、宿直所のはしたなげにはべりし乱り心地、いとど安からで、やすらはれはべり」
 と、陸奥紙におひつぎ書きたまひて、まうけのものども、こまやかに、縫ひなどもせざりける、いろいろおし巻きなどしつつ、御衣櫃あまた懸籠入れて、老い人のもとに、「人びとの料に」とて賜へり。宮の御方にさぶらひけるに従ひて、いと多くもえ取り集めたまはざりけるにやあらむ、ただなる絹綾など、下には入れ隠しつつ、御料とおぼしき二領。いときよらにしたるを、単衣の御衣の袖に、古代のことなれど、
 「小夜衣着て馴れきとは言はずとも
  かことばかりはかけずしもあらじ」
 と、脅しきこえたまへり。
 こなたかなた、ゆかしげなき御ことを、恥づかしくいとど見たまひて、御返りにもいかがは聞こえむと、思しわづらふほど、御使かたへは、逃げ隠れにけり。あやしき下人をひかへてぞ、御返り賜ふ。
 「隔てなき心ばかりは通ふとも
  馴れし袖とはかけじとぞ思ふ」
 心あわたたしく思ひ乱れたまへる名残に、いとどなほなほしきを、思しけるままと、待ち見たまふ人は、ただあはれにぞ思ひなされたまふ。


 


 宮は、その夜、内裏に参りたまひて、えまかでたまふまじげなるを、人知れず御心も空にて思し嘆きたるに、中宮、
 「なほ、かく独りおはしまして、世の中に、好いたまへる御名のやうやう聞こゆる、なほ、いと悪しきことなり。何事ももの好ましく、立てたる御心なつかひたまひそ。上もうしろめたげに思しのたまふ」
 と、里住みがちにおはしますを諌めきこえたまへば、いと苦しと思して、御宿直所に出でたまひて、御文書きてたてまつれたまへる名残も、いたくうち眺めておはしますに、中納言の君参りたまへり。
 そなたの心寄せと思せば、例よりもうれしくて、
 「いかがすべき。いとかく暗くなりぬめるを、心も乱れてなむ」
 と、嘆かしげに思したり。「よく御けしきを見たてまつらむ」と思して、
 「日ごろ経て、かく参りたまへるを、今宵さぶらはせたまはで、急ぎまかでたまひなむ、いとどよろしからぬことにや思しきこえさせたまはむ。台盤所の方にて承りつれば、人知れず、わづらはしき宮仕へのしるしに、あいなき勘当にやはべらむと、顔の色違ひはべりつる」
 と申したまへば、
 「いと聞きにくくぞ思しのたまふや。多くは人のとりなすことなるべし。世に咎めあるばかりの心は、何事にかは、つかふらむ。所狭き身のほどこそ、なかなかなるわざなりけれ」
 とて、まことに厭はしくさへ思したり。
 いとほしく見たてまつりたまひて、
 「同じ御騒がれにこそはおはすなれ。今宵の罪には代はりきこえさせて、身をもいたづらになしはべりなむかし。木幡の山に馬はいかがはべるべき。いとどものの聞こえや障り所なからむ」
 と聞こえたまへば、ただ暮れに暮れて更けにける夜なれば、思しわびて、御馬にて出でたまひぬ。
 「御供には、なかなか仕うまつらじ。御後見を」
 とて、この君は内裏にさぶらひたまふ。


 中宮の御方に参りたまひつれば、
 「宮は出でたまひぬなり。あさましくいとほしき御さまかな。いかに人見たてまつるらむ。上聞こし召しては、諌めきこえぬが言ふかひなき、と思しのたまふこそわりなけれ」
 とのたまふ。あまた宮たちの、かくおとなび整ひたまへど、大宮は、いよいよ若くをかしきけはひなむ、まさりたまひける。
 「女一の宮も、かくぞおはしますべかめる。いかならむ折に、かばかりにてももの近く、御声をだに聞きたてまつらむ」と、あはれとおぼゆ。「好いたる人の、おぼゆまじき心つかふらむも、かうやうなる御仲らひの、さすがに気遠からず入り立ちて、心にかなはぬ折のことならむかし。
 わが心のやうに、ひがひがしき心のたぐひやは、また世にあんべかめる。それに、なほ動きそめぬるあたりは、えこそ思ひ絶えね」
 など思ひゐたまへる。さぶらふ限りの女房の容貌心ざま、いづれとなく悪ろびたるなく、めやすくとりどりにをかしきなかに、あてにすぐれて目にとまるあれど、さらにさらに乱れそめじの心にて、いときすくにもてなしたまへり。ことさらに見えしらがふ人もあり。
 おほかた恥づかしげに、もてしづめたまへるあたりなれば、上べこそ心ばかりもてしづめたれ、心々なる世の中なりければ、色めかしげにすすみたる下の心漏りて見ゆるもあるを、「さまざまにをかしくも、あはれにもあるかな」と、立ちてもゐても、ただ常なきありさまを思ひありきたまふ。

 かしこには、中納言殿のことことしげに言ひなしたまへりつるを、夜更くるまでおはしまさで、御文のあるを、「さればよ」と胸つぶれておはするに、夜中近くなりて、荒ましき風のきほひに、いともなまめかしくきよらにて匂ひおはしたるも、いかがおろかにおぼえたまはむ。
 正身も、いささかうちなびきて、思ひ知りたまふことあるべし。いみじくをかしげに盛りと見えて、引きつくろひたまへるさまは、「ましてたぐひあらじはや」とおぼゆ。
 さばかりよき人を多く見たまふ御目にだに、けしうはあらずと、容貌よりはじめて、多く近まさりしたりと思さるれば、山里の老い人どもは、まして口つき憎げにうち笑みつつ、
 「かくあたらしき御ありさまを、なのめなる際の人の見たてまつりたまはましかば、いかに口惜しからまし。思ふやうなる御宿世」
 と聞こえつつ、姫宮の御心を、あやしくひがひがしくもてなしたまふを、もどき口ひそみきこゆ。
 盛り過ぎたるさまどもに、あざやかなる花の色々、似つかはしからぬをさし縫ひつつ、ありつかずとりつくろひたる姿どもの、罪許されたるもなきを見わたされたまひて、姫宮、
 「我もやうやう盛り過ぎぬる身ぞかし。鏡を見れば、痩せ痩せになりもてゆく。おのがじしは、この人どもも、我悪しとやは思へる。うしろでは知らず顔に、額髪をひきかけつつ、色どりたる顔づくりをよくしてうち振る舞ふめり。わが身にては、まだいとあれがほどにはあらず。目も鼻も直しとおぼゆるは、心のなしにやあらむ」
 とうしろめたくて、見出だして臥したまへり。「恥づかしげならむ人に見えむことは、いよいよかたはらいたく、今一二年あらば、衰へまさりなむ。はかなげなる身のありさまを」と、御手つきの細やかにか弱く、あはれなるをさし出でても、世の中を思ひ続けたまふ。


 
 宮は、ありがたかりつる御暇のほどを思しめぐらすに、「なほ、心やすかるまじきことにこそは」と、胸ふたがりておぼえたまひけり。大宮の聞こえたまひしさまなど語りきこえたまひて、
 「思ひながらとだえあらむを、いかなるにか、と思すな。夢にてもおろかならむに、かくまでも参り来まじきを。心のほどやいかがと疑ひて、思ひ乱れたまはむが心苦しさに、身を捨ててなむ。常にかくはえ惑ひありかじ。さるべきさまにて、近く渡したてまつらむ」
 と、いと深く聞こえたまへど、「絶え間あるべく思さるらむは、音に聞きし御心のほどしるべきにや」と心おかれて、わが御ありさまから、さまざまもの嘆かしくてなむありける。
 明け行くほどの空に、妻戸押し開けたまひて、もろともに誘ひ出でて見たまへば、霧りわたれるさま、所からのあはれ多く添ひて、例の、柴積む舟のかすかに行き交ふ跡の白波、「目馴れずもある住まひのさまかな」と、色なる御心には、をかしく思しなさる。
 山の端の光やうやう見ゆるに、女君の御容貌のまほにうつくしげにて、「限りなくいつき据ゑたらむ姫宮も、かばかりこそはおはすべかめれ。思ひなしの、わが方ざまのいといつくしきぞかし。こまやかなる匂ひなど、うちとけて見まほしく」、なかなかなる心地す。
 水の音なひなつかしからず、宇治橋のいともの古りて見えわたさるるなど、霧晴れゆけば、いとど荒ましき岸のわたりを、「かかる所に、いかで年を経たまふらむ」など、うち涙ぐまれたまへるを、いと恥づかしと聞きたまふ。
 男の御さまの、限りなくなまめかしくきよらにて、この世のみならず契り頼めきこえたまへば、「思ひ寄らざりしこととは思ひながら、なかなか、かの目馴れたりし中納言の恥づかしさよりは」とおぼえたまふ。
 「かれは思ふ方異にて、いといたく澄みたるけしきの、見えにくく恥づかしげなりしに、よそに思ひきこえしは、ましてこよなくはるかに、一行書き出でたまふ御返り事だに、つつましくおぼえしを、久しく途絶えたまはむは、心細からむ」
 と思ひならるるも、我ながらうたて、と思ひ知りたまふ。

 人びといたく声づくり催しきこゆれば、京におはしまさむほど、はしたなからぬほどにと、いと心あわたたしげにて、心より外ならむ夜がれを、返す返すのたまふ。
 「中絶えむものならなくに橋姫の
  片敷く袖や夜半に濡らさむ」
 出でがてに、立ち返りつつやすらひたまふ。
 「絶えせじのわが頼みにや宇治橋の
  遥けきなかを待ちわたるべき」
 言には出でねど、もの嘆かしき御けはひは、限りなく思されけり。
 若き人の御心にしみぬべく、たぐひすくなげなる朝けの御姿を見送りて、名残とまれる御移り香なども、人知れずものあはれなるは、されたる御心かな。今朝ぞ、もののあやめ見ゆるほどにて、人びと覗きて見たてまつる。
 「中納言殿は、なつかしく恥づかしげなるさまぞ、添ひたまへりける。思ひなしの、今ひと際にや、この御さまは、いとことに」
 など、めできこゆ。
 道すがら、心苦しかりつる御けしきを思し出でつつ、立ちも返りなまほしく、さま悪しきまで思せど、世の聞こえを忍びて帰らせたまふほどに、えたはやすくも紛れさせたまはず。
 御文は明くる日ごとに、あまた返りづつたてまつらせたまふ。「おろかにはあらぬにや」と思ひながら、おぼつかなき日数の積もるを、「いと心尽くしに見じと思ひしものを、身にまさりて心苦しくもあるかな」と、姫宮は思し嘆かるれど、いとどこの君の思ひ沈みたまはむにより、つれなくもてなして、「みづからだに、なほかかること思ひ加へじ」と、いよいよ深く思す。
 中納言の君も、「待ち遠にぞ思すらむかし」と思ひやりて、我があやまちにいとほしくて、宮を聞こえおどろかしつつ、絶えず御けしきを見たまふに、いといたく思ほし入れたるさまなれば、さりともと、うしろやすかりけり。

 九月十日のほどなれば、野山のけしきも思ひやらるるに、時雨めきてかきくらし、空のむら雲恐ろしげなる夕暮、宮いとど静心なく眺めたまひて、いかにせむと、御心一つを出で立ちかねたまふ。折推し量りて、参りたまへり。「ふるの山里いかならむ」と、おどろかしきこえたまふ。いとうれしと思して、もろともに誘ひたまへば、例の、一つ御車にておはす。
 分け入りたまふままにぞ、まいて眺めたまふらむ心のうち、いとど推し量られたまふ。道のほども、ただこのことの心苦しきを語らひきこえたまふ。
 たそかれ時のいみじく心細げなるに、雨は冷やかにうちそそきて、秋果つるけしきのすごきに、うちしめり濡れたまへる匂ひどもは、世のものに似ず艶にて、うち連れたまへるを、山賤どもは、いかが心惑ひもせざらむ。
 女ばら、日ごろうちつぶやきつる、名残なく笑みさかえつつ、御座ひきつくろひなどす。京に、さるべき所々に行き散りたる娘ども、姪だつ人、二、三人尋ね寄せて参らせたり。年ごろあなづりきこえける心浅き人びと、めづらかなる客人と思ひ驚きたり。
 姫宮も、折うれしく思ひきこえたまふに、さかしら人の添ひたまへるぞ、恥づかしくもありぬべく、なまわづらはしく思へど、心ばへののどかにもの深くものしたまふを、「げに、人はかくはおはせざりけり」と見あはせたまふに、ありがたしと思ひ知らる。

 宮を、所につけては、いとことにかしづき入れたてまつりて、この君は、主人方に心やすくもてなしたまふものから、まだ客人居のかりそめなる方に出だし放ちたまへれば、いとからしと思ひたまへり。怨みたまふもさすがにいとほしくて、物越に対面したまふ。
 「戯れにくくもあるかな。かくてのみや」と、いみじく怨みきこえたまふ。やうやうことわり知りたまひにたれど、人の御上にても、ものをいみじく思ひ沈みたまひて、いとどかかる方を憂きものに思ひ果てて、
 「なほ、ひたぶるに、いかでかくうちとけじ。あはれと思ふ人の御心も、かならずつらしと思ひぬべきわざにこそあめれ。我も人も見おとさず、心違はでやみにしがな」
 と思ふ心づかひ深くしたまへり。
 宮の御ありさまなども問ひきこえたまへば、かすめつつ、「さればよ」とおぼしくのたまへば、いとほしくて、思したる御さま、けしきを見ありくやうなど、語りきこえたまふ。
 例よりは心うつくしく語らひて、
 「なほ、かくもの思ひ加ふるほど、すこし心地も静まりて聞こえむ」
 とのたまふ。人憎く気遠くは、もて離れぬものから、「障子の固めもいと強し。しひて破らむをば、つらくいみじからむ」と思したれば、「思さるるやうこそはあらめ。軽々しく異ざまになびきたまふこと、はた、世にあらじ」と、心のどかなる人は、さいへど、いとよく思ひ静めたまふ。
 「ただ、いとおぼつかなく、もの隔てたるなむ、胸あかぬ心地するを。ありしやうにて聞こえむ」
 とせめたまへど、
 「常よりもわが面影に恥づるころなれば、疎ましと見たまひてむも、さすがに苦しきは、いかなるにか」
 と、ほのかにうち笑ひたまへるけはひなど、あやしくなつかしくおぼゆ。
 「かかる御心にたゆめられたてまつりて、つひにいかになるべき身にか」
 と嘆きがちにて、例の、遠山鳥にて明けぬ。
 宮は、まだ旅寝なるらむとも思さで、
 「中納言の、主人方に心のどかなるけしきこそうらやましけれ」
 とのたまへば、女君、あやしと聞きたまふ。

 わりなくておはしまして、ほどなく帰りたまふが、飽かず苦しきに、宮ものをいみじく思したり。御心のうちを知りたまはねば、女方には、「またいかならむ。人笑へにや」と思ひ嘆きたまへば、「げに、心尽くしに苦しげなるわざかな」と見ゆ。
 京にも、隠ろへて渡りたまふべき所もさすがになし。六条の院には、左の大殿、片つ方には住みたまひて、さばかりいかでと思したる六の君の御ことを思しよらぬに、なま恨めしと思ひきこえたまふべかめり。好き好きしき御さまと、許しなくそしりきこえたまひて、内裏わたりにも愁へきこえたまふべかめれば、いよいよ、おぼえなくて出だし据ゑたまはむも、憚ることいと多かり。
 なべてに思す人の際は、宮仕への筋にて、なかなか心やすげなり。さやうの並々には思されず、「もし世の中移りて、帝后の思しおきつるままにもおはしまさば、人より高きさまにこそなさめ」など、ただ今は、いとはなやかに、心にかかりたまへるままに、もてなさむ方なく苦しかりけり。
 中納言は、三条の宮造り果てて、「さるべきさまにて渡したてまつらむ」と思す。
 げに、ただ人は心やすかりけり。かくいと心苦しき御けしきながら、やすからず忍びたまふからに、かたみに思ひ悩みたまふべかめるも、心苦しくて、「忍びてかく通ひたまふよしを、中宮などにも漏らし聞こし召させて、しばしの御騒がれはいとほしくとも、女方の御ためは、咎もあらじ。いとかく夜をだに明かしたまはぬ苦しげさよ。いみじくもてなしてあらせたてまつらばや」
 など思ひて、あながちにも隠ろへず。
 「更衣など、はかばかしく誰れかは扱ふらむ」など思して、御帳の帷、壁代など、三条の宮造り果てて、渡りたまはむ心まうけに、しおかせたまへるを、「まづ、さるべき用なむ」など、いと忍びて聞こえたまひて、たてまつれたまふ。さまざまなる女房の装束、御乳母などにものたまひつつ、わざともせさせたまひけり。


 


 十月朔日ころ、網代もをかしきほどならむと、そそのかしきこえたまひて、紅葉御覧ずべく申したまふ。親しき宮人ども、殿上人の睦ましく思す限り、「いと忍びて」と思せど、所狭き御勢なれば、おのづからこと広ごりて、左の大殿の宰相中将参りたまふ。さては、この中納言殿ばかりぞ、上達部は仕うまつりたまふ。ただ人は多かり。
 かしこには、「論なく、中宿りしたまはむを、さるべきさまに思せ。さきの春も、花見に尋ね参り来しこれかれ、かかるたよりにことよせて、時雨の紛れに見たてまつり表すやうもぞはべる」など、こまやかに聞こえたまへり。
 御簾掛け替へ、ここかしこかき払ひ、岩隠れに積もれる紅葉の朽葉すこしはるけ、遣水の水草払はせなどぞしたまふ。よしあるくだもの、肴など、さるべき人などもたてまつれたまへり。かつはゆかしげなけれど、「いかがはせむ。これもさるべきにこそは」と思ひ許して、心まうけしたまへり。
 舟にて上り下り、おもしろく遊びたまふも聞こゆ。ほのぼのありさま見ゆるを、そなたに立ち出でて、若き人びと見たてまつる。正身の御ありさまは、それと見わかねども、紅葉を葺きたる舟の飾りの、錦と見ゆるに、声々吹き出づる物の音ども、風につけておどろおどろしきまでおぼゆ。
 世人のなびきかしづきたてまつるさま、かく忍びたまへる道にも、いとことにいつくしきを見たまふにも、「げに、七夕ばかりにても、かかる彦星の光をこそ待ち出でめ」とおぼえたり。
 文作らせたまふべき心まうけに、博士などもさぶらひけり。たそかれ時に、御舟さし寄せて遊びつつ文作りたまふ。紅葉を薄く濃くかざして、「海仙楽」といふものを吹きて、おのおの心ゆきたるけしきなるに、宮は、近江の海の心地して、遠方人の恨みいかにとのみ、御心そらなり。時につけたる題出だして、うそぶき誦じあへり。
 人の迷ひすこししづめておはせむと、中納言も思して、さるべきやうに聞こえたまふほどに、内裏より、中宮の仰せ言にて、宰相の御兄の衛門督、ことことしき随身ひき連れて、うるはしきさまして参りたまへり。かうやうの御ありきは、忍びたまふとすれど、おのづからこと広ごりて、後の例にもなるわざなるを、重々しき人数あまたもなくて、にはかにおはしましにけるを、聞こしめしおどろきて、殿上人あまた具して参りたるに、はしたなくなりぬ。宮も中納言も、苦しと思して、物の興もなくなりぬ。御心のうちをば知らず、酔ひ乱れ遊び明かしつ。


 今日は、かくてと思すに、また、宮の大夫、さらぬ殿上人など、あまたたてまつりたまへり。心あわたたしく口惜しくて、帰りたまはむそらなし。かしこには御文をぞたてまつれたまふ。をかしやかなることもなく、いとまめだちて、思しけることどもを、こまごまと書き続けたまへれど、「人目しげく騒がしからむに」とて、御返りなし。
 「数ならぬありさまにては、めでたき御あたりに交じらはむ、かひなきわざかな」と、いとど思し知りたまふ。よそにて隔たる月日は、おぼつかなさもことわりに、さりともなど慰めたまふを、近きほどにののしりおはして、つれなく過ぎたまひなむ、つらくも口惜しくも思ひ乱れたまふ。
 宮は、まして、いぶせくわりなしと思すこと、限りなし。網代の氷魚も心寄せたてまつりて、いろいろの木の葉にかきまぜもてあそぶを、下人などはいとをかしきことに思へれば、人に従ひつつ、心ゆく御ありきに、みづからの御心地は、胸のみつとふたがりて、空をのみ眺めたまふに、この古宮の梢は、いとことにおもしろく、常磐木にはひ混じれる蔦の色なども、もの深げに見えて、遠目さへすごげなるを、中納言の君も、「なかなか頼めきこえけるを、憂はしきわざかな」とおぼゆ。
 去年の春、御供なりし君たちは、花の色を思ひ出でて、後れてここに眺めたまふらむ心細さを言ふ。かく忍び忍びに通ひたまふと、ほの聞きたるもあるべし。心知らぬも混じりて、おほかたにとやかくやと、人の御上は、かかる山隠れなれど、おのづから聞こゆるものなれば、
 「いとをかしげにこそものしたまふなれ」
 「箏の琴上手にて、故宮の明け暮れ遊びならはしたまひければ」
 など、口々言ふ。
 宰相の中将、
 「いつぞやも花の盛りに一目見し
  木のもとさへや秋は寂しき」
 主人方と思ひて言へば、中納言、
 「桜こそ思ひ知らすれ咲き匂ふ
  花も紅葉も常ならぬ世を」
 衛門督、
 「いづこより秋は行きけむ山里の
  紅葉の蔭は過ぎ憂きものを」
 宮の大夫、
 「見し人もなき山里の岩垣に
  心長くも這へる葛かな」
 中に老いしらひて、うち泣きたまふ。親王の若くおはしける世のことなど、思ひ出づるなめり。
 宮、
 「秋はてて寂しさまさる木のもとを
  吹きな過ぐしそ峰の松風」
 とて、いといたく涙ぐみたまへるを、ほのかに知る人は、
 「げに、深く思すなりけり。今日のたよりを過ぐしたまふ心苦しさ」
 と見たてまつる人あれど、ことことしく引き続きて、えおはしまし寄らず。作りける文のおもしろき所々うち誦じ、大和歌もことにつけて多かれど、かうやうの酔ひの紛れに、ましてはかばかしきことあらむやは。片端書きとどめてだに見苦しくなむ。


 
 かしこには、過ぎたまひぬるけはひを、遠くなるまで聞こゆる前駆の声々、ただならずおぼえたまふ。心まうけしつる人びとも、いと口惜しと思へり。姫宮は、まして、
 「なほ、音に聞く月草の色なる御心なりけり。ほのかに人の言ふを聞けば、男といふものは、虚言をこそいとよくすなれ。思はぬ人を思ふ顔にとりなす言の葉多かるものと、この人数ならぬ女ばらの、昔物語に言ふを、さるなほなほしきなかにこそは、けしからぬ心あるもまじるらめ。
 何ごとも筋ことなる際になりぬれば、人の聞き思ふことつつましく、所狭かるべきものと思ひしは、さしもあるまじきわざなりけり。あだめきたまへるやうに、故宮も聞き伝へたまひて、かやうに気近きほどまでは、思し寄らざりしものを。あやしきまで心深げにのたまひわたり、思ひの外に見たてまつるにつけてさへ、身の憂さを思ひ添ふるが、あぢきなくもあるかな。
 かく見劣りする御心を、かつはかの中納言も、いかに思ひたまふらむ。ここにもことに恥づかしげなる人はうち混じらねど、おのおの思ふらむが、人笑へにをこがましきこと」
 と思ひ乱れたまふに、心地も違ひて、いと悩ましくおぼえたまふ。
 正身は、たまさかに対面したまふ時、限りなく深きことを頼め契りたまひつれば、「さりとも、こよなうは思し変らじ」と、「おぼつかなきも、わりなき障りこそは、ものしたまふらめ」と、心のうちに思ひ慰めたまふかたあり。
 ほど経にけるが思ひ焦られたまはぬにしもあらぬに、なかなかにてうち過ぎたまひぬるを、つらくも口惜しくも思ほゆるに、いとどものあはれなり。忍びがたき御けしきなるを、
 「人なみなみにもてなして、例の人めきたる住まひならば、かうやうに、もてなしたまふまじきを」
 など、姉宮は、いとどしくあはれと見たてまつりたまふ。

 「我も世にながらへば、かうやうなること見つべきにこそはあめれ。中納言の、とざまかうざまに言ひありきたまふも、人の心を見むとなりけり。心一つにもて離れて思ふとも、こしらへやる限りこそあれ。ある人のこりずまに、かかる筋のことをのみ、いかでと思ひためれば、心より外に、つひにもてなされぬべかめり。これこそは、返す返す、さる心して世を過ぐせ、とのたまひおきしは、かかることもやあらむの諌めなりけり。
 さもこそは、憂き身どもにて、さるべき人にも後れたてまつらめ。やうのものと人笑へなることを添ふるありさまにて、亡き御影をさへ悩ましたてまつらむがいみじさなるを、我だに、さるもの思ひに沈まず、罪などいと深からぬさきに、いかで亡くなりなむ」
 と思し沈むに、心地もまことに苦しければ、物もつゆばかり参らず、ただ、亡からむ後のあらましごとを、明け暮れ思ひ続けたまふにも、心細くて、この君を見たてまつりたまふも、いと心苦しく、
 「我にさへ後れたまひて、いかにいみじく慰む方なからむ。あたらしくをかしきさまを、明け暮れの見物にて、いかで人びとしくも見なしたてまつらむ、と思ひ扱ふをこそ、人知れぬ行く先の頼みにも思ひつれ、限りなき人にものしたまふとも、かばかり人笑へなる目を見てむ人の、世の中に立ちまじり、例の人ざまにて経たまはむは、たぐひすくなく心憂からむ」
 など思し続くるに、「いふかひもなく、この世にはいささか思ひ慰む方なくて、過ぎぬべき身どもなりけり」と心細く思す。

 宮は、立ち返り、例のやうに忍びてと出で立ちたまひけるを、内裏に、
 「かかる御忍びごとにより、山里の御ありきも、ゆくりかに思し立つなりけり。軽々しき御ありさまと、世人も下にそしり申すなり」
 と、衛門督の漏らし申したまひければ、中宮も聞こし召し嘆き、主上もいとど許さぬ御けしきにて、
 「おほかた心にまかせたまへる御里住みの悪しきなり」
 と、厳しきことども出で来て、内裏につとさぶらはせたてまつりたまふ。左の大臣殿の六の君を、うけひかず思したることなれど、おしたちて参らせたまふべく、皆定めらる。
 中納言殿聞きたまひて、あいなくものを思ひありきたまふ。
 「わがあまり異様なるぞや。さるべき契りやありけむ。親王のうしろめたしと思したりしさまも、あはれに忘れがたく、この君たちの御ありさまけはひも、ことなることなくて世に衰へたまはむことの、惜しくもおぼゆるあまりに、人びとしくもてなさばやと、あやしきまでもて扱はるるに、宮もあやにくにとりもちて責めたまひしかば、わが思ふ方は異なるに、譲らるるありさまもあいなくて、かくもてなしてしを。
 思へば、悔しくもありけるかな。いづれもわがものにて見たてまつらむに、咎むべき人もなしかし」
 と、取り返すものならねど、をこがましく、心一つに思ひ乱れたまふ。
 宮は、まして、御心にかからぬ折なく、恋しくうしろめたしと思す。
 「御心につきて思す人あらば、ここに参らせて、例ざまにのどやかにもてなしたまへ。筋ことに思ひきこえたまへるに、軽びたるやうに人の聞こゆべかめるも、いとなむ口惜しき」
 と、大宮は明け暮れ聞こえたまふ。

 時雨いたくしてのどやかなる日、女一の宮の御方に参りたまひつれば、御前に人多くもさぶらはず、しめやかに、御絵など御覧ずるほどなり。
 御几帳ばかり隔てて、御物語聞こえたまふ。限りもなくあてに気高きものから、なよびかにをかしき御けはひを、年ごろ二つなきものに思ひきこえたまひて、
 「また、この御ありさまになずらふ人世にありなむや。冷泉院の姫宮ばかりこそ、御おぼえのほど、うちうちの御けはひも心にくく聞こゆれど、うち出でむ方もなく思しわたるに、かの山里人は、らうたげにあてなる方の、劣りきこゆまじきぞかし」
 など、まづ思ひ出づるに、いとど恋しくて、慰めに、御絵どものあまた散りたるを見たまへば、をかしげなる女絵どもの、恋する男の住まひなど描きまぜ、山里のをかしき家居など、心々に世のありさま描きたるを、よそへらるること多くて、御目とまりたまへば、すこし聞こえたまひて、「かしこへたてまつらむ」と思す。
 在五が物語を描きて、妹に琴教へたる所の、「人の結ばむ」と言ひたるを見て、いかが思すらむ、すこし近く参り寄りたまひて、
 「いにしへの人も、さるべきほどは、隔てなくこそならはしてはべりけれ。いと疎々しくのみもてなさせたまふこそ」
 と、忍びて聞こえたまへば、「いかなる絵にか」と思すに、おし巻き寄せて、御前にさし入れたまへるを、うつぶして御覧ずる御髪のうちなびきて、こぼれ出でたるかたそばばかり、ほのかに見たてまつりたまふが、飽かずめでたく、「すこしももの隔てたる人と思ひきこえましかば」と思すに、忍びがたくて、
 「若草のね見むものとは思はねど
  むずぼほれたる心地こそすれ」
 御前なる人びとは、この宮をばことに恥ぢきこえて、もののうしろに隠れたり。「ことしもこそあれ、うたてあやし」と思せば、ものものたまはず。ことわりにて、「うらなくものを」と言ひたる姫君も、されて憎く思さる。
 紫の上の、取り分きてこの二所をばならはしきこえたまひしかば、あまたの御中に、隔てなく思ひ交はしきこえたまへり。世になくかしづききこえたまひて、さぶらふ人びとも、かたほにすこし飽かぬところあるは、はしたなげなり。やむごとなき人の御女などもいと多かり。
 御心の移ろひやすきは、めづらしき人びとに、はかなく語らひつきなどしたまひつつ、かのわたりを思し忘るる折なきものから、訪れたまはで日ごろ経ぬ。


 


 待ちきこえたまふ所は、絶え間遠き心地して、「なほ、かくなめり」と、心細く眺めたまふに、中納言おはしたり。悩ましげにしたまふと聞きて、御とぶらひなりけり。いと心地惑ふばかりの御悩みにもあらねど、ことつけて、対面したまはず。
 「おどろきながら、はるけきほどを参り来つるを。なほ、かの悩みたまふらむ御あたり近く」
 と、切におぼつかながりきこえたまへば、うちとけて住まひたまへる方の御簾の前に入れたれまつる。「いとかたはらいたきわざ」と苦しがりたまへど、けにくくはあらで、御髪もたげ、御いらへなど聞こえたまふ。
 宮の、御心もゆかでおはし過ぎにしありさまなど、語りきこえたまひて、
 「のどかに思せ。心焦られして、な恨みきこえたまひそ」
 など教へきこえたまへば、
 「ここには、ともかくも聞こえたまはざめり。亡き人の御諌めはかかることにこそ、と見はべるばかりなむ、いとほしかりける」
 とて、泣きたまふけしきなり。いと心苦しく、我さへ恥づかしき心地して、
 「世の中は、とてもかくても一つさまにて過ぐすこと難くなむはべるを。いかなることをも御覧じ知らぬ御心どもには、ひとへに恨めしなど思すこともあらむを、しひて思しのどめよ。うしろめたくはよにあらじとなむ思ひはべる」
 など、人の御上をさへ扱ふも、かつはあやしくおぼゆ。
 夜々は、ましていと苦しげにしたまひければ、疎き人の御けはひの近きも、中の宮の苦しげに思したれば、
 「なほ、例の、あなたに」
 と人びと聞こゆれど、
 「まして、かくわづらひたまふほどのおぼつかなさを。思ひのままに参り来て、出だし放ちたまへれば、いとわりなくなむ。かかる折の御扱ひも、誰れかははかばかしく仕うまつる」
 など、弁のおもとに語らひたまひて、御修法ども始むべきことのたまふ。「いと見苦しく、ことさらにも厭はしき身を」と聞きたまへど、思ひ隈なくのたまはむもうたてあれば、さすがに、ながらへよと思ひたまへる心ばへもあはれなり。


 またの朝に、「すこしもよろしく思さるや。昨日ばかりにてだに聞こえさせむ」とあれば、
 「日ごろ経ればにや、今日はいと苦しくなむ。さらば、こなたに」
 と言ひ出だしたまへり。いとあはれに、いかにものしたまふべきにかあらむ、ありしよりはなつかしき御けしきなるも、胸つぶれておぼゆれば、近く寄りて、よろづのことを聞こえたまひて、
 「苦しくてえ聞こえず。すこしためらはむほどに」
 とて、いとかすかにあはれなるけはひを、限りなく心苦しくて嘆きゐたまへり。さすがに、つれづれとかくておはしがたければ、いとうしろめたけれど、帰りたまふ。
 「かかる御住まひは、なほ苦しかりけり。所さりたまふにことよせて、さるべき所に移ろはしたてまつらむ」
 など聞こえおきて、阿闍梨にも、御祈り心に入るべくのたまひ知らせて、出でたまひぬ。
 この君の御供なる人の、いつしかと、ここなる若き人を語らひ寄りたるなりけり。おのがじしの物語に、
 「かの宮の、御忍びありき制せられたまひて、内裏にのみ籠もりおはします。左の大殿の君を、あはせたてまつりたまへるなる。女方は、年ごろの御本意なれば、思しとどこほることなくて、年のうちにありぬべかなり。
 宮はしぶしぶに思して、内裏わたりにも、ただ好きがましきことに御心を入れて、帝后の御戒めに静まりたまふべくもあらざめり。
 わが殿こそ、なほあやしく人に似たまはず、あまりまめにおはしまして、人にはもて悩まれたまへ。ここにかく渡りたまふのみなむ、目もあやに、おぼろけならぬこと、と人申す」
 など語りけるを、「さこそ言ひつれ」など、人びとの中にて語るを聞きたまふに、いとど胸ふたがりて、
 「今は限りにこそあなれ。やむごとなき方に定まりたまはぬ、なほざりの御すさびに、かくまで思しけむを、さすがに中納言などの思はむところを思して、言の葉の限り深きなりけり」
 と思ひなしたまふに、ともかくも人の御つらさは思ひ知らず、いとど身の置き所のなき心地して、しをれ臥したまへり。
 弱き御心地は、いとど世に立ちとまるべくもおぼえず。恥づかしげなる人びとにはあらねど、思ふらむところの苦しければ、聞かぬやうにて寝たまへるを、中の君、もの思ふ時のわざと聞きし、うたた寝の御さまのいとらうたげにて、腕を枕にて寝たまへるに、御髪のたまりたるほどなど、ありがたくうつくしげなるを見やりつつ、親の諌めし言の葉も、かへすがへす思ひ出でられたまひて悲しければ、
 「罪深かなる底には、よも沈みたまはじ。いづこにもいづこにも、おはすらむ方に迎へたまひてよ。かくいみじくもの思ふ身どもをうち捨てたまひて、夢にだに見えたまはぬよ」
 と思ひ続けたまふ。

 夕暮の空のけしきいとすごくしぐれて、木の下吹き払ふ風の音などに、たとへむ方なく、来し方行く先思ひ続けられて、添ひ臥したまへるさま、あてに限りなく見えたまふ。
 白き御衣に、髪は削ることもしたまはでほど経ぬれど、まよふ筋なくうちやられて、日ごろにすこし青みたまへるしも、なまめかしさまさりて、眺め出だしたまへるまみ、額つきのほども、見知らむ人に見せまほし。
 昼寝の君、風のいと荒きに驚かされて起き上がりたまへり。山吹、薄色などはなやかなる色あひに、御顔はことさらに染め匂はしたらむやうに、いとをかしくはなばなとして、いささかもの思ふべきさまもしたまへらず。
 「故宮の夢に見えたまへる、いともの思したるけしきにて、このわたりにこそ、ほのめきたまひつれ」
 と語りたまへば、いとどしく悲しさ添ひて、
 「亡せたまひて後、いかで夢にも見たてまつらむと思ふを、さらにこそ、見たてまつらね」
 とて、二所ながらいみじく泣きたまふ。
 「このころ明け暮れ思ひ出でたてまつれば、ほのめきもやおはすらむ。いかで、おはすらむ所に尋ね参らむ。罪深げなる身どもにて」
 と、後の世をさへ思ひやりたまふ。人の国にありけむ香の煙ぞ、いと得まほしく思さるる。

 いと暗くなるほどに、宮より御使あり。折は、すこしもの思ひ慰みぬべし。御方はとみにも見たまはず。
 「なほ、心うつくしくおいらかなるさまに聞こえたまへ。かくてはかなくもなりはべりなば、これより名残なき方にもてなしきこゆる人もや出で来む、とうしろめたきを。まれにも、この人の思ひ出できこえたまはむに、さやうなるあるまじき心つかふ人は、えあらじと思へば、つらきながらなむ頼まれはべる」
 と聞こえたまへば、
 「後らさむと思しけるこそ、いみじくはべれ」
 と、いよいよ顔を引き入れたまふ。
 「限りあれば、片時もとまらじと思ひしかど、ながらふるわざなりけり、と思ひはべるぞや。明日知らぬ世の、さすがに嘆かしきも、誰がため惜しき命にかは」
 とて、大殿油参らせて見たまふ。
 例の、こまやかに書きたまひて、
 「眺むるは同じ雲居をいかなれば
  おぼつかなさを添ふる時雨ぞ」
 「かく袖ひつる」などいふこともやありけむ、耳馴れにたるを、なほあらじことと見るにつけても、恨めしさまさりたまふ。さばかり世にありがたき御ありさま容貌を、いとど、いかで人にめでられむと、好ましく艶にもてなしたまへれば、若き人の心寄せたてまつりたまはむ、ことわりなり。
 ほど経るにつけても恋しく、「さばかり所狭きまで契りおきたまひしを、さりとも、いとかくてはやまじ」と思ひ直す心ぞ、常に添ひける。御返り、「今宵参りなむ」と聞こゆれば、これかれそそのかしきこゆれば、ただ一言なむ、
 「霰降る深山の里は朝夕に
  眺むる空もかきくらしつつ」
 かく言ふは、神無月の晦日なりけり。「月も隔たりぬるよ」と、宮は静心なく思されて、「今宵、今宵」と思しつつ、障り多みなるほどに、五節などとく出で来たる年にて、内裏わたり今めかしく紛れがちにて、わざともなけれど過ぐいたまふほどに、あさましく待ち遠なり。はかなく人を見たまふにつけても、さるは御心に離るる折なし。左の大殿のわたりのこと、大宮も、
 「なほ、さるのどやかなる御後見をまうけたまひて、そのほかに尋ねまほしく思さるる人あらば、参らせて、重々しくもてなしたまへ」
 と聞こえたまへど、
 「しばし。さ思うたまふるやうなむ」
 聞こえいなびたまひて、「まことにつらき目はいかでか見せむ」など思す御心を知りたまはねば、月日に添へてものをのみ思す。

 中納言も、「見しほどよりは軽びたる御心かな。さりとも」と思ひきこえけるも、いとほしく、心からおぼえつつ、をさをさ参りたまはず。
 山里には、「いかに、いかに」と、訪らひきこえたまふ。「この月となりては、すこしよろしくおはす」と聞きたまひけるに、公私もの騒がしきころにて、五、六日、人もたてまつれたまはぬに、「いかならむ」と、うちおどろかれたまひて、わりなきことのしげさをうち捨てて参でたまふ。
 「修法はおこたり果てたまふまで」とのたまひおきけるを、よろしくなりにけりとて、阿闍梨をも帰したまひければ、いと人ずくなにて、例の、老い人出で来て、御ありさま聞こゆ。
 「そこはかと痛きところもなく、おどろおどろしからぬ御悩みに、ものをなむさらに聞こしめさぬ。もとより、人に似たまはず、あえかにおはしますうちに、この宮の御こと出で来にしのち、いとどもの思したるさまにて、はかなき御くだものをだに御覧じ入れざりし積もりにや、あさましく弱くなりたまひて、さらに頼むべくも見えたまはず。よに心憂くはべりける身の命の長さにて、かかることを見たてまつれば、まづいかで先立ちきこえむと思ひたまへ入りはべり」
 と、言ひもやらず泣くさま、ことわりなり。
 「心憂く、などか、かくとも告げたまはざりける。院にも内裏にも、あさましく事しげきころにて、日ごろもえ聞こえざりつるおぼつかなさ」
 とて、ありし方に入りたまふ。御枕上近くてもの聞こえたまへど、御声もなきやうにて、えいらへたまはず。
 「かく重くなりたまふまで、誰も誰も告げたまはざりけるが、つらくも。思ふにかひなきこと」
 と恨みて、例の阿闍梨、おほかた世に験ありと聞こゆる人の限り、あまた請じたまふ。御修法、読経、明くる日より始めさせたまはむとて、殿人あまた参り集ひ、上下の人立ち騷ぎたれば、心細さの名残なく頼もしげなり。

 暮れぬれば、「例の、あなたに」と聞こえて、御湯漬けなど参らむとすれど、「近くてだに見たてまつらむ」とて、南の廂は僧の座なれば、東面の今すこし気近き方に、屏風など立てさせて入りゐたまふ。
 中の宮、苦しと思したれど、この御仲を、「なほ、もてはなれたまはぬなりけり」と皆思ひて、疎くもえもてなし隔てず。初夜よりはじめて、法華経を不断に読ませたまふ。声尊き限り十二人して、いと尊し。
 灯はこなたの南の間にともして、内は暗きに、几帳をひき上げて、すこしすべり入りて見たてまつりたまへば、老人ども二、三人ぞさぶらふ。中の宮は、ふと隠れたまひぬれば、いと人少なに、心細くて臥したまへるを、
 「などか、御声をだに聞かせたまはぬ」
 とて、御手を捉へておどろかしきこえたまへば、
 「心地には思ひながら、もの言ふがいと苦しくてなむ。日ごろおとづれたまはざりつれば、おぼつかなくて過ぎはべりぬべきにやと、口惜しくこそはべりつれ」
 と、息の下にのたまふ。
 「かく待たれたてまつるほどまで参り来ざりけること」
 とて、さくりもよよと泣きたまふ。御ぐしなど、すこし熱くぞおはしける。
 「何の罪なる御心地にか。人に嘆き負ふこそ、かくあむなれ」
 と、御耳にさし当てて、ものを多く聞こえたまへば、うるさうも恥づかしうもおぼえて、顔をふたぎたまへるを、むなしく見なしていかなる心地せむ、と胸もひしげておぼゆ。
 「日ごろ見たてまつりたまひつらむ御心地も、やすからず思されつらむ。今宵だに、心やすくうち休ませたまへ。宿直人さぶらふべし」
 と聞こえたまへば、うしろめたけれど、「さるやうこそは」と思して、すこししぞきたまへり。
 直面にはあらねど、はひ寄りつつ見たてまつりたまへば、いと苦しく恥づかしけれど、「かかるべき契りこそはありけめ」と思して、こよなうのどかにうしろやすき御心を、かの片つ方の人に見比べたてまつりたまへば、あはれとも思ひ知られにたり。
 「むなしくなりなむ後の思ひ出でにも、心ごはく、思ひ隈なからじ」とつつみたまひて、はしたなくもえおし放ちたまはず。夜もすがら、人をそそのかして、御湯など参らせたてまつりたまへど、つゆばかり参るけしきもなし。「いみじのわざや。いかにしてかは、かけとどむべき」と、言はむかたなく思ひゐたまへり。

 不断経の、暁方のゐ替はりたる声のいと尊きに、阿闍梨も夜居にさぶらひて眠りたる、うちおどろきて陀羅尼読む。老いかれにたれど、いと功づきて頼もしう聞こゆ。
 「いかが今宵はおはしましつらむ」
 など聞こゆるついでに、故宮の御ことなど申し出でて、鼻しばしばうちかみて、
 「いかなる所におはしますらむ。さりとも、涼しき方にぞ、と思ひやりたてまつるを、先つころの夢になむ見えおはしましし。
 俗の御かたちにて、『世の中を深う厭ひ離れしかば、心とまることなかりしを、いささかうち思ひしことに乱れてなむ、ただしばし願ひの所を隔たれるを思ふなむ、いと悔しき。すすむるわざせよ』と、いとさだかに仰せられしを、たちまちに仕うまつるべきことのおぼえはべらねば、堪へたるにしたがひて、行ひしはべる法師ばら五、六人して、なにがしの念仏なむ仕うまつらせはべる。
 さては、思ひたまへ得たることはべりて、常不軽をなむつかせはべる」
 など申すに、君もいみじう泣きたまふ。かの世にさへ妨げきこゆらむ罪のほどを、苦しき御心地にも、いとど消え入りぬばかりおぼえたまふ。
 「いかで、かのまだ定まりたまはざらむさきに参でて、同じ所にも」
 と、聞き臥したまへり。
 阿闍梨は言少なにて立ちぬ。この常不軽、そのわたりの里々、京までありきけるを、暁の嵐にわびて、阿闍梨のさぶらふあたりを尋ねて、中門のもとにゐて、いと尊くつく。回向の末つ方の心ばへいとあはれなり。客人もこなたにすすみたる御心にて、あはれ忍ばれたまはず。
 中の宮、切におぼつかなくて、奥の方なる几帳のうしろに寄りたまへるけはひを聞きたまひて、あざやかにゐなほりたまひて、
 「不軽の声はいかが聞かせたまひつらむ。重々しき道には行はぬことなれど、尊くこそはべりけれ」とて、
 「霜さゆる汀の千鳥うちわびて
  鳴く音悲しき朝ぼらけかな」
 言葉のやうに聞こえたまふ。つれなき人の御けはひにも通ひて、思ひよそへらるれど、いらへにくくて、弁してぞ聞こえたまふ。
 「暁の霜うち払ひ鳴く千鳥
  もの思ふ人の心をや知る」
 似つかはしからぬ御代りなれど、ゆゑなからず聞こえなす。かやうのはかなしごとも、つつましげなるものから、なつかしうかひあるさまにとりなしたまふものを、「今はとて別れなば、いかなる心地せむ」と惑ひたまふ。

 宮の夢に見えたまひけむさま思しあはするに、「かう心苦しき御ありさまどもを、天翔りてもいかに見たまふらむ」と推し量られて、おはしましし御寺にも、御誦経せさせたまふ。所々の祈りの使出だしたてさせたまひ、公にも私にも、御暇のよし申したまひて、祭祓、よろづにいたらぬことなくしたまへど、ものの罪めきたる御病にもあらざりければ、何の験も見えず。
 みづからも、平らかにあらむとも、仏をも念じたまはばこそあらめ、
 「なほ、かかるついでにいかで亡せなむ。この君のかく添ひて、残りなくなりぬるを、今はもて離れむかたなし。さりとて、かうおろかならず見ゆめる心ばへの、見劣りして、我も人も見えむが、心やすからず憂かるべきこと。もし命しひてとまらば、病にことつけて、形をも変へてむ。さてのみこそ、長き心をもかたみに見果つべきわざなれ」
 と思ひしみたまひて、
 「とあるにても、かかるにても、いかでこの思ふことしてむ」と思すを、さまでさかしきことはえうち出でたまはで、中の宮に、
 「心地のいよいよ頼もしげなくおぼゆるを、忌むことなむ、いとしるしありて命延ぶることと聞きしを、さやうに阿闍梨にのたまへ」
 と聞こえたまへば、皆泣き騷ぎて、
 「いとあるまじき御ことなり。かくばかり思し惑ふめる中納言殿も、いかがあへなきやうに思ひきこえたまはむ」
 と、似ぎなきことに思ひて、頼もし人にも申しつがねば、口惜しう思す。
 かく籠もりゐたまひつれば、聞きつぎつつ、御訪らひにふりはへものしたまふ人もあり。おろかに思されぬこと、と見たまへば、殿人、親しき家司などは、おのおのよろづの御祈りをせさせ、嘆ききこゆ。
 豊明は今日ぞかしと、京思ひやりたまふ。風いたう吹きて、雪の降るさまあわたたしう荒れまどふ。「都にはいとかうしもあらじかし」と、人やりならず心細うて、「疎くてやみぬべきにや」と思ふ契りはつらけれど、恨むべうもあらず。なつかしうらうたげなる御もてなしを、ただしばしにても例になして、「思ひつることどもも語らはばや」と思ひ続けて眺めたまふ。光もなくて暮れ果てぬ。
 「かき曇り日かげも見えぬ奥山に
  心をくらすころにもあるかな」

 ただ、かくておはするを頼みに、皆思ひきこえたり。例の、近き方にゐたまへるに、御几帳などを、風のあらはに吹きなせば、中の宮、奥に入りたまふ。見苦しげなる人びとも、かかやき隠れぬるほどに、いと近う寄りて、
 「いかが思さるる。心地に思ひ残すことなく、念じきこゆるかひなく、御声をだに聞かずなりにたれば、いとこそわびしけれ。後らかしたまはば、いみじうつらからむ」
 と、泣く泣く聞こえたまふ。ものおぼえずなりにたるさまなれど、顔はいとよく隠したまへり。
 「よろしき隙あらば、聞こえまほしきこともはべれど、ただ消え入るやうにのみなりゆくは、口惜しきわざにこそ」
 と、いとあはれと思ひたまへるけしきなるに、いよいよせきとどめがたくて、ゆゆしう、かく心細げに思ふとは見えじと、つつみたまへど、声も惜しまれず。
 「いかなる契りにて、限りなく思ひきこえながら、つらきこと多くて別れたてまつるべきにか。少し憂きさまをだに見せたまはばなむ、思ひ冷ますふしにもせむ」
 とまもれど、いよいよあはれげにあたらしく、をかしき御ありさまのみ見ゆ。
 腕などもいと細うなりて、影のやうに弱げなるものから、色あひも変らず、白ううつくしげになよなよとして、白き御衣どものなよびかなるに、衾を押しやりて、中に身もなき雛を臥せたらむ心地して、御髪はいとこちたうもあらぬほどにうちやられたる、枕より落ちたる際の、つやつやとめでたうをかしげなるも、「いかになりたまひなむとするぞ」と、あるべきものにもあらざめりと見るが、惜しきことたぐひなし。
 ここら久しく悩みて、ひきもつくろはぬけはひの、心とけず恥づかしげに、限りなうもてなしさまよふ人にも多うまさりて、こまかに見るままに、魂も静まらむ方なし。


 


 「つひにうち捨てたまひなば、世にしばしもとまるべきにもあらず。命もし限りありてとまるべうとも、深き山にさすらへなむとす。ただ、いと心苦しうて、とまりたまはむ御ことをなむ思ひきこゆる」
 と、いらへさせたてまつらむとて、かの御ことをかけたまへば、顔隠したまへる御袖を少しひき直して、
 「かく、はかなかりけるものを、思ひ隈なきやうに思されたりつるもかひなければ、このとまりたまはむ人を、同じこと思ひきこえたまへと、ほのめかしきこえしに、違へたまはざらましかば、うしろやすからましと、これのみなむ恨めしきふしにて、とまりぬべうおぼえはべる」
 とのたまへば、
 「かくいみじう、もの思ふべき身にやありけむ。いかにも、いかにも、異ざまにこの世を思ひかかづらふ方のはべらざりつれば、御おもむけに従ひきこえずなりにし。今なむ、悔しく心苦しうもおぼゆる。されども、うしろめたくな思ひきこえたまひそ」
 などこしらへて、いと苦しげにしたまへば、修法の阿闍梨ども召し入れさせ、さまざまに験ある限りして、加持参らせさせたまふ。我も仏を念ぜさせたまふこと、限りなし。
 「世の中をことさらに厭ひ離れね、と勧めたまふ仏などの、いとかくいみじきものは思はせたまふにやあらむ。見るままにもの隠れゆくやうにて消え果てたまひぬるは、いみじきわざかな」
 引きとどむべき方なく、足摺りもしつべく、人のかたくなしと見むこともおぼえず。限りと見たてまつりたまひて、中の宮の、後れじと思ひ惑ひたまふさまもことわりなり。あるにもあらず見えたまふを、例の、さかしき女ばら、「今は、いとゆゆしきこと」と、引き避けたてまつる。


 中納言の君は、さりとも、いとかかることあらじ、夢か、と思して、大殿油を近うかかげて見たてまつりたまふに、隠したまふ顔も、ただ寝たまへるやうにて、変はりたまへるところもなく、うつくしげにてうち臥したまへるを、「かくながら、虫の骸のやうにても見るわざならましかば」と、思ひ惑はる。
 今はの事どもするに、御髪をかきやるに、さとうち匂ひたる、ただありしながらの匂ひに、なつかしう香ばしきも、
 「ありがたう、何ごとにてこの人を、すこしもなのめなりしと思ひさまさむ。まことに世の中を思ひ捨て果つるしるべならば、恐ろしげに憂きことの、悲しさも冷めぬべきふしをだに見つけさせたまへ」
 と仏を念じたまへど、いとど思ひのどめむ方なくのみあれば、言ふかひなくて、「ひたぶるに煙にだになし果ててむ」と思ほして、とかく例の作法どもするぞ、あさましかりける。
 空を歩むやうにただよひつつ、限りのありさまさへはかなげにて、煙も多くむすぼほれたまはずなりぬるもあへなしと、あきれて帰りたまひぬ。
 御忌に籠もれる人数多くて、心細さはすこし紛れぬべけれど、中の宮は、人の見思はむことも恥づかしき身の心憂さを思ひ沈みたまひて、また亡き人に見えたまふ。
 宮よりも御弔らひいとしげくたてまつれたまふ。思はずにつくづくと思ひきこえたまへりしけしきも、思し直らでやみぬるを思すに、いと憂き人の御ゆかりなり。
 中納言、かく世のいと心憂くおぼゆるついでに、本意遂げむと思さるれど、三条の宮の思されむことに憚り、この君の御ことの心苦しさとに思ひ乱れて、
 「かののたまひしやうにて、形見にも見るべかりけるものを。下の心は、身を分けたまへりとも、移ろふべくもおぼえざりしを、かうもの思はせたてまつるよりは、ただうち語らひて、尽きせぬ慰めにも見たてまつり通はましものを」
 など思す。
 かりそめに京にも出でたまはず、かき絶え、慰む方なくて籠もりおはするを、世人も、おろかならず思ひたまへること、と見聞きて、内裏よりはじめたてまつりて、御弔ひ多かり。

 はかなくて日ごろは過ぎゆく。七日七日の事ども、いと尊くせさせたまひつつ、おろかならず孝じたまへど、限りあれば、御衣の色の変らぬを、かの御方の心寄せわきたりし人びとの、いと黒く着替へたるを、ほの見たまふも、
 「くれなゐに落つる涙もかひなきは
  形見の色を染めぬなりけり」
 聴し色の氷解けぬかと見ゆるを、いとど濡らし添へつつ眺めたまふさま、いとなまめかしくきよげなり。人びと覗きつつ見たてまつりて、
 「言ふかひなき御ことをばさるものにて、この殿のかくならひたてまつりて、今はとよそに思ひきこえむこそ、あたらしく口惜しけれ」
 「思ひの外なる御宿世にもおはしかるかな。かく深き御心のほどを、かたがたに背かせたまへるよ」
 と泣きあへり。
 この御方には、
 「昔の御形見に、今は何ごとも聞こえ、承らむとなむ思ひたまふる。疎々しく思し隔つな」
 と聞こえたまへど、「よろづのこと憂き身なりけり」と、もののみつつましくて、まだ対面してものなど聞こえたまはず。
 「この君は、けざやかなるかたに、いますこし子めき、気高くおはするものから、なつかしく匂ひある心ざまぞ、劣りたまへりける」
 と、事に触れておぼゆ。

 雪のかきくらし降る日、終日にながめ暮らして、世の人のすさまじきことに言ふなる師走の月夜の、曇りなくさし出でたるを、簾巻き上げて見たまへば、向かひの寺の鐘の声、枕をそばたてて、今日も暮れぬと、かすかなる響を聞きて、
 「おくれじと空ゆく月を慕ふかな
  つひに住むべきこの世ならねば」
 風のいと烈しければ、蔀下ろさせたまふに、四方の山の鏡と見ゆる汀の氷、月影にいとおもしろし。「京の家の限りなくと磨くも、えかうはあらぬはや」とおぼゆ。「わづかに生き出でてものしたまはましかば、もろともに聞こえまし」と思ひつづくるぞ、胸よりあまる心地する。
 「恋ひわびて死ぬる薬のゆかしきに
  雪の山にや跡を消なまし」
 「半ばなる偈教へむ鬼もがな、ことつけて身も投げむ」と思すぞ、心ぎたなき聖心なりける。
 人びと近く呼び出でたまひて、物語などせさせたまふけはひなどの、いとあらまほしくのどやかに心深きを、見たてまつる人びと、若きは、心にしめてめでたしと思ひたてまつる。老いたるは、ただ口惜しくいみじきことを、いとど思ふ。
 「御心地の重くならせたまひしことも、ただこの宮の御ことを、思はずに見たてまつりたまひて、人笑へにいみじと思すめりしを、さすがにかの御方には、かく思ふと知られたてまつらじと、ただ御心一つに世を恨みたまふめりしほどに、はかなき御くだものをも聞こしめし触れず、ただ弱りになむ弱らせたまふめりし。
 上べには、何ばかりことことしくもの深げにももてなさせたまはで、下の御心の限りなく、何事も思すめりしに、故宮の御戒めにさへ違ひぬることと、あいなう人の御上を思し悩みそめしなり」
 と聞こえて、折々のたまひしことなど語り出でつつ、誰も誰も泣き惑ふこと尽きせず。

 「わが心から、あぢきなきことを思はせたてまつりけむこと」と取り返さまほしく、なべての世もつらきに、念誦をいとどあはれにしたまひて、まどろむほどなく明かしたまふに、まだ夜深きほどの雪のけはひ、いと寒げなるに、人びと声あまたして、馬の音聞こゆ。
 「何人かは、かかるさ夜中に雪を分くべき」
 と、大徳たちも驚き思へはべるに、宮、狩の御衣にいたうやつれて、濡れ濡れ入りたまへるなりけり。うちたたきたまふさま、さななり、と聞きたまひて、中納言は、隠ろへたる方に入りたまひて、忍びておはす。御忌は日数残りたりけれど、心もとなく思しわびて、夜一夜、雪に惑はされてぞおはしましける。
 日ごろのつらさも紛れぬべきほどなれど、対面したまふべき心地もせず、思し嘆きたるさまの恥づかしかりしを、やがて見直されたまはずなりにしも、今より後の御心改まらむは、かひなかるべく思ひしみてものしたまへば、誰も誰もいみじうことわりを聞こえ知らせつつ、物越にてぞ、日ごろのおこたり尽きせずのたまふを、つくづくと聞きゐたまへる。
 これもいとあるかなきかにて、「後れたまふまじきにや」と聞こゆる御けはひの心苦しさを、「うしろめたういみじ」と、宮も思したり。
 今日は、御身を捨てて、泊りたまひぬ。「物越ならで」といたくわびたまへど、
 「今すこしものおぼゆるほどまではべらば」
 とのみ聞こえたまひて、つれなきを、中納言もけしき聞きたまひて、さるべき人召し出でて、
 「御ありさまに違ひて、心浅きやうなる御もてなしの、昔も今も心憂かりける月ごろの罪は、さも思ひきこえたまひぬべきことなれど、憎からぬさまにこそ、勘へたてまつりたまはめ。かやうなること、まだ見知らぬ御心にて、苦しう思すらむ」
 など、忍びて賢しがりたまへば、いよいよこの君の御心も恥づかしくて、え聞こえたまはず。
<  「あさましく心憂くおはしけり。聞こえしさまをも、むげに忘れたまひけること」
 と、おろかならず嘆き暮らしたまへり。

 夜のけしき、いとど険しき風の音に、人やりならず嘆き臥したまへるも、さすがにて、例の、もの隔てて聞こえたまふ。千々の社をひきかけて、行く先長きことを契りきこえたまふも、「いかでかく口馴れたまひけむ」と、心憂けれど、よそにてつれなきほどの疎ましさよりはあはれに、人の心もたをやぎぬべき御さまを、一方にもえ疎み果つまじかりけり。ただ、つくづくと聞きて、
 「来し方を思ひ出づるもはかなきを
  行く末かけてなに頼むらむ」
 と、ほのかにのたまふ。なかなかいぶせう、心もとなし。
 「行く末を短きものと思ひなば
  目の前にだに背かざらなむ
 何事もいとかう見るほどなき世を、罪深くな思しないそ」
 と、よろづにこしらへたまへど、
 「心地も悩ましくなむ」
 とて入りたまひにけり。人の見るらむもいと人悪ろくて、嘆き明かしたまふ。恨みむもことわりなるほどなれど、あまりに人憎くもと、つらき涙の落つれば、「ましていかに思ひつらむ」と、さまざまあはれに思し知らる。
 中納言の、主人方に住み馴れて、人びとやすらかに呼び使ひ、人もあまたしてもの参らせなどしたまふを、あはれにもをかしうも御覧ず。いといたう痩せ青みて、ほれぼれしきまでものを思ひたれば、心苦しと見たまひて、まめやかに訪らひたまふ。
 「ありしさまなど、かひなきことなれど、この宮にこそは聞こえめ」と思へど、うち出でむにつけても、いと心弱く、かたくなしく見えたてまつらむに憚りて、言少ななり。音をのみ泣きて、日数経にければ、顔変はりのしたるも、見苦しくはあらで、いよいよものきよげになまめいたるを、「女ならば、かならず心移りなむ」と、おのがけしからぬ御心ならひに思しよるも、なまうしろめたかりければ、「いかで人のそしりも恨みをもはぶきて、京に移ろはしてむ」と思す。
 かくつれなきものから、内裏わたりにも聞こし召して、いと悪しかるべきに思しわびて、今日は帰らせたまひぬ。おろかならず言の葉を尽くしたまへど、つれなきは苦しきものをと、一節を思し知らせまほしくて、心とけずなりぬ。

 年暮れ方には、かからぬ所だに、空のけしき例には似ぬを、荒れぬ日なく降り積む雪に、うち眺めつつ明かし暮らしたまふ心地、尽きせず夢のやうなり。
 宮よりも、御誦経など、こちたきまで訪らひきこえたまふ。かくてのみやは、新しき年さへ嘆き過ぐさむ。ここかしこにも、おぼつかなくて閉ぢ籠もりたまへることを聞こえたまへば、今はとて帰りたまはむ心地も、たとへむ方なし。
 かくおはしならひて、人しげかりつる名残なくならむを、思ひわぶる人びと、いみじかりし折のさしあたりて悲しかりし騷ぎよりも、うち静まりていみじくおぼゆ。
 「時々、折ふし、をかしやかなるほどに聞こえ交はしたまひし年ごろよりも、かくのどやかにて過ぐしたまへる日ごろの御ありさまけはひの、なつかしく情け深う、はかなきことにもまめなる方にも、思ひやり多かる御心ばへを、今は限りに見たてまつりさしつること」
 と、おぼほれあへり。
 かの宮よりは、
 「なほ、かう参り来ることもいと難きを思ひわびて、近う渡いたてまつるべきことをなむ、たばかり出でたる」
 と聞こえたまへり。后の宮、聞こし召しつけて、
 「中納言もかくおろかならず思ひほれてゐたなるは、げに、おしなべて思ひがたうこそは、誰も思さるらめ」と、心苦しがりたまひて、「二条院の西の対に渡いたまて、時々も通ひたまふべく、忍びて聞こえたまひけるは、女一の宮の御方にことよせて思しなるにや」
 と思しながら、おぼつかなかるまじきはうれしくて、のたまふなりけり。
 「さななり」と、中納言も聞きたまひて、
 「三条宮も造り果てて、渡いたてまつらむことを思ひしものを。かの御代りになずらへて見るべかりけるを」
 など、ひき返し心細し。宮の思し寄るめりし筋は、いと似げなきことに思ひ離れて、「おほかたの御後見は、我ならでは、また誰かは」と、思すとや。



  

  

            現代語訳 補足 目次

      四十八、 早 蕨   
 


   
 



 薮し分かねば、春の光を見たまふにつけても、「いかでかくながらへにける月日ならむ」と、夢のやうにのみおぼえたまふ。
 行き交ふ時々にしたがひ、花鳥の色をも音をも、同じ心に起き臥し見つつ、はかなきことをも、本末をとりて言ひ交はし、心細き世の憂さもつらさも、うち語らひ合はせきこえしにこそ、慰む方もありしか、をかしきこと、あはれなるふしをも、聞き知る人もなきままに、よろづかきくらし、心一つをくだきて、宮のおはしまさずなりにし悲しさよりも、ややうちまさりて恋しくわびしきに、いかにせむと、明け暮るるも知らず惑はれたまへど、世にとまるべきほどは、限りあるわざなりければ、死なれぬもあさまし。
 阿闍梨のもとより、
 「年改まりては、何ごとかおはしますらむ。御祈りは、たゆみなく仕うまつりはべり。今は、一所の御ことをなむ、安からず念じきこえさする」
 など聞こえて、蕨、つくづくし、をかしき籠に入れて、「これは、童べの供養じてはべる初穂なり」とて、たてまつれり。手は、いと悪しうて、歌は、わざとがましくひき放ちてぞ書きたる。
 「君にとてあまたの春を摘みしかば
  常を忘れぬ初蕨なり
 御前に詠み申さしめたまへ」
 とあり。


 大事と思ひまはして詠み出だしつらむ、と思せば、歌の心ばへもいとあはれにて、なほざりに、さしも思さぬなめりと見ゆる言の葉を、めでたく好ましげに書き尽くしたまへる人の御文よりは、こよなく目とまりて、涙もこぼるれば、返り事、書かせたまふ。
 「この春は誰れにか見せむ亡き人の
  かたみに摘める峰の早蕨」
 使に禄取らせさせたまふ。
 いと盛りに匂ひ多くおはする人の、さまざまの御もの思ひに、すこしうち面痩せたまへる、いとあてになまめかしきけしきまさりて、昔人にもおぼえたまへり。並びたまへりし折は、とりどりにて、さらに似たまへりとも見えざりしを、うち忘れては、ふとそれかとおぼゆるまでかよひたまへるを、
 「中納言殿の、骸をだにとどめて見たてまつるものならましかばと、朝夕に恋ひきこえたまふめるに、同じくは、見えたてまつりたまふ御宿世ならざりけむよ」
 と、見たてまつる人びとは口惜しがる。
 かの御あたりの人の通ひ来るたよりに、御ありさまは絶えず聞き交はしたまひけり。尽きせず思ひほれたまひて、「新しき年ともいはず、いや目になむ、なりたまへる」と聞きたまひても、「げに、うちつけの心浅さにはものしたまはざりけり」と、いとど今ぞあはれも深く、思ひ知らるる。
 宮は、おはしますことのいと所狭くありがたければ、「京に渡しきこえむ」と思し立ちにたり。

 内宴など、もの騒がしきころ過ぐして、中納言の君、「心にあまることをも、また誰れにかは語らはむ」と思しわびて、兵部卿宮の御方に参りたまへり。
 しめやかなる夕暮なれば、宮うち眺めたまひて、端近くぞおはしましける。箏の御琴かき鳴らしつつ、例の、御心寄せなる梅の香をめでおはする、下枝を押し折りて参りたまへる、匂ひのいと艶にめでたきを、折をかしう思して、
 「折る人の心にかよふ花なれや
  色には出でず下に匂へる」
 とのたまへば、
 「見る人にかこと寄せける花の枝を
  心してこそ折るべかりけれ
 わづらはしく」
 と、戯れ交はしたまへる、いとよき御あはひなり。
 こまやかなる御物語どもになりては、かの山里の御ことをぞ、まづはいかにと、宮は聞こえたまふ。中納言も、過ぎにし方の飽かず悲しきこと、そのかみより今日まで思ひの絶えぬよし、折々につけて、あはれにもをかしくも、泣きみ笑ひみとかいふらむやうに、聞こえ出でたまふに、ましてさばかり色めかしく、涙もろなる御癖は、人の御上にてさへ、袖もしぼるばかりになりて、かひがひしくぞあひしらひきこえたまふめる。

 空のけしきもまた、げにぞあはれ知り顔に霞みわたれる。夜になりて、烈しう吹き出づる風のけしき、まだ冬めきていと寒げに、大殿油も消えつつ、闇はあやなきたどたどしさなれど、かたみに聞きさしたまふべくもあらず、尽きせぬ御物語をえはるけやりたまはで、夜もいたう更けぬ。
 世にためしありがたかりける仲の睦びを、「いで、さりとも、いとさのみはあざりけむ」と、残りありげに問ひなしたまふぞ、わりなき御心ならひなめるかし。さりながらも、ものに心えたまひて、嘆かしき心のうちもあきらむばかり、かつは慰め、またあはれをもさまし、さまざまに語らひたまふ、御さまのをかしきにすかされたてまつりて、げに、心にあまるまで思ひ結ぼほるることども、すこしづつ語りきこえたまふぞ、こよなく胸のひまあく心地したまふ。
 宮も、かの人近く渡しきこえてむとするほどのことども、語らひきこえたまふを、
 「いとうれしきことにもはべるかな。あいなく、みづからの過ちとなむ思うたまへらるる飽かぬ昔の名残を、また尋ぬべき方もはべらねば、おほかたには、何ごとにつけても、心寄せきこゆべき人となむ思うたまふるを、もし便なくや思し召さるべき」
 とて、かの、「異人とな思ひわきそ」と、譲りたまひし心おきてをも、すこしは語りきこえたまへど、岩瀬の森の呼子鳥めいたりし夜のことは、残したりけり。心のうちには、「かく慰めがたき形見にも、げに、さてこそ、かやうにも扱ひきこゆべかりけれ」と、悔しきことやうやうまさりゆけど、今はかひなきものゆゑ、「常にかうのみ思はば、あるまじき心もこそ出で来れ。誰がためにもあぢきなく、をこがましからむ」と思ひ離る。「さても、おはしまさむにつけても、まことに思ひ後見きこえむ方は、また誰れかは」と思せば、御渡りのことどもも心まうけせさせたまふ。

 かしこにも、よき若人童など求めて、人びとは心ゆき顔にいそぎ思ひたれど、今はとてこの伏見を荒らし果てむも、いみじく心細ければ、嘆かれたまふこと尽きせぬを、さりとても、またせめて心ごはく、絶え籠もりてもたけかるまじく、「浅からぬ仲の契りも、絶え果てぬべき御住まひを、いかに思しえたるぞ」とのみ、怨みきこえたまふも、すこしはことわりなれば、いかがすべからむ、と思ひ乱れたまへり。
 如月の朔日ごろとあれば、ほど近くなるままに、花の木どものけしきばむも残りゆかしく、「峰の霞の立つを見捨てむことも、おのが常世にてだにあらぬ旅寝にて、いかにはしたなく人笑はれなることもこそ」など、よろづにつつましく、心一つに思ひ明かし暮らしたまふ。
 御服も、限りあることなれば、脱ぎ捨てたまふに、禊も浅き心地ぞする。親一所は、見たてまつらざりしかば、恋しきことは思ほえず。その御代はりにも、この度の衣を深く染めむと、心には思しのたまへど、さすがに、さるべきゆゑもなきわざなれば、飽かず悲しきこと限りなし。
 中納言殿より、御車、御前の人びと、博士などたてまつれたまへり。
 「はかなしや霞の衣裁ちしまに
  花のひもとく折も来にけり」
 げに、色々いときよらにてたてまつれたまへり。御渡りのほどの被け物どもなど、ことことしからぬものから、品々にこまやかに思しやりつつ、いと多かり。
 「折につけては、忘れぬさまなる御心寄せのありがたく、はらからなども、えいとかうまではおはせぬわざぞ」
 など、人びとは聞こえ知らす。あざやかならぬ古人どもの心には、かかる方を心にしめて聞こゆ。若き人は、時々も見たてまつりならひて、今はと異ざまになりたまはむを、さうざうしく、「いかに恋しくおぼえさせたまはむ」と聞こえあへり。

 みづからは、渡りたまはむこと明日とての、まだつとめておはしたり。例の、客人居の方におはするにつけても、今はやうやうもの馴れて、「我こそ、人より先に、かうやうにも思ひそめしか」など、ありしさま、のたまひし心ばへを思ひ出でつつ、「さすがに、かけ離れ、ことの外になどは、はしたなめたまはざりしを、わが心もて、あやしうも隔たりにしかな」と、胸いたく思ひ続けられたまふ。
 垣間見せし障子の穴も思ひ出でらるれば、寄りて見たまへど、この中をば下ろし籠めたれば、いとかひなし。
 内にも、人びと思ひ出できこえつつうちひそみあへり。中の宮は、まして、もよほさるる御涙の川に、明日の渡りもおぼえたまはず、ほれぼれしげにてながめ臥したまへるに、
 「月ごろの積もりも、そこはかとなけれど、いぶせく思うたまへらるるを、片端もあきらめきこえさせて、慰めはべらばや。例の、はしたなくなさし放たせたまひそ。いとどあらぬ世の心地しはべり」
 と聞こえたまへれば、
 「はしたなしと思はれたてまつらむとしも思はねど、いさや、心地も例のやうにもおぼえず、かき乱りつつ、いとどはかばかしからぬひがこともやと、つつましうて」
 など、苦しげにおぼいたれど、「いとほし」など、これかれ聞こえて、中の障子の口にて対面したまへり。
 いと心恥づかしげになまめきて、また「このたびは、ねびまさりたまひにけり」と、目も驚くまで匂ひ多く、「人にも似ぬ用意など、あな、めでたの人や」とのみ見えたまへるを、姫宮は、面影さらぬ人の御ことをさへ思ひ出できこえたまふに、いとあはれと見たてまつりたまふ。
 「尽きせぬ御物語なども、今日は言忌すべくや」
 など言ひさしつつ、
 「渡らせたまふべき所近く、このころ過ぐして移ろひはべるべければ、夜中暁と、つきづきしき人の言ひはべるめる、何事の折にも、疎からず思しのたまはせば、世にはべらむ限りは、聞こえさせ承りて過ぐさまほしくなむはべるを、いかがは思し召すらむ。人の心さまざまにはべる世なれば、あいなくやなど、一方にもえこそ思ひはべらね」
 と聞こえたまへば、
 「宿をばかれじと思ふ心深くはべるを、近く、などのたまはするにつけても、よろづに乱れはべりて、聞こえさせやるべき方もなく」
 など、所々言ひ消ちて、いみじくものあはれと思ひたまへるけはひなど、いとようおぼえたまへるを、「心からよそのものに見なしつる」と、いと悔しく思ひゐたまへれど、かひなければ、その夜のことかけても言はず、忘れにけるにやと見ゆるまで、けざやかにもてなしたまへり。

 御前近き紅梅の、色も香もなつかしきに、鴬だに見過ぐしがたげにうち鳴きて渡るめれば、まして「春や昔の」と心を惑はしたまふどちの御物語に、折あはれなりかし。風のさと吹き入るるに、花の香も客人の御匂ひも、橘ならねど、昔思ひ出でらるるつまなり。「つれづれの紛らはしにも、世の憂き慰めにも、心とどめてもてあそびたまひしものを」など、心にあまりたまへば、
 「見る人もあらしにまよふ山里に
  昔おぼゆる花の香ぞする」
 言ふともなくほのかにて、たえだえ聞こえたるを、なつかしげにうち誦じなして、
 「袖ふれし梅は変はらぬ匂ひにて
  根ごめ移ろふ宿やことなる」
 堪へぬ涙をさまよくのごひ隠して、言多くもあらず、
 「またもなほ、かやうにてなむ、何ごとも聞こえさせよかるべき」
 など、聞こえおきて立ちたまひぬ。
 御渡りにあるべきことども、人びとにのたまひおく。この宿守に、かの鬚がちの宿直人などはさぶらふべければ、このわたりの近き御荘どもなどに、そのことどもものたまひ預けなど、こまやかなることどもをさへ定めおきたまふ。

 弁ぞ、
 「かやうの御供にも、思ひかけず長き命いとつらくおぼえはべるを、人もゆゆしく見思ふべければ、今は世にあるものとも人に知られはべらじ」
 とて、容貌も変へてけるを、しひて召し出でて、いとあはれと見たまふ。例の、昔物語などせさせたまひて、
 「ここには、なほ、時々は参り来べき、いとたつきなく心細かるべきに、かくてものしたまはむは、いとあはれにうれしかるべきことになむ」
 など、えも言ひやらず泣きたまふ。
 「厭ふにはえて延びはべる命のつらく、またいかにせよとて、うち捨てさせたまひけむ、と恨めしく、なべての世を思ひたまへ沈むに、罪もいかに深くはべらむ」
 と、思ひけることどもを愁へかけきこゆるも、かたくなしげなれど、いとよく言ひ慰めたまふ。
 いたくねびにたれど、昔、きよげなりける名残を削ぎ捨てたれば、額のほど、様変はれるに、すこし若くなりて、さる方に雅びかなり。
 「思ひわびては、などかかる様にもなしたてまつらざりけむ。それに延ぶるやうもやあらまし。さても、いかに心深く語らひきこえてあらまし」
 など、一方ならずおぼえたまふに、この人さへうらやましければ、隠ろへたる几帳をすこし引きやりて、こまかにぞ語らひたまふ。げに、むげに思ひほけたるさまながら、ものうち言ひたるけしき、用意、口惜しからず、ゆゑありける人の名残と見えたり。
 「さきに立つ涙の川に身を投げば
  人におくれぬ命ならまし」
 と、うちひそみ聞こゆ。
 「それもいと罪深かなることにこそ。かの岸に到ること、などか。さしもあるまじきことにてさへ、深き底に沈み過ぐさむもあいなし。すべて、なべてむなしく思ひとるべき世になむ」
 などのたまふ。
 「身を投げむ涙の川に沈みても
  恋しき瀬々に忘れしもせじ
 いかならむ世に、すこしも思ひ慰むることありなむ」
 と、果てもなき心地したまふ。
 帰らむ方もなく眺められて、日も暮れにけれど、すずろに旅寝せむも、人のとがむることやと、あいなければ、帰りたまひぬ。

 思ほしのたまへるさまを語りて、弁は、いとど慰めがたくくれ惑ひたり。皆人は心ゆきたるけしきにて、もの縫ひいとなみつつ、老いゆがめる容貌も知らず、つくろひさまよふに、いよいよやつして、
 「人はみないそぎたつめる袖の浦に
  一人藻塩を垂るる海人かな」
 と愁へきこゆれば、
 「塩垂るる海人の衣に異なれや
  浮きたる波に濡るるわが袖
 世に住みつかむことも、いとありがたかるべきわざとおぼゆれば、さまに従ひて、ここをば荒れ果てじとなむ思ふを、さらば対面もありぬべけれど、しばしのほども、心細くて立ちとまりたまふを見おくに、いとど心もゆかずなむ。かかる容貌なる人も、かならずひたぶるにしも絶え籠もらぬわざなめるを、なほ世の常に思ひなして、時々も見えたまへ」
 など、いとなつかしく語らひたまふ。昔の人のもてつかひたまひしさるべき御調度どもなどは、皆この人にとどめおきたまひて、
 「かく、人より深く思ひ沈みたまへるを見れば、前の世も、取り分きたる契りもや、ものしたまひけむと思ふさへ、睦ましくあはれになむ」
 とのたまふに、いよいよ童べの恋ひて泣くやうに、心をさめむ方なくおぼほれゐたり。


 


 皆かき払ひ、よろづとりしたためて、御車ども寄せて、御前の人びと、四位五位いと多かり。御みづからも、いみじうおはしまさまほしけれど、ことことしくなりて、なかなか悪しかるべければ、ただ忍びたるさまにもてなして、心もとなく思さる。
 中納言殿よりも、御前の人、数多くたてまつれたまへり。おほかたのことをこそ、宮よりは思しおきつめれ、こまやかなるうちうちの御扱ひは、ただこの殿より、思ひ寄らぬことなく訪らひきこえたまふ。
 日暮れぬべしと、内にも外にも、もよほしきこゆるに、心あわたたしく、いづちならむと思ふにも、いとはかなく悲しとのみ思ほえたまふに、御車に乗る大輔の君といふ人の言ふ、
 「ありふればうれしき瀬にも逢ひけるを
  身を宇治川に投げてましかば」
 うち笑みたるを、「弁の尼の心ばへに、こよなうもあるかな」と、心づきなうも見たまふ。いま一人、
 「過ぎにしが恋しきことも忘れねど
  今日はたまづもゆく心かな」
 いづれも年経たる人びとにて、皆かの御方をば、心寄せまほしくきこえためりしを、今はかく思ひ改めて言忌するも、「心憂の世や」とおぼえたまへば、ものも言はれたまはず。
 道のほどの、遥けくはげしき山路のありさまを見たまふにぞ、つらきにのみ思ひなされし人の御仲の通ひを、「ことわりの絶え間なりけり」と、すこし思し知られける。七日の月のさやかにさし出でたる影、をかしく霞みたるを見たまひつつ、いと遠きに、ならはず苦しければ、うち眺められて、
 「眺むれば山より出でて行く月も
  世に住みわびて山にこそ入れ」
 様変はりて、つひにいかならむとのみ、あやふく、行く末うしろめたきに、年ごろ何ごとをか思ひけむとぞ、取り返さまほしきや。


 宵うち過ぎてぞおはし着きたる。見も知らぬさまに、目もかかやくやうなる殿造りの、三つば四つばなる中に引き入れて、宮、いつしかと待ちおはしましければ、御車のもとに、みづから寄らせたまひて下ろしたてまつりたまふ。
 御しつらひなど、あるべき限りして、女房の局々まで、御心とどめさせたまひけるほどしるく見えて、いとあらまほしげなり。いかばかりのことにかと見えたまへる御ありさまの、にはかにかく定まりたまへば、「おぼろけならず思さるることなめり」と、世人も心にくく思ひおどろきけり。
 中納言は、三条の宮に、この二十余日のほどに渡りたまはむとて、このころは日々におはしつつ見たまふに、この院近きほどなれば、けはひも聞かむとて、夜更くるまでおはしけるに、たてまつれたまへる御前の人びと帰り参りて、ありさまなど語りきこゆ。
 いみじう御心に入りてもてなしたまふなるを聞きたまふにも、かつはうれしきものから、さすがに、わが心ながらをこがましく、胸うちつぶれて、「ものにもがなや」と、返す返す独りごたれて、
 「しなてるや鳰の湖に漕ぐ舟の
  まほならねどもあひ見しものを」
 とぞ言ひくたさまほしき。

 右の大殿は、六の君を宮にたてまつりたまはむこと、この月にと思し定めたりけるに、かく思ひの外の人を、このほどより先にと思し顔にかしづき据ゑたまひて、離れおはすれば、「いとものしげに思したり」と聞きたまふも、いとほしければ、御文は時々たてまつりたまふ。
 御裳着のこと、世に響きていそぎたまへるを、延べたまはむも人笑へなるべければ、二十日あまりに着せたてまつりたまふ。
 同じゆかりにめづらしげなくとも、この中納言をよそ人に譲らむが口惜しきに、
 「さもやなしてまし。年ごろ人知れぬものに思ひけむ人をも亡くなして、もの心細くながめゐたまふなるを」
 など思し寄りて、さるべき人してけしきとらせたまひけれど、
 「世のはかなさを目に近く見しに、いと心憂く、身もゆゆしうおぼゆれば、いかにもいかにも、さやうのありさまはもの憂くなむ」
 と、すさまじげなるよし聞きたまひて、
 「いかでか、この君さへ、おほなおほな言出づることを、もの憂くはもてなすべきぞ」
 と恨みたまひけれど、親しき御仲らひながらも、人ざまのいと心恥づかしげにものしたまへば、えしひてしも聞こえ動かしたまはざりけり。

 花盛りのほど、二条の院の桜を見やりたまふに、主なき宿のまづ思ひやられたまへば、「心やすくや」など、独りごちあまりて、宮の御もとに参りたまへり。
 ここがちにおはしましつきて、いとよう住み馴れたまひにたれば、「めやすのわざや」と見たてまつるものから、例の、いかにぞやおぼゆる心の添ひたるぞ、あやしきや。されど、実の御心ばへは、いとあはれにうしろやすくぞ思ひきこえたまひける。
 何くれと御物語聞こえ交はしたまひて、夕つ方、宮は内裏へ参りたまはむとて、御車の装束して、人びと多く参り集まりなどすれば、立ち出でたまひて、対の御方へ参りたまへり。
 山里のけはひ、ひきかへて、御簾のうち心にくく住みなして、をかしげなる童の、透影ほの見ゆるして、御消息聞こえたまへれば、御茵さし出でて、昔の心知れる人なるべし、出で来て御返り聞こゆ。
 「朝夕の隔てもあるまじう思うたまへらるるほどながら、そのこととなくて聞こえさせむも、なかなかなれなれしきとがめやと、つつみはべるほどに、世の中変はりにたる心地のみぞしはべるや。御前の梢も霞隔てて見えはべるに、あはれなること多くもはべるかな」
 と聞こえて、うち眺めてものしたまふけしき、心苦しげなるを、
 「げに、おはせましかば、おぼつかなからず行き返り、かたみに花の色、鳥の声をも、折につけつつ、すこし心ゆきて過ぐしつべかりける世を」
 など、思し出づるにつけては、ひたぶるに絶え籠もりたまへりし住まひの心細さよりも、飽かず悲しう、口惜しきことぞ、いとどまさりける。

 人びとも、
 「世の常に、ことことしくなもてなしきこえさせたまひそ。限りなき御心のほどをば、今しもこそ、見たてまつり知らせたまふさまをも、見えたてまつらせたまふべけれ」
 など聞こゆれど、人伝てならず、ふとさし出で聞こえむことの、なほつつましきを、やすらひたまふほどに、宮、出でたまはむとて、御まかり申しに渡りたまへり。いときよらにひきつくろひ化粧じたまひて、見るかひある御さまなり。
 中納言はこなたになりけり、と見たまひて、
 「などか、むげにさし放ちては、出だし据ゑたまへる。御あたりには、あまりあやしと思ふまで、うしろやすかりし心寄せを。わがためはをこがましきこともや、とおぼゆれど、さすがにむげに隔て多からむは、罪もこそ得れ。近やかにて、昔物語もうち語らひたまへかし」
 など、聞こえたまふものから、
 「さはありとも、あまり心ゆるびせむも、またいかにぞや。疑はしき下の心にぞあるや」
 と、うち返しのたまへば、一方ならずわづらはしけれど、わが御心にも、あはれ深く思ひ知られにし人の御心を、今しもおろかなるべきならねば、「かの人も思ひのたまふめるやうに、いにしへの御代はりとなずらへきこえて、かう思ひ知りけりと、見えたてまつるふしもあらばや」とは思せど、さすがに、とかくやと、かたがたにやすからず聞こえなしたまへば、苦しう思されけり。



  

  

            現代語訳 補足 目次

      四十九、 宿 木   
 


   
 



 そのころ、藤壺と聞こゆるは、故左大臣殿の女御になむおはしける。まだ春宮と聞こえさせし時、人より先に参りたまひにしかば、睦ましくあはれなる方の御思ひは、ことにものしたまふめれど、そのしるしと見ゆるふしもなくて年経たまふに、中宮には、宮たちさへあまた、ここら大人びたまふめるに、さやうのこともすくなくて、ただ女宮一所をぞ持ちたてまつりたまへりける。
 わがいと口惜しく、人におされたてまつりぬる宿世、嘆かしくおぼゆる代はりに、「この宮をだに、いかで行く末の心も慰むばかりにて見たてまつらむ」と、かしづききこえたまふことおろかならず。御容貌もいとをかしくおはすれば、帝もらうたきものに思ひきこえさせたまへり。
 女一の宮を、世にたぐひなきものにかしづききこえさせたまふに、おほかたの世のおぼえこそ及ぶべうもあらね、うちうちの御ありさまは、をさをさ劣らず。父大臣の御勢ひ、厳しかりし名残、いたく衰へねば、ことに心もとなきことなどなくて、さぶらふ人びとのなり姿よりはじめ、たゆみなく、時々につけつつ、調へ好み、今めかしくゆゑゆゑしきさまにもてなしたまへり。


 十四になりたまふ年、御裳着せたてまつりたまはむとて、春よりうち始めて、異事なく思し急ぎて、何事もなべてならぬさまにと思しまうく。
 いにしへより伝はりたりける宝物ども、この折にこそはと、探し出でつつ、いみじく営みたまふに、女御、夏ごろ、もののけにわづらひたまひて、いとはかなく亡せたまひぬ。言ふかひなく口惜しきことを、内裏にも思し嘆く。
 心ばへ情け情けしく、なつかしきところおはしつる御方なれば、殿上人どもも、「こよなくさうざうしかるべきわざかな」と、惜しみきこゆ。おほかたさるまじき際の女官などまで、しのびきこえぬはなし。
 宮は、まして若き御心地に、心細く悲しく思し入りたるを、聞こし召して、心苦しくあはれに思し召さるれば、御四十九日過ぐるままに、忍びて参らせたてまつらせたまへり。日々に、渡らせたまひつつ見たてまつらせたまふ。
 黒き御衣にやつれておはするさま、いとどらうたげにあてなるけしきまさりたまへり。心ざまもいとよく大人びたまひて、母女御よりも今すこしづしやかに、重りかなるところはまさりたまへるを、うしろやすくは見たてまつらせたまへど、まことには、御母方とても、後見と頼ませたまふべき、叔父などやうのはかばかしき人もなし。わづかに大蔵卿、修理大夫などいふは、女御にも異腹なりける。
 ことに世のおぼえ重りかにもあらず、やむごとなからぬ人びとを頼もし人にておはせむに、「女は心苦しきこと多かりぬべきこそいとほしけれ」など、御心一つなるやうに思し扱ふも、やすからざりけり。

 御前の菊移ろひ果てて盛りなるころ、空のけしきのあはれにうちしぐるるにも、まづこの御方に渡らせたまひて、昔のことなど聞こえさせたまふに、御いらへなども、おほどかなるものから、いはけなからずうち聞こえさせたまふを、うつくしく思ひきこえさせたまふ。
 かやうなる御さまを見知りぬべからむ人の、もてはやしきこえむも、などかはあらむ、朱雀院の姫宮を、六条の院に譲りきこえたまひし折の定めどもなど、思し召し出づるに、
 「しばしは、いでや、飽かずもあるかな。さらでもおはしなまし、と聞こゆることどもありしかど、源中納言の、人よりことなるありさまにて、かくよろづを後見たてまつるにこそ、そのかみの御おぼえ衰へず、やむごとなきさまにてはながらへたまふめれ。さらずは、御心より外なる事どもも出で来て、おのづから人に軽められたまふこともやあらまし」
 など思し続けて、「ともかくも、御覧ずる世にや思ひ定めまし」と思し寄るには、やがて、そのついでのままに、この中納言より他に、よろしかるべき人、またなかりけり。
 「宮たちの御かたはらにさし並べたらむに、何事もめざましくはあらじを。もとより思ふ人持たりて、聞きにくきことうちまずまじくはた、あめるを、つひにはさやうのことなくてしもえあらじ。さらぬ先に、さもやほのめかしてまし」
 など、折々思し召しけり。

 御碁など打たせたまふ。暮れゆくままに、時雨をかしきほどに、花の色も夕映えしたるを御覧じて、人召して、
 「ただ今、殿上には誰れ誰れか」
 と問はせたまふに、
 「中務親王、上野親王、中納言源朝臣さぶらふ」
 と奏す。
 「中納言朝臣こなたへ」
 と仰せ言ありて参りたまへり。げに、かく取り分きて召し出づるもかひありて、遠くより薫れる匂ひよりはじめ、人に異なるさましたまへり。
 「今日の時雨、常よりことにのどかなるを、遊びなどすさまじき方にて、いとつれづれなるを、いたづらに日を送る戯れにて、これなむよかるべき」
 とて、碁盤召し出でて、御碁の敵に召し寄す。いつもかやうに、気近くならしまつはしたまふにならひにたれば、「さにこそは」と思ふに、
 「好き賭物はありぬべけれど、軽々しくはえ渡すまじきを、何をかは」
 などのたまはする御けしき、いかが見ゆらむ、いとど心づかひしてさぶらひたまふ。
 さて、打たせたまふに、三番に数一つ負けさせたまひぬ。
 「ねたきわざかな」とて、「まづ、今日は、この花一枝許す」
 とのたまはすれば、御いらへ聞こえさせで、下りておもしろき枝を折りて参りたまへり。
 「世の常の垣根に匂ふ花ならば
  心のままに折りて見ましを」
 と奏したまへる、用意あさからず見ゆ。
 「霜にあへず枯れにし園の菊なれど
  残りの色はあせずもあるかな」
 とのたまはす。
 かやうに、折々ほのめかさせたまふ御けしきを、人伝てならず承りながら、例の心の癖なれば、急がしくしもおぼえず。
 「いでや、本意にもあらず。さまざまにいとほしき人びとの御ことどもをも、よく聞き過ぐしつつ年経ぬるを、今さらに聖のものの、世に帰り出でむ心地すべきこと」
 と思ふも、かつはあやしや。
 「ことさらに心を尽くす人だにこそあなれ」とは思ひながら、「后腹におはせばしも」とおぼゆる心の内ぞ、あまりおほけなかりける。

 かかることを、右の大殿ほの聞きたまひて、
 「六の君は、さりともこの君にこそは。しぶしぶなりとも、まめやかに恨み寄らば、つひには、えいなび果てじ」
 と思しつるを、「思ひの外のこと出で来ぬべかなり」と、ねたく思されければ、兵部卿宮はた、わざとにはあらねど、折々につけつつ、をかしきさまに聞こえたまふことなど絶えざりければ、
 「さはれ、なほざりの好きにはありとも、さるべきにて、御心とまるやうもなどかなからむ。水漏るまじく思ひ定めむとても、なほなほしき際に下らむはた、いと人悪ろく、飽かぬ心地すべし」
 など思しなりにたり。
 「女子うしろめたげなる世の末にて、帝だに婿求めたまふ世に、まして、ただ人の盛り過ぎむもあいなし」
 など、誹らはしげにのたまひて、中宮をもまめやかに恨み申したまふこと、たび重なれば、聞こし召しわづらひて、
 「いとほしく、かくおほなおほな思ひ心ざして年経たまひぬるを、あやにくに逃れきこえたまはむも、情けなきやうならむ。親王たちは、御後見からこそ、ともかくもあれ。
 主上の、御代も末になり行くとのみ思しのたまふめるを、ただ人こそ、ひと事に定まりぬれば、また心を分けむことも難げなめれ。それだに、かの大臣のまめだちながら、こなたかなた羨みなくもてなしてものしたまはずやはある。まして、これは、思ひおきてきこゆることも叶はば、あまたもさぶらはむになどかあらむ」
 など、例ならず言続けて、あるべかしく聞こえさせたまふを、
 「わが御心にも、もとよりもて離れて、はた、思さぬことなれば、あながちには、などてかはあるまじきさまにも聞こえさせたまはむ。ただ、いとことうるはしげなるあたりにとり籠められて、心やすくならひたまへるありさまの所狭からむことを、なま苦しく思すにもの憂きなれど、げに、この大臣に、あまり怨ぜられ果てむもあいなからむ」
 など、やうやう思し弱りにたるべし。あだなる御心なれば、かの按察使大納言の、紅梅の御方をも、なほ思し絶えず、花紅葉につけてもののたまひわたりつつ、いづれをもゆかしくは思しけり。されど、その年は変はりぬ。


 


 女二の宮も、御服果てぬれば、「いとど何事にか憚りたまはむ。さも聞こえ出でば」と思し召したる御けしきなど、告げきこゆる人びともあるを、「あまり知らず顔ならむも、ひがひがしうなめげなり」と思し起こして、ほのめかしまゐらせたまふ折々もあるに、「はしたなきやうは、などてかはあらむ。そのほどに思し定めたなり」と伝てにも聞く、みづから御けしきをも見れど、心の内には、なほ飽かず過ぎたまひにし人の悲しさのみ、忘るべき世なくおぼゆれば、「うたて、かく契り深くものしたまひける人の、などてかは、さすがに疎くては過ぎにけむ」と心得がたく思ひ出でらる。
 「口惜しき品なりとも、かの御ありさまにすこしもおぼえたらむ人は、心もとまりなむかし。昔ありけむ香の煙につけてだに、今一度見たてまつるものにもがな」とのみおぼえて、やむごとなき方ざまに、いつしかなど急ぐ心もなし。
 右の大殿には急ぎたちて、「八月ばかりに」と聞こえたまひけり。二条院の対の御方には、聞きたまふに、
 「さればよ。いかでかは、数ならぬありさまなめれば、かならず人笑へに憂きこと出で来むものぞ、とは思ふ思ふ過ごしつる世ぞかし。あだなる御心と聞きわたりしを、頼もしげなく思ひながら、目に近くては、ことにつらげなること見えず、あはれに深き契りをのみしたまへるを、にはかに変はりたまはむほど、いかがはやすき心地はすべからむ。ただ人の仲らひなどのやうに、いとしも名残なくなどはあらずとも、いかにやすげなきこと多からむ。なほ、いと憂き身なめれば、つひには、山住みに帰るべきなめり」
 と思すにも、「やがて跡絶えなましよりは、山賤の待ち思はむも人笑へなりかし。返す返すも、宮ののたまひおきしことに違ひて、草のもとを離れにける心軽さ」を、恥づかしくもつらくも思ひ知りたまふ。
 「故姫君の、いとしどけなげに、ものはかなきさまにのみ、何事も思しのたまひしかど、心の底のづしやかなるところは、こよなくもおはしけるかな。中納言の君の、今に忘るべき世なく嘆きわたりたまふめれど、もし世におはせましかば、またかやうに思すことはありもやせまし。
 それを、いと深く、いかでさはあらじ、と思ひ入りたまひて、とざまかうざまに、もて離れむことを思して、容貌をも変へてむとしたまひしぞかし。かならずさるさまにてぞおはせまし。
 今思ふに、いかに重りかなる御心おきてならまし。亡き御影どもも、我をばいかにこよなきあはつけさと見たまふらむ」
 と恥づかしく悲しく思せど、「何かは、かひなきものから、かかるけしきをも見えたてまつらむ」と忍び返して、聞きも入れぬさまにて過ぐしたまふ。


 宮は、常よりもあはれになつかしく、起き臥し語らひ契りつつ、この世のみならず、長きことをのみぞ頼みきこえたまふ。
 さるは、この五月ばかりより、例ならぬさまに悩ましくしたまふこともありけり。こちたく苦しがりなどはしたまはねど、常よりももの参ることいとどなく、臥してのみおはするを、まださやうなる人のありさま、よくも見知りたまはねば、「ただ暑きころなれば、かくおはするなめり」とぞ思したる。
 さすがにあやしと思しとがむることもありて、「もし、いかなるぞ。さる人こそ、かやうには悩むなれ」など、のたまふ折もあれど、いと恥づかしくしたまひて、さりげなくのみもてなしたまへるを、さし過ぎ聞こえ出づる人もなければ、たしかにもえ知りたまはず。
 八月になりぬれば、その日など、他よりぞ伝へ聞きたまふ。宮は、隔てむとにはあらねど、言ひ出でむほど心苦しくいとほしく思されて、さものたまはぬを、女君は、それさへ心憂くおぼえたまふ。忍びたることにもあらず、世の中なべて知りたることを、そのほどなどだにのたまはぬことと、いかが恨めしからざらむ。
 かく渡りたまひにし後は、ことなることなければ、内裏に参りたまひても、夜泊ることはことにしたまはず、ここかしこの御夜離れなどもなかりつるを、にはかにいかに思ひたまはむと、心苦しき紛らはしに、このころは、時々御宿直とて参りなどしたまひつつ、かねてよりならはしきこえたまふをも、ただつらき方にのみぞ思ひおかれたまふべき。

 中納言殿も、「いといとほしきわざかな」と聞きたまふ。「花心におはする宮なれば、あはれとは思すとも、今めかしき方にかならず御心移ろひなむかし。女方も、いとしたたかなるわたりにて、ゆるびなく聞こえまつはしたまはば、月ごろも、さもならひたまはで、待つ夜多く過ごしたまはむこそ、あはれなるべけれ」
 など思ひ寄るにつけても、
 「あいなしや、わが心よ。何しに譲りきこえけむ。昔の人に心をしめてし後、おほかたの世をも思ひ離れて澄み果てたりし方の心も濁りそめにしかば、ただかの御ことをのみ、とざまかうざまには思ひながら、さすがに人の心許されであらむことは、初めより思ひし本意なかるべし」
 と憚りつつ、「ただいかにして、すこしもあはれと思はれて、うちとけたまへらむけしきをも見む」と、行く先のあらましごとのみ思ひ続けしに、人は同じ心にもあらずもてなして、さすがに、一方にもえさし放つまじく思ひたまへる慰めに、同じ身ぞと言ひなして、本意ならぬ方におもむけたまひしが、ねたく恨めしかりしかば、「まづ、その心おきてを違へむとて、急ぎせしわざぞかし」など、あながちに女々しくものぐるほしく率て歩き、たばかりきこえしほど思ひ出づるも、「いとけしからざりける心かな」と、返す返すぞ悔しき。
 「宮も、さりとも、そのほどのありさま思ひ出でたまはば、わが聞かむところをもすこしは憚りたまはじや」と思ふに、「いでや、今は、その折のことなど、かけてものたまひ出でざめりかし。なほ、あだなる方に進み、移りやすなる人は、女のためのみにもあらず、頼もしげなく軽々しき事もありぬべきなめりかし」
 など、憎く思ひきこえたまふ。わがまことにあまり一方にしみたる心ならひに、人はいとこよなくもどかしく見ゆるなるべし。

 「かの人をむなしく見なしきこえたまうてし後、思ふには、帝の御女を賜はむと思ほしおきつるも、うれしくもあらず、この君を見ましかばとおぼゆる心の、月日に添へてまさるも、ただ、かの御ゆかりと思ふに、思ひ離れがたきぞかし。
 はらからといふ中にも、限りなく思ひ交はしたまへりしものを、今はとなりたまひにし果てにも、『とまらむ人を同じごとと思へ』とて、『よろづは思はずなることもなし。ただかの思ひおきてしさまを違へたまへるのみなむ、口惜しう恨めしきふしにて、この世には残るべき』とのたまひしものを、天翔りても、かやうなるにつけては、いとどつらしとや見たまふらむ」
 など、つくづくと人やりならぬ独り寝したまふ夜な夜なは、はかなき風の音にも目のみ覚めつつ、来し方行く先、人の上さへ、あぢきなき世を思ひめぐらしたまふ。
 なげのすさびにものをも言ひ触れ、気近く使ひならしたまふ人びとの中には、おのづから憎からず思さるるもありぬべけれど、まことには心とまるもなきこそ、さはやかなれ。
 さるは、かの君たちのほどに劣るまじき際の人びとも、時世にしたがひつつ衰へて、心細げなる住まひするなどを、尋ね取りつつあらせなど、いと多かれど、「今はと世を逃れ背き離れむ時、この人こそと、取り立てて、心とまるほだしになるばかりなることはなくて過ぐしてむ」と思ふ心深かりしを、「いと、さも悪ろく、わが心ながら、ねぢけてもあるかな」
 など、常よりも、やがてまどろまず明かしたまへる朝に、霧の籬より、花の色々おもしろく見えわたれる中に、朝顔のはかなげにて混じりたるを、なほことに目とまる心地したまふ。「明くる間咲きて」とか、常なき世にもなずらふるが、心苦しきなめりかし。
 格子も上げながら、いとかりそめにうち臥しつつのみ明かしたまへば、この花の開くるほどをも、ただ一人のみ見たまひける。

 人召して、
 「北の院に参らむに、ことことしからぬ車さし出でさせよ」
 とのたまへば、
 「宮は、昨日より内裏になむおはしますなる。昨夜、御車率て帰りはべりにき」
 と申す。
 「さはれ、かの対の御方の悩みたまふなる、訪らひきこえむ。今日は内裏に参るべき日なれば、日たけぬさきに」
 とのたまひて、御装束したまふ。出でたまふままに、降りて花の中に混じりたまへるさま、ことさらに艶だち色めきてももてなしたまはねど、あやしく、ただうち見るになまめかしく恥づかしげにて、いみじくけしきだつ色好みどもになずらふべくもあらず、おのづからをかしくぞ見えたまひける。朝顔引き寄せたまへる、露いたくこぼる。
 「今朝の間の色にや賞でむ置く露の
  消えぬにかかる花と見る見る
 はかな」
 と独りごちて、折りて持たまへり。女郎花をば、見過ぎてぞ出でたまひぬる。
 明け離るるままに、霧立ち乱る空をかしきに、
 「女どちは、しどけなく朝寝したまへらむかし。格子妻戸などうちたたき声づくらむこそ、うひうひしかるべけれ。朝まだきまだき来にけり」
 と思ひながら、人召して、中門の開きたるより見せたまへば、
 「御格子ども参りてはべるべし。女房の御けはひもしはべりつ」
 と申せば、下りて、霧の紛れにさまよく歩み入りたまへるを、「宮の忍びたる所より帰りたまへるにや」と見るに、露にうちしめりたまへる香り、例の、いとさまことに匂ひ来れば、
 「なほ、めざましくおはすかし。心をあまりをさめたまへるぞ憎き」
 など、あいなく、若き人びとは、聞こえあへり。
 おどろき顔にはあらず、よきほどにうちそよめきて、御茵さし出でなどするさまも、いとめやすし。
 「これにさぶらへと許させたまふほどは、人びとしき心地すれど、なほかかる御簾の前にさし放たせたまへるうれはしさになむ、しばしばもえさぶらはぬ」
 とのたまへば、
 「さらば、いかがはべるべからむ」
 など聞こゆ。
 「北面などやうの隠れぞかし。かかる古人などのさぶらはむにことわりなる休み所は。それも、また、ただ御心なれば、愁へきこゆべきにもあらず」
 とて、長押に寄りかかりておはすれば、例の、人びと、
 「なほ、あしこもとに」
 など、そそのかしきこゆ。

 もとよりも、けはひはやりかに男々しくなどはものしたまはぬ人柄なるを、いよいよしめやかにもてなしをさめたまへれば、今は、みづから聞こえたまふことも、やうやううたてつつましかりし方、すこしづつ薄らぎて、面馴れたまひにたり。
 悩ましく思さるらむさまも、「いかなれば」など問ひきこえたまへど、はかばかしくもいらへきこえたまはず、常よりもしめりたまへるけしきの心苦しきも、あはれにおぼえたまひて、こまやかに、世の中のあるべきやうなどを、はらからやうの者のあらましやうに、教へ慰めきこえたまふ。
 声なども、わざと似たまへりともおぼえざりしかど、あやしきまでただそれとのみおぼゆるに、人目見苦しかるまじくは、簾もひき上げてさし向かひきこえまほしく、うち悩みたまへらむ容貌ゆかしくおぼえたまふも、「なほ、世の中にもの思はぬ人は、えあるまじきわざにやあらむ」とぞ思ひ知られたまふ。
 「人びとしくきらきらしき方にははべらずとも、心に思ふことあり、嘆かしく身をもて悩むさまになどはなくて過ぐしつべきこの世と、みづから思ひたまへし、心から、悲しきことも、をこがましく悔しきもの思ひをも、かたがたにやすからず思ひはべるこそ、いとあいなけれ。官位などいひて、大事にすめる、ことわりの愁へにつけて嘆き思ふ人よりも、これや、今すこし罪の深さはまさるらむ」
 など言ひつつ、折りたまへる花を、扇にうち置きて見ゐたまへるに、やうやう赤みもて行くも、なかなか色のあはひをかしく見ゆれば、やをらさし入れて、
 「よそへてぞ見るべかりける白露の
  契りかおきし朝顔の花」
 ことさらびてしももてなさぬに、「露落とさで持たまへりけるよ」と、をかしく見ゆるに、置きながら枯るるけしきなれば、
 「消えぬまに枯れぬる花のはかなさに
  おくるる露はなほぞまされる
 何にかかれる」
 と、いと忍びて言も続かず、つつましげに言ひ消ちたまへるほど、「なほ、いとよく似たまへるものかな」と思ふにも、まづぞ悲しき。

 「秋の空は、今すこし眺めのみまさりはべり。つれづれの紛らはしにもと思ひて、先つころ、宇治にものしてはべりき。庭も籬もまことにいとど荒れ果ててはべりしに、堪へがたきこと多くなむ。
 故院の亡せたまひて後、二、三年ばかりの末に、世を背きたまひし嵯峨の院にも、六条の院にも、さしのぞく人の、心をさめむ方なくなむはべりける。木草の色につけても、涙にくれてのみなむ帰りはべりける。かの御あたりの人は、上下心浅き人なくこそはべりけれ。
 方々集ひものせられける人びとも、皆所々あかれ散りつつ、おのおの思ひ離るる住まひをしたまふめりしに、はかなきほどの女房などはた、まして心をさめむ方なくおぼえけるままに、ものおぼえぬ心にまかせつつ、山林に入り混じり、すずろなる田舎人になりなど、あはれに惑ひ散るこそ多くはべりけれ。
 さて、なかなか皆荒らし果て、忘れ草生ほして後なむ、この右の大臣も渡り住み、宮たちなども方々ものしたまへば、昔に返りたるやうにはべめる。さる世に、たぐひなき悲しさと見たまへしことも、年月経れば、思ひ覚ます折の出で来るにこそは、と見はべるに、げに、限りあるわざなりけり、となむ見えはべる。
 かくは聞こえさせながらも、かのいにしへの悲しさは、まだいはけなくもはべりけるほどにて、いとさしもしまぬにやはべりけむ。なほ、この近き夢こそ、覚ますべき方なく思ひたまへらるるは、同じこと、世の常なき悲しびなれど、罪深き方はまさりてはべるにやと、それさへなむ心憂くはべる」
 とて、泣きたまへるほど、いと心深げなり。
 昔の人を、いとしも思ひきこえざらむ人だに、この人の思ひたまへるけしきを見むには、すずろにただにもあるまじきを、まして、我もものを心細く思ひ乱れたまふにつけては、いとど常よりも、面影に恋しく悲しく思ひきこえたまふ心なれば、今すこしもよほされて、ものもえ聞こえたまはず、ためらひかねたまへるけはひを、かたみにいとあはれと思ひ交はしたまふ。

 「世の憂きよりはなど、人は言ひしをも、さやうに思ひ比ぶる心もことになくて、年ごろは過ぐしはべりしを、今なむ、なほいかで静かなるさまにても過ぐさまほしく思うたまふるを、さすがに心にもかなはざめれば、弁の尼こそうらやましくはべれ。
 この二十日あまりのほどは、かの近き寺の鐘の声も聞きわたさまほしくおぼえはべるを、忍びて渡させたまひてむや、と聞こえさせばやとなむ思ひはべりつる」
 とのたまへば、
 「荒らさじと思すとも、いかでかは。心やすき男だに、往き来のほど荒ましき山道にはべれば、思ひつつなむ月日も隔たりはべる。故宮の御忌日は、かの阿闍梨に、さるべきことども皆言ひおきはべりにき。かしこは、なほ尊き方に思し譲りてよ。時々見たまふるにつけては、心惑ひの絶えせぬもあいなきに、罪失ふさまになしてばや、となむ思ひたまふるを、またいかが思しおきつらむ。
 ともかくも定めさせたまはむに従ひてこそは、とてなむ。あるべからむやうにのたまはせよかし。何事も疎からず承らむのみこそ、本意のかなふにてははべらめ」
 など、まめだちたることどもを聞こえたまふ。経仏など、この上も供養じたまふべきなめり。かやうなるついでにことづけて、やをら籠もりゐなばや、などおもむけたまへるけしきなれば、
 「いとあるまじきことなり。なほ、何事も心のどかに思しなせ」
 と教へきこえたまふ。

 日さし上がりて、人びと参り集まりなどすれば、あまり長居もことあり顔ならむによりて、出でたまひなむとて、
 「いづこにても、御簾の外にはならひはべらねば、はしたなき心地しはべりてなむ。今また、かやうにもさぶらはむ」
 とて立ちたまひぬ。「宮の、などかなき折には来つらむ」と思ひたまひぬべき御心なるもわづらはしくて、侍の別当なる、右京大夫召して、
 「昨夜まかでさせたまひぬと承りて参りつるを、まだしかりければ口惜しきを。内裏にや参るべき」
 とのたまへば、
 「今日は、まかでさせたまひなむ」
 と申せば、
 「さらば、夕つ方も」
 とて、出でたまひぬ。
 なほ、この御けはひありさまを聞きたまふたびごとに、などて昔の人の御心おきてをもて違へて、思ひ隈なかりけむと、悔ゆる心のみまさりて、心にかかりたるもむつかしく、「なぞや、人やりならぬ心ならむ」と思ひ返したまふ。そのままにまだ精進にて、いとどただ行なひをのみしたまひつつ、明かし暮らしたまふ。
 母宮の、なほいとも若くおほどきて、しどけなき御心にも、かかる御けしきを、いとあやふくゆゆしと思して、
 「幾世しもあらじを、見たてまつらむほどは、なほかひあるさまにて見えたまへ。世の中を思ひ捨てたまはむをも、かかる容貌にては、さまたげきこゆべきにもあらぬを、この世の言ふかひなき心地すべき心惑ひに、いとど罪や得むとおぼゆる」
 とのたまふが、かたじけなくいとほしくて、よろづを思ひ消ちつつ、御前にてはもの思ひなきさまを作りたまふ。


 


 右の大殿には、六条院の東の御殿磨きしつらひて、限りなくよろづを整へて待ちきこえたまふに、十六日の月やうやうさし上がるまで心もとなければ、いとしも御心に入らぬことにて、いかならむと、やすからず思ほして、案内したまへば、
 「この夕つ方、内裏より出でたまひて、二条院になむおはしますなる」
 と、人申す。思す人持たまへればと、心やましけれど、今宵過ぎむも人笑へなるべければ、御子の頭中将して聞こえたまへり。
 「大空の月だに宿るわが宿に
  待つ宵過ぎて見えぬ君かな」
 宮は、「なかなか今なむとも見えじ、心苦し」と思して、内裏におはしけるを、御文聞こえたまへりけり。御返りやいかがありけむ、なほいとあはれに思されければ、忍びて渡りたまへりけるなりけり。らうたげなるありさまを、見捨てて出づべき心地もせず、いとほしければ、よろづに契り慰めて、もろともに月を眺めておはするほどなりけり。
 女君は、日ごろもよろづに思ふこと多かれど、いかでけしきに出ださじと念じ返しつつ、つれなく覚ましたまふことなれば、ことに聞きもとどめぬさまに、おほどかにもてなしておはするけしき、いとあはれなり。
 中将の参りたまへるを聞きたまひて、さすがにかれもいとほしければ、出でたまはむとて、
 「今、いと疾く参り来む。一人月な見たまひそ。心そらなればいと苦しき」
 と聞こえおきたまひて、なほかたはらいたければ、隠れの方より寝殿へ渡りたまふ、御うしろでを見送るに、ともかくも思はねど、ただ枕の浮きぬべき心地すれば、「心憂きものは人の心なりけり」と、我ながら思ひ知らる。


 「幼きほどより心細くあはれなる身どもにて、世の中を思ひとどめたるさまにもおはせざりし人一所を頼みきこえさせて、さる山里に年経しかど、いつとなくつれづれにすごくありながら、いとかく心にしみて世を憂きものとも思はざりしに、うち続きあさましき御ことどもを思ひしほどは、世にまたとまりて片時経べくもおぼえず、恋しく悲しきことのたぐひあらじと思ひしを、命長くて今までもながらふれば、人の思ひたりしほどよりは、人にもなるやうなるありさまを、長かるべきこととは思はねど、見る限りは憎げなき御心ばへもてなしなるに、やうやう思ふこと薄らぎてありつるを、この折ふしの身の憂さはた、言はむ方なく、限りとおぼゆるわざなりけり。
 ひたすら世になくなりたまひにし人びとよりは、さりともこれは、時々もなどかは、とも思ふべきを、今宵かく見捨てて出でたまふつらさ、来し方行く先、皆かき乱り心細くいみじきが、わが心ながら思ひやる方なく、心憂くもあるかな。おのづからながらへば」
 など慰めむことを思ふに、さらに姨捨山の月澄み昇りて、夜更くるままによろづ思ひ乱れたまふ。松風の吹き来る音も、荒ましかりし山おろしに思ひ比ぶれば、いとのどかになつかしく、めやすき御住まひなれど、今宵はさもおぼえず、椎の葉の音には劣りて思ほゆ。
 「山里の松の蔭にもかくばかり
  身にしむ秋の風はなかりき」
 来し方忘れにけるにやあらむ。
 老い人どもなど、
 「今は、入らせたまひね。月見るは忌みはべるものを。あさましく、はかなき御くだものをだに御覧じ入れねば、いかにならせたまはむ」と。「あな、見苦しや。ゆゆしう思ひ出でらるることもはべるを、いとこそわりなく」
 とうち嘆きて、
 「いで、この御ことよ。さりとも、かうておろかには、よもなり果てさせたまはじ。さいへど、もとの心ざし深く思ひそめつる仲は、名残なからぬものぞ」
 など言ひあへるも、さまざまに聞きにくく、「今は、いかにもいかにもかけて言はざらなむ、ただにこそ見め」と思さるるは、人には言はせじ、我一人怨みきこえむとにやあらむ。「いでや、中納言殿の、さばかりあはれなる御心深さを」など、そのかみの人びとは言ひあはせて、「人の御宿世のあやしかりけることよ」と言ひあへり。

 宮は、いと心苦しく思しながら、今めかしき御心は、いかでめでたきさまに待ち思はれむと、心懸想して、えならず薫きしめたまへる御けはひ、言はむ方なし。待ちつけきこえたまへる所のありさまも、いとをかしかりけり。人のほど、ささやかにあえかになどはあらで、よきほどになりあひたる心地したまへるを、
 「いかならむ。ものものしくあざやぎて、心ばへもたをやかなる方はなく、ものほこりかになどやあらむ。さらばこそ、うたてあるべけれ」
 などは思せど、さやなる御けはひにはあらぬにや、御心ざしおろかなるべくも思されざりけり。秋の夜なれど、更けにしかばにや、ほどなく明けぬ。
 帰りたまひても、対へはふともえ渡りたまはず、しばし大殿籠もりて、起きてぞ御文書きたまふ。
 「御けしきけしうはあらぬなめり」
 と、御前なる人びとつきじろふ。
 「対の御方こそ心苦しけれ。天下にあまねき御心なりとも、おのづからけおさるることもありなむかし」
 など、ただにしもあらず、皆馴れ仕うまつりたる人びとなれば、やすからずうち言ふどももありて、すべて、なほねたげなるわざにぞありける。「御返りも、こなたにてこそは」と思せど、「夜のほどおぼつかなさも、常の隔てよりはいかが」と、心苦しければ、急ぎ渡りたまふ。
 寝くたれの御容貌、いとめでたく見所ありて、入りたまへるに、臥したるもうたてあれば、すこし起き上がりておはするに、うち赤みたまへる顔の匂ひなど、今朝しもことにをかしげさまさりて見えたまふに、あいなく涙ぐまれて、しばしうちまもりきこえたまふを、恥づかしく思してうつ臥したまへる、髪のかかり、髪ざしなど、なほいとありがたげなり。
 宮も、なまはしたなきに、こまやかなることなどは、ふともえ言ひ出でたまはぬ面隠しにや、
 「などかくのみ悩ましげなる御けしきならむ。暑きほどのこととか、のたまひしかば、いつしかと涼しきほど待ち出でたるも、なほはればれしからぬは、見苦しきわざかな。さまざまにせさすることも、あやしく験なき心地こそすれ。さはありとも、修法はまた延べてこそはよからめ。験あらむ僧もがな。なにがし僧都をぞ、夜居にさぶらはすべかりける」
 など、やうなるまめごとをのたまへば、かかる方にも言よきは、心づきなくおぼえたまへど、むげにいらへきこえざらむも例ならねば、
 「昔も、人に似ぬありさまにて、かやうなる折はありしかど、おのづからいとよくおこたるものを」
 とのたまへば、
 「いとよくこそ、さはやかなれ」
 とうち笑ひて、「なつかしく愛敬づきたる方は、これに並ぶ人はあらじかし」とは思ひながら、なほまた、とくゆかしき方の心焦られも立ち添ひたまへるは、御心ざしおろかにもあらぬなめりかし。

 されど、見たまふほどは変はるけぢめもなきにや、後の世まで誓ひ頼めたまふことどもの尽きせぬを聞くにつけても、げに、この世は短かめる命待つ間も、つらき御心に見えぬべければ、「後の契りや違はぬこともあらむ」と思ふにこそ、なほこりずまに、またも頼まれぬべけれとて、いみじく念ずべかめれど、え忍びあへぬにや、今日は泣きたまひぬ。
 日ごろも、「いかでかう思ひけりと見えたてまつらじ」と、よろづに紛らはしつるを、さまざまに思ひ集むることし多かれば、さのみもえもて隠されぬにや、こぼれそめては、えとみにもためらはぬを、いと恥づかしくわびしと思ひて、いたく背きたまへば、しひてひき向けたまひつつ、
 「聞こゆるままに、あはれなる御ありさまと見つるを、なほ隔てたる御心こそありけれな。さらずは、夜のほどに思し変はりにたるか」
 とて、わが御袖して涙を拭ひたまへば、
 「夜の間の心変はりこそ、のたまふにつけて、推し量られはべりぬれ」
 とて、すこしほほ笑みぬ。
 「げに、あが君や、幼なの御もの言ひやな。されどまことには、心に隈のなければ、いと心やすし。いみじくことわりして聞こゆとも、いとしるかるべきわざぞ。むげに世のことわりを知りたまはぬこそ、らうたきものからわりなけれ。よし、わが身になしても思ひめぐらしたまへ。身を心ともせぬありさまなり。もし、思ふやうなる世もあらば、人にまさりける心ざしのほど、知らせたてまつるべきひとふしなむある。たはやすく言出づべきことにもあらねば、命のみこそ」
 などのたまふほどに、かしこにたてまつれたまへる御使、いたく酔ひ過ぎにければ、すこし憚るべきことども忘れて、けざやかにこの南面に参れり。

 海人の刈るめづらしき玉藻にかづき埋もれたるを、「さなめり」と、人びと見る。いつのほどに急ぎ書きたまへらむと見るも、やすからずはありけむかし。宮も、あながちに隠すべきにはあらねど、さしぐみはなほいとほしきを、すこしの用意はあれかしと、かたはらいたけれど、今はかひなければ、女房して御文とり入れさせたまふ。
 「同じくは、隔てなきさまにもてなし果ててむ」と思ほして、ひき開けたまへるに、「継母の宮の御手なめり」と見ゆれば、今すこし心やすくて、うち置きたまへり。宣旨書きにても、うしろめたのわざや。
 「さかしらは、かたはらいたさに、そそのかしはべれど、いと悩ましげにてなむ。
  女郎花しをれぞまさる朝露の
  いかに置きける名残なるらむ」
 あてやかにをかしく書きたまへり。
 「かことがましげなるもわづらはしや。まことは、心やすくてしばしはあらむと思ふ世を、思ひの外にもあるかな」
 などはのたまへど、
 「また二つとなくて、さるべきものに思ひならひたるただ人の仲こそ、かやうなることの恨めしさなども、見る人苦しくはあれ、思へばこれはいと難し。つひにかかるべき御ことなり。宮たちと聞こゆるなかにも、筋ことに世人思ひきこえたれば、幾人も幾人も得たまはむことも、もどきあるまじければ、人も、この御方いとほしなども思ひたらぬなるべし。かばかりものものしくかしづき据ゑたまひて、心苦しき方、おろかならず思したるをぞ、幸ひおはしける」
 と聞こゆめる。みづからの心にも、あまりにならはしたまうて、にはかにはしたなかるべきが嘆かしきなめり。
 「かかる道を、いかなれば浅からず人の思ふらむと、昔物語などを見るにも、人の上にても、あやしく聞き思ひしは、げにおろかなるまじきわざなりけり」
 と、わが身になりてぞ、何ごとも思ひ知られたまひける。

 宮は、常よりもあはれに、うちとけたるさまにもてなしたまひて、
 「むげにもの参らざなるこそ、いと悪しけれ」
 とて、よしある御くだもの召し寄せ、また、さるべき人召して、ことさらに調ぜさせなどしつつ、そそのかしきこえたまへど、いとはるかにのみ思したれば、「見苦しきわざかな」と嘆ききこえたまふに、暮れぬれば、夕つ方、寝殿へ渡りたまひぬ。
 風涼しく、おほかたの空をかしきころなるに、今めかしきにすすみたまへる御心なれば、いとどしく艶なるに、もの思はしき人の御心のうちは、よろづに忍びがたきことのみぞ多かりける。ひぐらしの鳴く声に、山の蔭のみ恋しくて、
 「おほかたに聞かましものをひぐらしの
  声恨めしき秋の暮かな」
 今宵はまだ更けぬに出でたまふなり。御前駆の声の遠くなるままに、海人も釣すばかりになるも、「我ながら憎き心かな」と、思ふ思ふ聞き臥したまへり。はじめよりもの思はせたまひしありさまなどを思ひ出づるも、疎ましきまでおぼゆ。
 「この悩ましきことも、いかならむとすらむ。いみじく命短き族なれば、かやうならむついでにもやと、はかなくなりなむとすらむ」
 と思ふには、「惜しからねど、悲しくもあり、またいと罪深くもあなるものを」など、まどろまれぬままに思ひ明かしたまふ。

 その日は、后の宮悩ましげにおはしますとて、誰も誰も、参りたまへれど、御風邪におはしましければ、ことなることもおはしまさずとて、大臣は昼まかでたまひにけり。中納言の君誘ひきこえたまひて、一つ御車にてぞ出でたまひにける。
 「今宵の儀式、いかならむ。きよらを尽くさむ」と思すべかめれど、限りあらむかし。この君も、心恥づかしけれど、親しき方のおぼえは、わが方ざまにまたさるべき人もおはせず、ものの栄にせむに、心ことにおはする人なればなめりかし。例ならずいそがしくまでたまひて、人の上に見なしたるを口惜しとも思ひたらず、何やかやともろ心に扱ひたまへるを、大臣は、人知れずなまねたしと思しけり。
 宵すこし過ぐるほどにおはしましたり。寝殿の南の廂、東に寄りて御座参れり。御台八つ、例の御皿など、うるはしげにきよらにて、また、小さき台二つに、花足の皿なども、今めかしくせさせたまひて、餅参らせたまへり。めづらしからぬこと書きおくこそ憎けれ。
 大臣渡りたまひて、「夜いたう更けぬ」と、女房してそそのかし申したまへど、いとあざれて、とみにも出でたまはず。北の方の御はらからの左衛門督、藤宰相などばかりものしたまふ。
 からうして出でたまへる御さま、いと見るかひある心地す。主人の頭中将、盃ささげて御台参る。次々の御土器、二度、三度参りたまふ。中納言のいたく勧めたまへるに、宮すこしほほ笑みたまへり。
 「わづらはしきわたりを」
 と、ふさはしからず思ひて言ひしを、思し出づるなめり。されど、見知らぬやうにて、いとまめなり。
 東の対に出でたまひて、御供の人びともてはやしたまふ。おぼえある殿上人どもいと多かり。
 四位六人は、女の装束に細長添へて、五位十人は、三重襲の唐衣、裳の腰も皆けぢめあるべし。六位四人は、綾の細長、袴など。かつは、限りあることを飽かず思しければ、ものの色、しざまなどをぞ、きよらを尽くしたまへりける。
 召次、舎人などの中には、乱りがはしきまでいかめしくなむありける。げに、かくにぎははしくはなやかなることは、見るかひあれば、物語などに、まづ言ひたてたるにやあらむ。されど、詳しくはえぞ数へ立てざりけるとや。


 


 中納言殿の御前の中に、なまおぼえあざやかならぬや、暗き紛れに立ちまじりたりけむ、帰りてうち嘆きて、
 「わが殿の、などかおいらかに、この殿の御婿にうちならせたまふまじき。あぢきなき御独り住みなりや」
 と、中門のもとにてつぶやきけるを聞きつけたまひて、をかしとなむ思しける。夜の更けてねぶたきに、かのもてかしづかれつる人びとは、心地よげに酔ひ乱れて寄り臥しぬらむかしと、うらやましきなめりかし。
 君は、入りて臥したまひて、
 「はしたなげなるわざかな。ことことしげなるさましたる親の出でゐて、離れぬなからひなれど、これかれ、火明くかかげて、勧めきこゆる盃などを、いとめやすくもてなしたまふめりつるかな」
 と、宮の御ありさまを、めやすく思ひ出でたてまつりたまふ。
 「げに、我にても、よしと思ふ女子持たらましかば、この宮をおきたてまつりて、内裏にだにえ参らせざらまし」と思ふに、「誰れも誰れも、宮にたてまつらむと心ざしたまへる女は、なほ源中納言にこそと、とりどりに言ひならふなるこそ、わがおぼえの口惜しくはあらぬなめりな。さるは、いとあまり世づかず、古めきたるものを」など、心おごりせらる。
 「内裏の御けしきあること、まことに思したたむに、かくのみもの憂くおぼえば、いかがすべからむ。おもだたしきことにはありとも、いかがはあらむ。いかにぞ、故君にいとよく似たまへらむ時に、うれしからむかし」と思ひ寄らるるは、さすがにもて離るまじき心なめりかし。


 例の、寝覚がちなるつれづれなれば、按察使の君とて、人よりはすこし思ひましたまへるが局におはして、その夜は明かしたまひつ。明け過ぎたらむを、人の咎むべきにもあらぬに、苦しげに急ぎ起きたまふを、ただならず思ふべかめり。
 「うち渡し世に許しなき関川を
  みなれそめけむ名こそ惜しけれ」
 いとほしければ、
 「深からず上は見ゆれど関川の
  下の通ひは絶ゆるものかは」
 深しと、のたまはむにてだに頼もしげなきを、この上の浅さは、いとど心やましくおぼゆらむかし。妻戸押し開けて、
 「まことは、この空見たまへ。いかでかこれを知らず顔にては明かさむとよ。艶なる人まねにてはあらで、いとど明かしがたくなり行く、夜な夜なの寝覚には、この世かの世までなむ思ひやられて、あはれなる」
 など、言ひ紛らはしてぞ出でたまふ。ことにをかしきことの数を尽くさねど、さまのなまめかしき見なしにやあらむ、情けなくなどは人に思はれたまはず。かりそめの戯れ言をも言ひそめたまへる人の、気近くて見たてまつらばや、とのみ思ひきこゆるにや、あながちに、世を背きたまへる宮の御方に、縁を尋ねつつ参り集まりてさぶらふも、あはれなること、ほどほどにつけつつ多かるべし。
 宮は、女君の御ありさま、昼見きこえたまふに、いとど御心ざしまさりけり。おほきさよきほどなる人の、様体いときよげにて、髪のさがりば、頭つきなどぞ、ものよりことに、あなめでた、と見えたまひける。色あひあまりなるまで匂ひて、ものものしく気高き顔の、まみいと恥づかしげにらうらうじく、すべて何ごとも足らひて、容貌よき人と言はむに、飽かぬところなし。
 二十に一つ二つぞ余りたまへりける。いはけなきほどならねば、片なりに飽かぬところなく、あざやかに、盛りの花と見えたまへり。限りなくもてかしづきたまへるに、かたほならず。げに、親にては、心も惑はしたまひつべかりけり。
 ただ、やはらかに愛敬づきらうたきことぞ、かの対の御方はまづ思ほし出でられける。もののたまふいらへなども、恥ぢらひたれど、また、あまりおぼつかなくはあらず、すべていと見所多く、かどかどしげなり。
 よき若人ども三十人ばかり、童六人、かたほなるなく、装束なども、例のうるはしきことは、目馴れて思さるべかめれば、引き違へ、心得ぬまでぞ好みそしたまへる。三条殿腹の大君を、春宮に参らせたまへるよりも、この御ことをば、ことに思ひおきてきこえたまへるも、宮の御おぼえありさまからなめり。

 かくて後、二条院に、え心やすく渡りたまはず。軽らかなる御身ならねば、思すままに、昼のほどなどもえ出でたまはねば、やがて同じ南の町に、年ごろありしやうにおはしまして、暮るれば、また、え引き避きても渡りたまはずなどして、待ち遠なる折々あるを、
 「かからむとすることとは思ひしかど、さしあたりては、いとかくやは名残なかるべき。げに、心あらむ人は、数ならぬ身を知らで、交じらふべき世にもあらざりけり」
 と、返す返すも山路分け出でけむほど、うつつともおぼえず悔しく悲しければ、
 「なほ、いかで忍びて渡りなむ。むげに背くさまにはあらずとも、しばし心をも慰めばや。憎げにもてなしなどせばこそ、うたてもあらめ」
 など、心一つに思ひあまりて、恥づかしけれど、中納言殿に文たてまつれたまふ。
 「一日の御ことをば、阿闍梨の伝へたりしに、詳しく聞きはべりにき。かかる御心の名残なからましかば、いかにいとほしくと思ひたまへらるるにも、おろかならずのみなむ。さりぬべくは、みづからも」
 と聞こえたまへり。
 陸奥紙に、ひきつくろはずまめだち書きたまへるしも、いとをかしげなり。宮の御忌日に、例のことどもいと尊くせさせたまへりけるを、喜びたまへるさまの、おどろおどろしくはあらねど、げに、思ひ知りたまへるなめりかし。例は、これよりたてまつる御返りをだに、つつましげに思ほして、はかばかしくも続けたまはぬを、「みづから」とさへのたまへるが、めづらしくうれしきに、心ときめきもしぬべし。
 宮の今めかしく好みたちたまへるほどにて、思しおこたりけるも、げに心苦しく推し量らるれば、いとあはれにて、をかしやかなることもなき御文を、うちも置かず、ひき返しひき返し見ゐたまへり。御返りは、
 「承りぬ。一日は、聖だちたるさまにて、ことさらに忍びはべしも、さ思ひたまふるやうはべるころほひにてなむ。名残とのたまはせたるこそ、すこし浅くなりにたるやうにと、恨めしく思うたまへらるれ。よろづはさぶらひてなむ。あなかしこ」
 と、すくよかに、白き色紙のこはごはしきにてあり。

 さて、またの日の夕つ方ぞ渡りたまへる。人知れず思ふ心し添ひたれば、あいなく心づかひいたくせられて、なよよかなる御衣どもを、いとど匂はし添へたまへるは、あまりおどろおどろしきまであるに、丁子染の扇の、もてならしたまへる移り香などさへ、喩へむ方なくめでたし。
 女君も、あやしかりし夜のことなど、思ひ出でたまふ折々なきにしもあらねば、まめやかにあはれなる御心ばへの、人に似ずものしたまふを見るにつけても、「さてあらましを」とばかりは思ひやしたまふらむ。
 いはけなきほどにしおはせねば、恨めしき人の御ありさまを思ひ比ぶるには、何事もいとどこよなく思ひ知られたまふにや、常に隔て多かるもいとほしく、「もの思ひ知らぬさまに思ひたまふらむ」など思ひたまひて、今日は、御簾の内に入れたてまつりたまひて、母屋の簾に几帳添へて、我はすこしひき入りて対面したまへり。
 「わざと召しとはべらざりしかど、例ならず許させたまへりし喜びに、すなはちも参らまほしくはべりしを、宮渡らせたまふと承りしかば、折悪しくやはとて、今日になしはべりにける。さるは、年ごろの心のしるしもやうやうあらはれはべるにや、隔てすこし薄らぎはべりにける御簾の内よ。めづらしくはべるわざかな」
 とのたまふに、なほいと恥づかしく、言ひ出でむ言葉もなき心地すれど、
 「一日、うれしく聞きはべりし心の内を、例の、ただ結ぼほれながら過ぐしはべりなば、思ひ知る片端をだに、いかでかはと、口惜しさに」
 と、いとつつましげにのたまふが、いたくしぞきて、絶え絶えほのかに聞こゆれば、心もとなくて、
 「いと遠くもはべるかな。まめやかに聞こえさせ、承らまほしき世の御物語もはべるものを」
 とのたまへば、げに、と思して、すこしみじろき寄りたまふけはひを聞きたまふにも、ふと胸うちつぶるれど、さりげなくいとど静めたるさまして、宮の御心ばへ、思はずに浅うおはしけりとおぼしく、かつは言ひも疎め、また慰めも、かたがたにしづしづと聞こえたまひつつおはす。

 女君は、人の御恨めしさなどは、うち出で語らひきこえたまふべきことにもあらねば、ただ、世やは憂きなどやうに思はせて、言少なに紛らはしつつ、山里にあからさまに渡したまへとおぼしく、いとねむごろに思ひてのたふ。
 「それはしも、心一つにまかせては、え仕うまつるまじきことにはべり。なほ、宮にただ心うつくしく聞こえさせたまひて、かの御けしきに従ひてなむよくはべるべき。さらずは、すこしも違ひ目ありて、心軽くもなど思しものせむに、いと悪しくはべりなむ。さだにあるまじくは、道のほども御送り迎へも、おりたちて仕うまつらむに、何の憚りかははべらむ。うしろやすく人に似ぬ心のほどは、宮も皆知らせたまへり」
 などは言ひながら、折々は、過ぎにし方の悔しさを忘るる折なく、ものにもがなやと、取り返さまほしきと、ほのめかしつつ、やうやう暗くなりゆくまでおはするに、いとうるさくおぼえて、
 「さらば、心地も悩ましくのみはべるを、また、よろしく思ひたまへられむほどに、何事も」
 とて、入りたまひぬるけしきなるが、いと口惜しければ、
 「さても、いつばかり思し立つべきにか。いとしげくはべし道の草も、すこしうち払はせはべらむかし」
 と、心とりに聞こえたまへば、しばし入りさして、
 「この月は過ぎぬめれば、朔日のほどにも、とこそは思ひはべれ。ただ、いと忍びてこそよからめ。何か、世の許しなどことことしく」
 とのたまふ声の、「いみじくらうたげなるかな」と、常よりも昔思ひ出でらるるに、えつつみあへで、寄りゐたまへる柱もとの簾の下より、やをらおよびて、御袖をとらへつ。

 女、「さりや、あな心憂」と思ふに、何事かは言はれむ、ものも言はで、いとど引き入りたまへば、それにつきていと馴れ顔に、半らは内に入りて添ひ臥したまへり。
 「あらずや。忍びてはよかるべく思すこともありけるがうれしきは、ひが耳か、聞こえさせむとぞ。疎々しく思すべきにもあらぬを、心憂のけしきや」
 と怨みたまへば、いらへすべき心地もせず、思はずに憎く思ひなりぬるを、せめて思ひしづめて、
 「思ひの外なりける御心のほどかな。人の思ふらむことよ。あさまし」
 とあはめて、泣きぬべきけしきなる、すこしはことわりなれば、いとほしけれど、
 「これは咎あるばかりのことかは。かばかりの対面は、いにしへをも思し出でよかし。過ぎにし人の御許しもありしものを。いとこよなく思しけるこそ、なかなかうたてあれ。好き好きしくめざましき心はあらじと、心やすく思ほせ」
 とて、いとのどやかにはもてなしたまへれど、月ごろ悔しと思ひわたる心のうちの、苦しきまでなりゆくさまを、つくづくと言ひ続けたまひて、許すべきけしきにもあらぬに、せむかたなく、いみじとも世の常なり。なかなか、むげに心知らざらむ人よりも、恥づかしく心づきなくて、泣きたまひぬるを、
 「こは、なぞ。あな、若々し」
 とは言ひながら、言ひ知らずらうたげに、心苦しきものから、用意深く恥づかしげなるけはひなどの、見しほどよりも、こよなくねびまさりたまひにけるなどを見るに、「心からよそ人にしなして、かくやすからずものを思ふこと」と悔しきにも、またげに音は泣かれけり。

 近くさぶらふ女房二人ばかりあれど、すずろなる男のうち入り来たるならばこそは、こはいかなることぞとも、参り寄らめ、疎からず聞こえ交はしたまふ御仲らひなめれば、さるやうこそはあらめと思ふに、かたはらいたければ、知らず顔にてやをらしぞきぬるに、いとほしきや。
 男君は、いにしへを悔ゆる心の忍びがたさなども、いと静めがたかりぬべかめれど、昔だにありがたかりし心の用意なれば、なほいと思ひのままにももてなしきこえたまはざりけり。かやうの筋は、こまかにもえなむまねび続けざりける。かひなきものから、人目のあいなきを思へば、よろづに思ひ返して出でたまひぬ。
 まだ宵と思ひつれど、暁近うなりにけるを、見とがむる人もやあらむと、わづらはしきも、女の御ためのいとほしきぞかし。
 「悩ましげに聞きわたる御心地は、ことわりなりけり。いと恥づかしと思したりつる腰のしるしに、多くは心苦しくおぼえてやみぬるかな。例のをこがましの心や」と思へど、「情けなからむことは、なほいと本意なかるべし。また、たちまちのわが心の乱れにまかせて、あながちなる心をつかひて後、心やすくしもはあらざらむものから、わりなく忍びありかむほども心尽くしに、女のかたがた思し乱れむことよ」
 など、さかしく思ふにせかれず、今の間も恋しきぞわりなかりける。さらに見ではえあるまじくおぼえたまふも、返す返すあやにくなる心なりや。


 


 昔よりはすこし細やぎて、あてにらうたかりつるけはひなどは、立ち離れたりともおぼえず、身に添ひたる心地して、さらに異事もおぼえずなりにたり。
 「宇治にいと渡らまほしげに思いためるを、さもや、渡しきこえてまし」など思へど、「まさに宮は許したまひてむや。さりとて、忍びてはた、いと便なからむ。いかさまにしてかは、人目見苦しからで、思ふ心のゆくべき」と、心もあくがれて眺め臥したまへり。
 まだいと深き朝に御文あり。例の、うはべはけざやかなる立文にて、
 「いたづらに分けつる道の露しげみ
  昔おぼゆる秋の空かな
 御けしきの心憂さは、ことわり知らぬつらさのみなむ。聞こえさせむ方なく」
 とあり。御返しなからむも、人の、例ならずと見とがむべきを、いと苦しければ、
 「承りぬ。いと悩ましくて、え聞こえさせず」
 とばかり書きつけたまへるを、「あまり言少ななるかな」とさうざうしくて、をかしかりつる御けはひのみ恋しく思ひ出でらる。
 すこし世の中をも知りたまへるけにや、さばかりあさましくわりなしとは思ひたまへりつるものから、ひたぶるにいぶせくなどはあらで、いとらうらうじく恥づかしげなるけしきも添ひて、さすがになつかしく言ひこしらへなどして、出だしたまへるほどの心ばへなどを思ひ出づるも、ねたく悲しく、さまざまに心にかかりて、わびしくおぼゆ。何事も、いにしへにはいと多くまさりて思ひ出でらる。
 「何かは。この宮離れ果てたまひなば、我を頼もし人にしたまふべきにこそはあめれ。さても、あらはれて心やすきさまにえあらじを、忍びつつまた思ひます人なき、心のとまりにてこそはあらめ」
 など、ただこの事のみ、つとおぼゆるぞ、けしからぬ心なるや。さばかり心深げにさかしがりたまへど、男といふものの心憂かりけることよ。亡き人の御悲しさは、言ふかひなきことにて、いとかく苦しきまではなかりけり。これは、よろづにぞ思ひめぐらされたまひける。
 「今日は、宮渡らせたまひぬ」
 など、人の言ふを聞くにも、後見の心は失せて、胸うちつぶれて、いとうらやましくおぼゆ。


 宮は、日ごろになりにけるは、わが心さへ恨めしく思されて、にはかに渡りたまへるなりけり。
 「何かは、心隔てたるさまにも見えたてまつらじ。山里にと思ひ立つにも、頼もし人に思ふ人も、疎ましき心添ひたまへりけり」
 と見たまふに、世の中いと所狭く思ひなられて、「なほいと憂き身なりけり」と、「ただ消えせぬほどは、あるにまかせて、おいらかならむ」と思ひ果てて、いとらうたげに、うつくしきさまにもてなしてゐたまへれば、いとどあはれにうれしく思されて、日ごろのおこたりなど、限りなくのたまふ。
 御腹もすこしふくらかになりにたるに、かの恥ぢたまふしるしの帯の引き結はれたるほどなど、いとあはれに、まだかかる人を近くても見たまはざりければ、めづらしくさへ思したり。うちとけぬ所にならひたまひて、よろづのこと、心やすくなつかしく思さるるままに、おろかならぬ事どもを、尽きせず契りのたまふを聞くにつけても、かくのみ言よきわざにやあらむと、あながちなりつる人の御けしきも思ひ出でられて、年ごろあはれなる心ばへなどは思ひわたりつれど、かかる方ざまにては、あれをもあるまじきことと思ふにぞ、この御行く先の頼めは、いでや、と思ひながらも、すこし耳とまりける。
 「さても、あさましくたゆめたゆめて、入り来たりしほどよ。昔の人に疎くて過ぎにしことなど語りたまひし心ばへは、げにありがたかりけりと、なほうちとくべくはた、あらざりけりかし」
 など、いよいよ心づかひせらるるにも、久しくとだえたまはむことは、いともの恐ろしかるべくおぼえたまへば、言に出でては言はねど、過ぎぬる方よりは、すこしまつはしざまにもてなしたまへるを、宮はいとど限りなくあはれと思ほしたるに、かの人の御移り香の、いと深くしみたまへるが、世の常の香の香に入れ薫きしめたるにも似ず、しるき匂ひなるを、その道の人にしおはすれば、あやしととがめ出でたまひて、いかなりしことぞと、けしきとりたまふに、ことのほかにもて離れぬことにしあれば、言はむ方なくわりなくて、いと苦しと思したるを、
 「さればよ。かならずさることはありなむ。よも、ただには思はじ、と思ひわたることぞかし」
 と御心騷ぎけり。さるは、単衣の御衣なども、脱ぎ替へたまひてけれど、あやしく心より外にぞ身にしみにける。
 「かばかりにては、残りありてしもあらじ」
 と、よろづに聞きにくくのたまひ続くるに、心憂くて、身ぞ置き所なき。
 「思ひきこゆるさまことなるものを、我こそ先になど、かやうにうち背く際はことにこそあれ。また御心おきたまふばかりのほどやは経ぬる。思ひの外に憂かりける御心かな」
 と、すべてまねぶくもあらず、いとほしげに聞こえたまへど、ともかくもいらへたまはぬさへ、いとねたくて、
 「また人に馴れける袖の移り香を
  わが身にしめて恨みつるかな」
 女は、あさましくのたまひ続くるに、言ふべき方もなきを、いかがは、とて、
 「みなれぬる中の衣と頼めしを
  かばかりにてやかけ離れなむ」
 とて、うち泣きたまへるけしきの、限りなくあはれなるを見るにも、「かかればぞかし」と、いと心やましくて、我もほろほろとこぼしたまふぞ、色めかしき御心なるや。まことにいみじき過ちありとも、ひたぶるにはえぞ疎み果つまじく、らうたげに心苦しきさまのしたまへれば、えも怨み果てたまはず、のたまひさしつつ、かつはこしらへきこえたまふ。

 またの日も、心のどかに大殿籠もり起きて、御手水、御粥などもこなたに参らす。御しつらひなども、さばかりかかやくばかり、高麗、唐土の錦綾を裁ち重ねたる目移しには、世の常にうち馴れたる心地して、人びとの姿も、萎えばみたるうち混じりなどして、いと静かに見まはさる。
 君は、なよよかなる薄色どもに、撫子の細長重ねて、うち乱れたまへる御さまの、何事もいとうるはしく、ことことしきまで盛りなる人の御匂ひ、何くれに思ひ比ぶれど、気劣りてもおぼえず、なつかしくをかしきも、心ざしのおろかならぬに恥なきなめりかし。まろにうつくしく肥えたりし人の、すこし細やぎたるに、色はいよいよ白くなりて、あてにをかしげなり。
 かかる御移り香などのいちじるからぬ折だに、愛敬づきらうたきところなどの、なほ人には多くまさりて思さるるままには、
 「これをはらからなどにはあらぬ人の、気近く言ひかよひて、事に触れつつ、おのづから声けはひをも聞き見馴れむは、いかでかただにも思はむ。かならずしか思しぬべきことなるを」
 と、わがいと隈なき御心ならひに思し知らるれば、常に心をかけて、「しるきさまなる文などやある」と、近き御厨子、唐櫃などやうのものをも、さりげなくて探したまへど、さるものもなし。ただ、いとすくよかに言少なにて、なほなほしきなどぞ、わざともなけれど、ものにとりまぜなどしてもあるを、「あやし。なほ、いとかうのみはあらじかし」と疑はるるに、いとど今日はやすからず思さるる、ことわりなりかし。
 「かの人のけしきも、心あらむ女の、あはれと思ひぬべきを、などてかは、ことの他にはさし放たむ。いとよきあはひなれば、かたみにぞ思ひ交はすらむかし」
 と思ひやるぞ、わびしく腹立たしくねたかりける。なほ、いとやすからざりければ、その日もえ出でたまはず。六条院には、御文をぞ二度三度たてまつりたまふを、
 「いつのほどに積もる御言の葉ならむ」
 とつぶやく老い人どもあり。

 中納言の君は、かく宮の籠もりおはするを聞くにしも、心やましくおぼゆれど、
 「わりなしや。これはわが心のをこがましく悪しきぞかし。うしろやすくと思ひそめてしあたりのことを、かくは思ふべしや」
 としひてぞ思ひ返して、「さはいへど、え思し捨てざめりかし」と、うれしくもあり、「人びとのけはひなどの、なつかしきほどに萎えばみためりしを」と思ひやりたまひて、母宮の御方に参りたまひて、
 「よろしきまうけのものどもやさぶらふ。使ふべきこと」
 など申したまへば、
 「例の、立たむ月の法事の料に、白きものどもやあらむ。染めたるなどは、今はわざともしおかぬを、急ぎてこそせさせめ」
 とのたまへば、
 「何か。ことことしき用にもはべらず。さぶらはむにしたがひて」
 とて、御匣殿などに問はせたまひて、女の装束どもあまた領に、細長どもも、ただあるにしたがひて、ただなる絹綾などとり具したまふ。みづからの御料と思しきには、わが御料にありける紅の擣目なべてならぬに、白き綾どもなど、あまた重ねたまへるに、袴の具はなかりけるに、いかにしたりけるにか、腰の一つあるを、引き結び加へて、
 「結びける契りことなる下紐を
  ただ一筋に恨みやはする」
 大輔の君とて、大人しき人の、睦ましげなるにつかはす。
 「とりあへぬさまの見苦しきを、つきづきしくもて隠して」
 などのたまひて、御料のは、しのびやかなれど、筥にて包みも異なり。御覧ぜさせねど、さきざきも、かやうなる御心しらひは、常のことにて目馴れにたれば、けしきばみ返しなど、ひこしろふべきにもあらねば、いかがとも思ひわづらはで、人びとにとり散らしなどしたれば、おのおのさし縫ひなどす。
 若き人びとの、御前近く仕うまつるなどをぞ、取り分きては繕ひたつべき。下仕へどもの、いたく萎えばみたりつる姿どもなどに、白き袷などにて、掲焉ならぬぞなかなかめやすかりける。

 誰かは、何事をも後見かしづききこゆる人のあらむ。宮は、おろかならぬ御心ざしのほどにて、「よろづをいかで」と思しおきてたれど、こまかなるうちうちのことまでは、いかがは思し寄らむ。限りもなく人にのみかしづかれてならはせたまへれば、世の中うちあはずさびしきこと、いかなるものとも知りたまはぬ、ことわりなり。
 艶にそぞろ寒く、花の露をもてあそびて世は過ぐすべきものと思したるほどよりは、思す人のためなれば、おのづから折節につけつつ、まめやかなることまでも扱ひ知らせたまふこそ、ありがたくめづらかなることなめれば、「いでや」など、誹らはしげに聞こゆる御乳母などもありけり。
 童べなどの、なりあざやかならぬ、折々うち混じりなどしたるをも、女君は、いと恥づかしく、「なかなかなる住まひにもあるかな」など、人知れずは思すことなきにしもあらぬに、ましてこのころは、世に響きたる御ありさまのはなやかさに、かつは、「宮のうちの人の見思はむことも、人げなきこと」と、思し乱るることも添ひて嘆かしきを、中納言の君は、いとよく推し量りきこえたまへば、疎からむあたりには、見苦しくくだくだしかりぬべき心しらひのさまも、あなづるとはなけれど、「何かは、ことことしくしたて顔ならむも、なかなかおぼえなく見とがむる人やあらむ」と、思すなりけり。
 今ぞまた、例のめやすきさまなるものどもなどせさせたまひて、御小袿織らせ、綾の料賜はせなどしたまひける。この君しもぞ、宮にも劣りきこえたまはず、さま異にかしづきたてられて、かたはなるまで心おごりもし、世を思ひ澄まして、あてなる心ばへはこよなけれど、故親王の御山住みを見そめたまひしよりぞ、「さびしき所のあはれさはさま異なりけり」と、心苦しく思されて、なべての世をも思ひめぐらし、深き情けをもならひたまひにける。いとほしの人ならはしや、とぞ。

 「かくて、なほ、いかでうしろやすく大人しき人にてやみなむ」と思ふにも、したがはず、心にかかりて苦しければ、御文などを、ありしよりはこまやかにて、ともすれば、忍びあまりたるけしき見せつつ聞こえたまふを、女君、いとわびしきこと添ひたる身と思し嘆かる。
 「ひとへに知らぬ人なれば、あなものぐるほしと、はしたなめさし放たむにもやすかるべきを、昔よりさま異なる頼もし人にならひ来て、今さらに仲悪しくならむも、なかなか人目悪しかるべし。さすがに、あさはかにもあらぬ御心ばへありさまの、あはれを知らぬにはあらず。さりとて、心交はし顔にあひしらはむもいとつつましく、いかがはすべからむ」
 と、よろづに思ひ乱れたまふ。
 さぶらふ人びとも、すこしものの言ふかひありぬべく若やかなるは、皆あたらし、見馴れたるとては、かの山里の古女ばらなり。思ふ心をも、同じ心になつかしく言ひあはすべき人のなきままには、故姫君を思ひ出できこえたまはぬ折なし。
 「おはせましかば、この人もかかる心を添へたまはましや」
 と、いと悲しく、宮のつらくなりたまはむ嘆きよりも、このこといと苦しくおぼゆ。


 


 男君も、しひて思ひわびて、例の、しめやかなる夕つ方おはしたり。やがて端に御茵さし出でさせたまひて、「いと悩ましきほどにてなむ、え聞こえさせぬ」と、人して聞こえ出だしたまへるを聞くに、いみじくつらくて、涙落ちぬべきを、人目につつめば、しひて紛らはして、
 「悩ませたまふ折は、知らぬ僧なども近く参り寄るを。医師などの列にても、御簾の内にはさぶらふまじくやは。かく人伝てなる御消息なむ、かひなき心地する」
 とのたまひて、いとものしげなる御けしきなるを、一夜もののけしき見し人びと、
 「げに、いと見苦しくはべるめり」
 とて、母屋の御簾うち下ろして、夜居の僧の座に入れたてまつるを、女君、まことに心地もいと苦しけれど、人のかく言ふに、掲焉にならむも、またいかが、とつつましければ、もの憂ながらすこしゐざり出でて、対面したまへり。
 いとほのかに、時々もののたまふ御けはひの、昔人の悩みそめたまへりしころ、まづ思ひ出でらるるも、ゆゆしく悲しくて、かきくらす心地したまへば、とみにものも言はれず、ためらひてぞ聞こえたまふ。
 こよなく奥まりたまへるもいとつらくて、簾の下より几帳をすこしおし入れて、例の、なれなれしげに近づき寄りたまふが、いと苦しければ、わりなしと思して、少将といひし人を近く呼び寄せて、
 「胸なむ痛き。しばしおさへて」
 とのたまふを聞きて、
 「胸はおさへたるは、いと苦しくはべるものを」
 とうち嘆きて、ゐ直りたまふほども、げにぞ下やすからぬ。
 「いかなれば、かくしも常に悩ましくは思さるらむ。人に問ひはべりしかば、しばしこそ心地は悪しかなれ、さてまた、よろしき折あり、などこそ教へはべしか。あまり若々しくもてなさせたまふなめり」
 とのたまふに、いと恥づかしくて、
 「胸は、いつともなくかくこそははべれ。昔の人もさこそはものしたまひしか。長かるまじき人のするわざとか、人も言ひはべるめる」
 とぞのたまふ。「げに、誰も千年の松ならぬ世を」と思ふには、いと心苦しくあはれなれば、この召し寄せたる人の聞かむもつつまれず、かたはらいたき筋のことをこそ選りとどむれ、昔より思ひきこえしさまなどを、かの御耳一つには心得させながら、人はかたはにも聞くまじきさまに、さまよくめやすくぞ言ひなしたまふを、「げに、ありがたき御心ばへにも」と聞きゐたりけり。


 何事につけても、故君の御事をぞ尽きせず思ひたまへる。
 「いはけなかりしほどより、世の中を思ひ離れてやみぬべき心づかひをのみならひはべしに、さるべきにやはべりけむ、疎きものからおろかならず思ひそめきこえはべりしひとふしに、かの本意の聖心は、さすがに違ひやしにけむ。
 慰めばかりに、ここにもかしこにも行きかかづらひて、人のありさまを見むにつけて、紛るることもやあらむなど、思ひ寄る折々はべれど、さらに他ざまにはなびくべくもはべらざりけり。
 よろづに思ひたまへわびては、心の引く方の強からぬわざなりければ、好きがましきやうに思さるらむと、恥づかしけれど、あるまじき心の、かけてもあるべくはこそめざましからめ、ただかばかりのほどにて、時々思ふことをも聞こえさせ承りなどして、隔てなくのたまひかよはむを、誰れかはとがめ出づべき。世の人に似ぬ心のほどは、皆人にもどかるまじくはべるを、なほうしろやすく思したれ」
 など、怨み泣きみ聞こえたまふ。
 「うしろめたく思ひきこえば、かくあやしと人も見思ひぬべきまでは聞こえはべるべくや。年ごろ、こなたかなたにつけつつ、見知ることどものはべりしかばこそ、さま異なる頼もし人にて、今はこれよりなどおどろかしきこゆれ」
 とのたまへば、
 「さやうなる折もおぼえはべらぬものを、いとかしこきことに思しおきてのたまはするや。この御山里出で立ち急ぎに、からうして召し使はせたまふべき。それもげに、御覧じ知る方ありてこそはと、おろかにやは思ひはべる」
 などのたまひて、なほいともの恨めしげなれど、聞く人あれば、思ふままにもいかでかは続けたまはむ。

 外の方を眺め出だしたれば、やうやう暗くなりにたるに、虫の声ばかり紛れなくて、山の方小暗く、何のあやめも見えぬに、いとしめやかなるさまして寄りゐたまへるも、わづらはしとのみ内には思さる。
 「限りだにある」
 など、忍びやかにうち誦じて、
 「思うたまへわびにてはべり。音無の里求めまほしきを、かの山里のわたりに、わざと寺などはなくとも、昔おぼゆる人形をも作り、絵にも描きとりて、行なひはべらむとなむ、思うたまへなりにたる」
 とのたまへば、
 「あはれなる御願ひに、またうたて御手洗川近き心地する人形こそ、思ひやりいとほしくはべれ。黄金求むる絵師もこそなど、うしろめたくぞはべるや」
 とのたまへば、
 「そよ。その工も絵師も、いかでか心には叶ふべきわざならむ。近き世に花降らせたる工もはべりけるを、さやうならむ変化の人もがな」
 と、とざまかうざまに忘れむ方なきよしを、嘆きたまふけしきの、心深げなるもいとほしくて、今すこし近くすべり寄りて、
 「人形のついでに、いとあやしく思ひ寄るまじきことをこそ、思ひ出ではべれ」
 とのたまふけはひの、すこしなつかしきも、いとうれしくあはれにて、
 「何ごとにか」
 と言ふままに、几帳の下より手を捉ふれば、いとうるさく思ひならるれど、「いかさまにして、かかる心をやめて、なだらかにあらむ」と思へば、この近き人の思はむことのあいなくて、さりげなくもてなしたまへり。

 「年ごろは、世にやあらむとも知らざりつる人の、この夏ごろ、遠き所よりものして尋ね出でたりしを、疎くは思ふまじけれど、またうちつけに、さしも何かは睦び思はむ、と思ひはべりしを、さいつころ来たりしこそ、あやしきまで、昔人の御けはひにかよひたりしかば、あはれにおぼえなりにしか。
 形見など、かう思しのたまふめるは、なかなか何事も、あさましくもて離れたりとなむ、見る人びとも言ひはべりしを、いとさしもあるまじき人の、いかでかは、さはありけむ」
 とのたまふを、夢語りか、とまで聞く。
 「さるべきゆゑあればこそは、さやうにも睦びきこえらるらめ。などか今まで、かくもかすめさせたまはざらむ」
 とのたまへば、
 「いさや、そのゆゑも、いかなりけむこととも思ひ分かれはべらず。ものはかなきありさまどもにて、世に落ちとまりさすらへむとすらむこと、とのみ、うしろめたげに思したりしことどもを、ただ一人かき集めて思ひ知られはべるに、またあいなきことをさへうち添へて、人も聞き伝へむこそ、いといとほしかるべけれ」
 とのたまふけしき見るに、「宮の忍びてものなどのたまひけむ人の、忍草摘みおきたりけるなるべし」と見知りぬ。
 似たりとのたまふゆかりに耳とまりて、
 「かばかりにては。同じくは言ひ果てさせたまうてよ」
 と、いぶかしがりたまへど、さすがにかたはらいたくて、えこまかにも聞こえたまはず。
 「尋ねむと思す心あらば、そのわたりとは聞こえつべけれど、詳しくしもえ知らずや。また、あまり言はば、心劣りもしぬべきことになむ」
 とのたまへば、
 「世を、海中にも、魂のありか尋ねには、心の限り進みぬべきを、いとさまで思ふべきにはあらざなれど、いとかく慰めむ方なきよりはと、思ひ寄りはべる人形の願ひばかりには、などかは、山里の本尊にも思ひはべらざらむ。なほ、確かにのたまはせよ」
 と、うちつけに責めきこえたまふ。
 「いさや、いにしへの御ゆるしもなかりしことを、かくまで漏らしきこゆるも、いと口軽けれど、変化の工求めたまふいとほしさにこそ、かくも」とて、「いと遠き所に年ごろ経にけるを、母なる人のうれはしきことに思ひて、あながちに尋ね寄りしを、はしたなくもえいらへではべりしに、ものしたりしなり。ほのかなりしかばにや、何事も思ひしほどよりは見苦しからずなむ見えし。これをいかさまにもてなさむ、と嘆くめりしに、仏にならむは、いとこよなきことにこそはあらめ、さまではいかでかは」
 など聞こえたまふ。


 
 「さりげなくて、かくうるさき心をいかで言ひ放つわざもがな、と思ひたまへる」と見るはつらけれど、さすがにあはれなり。「あるまじきこととは深く思ひたまへるものから、顕証にはしたなきさまには、えもてなしたまはぬも、見知りたまへるにこそは」と思ふ心ときめきに、夜もいたく更けゆくを、内には人目いとかたはらいたくおぼえたまひて、うちたゆめて入りたまひぬれば、男君、ことわりとは返す返す思へど、なほいと恨めしく口惜しきに、思ひ静めむ方もなき心地して、涙のこぼるるも人悪ろければ、よろづに思ひ乱るれど、ひたぶるにあさはかならむもてなしはた、なほいとうたて、わがためもあいなかるべければ、念じ返して、常よりも嘆きがちにて出でたまひぬ。
 「かくのみ思ひては、いかがすべからむ。苦しくもあるべきかな。いかにしてかは、おほかたの世にはもどきあるまじきさまにて、さすがに思ふ心の叶ふわざをすべからむ」
 など、おりたちて練じたる心ならねばにや、わがため人のためも、心やすかるまじきことを、わりなく思し明かすに、「似たりとのたまひつる人も、いかでかは真かとは見るべき。さばかりの際なれば、思ひ寄らむに、難くはあらずとも、人の本意にもあらずは、うるさくこそあるべけれ」など、なほそなたざまには心も立たず。


 


 宇治の宮を久しく見たまはぬ時は、いとど昔遠くなる心地して、すずろに心細ければ、九月二十余日ばかりにおはしたり。
 いとどしく風のみ吹き払ひて、心すごく荒ましげなる水の音のみ宿守にて、人影もことに見えず。見るには、まづかきくらし、悲しきことぞ限りなき。弁の尼召し出でたれば、障子口に、青鈍の几帳さし出でて参れり。
 「いとかしこけれど、ましていと恐ろしげにはべれば、つつましくてなむ」
 と、まほには出で来ず。
 「いかに眺めたまふらむと思ひやるに、同じ心なる人もなき物語も聞こえむとてなむ。はかなくも積もる年月かな」
 とて、涙を一目浮けておはするに、老い人はいとどさらにせきあへず。
 「人の上にて、あいなくものを思すめりしころの空ぞかし、と思ひたまへ出づるに、いつとはべらぬなるにも、秋の風は身にしみてつらくおぼえはべりて、げにかの嘆かせたまふめりしもしるき世の中の御ありさまを、ほのかに承るも、さまざまになむ」
 と聞こゆれば、
 「とあることもかかることも、ながらふれば、直るやうもあるを、あぢきなく思ししみけむこそ、わが過ちのやうに、なほ悲しけれ。このころの御ありさまは、何か、それこそ世の常なれ。されど、うしろめたげには見えきこえざめり。言ひても言ひても、むなしき空に昇りぬる煙のみこそ、誰も逃れぬことながら、後れ先だつほどは、なほいと言ふかひなかりけり」
 とても、また泣きたまひぬ。


 阿闍梨召して、例の、かの忌日の経仏などのことのたまふ。
 「さて、ここに時々ものするにつけても、かひなきことのやすからずおぼゆるが、いと益なきを、この寝殿こぼちて、かの山寺のかたはらに堂建てむ、となむ思ふを、同じくは疾く始めてむ」
 とのたまひて、堂いくつ、廊ども、僧房など、あるべきことども、書き出でのたまはせさせたまふを、
 「いと尊きこと」
 と聞こえ知らす。
 「昔の人の、ゆゑある御住まひに占め造りたまひけむ所を、ひきこぼたむ、情けなきやうなれど、その御心ざしも功徳の方には進みぬべく思しけむを、とまりたまはむ人びと思しやりて、えさはおきてたまはざりけるにや。
 今は、兵部卿宮の北の方こそは、知りたまふべければ、かの宮の御料とも言ひつべくなりにたり。されば、ここながら寺になさむことは、便なかるべし。心にまかせてさもえせじ。所のさまもあまり川づら近く、顕証にもあれば、なほ寝殿を失ひて、異ざまにも造り変へむの心にてなむ」
 とのたまへば、
 「とざまかうざまに、いともかしこく尊き御心なり。昔、別れを悲しびて、屍を包みてあまたの年首に掛けてはべりける人も、仏の御方便にてなむ、かの屍の袋を捨てて、つひに聖の道にも入りはべりにける。この寝殿を御覧ずるにつけて、御心動きおはしますらむ、一つにはたいだいしきことなり。また、後の世の勧めともなるべきことにはべりけり。急ぎ仕うまつるべし。暦の博士はからひ申してはべらむ日を承りて、もののゆゑ知りたらむ工、二、三人を賜はりて、こまかなることどもは、仏の御教へのままに仕うまつらせはべらむ」
 と申す。とかくのたまひ定めて、御荘の人ども召して、このほどのことども、阿闍梨の言はむままにすべきよしなど仰せたまふ。はかなく暮れぬれば、その夜はとどまりたまひぬ。

 「このたびばかりこそ見め」と思して、立ちめぐりつつ見たまへば、仏も皆かの寺に移してければ、尼君の行なひの具のみあり。いとはかなげに住まひたるを、あはれに、「いかにして過ぐすらむ」と見たまふ。
 「この寝殿は、変へて造るべきやうあり。造り出でむほどは、かの廊にものしたまへ。京の宮にとり渡さるべきものなどあらば、荘の人召して、あるべからむやうにものしたまへ」
 など、まめやかなることどもを語らひたまふ。他にては、かばかりにさだ過ぎなむ人を、何かと見入れたまふべきにもあらねど、夜も近く臥せて、昔物語などせさせたまふ。故権大納言の君の御ありさまも、聞く人なきに心やすくて、いとこまやかに聞こゆ。
 「今はとなりたまひしほどに、めづらしくおはしますらむ御ありさまを、いぶかしきものに思ひきこえさせたまふめりし御けしきなどの思ひたまへ出でらるるに、かく思ひかけはべらぬ世の末に、かくて見たてまつりはべるなむ、かの御世に睦ましく仕うまつりおきし験のおのづからはべりけると、うれしくも悲しくも思ひたまへられはべる。心憂き命のほどにて、さまざまのことを見たまへ過ぐし、思ひたまへ知りはべるなむ、いと恥づかしく心憂くはべる。
 宮よりも、時々は参りて見たてまつれ、おぼつかなく絶え籠もり果てぬるは、こよなく思ひ隔てけるなめりなど、のたまはする折々はべれど、ゆゆしき身にてなむ、阿弥陀仏より他には、見たてまつらまほしき人もなくなりてはべる」
 など聞こゆ。故姫君の御ことども、はた尽きせず、年ごろの御ありさまなど語りて、何の折何とのたまひし、花紅葉の色を見ても、はかなく詠みたまひける歌語りなどを、つきなからず、うちわななきたれど、こめかしく言少ななるものから、をかしかりける人の御心ばへかなとのみ、いとど聞き添へたまふ。
 「宮の御方は、今すこし今めかしきものから、心許さざらむ人のためには、はしたなくもてなしたまひつべくこそものしたまふめるを、我にはいと心深く情け情けしとは見えて、いかで過ごしてむ、とこそ思ひたまへれ」
 など、心のうちに思ひ比べたまふ。


 
 さて、もののついでに、かの形代のことを言ひ出でたまへり。
 「京に、このころ、はべらむとはえ知りはべらず。人伝てに承りしことの筋ななり。故宮の、まだかかる山里住みもしたまはず、故北の方の亡せたまへりけるほど近かりけるころ、中将の君とてさぶらひける上臈の、心ばせなどもけしうはあらざりけるを、いと忍びて、はかなきほどにもののたまはせける、知る人もはべらざりけるに、女子をなむ産みてはべりけるを、さもやあらむ、と思すことのありけるからに、あいなくわづらはしくものしきやうに思しなりて、またとも御覧じ入るることもなかりけり。
 あいなくそのことに思し懲りて、やがておほかた聖にならせたまひにけるを、はしたなく思ひて、えさぶらはずなりにけるが、陸奥国の守の妻になりたりけるを、一年上りて、その君平らかにものしたまふよし、このわたりにもほのめかし申したりけるを、聞こしめしつけて、さらにかかる消息あるべきことにもあらずと、のたまはせ放ちければ、かひなくてなむ嘆きはべりける。
 さてまた、常陸になりて下りはべりにけるが、この年ごろ、音にも聞こえたまはざりつるが、この春上りて、かの宮には尋ね参りたりけるとなむ、ほのかに聞きはべりし。
 かの君の年は、二十ばかりになりたまひぬらむかし。いとうつくしく生ひ出でたまふがかなしきなどこそ、中ごろは、文にさへ書き続けてはべめりしか」
 と聞こゆ。
 詳しく聞きあきらめたまひて、「さらば、まことにてもあらむかし。見ばや」と思ふ心出で来ぬ。
 「昔の御けはひに、かけても触れたらむ人は、知らぬ国までも尋ね知らまほしき心あるを、数まへたまはざりけれど、近き人にこそはあなれ。わざとはなくとも、このわたりにおとなふ折あらむついでに、かくなむ言ひし、と伝へたまへ」
 などばかりのたまひおく。
 「母君は、故北の方の御姪なり。弁も離れぬ仲らひにはべるべきを、そのかみは他々にはべりて、詳しくも見たまへ馴れざりき。
 さいつころ、京より、大輔がもとより申したりしは、かの君なむ、いかでかの御墓にだに参らむと、のたまふなる、さる心せよ、などはべりしかど、まだここに、さしはへてはおとなはずはべめり。今、さらば、さやのついでに、かかる仰せなど伝へはべらむ」
 と聞こゆ。


 
 明けぬれば帰りたまはむとて、昨夜、後れて持て参れる絹綿などやうのもの、阿闍梨に贈らせたまふ。尼君にも賜ふ。法師ばら、尼君の下衆どもの料にとて、布などいふものをさへ、召して賜ぶ。心細き住まひなれど、かかる御訪らひたゆまざりければ、身のほどにはめやすく、しめやかにてなむ行なひける。
 木枯しの堪へがたきまで吹きとほしたるに、残る梢もなく散り敷きたる紅葉を、踏み分けける跡も見えぬを見渡して、とみにもえ出でたまはず。いとけしきある深山木に宿りたる蔦の色ぞまだ残りたる。こだになどすこし引き取らせたまひて、宮へと思しくて、持たせたまふ。
 「宿り木と思ひ出でずは木のもとの
  旅寝もいかにさびしからまし」
 と独りごちたまふを聞きて、尼君、
 「荒れ果つる朽木のもとを宿りきと
  思ひおきけるほどの悲しさ」
 あくまで古めきたれど、ゆゑなくはあらぬをぞ、いささかの慰めには思しける。
 宮に紅葉たてまつれたまへれば、男宮おはしましけるほどなりけり。
 「南の宮より」
 とて、何心もなく持て参りたるを、女君、「例のむつかしきこともこそ」と苦しく思せど、取り隠さむやは。宮、
 「をかしき蔦かな」
 と、ただならずのたまひて、召し寄せて見たまふ。御文には、
 「日ごろ、何事かおはしますらむ。山里にものしはべりて、いとど峰の朝霧に惑ひはべりつる御物語も、みづからなむ。かしこの寝殿、堂になすべきこと、阿闍梨に言ひつけはべりにき。御許しはべりてこそは、他に移すこともものしはべらめ。弁の尼に、さるべき仰せ言はつかはせ」
 などぞある。
 「よくも、つれなく書きたまへる文かな。まろありとぞ聞きつらむ」
 とのたまふも、すこしは、げにさやありつらむ。女君は、ことなきをうれしと思ひたまふに、あながちにかくのたまふを、わりなしと思して、うち怨じてゐたまへる御さま、よろづの罪許しつべくをかし。
 「返り事書きたまへ。見じや」
 とて、他ざまに向きたまへり。あまえて書かざらむもあやしければ、
 「山里の御ありきのうらやましくもはべるかな。かしこは、げにさやにてこそよく、と思ひたまへしを、ことさらにまた巌の中求めむよりは、荒らし果つまじく思ひはべるを、いかにもさるべきさまになさせたまはば、おろかならずなむ」
 と聞こえたまふ。「かく憎きけしきもなき御睦びなめり」と見たまひながら、わが御心ならひに、ただならじと思すが、やすからぬなるべし。


 
 枯れ枯れなる前栽の中に、尾花の、ものよりことにて手をさし出で招くがをかしく見ゆるに、まだ穂に出でさしたるも、露を貫きとむる玉の緒、はかなげにうちなびきたるなど、例のことなれど、夕風なほあはれなるころなりかし。
 「穂に出でぬもの思ふらし篠薄
  招く袂の露しげくして」
 なつかしきほどの御衣どもに、直衣ばかり着たまひて、琵琶を弾きゐたまへり。黄鐘調の掻き合はせを、いとあはれに弾きなしたまへば、女君も心に入りたまへることにて、もの怨じもえし果てたまはず、小さき御几帳のつまより、脇息に寄りかかりて、ほのかにさし出でたまへる、いと見まほしくらうたげなり。
 「秋果つる野辺のけしきも篠薄
  ほのめく風につけてこそ知れ
 わが身一つの」
 とて涙ぐまるるが、さすがに恥づかしければ、扇を紛らはしておはする御心の内も、らうたく推し量らるれど、「かかるにこそ、人もえ思ひ放たざらめ」と、疑はしきがただならで、恨めしきなめり。
 菊の、まだよく移ろひ果てで、わざとつくろひたてさせたまへるは、なかなか遅きに、いかなる一本にかあらむ、いと見所ありて移ろひたるを、取り分きて折らせたまひて、
 「花の中に偏に」
 と誦じたまひて、
 「なにがしの皇子の、花めでたる夕べぞかし。いにしへ、天人の翔りて、琵琶の手教へけるは。何事も浅くなりにたる世は、もの憂しや」
 とて、御琴さし置きたまふを、口惜しと思して、
 「心こそ浅くもあらめ、昔を伝へたらむことさへは、などてかさしも」
 とて、おぼつかなき手などをゆかしげに思したれば、
 「さらば、独り琴はさうざうしきに、さしいらへしたまへかし」
 とて、人召して、箏の御琴とり寄せさせて、弾かせたてまつりたまへど、
 「昔こそ、まねぶ人もものしたまひしか、はかばかしく弾きもとめずなりにしものを」
 と、つつましげにて手も触れたまはねば、
 「かばかりのことも、隔てたまへるこそ心憂けれ。このころ、見るわたり、まだいと心解くべきほどにもあらねど、かたなりなる初事をも隠さずこそあれ。すべて女は、やはらかに心うつくしきなむよきこととこそ、その中納言も定むめりしか。かの君に、はた、かくもつつみたまはじ。こよなき御仲なめれば」
 など、まめやかに怨みられてぞ、うち嘆きてすこし調べたまふ。ゆるびたりければ、盤渉調に合はせたまふ。掻き合はせなど、爪音けをかしげに聞こゆ。「伊勢の海」謡ひたまふ御声のあてにをかしきを、女房も、物のうしろに近づき参りて、笑み広ごりてゐたり。
 「二心おはしますはつらけれど、それもことわりなれば、なほわが御前をば、幸ひ人とこそは申さめ。かかる御ありさまに交じらひたまふべくもあらざりし所の御住まひを、また帰りなまほしげに思して、のたまはするこそ、いと心憂けれ」
 など、ただ言ひに言へば、若き人びとは、
 「あなかまや」
 など制す。


 
 御琴ども教へたてまつりなどして、三、四日籠もりおはして、御物忌などことつけたまふを、かの殿には恨めしく思して、大臣、内裏より出でたまひけるままに、ここに参りたまへれば、宮、
 「ことことしげなるさまして、何しにいましつるぞとよ」
 と、むつかりたまへど、あなたに渡りたまひて、対面したまふ。
 「ことなることなきほどは、この院を見で久しくなりはべるも、あはれにこそ」
 など、昔の御物語どもすこし聞こえたまひて、やがて引き連れきこえたまひて出でたまひぬ。御子どもの殿ばら、さらぬ上達部、殿上人なども、いと多くひき続きたまへる勢ひ、こちたきを見るに、並ぶべくもあらぬぞ、屈しいたかりける。人びと覗きて見たてまつりて、
 「さも、きよらにおはしける大臣かな。さばかり、いづれとなく、若く盛りにてきよげにおはさうずる御子どもの、似たまふべきもなかりけり。あな、めでたや」
 と言ふもあり。また、
 「さばかりやむごとなげなる御さまにて、わざと迎へに参りたまへるこそ憎けれ。やすげなの世の中や」
 など、うち嘆くもあるべし。御みづからも、来し方を思ひ出づるよりはじめ、かのはなやかなる御仲らひに立ちまじるべくもあらず、かすかなる身のおぼえをと、いよいよ心細ければ、「なほ心やすく籠もりゐなむのみこそ目やすからめ」など、いとどおぼえたまふ。はかなくて年も暮れぬ。


 


 正月晦日方より、例ならぬさまに悩みたまふを、宮、まだ御覧じ知らぬことにて、いかならむと、思し嘆きて、御修法など、所々にてあまたせさせたまふに、またまた始め添へさせたまふ。いといたくわづらひたまへば、后の宮よりも御訪らひあり。
 かくて三年になりぬれど、一所の御心ざしこそおろかならね、おほかたの世には、ものものしくももてなしきこえたまはざりつるを、この折ぞ、いづこにもいづこにも聞こしめしおどろきて、御訪ぶらひども聞こえたまひける。
 中納言の君は、宮の思し騒ぐに劣らず、いかにおはせむと嘆きて、心苦しくうしろめたく思さるれど、限りある御訪らひばかりこそあれ、あまりもえ参うでたまはで、忍びてぞ御祈りなどもせさせたまひける。
 さるは、女二の宮の御裳着、ただこのころになりて、世の中響きいとなみののしる。よろづのこと、帝の御心一つなるやうに思し急げば、御後見なきしもぞ、なかなかめでたげに見えける。
 女御のしおきたまへることをばさるものにて、作物所、さるべき受領どもなど、とりどりに仕うまつることども、いと限りなしや。
 やがてそのほどに、参りそめたまふべきやうにありければ、男方も心づかひしたまふころなれど、例のことなれば、そなたざまには心も入らで、この御事のみいとほしく嘆かる。
 如月の朔日ごろに、直物とかいふことに、権大納言になりたまひて、右大将かけたまひつ。右の大殿、左にておはしけるが、辞したまへる所なりけり。
 喜びに所々ありきたまひて、この宮にも参りたまへり。いと苦しくしたまへば、こなたにおはしますほどなりければ、やがて参りたまへり。僧などさぶらひて便なき方に、とおどろきたまひて、あざやかなる御直衣、御下襲などたてまつり、ひきつくろひたまひて、下りて答の拝したまふ御さまどもとりどりにいとめでたく、
 「やがて、官の禄賜ふ饗の所に」
 と、請じたてまつりたまふを、悩みたまふ人によりてぞ、思したゆたひたまふめる。右大臣殿のしたまひけるままにとて、六条の院にてなむありける。
 垣下の親王たち上達部、大饗に劣らず、あまり騒がしきまでなむ集ひたまひける。この宮も渡りたまひて、静心なければ、まだ事果てぬに急ぎ帰りたまひぬるを、大殿の御方には、
 「いと飽かずめざまし」
 とのたまふ。劣るべくもあらぬ御ほどなるを、ただ今のおぼえのはなやかさに思しおごりて、おしたちもてなしたまへるなめりかし。


 からうして、その暁、男にて生まれたまへるを、宮もいとかひありてうれしく思したり。大将殿も、喜びに添へて、うれしく思す。昨夜おはしましたりしかしこまりに、やがて、この御喜びもうち添へて、立ちながら参りたまへり。かく籠もりおはしませば、参りたまはぬ人なし。
 御産養、三日は、例のただ宮の御私事にて、五日の夜、大将殿より屯食五十具、碁手の銭、椀飯などは、世の常のやうにて、子持ちの御前の衝重三十、稚児の御衣五重襲にて、御襁褓などぞ、ことことしからず、忍びやかにしなしたまへれど、こまかに見れば、わざと目馴れぬ心ばへなど見えける。
 宮の御前にも浅香の折敷、高坏どもにて、粉熟参らせたまへり。女房の御前には、衝重をばさるものにて、桧破籠三十、さまざまし尽くしたることどもあり。人目にことことしくは、ことさらにしなしたまはず。
 七日の夜は、后の宮の御産養なれば、参りたまふ人びといと多かり。宮の大夫をはじめて、殿上人、上達部、数知らず参りたまへり。内裏にも聞こし召して、
 「宮のはじめて大人びたまふなるには、いかでか」
 とのたまはせて、御佩刀奉らせたまへり。
 九日も、大殿より仕うまつらせたまへり。よろしからず思すあたりなれど、宮の思さむところあれば、御子の公達など参りたまひて、すべていと思ふことなげにめでたければ、御みづからも、月ごろもの思はしく心地の悩ましきにつけても、心細く思したりつるに、かくおもただしく今めかしきことどもの多かれば、すこし慰みもやしたまふらむ。
 大将殿は、「かくさへ大人び果てたまふめれば、いとどわが方ざまは気遠くやならむ。また、宮の御心ざしもいとおろかならじ」と思ふは口惜しけれど、また、初めよりの心おきてを思ふには、いとうれしくもあり。

 かくて、その月の二十日あまりにぞ、藤壺の宮の御裳着の事ありて、またの日なむ、大将参りたまひける。夜のことは忍びたるさまなり。天の下響きていつくしう見えつる御かしづきに、ただ人の具したてまつりたまふぞ、なほ飽かず心苦しく見ゆる。
 「さる御許しはありながらも、ただ今、かく急がせたまふまじきことぞかし」
 と、そしらはしげに思ひのたまふ人もありけれど、思し立ちぬること、すがすがしくおはします御心にて、来し方ためしなきまで、同じくはもてなさむと、思しおきつるなめり。帝の御婿になる人は、昔も今も多かれど、かく盛りの御世に、ただ人のやうに、婿取り急がせたまへるたぐひは、すくなくやありけむ。右の大臣も、
 「めづらしかりける人の御おぼえ、宿世なり。故院だに、朱雀院の御末にならせたまひて、今はとやつしたまひし際にこそ、かの母宮を得たてまつりたまひしか。我はまして、人も許さぬものを拾ひたりしや」
 とのたまひ出づれば、宮は、げにと思すに、恥づかしくて御いらへもえしたまはず。
 三日の夜は、大蔵卿よりはじめて、かの御方の心寄せになさせたまへる人びと、家司に仰せ言賜ひて、忍びやかなれど、かの御前、随身、車副、舎人まで禄賜はす。そのほどの事どもは、私事のやうにぞありける。
 かくて後は、忍び忍びに参りたまふ。心の内には、なほ忘れがたきいにしへざまのみおぼえて、昼は里に起き臥し眺め暮らして、暮るれば心より外に急ぎ参りたまふをも、ならはぬ心地に、いともの憂く苦しくて、「まかでさせたてまつらむ」とぞ思しおきてける。
 母宮は、いとうれしきことに思したり。おはします寝殿譲りきこゆべくのたまへど、
 「いとかたじけなからむ」
 とて、御念誦堂のあはひに、廊を続けて造らせたまふ。西面に移ろひたまふべきなめり。東の対どもなども、焼けて後、うるはしく新しくあらまほしきを、いよいよ磨き添へつつ、こまかにしつらはせたまふ。
 かかる御心づかひを、内裏にも聞かせたまひて、ほどなくうちとけ移ろひたまはむを、いかがと思したり。帝と聞こゆれど、心の闇は同じごとなむおはしましける。
 母宮の御もとに、御使ありける御文にも、ただこのことをなむ聞こえさせたまひける。故朱雀院の、取り分きて、この尼宮の御事をば聞こえ置かせたまひしかば、かく世を背きたまへれど、衰へず、何事も元のままにて、奏せさせたまふことなどは、かならず聞こしめし入れ、御用意深かりけり。
 かく、やむごとなき御心どもに、かたみに限りもなくもてかしづき騒がれたまふおもだたしさも、いかなるにかあらむ、心の内にはことにうれしくもおぼえず、なほ、ともすればうち眺めつつ、宇治の寺造ることを急がせたまふ。

 宮の若君の五十日になりたまふ日数へ取りて、その餅の急ぎを心に入れて、籠物、桧破籠などまで見入れたまひつつ、世の常のなべてにはあらずと思し心ざして、沈、紫檀、銀、黄金など、道々の細工どもいと多く召しさぶらはせたまへば、我劣らじと、さまざまのことどもをし出づめり。
 みづからも、例の、宮のおはしまさぬ隙におはしたり。心のなしにやあらむ、今すこし重々しくやむごとなげなるけしきさへ添ひにけりと見ゆ。「今は、さりとも、むつかしかりしすずろごとなどは紛れたまひにたらむ」と思ふに、心やすくて、対面したまへり。されど、ありしながらのけしきに、まづ涙ぐみて、
 「心にもあらぬまじらひ、いと思ひの外なるものにこそと、世を思ひたまへ乱るることなむ、まさりにたる」
 と、あいだちなくぞ愁へたまふ。
 「いとあさましき御ことかな。人もこそおのづからほのかにも漏り聞きはべれ」
 などはのたまへど、かばかりめでたげなることどもにも慰まず、「忘れがたく思ひたまふらむ心深さよ」とあはれに思ひきこえたまふに、おろかにもあらず思ひ知られたまふ。「おはせましかば」と、口惜しく思ひ出できこえたまへど、「それも、わがありさまのやうに、うらやみなく身を恨むべかりけるかし。何事も数ならでは、世の人めかしきこともあるまじかりけり」とおぼゆるにぞ、いとど、かの、うちとけ果てでやみなむと思ひたまへりし心おきては、なほ、いと重々しく思ひ出でられたまふ。

 若君を切にゆかしがりきこえたまへば、恥づかしけれど、「何かは隔て顔にもあらむ、わりなきこと一つにつけて恨みらるるよりほかには、いかでこの人の御心に違はじ」と思へば、みづからはともかくもいらへきこえたまはで、乳母してさし出でさせたまへり。
 さらなることなれば、憎げならむやは。ゆゆしきまで白くうつくしくて、たかやかに物語し、うち笑ひなどしたまふ顔を見るに、わがものにて見まほしくうらやましきも、世の思ひ離れがたくなりぬるにやあらむ。されど、「言ふかひなくなりたまひにし人の、世の常のありさまにて、かやうならむ人をもとどめ置きたまへらましかば」とのみおぼえて、このころおもだたしげなる御あたりに、いつしかなどは思ひ寄られぬこそ、あまりすべなき君の御心なめれ。かく女々しくねぢけて、まねびなすこそいとほしけれ。
 しか悪ろびかたほならむ人を、帝の取り分き切に近づけて、睦びたまふべきにもあらじものを、「まことしき方ざまの御心おきてなどこそは、めやすくものしたまひけめ」とぞ推し量るべき。
 げに、いとかく幼きほどを見せたまへるもあはれなれば、例よりは物語などこまやかに聞こえたまふほどに、暮れぬれば、心やすく夜をだに更かすまじきを、苦しうおぼゆれば、嘆く嘆く出でたまひぬ。
 「をかしの人の御匂ひや。折りつれば、とかや言ふやうに、鴬も尋ね来ぬべかめり」
 など、わづらはしがる若き人もあり。

 「夏にならば、三条の宮塞がる方になりぬべし」と定めて、四月朔日ごろ、節分とかいふこと、まだしき先に渡したてまつりたまふ。
 明日とての日藤壺に主上渡らせたまひて、藤の花の宴せさせたまふ。南の廂の御簾上げて、椅子立てたり。公わざにて、主人の宮の仕うまつりたまふにはあらず。上達部、殿上人の饗など、内蔵寮より仕うまつれり。
 右の大臣、按察使大納言、藤中納言、左兵衛督。親王たちは、三の宮、常陸宮などさぶらひたまふ。南の庭の藤の花のもとに、殿上人の座はしたり。後涼殿の東に、楽所の人びと召して、暮れ行くほどに、双調に吹きて、上の御遊びに、宮の御方より、御琴ども笛など出ださせたまへば、大臣をはじめたてまつりて、御前に取りつつ参りたまふ。
 故六条の院の御手づから書きたまひて、入道の宮にたてまつらせたまひし琴の譜二巻、五葉の枝に付けたるを、大臣取りたまひて奏したまふ。
 次々に、箏の御琴、琵琶、和琴など、朱雀院の物どもなりけり。笛は、かの夢に伝へしいにしへの形見のを、「またなき物の音なり」と賞でさせたまひければ、「この折のきよらより、またはいつかは映え映えしきついでのあらむ」と思して、取う出でたまへるなめり。
 大臣和琴、三の宮琵琶など、とりどりに賜ふ。大将の御笛は、今日ぞ、世になき音の限りは吹き立てたまひける。殿上人の中にも、唱歌につきなからぬどもは、召し出でて、おもしろく遊ぶ。
 宮の御方より、粉熟参らせたまへり。沈の折敷四つ、紫檀の高坏、藤の村濃の打敷に、折枝縫ひたり。銀の様器、瑠璃の御盃、瓶子は紺瑠璃なり。兵衛督、御まかなひ仕うまつりたまふ。
 御盃参りたまふに、大臣、しきりては便なかるべし、宮たちの御中にはた、さるべきもおはせねば、大将に譲りきこえたまふを、憚り申したまへど、御けしきもいかがありけむ、御盃ささげて、「をし」とのたまへる声づかひもてなしさへ、例の公事なれど、人に似ず見ゆるも、今日はいとど見なしさへ添ふにやあらむ。さし返し賜はりて、下りて舞踏したまへるほど、いとたぐひなし。
 上臈の親王たち、大臣などの賜はりたまふだにめでたきことなるを、これはまして御婿にてもてはやされたてまつりたまへる、御おぼえ、おろかならずめづらしきに、限りあれば、下りたる座に帰り着きたまへるほど、心苦しきまでぞ見えける。

 按察使大納言は、「我こそかかる目も見むと思ひしか、ねたのわざや」と思ひたまへり。この宮の御母女御をぞ、昔、心かけきこえたまへりけるを、参りたまひて後も、なほ思ひ離れぬさまに聞こえ通ひたまひて、果ては宮を得たてまつらむの心つきたりければ、御後見望むけしきも漏らし申しけれど、聞こし召しだに伝へずなりにければ、いと心やましと思ひて、
 「人柄は、げに契りことなめれど、なぞ、時の帝のことことしきまで婿かしづきたまふべき。またあらじかし。九重のうちに、おはします殿近きほどにて、ただ人のうちとけ訪らひて、果ては宴や何やともて騒がるることは」
 など、いみじく誹りつぶやき申したまひけれど、さすがゆかしければ、参りて、心の内にぞ腹立ちゐたまへりける。
 紙燭さして歌どもたてまつる。文台のもとに寄りつつ置くほどのけしきは、おのおのしたり顔なりけれど、例の、「いかにあやしげに古めきたりけむ」と思ひやれば、あながちに皆もたづね書かず。上の町も、上臈とて、御口つきどもは、異なること見えざめれど、しるしばかりとて、一つ、二つぞ問ひ聞きたりし。これは、大将の君の、下りて御かざし折りて参りたまへりけるとか。
 「すべらきのかざしに折ると藤の花
  及ばぬ枝に袖かけてけり」
 うけばりたるぞ、憎きや。
 「よろづ世をかけて匂はむ花なれば
  今日をも飽かぬ色とこそ見れ」
 「君がため折れるかざしは紫の
  雲に劣らぬ花のけしきか」
 「世の常の色とも見えず雲居まで
  たち昇りたる藤波の花」
 「これやこの腹立つ大納言のなりけむ」と見ゆれ。かたへは、ひがことにもやありけむ。かやうに、ことなるをかしきふしもなくのみぞあなりし。
 夜更くるままに、御遊びいともしろし。大将の君、「安名尊」謡ひたまへる声ぞ、限りなくめでたかりける。按察使も、昔すぐれたまへりし御声の名残なれば、今もいとものものしくて、うち合はせたまへり。右の大殿の御七郎、童にて笙の笛吹く。いとうつくしかりければ、御衣賜はす。大臣下りて舞踏したまふ。
 暁近うなりてぞ帰らせたまひける。禄ども、上達部、親王たちには、主上より賜はす。殿上人、楽所の人びとには、宮の御方より品々に賜ひけり。
 その夜ふさりなむ、宮まかでさせたてまつりたまひける。儀式いと心ことなり。主上の女房さながら御送り仕うまつらせたまひける。庇の御車にて、庇なき糸毛三つ、黄金づくり六つ、ただの檳榔毛二十、網代二つ、童、下仕へ八人づつさぶらふに、また御迎への出車どもに、本所の人びと乗せてなむありける。御送りの上達部、殿上人、六位など、言ふ限りなききよらを尽くさせたまへり。
 かくて、心やすくうちとけて見たてまつりたまふに、いとをかしげにおはす。ささやかにしめやかにて、ここはと見ゆるところなくおはすれば、「宿世のほど口惜しからざりけり」と、心おごりせらるるものから、過ぎにし方の忘らればこそはあらめ、なほ紛るる折なく、もののみ恋しくおぼゆれば、
 「この世にては慰めかねつべきわざなめり。仏になりてこそは、あやしくつらかりける契りのほどを、何の報いと諦めて思ひ離れめ」
 と思ひつつ、寺の急ぎにのみ心を入れたまへり。


 


 賀茂の祭など、騒がしきほど過ぐして、二十日あまりのほどに、例の、宇治へおはしたり。
 造らせたまふ御堂見たまひて、すべきことどもおきてのたまひ、さて、例の、朽木のもとを見たまへ過ぎむが、なほあはれなれば、そなたざまにおはするに、女車のことことしきさまにはあらぬ一つ、荒らましき東男の、腰に物負へる、あまた具して、下人も数多く頼もしげなるけしきにて、橋より今渡り来る見ゆ。
 「田舎びたる者かな」と見たまひつつ、殿はまづ入りたまひて、御前どもは、まだ立ち騷ぎたるほどに、「この車もこの宮をさして来るなりけり」と見ゆ。御随身どもも、かやかやと言ふを制したまひて、
 「何人ぞ」
 と問はせたまへば、声うちゆがみたる者、
 「常陸の前司殿の姫君の、初瀬の御寺に詣でて戻りたまへるなり。初めもここになむ宿りたまへし」
 と申すに、
 「おいや、聞きし人ななり」
 と思し出でて、人びとをば異方に隠したまひて、
 「はや、御車入れよ。ここに、また人宿りたまへど、北面になむ」
 と言はせたまふ。
 御供の人も、皆狩衣姿にて、ことことしからぬ姿どもなれど、なほけはひやしるからむ、わづらはしげに思ひて、馬ども引きさけなどしつつ、かしこまりつつぞをる。車は入れて、廊の西のつまにぞ寄する。この寝殿はまだあらはにて、簾もかけず。下ろし籠めたる中の二間に立て隔てたる障子の穴より覗きたまふ。
 御衣の鳴れば、脱ぎおきて、直衣指貫の限りを着てぞおはする。とみにも降りで、尼君に消息して、かくやむごとなげなる人のおはするを、「誰れぞ」など案内するなるべし。君は、車をそれと聞きたまひつるより、
 「ゆめ、その人にまろありとのたまふな」
 と、まづ口かためさせたまひてければ、皆さ心得て、
 「早う降りさせたまへ。客人はものしたまへど、異方になむ」
 と言ひ出だしたり。


 若き人のある、まづ降りて、簾うち上ぐめり。御前のさまよりは、このおもと馴れてめやすし。また、大人びたる人いま一人降りて、「早う」と言ふに、
 「あやしくあらはなる心地こそすれ」
 と言ふ声、ほのかなれどあてやかに聞こゆ。
 「例の御事。こなたは、さきざきも下ろし籠めてのみこそははべれ。さては、またいづこのあらはなるべきぞ」
 と、心をやりて言ふ。つつましげに降るるを見れば、まづ、頭つき、様体、細やかにあてなるほどは、いとよくもの思ひ出でられぬべし。扇子をつとさし隠したれば、顔は見えぬほど心もとなくて、胸うちつぶれつつ見たまふ。
 車は高く、降るる所は下りたるを、この人びとはやすらかに降りなしつれど、いと苦しげにややみて、ひさしく降りて、ゐざり入る。濃き袿に、撫子とおぼしき細長、若苗色の小袿着たり。
 四尺の屏風を、この障子に添へて立てたるが、上より見ゆる穴なれば、残るところなし。こなたをばうしろめたげに思ひて、あなたざまに向きてぞ、添ひ臥しぬる。
 「さも、苦しげに思したりつるかな。泉川の舟渡りも、まことに、今日はいと恐ろしくこそありつれ。この如月には、水のすくなかりしかばよかりしなりけり」
 「いでや、歩くは、東路思へば、いづこか恐ろしからむ」
 など、二人して苦しとも思ひたらず言ひゐたるに、主は音もせでひれ臥したり。腕をさし出でたるが、まろらかにをかしげなるほども、常陸殿などいふべくは見えず、まことにあてなり。
 やうやう腰痛きまで立ちすくみたまへど、人のけはひせじとて、なほ動かで見たまふに、若き人、
 「あな、香ばしや。いみじき香の香こそすれ。尼君の焚きたまふにやあらむ」
 老い人、
 「まことにあなめでたの物の香や。京人は、なほいとこそ雅びかに今めかしけれ。天下にいみじきことと思したりしかど、東にてかかる薫物の香は、え合はせ出でたまはざりきかし。この尼君は、住まひかくかすかにおはすれど、装束のあらまほしく、鈍色青色といへど、いときよらにぞあるや」
 など、ほめゐたり。あなたの簀子より童来て、
 「御湯など参らせたまへ」
 とて、折敷どもも取り続きてさし入る。果物取り寄せなどして、
 「ものけたまはる。これ」
 など起こせど、起きねば、二人して、栗やなどやうのものにや、ほろほろと食ふも、聞き知らぬ心地には、かたはらいたくてしぞきたまへど、またゆかしくなりつつ、なほ立ち寄り立ち寄り見たまふ。
 これよりまさる際の人びとを、后の宮をはじめて、ここかしこに、容貌よきも心あてなるも、ここら飽くまで見集めたまへど、おぼろけならでは、目も心もとまらず、あまり人にもどかるるまでものしたまふ心地に、ただ今は、何ばかりすぐれて見ゆることもなき人なれど、かく立ち去りがたく、あながちにゆかしきも、いとあやしき心なり。

 尼君は、この殿の御方にも、御消息聞こえ出だしたりけれど、
 「御心地悩ましとて、今のほどうちやすませたまへるなり」
 と、御供の人びと心しらひて言ひたりければ、「この君を尋ねまほしげにのたまひしかば、かかるついでにもの言ひ触れむと思ほすによりて、日暮らしたまふにや」と思ひて、かく覗きたまふらむとは知らず。
 例の、御荘の預りどもの参れる、破籠や何やと、こなたにも入れたるを、東人どもにも食はせなど、事ども行なひおきて、うち化粧じて、客人の方に来たり。ほめつる装束、げにいとかはらかにて、みめもなほよしよししくきよげにぞある。
 「昨日おはし着きなむと待ちきこえさせしを、などか、今日も日たけては」
 と言ふめれば、この老い人、
 「いとあやしく苦しげにのみせさせたまへば、昨日はこの泉川のわたりにて、今朝も無期に御心地ためらひてなむ」
 といらひて、起こせば、今ぞ起きゐたる。尼君を恥ぢらひて、そばみたるかたはらめ、これよりはいとよく見ゆ。まことにいとよしあるまみのほど、髪ざしのわたり、かれをも、詳しくつくづくとしも見たまはざりし御顔なれど、これを見るにつけて、ただそれと思ひ出でらるるに、例の、涙落ちぬ。
 尼君のいらへうちする声、けはひ、宮の御方にもいとよく似たりと聞こゆ。
 「あはれなりける人かな。かかりけるものを、今まで尋ねも知らで過ぐしけることよ。これより口惜しからむ際の品ならむゆかりなどにてだに、かばかりかよひきこえたらむ人を得ては、おろかに思ふまじき心地するに、まして、これは、知られたてまつらざりけれど、まことに故宮の御子にこそはありけれ」
 と見なしたまひては、限りなくあはれにうれしくおぼえたまふ。「ただ今も、はひ寄りて、世の中におはしけるものを」と言ひ慰めまほし。蓬莱まで尋ねて、釵の限りを伝へて見たまひけむ帝は、なほ、いぶせかりけむ。「これは異人なれど、慰め所ありぬべきさまなり」とおぼゆるは、この人に契りのおはしけるにやあらむ。
 尼君は、物語すこしして、とく入りぬ。人のとがめつる薫りを、「近く覗きたまふなめり」と心得てければ、うちとけごとも語らはずなりぬるなるべし。

 日暮れもていけば、君もやをら出でて、御衣など着たまひてぞ、例召し出づる障子の口に、尼君呼びて、ありさまなど問ひたまふ。
 「折しもうれしくまで逢ひたるを。いかにぞ、かの聞こえしことは」
 とのたまへば、
 「しか、仰せ言はべりし後は、さるべきついではべらば、と待ちはべりしに、去年は過ぎて、この二月になむ、初瀬詣でのたよりに対面してはべりし。
 かの母君に、思し召したるさまは、ほのめかしはべりしかば、いとかたはらいたく、かたじけなき御よそへにこそははべるなれ、などなむはべりしかど、そのころほひは、のどやかにもおはしまさずと承りし、折便なく思ひたまへつつみて、かくなむ、とも聞こえさせはべらざりしを、またこの月にも詣でて、今日帰りたまふなめり。
 行き帰りの中宿りには、かく睦びらるるも、ただ過ぎにし御けはひを尋ねきこゆるゆゑになむはべめる。かの母君も、障ることありて、このたびは、独りものしたまふめれば、かくおはしますとも、何かは、ものしはべらむとて」
 と聞こゆ。
 「田舎びたる人どもに、忍びやつれたるありきも見えじとて、口固めつれど、いかがあらむ。下衆どもは隠れあらじかし。さて、いかがすべき。独りものすらむこそ、なかなか心やすかなれ。かく契り深くてなむ、参り来あひたる、と伝へたまへかし」
 とのたまへば、
 「うちつけに、いつのほどなる御契りにかは」
 と、うち笑ひて、
 「さらば、しか伝へはべらむ」
 とて、入るに、
 「貌鳥の声も聞きしにかよふやと
  茂みを分けて今日ぞ尋ぬる」
 ただ口ずさみのやうにのたまふを、入りて語りけり。


 


  

  

            現代語訳 補足 目次

      五十、 東 屋   
 


   
 



 筑波山を分け見まほしき御心はありながら、端山の繁りまであながちに思ひ入らむも、いと人聞き軽々しう、かたはらいたかるべきほどなれば、思し憚りて、御消息をだにえ伝へさせたまはず。
 かの尼君のもとよりぞ、母北の方にのたまひしさまなど、たびたびほのめかしおこせけれど、まめやかに御心とまるべきこととも思はねば、ただ、さまでも尋ね知りたまふらむこと、とばかりをかしう思ひて、人の御ほどのただ今世にありがたげなるをも、数ならましかば、などぞよろづに思ひける。
 守の子どもは、母亡くなりにけるなど、あまた、この腹にも、姫君とつけてかしづくあり、まだ幼きなど、すぎすぎに五、六人ありければ、さまざまにこの扱ひをしつつ、異人と思ひ隔てたる心のありければ、常にいとつらきものに守をも恨みつつ、「いかでひきすぐれて、おもただしきほどにしなしても見えにしがな」と、明け暮れ、この母君は思ひ扱ひける。
 さま容貌の、なのめに、とりまぜてもありぬべくは、いとかうしも何かは苦しきまでももてなやまじ、同じごと思はせてもありぬべき世を、ものにも混じらず、あはれにかたじけなく生ひ出でたまへば、あたらしく心苦しき者に思へり。
 娘多かりと聞きて、なま君達めく人びとも、おとなひ言ふ、いとあまたありけり。初めの腹の二、三人は、皆さまざまに配りて、大人びさせたり。今はわが姫君を、「思ふやうにて見たてまつらばや」と、明け暮れ護りて、なでかしづくこと限りなし。


 守も卑しき人にはあらざりけり。上達部の筋にて、仲らひもものきたなき人ならず、徳いかめしうなどあれば、ほどほどにつけては思ひ上がりて、家の内もきらきらしく、ものきよげに住みなし、事好みしたるほどよりは、あやしう荒らかに田舎びたる心ぞつきたりける。
 若うより、さる東方の、遥かなる世界に埋もれて年経ければにや、声などほとほとうちゆがみぬべく、ものうち言ふ、すこしたみたるやうにて、豪家のあたり恐ろしくわづらはしきものに憚り懼ぢ、すべていとまたく隙間なき心もあり。
 をかしきさまに琴笛の道は遠う、弓をなむいとよく引ける。なほなほしきあたりともいはず、勢ひに引かされて、よき若人ども、装束ありさまはえならず調へつつ、腰折れたる歌合せ、物語、庚申をし、まばゆく見苦しく、遊びがちに好めるを、この懸想の君達、
 「らうらうじくこそあるべけれ。容貌なむいみじかなる」
 など、をかしき方に言ひなして、心を尽くし合へる中に、左近少将とて、年二十二、三ばかりのほどにて、心ばせしめやかに、才ありといふ方は、人に許されたれど、きらきらしう今めいてなどはえあらぬにや、通ひし所なども絶えて、いとねむごろに言ひわたりけり。
 この母君、あまたかかること言ふ人びとの中に、
 「この君は、人柄もめやすかなり。心定まりてももの思ひ知りぬべかなるを、人もあてなりや。これよりまさりて、ことことしき際の人はた、かかるあたりを、さいへど、尋ね寄らじ」
 と思ひて、この御方に取りつぎて、さるべき折々は、をかしきさまに返り事などせさせたてまつる。心一つに思ひまうく。
 「守こそおろかに思ひなすとも、我は命を譲りてかしづきて、さま容貌のめでたきを見つきなば、さりとも、おろかになどは、よも思ふ人あらじ」
 と思ひ立ちて、八月ばかりと契りて、調度をまうけ、はかなき遊びものをせさせても、さまことにやうをかしう、蒔絵、螺鈿のこまやかなる心ばへまさりて見ゆるものをば、この御方にと取り隠して、劣りのを、
 「これなむよき」
 とて見すれば、守はよくしも見知らず、そこはかとない物どもの、人の調度といふ限りは、ただとり集めて並べ据ゑつつ、目をはつかにさし出づるばかりにて、琴、琵琶の師とて、内教坊のわたりより迎へ取りつつ習はす。
 手一つ弾き取れば、師を立ち居拝みてよろこび、禄を取らすること、埋むばかりにてもて騒ぐ。はやりかなる曲物など教へて、師と、をかしき夕暮などに、弾き合はせて遊ぶ時は、涙もつつまず、をこがましきまで、さすがにものめでしたり。かかることどもを、母君は、すこしもののゆゑ知りて、いと見苦しと思へば、ことにあへしらはぬを、
 「吾子をば、思ひ落としたまへり」
 と、常に恨みけり。

 かくて、この少将、契りしほどを待ちつけで、「同じくは疾く」とせめければ、わが心一つに、かう思ひ急ぐも、いとつつましう、人の心の知りがたさを思ひて、初めより伝へそめける人の来たるに、近う呼び寄せて語らふ。
 「よろづ多く思ひ憚ることの多かるを、月ごろかうのたまひてほど経ぬるを、並々の人にもものしたまはねば、かたじけなう心苦しうて。かう思ひ立ちにたるを、親などものしたまはぬ人なれば、心一つなるやうにて、かたはらいたう、うちあはぬさまに見えたてまつることもやと、かねてなむ思ふ。
 若き人びとあまたはべれど、思ふ人具したるは、おのづからと思ひ譲られて、この君の御ことをのみなむ、はかなき世の中を見るにも、うしろめたくいみじきを、もの思ひ知りぬべき御心ざまと聞きて、かうよろづのつつましさを忘れぬべかめるをしも、もし思はずなる御心ばへも見えば、人笑へに悲しうなむ」
 と言ひけるを、少将の君に参うでて、
 「しかしかなむ」
 と申しけるに、けしき悪しくなりぬ。
 「初めより、さらに、守の御娘にあらずといふことをなむ聞かざりつる。同じことなれど、人聞きもけ劣りたる心地して、出で入りせむにもよからずなむあるべき。ようも案内せで、浮かびたることを伝へける」
 とのたまふに、いとほしくなりて、
 「詳しくも知りたまへず。女どもの知るたよりにて、仰せ言を伝へ始めはべりしに、中にかしづく娘とのみ聞きはべれば、守のにこそは、とこそ思ひたまへつれ。異人の子持たまへらむとも、問ひ聞きはべらざりつるなり。
 容貌、心もすぐれてものしたまふこと、母上のかなしうしたまひて、おもだたしう気高きことをせむと、あがめかしづかると聞きはべりしかば、いかでかの辺のこと伝へつべからむ人もがな、とのたまはせしかば、さるたより知りたまへりと、取り申ししなり。さらに、浮かびたる罪、はべるまじきことなり」
 と、腹悪しく言葉多かる者にて、申すに、君、いとあてやかならぬさまにて、
 「かやうのあたりに行き通はむ、人のをさをさ許さぬことなれど、今様のことにて、咎あるまじう、もてあがめて後見だつに、罪隠してなむあるたぐひもあめるを、同じこととうちうちには思ふとも、よそのおぼえなむ、へつらひて人言ひなすべき。
 源少納言、讃岐守などの、うけばりたるけしきにて出で入らむに、守にもをさをさ受けられぬさまにて交じらはむなむ、いと人げなかるべき」
 とのたまふ。

 この人、追従あるうたてある人の心にて、これをいと口惜しう、こなたかなたに思ひければ、
 「まことに守の娘と思さば、まだ若うなどおはすとも、しか伝へはべらむかし。中にあたるなむ、姫君とて、守、いとかなしうしたまふなる」
 と聞こゆ。
 「いさや。初めよりしか言ひ寄れることをおきて、また言はむこそうたてあれ。されど、わが本意は、かの守の主の、人柄もものものしく、大人しき人なれば、後見にもせまほしう、見るところありて思ひ始めしことなり。もはら顔、容貌のすぐれたらむ女の願ひもなし。品あてに艶ならむ女を願はば、やすく得つべし。
 されど、寂しうことうち合はぬ、みやび好める人の果て果ては、ものきよくもなく、人にも人ともおぼえたらぬを見れば、すこし人にそしらるとも、なだらかにて世の中を過ぐさむことを願ふなり。守に、かくなむと語らひて、さもと許すけしきあらば、何かは、さも」
 とのたまふ。

 この人は、妹のこの西の御方にあるたよりに、かかる御文なども取り伝へはじめけれど、守には詳しくも見え知られぬ者なりけり。ただ行きに、守の居たりける前に行きて、
 「とり申すべきことありて」
 など言はす。守、
 「このわたりに時々出で入りはすと聞けど、前には呼び出でぬ人の、何ごと言ひにかはあらむ」
 と、なま荒々しきけしきなれど、
 「左近少将殿の御消息にてなむさぶらふ」
 と言はせたれば、会ひたり。語らひがたげなる顔して、近うゐ寄りて、
 「月ごろ、内の御方に消息聞こえさせたまふを、御許しありて、この月のほどにと契りきこえさせたまふことはべるを、日をはからひて、いつしかと思すほどに、ある人の申しけるやう、
 『まことに北の方の御はからひにものしたまへど、守の殿の御娘にはおはせず。君達のおはし通はむに、世の聞こえなむへつらひたるやうならむ。受領の御婿になりたまふかやうの君達は、ただ私の君のごとく思ひかしづきたてまつり、手に捧げたるごと、思ひ扱ひ後見たてまつるにかかりてなむ、さる振る舞ひしたまふ人びとものしたまふめるを、さすがにその御願ひはあながちなるやうにて、をさをさ受けられたまはで、け劣りておはし通はむこと、便なかりぬべきよし』
 をなむ、切にそしり申す人びとあまたはべるなれば、ただ今思しわづらひてなむ。
 『初めよりただきらぎらしう、人の後見と頼みきこえむに、堪へたまへる御おぼえを選び申して、聞こえ始め申ししなり。さらに、異人ものしたまふらむといふこと知らざりければ、もとの心ざしのままに、まだ幼きものあまたおはすなるを、許いたまはば、いとどうれしくなむ。御けしき見て参うで来』
 と仰せられつれば」
 と言ふに、守、
 「さらに、かかる御消息はべるよし、詳しく承らず。まことに同じことに思うたまふべき人なれど、よからぬ童べあまたはべりて、はかばかしからぬ身に、さまざま思ひたまへ扱ふほどに、母なる者も、これを異人と思ひ分けたることと、くねり言ふことはべりて、ともかくも口入れさせぬ人のことにはべれば、ほのかに、しかなむ仰せらるることはべりとは聞きはべりしかど、なにがしを取り所に思しける御心は、知りはべらざりけり。
 さるは、いとうれしく思ひたまへらるる御ことにこそはべるなれ。いとらうたしと思ふ女の童は、あまたの中に、これをなむ命にも代へむと思ひはべる。のたまふ人びとあれど、今の世の人の御心、定めなく聞こえはべるに、なかなか胸いたき目をや見むの憚りに、思ひ定むることもなくてなむ。
 いかでうしろやすくも見たまへおかむと、明け暮れかなしく思うたまふるを、少将殿におきたてまつりては、故大将殿にも、若くより参り仕うまつりき。家の子にて見たてまつりしに、いと警策に、仕うまつらまほしと、心つきて思ひきこえしかど、遥かなる所に、うち続きて過ぐしはべる年ごろのほどに、うひうひしくおぼえはべりてなむ、参りも仕まつらぬを、かかる御心ざしのはべりけるを。
 返す返す、仰せの事たてまつらむはやすきことなれど、月ごろの御心違へたるやうに、この人、思ひたまへむことをなむ、思うたまへ憚りはべる」
 と、いとこまやかに言ふ。

 よろしげなめりと、うれしく思ふ。
 「何かと思し憚るべきことにもはべらず。かの御心ざしは、ただ一所の御許しはべらむを願ひ思して、『いはけなく年足らぬほどにおはすとも、真実のやむごとなく思ひおきてたまへらむをこそ、本意叶ふにはせめ。もはらさやうのほとりばみたらむ振る舞ひすべきにもあらず』と、なむのたまひつる。
 人柄はいとやむごとなく、おぼえ心にくくおはする君なりけり。若き君達とて、好き好きしくあてびてもおはしまさず、世のありさまもいとよく知りたまへり。領じたまふ所々もいと多くはべり。まだころの御徳なきやうなれど、おのづからやむごとなき人の御けはひのありげなるやう、直人の限りなき富といふめる勢ひには、まさりたまへり。来年、四位になりたまひなむ。こたみの頭は疑ひなく、帝の御口づからごてたまへるなり。
 『よろづのこと足らひてめやすき朝臣の、妻をなむ定めざなる。はやさるべき人選りて、後見をまうけよ。上達部には、我しあれば、今日明日といふばかりになし上げてむ』とこそ仰せらるなれ。何事も、ただこの君ぞ、帝にも親しく仕うまつりたまふなる。
 御心はた、いみじう警策に、重々しくなむおはしますめる。あたら人の御婿を。かう聞きたまふほどに、思ほし立ちなむこそよからめ。かの殿には、我も我も婿にとりたてまつらむと、所々にはべるなれば、ここにしぶしぶなる御けはひあらば、他ざまにも思しなりなむ。これ、ただうしろやすきことをとり申すなり」
 と、いと多く、よげに言ひ続くるに、いとあさましく鄙びたる守にて、うち笑みつつ聞きゐたり。

 「このころの御徳などの心もとなからむことは、なのたまひそ。なにがし命はべらむほどは、頂に捧げたてまつりてむ。心もとなく、何を飽かぬとか思すべき。たとひあへずして仕うまつりさしつとも、残りの宝物、領じはべる所々、一つにてもまた取り争ふべき人なし。
 子ども多くはべれど、これはさま異に思ひそめたる者にはべり。ただ真心に思し顧みさせたまはば、大臣の位を求めむと思し願ひて、世になき宝物をも尽くさむとしたまはむに、なきものはべるまじ。
 当時の帝、しか恵み申したまふなれば、御後見は心もとなかるまじ。これ、かの御ためにも、なにがしが女の童のためにも、幸ひとあるべきことにやとも知らず」
 と、よろしげに言ふ時に、いとうれしくなりて、妹にもかかることありとも語らず、あなたにも寄りつかで、守の言ひつることを、「いともいともよげにめでたし」と思ひて聞こゆれば、君、「すこし鄙びてぞある」とは聞きたまへど、憎からず、うち笑みて聞きゐたまへり。大臣にならむ贖労を取らむなどぞ、あまりおどろおどろしきことと、耳とどまりける。
 「さて、かの北の方には、かくとものしつや。心ざしことに思ひ始めたまへらむに、ひき違へたらむ、ひがひがしくねぢけたるやうにとりなす人もあらむ。いさや」
 と思したゆたひたるを、
 「何か。北の方も、かの姫君をば、いとやむごとなきものに思ひかしづきたてまつりたまふなりけり。ただ中のこのかみにて、年も大人びたまふを、心苦しきことに思ひて、そなたにとおもむけて申されけるなりけり」
 と聞こゆ。「月ごろは、またなく世の常ならずかしづくと言ひつるものの、うちつけにかく言ふもいかならむと思へども、なほ、一わたりはつらしと思はれ、人にはすこし誹らるとも、長らへて頼もしき事をこそ」と、いとまたくかしこき君にて、思ひ取りてければ、日をだにとり替へで、契りし暮れにぞ、おはし始めける。

 北の方は、人知れずいそぎ立ちて、人びとの装束せさせ、しつらひなどよしよししうしたまふ。御方をも、頭洗はせ、取りつくろひて見るに、少将などいふほどの人に見せむも、惜しくあたらしきさまを、
 「あはれや。親に知られたてまつりて生ひ立ちたまはましかば、おはせずなりにたれども、大将殿ののたまふらむさまに、おほけなくとも、などかは思ひ立たざらまし。されど、うちうちにこそかく思へ、他の音聞きは、守の子とも思ひ分かず、また、実を尋ね知らむ人も、なかなか落としめ思ひぬべきこそ悲しけれ」
 など、思ひ続く。
 「いかがはせむ。盛り過ぎたまはむもあいなし。卑しからず、めやすきほどの人の、かくねむごろにのたまふめるを」
 など、心一つに思ひ定むるも、媒のかく言よくいみじきに、女はましてすかされたるにやあらむ。明日明後日と思へば、心あわたたしくいそがしきに、こなたにも心のどかに居られたらず、そそめきありくに、守外より入り来て、ながながと、とどこほるところもなく言ひ続けて、
 「我を思ひ隔てて、吾子の御懸想人を奪はむとしたまひける、おほけなく心幼きこと。めでたからむ御娘をば、要ぜさせたまふ君達あらじ。卑しく異やうならむなにがしらが女子をぞ、いやしうも尋ねのたまふめれ。かしこく思ひ企てられけれど、もはら本意なしとて、他ざまへ思ひなりたまふべかなれば、同じくはと思ひてなむ、さらば御心、と許し申しつる」
 など、あやしく奥なく、人の思はむところも知らぬ人にて、言ひ散らしゐたり。
 北の方、あきれて物も言はれで、とばかり思ふに、心憂さをかき連ね、涙も落ちぬばかり思ひ続けられて、やをら立ちぬ。


 


 こなたに渡りて見るに、いとらうたげにをかしげにて居たまへるに、「さりとも、人には劣りたまはじ」とは思ひ慰む。乳母と二人、
 「心憂きものは人の心なりけり。おのれは、同じごと思ひ扱ふとも、この君のゆかりと思はむ人のためには、命をも譲りつべくこそ思へ、親なしと聞きあなづりて、まだ幼くなりあはぬ人を、さし越えて、かくは言ひなるべしや。
 かく心憂く、近きあたりに見じ聞かじと思ひぬれど、守のかくおもだたしきことに思ひて、受け取り騒ぐめれば、あひあひにたる世の人のありさまを、すべてかかることに口入れじと思ふ。いかでここならぬ所に、しばしありにしがな」
 とうち嘆きつつ言ふ。乳母もいと腹立たしく、「わが君をかく落としむること」と思ふに、
 「何か、これも御幸ひにて違ふこととも知らず。かく心口惜しくいましける君なれば、あたら御さまをも見知らざらまし。わが君をば、心ばせあり、もの思ひ知りたらむ人にこそ、見せたてまつらまほしけれ。
 大将殿の御さま容貌の、ほのかに見たてまつりしに、さも命延ぶる心地のしはべりしかな。あはれにはた聞こえたまふなり。御宿世にまかせて、思し寄りねかし」
 と言へば、
 「あな、恐ろしや。人の言ふを聞けば、年ごろ、おぼろけならむ人をば見じとのたまひて、右の大殿、按察使大納言、式部卿宮などの、いとねむごろにほのめかしたまひけれど、聞き過ぐして、帝の御かしづき女を得たまへる君は、いかばかりの人かまめやかには思さむ。
 かの母宮などの御方にあらせて、時々も見むとは思しもしなむ、それはた、げにめでたき御あたりなれども、いと胸痛かるべきことなり。宮の上の、かく幸ひ人と申すなれど、もの思はしげに思したるを見れば、いかにもいかにも、二心なからむ人のみこそ、めやすく頼もしきことにはあらめ。わが身にても知りにき。
 故宮の御ありさまは、いと情け情けしく、めでたくをかしくおはせしかど、人数にも思さざりしかば、いかばかりかは心憂くつらかりし。このいと言ふかひなく、情けなく、さま悪しき人なれど、ひたおもむきに二心なきを見れば、心やすくて年ごろをも過ぐしつるなり。
 をりふしの心ばへの、かやうに愛敬なく用意なきことこそ憎けれ、嘆かしく恨めしきこともなく、かたみにうちいさかひても、心にあはぬことをばあきらめつ。上達部、親王たちにて、みやびかに心恥づかしき人の御あたりといふとも、わが数ならでは甲斐あらじ。
 よろづのこと、わが身からなりけりと思へば、よろづに悲しうこそ見たてまつれ。いかにして、人笑へならずしたてたてまつらむ」
 と語らふ。


 守は急ぎたちて、
 「女房など、こなたにめやすきあまたあなるを、このほどは、あらせたまへ。やがて、帳なども新しく仕立てられためる方を、事にはかになりにためれば、取り渡し、とかく改むまじ」
 とて、西の方に来て、立ち居、とかくしつらひ騒ぐ。めやすきさまにさはらかに、あたりあたりあるべき限りしたる所を、さかしらに屏風ども持て来て、いぶせきまで立て集めて、厨子二階など、あやしきまでし加へて、心をやりて急げば、北の方見苦しく見れど、口入れじと言ひてしかば、ただに見聞く。御方は、北面に居たり。
 「人の御心は、見知り果てぬ。ただ同じ子なれば、さりとも、いとかくは思ひ放ちたまはじとこそ思ひつれ。さはれ、世に母なき子は、なくやはある」
 とて、娘を、昼より乳母と二人、撫でつくろひ立てたれば、憎げにもあらず、十五、六のほどにて、いと小さやかにふくらかなる人の、髪うつくしげにて小袿のほどなり、裾いとふさやかなり。これをいとめでたしと思ひて、撫でつくろふ。
 「何か、人の異ざまに思ひ構へられける人をしも、と思へど、人柄のあたらしく、警策にものしたまふ君なれば、我も我もと、婿に取らまほしくする人の多かなるに、取られなむも口惜しくてなむ」
 と、かの仲人にはかられて言ふもいとをこなり。男君も、「このほどのいかめしく思ふやうなること」と、よろづの罪あるまじう思ひて、その夜も替へず来そめぬ。

 母君、御方の乳母、いとあさましく思ふ。ひがひがしきやうなれば、とかく見扱ふも心づきなければ、宮の北の方の御もとに、御文たてまつる。
 「そのこととはべらでは、なれなれしくやとかしこまりて、え思ひたまふるままにも聞こえさせぬを、つつしむべきことはべりて、しばし所変へさせむと思うたまふるに、いと忍びてさぶらひぬべき隠れの方さぶらはば、いともいともうれしくなむ。数ならぬ身一つの蔭に隠れもあへず、あはれなることのみ多くはべる世なれば、頼もしき方にはまづなむ」
 と、うち泣きつつ書きたる文を、あはれとは見たまひけれど、「故宮の、さばかり許したまはでやみにし人を、我一人残りて、知り語らはむもいとつつましく、また見苦しきさまにて世にあぶれむも、知らず顔にて聞かむこそ心苦しかるべけれ。ことなることなくてかたみに散りぼはむも、亡き人の御ために見苦しかるべきわざ」を思しわづらふ。
 大輔がもとにも、いと心苦しげに言ひやりたりければ、
 「さるやうこそははべらめ。人憎くはしたなくも、なのたまはせそ。かかる劣りの者の、人の御中に交じりたまふも、世の常のことなり」
 など聞こえて、
 「さらば、かの西の方に、隠ろへたる所し出でて、いとむつかしげなめれど、さても過ぐいたまひつべくは、しばしのほど」
 と言ひつかはしつ。いとうれしと思ほして、人知れず出で立つ。御方も、かの御あたりをば、睦びきこえまほしと思ふ心なれば、なかなか、かかることどもの出で来たるを、うれしと思ふ。

 守、少将の扱ひを、いかばかりめでたきことをせむと思ふに、そのきらきらしかるべきことも知らぬ心には、ただ、あららかなる東絹どもを、押しまろがして投げ出でつ。食ひ物も、所狭きまでなむ運び出でてののしりける。
 下衆などは、それをいとかしこき情けに思ひければ、君も、「いとあらまほしく、心かしこく取り寄りにけり」と思ひけり。北の方、「このほどを見捨てて知らざらむもひがみたらむ」と思ひ念じて、ただするままにまかせて見ゐたり。
 客人の御出居、侍ひとしつらひ騒げば、家は広けれど、源少納言、東の対には住む、男子などの多かるに、所もなし。この御方に客人住みつきぬれば、廊などほとりばみたらむに住ませたてまつらむも、飽かずいとほしくおぼえて、とかく思ひめぐらすほど、宮にとは思ふなりけり。
 「この御方ざまに、数まへたまふ人のなきを、あなづるなめり」と思へば、ことに許いたまはざりしあたりを、あながちに参らず。乳母、若き人びと、二、三人ばかりして、西の廂の北に寄りて、人げ遠き方に局したり。
 年ごろ、かくはかなかりつれど、疎く思すまじき人なれば、参る時は恥ぢたまはず、いとあらまほしく、けはひことにて、若君の御扱ひをしておはする御ありさま、うらやましくおぼゆるもあはれなり。
 「我も、故北の方には、離れたてまつるべき人かは。仕うまつるといひしばかりに、数まへられたてまつらず、口惜しくて、かく人にはあなづらるる」
 と思ふには、かくしひて睦びきこゆるもあぢきなし。ここには、御物忌と言ひてければ、人も通はず。二、三日ばかり母君もゐたり。こたみは、心のどかにこの御ありさまを見る。

 宮渡りたまふ。ゆかしくてもののはさまより見れば、いときよらに、桜を折りたるさましたまひて、わが頼もし人に思ひて、恨めしけれど、心には違はじと思ふ常陸守より、さま容貌も人のほども、こよなく見ゆる五位四位ども、あひひざまづきさぶらひて、このことかのことと、あたりあたりのことども、家司どもなど申す。
 また若やかなる五位ども、顔も知らぬどもも多かり。わが継子の式部丞にて蔵人なる、内裏の御使にて参れり。御あたりにもえ近く参らず。こよなき人の御けはひを、
 「あはれ、こは何人ぞ。かかる御あたりにおはするめでたさよ。よそに思ふ時は、めでたき人びとと聞こゆとも、つらき目見せたまはばと、もの憂く推し量りきこえさせつらむあさましさよ。この御ありさま容貌を見れば、七夕ばかりにても、かやうに見たてまつり通はむは、いといみじかるべきわざかな」
 と思ふに、若君抱きてうつくしみおはす。女君、短き几帳を隔てておはするを、押しやりて、ものなど聞こえたまふ御容貌ども、いときよらに似合ひたり。故宮の寂しくおはせし御ありさまを思ひ比ぶるに、「宮たちと聞こゆれど、いとこよなきわざにこそありけれ」とおぼゆ。
 几帳の内に入りたまひぬれば、若君は、若き人、乳母などもてあそびきこゆ。人びと参り集まれど、悩ましとて、大殿籠もり暮らしつ。御台こなたに参る。よろづのこと気高く、心ことに見ゆれば、わがいみじきことを尽くすと見思へど、「なほなほしき人のあたりは、口惜しかりけり」と思ひなりぬれば、「わが娘も、かやうにてさし並べたらむには、かたはならじかし。勢ひを頼みて、父ぬしの、后にもなしてむと思ひたる人びと、同じわが子ながら、けはひこよなきを思ふも、なほ今よりのちも、心は高くつかふべかりけり」と、夜一夜あらまし語り思ひ続けらる。

 宮、日たけて起きたまひて、
 「后の宮、例の、悩ましくしたまへば、参るべし」
 とて、御装束などしたまひておはす。ゆかしうおぼえて覗けば、うるはしくひきつくろひたまへる、はた、似るものなく気高く愛敬づききよらにて、若君をえ見捨てたまはで遊びおはす。御粥、強飯など参りてぞ、こなたより出でたまふ。
 今朝より参りて、さぶらひの方にやすらひける人びと、今ぞ参りてものなど聞こゆる中に、きよげだちて、なでふことなき人のすさまじき顔したる、直衣着て太刀佩きたるあり。御前にて何とも見えぬを、
 「かれぞ、この常陸守の婿の少将な。初めは御方にと定めけるを、守の娘を得てこそいたはられめ、など言ひて、かしけたる女の童を持たるななり」
 「いさ、この御あたりの人はかけても言はず。かの君の方より、よく聞くたよりのあるぞ」
 など、おのがどち言ふ。聞くらむとも知らで、人のかく言ふにつけても、胸つぶれて、少将をめやすきほどと思ひける心も口惜しく、「げに、ことなることなかるべかりけり」と思ひて、いとどしくあなづらはしく思ひなりぬ。
 若君のはひ出でて、御簾のつまよりのぞきたまへるを、うち見たまひて、立ち返り寄りおはしたり。
 「御心地よろしく見えたまはば、やがてまかでなむ。なほ苦しくしたまはば、今宵は宿直にぞ。今は、一夜を隔つるもおぼつかなきこそ苦しけれ」
 とて、しばし慰め遊ばして、出でたまひぬるさまの、返す返す見るとも見るとも、飽くまじく、匂ひやかにをかしければ、出でたまひぬる名残、さうざうしくぞ眺めらるる。


 


 女君の御前に出で来て、いみじくめでたてまつれば、田舎びたる、と思して笑ひたまふ。
 「故上の亡せたまひしほどは、言ふかひなく幼き御ほどにて、いかにならせたまはむと、見たてまつる人も、故宮も思し嘆きしを、こよなき御宿世のほどなりければ、さる山ふところのなかにも、生ひ出でさせたまひしにこそありけれ。口惜しく、故姫君のおはしまさずなりにたるこそ、飽かぬことなれ」
 など、うち泣きつつ聞こゆ。君もうち泣きたまひて、
 「世の中の恨めしく心細き折々も、またかくながらふれば、すこしも思ひ慰めつべき折もあるを、いにしへ頼みきこえける蔭どもに後れたてまつりけるは、なかなかに世の常に思ひなされて、見たてまつり知らずなりにければ、あるを、なほこの御ことは、尽きせずいみじくこそ。大将の、よろづのことに心の移らぬよしを愁へつつ、浅からぬ御心のさまを見るにつけても、いとこそ口惜しけれ」
 とのたまへば、
 「大将殿は、さばかり世にためしなきまで、帝のかしづき思したなるに、心おごりしたまふらむかし。おはしまさましかば、なほこのこと、せかれしもしたまはざらましや」
 など聞こゆ。
 「いさや、やうのものと、人笑はれなる心地せましも、なかなかにやあらまし。見果てぬにつけて、心にくくもある世にこそ、と思へど、かの君は、いかなるにかあらむ、あやしきまでもの忘れせず、故宮の御後の世をさへ、思ひやり深く後見ありきたまふめる」
 など、心うつくしう語りたまふ。
 「かの過ぎにし御代はりに尋ねて見むと、この数ならぬ人をさへなむ、かの弁の尼君にはのたまひける。さもやと、思うたまへ寄るべきことにははべらねど、一本ゆゑにこそはと、かたじけなけれど、あはれになむ思うたまへらるる御心深さなる」
 など言ふついでに、この君をもてわづらふこと、泣く泣く語る。


 こまかにはあらねど、人も聞きけりと思ふに、少将の思ひあなづりけるさまなどほのめかして、
 「命はべらむ限りは、何か、朝夕の慰めぐさにて見過ぐしつべし。うち捨てはべりなむのちは、思はずなるさまに散りぼひはべらむが悲しさに、尼になして、深き山にやし据ゑて、さる方に世の中を思ひ絶えてはべらましなどなむ、思うたまへわびては、思ひ寄りはべる」
 など言ふ。
 「げに、心苦しき御ありさまにこそはあなれど、何か、人にあなづらるる御ありさまは、かやうになりぬる人のさがにこそ。さりとても、堪へぬわざなりければ、むげにその方に思ひおきてたまへりし身だに、かく心より外にながらふれば、まいていとあるまじき御ことなり。やついたまはむも、いとほしげなる御さまにこそ」
 など、いと大人びてのたまへば、母君、いとうれしと思ひたり。ねびにたるさまなれど、よしなからぬさましてきよげなり。いたく肥え過ぎにたるなむ、常陸殿とは見えける。
 「故宮の、つらう情けなく思し放ちたりしに、いとど人げなく、人にもあなづられたまふと見たまふれど、かう聞こえさせ御覧ぜらるるにつけてなむ、いにしへの憂さも慰みはべる」
 など、年ごろの物語、浮島のあはれなりしことも聞こえ出づ。
 「わが身一つのとのみ、言ひ合はする人もなき筑波山のありさまも、かくあきらめきこえさせて、いつも、いとかくてさぶらはまほしく思ひたまへなりはべりぬれど、かしこにはよからぬあやしの者ども、いかにたち騷ぎ求めはべらむ。さすがに心あわたたしく思ひたまへらるる。かかるほどのありさまに身をやつすは、口惜しきものになむはべりけると、身にも思ひ知らるるを、この君は、ただ任せきこえさせて、知りはべらじ」
 など、かこちきこえかくれば、「げに、見苦しからでもあらなむ」と見たまふ。

 容貌も心ざまも、え憎むまじうらうたげなり。もの恥ぢもおどろおどろしからず、さまよう児めいたるものから、かどなからず、近くさぶらふ人びとにも、いとよく隠れてゐたまへり。ものなど言ひたるも、昔の人の御さまに、あやしきまでおぼえたてまつりてぞあるや。かの人形求めたまふ人に見せたてまつらばやと、うち思ひ出でたまふ折しも、
 「大将殿参りたまふ」
 と、人聞こゆれば、例の、御几帳ひきつくろひて、心づかひす。この客人の母君、
 「いで、見たてまつらむ。ほのかに見たてまつりける人の、いみじきものに聞こゆめれど、宮の御ありさまには、え並びたまはじ」
 と言へば、御前にさぶらふ人びと、
 「いさや、えこそ聞こえ定めね」
 と聞こえあへり。
 「いかばかりならむ人か、宮をば消ちたてまつらむ」
 など言ふほどに、「今ぞ、車より降りたまふなる」と聞くほど、かしかましきまで追ひののしりて、とみにも見えたまはず。待たれたまふほどに、歩み入りたまふさまを見れば、げに、あなめでた、をかしげとも見えずながらぞ、なまめかしうあてにきよげなるや。
 すずろに見え苦しう恥づかしくて、額髪などもひきつくろはれて、心恥づかしげに用意多く、際もなきさまぞしたまへる。内裏より参りたまへるなるべし、御前どものけはひあまたして、
 「昨夜、后の宮の悩みたまふよし承りて参りたりしかば、宮たちのさぶらひたまはざりしかば、いとほしく見たてまつりて、宮の御代はりに今までさぶらひはべりつる。今朝もいと懈怠して参らせたまへるを、あいなう、御あやまちに推し量りきこえさせてなむ」
 と聞こえたまへば、
 「げに、おろかならず、思ひやり深き御用意になむ」
 とばかりいらへきこえたまふ。宮は内裏にとまりたまひぬるを見おきて、ただならずおはしたるなめり。

 例の、物語いとなつかしげに聞こえたまふ。事に触れて、ただいにしへの忘れがたく、世の中のもの憂くなりまさるよしを、あらはには言ひなさで、かすめ愁へたまふ。
 「さしも、いかでか、世を経て心に離れずのみはあらむ。なほ、浅からず言ひ初めてしことの筋なれば、名残なからじとにや」など、見なしたまへど、人の御けしきはしるきものなれば、見もてゆくままに、あはれなる御心ざまを、岩木ならねば、思ほし知る。
 怨みきこえたまふことも多かれば、いとわりなくうち嘆きて、かかる御心をやむる禊をせさせたてまつらまほしく思ほすにやあらむ、かの人形のたまひ出でて、
 「いと忍びてこのわたりになむ」
 と、ほのめかしきこえたまふを、かれもなべての心地はせず、ゆかしくなりにたれど、うちつけにふと移らむ心地はたせず。
 「いでや、その本尊、願ひ満てたまふべくはこそ尊からめ、時々、心やましくは、なかなか山水も濁りぬべく」
 とのたまへば、果て果ては、
 「うたての御聖心や」
 と、ほのかに笑ひたまふも、をかしう聞こゆ。
 「いで、さらば、伝へ果てさせたまへかし。この御逃れ言葉こそ、思ひ出づればゆゆしく」
 とのたまひても、また涙ぐみぬ。
 「見し人の形代ならば身に添へて
  恋しき瀬々のなでものにせむ」
 と、例の、戯れに言ひなして、紛らはしたまふ。
 「みそぎ河瀬々に出ださむなでものを
  身に添ふ影と誰れか頼まむ
 引く手あまたに、とかや。いとほしくぞはべるや」
 とのたまへば、
 「つひに寄る瀬は、さらなりや。いとうれたきやうなる水の泡にも争ひはべるかな。かき流さるるなでものは、いで、まことぞかし。いかで慰むべきことぞ」
 など言ひつつ、暗うなるもうるさければ、かりそめにものしたる人も、あやしくと思ふらむもつつましきを、
 「今宵は、なほ、とく帰りたまひね」
 と、こしらへやりたまふ。

 「さらば、その客人に、かかる心の願ひ年経ぬるを、うちつけになど、浅う思ひなすまじう、のたまはせ知らせたまひて、はしたなげなるまじうはこそ。いとうひうひしうならひにてはべる身は、何ごともをこがましきまでなむ」
 と、語らひきこえおきて出でたまひぬるに、この母君、
 「いとめでたく、思ふやうなるさまかな」
 とめでて、乳母ゆくりかに思ひよりて、たびたび言ひしことを、あるまじきことに言ひしかど、この御ありさまを見るには、「天の川を渡りても、かかる彦星の光をこそ待ちつけさせめ。わが娘は、なのめならむ人に見せむは惜しげなるさまを、夷めきたる人をのみ見ならひて、少将をかしこきものに思ひける」を、悔しきまで思ひなりにけり。
 寄りゐたまへりつる真木柱も茵も、名残匂へる移り香、言へばいとことさらめきたるまでありがたし。時々見たてまつる人だに、たびごとにめできこゆ。
 「経などを読みて、功徳のすぐれたることあめるにも、香の香うばしきをやむごとなきことに、仏のたまひおきけるも、ことわりなりや。薬王品などに、取り分きてのたまへる、牛頭栴檀とかや、おどろおどろしきものの名なれど、まづかの殿の近く振る舞ひたまへば、仏はまことしたまひけり、とこそおぼゆれ。幼くおはしけるより、行ひもいみじくしたまひければよ」
 など言ふもあり。また、
 「前の世こそゆかしき御ありさまなれ」
 など、口々めづることどもを、すずろに笑みて聞きゐたり。

 君は、忍びてのたまひつることを、ほのめかしのたまふ。
 「思ひ初めつること、執念きまで軽々しからずものしたまふめるを、げに、ただ今のありさまなどを思へば、わづらはしき心地すべけれど、かの世を背きても、など思ひ寄りたまふらむも、同じことに思ひなして、試みたまへかし」
 とのたまへば、
 「つらき目見せず、人にあなづられじの心にてこそ、鳥の音聞こえざらむ住まひまで思ひたまへおきつれ。げに、人の御ありさまけはひを見たてまつり思ひたまふるは、下仕へのほどなどにても、かかる人の御あたりに、馴れきこえむは、かひありぬべし。まいて若き人は、心つけたてまつりぬべくはべるめれど、数ならぬ身に、もの思ふ種をやいとど蒔かせて見はべらむ。
 高きも短きも、女といふものは、かかる筋にてこそ、この世、後の世まで、苦しき身になりはべるなれ、と思ひたまへはべればなむ、いとほしく思ひたまへはべる。それもただ御心になむ。ともかくも、思し捨てず、ものせさせたまへ」
 と聞こゆれば、いとわづらはしくなりて、
 「いさや。来し方の心深さにうちとけて、行く先のありさまは知りがたきを」
 とうち嘆きて、ことに物ものたまはずなりぬ。
 明けぬれば、車など率て来て、守の消息など、いと腹立たしげに脅かしたれば、
 「かたじけなく、よろづに頼みきこえさせてなむ。なほ、しばし隠させたまひて、巌の中にとも、いかにとも、思ひたまへめぐらしはべるほど、数にはべらずとも、思ほし放たず、何ごとをも教えさせたまへ」
 など聞こえおきて、この御方も、いと心細く、ならはぬ心地に、立ち離れむを思へど、今めかしくをかしく見ゆるあたりに、しばしも見馴れたてまつらむと思へば、さすがにうれしくもおぼえけり。


 


 車引き出づるほどの、すこし明うなりぬるに、宮、内裏よりまかでたまふ。若君おぼつかなくおぼえたまひければ、忍びたるさまにて、車なども例ならでおはしますにさしあひて、おしとどめて立てたれば、廊に御車寄せて降りたまふ。
 「なぞの車ぞ。暗きほどに急ぎ出づるは」
 と目とどめさせたまふ。「かやうにてぞ、忍びたる所には出づるかし」と、御心ならひに思し寄るも、むくつけし。
 「常陸殿のまかでさせたまふ」
 と申す。若やかなる御前ども、
 「殿こそ、あざやかなれ」
 と、笑ひあへるを聞くも、「げに、こよなの身のほどや」と悲しく思ふ。ただ、この御方のことを思ふゆゑにぞ、おのれも人びとしくならまほしくおぼえける。まして、正身をなほなほしくやつして見むことは、いみじくあたらしう思ひなりぬ。宮、入りたまひて、
 「常陸殿といふ人や、ここに通はしたまふ。心ある朝ぼらけに、急ぎ出でつる車副などこそ、ことさらめきて見えつれ」
 など、なほ思し疑ひてのたまふ。「聞きにくくかたはらいたし」と思して、
 「大輔などが若くてのころ、友達にてありける人は。ことに今めかしうも見えざめるを、ゆゑゆゑしげにものたまひなすかな。人の聞きとがめつべきことをのみ、常にとりないたまふこそ、なき名は立てで」
 と、うち背きたまふも、らうたげにをかし。
 明くるも知らず大殿籠もりたるに、人びとあまた参りたまへば、寝殿に渡りたまひぬ。后の宮は、ことことしき御悩みにもあらで、おこたりたまひにければ、心地よげにて、右の大殿の君達など、碁打ち韻塞などしつつ遊びたまふ。


 夕つ方、宮こなたに渡らせたまへれば、女君は、御ゆするのほどなりけり。人びともおのおのうち休みなどして、御前には人もなし。小さき童のあるして、
 「折悪しき御ゆするのほどこそ、見苦しかめれ。さうざうしくてや、眺めむ」
 と、聞こえたまへば、
 「げに、おはしまさぬ隙々にこそ、例は済ませ。あやしう日ごろももの憂がらせたまひて、今日過ぎば、この月は日もなし。九、十月は、いかでかはとて、仕まつらせつるを」
 と、大輔いとほしがる。
 若君も寝たまへりければ、そなたにこれかれあるほどに、宮はたたずみ歩きたまひて、西の方に例ならぬ童の見えつるを、「今参りたるか」など思して、さし覗きたまふ。中のほどなる障子の、細目に開きたるより見たまへば、障子のあなたに、一尺ばかりひきさけて、屏風立てたり。そのつまに、几帳、簾に添へて立てたり。
 帷一重をうちかけて、紫苑色のはなやかなるに、女郎花の織物と見ゆる重なりて、袖口さし出でたり。屏風の一枚たたまれたるより、「心にもあらで見ゆるなめり。今参りの口惜しからぬなめり」と思して、この廂に通ふ障子を、いとみそかに押し開けたまひて、やをら歩み寄りたまふも、人知らず。
 こなたの廊の中の壺前栽の、いとをかしう色々に咲き乱れたるに、遣水のわたり、石高きほど、いとをかしければ、端近く添ひ臥して眺むるなりけり。開きたる障子を、今すこし押し開けて、屏風のつまより覗きたまふに、宮とは思ひもかけず、「例こなたに来馴れたる人にやあらむ」と思ひて、起き上がりたる様体、いとをかしう見ゆるに、例の御心は過ぐしたまはで、衣の裾を捉へたまひて、こなたの障子は引き立てたまひて、屏風のはさまに居たまひぬ。
 あやしと思ひて、扇をさし隠して見返りたるさま、いとをかし。扇を持たせながら捉へたまひて、
 「誰れぞ。名のりこそ、ゆかしけれ」
 とのたまふに、むくつけくなりぬ。さるもののつらに、顔を他ざまにもて隠して、いといたう忍びたまへれば、「このただならずほのめかしたまふらむ大将にや、香うばしきけはひなども」思ひわたさるるに、いと恥づかしくせむ方なし。

 乳母、人げの例ならぬを、あやしと思ひて、あなたなる屏風を押し開けて来たり。
 「これは、いかなることにかはべらむ。あやしきわざにもはべる」
 など聞こゆれど、憚りたまふべきことにもあらず。かくうちつけなる御しわざなれど、言の葉多かる本性なれば、何やかやとのたまふに、暮れ果てぬれど、
 「誰れと聞かざらむほどは許さじ」
 とて、なれなれしく臥したまふに、「宮なりけり」と思ひ果つるに、乳母、言はむ方なくあきれてゐたり。
 大殿油は灯籠にて、「今渡らせたまひなむ」と人びと言ふなり。御前ならぬ方の御格子どもぞ下ろすなる。こなたは離れたる方にしなして、高き棚厨子一具立て、屏風の袋に入れこめたる、所々に寄せかけ、何かの荒らかなるさまにし放ちたり。かく人のものしたまへばとて、通ふ道の障子一間ばかりぞ開けたるを、右近とて、大輔が娘のさぶらふ来て、格子下ろしてここに寄り来なり。
 「あな、暗や。まだ大殿油も参らざりけり。御格子を、苦しきに、急ぎ参りて、闇に惑ふよ」
 とて、引き上ぐるに、宮も、「なま苦し」と聞きたまふ。乳母はた、いと苦しと思ひて、ものづつみせずはやりかにおぞき人にて、
 「もの聞こえはべらむ。ここに、いとあやしきことのはべるに、見たまへ極じてなむ、え動きはべらでなむ」
 「何ごとぞ」
 とて、探り寄るに、袿姿なる男の、いと香うばしくて添ひ臥したまへるを、「例のけしからぬ御さま」と思ひ寄りにけり。「女の心合はせたまふまじきこと」と推し量らるれば、
 「げに、いと見苦しきことにもはべるかな。右近は、いかにか聞こえさせむ。今参りて、御前にこそは忍びて聞こえさせめ」
 とて立つを、あさましくかたはに、誰も誰も思へど、宮は懼ぢたまはず。
 「あさましきまであてにをかしき人かな。なほ、何人ならむ。右近が言ひつるけしきも、いとおしなべての今参りにはあらざめり」
 心得がたく思されて、と言ひかく言ひ、怨みたまふ。心づきなげにけしきばみてももてなさねど、ただいみじう死ぬばかり思へるがいとほしければ、情けありてこしらへたまふ。
 右近、上に、
 「しかしかこそおはしませ。いとほしく、いかに思ふらむ」
 と聞こゆれば、
 「例の、心憂き御さまかな。かの母も、いかにあはあはしく、けしからぬさまに思ひたまはむとすらむ。うしろやすくと、返す返す言ひおきつるものを」
 と、いとほしく思せど、「いかが聞こえむ。さぶらふ人びとも、すこし若やかによろしきは、見捨てたまふなく、あやしき人の御癖なれば、いかがは思ひ寄りたまひけむ」とあさましきに、ものも言はれたまはず。

 「上達部あまた参りたまふ日にて、遊び戯れては、例も、かかる時は遅くも渡りたまへば、皆うちとけてやすみたまふぞかし。さても、いかにすべきことぞ。かの乳母こそ、おぞましかりけれ。つと添ひゐて護りたてまつり、引きもかなぐりたてまつりつべくこそ思ひたりつれ」
 と、少将と二人していとほしがるほどに、内裏より人参りて、大宮この夕暮より御胸悩ませたまふを、ただ今いみじく重く悩ませたまふよし申さす。右近、
 「心なき折の御悩みかな。聞こえさせむ」
 とて立つ。少将、
 「いでや、今は、かひなくもあべいことを、をこがましく、あまりな脅かしきこえたまひそ」
 と言へば、
 「いな、まだしかるべし」
 と、忍びてささめき交はすを、上は、「いと聞きにくき人の御本性にこそあめれ。すこし心あらむ人は、わがあたりをさへ疎みぬべかめり」と思す。
 参りて、御使の申すよりも、今すこしあわたたしげに申しなせば、動きたまふべきさまにもあらぬ御けしきに、
 「誰れか参りたる。例の、おどろおどろしく脅かす」
 とのたまはすれば、
 「宮の侍に、平重経となむ名のりはべりつる」
 と聞こゆ。出でたまはむことのいとわりなく口惜しきに、人目も思されぬに、右近立ち出でて、この御使を西面にて問へば、申し次ぎつる人も寄り来て、
 「中務宮、参らせたまひぬ。大夫は、ただ今なむ、参りつる道に、御車引き出づる、見はべりつ」
 と申せば、「げに、にはかに時々悩みたまふ折々もあるを」と思すに、人の思すらむこともはしたなくなりて、いみじう怨み契りおきて出でたまひぬ。

 恐ろしき夢の覚めたる心地して、汗におし浸して臥したまへり。乳母、うち扇ぎなどして、
 「かかる御住まひは、よろづにつけて、つつましう便なかりけり。かくおはしましそめて、さらに、よきことはべらじ。あな、恐ろしや。限りなき人と聞こゆとも、やすからぬ御ありさまは、いとあぢきなかるべし。
 よそのさし離れたらむ人にこそ、善しとも悪しともおぼえられたまはめ、人聞きもかたはらいたきこと、と思ひたまへて、降魔の相を出だして、つと見たてまつりつれば、いとむくつけく、下衆下衆しき女と思して、手をいといたくつませたまひつるこそ、直人の懸想だちて、いとをかしくもおぼえはべりつれ。
 かの殿には、今日もいみじくいさかひたまひけり。「ただ一所の御上を見扱ひたまふとて、わが子どもをば思し捨てたり、客人のおはするほどの御旅居見苦し」と、荒々しきまでぞ聞こえたまひける。下人さへ聞きいとほしがりけり。
 すべてこの少将の君ぞ、いと愛敬なくおぼえたまふ。この御ことはべらざらましかば、うちうちやすからずむつかしきことは、折々はべりとも、なだらかに、年ごろのままにておはしますべきものを」
 など、うち嘆きつつ言ふ。
 君は、ただ今はともかくも思ひめぐらされず、ただいみじくはしたなく、見知らぬ目を見つるに添へても、「いかに思すらむ」と思ふに、わびしければ、うつぶし臥して泣きたまふ。いと苦しと見扱ひて、
 「何か、かく思す。母おはせぬ人こそ、たづきなう悲しかるべけれ。よそのおぼえは、父なき人はいと口惜しけれど、さがなき継母に憎まれむよりは、これはいとやすし。ともかくもしたてまつりたまひてむ。な思し屈ぜそ。
 さりとも、初瀬の観音おはしませば、あはれと思ひきこえたまふらむ。ならはぬ御身に、たびたびしきりて詣でたまふことは、人のかくあなづりざまにのみ思ひきこえたるを、かくもありけり、と思ふばかりの御幸ひおはしませ、とこそ念じはべれ。あが君は、人笑はれにては、やみたまひなむや」
 と、世をやすげに言ひゐたり。

 宮は、急ぎて出でたまふなり。内裏近き方にやあらむ、こなたの御門より出でたまへば、もののたまふ御声も聞こゆ。いとあてに限りもなく聞こえて、心ばへある古言などうち誦じたまひて過ぎたまふほど、すずろにわづらはしくおぼゆ。移し馬ども牽き出だして、宿直にさぶらふ人、十人ばかりして参りたまふ。
 上、いとほしく、うたて思ふらむとて、知らず顔にて、
 「大宮悩みたまふとて参りたまひぬれば、今宵は出でたまはじ。ゆするの名残にや、心地も悩ましくて起きゐはべるを、渡りたまへ。つれづれにも思さるらむ」
 と聞こえたまへり。
 「乱り心地のいと苦しうはべるを、ためらひて」
 と、乳母して聞こえたまふ。
 「いかなる御心地ぞ」
 と、返り訪らひきこえたまへば、
 「何心地ともおぼえはべらず、ただいと苦しくはべり」
 と聞こえたまへば、少将、右近目まじろきをして、
 「かたはらぞいたくおはすらむ」
 と言ふも、ただなるよりはいとほし。
 「いと口惜しう心苦しきわざかな。大将の心とどめたるさまにのたまふめりしを、いかにあはあはしく思ひ落とさむ。かく乱りがはしくおはする人は、聞きにくく、実ならぬことをもくねり言ひ、またまことにすこし思はずならむことをも、さすがに見許しつべうこそおはすめれ。
 この君は、言はで憂しと思はむこと、いと恥づかしげに心深きを、あいなく思ふこと添ひぬる人の上なめり。年ごろ見ず知らざりつる人の上なれど、心ばへ容貌を見れば、え思ひ離るまじう、らうたく心苦しきに、世の中はありがたくむつかしげなるものかな。
 わが身のありさまは、飽かぬこと多かる心地すれど、かくものはかなき目も見つべかりける身の、さは、はふれずなりにけるにこそ、げに、めやすきなりけれ。今はただ、この憎き心添ひたまへる人の、なだらかにて思ひ離れなば、さらに何ごとも思ひ入れずなりなむ」
 と思ほす。いと多かる御髪なれば、とみにもえ乾しやらず、起きゐたまへるも苦し。白き御衣一襲ばかりにておはする、細やかにてをかしげなり。

 この君は、まことに心地も悪しくなりにたれど、乳母、
 「いとかたはらいたし。事しもあり顔に思すらむを。ただおほどかにて見えたてまつりたまへ。右近の君などには、事のありさま、初めより語りはべらむ」
 と、せめてそそのかしたてて、こなたの障子のもとにて、
 「右近の君にもの聞こえさせむ」
 と言へば、立ちて出でたれば、
 「いとあやしくはべりつることの名残に、身も熱うなりたまひて、まめやかに苦しげに見えさせたまふを、いとほしく見はべる。御前にて慰めきこえさせたまへ、とてなむ。過ちもおはせぬ身を、いとつつましげに思ほしわびためるも、いささかにても世を知りたまへる人こそあれ、いかでかはと、ことわりに、いとほしく見たてまつる」
 とて、引き起こして参らせたてまつる。
 我にもあらず、人の思ふらむことも恥づかしけれど、いとやはらかにおほどき過ぎたまへる君にて、押し出でられて居たまへり。額髪などの、いたう濡れたる、もて隠して、火の方に背きたまへるさま、上をたぐひなく見たてまつるに、け劣るとも見えず、あてにをかし。
 「これに思しつきなば、めざましげなることはありなむかし。いとかからぬをだに、めづらしき人、をかしうしたまふ御心を」
 と、二人ばかりぞ、御前にてえ恥ぢたまはねば、見ゐたりける。物語いとなつかしくしたまひて、
 「例ならずつつましき所など、な思ひなしたまひそ。故姫君のおはせずなりにしのち、忘るる世なくいみじく、身も恨めしく、たぐひなき心地して過ぐすに、いとよく思ひよそへられたまふ御さまを見れば、慰む心地してあはれになむ。思ふ人もなき身に、昔の御心ざしのやうに思ほさば、いとうれしくなむ」
 など語らひたまへど、いとものつつましくて、また鄙びたる心に、いらへきこえむこともなくて、
 「年ごろ、いと遥かにのみ思ひきこえさせしに、かう見たてまつりはべるは、何ごとも慰む心地しはべりてなむ」
 とばかり、いと若びたる声にて言ふ。

 絵など取り出でさせて、右近に詞読ませて見たまふに、向ひてもの恥ぢもえしあへたまはず、心に入れて見たまへる火影、さらにここと見ゆる所なく、こまかにをかしげなり。額つき、まみの薫りたる心地して、いとおほどかなるあてさは、ただそれとのみ思ひ出でらるれば、絵はことに目もとどめたまはで、
 「いとあはれなる人の容貌かな。いかでかうしもありけるにかあらむ。故宮にいとよく似たてまつりたるなめりかし。故姫君は、宮の御方ざまに、我は母上に似たてまつりたるとこそは、古人ども言ふなりしか。げに、似たる人はいみじきものなりけり」
 と思し比ぶるに、涙ぐみて見たまふ。
 「かれは、限りなくあてに気高きものから、なつかしうなよよかに、かたはなるまで、なよなよとたわみたるさまのしたまへりしにこそ。
 これは、またもてなしのうひうひしげに、よろづのことをつつましうのみ思ひたるけにや、見所多かるなまめかしさぞ劣りたる。ゆゑゆゑしきけはひだにもてつけたらば、大将の見たまはむにも、さらにかたはなるまじ」
 など、このかみ心に思ひ扱はれたまふ。
 物語などしたまひて、暁方になりてぞ寝たまふ。かたはらに臥せたまひて、故宮の御ことども、年ごろおはせし御ありさまなど、まほならねど語りたまふ。いとゆかしう、見たてまつらずなりにけるを、「いと口惜しう悲し」と思ひたり。昨夜の心知りの人びとは、
 「いかなりつらむな。いとらうたげなる御さまを。いみじう思すとも、甲斐あるべきことかは。いとほし」
 と言へば、右近ぞ、
 「さも、あらじ。かの御乳母の、ひき据ゑてすずろに語り愁へしけしき、もて離れてぞ言ひし。宮も、逢ひても逢はぬやうなる心ばへにこそ、うちうそぶき口ずさびたまひしか」
 「いさや。ことさらにもやあらむ。そは、知らずかし」
 「昨夜の火影のいとおほどかなりしも、事あり顔には見えたまはざりしを」
 など、うちささめきていとほしがる。


 


 乳母、車請ひて、常陸殿へ住ぬ。北の方にかうかうと言へば、胸つぶれ騷ぎて、「人もけしからぬさまに言ひ思ふらむ。正身もいかが思すべき。かかる筋のもの憎みは、貴人もなきものなり」と、おのが心ならひに、あわたたしく思ひなりて、夕つ方参りぬ。
 宮おはしまさねば心やすくて、
 「あやしく心幼げなる人を参らせおきて、うしろやすくは頼みきこえさせながら、鼬のはべらむやうなる心地のしはべれば、よからぬものどもに、憎み恨みられはべる」
 と聞こゆ。
 「いとさ言ふばかりの幼さにはあらざめるを。うしろめたげにけしきばみたる御まかげこそ、わづらはしけれ」
 とて笑ひたまへるが、心恥づかしげなる御まみを見るも、心の鬼に恥づかしくぞおぼゆる。「いかに思すらむ」と思へば、えもうち出で聞こえず。
 「かくてさぶらひたまはば、年ごろの願ひの満つ心地して、人の漏り聞きはべらむもめやすく、おもただしきことになむ思ひたまふるを、さすがにつつましきことになむはべりける。深き山の本意は、みさをになむはべるべきを」
 とて、うち泣くもいといとほしくて、
 「ここには、何事かうしろめたくおぼえたまふべき。とてもかくても、疎々しく思ひ放ちきこえばこそあらめ、けしからずだちてよからぬ人の、時々ものしたまふめれど、その心を皆人見知りためれば、心づかひして、便なうはもてなしきこえじと思ふを、いかに推し量りたまふにか」
 とのたまふ。
 「さらに、御心をば隔てありても思ひきこえさせはべらず。かたはらいたう許しなかりし筋は、何にかかけても聞こえさせはべらむ。その方ならで、思ほし放つまじき綱もはべるをなむ、とらへ所に頼みきこえさする」
 など、おろかならず聞こえて、
 「明日明後日、かたき物忌にはべるを、おほぞうならぬ所にて過ぐして、またも参らせはべらむ」
 と聞こえて、いざなふ。「いとほしく本意なきわざかな」と思せど、えとどめたまはず。あさましうかたはなることに驚き騷ぎたれば、をさをさものも聞こえで出でぬ。


 かやうの方違へ所と思ひて、小さき家まうけたりけり。三条わたりに、さればみたるが、まだ造りさしたる所なれば、はかばかしきしつらひもせでなむありける。
 「あはれ、この御身一つを、よろづにもて悩みきこゆるかな。心にかはなぬ世には、あり経まじきものにこそありけれ。みづからばかりは、ただひたぶるに品々しからず人げなう、たださる方にはひ籠もりて過ぐしつべし。このゆかりは、心憂しと思ひきこえしあたりを、睦びきこゆるに、便なきことも出で来なば、いと人笑へなるべし。あぢきなし。ことやうなりとも、ここを人にも知らせず、忍びておはせよ。おのづからともかくも仕うまつりてむ」
 と言ひおきて、みづからは帰りなむとす。君は、うち泣きて、「世にあらむこと所狭げなる身」と、思ひ屈したまへるさま、いとあはれなり。親はた、ましてあたらしく惜しければ、つつがなくて思ふごと見なさむと思ひ、さるかたはらいたきことにつけて、人にもあはあはしく思はれむが、やすからぬなりけり。
 心地なくなどはあらぬ人の、なま腹立ちやすく、思ひのままにぞすこしありける。かの家にも隠ろへては据ゑたりぬべれど、しか隠ろへたらむをいとほしと思ひて、かく扱ふに、年ごろかたはら去らず、明け暮れ見ならひて、かたみに心細くわりなしと思へり。
 「ここは、またかくあばれて、危ふげなる所なめり。さる心したまへ。曹司曹司にある物ども、召し出でて使ひたまへ。宿直人のことなど言ひおきてはべるも、いとうしろめたけれど、かしこに腹立ち恨みらるるが、いと苦しければ」
 と、うち泣きて帰る。

 少将の扱ひを、守は、またなきものに思ひ急ぎて、「もろ心に、さま悪しく、営まず」と怨ずるなりけり。「いと心憂く、この人により、かかる紛れどももあるぞかし」と、またなく思ふ方のことのかかれば、つらく心憂くて、をさをさ見入れず。
 かの宮の御前にて、いと人げなく見えしに、多く思ひ落としてければ、「私ものに思ひかしづかましを」など、思ひしことはやみにたり。「ここにては、いかが見ゆらむ。まだうちとけたるさま見ぬに」と思ひて、のどかにゐたまへる昼つ方、こなたに渡りて、ものより覗く。
 白き綾のなつかしげなるに、今様色の擣目などもきよらなるを着て、端の方に前栽見るとて居たるは、「いづこかは劣る。いときよげなめるは」と見ゆ。娘、まだ片なりに、何心もなきさまにて添ひ臥したり。宮の上の並びておはせし御さまどもの思ひ出づれば、「口惜しのさまどもや」と見ゆ。
 前なる御達にものなど言ひ戯れて、うちとけたるは、いと見しやうに、匂ひなく人悪ろげにて見えぬを、「かの宮なりしは、異少将なりけり」と思ふ折しも、言ふことよ。
 「兵部卿宮の萩の、なほことにおもしろくもあるかな。いかで、さる種ありけむ。同じ枝さしなどのいと艶なるこそ。一日参りて、出でたまふほどなりしかば、え折らずなりにき。『ことだに惜しき』と、宮のうち誦じたまへりしを、若き人たちに見せたらましかば」
 とて、我も歌詠みゐたり。
 「いでや。心ばせのほどを思へば、人ともおぼえず、出で消えはいとこよなかりけるに。何ごと言ひたるぞ」
 とつぶやかるれど、いと心地なげなるさまは、さすがにしたらねば、いかが言ふとて、試みに、
 「しめ結ひし小萩が上も迷はぬに
  いかなる露に映る下葉ぞ」
 とあるに、惜しくおぼえて、
 「宮城野の小萩がもとと知らませば
  露も心を分かずぞあらまし
 いかでみづから聞こえさせあきらめむ」
 と言ひたり。

 「故宮の御こと聞きたるなめり」と思ふに、「いとどいかで人と等しく」とのみ思ひ扱はる。あいなう、大将殿の御さま容貌ぞ、恋しう面影に見ゆる。同じうめでたしと見たてまつりしかど、宮は思ひ離れたまひて、心もとまらず。あなづりて押し入りたまへりけるを、思ふもねたし。
 「この君は、さすがに尋ね思す心ばへのありながら、うちつけにも言ひかけたまはず、つれなし顔なるしもこそいたけれ、よろづにつけて思ひ出でらるれば、若き人は、まして、かくや思ひはてきこえたまふらむ。わがものにせむと、かく憎き人を思ひけむこそ、見苦しきことなべかりけれ」
 など、ただ心にかかりて、眺めのみせられて、とてやかくてやと、よろづによからむあらまし事を思ひ続くるに、いと難し。
 「やむごとなき御身のほど、御もてなし、見たてまつりたまへらむ人は、今すこしなのめならず、いかばかりにてかは心をとどめたまはむ。世の人のありさまを見聞くに、劣りまさり、いやしうあてなる、品に従ひて、容貌も心もあるべきものなりけり。
 わが子どもを見るに、この君に似るべきやはある。少将を、この家のうちにまたなき者に思へども、宮に見比べたてまつりしは、いとも口惜しかりしに推し量らる。当帝の御かしづき女を得たてまつりたまへらむ人の御目移しには、いともいとも恥づかしく、つつましかるべきものかな」
 と思ふに、すずろに心地もあくがれにけり。

 旅の宿りは、つれづれにて、庭の草もいぶせき心地するに、いやしき東声したる者どもばかりのみ出で入り、慰めに見るべき前栽の花もなし。うちあばれて、晴れ晴れしからで明かし暮らすに、宮の上の御ありさま思ひ出づるに、若い心地に恋しかりけり。あやにくだちたまへりし人の御けはひも、さすがに思ひ出でられて、
 「何事にかありけむ。いと多くあはれげにのたまひしかな」
 名残をかしかりし御移り香も、まだ残りたる心地して、恐ろしかりしも思ひ出でらる。
 「母君、たつやと、いとあはれなる文を書きておこせたまふ。おろかならず心苦しう思ひ扱ひたまふめるに、かひなうもて扱はれたてまつること」とうち泣かれて、
 「いかにつれづれに見ならはぬ心地したまふらむ。しばし忍び過ぐしたまへ」
 とある返り事に、
 「つれづれは何か。心やすくてなむ。
  ひたぶるにうれしからまし世の中に
 あらぬ所と思はましかば」
 と、幼げに言ひたるを見るままに、ほろほろとうち泣きて、「かう惑はしはふるるやうにもてなすこと」と、いみじければ、
 「憂き世にはあらぬ所を求めても
  君が盛りを見るよしもがな」
 と、なほなほしきことどもを言ひ交はしてなむ、心のべける。


 


 かの大将殿は、例の、秋深くなりゆくころ、ならひにしことなれば、寝覚め寝覚めにもの忘れせず、あはれにのみおぼえたまひければ、「宇治の御堂造り果てつ」と聞きたまふに、みづからおはしましたり。
 久しう見たまはざりつるに、山の紅葉もめづらしうおぼゆ。こぼちし寝殿、こたみはいと晴れ晴れしう造りなしたり。昔いとことそぎて、聖だちたまへりし住まひを思ひ出づるに、この宮も恋しうおぼえたまひて、さま変へてけるも、口惜しきまで、常よりも眺めたまふ。
 もとありし御しつらひは、いと尊げにて、今片つ方を女しくこまやかになど、一方ならざりしを、網代屏風何かのあらあらしきなどは、かの御堂の僧坊の具に、ことさらになさせたまへり。山里めきたる具どもを、ことさらにせさせたまひて、いたうもことそがず、いときよげにゆゑゆゑしくしつらはれたり。
 遣水のほとりなる岩に居たまひて、
 「絶え果てぬ清水になどか亡き人の
  面影をだにとどめざりけむ」
 涙を拭ひて、弁の尼君の方に立ち寄りたまへれば、いと悲しと見たてまつるに、ただひそみにひそむ。長押にかりそめに居たまひて、簾のつま引き上げて、物語したまふ。几帳に隠ろへて居たり。ことのついでに、
 「かの人は、さいつころ宮にと聞きしを、さすがにうひうひしくおぼえてこそ、訪れ寄らね。なほ、これより伝へ果てたまへ」
 とのたまへば、
 「一日、かの母君の文はべりき。忌違ふとて、ここかしこになむあくがれたまふめる。このころも、あやしき小家に隠ろへものしたまふめるも心苦しく、すこし近きほどならましかば、そこにも渡して心やすかるべきを、荒ましき山道に、たはやすくもえ思ひ立たでなむ、とはべりし」
 と聞こゆ。
 「人びとのかく恐ろしくすめる道に、まろこそ古りがたく分け来れ。何ばかりの契りにかと思ふは、あはれになむ」
 とて、例の、涙ぐみたまへり。
 「さらば、その心やすからむ所に、消息したまへ。みづからやは、かしこに出でたまはぬ」
 とのたまへば、
 「仰せ言を伝へはべらむことはやすし。今さらに京を見はべらむことはもの憂くて、宮にだにえ参らぬを」
 と聞こゆ。


 「などてか。ともかくも、人の聞き伝へばこそあらめ、愛宕の聖だに、時に従ひては出でずやはありける。深き契りを破りて、人の願ひを満てたまはむこそ尊からめ」
 とのたまへば、
 「人渡すこともはべらぬに、聞きにくきこともこそ、出でまうで来れ」
 と、苦しげに思ひたれど、
 「なほ、よき折なるを」
 と、例ならずしひて、
 「明後日ばかり、車たてまつらむ。その旅の所尋ねおきたまへ。ゆめをこがましうひがわざすまじきを」
 と、ほほ笑みてのたまへば、わづらはしく、「いかに思すことならむ」と思へど、「奥なくあはあはしからぬ御心ざまなれば、おのづからわが御ためにも、人聞きなどは包みたまふらむ」と思ひて、
 「さらば、承りぬ。近きほどにこそ。御文などを見せさせたまへかし。ふりはへさかしらめきて、心しらひのやうに思はれはべらむも、今さらに伊賀専女にや、と慎ましくてなむ」
 と聞こゆ。
 「文は、やすかるべきを、人のもの言ひ、いとうたてあるものなれば、右大将は、常陸守の娘をなむよばふなるなども、とりなしてむをや。その守の主、いと荒々しげなめり」
 とのたまへば、うち笑ひて、いとほしと思ふ。
 暗うなれば出でたまふ。下草のをかしき花ども、紅葉など折らせたまひて、宮に御覧ぜさせたまふ。甲斐なからずおはしぬべけれど、かしこまり置きたるさまにて、いたうも馴れきこえたまはずぞあめる。内裏より、ただの親めきて、入道の宮にも聞こえたまへば、いとやむごとなき方は、限りなく思ひきこえたまへり。こなたかなたと、かしづききこえたまふ宮仕ひに添へて、むつかしき私の心の添ひたるも、苦しかりけり。

 のたまひしまだつとめて、睦ましく思す下臈侍一人、顔知らぬ牛飼つくり出でて遣はす。
 「荘の者どもの田舎びたる召し出でつつ、つけよ」
 とのたまふ。かならず出づべくのたまへりければ、いとつつましく苦しけれど、うち化粧じくつろひて乗りぬ。野山のけしきを見るにつけても、いにしへよりの古事ども思ひ出でられて、眺め暮らしてなむ来着きける。いとつれづれに人目も見えぬ所なれば、引き入れて、
 「かくなむ、参り来つる」
 と、しるべの男して言はせたれば、初瀬の供にありし若人、出で来て降ろす。あやしき所を眺め暮らし明かすに、昔語りもしつべき人の来たれば、うれしくて呼び入れたまひて、親と聞こえける人の御あたりの人と思ふに、睦ましきなるべし。
 「あはれに、人知れず見たてまつりしのちよりは、思ひ出できこえぬ折なけれど、世の中かばかり思ひたまへ捨てたる身にて、かの宮にだに参りはべらぬを、この大将殿の、あやしきまでのたまはせしかば、思うたまへおこしてなむ」
 と聞こゆ。君も乳母も、めでたしと見おききこえてし人の御さまなれば、忘れぬさまにのたまふらむも、あはれなれど、にはかにかく思したばかるらむと、思ひも寄らず。

 宵うち過ぐるほどに、「宇治より人参れり」とて、門忍びやかにうちたたく。「さにやあらむ」と思へど、弁の開けさせたれば、車をぞ引き入るなる。「あやし」と思ふに、
 「尼君に、対面賜はらむ」
 とて、この近き御庄の預りの名のりをせさせたまへれば、戸口にゐざり出でたり。雨すこしうちそそくに、風はいと冷やかに吹き入りて、言ひ知らず薫り来れば、「かうなりけり」と、誰れも誰れも心ときめきしぬべき御けはひをかしければ、用意もなくあやしきに、まだ思ひあへぬほどなれば、心騷ぎて、
 「いかなることにかあらむ」
 と言ひあへり。
 「心やすき所にて、月ごろの思ひあまることも聞こえさせむとてなむ」
 と言はせたまへり。
 「いかに聞こゆべきことにか」と、君は苦しげに思ひてゐたまへれば、乳母見苦しがりて、
 「しかおはしましたらむを、立ちながらや、帰したてまつりたまはむ。かの殿にこそ、かくなむ、と忍びて聞こえめ。近きほどなれば」
 と言ふ。
 「うひうひしく。などてか、さはあらむ。若き御どちもの聞こえたまはむは、ふとしもしみつくべくもあらぬを。あやしきまで心のどかに、もの深うおはする君なれば、よも人の許しなくて、うちとけたまはじ」
 など言ふほど、雨やや降り来れば、空はいと暗し。宿直人のあやしき声したる、夜行うちして、
 「家の辰巳の隅の崩れ、いと危ふし。この、人の御車入るべくは、引き入れて御門鎖してよ。かかる人の御供人こそ、心はうたてあれ」
 など言ひあへるも、むくむくしく聞きならはぬ心地したまふ。
 「佐野のわたりに家もあらなくに」
 など口ずさびて、里びたる簀子の端つ方に居たまへり。
 「さしとむる葎やしげき東屋の
  あまりほど降る雨そそきかな」
 と、うち払ひたまへる、追風、いとかたはなるまで、東の里人も驚きぬべし。
 とざまかうざまに聞こえ逃れむ方なければ、南の廂に御座ひきつくろひて、入れたてまつる。心やすくしも対面したまはぬを、これかれ押し出でたり。遣戸といふもの鎖して、いささか開けたれば、
 「飛騨の工も恨めしき隔てかな。かかるものの外には、まだ居ならはず」
 と愁へたまひて、いかがしたまひけむ、入りたまひぬ。かの人形の願ひものたまはで、ただ、
 「おぼえなき、もののはさまより見しより、すずろに恋しきこと。さるべきにやあらむ、あやしきまでぞ思ひきこゆる」
 とぞ語らひたまふべき。人のさま、いとらうたげにおほどきたれば、見劣りもせず、いとあはれと思しけり。

 ほどもなう明けぬ心地するに、鶏などは鳴かで、大路近き所に、おほどれたる声して、いかにとか聞きも知らぬ名のりをして、うち群れて行くなどぞ聞こゆる。かやうの朝ぼらけに見れば、ものいただきたる者の、「鬼のやうなるぞかし」と聞きたまふも、かかる蓬のまろ寝にならひたまはぬ心地も、をかしくもありけり。
 宿直人も門開けて出づる音する。おのおの入りて臥しなどするを聞きたまひて、人召して、車妻戸に寄せさせたまふ。かき抱きて乗せたまひつ。誰れも誰れも、あやしう、あへなきことを思ひ騒ぎて、
 「九月にもありけるを。心憂のわざや。いかにしつることぞ」
 と嘆けば、尼君も、いといとほしく、思ひの外なることどもなれど、
 「おのづから思すやうあらむ。うしろめたうな思ひたまひそ。長月は、明日こそ節分と聞きしか」
 と言ひ慰む。今日は、十三日なりけり。尼君、
 「こたみは、え参らじ。宮の上、聞こし召さむこともあるに、忍びて行き帰りはべらむも、いとうたてなむ」
 と聞こゆれど、まだきこのことを聞かせたてまつらむも、心恥づかしくおぼえたまひて、
 「それは、のちにも罪さり申したまひてむ。かしこもしるべなくては、たづきなき所を」
 と責めてのたまふ。
 「人一人や、はべるべき」
 とのたまへば、この君に添ひたる侍従と乗りぬ。乳母、尼君の供なりし童などもおくれて、いとあやしき心地してゐたり。

 「近きほどにや」と思へば、宇治へおはするなりけり。牛などひき替ふべき心まうけしたまへりけり。河原過ぎ、法性寺のわたりおはしますに、夜は明け果てぬ。
 若き人は、いとほのかに見たてまつりて、めできこえて、すずろに恋ひたてまつるに、世の中のつつましさもおぼえず。君ぞいとあさましきに、ものもおぼえでうつぶし臥したるを、
 「石高きわたりは、苦しきものを」
 とて、抱きたまへり。羅の細長を、車の中に引き隔てたれば、はなやかにさし出でたる朝日影に、尼君はいとはしたなくおぼゆるにつけて、「故姫君の御供にこそ、かやうにても見たてまつりつべかりしか。あり経れば、思ひかけぬことをも見るかな」と、悲しうおぼえて、包むとすれど、うちひそみつつ泣くを、侍従はいと憎く、「ものの初めに形異にて乗り添ひたるをだに思ふに、なぞ、かくいやめなる」と、憎くをこにも思ふ。老いたる者は、すずろに涙もろにあるものぞと、おろそかにうち思ふなりけり。
 君も、見る人は憎からねど、空のけしきにつけても、来し方の恋しさまさりて、山深く入るままにも、霧立ちわたる心地したまふ。うち眺めて寄りゐたまへる袖の、重なりながら長やかに出でたりけるが、川霧に濡れて、御衣の紅なるに、御直衣の花のおどろおどろしう移りたるを、落としがけの高き所に見つけて、引き入れたまふ。
 「形見ぞと見るにつけては朝露の
  ところせきまで濡るる袖かな」
 と、心にもあらず一人ごちたまふを聞きて、いとどしぼるばかり、尼君の袖も泣き濡らすを、若き人、「あやしう見苦しき世かな」。心ゆく道に、いとむつかしきこと、添ひたる心地す。忍びがたげなる鼻すすりを聞きたまひて、我も忍びやかにうちかみて、「いかが思ふらむ」といとほしければ、
 「あまたの年ごろ、この道を行き交ふたび重なるを思ふに、そこはかとなくものあはれなるかな。すこし起き上がりて、この山の色も見たまへ。いと埋れたりや」
 と、しひてかき起こしたまへば、をかしきほどに、さし隠して、つつましげに見出だしたるまみなどは、いとよく思ひ出でらるれど、おいろかにあまりおほどき過ぎたるぞ、心もとなかめる。「いといたう児めいたるものから、用意の浅からずものしたまひしはや」と、なほ行く方なき悲しさは、むなしき空にも満ちぬべかめり。

 おはし着きて、
 「あはれ、亡き魂や宿りて見たまふらむ。誰によりて、かくすずろに惑ひありくものにもあらなくに」
 と思ひ続けたまひて、降りてはすこし心しらひて、立ち去りたまへり。女は、母君の思ひたまはむことなど、いと嘆かしけれど、艶なるさまに、心深くあはれに語らひたまふに、思ひ慰めて降りぬ。
 尼君は、ことさらに降りで、廊にぞ寄するを、「わざと思ふべき住まひにもあらぬを、用意こそあまりなれ」と見たまふ。御荘より、例の、人びと騒がしきまで参り集まる。女の御台は、尼君の方より参る。道は茂かりつれど、このありさまは、いと晴れ晴れし。
 川のけしきも山の色も、もてはやしたる造りざまを見出だして、日ごろのいぶせさ、慰みぬる心地すれど、「いかにもてないたまはむとするにか」と、浮きてあやしうおぼゆ。
 殿は、京に御文書きたまふ。
 「なりあはぬ仏の御飾りなど見たまへおきて、今日吉ろしき日なりければ、急ぎものしはべりて、乱り心地の悩ましきに、物忌なりけるを思ひたまへ出でてなむ、今日明日ここにて慎みはべるべき」
 など、母宮にも姫宮にも聞こえたまふ。

 うちとけたる御ありさま、今すこしをかしくて入りおはしたるも恥づかしけれど、もて隠すべくもあらで居たまへり。女の装束など、色々にきよくと思ひてし重ねたれど、すこし田舎びたることもうち混じりてぞ、昔のいと萎えばみたりし御姿の、あてになまめかしかりしのみ思ひ出でられて、
 「髪の裾のをかしげさなどは、こまごまとあてなり。宮の御髪のいみじくめでたきにも劣るまじかりけり」
 と見たまふ。かつは、
 「この人をいかにもてなしてあらせむとすらむ。ただ今、ものものしげにて、かの宮に迎へ据ゑむも、音聞き便なかるべし。さりとて、これかれある列にて、おほぞうに交じらはせむは本意なからむ。しばし、ここに隠してあらむ」
 と思ふも、見ずはさうざうしかるべく、あはれにおぼえたまへば、おろかならず語らひ暮らしたまふ。故宮の御ことものたまひ出でて、昔物語をかしうこまやかに言ひ戯れたまへど、ただいとつつましげにて、ひたみちに恥ぢたるを、さうざうしう思す。
 「あやまりても、かう心もとなきはいとよし。教へつつも見てむ。田舎びたるされ心もてつけて、品々しからず、はやりかならましかば、形代不用ならまし」
 と思ひ直したまふ。

 ここにありける琴、箏の琴召し出でて、「かかることはた、ましてえせじかし」と、口惜しければ、一人調べて、
 「宮亡せたまひてのち、ここにてかかるものに、いと久しう手触れざりつかし」
 と、めづらしく我ながらおぼえて、いとなつかしくまさぐりつつ眺めたまふに、月さし出でぬ。
 「宮の御琴の音の、おどろおどろしくはあらで、いとをかしくあはれに弾きたまひしはや」
 と思し出でて、
 「昔、誰れも誰れもおはせし世に、ここに生ひ出でたまへらましかば、今すこしあはれはまさりなまし。親王の御ありさまは、よその人だに、あはれに恋しくこそ、思ひ出でられたまへ。などて、さる所には、年ごろ経たまひしぞ」
 とのたまへば、いと恥づかしくて、白き扇をまさぐりつつ、添ひ臥したるかたはらめ、いと隈なう白うて、なまめいたる額髪の隙など、いとよく思ひ出でられてあはれなり。まいて、「かやうのこともつきなからず教へなさばや」と思して、
 「これは、すこしほのめかいたまひたりや。あはれ、吾が妻といふ琴は、さりとも手ならしたまひけむ」
 など問ひたまふ。
 「その大和言葉だに、つきなくならひにければ、まして、これは」
 と言ふ。いとかたはに心後れたりとは見えず。ここに置きて、え思ふままにも来ざらむことを思すが、今より苦しきは、なのめには思さぬなるべし。琴は押しやりて、
 「楚王の台の上の夜の琴の声」
 と誦じたまへるも、かの弓をのみ引くあたりにならひて、「いとめでたく、思ふやうなり」と、侍従も聞きゐたりけり。さるは、扇の色も心おきつべき閨のいにしへをば知らねば、ひとへにめできこゆるぞ、後れたるなめるかし。「ことこそあれ、あやしくも、言ひつるかな」と思す。
 尼君の方より、くだもの参れり。箱の蓋に、紅葉、蔦など折り敷きて、ゆゑゆゑなからず取りまぜて、敷きたる紙に、ふつつかに書きたるもの、隈なき月にふと見ゆれば、目とどめたまふほどに、くだもの急ぎにぞ見えける。
 「宿り木は色変はりぬる秋なれど
  昔おぼえて澄める月かな」
 と古めかしく書きたるを、恥づかしくもあはれにも思されて、
 「里の名も昔ながらに見し人の
  面変はりせる閨の月影」
 わざと返り事とはなくてのたまふ、侍従なむ伝へけるとぞ。



  

  

            現代語訳 補足 目次

      五十一、 浮 舟   
 


   
 



 宮、なほ、かのほのかなりし夕べを思し忘るる世なし。「ことことしきほどにはあるまじげなりしを、人柄のまめやかにをかしうもありしかな」と、いとあだなる御心は、「口惜しくてやみにしこと」と、ねたう思さるるままに、女君をも、
 「かう、はかなきことゆゑ、あながちに、かかる筋のもの憎みしたまひけり。思はずに心憂し」
 と、恥づかしめ怨みきこえたまふ折々は、いと苦しうて、「ありのままにや聞こえてまし」と思せど、
 「やむごとなきさまにはもてなしたまはざなれど、浅はかならぬ方に、心とどめて人の隠し置きたまへる人を、物言ひさがなく聞こえ出でたらむにも、さて聞き過ぐしたまふべき御心ざまにもあらざめり。
 さぶらふ人の中にも、はかなうものをものたまひ触れむと思し立ちぬる限りは、あるまじき里まで尋ねさせたまふ御さまよからぬ御本性なるに、さばかり月日を経て、思ししむめるあたりは、ましてかならず見苦しきこと取り出でたまひてむ。他より伝へ聞きたまはむはいかがはせむ。
 いづ方ざまにもいとほしくこそはありとも、防ぐべき人の御心ありさまならねば、よその人よりは聞きにくくなどばかりぞおぼゆべき。とてもかくても、わがおこたりにてはもてそこなはじ」
 と思ひ返したまひつつ、いとほしながらえ聞こえ出でたまはず、異ざまにつきづきしくは、え言ひなしたまはねば、おしこめてもの怨じしたる、世の常の人になりてぞおはしける。


 かの人は、たとしへなくのどかに思しおきてて、「待ち遠なりと思ふらむ」と、心苦しうのみ思ひやりたまひながら、所狭き身のほどを、さるべきついでなくて、かやしく通ひたまふべき道ならねば、神のいさむるよりもわりなし。されど、
 「今いとよくもてなさむ、とす。山里の慰めと思ひおきてし心あるを、すこし日数も経ぬべきことども作り出でて、のどやかに行きても見む。さて、しばしは人の知るまじき住み所して、やうやうさる方に、かの心をものどめおき、わがためにも、人のもどきあるまじく、なのめにてこそよからめ。
 にはかに、何人ぞ、いつより、など聞きとがめられむも、もの騒がしく、初めの心に違ふべし。また、宮の御方の聞き思さむことも、もとの所を際々しう率て離れ、昔を忘れ顔ならむ、いと本意なし」
 など思し静むるも、例の、のどけさ過ぎたる心からなるべし。渡すべきところ思しまうけて、忍びてぞ造らせたまひける。

 すこしいとまなきやうにもなりたまひにたれど、宮の御方には、なほたゆみなく心寄せ仕うまつりたまふこと同じやうなり。見たてまつる人もあやしきまで思へれど、世の中をやうやう思し知り、人のありさまを見聞きたまふままに、「これこそはまことに昔を忘れぬ心長さの、名残さへ浅からぬためしなめれ」と、あはれも少なからず。
 ねびまさりたまふままに、人柄もおぼえも、さま殊にものしたまへば、宮の御心のあまり頼もしげなき時々は、
 「思はずなりける宿世かな。故姫君の思しおきてしままにもあらで、かくもの思はしかるべき方にしもかかりそめけむよ」
 と思す折々多くなむ。されど、対面したまふことは難し。
 年月もあまり昔を隔てゆき、うちうちの御心を深う知らぬ人は、なほなほしきただ人こそ、さばかりのゆかり尋ねたる睦びをも忘れぬに、つきづきしけれ、なかなか、かう限りあるほどに、例に違ひたるありさまも、つつましければ、宮の絶えず思し疑ひたるも、いよいよ苦しう思し憚りたまひつつ、おのづから疎きさまになりゆくを、さりとても絶えず、同じ心の変はりたまはぬなりけり。
 宮も、あだなる御本性こそ、見まうきふしも混じれ、若君のいとうつくしうおよすけたまふままに、「他にはかかる人も出で来まじきにや」と、やむごとなきものに思して、うちとけなつかしき方には、人にまさりてもてなしたまへば、ありしよりはすこしもの思ひ静まりて過ぐしたまふ。

 睦月の朔日過ぎたるころ渡りたまひて、若君の年まさりたまへるを、もて遊びうつくしみたまふ昼つ方、小さき童、緑の薄様なる包み文の大きやかなるに、小さき鬚籠を小松につけたる、また、すくすくしき立文とり添へて、奥なく走り参る。女君にたてまつれば、宮、
 「それは、いづくよりぞ」
 とのたまふ。
 「宇治より大輔のおとどにとて、もてわづらひはべりつるを、例の、御前にてぞ御覧ぜむとて、取りはべりぬる」
 と言ふも、いとあわたたしきけしきにて、
 「この籠は、金を作りて色どりたる籠なりけり。松もいとよう似て作りたる枝ぞとよ」
 と、笑みて言ひ続くれば、宮も笑ひたまひて、
 「いで、我ももてはやしてむ」
 と召すを、女君、いとかたはらいたく思して、
 「文は、大輔がりやれ」
 とのたまふ。御顔の赤みたれば、宮、「大将のさりげなくしなしたる文にや、宇治の名のりもつきづきし」と思し寄りて、この文を取りたまひつ。
 さすがに、「それならむ時に」と思すに、いとまばゆければ、
 「開けて見むよ。怨じやしたまはむとする」
 とのたまへば、
 「見苦しう。何かは、その女どちのなかに書き通はしたらむうちとけ文をば、御覧ぜむ」
 とのたまふが、騒がぬけしきなれば、
 「さは、見むよ。女の文書きは、いかがある」
 とて開けたまへれば、いと若やかなる手にて、
 「おぼつかなくて、年も暮れはべりにける。山里のいぶせさこそ、峰の霞も絶え間なくて」
 とて、端に、
 「これも若宮の御前に。あやしうはべるめれど」
 と書きたり。

 ことにらうらうじきふしも見えねど、おぼえなき、御目立てて、この立文を見たまへば、げに女の手にて、
 「年改まりて、何ごとかさぶらふ。御私にも、いかにたのしき御よろこび多くはべらむ。
 ここには、いとめでたき御住まひの心深さを、なほ、ふさはしからず見たてまつる。かくてのみ、つくづくと眺めさせたまふよりは、時々は渡り参らせたまひて、御心も慰めさせたまへ、と思ひはべるに、つつましく恐ろしきものに思しとりてなむ、もの憂きことに嘆かせたまふめる。
 若宮の御前にとて、卯槌まゐらせたまふ。大き御前の御覧ぜざらむほどに、御覧ぜさせたまへ、とてなむ」
 と、こまごまと言忌もえしあへず、もの嘆かしげなるさまのかたくなしげなるも、うち返しうち返し、あやしと御覧じて、
 「今は、のたまへかし。誰がぞ」
 とのたまへば、
 「昔、かの山里にありける人の娘の、さるやうありて、このころかしこにあるとなむ聞きはべりし」
 と聞こえたまへば、おしなべて仕うまつるとは見えぬ文書きを心得たまふに、かのわづらはしきことあるに思し合はせつ。
 卯槌をかしう、つれづれなりける人のしわざと見えたり。またぶりに、山橘作りて、貫き添へたる枝に、
 「まだ古りぬ物にはあれど君がため
  深き心に待つと知らなむ」
 と、ことなることなきを、「かの思ひわたる人のにや」と思し寄りぬるに、御目とまりて、
 「返り事したまへ。情けなし。隠いたまふべき文にもあらざめるを。など、御けしきの悪しき。まかりなむよ」
 とて、立ちたまひぬ。女君、少将などして、
 「いとほしくもありつるかな。幼き人の取りつらむを、人はいかで見ざりつるぞ」
 など、忍びてのたまふ。
 「見たまへましかば、いかでかは、参らせまし。すべて、この子は心地なうさし過ぐしてはべり。生ひ先見えて、人は、おほどかなるこそをかしけれ」
 など憎めば、
 「あなかま。幼き人、な腹立てそ」
 とのたまふ。去年の冬、人の参らせたる童の、顔はいとうつくしかりければ、宮もいとらうたくしたまふなりけり。

 わが御方におはしまして、
 「あやしうもあるかな。宇治に大将の通ひたまふことは、年ごろ絶えずと聞くなかにも、忍びて夜泊りたまふ時もあり、と人の言ひしを、いとあまりなる人の形見とて、さるまじき所に旅寝したまふらむこと、と思ひつるは、かやうの人隠し置きたまへるなるべし」
 と思し得ることもありて、御書のことにつけて使ひたまふ大内記なる人の、かの殿に親しきたよりあるを思し出でて、御前に召す。参れり。
 「韻塞すべきに、集ども選り出でて、こなたなる厨子に積むべきこと」
 などのたまはせて、
 「右大将の宇治へいますること、なほ絶え果てずや。寺をこそ、いとかしこく造りたなれ。いかでか見るべき」
 とのたまへば、
 「寺いとかしこく、いかめしく造られて、不断の三昧堂など、いと尊くおきてられたり、となむ聞きたまふる。通ひたまふことは、去年の秋ごろよりは、ありしよりも、しばしばものしたまふなり。
 下の人びとの忍びて申ししは、『女をなむ隠し据ゑさせたまへる、けしうはあらず思す人なるべし。あのわたりに領じたまふ所々の人、皆仰せにて参り仕うまつる。宿直にさし当てなどしつつ、京よりもいと忍びて、さるべきことなど問はせたまふ。いかなる幸ひ人の、さすがに心細くてゐたまへるならむ』となむ、ただこの師走のころほひ申す、と聞きたまへし」
 と聞こゆ。

 「いとうれしくも聞きつるかな」と思ほして、
 「たしかにその人とは、言はずや。かしこにもとよりある尼ぞ、訪らひたまふと聞きし」
 「尼は、廊になむ住みはべるなる。この人は、今建てられたるになむ、きたなげなき女房などもあまたして、口惜しからぬけはひにてゐてはべる」
 と聞こゆ。
 「をかしきことかな。何心ありて、いかなる人をかは、さて据ゑたまひつらむ。なほ、いとけしきありて、なべての人に似ぬ御心なりや。
 右の大臣など、『この人のあまりに道心に進みて、山寺に、夜さへともすれば泊りたまふなる、軽々し』ともどきたまふと聞きしを、げに、などかさしも仏の道には忍びありくらむ。なほ、かの故里に心をとどめたると聞きし、かかることこそはありけれ。
 いづら、人よりはまめなるとさかしがる人しも、ことに人の思ひいたるまじき隈ある構へよ」
 とのたまひて、いとをかしと思いたり。この人は、かの殿にいと睦ましく仕うまつる家司の婿になむありければ、隠したまふことも聞くなるべし。
 御心の内には、「いかにして、この人を、見し人かとも見定めむ。かの君の、さばかりにて据ゑたるは、なべてのよろし人にはあらじ。このわたりには、いかで疎からぬにかはあらむ。心を交はして隠したまへりけるも、いとねたう」おぼゆ。


 


 ただそのことを、このころは思ししみたり。賭弓、内宴など過ぐして、心のどかなるに、司召など言ひて、人の心尽くすめる方は、何とも思さねば、宇治へ忍びておはしまさむことをのみ思しめぐらす。この内記は、望むことありて、夜昼、いかで御心に入らむと思ふころ、例よりはなつかしう召し使ひて、
 「いと難きことなりとも、わが言はむことは、たばかりてむや」
 などのたまふ。かしこまりてさぶらふ。
 「いと便なきことなれど、かの宇治に住むらむ人は、はやうほのかに見し人の、行方も知らずなりにしが、大将に尋ね取られにける、と聞きあはすることこそあれ。たしかには知るべきやうもなきを、ただ、ものより覗きなどして、それかあらぬかと見定めむ、となむ思ふ。いささか人に知るまじき構へは、いかがすべき」
 とのたまへば、「あな、わづらはし」と思へど、
 「おはしまさむことは、いと荒き山越えになむはべれど、ことにほど遠くはさぶらはずなむ。夕つ方出でさせおはしまして、亥子の時にはおはしまし着きなむ。さて、暁にこそは帰らせたまはめ。人の知りはべらむことは、ただ御供にさぶらひはべらむこそは。それも、深き心はいかでか知りはべらむ」
 と申す。
 「さかし。昔も、一度二度、通ひし道なり。軽々しきもどき負ひぬべきが、ものの聞こえのつつましきなり」
 とて、返す返すあるまじきことに、わが御心にも思せど、かうまでうち出でたまへれば、え思ひとどめたまはず。


 御供に、昔もかしこの案内知れりし者、二、三人、この内記、さては御乳母子の蔵人よりかうぶり得たる若き人、睦ましき限りを選りたまひて、「大将、今日明日よにおはせじ」など、内記によく案内聞きたまひて、出で立ちたまふにつけても、いにしへを思し出づ。
 「あやしきまで心を合はせつつ率てありきし人のために、うしろめたきわざにもあるかな」と、思し出づることもさまざまなるに、京のうちだに、むげに人知らぬ御ありきは、さはいへど、えしたまはぬ御身にしも、あやしきさまのやつれ姿して、御馬にておはする心地も、もの恐ろしくややましけれど、もののゆかしき方は進みたる御心なれば、山深うなるままに、「いつしか、いかならむ、見あはすることもなくて帰らむこそ、さうざうしくあやしかるべけれ」と思すに、心も騷ぎたまふ。
 法性寺のほどまでは御車にて、それよりぞ御馬にはたてまつりける。急ぎて、宵過ぐるほどにおはしましぬ。内記、案内よく知れるかの殿の人に問ひ聞きたりければ、宿直人ある方には寄らで、葦垣し籠めたる西表を、やをらすこしこぼちて入りぬ。
 我もさすがにまだ見ぬ御住まひなれば、たどたどしけれど、人しげうなどしあらねば、寝殿の南表にぞ、火ほの暗う見えて、そよそよとする音する。参りて、
 「まだ、人は起きてはべるべし。ただ、これよりおはしまさむ」
 と、しるべして入れたてまつる。

 やをら昇りて、格子の隙あるを見つけて寄りたまふに、伊予簾はさらさらと鳴るもつつまし。新しうきよげに造りたれど、さすがに粗々しくて隙ありけるを、誰れかは来て見むとも、うちとけて、穴も塞たがず、几帳の帷子うちかけておしやりたり。
 火明う灯して、もの縫ふ人、三、四人居たり。童のをかしげなる、糸をぞ縒る。これが顔、まづかの火影に見たまひしそれなり。うちつけ目かと、なほ疑はしきに、右近と名のりし若き人もあり。君は、腕を枕にて、火を眺めたるまみ、髪のこぼれかかりたる額つき、いとあてやかになまめきて、対の御方にいとようおぼえたり。
 この右近、物折るとて、
 「かくて渡らせたまひなば、とみにしもえ帰り渡らせたまはじを、殿は、『この司召のほど過ぎて、朔日ころにはかならずおはしましなむ』と、昨日の御使も申しけり。御文には、いかが聞こえさせたまへりけむ」
 と言へど、いらへもせず、いともの思ひたるけしきなり。
 「折しも、はひ隠れさせたまへるやうならむが、見苦しさ」
 と言へば、向ひたる人、
 「それは、かくなむ渡りぬると、御消息聞こえさせたまへらむこそよからめ。軽々しう、いかでかは、音なくては、はひ隠れさせたまはむ。御物詣での後は、やがて渡りおはしましねかし。かくて心細きやうなれど、心にまかせてやすらかなる御住まひにならひて、なかなか旅心地すべしや」
 など言ふ。またあるは、
 「なほ、しばし、かくて待ちきこえさせたまはむぞ、のどやかにさまよかるべき。京へなど迎へたてまつらせたまへらむ後、おだしくて親にも見えたてまつらせたまへかし。このおとどの、いと急にものしたまひて、にはかにかう聞こえなしたまふなめりかし。昔も今も、もの念じしてのどかなる人こそ、幸ひは見果てたまふなれ」
 など言ふなり。右近、
 「などて、この乳母をとどめたてまつらずなりにけむ。老いぬる人は、むつかしき心のあるにこそ」
 と憎むは、乳母やうの人をそしるなめり。「げに、憎き者ありかし」と思し出づるも、夢の心地ぞする。かたはらいたきまで、うちとけたることどもを言ひて、
 「宮の上こそ、いとめでたき御幸ひなれ。右の大殿の、さばかりめでたき御勢ひにて、いかめしうののしりたまふなれど、若君生れたまひて後は、こよなくぞおはしますなる。かかるさかしら人どものおはせで、御心のどかに、かしこうもてなしておはしますにこそはあめれ」
 と言ふ。
 「殿だに、まめやかに思ひきこえたまふこと変はらずは、劣りきこえたまふべきことかは」
 と言ふを、君、すこし起き上がりて、
 「いと聞きにくきこと。よその人にこそ、劣らじともいかにとも思はめ、かの御ことなかけても言ひそ。漏り聞こゆるやうもあらば、かたはらいたからむ」
 など言ふ。

 「何ばかりの親族にかはあらむ。いとよくも似かよひたるけはひかな」と思ひ比ぶるに、「心恥づかしげにてあてなるところは、かれはいとこよなし。これはただらうたげにこまかなるところぞいとをかしき」。よろしう、なりあはぬところを見つけたらむにてだに、さばかりゆかしと思ししめたる人を、それと見て、さてやみたまふべき御心ならねば、まして隈もなく見たまふに、「いかでかこれをわがものにはなすべき」と、心も空になりたまひて、なほまもりたまへば、右近、
 「いとねぶたし。昨夜もすずろに起き明かしてき。明朝のほどにも、これは縫ひてむ。急がせたまふとも、御車は日たけてぞあらむ」
 と言ひて、しさしたるものどもとり具して、几帳にうち掛けなどしつつ、うたた寝のさまに寄り臥しぬ。君もすこし奥に入りて臥す。右近は北表に行きて、しばしありてぞ来たる。君のあと近く臥しぬ。
 ねぶたしと思ひければ、いととう寝入りぬるけしきを見たまひて、またせむやうもなければ、忍びやかにこの格子をたたきたまふ。右近聞きつけて、
 「誰そ」
 と言ふ。声づくりたまへば、あてなるしはぶきと聞き知りて、「殿のおはしたるにや」と思ひて、起きて出でたり。
 「まづ、これ開けよ」
 とのたまへば、
 「あやしう。おぼえなきほどにもはべるかな。夜はいたう更けはべりぬらむものを」
 と言ふ。
 「ものへ渡りたまふべかなりと、仲信が言ひつれば、驚かれつるままに出で立ちて。いとこそわりなかりつれ。まづ開けよ」
 とのたまふ声、いとようまねび似せたまひて、忍びたれば、思ひも寄らず、かい放つ。
 「道にて、いとわりなく恐ろしきことのありつれば、あやしき姿になりてなむ。火暗うなせ」
 とのたまへば、
 「あな、いみじ」
 とあわてまどひて、火は取りやりつ。
 「我、人に見すなよ。来たりとて、人驚かすな」
 と、いとらうらうじき御心にて、もとよりもほのかに似たる御声を、ただかの御けはひにまねびて入りたまふ。「ゆゆしきことのさまとのたまひつる、いかなる御姿ならむ」といとほしくて、我も隠ろへて見たてまつる。
 いと細やかになよなよと装束きて、香の香うばしきことも劣らず。近う寄りて、御衣ども脱ぎ、馴れ顔にうち臥したまへれば、
 「例の御座にこそ」
 など言へど、ものものたまはず。御衾参りて、寝つる人びと起こして、すこし退きて皆寝ぬ。御供の人など、例の、ここには知らぬならひにて、
 「あはれなる、夜のおはしましざまかな」
 「かかる御ありさまを、御覧じ知らぬよ」
 など、さかしらがる人もあれど、
 「あなかま、たまへ。夜声は、ささめくしもぞ、かしかましき」
 など言ひつつ寝ぬ。
 女君は、「あらぬ人なりけり」と思ふに、あさましういみじけれど、声をだにせさせたまはず。いとつつましかりし所にてだに、わりなかりし御心なれば、ひたぶるにあさまし。初めよりあらぬ人と知りたらば、いかがいふかひもあるべきを、夢の心地するに、やうやう、その折のつらかりし、年月ごろ思ひわたるさまのたまふに、この宮と知りぬ。
 いよいよ恥づかしく、かの上の御ことなど思ふに、またたけきことなければ、限りなう泣く。宮も、なかなかにて、たはやすく逢ひ見ざらむことなどを思すに、泣きたまふ。

 夜は、ただ明けに明く。御供の人来て声づくる。右近聞きて参れり。出でたまはむ心地もなく、飽かずあはれなるに、またおはしまさむことも難ければ、「京には求め騒がるとも、今日ばかりはかくてあらむ。何事も生ける限りのためこそあれ」。ただ今出でおはしまさむは、まことに死ぬべく思さるれば、この右近を召し寄せて、
 「いと心地なしと思はれぬべけれど、今日はえ出づまじうなむある。男どもは、このわたり近からむ所に、よく隠ろへてさぶらへ。時方は、京へものして、『山寺に忍びてなむ』とつきづきしからむさまに、いらへなどせよ」
 とのたまふに、いとあさましくあきれて、心もなかりける夜の過ちを思ふに、心地も惑ひぬべきを、思ひ静めて、
 「今は、よろづにおぼほれ騒ぐとも、かひあらじものから、なめげなり。あやしかりし折に、いと深う思し入れたりしも、かう逃れざりける御宿世にこそありけれ。人のしたるわざかは」
 と思ひ慰めて、
 「今日、御迎へにとはべりしを、いかにせさせたまはむとする御ことにか。かう逃れきこえさせたまふまじかりける御宿世は、いと聞こえさせはべらむ方なし。折こそいとわりなくはべれ。なほ、今日は出でおはしまして、御心ざしはべらば、のどかにも」
 と聞こゆ。「およすけても言ふかな」と思して、
 「我は、月ごろ思ひつるに、ほれ果てにければ、人のもどかむも言はむも知られず、ひたぶるに思ひなりにたり。すこしも身のことを思ひ憚からむ人の、かかるありきは思ひ立ちなむや。御返りには、『今日は物忌』など言へかし。人に知らるまじきことを、誰がためにも思へかし。異事はかひなし」
 とのたまひて、この人の、世に知らずあはれに思さるるままに、よろづのそしりも忘れたまひぬべし。

 右近出でて、このおとなふ人に、
 「かくなむのたまはするを、なほ、いとかたはならむ、とを申させたまへ。あさましうめづらかなる御ありさまは、さ思しめすとも、かかる御供人どもの御心にこそあらめ。いかで、かう心幼うは率てたてまつりたまふこそ。なめげなることを聞こえさする山賤などもはべらましかば、いかならまし」
 と言ふ。内記は、「げに、いとわづらはしくもあるかな」と思ひ立てり。
 「時方と仰せらるるは、誰れにか。さなむ」
 と伝ふ。笑ひて、
 「勘へたまふことどもの恐ろしければ、さらずとも逃げてまかでぬべし。まめやかには、おろかならぬ御けしきを見たてまつれば、誰れも誰れも、身を捨ててなむ。よしよし、宿直人も、皆起きぬなり」
 とて急ぎ出でぬ。
 右近、「人に知らすまじうは、いかがはたばかるべき」とわりなうおぼゆ。人びと起きぬるに、
 「殿は、さるやうありて、いみじう忍びさせたまふけしき見たてまつれば、道にていみじきことのありけるなめり。御衣どもなど、夜さり忍びて持て参るべくなむ、仰せられつる」
 など言ふ。御達、
 「あな、むくつけや。木幡山は、いと恐ろしかなる山ぞかし。例の、御前駆も追はせたまはず、やつれておはしましけむに、あな、いみじや」
 と言へば、
 「あなかま、あなかま。下衆などの、ちりばかりも聞きたらむに、いといみじからむ」
 と言ひゐたる、心地恐ろし。あやにくに、殿の御使のあらむ時、いかに言はむと、
 「初瀬の観音、今日事なくて暮らしたまへ」
 と、大願をぞ立てける。
 石山に今日詣でさせむとて、母君の迎ふるなりけり。この人びともみな精進し、きよまはりてあるに、
 「さらば、今日は、え渡らせたまふまじきなめり。いと口惜しきこと」
 と言ふ。

 日高くなれば、格子など上げて、右近ぞ近くて仕うまつりける。母屋の簾は皆下ろしわたして、「物忌」など書かせて付けたり。母君もやみづからおはするとて、「夢見騒がしかりつ」と言ひなすなりけり。御手水など参りたるさまは、例のやうなれど、まかなひめざましう思されて、
 「そこに洗はせたまはば」
 とのたまふ。女、いとさまよう心にくき人を見ならひたるに、時の間も見ざらむに死ぬべしと思し焦がるる人を、「心ざし深しとは、かかるを言ふにやあらむ」と思ひ知らるるにも、「あやしかりける身かな。誰れも、ものの聞こえあらば、いかに思さむ」と、まづかの上の御心を思ひ出できこゆれど、
 「知らぬを、返す返すいと心憂し。なほ、あらむままにのたまへ。いみじき下衆といふとも、いよいよなむあはれなるべき」
 と、わりなう問ひたまへど、その御いらへは絶えてせず。異事は、いとをかしくけぢかきさまにいらへきこえなどして、なびきたるを、いと限りなうらうたしとのみ見たまふ。
 日高くなるほどに、迎への人来たり。車二つ、馬なる人びとの、例の、荒らかなる七、八人。男ども多く、例の、品々しからぬけはひ、さへづりつつ入り来たれば、人びとかたはらいたがりつつ、
 「あなたに隠れよ」
 と言はせなどす。右近、「いかにせむ。殿なむおはする、と言ひたらむに、京にさばかりの人のおはし、おはせず、おのづから聞きかよひて、隠れなきこともこそあれ」と思ひて、この人びとにも、ことに言ひ合はせず、返り事書く。
 「昨夜より穢れさせたまひて、いと口惜しきことを思し嘆くめりしに、今宵、夢見騒がしく見えさせたまひつれば、今日ばかり慎ませたまへとてなむ、物忌にてはべる。返す返す、口惜しく、ものの妨げのやうに見たてまつりはべる」
 と書きて、人びとに物など食はせてやりつ。尼君にも、
 「今日は物忌にて、渡りたまはぬ」
 と言はせたり。

 例は暮らしがたくのみ、霞める山際を眺めわびたまふに、暮れ行くはわびしくのみ思し焦らるる人に惹かれたてまつりて、いとはかなう暮れぬ。紛るることなくのどけき春の日に、見れども見れども飽かず、そのことぞとおぼゆる隈なく、愛敬づきなつかしくをかしげなり。
 さるは、かの対の御方には似劣りなり。大殿の君の盛りに匂ひたまへるあたりにては、こよなかるべきほどの人を、たぐひなう思さるるほどなれば、「また知らずをかし」とのみ見たまふ。
 女はまた、大将殿を、いときよげに、またかかる人あらむやと見しかど、「こまやかに匂ひきよらなることは、こよなくおはしけり」と見る。
 硯ひき寄せて、手習などしたまふ。いとをかしげに書きすさび、絵などを見所多く描きたまへれば、若き心地には、思ひも移りぬべし。
 「心より外に、え見ざらむほどは、これを見たまへよ」
 とて、いとをかしげなる男女、もろともに添ひ臥したる画を描きたまひて、
 「常にかくてあらばや」
 などのたまふも、涙落ちぬ。
 「長き世を頼めてもなほ悲しきは
  ただ明日知らぬ命なりけり
 いとかう思ふこそ、ゆゆしけれ。心に身をもさらにえまかせず、よろづにたばからむほど、まことに死ぬべくなむおぼゆる。つらかりし御ありさまを、なかなか何に尋ね出でけむ」
 などのたまふ。女、濡らしたまへる筆を取りて、
 「心をば嘆かざらまし命のみ
  定めなき世と思はましかば」
 とあるを、「変はらむをば恨めしう思ふべかりけり」と見たまふにも、いとらうたし。
 「いかなる人の心変はりを見ならひて」
 など、ほほ笑みて、大将のここに渡し初めたまひけむほどを、返す返すゆかしがりたまひて、問ひたまふを、苦しがりて、
 「え言はぬことを、かうのたまふこそ」
 と、うち怨じたるさまも、若びたり。おのづからそれは聞き出でてむ、と思すものから、言はせまほしきぞわりなきや。

 夜さり、京へ遣はしつる大夫参りて、右近に会ひたり。
 「后の宮よりも御使参りて、右の大殿もむつかりきこえさせたまひて、『人に知られさせたまはぬ御ありきは、いと軽々しく、なめげなることもあるを、すべて、内裏などに聞こし召さむことも、身のためなむいとからき』といみじく申させたまひけり。東山に聖御覧じにとなむ、人にはものしはべりつる」
 など語りて、
 「女こそ罪深うおはするものはあれ。すずろなる眷属の人をさへ惑はしたまひて、虚言をさへせさせたまふよ」
 と言へば、
 「聖の名をさへつけきこえさせたまひてければ、いとよし。私の罪も、それにて滅ぼしたまふらむ。まことに、いとあやしき御心の、げに、いかでならはせたまひけむ。かねてかうおはしますべしと承らましにも、いとかたじけなければ、たばかりきこえさせてましものを。奥なき御ありきにこそは」
 と、扱ひきこゆ。
 参りて、「さなむ」とまねびきこゆれば、「げに、いかならむ」と、思しやるに、
 「所狭き身こそわびしけれ。軽らかなるほどの殿上人などにて、しばしあらばや。いかがすべき。かうつつむべき人目も、え憚りあふまじくなむ。
 大将もいかに思はむとすらむ。さるべきほどとは言ひながら、あやしきまで、昔より睦ましき仲に、かかる心の隔ての知られたらむ時、恥づかしう、またいかにぞや。
 世のたとひに言ふこともあれば、待ち遠なるわがおこたりをも知らず、怨みられたまはむをさへなむ思ふ。夢にも人に知られたまふまじきさまにて、ここならぬ所に率て離れたてまつらむ」
 とぞのたまふ。今日さへかくて籠もりゐたまふべきならねば、出でたまひなむとするにも、袖の中にぞ留めたまひつらむかし。
 明け果てぬ前にと、人びとしはぶき驚かしきこゆ。妻戸にもろともに率ておはして、え出でやりたまはず。
 「世に知らず惑ふべきかな先に立つ
  涙も道をかきくらしつつ」
 女も、限りなくあはれと思ひけり。
 「涙をもほどなき袖にせきかねて
  いかに別れをとどむべき身ぞ」
 風の音もいと荒ましく、霜深き暁に、おのが衣々も冷やかになりたる心地して、御馬に乗りたまふほど、引き返すやうにあさましけれど、御供の人びと、「いと戯れにくし」と思ひて、ただ急がしに急がし出づれば、我にもあらで出でたまひぬ。
 この五位二人なむ、御馬の口にはさぶらひける。さかしき山越え出でてぞ、おのおの馬には乗る。みぎはの氷を踏みならす馬の足音さへ、心細くもの悲し。昔もこの道にのみこそは、かかる山踏みはしたまひしかば、「あやしかりける里の契りかな」と思す。


 


 二条の院におはしまし着きて、女君のいと心憂かりし御もの隠しもつらければ、心やすき方に大殿籠もりぬるに、寝られたまはず、いと寂しきに、もの思ひまされば、心弱く対に渡りたまひぬ。
 何心もなく、いときよげにておはす。「めづらしくをかしと見たまひし人よりも、またこれはなほありがたきさまはしたまへりかし」と見たまふものから、いとよく似たるを思ひ出でたまふも、胸塞がれば、いたくもの思したるさまにて、御帳に入りて大殿籠もる。女君も率て入りきこえたまひて、
 「心地こそいと悪しけれ。いかならむとするにかと、心細くなむある。まろは、いみじくあはれと見置いたてまつるとも、御ありさまはいととく変はりなむかし。人の本意は、かならずかなふなれば」
 とのたまふ。「けしからぬことをも、まめやかにさへのたまふかな」と思ひて、
 「かう聞きにくきことの漏りて聞こえたらば、いかやうに聞こえなしたるにかと、人も思ひ寄りたまはむこそ、あさましけれ。心憂き身には、すずろなることもいと苦しく」
 とて、背きたまへり。宮も、まめだちたまひて、
 「まことにつらしと思ひきこゆることもあらむは、いかが思さるべき。まろは、御ためにおろかなる人かは。人も、ありがたしなど、とがむるまでこそあれ。人にはこよなう思ひ落としたまふべかめり。誰れもさべきにこそはと、ことわらるるを、隔てたまふ御心の深きなむ、いと心憂き」
 とのたまふにも、「宿世のおろかならで、尋ね寄りたるぞかし」と思し出づるに、涙ぐまれぬ。まめやかなるを、「いとほしう、いかやうなることを聞きたまへるならむ」と驚かるるに、いらへきこえたまはむ言もなし。
 「ものはかなきさまにて見そめたまひしに、何ごとをも軽らかに推し量りたまふにこそはあらめ。すずろなる人をしるべにて、その心寄せを思ひ知り始めなどしたる過ちばかりに、おぼえ劣る身にこそ」と思し続くるも、よろづ悲しくて、いとどらうたげなる御けはひなり。
 「かの人見つけたることは、しばし知らせたてまつらじ」と思せば、「異ざまに思はせて怨みたまふを、ただこの大将の御ことをまめまめしくのたまふ」と思すに、「人や虚言をたしかなるやうに聞こえたらむ」など思す。ありやなしやを聞かぬ間は、見えたてまつらむも恥づかし。


 内裏より大宮の御文あるに、驚きたまひて、なほ心解けぬ御けしきにて、あなたに渡りたまひぬ。
 「昨日のおぼつかなさを。悩ましく思されたなる、よろしくは参りたまへ。久しうもなりにけるを」
 などやうに聞こえたまへれば、騒がれたてまつらむも苦しけれど、まことに御心地も違ひたるやうにて、その日は参りたまはず。上達部など、あまた参りたまへど、御簾の内にて暮らしたまふ。
 夕つ方、右大将参りたまへり。
 「こなたにを」
 とて、うちとけながら対面したまへり。
 「悩ましげにおはします、とはべりつれば、宮にもいとおぼつかなく思し召してなむ。いかやうなる御悩みにか」
 と聞こえたまふ。見るからに、御心騷ぎのいとどまされば、言少なにて、「聖だつと言ひながら、こよなかりける山伏心かな。さばかりあはれなる人を、さて置きて、心のどかに月日を待ちわびさすらむよ」と思す。
 例は、さしもあらぬことのついでにだに、我はまめ人ともてなし名のりたまふを、ねたがりたまひて、よろづにのたまひ破るを、かかること見表はいたるを、いかにのたまはまし。されど、さやうの戯れ事もかけたまはず、いと苦しげに見えたまへば、
 「不便なるわざかな。おどろおどろしからぬ御心地の、さすがに日数経るは、いと悪しきわざにはべり。御風邪よくつくろはせたまへ」
 など、まめやかに聞こえおきて出でたまひぬ。「恥づかしげなる人なりかし。わがありさまを、いかに思ひ比べけむ」など、さまざまなることにつけつつも、ただこの人を、時の間忘れず思し出づ。
 かしこには、石山も停まりて、いとつれづれなり。御文には、いといみじきことを書き集めたまひて遣はす。それだに心やすからず、「時方」と召しし大夫の従者の、心も知らぬしてなむやりける。
 「右近が古く知れりける人の、殿の御供にて尋ね出でたる、さらがへりてねむごろがる」
 と、友達には言ひ聞かせたり。よろづ右近ぞ、虚言しならひける。

 月もたちぬ。かう思し知らるれど、おはしますことはいとわりなし。「かうのみものを思はば、さらにえながらふまじき身なめり」と、心細さを添へて嘆きたまふ。
 大将殿、すこしのどかになりぬるころ、例の、忍びておはしたり。寺に仏など拝みたまふ。御誦経せさせたまふ僧に、物賜ひなどして、夕つ方、ここには忍びたれど、これはわりなくもやつしたまはず。烏帽子直衣の姿、いとあらまほしくきよげにて、歩み入りたまふより、恥づかしげに、用意ことなり。
 女、いかで見えたてまつらむとすらむと、空さへ恥づかしく恐ろしきに、あながちなりし人の御ありさま、うち思ひ出でらるるに、また、この人に見えたてまつらむを思ひやるなむ、いみじう心憂き。
 「『われは年ごろ見る人をも、皆思ひ変はりぬべき心地なむする』とのたまひしを、げに、そののち御心地苦しとて、いづくにもいづくにも、例の御ありさまならで、御修法など騒ぐなるを聞くに、また、いかに聞きて思さむ」と思ふもいと苦し。
 この人はた、いとけはひことに、心深く、なまめかしきさまして、久しかりつるほどのおこたりなどのたまふも、言多からず、恋し愛しとおり立たねど、常にあひ見ぬ恋の苦しさを、さまよきほどにうちのたまへる、いみじく言ふにはまさりて、いとあはれと人の思ひぬべきさまをしめたまへる人柄なり。艶なる方はさるものにて、行く末長く人の頼みぬべき心ばへなど、こよなくまさりたまへり。
 「思はずなるさまの心ばへなど、漏り聞かせたらむ時も、なのめならずいみじくこそあべけれ。あやしううつし心もなう思し焦らるる人を、あはれと思ふも、それはいとあるまじく軽きことぞかし。この人に憂しと思はれて、忘れたまひなむ」心細さは、いと深うしみにければ、思ひ乱れたるけしきを、「月ごろに、こよなうものの心知り、ねびまさりにけり。つれづれなる住み処のほどに、思ひ残すことはあらじかし」と見たまふも、心苦しければ、常よりも心とどめて語らひたまふ。

 「造らする所、やうやうよろしうしなしてけり。一日なむ、見しかば、ここよりは気近き水に、花も見たまひつべし。三条の宮も近きほどなり。明け暮れおぼつかなき隔ても、おのづからあるまじきを、この春のほどに、さりぬべくは渡してむ」
 と思ひてのたまふも、「かの人の、のどかなるべき所思ひまうけたりと、昨日ものたまへりしを、かかることも知らで、さ思すらむよ」と、あはれながらも、「そなたになびくべきにはあらずかし」と思ふからに、ありし御さまの、面影におぼゆれば、「我ながらも、うたて心憂の身や」と、思ひ続けて泣きぬ。
 「御心ばへの、かからでおいらかなりしこそ、のどかにうれしかりしか。人のいかに聞こえ知らせたることかある。すこしもおろかならむ心ざしにては、かうまで参り来べき身のほど、道のありさまにもあらぬを」
 など、朔日ごろの夕月夜に、すこし端近く臥して眺め出だしたまへり。男は、過ぎにし方のあはれをも思し出で、女は、今より添ひたる身の憂さを嘆き加へて、かたみにもの思はし。

 山の方は霞隔てて、寒き洲崎に立てる鵲の姿も、所からはいとをかしう見ゆるに、宇治橋のはるばると見わたさるるに、柴積み舟の所々に行きちがひたるなど、他にて目馴れぬことどものみとり集めたる所なれば、見たまふたびごとに、なほそのかみのことのただ今の心地して、いとかからぬ人を見交はしたらむだに、めづらしき仲のあはれ多かるべきほどなり。
 まいて、恋しき人によそへられたるもこよなからず、やうやうものの心知り、都馴れゆくありさまのをかしきも、こよなく見まさりしたる心地したまふに、女は、かき集めたる心のうちに、催さるる涙、ともすれば出でたつを、慰めかねたまひつつ、
 「宇治橋の長き契りは朽ちせじを
  危ぶむ方に心騒ぐな
 今見たまひてむ」
 とのたまふ。
 「絶え間のみ世には危ふき宇治橋を
  朽ちせぬものとなほ頼めとや」
 さきざきよりもいと見捨てがたく、しばしも立ちとまらまほしく思さるれど、人のもの言ひのやすからぬに、「今さらなり。心やすきさまにてこそ」など思しなして、暁に帰りたまひぬ。「いとようもおとなびたりつるかな」と、心苦しく思し出づること、ありしにまさりけり。


 


 如月の十日のほどに、内裏に文作らせたまふとて、この宮も大将も参りあひたまへり。折に合ひたる物の調べどもに、宮の御声はいとめでたくて、「梅が枝」など謡ひたまふ。何ごとも人よりはこよなうまさりたまへる御さまにて、すずろなること思し焦らるるのみなむ、罪深かりける。
 雪にはかに降り乱れ、風など烈しければ、御遊びとくやみぬ。この宮の御宿直所に、人びと参りたまふ。もの参りなどして、うち休みたまへり。
 大将、人にもののたまはむとて、すこし端近く出でたまへるに、雪のやうやう積もるが、星の光におぼおぼしきを、「闇はあやなし」とおぼゆる匂ひありさまにて、
 「衣片敷き今宵もや」
 と、うち誦じたまへるも、はかなきことを口ずさびにのたまへるも、あやしくあはれなるけしき添へる人ざまにて、いともの深げなり。
 言しもこそあれ、宮は寝たるやうにて、御心騒ぐ。
 「おろかには思はぬなめりかし。片敷く袖を、我のみ思ひやる心地しつるを、同じ心なるもあはれなり。侘しくもあるかな。かばかりなる本つ人をおきて、我が方にまさる思ひは、いかでつくべきぞ」
 とねたう思さる。
 明朝、雪のいと高う積もりたるに、文たてまつりたまはむとて、御前に参りたまへる御容貌、このころいみじく盛りにきよげなり。かの君も同じほどにて、今二つ、三つまさるけぢめにや、すこしねびまさるけしき用意などぞ、ことさらにも作りたらむ、あてなる男の本にしつべくものしたまふ。「帝の御婿にて飽かぬことなし」とぞ、世人もことわりける。才なども、おほやけおほやけしき方も、後れずぞおはすべき。
 文講じ果てて、皆人まかでたまふ。宮の御文を、「すぐれたり」と誦じののしれど、何とも聞き入れたまはず、「いかなる心地にて、かかることをもし出づらむ」と、そらにのみ思ほしほれたり。


 かの人の御けしきにも、いとど驚かれたまひければ、あさましうたばかりておはしましたり。京には、友待つばかり消え残りたる雪、山深く入るままに、やや降り埋みたり。
 常よりもわりなきまれの細道を分けたまふほど、御供の人も、泣きぬばかり恐ろしう、わづらはしきことをさへ思ふ。しるべの内記は、式部少輔なむ掛けたりける。いづ方もいづ方も、ことことしかるべき官ながら、いとつきづきしく、引き上げなどしたる姿もをかしかりけり。
 かしこには、おはせむとありつれど、「かかる雪には」とうちとけたるに、夜更けて右近に消息したり。「あさましう、あはれ」と、君も思へり。右近は、「いかになり果てたまふべき御ありさまにか」と、かつは苦しけれど、今宵はつつましさも忘れぬべし。言ひ返さむ方もなければ、同じやうに睦ましくおぼいたる若き人の、心ざまも奥なからぬを語らひて、
 「いみじくわりなきこと。同じ心に、もて隠したまへ」
 と言ひてけり。もろともに入れたてまつる。道のほどに濡れたまへる香の、所狭う匂ふも、もてわづらひぬべけれど、かの人の御けはひに似せてなむ、もて紛らはしける。

 夜のほどにて立ち帰りたまはむも、なかなかなべければ、ここの人目もいとつつましさに、時方にたばからせたまひて、「川より遠方なる人の家に率ておはせむ」と構へたりければ、先立てて遣はしたりける、夜更くるほどに参れり。
 「いとよく用意してさぶらふ」
 と申さす。「こは、いかにしたまふことにか」と、右近もいと心あわたたしければ、寝おびれて起きたる心地も、わななかれて、あやし。童べの雪遊びしたるけはひのやうにぞ、震ひ上がりにける。
 「いかでか」
 なども言ひあへさせたまはず、かき抱きて出でたまひぬ。右近はこの後見にとまりて、侍従をぞたてまつる。
 いとはかなげなるものと、明け暮れ見出だす小さき舟に乗りたまひて、さし渡りたまふほど、遥かならむ岸にしも漕ぎ離れたらむやうに心細くおぼえて、つとつきて抱かれたるも、いとらうたしと思す。
 有明の月澄み昇りて、水の面も曇りなきに、
 「これなむ、橘の小島」
 と申して、御舟しばしさしとどめたるを見たまへば、大きやかなる岩のさまして、されたる常磐木の蔭茂れり。
 「かれ見たまへ。いとはかなけれど、千年も経べき緑の深さを」
 とのたまひて、
 「年経とも変はらむものか橘の
  小島の崎に契る心は」
 女も、めづらしからむ道のやうにおぼえて、
 「橘の小島の色は変はらじを
  この浮舟ぞ行方知られぬ」
 折から、人のさまに、をかしくのみ何事も思しなす。
 かの岸にさし着きて降りたまふに、人に抱かせたまはむは、いと心苦しければ、抱きたまひて、助けられつつ入りたまふを、いと見苦しく、「何人を、かくもて騷ぎたまふらむ」と見たてまつる。時方が叔父の因幡守なるが領ずる荘に、はかなう造りたる家なりけり。
 まだいと粗々しきに、網代屏風など、御覧じも知らぬしつらひにて、風もことに障らず、垣のもとに雪むら消えつつ、今もかき曇りて降る。

 日さし出でて、軒の垂氷の光りあひたるに、人の御容貌もまさる心地す。宮も、所狭き道のほどに、軽らかなるべきほどの御衣どもなり。女も、脱ぎすべさせたまひてしかば、細やかなる姿つき、いとをかしげなり。ひきつくろふこともなくうちとけたるさまを、「いと恥づかしく、まばゆきまできよらなる人にさしむかひたるよ」と思へど、紛れむ方もなし。
 なつかしきほどなる白き限りを五つばかり、袖口、裾のほどまでなまめかしく、色々にあまた重ねたらむよりも、をかしう着なしたり。常に見たまふ人とても、かくまでうちとけたる姿などは見ならひたまはぬを、かかるさへぞ、なほめづらかにをかしう思されける。
 侍従も、いとめやすき若人なりけり。「これさへ、かかるを残りなう見るよ」と、女君は、いみじと思ふ。宮も、
 「これはまた誰そ。わが名漏らすなよ」
 と口がためたまふを、「いとめでたし」と思ひきこえたり。ここの宿守にて住みける者、時方を主と思ひてかしづきありけば、このおはします遣戸を隔てて、所得顔に居たり。声ひきしじめ、かしこまりて物語しをるを、いらへもえせず、をかしと思ひけり。
 「いと恐ろしく占ひたる物忌により、京の内をさへ去りて慎むなり。他の人、寄すな」
 と言ひたり。

 人目も絶えて、心やすく語らひ暮らしたまふ。「かの人のものしたまへりけむに、かくて見えてむかし」と、思しやりて、いみじく怨みたまふ。二の宮をいとやむごとなくて、持ちたてまつりたまへるありさまなども語りたまふ。かの耳とどめたまひし一言は、のたまひ出でぬぞ憎きや。
 時方、御手水、御くだものなど、取り次ぎて参るを御覧じて、
 「いみじくかしづかるめる客人の主、さてな見えそや」
 と戒めたまふ。侍従、色めかしき若人の心地に、いとをかしと思ひて、この大夫とぞ物語して暮らしける。
 雪の降り積もれるに、かのわが住む方を見やりたまへれば、霞の絶え絶えに梢ばかり見ゆ。山は鏡を懸けたるやうに、きらきらと夕日に輝きたるに、昨夜、分け来し道のわりなさなど、あはれ多う添へて語りたまふ。
 「峰の雪みぎはの氷踏み分けて
  君にぞ惑ふ道は惑はず
 木幡の里に馬はあれど」
 など、あやしき硯召し出でて、手習ひたまふ。
 「降り乱れみぎはに凍る雪よりも
  中空にてぞ我は消ぬべき」
 と書き消ちたり。この「中空」をとがめたまふ。「げに、憎くも書きてけるかな」と、恥づかしくて引き破りつ。さらでだに見るかひある御ありさまを、いよいよあはれにいみじと、人の心にしめられむと、尽くしたまふ言の葉、けしき、言はむ方なし。

 御物忌、二日とたばかりたまへれば、心のどかなるままに、かたみにあはれとのみ、深く思しまさる。右近は、よろづに例の、言ひ紛らはして、御衣などたてまつりたり。今日は、乱れたる髪すこし削らせて、濃き衣に紅梅の織物など、あはひをかしく着替へてゐたまへり。侍従も、あやしき褶着たりしを、あざやぎたれば、その裳を取りたまひて、君に着せたまひて、御手水参らせたまふ。
 「姫宮にこれをたてまつりたらば、いみじきものにしたまひてむかし。いとやむごとなき際の人多かれど、かばかりのさましたるは難くや」
 と見たまふ。かたはなるまで遊び戯れつつ暮らしたまふ。忍びて率て隠してむことを、返す返すのたまふ。「そのほど、かの人に見えたらば」と、いみじきことどもを誓はせたまへば、「いとわりなきこと」と思ひて、いらへもやらず、涙さへ落つるけしき、「さらに目の前にだに思ひ移らぬなめり」と胸痛う思さる。怨みても泣きても、よろづのたまひ明かして、夜深く率て帰りたまふ。例の、抱きたまふ。
 「いみじく思すめる人は、かうは、よもあらじよ。見知りたまひたりや」
 とのたまへば、げに、と思ひて、うなづきて居たる、いとらうたげなり。右近、妻戸放ちて入れたてまつる。やがて、これより別れて出でたまふも、飽かずいみじと思さる。

 かやうの帰さは、なほ二条にぞおはします。いと悩ましうしたまひて、物など絶えてきこしめさず、日を経て青み痩せたまひ、御けしきも変はるを、内裏にもいづくにも、思ほし嘆くに、いとどもの騒がしくて、御文だにこまかには書きたまはず。
 かしこにも、かのさかしき乳母、娘の子産む所に出でたりける、帰り来にければ、心やすくもえ見ず。かくあやしき住まひを、ただかの殿のもてなしたまはむさまをゆかしく待つことにて、母君も思ひ慰めたるに、忍びたるさまながらも、近く渡してむことを思しなりにければ、いとめやすくうれしかるべきことに思ひて、やうやう人求め、童のめやすきなど迎へておこせたまふ。
 わが心にも、「それこそは、あるべきことに、初めより待ちわたれ」とは思ひながら、あながちなる人の御ことを思ひ出づるに、怨みたまひしさま、のたまひしことども、面影につと添ひて、いささかまどろめば、夢に見えたまひつつ、いとうたてあるまでおぼゆ。


 


 雨降り止まで、日ごろ多くなるころ、いとど山路思し絶えて、わりなく思されければ、「親のかふこは所狭きものにこそ」と思すもかたじけなし。尽きせぬことども書きたまひて、
 「眺めやるそなたの雲も見えぬまで
  空さへ暮るるころのわびしさ」
 筆にまかせて書き乱りたまへるしも、見所あり、をかしげなり。ことにいと重くなどはあらぬ若き心地に、
 「いとかかる心を思ひもまさりぬべけれど、初めより契りたまひしさまも、さすがに、かれは、なほいともの深う、人柄のめでたきなども、世の中を知りにし初めなればにや、かかる憂きこと聞きつけて、思ひ疎みたまひなむ世には、いかでかあらむ。
 いつしかと思ひ惑ふ親にも、思はずに、心づきなしとこそは、もてわづらはれめ。かく心焦られしたまふ人、はた、いとあだなる御心本性とのみ聞きしかば、かかるほどこそあらめ、またかうながらも、京にも隠し据ゑたまひ、ながらへても思し数まへむにつけては、かの上の思さむこと。よろづ隠れなき世なりければ、あやしかりし夕暮のしるべばかりにだに、かう尋ね出でたまふめり。
 まして、わがありさまのともかくもあらむを、聞きたまはぬやうはありなむや」
 と思ひたどるに、「わが心も、きずありて、かの人に疎まれたてまつらむ、なほいみじかるべし」と思ひ乱るる折しも、かの殿より御使あり。


 これかれと見るもいとうたてあれば、なほ言多かりつるを見つつ、臥したまへれば、侍従、右近、見合はせて、
 「なほ、移りにけり」
 など、言はぬやうにて言ふ。
 「ことわりぞかし。殿の御容貌を、たぐひおはしまさじと見しかど、この御ありさまはいみじかりけり。うち乱れたまへる愛敬よ。まろならば、かばかりの御思ひを見る見る、えかくてあらじ。后の宮にも参りて、常に見たてまつりてむ」
 と言ふ。右近、
 「うしろめたの御心のほどや。殿の御ありさまにまさりたまふ人は、誰れかあらむ。容貌などは知らず、御心ばへけはひなどよ。なほ、この御ことは、いと見苦しきわざかな。いかがならせたまはむとすらむ」
 と、二人して語らふ。心一つに思ひしよりは、虚言もたより出で来にけり。
 後の御文には、
 「思ひながら日ごろになること。時々は、それよりも驚かいたまはむこそ、思ふさまならめ。おろかなるにやは」
 など、端書きに、
 「水まさる遠方の里人いかならむ
  晴れぬ長雨にかき暮らすころ
 常よりも、思ひやりきこゆることまさりてなむ」
 と、白き色紙にて立文なり。御手もこまかにをかしげならねど、書きざまゆゑゆゑしく見ゆ。宮は、いと多かるを、小さく結びなしたまへる、さまざまをかし。
 「まづ、かれを、人見ぬほどに」
 と聞こゆ。
 「今日は、え聞こゆまじ」
 と恥ぢらひて、手習に、
 「里の名をわが身に知れば山城の
  宇治のわたりぞいとど住み憂き」
 宮の描きたまへりし絵を、時々見て泣かれけり。「ながらへてあるまじきことぞ」と、とざまかうざまに思ひなせど、他に絶え籠もりてやみなむは、いとあはれにおぼゆべし。
 「かき暮らし晴れせぬ峰の雨雲に
  浮きて世をふる身をもなさばや
 混じりなば」
 と聞こえたるを、宮は、よよと泣かれたまふ。「さりとも、恋しと思ふらむかし」と思しやるにも、もの思ひてゐたらむさまのみ面影に見えたまふ。
 まめ人は、のどかに見たまひつつ、「あはれ、いかに眺むらむ」と思ひやりて、いと恋し。
 「つれづれと身を知る雨の小止まねば
  袖さへいとどみかさまさりて」
 とあるを、うちも置かず見たまふ。

 女宮に物語など聞こえたまひてのついでに、
 「なめしともや思さむと、つつましながら、さすがに年経ぬる人のはべるを、あやしき所に捨て置きて、いみじくもの思ふなるが心苦しさに、近う呼び寄せて、と思ひはべる。昔より異やうなる心ばへはべりし身にて、世の中を、すべて例の人ならで過ぐしてむと思ひはべりしを、かく見たてまつるにつけて、ひたぶるにも捨てがたければ、ありと人にも知らせざりし人の上さへ、心苦しう、罪得ぬべき心地してなむ」
 と、聞こえたまへば、
 「いかなることに心置くものとも知らぬを」
 と、いらへたまふ。
 「内裏になど、悪しざまに聞こし召さする人やはべらむ。世の人のもの言ひぞ、いとあぢきなくけしからずはべるや。されど、それは、さばかりの数にだにはべるまじ」
 など聞こえたまふ。
 「造りたる所に渡してむ」と思し立つに、「かかる料なりけり」など、はなやかに言ひなす人やあらむなど、苦しければ、いと忍びて、障子張らすべきことなど、人しもこそあれ、この内記が知る人の親、大蔵大輔なるものに、睦ましく心やすきままに、のたまひつけたりければ、聞きつぎて、宮には隠れなく聞こえけり。
 「絵師どもなども、御随身どもの中にある、睦ましき殿人などを選りて、さすがにわざとなむせさせたまふ」
 と申すに、いとど思し騷ぎて、わが御乳母の、遠き受領の妻にて下る家、下つ方にあるを、
 「いと忍びたる人、しばし隠いたらむ」
 と、語らひたまひければ、「いかなる人にかは」と思へど、大事と思したるに、かたじけなければ、「さらば」と聞こえけり。これをまうけたまひて、すこし御心のどめたまふ。この月の晦日方に、下るべければ、「やがてその日渡さむ」と思し構ふ。
 「かくなむ思ふ。ゆめゆめ」
 と言ひやりたまひつつ、おはしまさむことは、いとわりなくあるうちにも、ここにも、乳母のいとさかしければ、難かるべきよしを聞こゆ。

 大将殿は、卯月の十日となむ定めたまへりける。「誘ふ水あらば」とは思はず、いとあやしく、「いかにしなすべき身にかあらむ」と浮きたる心地のみすれば、「母の御もとにしばし渡りて、思ひめぐらすほどあらむ」と思せど、少将の妻、子産むべきほど近くなりぬとて、修法、読経など、隙なく騒げば、石山にもえ出で立つまじ、母ぞこち渡りたまへる。乳母出で来て、
 「殿より、人びとの装束なども、こまかに思しやりてなむ。いかできよげに何ごとも、と思うたまふれど、乳母が心一つには、あやしくのみぞし出ではべらむかし」
 など言ひ騒ぐが、心地よげなるを見たまふにも、君は、
 「けしからぬことどもの出で来て、人笑へならば、誰れも誰れもいかに思はむ。あやにくにのたまふ人、はた、八重立つ山に籠もるとも、かならず尋ねて、我も人もいたづらになりぬべし。なほ、心やすく隠れなむことを思へと、今日ものたまへるを、いかにせむ」
 と、心地悪しくて臥したまへり。
 「などか、かく例ならず、いたく青み痩せたまへる」
 と驚きたまふ。
 「日ごろあやしくのみなむ。はかなきものも聞こしめさず、悩ましげにせさせたまふ」
 と言へば、「あやしきことかな。もののけなどにやあらむ」と、
 「いかなる御心地ぞと思へど、石山停まりたまひにきかし」
 と言ふも、かたはらいたければ、伏目なり。


 
 暮れて月いと明かし。有明の空を思ひ出づる、「涙のいと止めがたきは、いとけしからぬ心かな」と思ふ。母君、昔物語などして、あなたの尼君呼び出でて、故姫君の御ありさま、心深くおはして、さるべきことも思し入れたりしほどに、目に見す見す消え入りたまひにしことなど語る。
 「おはしまさましかば、宮の上などのやうに、聞こえ通ひたまひて、心細かりし御ありさまどもの、いとこよなき御幸ひにぞはべらましかし」
 と言ふにも、「わが娘は異人かは。思ふやうなる宿世のおはし果てば、劣らじを」など思ひ続けて、
 「世とともに、この君につけては、ものをのみ思ひ乱れしけしきの、すこしうちゆるびて、かくて渡りたまひぬべかめれば、ここに参り来ること、かならずしもことさらには、え思ひ立ちはべらじ。かかる対面の折々に、昔のことも、心のどかに聞こえ承らまほしけれ」
 など語らふ。
 「ゆゆしき身とのみ思うたまへしみにしかば、こまやかに見えたてまつり聞こえさせむも、何かは、つつましくて過ぐしはべりつるを、うち捨てて、渡らせたまひなば、いと心細くなむはべるべけれど、かかる御住まひは、心もとなくのみ見たてまつるを、うれしくもはべるべかなるかな。世に知らず重々しくおはしますべかめる殿の御ありさまにて、かく尋ねきこえさせたまひしも、おぼろけならじと聞こえおきはべりにし、浮きたることにやは、はべりける」
 など言ふ。
 「後は知らねど、ただ今は、かく思し離れぬさまにのたまふにつけても、ただ御しるべをなむ思ひ出できこゆる。宮の上の、かたじけなくあはれに思したりしも、つつましきことなどの、おのづからはべりしかば、中空に所狭き御身なり、と思ひ嘆きはべりて」
 と言ふ。尼君うち笑ひて、
 「この宮の、いと騒がしきまで色におはしますなれば、心ばせあらむ若き人、さぶらひにくげになむ。おほかたは、いとめでたき御ありさまなれど、さる筋のことにて、上のなめしと思さむなむわりなきと、大輔が娘の語りはべりし」
 と言ふにも、「さりや、まして」と、君は聞き臥したまへり。

 「あな、むくつけや。帝の御女を持ちたてまつりたまへる人なれど、よそよそにて、悪しくも善くもあらむは、いかがはせむと、おほけなく思ひなしはべる。よからぬことをひき出でたまへらましかば、すべて身には悲しくいみじと思ひきこゆとも、また見たてまつらざらまし」
 など、言ひ交はすことどもに、いとど心肝もつぶれぬ。「なほ、わが身を失ひてばや。つひに聞きにくきことは出で来なむ」と思ひ続くるに、この水の音の恐ろしげに響きて行くを、
 「かからぬ流れもありかし。世に似ず荒ましき所に、年月を過ぐしたまふを、あはれと思しぬべきわざになむ」
 など、母君したり顔に言ひゐたり。昔よりこの川の早く恐ろしきことを言ひて、
 「先つころ渡守が孫の童、棹さし外して落ち入りはべりにける。すべていたづらになる人多かる水にはべり」
 と、人びとも言ひあへり。君は、
 「さても、わが身行方も知らずなりなば、誰れも誰れも、あへなくいみじと、しばしこそ思うたまはめ。ながらへて人笑へに憂きこともあらむは、いつかそのもの思ひの絶えむとする」
 と、思ひかくるには、障りどころもあるまじく、さはやかによろづ思ひなさるれど、うち返しいと悲し。親のよろづに思ひ言ふありさまを、寝たるやうにてつくづくと思ひ乱る。

 悩ましげにて痩せたまへるを、乳母にも言ひて、
 「さるべき御祈りなどせさせたまへ。祭祓などもすべきやう」
 など言ふ。御手洗川に禊せまほしげなるを、かくも知らでよろづに言ひ騒ぐ。
 「人少ななめり。よくさるべからむあたりを訪ねて。今参りはとどめたまへ。やむごとなき御仲らひは、正身こそ、何事もおいらかに思さめ、好からぬ仲となりぬるあたりは、わづらはしきこともありぬべし。隠し密めて、さる心したまへ」
 など、思ひいたらぬことなく言ひおきて、
 「かしこにわづらひはべる人も、おぼつかなし」
 とて帰るを、いともの思はしく、よろづ心細ければ、「またあひ見でもこそ、ともかくもなれ」と思へば、
 「心地の悪しくはべるにも、見たてまつらぬが、いとおぼつかなくおぼえはべるを、しばしも参り来まほしくこそ」
 と慕ふ。
 「さなむ思ひはべれど、かしこもいともの騒がしくはべり。この人びとも、はかなきことなどえしやるまじく、狭くなどはべればなむ。武生の国府に移ろひたまふとも、忍びては参り来なむを。なほなほしき身のほどは、かかる御ためこそ、いとほしくはべれ」
 など、うち泣きつつのたまふ。


 


 殿の御文は今日もあり。悩ましと聞こえたりしを、「いかが」と、訪らひたまへり。
 「みづからと思ひはべるを、わりなき障り多くてなむ。このほどの暮らしがたさこそ、なかなか苦しく」
 などあり。宮は、昨日の御返りもなかりしを、
 「いかに思しただよふぞ。風のなびかむ方もうしろめたくなむ。いとどほれまさりて眺めはべる」
 など、これは多く書きたまへり。
 雨降りし日、来合ひたりし御使どもぞ、今日も来たりける。殿の御随身、かの少輔が家にて時々見る男なれば、
 「真人は、何しに、ここにはたびたびは参るぞ」
 と問ふ。
 「私に訪らふべき人のもとに参うで来るなり」
 と言ふ。
 「私の人にや、艶なる文はさし取らする、けしきある真人かな。もの隠しはなぞ」
 と言ふ。
 「まことは、この守の君の、御文、女房にたてまつりたまふ」
 と言へば、言違ひつつあやしと思へど、ここにて定め言はむも異やうなべければ、おのおの参りぬ。


 かどかどしき者にて、供にある童を、
 「この男に、さりげなくて目つけよ。左衛門大夫の家にや入る」
 と見せければ、
 「宮に参りて、式部少輔になむ、御文は取らせはべりつる」
 と言ふ。さまで尋ねむものとも、劣りの下衆は思はず、ことの心をも深う知らざりければ、舎人の人に見表はされにけむぞ、口惜しきや。
 殿に参りて、今出でたまはむとするほどに、御文たてまつらす。直衣にて、六条の院、后の宮の出でさせたまへるころなれば、参りたまふなりければ、ことことしく、御前などあまたもなし。御文参らする人に、
 「あやしきことのはべりつる。見たまへ定めむとて、今までさぶらひつる」
 と言ふを、ほの聞きたまひて、歩み出でたまふままに、
 「何ごとぞ」
 と問ひたまふ。この人の聞かむもつつましと思ひて、かしこまりてをり。殿もしか見知りたまひて、出でたまひぬ。
 宮、例ならず悩ましげにおはすとて、宮たちも皆参りたまへり。上達部など多く参り集ひて、騒がしけれど、ことなることもおはしまさず。
 かの内記は、政官なれば、遅れてぞ参れる。この御文もたてまつるを、宮、台盤所におはしまして、戸口に召し寄せて取りたまふを、大将、御前の方より立ち出でたまふ、側目に見通したまひて、「せちにも思すべかめる文のけしきかな」と、をかしさに立ちとまりたまへり。
 「引き開けて見たまふ、紅の薄様に、こまやかに書きたるべし」と見ゆ。文に心入れて、とみにも向きたまはぬに、大臣も立ちて外ざまにおはすれば、この君は、障子より出でたまふとて、「大臣出でたまふ」と、うちしはぶきて、驚かいたてまつりたまふ。
 ひき隠したまへるにぞ、大臣さし覗きたまへる。驚きて御紐さしたまふ。殿つい居たまひて、
 「まかではべりぬべし。御邪気の久しくおこらせたまはざりつるを、恐ろしきわざなりや。山の座主、ただ今請じに遣はさむ」
 と、急がしげにて立ちたまひぬ。

 夜更けて、皆出でたまひぬ。大臣は、宮を先に立てたてまつりたまひて、あまたの御子どもの上達部、君たちをひき続けて、あなたに渡りたまひぬ。この殿は遅れて出でたまふ。
 随身けしきばみつる、あやしと思しければ、御前など下りて火灯すほどに、随身召し寄す。
 「申しつるは、何ごとぞ」
 と問ひたまふ。
 「今朝、かの宇治に、出雲権守時方朝臣のもとにはべる男の、紫の薄様にて、桜につけたる文を、西の妻戸に寄りて、女房に取らせはべりつる。見たまへつけて、しかしか問ひはべりつれば、言違へつつ、虚言のやうに申しはべりつるを、いかに申すぞ、とて、童べして見せはべりつれば、兵部卿宮に参りはべりて、式部少輔道定朝臣になむ、その返り事は取らせはべりける」
 と申す。君、あやしと思して、
 「その返り事は、いかやうにしてか、出だしつる」
 「それは見たまへず。異方より出だしはべりにける。下人の申しはべりつるは、赤き色紙の、いときよらなる、となむ申しはべりつる」
 と聞こゆ。思し合はするに、違ふことなし。さまで見せつらむを、かどかどしと思せど、人びと近ければ、詳しくものたまはず。

 道すがら、「なほ、いと恐ろしく、隈なくおはする宮なりや。いかなりけむついでに、さる人ありと聞きたまひけむ。いかで言ひ寄りたまひけむ。田舎びたるあたりにて、かうやうの筋の紛れは、えしもあらじ、と思ひけるこそ幼けれ。さても、知らぬあたりにこそ、さる好きごとをものたまはめ、昔より隔てなくて、あやしきまでしるべして、率てありきたてまつりし身にしも、うしろめたく思し寄るべしや」
 と思ふに、いと心づきなし。
 「対の御方の御ことを、いみじく思ひつつ、年ごろ過ぐすは、わが心の重さ、こよなかりけり。さるは、それは、今初めてさま悪しかるべきほどにもあらず。もとよりのたよりにもよれるを、ただ心のうちの隈あらむが、わがためも苦しかるべきによりこそ、思ひ憚るもをこなるわざなりけれ。
 このころかく悩ましくしたまひて、例よりも人しげき紛れに、いかではるばると書きやりたまふらむ。おはしやそめにけむ。いと遥かなる懸想の道なりや。あやしくて、おはし所尋ねられたまふ日もあり、と聞こえきかし。さやうのことに思し乱れて、そこはかとなく悩みたまふなるべし。昔を思し出づるにも、えおはせざりしほどの嘆き、いといとほしげなりきかし」
 と、つくづくと思ふに、女のいたくもの思ひたるさまなりしも、片端心得そめたまひては、よろづ思し合はするに、いと憂し。
 「ありがたきものは、人の心にもあるかな。らうたげにおほどかなりとは見えながら、色めきたる方は添ひたる人ぞかし。この宮の御具にては、いとよきあはひなり」
 と思ひも譲りつべく、退く心地したまへど、
 「やむごとなく思ひそめ始めし人ならばこそあらめ、なほさるものにて置きたらむ。今はとて見ざらむ、はた、恋しかるべし」
 と人悪ろく、いろいろ心の内に思す。

 「我、すさまじく思ひなりて、捨て置きたらば、かならず、かの宮、呼び取りたまひてむ。人のため、後のいとほしさをも、ことにたどりたまふまじ。さやうに思す人こそ、一品宮の御方に人、二、三人参らせたまひたなれ。さて、出で立ちたらむを見聞かむ、いとほしく」
 など、なほ捨てがたく、けしき見まほしくて、御文遣はす。例の随身召して、御手づから人間に召し寄せたり。
 「道定朝臣は、なほ仲信が家にや通ふ」
 「さなむはべる」と申す。
 「宇治へは、常にやこのありけむ男は遣るらむ。かすかにて居たる人なれば、道定も思ひかくらむかし」
 と、うちうめきたまひて、
 「人に見えでをまかれ。をこなり」
 とのたまふ。かしこまりて、少輔が常にこの殿の御こと案内し、かしこのこと問ひしも思ひあはすれど、もの馴れてえ申し出でず。君も、「下衆に詳しくは知らせじ」と思せば、問はせたまはず。
 かしこには、御使の例よりしげきにつけても、もの思ふことさまざまなり。ただかくぞのたまへる。
 「波越ゆるころとも知らず末の松
  待つらむとのみ思ひけるかな
 人に笑はせたまふな」
 とあるを、いとあやしと思ふに、胸ふたがりぬ。御返り事を心得顔に聞こえむもいとつつまし、ひがことにてあらむもあやしければ、御文はもとのやうにして、
 「所違へのやうに見えはべればなむ。あやしく悩ましくて、何事も」
 と書き添へてたてまつれつ。見たまひて、
 「さすがに、いたくもしたるかな。かけて見およばぬ心ばへよ」
 とほほ笑まれたまふも、憎しとは、え思し果てぬなめり。

 まほならねど、ほのめかしたまへるけしきを、かしこにはいとど思ひ添ふ。「つひにわが身は、けしからずあやしくなりぬべきなめり」と、いとど思ふところに、右近来て、
 「殿の御文は、などて返したてまつらせたまひつるぞ。ゆゆしく、忌みはべるなるものを」
 「ひがことのあるやうに見えつれば、所違へかとて」
 とのたまふ。あやしと見ければ、道にて開けて見けるなりけり。よからずの右近がさまやな。見つとは言はで、
 「あな、いとほし。苦しき御ことどもにこそはべれ。殿はもののけしき御覧じたるべし」
 と言ふに、面さと赤みて、ものものたまはず。文見つらむと思はねば、「異ざまにて、かの御けしき見る人の語りたるにこそは」と思ふに、
 「誰れか、さ言ふぞ」
 などもえ問ひたまはず。この人びとの見思ふらむことも、いみじく恥づかし。わが心もてありそめしことならねども、「心憂き宿世かな」と思ひ入りて寝たるに、侍従と二人して、
 「右近が姉の、常陸にて、人二人見はべりしを、ほどほどにつけては、ただかくぞかし。これもかれも劣らぬ心ざしにて、思ひ惑ひてはべりしほどに、女は、今の方にいますこし心寄せまさりてぞはべりける。それに妬みて、つひに今のをば殺してしぞかし。
 さて我も住みはべらずなりにき。国にも、いみじきあたら兵一人失ひつ。また、この過ちたるも、よき郎等なれど、かかる過ちしたる者を、いかでかは使はむ、とて、国の内をも追ひ払はれ、すべて女のたいだいしきぞとて、館の内にも置いたまへらざりしかば、東の人になりて、乳母も、今に恋ひ泣きはべるは、罪深くこそ見たまふれ。
 ゆゆしきついでのやうにはべれど、上も下も、かかる筋のことは、思し乱るるは、いと悪しきわざなり。御命まだにはあらずとも、人の御ほどほどにつけてはべることなり。死ぬるにまさる恥なることも、よき人の御身には、なかなかはべるなり。一方に思し定めてよ。
 宮も御心ざしまさりて、まめやかにだに聞こえさせたまはば、そなたざまにもなびかせたまひて、ものないたく嘆かせたまひそ。痩せ衰へさせたまふもいと益なし。さばかり上の思ひいたづききこえさせたまふものを、乳母がこの御いそぎに心を入れて、惑ひゐてはべるにつけても、それよりこなたに、と聞こえさせたまふ御ことこそ、いと苦しく、いとほしけれ」
 と言ふに、いま一人、
 「うたて、恐ろしきまでな聞こえさせたまひそ。何ごとも御宿世にこそあらめ。ただ御心のうちに、すこし思しなびかむ方を、さるべきに思しならせたまへ。いでや、いとかたじけなく、いみじき御けしきなりしかば、人のかく思しいそぐめりし方にも御心も寄らず。しばしは隠ろへても、御思ひのまさらせたまはむに寄らせたまひね、とぞ思ひえはべる」
 と、宮をいみじくめできこゆる心なれば、ひたみちに言ふ。

 「いさや。右近は、とてもかくても、事なく過ぐさせたまへと、初瀬、石山などに願をなむ立てはべる。この大将殿の御荘の人びとといふ者は、いみじき無道の者どもにて、一類この里に満ちてはべるなり。おほかた、この山城、大和に、殿の領じたまふ所々の人なむ、皆この内舎人といふ者のゆかりかけつつはべるなる。
 それが婿の右近大夫といふ者を元として、よろづのことをおきて仰せられたるななり。よき人の御仲どちは、情けなきことし出でよ、と思さずとも、ものの心得ぬ田舎人どもの、宿直人にて替り替りさぶらへば、おのが番に当りて、いささかなることもあらせじなど、過ちもしはべりなむ。
 ありし夜の御ありきは、いとこそむくつけく思うたまへられしか。宮は、わりなくつつませたまふとて、御供の人も率ておはしまさず、やつれてのみおはしますを、さる者の見つけたてまつりたらむは、いといみじくなむ」
 と、言ひ続くるを、君、「なほ、我を、宮に心寄せたてまつりたると思ひて、この人びとの言ふ。いと恥づかしく、心地にはいづれとも思はず。ただ夢のやうにあきれて、いみじく焦られたまふをば、などかくしも、とばかり思へど、頼みきこえて年ごろになりぬる人を、今はともて離れむと思はぬによりこそ、かくいみじとものも思ひ乱るれ。げに、よからぬことも出で来たらむ時」と、つくどくと思ひゐたり。
 「まろは、いかで死なばや。世づかず心憂かりける身かな。かく、憂きことあるためしは、下衆などの中にだに多くやはあなる」
 とて、うつぶし臥したまへば、
 「かくな思し召しそ。やすらかに思しなせ、とてこそ聞こえさせはべれ。思しぬべきことをも、さらぬ顔にのみ、のどかに見えさせたまへるを、この御事ののち、いみじく心焦られをせさせたまへば、いとあやしくなむ見たてまつる」
 と、心知りたる限りは、皆かく思ひ乱れ騒ぐに、乳母、おのが心をやりて、物染めいとなみゐたり。今参り童などのめやすきを呼び取りつつ、
 「かかる人御覧ぜよ。あやしくてのみ臥させたまへるは、もののけなどの、妨げきこえさせむとするにこそ」と嘆く。


 


 殿よりは、かのありし返り事をだにのたまはで、日ごろ経ぬ。この脅しし内舎人といふ者ぞ来たる。げに、いと荒々しく、ふつつかなるさましたる翁の、声かれ、さすがにけしきある、
 「女房に、ものとり申さむ」
 と言はせたれば、右近しも会ひたり。
 「殿に召しはべりしかば、今朝参りはべりて、ただ今なむ、まかり帰りはんべりつる。雑事ども仰せられつるついでに、かくておはしますほどに、夜中、暁のことも、なにがしらかくてさぶらふ、と思ほして、宿直人わざとさしたてまつらせたまふこともなきを、このころ聞こしめせば、
 『女房の御もとに、知らぬ所の人通ふやうになむ聞こし召すことある。たいだいしきことなり。宿直にさぶらふ者どもは、その案内聞きたらむ。知らでは、いかがさぶらふべき』
 と問はせたまひつるに、承らぬことなれば、
 『なにがしは身の病重くはべりて、宿直仕うまつることは、月ごろおこたりてはべれば、案内もえ知りはんべらず。さるべき男どもは、解怠なく催しさぶらはせはべるを、さのごとき非常のことのさぶらはむをば、いかでか承らぬやうははべらむ』
 となむ申させはべりつる。用意してさぶらへ。便なきこともあらば、重く勘当せしめたまふべきよしなむ、仰せ言はべりつれば、いかなる仰せ言にかと、恐れ申しはんべる」
 と言ふを聞くに、梟の鳴かむよりも、いともの恐ろし。いらへもやらで、
 「さりや。聞こえさせしに違はぬことどもを聞こしめせ。もののけしき御覧じたるなめり。御消息もはべらぬよ」
 と嘆く。乳母は、ほのうち聞きて、
 「いとうれしく仰せられたり。盗人多かんなるわたりに、宿直人も初めのやうにもあらず。皆、身の代はりぞと言ひつつ、あやしき下衆をのみ参らすれば、夜行をだにえせぬに」と喜ぶ。


 君は、「げに、ただ今いと悪しくなりぬべき身なめり」と思すに、宮よりは、
 「いかに、いかに」
 と、苔の乱るるわりなさをのたまふ、いとわづらはしくてなむ。
 「とてもかくても、一方一方につけて、いとうたてあることは出で来なむ。わが身一つの亡くなりなむのみこそめやすからめ。昔は、懸想する人のありさまの、いづれとなきに思ひわづらひてだにこそ、身を投ぐるためしもありけれ。ながらへば、かならず憂きこと見えぬべき身の、亡くならむは、なにか惜しかるべき。親もしばしこそ嘆き惑ひたまはめ、あまたの子ども扱ひに、おのづから忘草摘みてむ。ありながらもてそこなひ、人笑へなるさまにてさすらへむは、まさるもの思ひなるべし」
 など思ひなる。児めきおほどかに、たをたをと見ゆれど、気高う世のありさまをも知る方すくなくて、思し立てたる人にしあれば、すこしおずかるべきことを、思ひ寄るなりけむかし。
 むつかしき反故など破りて、おどろおどろしく一度にもしたためず、灯台の火に焼き、水に投げ入れさせなど、やうやう失ふ。心知らぬ御達は、「ものへ渡りたまふべければ、つれづれなる月日を経て、はかなくし集めたまへる手習などを、破りたまふなめり」と思ふ。侍従などぞ、見つくる時は、
 「など、かくはせさせたまふ。あはれなる御仲に、心とどめて書き交はしたまへる文は、人にこそ見せさせたまはざらめ、ものの底に置かせたまひて御覧ずるなむ、ほどほどにつけては、いとあはれにはべる。さばかりめでたき御紙使ひ、かたじけなき御言の葉を尽くさせたまへるを、かくのみ破らせたまふ、情けなきこと」
 と言ふ。
 「何か。むつかしく。長かるまじき身にこそあめれ。落ちとどまりて、人の御ためもいとほしからむ。さかしらにこれを取りおきけるよなど、漏り聞きたまはむこそ、恥づかしけれ」
 などのたまふ。心細きことを思ひもてゆくには、またえ思ひ立つまじきわざなりけり。親をおきて亡くなる人は、いと罪深かなるものをなど、さすがに、ほの聞きたることをも思ふ。

 二十日あまりにもなりぬ。かの家主、二十八日に下るべし。宮は、
 「その夜かならず迎へむ。下人などに、よくけしき見ゆまじき心づかひしたまへ。こなたざまよりは、ゆめにも聞こえあるまじ。疑ひたまふな」
 などのたまふ。「さて、あるまじきさまにておはしたらむに、今一度ものをもえ聞こえず、おぼつかなくて返したてまつらむことよ。また、時の間にても、いかでかここには寄せたてまつらむとする。かひなく怨みて帰りたまはむ」さまなどを思ひやるに、例の、面影離れず、堪えず悲しくて、この御文を顔におし当てて、しばしはつつめども、いといみじく泣きたまふ。
 右近、
 「あが君、かかる御けしき、つひに人見たてまつりつべし。やうやう、あやしなど思ふ人はべるべかめり。かうかかづらひ思ほさで、さるべきさまに聞こえさせたまひてよ。右近はべらば、おほけなきこともたばかり出だしはべらば、かばかり小さき御身一つは、空より率てたてまつらせたまひなむ」
 と言ふ。とばかりためらひて、
 「かくのみ言ふこそ、いと心憂けれ。さもありぬべきこと、と思ひかけばこそあらめ、あるまじきこと、と皆思ひとるに、わりなく、かくのみ頼みたるやうにのたまへば、いかなることをし出でたまはむとするにかなど、思ふにつけて、身のいと心憂きなり」
 とて、返り事も聞こえたまはずなりぬ。

 宮、「かくのみ、なほ受け引くけしきもなくて、返り事さへ絶え絶えになるは、かの人の、あるべきさまに言ひしたためて、すこし心やすかるべき方に思ひ定まりぬるなめり。ことわり」と思すものから、いと口惜しくねたく、
 「さりとも、我をばあはれと思ひたりしものを。あひ見ぬとだえに、人びとの言ひ知らする方に寄るならむかし」
 など眺めたまふに、行く方しらず、むなしき空に満ちぬる心地したまへば、例の、いみじく思し立ちておはしましぬ。
 葦垣の方を見るに、例ならず、
 「あれは、誰そ」
 と言ふ声々、いざとげなり。立ち退きて、心知りの男を入れたれば、それをさへ問ふ。前々のけはひにも似ず。わづらはしくて、
 「京よりとみの御文あるなり」
 と言ふ。右近は徒者の名を呼びて会ひたり。いとわづらはしく、いとどおぼゆ。
 「さらに、今宵は不用なり。いみじくかたじけなきこと」
 と言はせたり。宮、「など、かくもて離るらむ」と思すに、わりなくて、
 「まづ、時方入りて、侍従に会ひて、さるべきさまにたばかれ」
 とて遣はす。かどかどしき人にて、とかく言ひ構へて、訪ねて会ひたり。
 「いかなるにかあらむ。かの殿ののたまはすることありとて、宿直にある者どもの、さかしがりだちたるころにて、いとわりなきなり。御前にも、ものをのみいみじく思しためるは、かかる御ことのかたじけなきを、思し乱るるにこそ、と心苦しくなむ見たてまつる。さらに、今宵は。人けしき見はべりなば、なかなかにいと悪しかりなむ。やがて、さも御心づかひせさせたまひつべからむ夜、ここにも人知れず思ひ構へてなむ、聞こえさすべかめる」
 乳母のいざときことなども語る。大夫、
 「おはします道のおぼろけならず、あながちなる御けしきに、あへなく聞こえさせむなむ、たいだいしき。さらば、いざ、たまへ。ともに詳しく聞こえさせたまへ」といざなふ。
 「いとわりなからむ」
 と言ひしろふほどに、夜もいたく更けゆく。

 宮は、御馬にてすこし遠く立ちたまへるに、里びたる声したる犬どもの出で来てののしるも、いと恐ろしく、人少なに、いとあやしき御ありきなれば、「すずろならむものの走り出で来たらむも、いかさまに」と、さぶらふ限り心をぞ惑はしける。
 「なほ、とくとく参りなむ」
 と言ひ騒がして、この侍従を率て参る。髪脇より掻い越して、様体いとをかしき人なり。馬に乗せむとすれど、さらに聞かねば、衣の裾をとりて、立ち添ひて行く。わが沓を履かせて、みづからは、供なる人のあやしき物を履きたり。
 参りて、「かくなむ」と聞こゆれば、語らひたまふべきやうだになければ、山賤の垣根のおどろ葎の蔭に、障泥といふものを敷きて降ろしたてまつる。わが御心地にも、「あやしきありさまかな。かかる道にそこなはれて、はかばかしくは、えあるまじき身なめり」と、思し続くるに、泣きたまふこと限りなし。
 心弱き人は、ましていといみじく悲しと見たてまつる。いみじき仇を鬼につくりたりとも、おろかに見捨つまじき人の御ありさまなり。ためらひたまひて、
 「ただ一言もえ聞こえさすまじきか。いかなれば、今さらにかかるぞ。なほ、人びとの言ひなしたるやうあるべし」
 とのたまふ。ありさま詳しく聞こえて、
 「やがて、さ思し召さむ日を、かねては散るまじきさまに、たばからせたまへ。かくかたじけなきことどもを見たてまつりはべれば、身を捨てても思うたまへたばかりはべらむ」
 と聞こゆ。我も人目をいみじく思せば、一方に怨みたまはむやうもなし。
 夜はいたく更けゆくに、このもの咎めする犬の声絶えず、人びと追ひさけなどするに、弓引き鳴らし、あやしき男どもの声どもして、
 「火危ふし」
 など言ふも、いと心あわたたしければ、帰りたまふほど、言へばさらなり。
 「いづくにか身をば捨てむと白雲の
  かからぬ山も泣く泣くぞ行く
 さらば、はや」
 とて、この人を帰したまふ。御けしきなまめかしくあはれに、夜深き露にしめりたる御香の香うばしさなど、たとへむ方なし。泣く泣くぞ帰り来たる。

 右近は、言ひ切りつるよし言ひゐたるに、君は、いよいよ思ひ乱るること多くて臥したまへるに、入り来て、ありつるさま語るに、いらへもせねど、枕のやうやう浮きぬるを、かつはいかに見るらむ、とつつまし。明朝も、あやしからむまみを思へば、無期に臥したり。ものはかなげに帯などして経読む。「親に先だちなむ罪失ひたまへ」とのみ思ふ。
 ありし絵を取り出でて見て、描きたまひし手つき、顔の匂ひなどの、向かひきこえたらむやうにおぼゆれば、昨夜、一言をだに聞こえずなりにしは、なほ今ひとへまさりて、いみじと思ふ。「かの、心のどかなるさまにて見む、と行く末遠かるべきことをのたまひわたる人も、いかが思さむ」といとほし。
 憂きさまに言ひなす人もあらむこそ、思ひやり恥づかしけれど、「心浅く、けしからず人笑へならむを、聞かれたてまつらむよりは」など思ひ続けて、
 「嘆きわび身をば捨つとも亡き影に
  憂き名流さむことをこそ思へ」
 親もいと恋しく、例は、ことに思ひ出でぬ弟妹の醜やかなるも、恋し。宮の上を思ひ出できこゆるにも、すべて今一度ゆかしき人多かり。人は皆、おのおの物染めいぞぎ、何やかやと言へど、耳にも入らず、夜となれば、人に見つけられず、出でて行くべき方を思ひまうけつつ、寝られぬままに、心地も悪しく、皆違ひにたり。明けたてば、川の方を見やりつつ、羊の歩みよりもほどなき心地す。

 宮は、いみじきことどもをのたまへり。今さらに、人や見むと思へば、この御返り事をだに、思ふままにも書かず。
 「からをだに憂き世の中にとどめずは
  いづこをはかと君も恨みむ」
 とのみ書きて出だしつ。「かの殿にも、今はのけしき見せたてまつらまほしけれど、所々に書きおきて、離れぬ御仲なれば、つひに聞きあはせたまはむこと、いと憂かるべし。すべて、いかになりけむと、誰れにもおぼつかなくてやみなむ」と思ひ返す。
 京より、母の御文持て来たり。
 「寝ぬる夜の夢に、いと騒がしくて見たまひつれば、誦経所々せさせなどしはべるを、やがて、その夢の後、寝られざりつるけにや、ただ今、昼寝してはべる夢に、人の忌むといふことなむ、見えたまひつれば、驚きながらたてまつる。よく慎ませたまへ。
 人離れたる御住まひにて、時々立ち寄らせたまふ人の御ゆかりもいと恐ろしく、悩ましげにものせさせたまふ折しも、夢のかかるを、よろづになむ思うたまふる。
 参り来まほしきを、少将の方の、なほ、いと心もとなげに、もののけだちて悩みはべれば、片時も立ち去ること、といみじく言はれはべりてなむ。その近き寺にも御誦経せさせたまへ」
 とて、その料の物、文など書き添へて、持て来たり。限りと思ふ命のほどを知らで、かく言ひ続けたまへるも、いと悲しと思ふ。

 寺へ人遣りたるほど、返り事書く。言はまほしきこと多かれど、つつましくて、ただ、
 「後にまたあひ見むことを思はなむ
  この世の夢に心惑はで」
 誦経の鐘の風につけて聞こえ来るを、つくづくと聞き臥したまふ。
 「鐘の音の絶ゆる響きに音を添へて
  わが世尽きぬと君に伝へよ」
 巻数持て来たるに書きつけて、
 「今宵は、え帰るまじ」
 と言へば、物の枝に結ひつけて置きつ。乳母、
 「あやしく、心ばしりのするかな。夢も騒がし、とのたまはせたりつ。宿直人、よくさぶらへ」
 と言はするを、苦しと聞き臥したまへり。
 「物聞こし召さぬ、いとあやし。御湯漬け」
 などよろづに言ふを、「さかしがるめれど、いと醜く老いなりて、我なくは、いづくにかあらむ」と思ひやりたまふも、いとあはれなり。「世の中にえあり果つまじきさまを、ほのめかして言はむ」など思すに、まづ驚かされて先だつ涙を、つつみたまひて、ものも言はれず。右近、ほど近く臥すとて、
 「かくのみものを思ほせば、もの思ふ人の魂は、あくがるなるものなれば、夢も騒がしきならむかし。いづ方と思し定まりて、いかにもいかにも、おはしまさなむ」
 とうち嘆く。萎えたる衣を顔におしあてて、臥したまへり、となむ。



  

  

            現代語訳 補足 目次

      五十二、 蜻 蛉   
 


   
 



 かしこには、人びと、おはせぬを求め騒げど、かひなし。物語の姫君の、人に盗まれたらむ明日のやうなれば、詳しくも言ひ続けず。京より、ありし使の帰らずなりにしかば、おぼつかなしとて、また人おこせたり。
 「まだ、鶏の鳴くになむ、出だし立てさせたまへる」
 と使の言ふに、いかに聞こえむと、乳母よりはじめて、あわて惑ふこと限りなし。思ひやる方なくて、ただ騷ぎ合へるを、かの心知れるどちなむ、いみじくものを思ひたまへりしさまを思ひ出づるに、「身を投げたまへるか」とは思ひ寄りける。
 泣く泣くこの文を開けたれば、
 「いとおぼつかなさに、まどろまれはべらぬけにや、今宵は夢にだにうちとけても見えず。物に襲はれつつ、心地も例ならずうたてはべるを。なほいと恐ろしく、ものへ渡らせたまはむことは近くなれど、そのほど、ここに迎へたてまつりてむ。今日は雨降りはべりぬべければ」
 などあり。昨夜の御返りをも開けて見て、右近いみじう泣く。
 「さればよ。心細きことは聞こえたまひけり。我に、などかいささかのたまふことのなかりけむ。幼かりしほどより、つゆ心置かれたてまつることなく、塵ばかり隔てなくてならひたるに、今は限りの道にしも、我を後らかし、けしきをだに見せたまはざりけるがつらきこと」
 と思ふに、足摺りといふことをして泣くさま、若き子どものやうなり。いみじく思したる御けしきは、見たてまつりわたれど、かけても、かくなべてならずおどろおどろしきこと、思し寄らむものとは見えざりつる人の御心ざまを、「なほ、いかにしつることにか」とおぼつかなくいみじ。
 乳母は、なかなかものもおぼえで、ただ、「いかさまにせむ。いかさまにせむ」とぞ言はれける。


 宮にも、いと例ならぬけしきありし御返り、「いかに思ふならむ。我を、さすがにあひ思ひたるさまながら、あだなる心なりとのみ、深く疑ひたれば、他へ行き隠れむとにやあらむ」と思し騷ぎ、御使あり。
 ある限り泣き惑ふほどに来て、御文もえたてまつらず。
 「いかなるぞ」
 と下衆女に問へば、
 「上の、今宵、にはかに亡せたまひにければ、ものもおぼえたまはず。頼もしき人もおはしまさぬ折なれば、さぶらひたまふ人びとは、ただものに当たりてなむ惑ひたまふ」
 と言ふ。心も深く知らぬ男にて、詳しう問はで参りぬ。
 「かくなむ」と申させたるに、夢とおぼえて、
 「いとあやし。いたくわづらふとも聞かず。日ごろ、悩ましとのみありしかど、昨日の返り事はさりげもなくて、常よりもをかしげなりしものを」
 と、思しやる方なければ、
 「時方、行きてけしき見、たしかなること問ひ聞け」
 とのたまへば、
 「かの大将殿、いかなることか、聞きたまふことはべりけむ、宿直する者おろかなり、など戒め仰せらるるとて、下人のまかり出づるをも、見とがめ問ひはべるなれば、ことづくることなくて、時方まかりたらむを、ものの聞こえはべらば、思し合はすることなどやはべらむ。さて、にはかに人の亡せたまへらむ所は、論なう騒がしう、人しげくはべらむを」と聞こゆ。
 「さりとては、いとおぼつかなくてやあらむ。なほ、とかくさるべきさまに構へて、例の、心知れる侍従などに会ひて、いかなることをかく言ふぞ、と案内せよ。下衆はひがことも言ふなり」
 とのたまへば、いとほしき御けしきもかたじけなくて、夕つ方行く。

 かやすき人は、疾く行き着きぬ。雨少し降り止みたれど、わりなき道にやつれて、下衆のさまにて来たれば、人多く立ち騷ぎて、
 「今宵、やがてをさめたてまつるなり」
 など言ふを聞く心地も、あさましくおぼゆ。右近に消息したれども、え会はず、
 「ただ今、ものおぼえず。起き上がらむ心地もせでなむ。さるは、今宵ばかりこそ、かくも立ち寄りたまはめ、え聞こえぬこと」
 と言はせたり。
 「さりとて、かくおぼつかなくては、いかが帰り参りはべらむ。今一所だに」
 と切に言ひたれば、侍従ぞ会ひたりける。
 「いとあさまし。思しもあへぬさまにて亡せたまひにたれば、いみじと言ふにも飽かず、夢のやうにて、誰も誰も惑ひはべるよしを申させたまへ。すこしも心地のどめはべりてなむ、日ごろも、もの思したりつるさま、一夜、いと心苦しと思ひきこえさせたまへりしありさまなども、聞こえさせはべるべき。この穢らひなど、人の忌みはべるほど過ぐして、今一度立ち寄りたまへ」
 と言ひて、泣くこといといみじ。

 内にも泣く声々のみして、乳母なるべし、
 「あが君や、いづ方にかおはしましぬる。帰りたまへ。むなしき骸をだに見たてまつらぬが、かひなく悲しくもあるかな。明け暮れ見たてまつりても飽かずおぼえたまひ、いつしかかひある御さまを見たてまつらむと、朝夕に頼みきこえつるにこそ、命も延びはべりつれ。うち捨てたまひて、かく行方も知らせたまはぬこと。
 鬼神も、あが君をばえ領じたてまつらじ。人のいみじく惜しむ人をば、帝釈も返したまふなり。あが君を取りたてまつりたらむ、人にまれ鬼にまれ、返したてまつれ。亡き御骸をも見たてまつらむ」
 と言ひ続くるが、心得ぬことども混じるを、あやしと思ひて、
 「なほ、のたまへ。もし、人の隠しきこえたまへるか。たしかに聞こし召さむと、御身の代はりに出だし立てさせたまへる御使なり。今は、とてもかくてもかひなきことなれど、後にも聞こし召し合はすることのはべらむに、違ふこと混じらば、参りたらむ御使の罪なるべし。
 また、さりともと頼ませたまひて、『君たちに対面せよ』と仰せられつる御心ばへも、かたじけなしとは思されずや。女の道に惑ひたまふことは、人の朝廷にも、古き例どもありけれど、またかかること、この世にはあらじ、となむ見たてまつる」
 と言ふに、「げに、いとあはれなる御使にこそあれ。隠すとすとも、かくて例ならぬことのさま、おのづから聞こえなむ」と思ひて、
 「などか、いささかにても、人や隠いたてまつりたまふらむ、と思ひ寄るべきことあらむには、かくしもある限り惑ひはべらむ。日ごろ、いといみじくものを思し入るめりしかば、かの殿の、わづらはしげに、ほのめかし聞こえたまふことなどもありき。
 御母にものしたまふ人も、かくののしる乳母なども、初めより知りそめたりし方に渡りたまはむ、となむいそぎ立ちて、この御ことをば、人知れぬさまにのみ、かたじけなくあはれと思ひきこえさせたまへりしに、御心乱れけるなるべし。あさましう、心と身を亡くなしたまへるやうなれば、かく心の惑ひに、ひがひがしく言ひ続けらるるなめり」
 と、さすがに、まほならずほのめかす。心得がたくおぼえて、
 「さらば、のどかに参らむ。立ちながらはべるも、いとことそぎたるやうなり。今、御みづからもおはしましなむ」
 と言へば、
 「あな、かたじけな。今さら、人の知りきこえさせむも、亡き御ためは、なかなかめでたき御宿世見ゆべきことなれど、忍びたまひしことなれば、また漏らさせたまはで、止ませたまはむなむ、御心ざしにはべるべき」
 ここには、かく世づかず亡せたまへるよしを、人に聞かせじと、よろづに紛らはすを、「自然にことどものけしきもこそ見ゆれ」と思へば、かくそそのかしやりつ。

 雨のいみじかりつる紛れに、母君も渡りたまへり。さらに言はむ方もなく、
 「目の前に亡くなしたらむ悲しさは、いみじうとも、世の常にて、たぐひあることなり。これは、いかにしつることぞ」
 と惑ふ。かかることどもの紛れありて、いみじうもの思ひたまふらむとも知らねば、身を投げたまへらむとも思ひも寄らず、
 「鬼や食ひつらむ。狐めくものや取りもて去ぬらむ。いと昔物語のあやしきもののことのたとひにか、さやうなることも言ふなりし」
 と思ひ出づ。
 「さては、かの恐ろしと思ひきこゆるあたりに、心など悪しき御乳母やうの者や、かう迎へたまふべしと聞きて、めざましがりて、たばかりたる人もやあらむ」
 と、下衆などを疑ひ、
 「今参りの、心知らぬやある」
 と問へば、
 「いと世離れたりとて、ありならはぬ人は、ここにてはかなきこともえせず、今とく参らむ、と言ひてなむ、皆、そのいそぐべきものどもなど取り具しつつ、帰り出ではべりにし」
 とて、もとよりある人だに、片へはなくて、いと人少ななる折になむありける。

 侍従などこそ、日ごろの御けしき思ひ出で、「身を失ひてばや」など、泣き入りたまひし折々のありさま、書き置きたまへる文をも見るに、「亡き影に」と書きすさびたまへるものの、硯の下にありけるを見つけて、川の方を見やりつつ、響きののしる水の音を聞くにも、疎ましく悲しと思ひつつ、
 「さて、亡せたまひけむ人を、とかく言ひ騷ぎて、いづくにもいづくにも、いかなる方になりたまひにけむ、と思し疑はむも、いとほしきこと」
 と言ひ合はせて、
 「忍びたる事とても、御心より起こりてありしことならず。親にて、亡き後に聞きたまへりとも、いとやさしきほどならぬを、ありのままに聞こえて、かくいみじくおぼつかなきことどもをさへ、かたがた思ひ惑ひたまふさまは、すこし明らめさせたてまつらむ。亡くなりたまへる人とても、骸を置きてもて扱ふこそ、世の常なれ、世づかぬけしきにて日ごろも経ば、さらに隠れあらじ。なほ、聞こえて、今は世の聞こえをだにつくろはむ」
 と語らひて、忍びてありしさまを聞こゆるに、言ふ人も消え入り、え言ひやらず、聞く心地も惑ひつつ、「さは、このいと荒ましと思ふ川に、流れ亡せたまひにけり」と思ふに、いとど我も落ち入りぬべき心地して、
 「おはしましにけむ方を尋ねて、骸をだにはかばかしくをさめむ」
 とのたまへど、
 「さらに何のかひはべらじ。行方も知らぬ大海の原にこそおはしましにけめ。さるものから、人の言ひ伝へむことは、いと聞きにくし」
 と聞こゆれば、とざまかくざまに思ふに、胸のせきのぼる心地して、いかにもいかにもすべき方もおぼえたまはぬを、この人びと二人して、車寄せさせて、御座ども、気近う使ひたまひし御調度ども、皆ながら脱ぎ置きたまへる御衾などやうのものを取り入れて、乳母子の大徳、それが叔父の阿闍梨、その弟子の睦ましきなど、もとより知りたる老法師など、御忌に籠もるべき限りして、人の亡くなりたるけはひにまねびて、出だし立つるを、乳母、母君は、いといみじくゆゆしと臥しまろぶ。

 大夫、内舎人など、脅しきこえし者どもも参りて、
 「御葬送の事は、殿に事のよしも申させたまひて、日定められ、いかめしうこそ仕うまつらめ」
 など言ひけれど、
 「ことさら、今宵過ぐすまじ。いと忍びてと思ふやうあればなむ」
 とて、この車を、向かひの山の前なる原にやりて、人も近うも寄せず、この案内知りたる法師の限りして焼かす。いとはかなくて、煙は果てぬ。田舎人どもは、なかなか、かかることをことことしくしなし、言忌みなど深くするものなりければ、
 「いとあやしう。例の作法など、あることども知らず、下衆下衆しく、あへなくてせられぬることかな」
 と誹りければ、
 「片へおはする人は、ことさらにかくなむ、京の人はしたまふ」
 などぞ、さまざまになむやすからず言ひける。
 「かかる人どもの言ひ思ふことだに慎ましきを、まして、ものの聞こえ隠れなき世の中に、大将殿わたりに、骸もなく亡せたまひにけり、と聞かせたまはば、かならず思ほし疑ふこともあらむを、宮はた、同じ御仲らひにて、さる人のおはしおはせず、しばしこそ忍ぶとも思さめ、つひには隠れあらじ。
 また、定めて宮をしも疑ひきこえたまはじ。いかなる人か率て隠しけむなどぞ、思し寄せむかし。生きたまひての御宿世は、いと気高くおはせし人の、げに亡き影に、いみじきことをや疑はれたまはむ」
 と思へば、ここの内なる下人どもにも、今朝のあわたたしかりつる惑ひに、「けしきも見聞きつるには口かため、案内知らぬには聞かせじ」などぞたばかりける。
 「ながらへては、誰にも、静やかに、ありしさまをも聞こえてむ。ただ今は、悲しさ覚めぬべきこと、ふと人伝てに聞こし召さむは、なほいといとほしかるべきことなるべし」
 と、この人二人ぞ、深く心の鬼添ひたれば、もて隠しける。


 


 大将殿は、入道の宮の悩みたまひければ、石山に籠もりたまひて、騷ぎたまふころなりけり。さて、いとどかしこをおぼつかなう思しけれど、はかばかしう、「さなむ」と言ふ人はなかりければ、かかるいみじきことにも、まづ御使のなきを、人目も心憂しと思ふに、御荘の人なむ参りて、「しかしか」と申させければ、あさましき心地したまひて、御使、そのまたの日、まだつとめて参りたり。
 「いみじきことは、聞くままにみづからもすべきに、かく悩みたまふ御ことにより、慎みて、かかる所に日を限りて籠もりたればなむ。昨夜のことは、などか、ここに消息して、日を延べてもさることはするものを、いと軽らかなるさまにて、急ぎせられにける。とてもかくても、同じ言ふかひなさなれど、とぢめのことをしも、山賤の誹りをさへ負ふなむ、ここのためもからき」
 など、かの睦ましき大蔵大輔してのたまへり。御使の来たるにつけても、いとどいみじきに、聞こえむ方なきことどもなれば、ただ涙におぼほれたるばかりをかことにて、はかばかしうもいらへやらずなりぬ。


 殿は、なほ、いとあへなくいみじと聞きたまふにも、
 「心憂かりける所かな。鬼などや住むらむ。などて、今までさる所に据ゑたりつらむ。思はずなる筋の紛れあるやうなりしも、かく放ち置きたるに、心やすくて、人も言ひ犯したまふなりけむかし」
 と思ふにも、わがたゆく世づかぬ心のみ悔しく、御胸痛くおぼえたまふ。悩ませたまふあたりに、かかること思し乱るるもうたてあれば、京におはしぬ。
 宮の御方にも渡りたまはず、
 「ことことしきほどにもはべらねど、ゆゆしきことを近う聞きつれば、心の乱れはべるほども忌ま忌ましうて」
 など聞こえたまひて、尽きせずはかなくいみじき世を嘆きたまふ。ありしさま容貌、いと愛敬づき、をかしかりしけはひなどの、いみじく恋しく悲しければ、
 「うつつの世には、などかくしも思ひ晴れず、のどかにて過ぐしけむ。ただ今は、さらに思ひ静めむ方なきままに、悔しきことの数知らず。かかることの筋につけて、いみじうものすべき宿世なりけり。さま異に心ざしたりし身の、思ひの外に、かく例の人にてながらふるを、仏などの憎しと見たまふにや。人の心を起こさせむとて、仏のしたまふ方便は、慈悲をも隠して、かやうにこそはあなれ」
 と思ひ続けたまひつつ、行ひをのみしたまふ。

 かの宮はた、まして、二、三日はものもおぼえたまはず、うつし心もなきさまにて、「いかなる御もののけならむ」など騒ぐに、やうやう涙尽くしたまひて、思し静まるにしもぞ、ありしさまは恋しういみじく思ひ出でられたまひける。人には、ただ御病の重きさまをのみ見せて、「かくすずろなるいやめのけしき知らせじ」と、かしこくもて隠すと思しけれど、おのづからいとしるかりければ、
 「いかなることにかく思し惑ひ、御命も危ふきまで沈みたまふらむ」
 と、言ふ人もありければ、かの殿にも、いとよくこの御けしきを聞きたまふに、「さればよ。なほ、よその文通はしのみにはあらぬなりけり。見たまひては、かならずさ思しぬべかりし人ぞかし。ながらへましかば、ただなるよりぞ、わがためにをこなることも出で来なまし」と思すになむ、焦がるる胸もすこし冷むる心地したまひける。

 宮の御訪らひに、日々に参りたまはぬ人なく、世の騷ぎとなれるころ、「ことことしき際ならぬ思ひに籠もりゐて、参らざらむもひがみたるべし」と思して参りたまふ。
 そのころ、式部卿宮と聞こゆるも亡せたまひにければ、御叔父の服にて薄鈍なるも、心のうちにあはれに思ひよそへられて、つきづきしく見ゆ。すこし面痩せて、いとどなまめかしきことまさりたまへり。人びとまかり出でて、しめやかなる夕暮なり。
 宮、臥し沈みてはなき御心地なれば、疎き人にこそ会ひたまはね、御簾の内にも例入りたまふ人には、対面したまはずもあらず。見えたまはむもあいなくつつまし。見たまふにつけても、いとど涙のまづせきがたさを思せど、思ひ静めて、
 「おどろおどろしき心地にもはべらぬを、皆人、慎むべき病のさまなり、とのみものすれば、内裏にも宮にも思し騒ぐがいと苦しく、げに、世の中の常なきをも、心細く思ひはべる」
 とのたまひて、おし拭ひ紛らはしたまふと思す涙の、やがてとどこほらずふり落つれば、いとはしたなけれど、「かならずしもいかでか心得む。ただめめしく心弱きとや見ゆらむ」と思すも、「さりや。ただこのことをのみ思すなりけり。いつよりなりけむ。我をいかにをかしと、もの笑ひしたまふ心地に、月ごろ思しわたりつらむ」
 と思ふに、この君は、悲しさは忘れたまへるを、
 「こよなくも、おろかなるかな。ものの切におぼゆる時は、いとかからぬことにつけてだに、空飛ぶ鳥の鳴き渡るにも、もよほされてこそ悲しけれ。わがかくすぞろに心弱きにつけても、もし心得たらむに、さ言ふばかり、もののあはれも知らぬ人にもあらず。世の中の常なきこと惜しみて思へる人しもつれなき」
 と、うらやましくも心にくくも思さるるものから、真木柱はあはれなり。これに向かひたらむさまも思しやるに、「形見ぞかし」とも、うちまもりたまふ。

 やうやう世の物語聞こえたまふに、「いと籠めてしもはあらじ」と思して、
 「昔より、心に籠めてしばしも聞こえさせぬこと残しはべる限りは、いといぶせくのみ思ひたまへられしを、今は、なかなか上臈になりにてはべり。まして、御暇なき御ありさまにて、心のどかにおはします折もはべらねば、宿直などに、そのこととなくてはえさぶらはず、そこはかとなくて過ぐしはべるをなむ。
 昔、御覧ぜし山里に、はかなくて亡せはべりにし人の、同じゆかりなる人、おぼえぬ所にはべりと聞きつけはべりて、時々さて見つべくや、と思ひたまへしに、あいなく人の誹りもはべりぬべかりし折なりしかば、このあやしき所に置きてはべりしを、をさをさまかりて見ることもなく、また、かれも、なにがし一人をあひ頼む心もことになくてやありけむ、とは見たまひつれど、やむごとなくものものしき筋に思ひたまへばこそあらめ、見るにはた、ことなる咎もはべらずなどして、心やすくらうたしと思ひたまへつる人の、いとはかなくて亡くなりはべりにける。なべて世のありさまを思ひたまへ続けはべるに、悲しくなむ。聞こし召すやうもはべらむかし」
 とて、今ぞ泣きたまふ。
 これも、「いとかうは見えたてまつらじ。をこなり」と思ひつれど、こぼれそめてはいと止めがたし。けしきのいささか乱り顔なるを、「あやしく、いとほし」と思せど、つれなくて、
 「いとあはれなることにこそ。昨日ほのかに聞きはべりき。いかにとも聞こゆべく思ひはべりながら、わざと人に聞かせたまはぬこと、と聞きはべりしかばなむ」
 と、つれなくのたまへど、いと堪へがたければ、言少なにておはします。
 「さる方にても御覧ぜさせばや、と思ひたまへりし人になむ。おのづからさもやはべりけむ、宮にも参り通ふべきゆゑはべりしかば」
 など、すこしづつけしきばみて、
 「御心地例ならぬほどは、すぞろなる世のこと聞こし召し入れ、御耳おどろくも、あいなきことになむ。よく慎ませおはしませ」
 など、聞こえ置きて、出でたまひぬ。

 「いみじくも思したりつるかな。いとはかなかりけれど、さすがに高き人の宿世なりけり。当時の帝、后の、さばかりかしづきたてまつりたまふ親王、顔容貌よりはじめて、ただ今の世にはたぐひおはせざめり。見たまふ人とても、なのめならず、さまざまにつけて、限りなき人をおきて、これに御心を尽くし、世の人立ち騷ぎて、修法、読経、祭、祓と、道々に騒ぐは、この人を思すゆかりの、御心地のあやまりにこそはありけれ。
 我も、かばかりの身にて、時の帝の御女を持ちたてまつりながら、この人のらうたくおぼゆる方は、劣りやはしつる。まして、今はとおぼゆるには、心をのどめむ方なくもあるかな。さるは、をこなり、かからじ」
 と思ひ忍ぶれど、さまざまに思ひ乱れて、
 「人木石に非ざれば皆情けあり」
 と、うち誦じて臥したまへり。
 後のしたためなども、いとはかなくしてけるを、「宮にもいかが聞きたまふらむ」と、いとほしくあへなく、「母のなほなほしくて、兄弟あるはなど、さやうの人は言ふことあんなるを思ひて、こと削ぐなりけむかし」など、心づきなく思す。
 おぼつかなさも限りなきを、ありけむさまもみづから聞かまほしと思せど、「長籠もりしたまはむも便なし。行きと行きて立ち帰らむも心苦し」など、思しわづらふ。


 


 月たちて、「今日ぞ渡らまし」と思し出でたまふ日の夕暮、いとものあはれなり。御前近き橘の香のなつかしきに、ほととぎすの二声ばかり鳴きて渡る。「宿に通はば」と独りごちたまふも飽かねば、北の宮に、ここに渡りたまふ日なりければ、橘を折らせて聞こえたまふ。
 「忍び音や君も泣くらむかひもなき
  死出の田長に心通はば」
 宮は、女君の御さまのいとよく似たるを、あはれと思して、二所眺めたまふ折なりけり。「けしきある文かな」と見たまひて、
 「橘の薫るあたりはほととぎす
  心してこそ鳴くべかりけれ
 わづらはし」
 と書きたまふ。
 女君、このことのけしきは、皆見知りたまひてけり。「あはれにあさましきはかなさの、さまざまにつけて心深きなかに、我一人もの思ひ知らねば、今までながらふるにや。それもいつまで」と心細く思す。宮も、隠れなきものから、隔てたまふもいと心苦しければ、ありしさまなど、すこしはとり直しつつ語りきこえたまふ。
 「隠したまひしがつらかりし」
 など、泣きみ笑ひみ聞こえたまふにも、異人よりは睦ましくあはれなり。ことことしくうるはしくて、例ならぬ御ことのさまも、おどろき惑ひたまふ所にては、御訪らひの人しげく、父大臣、兄の君たち隙なきも、いとうるさきに、ここはいと心やすくて、なつかしくぞ思されける。


 いと夢のやうにのみ、なほ、「いかで、いとにはかなりけることにかは」とのみいぶせければ、例の人びと召して、右近を迎へに遣はす。母君も、さらにこの水の音けはひを聞くに、我もまろび入りぬべく、悲しく心憂きことのどまるべくもあらねば、いとわびしうて帰りたまひにけり。
 念仏の僧どもを頼もしき者にて、いとかすかなるに入り来たれば、ことことしく、にはかに立ちめぐりし宿直人どもも、見とがめず。「あやにくに、限りのたびしも入れたてまつらずなりにしよ」と、思ひ出づるもいとほし。
 「さるまじきことを思ほし焦がるること」と、見苦しく見たてまつれど、ここに来ては、おはしましし夜な夜なのありさま、抱かれたてまつりたまひて、舟に乗りたまひしけはひの、あてにうつくしかりしことなどを思ひ出づるに、心強き人なくあはれなり。右近会ひて、いみじう泣くもことわりなり。
 「かくのたまはせて、御使になむ参り来つる」
 と言へば、
 「今さらに、人もあやしと言ひ思はむも慎ましく、参りても、はかばかしく聞こし召し明らむばかり、もの聞こえさすべき心地もしはべらず。この御忌果てて、あからさまにもなむ、と人に言ひなさむも、すこし似つかはしかりぬべきほどになしてこそ、心より外の命はべらば、いささか思ひ静まらむ折になむ、仰せ言なくとも参りて、げにいと夢のやうなりしことどもも、語りきこえまほしき」
 と言ひて、今日は動くべくもあらず。

 大夫も泣きて、
 「さらに、この御仲のこと、こまかに知りきこえさせはべらず。物の心知りはべらずながら、たぐひなき御心ざしを見たてまつりはべりしかば、君たちをも、何かは急ぎてしも聞こえ承らむ。つひには仕うまつるべきあたりにこそ、と思ひたまへしを、言ふかひなく悲しき御ことの後は、私の御心ざしも、なかなか深さまさりてなむ」
 と語らふ。
 「わざと御車など思しめぐらして、奉れたまへるを、空しくては、いといとほしうなむ。今一所にても参りたまへ」
 と言へば、侍従の君呼び出でて、
 「さは、参りたまへ」
 と言へば、
 「まして何事をかは聞こえさせむ。さても、なほ、この御忌のほどにはいかでか。忌ませたまはぬか」
 と言へば、
 「悩ませたまふ御響きに、さまざまの御慎みどもはべめれど、忌みあへさせたまふまじき御けしきになむ。また、かく深き御契りにては、籠もらせたまひてもこそおはしまさめ。残りの日いくばくならず。なほ一所参りたまへ」
 と責むれば、侍従ぞ、ありし御さまもいと恋しう思ひきこゆるに、「いかならむ世にかは見たてまつらむ、かかる折に」と思ひなして参りける。

 黒き衣ども着て、引きつくろひたる容貌もいときよげなり。裳は、ただ今我より上なる人なきにうちたゆみて、色も変へざりければ、薄色なるを持たせて参る。
 「おはせましかば、この道にぞ忍びて出でたまはまし。人知れず心寄せきこえしものを」など思ふにもあはれなり。道すがら泣く泣くなむ来ける。
 宮は、この人参れり、と聞こし召すもあはれなり。女君には、あまりうたてあれば、聞こえたまはず。寝殿におはしまして、渡殿に降ろしたまへり。ありけむさまなど詳しう問はせたまふに、日ごろ思し嘆きしさま、その夜泣きたまひしさま、
 「あやしきまで言少なに、おぼおぼとのみものしたまひて、いみじと思すことをも、人にうち出でたまふことは難く、ものづつみをのみしたまひしけにや、のたまひ置くこともはべらず。夢にも、かく心強きさまに思しかくらむとは、思ひたまへずなむはべりし」
 など、詳しう聞こゆれば、ましていといみじう、「さるべきにても、ともかくもあらましよりも、いかばかりものを思ひ立ちて、さる水に溺れけむ」と思しやるに、「これを見つけて堰きとめたらましかば」と、湧きかへる心地したまへど、かひなし。
 「御文を焼き失ひたまひしなどに、などて目を立てはべらざりけむ」
 など、夜一夜語らひたまふに、聞こえ明かす。かの巻数に書きつけたまへりし、母君の返り事などを聞こゆ。

 何ばかりのものとも御覧ぜざりし人も、睦ましくあはれに思さるれば、
 「わがもとにあれかし。あなたももて離るべくやは」
 とのたまへば、
 「さて、さぶらはむにつけても、もののみ悲しからむを思ひたまへれば、今この御果てなど過ぐして」
 と聞こゆ。「またも参れ」など、この人をさへ、飽かず思す。
 暁帰るに、かの御料にとてまうけさせたまひける櫛の筥一具、衣筥一具、贈物にせさせたまふ。さまざまにせさせたまふことは多かりけれど、おどろおどろしかりぬべければ、ただこの人に仰せたるほどなりけり。
 「なに心もなく参りて、かかることどものあるを、人はいかが見む。すずろにむつかしきわざかな」
 と思ひわぶれど、いかがは聞こえ返さむ。
 右近と二人、忍びて見つつ、つれづれなるままに、こまかに今めかしうし集めたることどもを見ても、いみじう泣く。装束もいとうるはしうし集めたるものどもなれば、
 「かかる御服に、これをばいかでか隠さむ」
 など、もてわづらひける。


 


 大将殿も、なほ、いとおぼつかなきに、思し余りておはしたり。道のほどより、昔の事どもかき集めつつ、
 「いかなる契りにて、この父親王の御もとに来そめけむ。かかる思ひかけぬ果てまで思ひあつかひ、このゆかりにつけては、ものをのみ思ふよ。いと尊くおはせしあたりに、仏をしるべにて、後の世をのみ契りしに、心きたなき末の違ひめに、思ひ知らするなめり」
 とぞおぼゆる。右近召し出でて、
 「ありけむさまもはかばかしう聞かず、なほ、尽きせずあさましう、はかなければ、忌の残りもすくなくなりぬ。過ぐして、と思ひつれど、静めあへずものしつるなり。いかなる心地にてか、はかなくなりたまひにし」
 と問ひたまふに、「尼君なども、けしきは見てければ、つひに聞きあはせたまはむを、なかなか隠しても、こと違ひて聞こえむに、そこなはれぬべし。あやしきことの筋にこそ、虚言も思ひめぐらしつつならひしか。かくまめやかなる御けしきにさし向かひきこえては、かねて、と言はむ、かく言はむと、まうけし言葉をも忘れ、わづらはしう」おぼえければ、ありしさまのことどもを聞こえつ。


 あさましう、思しかけぬ筋なるに、物もとばかりのたまはず。
 「さらにあらじとおぼゆるかな。なべての人の思ひ言ふことをも、こよなく言少なに、おほどかなりし人は、いかでかさるおどろおどろしきことは思ひ立つべきぞ。いかなるさまに、この人びと、もてなして言ふにか」
 と御心も乱れまさりたまへど、「宮も思し嘆きたるけしき、いとしるし、事のありさまも、しかつれなしづくりたらむけはひは、おのづから見えぬべきを、かくおはしましたるにつけても、悲しくいみじきことを、上下の人集ひて泣き騒ぐを」と、聞きたまへば、
 「御供に具して失せたる人やある。なほ、ありけむさまをたしかに言へ。我をおろかに思ひて背きたまふことは、よもあらじとなむ思ふ。いかやうなる、たちまちに、言ひ知らぬことありてか、さるわざはしたまはむ。我なむえ信ずまじき」
 とのたまへば、「いとどしく、さればよ」とわづらはしくて、
 「おのづから聞こし召しけむ。もとより思すさまならで生ひ出でたまへりし人の、世離れたる御住まひの後は、いつとなくものをのみ思すめりしかど、たまさかにもかく渡りおはしますを、待ちきこえさせたまふに、もとよりの御身の嘆きをさへ慰めたまひつつ、心のどかなるさまにて、時々も見たてまつらせたまふべきやうには、いつしかとのみ、言に出でてはのたまはねど、思しわたるめりしを、その御本意かなふべきさまに承ることどもはべりしに、かくてさぶらふ人どもも、うれしきことに思ひたまへいそぎ、かの筑波山も、からうして心ゆきたるけしきにて、渡らせたまはむことをいとなみ思ひたまへしに、心得ぬ御消息はべりけるに、この宿直仕うまつる者どもも、女房たちらうがはしかなり、など、戒め仰せらるることなど申して、ものの心得ず荒々しきは田舎人どもの、あやしきさまにとりなしきこゆることどもはべりしを、その後、久しう御消息などもはべらざりしに、心憂き身なりとのみ、いはけなかりしほどより思ひ知るを、人数にいかで見なさむとのみ、よろづに思ひ扱ひたまふ母君の、なかなかなることの、人笑はれになりては、いかに思ひ嘆かむ、などおもむけてなむ、常に嘆きたまひし。
 その筋よりほかに、何事をかと、思ひたまへ寄るに、堪へはべらずなむ。鬼などの隠しきこゆとも、いささか残る所もはべるなるものを」
 とて、泣くさまもいみじければ、「いかなることにか」と紛れつる御心も失せて、せきあへたまはず。

 「我は心に身をもまかせず、顕証なるさまにもてなされたるありさまなれば、おぼつかなしと思ふ折も、今近くて、人の心置くまじく、目やすきさまにもてなして、行く末長くを、と思ひのどめつつ過ぐしつるを、おろかに見なしたまひつらむこそ、なかなか分くる方ありける、とおぼゆれ。
 今は、かくだに言はじと思へど、また人の聞かばこそあらめ。宮の御ことよ。いつよりありそめけむ。さやうなるにつけてや、いとかたはに、人の心を惑はしたまふ宮なれば、常にあひ見たてまつらぬ嘆きに、身をも失ひたまへる、となむ思ふ。なほ、言へ。我には、さらにな隠しそ」
 とのたまへば、「たしかにこそは聞きたまひてけれ」と、いといとほしくて、
 「いと心憂きことを聞こし召しけるにこそははべるなれ。右近もさぶらはぬ折ははべらぬものを」
 と眺めやすらひて、
 「おのづから聞こし召しけむ。この宮の上の御方に、忍びて渡らせたまへりしを、あさましく思ひかけぬほどに、入りおはしたりしかど、いみじきことを聞こえさせはべりて、出でさせたまひにき。それに懼ぢたまひて、かのあやしくはべりし所には渡らせたまへりしなり。
 その後、音にも聞こえじ、と思してやみにしを、いかでか聞かせたまひけむ。ただ、この如月ばかりより、訪れきこえたまふべし。御文は、いとたびたびはべりしかど、御覧じ入るることもはべらざりき。いとかたじけなく、うたてあるやうになどぞ、右近など聞こえさせしかば、一度二度や聞こえさせたまひけむ。それより他のことは見たまへず」
 と聞こえさす。
 「かうぞ言はむかし。しひて問はむもいとほしく」て、つくづくとうち眺めつつ、
 「宮をめづらしくあはれと思ひきこえても、わが方をさすがにおろかに思はざりけるほどに、いと明らむるところなく、はかなげなりし心にて、この水の近きをたよりにて、思ひ寄るなりけむかし。わがここにさし放ち据ゑざらましかば、いみじく憂き世に経とも、いかでか、かならず深き谷をも求め出でまし」
 と、「いみじう憂き水の契りかな」と、この川の疎ましう思さるること、いと深し。年ごろ、あはれと思ひそめたりし方にて、荒き山路を行き帰りしも、今は、また心憂くて、この里の名をだにえ聞くまじき心地したまふ。

 「宮の上の、のたまひ始めし、人形とつけそめたりしさへゆゆしう、ただ、わが過ちに失ひつる人なり」と思ひもてゆくには、「母のなほ軽びたるほどにて、後の後見もいとあやしく、ことそぎてしなしけるなめり」と心ゆかず思ひつるを、詳しう聞きたまふになむ、
 「いかに思ふらむ。さばかりの人の子にては、いとめでたかりし人を、忍びたることはかならずしもえ知らで、わがゆかりにいかなることのありけるならむ、とぞ思ふなるらむかし」
 など、よろづにいとほしく思す。穢らひといふことはあるまじけれど、御供の人目もあれば、昇りたまはで、御車の榻を召して、妻戸の前にぞゐたまひけるも、見苦しければ、いと茂き木の下に、苔を御座にて、とばかり居たまへり。「今はここを来て見むことも心憂かるべし」とのみ、見めぐらしたまひて、
 「我もまた憂き古里を荒れはてば
  誰れ宿り木の蔭をしのばむ」
 阿闍梨、今は律師なりけり。召して、この法事のことおきてさせたまふ。念仏僧の数添へなどせさせたまふ。「罪いと深かなるわざ」と思せば、軽むべきことをぞすべき、七日七日に経仏供養ずべきよしなど、こまかにのたまひて、いと暗うなりぬるに帰りたまふも、「あらましかば、今宵帰らましやは」とのみなむ。
 尼君に消息せさせたまへれど、
 「いともいともゆゆしき身をのみ思ひたまへ沈みて、いとどものも思ひたまへられず、ほれはべりてなむ、うつぶし臥してはべる」
 と聞こえて、出で来ねば、しひても立ち寄りたまはず。
 道すがら、とく迎へ取りたまはずなりにけること悔しう、水の音の聞こゆる限りは、心のみ騷ぎたまひて、「骸をだに尋ねず、あさましくてもやみぬるかな。いかなるさまにて、いづれの底のうつせに混じりけむ」など、やる方なく思す。

 かの母君は、京に子産むべき娘のことにより、慎み騒げば、例の家にもえ行かず、すずろなる旅居のみして、思ひ慰む折もなきに、「また、これもいかならむ」と思へど、平らかに産みてけり。ゆゆしければ、え寄らず、残りの人びとの上もおぼえず、ほれ惑ひて過ぐすに、大将殿より御使忍びてあり。ものおぼえぬ心地にも、いとうれしくあはれなり。
 「あさましきことは、まづ聞こえむと思ひたまへしを、心ものどまらず、目もくらき心地して、まいていかなる闇にか惑はれたまふらむと、そのほどを過ぐしつるに、はかなくて日ごろも経にけることをなむ。世の常なさも、いとど思ひのどめむ方なくのみはべるを、思ひの外にもながらへば、過ぎにし名残とは、かならずさるべきことにも尋ねたまへ」
 など、こまかに書きたまひて、御使には、かの大蔵大輔をぞ賜へりける。
 「心のどかによろづを思ひつつ、年ごろにさへなりにけるほど、かならずしも心ざしあるやうには見たまはざりけむ。されど、今より後、何ごとにつけても、かならず忘れきこえじ。また、さやうにを人知れず思ひ置きたまへ。幼き人どももあなるを、朝廷に仕うまつらむにも、かならず後見思ふべくなむ」
 など、言葉にものたまへり。

 いたくしも忌むまじき穢らひなれば、「深うしも触れはべらず」など言ひなして、せめて呼び据ゑたり。御返り、泣く泣く書く。
 「いみじきことに死なれはべらぬ命を、心憂く思うたまへ嘆きはべるに、かかる仰せ言見はべるべかりけるにや、となむ。
 年ごろは、心細きありさまを見たまへながら、それは数ならぬ身のおこたりに思ひたまへなしつつ、かたじけなき御一言を、行く末長く頼みきこえはべりしに、いふかひなく見たまへ果てては、里の契りもいと心憂く悲しくなむ。
 さまざまにうれしき仰せ言に、命延びはべりて、今しばしながらへはべらば、なほ、頼みきこえはべるべきにこそ、と思ひたまふるにつけても、目の前の涙にくれて、え聞こえさせやらずなむ」
 など書きたり。御使に、なべての禄などは見苦しきほどなり。飽かぬ心地もすべければ、かの君にたてまつらむと心ざして持たりける、よき班犀の帯、太刀のをかしきなど、袋に入れて、車に乗るほど、
 「これは昔の人の御心ざしなり」
 とて、贈らせてけり。
 殿に御覧ぜさすれば、
 「いとすぞろなるわざかな」
 とのたまふ。言葉には、
 「みづから会ひはべりたうびて、いみじく泣く泣くよろづのことのたまひて、幼き者どものことまで仰せられたるが、いともかしこきに、また数ならぬほどは、なかなかいと恥づかしう、人に何ゆゑなどは知らせはべらで、あやしきさまどもをも皆参らせはべりて、さぶらはせむ、となむものしはべりつる」
 と聞こゆ。
 「げに、ことなることなきゆかり睦びにぞあるべけれど、帝にも、さばかりの人の娘たてまつらずやはある。それに、さるべきにて、時めかし思さむは、人の誹るべきことかは。ただ人、はた、あやしき女、世に古りにたるなどを持ちゐるたぐひ多かり。
 かの守の娘なりけりと、人の言ひなさむにも、わがもてなしの、それに穢るべくありそめたらばこそあらめ、一人の子をいたづらになして思ふらむ親の心に、なほこのゆかりこそおもだたしかりけれ、と思ひ知るばかり、用意はかならず見すべきこと」と思す。

 かしこには、常陸守、立ちながら来て、「折しも、かくてゐたまへることなむ」と腹立つ。年ごろ、いづくになむおはするなど、ありのままにも知らせざりければ、「はかなきさまにておはすらむ」と思ひ言ひけるを、「京になど迎へたまひて後、面目ありて、など知らせむ」と思ひけるほどに、かかれば、今は隠さむもあいなくて、ありしさま泣く泣く語る。
 大将殿の御文もとり出でて見すれば、よき人かしこくして、鄙び、ものめでする人にて、おどろき臆して、うち返しうち返し、
 「いとめでたき御幸ひを捨てて亡せたまひにける人かな。おのれも殿人にて、参り仕うまつれども、近く召し使ふこともなく、いと気高く思はする殿なり。若き者どものこと仰せられたるは、頼もしきことになむ」
 など、喜ぶを見るにも、「まして、おはせましかば」と思ふに、臥しまろびて泣かる。
 守も今なむうち泣きける。さるは、おはせし世には、なかなか、かかるたぐひの人しも、尋ねたまふべきにしもあらずかし。「わが過ちにて失ひつるもいとほし。慰めむ」と思すよりなむ、「人の誹り、ねむごろに尋ねじ」と思しける。

 四十九日のわざなどせさせたまふにも、「いかなりけむことにかは」と思せば、とてもかくても罪得まじきことなれば、いと忍びて、かの律師の寺にてせさせたまひける。六十僧の布施など、大きにおきてられたり。母君も来ゐて、事ども添へたり。
 宮よりは、右近がもとに、白銀の壷に黄金入れて賜へり。人見とがむばかり大きなるわざは、えしたまはず、右近が心ざしにてしたりければ、心知らぬ人は、「いかで、かくなむ」など言ひける。殿の人ども、睦ましき限りあまた賜へり。
 「あやしく。音もせざりつる人の果てを、かく扱はせたまふ。誰れならむ」
 と、今おどろく人のみ多かるに、常陸守来て、主人がり居るなむ、あやしと人びと見ける。少将の子産ませて、いかめしきことせさせむとまどひ、家の内になきものはすくなく、唐土新羅の飾りをもしつべきに、限りあれば、いとあやしかりけり。この御法事の、忍びたるやうに思したれど、けはひこよなきを見るに、「生きたらましかば、わが身を並ぶべくもあらぬ人の御宿世なりけり」と思ふ。
 宮の上も誦経したまひ、七僧の前のことせさせたまひけり。今なむ、「かかる人持たまへりけり」と、帝までも聞こし召して、おろかにもあらざりける人を、宮にかしこまりきこえて、隠し置きたまひたりける、いとほしと思しける。
 二人の人の御心のうち、古りず悲しく、あやにくなりし御思ひの盛りにかき絶えては、いといみじければ、あだなる御心は、慰むやなど、こころみたまふこともやうやうありけり。
 かの殿は、かくとりもちて、何やかやと思して、残りの人を育ませたまひても、なほ、いふかひなきことを、忘れがたく思す。


 


 后の宮の、御軽服のほどは、なほかくておはしますに、二の宮なむ式部卿になりたまひにける。重々しうて、常にしも参りたまはず。この宮は、さうざうしくものあはれなるままに、一品の宮の御方を慰め所にしたまふ。よき人の容貌をも、えまほに見たまはぬ、残り多かり。
 大将殿の、からうして、いと忍びて語らはせたまふ小宰相の君といふ人の、容貌などもきよげなり、心ばせある方の人と思されたり。同じ琴を掻きならす、爪音、撥音も、人にはまさり、文を書き、ものうち言ひたるも、よしあるふしをなむ添へたりける。
 この宮も、年ごろ、いといたきものにしたまひて、例の、言ひ破りたまへど、「などか、さしもめづらしげなくはあらむ」と、心強くねたきさまなるを、まめ人は、「すこし人よりことなり」と思すになむありける。かくもの思したるも見知りければ、忍びあまりて聞こえたり。
 「あはれ知る心は人におくれねど
  数ならぬ身に消えつつぞ経る
 代へたらば」
 と、ゆゑある紙に書きたり。ものあはれなる夕暮、しめやかなるほどを、いとよく推し量りて言ひたるも、憎からず。
 「常なしとここら世を見る憂き身だに
  人の知るまで嘆きやはする
 このよろこび、あはれなりし折からも、いとどなむ」
 など言ひに立ち寄りたまへり。いと恥づかしげにものものしげにて、なべてかやうになどもならしたまはぬ、人柄もやむごとなきに、いとものはかなき住まひなりかし。局などいひて、狭くほどなき遣戸口に寄りゐたまへる、かたはらいたくおぼゆれど、さすがにあまり卑下してもあらで、いとよきほどにものなども聞こゆ。
 「見し人よりも、これは心にくきけ添ひてもあるかな。などて、かく出で立ちけむ。さるものにて、我も置いたらましものを」
 と思す。人知れぬ筋は、かけても見せたまはず。


 蓮の花の盛りに、御八講せらる。六条の院の御ため、紫の上など、皆思し分けつつ、御経仏など供養ぜさせたまひて、いかめしく、尊くなむありける。五巻の日などは、いみじき見物なりければ、こなたかなた、女房につきて参りて、物見る人多かりけり。
 五日といふ朝座に果てて、御堂の飾り取りさけ、御しつらひ改むるに、北の廂も、障子ども放ちたりしかば、皆入り立ちてつくろふほど、西の渡殿に姫宮おはしましけり。もの聞き極じて、女房もおのおの局にありつつ、御前はいと人少ななる夕暮に、大将殿、直衣着替へて、今日まかづる僧の中に、かならずのたまふべきことあるにより、釣殿の方におはしたるに、皆まかでぬれば、池の方に涼みたまひて、人少ななるに、かくいふ宰相の君など、かりそめに几帳などばかり立てて、うちやすむ上局にしたり。
 「ここにやあらむ、人の衣の音す」と思して、馬道の方の障子の細く開きたるより、やをら見たまへば、例さやうの人のゐたるけはひには似ず、晴れ晴れしくしつらひたれば、なかなか、几帳どもの立て違へたるあはひより見通されて、あらはなり。
 氷をものの蓋に置きて割るとて、もて騒ぐ人びと、大人三人ばかり、童と居たり。唐衣も汗衫も着ず、皆うちとけたれば、御前とは見たまはぬに、白き薄物の御衣着替へたまへる人の、手に氷を持ちながら、かく争ふを、すこし笑みたまへる御顔、言はむ方なくうつくしげなり。
 いと暑さの堪へがたき日なれば、こちたき御髪の、苦しう思さるるにやあらむ、すこしこなたに靡かして引かれたるほど、たとへむものなし。「ここらよき人を見集むれど、似るべくもあらざりけり」とおぼゆ。御前なる人は、まことに土などの心地ぞするを、思ひ静めて見れば、黄なる生絹の単衣、薄色なる裳着たる人の、扇うち使ひたるなど、「用意あらむはや」と、ふと見えて、
 「なかなか、もの扱ひに、いと苦しげなり。ただ、さながら見たまへかし」
 とて、笑ひたるまみ、愛敬づきたり。声聞くにぞ、この心ざしの人とは知りぬる。

 心強く割りて、手ごとに持たり。頭にうち置き、胸にさし当てなど、さま悪しうする人もあるべし。異人は、紙につつみて、御前にもかくて参らせたれど、いとうつくしき御手をさしやりたまひて、拭はせたまふ。
 「いな、持たらじ。雫むつかし」
 とのたまふ御声、いとほのかに聞くも、限りもなくうれし。「まだいと小さくおはしまししほどに、我も、ものの心も知らで見たてまつりし時、めでたの稚児の御さまや、と見たてまつりし。その後、たえてこの御けはひをだに聞かざりつるものを、いかなる神仏の、かかる折見せたまへるならむ。例の、やすからずもの思はせむとするにやあらむ」
 と、かつは静心なくて、まもり立ちたるほどに、こなたの対の北面に住みける下臈女房の、この障子は、とみのことにて、開けながら下りにけるを思ひ出でて、「人もこそ見つけて騒がるれ」と思ひければ、惑ひ入る。
 この直衣姿を見つくるに、「誰ならむ」と心騷ぎて、おのがさま見えむことも知らず、簀子よりただ来に来れば、ふと立ち去りて、「誰れとも見えじ。好き好きしきやうなり」と思ひて隠れたまひぬ。
 この御許は、
 「いみじきわざかな。御几帳をさへあらはに引きなしてけるよ。右の大殿の君たちならむ。疎き人、はた、ここまで来べきにもあらず。ものの聞こえあらば、誰れか障子は開けたりしと、かならず出で来なむ。単衣も袴も、生絹なめりと見えつる人の御姿なれば、え人も聞きつけたまはぬならむかし」
 と思ひ極じてをり。
 かの人は、「やうやう聖になりし心を、ひとふし違へそめて、さまざまなるもの思ふ人ともなるかな。そのかみ世を背きなましかば、今は深き山に住み果てて、かく心乱れましや」など思し続くるも、やすからず。「などて、年ごろ、見たてまつらばやと思ひつらむ。なかなか苦しう、かひなかるべきわざにこそ」と思ふ。

 つとめて、起きたまへる女宮の御容貌、「いとをかしげなめるは、これよりかならずまさるべきことかは」と見えながら、「さらに似たまはずこそありけれ。あさましきまであてに、えも言はざりし御さまかな。かたへは思ひなしか、折からか」と思して、
 「いと暑しや。これより薄き御衣奉れ。女は、例ならぬ物着たるこそ、時々につけてをかしけれ」とて、「あなたに参りて、大弐に、薄物の単衣の御衣、縫ひて参れと言へ」
 とのたまふ。御前なる人は、「この御容貌のいみじき盛りにおはしますを、もてはやしきこえたまふ」とをかしう思へり。
 例の、念誦したまふわが御方におはしましなどして、昼つ方渡りたまへれば、のたまひつる御衣、御几帳にうち掛けたり。
 「なぞ、こは奉らぬ。人多く見る時なむ、透きたる物着るは、ばうぞくにおぼゆる。ただ今はあへはべりなむ」
 とて、手づから着せ奉りたまふ。御袴も昨日の同じ紅なり。御髪の多さ、裾などは劣りたまはねど、なほさまざまなるにや、似るべくもあらず。氷召して、人びとに割らせたまふ。取りて一つ奉りなどしたまふ、心のうちもをかし。
 「絵に描きて、恋しき人見る人は、なくやはありける。ましてこれは、慰めむに似げなからぬ御ほどぞかしと思へど、昨日かやうにて、我混じりゐ、心にまかせて見たてまつらましかば」とおぼゆるに、心にもあらずうち嘆かれぬ。
 「一品の宮に、御文は奉りたまふや」
 と聞こえたまへば、
 「内裏にありし時、主上の、さのたまひしかば聞こえしかど、久しうさもあらず」
 とのたまふ。
 「ただ人にならせたまひにたりとて、かれよりも聞こえさせたまはぬにこそは、心憂かなれ。今、大宮の御前にて、恨みきこえさせたまふ、と啓せむ」
 とのたまふ。
 「いかが恨みきこえむ。うたて」
 とのたまへば、
 「下衆になりにたりとて、思し落とすなめり、と見れば、おどろかしきこえぬ、とこそは聞こえめ」
 とのたまふ。

 その日は暮らして、またの朝に大宮に参りたまふ。例の、宮もおはしけり。丁子に深く染めたる薄物の単衣を、こまやかなる直衣に着たまへる、いとこのましげなる女の御身なりのめでたかりしにも劣らず、白くきよらにて、なほありしよりは面痩せたまへる、いと見るかひあり。
 おぼえたまへりと見るにも、まづ恋しきを、いとあるまじきこと、と静むるぞ、ただなりしよりは苦しき。絵をいと多く持たせて参りたまへりける、女房して、あなたに参らせたまひて、渡らせたまひぬ。
 大将も近く参り寄りたまひて、御八講の尊くはべりしこと、いにしへの御こと、すこし聞こえつつ、残りたる絵見たまふついでに、
 「この里にものしたまふ皇女の、雲の上離れて、思ひ屈したまへるこそ、いとほしう見たまふれ。姫宮の御方より、御消息もはべらぬを、かく品定まりたまへるに、思し捨てさせたまへるやうに思ひて、心ゆかぬけしきのみはべるを、かやうのもの、時々ものせさせたまはなむ。なにがしがおろして持てまからむ。はた、見るかひもはべらじかし」
 とのたまへば、
 「あやしく。などてか捨てきこえたまはむ。内裏にては、近かりしにつきて、時々も聞こえたまふめりしを、所々になりたまひし折に、とだえたまへるにこそあらめ。今、そそのかしきこえむ。それよりもなどかは」
 と聞こえたまふ。
 「かれよりは、いかでかは。もとより数まへさせたまはざらむをも、かく親しくてさぶらふべきゆかりに寄せて、思し召し数まへさせたまはむをこそ、うれしくははべるべけれ。まして、さも聞こえ馴れたまひにけむを、今捨てさせたまはむは、からきことにはべり」
 と啓せさせたまふを、「好きばみたるけしきあるか」とは思しかけざりけり。
 立ち出でて、「一夜の心ざしの人に会はむ。ありし渡殿も慰めに見むかし」と思して、御前を歩み渡りて、西ざまにおはするを、御簾の内の人は心ことに用意す。げに、いと様よく限りなきもてなしにて、渡殿の方は、左の大殿の君たちなど居て、物言ふけはひすれば、妻戸の前に居たまひて、
 「おほかたには参りながら、この御方の見参に入ることの、難くはべれば、いとおぼえなく、翁び果てにたる心地しはべるを、今よりは、と思ひ起こしはべりてなむ。ありつかず、若き人どもぞ思ふらむかし」
 と、甥の君たちの方を見やりたまふ。
 「今よりならはせたまふこそ、げに若くならせたまふならめ」
 など、はかなきことを言ふ人びとのけはひも、あやしうみやびかに、をかしき御方のありさまにぞある。そのこととなけれど、世の中の物語などしつつ、しめやかに、例よりは居たまへり。

 姫宮は、あなたに渡らせたまひにけり。大宮、
 「大将のそなたに参りつるは」
 と問ひたまふ。御供に参りたる大納言の君、
 「小宰相の君に、もののたまはむとにこそは、はべめりつれ」
 と聞こゆるに、
 「例、まめ人の、さすがに人に心とどめて物語するこそ、心地おくれたらむ人は苦しけれ。心のほども見ゆらむかし。小宰相などは、いとうしろやすし」
 とのたまひて、御姉弟なれど、この君をば、なほ恥づかしく、「人も用意なくて見えざらむかし」と思いたり。
 「人よりは心寄せたまひて、局などに立ち寄りたまふべし。物語こまやかにしたまひて、夜更けて出でたまふ折々もはべれど、例の目馴れたる筋にははべらぬにや。宮をこそ、いと情けなくおはしますと思ひて、御いらへをだに聞こえずはべるめれ。かたじけなきこと」
 と言ひて笑へば、宮も笑はせたまひて、
 「いと見苦しき御さまを、思ひ知るこそをかしけれ。いかで、かかる御癖やめたてまつらむ。恥づかしや、この人びとも」
 とのたまふ。

 「いとあやしきことをこそ聞きはべりしか。この大将の亡くなしたまひてし人は、宮の御二条の北の方の御おとうとなりけり。異腹なるべし。常陸の前の守なにがしが妻は、叔母とも母とも言ひはべるなるは、いかなるにか。その女君に、宮こそ、いと忍びておはしましけれ。
 大将殿や聞きつけたまひたりけむ。にはかに迎へたまはむとて、守り目添へなど、ことことしくしたまひけるほどに、宮も、いと忍びておはしましながら、え入らせたまはず、あやしきさまに、御馬ながら立たせたまひつつぞ、帰らせたまひける。
 女も、宮を思ひきこえさせけるにや、にはかに消え失せにけるを、身投げたるなめりとてこそ、乳母などやうの人どもは、泣き惑ひはべりけれ」
 と聞こゆ。宮も、「いとあさまし」と思して、
 「誰れか、さることは言ふとよ。いとほしく心憂きことかな。さばかりめづらかならむことは、おのづから聞こえありぬべきを。大将もさやうには言はで、世の中のはかなくいみじきこと、かく宇治の宮の族の、命短かりけることをこそ、いみじう悲しと思ひてのたまひしか」
 とのたまふ。
 「いさや、下衆は、たしかならぬことをも言ひはべるものを、と思ひはべれど、かしこにはべりける下童の、ただこのころ、宰相が里に出でまうできて、たしかなるやうにこそ言ひはべりけれ。かくあやしうて亡せたまへること、人に聞かせじ。おどろおどろしく、おぞきやうなりとて、いみじく隠しけることどもとて。さて、詳しくは聞かせたてまつらぬにやありけむ」
 と聞こゆれば、
 「さらに、かかること、またまねぶな、と言はせよ。かかる筋に、御身をももてそこなひ、人に軽く心づきなきものに思はれぬべきなめり」
 といみじう思いたり。


 


 その後、姫宮の御方より、二の宮に御消息ありけり。御手などの、いみじううつくしげなるを見るにも、いとうれしく、「かくてこそ、とく見るべかりけれ」と思す。
 あまたをかしき絵ども多く、大宮もたてまつらせたまへり。大将殿、うちまさりてをかしきども集めて、参らせたまふ。芹川の大将の遠君の、女一の宮思ひかけたる秋の夕暮に、思ひわびて出でて行きたる画、をかしう描きたるを、いとよく思ひ寄せらるかし。「かばかり思し靡く人のあらましかば」と思ふ身ぞ口惜しき。
 「荻の葉に露吹き結ぶ秋風も
  夕べぞわきて身にはしみける」
 と書きても添へまほしく思せど、
 「さやうなるつゆばかりのけしきにても漏りたらば、いとわづらはしげなる世なれば、はかなきことも、えほのめかし出づまじ。かくよろづに何やかやと、ものを思ひの果ては、昔の人のものしたまはましかば、いかにもいかにも他ざまに心分けましや。
 時の帝の御女を賜ふとも、得たてまつらざらまし。また、さ思ふ人ありと聞こし召しながらは、かかることもなからましを、なほ心憂く、わが心乱りたまひける橋姫かな」
 と思ひあまりては、また宮の上にとりかかりて、恋しうもつらくも、わりなきことぞ、をこがましきまで悔しき。これに思ひわびて、さしつぎには、あさましくて亡せにし人の、いと心幼く、とどこほるところなかりける軽々しさをば思ひながら、さすがにいみじとものを、思ひ入りけむほど、わがけしき例ならずと、心の鬼に嘆き沈みてゐたりけむありさまを、聞きたまひしも思ひ出でられつつ、
 「重りかなる方ならで、ただ心やすくらうたき語らひ人にてあらせむ、と思ひしには、いとらうたかりし人を。思ひもていけば、宮をも思ひきこえじ。女をも憂しと思はじ。ただわがありさまの世づかぬおこたりぞ」
 など、眺め入りたまふ時々多かり。


 心のどかに、さまよくおはする人だに、かかる筋には、身も苦しきことおのづから混じるを、宮は、まして慰めかねつつ、かの形見に、飽かぬ悲しさをものたまひ出づべき人さへなきを、対の御方ばかりこそは、「あはれ」などのたまへど、深くも見馴れたまはざりける、うちつけの睦びなれば、いと深くしも、いかでかはあらむ。また、思すままに、「恋しや、いみじや」などのたまはむには、かたはらいたければ、かしこにありし侍従をぞ、例の、迎へさせたまひける。
 皆人どもは行き散りて、乳母とこの人二人なむ、取り分きて思したりしも忘れがたくて、侍従はよそ人なれど、なほ語らひてあり経るに、世づかぬ川の音も、うれしき瀬もやある、と頼みしほどこそ慰めけれ、心憂くいみじくもの恐ろしくのみおぼえて、京になむ、あやしき所に、このころ来てゐたりける、尋ねたまひて、
 「かくてさぶらへ」
 とのたまへば、「御心はさるものにて、人びとの言はむことも、さる筋のこと混じりぬるあたりは、聞きにくきこともあらむ」と思へば、うけひききこえず。「后の宮に参らむ」となむおもむけたれば、
 「いとよかなり。さて人知れず思し使はむ」
 とのたまはせけり。心細くよるべなきも慰むやとて、知るたより求め参りぬ。「きたなげなくてよろしき下臈なり」と許して、人もそしらず。大将殿も常に参りたまふを、見るたびごとに、もののみあはれなり。「いとやむごとなきものの姫君のみ、参り集ひたる宮」と人も言ふを、やうやう目とどめて見れど、「見たてまつりし人に似たるはなかりけり」と思ひありく。

 この春亡せたまひぬる式部卿宮の御女を、継母の北の方、ことにあひ思はで、兄の馬頭にて人柄もことなることなき、心懸けたるを、いとほしうなども思ひたらで、さるべきさまになむ契る、と聞こし召すたよりありて、
 「いとほしう。父宮のいみじくかしづきたまひける女君を、いたづらなるやうにもてなさむこと」
 などのたまはせければ、いと心細くのみ思ひ嘆きたまふありさまにて、
 「なつかしう、かく尋ねのたまはするを」
 など、御兄の侍従も言ひて、このころ迎へ取らせたまひてけり。姫宮の御具にて、いとこよなからぬ御ほどの人なれば、やむごとなく心ことにてさぶらひたまふ。限りあれば、宮の君などうち言ひて、裳ばかりひきかけたまふぞ、いとあはれなりける。
 兵部卿宮、「この君ばかりや、恋しき人に思ひよそへつべきさましたらむ。父親王は兄弟ぞかし」など、例の御心は、人を恋ひたまふにつけても、人ゆかしき御癖やまで、いつしかと御心かけたまひてけり。
 大将、「もどかしきまでもあるわざかな。昨日今日といふばかり、春宮にやなど思し、我にもけしきばませたまひきかし。かくはかなき世の衰へを見るには、水の底に身を沈めても、もどかしからぬわざにこそ」など思ひつつ、人よりは心寄せきこえたまへり。
 この院におはしますをば、内裏よりも広くおもしろく住みよきものにして、常にしもさぶらはぬどもも、皆うちとけ住みつつ、はるばると多かる対ども、廊、渡殿に満ちたり。
 左大臣殿、昔の御けはひにも劣らず、すべて限りもなく営み仕うまつりたまふ。いかめしうなりたる御族なれば、なかなかいにしへよりも、今めかしきことはまさりてさへなむありける。
 この宮、例の御心ならば、月ごろのほどに、いかなる好きごとどもをし出でたまはまし、こよなく静まりたまひて、人目に「すこし生ひ直りたまふかな」と見ゆるを、このころぞまた、宮の君に、本性現はれて、かかづらひありきたまひける。

 涼しくなりぬとて、宮、内裏に参らせたまひなむとすれば、
 「秋の盛り、紅葉のころを見ざらむこそ」
 など、若き人びとは口惜しがりて、皆参り集ひたるころなり。水に馴れ月をめでて、御遊び絶えず、常よりも今めかしければ、この宮ぞ、かかる筋はいとこよなくもてはやしたまふ。朝夕目馴れても、なほ今見む初花のさましたまへるに、大将の君は、いとさしも入り立ちなどしたまはぬほどにて、恥づかしう心ゆるびなきものに、皆思ひたり。
 例の、二所参りたまひて、御前におはするほどに、かの侍従は、ものより覗きたてまつるに、
 「いづ方にもいづ方にもよりて、めでたき御宿世見えたるさまにて、世にぞおはせましかし。あさましくはかなく、心憂かりける御心かな」
 など、人には、そのわたりのこと、かけて知り顔にも言はぬことなれば、心一つに飽かず胸いたく思ふ。宮は、内裏の御物語など、こまやかに聞こえさせたまへば、いま一所は立ち出でたまふ。「見つけられたてまつらじ。しばし、御果てをも過ぐさず心浅し、と見えたてまつらじ」と思へば、隠れぬ。

 東の渡殿に、開きあひたる戸口に、人びとあまたゐて、物語などする所におはして、
 「なにがしをぞ、女房は睦ましと思すべき。女だにかく心やすくはよもあらじかし。さすがにさるべからむこと、教へきこえぬべくもあり。やうやう見知りたまふべかめれば、いとなむうれしき」
 とのたまへば、いといらへにくくのみ思ふ中に、弁の御許とて、馴れたる大人、
 「そも睦ましく思ひきこゆべきゆゑなき人の、恥ぢきこえはべらぬにや。ものはさこそはなかなかはべるめれ。かならずそのゆゑ尋ねて、うちとけ御覧ぜらるるにしもはべらねど、かばかり面無くつくりそめてける身に負はざらむも、かたはらいたくてなむ」
 と聞こゆれば、
 「恥づべきゆゑあらじ、と思ひ定めたまひてけるこそ、口惜しけれ」
 など、のたまひつつ見れば、唐衣は脱ぎすべし押しやり、うちとけて手習しけるなるべし、硯の蓋に据ゑて、心もとなき花の末手折りて、弄びけり、と見ゆ。かたへは几帳のあるにすべり隠れ、あるはうち背き、押し開けたる戸の方に、紛らはしつつゐたる、頭つきどもも、をかしと見わたしたまひて、硯ひき寄せて、
 「女郎花乱るる野辺に混じるとも
  露のあだ名を我にかけめや
 心やすくは思さで」
 と、ただこの障子にうしろしたる人に見せたまへば、うちみじろきなどもせず、のどやかに、いととく、
 「花といへば名こそあだなれ女郎花
  なべての露に乱れやはする」
 と書きたる手、ただかたそばなれど、よしづきて、おほかためやすければ、誰ならむ、と見たまふ。今参う上りける道に、塞げられてとどこほりゐたるなるべし、と見ゆ。弁の御許は、
 「いとけざやかなる翁言、憎くはべり」とて、
 「旅寝してなほこころみよ女郎花
  盛りの色に移り移らず
 さて後、定めきこえさせむ」
 と言へば、
 「宿貸さば一夜は寝なむおほかたの
  花に移らぬ心なりとも」
 とあれば、
 「何か、恥づかしめさせたまふ。おほかたの野辺のさかしらをこそ聞こえさすれ」
 と言ふ。はかなきことをただすこしのたまふも、人は残り聞かまほしくのみ思ひきこえたり。
 「心なし。道開けはべりなむよ。分きても、かの御もの恥ぢのゆゑ、かならずありぬべき折にぞあめる」
 とて、立ち出でたまへば、「おしなべてかく残りなからむ、と思ひやりたまふこそ心憂けれ」と思へる人もあり。

 東の高欄に押しかかりて、夕影になるままに、花の紐解く御前の草むらを見わたしたまふ。もののみあはれなるに、「中に就いて腸断ゆるは秋の天」といふことを、いと忍びやかに誦じつつゐたまへり。ありつる衣の音なひ、しるきけはひして、母屋の御障子より通りて、あなたに入るなり。宮の歩みおはして、
 「これよりあなたに参りつるは誰そ」
 と問ひたまへば、
 「かの御方の中将の君」
 と聞こゆなり。
 「なほ、あやしのわざや。誰れにかと、かりそめにもうち思ふ人に、やがてかくゆかしげなく聞こゆる名ざしよ」と、いとほしく、この宮には、皆目馴れてのみおぼえたてまつるべかめるも口惜し。
 「おりたちてあながちなる御もてなしに、女はさもこそ負けたてまつらめ。わが、さも口惜しう、この御ゆかりには、ねたく心憂くのみあるかな。いかで、このわたりにも、めづらしからむ人の、例の心入れて騷ぎたまはむを語らひ取りて、わが思ひしやうに、やすからずとだにも思はせたてまつらむ。まことに心ばせあらむ人は、わが方にぞ寄るべきや。されど難いものかな。人の心は」
 と思ふにつけて、対の御方の、かの御ありさまをば、ふさはしからぬものに思ひきこえて、いと便なき睦びになりゆくが、おほかたのおぼえをば、苦しと思ひながら、なほさし放ちがたきものに思し知りたるぞ、ありがたくあはれなりける。
 「さやうなる心ばせある人、ここらの中にあらむや。入りたちて深く見ねば知らぬぞかし。寝覚がちにつれづれなるを、すこしは好きもならはばや」
 など思ふに、今はなほつきなし。

 例の、西の渡殿を、ありしにならひて、わざとおはしたるもあやし。姫宮、夜はあなたに渡らせたまひければ、人びと月見るとて、この渡殿にうちとけて物語するほどなりけり。箏の琴いとなつかしう弾きすさむ爪音、をかしう聞こゆ。思ひかけぬに寄りおはして、
 「など、かくねたまし顔にかき鳴らしたまふ」
 とのたまふに、皆おどろかるべけれど、すこし上げたる簾うち下ろしなどもせず、起き上がりて、
 「似るべき兄やは、はべるべき」
 といらふる声、中将の御許とか言ひつるなりけり。
 「まろこそ、御母方の叔父なれ」
 と、はかなきことをのたまひて、
 「例の、あなたにおはしますべかめりな。何わざをか、この御里住みのほどにせさせたまふ」
 など、あぢきなく問ひたまふ。
 「いづくにても、何事をかは。ただ、かやうにてこそは過ぐさせたまふめれ」
 と言ふに、「をかしの御身のほどや、と思ふに、すずろなる嘆きの、うち忘れてしつるも、あやしと思ひ寄る人もこそ」と紛らはしに、さし出でたる和琴を、たださながら掻き鳴らしたまふ。律の調べは、あやしく折にあふと聞く声なれば、聞きにくくもあらねど、弾き果てたまはぬを、なかなかなりと、心入れたる人は、消えかへり思ふ。
 「わが母宮も劣りたまふべき人かは。后腹と聞こゆばかりの隔てこそあれ、帝々の思しかしづきたるさま、異事ならざりけるを。なほ、この御あたりは、いとことなりけるこそあやしけれ。明石の浦は心にくかりける所かな」など思ひ続くることどもに、「わが宿世は、いとやむごとなしかし。まして、並べて持ちたてまつらば」と思ふぞ、いと難きや。

 宮の君は、この西の対にぞ御方したりける。若き人びとのけはひあまたして、月めであへり。
 「いで、あはれ、これもまた同じ人ぞかし」
 と思ひ出できこえて、「親王の、昔心寄せたまひしものを」と言ひなして、そなたへおはしぬ。童の、をかしき宿直姿にて、二、三人出でて歩きなどしけり。見つけて入るさまども、かかやかし。これぞ世の常と思ふ。
 南面の隅の間に寄りて、うち声づくりたまへば、すこしおとなびたる人出で来たり。
 「人知れぬ心寄せなど聞こえさせはべれば、なかなか、皆人聞こえさせふるしつらむことを、うひうひしきさまにて、まねぶやうになりはべり。まめやかになむ、言より外を求められはべる」
 とのたまへば、君にも言ひ伝へず、さかしだちて、
 「いと思ほしかけざりし御ありさまにつけても、故宮の思ひきこえさせたまへりしことなど、思ひたまへ出でられてなむ。かくのみ、折々聞こえさせたまふなり。御後言をも、よろこびきこえたまふめる」
 と言ふ。

 「なみなみの人めきて、心地なのさまや」ともの憂ければ、
 「もとより思し捨つまじき筋よりも、今はまして、さるべきことにつけても、思ほし尋ねむなむうれしかるべき。疎々しう人伝てなどにてもてなさせたまはば、えこそ」
 とのたまふに、「げに」と、思ひ騷ぎて、君をひきゆるがすめれば、
 「松も昔のとのみ、眺めらるるにも、もとよりなどのたまふ筋は、まめやかに頼もしうこそは」
 と、人伝てともなく言ひなしたまへる声、いと若やかに愛敬づき、やさしきところ添ひたり。「ただなべてのかかる住処の人と思はば、いとをかしかるべきを、ただ今は、いかでかばかりも、人に声聞かすべきものとならひたまひけむ」と、なまうしろめたし。「容貌もいとなまめかしからむかし」と、見まほしきけはひのしたるを、「この人ぞ、また例の、かの御心乱るべきつまなめると、をかしうも、ありがたの世や」と思ひゐたまへり。
 「これこそは、限りなき人のかしづき生ほしたてたまへる姫君。また、かばかりぞ多くはあるべき。あやしかりけることは、さる聖の御あたりに、山のふところより出で来たる人びとの、かたほなるはなかりけるこそ。この、はかなしや、軽々しや、など思ひなす人も、かやうのうち見るけしきは、いみじうこそをかしかりしか」
 と、何事につけても、ただかの一つゆかりをぞ思ひ出でたまひける。あやしう、つらかりける契りどもを、つくづくと思ひ続け眺めたまふ夕暮、蜻蛉のものはかなげに飛びちがふを、
 「ありと見て手にはとられず見ればまた
  行方も知らず消えし蜻蛉
 あるか、なきかの」
 と、例の、独りごちたまふ、とかや。



  

  

            現代語訳 補足 目次

      十三、 手 習  
 


   
 



 そのころ、横川に、なにがし僧都とか言ひて、いと尊き人住みけり。八十余りの母、五十ばかりの妹ありけり。古き願ありて、初瀬に詣でたりけり。
 睦ましうやむごとなく思ふ弟子の阿闍梨を添へて、仏経供養ずること行ひけり。事ども多くして帰る道に、奈良坂と言ふ山越えけるほどより、この母の尼君、心地悪しうしければ、「かくては、いかでか残りの道をもおはし着かむ」ともて騷ぎて、宇治のわたりに知りたりける人の家ありけるに、とどめて、今日ばかり休めたてまつるに、なほいたうわづらへば、横川に消息したり。
 山籠もりの本意深く、今年は出でじと思ひけれど、「限りのさまなる親の、道の空にて亡くやならむ」と驚きて、急ぎものしたまへり。惜しむべくもあらぬ人ざまを、みづからも、弟子の中にも験あるして、加持し騒ぐを、家主人聞きて、
 「御獄精進しけるを、いたう老いたまへる人の、重く悩みたまふは、いかが」
 とうしろめたげに思ひて言ひければ、さも言ふべきことぞ、いとほしう思ひて、いと狭くむつかしうもあれば、やうやう率てたてまつるべきに、中神塞がりて、例住みたまふ方は忌むべかりければ、「故朱雀院の御領にて、宇治の院と言ひし所、このわたりならむ」と思ひ出でて、院守、僧都知りたまへりければ、「一、二日宿らむ」と言ひにやりたまへりければ、
 「初瀬になむ、昨日皆詣りにける」
 とて、いとあやしき宿守の翁を呼びて率て来たり。
 「おはしまさば、はや。いたづらなる院の寝殿にこそはべるめれ。物詣での人は、常にぞ宿りたまふ」
 と言へば、
 「いとよかなり。公所なれど、人もなく心やすきを」
 とて、見せにやりたまふ。この翁、例もかく宿る人を見ならひたりければ、おろそかなるしつらひなどして来たり。


 まづ、僧都渡りたまふ。「いといたく荒れて、恐ろしげなる所かな」と見たまふ。
 「大徳たち、経読め」
 などのたまふ。この初瀬に添ひたりし阿闍梨と同じやうなる、何事のあるにか、つきづきしきほどの下臈法師に、火ともさせて、人も寄らぬうしろの方に行きたり。森かと見ゆる木の下を、「疎ましげのわたりや」と見入れたるに、白き物の広ごりたるぞ見ゆる。
 「かれは、何ぞ」
 と、立ち止まりて、火を明くなして見れば、物の居たる姿なり。
 「狐の変化したる。憎し。見現はさむ」
 とて、一人は今すこし歩み寄る。今一人は、
 「あな、用な。よからぬ物ならむ」
 と言ひて、さやうの物退くべき印を作りつつ、さすがになほまもる。頭の髪あらば太りぬべき心地するに、この火ともしたる大徳、憚りもなく、奥なきさまにて、近く寄りてそのさまを見れば、髪は長くつやつやとして、大きなる木のいと荒々しきに寄りゐて、いみじう泣く。
 「珍しきことにもはべるかな。僧都の御坊に御覧ぜさせたてまつらばや」
 と言へば、
 「げに、妖しき事なり」
 とて、一人はまうでて、「かかることなむ」と申す。
 「狐の人に変化するとは昔より聞けど、まだ見ぬものなり」
 とて、わざと下りておはす。
 かの渡りたまはむとすることによりて、下衆ども、皆はかばかしきは、御厨子所など、あるべかしきことどもを、かかるわたりには急ぐものなりければ、ゐ静まりなどしたるに、ただ四、五人して、ここなる物を見るに、変はることもなし。
 あやしうて、時の移るまで見る。「疾く夜も明け果てなむ。人か何ぞと、見現はさむ」と、心にさるべき真言を読み、印を作りて試みるに、しるくや思ふらむ、
 「これは、人なり。さらに非常のけしからぬ物にあらず。寄りて問へ。亡くなりたる人にはあらぬにこそあめれ。もし死にたりける人を捨てたりけるが、蘇りたるか」
 と言ふ。
 「何の、さる人をか、この院の内に捨てはべらむ。たとひ、真に人なりとも、狐、木霊やうの物の、欺きて取りもて来たるにこそはべらめと、不便にもはべりけるかな。穢らひあるべき所にこそはべめれ」
 と言ひて、ありつる宿守の男を呼ぶ。山彦の答ふるも、いと恐ろし。

 妖しのさまに、額おし上げて出で来たり。
 「ここには、若き女などや住みたまふ。かかることなむある」
 とて見すれば、
 「狐の仕うまつるなり。この木のもとになむ、時々妖しきわざなむしはべる。一昨年の秋も、ここにはべる人の子の、二つばかりにはべしを、取りてまうで来たりしかども、見驚かずはべりき」
 「さて、その稚児は死にやしにし」
 と言へば、
 「生きてはべり。狐は、さこそは人を脅かせど、ことにもあらぬ奴」
 と言ふさま、いと馴れたり。かの夜深き参りものの所に、心を寄せたるなるべし。僧都、
 「さらば、さやうの物のしたるわざか。なほ、よく見よ」
 とて、このもの懼ぢせぬ法師を寄せたれば、
 「鬼か神か狐か木霊か。かばかりの天の下の験者のおはしますには、え隠れたてまつらじ。名のりたまへ。名のりたまへ」
 と、衣を取りて引けば、顔をひき入れていよいよ泣く。
 「いで、あな、さがなの木霊の鬼や。まさに隠れなむや」
 と言ひつつ、顔を見むとするに、「昔ありけむ目も鼻もなかりける女鬼にやあらむ」と、むくつけきを、頼もしういかきさまを人に見せむと思ひて、衣を引き脱がせむとすれば、うつ臥して声立つばかり泣く。
 「何にまれ、かく妖しきこと、なべて、世にあらじ」
 とて、見果てむと思ふに、
 「雨いたく降りぬべし。かくて置いたらば、死に果てはべりぬべし。垣の下にこそ出ださめ」
 と言ふ。僧都、
 「まことの人の形なり。その命絶えぬを見る見る捨てむこと、いといみじきことなり。池に泳ぐ魚、山に鳴く鹿をだに、人に捕へられて死なむとするを見て、助けざらむは、いと悲しかるべし。人の命久しかるまじきものなれど、残りの命、一、二日をも惜しまずはあるべからず。鬼にも神にも、領ぜられ、人に逐はれ、人に謀りごたれても、これ横様の死にをすべきものにこそあんめれ、仏のかならず救ひたまふべき際なり。
 なほ、試みに、しばし湯を飲ませなどして、助け試みむ。つひに、死なば、言ふ限りにあらず」
 とのたまひて、この大徳して抱き入れさせたまふを、弟子ども、
 「たいだいしきわざかな。いたうわづらひたまふ人の御あたりに、よからぬ物を取り入れて、穢らひかならず出で来なむとす」
 と、もどくもあり。また、
 「物の変化にもあれ、目に見す見す、生ける人を、かかる雨にうち失はせむは、いみじきことなれば」
 など、心々に言ふ。下衆などは、いと騒がしく、物をうたて言ひなすものなれば、人騒がしからぬ隠れの方になむ臥せたりける。

 御車寄せて降りたまふほど、いたう苦しがりたまふとて、ののしる。すこし静まりて、僧都、
 「ありつる人、いかがなりぬる」
 と問ひたまふ。
 「なよなよとしてもの言はず、息もしはべらず。何か、物にけどられにける人にこそ」
 と言ふを、妹の尼君聞きたまひて、
 「何事ぞ」
 と問ふ。
 「しかしかのことなむ、六十に余る年、珍かなるものを見たまへつる」
 とのたまふ。うち聞くままに、
 「おのが寺にて見し夢ありき。いかやうなる人ぞ。まづそのさま見む」
 と泣きてのたまふ。
 「ただこの東の遣戸になむはべる。はや御覧ぜよ」
 と言へば、急ぎ行きて見るに、人も寄りつかでぞ、捨て置きたりける。いと若ううつくしげなる女の、白き綾の衣一襲、紅の袴ぞ着たる。香はいみじう香うばしくて、あてなるけはひ限りなし。
 「ただ、わが恋ひ悲しむ娘の、帰りおはしたるなめり」
 とて、泣く泣く御達を出だして、抱き入れさす。いかなりつらむとも、ありさま見ぬ人は、恐ろしがらで抱き入れつ。生けるやうにもあらで、さすがに目をほのかに見開けたるに、
 「もののたまへや。いかなる人か、かくては、ものしたまへる」
 と言へど、ものおぼえぬさまなり。湯取りて、手づからすくひ入れなどするに、ただ弱りに絶え入るやうなりければ、
 「なかなかいみじきわざかな」とて、「この人亡くなりぬべし。加持したまへ」
 と、験者の阿闍梨に言ふ。
 「さればこそ。あやしき御もの扱ひ」
 とは言へど、神などのために経読みつつ祈る。

 僧都もさしのぞきて、
 「いかにぞ。何のしわざぞと、よく調じて問へ」
 とのたまへど、いと弱げに消えもていくやうなれば、
 「え生きはべらじ。すぞろなる穢らひに籠もりて、わづらふべきこと」
 「さすがに、いとやむごとなき人にこそはべるめれ。死に果つとも、ただにやは捨てさせたまはむ。見苦しきわざかな」
 と言ひあへり。
 「あなかま。人に聞かすな。わづらはしきこともぞある」
 など口固めつつ、尼君は、親のわづらひたまふよりも、この人を生け果てて見まほしう惜しみて、うちつけに添ひゐたり。知らぬ人なれど、みめのこよなうをかしげなれば、いたづらになさじと、見る限り扱ひ騷ぎけり。さすがに、時々、目見開けなどしつつ、涙の尽きせず流るるを、
 「あな、心憂や。いみじく悲しと思ふ人の代はりに、仏の導きたまへると思ひきこゆるを。かひなくなりたまはば、なかなかなることをや思はむ。さるべき契りにてこそ、かく見たてまつるらめ。なほ、いささかもののたまへ」
 と言ひ続くれど、からうして、
 「生き出でたりとも、あやしき不用の人なり。人に見せで、夜この川に落とし入れたまひてよ」
 と、息の下に言ふ。
 「まれまれ物のたまふをうれしと思ふに、あな、いみじや。いかなれば、かくはのたまふぞ。いかにして、さる所にはおはしつるぞ」
 と問へども、物も言はずなりぬ。「身にもし傷などやあらむ」とて見れど、ここはと見ゆるところなくうつくしければ、あさましく悲しく、「まことに、人の心惑はさむとて出で来たる仮のものにや」と疑ふ。

 二日ばかり籠もりゐて、二人の人を祈り加持する声絶えず、あやしきことを思ひ騒ぐ。そのわたりの下衆などの、僧都に仕まつりける、かくておはしますなりとて、とぶらひ出で来るも、物語などして言ふを聞けば、
 「故八の宮の御女、右大将殿の通ひたまひし、ことに悩みたまふこともなくて、にはかに隠れたまへりとて、騷ぎはべる。その御葬送の雑事ども仕うまつりはべりとて、昨日はえ参りはべらざりし」
 と言ふ。「さやうの人の魂を、鬼の取りもて来たるにや」と思ふにも、かつ見る見る、「あるものともおぼえず、危ふく恐ろし」と思す。人びと、
 「昨夜見やられし火は、しかことことしきけしきも見えざりしを」
 と言ふ。
 「ことさら事削ぎて、いかめしうもはべらざりし」
 と言ふ。穢らひたる人とて、立ちながら追ひ返しつ。
 「大将殿は、宮の御女持ちたまへりしは、亡せたまひて、年ごろになりぬるものを、誰れを言ふにかあらむ。姫宮をおきたてまつりたまひて、よに異心おはせじ」
 など言ふ。

 尼君よろしくなりたまひぬ。方も開きぬれば、「かくうたてある所に久しうおはせむも便なし」とて帰る。
 「この人は、なほいと弱げなり。道のほどもいかがものしたまはむと、心苦しきこと」
 と言ひ合へり。車二つして、老い人乗りたまへるには、仕うまつる尼二人、次のにはこの人を臥せて、かたはらにいま一人乗り添ひて、道すがら行きもやらず、車止めて湯参りなどしたまふ。
 比叡坂本に、小野といふ所にぞ住みたまひける。そこにおはし着くほど、いと遠し。
 「中宿りを設くべかりける」
 など言ひて、夜更けておはし着きぬ。
 僧都は、親を扱ひ、娘の尼君は、この知らぬ人をはぐくみて、皆抱き降ろしつつ休む。老いの病のいつともなきが、苦しと思ひたまへし遠道の名残こそ、しばしわづらひたまひけれ、やうやうよろしうなりたまひにければ、僧都は登りたまひぬ。
 「かかる人なむ率て来たる」など、法師のあたりにはよからぬことなれば、見ざりし人にはまねばず。尼君も、皆口固めさせつつ、「もし尋ね来る人もやある」と思ふも、静心なし。「いかで、さる田舎人の住むあたりに、かかる人落ちあふれけむ。物詣でなどしたりける人の、心地などわづらひけむを、継母などやうの人の、たばかりて置かせたるにや」などぞ思ひ寄りける。
 「川に流してよ」と言ひし一言より他に、ものもさらにのたまはねば、いとおぼつかなく思ひて、「いつしか人にもなしてみむ」と思ふに、つくづくとして起き上がる世もなく、いとあやしうのみものしたまへば、「つひに生くまじき人にや」と思ひながら、うち捨てむもいとほしういみじ。夢語りもし出でて、初めより祈らせし阿闍梨にも、忍びやかに芥子焼くことせさせたまふ。


 


 うちはへかく扱ふほどに、四、五月も過ぎぬ。いとわびしうかひなきことを思ひわびて、僧都の御もとに、
 「なほ下りたまへ。この人、助けたまへ。さすがに今日までもあるは、死ぬまじかりける人を、憑きしみ領じたるものの、去らぬにこそあめれ。あが仏、京に出でたまはばこそはあらめ、ここまではあへなむ」
 など、いみじきことを書き続けて、奉りたまへれば、
 「いとあやしきことかな。かくまでもありける人の命を、やがてとり捨ててましかば。さるべき契りありてこそは、我しも見つけけめ。試みに助け果てむかし。それに止まらずは、業尽きにけりと思はむ」
 とて、下りたまひけり。
 よろこび拝みて、月ごろのありさまを語る。
 「かく久しうわづらふ人は、むつかしきこと、おのづからあるべきを、いささか衰へず、いときよげに、ねぢけたるところなくのみものしたまひて、限りと見えながらも、かくて生きたるわざなりけり」
 など、おほなおほな泣く泣くのたまへば、
 「見つけしより、珍かなる人のみありさまかな。いで」
 とて、さしのぞきて見たまひて、
 「げに、いと警策なりける人の御容面かな。功徳の報いにこそ、かかる容貌にも生ひ出でたまひけめ。いかなる違ひめにて、そこなはれたまひけむ。もし、さにや、と聞き合はせらるることもなしや」
 と問ひたまふ。
 「さらに聞こゆることもなし。何か、初瀬の観音の賜へる人なり」
 とのたまへば、
 「何か。それ縁に従ひてこそ導きたまはめ。種なきことはいかでか」
 など、のたまふが、あやしがりたまひて、修法始めたり。


 「朝廷の召しにだに従はず、深く籠もりたる山を出でたまひて、すぞろにかかる人のためになむ行ひ騷ぎたまふと、ものの聞こえあらむ、いと聞きにくかるべし」と思し、弟子どもも言ひて、「人に聞かせじ」と隠す。僧都、
 「いで、あなかま。大徳たち。われ無慚の法師にて、忌むことの中に、破る戒は多からめど、女の筋につけて、まだ誹りとらず、過つことなし。六十に余りて、今さらに人のもどき負はむは、さるべきにこそはあらめ」
 とのたまへば、
 「よからぬ人の、ものを便なく言ひなしはべる時には、仏法の瑕となりはべることなり」
 と、心よからず思ひて言ふ。
 「この修法のほどにしるし見えずは」
 と、いみじきことどもを誓ひたまひて、夜一夜加持したまへる暁に、人に駆り移して、「何やうのもの、かく人を惑はしたるぞ」と、ありさまばかり言はせまほしうて、弟子の阿闍梨、とりどりに加持したまふ。月ごろ、いささかも現はれざりつるもののけ、調ぜられて、
 「おのれは、ここまで参うで来て、かく調ぜられたてまつるべき身にもあらず。昔は行ひせし法師の、いささかなる世に恨みをとどめて、漂ひありきしほどに、よき女のあまた住みたまひし所に住みつきて、かたへは失ひてしに、この人は、心と世を恨みたまひて、我いかで死なむ、と言ふことを、夜昼のたまひしにたよりを得て、いと暗き夜、独りものしたまひしを取りてしなり。されど、観音とざまかうざまにはぐくみたまひければ、この僧都に負けたてまつりぬ。今は、まかりなむ」
 とののしる。
 「かく言ふは、何ぞ」
 と問へば、憑きたる人、ものはかなきけにや、はかばかしうも言はず。

 正身の心地はさはやかに、いささかものおぼえて見回したれば、一人見し人の顔はなくて、皆、老法師、ゆがみ衰へたる者のみ多かれば、知らぬ国に来にける心地して、いと悲し。
 ありし世のこと思ひ出づれど、住みけむ所、誰れと言ひし人とだに、たしかにはかばかしうもおぼえず。ただ、
 「我は、限りとて身を投げし人ぞかし。いづくに来にたるにか」とせめて思ひ出づれば、
 「いといみじと、ものを思ひ嘆きて、皆人の寝たりしに、妻戸を放ちて出でたりしに、風は烈しう、川波も荒う聞こえしを、独りもの恐ろしかりしかば、来し方行く先もおぼえで、簀子の端に足をさし下ろしながら、行くべき方も惑はれて、帰り入らむも中空にて、心強くこの世に亡せなむと思ひ立ちしを、『をこがましうて人に見つけられむよりは、鬼も何も食ひ失へ』と言ひつつ、つくづくと居たりしを、いときよげなる男の寄り来て、『いざ、たまへ。おのがもとへ』と言ひて、抱く心地のせしを、宮と聞こえし人のしたまふ、とおぼえしほどより、心地惑ひにけるなめり。知らぬ所に据ゑ置きて、この男は消え失せぬ、と見しを、つひにかく本意のこともせずなりぬる、と思ひつつ、いみじう泣く、と思ひしほどに、その後のことは絶えて、いかにもいかにもおぼえず。
 人の言ふを聞けば、多くの日ごろも経にけり。いかに憂きさまを、知らぬ人に扱はれ見えつらむ、と恥づかしう、つひにかくて生き返りぬるか」
 と思ふも口惜しければ、いみじうおぼえて、なかなか、沈みたまひつる日ごろは、うつし心もなきさまにて、ものいささか参る事もありつるを、つゆばかりの湯をだに参らず。

 「いかなれば、かく頼もしげなくのみはおはするぞ。うちはへぬるみなどしたまへることは冷めたまひて、さはやかに見えたまへば、うれしう思ひきこゆるを」
 と、泣く泣く、たゆむ折なく添ひゐて扱ひきこえたまふ。ある人びとも、あたらしき御さま容貌を見れば、心を尽くしてぞ惜しみまもりける。心には、「なほいかで死なむ」とぞ思ひわたりたまへど、さばかりにて、生き止まりたる人の命なれば、いと執念くて、やうやう頭もたげたまへば、もの参りなどしたまふにぞ、なかなか面痩せもていく。いつしかとうれしう思ひきこゆるに、
 「尼になしたまひてよ。さてのみなむ生くやうもあるべき」
 とのたまへば、
 「いとほしげなる御さまを。いかでか、さはなしたてまつらむ」
 とて、ただ頂ばかりを削ぎ、五戒ばかりを受けさせたてまつる。心もとなけれど、もとよりおれおれしき人の心にて、えさかしく強ひてものたまはず。僧都は、
 「今は、かばかりにて、いたはり止めたてまつりたまへ」
 と言ひ置きて、登りたまひぬ。

 「夢のやうなる人を見たてまつるかな」と尼君は喜びて、せめて起こし据ゑつつ、御髪手づから削りたまふ。さばかりあさましう、ひき結ひてうちやりたりつれど、いたうも乱れず、解き果てたれば、つやつやとけうらなり。一年足らぬ九十九髪多かる所にて、目もあやに、いみじき天人の天降れるを見たらむやうに思ふも、危ふき心地すれど、
 「などか、いと心憂く、かばかりいみじく思ひきこゆるに、御心を立てては見えたまふ。いづくに誰れと聞こえし人の、さる所にはいかでおはせしぞ」
 と、せめて問ふを、いと恥づかしと思ひて、
 「あやしかりしほどに、皆忘れたるにやあらむ、ありけむさまなどもさらにおぼえはべらず。ただ、ほのかに思ひ出づることとては、ただ、いかでこの世にあらじと思ひつつ、夕暮ごとに端近くて眺めしほどに、前近く大きなる木のありし下より、人の出で来て、率て行く心地なむせし。それより他のことは、我ながら、誰れともえ思ひ出でられはべらず」
 と、いとらうたげに言ひなして、
 「世の中に、なほありけりと、いかで人に知られじ。聞きつくる人もあらば、いといみじくこそ」
 とて泣いたまふ。あまり問ふをば、苦しと思したれば、え問はず。かぐや姫を見つけたりけむ竹取の翁よりも、珍しき心地するに、「いかなるものの隙に消え失せむとすらむ」と、静心なくぞ思しける。

 この主人もあてなる人なりけり。娘の尼君は、上達部の北の方にてありけるが、その人亡くなりたまひてのち、娘ただ一人をいみじくかしづきて、よき君達を婿にして思ひ扱ひけるを、その娘の君の亡くなりにければ、心憂し、いみじ、と思ひ入りて、形をも変へ、かかる山里には住み始めたりけるなり。
 「世とともに恋ひわたる人の形見にも、思ひよそへつべからむ人をだに見出でてしがな」、つれづれも心細きままに思ひ嘆きけるを、かく、おぼえぬ人の、容貌けはひもまさりざまなるを得たれば、うつつのことともおぼえず、あやしき心地しながら、うれしと思ふ。ねびにたれど、いときよげによしありて、ありさまもあてはかなり。
 昔の山里よりは、水の音もなごやかなり。造りざま、ゆゑある所、木立おもしろく、前栽もをかしく、ゆゑを尽くしたり。秋になりゆけば、空のけしきもあはれなり。門田の稲刈るとて、所につけたるものまねびしつつ、若き女どもは、歌うたひ興じあへり。引板ひき鳴らす音もをかしく、見し東路のことなども思ひ出でられて。
 かの夕霧の御息所のおはせし山里よりは、今すこし入りて、山に片かけたる家なれば、松蔭茂く、風の音もいと心細きに、つれづれに行ひをのみしつつ、いつとなくしめやかなり。

 尼君ぞ、月など明き夜は、琴など弾きたまふ。少将の尼君などいふ人は、琵琶弾きなどしつつ遊ぶ。
 「かかるわざはしたまふや。つれづれなるに」
 など言ふ。昔も、あやしかりける身にて、心のどかに、「さやうのことすべきほどもなかりしかば、いささかをかしきさまならずも生ひ出でにけるかな」と、かくさだ過ぎにける人の、心をやるめる折々につけては、思ひ出づるを、「あさましくものはかなかりける」と、我ながら口惜しければ、手習に、
 「身を投げし涙の川の早き瀬を
  しがらみかけて誰れか止めし」
 思ひの外に心憂ければ、行く末もうしろめたく、疎ましきまで思ひやらる。
 月の明かき夜な夜な、老い人どもは艶に歌詠み、いにしへ思ひ出でつつ、さまざま物語などするに、いらふべきかたもなければ、つくづくとうち眺めて、
 「我かくて憂き世の中にめぐるとも
  誰れかは知らむ月の都に」
 今は限りと思ひしほどは、恋しき人多かりしかど、こと人びとはさしも思ひ出でられず、ただ、
 「親いかに惑ひたまひけむ。乳母、よろづに、いかで人なみなみになさむと思ひ焦られしを、いかにあへなき心地しけむ。いづくにあらむ。我、世にあるものとはいかでか知らむ」
 同じ心なる人もなかりしままに、よろづ隔つることなく語らひ見馴れたりし右近なども、折々は思ひ出でらる。

 若き人の、かかる山里に、今はと思ひ絶え籠もるは、難きわざなりければ、ただいたく年経にける尼、七、八人ぞ、常の人にてはありける。それらが娘孫やうの者ども、京に宮仕へするも、異ざまにてあるも、時々ぞ来通ひける。
 「かやうの人につけて、見しわたりに行き通ひ、おのづから、世にありけりと誰れにも誰れにも聞かれたてまつらむこと、いみじく恥づかしかるべし。いかなるさまにてさすらへけむ」
 など、思ひやり世づかずあやしかるべきを思へば、かかる人びとに、かけても見えず。ただ侍従、こもきとて、尼君のわが人にしたりける二人をのみぞ、この御方に言ひ分けたりける。みめも心ざまも、昔見し都鳥に似たるはなし。何事につけても、「世の中にあらぬ所はこれにやあらむ」とぞ、かつは思ひなされける。
 かくのみ、人に知られじと忍びたまへば、「まことにわづらはしかるべきゆゑある人にもものしたまふらむ」とて、詳しきこと、ある人びとにも知らせず。


 


 尼君の昔の婿の君、今は中将にてものしたまひける、弟の禅師の君、僧都の御もとにものしたまひける、山籠もりしたるを訪らひに、兄弟の君たち常に上りけり。
 横川に通ふ道のたよりに寄せて、中将ここにおはしたり。前駆うち追ひて、あてやかなる男の入り来るを見出だして、忍びやかにおはせし人の御さまけはひぞ、さやかに思ひ出でらるる。
 これもいと心細き住まひのつれづれなれど、住みつきたる人びとは、ものきよげにをかしうしなして、垣ほに植ゑたる撫子もおもしろく、女郎花、桔梗など咲き始めたるに、色々の狩衣姿の男どもの若きあまたして、君も同じ装束にて、南面に呼び据ゑたれば、うち眺めてゐたり。年二十七、八のほどにて、ねびととのひ、心地なからぬさまもてつけたり。
 尼君、障子口に几帳立てて、対面したまふ。まづうち泣きて、
 「年ごろの積もりには、過ぎにし方いとど気遠くのみなむはべるを、山里の光になほ待ちきこえさすることの、うち忘れず止みはべらぬを、かつはあやしく思ひたまふる」
 とのたまへば、
 「心のうちあはれに、過ぎにし方のことども、思ひたまへられぬ折なきを、あながちに住み離れ顔なる御ありさまに、おこたりつつなむ。山籠もりもうらやましう、常に出で立ちはべるを、同じくはなど、慕ひまとはさるる人びとに、妨げらるるやうにはべりてなむ。今日は、皆はぶき捨ててものしたまへる」
 とのたまふ。
 「山籠もりの御うらやみは、なかなか今様だちたる御ものまねびになむ。昔を思し忘れぬ御心ばへも、世に靡かせたまはざりけると、おろかならず思ひたまへらるる折多く」
 など言ふ。


 人びとに水飯などやうの物食はせ、君にも蓮の実などやうのもの出だしたれば、馴れにしあたりにて、さやうのこともつつみなき心地して、村雨の降り出づるに止められて、物語しめやかにしたまふ。
 「言ふかひなくなりにし人よりも、この君の御心ばへなどの、いと思ふやうなりしを、よそのものに思ひなしたるなむ、いと悲しき。など、忘れ形見をだに留めたまはずなりにけむ」
 と、恋ひ偲ぶ心なりければ、たまさかにかくものしたまへるにつけても、珍しくあはれにおぼゆべかめる問はず語りもし出でつべし。
 姫君は、我は我と、思ひ出づる方多くて、眺め出だしたまへるさま、いとうつくし。白き単衣の、いと情けなくあざやぎたるに、袴も桧皮色にならひたるにや、光も見えず黒きを着せたてまつりたれば、「かかることどもも、見しには変はりてあやしうもあるかな」と思ひつつ、こはごはしういららぎたるものども着たまへるしも、いとをかしき姿なり。御前なる人びと、
 「故姫君のおはしたる心地のみしはべりつるに、中将殿をさへ見たてまつれば、いとあはれにこそ。同じくは、昔のさまにておはしまさせばや。いとよき御あはひならむかし」
 と言ひ合へるを、
 「あな、いみじや。世にありて、いかにもいかにも、人に見えむこそ。それにつけてぞ昔のこと思ひ出でらるべき。さやうの筋は、思ひ絶えて忘れなむ」と思ふ。

 尼君入りたまへる間に、客人、雨のけしきを見わづらひて、少将と言ひし人の声を聞き知りて、呼び寄せたまへり。
 「昔見し人びとは、皆ここにものせらるらむや、と思ひながらも、かう参り来ることも難くなりにたるを、心浅きにや、誰れも誰れも見なしたまふらむ」
 などのたまふ。仕うまつり馴れにし人にて、あはれなりし昔のことどもも思ひ出でたるついでに、
 「かの廊のつま入りつるほど、風の騒がしかりつる紛れに、簾の隙より、なべてのさまにはあるまじかりつる人の、うち垂れ髪の見えつるは、世を背きたまへるあたりに、誰れぞとなむ見おどろかれつる」
 とのたまふ。「姫君の立ち出でたまへるうしろでを、見たまへりけるなめり」と思ひ出でて、「ましてこまかに見せたらば、心止まりたまひなむかし。昔人は、いとこよなう劣りたまへりしをだに、まだ忘れがたくしたまふめるを」と、心一つに思ひて、
 「過ぎにし御ことを忘れがたく、慰めかねたまふめりしほどに、おぼえぬ人を得たてまつりたまひて、明け暮れの見物に思ひきこえたまふめるを、うちとけたまへる御ありさまを、いかで御覧じつらむ」
 と言ふ。「かかることこそはありけれ」とをかしくて、「何人ならむ。げに、いとをかしかりつ」と、ほのかなりつるを、なかなか思ひ出づ。こまかに問へど、そのままにも言はず、
 「おのづから聞こし召してむ」
 とのみ言へば、うちつけに問ひ尋ねむも、さま悪しき心地して、
 「雨も止みぬ。日も暮れぬべし」
 と言ふにそそのかされて、出でたまふ。

 前近き女郎花を折りて、「何匂ふらむ」と口ずさびて、独りごち立てり。
 「人のもの言ひを、さすがに思しとがむるこそ」
 など、古代の人どもは、ものめでをしあへり。
 「いときよげに、あらまほしくもねびまさりたまひにけるかな。同じくは、昔のやうにても見たてまつらばや」とて、
 「藤中納言の御あたりには、絶えず通ひたまふやうなれど、心も止めたまはず、親の殿がちになむものしたまふ、とこそ言ふなれ」
 と、尼君ものたまひて、
 「心憂く、ものをのみ思し隔てたるなむ、いとつらき。今は、なほ、さるべきなめりと思しなして、晴れ晴れしくもてなしたまへ。この五年、六年、時の間も忘れず、恋しく悲しと思ひつる人の上も、かく見たてまつりて後よりは、こよなく思ひ忘られにてはべる。思ひきこえたまふべき人びと世におはすとも、今は世に亡きものにこそ、やうやう思しなりぬらめ。よろづのこと、さし当たりたるやうには、えしもあらぬわざになむ」
 と言ふにつけても、いとど涙ぐみて、
 「隔てきこゆる心は、はべらねど、あやしくて生き返りけるほどに、よろづのこと夢の世にたどられて。あらぬ世に生れたらむ人は、かかる心地やすらむ、とおぼえはべれば、今は、知るべき人世にあらむとも思ひ出でず。ひたみちにこそ、睦ましく思ひきこゆれ」
 とのたまふさまも、げに、何心なくうつくしく、うち笑みてぞまもりゐたまへる。
 中将は、山におはし着きて、僧都も珍しがりて、世の中の物語したまふ。その夜は泊りて、声尊き人に経など読ませて、夜一夜、遊びたまふ。禅師の君、こまかなる物語などするついでに、
 「小野に立ち寄りて、ものあはれにもありしかな。世を捨てたれど、なほさばかりの心ばせある人は、難うこそ」
 などあるついでに、
 「風の吹き開けたりつる隙より、髪いと長くをかしげなる人こそ見えつれ。あらはなりとや思ひつらむ、立ちてあなたに入りつるうしろで、なべての人とは見えざりつ。さやうの所に、よき女は置きたるまじきものにこそあめれ。明け暮れ見るものは法師なり。おのづから目馴れておぼゆらむ。不便なることぞかし」
 とのたまふ。禅師の君、
 「この春、初瀬に詣でて、あやしくて見出でたる人となむ、聞きはべりし」
 とて、見ぬことなれば、こまかには言はず。
 「あはれなりけることかな。いかなる人にかあらむ。世の中を憂しとてぞ、さる所には隠れゐけむかし。昔物語の心地もするかな」
 とのたまふ。

 またの日、帰りたまふにも、「過ぎがたくなむ」とておはしたり。さるべき心づかひしたりければ、昔思ひ出でたる御まかなひの少将の尼なども、袖口さま異なれども、をかし。いとどいや目に、尼君はものしたまふ。物語のついでに、
 「忍びたるさまにものしたまふらむは、誰れにか」
 と問ひたまふ。わづらはしけれど、ほのかにも見つけてけるを、隠し顔ならむもあやしとて、
 「忘れわびはべりて、いとど罪深うのみおぼえはべりつる慰めに、この月ごろ見たまふる人になむ。いかなるにか、いともの思ひしげきさまにて、世にありと人に知られむことを、苦しげに思ひてものせらるれば、かかる谷の底には誰れかは尋ね聞かむ、と思ひつつはべるを、いかでかは聞きあらはさせたまへらむ」
 といらふ。
 「うちつけ心ありて参り来むにだに、山深き道のかことは聞こえつべし。まして、思しよそふらむ方につけては、ことことに隔てたまふまじきことにこそは。いかなる筋に世を恨みたまふ人にか。慰めきこえばや」
 など、ゆかしげにのたまふ。
 出でたまふとて、畳紙に、
 「あだし野の風になびくな女郎花
  我しめ結はむ道遠くとも」
 と書きて、少将の尼して入れたり。尼君も見たまひて、
 「この御返り書かせたまへ。いと心にくきけつきたまへる人なれば、うしろめたくもあらじ」
 とそそのかせば、
 「いとあやしき手をば、いかでか」
 とて、さらに聞きたまはねば、
 「はしたなきことなり」
 とて、尼君、
 「聞こえさせつるやうに、世づかず、人に似ぬ人にてなむ。
  移し植ゑて思ひ乱れぬ女郎花
  憂き世を背く草の庵に」
 とあり。「こたみは、さもありぬべし」と、思ひ許して帰りぬ。

 文などわざとやらむは、さすがにうひうひしう、ほのかに見しさまは忘れず、もの思ふらむ筋、何ごとと知らねど、あはれなれば、八月十余日のほどに、小鷹狩のついでにおはしたり。例の、尼呼び出でて、
 「一目見しより、静心なくてなむ」
 とのたまへり。いらへたまふべくもあらねば、尼君、
 「待乳の山、となむ見たまふる」
 と言ひ出だしたまふ。対面したまへるにも、
 「心苦しきさまにてものしたまふと聞きはべりし人の御上なむ、残りゆかしくはべりつる。何事も心にかなはぬ心地のみしはべれば、山住みもしはべらまほしき心ありながら、許いたまふまじき人びとに思ひ障りてなむ過ぐしはべる。世に心地よげなる人の上は、かく屈したる人の心からにや、ふさはしからずなむ。もの思ひたまふらむ人に、思ふことを聞こえばや」
 など、いと心とどめたるさまに語らひたまふ。
 「心地よげならぬ御願ひは、聞こえ交はしたまはむに、つきなからぬさまになむ見えはべれど、例の人にてはあらじと、いとうたたあるまで世を恨みたまふめれば。残りすくなき齢どもだに、今はと背きはべる時は、いともの心細くおぼえはべりしものを。世をこめたる盛りには、つひにいかがとなむ、見たまへはべる」
 と、親がりて言ふ。入りても、
 「情けなし。なほ、いささかにても聞こえたまへ。かかる御住まひは、すずろなることも、あはれ知るこそ世の常のことなれ」
 など、こしらへても言へど、
 「人にもの聞こゆらむ方も知らず、何事もいふかひなくのみこそ」
 と、いとつれなくて臥したまへり。
 客人は、
 「いづら。あな、心憂。秋を契れるは、すかしたまふにこそありけれ」
 など、恨みつつ、
 「松虫の声を訪ねて来つれども
  また萩原の露に惑ひぬ」
 「あな、いとほし。これをだに」
 など責むれば、さやうに世づいたらむこと言ひ出でむもいと心憂く、また、言ひそめては、かやうの折々に責められむも、むつかしうおぼゆれば、いらへをだにしたまはねば、あまりいふかひなく思ひあへり。尼君、早うは今めきたる人にぞありける名残なるべし。
 「秋の野の露分け来たる狩衣
  葎茂れる宿にかこつな
 となむ、わづらはしがりきこえたまふめる」
 と言ふを、内にも、なほ「かく心より外に世にありと知られ始むるを、いと苦し」と思す心のうちをば知らで、男君をも飽かず思ひ出でつつ、恋ひわたる人びとなれば、
 「かく、はかなきついでにも、うち語らひきこえたまはむに、心より外に、よにうしろめたくは見えたまはぬものを。世の常なる筋に思しかけずとも、情けなからぬほどに、御いらへばかりは聞こえたまへかし」
 など、ひき動かしつべく言ふ。

 さすがに、かかる古代の心どもにはありつかず、今めきつつ、腰折れ歌好ましげに、若やぐけしきどもは、いとうしろめたうおぼゆ。
 「限りなく憂き身なりけり、と見果ててし命さへ、あさましう長くて、いかなるさまにさすらふべきならむ。ひたぶるに亡き者と人に見聞き捨てられてもやみなばや」
 と思ひ臥したまへるに、中将は、おほかたもの思はしきことのあるにや。いといたううち嘆き、忍びやかに笛を吹き鳴らして、
 「鹿の鳴く音に」
 など独りごつけはひ、まことに心地なくはあるまじ。
 「過ぎにし方の思ひ出でらるるにも、なかなか心尽くしに、今はじめてあはれと思すべき人はた、難げなれば、見えぬ山路にもえ思ひなすまじうなむ」
 と、恨めしげにて出でなむとするに、尼君、
 「など、あたら夜を御覧じさしつる」
 とて、ゐざり出でたまへり。
 「何か。遠方なる里も、試みはべれば」
 など言ひすさみて、「いたう好きがましからむも、さすがに便なし。いとほのかに見えしさまの、目止まりしばかり、つれづれなる心慰めに思ひ出づるを、あまりもて離れ、奥深なるけはひも所のさまにあはずすさまじ」と思へば、帰りなむとするを、笛の音さへ飽かず、いとどおぼえて、
 「深き夜の月をあはれと見ぬ人や
  山の端近き宿に泊らぬ」
 と、なまかたはなることを、
 「かくなむ、聞こえたまふ」
 と言ふに、心ときめきして、
 「山の端に入るまで月を眺め見む
  閨の板間もしるしありやと」
 など言ふに、この大尼君、笛の音をほのかに聞きつけたりければ、さすがにめでて出で来たり。
 ここかしこうちしはぶき、あさましきわななき声にて、なかなか昔のことなどもかけて言はず。誰れとも思ひ分かぬなるべし。
 「いで、その琴の琴弾きたまへ。横笛は、月にはいとをかしきものぞかし。いづら、御達。琴とりて参れ」
 と言ふに、それなめりと、推し量りに聞けど、「いかなる所に、かかる人、いかで籠もりゐたらむ。定めなき世ぞ」、これにつけてあはれなる。盤渉調をいとをかしう吹きて、
 「いづら、さらば」
 とのたまふ。
 娘尼君、これもよきほどの好き者にて、
 「昔聞きはべりしよりも、こよなくおぼえはべるは、山風をのみ聞き馴れはべりにける耳からにや」とて、「いでや、これもひがことになりてはべらむ」
 と言ひながら弾く。今様は、をさをさなべての人の、今は好まずなりゆくものなれば、なかなか珍しくあはれに聞こゆ。松風もいとよくもてはやす。吹きて合はせたる笛の音に、月もかよひて澄める心地すれば、いよいよめでられて、宵惑ひもせず、起き居たり。

 「女は、昔は、東琴をこそは、こともなく弾きはべりしかど、今の世には、変はりにたるにやあらむ。この僧都の、『聞きにくし。念仏より他のあだわざなせそ』とはしたなめられしかば、何かは、とて弾きはべらぬなり。さるは、いとよく鳴る琴もはべり」
 と言ひ続けて、いと弾かまほしと思ひたれば、いと忍びやかにうち笑ひて、
 「いとあやしきことをも制しきこえたまひける僧都かな。極楽といふなる所には、菩薩なども皆かかることをして、天人なども舞ひ遊ぶこそ尊かなれ。行ひ紛れ、罪得べきことかは。今宵聞きはべらばや」
 とすかせば、「いとよし」と思ひて、
 「いで、主殿のくそ、東取りて」
 と言ふにも、しはぶきは絶えず。人びとは、見苦しと思へど、僧都をさへ、恨めしげにうれへて言ひ聞かすれば、いとほしくてまかせたり。取り寄せて、ただ今の笛の音をも訪ねず、ただおのが心をやりて、東の調べを爪さはやかに調ぶ。皆異ものは声を止めつるを、「これをのみめでたる」と思ひて、
 「たけふ、ちちりちちり、たりたむな」
 など、掻き返し、はやりかに弾きたる、言葉ども、わりなく古めきたり。
 「いとをかしう、今の世に聞こえぬ言葉こそは、弾きたまひけれ」
 と褒むれば、耳ほのぼのしく、かたはらなる人に問ひ聞きて、
 「今様の若き人は、かやうなることをぞ好まれざりける。ここに月ごろものしたまふめる姫君、容貌いとけうらにものしたまふめれど、もはら、かやうなるあだわざなどしたまはず、埋れてなむ、ものしたまふめる」
 と、我かしこにうちあざ笑ひて語るを、尼君などは、かたはらいたしと思す。

 これに事皆醒めて、帰りたまふほども、山おろし吹きて、聞こえ来る笛の音、いとをかしう聞こえて、起き明かしたる翌朝、
 「昨夜は、かたがた心乱れはべりしかば、急ぎまかではべりし。
  忘られぬ昔のことも笛竹の
  つらきふしにも音ぞ泣かれける
 なほ、すこし思し知るばかり教へなさせたまへ。忍ばれぬべくは、好き好きしきまでも、何かは」
 とあるを、いとどわびたるは、涙とどめがたげなるけしきにて、書きたまふ。
 「笛の音に昔のことも偲ばれて
  帰りしほども袖ぞ濡れにし
 あやしう、もの思ひ知らぬにや、とまで見はべるありさまは、老い人の問はず語りに、聞こし召しけむかし」
 とあり。珍しからぬも見所なき心地して、うち置かれけむ。
 荻の葉に劣らぬほどほどに訪れわたる、「いとむつかしうもあるかな。人の心はあながちなるものなりけり」と見知りにし折々も、やうやう思ひ出づるままに、
 「なほ、かかる筋のこと、人にも思ひ放たすべきさまに、疾くなしたまひてよ」
 とて、経習ひて読みたまふ。心の内にも念じたまへり。かくよろづにつけて世の中を思ひ捨つれば、「若き人とてをかしやかなることもことになく、結ぼほれたる本性なめり」と思ふ。容貌の見るかひあり、うつくしきに、よろづの咎見許して、明け暮れの見物にしたり。すこしうち笑ひたまふ折は、珍しくめでたきものに思へり。


 


 九月になりて、この尼君、初瀬に詣づ。年ごろいと心細き身に、恋しき人の上も思ひやまれざりしを、かくあらぬ人ともおぼえたまはぬ慰めを得たれば、観音の御験うれしとて、返り申しだちて、詣でたまふなりけり。
 「いざ、たまへ。人やは知らむとする。同じ仏なれど、さやうの所に行ひたるなむ、験ありてよき例多かる」
 と言ひて、そそのかしたつれど、「昔、母君、乳母などの、かやうに言ひ知らせつつ、たびたび詣でさせしを、かひなきにこそあめれ。命さへ心にかなはず、たぐひなきいみじきめを見るは」と、いと心憂きうちにも、「知らぬ人に具して、さる道のありきをしたらむよ」と、そら恐ろしくおぼゆ。
 心こはきさまには言ひもなさで、
 「心地のいと悪しうのみはべれば、さやうならむ道のほどにもいかがなど、つつましうなむ」
 とのたまふ。「物懼ぢはさもしたまふべき人ぞかし」と思ひて、しひても誘はず。
 「はかなくて世に古川の憂き瀬には
  尋ねも行かじ二本の杉」
 と手習に混じりたるを、尼君見つけて、
 「二本は、またも逢ひきこえむと思ひたまふ人あるべし」
 と、戯れごとを言ひ当てたるに、胸つぶれて、面赤めたまへる、いと愛敬づきうつくしげなり。
 「古川の杉のもとだち知らねども
  過ぎにし人によそへてぞ見る」
 ことなることなきいらへを口疾く言ふ。忍びて、と言へど、皆人慕ひつつ、ここには人少なにておはせむを心苦しがりて、心ばせある少将の尼、左衛門とてある大人しき人、童ばかりぞ留めたりける。


 皆出で立ちけるを眺め出でて、あさましきことを思ひながらも、「今はいかがせむ」と、「頼もし人に思ふ人一人ものしたまはぬは、心細くもあるかな」と、いとつれづれなるに、中将の御文あり。
 「御覧ぜよ」と言へど、聞きも入れたまはず。いとど人も見えず、つれづれと来し方行く先を思ひ屈じたまふ。
 「苦しきまでも眺めさせたまふかな。御碁を打たせたまへ」
 と言ふ。
 「いとあやしうこそはありしか」
 とはのたまへど、打たむと思したれば、盤取りにやりて、我はと思ひて先ぜさせたてまつりたるに、いとこよなければ、また手直して打つ。
 「尼上疾う帰らせたまはなむ。この御碁見せたてまつらむ。かの御碁ぞ、いと強かりし。僧都の君、早うよりいみじう好ませたまひて、けしうはあらずと思したりしを、いと棋聖大徳になりて、『さし出でてこそ打たざらめ、御碁には負けじかし』と聞こえたまひしに、つひに僧都なむ二つ負けたまひし。棋聖が碁には勝らせたまふべきなめり。あな、いみじ」
 と興ずれば、さだ過ぎたる尼額の見つかぬに、もの好みするに、「むつかしきこともしそめてけるかな」と思ひて、「心地悪し」とて臥したまひぬ。
 「時々、晴れ晴れしうもてなしておはしませ。あたら御身を。いみじう沈みてもてなさせたまふこそ口惜しう、玉に瑕あらむ心地しはべれ」
 と言ふ。夕暮の風の音もあはれなるに、思ひ出づることも多くて、
 「心には秋の夕べを分かねども
  眺むる袖に露ぞ乱るる」

 月さし出でてをかしきほどに、昼文ありつる中将おはしたり。「あな、うたて。こは、なにぞ」とおぼえたまへば、奥深く入りたまふを、
 「さも、あまりにもおはしますものかな。御心ざしのほども、あはれまさる折にこそはべるめれ。ほのかにも、聞こえたまはむことも聞かせたまへ。しみつかむことのやうに思し召したるこそ」
 など言ふに、いとはしたなくおぼゆ。おはせぬよしを言へど、昼の使の、一所など問ひ聞きたるなるべし、いと言多く怨みて、
 「御声も聞きはべらじ。ただ、気近くて聞こえむことを、聞きにくしともいかにとも、思しことわれ」
 と、よろづに言ひわびて、
 「いと心憂く。所につけてこそ、もののあはれもまされ。あまりかかるは」
 など、あはめつつ、
 「山里の秋の夜深きあはれをも
  もの思ふ人は思ひこそ知れ
 おのづから御心も通ひぬべきを」
 などあれば、
 「尼君おはせで、紛らはしきこゆべき人もはべらず。いと世づかぬやうならむ」
 と責むれば、
 「憂きものと思ひも知らで過ぐす身を
  もの思ふ人と人は知りけり」
 わざといらへともなきを、聞きて伝へきこゆれば、いとあはれと思ひて、
 「なほ、ただいささか出でたまへ、と聞こえ動かせ」
 と、この人びとをわりなきまで恨みたまふ。
 「あやしきまで、つれなくぞ見えたまふや」
 とて、入りて見れば、例はかりそめにもさしのぞきたまはぬ老い人の御方に入りたまひにけり。あさましう思ひて、「かくなむ」と聞こゆれば、
 「かかる所に眺めたまふらむ心の内のあはれに、おほかたのありさまなども、情けなかるまじき人の、いとあまり思ひ知らぬ人よりも、けにもてなしたまふめるこそ。それ物懲りしたまへるか。なほ、いかなるさまに世を恨みて、いつまでおはすべき人ぞ」
 など、ありさま問ひて、いとゆかしげにのみ思いたれど、こまかなることは、いかでかは言ひ聞かせむ。ただ、
 「知りきこえたまふべき人の、年ごろは、疎々しきやうにて過ぐしたまひしを、初瀬に詣であひたまひて、尋ねきこえたまひつる」
 とぞ言ふ。

 姫君は、「いとむつかし」とのみ聞く老い人のあたりにうつぶし臥して、寝も寝られず。宵惑ひは、えもいはずおどろおどろしきいびきしつつ、前にも、うちすがひたる尼ども二人して、劣らじといびき合はせたり。いと恐ろしう、「今宵、この人びとにや食はれなむ」と思ふも、惜しからぬ身なれど、例の心弱さは、一つ橋危ふがりて帰り来たりけむ者のやうに、わびしくおぼゆ。
 こもき、供に率ておはしつれど、色めきて、このめづらしき男の艶だちゐたる方に帰り去にけり。「今や来る、今や来る」と待ちゐたまへれど、いとはかなき頼もし人なりや。中将、言ひわづらひて帰りにければ、
 「いと情けなく、埋れてもおはしますかな。あたら御容貌を」
 などそしりて、皆一所に寝ぬ。
 「夜中ばかりにやなりぬらむ」と思ふほどに、尼君しはぶきおぼほれて起きにたり。火影に、頭つきはいと白きに、黒きものをかづきて、この君の臥したまへる、あやしがりて、鼬とかいふなるものが、さるわざする、額に手を当てて、
 「あやし。これは、誰れぞ」
 と、執念げなる声にて見おこせたる、さらに、「ただ今食ひてむとする」とぞおぼゆる。鬼の取りもて来けむほどは、物のおぼえざりければ、なかなか心やすし。「いかさまにせむ」とおぼゆるむつかしさにも、「いみじきさまにて生き返り、人になりて、またありしいろいろの憂きことを思ひ乱れ、むつかしとも恐ろしとも、ものを思ふよ。死なましかば、これよりも恐ろしげなる者の中にこそはあらましか」と思ひやらる。

 昔よりのことを、まどろまれぬままに、常よりも思ひ続くるに、
 「いと心憂く、親と聞こえけむ人の御容貌も見たてまつらず、遥かなる東を返る返る年月をゆきて、たまさかに尋ね寄りて、うれし頼もしと思ひきこえし姉妹の御あたりをも、思はずにて絶え過ぎ、さる方に思ひ定めたまひし人につけて、やうやう身の憂さをも慰めつべききはめに、あさましうもてそこなひたる身を思ひもてゆけば、宮を、すこしもあはれと思ひきこえけむ心ぞ、いとけしからぬ。ただ、この人の御ゆかりにさすらへぬるぞ」
 と思へば、「小島の色をためしに契りたまひしを、などてをかしと思ひきこえけむ」と、こよなく飽きにたる心地す。初めより、薄きながらものどやかにものしたまひし人は、この折かの折など、思ひ出づるぞこよなかりける。「かくてこそありけれ」と、聞きつけられたてまつらむ恥づかしさは、人よりまさりぬべし。さすがに、「この世には、ありし御さまを、よそながらだにいつか見むずる、とうち思ふ、なほ、悪ろの心や。かくだに思はじ」など、心一つをかへさふ。
 からうして鶏の鳴くを聞きて、いとうれし。「母の御声を聞きたらむは、ましていかならむ」と思ひ明かして、心地もいと悪し。供にて渡るべき人もとみに来ねば、なほ臥したまへるに、いびきの人は、いと疾く起きて、粥などむつかしきことどもをもてはやして、
 「御前に、疾く聞こし召せ」
 など寄り来て言へど、まかなひもいとど心づきなく、うたて見知らぬ心地して、
 「悩ましくなむ」
 と、ことなしびたまふを、しひて言ふもいとこちなし。

 下衆下衆しき法師ばらなどあまた来て、
 「僧都、今日下りさせたまふべし」
 「などにはかには」
 と問ふなれば、
 「一品の宮の、御もののけに悩ませたまひける、山の座主、御修法仕まつらせたまへど、なほ、僧都参らせたまはでは験なしとて、昨日、二度なむ召しはべりし。右大臣殿の四位少将、昨夜、夜更けてなむ登りおはしまして、后の宮の御文などはべりければ、下りさせたまふなり」
 など、いとはなやかに言ひなす。「恥づかしうとも、会ひて、尼になしたまひてよ、と言はむ。さかしら人少なくて、よき折にこそ」と思へば、起きて、
 「心地のいと悪しうのみはべるを、僧都の下りさせたまへらむに、忌むこと受けはべらむとなむ思ひはべるを、さやうに聞こえたまへ」
 と語らひたまへば、ほけほけしう、うちうなづく。
 例の方におはして、髪は尼君のみ削りたまふを、異人に手触れさせむもうたておぼゆるに、手づからはた、えせぬことなれば、ただすこし解き下して、親に今一度かうながらのさまを見えずなりなむこそ、人やりならず、いと悲しけれ。いたうわづらひしけにや、髪もすこし落ち細りたる心地すれど、何ばかりも衰へず、いと多くて、六尺ばかりなる末などぞ、いとうつくしかりける。筋なども、いとこまかにうつくしげなり。
 「かかれとてしも」
 と、独りごちゐたまへり。
 暮れ方に、僧都ものしたまへり。南面払ひしつらひて、まろなる頭つき、行きちがひ騷ぎたるも、例に変はりて、いと恐ろしき心地す。母の御方に参りたまひて、
 「いかにぞ、月ごろは」
 など言ふ。
 「東の御方は物詣でしたまひにきとか。このおはせし人は、なほものしたまふや」
 など問ひたまふ。
 「しか。ここにとまりてなむ。心地悪しとこそものしたまひて、忌むこと受けたてまつらむ、とのたまひつる」
 と語る。

 立ちてこなたにいまして、「ここにや、おはします」とて、几帳のもとについゐたまへば、つつましけれど、ゐざり寄りて、いらへしたまふ。
 「不意にて見たてまつりそめてしも、さるべき昔の契りありけるにこそ、と思ひたまへて。御祈りなども、ねむごろに仕うまつりしを、法師は、そのこととなくて、御文聞こえ受けたまはむも便なければ、自然になむおろかなるやうになりはべりぬる。いとあやしきさまに、世を背きたまへる人の御あたり、いかでおはしますらむ」
 とのたまふ。
 「世の中にはべらじと思ひ立ちはべりし身の、いとあやしくて今まではべりつるを、心憂しと思ひはべるものから、よろづにせさせたまひける御心ばへをなむ、いふかひなき心地にも、思ひたまへ知らるるを、なほ、世づかずのみ、つひにえ止まるまじく思ひたまへらるるを、尼になさせたまひてよ。世の中にはべるとも、例の人にてながらふべくもはべらぬ身になむ」
 と聞こえたまふ。
 「まだ、いと行く先遠げなる御ほどに、いかでかひたみちにしかば、思し立たむ。かへりて罪あることなり。思ひ立ちて、心を起こしたまふほどは強く思せど、年月経れば、女の御身といふもの、いとたいだいしきものになむ」
 とのたまへば、
 「幼くはべりしほどより、ものをのみ思ふべきありさまにて、親なども、尼になしてや見まし、などなむ思ひのたまひし。まして、すこしもの思ひ知りて後は、例の人ざまならで、後の世をだに、と思ふ心深かりしを、亡くなるべきほどのやうやう近くなりはべるにや、心地のいと弱くのみなりはべるを、なほ、いかで」
 とて、うち泣きつつのたまふ。

 「あやしく、かかる容貌ありさまを、などて身をいとはしく思ひはじめたまひけむ。もののけもさこそ言ふなりしか」と思ひ合はするに、「さるやうこそはあらめ。今までも生きたるべき人かは。悪しきものの見つけそめたるに、いと恐ろしく危ふきことなり」と思して、
 「とまれ、かくまれ、思し立ちてのたまふを、三宝のいとかしこく誉めたまふことなり。法師にて聞こえ返すべきことにあらず。御忌むことは、いとやすく授けたてまつるべきを、急なることにまかんでたれば、今宵、かの宮に参るべくはべり。明日よりや、御修法始まるべくはべらむ。七日果ててまかでむに、仕まつらむ」
 とのたまへば、「かの尼君おはしなば、かならず言ひ妨げてむ」と、いと口惜しくて、
 「乱り心地の悪しかりしほどに見たるやうにて、いと苦しうはべれば、重くならば、忌むことかひなくやはべらむ。なほ、今日はうれしき折とこそ思ひはべれ」
 とて、いみじう泣きたまへば、聖心にいといとほしく思ひて、
 「夜や更けはべりぬらむ。山より下りはべること、昔はことともおぼえたまはざりしを、年の生ふるままには、堪へがたくはべりければ、うち休みて内裏には参らむ、と思ひはべるを、しか思し急ぐことなれば、今日仕うまつりてむ」
 とのたまふに、いとうれしくなりぬ。
 鋏取りて、櫛の筥の蓋さし出でたれば、
 「いづら、大徳たち。ここに」
 と呼ぶ。初め見つけたてまつりし二人ながら供にありければ、呼び入れて、
 「御髪下ろしたてまつれ」
 と言ふ。げに、いみじかりし人の御ありさまなれば、「うつし人にては、世におはせむもうたてこそあらめ」と、この阿闍梨もことわりに思ふに、几帳の帷子のほころびより、御髪をかき出だしたまひつるが、いとあたらしくをかしげなるになむ、しばし、鋏をもてやすらひける。


 


 かかるほど、少将の尼は、兄の阿闍梨の来たるに会ひて、下にゐたり。左衛門は、この私の知りたる人にあひしらふとて、かかる所につけては、皆とりどりに、心寄せの人びとめづらしうて出で来たるに、はかなきことしける、見入れなどしけるほどに、こもき一人して、「かかることなむ」と少将の尼に告げたりければ、惑ひて来て見るに、わが御上の衣、袈裟などを、ことさらばかりとて着せたてまつりて、
 「親の御方拝みたてまつりたまへ」
 と言ふに、いづ方とも知らぬほどなむ、え忍びあへたまはで、泣きたまひにける。
 「あな、あさましや。など、かく奥なきわざはせさせたまふ。上、帰りおはしては、いかなることをのたまはせむ」
 と言へど、かばかりにしそめつるを、言ひ乱るもものしと思ひて、僧都諌めたまへば、寄りてもえ妨げず。
 「流転三界中」
 など言ふにも、「断ち果ててしものを」と思ひ出づるも、さすがなりけり。御髪も削ぎわづらひて、
 「のどやかに、尼君たちして、直させたまへ」
 と言ふ。額は僧都ぞ削ぎたまふ。
 「かかる御容貌やつしたまひて、悔いたまふな」
 など、尊きことども説き聞かせたまふ。「とみにせさすべくもあらず、皆言ひ知らせたまへることを、うれしくもしつるかな」と、これのみぞ仏は生けるしるしありてとおぼえたまひける。


 皆人びと出で静まりぬ。夜の風の音に、この人びとは、
 「心細き御住まひも、しばしのことぞ。今いとめでたくなりたまひなむ、と頼みきこえつる御身を、かくしなさせたまひて、残り多かる御世の末を、いかにせさせたまはむとするぞ。老い衰へたる人だに、今は限りと思ひ果てられて、いと悲しきわざにはべる」
 と言ひ知らすれど、「なほ、ただ今は、心やすくうれし。世に経べきものとは、思ひかけずなりぬるこそは、いとめでたきことなれ」と、胸のあきたる心地ぞしたまひける。
 翌朝は、さすがに人の許さぬことなれば、変はりたらむさま見えむもいと恥づかしく、髪の裾の、にはかにおぼとれたるやうに、しどけなくさへ削がれたるを、「むつかしきことども言はで、つくろはむ人もがな」と、何事につけても、つつましくて、暗うしなしておはす。思ふことを人に言ひ続けむ言の葉は、もとよりだにはかばかしからぬ身を、まいてなつかしうことわるべき人さへなければ、ただ硯に向かひて、思ひあまる折には、手習をのみ、たけきこととは、書きつけたまふ。
 「なきものに身をも人をも思ひつつ
  捨ててし世をぞさらに捨てつる
 今は、かくて限りつるぞかし」
 と書きても、なほ、みづからいとあはれと見たまふ。
 「限りぞと思ひなりにし世の中を
  返す返すも背きぬるかな」

 同じ筋のことを、とかく書きすさびゐたまへるに、中将の御文あり。もの騒がしう呆れたる心地しあへるほどにて、「かかること」など言ひてけり。いとあへなしと思ひて、
 「かかる心の深くありける人なりければ、はかなきいらへをもしそめじと、思ひ離るるなりけり。さてもあへなきわざかな。いとをかしく見えし髪のほどを、たしかに見せよと、一夜も語らひしかば、さるべからむ折に、と言ひしものを」
 と、いと口惜しうて、立ち返り、
 「聞こえむ方なきは、
  岸遠く漕ぎ離るらむ海人舟に
  乗り遅れじと急がるるかな」
 例ならず取りて見たまふ。もののあはれなる折に、今はと思ふもあはれなるものから、いかが思さるらむ、いとはかなきものの端に、
 「心こそ憂き世の岸を離るれど
  行方も知らぬ海人の浮木を」
 と、例の、手習にしたまへるを、包みてたてまつる。
 「書き写してだにこそ」
 とのたまへど、
 「なかなか書きそこなひはべりなむ」
 とてやりつ。めづらしきにも、言ふ方なく悲しうなむおぼえける。
 物詣での人帰りたまひて、思ひ騒ぎたまふこと、限りなし。
 「かかる身にては、勧めきこえむこそは、と思ひなしはべれど、残り多かる御身を、いかで経たまはむとすらむ。おのれは、世にはべらむこと、今日、明日とも知りがたきに、いかでうしろやすく見たてまつらむと、よろづに思ひたまへてこそ、仏にも祈りきこえつれ」
 と、伏しまろびつつ、いといみじげに思ひたまへるに、まことの親の、やがて骸もなきものと、思ひ惑ひたまひけむほど推し量るるぞ、まづいと悲しかりける。例の、いらへもせで背きゐたまへるさま、いと若くうつくしげなれば、「いとものはかなくぞおはしける御心なれ」と、泣く泣く御衣のことなど急ぎたまふ。
 鈍色は手馴れにしことなれば、小袿、袈裟などしたり。ある人びとも、かかる色を縫ひ着せたてまつるにつけても、「いとおぼえず、うれしき山里の光と、明け暮れ見たてまつりつるものを、口惜しきわざかな」
 と、あたらしがりつつ、僧都を恨み誹りけり。

 一品の宮の御悩み、げに、かの弟子の言ひしもしるく、いちじるきことどもありて、おこたらせたまひにければ、いよいよいと尊きものに言ひののしる。名残も恐ろしとて、御修法延べさせたまへば、とみにもえ帰り入らでさぶらひたまふに、雨など降りてしめやかなる夜、召して、夜居にさぶらはせたまふ。
 日ごろいたうさぶらひ極じたる人は、皆休みなどして、御前に人少なにて、近く起きたる人少なき折に、同じ御帳におはしまして、
 「昔より頼ませたまふなかにも、このたびなむ、いよいよ、後の世もかくこそはと、頼もしきことまさりぬる」
 などのたまはす。
 「世の中に久しうはべるまじきさまに、仏なども教へたまへることどもはべるうちに、今年、来年、過ぐしがたきやうになむはべれば、仏を紛れなく念じつとめはべらむとて、深く籠もりはべるを、かかる仰せ言にて、まかり出ではべりにし」
 など啓したまふ。

 御もののけの執念きことを、さまざまに名のるが恐ろしきことなどのたまふついでに、
 「いとあやしう、希有のことをなむ見たまへし。この三月に、年老いてはべる母の、願ありて初瀬に詣でてはべりし、帰さの中宿りに、宇治の院と言ひはべる所にまかり宿りしを、かくのごと、人住まで年経ぬる大きなる所は、よからぬものかならず通ひ住みて、重き病者のため悪しきことども、と思ひたまへしも、しるく」
 とて、かの見つけたりしことどもを語りきこえたまふ。
 「げに、いとめづらかなることかな」
 とて、近くさぶらふ人びと皆寝入りたるを、恐ろしく思されて、おどろかさせたまふ。大将の語らひたまふ宰相の君しも、このことを聞きけり。おどろかさせたまふ人びとは、何とも聞かず。僧都、懼ぢさせたまへる御けしきを、「心もなきこと啓してけり」と思ひて、詳しくもそのほどのことをば言ひさしつ。
 「その女人、このたびまかり出ではべりつるたよりに、小野にはべりつる尼どもあひ訪ひはべらむとて、まかり寄りたりしに、泣く泣く、出家の志し深きよし、ねむごろに語らひはべりしかば、頭下ろしはべりにき。
 なにがしが妹、故衛門督の妻にはべりし尼なむ、亡せにし女子の代りにと、思ひ喜びはべりて、随分に労りかしづきはべりけるを、かくなりたれば、恨みはべるなり。げにぞ、容貌はいとうるはしくけうらにて、行ひやつれむもいとほしげになむはべりし。何人にかはべりけむ」
 と、ものよく言ふ僧都にて、語り続け申したまへば、
 「いかで、さる所に、よき人をしも取りもて行きけむ。さりとも、今は知られぬらむ」
 など、この宰相の君ぞ問ふ。
 「知らず。さもや、語らひはべらむ。まことにやむごとなき人ならば、何か、隠れもはべらじをや。田舎人の娘も、さるさましたるこそははべらめ。龍の中より、仏生まれたまはずはこそはべらめ。ただ人にては、いと罪軽きさまの人になむはべりける」
 など聞こえたまふ。
 そのころ、かのわたりに消え失せにけむ人を思し出づ。この御前なる人も、姉の君の伝へに、あやしくて亡せたる人とは聞きおきたれば、「それにやあらむ」とは思ひけれど、定めなきことなり。僧都も、
 「かかる人、世にあるものとも知られじと、よくもあらぬ敵だちたる人もあるやうにおもむけて、隠し忍びはべるを、事のさまのあやしければ、啓しはべるなり」
 と、なま隠すけしきなれば、人にも語らず。宮は、
 「それにもこそあれ。大将に聞かせばや」
 と、この人にぞのたまはすれど、いづ方にも隠すべきことを、定めてさならむとも知らずながら、恥づかしげなる人に、うち出でのたまはせむもつつましく思して、やみにけり。

 姫宮おこたり果てさせたまひて、僧都も登りたまひぬ。かしこに寄りたまへれば、いみじう恨みて、
 「なかなか、かかる御ありさまにて、罪も得ぬべきことを、のたまひもあはせずなりにけることをなむ、いとあやしき」
 などのたまへど、かひもなし。
 「今は、ただ御行ひをしたまへ。老いたる、若き、定めなき世なり。はかなきものに思しとりたるも、ことわりなる御身をや」
 とのたまふにも、いと恥づかしうなむおぼえける。
 「御法服新しくしたまへ」
 とて、綾、羅、絹などいふもの、たてまつりおきたまふ。
 「なにがしがはべらむ限りは、仕うまつりなむ。なにか思しわづらふべき。常の世に生ひ出でて、世間の栄華に願ひまつはるる限りなむ、所狭く捨てがたく、我も人も思すべかめることなめる。かかる林の中に行ひ勤めたまはむ身は、何事かは恨めしくも恥づかしくも思すべき。このあらむ命は、葉の薄きがごとし」
 と言ひ知らせて、
 「松門に暁到りて月徘徊す」
 と、法師なれど、いとよしよししく恥づかしげなるさまにてのたまふことどもを、「思ふやうにも言ひ聞かせたまふかな」と聞きゐたり。

 今日は、ひねもすに吹く風の音もいと心細きに、おはしたる人も、
 「あはれ、山伏は、かかる日にぞ、音は泣かるなるかし」
 と言ふを聞きて、「我も今は山伏ぞかし。ことわりに止まらぬ涙なりけり」と思ひつつ、端の方に立ち出でて見れば、遥かなる軒端より、狩衣姿色々に立ち混じりて見ゆ。山へ登る人なりとても、こなたの道には、通ふ人もいとたまさかなり。黒谷とかいふ方よりありく法師の跡のみ、まれまれは見ゆるを、例の姿見つけたるは、あいなくめづらしきに、この恨みわびし中将なりけり。
 かひなきことも言はむとてものしたりけるを、紅葉のいとおもしろく、他の紅に染めましたる色々なれば、入り来るよりぞものあはれなりける。「ここに、いと心地よげなる人を見つけたらば、あやしくぞおぼゆべき」など思ひて、
 「暇ありて、つれづれなる心地しはべるに、紅葉もいかにと思ひたまへてなむ。なほ、立ち返りて旅寝もしつべき木の下にこそ」
 とて、見出だしたまへり。尼君、例の、涙もろにて、
 「木枯らしの吹きにし山の麓には
  立ち隠すべき蔭だにぞなき」
 とのたまへば、
 「待つ人もあらじと思ふ山里の
  梢を見つつなほぞ過ぎ憂き」
 言ふかひなき人の御ことを、なほ尽きせずのたまひて、
 「さま変はりたまへらむさまを、いささか見せよ」
 と、少将の尼にのたまふ。
 「それをだに、契りししるしにせよ」
 と責めたまへば、入りて見るに、ことさら人にも見せまほしきさましてぞおはする。薄き鈍色の綾、中に萱草など、澄みたる色を着て、いとささやかに、様体をかしく、今めきたる容貌に、髪は五重の扇を広げたるやうに、こちたき末つきなり。
 こまかにうつくしき面様の、化粧をいみじくしたらむやうに、赤く匂ひたり。行ひなどをしたまふも、なほ数珠は近き几帳にうち懸けて、経に心を入れて読みたまへるさま、絵にも描かまほし。
 うち見るごとに涙の止めがたき心地するを、「まいて心かけたまはむ男は、いかに見たてまつりたまはむ」と思ひて、さるべき折にやありけむ、障子の掛金のもとに開きたる穴を教へて、紛るべき几帳など押しやりたり。
 「いとかくは思はずこそありしか。いみじく思ふさまなりける人を」と、我がしたらむ過ちのやうに、惜しく悔しう悲しければ、つつみもあへず、もの狂はしきまで、けはひも聞こえぬべければ、退きぬ。

 「かばかりのさましたる人を失ひて、尋ねぬ人ありけむや。また、その人かの人の娘なむ、行方も知らず隠れにたる、もしはもの怨じして、世を背きにけるなど、おのづから隠れなかるべきを」など、あやしう返す返す思ふ。
 「尼なりとも、かかるさましたらむ人はうたてもおぼえじ」など、「なかなか見所まさりて心苦しかるべきを、忍びたるさまに、なほ語らひとりてむ」と思へば、まめやかに語らふ。
 「世の常のさまには思し憚ることもありけむを、かかるさまになりたまひにたるなむ、心やすう聞こえつべくはべる。さやうに教へきこえたまへ。来し方の忘れがたくて、かやうに参り来るに、また、今一つ心ざしを添へてこそ」
 などのたまふ。
 「いと行く末心細く、うしろめたきありさまにはべるに、まめやかなるさまに思し忘れず訪はせたまはむ、いとうれしうこそ、思ひたまへおかめ。はべらざらむ後なむ、あはれに思ひたまへらるべき」
 とて、泣きたまふに、「この尼君も離れぬ人なるべし。誰れならむ」と心得がたし。
 「行く末の御後見は、命も知りがたく頼もしげなき身なれど、さ聞こえそめはべるなれば、さらに変はりはべらじ。尋ねきこえたまふべき人は、まことにものしたまはぬか。さやうのことのおぼつかなきになむ、憚るべきことにははべらねど、なほ隔てある心地しはべるべき」
 とのたまへば、
 「人に知らるべきさまにて、世に経たまはば、さもや尋ね出づる人もはべらむ。今は、かかる方に、思ひきりつるありさまになむ。心のおもむけも、さのみ見えはべりつるを」
 など語らひたまふ。
 こなたにも消息したまへり。
 「おほかたの世を背きける君なれど
  厭ふによせて身こそつらけれ」
 ねむごろに深く聞こえたまふことなど、言ひ伝ふ。
 「兄妹と思しなせ。はかなき世の物語なども聞こえて、慰めむ」
 など言ひ続く。
 「心深からむ御物語など、聞き分くべくもあらぬこそ口惜しけれ」
 といらへて、この厭ふにつけたるいらへはしたまはず。「思ひよらずあさましきこともありし身なれば、いとうとまし。すべて朽木などのやうにて、人に見捨てられて止みなむ」ともてなしたまふ。
 されば、月ごろたゆみなく結ぼほれ、ものをのみ思したりしも、この本意のことしたまひてより、後すこし晴れ晴れしうなりて、尼君とはかなく戯れもし交はし、碁打ちなどしてぞ、明かし暮らしたまふ。行ひもいとよくして、法華経はさらなり。異法文なども、いと多く読みたまふ。雪深く降り積み、人目絶えたるころぞ、げに思ひやる方なかりける。


 


 年も返りぬ。春のしるしも見えず、凍りわたれる水の音せぬさへ心細くて、「君にぞ惑ふ」とのたまひし人は、心憂しと思ひ果てにたれど、なほその折などのことは忘れず。
 「かきくらす野山の雪を眺めても
  降りにしことぞ今日も悲しき」
 など、例の、慰めの手習を、行ひの隙にはしたまふ。「我世になくて年隔たりぬるを、思ひ出づる人もあらむかし」など、思ひ出づる時も多かり。若菜をおろそかなる籠に入れて、人の持て来たりけるを、尼君見て、
 「山里の雪間の若菜摘みはやし
  なほ生ひ先の頼まるるかな」
 とて、こなたにたてまつれたまへりければ、
 「雪深き野辺の若菜も今よりは
  君がためにぞ年も摘むべき」
 とあるを、「さぞ思すらむ」とあはれなるにも、「見るかひあるべき御さまと思はましかば」と、まめやかにうち泣いたまふ。
 閨のつま近き紅梅の色も香も変はらぬを、「春や昔の」と、異花よりもこれに心寄せのあるは、飽かざりし匂ひのしみにけるにや。後夜に閼伽奉らせたまふ。下臈の尼のすこし若きがある、召し出でて花折らすれば、かことがましく散るに、いとど匂ひ来れば、
 「袖触れし人こそ見えね花の香の
  それかと匂ふ春のあけぼの」


 大尼君の孫の紀伊守なりける、このころ上りて来たり。三十ばかりにて、容貌きよげに誇りかなるさましたり。
 「何ごとか、去年、一昨年」
 など問ふに、ほけほけしきさまなれば、こなたに来て、
 「いとこよなくこそ、ひがみたまひにけれ。あはれにもはべるかな。残りなき御さまを、見たてまつること難くて、遠きほどに年月を過ぐしはべるよ。親たちものしたまはで後は、一所をこそ、御代はりに思ひきこえはべりつれ。常陸の北の方は、訪れきこえたまふや」
 と言ふは、いもうとなるべし。
 「年月に添へては、つれづれにあはれなることのみまさりてなむ。常陸は、久しう訪れきこえたまはざめり。え待ちつけたまふまじきさまになむ見えたまふ」
 とのたまふに、「わが親の名」と、あいなく耳止まれるに、また言ふやう、
 「まかり上りて日ごろになりはべりぬるを、公事のいとしげく、むつかしうのみはべるにかかづらひてなむ。昨日もさぶらはむと思ひたまへしを、右大将殿の宇治におはせし御供に仕うまつりて、故八の宮の住みたまひし所におはして、日暮らしたまひし。
 故宮の御女に通ひたまひしを、まづ一所は一年亡せたまひにき。その御おとうと、また忍びて据ゑたてまつりたまへりけるを、去年の春また亡せたまひにければ、その御果てのわざせさせたまはむこと、かの寺の律師になむ、さるべきことのたまはせて、なにがしも、かの女の装束一領、調じはべるべきを、せさせたまひてむや。織らすべきものは、急ぎせさせはべりなむ」
 と言ふを聞くに、いかでかあはれならざらむ。「人やあやしと見む」とつつましうて、奥に向ひてゐたまへり。尼君、
 「かの聖の親王の御女は、二人と聞きしを、兵部卿宮の北の方は、いづれぞ」
 とのたまへば、
 「この大将殿の御後のは、劣り腹なるべし。ことことしうももてなしたまはざりけるを、いみじう悲しびたまふなり。初めのはた、いみじかりき。ほとほと出家もしたまひつべかりきかし」
 など語る。

 「かのわたりの親しき人なりけり」と見るにも、さすが恐ろし。
 「あやしく、やうのものと、かしこにてしも亡せたまひけること。昨日も、いと不便にはべりしかな。川近き所にて、水をのぞきたまひて、いみじう泣きたまひき。上にのぼりたまひて、柱に書きつけたまひし、
  見し人は影も止まらぬ水の上に
  落ち添ふ涙いとどせきあへず
 となむはべりし。言に表はしてのたまふことは少なけれど、ただ、けしきには、いとあはれなる御さまになむ見えたまひし。女は、いみじくめでたてまつりぬべくなむ。若くはべりし時より、優におはしますと見たてまつりしみにしかば、世の中の一の所も、何とも思ひはべらず、ただ、この殿を頼みきこえてなむ、過ぐしはべりぬる」
 と語るに、「ことに深き心もなげなるかやうの人だに、御ありさまは見知りにけり」と思ふ。尼君、
 「光君と聞こえけむ故院の御ありさまには、並びたまはじとおぼゆるを、ただ今の世に、この御族ぞめでられたまふなる。右の大殿と」
 とのたまへば、
 「それは、容貌もいとうるはしうけうらに、宿徳にて、際ことなるさまぞしたまへる。兵部卿宮ぞ、いといみじうおはするや。女にて馴れ仕うまつらばや、となむおぼえはべる」
 など、教へたらむやうに言ひ続く。あはれにもをかしくも聞くに、身の上もこの世のことともおぼえず。とどこほることなく語りおきて出でぬ。

 「忘れたまはぬにこそは」とあはれに思ふにも、いとど母君の御心のうち推し量らるれど、なかなか言ふかひなきさまを見え聞こえたてまつらむは、なほつつましくぞありける。かの人の言ひつけしことどもを、染め急ぐを見るにつけても、あやしうめづらかなる心地すれど、かけても言ひ出でられず。裁ち縫ひなどするを、
 「これ御覧じ入れよ。ものをいとうつくしうひねらせたまへば」
 とて、小袿の単衣たてまつるを、うたておぼゆれば、「心地悪し」とて、手も触れず臥したまへり。尼君、急ぐことをうち捨てて、「いかが思さるる」など思ひ乱れたまふ。紅に桜の織物の袿重ねて、
 「御前には、かかるをこそ奉らすべけれ。あさましき墨染なりや」
 と言ふ人あり。
 「尼衣変はれる身にやありし世の
  形見に袖をかけて偲ばむ」
 と書きて、「いとほしく、亡くもなりなむ後に、物の隠れなき世なりければ、聞きあはせなどして、疎ましきまでに隠しける、とや思はむ」など、さまざま思ひつつ、
 「過ぎにし方のことは、絶えて忘れはべりにしを、かやうなることを思し急ぐにつけてこそ、ほのかにあはれなれ」
 とおほどかにのたまふ。
 「さりとも、思し出づることは多からむを、尽きせず隔てたまふこそ心憂けれ。身には、かかる世の常の色あひなど、久しく忘れにければ、なほなほしくはべるにつけても、昔の人あらましかば、など思ひ出ではべる。しか扱ひきこえたまひけむ人、世におはすらむ。やがて、亡くなして見はべりしだに、なほいづこにあらむ、そことだに尋ね聞かまほしくおぼえはべるを、行方知らで、思ひきこえたまふ人びとはべるらむかし」
 とのたまへば、
 「見しほどまでは、一人はものしたまひき。この月ごろ亡せやしたまひぬらむ」
 とて、涙の落つるを紛らはして、
 「なかなか思ひ出づるにつけて、うたてはべればこそ、え聞こえ出でね。隔ては何ごとにか残しはべらむ」
 と、言少なにのたまひなしつ。

 大将は、この果てのわざなどせさせたまひて、「はかなくて、止みぬるかな」とあはれに思す。かの常陸の子どもは、かうぶりしたりしは、蔵人になして、わが御司の将監になしなど、労りたまひけり。「童なるが、中にきよげなるをば、近く使ひ馴らさむ」とぞ思したりける。
 雨など降りてしめやかなる夜、后の宮に参りたまへり。御前のどやかなる日にて、御物語など聞こえたまふついでに、
 「あやしき山里に、年ごろまかり通ひ見たまへしを、人の誹りはべりしも、さるべきにこそはあらめ。誰れも心の寄る方のことは、さなむある、と思ひたまへなしつつ、なほ時々見たまへしを、所のさがにやと、心憂く思ひたまへなりにし後は、道も遥けき心地しはべりて、久しうものしはべらぬを、先つころ、もののたよりにまかりて、はかなき世のありさまとり重ねて思ひたまへしに、ことさら道心起こすべく造りおきたりける、聖の住処となむおぼえはべりし」
 と啓したまふに、かのこと思し出でて、いといとほしければ、
 「そこには、恐ろしき物や住むらむ。いかやうにてか、かの人は亡くなりにし」
 と問はせたまふを、「なほ、続きを思し寄る方」と思ひて、
 「さもはべらむ。さやうの人離れたる所は、よからぬものなむかならず住みつきはべるを。亡せはべりにしさまもなむ、いとあやしくはべる」
 とて、詳しくは聞こえたまはず。「なほ、かく忍ぶる筋を、聞きあらはしけり」と思ひたまはむが、いとほしく思され、宮の、ものをのみ思して、そのころは病になりたまひしを、思し合はするにも、さすがに心苦しうて、「かたがたに口入れにくき人の上」と思し止めつ。
 小宰相に、忍びて、
 「大将、かの人のことを、いとあはれと思ひてのたまひしに、いとほしうて、うち出でつべかりしかど、それにもあらざらむものゆゑと、つつましうてなむ。君ぞ、ことごと聞き合はせける。かたはならむことはとり隠して、さることなむありけると、おほかたの物語のついでに、僧都の言ひしことを語れ」
 とのたまはす。
 「御前にだにつつませたまはむことを、まして、異人はいかでか」
 と聞こえさすれど、
 「さまざまなることにこそ。また、まろはいとほしきことぞあるや」
 とのたまはするも、心得て、をかしと見たてまつる。

 立ち寄りて物語などしたまふついでに、言ひ出でたり。珍かにあやしと、いかでか驚かれたまはざらむ。「宮の問はせたまひしも、かかることを、ほの思し寄りてなりけり。などか、のたまはせ果つまじき」とつらけれど、
 「我もまた初めよりありしさまのこと聞こえそめざりしかば、聞きて後も、なほをこがましき心地して、人にすべて漏らさぬを、なかなか他には聞こゆることもあらむかし。うつつの人びとのなかに忍ぶることだに、隠れある世の中かは」
 など思ひ入りて、「この人にも、さなむありし」など、明かしたまはむことは、なほ口重き心地して、
 「なほ、あやしと思ひし人のことに、似てもありける人のありさまかな。さて、その人は、なほあらむや」
 とのたまへば、
 「かの僧都の山より出でし日なむ、尼になしつる。いみじうわづらひしほどにも、見る人惜しみてせさせざりしを、正身の本意深きよしを言ひてなりぬる、とこそはべるなりしか」
 と言ふ。所も変はらず、そのころのありさまと思ひあはするに、違ふふしなければ、
 「まことにそれと尋ね出でたらむ、いとあさましき心地もすべきかな。いかでかは、たしかに聞くべき。下り立ちて尋ねありかむも、かたくなしなどや人言ひなさむ。また、かの宮も聞きつけたまへらむには、かならず思し出でて、思ひ入りにけむ道も妨げたまひてむかし。
 さて、『さなのたまひそ』など聞こえおきたまひければや、我には、さることなむ聞きしと、さる珍しきことを聞こし召しながら、のたまはせぬにやありけむ。宮もかかづらひたまふにては、いみじうあはれと思ひながらも、さらに、やがて亡せにしものと思ひなしてを止みなむ。
 うつし人になりて、末の世には、黄なる泉のほとりばかりを、おのづから語らひ寄る風の紛れもありなむ。我がものに取り返し見むの心地、また使はじ」
 など思ひ乱れて、「なほ、のたまはずやあらむ」とおぼゆれど、御けしきのゆかしければ、大宮に、さるべきついで作り出だしてぞ、啓したまふ。

 「あさましうて、失ひはべりぬと思ひたまへし人、世に落ちあふれてあるやうに、人のまねびはべりしかな。いかでか、さることははべらむ、と思ひたまふれど、心とおどろおどろしう、もて離るることははべらずや、と思ひわたりはべる人のありさまにはべれば、人の語りはべしやうにては、さるやうもやはべらむと、似つかはしく思ひたまへらるる」
 とて、今すこし聞こえ出でたまふ。宮の御ことを、いと恥づかしげに、さすがに恨みたるさまには言ひなしたまはで、
 「かのこと、またさなむと聞きつけたまへらば、かたくなに好き好きしうも思されぬべし。さらに、さてありけりとも、知らず顔にて過ぐしはべりなむ」
 と啓したまへば、
 「僧都の語りしに、いともの恐ろしかりし夜のことにて、耳も止めざりしことにこそ。宮は、いかでか聞きたまはむ。聞こえむ方なかりける御心のほどかな、と聞けば、まして聞きつけたまはむこそ、いと苦しかるべけれ。かかる筋につけて、いと軽く憂きものにのみ、世に知られたまひぬめれば、心憂く」
 などのたまはす。「いと重き御心なれば、かならずしも、うちとけ世語りにても、人の忍びて啓しけむことを、漏らさせたまはじ」など思す。
 「住むらむ山里はいづこにかはあらむ。いかにして、さま悪しからず尋ね寄らむ。僧都に会ひてこそは、たしかなるありさまも聞き合はせなどして、ともかくも問ふべかめれ」など、ただ、このことを起き臥し思す。
 月ごとの八日は、かならず尊きわざせさせたまへば、薬師仏に寄せたてまつるにもてなしたまへるたよりに、中堂には、時々参りたまひけり。それよりやがて横川におはせむと思して、かのせうとの童なる、率ておはす。「その人びとには、とみに知らせじ。ありさまにぞ従はむ」と思せど、うち見む夢の心地にも、あはれをも加へむとにやありけむ。さすがに、「その人とは見つけながら、あやしきさまに、形異なる人の中にて、憂きことを聞きつけたらむこそ、いみじかるべけれ」と、よろづに道すがら思し乱れけるにや。



  

  

            現代語訳 補足 目次

      五十四、 夢 浮 橋   
 


   
 



 山におはして、例せさせたまふやうに、経仏など供養ぜさせたまふ。またの日は、横川におはしたれば、僧都驚きかしこまりきこえたまふ。
 年ごろ、御祈りなどつけ語らひたまひけれど、ことにいと親しきことはなかりけるを、このたび、一品の宮の御心地のほどにさぶらひたまへるに、「すぐれたまへる験ものしたまひけり」と見たまひてより、こよなう尊びたまひて、今すこし深き契り加へたまひてければ、「重々しうおはする殿の、かくわざとおはしましたること」と、もて騷ぎきこえたまふ。御物語など、こまやかにしておはすれば、御湯漬など参りたまふ。
 すこし人びと静まりぬるに、
 「小野のわたりに、知りたまへる宿りやはべる」
 と、問ひたまへば、
 「しかはべる。いと異様なる所になむ。なにがしが母なる朽尼のはべるを、京にはかばかしからぬ住処もはべらぬうちに、かくて籠もりはべるあひだは、夜中、暁にも、あひ訪らはむ、と思ひたまへおきてはべる」
 など申したまふ。
 「そのわたりには、ただ近きころほひまで、人多う住みはべりけるを、今は、いとかすかにこそなりゆくめれ」
 などのたまひて、今すこし近くゐ寄りて、忍びやかに、
 「いと浮きたる心地もしはべる、また、尋ねきこえむにつけては、いかなりけることにかと、心得ず思されぬべきに、かたがた、憚られはべれど、かの山里に、知るべき人の隠ろへてはべるやうに聞きはべりしを。確かにてこそは、いかなるさまにて、なども漏らしきこえめ、など思ひたまふるほどに、御弟子になりて、忌むことなど授けたまひてけり、と聞きはべるは、まことか。まだ年も若く、親などもありし人なれば、ここに失ひたるやうに、かことかくる人なむはべるを」
 などのたまふ。


 僧都、「さればよ。ただ人と見えざりし人のさまぞかし。かくまでのたまふは、軽々しくは思されざりける人にこそあめれ」と思ふに、「法師といひながら、心もなく、たちまちに容貌をやつしてけること」と、胸つぶれて、いらへきこえむやう思ひまはさる。
 「確かに聞きたまへるにこそあめれ。かばかり心得たまひて、うかがひ尋ねたまはむに、隠れあるべきことにもあらず。なかなかあらがひ隠さむに、あいなかるべし」など、とばかり思ひ得て、
 「いかなることにかはべりけむ。この月ごろ、うちうちにあやしみ思うたまふる人の御ことにや」とて、
 「かしこにはべる尼どもの、初瀬に願はべりて、詣でて帰りける道に、宇治の院といふ所に留まりてはべりけるに、母の尼の労気にはかに起こりて、いたくなむわづらふと告げに、人の参うで来たりしかば、まかり向かひたりしに、まづ妖しきことなむ」
 とささめきて、
 「親の死に返るをばさし置きて、もて扱ひ嘆きてなむはべりし。この人も、亡くなりたまへるさまながら、さすがに息は通ひておはしければ、昔物語に、魂殿に置きたりけむ人のたとひを思ひ出でて、さやうなることにや、と珍しがりはべりて、弟子ばらの中に験ある者どもを呼び寄せつつ、代はり代はりに加持せさせなどなむしはべりける。
 なにがしは、惜しむべき齢ならねど、母の旅の空にて病重きを助けて、念仏をも心乱れずせさせむと、仏を念じたてまつり思うたまへしほどに、その人のありさま、詳しうも見たまへずなむはべりし。ことの心推し量り思うたまふるに、天狗木霊などやうのものの、欺き率てたてまつりたりけるにや、となむ承りし。
 助けて、京に率てたてまつりて後も、三月ばかりは亡き人にてなむものしたまひけるを、なにがしが妹、故衛門督の北の方にてはべりしが、尼になりてはべるなむ、一人持ちてはべりし女子を失ひて後、月日は多く隔てはべりしかど、悲しび堪へず嘆き思ひたまへはべるに、同じ年のほどと見ゆる人の、かく容貌いとうるはしくきよらなるを見出でたてまつりて、観音の賜へると喜び思ひて、この人いたづらになしたてまつらじと、惑ひ焦られて、泣く泣くいみじきことどもを申されしかば。
 後になむ、かの坂本にみづから下りはべりて、護身など仕まつりしに、やうやう生き出でて人となりたまへりけれど、『なほ、この領じたりけるものの、身に離れぬ心地なむする。この悪しきものの妨げを逃れて、後の世を思はむ』など、悲しげにのたまふことどものはべりしかば、法師にては、勧めも申しつべきことにこそはとて、まことに出家せしめたてまつりてしになむはべる。
 さらに、しろしめすべきこととは、いかでかそらにさとりはべらむ。珍しきことのさまにもあるを、世語りにもしはべりぬべかりしかど、聞こえありて、わづらはしかるべきことにもこそと、この老い人どものとかく申して、この月ごろ、音なくてはべりつるになむ」
 と申したまへば、

 「さてこそあなれ」と、ほの聞きて、かくまでも問ひ出でたまへることなれど、「むげに亡き人と思ひ果てにし人を、さは、まことにあるにこそは」と思す、ほど、夢の心地してあさましければ、つつみもあへず涙ぐまれたまひぬるを、僧都の恥づかしげなるに、「かくまで見ゆべきことかは」と思ひ返して、つれなくもてなしたまへど、「かく思しけることを、この世には亡き人と同じやうになしたること」と、過ちしたる心地して、罪深ければ、
 「悪しきものに領ぜられたまひけむも、さるべき前の世の契りなり。思ふに、高き家の子にこそものしたまひけめ、いかなる誤りにて、かくまではふれたまひけむにか」
 と、問ひ申したまへば、
 「なま王家流などいふべき筋にやありけむ。ここにも、もとよりわざと思ひしことにもはべらず。ものはかなくて見つけそめてははべりしかど、また、いとかくまで落ちあふるべき際と思ひたまへざりしを。珍かに、跡もなく消え失せにしかば、身を投げたるにやなど、さまざまに疑ひ多くて、確かなることは、え聞きはべらざりつるになむ。
 罪軽めてものすれば、いとよしと心やすくなむ、みづからは思ひたまへなりぬるを、母なる人なむ、いみじく恋ひ悲しぶなるを、かくなむ聞き出でたると、告げ知らせまほしくはべれど、月ごろ隠させたまひける本意違ふやうに、もの騒がしくやはべらむ。親子の仲の思ひ絶えず、悲しびに堪へで、訪らひものしなどしはべりなむかし」
 などのたまひて、さて、
 「いと便なきしるべとは思すとも、かの坂本に下りたまへ。かばかり聞きて、なのめに思ひ過ぐすべくは思ひはべらざりし人なるを、夢のやうなることどもも、今だに語り合はせむ、となむ思ひたまふる」
 とのたまふけしき、いとあはれと思ひたまへれば、
 「容貌を変へ、世を背きにきとおぼえたれど、髪鬚を剃りたる法師だに、あやしき心は失せぬもあなり。まして、女の御身はいかがあらむ。いとほしう、罪得ぬべきわざにもあるべきかな」
 と、あぢきなく心乱れぬ。
 「まかり下りむこと、今日明日は障りはべり。月たちてのほどに、御消息を申させはべらむ」
 と申したまふ。いと心もとなけれど、「なほ、なほ」と、うちつけに焦られむも、さま悪しければ、「さらば」とて、帰りたまふ。

 かの御弟の童、御供に率ておはしたりけり。異兄弟どもよりは、容貌もきよげなるを、呼び出でたまひて、
 「これなむ、その人の近きゆかりなるを、これをかつがつものせむ。御文一行賜へ。その人とはなくて、ただ、尋ねきこゆる人なむある、とばかりの心を知らせたまへ」
 とのたまへば、
 「なにがし、このしるべにて、かならず罪得はべりなむ。ことのありさまは、詳しくとり申しつ。今は、御みづから立ち寄らせたまひて、あるべからむことはものせさせたまはむに、何の咎かはべらむ」
 と申したまへば、うち笑ひて、
 「罪得ぬべきしるべと思ひなしたまふらむこそ、恥づかしけれ。ここには、俗の形にて、今まで過ぐすなむいとあやしき。
 いはけなかりしより、思ふ心ざし深くはべるを、三条の宮の、心細げにて、頼もしげなき身一つをよすがに思したるが、避りがたきほだしにおぼえはべりて、かかづらひはべりつるほどに、おのづから位などいふことも高くなり、身のおきても心にかなひがたくなどして、思ひながら過ぎはべるには、またえ避らぬことも、数のみ添ひつつは過ぐせど、公私に、逃れがたきことにつけてこそ、さもはべらめ、さらでは、仏の制したまふ方のことを、わづかにも聞き及ばむことは、いかで過たじと、慎しみて、心の内は聖に劣りはべらぬものを。
 まして、いとはかなきことにつけてしも、重き罪得べきことは、などてか思ひたまへむ。さらにあるまじきことにはべり。疑ひ思すまじ。ただ、いとほしき親の思ひなどを、聞きあきらめはべらむばかりなむ、うれしう心やすかるべき」
 など、昔より深かりし方の心を語りたまふ。
 僧都も、げにと、うなづきて、
 「いとど尊きこと」
 など聞こえたまふほどに、日も暮れぬれば、
 「中宿りもいとよかりぬべけれど、うはの空にてものしたらむこそ、なほ便なかるべけれ」
 と、思ひわづらひて帰りたまふに、この弟の童を、僧都、目止めてほめたまふ。
 「これにつけて、まづほのめかしたまへ」
 と聞こえたまへば、文書きて取らせたまふ。
 「時々は山におはして遊びたまへよ」と「すずろなるやうには思すまじきゆゑもありけり」
 と、うち語らひたまふ。この子は心も得ねど、文取りて御供に出づ。坂本になれば、御前の人びとすこし立ちあかれて、「忍びやかにを」とのたまふ。

 小野には、いと深く茂りたる青葉の山に向かひて、紛るることなく、遣水の蛍ばかりを、昔おぼゆる慰めにて眺めゐたまへるに、例の、遥かに見やらるる谷の軒端より、前駆心ことに追ひて、いと多う灯したる火の、のどかならぬ光を見るとて、尼君たちも端に出でゐたり。
 「誰がおはするにかあらむ。御前などいと多くこそ見ゆれ」
 「昼、あなたに引干し奉れたりつる返り事に、『大将殿おはしまして、御饗応のことにはかにするを、いとよき折なり』と、こそありつれ」
 「大将殿とは、この女二の宮の御夫にやおはしつらむ」
 など言ふも、いとこの世遠く、田舎びにたりや。まことにさにやあらむ。時々、かかる山路分けおはせし時、いとしるかりし随身の声も、うちつけにまじりて聞こゆ。
 月日の過ぎゆくままに、昔のことのかく思ひ忘れぬも、「今は何にすべきことぞ」と心憂ければ、阿弥陀仏に思ひ紛らはして、いとどものも言はでゐたり。横川に通ふ人のみなむ、このわたりには近きたよりなりける。


 


 かの殿は、「この子をやがてやらむ」と思しけれど、人目多くて便なければ、殿に帰りたまひて、またの日、ことさらにぞ出だし立てたまふ。睦ましく思す人の、ことことしからぬ二、三人、送りにて、昔も常に遣はしし随身添へたまへり。人聞かぬ間に呼び寄せたまひて、
 「あこが亡せにし姉の顔は、おぼゆや。今は世に亡き人と思ひ果てにしを、いと確かにこそ、ものしたまふなれ。疎き人には聞かせじと思ふを、行きて尋ねよ。母に、いまだしきに言ふな。なかなか驚き騒がむほどに、知るまじき人も知りなむ。その親の御思ひのいとほしさにこそ、かくも尋ぬれ」
 と、まだきにいと口固めたまふを、幼き心地にも、姉弟は多かれど、この君の容貌をば、似るものなしと思ひしみたりしに、亡せたまひにけりと聞きて、いと悲しと思ひわたるに、かくのたまへば、うれしきにも涙の落つるを、恥づかしと思ひて、
 「を、を」
 と荒らかに聞こえゐたり。
 かしこには、まだつとめて、僧都の御もとより、
 「昨夜、大将殿の御使にて、小君や参うでたまへりし。ことの心承りしに、あぢきなく、かへりて臆しはべりてなむ、と姫君に聞こえたまへ。みづから聞こえさすべきことも多かれど、今日明日過ぐしてさぶらふべし」
 と書きたまへり。「これは何ごとぞ」と尼君驚きて、こなたへもて渡りて見せたてまつりたまへば、面うち赤みて、「ものの聞こえのあるにや」と苦しう、「もの隠ししける」と恨みられむを思ひ続くるに、いらへむ方なくてゐ給へるに、
 「なほ、のたまはせよ。心憂く思し隔つること」
 と、いみじく恨みて、ことの心を知らねば、あわたたしきまで思ひたるほどに、
 「山より、僧都の御消息にて、参りたる人なむある」
 と言ひ入れたり。


 あやしけれど、「これこそは、さは、確かなる御消息ならめ」とて、
 「こなたに」
 と言はせたれば、いときよげにしなやかなる童の、えならず装束きたるぞ、歩み来たる。円座さし出でたれば、簾のもとについゐて、
 「かやうにては、さぶらふまじくこそは、僧都は、のたまひしか」
 と言へば、尼君ぞ、いらへなどしたまふ。文取り入れて見れば、
 「入道の姫君の御方に、山より」
 とて、名書きたまへり。あらじなど、あらがふべきやうもなし。
 いとはしたなくおぼえて、いよいよ引き入られて、人に顔も見合はせず。
 「常にほこりかならずものしたまふ人柄なれど、いとうたて、心憂し」
 など言ひて、僧都の御文見れば、
 「今朝、ここに大将殿のものしたまひて、御ありさま尋ね問ひたまふに、初めよりありしやう詳しく聞こえはべりぬ。御心ざし深かりける御仲を背きたまひて、あやしき山賤の中に出家したまへること、かへりては、仏の責め添ふべきことなるをなむ、承り驚きはべる。
 いかがはせむ。もとの御契り過ちたまはで、愛執の罪をはるかしきこえたまひて、一日の出家の功徳は、はかりなきものなれば、なほ頼ませたまへとなむ。ことごとには、みづからさぶらひて申しはべらむ。かつがつ、この小君聞こえたまひてむ」
 と書いたり。

 まがふべくもあらず、書き明らめたまへれど、異人は心も得ず。
 「この君は、誰れにかおはすらむ。なほ、いと心憂し。今さへ、かくあながちに隔てさせたまふ」
 と責められて、すこし外ざまに向きて見たまへば、この子は、今はと世を思ひなりし夕暮に、いと恋しと思ひし人なりけり。同じ所にて見しほどは、いと性なく、あやにくにおごりて憎かりしかど、母のいとかなしくして、宇治にも時々率ておはせしかば、すこしおよすけしままに、かたみに思へり。
 童心を思ひ出づるにも、夢のやうなり。まづ、母のありさま、いと問はまほしく、「異人びとの上は、おのづからやうやうと聞けど、親のおはすらむやうは、ほのかにもえ聞かずかし」と、なかなかこれを見るに、いと悲しくて、ほろほろと泣かれぬ。
 いとをかしげにて、すこしうちおぼえたまへる心地もすれば、
 「御兄弟にこそおはすめれ。聞こえまほしく思すこともあらむ。内に入れたてまつらむ」
 と言ふを、「何か、今は世にあるものとも思はざらむに、あやしきさまに面変りして、ふと見えむも恥づかし」と思へば、とばかりためらひて、
 「げに、隔てありと、思しなすらむが苦しさに、ものも言はれでなむ。あさましかりけむありさまは、珍かなることと見たまひてけむを、うつし心も失せ、魂などいふらむものも、あらぬさまになりにけるにやあらむ。いかにもいかにも、過ぎにし方のことを、我ながらさらにえ思ひ出でぬに、紀伊守とかありし人の、世の物語すめりし中になむ、見しあたりのことにやと、ほのかに思ひ出でらるることある心地せし。
 その後、とざまかうざまに思ひ続くれど、さらにはかばかしくもおぼえぬに、ただ一人ものしたまひし人の、いかでとおろかならず思ひためりしを、まだや世におはすらむと、そればかりなむ心に離れず、悲しき折々はべるに、今日見れば、この童の顔は、小さくて見し心地するにも、いと忍びがたけれど、今さらに、かかる人にも、ありとは知られでやみなむ、となむ思ひはべる。
 かの人、もし世にものしたまはば、それ一人になむ、対面せまほしく思ひはべる。この僧都の、のたまへる人などには、さらに知られたてまつらじ、とこそ思ひはべりつれ。かまへて、ひがことなりけりと聞こえなして、もて隠したまへ」
 とのたまへば、
 「いと難いことかな。僧都の御心は、聖といふなかにも、あまり隈なくものしたまへば、まさに残いては、聞こえたまひてむや。後に隠れあらじ。なのめに軽々しき御ほどにもおはしまさず」
 など言ひ騷ぎて、
 「世に知らず心強くおはしますこそ」
 と、皆言ひ合はせて、母屋の際に几帳立てて入れたり。

 この子も、さは聞きつれど、幼ければ、ふと言ひ寄らむもつつましけれど、
 「またはべる御文、いかでたてまつらむ。僧都の御しるべは、確かなるを、かくおぼつかなくはべるこそ」
 と、伏目にて言へば、
 「そそや。あな、うつくし」
 など言ひて、
 「御文御覧ずべき人は、ここにものせさせたまふめり。見証の人なむ、いかなることにかと、心得がたくはべるを、なほのたまはせよ。幼き御ほどなれど、かかる御しるべに頼みきこえたまふやうもあらむ」
 など言へど、
 「思し隔てて、おぼおぼしくもてなさせたまふには、何事をか聞こえはべらむ。疎く思しなりにければ、聞こゆべきこともはべらず。ただ、この御文を、人伝てならで奉れ、とてはべりつる、いかでたてまつらむ」
 と言へば、
 「いとことわりなり。なほ、いとかくうたてなおはせそ。さすがにむくつけき御心にこそ」
 と聞こえ動かして、几帳のもとに押し寄せたてまつりたれば、あれにもあらでゐたまへるけはひ、異人には似ぬ心地すれば、そこもとに寄りて奉りつ。
 「御返り疾く賜はりて、参りなむ」
 と、かく疎々しきを、心憂しと思ひて急ぐ。
 尼君、御文ひき解きて、見せたてまつる。ありしながらの御手にて、紙の香など、例の、世づかぬまでしみたり。ほのかに見て、例の、ものめでのさし過ぎ人、いとありがたくをかしと思ふべし。
 「さらに聞こえむ方なく、さまざまに罪重き御心をば、僧都に思ひ許しきこえて、今はいかで、あさましかりし世の夢語りをだに、と急がるる心の、我ながらもどかしきになむ。まして、人目はいかに」
 と、書きもやりたまはず。
 「法の師と尋ぬる道をしるべにて
  思はぬ山に踏み惑ふかな
 この人は、見や忘れたまひぬらむ。ここには、行方なき御形見に見る物にてなむ」
 など、こまやかなり。

 かくつぶつぶと書きたまへるさまの、紛らはさむ方なきに、さりとて、その人にもあらぬさまを、思ひの外に見つけられきこえたらむほどの、はしたなさなどを思ひ乱れて、いとど晴れ晴れしからぬ心は、言ひやるべき方もなし。
 さずがにうち泣きて、ひれ臥したまへれば、「いと世づかぬ御ありさまかな」と、見わづらひぬ。
 「いかが聞こえむ」
 など責められて、
 「心地のかき乱るやうにしはべるほど、ためらひて、今聞こえむ。昔のこと思ひ出づれど、さらにおぼゆることなく、あやしう、いかなりける夢にかとのみ、心も得ずなむ。すこし静まりてや、この御文なども、見知らるることもあらむ。今日は、なほ持て参りたまひね。所違へにもあらむに、いとかたはらいたかるべし」
 とて、広げながら、尼君にさしやりたまへれば、
 「いと見苦しき御ことかな。あまりけしからぬは、見たてまつる人も、罪さりどころなかるべし」
 など言ひ騒ぐも、うたて聞きにくくおぼゆれば、顔も引き入れて臥したまへり。
 主人ぞ、この君に物語すこし聞こえて、
 「もののけにやおはすらむ。例のさまに見えたまふ折なく、悩みわたりたまひて、御容貌も異になりたまへるを、尋ねきこえたまふ人あらば、いとわづらはしかるべきこと、と見たてまつり嘆きはべりしも、しるく、かくいとあはれに、心苦しき御ことどもはべりけるを、今なむ、いとかたじけなく思ひはべる。
 日ごろも、うちはへ悩ませたまふめるを、いとどかかることどもに思し乱るるにや、常よりもものおぼえさせたまはぬさまにてなむ」
 と聞こゆ。


 所につけてをかしき饗応などしたれど、幼き心地は、そこはかとなくあわてたる心地して、
 「わざと奉れさせたまへるしるしに、何事をかは聞こえさせむとすらむ。ただ一言をのたまはせよかし」
 など言へば、
 「げに」
 など言ひて、かくなむ、と移し語れど、ものものたまはねば、かひなくて、
 「ただ、かく、おぼつかなき御ありさまを聞こえさせたまふべきなめり。雲の遥かに隔たらぬほどにもはべるめるを、山風吹くとも、またもかならず立ち寄らせたまひなむかし」
 と言へば、すずろにゐ暮らさむもあやしかるべければ、帰りなむとす。人知れずゆかしき御ありさまをも、え見ずなりぬるを、おぼつかなく口惜しくて、心ゆかずながら参りぬ。
 いつしかと待ちおはするに、かくたどたどしくて帰り来たれば、すさまじく、「なかなかなり」と、思すことさまざまにて、「人の隠し据ゑたるにやあらむ」と、わが御心の思ひ寄らぬ隈なく、落とし置きたまへりしならひに、とぞ本にはべめる。


                           源氏物語 了         巻頭


 

備考 
日本物語の中の源氏物語は、渋谷栄一氏のテキストデータを基に加工した。

                                 


 

       
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